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「スナックママ連続殺人事件」の版間の差分

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{{Otheruses|1991年に発生した殺人事件(警察庁広域重要指定事件119号)|1995年に発生した保険金殺人|福岡スナックママ連続保険金殺人事件}}
{{Otheruses|1991年12月兵庫県・島根県・京都府で発生した連続殺人事件(警察庁広域重要指定119号事件)|1995年に発生した保険金殺人|福岡スナックママ連続保険金殺人事件}}
{{出典の明記|date=2013年12月}}
{{Infobox 事件・事故
{{Infobox 事件・事故
| 名称 = スナックママ連続殺人事件
| 名称 = スナックママ連続殺人事件
| 正式名称 = [[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]119号事件<ref name="特別手配"/>
| 画像 =
| 画像 =
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| 脚注 =
| 場所 = {{JPN}}
| 場所 = {{JPN}} 兵庫県[[姫路市]](1件)<br>島根県[[松江市]](1件)<br>京都府[[京都市]](2件)
* [[兵庫県]][[姫路市]][[坂元町 (姫路市)|坂元町]]26番地(A事件)<ref>『[[読売新聞]]』1991年12月26日大阪朝刊第一社会面23頁「スナックのママ殺される/兵庫・姫路市」([[読売新聞大阪本社]])</ref>
* [[島根県]][[松江市]][[寺町 (松江市)|寺町]]204番地(B事件)<ref name="読売新聞1991-12-31 2">『読売新聞』1991年12月31日大阪朝刊第二社会面20頁「スナックママ連続殺人 関西に潜む?緊迫 みそかの盛り場捜索/3府県警」(読売新聞大阪本社)</ref>
* [[京都府]][[京都市]][[中京区]][[木屋町通|西木屋町通]](C事件・D事件)<ref name="読売新聞1991-12-28">『読売新聞』1991年12月28日東京夕刊第一社会面15頁「京都・木屋町のママ連続刺殺 近所の2軒、2日で」([[読売新聞東京本社]])</ref>
* [[大阪府]][[大阪市]][[天王寺区]]
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
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| 日付 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[12月]]
| 日付 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[12月12日]](A事件:最初の殺人) - [[12月28日]](D事件:最後の殺人)
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| 終了時刻 =
| 時間帯 =
| 時間帯 = [[UTC+9]]〈[[日本標準時]]〉
| 概要 = 加害者の男Nが兵庫県・島根県・京都府でスナックの女性経営者(スナックママ)4人を相次いで殺害した<ref name="読売新聞1992-01-07">『読売新聞』1992年1月7日東京夕刊一面1頁「連続スナックママ殺し 特別手配中のN容疑者を大阪で逮捕」(読売新聞東京本社)</ref>。Nは少年時代にもスナック経営者を殺害して懲役刑に処された前科があり<ref name="読売新聞1992-01-08夕刊"/>、連続殺人事件後にも[[桂あやめ (3代目)|桂花枝]]に対する強盗殺人未遂事件を起こした<ref name="読売新聞1992-01-06"/>。
| 概要 =
| 武器 = 鋭利な刃物<ref name="読売新聞1992-01-11 夕刊">『読売新聞』1992年1月11日大阪夕刊第一社会面13頁「連続殺人のN容疑者 凶器は全部別 傷口、微妙に違う 現場で調達か」(読売新聞大阪本社)</ref>(凶器は未発見)<ref name="朝日新聞2001-06-20"/>
| 武器 =
| 攻撃人数 = 1人
| 攻撃人数 = 1人
| 攻撃手段 = 刃物で刺す・手で首を絞める<ref name="認否"/>
| 標的 =
| 標的 = 女性が1人で経営する繁華街の[[スナックバー (飲食店)|スナック]]<ref name="読売新聞1991-12-30"/>
| 死亡 = 4人
| 死亡 = 4人
| 負傷 =
| 負傷 = 2人(4件目の被害者女性Dの長男E+桂花枝)
| 損害 = 被害者の現金(5,000円 - 20万円)など<ref name="朝日新聞2005-06-07"/>
| 犯人 = 男K(犯行当時35歳、後にNに改姓。殺人前科あり)
| 犯人 = 男N(事件当時35歳 / 殺人[[前科]]あり)
| 容疑 = [[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[窃盗罪|窃盗]]・[[強盗致死傷罪|強盗殺人・強盗致傷・強盗殺人未遂]]
| 動機 =
| 動機 =
| 謝罪 =
| 謝罪 =
| 対処 = 大阪府警が[[被疑者]]Nを[[逮捕 (日本法)|逮捕]]・大阪地検が[[起訴]]
| 賠償 = [[日本における死刑|死刑]]([[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]])
| 刑事訴訟 = [[大阪地方裁判所]]:[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]<ref name="読売新聞1995-09-12"/>([[控訴]]・[[上告]][[棄却]]により[[確定判決|確定]] / [[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]])<ref name="読売新聞2017-07-14"/>
| 管轄 =
* 捜査管轄:[[警察庁]]および[[兵庫県警察]]・[[島根県警察]]・[[京都府警察]]・[[大阪府警察]] / [[大阪地方検察庁]]<ref name="読売新聞1992-05-12"/>など
* 訴訟管轄:大阪地検<ref name="読売新聞1992-05-12"/>
}}
}}
'''スナックママ連続殺人事件'''(スナックママれんぞくさつじんじけん)とは、[[1991年]]([[平成]]3年)12月に[[兵庫県]]・[[島根県]]・[[京都府]]で[[スナックバー (飲食店)|スナック]]経営する女性4人が、当時35歳の男K(後にNに改姓)に殺害された事件。'''[[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定119号事件]]'''に指定された。
'''スナックママ連続殺人事件'''(スナックママれんぞくさつじんじけん)とは、[[1991年]]([[平成]]3年)12月に[[兵庫県]]・[[島根県]]・[[京都府]]で発生した[[シリアルキラー|連続殺人]]事件。少年時代に殺人を犯し懲役刑に処された[[前科]]のある男N(事件当時35歳)が[[スナックバー (飲食店)|スナック]]経営者の女性4人を相次いで殺害し、被害者の金品を奪った。


加害者の男Nは連続殺人4件([[強盗致死傷罪|強盗殺人]]事件3件・[[殺人罪 (日本)|殺人]]および[[窃盗罪|窃盗]]事件1件)を起こした後、翌1992年(平成4年)1月に逃亡先の[[大阪府]][[大阪市]][[天王寺区]]内で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]されたが、その直前には強盗殺人未遂1件(被害者は女性[[落語家]]・[[桂あやめ (3代目)|桂花枝]])を起こした<ref name="読売新聞1992-01-06"/>。逮捕前から一連の連続殺人4件は[[警察庁]]により「'''[[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]119号事件'''」に指定され<ref name="特別手配"/>、逃走中の強盗殺人未遂事件も広域事件として追加指定されている<ref name="朝日新聞1992-01-06">『朝日新聞』1992年1月6日朝刊第一社会面31頁「容疑者、大阪で強盗 指紋が一致で追加指定 119号事件」(朝日新聞社)</ref>。
== 事件の概要 ==
=== 殺害 ===
*1991年[[12月12日]]、兵庫県[[姫路市]]のスナック経営女性(当時45歳)を殺害。
*同年同月21日、島根県[[松江市]]のスナック経営女性(当時55歳)を殺害。
*同年同月26日、京都府[[京都市]]のスナック経営女性(当時55歳)を殺害。
*同年同月28日、京都市のスナック経営女性(当時51歳)を殺害。


== 元死刑囚N ==
いずれの女性も[[刃物]]で[[首]]を刺されていること、客のいない深夜の時間帯を狙って殺害していること、金を奪っていること、そして事件現場で採取された同一の[[指紋]]からKが容疑者として浮上、30日に[[指名手配#特別手配|特別指名手配]]。
{{Infobox 犯罪者
|名前=加害者N・M
|画像=
|画像サイズ=
|画像説明=
|出生名=
|生年月日={{birth date|1956|1|14}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=259}}
|出生地={{JPN}}・[[鳥取県]][[鳥取市]]西品治<ref name="読売新聞1991-12-31"/>
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1956|1|14|2017|7|13}}
|死没地={{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]][[都島区]][[友渕町]]([[大阪拘置所]])<ref name="読売新聞2017-07-14"/>
|国籍=
|別名='''K・M'''(一時期「K」姓を名乗る)<ref name="朝日新聞2001-06-20"/><ref name="毎日新聞2005-04-13"/>
|動機=金銭目的
|罪名=強盗殺人未遂・殺人・窃盗・強盗殺人・強盗致傷{{Sfn|最高裁第三小法廷|2005}}
|有罪判決=1995年9月11日・[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]([[大阪地方裁判所]])<ref name="読売新聞1995-09-12"/>
|刑罰=[[絞首刑]]
|現況=
|職業=
|配偶者=
|両親=
|子=
|署名=
| beginyear = 1991年12月12日
| endyear = 1992年1月5日(119号事件)
| targets = スナック経営者など
| fatalities = 5人(1974年の殺人被害者1人+119号事件の被害者4人)
| injuries = 2人(119号事件の被害者)
| weapons = 鋭利な刃物(119号事件の凶器はいずれも未発見)
| apprehended = 1992年1月7日(大阪市[[天王寺区]]内)
}}


加害者'''N・M'''は1956年([[昭和]]31年)1月14日{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=259}}・[[鳥取県]][[鳥取市]]西品治{{Refnest|group="注"|JR[[鳥取駅]]付近の住宅街で<ref name="背を向けた男2"/>、家の横を流れる川が雨のたびに氾濫するような住居環境だった<ref name="朝日新聞1992-05-02"/>。}}生まれで<ref name="読売新聞1991-12-31">『読売新聞』1991年12月31日大阪朝刊第一社会面21頁「スナックママ連続殺人 第5の犯行厳戒/警察庁」(読売新聞大阪本社)</ref>、4女1男(姉4人){{Refnest|group="注"|姉4人は母の死後まもなく次々に結婚した<ref name="朝日新聞1992-05-02"/>。Nの姉のうち1人(1992年時点で鳥取市内在住)は「(結婚して実家を出てからも)弟Nの家には代わる代わる様子を見に行くようにしていた」と証言したが、米子市内の養護施設の元寮母は「Nにとっては施設で過ごした2年間が人生最大の安らぎだったかもしれない」と証言している<ref name="朝日新聞1992-05-02"/>。}}の末っ子<ref name="AERA">{{Cite journal|和書|journal=[[AERA]]|author=平山長雄(社会部<大阪>)|year=1992|month=1|title=組員にも追われたN容疑者の孤独 119号事件(リポート・事件)|publisher=[[朝日新聞出版|朝日新聞社出版本部]]|volume=5|page=65|issue=3}} - 通巻197号(1992年1月21日号)</ref>。獄中では一時期「K」姓を名乗っていた{{Refnest|group="注"|『年報・死刑廃止』(インパクト出版会)によれば控訴中の1999年9月28日時点{{Sfn|年報・死刑廃止|1999|p=243}}では逮捕当時と同じ「N」姓だったが{{Sfn|年報・死刑廃止|1999|p=242}}、2000年12月31日時点{{Sfn|年報・死刑廃止|2001|p=227}}では「K」姓に改姓していた{{Sfn|年報・死刑廃止|2001|p=226}}。死刑確定後の2005年7月31日時点でも{{Sfn|年報・死刑廃止|2005|p=204}}「K」姓だったが{{Sfn|年報・死刑廃止|2005|p=198}}、2006年9月15日時点{{Sfn|年報・死刑廃止|2006|p=287}}では逮捕当時と同じ「N」姓に戻っている{{Sfn|年報・死刑廃止|2006|p=280}}。}}。
=== 殺害未遂 ===
*[[1992年]][[1月5日]]、[[大阪市]][[天王寺区]]内にある女性[[落語家]]の[[桂あやめ (3代目)|桂あやめ]](当時は桂花枝、27歳)の自宅[[マンション]]に隣人を装って侵入。彼女の首を絞めて失神させ、[[現金]]14万円を奪って逃走。
*その2日後、Kは天王寺区のマンションに侵入して金を奪おうとするも、侵入した部屋の住人から[[自首]]するよう説得され[[逮捕 (日本法)|逮捕]]に至る。


Nの父親は日雇いの<ref name="朝日新聞1992-05-02"/>土木作業員で{{Refnest|group="注"|Nの父親は帰宅してもNとはほとんど口を利かず、Nから「学校の授業参観に来て」と頼まれても足を運ばなかった<ref name="朝日新聞1992-05-02"/>。息子が本事件で逮捕された1992年1月時点で鳥取市内の老人ホームにいたが、Nが出所してからも会いに行った形跡はなかった<ref name="毎日新聞1992-01-07 夕刊"/>。}}<ref name="背を向けた男2">『読売新聞』1992年1月9日大阪朝刊第一社会面29頁「[検証119号事件]背を向けた男(中)心の渇きいやせず(連載)」(読売新聞大阪本社)</ref>、冬になると[[山陰地方]]から出稼ぎに行くため、Nは母や姉たちとともに生活していたが、貧困から食事を満足に摂れず、自身も小中学校にほとんど通えないような家庭で生育した{{Refnest|group="注"|Nは1962年(昭和37年)春に小学校へ入学したがほとんど登校せず、たまに登校してもいじめっ子からよく殴られたためにますます不登校が強まっていった<ref name="背を向けた男2"/>。中学校進学後もいじめは続き、勉強にもついていけず、1年2学期は半分近く欠席した<ref name="背を向けた男2"/>。姉は公民館の識字学級で読み書きを覚えたほか、N自身も[[児童自立支援施設|教護院]]などで過ごしてきたため、刑務所に入所するまでは字の読み書きができなかった{{Sfn|年報・死刑廃止|2017|p=81}}。}}<ref name="毎日新聞1992-01-07 夕刊">『毎日新聞』1992年1月7日大阪夕刊第一社会面11頁「N容疑者、貧しかった少年時代 9歳で母と死別、刑務所暮らし長く--119号事件」(毎日新聞大阪本社)</ref>。また父親は母親に対し[[ドメスティックバイオレンス]]を行うことがあったほか、母親も非常にしつけが厳しく、姉たちを殴ることがよくあった{{Sfn|年報・死刑廃止|2017|p=81}}。母親は[[糖尿病]]を罹患して入退院を繰り返していたが満足な治療を受けられず、Nが9歳の時{{Refnest|group="注"|Nは自作の詩で「自分が小学校3年生の時の春に亡くなった」と述べている{{Sfn|年報・死刑廃止|2017|p=83}}。}}に死亡した{{Sfn|年報・死刑廃止|2017|p=82}}。
== 死刑囚の生い立ち ==
Kは[[鳥取県]]で4女1男の姉弟の末っ子として出生。9歳の時に母親を失い、父親は[[土木作業員]]で出稼ぎに出たまま行方不明になった。中学に入ると非行に走り、[[養護施設]]や[[少年院]]に送致された。[[1974年]]、18歳になったKは鳥取市でスナックのママ(当時26歳)の営業態度を勘違いし、いきなり関係を迫って抵抗されたため殺害し[[松江刑務所]]に10年間服役した。


中学生時代には窃盗事件などを起こし{{Refnest|group="注"|中学2年生の春に万引き・女子中学生へのいたずらを起こした<ref name="朝日新聞1992-05-02">『朝日新聞』1992年5月2日朝刊第一家庭面17頁「虐待および放任からの保護(子どもの権利条約批准に向けて:3)」(朝日新聞社)</ref>。}}、1970年(昭和45年)5月には鳥取県[[米子市]]内の[[養護施設]]に収容された<ref name="毎日新聞1992-01-07 夕刊"/>。同施設を出た際には既に父親が家を売り払っており<ref name="朝日新聞1992-05-02"/>、Nは鳥取県内など{{Refnest|group="注"|京都・大阪にも働きに出たが、「仕事が汚い」などを理由に1か月以上続かなかった<ref name="背を向けた男2"/>。}}の職場を転々としていたが{{Refnest|group="注"|中学校卒業後には姉の嫁ぎ先に引き取られた<ref name="背を向けた男2"/>。}}、1971年(昭和46年)10月ごろから数回にわたり窃盗事件を起こし、中等[[少年院]]に送致された<ref name="毎日新聞1992-01-07 夕刊"/>。1973年(昭和48年)10月に少年院を仮退院して以降は一時親類の仕事を手伝っていたが長続きせず、昼間からパチンコ店に出入りするような生活を送った<ref name="毎日新聞1992-01-07 夕刊"/>。この時に[[暴力団]]組員と知り合い、風呂場の脱衣場荒らしなどで金を盗み、パチンコ・映画などで遣い果たすような生活を続けた<ref name="背を向けた男2"/>。
1984年、松江刑務所を出所したが、出所後2か月にして強盗致傷事件を起こし[[懲役]]7年の刑を受ける。1991年(平成3年)10月に[[鳥取刑務所]]を出所。鳥取刑務所を出所してから2か月後の[[1991年]][[12月]]から1992年1月にかけて、姫路市のスナック経営者の女性を殺害したほか連続して4人の女性を殺害するなどの事件を起こした。


[[1974年]](昭和49年)7月6日0時30分ごろ、N(当時18歳)は鳥取市永楽温泉町で女性経営者(当時26歳)に[[強姦|乱暴]]しようとして騒がれたため、店内にあった包丁で女性の首を切りつけて殺害し{{Refnest|group="注"|この時、被害者女性は床に倒されながらも包丁を持つNに笑顔を見せて懐柔しようとしたが、Nはこれを「馬鹿にされた」と受け取って逆上し<ref name="背を向けた男2"/>、女性の左右の頸動脈を3回切り付けて殺害した<ref name="読売新聞1992-01-08夕刊"/>。}}、売上金22,000円入りの財布を盗んで逃げたが<ref name="読売新聞1991-12-31"/>、6時間後に友人に付き添われて[[鳥取警察署]]([[鳥取県警察]])に出頭し[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された<ref name="読売新聞1992-01-08夕刊">『読売新聞』1992年1月8日大阪夕刊ズーム面3頁「[NEWSズームアップ]連続ママ殺し119号事件 愛に飢え爆発?」(読売新聞大阪本社)</ref>。同事件で[[被告人]]・少年Nは殺人・[[強制性交等罪|強姦未遂]]{{Sfn|最高裁第三小法廷|2005|pp=1-2}}・[[窃盗罪|窃盗]]・[[文書偽造の罪|有印私文書偽造および同行使]]・[[詐欺罪|詐欺]]{{Refnest|group="注"|1974年2月に大阪市などで計119,500円の盗みをしたほか、1974年7月1日に鳥取市瓦町のスナックで女性経営者の郵便貯金通帳1通・印鑑などを盗み、[[鳥取中央郵便局|鳥取郵便局]]で「経営者の息子」と偽って15万円を引き出した<ref name="読売新聞1975-01-26"/>。}}の罪に問われ<ref name="読売新聞1975-01-26">『読売新聞』1975年1月26日大阪朝刊鳥取版地方面12頁「鳥取、スナック経営者殺し 少年に懲役12年求刑」(読売新聞大阪本社・鳥取支局)</ref>、1975年2月25日に[[鳥取地方裁判所|鳥取地裁]](大下倉保四朗裁判官)で懲役5年以上10年以下の[[不定期刑]](求刑:同){{Refnest|group="注"|論告求刑の際、[[鳥取地方検察庁]]の検察官・岡野英雄は被告人Nを事件当時18歳未満と誤認し、18歳未満の触法少年に適用される[[少年法]]第51条{{Refnest|少年法第51条(1975年当時) - 「罪を犯すとき18歳に満たない者に対しては、死刑をもって処断すべきときは無期刑を科し、無期刑をもって処断すべきときは10年以上15年以下の懲役または禁錮刑を科する」<ref name="読売新聞1975-02-26"/>。}}を適用して懲役12年を求刑したが、後にNは1956年1月生まれ(事件当時18歳)であることが判明したため、岡野検事は判決に先立って地裁に論告再開を求め、改めて少年法第52条{{Refnest|少年法第52条(1975年当時) - 「少年に対して長期3年以下の有期の懲役または禁錮をもって処すべきときはその刑の範囲内において長期と短期を定めてこれを言い渡す。刑期は短期は5年、長期は10年を超えることはできない」<ref name="読売新聞1975-02-26"/>。}}を適用した上で懲役5年 - 10年の不定期刑を求刑した<ref name="読売新聞1975-02-26"/>。その後弁護士になった岡野は本事件後、『読売新聞』記者の取材に対し「言葉の少ない男だったが、取り調べに対しては素直に犯行を認めていた。更生してくれると信じていたのに…」と話していた<ref name="背を向けた男3">『読売新聞』1992年1月10日大阪朝刊第一社会面31頁「[検証119号事件]背を向けた男(下)『塀の中』に忘れた青春(連載)」(読売新聞大阪本社)</ref>。}}の判決を受けた{{Refnest|group="注"|裁判官は判決理由で「被告人Nは9歳で母と死別し、義兄に育てられるなど同情の余地はあるが、殺害後に逃走用資金として被害者の金を盗むなど、犯行は残虐だ」と説明した<ref name="読売新聞1975-02-26"/>。}}<ref name="読売新聞1975-02-26">『読売新聞』1975年2月26日大阪朝刊鳥取版地方面12頁「殺人の“少年” 地裁 求刑ミスやり直し 犯行時、18歳と厳刑」(読売新聞大阪本社・鳥取支局)</ref>。
== 裁判 ==
*[[1995年]][[9月11日]]、[[大阪地方裁判所|大阪地裁]]で[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]。
*:第一審にてKは全面[[無罪]]を主張。
*[[2001年]][[6月20日]]、[[大阪高等裁判所|大阪高裁]]で[[控訴]][[棄却]]。
*:控訴審で[[弁護人|弁護]]側は、姫路の事件についてのみ罪を認めたが[[責任能力]]を否定していた。また他の事件については全面無罪を主張した。
*[[2005年]][[6月7日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で[[上告]]棄却・死刑確定。
*:上告審[[口頭弁論]][[公判]]で弁護側は姫路の事件については認めたが、島根と京都の計3件について全面無罪を主張。大阪の事件については殺意を否定した.


Nは1984年6月19日に[[松江刑務所]]を仮出所したが<ref name="読売新聞1991-12-31"/>、それ以来119号事件で逮捕されるまで刑事施設の外で暮らした日数はわずか158日だった<ref name="朝日新聞1992-05-02"/>。出所から2か月ほどは[[島根県]][[松江市]]内のパチンコ店{{Refnest|group="注"|このパチンコ店は後に殺害した被害者Bが経営していたスナックの近くで、Nは8月初めまで同店で働き、Bの店に1か月近く頻繁に出入りしていた<ref name="毎日新聞1992-01-01">『毎日新聞』1992年1月1日大阪朝刊第一社会面31頁「連続ママ殺しのN容疑者、松江の被害者と面識 遺留品の手提げ袋を押収」(毎日新聞大阪本社)</ref>。}}で働いたが、その後鳥取市内に戻って旅館・駅待合室を泊まり歩いた<ref name="読売新聞1991-12-31"/>。そして金に困ったNは同年9月10日夜、宿泊先の旅館(鳥取市永楽温泉町)で経営者の妹(当時58歳)に果物ナイフを突きつけ、現金を奪おうとする事件を起こし、翌日に逮捕された<ref name="読売新聞1991-12-31"/>。被告人Nは強盗致傷罪で1985年1月に懲役7年の判決を受け、刑期を終えた<ref name="読売新聞1991-12-31"/>1991年10月25日に[[鳥取刑務所]]を出所したが{{Refnest|group="注"|鳥取刑務所時代は同房者と喧嘩が絶えず、ほとんど独房で過ごしており、仮出所を認められなかった<ref name="毎日新聞1992-01-07 夕刊"/>。出所前には「出所しても何もいいことはないから出所したくない」と漏らしていた<ref name="AERA"/>。}}、その約2か月後に連続殺人事件を起こした<ref name="読売新聞1992-01-08">『読売新聞』1992年1月8日東京朝刊第一社会面31頁「連続殺人のN容疑者逮捕 『私も警察に付き合うから』と恐怖の母が親身の説得」(読売新聞東京本社)</ref>。
== 再審請求中に死刑執行 ==

*[[2017年]][[7月13日]]、[[金田勝年]][[法務大臣]]の執行命令に基づき[[大阪拘置所]]にてK(N姓に変更、当時第十次[[再審]]請求中)の死刑が執行された<ref>{{Cite news |title=2人の死刑を執行 8カ月ぶり、金田法相で2度目 |url=http://www.asahi.com/articles/ASK7F3C54K7FUTIL00C.html |newspaper=『[[朝日新聞デジタル]]』 |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2017-07-13 |accessdate=2017-07-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170713040913/http://www.asahi.com/articles/ASK7F3C54K7FUTIL00C.html |archivedate=2017年7月13日 |deadurldate=2017年9月 }}<br>{{Cite news |title=再審請求中の死刑執行、反発必至 背景に不公平感? |url=http://www.asahi.com/articles/ASK7F4135K7FUTIL00F.html |newspaper=『朝日新聞デジタル』 |publisher=朝日新聞社 |date=2017-07-13 |accessdate=2017-07-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170713041030/http://www.asahi.com/articles/ASK7F4135K7FUTIL00F.html |archivedate=2017年7月13日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
== 事件の経緯 ==
=== 事件前の動向 ===
Nは鳥取刑務所を出所後に服役中知り合った[[暴力団]]組員を頼り<ref name="朝日新聞1992-01-11">『朝日新聞』1992年1月11日大阪夕刊第一社会面15頁「N容疑者が幼児に刃物、金要求 倉敷で91年12月初め【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>、2日後(1991年10月27日)には[[岡山県]][[倉敷市]]の暴力団事務所へ身を寄せ<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>、電話番などをして過ごした<ref name="朝日新聞1992-01-11"/>。Nは組事務所で41日間過ごしたが、その間の11月20日には倉敷市内のスナックで女性経営者を襲い、何も取らずに逃走した{{Refnest|group="注"|Nは1人でこのスナックへ来店し、他の客が帰りママと2人だけになったところでママに突然襲い掛かり首を絞めようとしたが、抵抗されたためそのまま逃走した<ref name="読売新聞1992-01-10"/>。ママは怪我がなく、金も奪われなかったため「いたずらでもしようとしたのだろう」と考え、警察に通報しなかった<ref name="読売新聞1992-01-10">『読売新聞』1992年1月10日大阪朝刊第一社会面31頁「119号事件のN容疑者 倉敷でもママ襲う 抵抗され逃走」(読売新聞大阪朝刊)</ref>。}}<ref name="朝日新聞1992-01-16">『朝日新聞』1992年1月16日大阪朝刊第一社会面29頁「客の顔してスキをつく N容疑者の足取り判明【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。さらに12月6日、Nは親しくなった組員宅を訪問してその妻と話をしていたが、組員夫妻の3歳の子供を突然抱きかかえ、持っていた刃物を突き付けて「金を出してくれ」と妻を脅した<ref name="朝日新聞1992-01-11"/>。結局は子供の母親(組員の妻)からなだめられ<ref name="AERA"/>、何も取らずに逃走したが、この事件が組長に分かり、それ以降Nは組から追われる身となった{{Refnest|group="注"|組は独自にNの立ち回り先を調べ、鳥取・大阪までNを追っていた<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。}}<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。

12月10日ごろには岡山県[[和気郡]][[和気町]]の知人{{Refnest|group="注"|組員とは別の刑務所仲間の家<ref name="AERA"/>。}}宅<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>に身を寄せたが、その家から<ref name="AERA"/>現金105,000円を盗んで<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>姿を消し<ref name="AERA"/>、同日 - 12日ごろまでは姫路市内のホテルに宿泊していた<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。

=== 連続殺人 ===
一連の犯行はいずれもスナックの客を装い、ママと2人きりになった密室状態の店内でママを襲うもので、B事件(松江事件)以外はいずれも夜の犯行だった<ref name="毎日新聞1992-01-16">『毎日新聞』1992年1月16日大阪夕刊第一社会面15頁「松江の殺害は白昼、被害者の買い物帰り襲う?--広域重要119号事件のN容疑者」(毎日新聞大阪本社)</ref>。Nによる殺人現場となったスナック4店舗はいずれも発見時、店のネオンが消えていたほか、うち3店はNが犯行後に休店を装う目的で外から施錠した上で逃走していた<ref name="読売新聞1992-01-09">『読売新聞』1992年1月9日大阪夕刊第一社会面15頁「119号事件のN容疑者 『店は貸し切りに』ネオン消させて密室の凶行」(読売新聞大阪本社)</ref>。そのため客からは「休店が続いている」と思われ、姫路の事件(A事件)は発生から13日、松江の事件(B事件)も3日間発見が遅れることとなった<ref name="読売新聞1992-01-09"/>。

またNは一連の連続殺人の途中、被害に遭った店以外にも[[京都府]][[京都市]]内などで複数のスナックに来店していたが、[[下京区]]西木屋町の和風スナックを初めて訪問した際には客が自分1人になるとママに対し「これから友達5,6人で貸し切りにしたい。他の客には来てほしくないのでネオンを消し、ドアも施錠してほしい」と頼んだが断られていた{{Refnest|group="注"|このスナックのママは「うちの店は貸し切りをしない」と断ったほか、警察官が頻繁に出入りすることなどを話題にしたところ、Nは「近くで友達と待ち合わせているからちょっと行ってくる」と言い残して姿を消していた<ref name="読売新聞1992-01-09"/>。また貸し切りを求めた各店とも友人を店に呼んだ形跡はなく、店を施錠して来客を防ごうとした点から、各捜査本部は「Nは仮に経営者が貸し切りに応じた場合、経営者を襲おうとしていた」と推測した<ref name="読売新聞1992-01-09"/>。}}<ref name="読売新聞1992-01-09"/>。

このほか、Nは犯行時には黒いジャンパーを着用していた一方、下見・逃走時には白・青など明るい色のジャンパーに着替えていた<ref name="読売新聞1992-01-20">『読売新聞』1992年1月20日大阪夕刊第一社会面13頁「119号事件のN容疑者 黒ジャンパーで凶行、白で逃走 捜査の目くらます」(読売新聞大阪本社)</ref>。また、Nは投宿先で刑務所仲間などの姓名から取った多数の偽名を使用していた<ref name="毎日新聞1992-01-07">『毎日新聞』1992年1月7日大阪朝刊第一社会面23頁「『広域重要119号事件』のN容疑者、近畿・中国6府県に出没」(毎日新聞大阪本社)</ref>。

==== 姫路事件(A事件) ====
Nは1991年12月11日(A事件の前日)16時ごろ、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[姫路駅]]([[兵庫県]][[姫路市]])付近のレンタカー会社営業所に立ち寄って道を尋ねたが、突然カウンターに身を乗り出して女性事務員を「俺は恐ろしい人間だ」と脅迫し、もう1人の女性事務員が110番通報しようとすると慌てて逃亡した<ref name="毎日新聞1992-01-12"/>。

加害者Nは1991年12月12日夜<ref name="読売新聞1992-01-08"/>、兵庫県姫路市[[坂元町 (姫路市)|坂元町]]26番地のスナック「くみ」にて同店経営者女性A(当時45歳)の首を手で絞めて殺害し(死因:窒息死 / '''A事件''')<ref name="読売新聞1991-12-31 2"/>、現金6,000円などを盗んだ{{Refnest|group="注"|被害品はカウンター内に入った現金・ポーチ・商品券・ジャンボ宝くじ20枚など<ref name="読売新聞1992-07-21"/>。}}<ref name="朝日新聞2005-06-07"/>。事件直後(当日夜 - 翌日未明)にはJR[[山陰本線]]・城崎駅(現:[[城崎温泉駅]])付近の線路脇{{Refnest|group="注"|城崎駅付近のトンネル内<ref name="読売新聞1992-07-21"/>。}}で<ref name="毎日新聞1992-01-30">『毎日新聞』1992年1月30日大阪朝刊第一社会面23頁「被害者ポーチに指紋--広域重要指定119号事件・姫路のスナックママ殺害でN容疑者」(毎日新聞大阪本社)</ref>被害者Aのクレジットカードなど{{Refnest|group="注"|ポーチの中身には宝くじを入れる空袋1枚も含まれていた<ref name="読売新聞1992-07-21"/>。}}が入ったポーチが発見され<ref name="読売新聞1992-01-14">『読売新聞』1992年1月14日大阪夕刊第一社会面15頁「スナックママ連続殺人 N容疑者 凶器、電車から捨てた/大阪府警」(読売新聞大阪本社)</ref>、後にポーチからはNの指紋が検出された{{Refnest|group="注"|Nは取り調べに対し「A事件の凶器は山陰線に乗っている途中に列車の窓から捨てた」と自供したため<ref name="読売新聞1992-01-14"/>、「A事件後の12月13日に姫路方面から山陰方面へ逃走する途中で列車からポーチを投げ捨てた」可能性が指摘されている<ref name="毎日新聞1992-01-30"/>。}}<ref name="毎日新聞1992-01-30"/>。

[[被害者]]Aの遺体は12月25日20時20分ごろに発見され、左首・腹には数か所の刺し傷があった<ref name="読売新聞1991-12-31 2"/>。[[兵庫県警察]]の捜査本部([[姫路警察署]])は当初「客として立ち寄った男が飲酒した後で犯行に及んだ可能性が高い」として被害者Aの交友関係を中心に聞き込み捜査をしたが、有力な情報は浮上しなかった<ref name="朝日新聞1991-12-30 大阪">『[[朝日新聞]]』1991年12月30日大阪朝刊第一社会面19頁「飲食店に恐怖 スナックママ連続殺人で3府県警、共同捜査へ【大阪】」([[朝日新聞大阪本社]])</ref>。

A事件直後の同日午後、Nは[[鳥取県]][[米子市]]内の旅館に偽名で宿泊したが、その際に旅館の女性経営者へ(被害者Aが12月6日に購入した)袋入りの年末[[ジャンボ宝くじ]]{{Refnest|group="注"|姫路市内の宝くじ売り場で販売されていた<ref name="読売新聞1992-07-21"/>。}}20枚を渡した<ref name="読売新聞1992-07-21">『読売新聞』1992年7月21日大阪朝刊第一社会面27頁「119号事件N被告 有力物証に宝くじ 兵庫・姫路で奪い鳥取・米子で渡す」(読売新聞大阪本社)</ref>。2日後の1991年12月14日夕方<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>、旅館に投宿していたNは12月12日に同市内で発生した(Nの事件とは別の)強盗事件に関して[[米子警察署]]員から[[職務質問]]を受けたが、この時にはA事件前に最後にスナック「くみ」を訪れた客の名前を名乗っていた{{Refnest|group="注"|この時点では一連の事件が発覚しておらず、N自身も手配されていた強盗事件の被疑者とは年齢などが違ったため、米子署員からそれ以上追及されることはなかったが、この時に名乗った名前は後に逮捕の手掛かりになった<ref name="毎日新聞1992-01-13"/>。}}<ref name="毎日新聞1992-01-13">『毎日新聞』1992年1月13日大阪夕刊第一社会面11頁「119号事件のN容疑者、偽名使用でアシ 職質時『○○』割り出しに手がかり」(毎日新聞大阪本社)</ref>。

==== 松江事件(B事件) ====
12月20日、Nは山陰本線・[[松江駅]]([[島根県]][[松江市]])のコインロッカーに紫色のジャンパー<ref name="読売新聞1992-01-20"/>などを預け<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>、明るい青地に黄色い線の入ったジャンパーを着用した<ref name="読売新聞1992-01-20"/>。同日夜には松江市内の(Bの店「鍵」とは別の)スナックを訪れていたが{{Refnest|group="注"|またこの時、A事件で被害者Aが持っていたデパートの商品券・ブレスレットをスナックの女性経営者に贈っていた<ref>『毎日新聞』1992年2月18日大阪朝刊第二社会面26頁「姫路事件、否認のまま119号・N被告あす拘置期限切れ 物証もとに起訴方針だが」(毎日新聞大阪本社)</ref>。}}、この時にはママに対し「他の客の下手なカラオケを聞きたくないから自分1人で店を貸し切りたい」と要求し、「強盗では」と思った経営者から断られても約30分間にわたり執拗に迫ったが<ref name="毎日新聞1992-01-12">『毎日新聞』1992年1月12日大阪朝刊第二社会面26頁「連続スナック女性経営者殺人事件のN容疑者、別の女性7人にも接近、現金強奪狙う」(毎日新聞大阪本社)</ref>、同日はNとは別に常連客がいたため、経営者は事なきを得た<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。また同日、鳥取市内で前述の暴力団組員十数人(車3台に分乗)がNを「泥棒」と叫びながら追いかけている姿が目撃されていたが、Nは銭湯の庭に2時間余り隠れて組員たちから逃れた<ref name="AERA"/>。

1991年12月21日12時 - 13時ごろ{{Refnest|group="注"|島根県警は当初「犯行時間帯は21日深夜 - 22日未明」と推測していたが<ref name="毎日新聞1992-01-16"/>、Nが松江市を離れた時間と矛盾したため修正した<ref name="毎日新聞1992-01-27"/>。}}<ref name="毎日新聞1992-01-27"/>、Nは松江市[[寺町 (松江市)|寺町]]204番地のスナック「鍵」にて同店経営者女性B(当時55歳)の首を手で絞めて殺害し(死因:窒息死 / '''B事件''')<ref name="読売新聞1991-12-31 2"/>、現金約20万円を奪った<ref name="朝日新聞2005-06-07"/>。B事件直後の13時ごろ、Nは松江駅前からタクシーに乗車して松江市を離れ<ref name="毎日新聞1992-01-27"/>、同日15時ごろには鳥取県米子市内でポーチを購入したほか、17時ごろには同県[[倉吉市]]内のスナックを訪れ{{Refnest|group="注"|『毎日新聞』では「21日17時ごろに倉吉市内のスナックを訪れ、ジャンパー入りの袋を店に預けた」と<ref name="毎日新聞1992-01-16"/>、『読売新聞』では「22日未明に倉吉市内の行きつけのスナックを訪れ、店の女性経営者にジャンパー入りの袋を預けた」とそれぞれ報道されている<ref name="読売新聞1992-01-12"/>。}}<ref name="毎日新聞1992-01-16"/>、店の女性経営者に被害者Bの血液が多量に付着したジャンパーが入った袋を預けた<ref name="読売新聞1992-01-12">『読売新聞』1992年1月12日東京朝刊第一社会面31頁「N容疑者の血染めジャンパー押収 連続殺人で初の物証」(読売新聞東京本社)</ref>。同日3時30分ごろ、Nは女性経営者の車で[[京都府]][[京都市]]へ向かったが、その後は店に1回電話をしたきりで戻らなかった<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。

Bの遺体は12月24日13時30分になってBの家族により発見され<ref>『読売新聞』2005年6月8日大阪朝刊島根版地方面29頁「119号事件 N被告の死刑確定へ 関係者『時経ても痛み消えぬ』=島根」(読売新聞大阪本社・松江支局)</ref>、遺体の胸には3か所の刺し傷があった<ref name="読売新聞1991-12-31 2"/>。一方でNは12月24日夜に後述のC事件現場となった「まき」の上階(「たかせ会館」2階)にあるスナックを初めて訪れていた<ref name="読売新聞1992-01-10 夕刊">『読売新聞』1992年1月10日東京夕刊第一社会面15頁「連続殺人のN容疑者 4人目は2日前の現場に舞い戻り別人を狙っていた」(読売新聞東京本社)</ref>。

==== 京都事件(C事件・D事件) ====
C事件現場:スナック「まき」 - 京都市[[中京区]]高瀬川筋四条上る紙屋町367<ref name="日本経済新聞1991-12-29">『[[日本経済新聞]]』1991年12月29日朝刊27頁「京都のスナック、女性店主2人殺される--同一犯の可能性」([[日本経済新聞社]])</ref>。雑居ビル<ref name="読売新聞1992-01-10 夕刊"/>「たかせ会館」1階<ref name="朝日新聞1992-12-28"/>

Nは1991年12月26日未明、「まき」にて同店経営者女性C(当時55歳)の左首を刃物で刺して殺害し(死因:失血死 / '''C事件''')<ref name="読売新聞1991-12-31 2"/>、現金5,000円を奪った<ref name="朝日新聞2005-06-07"/>。遺体は12月27日13時に発見され、左首2か所・左胸1か所に傷があったほか、首を絞められた痕も確認され<ref name="読売新聞1991-12-31 2"/>、[[京都府警察]][[刑事部|捜査一課]]は殺人事件と断定して五条警察署(現:[[下京警察署]])に捜査本部を設置していた<ref name="朝日新聞1992-12-28">『朝日新聞』1991年12月28日大阪朝刊第一社会面21頁「スナックママ店内で殺される 京都【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。同日(27日)夜、Nは「まき」周辺で捜査員が聞き込みをしている中で「まき」の上階にある先述のスナックを訪れ、C事件を話題にしながら閉店時(28日2時)まで店にいたが、飲食代30,000円を請求されると「後で銀行に振り込む」と言い、売上金をもって帰宅する経営者がタクシーに乗車しようとすると「一緒に乗せてくれ」と強引に乗り込んだ<ref name="読売新聞1992-01-10 夕刊"/>。そしてタクシーが付近のホテル([[八坂神社]]近く)前で「親父がこのホテルに泊まっている。金を払う」と下車したが、経営者は「銀行振り込みでいい」と誘いに乗らず、Nだけが下車した<ref name="読売新聞1992-01-10 夕刊"/>。

Nは1991年12月28日朝<ref name="読売新聞1991-12-31 2"/>、C事件現場から200メートル離れた京都市中京区河原町通三条下る二丁目東入「京都観光ビル」地下1階のスナック「なかま」<ref name="日本経済新聞1991-12-29"/>にて同店経営者女性D(当時51歳)の心臓を刃物{{Refnest|group="注"|NはD事件の凶器の刃物について「店内にあった包丁を使い、近くのゴミ箱に捨てた」と供述したが、包丁は発見されなかった<ref name="読売新聞1992-03-13"/>。}}で一突きにして殺害し(死因:失血死 / '''D事件''')<ref name="読売新聞1991-12-31 2"/>、現金1万数千円を奪った<ref name="朝日新聞2005-06-07"/>。その直後(6時40分ごろ)、NはDが血だらけで倒れた店内にてレジのそばで金を物色していたところをDの長男E(事件当時25歳)に発見されたが、Eの顔をビール瓶で殴って軽傷を負わせた上で逃走し<ref name="読売新聞1991-12-28"/>、同日から大阪・天王寺の旅館に2泊した<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。Dは同日8時ごろに搬送先の病院で死亡し<ref name="読売新聞1991-12-28"/>、遺体の首には強く抑えた痕が確認された<ref name="読売新聞1991-12-31 2"/>。同事件についても京都府警捜査一課は強盗殺人事件として五条署に捜査本部を設置して捜査したが、C事件と現場がほとんど離れていなかったことから2事件の関連性が指摘された<ref>『朝日新聞』1991年12月28一大阪夕刊第一社会面13頁「スナックママまた殺される 胸に刺し傷、男逃走 京都【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。

D事件翌日(兵庫県警に逮捕状を請求された日)の12月29日<ref name="読売新聞1991-12-30"/>、Nは(26日夜に訪れた)C事件現場の上階のスナックに「借金を払う」と電話して店主と天王寺で落ち合い、代金20,000円のうち5,000円を払ったが、翌日に特別手配されることとなった<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。

==== 指名手配 ====
B事件以降の3件の現場では[[ムーンスター|月星]]製運動靴の足跡が発見されたほか、A事件・D事件の各現場には[[指紋]]が残されており{{Refnest|group="注"|A事件の現場ではカウンター周辺からNの指紋が検出された<ref name="朝日新聞1991-12-30 大阪"/>。}}<ref name="読売新聞1991-12-31 2"/>、それら2つの指紋は同年10月に鳥取刑務所を出所した加害者Nのものと一致した<ref name="特別手配">『読売新聞』1991年12月31日東京朝刊第一社会面27頁「ママ4人殺害と断定 『119号事件』に指定 35歳の男を特別手配」(読売新聞東京本社)</ref>。これに加えて「A・B事件の被害者女性はC事件と同様に、手で首を絞められてから鋭利な[[刃物]]で首・胸を刺されていること」「4事件とも被害者女性は繁華街にて1人で小さな店を経営していたこと」などから4事件の共通点が見いだされた<ref name="読売新聞1991-12-30"/>。

その一方で、[[岡山県警察]]は12月10日ごろに和気町(Nの刑務所仲間宅)で発生した窃盗事件を調べていたが、この事件に関してもNが浮上したため、12月下旬には関係の県警で合同捜査会議を開催した<ref name="朝日新聞1992-01-08">『朝日新聞』1992年1月8日大阪夕刊第一社会面15頁「N容疑者、靴はき替え大阪で犯行 スナックママ連続殺人【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。結局、まずは容疑の濃い窃盗事件で逮捕状を取り、強盗殺人事件の重要参考人として行方を追うことを決めた<ref name="朝日新聞1992-01-08"/>。

その後、兵庫県警捜査本部は12月29日に男NをA事件の犯人と断定して殺人容疑で逮捕状を請求し<ref name="読売新聞1991-12-30">『読売新聞』1991年12月30日東京朝刊第一社会面23頁「京都以外でもママ殺し2件 4件は同一犯人か 35歳の男に逮捕状/兵庫県警」(読売新聞東京本社)</ref>、同日には京都・兵庫・島根の3府県警が「4件はいずれも同一犯の可能性がある」として共同捜査に乗り出す方針を決めた{{Refnest|group="注"|京都府警は捜査員を姫路に派遣したほか、島根県警も捜査員を京都入りさせ、29日夜からは兵庫県警に逮捕状を請求されたNの名を挙げ、顔写真を見せて松江市内のタクシー会社・ホテルなどへ聞き込み捜査を行った<ref name="朝日新聞1991-12-30 大阪"/>。また同日、[[近畿管区警察局]]などは事件の続発を懸念し、Nが宿泊する可能性のある旅館などの巡回強化を大阪府警など各警察本部に指示した<ref name="朝日新聞1991-12-30 大阪"/>。}}<ref name="朝日新聞1991-12-30">『朝日新聞』1991年12月30日朝刊第一社会面27頁「スナックママ殺害4件 似た手口、同一犯か 姫路の事件で逮捕状」(朝日新聞社)</ref>。そして翌30日には京都府警もD事件の強盗殺人容疑で[[被疑者]]Nの逮捕状を取ったほか<ref>『毎日新聞』1991年12月31日東京朝刊第一社会面23頁「スナック女性経営者強盗殺人事件で特別指名手配 姫路、京都、松江で連続4件」(毎日新聞東京本社)</ref>、警察庁が本事件をNによる連続殺人事件と断定して本事件を広域指定し、被疑者Nを全国に[[指名手配#特別手配|特別指名手配]]した<ref name="特別手配"/>。翌31日、京都府警も強盗殺人などの容疑で被疑者Nを指名手配した<ref>『朝日新聞』1992年1月1日大阪朝刊第一社会面31頁「姫路の盗品、松江で発見 スナックママ殺人 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。

一方でNは逃亡先としてかつて鳥取刑務所に服役していた[[和歌山県]]在住の刑務所仲間宅に転がり込もうとしていたため<ref name="朝日新聞1992-01-09 夕刊"/>、それまでの一時的な潜伏先として[[和歌山駅|和歌山]]方面(JR[[阪和線]])の電車の始発駅となっているJR[[天王寺駅]]に近い[[天王寺]]界隈を選び{{Refnest|group="注"|Nは鳥取刑務所で服役していた際、大阪出身の受刑者から「[[新世界 (大阪)|新世界]]には『[[ジャンジャン横丁]]』という繁華街があり生活しやすい」などと聞いていたことも天王寺を潜伏先に選んだ理由だった<ref name="朝日新聞1992-01-09"/>。}}<ref name="朝日新聞1992-01-09">『朝日新聞』1992年1月9日大阪朝刊第一社会面27頁「『新世界で靴買い替え』 119号事件N容疑者【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>、指名手配された12月30日には天王寺でパチンコをしてから{{Refnest|group="注"|この時Nが出入りしていたパチンコ店の周囲には他にもパチンコ店があったが、Nはその中でも唯一裏通りに通じる出入口がある店だけを選んでいた<ref name="読売新聞1992-01-06 夕刊"/>。}}<ref name="読売新聞1992-01-04"/>[[大阪府]][[大阪市]][[天王寺区]][[堀越町 (大阪市)|堀越町]]11番地の[[簡易宿所|簡易旅館]]{{Refnest|group="注"|この簡易旅館は天王寺駅から北側に位置し<ref name="読売新聞1992-01-04"/>、桂のアパートから北へ約100メートルの場所にあった<ref name="読売新聞1992-01-06 夕刊"/>。}}<ref name="読売新聞1992-01-06 大阪朝刊"/>に偽名で宿泊したほか<ref name="読売新聞1992-01-04">『読売新聞』1992年1月4日大阪朝刊第一社会面25頁「スナックママ連続殺人 京都・松江の3件は凶器同じ」(読売新聞大阪本社)</ref>、後述の桂花枝殺害未遂事件の現場となったアパートを訪れて大家に入居希望を伝えた<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。しかし事件が広域重要指定されたことから簡易旅館を出て天王寺区周辺で野宿を始め<ref name="読売新聞1991-01-09">『読売新聞』1991年1月9日大阪朝刊第一社会面29頁「連続殺人のN容疑者 潜伏中『船で逃げる』と知人らに電話 捜査の混乱狙う?」(読売新聞大阪本社)</ref>、翌日(12月31日)には前述のアパートを再び訪れて「今度、隣に引っ越します」と桂に挨拶した<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。その一方でNは当時無一文に近く<ref name="読売新聞1992-01-14"/>、アパートに押し入り強盗して金を貯め、ほとぼりが冷めてから和歌山方面へ向かおうとしていた{{Refnest|group="注"|逮捕後、Nは桂宅への強盗の動機について「和歌山に行くための運賃が欲しかった」と供述したが、当時は和歌山への交通費としては十分な約20,000円を持っていたため、その点を追及されると「刑務所仲間を頼るためにはタダでは行けない。謝礼金を作るためだった」と供述した<ref name="朝日新聞1992-01-09 夕刊">『朝日新聞』1992年1月9日夕刊第二社会面14頁「かくまってもらうカネ稼ぎ 大阪での犯行動機 連続殺人N容疑者」(朝日新聞社)</ref>。またこの時には知人らが警察に通報することを予想して追跡捜査攪乱を狙ったためか、知人・親類に対し電話で「船で逃げようと思う」「もっと東に行く」などと偽の逃走先を告げていた<ref name="読売新聞1991-01-09"/>。}}<ref name="読売新聞1991-01-09"/>。

12月31日14時ごろ、Nは天王寺区[[大道 (大阪市)|大道]]一丁目のマンションの一室に侵入して40,000円入りの財布を盗んだ<ref name="読売新聞1992-01-14"/>。当時は住人が不在だったため[[空き巣]]になったが、仮に住人がいれば凶悪事件に発展していた可能性が指摘された<ref name="読売新聞1992-01-14"/>。

[[1992年]](平成4年)1月1日 - 5日までNはアパート周辺に潜伏しつつ{{Refnest|group="注"|桂の部屋と無人の隣室の境にある物置に身を隠していたとされる<ref>『朝日新聞』1992年1月6日大阪夕刊第一社会面9頁「アパート物置に潜み犯行? 119号事件のN容疑者 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。}}、一人暮らしの高齢者と長時間過ごして正月を迎えていた{{Refnest|group="注"|12月30日ごろに桂と同じアパートに住んでいた高齢男性(当時80歳以上)に「今度ここに引っ越すことになった」とあいさつし、その後も毎年のように男性の居室を訪れて室内で雑談したり、一緒にテレビのニュースを観るなどして過ごしていた<ref>『朝日新聞』1992年1月13日大阪夕刊第一社会面13頁「N容疑者、お正月はコタツでTV 老人宅に上がり込む 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。}}<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。また桂のアパートへ押し入る前日(1992年1月4日)、Nは大阪市[[浪速区]][[恵美須東]]二丁目の靴店でスニーカーを購入し、犯行当時から履いていたスニーカーを同店横のゴミ箱に捨てていた{{Refnest|group="注"|古いスニーカーは翌日(1992年1月5日)にごみ回収業者が収集し、大阪市[[住之江区]]内の[[清掃工場]]へ運ばれた<ref name="読売新聞1992-01-09"/>。}}<ref name="読売新聞1992-01-09"/>。

=== 桂花枝殺害未遂事件 ===
1992年[[1月5日]]10時45分ごろ、逃亡中のNは{{Refnest|group="注"|桂のアパートに押し入った当時、Nは所持金が20,000円しかなかった<ref name="読売新聞1992-01-14"/>。}}大阪市天王寺区堀越町のアパートに侵入し、当時このアパートに住んでいた女性[[落語家]]・[[桂あやめ (3代目)|桂花枝(当時27歳・本名:入谷ゆか / 現:桂あやめ)]]の部屋を訪れ「隣に入居することになった者だ。少し電話を貸してほしい」と声を掛けた<ref name="読売新聞1992-01-06"/>。桂が玄関まで電話機を持ってきたところ、Nはいきなり桂の首を絞めて失神させた{{Refnest|group="注"|Nは桂の首をまず後ろから絞め、さらに抵抗されると再度前から絞めていた<ref name="読売新聞1992-01-06 夕刊"/>。}}<ref name="朝日新聞1992-01-06"/>。桂はしばらくして意識を取り戻したが、室内を物色していたNに<ref name="朝日新聞1992-01-06"/>再び首を絞められ「殺さないで」と抵抗した<ref name="読売新聞1991-01-07 朝刊"/>。Nは桂に「金はあるのか?」と脅して金のありかを訊き出し{{Refnest|group="注"|桂がNに対し「金はある」と答えるとNは首を絞める力を緩めた<ref name="読売新聞1991-01-07 朝刊">『読売新聞』1997年1月7日東京朝刊第一社会面31頁「連続ママ殺人容疑者の襲撃 必死に『殺さないで!』入谷さんが恐怖物語るアザ」(読売新聞東京本社)</ref>。桂は後の公判で証人として出廷した際に「『金はある』と答えたから殺されずに済んだ。もし『ない』と答えていたら殺されていただろう」と証言している<ref name="読売新聞1992-12-22"/>。}}、[[現金]]140,000円を奪い逃走した<ref name="朝日新聞1992-01-06"/>。

逃走する際、Nは桂に対し「俺は京都で2人を殺して島根から逃げてきた{{Refnest|group="注"|4件の殺人についてNは桂に「2件は自分がやったがほかの2件はでっち上げだ。警察は信用できない。逮捕されるぐらいなら自殺する」と話していた<ref name="読売新聞1991-01-07 朝刊"/>。またNは桂の居室に侵入した際、自分の顔写真部分を破り取った本連続殺人事件の新聞記事を持っており、玄関を出る際にはその記事を玄関先に置いて立ち去った<ref>『読売新聞』1991年1月7日大阪朝刊第一社会面31頁「連続殺人のN容疑者 大捜査網に“挑戦” 事件の新聞残す」(読売新聞大阪本社)</ref>。}}。新聞に毎日載っている男だ」と話した一方<ref name="朝日新聞1992-01-06"/>、現金を得ると煙草に火をつけて座り込み、桂に対し「すまんことをした。もう何日も食べてなくて自暴自棄になった。これ以上罪は重ねない」と話した<ref name="読売新聞1991-01-07 朝刊"/>。

桂はNと揉み合った際に全治約10日の怪我を負ったほか、首を絞められたことで一時意識を失ったが{{Refnest|group="注"|Nは桂を殺害しなかった理由について取り調べに対し「初めは殺すつもりだった」<ref name="読売新聞1992-01-11"/>「最初に首を絞めたら動かなくなり、死んだと思ったが息を吹き返して驚いた。しかし『金さえ取れればいい』と気が変わった」と述べている<ref name="読売新聞1992-01-11 夕刊"/>。実際、桂の首にはほぼ一周する帯状の鬱血の痕が残ったほか、桂は首を絞められたことで一時仮死状態に陥り、そのまま窒息死していた虞もあった<ref name="読売新聞1992-01-06 夕刊">『読売新聞』1992年1月6日大阪夕刊第一社会面15頁「連続ママ殺しのN容疑者 新たに偽名『ワタナベ』 投宿先に電話?/大阪府警」</ref>。}}、意識を回復した14時20分ごろに[[天王寺警察署]]([[大阪府警察]])へ110番通報した<ref name="読売新聞1992-01-06"/>。これを受け、大阪府警捜査一課は強盗殺人未遂事件として天王寺署に捜査本部を設置し、現場に残された指紋からNの犯行と断定した{{Refnest|group="注"|桂から通報を受けた捜査員は当初「本当にNならば桂は殺されているはずだ。『人を殺して新聞に毎日乗っている男だ』と自ら名乗るものか?」と疑念を抱いていたが、指紋によりNの犯行が裏付けられた<ref name="朝日新聞1992-01-06 大阪"/>。}}<ref name="読売新聞1992-01-06">『読売新聞』1992年1月6日東京朝刊第一社会面31頁「連続ママ殺しのN容疑者 厳戒の大阪で殺人未遂 女性落語家を襲う」(読売新聞東京本社)</ref>。

同日は全国で一斉に旅館・ホテルなどへの聞き込み捜査が行われており<ref name="朝日新聞1992-01-06 大阪">『朝日新聞』1992年1月6日朝刊第一社会面31頁「119号容疑者、あわや“第5の殺人” 大阪で現金強盗 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>、「Nが近辺に潜伏している」という情報を把握していた大阪府警に加えて京都府警・兵庫県警もそれぞれ現場周辺で厳戒態勢を取り、張り込み捜査を続けていた<ref name="読売新聞1992-01-06 大阪朝刊">『読売新聞』1992年1月6日大阪朝刊第一社会面27頁「連続殺人のN容疑者 第5の犯行 裏かかれた捜査陣 女性落語家震え上がる」(読売新聞大阪本社)</ref>。

== 逮捕 ==
桂を襲撃した翌日(1992年1月6日)の19時ごろ、Nは大阪市天王寺区[[大道 (大阪市)|大道]]二丁目のマンション{{Refnest|group="注"|JR[[天王寺駅]]から北方約800メートル、桂のアパートから500メートルに位置する<ref name="読売新聞1992-01-07 夕刊社会">『読売新聞』1992年1月7日東京夕刊第一社会面15頁「連続殺人のN容疑者 住民が発見、110番通報 5日の殺人未遂現場近く」(読売新聞東京本社)</ref>。}}5階の部屋を訪れ{{Refnest|group="注"|Nは逮捕後に「ゆっくり食事したいと考え、適当なマンションを探してN宅へ行った」と供述した<ref name="毎日新聞1992-01-08夕刊"/>。}}、住人の会社員女性X(当時31歳)に対し「(同じマンションの近くの部屋に住んでいる)母と義父の仲が険悪なので、しばらくいさせてほしい」と持ち掛け、これを信用したXはNを部屋に入れた<ref name="読売新聞1992-01-08"/>。Nは逮捕まで16時間近くX宅で過ごし<ref name="読売新聞1992-01-08 夕刊">『読売新聞』1992年1月8日東京夕刊第二社会面14頁「連続強殺・N容疑者 第6の凶行防いだ『一家だんらん』 7歳男児とゲーム」(読売新聞東京本社)</ref>、Xと2人暮らししていた長男Y(当時7歳・[[大阪市立聖和小学校]]1年生)と2人でテレビを観たり{{Refnest|group="注"|このほかYとトランプ・電卓型ゲーム機で遊んだほか、Xに対し「(Yに)おもちゃでも買ってあげて」と1万円の「お年玉」を渡していた<ref name="読売新聞1992-01-08 夕刊"/>。}}、Xが注文した丼物を食べるなどしていたが<ref name="読売新聞1992-01-08"/>、NはXから何度も帰るように諭されても腰を上げようとせず<ref name="毎日新聞1992-01-08"/>、やがてXはNをいぶかしく思うようになった<ref name="読売新聞1992-01-08"/>。

Yが寝入った翌日(1992年1月7日)1時過ぎ、Nは台所に水を汲みに行こうとしたXの首を突然両手で絞めた{{Refnest|group="注"|Nはその動機を「いたずら目的」と供述した<ref name="読売新聞1992-01-11 夕刊"/>。}}<ref name="読売新聞1992-01-11 夕刊"/>。しかしXが臆せずに「何をするの!」と大声を上げ<ref name="読売新聞1992-01-08"/>、叫び声に反応して目覚めたYが泣き叫んだためにいったん手を放した<ref name="読売新聞1992-01-11 夕刊"/>。しばらくしてNは再びXの首を(1回目より強く){{Refnest|group="注"|Nは取り調べで、この時に首を絞めた力が1回目よりきつかったことを追及され「一度首を絞めていたずらしようとしたことを拒絶され、カッとなり殺すつもりで絞め直した」と殺意を認める供述をした<ref name="読売新聞1992-01-11 夕刊"/>。}}絞めたが、この時も長男の泣き声で思い留まった<ref name="読売新聞1992-01-11 夕刊"/>。NはXの首から手を放して自らの名を名乗り<ref name="毎日新聞1992-01-08"/>、「つまらないことをした。悪かった」と謝罪した上で<ref name="読売新聞1992-01-08"/>身の上話をし、何度も「人を殺してきた。もう自殺するしかない」と言っていたが<ref name="毎日新聞1992-01-08"/>、Xから「自分が警察に付き合うから[[自首]]しなさい」と繰り返し説得された{{Refnest|group="注"|XはNの逮捕後、記者会見で「ただ一生懸命にNの話を聞いてあげるだけだった。もしあれだけの人を殺していたのなら素直にすべてを話してほしい」と述べた<ref name="毎日新聞1992-01-08"/>。}}ことで朝になって「自首する」と言った{{Refnest|group="注"|Nは119号事件を報道した朝7時のテレビニュースを観て「嘘ばかりだ」とぼやいていた一方<ref name="読売新聞1992-01-08"/>、X・Y母子とともに3人で朝食を食べたほか<ref name="毎日新聞1992-01-08"/>、XがYを連れて自分のために替えの下着を買いに出た際にも逃げ出さず、逮捕されるまでおとなしくしていた<ref name="読売新聞1992-01-08"/>。}}。

10時40分ごろ、XはYを近くの学童保育所に連れて行くためNと一緒に家を出たが<ref name="読売新聞1992-01-08"/>、Nは母子とは同行せず、約1時間後に逮捕されるまでマンション5階廊下に残っていた{{Refnest|group="注"|しかし逮捕後、Nは取り調べに対し「自首する気はなく逃げるつもりだった」<ref name="毎日新聞1992-01-08夕刊"/>「逃げようか迷っている間に警察官が来た」と述べている<ref name="読売新聞1992-01-11"/>。}}<ref name="毎日新聞1992-01-08">『毎日新聞』1992年1月8日大阪朝刊第一社会面25頁「『自首しなさい』とN容疑者を徹夜で説得、Xさんの『母の愛』にうなずく」(毎日新聞大阪本社)</ref>。その後、付近の天王寺大江学童保育所へYを送っていったXは同所指導員に対し「殺人犯のNが家に来ている」と訴え、指導員は近くの派出所{{Refnest|group="注"|『朝日新聞』では「四天王寺東派出所」と解説されている<ref>『朝日新聞』1992年1月8日朝刊第一社会面31頁「説得されて観念か 住民だまし一夜居座る 119号事件容疑者逮捕」(朝日新聞社)</ref>。}}へこのことを知らせた{{Refnest|group="注"|Xと指導員は逮捕同日、大阪府警から本部長表彰を受けている<ref name="毎日新聞1992-01-08夕刊">『毎日新聞』1992年1月8日大阪夕刊第一社会面11頁「『広域重要119号事件』 N容疑者、自首の気なし 身の上、“告白”も作り話」(毎日新聞大阪本社)</ref>。}}<ref name="毎日新聞1992-01-08"/>。警察官がXの居宅マンションへ駆けつけたところ<ref name="毎日新聞1992-01-08"/>、5階廊下に居残っていたNを発見して「Nだな」と声を掛けた<ref name="読売新聞1992-01-08"/>。Nは抵抗せず<ref name="読売新聞1992-01-08"/>、11時46分に[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された{{Refnest|group="注"|直接の逮捕容疑は桂への強盗殺人未遂容疑<ref>『[[日本経済新聞]]』1992年1月8日朝刊35頁「N容疑者逮捕 ママ4連続殺人を示唆 監禁主婦お手柄」([[日本経済新聞社]])</ref>。}}<ref name="朝日新聞1992-01-16"/>。なおこの居座り事件について[[大阪地方検察庁]]は被害者Xが処罰を望まなかったことなどから立件を見送った<ref name="読売新聞1992-01-29"/>。

逮捕後、被疑者Nは逮捕に至った心情について「桂やXは自分の生い立ちを真剣に聞いて同情もしてくれた。熱心に自首するよう勧められ『捜査も厳しいし、もう捕まってもどうなってもいい』と思った」などと供述した<ref name="読売新聞1992-01-11">『読売新聞』1992年1月11日大阪朝刊第一社会面31頁「『親切に心揺れた』 連続殺人のN容疑者 2女性と話し逃走断念/大阪府警」(読売新聞大阪本社)</ref>。また逮捕直後は殺人4件についていずれも犯行を認め、動機を「金が欲しくてやった。金を奪うためには女1人のスナックを狙い、ママを殺してでも奪うことしか思い浮かばなかった」と自供したが<ref>『読売新聞』1992年1月9日東京夕刊第一社会面19頁「連続ママ殺しのN容疑者 密室状態での犯行自供 『金欲しくて狙った』」(読売新聞東京本社)</ref>、その後は態度を硬化させ、大阪の事件以外は触れることを避けるようになっていった<ref name="毎日新聞1992-01-27">『毎日新聞』1992年1月27日大阪朝刊第二社会面24頁「大阪の女性落語家襲撃で起訴へ、『まき』(京都)立証に壁--広域重要119号事件」(毎日新聞大阪本社)</ref>。

== 起訴 ==
1992年1月28日、[[大阪地方検察庁]]は桂に対する強盗殺人未遂罪で被疑者Nを[[大阪地方裁判所]]へ[[起訴]]した<ref name="読売新聞1992-01-29">『読売新聞』1992年1月29日大阪朝刊第一社会面25頁「スナックママ連続殺人 N容疑者を桂花枝さん事件で起訴/大阪地検」(読売新聞大阪本社)</ref>。その後、被告人Nは以下のように各県警・地検により再逮捕・起訴された(以下、特記なき場合逮捕容疑・起訴罪状は強盗殺人容疑である)。
{| class="wikitable" style="font-size: 90%;"
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! 事件名 !! 逮捕日 !! 管轄警察 !! 起訴日 !! 管轄検察庁 !! 備考
|-
| {{nowrap|A事件}} || 1992年1月28日<ref name="読売新聞1992-01-29 夕刊">『読売新聞』1992年1月29日大阪夕刊一面1頁「119号事件 N容疑者、姫路に移送 ママ殺害容疑で再逮捕/兵庫県警」(読売新聞大阪本社)</ref> || {{nowrap|兵庫県警(姫路署)}}<ref name="読売新聞1992-01-29"/> || {{nowrap|1992年2月19日}}<ref>『読売新聞』1992年2月20日大阪朝刊第一社会面29頁「スナックママ連続殺人のN容疑者 Aさん殺害否認のまま起訴/神戸地検」(読売新聞大阪本社)</ref> || {{nowrap|[[神戸地方検察庁|神戸地検]]姫路支部}}<ref name="読売新聞1992-01-31"/> || 逮捕当日に天王寺署(拘置先)から姫路署へ移送<ref name="読売新聞1992-01-29"/>。1992年1月31日に送検<ref name="読売新聞1992-01-31">『読売新聞』1992年1月31日大阪夕刊第一社会面13頁「スナックママ連続殺人 姫路の事件でN容疑者を送検/神戸地検」(読売新聞大阪本社)</ref>。
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| {{nowrap|D事件}} || {{nowrap|1992年2月20日}}<ref name="読売新聞1992-02-21">『読売新聞』1992年2月21日大阪朝刊第一社会面27頁「スナックママ連続殺人 N容疑者を再逮捕/京都府警」(読売新聞大阪本社)</ref> || {{nowrap|京都府警(五条署)}}<ref name="読売新聞1992-02-21"/> ||rowspan="2"| {{nowrap|1992年4月3日}}<ref name="読売新聞1992-04-04">『読売新聞』1992年4月4日東京朝刊第一社会面31頁「スナックママ殺人 N容疑者を起訴/京都地検」(読売新聞東京本社)</ref> ||rowspan="2"| [[京都地方検察庁|京都地検]]<ref name="読売新聞1992-04-04"/> || Dへの強盗殺人+長男Eへの強盗致傷容疑<ref name="読売新聞1992-03-13"/>。逮捕時にNが着ていた黒いジャンパーから被害者Dと同じ血液型が検出された<ref name="読売新聞1992-01-20"/>。<br>逮捕当時は後者の容疑を否認したが、後の4件の殺人で初めて被害者殺害を認めた<ref name="読売新聞1992-03-13"/>。<br>1992年2月21日に送検されたが<ref>『朝日新聞』1992年2月22日大阪夕刊第一社会面17頁「京都事件でも送検 119号事件のN容疑者【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>、NはD殺害の事実を認めたものの動機を黙秘し、凶器とされる包丁も発見されなかったため、京都地検は1992年2月12日付で処分保留とし{{Refnest|group="注"|京都地検は処分保留の理由を「被告人Nの新供述などから殺害が強盗目的か否かを検討している」<ref>『毎日新聞』1992年3月13日大阪朝刊第一社会面29頁「京都府警『まき』事件でN被告を再逮捕--警察庁指定・119号事件」(毎日新聞大阪本社)</ref>「京都市内で発生した2件の殺人の連続性を考慮し、併せて起訴する」と説明していた<ref>『朝日新聞』1992年3月13日大阪朝刊第一社会面27頁「N容疑者を再逮捕 119号事件で京都府警【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。}}<ref name="読売新聞1992-03-13"/>、C事件と一括で起訴<ref name="読売新聞1992-04-04"/>。
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| {{nowrap|C事件}} || {{nowrap|1992年3月12日}}<ref name="読売新聞1992-03-13">『読売新聞』1992年3月13日大阪朝刊第一社会面29頁「スナックママ連続殺人のN容疑者を再逮捕 『まき』の事件で/京都府警」(読売新聞大阪本社)</ref> || {{nowrap|京都府警(五条署)}}<ref name="読売新聞1992-03-13"/> || 足跡など現場の証拠が少なかったため、4事件で最も立証・逮捕状発行に時間を要した<ref name="毎日新聞1992-01-27"/>。<br>1992年3月14日に送検<ref>『読売新聞』1992年3月15日大阪朝刊第一社会面29頁「スナックママ連続殺人のN容疑者を送検 京都『まき』事件/府警」(読売新聞大阪本社)</ref>。先んじて送検されていたが処分保留になっていたD事件と一括で起訴された<ref>『毎日新聞』1992年4月4日大阪朝刊第一社会面27頁「警察庁指定119号事件のN被告を京都の強盗殺人事件など2件でも起訴」(毎日新聞大阪本社)</ref>。
|-
| {{nowrap|B事件}} || {{nowrap|1992年4月6日}}<ref name="毎日新聞1992-04-06">『毎日新聞』1992年4月7日大阪朝刊第一社会面25頁「N被告を再逮捕--119号・松江事件」(毎日新聞大阪本社)</ref> || {{nowrap|島根県警(松江署)}}<ref name="朝日新聞1992-04-09">『朝日新聞』1992年4月9日大阪朝刊第一社会面27頁「松江の強殺事件でN容疑者を送検【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref> || 1992年4月28日<ref name="読売新聞1992-04-29">『読売新聞』1992年4月29日大阪朝刊第二社会面24頁「『119号』N容疑者 松江の事件でも起訴/松江地検」(読売新聞大阪本社)</ref> || [[松江地方検察庁|松江地検]]<ref name="読売新聞1992-04-29"/> || 1992年1月14日に逮捕状発行<ref>『毎日新聞』1992年1月14日大阪朝刊第一社会面25頁「松江事件でN容疑者に逮捕状--広域重要119号事件」(毎日新聞大阪本社)</ref>・1992年4月8日に送検<ref name="朝日新聞1992-04-09"/>。事件前後に加害者Nが着用していたとされるジャンパーを鑑定したところ、付着した血液は被害者Bの血液とDNA型が一致した<ref>『毎日新聞』1992年4月12日大阪朝刊第二社会面30頁「松江事件被害者の血液とDNA鑑定で一致 119号・N被告のジャンパー付着血痕」(毎日新聞大阪本社)</ref>。
|}

複数府県にまたがる事件の場合は各府県ごとに地元で発生した事件について捜査・[[送致|送検]]・起訴の手続きが取られるが<ref name="毎日新聞1992-01-08夕刊"/>、迅速な審理のため各地方裁判所間の協議で1か所に併合して審理が行われることが原則である<ref name="毎日新聞1992-04-22"/>。その併合先について明確な基準・規定はないが<ref name="毎日新聞1992-04-22"/>、通例では最も重大な事件発生地([[京都地方裁判所]])もしくは最初の事件発生地([[神戸地方裁判所]]姫路支部)で併合審理される<ref name="毎日新聞1992-01-08夕刊"/>。しかし、本事件は罪状の比較的軽い事件で起訴された大阪地裁にて一括して審理される異例の措置が取られた<ref name="毎日新聞1992-04-22"/>。

本事件はいったん京都・[[松江地方裁判所|松江]]など各地裁に起訴され、各地でそれぞれ[[弁護人]]が選任されたものの、被告人Nには弁護士費用を支払う能力がなかった<ref name="読売新聞1992-05-12"/>。そのため、改めて[[大阪弁護士会]]所属の[[国選弁護制度|国選弁護人]]3人が選出され、被告人Nおよび弁護人側は大阪地裁での併合審理を希望した<ref name="読売新聞1992-05-12"/>。また被告人Nは当時、大阪で起こした強盗殺人未遂事件を除きすべて起訴事実を一部または全面否認していたため、公判の長期化・複雑化が予想されたことから、検察側からも「人員的に最も充実している大阪地検が公判を担当するのが適当」という意見が主流だった{{Refnest|group="注"|大阪地検はそれまでの捜査で検察官をその他全事件の捜査に派遣していた<ref name="読売新聞1992-05-12"/>。}}<ref name="毎日新聞1992-04-22">『毎日新聞』1992年4月22日大阪夕刊第二社会面12頁「警察庁指定『119号事件』の4事件、大阪で一括審理へ」(毎日新聞大阪本社)</ref>。裁判所・検察・被告人および弁護人の三者による協議の結果<ref name="毎日新聞1992-04-22"/>、1992年5月12日には本事件を大阪地裁で併合審理することが正式に決定された<ref name="読売新聞1992-05-12">『読売新聞』1992年5月12日大阪夕刊第一社会面13頁「スナックママ連続殺人事件 大阪地裁で併合審理 7月23日に初公判」(読売新聞大阪本社)</ref>。

一方で被告人Nは松江で拘置されていた1992年4月、独房の壁に頭をぶつけて自殺を図った<ref name="毎日新聞1992-07-09">『毎日新聞』1992年7月9日大阪朝刊第一社会面27頁「N被告、2回も自殺未遂 松江と大阪、証拠開示なく裁判不安?--119号事件」(毎日新聞大阪本社)</ref>。その後[[大阪拘置所]]へ移送されたが<ref name="毎日新聞1992-07-09"/>、同年6月29日夜には大阪拘置所の独房内にて剃刀で首・両腕など十数か所を切りつける自傷行為に及んだ<ref name="読売新聞1992-07-09">『読売新聞』1992年7月9日大阪夕刊第一社会面15頁「スナックママ連続殺人のN被告 カミソリで首などを切る 大阪拘置所で」(読売新聞大阪本社)</ref>。弁護人は自傷行為の理由を「拘置所内での厳しい監視への反発や、初公判を前にした不安が高じたためだ」<ref name="読売新聞1992-07-09"/>「検察側から(初公判が間近に迫った1992年7月8日時点でも)証拠が開示されていないことは被告人の防御権の侵害であり、Nはそれに不満を募らせた」と説明した{{Refnest|group="注"|ただし、大阪地検は「(この時点で証拠を開示していなかった理由は)証拠物の量が膨大で整理作業に時間を追われているためであり、開示を拒んでいるわけではない」と説明した<ref name="読売新聞1992-07-09"/>。}}<ref name="毎日新聞1992-07-09"/>。

== 刑事裁判 ==
=== 第一審 ===
1992年7月24日に[[大阪地方裁判所]]刑事第3部(七沢章裁判長)にて第一審の初公判が開かれたが<ref>『読売新聞』1992年7月24日東京朝刊第一社会面31頁「広域重要指定『119号事件』 4件の強盗殺人を被告が全面否認/大阪地裁」(読売新聞東京本社)</ref>、罪状認否で被告人Nは強盗殺人罪4件を全面的に否認した{{Refnest|group="注"|A事件では「事件当日は別の店にいた」、B事件では「現場には一度も行っていない」、C事件では「事件発生時は別の場所にいた」、D事件では「事件当日に現場へ行ったが、被害者Dを殺害した記憶はない」と述べた<ref name="認否">『朝日新聞』1992年7月24日大阪朝刊第一社会面31頁「状況証拠巡る攻防に 119号事件のN被告公判<解説> 【大阪】」(朝日新聞大阪本社) - 「起訴事実の概要と認否」が掲載されている。</ref>。またDの長男Eに対する強盗致傷事件では「被害者Eと揉み合いにはなったが瓶で殴ってはいない」と主張し、桂を襲撃した強盗殺人未遂罪についても殺意を否認した<ref name="認否"/>。}}<ref>『朝日新聞』1992年7月24日大阪朝刊第一社会面31頁「N被告、強殺4件を否認し争う姿勢 119号事件初公判 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。

状況証拠の積み重ねにより犯行を立証しようとした検察側は「被告人Nのジャンパー・ベルトに付着していた血液を[[DNA型鑑定]]{{Refnest|group="注"|name="DNA"|確定判決の根拠となったDNA型鑑定方法は[[足利事件]]([[懲役#無期懲役|無期懲役]]確定後に[[冤罪]]が判明し、[[再審]]無罪が確定)と同様の「MCT118型DNA鑑定」で、控訴審で被告人Nの弁護人を務めた弁護士・小田幸児は「信憑性に欠けるDNA型鑑定の結果を基に確定した不当判決だ。再審を開かないまま死刑囚Nの刑を執行したことは殺人と同じであり、到底許されない」と批判している{{Sfn|年報・死刑廃止|2017|pp=80-81}}。}}したところ、B事件の被害者と血液型が一致した」「犬の臭気を鑑別したところ、D事件現場からの押収物は被告人Nの体臭と同じ臭いが付いていた」などと主張し、それらの物的証拠について証人尋問も実施した<ref name="読売新聞1994-08-02"/>。一方で4事件いずれも凶器は発見されておらず、犯行時間も不特定など重要な点で決定的な証拠はなく<ref>『毎日新聞』1992年7月21日大阪朝刊第二社会面26頁「119号事件のN被告、強盗殺人事件の4件とも否認へ」(毎日新聞大阪本社)</ref>、被告人Nの[[弁護人]]は「被告人Nの自白がほとんどなく、個々の事件を被告人Nの犯行とする証拠がない」と一貫して[[無罪]]を主張した<ref name="読売新聞1994-08-02"/>。

1992年10月5日の第2回公判では検察官が請求した証拠品(計約800点)に関する認否が行われ<ref name="読売新聞1992-10-06">『読売新聞』1992年10月6日大阪朝刊第二社会面30頁「兵庫・姫路の指紋証拠採用 119号事件公判/大阪地裁」(読売新聞大阪本社)</ref>、被告人Nは検察官が提出した証拠品のうちA事件の際に被害者Aから奪われ、米子市内で旅館経営者に渡したとされる宝くじについて「見覚えがある」と供述した<ref>『毎日新聞』1992年10月6日大阪朝刊第一社会面23頁「姫路事件有力物証 宝くじ『見覚えある』 119号事件公判でN被告--大阪地裁」(毎日新聞大阪本社)</ref>。結局、弁護人はA事件の現場から採取された指紋2個(検察官が「犯行日に被告人Nが店を訪れた」と主張する証拠)にのみ証拠採用に同意した<ref name="読売新聞1992-10-06"/>。同月29日、大阪地裁の3裁判官と検察官・弁護人はA事件の現場とその周辺を現場検証した<ref>『朝日新聞』1992年10月30日大阪朝刊第一社会面31頁「姫路の現場を裁判官が検証 119号事件【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。

1992年12月21日の第4回公判では天王寺区の強盗殺人未遂事件で被害者となった桂が証人として出廷し「首を絞められ死ぬかと思った。今生きているのが不思議なくらいだ。被告人Nは殺意を否定しているが、厳重に罰してほしい」と証言した<ref name="読売新聞1992-12-22">『読売新聞』1992年12月22日大阪朝刊第二社会面24頁「スナックママ連続殺人 首絞められ、頭に万華鏡 桂花枝さんが証言/大阪地裁」(読売新聞大阪本社)</ref>。[[1993年]](平成5年)1月29日に[[京都地方裁判所]]で出張尋問が行われ、C事件の現場で働いていた女性従業員が犯行前後の店内の状況、凶器と推定された店のナイフなどについて証言した<ref>『朝日新聞』1993年1月30日大阪朝刊京都版地方面「地裁で出張尋問 広域重要指定119号事件 /京都」(朝日新聞大阪本社・京都総局)</ref>。

[[1994年]](平成6年)7月28日の第21回公判で、弁護人はそれまで意見を留保していた供述調書などのうち、約180点(NがD事件で被害者Dの殺害を認めた調書、A事件を認めた自供書など)について証拠採用に同意したが{{Refnest|group="注"|ただし証拠採用に同意した分については「警察官から支持されて欠かされた可能性があり、証拠価値は低い」と主張した<ref name="読売新聞1994-08-02"/>。}}、残り12点(Nが逮捕直後に全事件を認めたとされる自供調書2通など)に関しては「精神的・身体的に疲労・混乱した状態で、弁護士選任以前に作成され任意性がない」として不同意とした<ref name="読売新聞1994-08-02">『読売新聞』1994年8月2日大阪朝刊第一社会面27頁「ママさん連続殺人 『自供書』を証拠採用 N被告弁護側、全面無罪を主張」(読売新聞大阪本社)</ref>。

[[1995年]](平成7年)3月19日に大阪地裁(松本芳希裁判長)で[[論告]][[求刑]]公判が開かれ、検察官は被告人Nに[[日本における死刑|死刑]]を求刑した<ref>『朝日新聞』1995年3月10日朝刊第一社会面35頁「被告に死刑求刑 兵庫、島根、京都の強盗殺人事件 大阪地裁」(朝日新聞社)</ref>。同年5月29日に開かれた公判で結審し{{Refnest|group="注"|最終弁論時の大阪地裁の裁判長は『[[読売新聞]]』では「松本芳希裁判長」<ref name="読売新聞1995-05-29"/>、『[[毎日新聞]]』では(谷口敬一裁判長)となっている<ref name="毎日新聞1995-05-29"/>。}}、弁護人は最終弁論でA事件については言及しなかった一方、B・C・Dの強盗殺人3件については「検察官が示した数々の物証は事件と被告人Nを関連付ける証拠としては不十分」と訴え全面的に否認したほか、桂への強盗殺人未遂罪についても殺意を否認し<ref name="毎日新聞1995-05-29">『[[毎日新聞]]』1995年5月29日大阪夕刊第二社会面「警察庁広域重要指定『119号事件』の最終弁論でN被告側が強盗殺人を否認」([[毎日新聞大阪本社]])</ref>、「動機は未解明」と無罪を主張した<ref name="読売新聞1995-05-29">『読売新聞』1995年5月29日大阪夕刊第一社会面13頁「スナック女性4人殺害事件が結審 検察、死刑を求刑 被告は無罪主張/大阪地裁」(読売新聞大阪本社)</ref>。

1995年9月11日に判決公判が開かれ、大阪地裁(松本芳希裁判長)は検察官の求刑通り被告人Nに死刑[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref name="読売新聞1995-09-12">『読売新聞』1995年9月12日東京朝刊第一社会面31頁「女性4人連続殺人のN被告に死刑判決/大阪地裁」(読売新聞東京本社)</ref>。同地裁はA事件について「『殺害後に金品奪取の意図が生じた』との疑念が残る」として強盗殺人罪の成立を認めず殺人罪・窃盗罪を適用したが、逮捕直後に4件の殺人について犯行を概括的に認めたとされる被告人Nの供述について信用性を認めたほか、DNA型鑑定結果や「A事件現場に被告人Nの指紋が遺留されている点」「B事件以降の現場にあった靴跡は同一で、被告人Nの履いていた靴と認められる点」等状況証拠を総合的に判断し「すべて被告人Nの連続犯行」と事実認定し「犯行は残虐・非道で同情の余地はなく、矯正・教育の効果も期待できない」と結論付けた<ref name="読売新聞1995-09-12"/>。被告人Nおよび弁護人は[[大阪高等裁判所]]へ即日[[控訴]]した<ref name="読売新聞1995-09-12"/>。

=== 上訴審 ===
[[1998年]](平成10年)1月21日に[[大阪高等裁判所]](角谷三千夫裁判長)で控訴審初公判が開かれたが、被告人NはA事件(殺人・窃盗事件){{Refnest|group="注"|第一審判決で指紋、被告人Nが奪ったとされる宝くじ・商品券など比較的多くの物証が認定されていた<ref>『読売新聞』1998年1月21日大阪朝刊第一社会面31頁「広域119号事件の控訴審初公判 N被告が『姫路事件』認める方針/大阪高裁」(読売新聞大阪本社)</ref>。}}について第一審における全面否認から一転して「自分がやった。間違いない」と犯行を認めた一方、「犯行直前の飲酒で事件当時はかなり酔っていた。[[責任能力]]はない」と無罪を主張した<ref name="読売新聞1998-01-21">『読売新聞』1998年1月21日大阪夕刊第一社会面15頁「119号姫路強盗殺人事件控訴審初公判 N被告が無罪を主張/大阪高裁」(読売新聞大阪本社)</ref>。また、B・C・Dの強盗殺人3件と桂への強盗殺人未遂事件に関しては第一審と同様に「現場にいなかった」「殺意はなかった」などとして無罪を主張した<ref name="読売新聞1998-01-21"/>。また同日、弁護人は「A事件の犯行当時、被告人Nは心神喪失か心神耗弱状態だった」として責任能力を否定する旨を初めて主張し、被告人Nの[[精神鑑定]]を請求した<ref>『毎日新聞』1998年1月21日大阪夕刊第二社会面10頁「女性経営者連続殺害 姫路事件、犯行認める 弁護側は責任能力否定--N被告」(毎日新聞大阪本社)</ref>。

控訴審は[[2000年]](平成12年)12月15日の第15回公判(裁判長:河上元康)で結審し、被告人Nの弁護人は最終弁論で改めて無罪を主張した<ref>『朝日新聞』2000年12月15日大阪夕刊第一社会面19頁「119号事件の控訴審が結審、判決は来年6月 大阪高裁【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。[[2001年]](平成13年)6月20日に控訴審判決公判が開かれ、大阪高裁(河上元康裁判長)は第一審・死刑判決を支持して被告人N(当時はK姓)の控訴を[[棄却]]する判決を言い渡した<ref name="朝日新聞2001-06-20">『朝日新聞』2001年6月20日大阪夕刊第一社会面19頁「4女性殺害、死刑支持 119号事件の控訴棄却 大阪高裁【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref><ref>『読売新聞』2001年6月20日大阪夕刊第一社会面15頁「スナック女性経営者4人殺害事件 K被告、二審も死刑/大阪高裁判決」(読売新聞大阪本社)</ref>。被告人Nは控訴審判決を不服として同日付で[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ[[上告]]した<ref>『毎日新聞』2001年6月22日大阪朝刊社会面29頁「警察庁広域指定119号事件 K被告が上告」(毎日新聞大阪本社)</ref>。被告人Nは2004年時点で9年間ほど収監先・[[大阪拘置所]]内にてデイビッド・T. ジョンソン{{Refnest|group="注"|1960年生まれ([[アメリカ合衆国]]・[[ミネソタ州]]出身)、[[ベテル神学校|ベセル・カレッジ]]卒業および[[シカゴ大学]]大学院で社会学修士号を取得{{Sfn|年報・死刑廃止|2004|p=160}}。日本の司法制度や[[司法制度改革]]問題に精通し、[[フルブライト・プログラム|フルブライト研究員]]として1992年8月 - 1994年3月まで[[神戸大学]]で、2003年8月 - 2004年5月まで[[早稲田大学]]で研究生活を送っていた{{Sfn|年報・死刑廃止|2004|p=160}}。}}と交流しており、ジョンソン宛の手紙で殺害を認めている被害者1人への祈りや同階に収容されていた少年の社会復帰を願う心情などを綴ったほか「これまで死刑を宣告された本人にしかわからない恐怖を味わいながら過ごしてきた。大罪を犯した者とはいえ、同じ拘置所にいた人が(今までに十数人)執行されるのを目の当たりにする度に『死』について深く思い知らされている」と述べていた{{Sfn|年報・死刑廃止|2004|pp=170-171}}。

[[2005年]](平成17年)6月7日に最高裁第三小法廷([[濱田邦夫]]裁判長)で上告審[[口頭弁論]]公判が開かれ、被告人N(当時K姓)の弁護人は一連の事件のうち強盗殺人3件(B・C・Dの各事件)について「被告人は犯人ではない」と無罪を主張して死刑回避を求めた一方、検察官は死刑の維持を求めた<ref name="毎日新聞2005-04-13">『毎日新聞』2005年4月13日大阪朝刊第二社会面26頁「警察庁広域指定119号事件:K被告、3件の強殺で無罪を主張--最高裁弁論」(毎日新聞大阪本社 記者:木戸哲)</ref>。2005年6月7日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して被告人Nの上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人Nの死刑が確定した<ref name="朝日新聞2005-06-07">『朝日新聞』2005年6月7日大阪夕刊第一社会面11頁「4女性殺害、死刑確定へ 『殺意、確定的』N被告の上告棄却【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref><ref>『読売新聞』2005年6月7日大阪夕刊第一社会面13頁「スナック女性4経営者殺害 N被告、死刑確定へ 『安易に凶悪犯罪』/最高裁」(読売新聞大阪本社)</ref>。

== 死刑執行 ==
[[死刑囚]]Nは死刑執行まで計10回にわたり[[再審]]請求を行ったが、その理由は実質的にほとんど同じだった<ref name="読売新聞2017-07-14"/>。また、死刑確定者らを対象に実施されたアンケートに対しては以下のように回答していた。
* 2008年(平成20年)7月 - 8月にかけて「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」が実施したアンケート{{Sfn|フォーラム90|2009|p=13}} - 「検察側の証人はコロコロ話が変わり全く信用できないのに、裁判官は検察側の証人ばかり証言を採用し、弁護人の証人の主張は聞き入れない。その点に納得できないので(再審を請求して)戦っている」{{Sfn|フォーラム90|2009|p=54}}
* 2011年6月20日 - 8月31日に[[参議院議員]]・[[福島瑞穂]]が実施したアンケート{{Refnest|group="注"|2011年12月時点で新たな死刑確定者にも同様のアンケートを送付している{{Sfn|フォーラム90|2012|p=10}}。}}{{Sfn|フォーラム90|2012|pp=10-12}} - 「弁護人から『(有罪確定後に[[冤罪]]が判明して再審が開かれ、元被告人の[[無罪]]が確定した)[[足利事件]]における[[DNA型鑑定]]は自分の事件と同じ方法だった』<ref group="注" name="DNA"/>と伝えられたが、自分のDNA型鑑定で使用された証拠品は『再鑑定する力がない』という理由で既に廃棄処分にされた。つまり『DNA型を鑑定できないのにいい加減な鑑定をした』ということだ。臭気鑑定でも他の事件で却下された鑑定手段の犬が本件で採用されており、その点も納得がいかない。元より刑務所生活が長かった上に19年間の拘置所生活を送った結果、拘禁症状・孤独病などの症状が出ている。刑務官たちの行動も自分のストレスを増幅させ、そのために睡眠薬・精神安定剤を服用している。2009年および2010年9月には法務大臣に苦情を申し出たが、早く返事をしてほしい」{{Sfn|フォーラム90|2012|pp=64-65}}
* 2015年7月に福島が実施したアンケート{{Sfn|年報・死刑廃止|2015|pp=39-40}} - 「過去の事件で死刑・無期懲役に処された多くの人々に冤罪の可能性がある。他人事ではあるが(彼らの)無実が証明されてほしいと願うし、自分も無実を証明するために頑張って生きていきたい」{{Sfn|年報・死刑廃止|2015|pp=66-67}}
[[2017年]](平成29年)5月11日には再審請求の特別抗告が棄却されたことを受けて自力で再審請求を申し立て、裁判所からは死刑囚N宛に「2017年7月18日までに意見を提出するよう求める」と「求意見」が届いていた{{Sfn|年報・死刑廃止|2017|p=73}}。

[[法務省]]([[法務大臣]]:[[金田勝年]])が発した死刑執行命令により、死刑囚N({{没年齢|1956|1|14|2017|7|13}})は2017年7月13日に収監先・[[大阪拘置所]]にて死刑を執行された{{Refnest|group="注"|同日には[[広島拘置所]]でも死刑囚1人の刑が執行された<ref name="読売新聞2017-07-14"/>。}}<ref name="読売新聞2017-07-14">『読売新聞』2017年7月14日大阪朝刊第二社会面32頁「再審請求中 異例の執行 2人死刑 N死刑囚は請求10回」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="法務省">{{Cite press release|title=法務大臣臨時記者会見の概要 平成29年7月13日(木)|publisher=[[法務省]]|author=[[法務大臣]]:[[金田勝年]]|date=2017-07-13|url=http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00911.html|language=ja|accessdate=2020-05-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200503154224/http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00911.html|archivedate=2020-05-03}}</ref>。当時は再審請求中の死刑囚への刑執行は異例で、[[1999年]](平成11年)12月{{Refnest|group="注"|1999年12月17日には[[臼井日出男]]法務大臣が発した死刑執行命令により、当時第7次(7回目の)再審請求中だった[[長崎雨宿り殺人事件]](1977年発生)の死刑囚が収監先・[[福岡拘置所]]で死刑を執行されている<ref>『読売新聞』1999年12月17日東京夕刊1面「2人の死刑を執行 埼玉・長崎の強盗殺人 1人は再審請求中/法務省」(読売新聞東京本社)</ref>。}}以来だったが<ref>『朝日新聞』2017年7月13日夕刊第一総合面1頁「再審請求中に死刑執行 4人殺害の死刑囚 別事件の1人も執行」(朝日新聞社)</ref>、金田は同日の臨時記者会見で「再審請求中だからと言って必ずしも死刑を回避するわけではない。仮に再審請求している死刑囚でも、その請求は棄却されることが確実であると予想せざるを得ない場合は死刑執行もやむを得ない」と説明した<ref name="法務省"/>。

その後は2017年12月([[市川一家4人殺人事件]]の死刑囚ら2人)<ref>『読売新聞』2017年12月20日朝刊第14版第二社会面32面「元少年ら2人死刑執行 市川一家殺害と群馬3人殺害」(読売新聞東京本社)</ref>・2018年7月([[麻原彰晃]]以下、[[オウム真理教事件]]で死刑が確定した元[[オウム真理教|教団]]幹部13人)<ref name="オウム死刑囚">{{Cite news|title=【オウム死刑執行】「再審請求中は執行回避」傾向は変わるのか 13人中10人が請求 「引き延ばし」批判も(1/3ページ)|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2018-07-28|language=ja|url=https://www.sankei.com/affairs/news/180728/afr1807280025-n1.html|accessdate=2018-09-12|archivedate=2018-09-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180912111626/https://www.sankei.com/affairs/news/180728/afr1807280025-n1.html}}</ref>・2018年12月・2019年(令和元年)7月および<ref>{{Cite news|title=女性3人強盗殺人罪の死刑囚ら2人に死刑執行|newspaper=[[NHKニュース]]|date=2019-08-02|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190802/k10012018571000.html|accessdate=2019-08-02|publisher=[[日本放送協会]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190802154853/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190802/k10012018571000.html|archivedate=2019年8月2日}}</ref><ref>{{Cite news|title=大阪強殺、2人死刑執行 山下法相初 年15人、公表後最多並ぶ|newspaper=[[東京新聞]]|date=2018-12-27|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018122702000256.html|accessdate=2019-08-02|publisher=[[中日新聞社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190802154144/https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018122702000256.html|archivedate=2019年8月2日}}</ref>同年12月([[福岡一家4人殺害事件]]の死刑囚ら2人)と<ref>{{Cite news|title=1人の死刑執行、森法相初の命令|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/o/571465/|date=2019-12-26|newspaper=西日本新聞|publisher=西日本新聞社|agency=[[共同通信社]]|language=ja|accessdate=2019-12-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191228030728/https://www.nishinippon.co.jp/item/o/571465/|archivedate=2019年12月28日}}</ref>、再審請求中の死刑囚に対しても死刑が執行される事例が相次いでいる<ref name="オウム死刑囚"/>。

== 考察・分析 ==
幼くして母親を失い、少年時代から犯罪を繰り返していた加害者Nの生い立ちを踏まえ、矯正施設の在り方に疑問を呈する指摘・報道がなされた<ref name="背を向けた男3"/>。1984年に『[[読売新聞]]』鳥取支局([[読売新聞大阪本社|大阪本社]])記者としてNの強盗致傷事件を取材した寺田義則は事件後に「何のための服役だったのか?」と疑問を呈したほか<ref>『読売新聞』1992年1月8日大阪夕刊ズーム面3頁「[NEWSズームアップ]連続ママ殺し119号事件 愛に飢え爆発? あの童顔今はなく-何のための服役だったのか」(読売新聞大阪本社 記者:寺田義則)</ref>、同紙には以下のように識者などの意見・考察が掲載された。
* [[筑波大学]][[大学教授|教授]](社会精神医学)・[[小田晋]] - 「本事件は殺害行為自体に性的快楽を覚える[[快楽殺人]]ではないか?その証拠にNは事件現場に多くの指紋を残しているが、性的欲求・攻撃性により高まった興奮・衝動を抑えられなかったためだろう。被害者にNより年上の女性が多かった理由は、幼くして母親を亡くしたが故に母親の愛情を受けられなかったNが年上の女性に対する何らかのこだわりを有していたためかもしれない」<ref name="読売新聞1992-01-07 大阪夕刊">『読売新聞』1992年1月7日大阪夕刊第二社会面10頁「スナックママ連続殺人 N容疑者、母の死で人生狂う」(読売新聞大阪本社)</ref>
* 社会評論家・[[赤塚行雄]] - 「単純な金目当てなら中年のママが経営するスナック以外にも襲う場所はあったが、幼くして母親を失ったNは母性愛への渇きを癒そうとそのようなスナックを訪れて犯行に及んだのだろう。『幼少期の心の傷・恵まれない環境に根差した事件』という印象を受ける」<ref name="読売新聞1992-01-07 大阪夕刊"/>
* 作家・[[安部譲二]] - 「刑務所の中は『自由にできるのは呼吸と夢を見ることだけ』と言えるほど徹底的に自由を奪い、人格を認めない環境だ。そのような環境で順法精神が育つだろうか?自分も20歳の時に懲役7年の判決を受けた際、被告人席で『いっそ死刑にしてくれ』と叫んだくらいだ。Nも当時の自分と同じ気持ちだったかもしれない」<ref name="背を向けた男3"/>
また上告審弁論で弁護側は「被告人Nは成年してから本事件まで約16年のうち15年以上服役してきたが、矯正教育そのものが犯罪傾向を著しく高めてきた」と指摘した<ref name="朝日新聞2005-06-07"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}

=== 出典 ===
{{Reflist}}


==関連項目==
== 参考文献 ==
* {{Cite 判例検索システム|事件番号=平成13年(あ)第1401号|裁判年月日=2005年(平成17年)6月7日|法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第三小法廷|裁判形式=[[判決 (日本法)|判決]]|判例集=『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑) 第287号399頁|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=57826|事件名=強盗殺人未遂,殺人,窃盗,強盗殺人,強盗致傷被告事件|判示事項=死刑の量刑が維持された事例(スナック経営者連続殺人事件)|ref={{SfnRef|最高裁第三小法廷|2005}}}}
*[[再犯]]
** [[最高裁判所裁判官]]:[[濱田邦夫]](裁判長)・[[上田豊三]]・[[藤田宙靖]](裁判官:[[金谷利廣]]は退官のため署名押印できず)
*[[連続殺人]]
** 判決内容:[[被告人]]N・[[弁護人]](中道武美)の[[上告]][[棄却]](死刑判決支持・確定)
** 検察官:伊藤鉄男
* {{Cite book|和書|author=死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90|title=命の灯を消さないで 死刑囚からあなたへ 105人の死刑確定者へのアンケートに応えた魂の叫び|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/184|publisher=[[インパクト出版会]]|date=2009-04-10|edition=発行|editor=(編集委員:可知亮、国分葉子、中井厚、深田卓 / 協力=[[福島瑞穂|福島みずほ]]事務所)|page=54|isbn=978-4755401978|ref={{SfnRef|フォーラム90|2009}}}}
* {{Cite book|和書|author=死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90|title=死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/208|publisher=インパクト出版会|date=2012-05-23|edition=発行|editor=(編集委員:可知亮、国分葉子、高田章子、中井厚、深瀬暢子、[[安田好弘]]、深田卓 / 協力=福島みずほ事務所、死刑廃止のための大道寺幸子基金)|isbn=978-4755402241|ref={{SfnRef|フォーラム90|2012}}}}
* 『年報・死刑廃止』シリーズ(インパクト出版会)
** {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=死刑と情報公開 年報・死刑廃止1999|chapter=|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/84|publisher=インパクト出版会|date=1999-11-10|edition=第1刷発行|editor=(編集委員:阿部圭太・岩井信・江頭純二・菊池さよ子・[[菊田幸一]]・島谷直子・高田章子・対馬滋・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:国分葉子・フォーラム90実行委員会)|pages=242-243|isbn=978-4755400957|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|1999}}}}
** {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=終身刑を考える 年報・死刑廃止2000-2001|chapter=|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/97|publisher=インパクト出版会|date=2001-03-15|edition=第1刷発行|editor=(編集委員:阿部圭太・岩井信・江頭純二・菊池さよ子・菊田幸一・島谷直子・高田章子・対馬滋・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:フォーラム90実行委員会)|pagea=226-227|isbn=978-4755401046|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2001}}}}
** {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=無実の死刑囚たち 年報・死刑廃止2004|chapter=特集2 司法改革と死刑制度 私たちは裁判員として「死刑」の重みを負担できるのか?デイヴィッド・ジョンソンさんに聞く(佐藤万作子)|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/134|publisher=インパクト出版会|date=2004-09-20|edition=第1刷発行|editor=(編集委員:岩井信・江頭純二・菊池さよ子・菊田幸一・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:フォーラム90実行委員会・国分葉子)|page=|isbn=978-4755401442|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2004}}}}
** {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=オウム事件10年 年報・死刑廃止2005|chapter=|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/145|publisher=インパクト出版会|date=2005-10-08|edition=第1刷発行|editor=(編集委員:岩井信・江頭純二・菊池さよ子・菊田幸一・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:フォーラム90実行委員会・国分葉子)|pages=198, 204|isbn=978-4755401572|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2005}}}}
** {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=光市裁判 年報・死刑廃止2006|chapter=|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/158|publisher=インパクト出版会|date=2006-10-07|edition=第1刷発行|editor=(編集委員:岩井信・江頭純二・菊池さよ子・菊田幸一・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:フォーラム90実行委員会・死刑廃止のための大道寺幸子基金運営会・国分葉子)|pages=280, 287|isbn=978-4755401695|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2006}}}}
** {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=死刑囚監房から 年報・死刑廃止2015|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/246|publisher=インパクト出版会|date=2015-10-10|edition=初版第1刷発行|isbn=978-4755402616|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2015}}}}
** {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=ポピュリズムと死刑 年報・死刑廃止2017|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/266|publisher=インパクト出版会|date=2017-10-15|edition=初版第1刷発行|editor=(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90・死刑廃止のための大道寺幸子基金・深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜)|page=|isbn=978-4755402807|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2017}}}}
** {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|title=オウム大虐殺 13人執行の残したもの 年報・死刑廃止2019|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/286|publisher=インパクト出版会|date=2019-10-25|edition=初版第1刷発行|editor=(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90・死刑廃止のための大道寺幸子基金・深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜)|page=259|isbn=978-4755402982|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2019}}}}


== 関連項目 ==
* [[再犯]]
* [[連続殺人]]
* [[大阪姉妹殺害事件]] - 本事件と同じく、同事件の加害者も少年時代に殺人([[山口母親殺害事件]])を犯し少年院に送致された前歴があり、退院後に同事件を犯し死刑が確定した。
* [[マブチモーター社長宅殺人放火事件]] - 同事件の加害者のうち1人は強盗事件([[練馬三億円事件]])を起こして懲役12年に処されたほか、もう1人も殺人の前科がある。
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2020年6月13日 (土) 15:09時点における版

スナックママ連続殺人事件
正式名称 警察庁広域重要指定119号事件[1]
場所

日本の旗 日本

標的 女性が1人で経営する繁華街のスナック[5]
日付 1991年平成3年)12月12日(A事件:最初の殺人) - 12月28日(D事件:最後の殺人) (UTC+9日本標準時〉)
概要 加害者の男Nが兵庫県・島根県・京都府でスナックの女性経営者(スナックママ)4人を相次いで殺害した[6]。Nは少年時代にもスナック経営者を殺害して懲役刑に処された前科があり[7]、連続殺人事件後にも桂花枝に対する強盗殺人未遂事件を起こした[8]
攻撃側人数 1人
武器 鋭利な刃物[9](凶器は未発見)[10]
死亡者 4人
負傷者 2人(4件目の被害者女性Dの長男E+桂花枝)
損害 被害者の現金(5,000円 - 20万円)など[11]
犯人 男N(事件当時35歳 / 殺人前科あり)
容疑 殺人窃盗強盗殺人・強盗致傷・強盗殺人未遂
対処 大阪府警が被疑者Nを逮捕・大阪地検が起訴
刑事訴訟 大阪地方裁判所死刑判決[12]控訴上告棄却により確定 / 執行済み[13]
管轄
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スナックママ連続殺人事件(スナックママれんぞくさつじんじけん)とは、1991年平成3年)12月に兵庫県島根県京都府で発生した連続殺人事件。少年時代に殺人を犯し懲役刑に処された前科のある男N(事件当時35歳)がスナック経営者の女性4人を相次いで殺害し、被害者の金品を奪った。

加害者の男Nは連続殺人4件(強盗殺人事件3件・殺人および窃盗事件1件)を起こした後、翌1992年(平成4年)1月に逃亡先の大阪府大阪市天王寺区内で逮捕されたが、その直前には強盗殺人未遂1件(被害者は女性落語家桂花枝)を起こした[8]。逮捕前から一連の連続殺人4件は警察庁により「警察庁広域重要指定119号事件」に指定され[1]、逃走中の強盗殺人未遂事件も広域事件として追加指定されている[15]

元死刑囚N

加害者N・M
生誕 (1956-01-14) 1956年1月14日[16]
日本の旗 日本鳥取県鳥取市西品治[17]
死没 (2017-07-13) 2017年7月13日(61歳没)
日本の旗 日本大阪府大阪市都島区友渕町大阪拘置所[13]
別名 K・M(一時期「K」姓を名乗る)[10][18]
罪名 強盗殺人未遂・殺人・窃盗・強盗殺人・強盗致傷[19]
刑罰 絞首刑
動機 金銭目的
有罪判決 1995年9月11日・死刑判決大阪地方裁判所[12]
殺人
犯行期間
1991年12月12日–1992年1月5日(119号事件)
標的 スナック経営者など
死者 5人(1974年の殺人被害者1人+119号事件の被害者4人)
負傷者 2人(119号事件の被害者)
凶器 鋭利な刃物(119号事件の凶器はいずれも未発見)
逮捕日
1992年1月7日(大阪市天王寺区内)
テンプレートを表示

加害者N・Mは1956年(昭和31年)1月14日[16]鳥取県鳥取市西品治[注 1]生まれで[17]、4女1男(姉4人)[注 2]の末っ子[22]。獄中では一時期「K」姓を名乗っていた[注 3]

Nの父親は日雇いの[21]土木作業員で[注 4][20]、冬になると山陰地方から出稼ぎに行くため、Nは母や姉たちとともに生活していたが、貧困から食事を満足に摂れず、自身も小中学校にほとんど通えないような家庭で生育した[注 5][31]。また父親は母親に対しドメスティックバイオレンスを行うことがあったほか、母親も非常にしつけが厳しく、姉たちを殴ることがよくあった[32]。母親は糖尿病を罹患して入退院を繰り返していたが満足な治療を受けられず、Nが9歳の時[注 6]に死亡した[34]

中学生時代には窃盗事件などを起こし[注 7]、1970年(昭和45年)5月には鳥取県米子市内の養護施設に収容された[31]。同施設を出た際には既に父親が家を売り払っており[21]、Nは鳥取県内など[注 8]の職場を転々としていたが[注 9]、1971年(昭和46年)10月ごろから数回にわたり窃盗事件を起こし、中等少年院に送致された[31]。1973年(昭和48年)10月に少年院を仮退院して以降は一時親類の仕事を手伝っていたが長続きせず、昼間からパチンコ店に出入りするような生活を送った[31]。この時に暴力団組員と知り合い、風呂場の脱衣場荒らしなどで金を盗み、パチンコ・映画などで遣い果たすような生活を続けた[20]

1974年(昭和49年)7月6日0時30分ごろ、N(当時18歳)は鳥取市永楽温泉町で女性経営者(当時26歳)に乱暴しようとして騒がれたため、店内にあった包丁で女性の首を切りつけて殺害し[注 10]、売上金22,000円入りの財布を盗んで逃げたが[17]、6時間後に友人に付き添われて鳥取警察署鳥取県警察)に出頭し逮捕された[7]。同事件で被告人・少年Nは殺人・強姦未遂[35]窃盗有印私文書偽造および同行使詐欺[注 11]の罪に問われ[36]、1975年2月25日に鳥取地裁(大下倉保四朗裁判官)で懲役5年以上10年以下の不定期刑(求刑:同)[注 12]の判決を受けた[注 13][37]

Nは1984年6月19日に松江刑務所を仮出所したが[17]、それ以来119号事件で逮捕されるまで刑事施設の外で暮らした日数はわずか158日だった[21]。出所から2か月ほどは島根県松江市内のパチンコ店[注 14]で働いたが、その後鳥取市内に戻って旅館・駅待合室を泊まり歩いた[17]。そして金に困ったNは同年9月10日夜、宿泊先の旅館(鳥取市永楽温泉町)で経営者の妹(当時58歳)に果物ナイフを突きつけ、現金を奪おうとする事件を起こし、翌日に逮捕された[17]。被告人Nは強盗致傷罪で1985年1月に懲役7年の判決を受け、刑期を終えた[17]1991年10月25日に鳥取刑務所を出所したが[注 15]、その約2か月後に連続殺人事件を起こした[42]

事件の経緯

事件前の動向

Nは鳥取刑務所を出所後に服役中知り合った暴力団組員を頼り[43]、2日後(1991年10月27日)には岡山県倉敷市の暴力団事務所へ身を寄せ[44]、電話番などをして過ごした[43]。Nは組事務所で41日間過ごしたが、その間の11月20日には倉敷市内のスナックで女性経営者を襲い、何も取らずに逃走した[注 16][44]。さらに12月6日、Nは親しくなった組員宅を訪問してその妻と話をしていたが、組員夫妻の3歳の子供を突然抱きかかえ、持っていた刃物を突き付けて「金を出してくれ」と妻を脅した[43]。結局は子供の母親(組員の妻)からなだめられ[22]、何も取らずに逃走したが、この事件が組長に分かり、それ以降Nは組から追われる身となった[注 17][44]

12月10日ごろには岡山県和気郡和気町の知人[注 18][44]に身を寄せたが、その家から[22]現金105,000円を盗んで[44]姿を消し[22]、同日 - 12日ごろまでは姫路市内のホテルに宿泊していた[44]

連続殺人

一連の犯行はいずれもスナックの客を装い、ママと2人きりになった密室状態の店内でママを襲うもので、B事件(松江事件)以外はいずれも夜の犯行だった[46]。Nによる殺人現場となったスナック4店舗はいずれも発見時、店のネオンが消えていたほか、うち3店はNが犯行後に休店を装う目的で外から施錠した上で逃走していた[47]。そのため客からは「休店が続いている」と思われ、姫路の事件(A事件)は発生から13日、松江の事件(B事件)も3日間発見が遅れることとなった[47]

またNは一連の連続殺人の途中、被害に遭った店以外にも京都府京都市内などで複数のスナックに来店していたが、下京区西木屋町の和風スナックを初めて訪問した際には客が自分1人になるとママに対し「これから友達5,6人で貸し切りにしたい。他の客には来てほしくないのでネオンを消し、ドアも施錠してほしい」と頼んだが断られていた[注 19][47]

このほか、Nは犯行時には黒いジャンパーを着用していた一方、下見・逃走時には白・青など明るい色のジャンパーに着替えていた[48]。また、Nは投宿先で刑務所仲間などの姓名から取った多数の偽名を使用していた[49]

姫路事件(A事件)

Nは1991年12月11日(A事件の前日)16時ごろ、西日本旅客鉄道(JR西日本)姫路駅兵庫県姫路市)付近のレンタカー会社営業所に立ち寄って道を尋ねたが、突然カウンターに身を乗り出して女性事務員を「俺は恐ろしい人間だ」と脅迫し、もう1人の女性事務員が110番通報しようとすると慌てて逃亡した[50]

加害者Nは1991年12月12日夜[42]、兵庫県姫路市坂元町26番地のスナック「くみ」にて同店経営者女性A(当時45歳)の首を手で絞めて殺害し(死因:窒息死 / A事件[3]、現金6,000円などを盗んだ[注 20][11]。事件直後(当日夜 - 翌日未明)にはJR山陰本線・城崎駅(現:城崎温泉駅)付近の線路脇[注 21][52]被害者Aのクレジットカードなど[注 22]が入ったポーチが発見され[53]、後にポーチからはNの指紋が検出された[注 23][52]

被害者Aの遺体は12月25日20時20分ごろに発見され、左首・腹には数か所の刺し傷があった[3]兵庫県警察の捜査本部(姫路警察署)は当初「客として立ち寄った男が飲酒した後で犯行に及んだ可能性が高い」として被害者Aの交友関係を中心に聞き込み捜査をしたが、有力な情報は浮上しなかった[54]

A事件直後の同日午後、Nは鳥取県米子市内の旅館に偽名で宿泊したが、その際に旅館の女性経営者へ(被害者Aが12月6日に購入した)袋入りの年末ジャンボ宝くじ[注 24]20枚を渡した[51]。2日後の1991年12月14日夕方[44]、旅館に投宿していたNは12月12日に同市内で発生した(Nの事件とは別の)強盗事件に関して米子警察署員から職務質問を受けたが、この時にはA事件前に最後にスナック「くみ」を訪れた客の名前を名乗っていた[注 25][55]

松江事件(B事件)

12月20日、Nは山陰本線・松江駅島根県松江市)のコインロッカーに紫色のジャンパー[48]などを預け[44]、明るい青地に黄色い線の入ったジャンパーを着用した[48]。同日夜には松江市内の(Bの店「鍵」とは別の)スナックを訪れていたが[注 26]、この時にはママに対し「他の客の下手なカラオケを聞きたくないから自分1人で店を貸し切りたい」と要求し、「強盗では」と思った経営者から断られても約30分間にわたり執拗に迫ったが[50]、同日はNとは別に常連客がいたため、経営者は事なきを得た[44]。また同日、鳥取市内で前述の暴力団組員十数人(車3台に分乗)がNを「泥棒」と叫びながら追いかけている姿が目撃されていたが、Nは銭湯の庭に2時間余り隠れて組員たちから逃れた[22]

1991年12月21日12時 - 13時ごろ[注 27][57]、Nは松江市寺町204番地のスナック「鍵」にて同店経営者女性B(当時55歳)の首を手で絞めて殺害し(死因:窒息死 / B事件[3]、現金約20万円を奪った[11]。B事件直後の13時ごろ、Nは松江駅前からタクシーに乗車して松江市を離れ[57]、同日15時ごろには鳥取県米子市内でポーチを購入したほか、17時ごろには同県倉吉市内のスナックを訪れ[注 28][46]、店の女性経営者に被害者Bの血液が多量に付着したジャンパーが入った袋を預けた[58]。同日3時30分ごろ、Nは女性経営者の車で京都府京都市へ向かったが、その後は店に1回電話をしたきりで戻らなかった[44]

Bの遺体は12月24日13時30分になってBの家族により発見され[59]、遺体の胸には3か所の刺し傷があった[3]。一方でNは12月24日夜に後述のC事件現場となった「まき」の上階(「たかせ会館」2階)にあるスナックを初めて訪れていた[60]

京都事件(C事件・D事件)

C事件現場:スナック「まき」 - 京都市中京区高瀬川筋四条上る紙屋町367[61]。雑居ビル[60]「たかせ会館」1階[62]

Nは1991年12月26日未明、「まき」にて同店経営者女性C(当時55歳)の左首を刃物で刺して殺害し(死因:失血死 / C事件[3]、現金5,000円を奪った[11]。遺体は12月27日13時に発見され、左首2か所・左胸1か所に傷があったほか、首を絞められた痕も確認され[3]京都府警察捜査一課は殺人事件と断定して五条警察署(現:下京警察署)に捜査本部を設置していた[62]。同日(27日)夜、Nは「まき」周辺で捜査員が聞き込みをしている中で「まき」の上階にある先述のスナックを訪れ、C事件を話題にしながら閉店時(28日2時)まで店にいたが、飲食代30,000円を請求されると「後で銀行に振り込む」と言い、売上金をもって帰宅する経営者がタクシーに乗車しようとすると「一緒に乗せてくれ」と強引に乗り込んだ[60]。そしてタクシーが付近のホテル(八坂神社近く)前で「親父がこのホテルに泊まっている。金を払う」と下車したが、経営者は「銀行振り込みでいい」と誘いに乗らず、Nだけが下車した[60]

Nは1991年12月28日朝[3]、C事件現場から200メートル離れた京都市中京区河原町通三条下る二丁目東入「京都観光ビル」地下1階のスナック「なかま」[61]にて同店経営者女性D(当時51歳)の心臓を刃物[注 29]で一突きにして殺害し(死因:失血死 / D事件[3]、現金1万数千円を奪った[11]。その直後(6時40分ごろ)、NはDが血だらけで倒れた店内にてレジのそばで金を物色していたところをDの長男E(事件当時25歳)に発見されたが、Eの顔をビール瓶で殴って軽傷を負わせた上で逃走し[4]、同日から大阪・天王寺の旅館に2泊した[44]。Dは同日8時ごろに搬送先の病院で死亡し[4]、遺体の首には強く抑えた痕が確認された[3]。同事件についても京都府警捜査一課は強盗殺人事件として五条署に捜査本部を設置して捜査したが、C事件と現場がほとんど離れていなかったことから2事件の関連性が指摘された[64]

D事件翌日(兵庫県警に逮捕状を請求された日)の12月29日[5]、Nは(26日夜に訪れた)C事件現場の上階のスナックに「借金を払う」と電話して店主と天王寺で落ち合い、代金20,000円のうち5,000円を払ったが、翌日に特別手配されることとなった[44]

指名手配

B事件以降の3件の現場では月星製運動靴の足跡が発見されたほか、A事件・D事件の各現場には指紋が残されており[注 30][3]、それら2つの指紋は同年10月に鳥取刑務所を出所した加害者Nのものと一致した[1]。これに加えて「A・B事件の被害者女性はC事件と同様に、手で首を絞められてから鋭利な刃物で首・胸を刺されていること」「4事件とも被害者女性は繁華街にて1人で小さな店を経営していたこと」などから4事件の共通点が見いだされた[5]

その一方で、岡山県警察は12月10日ごろに和気町(Nの刑務所仲間宅)で発生した窃盗事件を調べていたが、この事件に関してもNが浮上したため、12月下旬には関係の県警で合同捜査会議を開催した[65]。結局、まずは容疑の濃い窃盗事件で逮捕状を取り、強盗殺人事件の重要参考人として行方を追うことを決めた[65]

その後、兵庫県警捜査本部は12月29日に男NをA事件の犯人と断定して殺人容疑で逮捕状を請求し[5]、同日には京都・兵庫・島根の3府県警が「4件はいずれも同一犯の可能性がある」として共同捜査に乗り出す方針を決めた[注 31][66]。そして翌30日には京都府警もD事件の強盗殺人容疑で被疑者Nの逮捕状を取ったほか[67]、警察庁が本事件をNによる連続殺人事件と断定して本事件を広域指定し、被疑者Nを全国に特別指名手配した[1]。翌31日、京都府警も強盗殺人などの容疑で被疑者Nを指名手配した[68]

一方でNは逃亡先としてかつて鳥取刑務所に服役していた和歌山県在住の刑務所仲間宅に転がり込もうとしていたため[69]、それまでの一時的な潜伏先として和歌山方面(JR阪和線)の電車の始発駅となっているJR天王寺駅に近い天王寺界隈を選び[注 32][70]、指名手配された12月30日には天王寺でパチンコをしてから[注 33][72]大阪府大阪市天王寺区堀越町11番地の簡易旅館[注 34][73]に偽名で宿泊したほか[72]、後述の桂花枝殺害未遂事件の現場となったアパートを訪れて大家に入居希望を伝えた[44]。しかし事件が広域重要指定されたことから簡易旅館を出て天王寺区周辺で野宿を始め[74]、翌日(12月31日)には前述のアパートを再び訪れて「今度、隣に引っ越します」と桂に挨拶した[44]。その一方でNは当時無一文に近く[53]、アパートに押し入り強盗して金を貯め、ほとぼりが冷めてから和歌山方面へ向かおうとしていた[注 35][74]

12月31日14時ごろ、Nは天王寺区大道一丁目のマンションの一室に侵入して40,000円入りの財布を盗んだ[53]。当時は住人が不在だったため空き巣になったが、仮に住人がいれば凶悪事件に発展していた可能性が指摘された[53]

1992年(平成4年)1月1日 - 5日までNはアパート周辺に潜伏しつつ[注 36]、一人暮らしの高齢者と長時間過ごして正月を迎えていた[注 37][44]。また桂のアパートへ押し入る前日(1992年1月4日)、Nは大阪市浪速区恵美須東二丁目の靴店でスニーカーを購入し、犯行当時から履いていたスニーカーを同店横のゴミ箱に捨てていた[注 38][47]

桂花枝殺害未遂事件

1992年1月5日10時45分ごろ、逃亡中のNは[注 39]大阪市天王寺区堀越町のアパートに侵入し、当時このアパートに住んでいた女性落語家桂花枝(当時27歳・本名:入谷ゆか / 現:桂あやめ)の部屋を訪れ「隣に入居することになった者だ。少し電話を貸してほしい」と声を掛けた[8]。桂が玄関まで電話機を持ってきたところ、Nはいきなり桂の首を絞めて失神させた[注 40][15]。桂はしばらくして意識を取り戻したが、室内を物色していたNに[15]再び首を絞められ「殺さないで」と抵抗した[77]。Nは桂に「金はあるのか?」と脅して金のありかを訊き出し[注 41]現金140,000円を奪い逃走した[15]

逃走する際、Nは桂に対し「俺は京都で2人を殺して島根から逃げてきた[注 42]。新聞に毎日載っている男だ」と話した一方[15]、現金を得ると煙草に火をつけて座り込み、桂に対し「すまんことをした。もう何日も食べてなくて自暴自棄になった。これ以上罪は重ねない」と話した[77]

桂はNと揉み合った際に全治約10日の怪我を負ったほか、首を絞められたことで一時意識を失ったが[注 43]、意識を回復した14時20分ごろに天王寺警察署大阪府警察)へ110番通報した[8]。これを受け、大阪府警捜査一課は強盗殺人未遂事件として天王寺署に捜査本部を設置し、現場に残された指紋からNの犯行と断定した[注 44][8]

同日は全国で一斉に旅館・ホテルなどへの聞き込み捜査が行われており[81]、「Nが近辺に潜伏している」という情報を把握していた大阪府警に加えて京都府警・兵庫県警もそれぞれ現場周辺で厳戒態勢を取り、張り込み捜査を続けていた[73]

逮捕

桂を襲撃した翌日(1992年1月6日)の19時ごろ、Nは大阪市天王寺区大道二丁目のマンション[注 45]5階の部屋を訪れ[注 46]、住人の会社員女性X(当時31歳)に対し「(同じマンションの近くの部屋に住んでいる)母と義父の仲が険悪なので、しばらくいさせてほしい」と持ち掛け、これを信用したXはNを部屋に入れた[42]。Nは逮捕まで16時間近くX宅で過ごし[84]、Xと2人暮らししていた長男Y(当時7歳・大阪市立聖和小学校1年生)と2人でテレビを観たり[注 47]、Xが注文した丼物を食べるなどしていたが[42]、NはXから何度も帰るように諭されても腰を上げようとせず[85]、やがてXはNをいぶかしく思うようになった[42]

Yが寝入った翌日(1992年1月7日)1時過ぎ、Nは台所に水を汲みに行こうとしたXの首を突然両手で絞めた[注 48][9]。しかしXが臆せずに「何をするの!」と大声を上げ[42]、叫び声に反応して目覚めたYが泣き叫んだためにいったん手を放した[9]。しばらくしてNは再びXの首を(1回目より強く)[注 49]絞めたが、この時も長男の泣き声で思い留まった[9]。NはXの首から手を放して自らの名を名乗り[85]、「つまらないことをした。悪かった」と謝罪した上で[42]身の上話をし、何度も「人を殺してきた。もう自殺するしかない」と言っていたが[85]、Xから「自分が警察に付き合うから自首しなさい」と繰り返し説得された[注 50]ことで朝になって「自首する」と言った[注 51]

10時40分ごろ、XはYを近くの学童保育所に連れて行くためNと一緒に家を出たが[42]、Nは母子とは同行せず、約1時間後に逮捕されるまでマンション5階廊下に残っていた[注 52][85]。その後、付近の天王寺大江学童保育所へYを送っていったXは同所指導員に対し「殺人犯のNが家に来ている」と訴え、指導員は近くの派出所[注 53]へこのことを知らせた[注 54][85]。警察官がXの居宅マンションへ駆けつけたところ[85]、5階廊下に居残っていたNを発見して「Nだな」と声を掛けた[42]。Nは抵抗せず[42]、11時46分に逮捕された[注 55][44]。なおこの居座り事件について大阪地方検察庁は被害者Xが処罰を望まなかったことなどから立件を見送った[88]

逮捕後、被疑者Nは逮捕に至った心情について「桂やXは自分の生い立ちを真剣に聞いて同情もしてくれた。熱心に自首するよう勧められ『捜査も厳しいし、もう捕まってもどうなってもいい』と思った」などと供述した[80]。また逮捕直後は殺人4件についていずれも犯行を認め、動機を「金が欲しくてやった。金を奪うためには女1人のスナックを狙い、ママを殺してでも奪うことしか思い浮かばなかった」と自供したが[89]、その後は態度を硬化させ、大阪の事件以外は触れることを避けるようになっていった[57]

起訴

1992年1月28日、大阪地方検察庁は桂に対する強盗殺人未遂罪で被疑者Nを大阪地方裁判所起訴した[88]。その後、被告人Nは以下のように各県警・地検により再逮捕・起訴された(以下、特記なき場合逮捕容疑・起訴罪状は強盗殺人容疑である)。

事件名 逮捕日 管轄警察 起訴日 管轄検察庁 備考
A事件 1992年1月28日[90] 兵庫県警(姫路署)[88] 1992年2月19日[91] 神戸地検姫路支部[92] 逮捕当日に天王寺署(拘置先)から姫路署へ移送[88]。1992年1月31日に送検[92]
D事件 1992年2月20日[93] 京都府警(五条署)[93] 1992年4月3日[94] 京都地検[94] Dへの強盗殺人+長男Eへの強盗致傷容疑[63]。逮捕時にNが着ていた黒いジャンパーから被害者Dと同じ血液型が検出された[48]
逮捕当時は後者の容疑を否認したが、後の4件の殺人で初めて被害者殺害を認めた[63]
1992年2月21日に送検されたが[95]、NはD殺害の事実を認めたものの動機を黙秘し、凶器とされる包丁も発見されなかったため、京都地検は1992年2月12日付で処分保留とし[注 56][63]、C事件と一括で起訴[94]
C事件 1992年3月12日[63] 京都府警(五条署)[63] 足跡など現場の証拠が少なかったため、4事件で最も立証・逮捕状発行に時間を要した[57]
1992年3月14日に送検[98]。先んじて送検されていたが処分保留になっていたD事件と一括で起訴された[99]
B事件 1992年4月6日[100] 島根県警(松江署)[101] 1992年4月28日[102] 松江地検[102] 1992年1月14日に逮捕状発行[103]・1992年4月8日に送検[101]。事件前後に加害者Nが着用していたとされるジャンパーを鑑定したところ、付着した血液は被害者Bの血液とDNA型が一致した[104]

複数府県にまたがる事件の場合は各府県ごとに地元で発生した事件について捜査・送検・起訴の手続きが取られるが[83]、迅速な審理のため各地方裁判所間の協議で1か所に併合して審理が行われることが原則である[105]。その併合先について明確な基準・規定はないが[105]、通例では最も重大な事件発生地(京都地方裁判所)もしくは最初の事件発生地(神戸地方裁判所姫路支部)で併合審理される[83]。しかし、本事件は罪状の比較的軽い事件で起訴された大阪地裁にて一括して審理される異例の措置が取られた[105]

本事件はいったん京都・松江など各地裁に起訴され、各地でそれぞれ弁護人が選任されたものの、被告人Nには弁護士費用を支払う能力がなかった[14]。そのため、改めて大阪弁護士会所属の国選弁護人3人が選出され、被告人Nおよび弁護人側は大阪地裁での併合審理を希望した[14]。また被告人Nは当時、大阪で起こした強盗殺人未遂事件を除きすべて起訴事実を一部または全面否認していたため、公判の長期化・複雑化が予想されたことから、検察側からも「人員的に最も充実している大阪地検が公判を担当するのが適当」という意見が主流だった[注 57][105]。裁判所・検察・被告人および弁護人の三者による協議の結果[105]、1992年5月12日には本事件を大阪地裁で併合審理することが正式に決定された[14]

一方で被告人Nは松江で拘置されていた1992年4月、独房の壁に頭をぶつけて自殺を図った[106]。その後大阪拘置所へ移送されたが[106]、同年6月29日夜には大阪拘置所の独房内にて剃刀で首・両腕など十数か所を切りつける自傷行為に及んだ[107]。弁護人は自傷行為の理由を「拘置所内での厳しい監視への反発や、初公判を前にした不安が高じたためだ」[107]「検察側から(初公判が間近に迫った1992年7月8日時点でも)証拠が開示されていないことは被告人の防御権の侵害であり、Nはそれに不満を募らせた」と説明した[注 58][106]

刑事裁判

第一審

1992年7月24日に大阪地方裁判所刑事第3部(七沢章裁判長)にて第一審の初公判が開かれたが[108]、罪状認否で被告人Nは強盗殺人罪4件を全面的に否認した[注 59][110]

状況証拠の積み重ねにより犯行を立証しようとした検察側は「被告人Nのジャンパー・ベルトに付着していた血液をDNA型鑑定[注 60]したところ、B事件の被害者と血液型が一致した」「犬の臭気を鑑別したところ、D事件現場からの押収物は被告人Nの体臭と同じ臭いが付いていた」などと主張し、それらの物的証拠について証人尋問も実施した[112]。一方で4事件いずれも凶器は発見されておらず、犯行時間も不特定など重要な点で決定的な証拠はなく[113]、被告人Nの弁護人は「被告人Nの自白がほとんどなく、個々の事件を被告人Nの犯行とする証拠がない」と一貫して無罪を主張した[112]

1992年10月5日の第2回公判では検察官が請求した証拠品(計約800点)に関する認否が行われ[114]、被告人Nは検察官が提出した証拠品のうちA事件の際に被害者Aから奪われ、米子市内で旅館経営者に渡したとされる宝くじについて「見覚えがある」と供述した[115]。結局、弁護人はA事件の現場から採取された指紋2個(検察官が「犯行日に被告人Nが店を訪れた」と主張する証拠)にのみ証拠採用に同意した[114]。同月29日、大阪地裁の3裁判官と検察官・弁護人はA事件の現場とその周辺を現場検証した[116]

1992年12月21日の第4回公判では天王寺区の強盗殺人未遂事件で被害者となった桂が証人として出廷し「首を絞められ死ぬかと思った。今生きているのが不思議なくらいだ。被告人Nは殺意を否定しているが、厳重に罰してほしい」と証言した[78]1993年(平成5年)1月29日に京都地方裁判所で出張尋問が行われ、C事件の現場で働いていた女性従業員が犯行前後の店内の状況、凶器と推定された店のナイフなどについて証言した[117]

1994年(平成6年)7月28日の第21回公判で、弁護人はそれまで意見を留保していた供述調書などのうち、約180点(NがD事件で被害者Dの殺害を認めた調書、A事件を認めた自供書など)について証拠採用に同意したが[注 61]、残り12点(Nが逮捕直後に全事件を認めたとされる自供調書2通など)に関しては「精神的・身体的に疲労・混乱した状態で、弁護士選任以前に作成され任意性がない」として不同意とした[112]

1995年(平成7年)3月19日に大阪地裁(松本芳希裁判長)で論告求刑公判が開かれ、検察官は被告人Nに死刑を求刑した[118]。同年5月29日に開かれた公判で結審し[注 62]、弁護人は最終弁論でA事件については言及しなかった一方、B・C・Dの強盗殺人3件については「検察官が示した数々の物証は事件と被告人Nを関連付ける証拠としては不十分」と訴え全面的に否認したほか、桂への強盗殺人未遂罪についても殺意を否認し[120]、「動機は未解明」と無罪を主張した[119]

1995年9月11日に判決公判が開かれ、大阪地裁(松本芳希裁判長)は検察官の求刑通り被告人Nに死刑判決を言い渡した[12]。同地裁はA事件について「『殺害後に金品奪取の意図が生じた』との疑念が残る」として強盗殺人罪の成立を認めず殺人罪・窃盗罪を適用したが、逮捕直後に4件の殺人について犯行を概括的に認めたとされる被告人Nの供述について信用性を認めたほか、DNA型鑑定結果や「A事件現場に被告人Nの指紋が遺留されている点」「B事件以降の現場にあった靴跡は同一で、被告人Nの履いていた靴と認められる点」等状況証拠を総合的に判断し「すべて被告人Nの連続犯行」と事実認定し「犯行は残虐・非道で同情の余地はなく、矯正・教育の効果も期待できない」と結論付けた[12]。被告人Nおよび弁護人は大阪高等裁判所へ即日控訴した[12]

上訴審

1998年(平成10年)1月21日に大阪高等裁判所(角谷三千夫裁判長)で控訴審初公判が開かれたが、被告人NはA事件(殺人・窃盗事件)[注 63]について第一審における全面否認から一転して「自分がやった。間違いない」と犯行を認めた一方、「犯行直前の飲酒で事件当時はかなり酔っていた。責任能力はない」と無罪を主張した[122]。また、B・C・Dの強盗殺人3件と桂への強盗殺人未遂事件に関しては第一審と同様に「現場にいなかった」「殺意はなかった」などとして無罪を主張した[122]。また同日、弁護人は「A事件の犯行当時、被告人Nは心神喪失か心神耗弱状態だった」として責任能力を否定する旨を初めて主張し、被告人Nの精神鑑定を請求した[123]

控訴審は2000年(平成12年)12月15日の第15回公判(裁判長:河上元康)で結審し、被告人Nの弁護人は最終弁論で改めて無罪を主張した[124]2001年(平成13年)6月20日に控訴審判決公判が開かれ、大阪高裁(河上元康裁判長)は第一審・死刑判決を支持して被告人N(当時はK姓)の控訴を棄却する判決を言い渡した[10][125]。被告人Nは控訴審判決を不服として同日付で最高裁判所上告した[126]。被告人Nは2004年時点で9年間ほど収監先・大阪拘置所内にてデイビッド・T. ジョンソン[注 64]と交流しており、ジョンソン宛の手紙で殺害を認めている被害者1人への祈りや同階に収容されていた少年の社会復帰を願う心情などを綴ったほか「これまで死刑を宣告された本人にしかわからない恐怖を味わいながら過ごしてきた。大罪を犯した者とはいえ、同じ拘置所にいた人が(今までに十数人)執行されるのを目の当たりにする度に『死』について深く思い知らされている」と述べていた[128]

2005年(平成17年)6月7日に最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、被告人N(当時K姓)の弁護人は一連の事件のうち強盗殺人3件(B・C・Dの各事件)について「被告人は犯人ではない」と無罪を主張して死刑回避を求めた一方、検察官は死刑の維持を求めた[18]。2005年6月7日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して被告人Nの上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人Nの死刑が確定した[11][129]

死刑執行

死刑囚Nは死刑執行まで計10回にわたり再審請求を行ったが、その理由は実質的にほとんど同じだった[13]。また、死刑確定者らを対象に実施されたアンケートに対しては以下のように回答していた。

  • 2008年(平成20年)7月 - 8月にかけて「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」が実施したアンケート[130] - 「検察側の証人はコロコロ話が変わり全く信用できないのに、裁判官は検察側の証人ばかり証言を採用し、弁護人の証人の主張は聞き入れない。その点に納得できないので(再審を請求して)戦っている」[131]
  • 2011年6月20日 - 8月31日に参議院議員福島瑞穂が実施したアンケート[注 65][133] - 「弁護人から『(有罪確定後に冤罪が判明して再審が開かれ、元被告人の無罪が確定した)足利事件におけるDNA型鑑定は自分の事件と同じ方法だった』[注 60]と伝えられたが、自分のDNA型鑑定で使用された証拠品は『再鑑定する力がない』という理由で既に廃棄処分にされた。つまり『DNA型を鑑定できないのにいい加減な鑑定をした』ということだ。臭気鑑定でも他の事件で却下された鑑定手段の犬が本件で採用されており、その点も納得がいかない。元より刑務所生活が長かった上に19年間の拘置所生活を送った結果、拘禁症状・孤独病などの症状が出ている。刑務官たちの行動も自分のストレスを増幅させ、そのために睡眠薬・精神安定剤を服用している。2009年および2010年9月には法務大臣に苦情を申し出たが、早く返事をしてほしい」[134]
  • 2015年7月に福島が実施したアンケート[135] - 「過去の事件で死刑・無期懲役に処された多くの人々に冤罪の可能性がある。他人事ではあるが(彼らの)無実が証明されてほしいと願うし、自分も無実を証明するために頑張って生きていきたい」[136]

2017年(平成29年)5月11日には再審請求の特別抗告が棄却されたことを受けて自力で再審請求を申し立て、裁判所からは死刑囚N宛に「2017年7月18日までに意見を提出するよう求める」と「求意見」が届いていた[137]

法務省法務大臣金田勝年)が発した死刑執行命令により、死刑囚N(61歳没)は2017年7月13日に収監先・大阪拘置所にて死刑を執行された[注 66][13][138]。当時は再審請求中の死刑囚への刑執行は異例で、1999年(平成11年)12月[注 67]以来だったが[140]、金田は同日の臨時記者会見で「再審請求中だからと言って必ずしも死刑を回避するわけではない。仮に再審請求している死刑囚でも、その請求は棄却されることが確実であると予想せざるを得ない場合は死刑執行もやむを得ない」と説明した[138]

その後は2017年12月(市川一家4人殺人事件の死刑囚ら2人)[141]・2018年7月(麻原彰晃以下、オウム真理教事件で死刑が確定した元教団幹部13人)[142]・2018年12月・2019年(令和元年)7月および[143][144]同年12月(福岡一家4人殺害事件の死刑囚ら2人)と[145]、再審請求中の死刑囚に対しても死刑が執行される事例が相次いでいる[142]

考察・分析

幼くして母親を失い、少年時代から犯罪を繰り返していた加害者Nの生い立ちを踏まえ、矯正施設の在り方に疑問を呈する指摘・報道がなされた[40]。1984年に『読売新聞』鳥取支局(大阪本社)記者としてNの強盗致傷事件を取材した寺田義則は事件後に「何のための服役だったのか?」と疑問を呈したほか[146]、同紙には以下のように識者などの意見・考察が掲載された。

  • 筑波大学教授(社会精神医学)・小田晋 - 「本事件は殺害行為自体に性的快楽を覚える快楽殺人ではないか?その証拠にNは事件現場に多くの指紋を残しているが、性的欲求・攻撃性により高まった興奮・衝動を抑えられなかったためだろう。被害者にNより年上の女性が多かった理由は、幼くして母親を亡くしたが故に母親の愛情を受けられなかったNが年上の女性に対する何らかのこだわりを有していたためかもしれない」[147]
  • 社会評論家・赤塚行雄 - 「単純な金目当てなら中年のママが経営するスナック以外にも襲う場所はあったが、幼くして母親を失ったNは母性愛への渇きを癒そうとそのようなスナックを訪れて犯行に及んだのだろう。『幼少期の心の傷・恵まれない環境に根差した事件』という印象を受ける」[147]
  • 作家・安部譲二 - 「刑務所の中は『自由にできるのは呼吸と夢を見ることだけ』と言えるほど徹底的に自由を奪い、人格を認めない環境だ。そのような環境で順法精神が育つだろうか?自分も20歳の時に懲役7年の判決を受けた際、被告人席で『いっそ死刑にしてくれ』と叫んだくらいだ。Nも当時の自分と同じ気持ちだったかもしれない」[40]

また上告審弁論で弁護側は「被告人Nは成年してから本事件まで約16年のうち15年以上服役してきたが、矯正教育そのものが犯罪傾向を著しく高めてきた」と指摘した[11]

脚注

注釈

  1. ^ JR鳥取駅付近の住宅街で[20]、家の横を流れる川が雨のたびに氾濫するような住居環境だった[21]
  2. ^ 姉4人は母の死後まもなく次々に結婚した[21]。Nの姉のうち1人(1992年時点で鳥取市内在住)は「(結婚して実家を出てからも)弟Nの家には代わる代わる様子を見に行くようにしていた」と証言したが、米子市内の養護施設の元寮母は「Nにとっては施設で過ごした2年間が人生最大の安らぎだったかもしれない」と証言している[21]
  3. ^ 『年報・死刑廃止』(インパクト出版会)によれば控訴中の1999年9月28日時点[23]では逮捕当時と同じ「N」姓だったが[24]、2000年12月31日時点[25]では「K」姓に改姓していた[26]。死刑確定後の2005年7月31日時点でも[27]「K」姓だったが[28]、2006年9月15日時点[29]では逮捕当時と同じ「N」姓に戻っている[30]
  4. ^ Nの父親は帰宅してもNとはほとんど口を利かず、Nから「学校の授業参観に来て」と頼まれても足を運ばなかった[21]。息子が本事件で逮捕された1992年1月時点で鳥取市内の老人ホームにいたが、Nが出所してからも会いに行った形跡はなかった[31]
  5. ^ Nは1962年(昭和37年)春に小学校へ入学したがほとんど登校せず、たまに登校してもいじめっ子からよく殴られたためにますます不登校が強まっていった[20]。中学校進学後もいじめは続き、勉強にもついていけず、1年2学期は半分近く欠席した[20]。姉は公民館の識字学級で読み書きを覚えたほか、N自身も教護院などで過ごしてきたため、刑務所に入所するまでは字の読み書きができなかった[32]
  6. ^ Nは自作の詩で「自分が小学校3年生の時の春に亡くなった」と述べている[33]
  7. ^ 中学2年生の春に万引き・女子中学生へのいたずらを起こした[21]
  8. ^ 京都・大阪にも働きに出たが、「仕事が汚い」などを理由に1か月以上続かなかった[20]
  9. ^ 中学校卒業後には姉の嫁ぎ先に引き取られた[20]
  10. ^ この時、被害者女性は床に倒されながらも包丁を持つNに笑顔を見せて懐柔しようとしたが、Nはこれを「馬鹿にされた」と受け取って逆上し[20]、女性の左右の頸動脈を3回切り付けて殺害した[7]
  11. ^ 1974年2月に大阪市などで計119,500円の盗みをしたほか、1974年7月1日に鳥取市瓦町のスナックで女性経営者の郵便貯金通帳1通・印鑑などを盗み、鳥取郵便局で「経営者の息子」と偽って15万円を引き出した[36]
  12. ^ 論告求刑の際、鳥取地方検察庁の検察官・岡野英雄は被告人Nを事件当時18歳未満と誤認し、18歳未満の触法少年に適用される少年法第51条[38]を適用して懲役12年を求刑したが、後にNは1956年1月生まれ(事件当時18歳)であることが判明したため、岡野検事は判決に先立って地裁に論告再開を求め、改めて少年法第52条[39]を適用した上で懲役5年 - 10年の不定期刑を求刑した[37]。その後弁護士になった岡野は本事件後、『読売新聞』記者の取材に対し「言葉の少ない男だったが、取り調べに対しては素直に犯行を認めていた。更生してくれると信じていたのに…」と話していた[40]
  13. ^ 裁判官は判決理由で「被告人Nは9歳で母と死別し、義兄に育てられるなど同情の余地はあるが、殺害後に逃走用資金として被害者の金を盗むなど、犯行は残虐だ」と説明した[37]
  14. ^ このパチンコ店は後に殺害した被害者Bが経営していたスナックの近くで、Nは8月初めまで同店で働き、Bの店に1か月近く頻繁に出入りしていた[41]
  15. ^ 鳥取刑務所時代は同房者と喧嘩が絶えず、ほとんど独房で過ごしており、仮出所を認められなかった[31]。出所前には「出所しても何もいいことはないから出所したくない」と漏らしていた[22]
  16. ^ Nは1人でこのスナックへ来店し、他の客が帰りママと2人だけになったところでママに突然襲い掛かり首を絞めようとしたが、抵抗されたためそのまま逃走した[45]。ママは怪我がなく、金も奪われなかったため「いたずらでもしようとしたのだろう」と考え、警察に通報しなかった[45]
  17. ^ 組は独自にNの立ち回り先を調べ、鳥取・大阪までNを追っていた[44]
  18. ^ 組員とは別の刑務所仲間の家[22]
  19. ^ このスナックのママは「うちの店は貸し切りをしない」と断ったほか、警察官が頻繁に出入りすることなどを話題にしたところ、Nは「近くで友達と待ち合わせているからちょっと行ってくる」と言い残して姿を消していた[47]。また貸し切りを求めた各店とも友人を店に呼んだ形跡はなく、店を施錠して来客を防ごうとした点から、各捜査本部は「Nは仮に経営者が貸し切りに応じた場合、経営者を襲おうとしていた」と推測した[47]
  20. ^ 被害品はカウンター内に入った現金・ポーチ・商品券・ジャンボ宝くじ20枚など[51]
  21. ^ 城崎駅付近のトンネル内[51]
  22. ^ ポーチの中身には宝くじを入れる空袋1枚も含まれていた[51]
  23. ^ Nは取り調べに対し「A事件の凶器は山陰線に乗っている途中に列車の窓から捨てた」と自供したため[53]、「A事件後の12月13日に姫路方面から山陰方面へ逃走する途中で列車からポーチを投げ捨てた」可能性が指摘されている[52]
  24. ^ 姫路市内の宝くじ売り場で販売されていた[51]
  25. ^ この時点では一連の事件が発覚しておらず、N自身も手配されていた強盗事件の被疑者とは年齢などが違ったため、米子署員からそれ以上追及されることはなかったが、この時に名乗った名前は後に逮捕の手掛かりになった[55]
  26. ^ またこの時、A事件で被害者Aが持っていたデパートの商品券・ブレスレットをスナックの女性経営者に贈っていた[56]
  27. ^ 島根県警は当初「犯行時間帯は21日深夜 - 22日未明」と推測していたが[46]、Nが松江市を離れた時間と矛盾したため修正した[57]
  28. ^ 『毎日新聞』では「21日17時ごろに倉吉市内のスナックを訪れ、ジャンパー入りの袋を店に預けた」と[46]、『読売新聞』では「22日未明に倉吉市内の行きつけのスナックを訪れ、店の女性経営者にジャンパー入りの袋を預けた」とそれぞれ報道されている[58]
  29. ^ NはD事件の凶器の刃物について「店内にあった包丁を使い、近くのゴミ箱に捨てた」と供述したが、包丁は発見されなかった[63]
  30. ^ A事件の現場ではカウンター周辺からNの指紋が検出された[54]
  31. ^ 京都府警は捜査員を姫路に派遣したほか、島根県警も捜査員を京都入りさせ、29日夜からは兵庫県警に逮捕状を請求されたNの名を挙げ、顔写真を見せて松江市内のタクシー会社・ホテルなどへ聞き込み捜査を行った[54]。また同日、近畿管区警察局などは事件の続発を懸念し、Nが宿泊する可能性のある旅館などの巡回強化を大阪府警など各警察本部に指示した[54]
  32. ^ Nは鳥取刑務所で服役していた際、大阪出身の受刑者から「新世界には『ジャンジャン横丁』という繁華街があり生活しやすい」などと聞いていたことも天王寺を潜伏先に選んだ理由だった[70]
  33. ^ この時Nが出入りしていたパチンコ店の周囲には他にもパチンコ店があったが、Nはその中でも唯一裏通りに通じる出入口がある店だけを選んでいた[71]
  34. ^ この簡易旅館は天王寺駅から北側に位置し[72]、桂のアパートから北へ約100メートルの場所にあった[71]
  35. ^ 逮捕後、Nは桂宅への強盗の動機について「和歌山に行くための運賃が欲しかった」と供述したが、当時は和歌山への交通費としては十分な約20,000円を持っていたため、その点を追及されると「刑務所仲間を頼るためにはタダでは行けない。謝礼金を作るためだった」と供述した[69]。またこの時には知人らが警察に通報することを予想して追跡捜査攪乱を狙ったためか、知人・親類に対し電話で「船で逃げようと思う」「もっと東に行く」などと偽の逃走先を告げていた[74]
  36. ^ 桂の部屋と無人の隣室の境にある物置に身を隠していたとされる[75]
  37. ^ 12月30日ごろに桂と同じアパートに住んでいた高齢男性(当時80歳以上)に「今度ここに引っ越すことになった」とあいさつし、その後も毎年のように男性の居室を訪れて室内で雑談したり、一緒にテレビのニュースを観るなどして過ごしていた[76]
  38. ^ 古いスニーカーは翌日(1992年1月5日)にごみ回収業者が収集し、大阪市住之江区内の清掃工場へ運ばれた[47]
  39. ^ 桂のアパートに押し入った当時、Nは所持金が20,000円しかなかった[53]
  40. ^ Nは桂の首をまず後ろから絞め、さらに抵抗されると再度前から絞めていた[71]
  41. ^ 桂がNに対し「金はある」と答えるとNは首を絞める力を緩めた[77]。桂は後の公判で証人として出廷した際に「『金はある』と答えたから殺されずに済んだ。もし『ない』と答えていたら殺されていただろう」と証言している[78]
  42. ^ 4件の殺人についてNは桂に「2件は自分がやったがほかの2件はでっち上げだ。警察は信用できない。逮捕されるぐらいなら自殺する」と話していた[77]。またNは桂の居室に侵入した際、自分の顔写真部分を破り取った本連続殺人事件の新聞記事を持っており、玄関を出る際にはその記事を玄関先に置いて立ち去った[79]
  43. ^ Nは桂を殺害しなかった理由について取り調べに対し「初めは殺すつもりだった」[80]「最初に首を絞めたら動かなくなり、死んだと思ったが息を吹き返して驚いた。しかし『金さえ取れればいい』と気が変わった」と述べている[9]。実際、桂の首にはほぼ一周する帯状の鬱血の痕が残ったほか、桂は首を絞められたことで一時仮死状態に陥り、そのまま窒息死していた虞もあった[71]
  44. ^ 桂から通報を受けた捜査員は当初「本当にNならば桂は殺されているはずだ。『人を殺して新聞に毎日乗っている男だ』と自ら名乗るものか?」と疑念を抱いていたが、指紋によりNの犯行が裏付けられた[81]
  45. ^ JR天王寺駅から北方約800メートル、桂のアパートから500メートルに位置する[82]
  46. ^ Nは逮捕後に「ゆっくり食事したいと考え、適当なマンションを探してN宅へ行った」と供述した[83]
  47. ^ このほかYとトランプ・電卓型ゲーム機で遊んだほか、Xに対し「(Yに)おもちゃでも買ってあげて」と1万円の「お年玉」を渡していた[84]
  48. ^ Nはその動機を「いたずら目的」と供述した[9]
  49. ^ Nは取り調べで、この時に首を絞めた力が1回目よりきつかったことを追及され「一度首を絞めていたずらしようとしたことを拒絶され、カッとなり殺すつもりで絞め直した」と殺意を認める供述をした[9]
  50. ^ XはNの逮捕後、記者会見で「ただ一生懸命にNの話を聞いてあげるだけだった。もしあれだけの人を殺していたのなら素直にすべてを話してほしい」と述べた[85]
  51. ^ Nは119号事件を報道した朝7時のテレビニュースを観て「嘘ばかりだ」とぼやいていた一方[42]、X・Y母子とともに3人で朝食を食べたほか[85]、XがYを連れて自分のために替えの下着を買いに出た際にも逃げ出さず、逮捕されるまでおとなしくしていた[42]
  52. ^ しかし逮捕後、Nは取り調べに対し「自首する気はなく逃げるつもりだった」[83]「逃げようか迷っている間に警察官が来た」と述べている[80]
  53. ^ 『朝日新聞』では「四天王寺東派出所」と解説されている[86]
  54. ^ Xと指導員は逮捕同日、大阪府警から本部長表彰を受けている[83]
  55. ^ 直接の逮捕容疑は桂への強盗殺人未遂容疑[87]
  56. ^ 京都地検は処分保留の理由を「被告人Nの新供述などから殺害が強盗目的か否かを検討している」[96]「京都市内で発生した2件の殺人の連続性を考慮し、併せて起訴する」と説明していた[97]
  57. ^ 大阪地検はそれまでの捜査で検察官をその他全事件の捜査に派遣していた[14]
  58. ^ ただし、大阪地検は「(この時点で証拠を開示していなかった理由は)証拠物の量が膨大で整理作業に時間を追われているためであり、開示を拒んでいるわけではない」と説明した[107]
  59. ^ A事件では「事件当日は別の店にいた」、B事件では「現場には一度も行っていない」、C事件では「事件発生時は別の場所にいた」、D事件では「事件当日に現場へ行ったが、被害者Dを殺害した記憶はない」と述べた[109]。またDの長男Eに対する強盗致傷事件では「被害者Eと揉み合いにはなったが瓶で殴ってはいない」と主張し、桂を襲撃した強盗殺人未遂罪についても殺意を否認した[109]
  60. ^ a b 確定判決の根拠となったDNA型鑑定方法は足利事件無期懲役確定後に冤罪が判明し、再審無罪が確定)と同様の「MCT118型DNA鑑定」で、控訴審で被告人Nの弁護人を務めた弁護士・小田幸児は「信憑性に欠けるDNA型鑑定の結果を基に確定した不当判決だ。再審を開かないまま死刑囚Nの刑を執行したことは殺人と同じであり、到底許されない」と批判している[111]
  61. ^ ただし証拠採用に同意した分については「警察官から支持されて欠かされた可能性があり、証拠価値は低い」と主張した[112]
  62. ^ 最終弁論時の大阪地裁の裁判長は『読売新聞』では「松本芳希裁判長」[119]、『毎日新聞』では(谷口敬一裁判長)となっている[120]
  63. ^ 第一審判決で指紋、被告人Nが奪ったとされる宝くじ・商品券など比較的多くの物証が認定されていた[121]
  64. ^ 1960年生まれ(アメリカ合衆国ミネソタ州出身)、ベセル・カレッジ卒業およびシカゴ大学大学院で社会学修士号を取得[127]。日本の司法制度や司法制度改革問題に精通し、フルブライト研究員として1992年8月 - 1994年3月まで神戸大学で、2003年8月 - 2004年5月まで早稲田大学で研究生活を送っていた[127]
  65. ^ 2011年12月時点で新たな死刑確定者にも同様のアンケートを送付している[132]
  66. ^ 同日には広島拘置所でも死刑囚1人の刑が執行された[13]
  67. ^ 1999年12月17日には臼井日出男法務大臣が発した死刑執行命令により、当時第7次(7回目の)再審請求中だった長崎雨宿り殺人事件(1977年発生)の死刑囚が収監先・福岡拘置所で死刑を執行されている[139]

出典

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  2. ^ 読売新聞』1991年12月26日大阪朝刊第一社会面23頁「スナックのママ殺される/兵庫・姫路市」(読売新聞大阪本社
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『読売新聞』1991年12月31日大阪朝刊第二社会面20頁「スナックママ連続殺人 関西に潜む?緊迫 みそかの盛り場捜索/3府県警」(読売新聞大阪本社)
  4. ^ a b c 『読売新聞』1991年12月28日東京夕刊第一社会面15頁「京都・木屋町のママ連続刺殺 近所の2軒、2日で」(読売新聞東京本社
  5. ^ a b c d 『読売新聞』1991年12月30日東京朝刊第一社会面23頁「京都以外でもママ殺し2件 4件は同一犯人か 35歳の男に逮捕状/兵庫県警」(読売新聞東京本社)
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  7. ^ a b c 『読売新聞』1992年1月8日大阪夕刊ズーム面3頁「[NEWSズームアップ]連続ママ殺し119号事件 愛に飢え爆発?」(読売新聞大阪本社)
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  19. ^ 最高裁第三小法廷 2005.
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  38. ^ 少年法第51条(1975年当時) - 「罪を犯すとき18歳に満たない者に対しては、死刑をもって処断すべきときは無期刑を科し、無期刑をもって処断すべきときは10年以上15年以下の懲役または禁錮刑を科する」[37]
  39. ^ 少年法第52条(1975年当時) - 「少年に対して長期3年以下の有期の懲役または禁錮をもって処すべきときはその刑の範囲内において長期と短期を定めてこれを言い渡す。刑期は短期は5年、長期は10年を超えることはできない」[37]
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参考文献

関連項目