コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「長波 (駆逐艦)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
フィリピンの戦い: 解消済み仮リンク ブルネイ湾 の内部リンク化
 
(14人の利用者による、間の23版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox 艦艇
{{Infobox 艦艇
|名称 = 長波
|名称 = 長波
|画像 = [[Image:Naganami.jpg|300px|]]
|画像 = Image:Naganami.jpg
|画像幅=300
|画像説明 =
|画像説明 =
|運用者 = {{navy|大日本帝国}}
|運用者 = {{IJNAVY}}
|建造所 = [[藤永田造船所]]
|建造所 = [[藤永田造船所]]
|種別 = [[駆逐艦]]
|種別 = [[駆逐艦]]
|艦級 = [[夕雲型駆逐艦]]
|艦級 = [[夕雲型駆逐艦]]
|計画 = [[1939年]]度([[マル4計画]])
|計画 = 1939年度([[計画]])
|起工 = [[1941年]]4月5日
|起工 = 1941年4月5日
|進水 = [[1942年]]3月5日
|進水 = 1942年3月5日
|竣工 = 1942年6月30日
|竣工 = 1942年6月30日
|就役 =
|就役 =
|除籍 = [[1945年]]1月10日
|除籍 = 1945年1月10日
|最後 = [[1944年]]11月11日戦没
|最後 = 1944年11月11日、[[オルモック湾]]にて戦没
|基準排水量 = 2,077t
|基準排水量 = 2,077 トン
|公試排水量 = 2,520t
|公試排水量 = 2,520 トン
|全長 = 119.3m
|全長 = 119.3 [[メートル|m]]
|全幅 = 10.8m
|全幅 = 10.8 m
|吃水 = 3.76m
|吃水 = 3.76 m
|ボイラー = [[ロ号艦本式缶]]3
|ボイラー = [[ロ号艦本式缶]]×3
|主機 = [[艦本式タービン]]22軸 52,000hp
|主機 = [[艦本式タービン]]×2
|出力=52,000 [[馬力]]
|最大速力 = 35.0kt
|推進器=[[スクリュープロペラ]]×2軸
|航続距離 = 18ktで5,000浬
|最大速力 = 35.0 [[ノット]]
|燃料 = 重油:600トン
|航続距離 = 5,000[[海里]]/18ノット
|燃料 = 重油:600 t
|乗員 = 225名
|乗員 = 225名
|兵装 = '''新造時'''<br />50口径12.7cm連装砲 3基6門<br />25mm機銃 II×2<br />61cm4連装[[魚雷発射管]] 28門<br />(九三式魚雷16本)<br />爆雷×18乃至36
|兵装 = {{ubl|'''新造時'''|[[五十口径三年式十二糎七砲|50口径三年式12.7センチ連装砲]]×3
|[[九六式二十五粍機銃|九六式25mm連装機銃]]×2基
|61センチ九二式4連装[[魚雷発射管]]×2基(九三式[[魚雷]]×16本)
|九四式爆雷投射機×1基(九五式[[爆雷]]×18乃至36)}}
|レーダー=[[仮称二号電波探信儀二型|22号電探]]
|ソナー=[[九三式水中聴音機]]<br />[[九三式水中探信儀|九三式三型探信儀]]
}}
}}
'''長波'''(ながなみ)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[駆逐艦]]。[[夕雲型駆逐艦|夕雲型]]の4番艦である。
'''長波'''(ながなみ)は<ref name="S16達391">[[#S16.7-12達/12月(2)]]画像5-6、昭和16年12月17日附達第391号</ref>、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[駆逐艦]]{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。[[夕雲型駆逐艦]]の4番艦である<ref>[[#昭和17年12月31日艦艇類別等級表]], p.4</ref>

== 概要 ==
日本海軍が[[1941年]](昭和16年)4月から[[1942年]](昭和17年)6月にかけて[[藤永田造船所]]で建造した駆逐艦{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=93-94|ps=長波(ながなみ)}}。竣工後、[[横須賀鎮守府]]部隊に所属し、哨戒や訓練をおこなう{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。8月31日、日本海軍は「長波」と「[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]」{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=223a|ps=巻波(まきなみ)}}により'''第31駆逐隊'''を新編する<ref name="S17内令1622">[[#内令昭和17年8月(4)]], p.11</ref>。トラック泊地進出後、第31駆逐隊は第二水雷戦隊各隊・各艦と共に[[ガダルカナル島の戦い]]に従事する{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=223a|ps=巻波(まきなみ)}}。戦艦「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」と「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」の[[ヘンダーソン基地艦砲射撃]]にも同行した{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=149|ps=ガダルカナル島基地砲撃一覧表}}。[[南太平洋海戦]]では前進部隊に所属、またガ島強行輸送任務([[鼠輸送]])に従事した{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。11月中旬の[[第三次ソロモン海戦]]では、輸送船団を護衛した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=354-355|ps=外南洋部隊}}。11月30日の[[ルンガ沖夜戦]]では、第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将の旗艦(外南洋部隊増援部隊旗艦)として活躍したが{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=ルンガ沖夜戦}}、姉妹艦「[[高波 (駆逐艦)|高波]]」を喪失した{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=223b|ps=高波(たかなみ)}}。

「長波」は艦の疲弊によりトラック泊地に後退して整備をおこない{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=512a-513}}、[[ケ号作戦|ガダルカナル島撤退作戦]]のあと内地へ帰投した{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。[[1943年]](昭和18年)3月中旬から[[舞鶴海軍工廠]]で修理をおこなった<ref name="S1803舞鎮(2)19">[[#S1803舞鎮日誌(2)]], p.19(昭和18年3月17日記事)「長波入港」</ref>。5月12日、「長波」は北方部隊に編入された{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=533a}}。7月、「[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]」{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=229|ps=島風(しまかぜ)}}や「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]等とともに[[キスカ島撤退作戦]]に従事した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=93-94|ps=長波(ながなみ)}}。
北方作戦後は南方に転じ{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=439b}}、10月下旬には[[第一航空戦隊]]の物件を搭載して[[ラバウル]]に進出する{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=424a-425|ps=第一航空戦隊の飛行機隊のラバウル進出}}。そのまま[[ブーゲンビル島の戦い|ブーゲンビル島攻防戦]]に投入されて[[ブーゲンビル島沖海戦]]に参加した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=391-394|ps=ボーゲンビル島沖海戦・その一}}。
[[11月11日]]、「長波」は[[ラバウル]]で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて大破{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=414-415|ps=邀撃空戦と艦艇の被害}}([[ラバウル空襲]]){{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。駆逐艦「[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]」(トラック泊地まで){{Sfn|戦史叢書62|1973|p=431a|ps=「長波」の曳航護衛}}と軽巡洋艦「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」(内地まで){{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=490a-491|ps=長良、五十鈴、内地へ}}に曳航されて日本に戻り<ref name="長良行動">[[#丸写真8軽巡I|写真日本の軍艦8巻、軽巡I]]、174-175「軽巡洋艦『長良・五十鈴・名取』行動年表 ◆長良◆」</ref>、[[1944年]](昭和19年)1月末から[[呉海軍工廠]]で修理をおこなった{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。

第31駆逐隊所属艦は昭和18年7月から11月にかけて姉妹艦「[[清波 (駆逐艦)|清波]]」{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=224a|ps=清波(きよなみ)}}「巻波」{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=223a|ps=巻波(まきなみ)}}「[[大波 (駆逐艦)|大波]]」{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=223c-224|ps=大波(おおなみ)}}が沈没し、長波1隻となる。[[1944年]]2月10日、「[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]」{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=226a|ps=沖波(おきなみ)}}「[[岸波 (駆逐艦)|岸波]]」{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=226b-227|ps=岸波(きしなみ)}}「[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]」{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=227-228|ps=朝霜(あさしも)}}を編入して定数4隻を揃えた<ref name="S19内令314">[[#内令昭和19年2月(2)]]、p.18</ref>。
同年5月末、「長波」の修理が完了{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。
7月中旬、第31駆逐隊は戦艦や重巡洋艦を護衛してリンガ泊地に進出した{{Sfn|戦史叢書37巻|1970|p=385|ps=挿図第9、甲部隊リンガ進出行動概要図}}。
[[捷一号作戦]]にともなう[[レイテ沖海戦]]では、第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)に所属する{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。10月23日、パラワン水道で栗田艦隊がアメリカ潜水艦2隻に奇襲された際{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=306-307|ps=最初の椿事}}{{Efn2|潜水艦「[[ダーター (SS-227)|ダーター]]」の雷撃により第二艦隊旗艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」が沈没して重巡「[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]」が大破。潜水艦「[[デイス (潜水艦)|デイス]]」の雷撃で重巡「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」が沈没。}}、「長波」と「朝霜」は損傷した重巡洋艦「[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]」を護衛して後退した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=93-94|ps=長波(ながなみ)}}{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=227-228|ps=朝霜(あさしも)}}。その後、長波は空襲で損傷した重巡「[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]」の護衛にまわった{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。

レイテ沖海戦後、第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官[[志摩清英]]第五艦隊司令長官)に編入され、[[多号作戦]]に従事する{{Sfn|戦史叢書54巻|1972|pp=450-453|ps=フィリピン沖海戦直後の水上部隊}}。11月11日、第三次多号作戦において[[レイテ島]][[オルモック湾]]で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、輸送部隊は「朝霜」を残して全滅する{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=538a-541|ps=二水戦司令官戦史、第二船団全滅}}。「長波」も撃沈された{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=93-94|ps=長波(ながなみ)}}。


== 艦歴 ==
== 艦歴 ==
=== 第31駆逐隊編制まで ===
1939年度(マル4計画)仮称第119号艦として[[藤永田造船所]]で建造、[[1942年]](昭和17年)6月30日に竣工して一等駆逐艦に類別され、[[横須賀鎮守府]]籍となる。
1939年度(④計画)仮称第119号艦として、[[藤永田造船所]]で起工{{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=289a|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/長波 Naganami}}。
[[1941年]](昭和16年)12月17日、「長波」と命名される<ref name="S16達391" />。夕雲型駆逐艦に類別された<ref>[[#内令昭和16年12月(3)]]、pp.8-9</ref>。[[1942年]](昭和17年)6月30日、竣工。[[舞鶴鎮守府]]籍となる<ref name="S17内令1058">[[#内令昭和17年6月(4)]]、pp.1-2</ref>。


竣工、横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入されて[[横須賀市|横須賀]]に回航された後<ref>横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319500, pp.48,49</ref>、[[相模湾]]方面での哨戒に従事<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319700, pp.22</ref>。また、7月20日に横須賀を出撃して[[キスカ島]]へ資材輸送任務に就き<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319700, pp.27</ref>、帰途に輸送船を護衛して8月4日に横須賀に帰投した<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319800, pp.11、C08030320800, pp.26</ref>。
竣工と同時に「長波」は警備駆逐艦に定められた<ref name="S17内令1058" />。横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入されて[[横須賀市|横須賀]]に回航された後<ref>[[#S1707 横須賀鎮守府日誌 (1)]], pp.48-49</ref>、[[相模湾]]方面での哨戒に従事した<ref>[[#S1707 横須賀鎮守府日誌 (3)]], p.22</ref>。
7月5日、[[キスカ島]]に停泊していた[[第二水雷戦隊]]第18駆逐隊は米潜水艦の攻撃をうけ{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=326-327|ps=米潜水艦の作戦}}、駆逐艦「[[霰 (朝潮型駆逐艦)|霰]]」が沈没し{{Sfn|陽炎型|2014|p=301|ps=霰(あられ)}}、「[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]」{{Sfn|陽炎型|2014|p=303|ps=不知火(しらぬい)}}と「[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]」{{Sfn|陽炎型|2014|p=302|ps=霞(かすみ)}}は船体切断に追い込まれた{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=272-273|ps=米潜水艦の作戦}}([[7月5日の海戦 (1942年)|7月5日の海戦]])。7月17日、大海指第114号により「長波」は[[キスカ島]]に「不知火」と「霞」救援用の物資と人員を運ぶことになった{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=287-288}}。7月20日に「長波」は横須賀を出発して27日キスカ島に到着{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=287-288}}<ref>[[#S1707 横須賀鎮守府日誌 (3)]], p.27</ref>。工員3名などを送り届けた「長波」は翌日に輸送船「白山丸」を護衛して帰路につき、8月4日に横須賀へ帰投した{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=287-288}}<ref>[[#S1707 横須賀鎮守府日誌 (4)]], p.11、[[#S1708 横須賀鎮守府日誌 (5)]], p.26</ref>。


===ガダルカナル島を巡る戦い===
=== ガダルカナル島を巡る戦い ===
8月31日、日本海軍は「長波」と「[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]」{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94a|ps=巻波(まきなみ)}}(舞鶴海軍工廠建造艦、8月18日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=289b|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/巻波 Makinami}}により'''第31駆逐隊'''を編制した<ref name="S17内令1622" />。初代駆逐隊司令に[[清水利夫]]大佐(当時、第21駆逐隊司令){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=182}}<ref name="大正kp1892">[{{NDLDC|2954006/4}} 大正7年11月22日 官報第1892号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ3香川補少尉候補生〈445下段〉、コマ4清水(旧姓吉富)補少尉候補生〈446上段〉</ref>を任命する<ref name="jirei931">{{アジア歴史資料センター|C13072086700|昭和17年8月31日(発令8月31日付)海軍辞令公報(部内限)第931号 p.21}}</ref>。
8月31日、[[第二水雷戦隊]]([[田中頼三]]少将([[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]41期))に第三十一駆逐隊が編制されて[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]とともに編入され<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030320800, pp.20</ref>、[[瀬戸内海]]で訓練を行って待機した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030095600, pp.5</ref>。9月6日、第三戦隊([[戦艦]][[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]。[[栗田健男]][[中将]]・海兵38期)を護衛して[[呉市|呉]]を出撃<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030097200, pp.4,5</ref>。[[チューク諸島|トラック諸島]]に進出後は前進部隊に編入され、[[ガダルカナル島の戦い]]に関わる海上作戦に加わることとなる。
第31駆逐隊は[[第二水雷戦隊]](司令官[[田中頼三]]少将)に所属した<ref>[[#S1708 横須賀鎮守府日誌 (5)]], p.20</ref>。
第三戦隊司令官[[栗田健男]]中将が指揮する第三戦隊(戦艦「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」)と第31駆逐隊(巻波、長波)で前進部隊待機部隊を編成<ref>[[#S1701三戦隊日誌(5)]]、pp.4-5</ref>、内海西部で訓練を実施した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=84}}<ref>[[#S1708 第二水戦日誌 (1)]], p.5</ref>。
9月6日<ref>[[#S17.07呉防戦日誌(3)]]、p.8「(ハ)九月六日 待機部隊(3S 31dg)出撃」</ref>{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=84}}、待機部隊(金剛、榛名、巻波、長波)は[[呉市|呉]]を出撃した<ref>[[#S1709 第二水戦日誌 (1)]], pp.4,5</ref><ref>[[#S1701三戦隊日誌(5)]], p.18</ref>。
[[チューク諸島|トラック諸島]]に進出後、連合艦隊旗艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」で打ち合わせをおこなう<ref name=":0">[[#S1701三戦隊日誌(5)]]、p.19</ref>。前進部隊本隊に編入後{{Efn2|9月8日時点での支援部隊軍隊区分より、前進部隊本隊編成<ref name="#1">{{harvnb|戦史叢書83|1975|pp=85-86}}の軍隊区分表より。</ref>
* 第四戦隊:愛宕、高雄、摩耶
* 第三戦隊:金剛、榛名
* 第五戦隊:妙高、羽黒
* 第八戦隊:利根、筑摩
* 第二水雷戦隊:神通、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)、第31駆逐隊('''長波'''、巻波)
* 第四水雷戦隊:由良、第2駆逐隊(春雨、五月雨)、第9駆逐隊(朝雲、夏雲、峯雲)}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=84}}、9月11日にトラック泊地を出撃、前進部隊(指揮官[[近藤信竹]]第二艦隊司令長官{{Efn2|1942年9月時点での兵力部署においては、支援部隊指揮官と前進部隊指揮官を兼務する<ref name="#1"/>。}})に合流した<ref name=":0" />{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=117}}。第31駆逐隊は[[ガダルカナル島の戦い]]に関わる海上作戦に加わることとなる。9月中旬の日本陸軍ガ島総攻撃は失敗、日本海軍各艦隊はトラック泊地にもどった{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=189-190|ps=第二師団の「ガ」島飛行場総攻撃の失敗}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=143}}。


10月1日、第31駆逐隊に姉妹艦「[[高波 (駆逐艦)|高波]]」{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94b|ps=高波(たかなみ)}}(浦賀船渠建造艦、8月31日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=289c|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/高波 Takanami}}が編入され、3隻(長波、巻波、高波)編制となった<ref>[[#内令昭和17年10月(1)]]、pp.1-2</ref>。清水司令は司令駆逐艦を「高波」に指定した<ref name="S17海軍公報(部内限)4270">{{アジア歴史資料センター|C12070423900|昭和17年12月18日(金)海軍公報(部内限)第4270号 p.49}}</ref>。
10月11日、第二水雷戦隊は[[ガダルカナル島]][[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]を[[艦砲射撃]]する第三戦隊を護衛してトラックを出撃。10月13日から14日にかけての深夜に行われた[[ヘンダーソン基地艦砲射撃|砲撃]]においては、襲来してきた[[魚雷艇]]の一群を追い払った<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.16,29,30</ref>。砲撃後、第三戦隊とともにガダルカナル島を後にした第二水雷戦隊は、同じくヘンダーソン飛行場砲撃に向かう[[重巡洋艦]][[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]の護衛に[[旗艦]]の[[軽巡洋艦]][[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]と第三十一駆逐隊を加勢させる事として兵力を分割した<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.36</ref>。妙高と摩耶は10月14日夜にガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して枕を並べて全滅した高速輸送船を見つつ、10月15日夜に艦砲射撃を敢行<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.37</ref>。砲撃は約1時間で終わり<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.37,38</ref>、第三十一駆逐隊も砲撃を行った。戦場を離脱後、10月17日夜に[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]([[近藤信竹]]中将・海兵35期)および[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]([[南雲忠一]]中将・海兵36期)主力と合流し<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.73</ref>、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた。10月26日の[[南太平洋海戦]]を経て、10月30日にトラックに帰投した<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.71</ref>。


10月11日、第二水雷戦隊(旗艦「[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]」{{Efn2|従来の二水戦旗艦「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」は損傷修理のため内地へ帰投した。9月25日、五十鈴が二水戦に編入され<ref name="五十鈴行動">[[#丸写真8軽巡I|写真日本の軍艦8巻、軽巡I]]、175-176「軽巡洋艦『長良・五十鈴・名取』行動年表 ◆五十鈴◆」</ref>、[[田中頼三]]少将の旗艦となった。}}、第15駆逐隊〈[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]〉{{Efn2|第15駆逐隊所属の駆逐艦「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」は、[[第二航空戦隊]]護衛のため別行動。}}、第24駆逐隊〈[[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]〉、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)は[[ガダルカナル島]][[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]への[[艦砲射撃]]を命じられた「金剛」と「榛名」を護衛することになり、挺身攻撃隊(指揮官・栗田健男第三戦隊司令官)としてトラック泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=211-212}}。
11月3日、第二水雷戦隊は外南洋部隊増援部隊としてトラックを出撃して[[ショートランド諸島|ショートランド]]に向かう。11月6日深夜、第三十一駆逐隊を含む駆逐隊四隊は、ガダルカナル島への[[鼠輸送]]を行うためショートランドを出撃<ref name="a">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.15</ref>。途中で[[B-17 (航空機)|B-17]] の空襲を受け、戦死者3名と重傷者7名を出し、一番砲塔などに被害があった<ref name="a"></ref>。深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.15,16</ref>。間を置かず、第二水雷戦隊は11月12日に、[[第38師団 (日本軍)|第三十八師団]]([[佐野忠義]]中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船とともにショートランドを出撃し、タサファロングに突入する第一分隊を護衛した。しかし、11月14日になって輸送船団はヘンダーソン飛行場から飛来した[[航空母艦|空母]][[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] (''USS Enterprise, CV-6'') の艦載機<ref>南太平洋海戦での損傷の修理中、艦載機をヘンダーソン飛行場に移動させていた(木俣『日本水雷戦史』232、233ページ)</ref>、[[アメリカ陸軍航空軍|陸軍]]機、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]機による8度にわたる反復攻撃を受け、11隻の輸送船は約半数が沈没するか引き返した。田中少将は駆逐艦と残存の4隻の輸送船を[[サボ島]]沖に向かう第二艦隊の後につけさせ、[[第三次ソロモン海戦]](戦艦の夜戦)が生起した隙を突いて輸送船をタサファロングの浜辺に擱座させた<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.23</ref>。第二水雷戦隊は11月15日にショートランドに帰投した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.7</ref>。
10月13日から14日にかけての深夜に行われた[[ヘンダーソン基地艦砲射撃|飛行場砲撃]]においては{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=149|ps=ガダルカナル島基地砲撃一覧表}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=213a-215}}、襲来してきた[[魚雷艇]]4隻{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=214}}を追い払った<ref>[[#S1710 第二水戦詳報 (3)]], pp.16, 29-30</ref>。ヘンダーソン飛行場は損害を受けたが、日本軍が知らなかった新規飛行場は離着陸可能であり、ガ島揚陸中の輸送船団に空襲を加えた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=220}}。輸送船団の苦戦を知った連合艦隊は、前進部隊の重巡「[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]」と「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」に飛行場砲撃を命じ、これを二水戦(五十鈴、第31駆逐隊)が護衛することになった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=222a|ps=第五戦隊の飛行場射撃}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=226-229|ps=前進部隊の作戦}}。「妙高」と「摩耶」はガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して擱座炎上した輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を見つつ<ref>[[#S1710 第二水戦詳報 (3)]], p.37</ref>、10月15日夜{{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=150-152}}、艦砲射撃を敢行した{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=149|ps=ガダルカナル島基地砲撃一覧表}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=222b}}。砲撃は約1時間で終わり<ref>[[#S1710 第二水戦詳報 (3)]], pp.37-38</ref>、第31駆逐隊も砲撃を行った(発射弾数253発){{Sfn|戦史叢書83|1975|p=222b}}。戦場を離脱後、10月17日夜に[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]([[近藤信竹]]中将)および[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]([[南雲忠一]]中将)主力と合流し<ref>[[#S1710 第二水戦詳報 (3)]], p.73</ref>、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=232-233}}。10月26日の[[南太平洋海戦]]時は、支援部隊・前進部隊(第二艦隊基幹)に所属していた{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=273-275|ps=支援部隊の編制}}。10月30日にトラックに帰投した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=306}}<ref>[[#S1710 第二水戦詳報 (3)]], p.71</ref>。

11月3日、長波を含め支援部隊の一部部隊{{Efn2|第七戦隊(鈴谷)、摩耶、第二水雷戦隊、第10駆逐隊。}}は外南洋部隊(指揮官[[三川軍一]]海軍中将、第八艦隊司令長官)に編入され{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=325-327|ps=兵力の再編制}}、トラックを出撃して[[ショートランド諸島|ショートランド]]に向かう。11月5日、ショートランド泊地において外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第三水雷戦隊司令官[[橋本信太郎]]少将から第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将に引き継がれた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=349}}。ガダルカナル島への[[鼠輸送]]に従事していた第三水雷戦隊は、トラック泊地へ戻る{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=349}}。これ以降、ガ島への駆逐艦輸送作戦は田中頼三少将が指揮することになった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=349}}。

11月6日深夜、第15駆逐隊司令[[佐藤寅治郎]]大佐指揮下の甲増援隊(第15駆逐隊〈親潮、早潮、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈巻波、高波、長波〉、第10駆逐隊〈[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]〉)はショートランド泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=350-351|ps=七日の輸送}}<ref name="a">[[#S1711 第二水戦日誌 (1)]], pp.15-16</ref>。途中で米軍爆撃機と小型機20数機の空襲を受け、「長波」と「高波」が損傷した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=351}}。「長波」は戦死者3名と重傷者7名を出し(乗組員によれば戦死4名、ほか陸軍部隊に負傷者){{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=196}}、一番砲塔などに被害があった<ref name="a" />。甲増援隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=351}}。

{{seealso|第三次ソロモン海戦}}

この頃の連合艦隊は大規模輸送船団によるガ島輸送を計画しており、外南洋部隊増援部隊は[[第38師団 (日本軍)|第38師団]](司令官[[佐野忠義]]中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船を護衛することになった{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=354-355|ps=外南洋部隊}}。11月12日1530、増援部隊(指揮官・田中頼三少将、二水戦旗艦「早潮」){{Efn2|早潮(第二水雷戦隊旗艦)、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、巻波、長波、天霧、望月。}}{{Efn2|「五十鈴」は外南洋部隊主隊として別働<ref name="五十鈴行動" />、「黒潮」は待機隊として出動せず、「天霧」と「望月」が収容隊として二水戦に同行{{sfn|戦史叢書83|1975|p=355}}。}}は輸送船団を護衛してショートランドを出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=376}}。だが飛行場砲撃隊と米艦隊の間で夜間水上戦闘となり(第三次ソロモン海戦、第一夜戦)、輸送船団は[[コロンバンガラ島]]東方で反転、ショートランド泊地に引き返した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=379}}。
11月13日15時30分、輸送船団は再びショートランド泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=379}}。
11月14日になると、輸送船団はヘンダーソン飛行場から飛来した[[航空母艦|空母]]「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] (USS ''Enterprise'', CV-6) 」の艦載機{{Efn2|南太平洋海戦での損傷の修理中、艦載機をヘンダーソン飛行場に移動させていた{{sfn|木俣、水雷戦史|1986|pp=232-233}}。}}、[[エスピリトゥサント島]]から飛来した[[アメリカ陸軍航空軍|陸軍]]の[[B-17 (航空機)|B-17重爆]]{{Sfn|ニミッツ|1962|p=138}}、ガ島から来た[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]機による八次におよぶ反復攻撃を受けた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=379}}。[[零式艦上戦闘機]]や水上観測機が護衛にあたったが、米軍機の大群を阻止できなかった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=379}}。11隻の輸送船は6隻が沈没し、「佐渡丸」と護衛2隻([[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[望月 (駆逐艦)|望月]])が引き返した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=380}}。「長波」は陸兵570名を救助した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=380}}。田中少将は駆逐艦と残存の4隻の輸送船を[[サボ島]]沖に向かう前進部隊(指揮官・近藤信竹第二艦隊司令長官)の後につけさせたが、救助者を乗せた各艦(長波、巻波、江風、涼風)は戦闘に耐えられる状態ではなかった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=381}}。その後、田中少将は第三次ソロモン海戦第二夜戦が生起した隙を突いて輸送船をタサファロングの浜辺に擱座させた{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=397-398|ps=第二次輸送船団の壊滅}}。夜明け後、輸送船は空襲と重砲射撃と艦砲射撃により粉砕され、人員のみガ島に揚陸した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=140}}。駆逐艦だけになった増援部隊は、11月15日22時にショートランドへ帰投した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=398}}<ref>[[#S1711 第二水戦日誌 (3)]], p.7</ref>。

=== ルンガ沖夜戦 ===
輸送船によるガダルカナル島突入が失敗に終わると{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=398}}、ガダルカナル島に対する輸送作戦は[[ドラム缶]]を用いた鼠輸送に切り替えられた{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=407-408|ps=聯合艦隊司令部}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=431-432|ps=ドラム罐輸送計画}}。田中少将は月齢、作業時間、訓練などを勘案して12月1日以降に決行してはと[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]](司令長官[[三川軍一]]中将)に二度意見具申したが<ref>[[#S1711 第二水戦日誌 (1)]],pp.38,40</ref>、潜水艦による輸送が進捗しない事やガダルカナル島の将兵の糧食が厳しくなっている事を理由に、意見は二度とも却下された{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=432-433}}<ref>[[#S1711 第二水戦日誌 (1)]],pp.40-41</ref>。また輸送量・人員を増やすよう要望した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=432-433}}。田中少将は、配下の駆逐艦全てから予備魚雷を陸揚し{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=432-433}}、警戒艦を除く各艦にドラム缶を200個から240個搭載させた<ref>[[#S1711 第二水戦日誌 (3)]], pp.1-2, 42-44</ref>
この出撃時の兵力部署は、
* 警戒隊(二水戦司令官直率):長波(二水戦司令官)、高波(第31駆逐隊司令)<ref>[[#S1711 第二水戦日誌 (3)]], pp.1, 3-4</ref>
* 第一輸送隊(第15駆逐隊司令):第15駆逐隊(親潮、黒潮)、巻波
* 第二輸送隊(第24駆逐隊司令):第24駆逐隊(涼風、江風)
であった{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=432-433}}。田中少将は「長波」を臨時の増援部隊旗艦とした{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=433}}。


===ルンガ沖夜戦===
{{seealso|ルンガ沖夜戦}}
{{seealso|ルンガ沖夜戦}}
輸送船によるガダルカナル島突入が失敗に終わると、ガダルカナル島に対する輸送作戦は[[ドラム缶]]を用いた鼠輸送に切り替えた。田中少将は月齢、作業時間、訓練などを勘案して12月1日以降に決行してはと[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]([[三川軍一]]中将・海兵38期)に二度意見具申したが<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.38,40</ref>、潜水艦による輸送が進捗しない事やガダルカナル島の将兵の糧食が厳しくなっている事を理由に、意見は二度とも却下された<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.40,41</ref>。二度も意見を却下された田中少将は、配下の駆逐艦全てから予備魚雷を降ろし、警戒艦を除く各艦にドラム缶を200個から240個搭載させた<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.1,2,42,43,44</ref>。警戒艦は第三十一駆逐隊の諸艦に割り振って、警戒隊と二つの輸送隊の警戒担当とし<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.1,3,4</ref>、田中少将は長波を臨時の旗艦とした。


11月29日夜22時45分、第二水雷戦隊はショートランドを出撃して北方からガダルカナル島を目指した<ref>第二水隊戦時日誌』C08030099000, pp.44,45,48</ref>。しかし、翌11月30日朝に偵察のB-17 に発見される<ref>第二水隊戦時日誌』C08030099000, pp.45,48</ref>。これを受け、南太平洋軍司令官[[ウィリアム・ハルゼー]][[大将]]は「東京急行」を阻止すべく、[[カールトン・H・ライト]]少将の{{仮リンク|第67任務部隊|en|Task Force 67}}を出撃させた<ref>ポッター, 306ページ</ref>。サボ島沖に差し掛かった20時30分頃、警戒隊の[[高波 (駆逐艦)|高波]]は単艦先行してアメリカ艦隊の攻撃に備え、長波、巻波も輸送隊からやや離れて警戒の任務にあたった。21時12分、高波が第67任務部隊を発見する。敵発見の報を受けて、田中少将はドラム缶を投棄させて戦闘態勢入っ。[[ルンガ沖夜]]の始まりである。敵発見を報じた高波は、21時20分から第67任務部隊の集中砲火を浴び、直ちに反撃の[[酸素魚雷]]を発射したものの、袋叩きの末航行不能となった<ref>『水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.52</ref>その隙を突いて他の駆逐も酸素魚雷を発射し、その[[ファラクス|槍衾]]第67任務部隊の巡洋艦部隊に襲掛かった。先頭の[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]] (''USS Minneapolis, CA-36'') には魚雷が2命中し艦首吹き飛ばし、ミネアポリスの後方を包んでいた[[ニューオーリンズ (重巡洋艦)|ニューオーリンズ]] (''USS New Orleans, CA-32'') も魚雷の線に飛び込み艦首魚雷が命中てミネアポリス同様に鼻先を失った。3番艦[[ペンサコーラ (重巡洋艦)|ペンサコーラ]] (''USS Pensacola, CA-24'') は損傷したミネアポリスニューオーリンズ両艦るべく左に舵を切っが、両艦からの火災によってペンサコーラの艦影が浮かび上がり、日本側による2目の雷撃の格好の目標となってしまった。ペンサコーラには1本が後部マスト直下の左舷側に命中し、機械室が破壊され砲塔3基が使用不能になった上、大火災が発生した。4番艦[[ホノルル (軽巡洋艦)|ホノルル]] (''USS Honolulu, CL-48'') は30ノットの速力で相手から離れ無事だった。5番艦[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]] (''USS Northampton, CA-26'') は魚雷2本が左舷後部に命中したが、命中穴は大きく同一箇所に命中したようだった<ref>木俣『日本水雷戦史』242ページ</ref>。ノーザンプトンは左に大きく倒れ、3時間後に傾斜して燃えながら沈没していった
11月29日夜22時45分、外南洋部隊増援部隊はショートランドを出撃して北方からガダルカナル島を目指した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=433}}<ref>[[#S1711 第二水戦日誌 (3)]], pp.44-45,48</ref>。しかし、翌11月30日朝に偵察のB-17に発見される<ref>[[#S1711 第二水戦日誌 (3)]], pp.45,48</ref>。これを受け、南太平洋軍司令官[[ウィリアム・ハルゼー]]大将は「東京急行」を阻止すべく、[[カールトン・H・ライト]]少将の{{仮リンク|第67任務部隊|en|Task Force 67}}を出撃させた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=141}}{{Sfn|ポッター|1991|p=306}}。サボ島沖に差し掛かった20時30分頃、警戒隊の高波は単艦先行してアメリカ艦隊の攻撃に備えた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=433}}。21時12分、高波が第67任務部隊を発見する{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=433}}増援部隊各艦はドラム缶の投入準備にかかっていたが、敵発見の報告により田中少将はドラム缶を投棄させて21時16分「揚陸止メ、全軍突撃セヨ」を下令し{{Sfn|史叢書83|1975|p=433}}。敵発見を報じた高波は、21時20分から第67任務部隊の集中砲火を浴び{{Sfn|ニミッツ|1962|p=142}}、航行不能となって23時37分に沈没し{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=435}}。「高波」座乗の清水大佐(31駆逐隊司令)は戦死した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=184}}増援部隊各魚雷を発射し{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=434|ps=挿図第32ガ沖夜戦合戦図}}、「長波」射撃を行つつ魚雷8本を射、非敵側反転した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=435}}「長波」の損傷海戦で大口径弾の至近弾けたであった<ref>[[#S1711 第二水戦日誌 (1)]], p.51</ref>。

高波は23時30分頃に自沈の処置を始めたが、同37分、米艦隊の魚雷が艦尾に命中し、爆雷、爆薬庫が爆発し沈没した。長波は海戦で大口径弾の至近弾を受けた軽い損害だった。<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.51</ref>。
一方、増援部隊が発射した魚雷の[[ファランクス|槍衾]]は第67任務部隊の巡洋艦部隊に襲い掛かった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=143}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=437-440|ps=米艦隊の戦闘}}。旗艦「[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]] (USS ''Minneapolis'', CA-36) は魚雷2本を被雷して艦首を吹き飛ばされ、「[[ニューオーリンズ (重巡洋艦)|ニューオーリンズ]] (USS ''New Orleans'', CA-32) 」も魚雷命中により艦首を失った{{Sfn|ニミッツ|1962|p=143}}。3番艦「[[ペンサコーラ (重巡洋艦)|ペンサコーラ]] (USS ''Pensacola'', CA-24) は被雷して炎上した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=143}}。4番艦「[[ホノルル (軽巡洋艦)|ホノルル]] (USS ''Honolulu'', CL-48) 」は30ノットの速力で相手から離れ無事だった。5番艦「[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]] (USS ''Northampton'', CA-26) 」は魚雷2本が左舷後部に命中したが、命中穴は大きく同一箇所に命中したようだった{{Sfn|木俣、水雷戦史|1986|p=242}}。「ノーザンプトン」は転覆して沈没した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=143}}。

夜戦で大きな戦果をあげた二水戦だが、田中少将に対する評価は芳しくなかった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=436}}。ただし翌年9月15日、連合艦隊は増援部隊の功績をたたえて感状を授与した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=440b}}。「高波」の除籍により、31駆は「長波」と「巻波」の2隻になった<ref>[[#内令昭和17年12月分(4)]]、p.29</ref>


=== 昭和17年12月から昭和18年前半の戦い ===
=== 昭和17年12月から昭和18年前半の戦い ===
海戦には勝利したものの、本来の目的であるドラム缶輸送は果たせていなかった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=440b}}。駆逐艦を増強し、12月3日から4日にかけて田中少将の指揮下で第二輸送作戦がおこなわれた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=440a|ps=十二月三日}}。「長波」をふくめ駆逐艦10隻{{Efn2|第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊('''長波'''、巻波)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第4駆逐隊(嵐、野分)、第27駆逐隊(夕暮)}}による輸送では、空襲で「巻波」が小破{{Sfn|ニミッツ|1962|p=143}}、ドラム缶1,500個を投入したが陸軍が揚収したのは310個であった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=440b}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=198-199}}。この頃、ショートランド泊地に駆逐艦「[[照月 (駆逐艦)|照月]]」{{Efn2|連合艦隊の命令により、12月1日附で「照月」と「浦風」は外南洋部隊に編入されていた。}}が到着した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=441a|ps=十二月七日}}。田中少将は、二水戦旗艦を「長波」から「照月」に変更した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=441b}}{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=203}}。
しかし、海戦には勝利したものの本来の目的であるドラム缶輸送は果たせていなかった。そのため、12月に入ってからも輸送作戦が繰り返される事となった。12月3日から4日にかけての第二次輸送、12月7日から8日にかけての第三次輸送、12月11日から12日にかけての第四次輸送に従事するが<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.4,6</ref>、空襲や魚雷艇の妨害などによって輸送作戦は上手くゆかなかった。12月14日に[[ラバウル]]に後退してからは[[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]への輸送作戦に参加する<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.6</ref>。12月25日から26日にかけては、[[コロンバンガラ島]]への輸送任務に向かう途中でアメリカの潜水艦[[シードラゴン (潜水艦)|シードラゴン]] (''USS Seadragon, SS-194'') の魚雷攻撃を受け、さらに護衛の駆逐艦[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]と衝突して二重の損傷を負った輸送船南海丸([[商船三井|大阪商船]]、8,416トン)に対する救援活動に従事した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.25,26,33</ref>。12月30日、第二水雷戦隊司令官が田中少将から[[小柳冨次]]少将(海兵42期)に代わり、引き続き長波を戦隊旗艦とした<ref name="b">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.7</ref>。


12月7日から8日にかけての第三次輸送作戦は、第15駆逐隊司令の指揮下で「長波」を含め駆逐艦11隻{{Efn2|第15駆逐隊司令[[佐藤寅治郎]]大佐、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊('''長波''')、第24駆逐隊(江風、涼風)、第4駆逐隊(嵐、野分)、第17駆逐隊(浦風、谷風)、第27駆逐隊(有明)}}が参加した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=441b}}。往路で駆逐艦「[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]」が空襲を受けて航行不能となり、「長波」は「野分」を曳航してショートランド泊地に引き返した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=441b}}。2隻を駆逐艦「[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]」(第4駆逐隊司令[[有賀幸作]]大佐)と「[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]]」が護衛した{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=199-200}}。魚雷艇や米軍機の妨害により{{Sfn|ニミッツ|1962|p=144}}、輸送作戦は失敗に終わった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=441b}}。
年明けた[[1943年]](昭和18年)1月2日から3日にかけての第五次輸送に参加の後トラックに下がる事となり、1月14日にトラックに到着した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.5,10</ref>。小柳少将は着任後1ヵ月で[[伊崎俊二]]少将(海兵42期)に司令官の座を譲り、長波から将旗を撤収した<ref name="b"></ref>。1月14日から3月7日にかけてはトラックで整備を行い<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.10、C08030100400, pp.7、C08030100500, pp.7</ref>、3月8日に、前年暮れに救援した南海丸を護衛してトラックを出港し、瀬戸内海まで護衛の後[[舞鶴市|舞鶴]]に回航され、[[舞鶴海軍工廠]]で修理に入った<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100500, pp.12,15</ref>。修理後横須賀に回航されて、[[航空母艦|空母]][[雲鷹 (空母)|雲鷹]]、[[冲鷹 (空母)|冲鷹]]を護衛してトラックに向かう<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100600, pp.6</ref>。5月8日に雲鷹、冲鷹に戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]を加えてトラックを出港し、5月13日に横須賀に帰投の後、北方部隊に編入された<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100700, pp.6、『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084000, pp.8</ref>。[[占守島]]片岡湾に進出して行動を開始するも、故障発生により再び舞鶴海軍工廠で修理が行われ、修理後は[[幌筵島]]に進出した<ref>『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084400, pp.15,35,45</ref>。

12月11日から12日にかけての第四次輸送作戦は田中少将の直率下で行われ、連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将は「今次ノ駆逐艦輸送ニ期待スルトコロ極メテ大ナリ、アラユル手段ヲ講ジ任務達成ニ務メヨ」と激励した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=446a-447|ps=第四次ガ島ドラム罐輸送}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=200-201}}。「長波」ふくめ駆逐艦11隻{{Efn2|増援部隊旗艦(照月)、第4駆逐隊(嵐)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊('''長波''')、第24駆逐隊(江風、涼風)、第17駆逐隊(谷風、浦風)、第27駆逐隊(有明)}}で実施する{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=446b}}。ガダルカナル島に到着してドラム缶を揚陸中、増援部隊は米軍魚雷艇に襲撃されて旗艦「照月」が被雷、航行不能となる{{Sfn|ニミッツ|1962|p=144}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=447}}。田中少将ふくめ第二水雷戦隊司令部は「長波」に移乗した{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=205}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=447}}。二水戦司令部退去後、「照月」は自沈した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=447}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=203-204}}。投下したドラム缶1,200個のうち、揚収できたのは220個であったという{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=447}}。

12月14日に[[ラバウル]]に後退してからは、[[ニュージョージア島]][[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]](日本軍飛行場建設中){{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=452-453|ps=ムンダ基地設営}}への輸送作戦に参加する<ref>[[#S1711 外南洋増援部隊日誌 (3)]], p.6</ref>。田中少将直率のもと、「長波」ふくめ駆逐艦6隻{{Efn2|第二水雷戦隊司令官直率、第31駆逐隊('''長波'''、巻波)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第17駆逐隊(谷風)}}は12月16日14時にショートランド泊地を出発する(ムンダ第一回輸送、第一次){{Sfn|戦史叢書83|1975|p=453a|ps=第一回輸送}}。夜間空襲を受け、「陽炎」が小破した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=453b}}。翌日5時、ショートランド泊地に帰投した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=453b}}。

12月25日13時、駆逐艦「[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]」と輸送船「南海丸」([[商船三井|大阪商船]]、8,416トン)はムンダに向けラバウルを出発した(ムンダ第二回輸送、第四次){{Sfn|戦史叢書83|1975|p=454a|ps=第二回輸送}}。17時30分、セントジョージ岬西南西24浬で米潜水艦「[[シードラゴン (潜水艦)|シードラゴン]] (USS ''Seadragon'', SS-194) 」の雷撃を受け、「南海丸」が損傷する{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=454b}}。さらに「南海丸」と「卯月」が衝突、「卯月」は航行不能となった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=454b}}。駆逐艦4隻(長波、有明、谷風、浦風)は急遽ラバウル出撃、救援にむかう{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=454b}}{{Efn2|「卯月」は「有明」に曳航されていたが、空襲で「有明」は中破する{{sfn|戦史叢書83|1975|pp=454-455}}。「卯月」は「浦風」に曳航され、ラバウルに帰投した。}}。「長波」は給油艦「[[鶴見 (給油艦)|鶴見]]」等とともに「南海丸」を護衛して避退、同船は26日15時頃ラバウルに帰投した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=455}}<ref>[[#S1711 外南洋増援部隊日誌 (3)]], pp.25-26, 33</ref>。

12月30日、増援部隊指揮官(第二水雷戦隊司令官)は田中頼三少将から[[小柳冨次]]少将に代わり、引き続き「長波」を旗艦とした<ref name="b">[[#S1801 第二水戦日誌 (1)]], p.7</ref>{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=510-512|ps=一月二日}}。

[[1943年]](昭和18年)1月2日から3日にかけての第五次輸送は、「長波」ふくめ駆逐艦10隻{{Efn2|警戒隊('''長波'''、江風、涼風、巻波、荒潮)、輸送隊(親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)}}で行われた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=511}}。[[レンドバ島]]付近で空襲をうけ「涼風」が損傷、「[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]」の護衛下で引き返した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=511}}。最前線で長期間活動していた二水戦各艦は消耗が激しく、4隻(長波、親潮、陽炎、涼風)は前進部隊に復帰した{{Efn2|前進部隊復帰は、「親潮」「陽炎」「涼風」が1月6日付、「長波」と二水戦司令部は1月10日付。}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=512b}}。1月10日、増援部隊旗艦(二水戦旗艦)は「長波」から「黒潮」に変更された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=513}}。翌日、外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第二水雷戦隊司令官・小柳冨次少将から第十戦隊司令官・[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将に引き継がれた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=513}}。1月12日10時、二水戦司令官は「長波」を率いてショートランド泊地を出発した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=513}}。1月14日、トラックに到着した<ref>[[#S1801 第二水戦日誌 (1)]], pp.5,10</ref>。「長波」は3月7日までトラック泊地で整備を行った<ref>[[#S1801 第二水戦日誌 (1)]], p.10、[[#S1801 第二水戦日誌 (3)]], p.7、[[#S1801 第二水戦日誌 (4)]], p.7</ref>。

1月19日、第十戦隊旗艦の駆逐艦「[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]」は米潜水艦「[[ノーチラス (潜水艦)|ノーチラス]] (USS ''Nautilus'', SS-168) 」に雷撃されて大破、第十戦隊司令官(木村少将)も負傷した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=519}}。小柳少将(第二水雷戦隊司令官)は第十戦隊司令官に任命され{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=519}}、「長波」から将旗を撤収する<ref name="b" />。「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」艦長が臨時に二水戦司令官を代行したあと、後任の二水戦司令官には[[伊崎俊二]]少将が任命された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=519}}。「長波」は工作艦「[[明石 (工作艦)|明石]]」の世話になった{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=206}}。整備中の1月20日、「五十鈴」が第二水雷戦隊から除かれ第十六戦隊へ転籍した<ref name="五十鈴行動" />。同日附で、駆逐艦「[[大波 (駆逐艦)|大波]]」{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94c|ps=大波(おおなみ)}}(藤永田造船所建造艦、前年12月29日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=290a|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/大波 Onami}}が第31駆逐隊に編入された<ref>[[#内令昭和18年1月(2)]]、p.25</ref>。
2月25日には姉妹艦「[[清波 (駆逐艦)|清波]]」{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94d|ps=清波(きよなみ)}}(浦賀船渠建造艦、1月25日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=290b|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/清波 Kiyonami}}が31駆に加わった<ref>[[#内令昭和18年2月(4)]]、pp.48-49</ref>。第31駆逐隊は定数4隻(長波、巻波、大波、清波)となった。

3月8日に、「長波」は前年暮れに救援した「南海丸」を護衛してトラックを出港し、瀬戸内海まで護衛の後に[[舞鶴市|舞鶴]]へ回航され、3月17日に入港し<ref name="S1803舞鎮(2)19" />、[[舞鶴海軍工廠]]で修理と整備をおこなう<ref>[[#S1801 第二水戦日誌 (4)]], pp.12,15</ref>。修理後、4月20日に舞鶴を出発し<ref>[[#S1804舞鎮日誌]], p.66(昭和18年4月20日記事)「木曾入港 長波出港」</ref>、横須賀に回航された<ref>[[#S1801 第二水戦日誌 (5)]], p.6</ref>。
4月25日、第十四戦隊の軽巡洋艦「[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]」{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=469}}と駆逐艦3隻(長波、時雨、有明)は<ref>[[#S1712四水戦日誌(6)]], p.7</ref>、空母「[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]」と「[[冲鷹 (空母)|冲鷹]]」を護衛してトラックに向かう{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=310|ps=第十四戦隊の内南洋部隊への進出}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=494}}。4月30日、艦隊はトラック泊地に到着した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=494}}。
5月8日、軍艦5隻(戦艦〈大和〉、空母〈雲鷹、冲鷹〉、第五戦隊〈妙高、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]〉)は駆逐艦部隊(長波、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]])に護衛されてトラックを出港し、それぞれ内地に帰投した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=494}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=328a|ps=「大和」等の内地回航}}。5月13日、「長波」と「五月雨」は第五戦隊および空母と共に横須賀へ帰投した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=520}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=328b}}。

横須賀到着の前日、連合軍は[[アッツ島]]に上陸を開始、[[アッツ島の戦い]]が始まった{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=529|ps=五月十二日の状況}}。
第五戦隊および「長波」と「五月雨」は北方部隊([[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]]基幹)に編入され<ref>[[#S1801 第二水戦日誌 (6)]], p.6、[[#S1803 第一水戦日誌 (4)]], p.8</ref>、アリューシャン列島への進出を命じられる{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=533b}}。5月15日、4隻(妙高、羽黒、長波、五月雨)は横須賀を出発、5月19日に幌筵へ到着した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=546}}。北方部隊はアッツ島救援のため駆逐艦「[[神風 (2代神風型駆逐艦)|神風]]」と「[[野風 (駆逐艦)|野風]]」をアッツ島に突入擱座させて補給を行う計画を立てていたが{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=545-547|ps=北方部隊の状況}}{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=554-556|ps=北方部隊の作戦・水上部隊}}、実施されなかった{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=558-559}}。5月29日、アッツ島守備隊は玉砕した{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=549-550|ps=アッツ島における状況}}。
6月1日、「長波」は補給の際に舷側に損傷を負い、翌日幌筵を出発する{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=599}}。6月5日、舞鶴に到着した<ref name="S1806舞鎮06長波">[[#S1806舞鎮日誌]], p.6「(二)造修(a)修理工事(b)長波 五日入港船體損傷及機銃増備工事施行二十三日完成出港」</ref>。修理と機銃増備工事をおこなう<ref name="S1806舞鎮06長波" />。6月23日、舞鶴を出動する<ref>[[#S1806舞鎮日誌]], p.67(1943年6月23日項目)「長波工事完了出動」</ref>。7月1日、[[幌筵島]]に進出した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=599}}<ref>[[#S1803 第一水戦日誌 (4)]], pp.15,35,45</ref>。


=== キスカ・ブーゲンビル・ラバウル ===
=== キスカ・ブーゲンビル・ラバウル ===
{{seealso|キスカ島撤退作戦}}
{{seealso|キスカ島撤退作戦}}
{{seealso|ブーゲンビル島沖海戦}}
{{seealso|ラバウル空襲}}
7月7日、[[キスカ島撤退作戦]]第一次作戦に警戒部隊として参加する。しかし、第一次作戦は[[キスカ島]]方面の[[霧]]が晴れてきたことで中止となり<ref>『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084500, pp.47</ref>、幌筵島に帰投した。再挙を期して、第二次作戦は7月22日から開始された。しかし、7月26日夕方に多重衝突事故があり、前を航行中の[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]の艦尾が左舷艦尾にぶつかり、外板に少し凹みが生じて若干量の浸水もあったが作戦に支障は無かった。撤退作戦後、8月3日に北方部隊の指揮から離れて原隊に戻ることとなった。[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]とともにタンカー日本丸(山下汽船、9,971トン)を舞鶴近海まで護衛し<ref>『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030085200, pp.15</ref>、舞鶴海軍工廠で9月4日まで修理を行った<ref name="c">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101200, pp.7</ref>。


7月7日、第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将の指揮下、[[キスカ島撤退作戦]]第一次作戦に警戒部隊(初霜、若葉、島風、長波、五月雨)として参加する{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=609-610|ps=第二 軍隊区分}}{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=615-616}}。しかし、第一次作戦は[[キスカ島]]方面の[[霧]]が晴れてきたことで7月15日に作戦中止となり{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=618-620|ps=突入断念、帰投}}<ref>[[#S1806 第一水戦日誌 (2)]], p.47</ref>、7月18日に幌筵島へ帰投した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=620}}。
修理後の9月15日、[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]とともに重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、摩耶を護衛して横須賀を出撃し、トラックを経由してラバウルに向かう<ref name="c"></ref>。護衛任務終了後はトラックで待機し、10月17日からは[[マーシャル諸島]]方面に出撃する第三艦隊([[小沢治三郎]]中将・海兵37期)と第二艦隊(栗田健男中将)の護衛に就いた<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101300, pp.7</ref>。11月に入ってラバウルへの緊急輸送を行った後<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.12</ref>、[[ブーゲンビル島]]トロキナ方面に殴り込みをかける第五戦隊([[大森仙太郎]]少将・海兵41期)を護衛してラバウルを出撃。11月1日から2日にかけての深夜に生起した[[ブーゲンビル島沖海戦]]を経てラバウルに帰投後、11月5日の第1回の[[ラバウル空襲]]に遭遇するが、被害はなかった。11月6日から10日にかけては第十戦隊([[大杉守一]]少将)とともにトロキナへの逆上陸作戦に従事した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.13</ref>。
第二次作戦は7月22日から開始された{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=632-633}}。翌日、3隻(長波、日本丸、国後)は霧のために艦隊から落伍した{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=632-633}}。7月24日、「長波」と「日本丸」は艦隊に合流できたが、「国後」は依然として所在不明だった{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=633-634}}。
7月26日夕方、突入部隊は「国後」を原因とする多重衝突事故を起こす{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=636-639|ps=「國後」出現による触衝事故}}。艦隊最後尾にいた「[[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]」(第21駆逐隊司令駆逐艦)-「[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]」-「長波」は前方の混乱の余波をうけた{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=637}}。まず「初霜」が、前方航行中の「若葉」の右舷後部に衝突する{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=637}}。後進をかけた「初霜」は、後続していた「長波」に衝突した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=637}}。「長波」は右側に回避行動をとっており、「初霜」の艦尾が長波左舷後部に衝突した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=638}}。外板に少し凹みが生じて若干量の浸水もあったが、作戦に支障は無かった{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=638}}。
撤退作戦後、「長波」以下各艦は8月3日附で北方部隊の指揮から離れ{{Efn2|8月3日附で原隊に復帰した艦・部隊は、「摩耶」「島風」「五月雨」「'''長波'''」「響」、第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲)、第12潜水隊。}}、原隊に戻ることとなった{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=666}}。「長波」と駆逐艦「[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]」はタンカー「日本丸」(山下汽船、9,971トン)を舞鶴近海まで護衛した<ref>[[#S1807 第一水戦日誌 (4)]], p.15</ref>。
8月7日、「長波」は舞鶴に到着し、舞鶴海軍工廠で修理をおこなう<ref>[[#S1808舞鎮日誌]], p.9</ref>。
9月4日まで修理を行った<ref name="c">[[#S1806 第二水戦日誌 (3)]], p.7</ref>。翌日、「長波」は舞鶴を出撃した<ref>[[#S1809舞鎮日誌(2)]], p.4 (1943年9月5日記事)「長波、呂三六潜工事完成出撃」</ref>。


修理後の9月15日、「長波」と「[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]」は重巡「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」と「摩耶」を護衛して横須賀を出撃し、トラックを経由してラバウルに向かう{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=439a|ps=第六、第四十三各防空隊等のトラック等への進出}}。9月20日にトラック泊地着後、各艦に分乗していた防空隊は摩耶と長波に移乗した{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=439b}}。摩耶と長波はラバウルに移動して[[ブカ島]]配備予定の防空隊を揚陸し、トラック泊地にもどった{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=439b}}。任務終了後はトラックで待機し、10月17日からは[[マーシャル諸島]]方面に出撃する第三艦隊(司令長官・[[小沢治三郎]]中将)と第二艦隊(司令長官・栗田健男中将)の護衛に就いた<ref>[[#S1806 第二水戦日誌 (4)]], p.7</ref>。
この頃、11月5日の空襲に満足したハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]][[大将]]に新手の空母任務部隊の派遣を要請<ref name="bb">『戦史叢書96』413ページ</ref>。ニミッツ大将は[[ギルバート諸島]]方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務部隊([[アルフレッド・E・モントゴメリー]]少将)を派遣することに決した<ref name="bb"></ref>。11月11日早朝、第2回のラバウル空襲が行われた。[[第38任務部隊]]([[フレデリック・シャーマン]]少将)はブーゲンビル島北方から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた<ref name="bb"></ref>。これに対し、ラバウルから発進した偵察機は第50.3任務部隊を発見<ref name="cc">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101500, pp.1</ref>。これに伴い、ラバウル在泊の駆逐艦は折からの[[スコール]]にまぎれて港外に脱出しつつあった<ref name="cc"></ref>。7時15分、[[急降下爆撃機]]十数機の攻撃を受けて後甲板に被弾し、操舵不能になったうえ爆圧で[[スクリュー]]が脱落して航行不能となった<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.48</ref>。ラバウルにて仮修理を受け、本格的な修理のため曳航されて後送される事が決まり、12月3日に軽巡洋艦[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]、駆逐艦[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]の護衛下、駆逐艦[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]に曳航されてラバウルを出港<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)431">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]431頁『「長波」の曳航護衛』</ref><ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101800, pp.15</ref>。5日までは駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]も護衛に協力、計三回連合軍機と遭遇したが被害を受けることはなかった<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)431" />。8日、トラックに入港<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)431" />。[[1944年]](昭和19年)1月15日、軽巡洋艦[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]に曳航されてトラックを出港し、1月25日に呉に帰投して本格的修理に入った<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102000, pp.14</ref>。


{{seealso|ブーゲンビル島沖海戦|ラバウル空襲}}
=== フィリピンの戦い ===


10月28日、連合艦隊は[[ろ号作戦]]を発動する{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=372-373|ps=「ろ」号作戦発令―十月二十八日}}。この作戦において、[[第一航空戦隊]]の飛行機隊を南東方面の陸上基地に配備することにした{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=424b}}。第十戦隊[[大杉守一]]少将を指揮官とする輸送部隊(第一部隊〈阿賀野、初風、若月、長波〉、第二部隊〈大波、風雲〉、第三部隊〈天津風〉、修理後投入〈巻波〉)は、それぞれ一航戦の基地員と物件をラバウルやカビエンに輸送した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=425b}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=384}}。
ラバウル到着後の第一部隊は、そのまま[[ブーゲンビル島]]トロキナ方面への殴り込みおよび逆上陸部隊を掩護する連合襲撃部隊(指揮官[[大森仙太郎]]第五戦隊司令官)に組み込まれた{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=388-390|ps=タロキナへの逆上陸輸送計画の生起}}。連合襲撃部隊は、第一襲撃部隊(妙高、羽黒)、第二襲撃部隊(川内、時雨、白露、五月雨)、第三襲撃部隊(阿賀野、長波、初風、若月)として出撃した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=390-391|ps=第二回出撃 ― 輸送隊の反転帰投}}。
11月1日から2日にかけての深夜に生起した[[ブーゲンビル島沖海戦]]で日本軍は敗北し、川内と初風を喪失した{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=178-184}}。

ラバウルに帰投後、「長波」は[[ラバウル空襲]]に遭遇する{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=425a-426|ps=遊撃部隊のラバウル進出直後の被害}}。11月5日の空襲で栗田長官の重巡洋艦部隊は大損害を受けたが{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=185-186}}、「長波」ふくめ二水戦各艦に深刻な被害はなかった{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=426}}。大破した「摩耶」{{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=190-192}}、第十戦隊と第二水雷戦隊の大部分を残し、重巡洋艦部隊はトラック泊地へ退却した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=426}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=400-401|ps=重巡部隊のトラック帰投}}。
11月6日から10日にかけては第十戦隊とともにトロキナへの逆上陸作戦に従事した<ref>[[#S1806 第二水戦日誌 (5)]], p.13</ref>{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=401-404|ps=タロキナ北方逆上陸の成功}}。「長波」の兵力部署は、支援部隊麾下の第二支援部隊(指揮官[[高間完]]第二水雷戦隊司令官、旗艦〈[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]〉、[[早波 (駆逐艦)|早波]]{{Efn2|駆逐艦「[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]」も出撃予定だったが、修理が間に合わずラバウルに残留した。}}、長波{{Efn2|「長波」ふくめ第31駆逐隊は挺身輸送隊・警戒隊に属していた。だが支援部隊の「[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]」の修理が間に合わず、「長波」は第二支援部隊に回された。}})であった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=402}}。

この頃、11月5日の空襲に満足したハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]]大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=413}}。ニミッツ大将は[[ギルバート諸島]]方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務群([[アルフレッド・E・モントゴメリー]]少将)を派遣することに決した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=413}}。11月11日早朝、[[第38任務部隊]]([[フレデリック・シャーマン]]少将)はブーゲンビル島北方から、第50.3任務群は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=413}}{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=185-186}}。これに対し、ラバウルから発進した偵察機は第50.3任務群を発見する{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=413}}<ref name="cc">[[#S1806 第二水戦日誌 (6)]], p.1</ref>。これに伴い、ラバウル在泊の第二水雷戦隊と第十戦隊は折からの[[スコール]]にまぎれて港外に脱出しつつあった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=416}}。7時15分、「長波」は[[急降下爆撃機]]十数機の攻撃を受けて後甲板に被弾し、操舵不能になったうえ爆圧で[[スクリュー]]が脱落して航行不能となった<ref>[[#S1806 第二水戦日誌 (5)]], p.48</ref>。

第二水雷戦隊と第十戦隊の大部分はトラック泊地に撤収したが、第31駆逐隊(大波、長波、巻波)はラバウルに残った{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=415}}。「長波」は仮修理を受け、本格的な修理のため曳航されて後送される事になった。12月3日、軽巡洋艦「[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]」と駆逐艦「[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]」の護衛下、駆逐艦「[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]に曳航されてラバウルを出港する{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=431b}}<ref>[[#S1812 第二水戦日誌 (1)]], p.15</ref>。12月5日までは駆逐艦「天霧」も護衛に協力、計三回連合軍機と遭遇したが被害を受けることはなかった{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=431b}}。12月8日、長波曳航部隊はトラックに入港した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=431b}}。

[[1944年]](昭和19年)1月15日、今度は軽巡洋艦「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」に曳航されてトラックを出港した<ref name="長良行動" />{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=490b}}。護衛には駆逐艦「卯月」と「[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]」がついた<ref>[[#S1812三水戦日誌(5)]], p.12</ref>。米軍潜水艦が跳梁する中での曳航のため生還は難しいとみられ、「長良」乗組員は病院船「[[氷川丸]]」に預けていた戦死者の[[遺骨]]を引き取り{{Efn2|「長良」は前年12月5日に[[クェゼリン環礁]]で空襲を受け魚雷が誘爆<ref name="長良行動" />{{sfn|日本軽巡戦史|1989|p=489}}、乗組員の1/3を失っていた。}}、艦内に安置して航海に臨んだ{{Sfn|海軍人間語録|1985|pp=63-64|ps=西村友晴中佐の「英霊を抱いて死のう」}}。長波回航隊は4隻とも内地へ帰投できた{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=491}}。1月24日、内海西部着<ref>[[#S1812三水戦日誌(6)]]、p.21</ref>{{Efn2|その後、「長良」は舞鶴へ移動し、舞鶴海軍工廠で修理をおこなった<ref name="長良行動" />}}。長波は[[呉海軍工廠]]で本格的修理に入った<ref>[[#S1812 第二水戦日誌 (3)]], p.14</ref>。

=== 昭和19年の行動 ===
第31駆逐隊の所属艦は、前年7月に「清波」が夜間空襲により撃沈され{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=224a|ps=清波(きよなみ)}}、前年11月下旬の[[セント・ジョージ岬沖海戦]]で「大波」と「巻波」が沈没{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150|ps=〔セント・ジョージ岬沖海戦〕}}、稼動艦は「長波」だけになっていた<ref>[[#内令昭和18年10月(4)]]、p.8</ref><ref name="S19内令314" />。
1944年(昭和19年)2月10日、第31駆逐隊に「[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]」{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94g|ps=沖波(おきなみ)}}(舞鶴海軍工廠建造艦、前年12月10日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=290c|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/沖波 Okinami}}、「[[岸波 (駆逐艦)|岸波]]」{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94h|ps=岸波(きしなみ)}}(浦賀船渠建造艦、前年12月3日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=290d|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/岸波 Kishinami}}、「[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]」{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94i|ps=朝霜(あさしも)}}(藤永田造船所建造艦、前年11月27日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=290e|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/朝霜 Asahimo}}が編入され、定数4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)を回復した<ref name="S19内令314" />。同日附で、森艦長は第二艦隊司令部附へ転任した<ref name="jirei1319">{{アジア歴史資料センター|C13072095700|昭和19年2月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1319号}}</ref>が、後任艦長の発令はすぐには行われずそのまま修理を行い、6月1日になり新艦長の[[飛田清]]少佐が横須賀鎮守府附<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072097000|昭和19年4月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1401号}}</ref>から就任した<ref name="jirei1492">{{アジア歴史資料センター|C13072099300|昭和19年6月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1492号}}</ref>。
<!---しかし、飛田少佐の前任艦である[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]艦長発令が4月1日であった為、実際に長波へ着任したは6月1日であった<ref>橋本, 246ページ</ref>。--->
修理を終えた後の7月8日正午、第31駆逐隊(朝霜、岸波、沖波、長波)は遊撃部隊(指揮官・栗田健男第二艦隊司令長官)の甲部隊に所属し{{Efn2|栗田長官直率(旗艦「愛宕」)。
* 第四戦隊:愛宕、高雄、鳥海
* 第一戦隊:大和、武蔵
* 第七戦隊:熊野、鈴谷、利根、筑摩
* 第二水雷戦隊:旗艦「能代」、第27駆逐隊(時雨、五月雨)、第31駆逐隊、第32駆逐隊(浜波(、附属(島風)}}{{Sfn|戦史叢書37巻|1970|pp=382-383|ps=遊撃部隊主隊}}、呉を出撃した{{Sfn|戦史叢書37巻|1970|pp=383-384|ps=呉から中城湾までの行動}}。途中、[[沖縄県|沖縄]]の[[第32軍 (日本軍)|第32軍]](司令官[[渡辺正夫]]中将)に対する輸送任務を行い、任務終了後は[[リンガ泊地]]に直接向かって7月16日に到着した{{Sfn|戦史叢書37巻|1970|pp=384-386|ps=中城湾以後の甲部隊の行動}}。以後、リンガ泊地で訓練に励んだ。

=== レイテ沖海戦 ===
{{seealso|レイテ沖海戦}}

10月18日、[[捷号作戦|捷一号作戦]]発動に伴って第一遊撃部隊(通称'''栗田艦隊'''または'''栗田部隊'''と呼称)はリンガ泊地から出動した(海戦の経過詳細と部隊編成については、当該記事を参照){{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=65}}。[[ブルネイ湾]]で補給の後、第一遊撃部隊の第一部隊と第二部隊は10月22日に出撃した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=137}}。翌10月23日未明、パラワン水道において第二艦隊旗艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」がアメリカ潜水艦「[[ダーター (SS-227)|ダーター]] (USS ''Darter'', SS-227) 」の雷撃で沈没{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=141-142|ps=旗艦愛宕の被雷沈没}}。重巡洋艦「摩耶」は、潜水艦「[[デイス (潜水艦)|デイス]] (USS ''Dace'', SS-247) 」{{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=247-254}}の雷撃で沈没し{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=145-146}}、「[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]」は、「ダーター」の雷撃により大破した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=144|ps=「高雄」の被雷}}。
第31駆逐隊の「長波」と「朝霜」は高雄の警戒と護衛を命じられ、栗田艦隊本隊とは別行動になった{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=146-147}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=151a-152|ps=「高雄」、ブルネイに回航}}。救援要請により、海防艦「[[千振 (海防艦)|千振]]」、水雷艇「[[鵯 (水雷艇)|鵯]]」、特設駆潜艇「御津丸」が、それぞれ「高雄」との合流を急いだ{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=151b}}。「ダーター」と「デイス」は「高雄」にとどめを刺そうと攻撃機会をうかがっていたが、「長波」と「朝霜」と水上機が警戒しているため、昼間襲撃を諦めた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=153-155|ps=付記、米潜水艦の戦闘状況}}。

翌10月24日未明、「ダーター」はパラワン水道のボンベイ礁(日本側は福瀬と呼称)に座礁し、放棄された{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=154}}。「デイス」は僚艦の乗組員を収容したあと、現場を去った{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=154}}。同日4時20分、「鵯」と「御津丸」が高雄隊に合流する{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。8時50分、味方哨戒機が通信筒を投下、ボンベイ礁に座礁した潜水艦(ダーター)の攻撃を依頼した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。「長波」と「鵯」は「ダーター」を攻撃するため座礁現場におもむく{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。約3分間、リーフ上の「ダーター」を砲撃した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。13ミリ機銃と写真、可能な限りの鹵獲品を得て、分捕った13ミリ機銃は後檣右舷側に装備された{{sfn|真実の艦艇史2|2005|p=170|loc=田村俊夫「米潜「ダーター」の機銃を装備した「長波」}}。
つづいて「長波」は、[[シブヤン海]]で第38任務部隊([[マーク・ミッチャー]]中将)の艦載機の空襲を受けて大破し、[[コロン島]]経由でブルネイ湾に下がる妙高の護衛を命じられた{{Efn2|損傷した「妙高」は第五戦隊旗艦を「羽黒」に譲り、10月25日7時40分{{sfn|戦史叢書56巻|1972|p=168}}、コロンに入泊した。}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=167-168|ps=「妙高」、被爆落伍す}}。「鵯」は高雄隊の護衛に戻り、「長波」はコロン泊地にむかった{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。

10月26日10時50分、栗田長官は「妙高」「長波」「[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]」に対しコロン出港とブルネイ回航を命じた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=470}}。この命令受領時、「清霜」と「[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]」は戦艦「[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]」の生存者を乗せてマニラにいたので{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=199-200|ps=救助作業}}、命令どおり行動できるのは「妙高」と「長波」だけだった{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=470}}。10月27日11時50分に「妙高」と「長波」はコロンを出発し、パラワン水道を通過して、29日10時30分にブルネイに到着した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=470}}。同地には栗田艦隊残存艦が到着していた{{Efn2|10月29日1030時点のブルネイ在泊艦{{sfn|戦史叢書56巻|1972|p=481}}。
* 戦艦4隻:大和、長門、金剛、榛名
* 重巡3隻:羽黒、利根、妙高
* 軽巡「矢矧」
* 駆逐艦9隻:浦風、磯風、雪風、浜波、岸波、朝霜、長波、秋霜、島風
「熊野」「沖波」「浜風」「清霜」は別行動中。}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=480-481|ps=主隊のブルネイ入泊}}。

=== 多号作戦と沈没 ===
{{seealso|多号作戦}}
{{seealso|多号作戦}}
2月10日、森艦長は第二艦隊司令部附へ転任した<ref name="jirei1319">昭和19年2月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1319号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072095700 で閲覧可能。</ref>が、後任艦長の発令はすぐには行われずそのまま修理を行い、6月1日になり新艦長の飛田清少佐(海兵56期)が横須賀鎮守府附<ref>昭和19年4月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1401号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072097000 で閲覧可能。</ref>から就任した<ref name="jirei1492">昭和19年6月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1492号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072099300 で閲覧可能。</ref>。<!---しかし、飛田少佐の前任艦である[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]艦長発令が4月1日であった為、実際に長波へ着任したは6月1日であった<ref>橋本, 246ページ</ref>。--->6月下旬に修理を終えた後の7月9日、大和、武蔵、第四戦隊など第二艦隊の中枢を護衛して[[臼杵湾]]を出撃。途中、[[沖縄県|沖縄]]の[[第32軍 (日本軍)|第三十二軍]]([[渡辺正夫]]中将)に対する輸送任務を行い、任務終了後は[[リンガ泊地]]に直接向かって7月16日に到着。訓練に励んだ。


ブルネイ到着前の10月27日17時15分、[[豊田副武]]連合艦隊司令長官は[[レイテ島の戦い|レイテ島地上戦]]にともなう海上輸送作戦(「多号作戦」)を実施するため、[[南西方面艦隊|南西方面部隊]]{{Efn2|この命令時の南西方面部隊指揮官は、南西方面艦隊司令長官[[三川軍一]]中将であった{{sfn|戦史叢書56巻|1972|p=503}}。11月1日、南西方面艦隊司令長官は三川中将から[[大川内傳七]]中将に交替した{{sfn|戦史叢書56巻|1972|p=504}}。}}の水上兵力増強を下令した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=501a|ps=聯合艦隊作戦要領}}。GF電令作第381号により、第31駆逐隊(岸波、長波、沖波、朝霜)、第41駆逐隊([[霜月 (駆逐艦)|霜月]]、[[冬月 (駆逐艦)|冬月]])、第61駆逐隊([[若月 (駆逐艦)|若月]]、[[涼月 (駆逐艦)|涼月]])は第二遊撃部隊(指揮官[[志摩清英]]中将、第五艦隊司令長官)に編入された{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=501b}}。10月29日には、GF電令作第387号により第二水雷戦隊全艦が第二遊撃部隊に編入された{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=501b}}。
10月18日、[[捷号作戦|捷一号作戦]]発動に伴って第二艦隊はリンガ泊地から出動し、[[ブルネイ湾]]で補給の後、10月22日に出撃した。だが、翌10月23日未明にパラワン水道において第二艦隊旗艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]がアメリカ潜水艦[[ダーター (SS-227)|ダーター]] (''USS Darter, SS-227'') の、僚艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]が[[デイス (潜水艦)|デイス]] (''USS Dace, SS-247'') のそれぞれ雷撃に遭い沈没し、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]がダーターの雷撃で大破して戦線離脱した。[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]とともに損傷した高雄の警戒と護衛にあたっていたが、翌10月24日にボンベイ礁に座礁したダーターの攻撃のため分離し、[[水雷艇]][[鵯 (水雷艇)|鵯]]とともにリーフ上のダーターを砲撃。13ミリ機銃と写真、可能な限りの鹵獲品を得て、分捕った13ミリ機銃は後檣右舷側に装備された<ref>田村「米潜「ダーター」の機銃を装備した「長波」」170ページ</ref>。次いで[[シブヤン海]]で第38任務部隊([[マーク・ミッチャー]]中将)の艦載機の空襲を受けて大破し、[[コロン島]]経由でブルネイ湾に下がる妙高の護衛に就いた<ref>『軍艦高雄戦闘詳報』pp.11</ref>。損傷艦の護衛を努めた結果、[[レイテ沖海戦]]本体の戦闘には加わらなかった。海戦後、[[マニラ]]に進出し[[レイテ島]]行きの[[多号作戦]]に投入される事となった。
10月30日、「長波」をふくめ第二水雷戦隊の大部分はブルネイを出発、マニラへ移動した{{Efn2|二水戦「[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]」は重巡「[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]」を護衛した関係で既にマニラにおり、第二次多号作戦に従事した。第二水雷戦隊司令官[[早川幹夫]]少将は二水戦の大部分から遅れて「[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]」に乗りブルネイを出発、11月4日にマニラで駆逐艦「[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]」に将旗を掲げた。}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=521a|ps=二水戦のマニラ進出}}。


11月8日朝、多号作戦第四次輸送部隊を護衛マニラを出撃。翌11月9日夕方に[[オルモック湾]]に到着するも、[[大発動艇|大発]]が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった<ref>木俣『日本水雷戦史552ページ</ref>。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなく[[B-25 (航空機)|B-25]] と[[P-38 (航空機)|P-38]] の攻撃を受けて[[陸軍特殊船]]高津丸(山下汽船、5,657トン)輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)が沈没し、戦隊旗艦[[ (朝潮型駆逐艦)|]]および朝霜ともに救助作業にあたり、輸送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(兵41期)は[[秋霜 (駆逐)|秋霜]]以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)護衛つけてマニラへ先発させた<ref>木俣『日本水雷戦史』554ページ</ref>。この後朝霜、[[若月 (駆逐艦)|若月]]とともに木村少将から第三次輸送部隊と合流するよう命令を受ける。霞に香椎丸の生存者を移した朝霜とともに第四次輸送部隊から離脱し21時に[[マスバテ島]]東方のブラックロック水道で三次輸送部隊合流し<ref>『多号作戦闘詳報第二号』pp.16</ref>
11月8日朝、「長波」は多号作戦第四次輸送部隊(指揮官[[木村昌福]]第一水雷戦隊司令官、旗艦「霞」)に所属マニラを出撃した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=529-530|ps=マニラ出港}}{{Sfn|岸見|2010|pp=32-37|ps=最大規模の第二次輸送作戦}}。翌11月9日夕方に[[レイテ島]][[オルモック湾]]に到着するも、[[大発動艇|大発]]が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった{{Sfn|木俣水雷戦史|1986|p=552}}{{Sfn|岸見、多号作戦|2010|pp=37-43|ps=「大発準備なく無念」第四次輸送作戦}}。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなく[[B-25 (航空機)|B-25]]と[[P-38 (航空機)|P-38]]の攻撃を受けて[[陸軍特殊船]]高津丸(山下汽船、5,657トン)輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)、「[[第十一号海防艦|第11号海防艦]]」が沈没し、海防[[占守 (海防艦)|占守]][[第十三号艦|第13号海防艦]]」が損傷した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=532}}{{Sfn|岸見|2010|pp=41-42}}。木村少将は輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)護衛部隊(海防艦〈[[沖縄 (海防艦)|沖縄]]、占守〉、駆逐艦〈若月、潮、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]〉)をつけてマニラへ先発させ{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=532}}、駆逐艦3隻(霞〔木村少将旗艦〕、長波、朝霜とともに救助作業にあたった{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=532}}。救助作業後、駆逐艦3隻と13号海防艦および後から来た[[第一号型輸送艦]]3隻([[第六号輸送艦|6号]]、[[第九号輸送艦|9号]]、[[十号輸送艦|10号]])はマニラへの帰路つい{{Sfn|史叢書56巻|1972|p=534}}{{Sfn|岸見|2010|pp=42-43}}
14時18分、先行隊も空襲をうけて「秋霜」が中破した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=534}}。


この頃、多号作戦第三次輸送部隊(指揮官[[早川幹夫]]第二水雷戦隊司令官。旗艦「島風」)は低速輸送船団を護衛してオルモック湾に向かっていた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=534-536|ps=第三次輸送部隊の行動、船団全滅す・マニラ出港}}{{Sfn|岸見|2010|pp=43-47|ps=壮絶、第三次輸送部隊}}。
第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊([[ジョン・S・マケイン・シニア]]中将)の艦載機347機<ref name="aaa">木俣『日本水雷戦史』559ページ</ref>による空襲を受けた。[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]が真っ先に被弾し、朝霜は浜波のわずかな生存者を救助した<ref name="aaa"></ref>。続いて若月、部隊指揮官の第二水雷戦隊司令官[[早川幹夫]]少将(海兵44期)座乗の戦隊旗艦島風も被弾し、輸送船は全滅していた。やがて、激しい対空戦闘の末に弾薬が尽きた長波は右舷[[艦橋]]下に被弾し、艦右側にも至近弾を浴びた。間もなく右側に傾斜した後、長波は艦首を上げて沈没していった。第三次輸送部隊は朝霜ただ一隻を残して全滅し、早川少将も戦死した。飛田艦長は生き残った乗員数十名を引き連れて、いまだ浮いていた浜波に乗り移った<ref>橋本, 265ページ</ref>。飛田艦長は乗員を各部署に配置させて機関の再始動にも成功したが、マニラ帰投に必要な缶用の真水が欠乏していたので浜波を陸上砲台にしようと決心した<ref>橋本, 266ページ</ref>。しかし、潮流に流されて擱座に失敗し、浜波に残っていた糧食で夕食をとった後就寝<ref name="cb">橋本, 267ページ</ref>。翌12日、飛田艦長以下の長波の乗員は浜波を離れ、陸上から迎えに来た[[大発動艇|大発]]に移って[[レイテ島]]に上陸した<ref name="cb"></ref>。浜波の船体がその後どうなったのかは定かではないが、飛田艦長は生還して、戦後[[海上自衛隊]]に入隊した<ref name="kyoto">橋本, 237ページ</ref>。
南西方面部隊指揮官(大川内長官)は11月8日2059NSB電令作第738号により、駆逐艦4隻(朝霜、長波、秋霜、若月)の第三次輸送部隊編入を、駆逐艦2隻([[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[竹 (松型駆逐艦)|竹]])の第四次輸送部隊編入を命じていた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=536b}}。大川内長官の命令により、損傷した「秋霜」以外の3隻(長波、朝霜、若月)は第四次輸送部隊から分離、第三次輸送部隊に合流する{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=536a-537|ps=「長波」等の合同}}(代わりに「初春」と「竹」が第四次輸送部隊に合流){{Sfn|岸見|2010|pp=44-45}}。11月10日夕刻、「長波」と「朝霜」は「霞」に被害艦生存者を移し、第三次輸送部隊を追いかける{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=537b}}。第四次輸送部隊から離脱後、3隻は21時に[[マスバテ島]]東方のブラックロック水道で第三次輸送部隊に合流した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=537b}}<ref>[[#S1909 第一水戦日誌 (5)]], p.16</ref>。


第三次輸送部隊は護衛部隊(島風、浜波、若月、長波、朝霜、掃海艇30号)と輸送船4隻{{Efn2|11月10日3時30分、「せれべす丸」が座礁して「駆潜艇46号」が残り{{sfn|戦史叢書56|1972|p=536}}、第三次輸送部隊から落伍した。}}となり、魚雷艇を撃退して進撃した{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=212}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=537a-538|ps=米魚雷艇と交戦す}}。11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊([[ジョン・S・マケイン・シニア]]中将)の艦載機347機{{Sfn|木俣、水雷戦史|1986|p=559}}による空襲を受けた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=540-541|ps=米軍の作戦概況}}。
[[1981年]](昭和56年)、長波の元乗員10名によって、[[京都霊山護国神社]]に長波の慰霊碑が建立された<ref name="kyoto"></ref>。
各艦は煙幕を展開し{{Sfn|志賀、駆逐艦物語|2016|pp=234-235}}、また[[四式戦闘機]]約30機が出動したが、輸送船団を守り切れなかった{{Sfn|岸見|2010|pp=46-47}}-。つづいて米軍機は護衛部隊に襲い掛かる{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=539-540}}。第32駆逐隊司令(大島一太郎大佐)の回想によれば、護衛部隊は「浜波」-「若月」-「島風」-「長波」-「掃海艇30号」-「朝霜」の単縦陣であったという{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=539-540}}。
<!-- [[浜波 (駆逐艦)|浜波]]が真っ先に被弾し、朝霜は浜波のわずかな生存者を救助した<ref name="aaa"></ref>。 <ref>[[#10月18日以降増援兵力]]p.2「地区:マニラ|所轄:濱波|進出期日(編制期日)一九四四.一一.一一|員数一五三」</ref> -->
激しい対空戦闘の末に弾薬が尽きた「長波」は右舷[[艦橋]]下に被弾し、艦右側にも至近弾を浴びた。間もなく右側に傾斜した後、艦首を上げて沈没していった。第三次輸送部隊は「朝霜」ただ一隻を残して全滅し、早川少将も戦死した{{Sfn|岸見|2010|pp=46-47}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=538b}}。なお「朝霜」は航行不能になった「浜波」に接舷し、浜波乗組員を救助してオルモック湾を脱出した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=539-540}}{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=216-219|ps=乗艦との永遠の別れ}}。「朝霜」は浜波乗組員で満杯となっており、また米軍機の空襲も続いていたため、他の浮いている艦を救助できなかった{{Sfn|志賀、駆逐艦物語|2016|pp=235-238}}。
飛田(長波艦長)は生き残った乗員数十名を引き連れて、いまだ浮いていた「浜波」に乗り移った{{sfn|橋本|1992|p=265}}。飛田艦長は乗員を各部署に配置させて機関の再始動にも成功したが、マニラ帰投に必要な缶用の真水が欠乏していたので「浜波」を陸上砲台にしようと決心した{{sfn|橋本|1992|p=266}}。しかし、潮流に流されて擱座に失敗し、艦に残っていた糧食で夕食をとった後就寝{{sfn|橋本|1992|p=267}}。翌11月12日、飛田艦長以下の「長波」の乗員は「浜波」を離れ、陸上から迎えに来た大発に移ってレイテ島に上陸した{{sfn|橋本|1992|p=267}}。「浜波」の船体がその後どうなったのかは定かではないが、飛田艦長は生還して、戦後[[海上自衛隊]]に入隊した{{sfn|橋本|1992|p=237}}。長波乗組員43名が[[海軍陸戦隊]]に編入され<ref>[[#10月18日以降増援兵力]], p.2</ref>、[[マニラの戦い (1945年)|マニラ市街戦]]や[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピン地上戦]]に投入された。
<!--
11月15日、朝霜は第2駆逐隊へ転出、沈没していた夕雲型駆逐艦[[浜波 (駆逐艦)|浜波]](11月11日、第三次多号作戦){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94f|ps=浜波(はまなみ)}}が第31駆逐隊に編入された<ref name="S19内令1271号">[[#秘海軍公報昭和19年11月(3)]]、pp.4-5〔内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル〕</ref>{{Sfn|戦史叢書54巻|1972|pp=452-453}}。
第31駆逐隊の所属駆逐艦4隻(長波、岸波、沖波、浜波)のうち、3隻(長波、沖波、浜波)は沈没もしくは大破着底状態のため、書類上の存在に過ぎなかった<ref name="S19内令1271号" />{{Sfn|戦史叢書54巻|1972|pp=452-453}}。唯一健在だった岸波も12月4日に撃沈され{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=226b-227|ps=岸波(きしなみ)}}、第31駆逐隊は稼働艦皆無となった{{Sfn|戦史叢書54巻|1972|p=454-455|ps=水上兵力の漸減}}。-->

[[1945年]](昭和20年)1月10日、長波は艦艇類別等級表から削除<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]、p.2</ref>。同時に帝国駆逐艦籍から除籍<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]、pp.8-10</ref>。第31駆逐隊(長波、沖波、浜波、岸波)も解隊された<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]、p.7</ref>。
[[1981年]](昭和56年)、長波の元乗員10名によって、[[京都霊山護国神社]]に長波の慰霊碑が建立された{{sfn|橋本|1992|p=237}}。


== 歴代艦長 ==
== 歴代艦長 ==
;艤装員長
;艤装員長
# 隈部傳 中佐:1942年5月20日<ref>昭和17年5月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第863号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072085500 で閲覧可能。</ref> - 1942年6月30日<ref name="jirei892">昭和17年7月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第892号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072086200 で閲覧可能。</ref>
# 隈部傳 中佐:1942年5月20日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072085500|昭和17年5月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第863号}}。</ref> - 1942年6月30日<ref name="jirei892">{{アジア歴史資料センター|C13072086200|昭和17年7月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第892号}}。</ref>
;駆逐艦長
;駆逐艦長
# 隈部傳 中佐:1942年6月30日<ref name="jirei892" /> - 1943年11月25日<ref name="jirei1267">昭和18年11月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1267号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072094500 で閲覧可能。</ref>
# 隈部傳 中佐:1942年6月30日<ref name="jirei892" /> - 1943年11月25日<ref name="jirei1267">{{アジア歴史資料センター|C13072094500|昭和18年11月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1267号}}</ref>
# 森卓次 少佐:1943年11月25日<ref name="jirei1267" /> - 1944年2月10日<ref name="jirei1319" />、以後1944年6月1日まで駆逐艦長の発令無し。
# 森卓次 少佐:1943年11月25日<ref name="jirei1267" /> - 1944年2月10日<ref name="jirei1319" />、以後1944年6月1日まで駆逐艦長の発令無し。
# 飛田清 少佐/中佐:1944年6月1日<ref name="jirei1492" /> - 1944年12月5日<ref>昭和19年12月15日付 秘海軍辞令公報 甲 第1669号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072102300 で閲覧可能。</ref>
# 飛田清 少佐/中佐:1944年6月1日<ref name="jirei1492" /> - 1944年12月5日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102300|昭和19年12月15日付 秘海軍辞令公報 甲 第1669号}}</ref>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|colwidth=30em}}

=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- ウィキペディア「出典を明記する」より、著者五十音順 -->
* 横須賀鎮守府司令部『自昭和十七年七月一日至昭和十七年七月三十一日 横須賀鎮守府戦時日誌』(昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)) [[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:C08030319500, C08030319700, C08030319800
*{{Cite book|和書 |author=池田清 |authorlink=池田清 (政治学者) |date=2002-01 |origyear=1986 |chapter= |title=重巡 摩耶 |publisher=[[学習研究社]] |series=学研M文庫 |ref={{SfnRef|重巡摩耶|2002}} |ISBN=4-05-901110-X}}
* 横須賀鎮守府司令部『自昭和十七年八月一日至昭和十七年八月三十一日 横須賀鎮守府戦時日誌』(昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030320800
*<!--オイデ2011-->{{Cite book|和書 |author=生出寿 |authorlink=生出寿 |title=戦艦「大和」最後の艦長(新装版) |publisher=[[光人社]] |series=光人社NF文庫 |isbn=9784-7698-2143-4 |ref={{SfnRef|大和最後の艦長|2011}} |date=2011-11}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十七年八月一日至昭和十七年八月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030095600
*<!-- キシミ2010 -->{{Cite book|和書 |author=岸見勇美 |title=地獄のレイテ輸送作戦 |publisher=[[光人社]] |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4-7698-2666-8 |ref={{SfnRef|岸見|2010}} |date=2010-12}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十七年九月一日至昭和十七年九月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和17年9月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030097200
*{{Cite book|和書 |author=木俣滋郎 |title=日本空母戦史 |publisher=図書出版社 |ref={{SfnRef|日本空母戦史|1977}} |date=1977-07 |author-link=木俣滋郎 |isbn=978-4809900389}}
* 第二水雷戦隊司令部『第二水雷戦隊戦闘詳報 第一二号』(昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030098300
*{{Cite book|和書 |title=日本水雷戦史 |date=1986 |publisher=図書出版社 |ref={{SfnRef|木俣、水雷戦史|1986}} |author=木俣滋郎 |isbn=978-4809901089}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十七年十一月一日至昭和十七年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030098800, C08030099000
*{{Cite book|和書 |author=木俣滋郎 |title=日本軽巡戦史 |publisher=図書出版社 |ref={{SfnRef|日本軽巡戦史|1989}} |date=1989-03 |isbn=978-4809901331}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030099600
*{{Cite book|和書 |author=志賀博ほか |title=駆逐艦物語 |publisher=潮書房光人社 |isbn=978-4-7698-1615-7 |ref={{SfnRef|志賀、駆逐艦物語|2016}} |date=2016-04}}
* 特設運送船南海丸『自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 南海丸戦時日誌』(昭和17年12月1日〜昭和18年3月31日 南海丸戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030670500
**(231-239頁) 芦田収「夕雲型『朝霜』多号作戦オルモック輸送」
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年一月一日至昭和十八年一月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100200
*{{Cite book|和書 |author=重本俊一 ほか |title=陽炎型駆逐艦 |publisher=潮書房光人社 |isbn=978-4-7698-1577-8 |ref={{SfnRef|陽炎型|2014}} |date=2014-10}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年二月一日至昭和十八年二月二十八日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100400
**(255-342頁) 伊達久「日本海軍駆逐艦戦歴一覧」
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100500
*<!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書 |author1=C. W. ニミッツ |author2=E. B. ポッター |authorlink= |title=ニミッツの太平洋海戦史 |publisher=恒文社 |ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}} |date=1962-12 |isbn=978-4770407573}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年四月一日至昭和十八年四月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100600
*{{Cite journal|和書|author=橋本衛|year=1992|title=駆逐艦『長波』残弾なし! 完結編|journal=丸|volume=45|issue=1|publisher=潮書房|ref={{sfnRef|橋本|1992}}}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年五月一日至昭和十八年五月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100700
*<!-- ハンドウ1984 -->{{Cite book|和書|author=半藤一利|authorlink=半藤一利|year=1984|month=5|title=ルンガ沖夜戦|publisher=朝日ソノラマ|series=航空戦史シリーズ|volume=41|isbn=4-257-17041-7|ref={{SfnRef|半藤、ルンガ沖夜戦|1984}}}}
* 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年五月一日至昭和十八年五月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年3月1日〜昭和18年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084000
*{{Cite book|和書 |author=福井静夫 |authorlink=福井静夫 |editor=阿部安雄・戸高一成 |title=日本駆逐艦物語 |publisher=光人社 |isbn=4-7698-0611-6 |ref={{SfnRef|福井、日本駆逐艦物語|1993}} |date=1983-01 |series=福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 第5巻}}
* 舞鶴鎮守府『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年6月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030356400
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 北東方面海軍作戦 |volume=第29巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書29|1969}} |date=1969-08 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
* 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084400
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 海軍捷号作戦<1> {{small|臺灣沖航空戦まで}} |volume=第37巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書37巻|1970}} |date=1970-08 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
* 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084500
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 南西方面海軍作戦 {{small|第二段作戦以降}} |volume=第54巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書54巻|1972}} |date=1972-03 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
* 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年八月一日至昭和十八年八月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年7月22日〜昭和18年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030085200
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 海軍捷号作戦<2> {{small|フィリピン沖海戦}} |volume=第56巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書56巻|1972}} |date=1972-06 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101200
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書  中部太平洋方面海軍作戦<2> {{small|昭和十七年六月以降}} |volume=第62巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書62|1973}} |date=1973-02 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十月一日昭和十八年十月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101300
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> {{small|ガ島撤収まで}} |volume=第83巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書83|1975}} |date=1975-08 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101400, C08030101500
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> {{small|ガ島撤収後}} |volume=第96巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書96巻|1976}} |date=1976-08 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101800
*<!-- ポッター1995 -->{{Cite book|和書 |title=BULL HALSEY / キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史 |year=1991 |publisher=光人社 |ref={{SfnRef|ポッター|1991}} |author=E. B. ポッター |isbn=4-7698-0576-4 |translator=秋山信雄}}
* 第二水雷戦隊司令部『自昭和十九年一月一日 至昭和十九年一月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030102000
*{{Cite book|和書 |editor=『丸』編集部 |editor-link=丸 (雑誌) |year=1990 |month=3 |title=写真 日本の軍艦 {{small|軽巡I}} 天龍型・球磨型・夕張・長良型 |volume=第8巻 |publisher=光人社 |isbn=4-7698-0458-X |ref=丸写真8軽巡I}}
* 軍艦高雄『昭和十九年十月三十日 軍艦高雄戦闘詳報 自昭和十九年十月二十三日至昭和十九年十月二十五日対潜戦闘』(昭和18年12月1日〜昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030570200
*{{Cite book|和書 |author=山本平弥ほか |title=秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> |publisher=潮書房光人社 |isbn=978-4-7698-1584-6 |ref={{SfnRef|山本ほか、夕雲型|2015}} |date=2015-03}}
* 多号作戦第四輸送部隊 第一水雷戦隊司令部『多号作戦戦闘詳報第二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十一月十一日第四次輸送作戦)』(昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087600
**(178-192頁) 前田憲夫「南太平洋に奇跡を起こした『巻波』奮迅録」
**(193-206頁) 初田太四郎「強運艦『長波』快心の中央突破四十八時間」
**(207-219頁) 中沢五郎「オルモック急行『浜波』砲塔に息絶えて」
**(220-229頁) 伊達久「夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争」
**(230-238頁) 上村嵐「追随をゆるさぬ最高速艦『島風』の最後」
*{{Cite book|和書 |author=吉田俊雄 |authorlink=吉田俊雄 |title=海軍人間語録 |publisher=光人社 |ISBN=4-7698-0271-4 |ref={{SfnRef|海軍人間語録|1985}} |date=1985-06}}
*{{Cite book|和書 |pages= |title=水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 |series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ 第19巻 |publisher=学習研究社 |editor=『歴史群像』編集部 |isbn= |ref={{SfnRef|歴群19、水雷戦隊II|1998}} |date=1998-08 |editor-link=歴史群像}}
**(85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
**(143-158頁)「{{small|戦闘ドキュメント}} 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕」
**(160-165頁)上原光晴「{{small|特別企画1 駆逐艦「島風」の記録}} 韋駄天「島風」18か月間の戦い」


* {{Cite book|和書 |title=帝国海軍 真実の艦艇史2 |year=2005 |publisher=学習研究社 |ref={{sfnRef|真実の艦艇史2|2005}} |editor=『歴史群像』編集部 |isbn=4-05-604083-4 |series=歴史群像太平洋戦史シリーズ 51}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1973|month=2|title=戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) {{small|昭和十七年六月以降}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)}}
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
* [[防衛研究所]]戦史室編『[[戦史叢書]]96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]、1976年
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070111300}} |title=昭和16年7月~12月 達/12月(2) |ref=S16.7-12達/12月(2) |publisher=}}
* 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070159700}} |title=昭和16年10月~12月 内令/昭和16年12月(3) |ref=内令昭和16年12月(3) |publisher=}}
* 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070163400}} |title=昭和17年4月~6月 内令2巻/昭和17年6月(4) |ref=内令昭和17年6月(4) |publisher=}}
* 永井喜之、木俣滋郎「アメリカ重巡「ノーザンプトン」」『撃沈戦記』[[朝日ソノラマ]]、1988年、ISBN 4-257-17208-8
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070164700}} |title=昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月(4) |ref=内令昭和17年8月(4) |publisher=}}
* E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070165700}} |title=昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年10月(1) |ref=内令昭和17年10月(1) |publisher=}}
* 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070175100}} |title=昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年1月(2) |ref=内令昭和18年1月(2) |publisher=}}
* 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070175600}} |title=昭和18年1月~4月 内令1巻/昭和18年2月(4) |ref=内令昭和18年2月(4) |publisher=}}
* 橋本衛「駆逐艦「長波」残弾なし!完結編」『丸 第45巻・第1号』潮書房、1992年
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070181400}} |title=昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(4) |ref=内令昭和18年10月(4) |publisher=}}
* 田村俊夫「米潜「ダーター」の機銃を装備した「長波」」『<span style="font-size:90%;">[[歴史群像]]太平洋戦史シリーズ51</span> 帝国海軍 真実の艦艇史2』[[学習研究社]]、2005年、ISBN 4-05-604083-4
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070194500}} |title=自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年2月(2) |ref=内令昭和19年2月(2) |publisher=}}
* 田村俊夫「「長波」とした写真の訂正」『<span style="font-size:90%;">歴史群像 太平洋戦史シリーズ70</span> 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年、ISBN 978-4-05-606020-1
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070503600}} |title=自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2) |ref=秘公報昭和20年1月(2) |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C13072013300}} |title=昭和17年12月31日現在10版内令提要追録第12号原稿/巻3/第13類艦船(1) |ref=昭和17年12月31日艦艇類別等級表 |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030366600}} |title=昭和17年7月1日~昭和17年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌(3) |ref=S17.07呉防戦日誌(3) |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030041400}} |title=昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第3戦隊(5) |ref=S1701三戦隊日誌(5) |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年3月1日〜昭和18年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4) |publisher= |pages= |ref=S1803 第一水戦日誌 (4) |id={{JACAR|C08030084000}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2) |publisher= |pages= |ref=S1806 第一水戦日誌 (2) |id={{JACAR|C08030084500}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年7月22日〜昭和18年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4) |publisher= |pages= |ref=S1807 第一水戦日誌 (4) |id={{JACAR|C08030085200}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5) |publisher= |ref=S1909 第一水戦日誌 (5) |id={{JACAR|C08030087600}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1) |publisher= |ref=S1708 第二水戦日誌 (1) |id={{JACAR|C08030095600}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年9月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1) |publisher= |ref=S1709 第二水戦日誌 (1) |id={{JACAR|C08030097200}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3) |publisher= |ref=S1710 第二水戦詳報 (3) |id={{JACAR|C08030098300}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1) |publisher= |ref=S1711 第二水戦日誌 (1) |id={{JACAR|C08030098800}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3) |publisher= |ref=S1711 第二水戦日誌 (3) |id={{JACAR|C08030099000}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3) |publisher= |ref=S1711 第二水戦日誌 (3) |id={{JACAR|C08030099000}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(2) |publisher= |ref=S1711 外南洋増援部隊日誌 (3) |id={{JACAR|C08030099600}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1) |publisher= |ref=S1801 第二水戦日誌 (1) |id={{JACAR|C08030100200}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3) |publisher= |ref=S1801 第二水戦日誌 (3) |id={{JACAR|C08030100400}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4) |publisher= |ref=S1801 第二水戦日誌 (4) |id={{JACAR|C08030100500}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5) |publisher= |ref=S1801 第二水戦日誌 (5) |id={{JACAR|C08030100600}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6) |publisher= |ref=S1801 第二水戦日誌 (6) |id={{JACAR|C08030100700}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3) |publisher= |ref=S1806 第二水戦日誌 (3) |id={{JACAR|C08030101200}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4) |publisher= |ref=S1806 第二水戦日誌 (4) |id={{JACAR|C08030101300}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5) |publisher= |ref=S1806 第二水戦日誌 (5) |id={{JACAR|C08030101400}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6) |publisher= |ref=S1806 第二水戦日誌 (6) |id={{JACAR|C08030101500}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1) |publisher= |ref=S1812 第二水戦日誌 (1) |id={{JACAR|C08030101800}}}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3) |publisher= |ref=S1812 第二水戦日誌 (3) |id={{JACAR|C08030102000}}}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030106900}} |title=昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5) |ref=S1812三水戦日誌(5) |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030107000}} |title=昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6) |ref=S1812三水戦日誌(6) |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030116500}} |title=昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(6) |ref=S1712四水戦日誌(6) |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1) |publisher= |id={{JACAR|C08030319500}} |ref=S1707 横須賀鎮守府日誌 (1)}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(3) |publisher= |id={{JACAR|C08030319700}} |ref=S1707 横須賀鎮守府日誌 (3)}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(4) |publisher= |id={{JACAR|C08030319800}} |ref=S1707 横須賀鎮守府日誌 (4)}}
**{{Cite book|和書 |title=昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5) |publisher= |id={{JACAR|C08030320800}} |ref=S1708 横須賀鎮守府日誌 (5)}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030355800}} |title=昭和18年3月1日~昭和18年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2) |ref=S1803舞鎮日誌(2) |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030355900}} |title=昭和18年4月1日~昭和18年4月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌 |ref=S1804舞鎮日誌 |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030356400}} |title=昭和18年6月1日~昭和18年6月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌 |ref=S1806舞鎮日誌 |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030356900}} |title=昭和18年8月1日~昭和18年8月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌 |ref=S1808舞鎮日誌 |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030357100}} |title=昭和18年9月1日~昭和18年9月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2) |ref=S1809舞鎮日誌(2) |publisher=}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C14061098700}} |title=第1表/2.1944年10月18日以降増援兵力 |ref=10月18日以降増援兵力 |publisher=}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
139行目: 323行目:


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [http://www.gokoku.or.jp/04/0219.html 京都霊山護国神社「昭和の杜 従軍記念の碑」駆逐艦長波の航跡]
* [http://www.gokoku.or.jp/04/0219.html 京都霊山護国神社「昭和の杜 従軍記念の碑」駆逐艦長波の航跡]


{{夕雲型駆逐艦}}
{{夕雲型駆逐艦}}


{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:なかなみ}}
{{DEFAULTSORT:なかなみ}}
[[Category:夕雲型駆逐艦]]
[[Category:夕雲型駆逐艦]]

2024年11月6日 (水) 10:33時点における最新版

長波
基本情報
建造所 藤永田造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 夕雲型駆逐艦
艦歴
計画 1939年度(④計画
起工 1941年4月5日
進水 1942年3月5日
竣工 1942年6月30日
最期 1944年11月11日、オルモック湾にて戦没
除籍 1945年1月10日
要目
基準排水量 2,077 トン
公試排水量 2,520 トン
全長 119.3 m
最大幅 10.8 m
吃水 3.76 m
ボイラー ロ号艦本式缶×3基
主機 艦本式タービン×2基
出力 52,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
最大速力 35.0 ノット
燃料 重油:600 t
航続距離 5,000海里/18ノット
乗員 225名
兵装
レーダー 22号電探
ソナー 九三式水中聴音機
九三式三型探信儀
テンプレートを表示

長波(ながなみ)は[1]日本海軍駆逐艦[2]夕雲型駆逐艦の4番艦である[3]

概要

[編集]

日本海軍が1941年(昭和16年)4月から1942年(昭和17年)6月にかけて藤永田造船所で建造した駆逐艦[4]。竣工後、横須賀鎮守府部隊に所属し、哨戒や訓練をおこなう[2]。8月31日、日本海軍は「長波」と「巻波[5]により第31駆逐隊を新編する[6]。トラック泊地進出後、第31駆逐隊は第二水雷戦隊各隊・各艦と共にガダルカナル島の戦いに従事する[5]。戦艦「金剛」と「榛名」のヘンダーソン基地艦砲射撃にも同行した[7]南太平洋海戦では前進部隊に所属、またガ島強行輸送任務(鼠輸送)に従事した[2]。11月中旬の第三次ソロモン海戦では、輸送船団を護衛した[8]。11月30日のルンガ沖夜戦では、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将の旗艦(外南洋部隊増援部隊旗艦)として活躍したが[9]、姉妹艦「高波」を喪失した[10]

「長波」は艦の疲弊によりトラック泊地に後退して整備をおこない[11]ガダルカナル島撤退作戦のあと内地へ帰投した[2]1943年(昭和18年)3月中旬から舞鶴海軍工廠で修理をおこなった[12]。5月12日、「長波」は北方部隊に編入された[13]。7月、「島風[14]や「五月雨等とともにキスカ島撤退作戦に従事した[4]。 北方作戦後は南方に転じ[15]、10月下旬には第一航空戦隊の物件を搭載してラバウルに進出する[16]。そのままブーゲンビル島攻防戦に投入されてブーゲンビル島沖海戦に参加した[17]11月11日、「長波」はラバウルで米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて大破[18]ラバウル空襲[2]。駆逐艦「水無月」(トラック泊地まで)[19]と軽巡洋艦「長良」(内地まで)[20]に曳航されて日本に戻り[21]1944年(昭和19年)1月末から呉海軍工廠で修理をおこなった[2]

第31駆逐隊所属艦は昭和18年7月から11月にかけて姉妹艦「清波[22]「巻波」[5]大波[23]が沈没し、長波1隻となる。1944年2月10日、「沖波[24]岸波[25]朝霜[26]を編入して定数4隻を揃えた[27]。 同年5月末、「長波」の修理が完了[2]。 7月中旬、第31駆逐隊は戦艦や重巡洋艦を護衛してリンガ泊地に進出した[28]捷一号作戦にともなうレイテ沖海戦では、第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)に所属する[2]。10月23日、パラワン水道で栗田艦隊がアメリカ潜水艦2隻に奇襲された際[29][注 1]、「長波」と「朝霜」は損傷した重巡洋艦「高雄」を護衛して後退した[4][26]。その後、長波は空襲で損傷した重巡「妙高」の護衛にまわった[30]

レイテ沖海戦後、第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入され、多号作戦に従事する[31]。11月11日、第三次多号作戦においてレイテ島オルモック湾で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、輸送部隊は「朝霜」を残して全滅する[32]。「長波」も撃沈された[4]

艦歴

[編集]

第31駆逐隊編制まで

[編集]

1939年度(④計画)仮称第119号艦として、藤永田造船所で起工[33]1941年(昭和16年)12月17日、「長波」と命名される[1]。夕雲型駆逐艦に類別された[34]1942年(昭和17年)6月30日、竣工。舞鶴鎮守府籍となる[35]

竣工と同時に、「長波」は警備駆逐艦に定められた[35]。横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入されて横須賀に回航された後[36]相模湾方面での哨戒に従事した[37]。 7月5日、キスカ島に停泊していた第二水雷戦隊第18駆逐隊は米潜水艦の攻撃をうけ[38]、駆逐艦「」が沈没し[39]、「不知火[40]と「[41]は船体切断に追い込まれた[42]7月5日の海戦)。7月17日、大海指第114号により「長波」はキスカ島に「不知火」と「霞」救援用の物資と人員を運ぶことになった[43]。7月20日に「長波」は横須賀を出発して27日キスカ島に到着[43][44]。工員3名などを送り届けた「長波」は翌日に輸送船「白山丸」を護衛して帰路につき、8月4日に横須賀へ帰投した[43][45]

ガダルカナル島を巡る戦い

[編集]

8月31日、日本海軍は「長波」と「巻波[46](舞鶴海軍工廠建造艦、8月18日竣工)[47]により第31駆逐隊を編制した[6]。初代駆逐隊司令に清水利夫大佐(当時、第21駆逐隊司令)[48][49]を任命する[50]。 第31駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)に所属した[51]。 第三戦隊司令官栗田健男中将が指揮する第三戦隊(戦艦「金剛」「榛名」)と第31駆逐隊(巻波、長波)で前進部隊待機部隊を編成[52]、内海西部で訓練を実施した[53][54]。 9月6日[55][53]、待機部隊(金剛、榛名、巻波、長波)はを出撃した[56][57]トラック諸島に進出後、連合艦隊旗艦「大和」で打ち合わせをおこなう[58]。前進部隊本隊に編入後[注 2][53]、9月11日にトラック泊地を出撃、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官[注 3])に合流した[58][60]。第31駆逐隊はガダルカナル島の戦いに関わる海上作戦に加わることとなる。9月中旬の日本陸軍ガ島総攻撃は失敗、日本海軍各艦隊はトラック泊地にもどった[61][62]

10月1日、第31駆逐隊に姉妹艦「高波[63](浦賀船渠建造艦、8月31日竣工)[64]が編入され、3隻(長波、巻波、高波)編制となった[65]。清水司令は司令駆逐艦を「高波」に指定した[66]

10月11日、第二水雷戦隊(旗艦「五十鈴[注 4]、第15駆逐隊〈親潮黒潮早潮[注 5]、第24駆逐隊〈海風江風涼風〉、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を命じられた「金剛」と「榛名」を護衛することになり、挺身攻撃隊(指揮官・栗田健男第三戦隊司令官)としてトラック泊地を出撃した[68]。 10月13日から14日にかけての深夜に行われた飛行場砲撃においては[7][69]、襲来してきた魚雷艇4隻[70]を追い払った[71]。ヘンダーソン飛行場は損害を受けたが、日本軍が知らなかった新規飛行場は離着陸可能であり、ガ島揚陸中の輸送船団に空襲を加えた[72]。輸送船団の苦戦を知った連合艦隊は、前進部隊の重巡「妙高」と「摩耶」に飛行場砲撃を命じ、これを二水戦(五十鈴、第31駆逐隊)が護衛することになった[73][74]。「妙高」と「摩耶」はガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して擱座炎上した輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を見つつ[75]、10月15日夜[76]、艦砲射撃を敢行した[7][77]。砲撃は約1時間で終わり[78]、第31駆逐隊も砲撃を行った(発射弾数253発)[77]。戦場を離脱後、10月17日夜に第二艦隊近藤信竹中将)および第三艦隊南雲忠一中将)主力と合流し[79]、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた[80]。10月26日の南太平洋海戦時は、支援部隊・前進部隊(第二艦隊基幹)に所属していた[81]。10月30日にトラックに帰投した[82][83]

11月3日、長波を含め支援部隊の一部部隊[注 6]は外南洋部隊(指揮官三川軍一海軍中将、第八艦隊司令長官)に編入され[84]、トラックを出撃してショートランドに向かう。11月5日、ショートランド泊地において外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将から第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継がれた[85]。ガダルカナル島への鼠輸送に従事していた第三水雷戦隊は、トラック泊地へ戻る[85]。これ以降、ガ島への駆逐艦輸送作戦は田中頼三少将が指揮することになった[85]

11月6日深夜、第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐指揮下の甲増援隊(第15駆逐隊〈親潮、早潮、陽炎〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈巻波、高波、長波〉、第10駆逐隊〈夕雲風雲〉)はショートランド泊地を出撃した[86][87]。途中で米軍爆撃機と小型機20数機の空襲を受け、「長波」と「高波」が損傷した[88]。「長波」は戦死者3名と重傷者7名を出し(乗組員によれば戦死4名、ほか陸軍部隊に負傷者)[89]、一番砲塔などに被害があった[87]。甲増援隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した[88]

この頃の連合艦隊は大規模輸送船団によるガ島輸送を計画しており、外南洋部隊増援部隊は第38師団(司令官佐野忠義中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船を護衛することになった[8]。11月12日1530、増援部隊(指揮官・田中頼三少将、二水戦旗艦「早潮」)[注 7][注 8]は輸送船団を護衛してショートランドを出撃した[91]。だが飛行場砲撃隊と米艦隊の間で夜間水上戦闘となり(第三次ソロモン海戦、第一夜戦)、輸送船団はコロンバンガラ島東方で反転、ショートランド泊地に引き返した[92]。 11月13日15時30分、輸送船団は再びショートランド泊地を出撃した[92]。 11月14日になると、輸送船団はヘンダーソン飛行場から飛来した空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 」の艦載機[注 9]エスピリトゥサント島から飛来した陸軍B-17重爆[94]、ガ島から来た海兵隊機による八次におよぶ反復攻撃を受けた[92]零式艦上戦闘機や水上観測機が護衛にあたったが、米軍機の大群を阻止できなかった[92]。11隻の輸送船は6隻が沈没し、「佐渡丸」と護衛2隻(天霧望月)が引き返した[95]。「長波」は陸兵570名を救助した[95]。田中少将は駆逐艦と残存の4隻の輸送船をサボ島沖に向かう前進部隊(指揮官・近藤信竹第二艦隊司令長官)の後につけさせたが、救助者を乗せた各艦(長波、巻波、江風、涼風)は戦闘に耐えられる状態ではなかった[96]。その後、田中少将は第三次ソロモン海戦第二夜戦が生起した隙を突いて輸送船をタサファロングの浜辺に擱座させた[97]。夜明け後、輸送船は空襲と重砲射撃と艦砲射撃により粉砕され、人員のみガ島に揚陸した[98]。駆逐艦だけになった増援部隊は、11月15日22時にショートランドへ帰投した[99][100]

ルンガ沖夜戦

[編集]

輸送船によるガダルカナル島突入が失敗に終わると[99]、ガダルカナル島に対する輸送作戦はドラム缶を用いた鼠輸送に切り替えられた[101][102]。田中少将は月齢、作業時間、訓練などを勘案して12月1日以降に決行してはと第八艦隊(司令長官三川軍一中将)に二度意見具申したが[103]、潜水艦による輸送が進捗しない事やガダルカナル島の将兵の糧食が厳しくなっている事を理由に、意見は二度とも却下された[104][105]。また輸送量・人員を増やすよう要望した[104]。田中少将は、配下の駆逐艦全てから予備魚雷を陸揚し[104]、警戒艦を除く各艦にドラム缶を200個から240個搭載させた[106] この出撃時の兵力部署は、

  • 警戒隊(二水戦司令官直率):長波(二水戦司令官)、高波(第31駆逐隊司令)[107]
  • 第一輸送隊(第15駆逐隊司令):第15駆逐隊(親潮、黒潮)、巻波
  • 第二輸送隊(第24駆逐隊司令):第24駆逐隊(涼風、江風)

であった[104]。田中少将は「長波」を臨時の増援部隊旗艦とした[108]

11月29日夜22時45分、外南洋部隊増援部隊はショートランドを出撃して、北方からガダルカナル島を目指した[108][109]。しかし、翌11月30日朝に偵察のB-17に発見される[110]。これを受け、南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー大将は「東京急行」を阻止すべく、カールトン・H・ライト少将の第67任務部隊英語版を出撃させた[111][112]。サボ島沖に差し掛かった20時30分頃、警戒隊の「高波」は単艦先行してアメリカ艦隊の攻撃に備えた[108]。21時12分、「高波」が第67任務部隊を発見する[108]。増援部隊各艦はドラム缶の投入準備にかかっていたが、敵発見の報告により田中少将はドラム缶を投棄させて21時16分に「揚陸止メ、全軍突撃セヨ」を下令した[108]。敵発見を報じた「高波」は、21時20分から第67任務部隊の集中砲火を浴び[113]、航行不能となって23時37分に沈没した[114]。「高波」座乗の清水大佐(第31駆逐隊司令)は戦死した[115]。増援部隊各艦は魚雷を発射し[116]、「長波」は射撃を行いつつ魚雷8本を発射、非敵側に反転した[114]。「長波」の損傷は、海戦で大口径弾の至近弾を受けた程度であった[117]

一方、増援部隊が発射した魚雷の槍衾は第67任務部隊の巡洋艦部隊に襲い掛かった[118][119]。旗艦「ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) は魚雷2本を被雷して艦首を吹き飛ばされ、「ニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) 」も魚雷命中により艦首を失った[118]。3番艦「ペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) は被雷して炎上した[118]。4番艦「ホノルル (USS Honolulu, CL-48) 」は30ノットの速力で相手から離れ無事だった。5番艦「ノーザンプトン (USS Northampton, CA-26) 」は魚雷2本が左舷後部に命中したが、命中穴は大きく同一箇所に命中したようだった[120]。「ノーザンプトン」は転覆して沈没した[118]

夜戦で大きな戦果をあげた二水戦だが、田中少将に対する評価は芳しくなかった[121]。ただし翌年9月15日、連合艦隊は増援部隊の功績をたたえて感状を授与した[122]。「高波」の除籍により、31駆は「長波」と「巻波」の2隻になった[123]

昭和17年12月から昭和18年前半の戦い

[編集]

海戦には勝利したものの、本来の目的であるドラム缶輸送は果たせていなかった[122]。駆逐艦を増強し、12月3日から4日にかけて田中少将の指揮下で第二輸送作戦がおこなわれた[124]。「長波」をふくめ駆逐艦10隻[注 10]による輸送では、空襲で「巻波」が小破[118]、ドラム缶1,500個を投入したが陸軍が揚収したのは310個であった[122][125]。この頃、ショートランド泊地に駆逐艦「照月[注 11]が到着した[126]。田中少将は、二水戦旗艦を「長波」から「照月」に変更した[127][128]

12月7日から8日にかけての第三次輸送作戦は、第15駆逐隊司令の指揮下で「長波」を含め駆逐艦11隻[注 12]が参加した[127]。往路で駆逐艦「野分」が空襲を受けて航行不能となり、「長波」は「野分」を曳航してショートランド泊地に引き返した[127]。2隻を駆逐艦「」(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)と「有明」が護衛した[129]。魚雷艇や米軍機の妨害により[130]、輸送作戦は失敗に終わった[127]

12月11日から12日にかけての第四次輸送作戦は田中少将の直率下で行われ、連合艦隊司令長官山本五十六大将は「今次ノ駆逐艦輸送ニ期待スルトコロ極メテ大ナリ、アラユル手段ヲ講ジ任務達成ニ務メヨ」と激励した[131][132]。「長波」ふくめ駆逐艦11隻[注 13]で実施する[133]。ガダルカナル島に到着してドラム缶を揚陸中、増援部隊は米軍魚雷艇に襲撃されて旗艦「照月」が被雷、航行不能となる[130][134]。田中少将ふくめ第二水雷戦隊司令部は「長波」に移乗した[135][134]。二水戦司令部退去後、「照月」は自沈した[134][136]。投下したドラム缶1,200個のうち、揚収できたのは220個であったという[134]

12月14日にラバウルに後退してからは、ニュージョージア島ムンダ(日本軍飛行場建設中)[137]への輸送作戦に参加する[138]。田中少将直率のもと、「長波」ふくめ駆逐艦6隻[注 14]は12月16日14時にショートランド泊地を出発する(ムンダ第一回輸送、第一次)[139]。夜間空襲を受け、「陽炎」が小破した[140]。翌日5時、ショートランド泊地に帰投した[140]

12月25日13時、駆逐艦「卯月」と輸送船「南海丸」(大阪商船、8,416トン)はムンダに向けラバウルを出発した(ムンダ第二回輸送、第四次)[141]。17時30分、セントジョージ岬西南西24浬で米潜水艦「シードラゴン (USS Seadragon, SS-194) 」の雷撃を受け、「南海丸」が損傷する[142]。さらに「南海丸」と「卯月」が衝突、「卯月」は航行不能となった[142]。駆逐艦4隻(長波、有明、谷風、浦風)は急遽ラバウル出撃、救援にむかう[142][注 15]。「長波」は給油艦「鶴見」等とともに「南海丸」を護衛して避退、同船は26日15時頃ラバウルに帰投した[144][145]

12月30日、増援部隊指揮官(第二水雷戦隊司令官)は田中頼三少将から小柳冨次少将に代わり、引き続き「長波」を旗艦とした[146][147]

1943年(昭和18年)1月2日から3日にかけての第五次輸送は、「長波」ふくめ駆逐艦10隻[注 16]で行われた[148]レンドバ島付近で空襲をうけ「涼風」が損傷、「」の護衛下で引き返した[148]。最前線で長期間活動していた二水戦各艦は消耗が激しく、4隻(長波、親潮、陽炎、涼風)は前進部隊に復帰した[注 17][149]。1月10日、増援部隊旗艦(二水戦旗艦)は「長波」から「黒潮」に変更された[150]。翌日、外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第二水雷戦隊司令官・小柳冨次少将から第十戦隊司令官・木村進少将に引き継がれた[150]。1月12日10時、二水戦司令官は「長波」を率いてショートランド泊地を出発した[150]。1月14日、トラックに到着した[151]。「長波」は3月7日までトラック泊地で整備を行った[152]

1月19日、第十戦隊旗艦の駆逐艦「秋月」は米潜水艦「ノーチラス (USS Nautilus, SS-168) 」に雷撃されて大破、第十戦隊司令官(木村少将)も負傷した[153]。小柳少将(第二水雷戦隊司令官)は第十戦隊司令官に任命され[153]、「長波」から将旗を撤収する[146]。「神通」艦長が臨時に二水戦司令官を代行したあと、後任の二水戦司令官には伊崎俊二少将が任命された[153]。「長波」は工作艦「明石」の世話になった[154]。整備中の1月20日、「五十鈴」が第二水雷戦隊から除かれ第十六戦隊へ転籍した[67]。同日附で、駆逐艦「大波[155](藤永田造船所建造艦、前年12月29日竣工)[156]が第31駆逐隊に編入された[157]。 2月25日には姉妹艦「清波[158](浦賀船渠建造艦、1月25日竣工)[159]が31駆に加わった[160]。第31駆逐隊は定数4隻(長波、巻波、大波、清波)となった。

3月8日に、「長波」は前年暮れに救援した「南海丸」を護衛してトラックを出港し、瀬戸内海まで護衛の後に舞鶴へ回航され、3月17日に入港し[12]舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなう[161]。修理後、4月20日に舞鶴を出発し[162]、横須賀に回航された[163]。 4月25日、第十四戦隊の軽巡洋艦「那珂[164]と駆逐艦3隻(長波、時雨、有明)は[165]、空母「雲鷹」と「冲鷹」を護衛してトラックに向かう[166][167]。4月30日、艦隊はトラック泊地に到着した[167]。 5月8日、軍艦5隻(戦艦〈大和〉、空母〈雲鷹、冲鷹〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉)は駆逐艦部隊(長波、夕暮五月雨)に護衛されてトラックを出港し、それぞれ内地に帰投した[167][168]。5月13日、「長波」と「五月雨」は第五戦隊および空母と共に横須賀へ帰投した[169][170]

横須賀到着の前日、連合軍はアッツ島に上陸を開始、アッツ島の戦いが始まった[171]。 第五戦隊および「長波」と「五月雨」は北方部隊(第五艦隊基幹)に編入され[172]、アリューシャン列島への進出を命じられる[173]。5月15日、4隻(妙高、羽黒、長波、五月雨)は横須賀を出発、5月19日に幌筵へ到着した[174]。北方部隊はアッツ島救援のため駆逐艦「神風」と「野風」をアッツ島に突入擱座させて補給を行う計画を立てていたが[175][176]、実施されなかった[177]。5月29日、アッツ島守備隊は玉砕した[178]。 6月1日、「長波」は補給の際に舷側に損傷を負い、翌日幌筵を出発する[179]。6月5日、舞鶴に到着した[180]。修理と機銃増備工事をおこなう[180]。6月23日、舞鶴を出動する[181]。7月1日、幌筵島に進出した[179][182]

キスカ・ブーゲンビル・ラバウル

[編集]

7月7日、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下、キスカ島撤退作戦第一次作戦に警戒部隊(初霜、若葉、島風、長波、五月雨)として参加する[183][184]。しかし、第一次作戦はキスカ島方面のが晴れてきたことで7月15日に作戦中止となり[185][186]、7月18日に幌筵島へ帰投した[187]。 第二次作戦は7月22日から開始された[188]。翌日、3隻(長波、日本丸、国後)は霧のために艦隊から落伍した[188]。7月24日、「長波」と「日本丸」は艦隊に合流できたが、「国後」は依然として所在不明だった[189]。 7月26日夕方、突入部隊は「国後」を原因とする多重衝突事故を起こす[190]。艦隊最後尾にいた「若葉」(第21駆逐隊司令駆逐艦)-「初霜」-「長波」は前方の混乱の余波をうけた[191]。まず「初霜」が、前方航行中の「若葉」の右舷後部に衝突する[191]。後進をかけた「初霜」は、後続していた「長波」に衝突した[191]。「長波」は右側に回避行動をとっており、「初霜」の艦尾が長波左舷後部に衝突した[192]。外板に少し凹みが生じて若干量の浸水もあったが、作戦に支障は無かった[192]。 撤退作戦後、「長波」以下各艦は8月3日附で北方部隊の指揮から離れ[注 18]、原隊に戻ることとなった[193]。「長波」と駆逐艦「」はタンカー「日本丸」(山下汽船、9,971トン)を舞鶴近海まで護衛した[194]。 8月7日、「長波」は舞鶴に到着し、舞鶴海軍工廠で修理をおこなう[195]。 9月4日まで修理を行った[196]。翌日、「長波」は舞鶴を出撃した[197]

修理後の9月15日、「長波」と「島風」は重巡「鳥海」と「摩耶」を護衛して横須賀を出撃し、トラックを経由してラバウルに向かう[198]。9月20日にトラック泊地着後、各艦に分乗していた防空隊は摩耶と長波に移乗した[199]。摩耶と長波はラバウルに移動してブカ島配備予定の防空隊を揚陸し、トラック泊地にもどった[199]。任務終了後はトラックで待機し、10月17日からはマーシャル諸島方面に出撃する第三艦隊(司令長官・小沢治三郎中将)と第二艦隊(司令長官・栗田健男中将)の護衛に就いた[200]

10月28日、連合艦隊はろ号作戦を発動する[201]。この作戦において、第一航空戦隊の飛行機隊を南東方面の陸上基地に配備することにした[202]。第十戦隊大杉守一少将を指揮官とする輸送部隊(第一部隊〈阿賀野、初風、若月、長波〉、第二部隊〈大波、風雲〉、第三部隊〈天津風〉、修理後投入〈巻波〉)は、それぞれ一航戦の基地員と物件をラバウルやカビエンに輸送した[203][204]。 ラバウル到着後の第一部隊は、そのままブーゲンビル島トロキナ方面への殴り込みおよび逆上陸部隊を掩護する連合襲撃部隊(指揮官大森仙太郎第五戦隊司令官)に組み込まれた[205]。連合襲撃部隊は、第一襲撃部隊(妙高、羽黒)、第二襲撃部隊(川内、時雨、白露、五月雨)、第三襲撃部隊(阿賀野、長波、初風、若月)として出撃した[206]。 11月1日から2日にかけての深夜に生起したブーゲンビル島沖海戦で日本軍は敗北し、川内と初風を喪失した[207]

ラバウルに帰投後、「長波」はラバウル空襲に遭遇する[208]。11月5日の空襲で栗田長官の重巡洋艦部隊は大損害を受けたが[209]、「長波」ふくめ二水戦各艦に深刻な被害はなかった[210]。大破した「摩耶」[211]、第十戦隊と第二水雷戦隊の大部分を残し、重巡洋艦部隊はトラック泊地へ退却した[210][212]。 11月6日から10日にかけては第十戦隊とともにトロキナへの逆上陸作戦に従事した[213][214]。「長波」の兵力部署は、支援部隊麾下の第二支援部隊(指揮官高間完第二水雷戦隊司令官、旗艦〈能代〉、早波[注 19]、長波[注 20])であった[215]

この頃、11月5日の空襲に満足したハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請[216]。ニミッツ大将はギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務群(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)を派遣することに決した[216]。11月11日早朝、第38任務部隊フレデリック・シャーマン少将)はブーゲンビル島北方から、第50.3任務群は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた[216][209]。これに対し、ラバウルから発進した偵察機は第50.3任務群を発見する[216][217]。これに伴い、ラバウル在泊の第二水雷戦隊と第十戦隊は折からのスコールにまぎれて港外に脱出しつつあった[218]。7時15分、「長波」は急降下爆撃機十数機の攻撃を受けて後甲板に被弾し、操舵不能になったうえ爆圧でスクリューが脱落して航行不能となった[219]

第二水雷戦隊と第十戦隊の大部分はトラック泊地に撤収したが、第31駆逐隊(大波、長波、巻波)はラバウルに残った[220]。「長波」は仮修理を受け、本格的な修理のため曳航されて後送される事になった。12月3日、軽巡洋艦「夕張」と駆逐艦「文月」の護衛下、駆逐艦「水無月に曳航されてラバウルを出港する[221][222]。12月5日までは駆逐艦「天霧」も護衛に協力、計三回連合軍機と遭遇したが被害を受けることはなかった[221]。12月8日、長波曳航部隊はトラックに入港した[221]

1944年(昭和19年)1月15日、今度は軽巡洋艦「長良」に曳航されてトラックを出港した[21][223]。護衛には駆逐艦「卯月」と「夕凪」がついた[224]。米軍潜水艦が跳梁する中での曳航のため生還は難しいとみられ、「長良」乗組員は病院船「氷川丸」に預けていた戦死者の遺骨を引き取り[注 21]、艦内に安置して航海に臨んだ[226]。長波回航隊は4隻とも内地へ帰投できた[227]。1月24日、内海西部着[228][注 22]。長波は呉海軍工廠で本格的修理に入った[229]

昭和19年の行動

[編集]

第31駆逐隊の所属艦は、前年7月に「清波」が夜間空襲により撃沈され[22]、前年11月下旬のセント・ジョージ岬沖海戦で「大波」と「巻波」が沈没[230]、稼動艦は「長波」だけになっていた[231][27]。 1944年(昭和19年)2月10日、第31駆逐隊に「沖波[232](舞鶴海軍工廠建造艦、前年12月10日竣工)[233]、「岸波[234](浦賀船渠建造艦、前年12月3日竣工)[235]、「朝霜[236](藤永田造船所建造艦、前年11月27日竣工)[237]が編入され、定数4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)を回復した[27]。同日附で、森艦長は第二艦隊司令部附へ転任した[238]が、後任艦長の発令はすぐには行われずそのまま修理を行い、6月1日になり新艦長の飛田清少佐が横須賀鎮守府附[239]から就任した[240]。 修理を終えた後の7月8日正午、第31駆逐隊(朝霜、岸波、沖波、長波)は遊撃部隊(指揮官・栗田健男第二艦隊司令長官)の甲部隊に所属し[注 23][241]、呉を出撃した[242]。途中、沖縄第32軍(司令官渡辺正夫中将)に対する輸送任務を行い、任務終了後はリンガ泊地に直接向かって7月16日に到着した[243]。以後、リンガ泊地で訓練に励んだ。

レイテ沖海戦

[編集]

10月18日、捷一号作戦発動に伴って第一遊撃部隊(通称栗田艦隊または栗田部隊と呼称)はリンガ泊地から出動した(海戦の経過詳細と部隊編成については、当該記事を参照)[244]ブルネイ湾で補給の後、第一遊撃部隊の第一部隊と第二部隊は10月22日に出撃した[245]。翌10月23日未明、パラワン水道において第二艦隊旗艦「愛宕」がアメリカ潜水艦「ダーター (USS Darter, SS-227) 」の雷撃で沈没[246]。重巡洋艦「摩耶」は、潜水艦「デイス (USS Dace, SS-247) 」[247]の雷撃で沈没し[248]、「高雄」は、「ダーター」の雷撃により大破した[249]。 第31駆逐隊の「長波」と「朝霜」は高雄の警戒と護衛を命じられ、栗田艦隊本隊とは別行動になった[250][251]。救援要請により、海防艦「千振」、水雷艇「」、特設駆潜艇「御津丸」が、それぞれ「高雄」との合流を急いだ[252]。「ダーター」と「デイス」は「高雄」にとどめを刺そうと攻撃機会をうかがっていたが、「長波」と「朝霜」と水上機が警戒しているため、昼間襲撃を諦めた[253]

翌10月24日未明、「ダーター」はパラワン水道のボンベイ礁(日本側は福瀬と呼称)に座礁し、放棄された[254]。「デイス」は僚艦の乗組員を収容したあと、現場を去った[254]。同日4時20分、「鵯」と「御津丸」が高雄隊に合流する[30]。8時50分、味方哨戒機が通信筒を投下、ボンベイ礁に座礁した潜水艦(ダーター)の攻撃を依頼した[30]。「長波」と「鵯」は「ダーター」を攻撃するため座礁現場におもむく[30]。約3分間、リーフ上の「ダーター」を砲撃した[30]。13ミリ機銃と写真、可能な限りの鹵獲品を得て、分捕った13ミリ機銃は後檣右舷側に装備された[255]。 つづいて「長波」は、シブヤン海で第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の空襲を受けて大破し、コロン島経由でブルネイ湾に下がる妙高の護衛を命じられた[注 24][257]。「鵯」は高雄隊の護衛に戻り、「長波」はコロン泊地にむかった[30]

10月26日10時50分、栗田長官は「妙高」「長波」「清霜」に対しコロン出港とブルネイ回航を命じた[258]。この命令受領時、「清霜」と「浜風」は戦艦「武蔵」の生存者を乗せてマニラにいたので[259]、命令どおり行動できるのは「妙高」と「長波」だけだった[258]。10月27日11時50分に「妙高」と「長波」はコロンを出発し、パラワン水道を通過して、29日10時30分にブルネイに到着した[258]。同地には栗田艦隊残存艦が到着していた[注 25][261]

多号作戦と沈没

[編集]

ブルネイ到着前の10月27日17時15分、豊田副武連合艦隊司令長官はレイテ島地上戦にともなう海上輸送作戦(「多号作戦」)を実施するため、南西方面部隊[注 26]の水上兵力増強を下令した[264]。GF電令作第381号により、第31駆逐隊(岸波、長波、沖波、朝霜)、第41駆逐隊(霜月冬月)、第61駆逐隊(若月涼月)は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に編入された[265]。10月29日には、GF電令作第387号により第二水雷戦隊全艦が第二遊撃部隊に編入された[265]。 10月30日、「長波」をふくめ第二水雷戦隊の大部分はブルネイを出発、マニラへ移動した[注 27][266]

11月8日朝、「長波」は多号作戦第四次輸送部隊(指揮官木村昌福第一水雷戦隊司令官、旗艦「霞」)に所属し、マニラを出撃した[267][268]。翌11月9日夕方にレイテ島オルモック湾に到着するも、大発が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった[269][270]。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25P-38の攻撃を受けて陸軍特殊船「高津丸」(山下汽船、5,657トン)、輸送船「香椎丸」(大阪商船、8,407トン)、「第11号海防艦」が沈没し、海防艦「占守」と「第13号海防艦」が損傷した[271][272]。木村少将は輸送船「金華丸」(大阪商船、9,305トン)に護衛部隊(海防艦〈沖縄、占守〉、駆逐艦〈若月、潮、秋霜〉)をつけてマニラへ先発させ[271]、駆逐艦3隻(霞〔木村少将旗艦〕、長波、朝霜)とともに救助作業にあたった[271]。救助作業後、駆逐艦3隻と第13号海防艦および後から来た第一号型輸送艦3隻(6号9号10号)はマニラへの帰路についた[273][274]。 14時18分、先行隊も空襲をうけて「秋霜」が中破した[273]

この頃、多号作戦第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官。旗艦「島風」)は低速輸送船団を護衛してオルモック湾に向かっていた[275][276]。 南西方面部隊指揮官(大川内長官)は11月8日2059NSB電令作第738号により、駆逐艦4隻(朝霜、長波、秋霜、若月)の第三次輸送部隊編入を、駆逐艦2隻(初春)の第四次輸送部隊編入を命じていた[277]。大川内長官の命令により、損傷した「秋霜」以外の3隻(長波、朝霜、若月)は第四次輸送部隊から分離、第三次輸送部隊に合流する[278](代わりに「初春」と「竹」が第四次輸送部隊に合流)[279]。11月10日夕刻、「長波」と「朝霜」は「霞」に被害艦生存者を移し、第三次輸送部隊を追いかける[280]。第四次輸送部隊から離脱後、3隻は21時にマスバテ島東方のブラックロック水道で第三次輸送部隊に合流した[280][281]

第三次輸送部隊は護衛部隊(島風、浜波、若月、長波、朝霜、掃海艇30号)と輸送船4隻[注 28]となり、魚雷艇を撃退して進撃した[283][284]。11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機347機[285]による空襲を受けた[286]。 各艦は煙幕を展開し[287]、また四式戦闘機約30機が出動したが、輸送船団を守り切れなかった[288]-。つづいて米軍機は護衛部隊に襲い掛かる[289]。第32駆逐隊司令(大島一太郎大佐)の回想によれば、護衛部隊は「浜波」-「若月」-「島風」-「長波」-「掃海艇30号」-「朝霜」の単縦陣であったという[289]。 激しい対空戦闘の末に弾薬が尽きた「長波」は右舷艦橋下に被弾し、艦右側にも至近弾を浴びた。間もなく右側に傾斜した後、艦首を上げて沈没していった。第三次輸送部隊は「朝霜」ただ一隻を残して全滅し、早川少将も戦死した[288][290]。なお「朝霜」は航行不能になった「浜波」に接舷し、浜波乗組員を救助してオルモック湾を脱出した[289][291]。「朝霜」は浜波乗組員で満杯となっており、また米軍機の空襲も続いていたため、他の浮いている艦を救助できなかった[292]。 飛田(長波艦長)は生き残った乗員数十名を引き連れて、いまだ浮いていた「浜波」に乗り移った[293]。飛田艦長は乗員を各部署に配置させて機関の再始動にも成功したが、マニラ帰投に必要な缶用の真水が欠乏していたので「浜波」を陸上砲台にしようと決心した[294]。しかし、潮流に流されて擱座に失敗し、艦に残っていた糧食で夕食をとった後就寝[295]。翌11月12日、飛田艦長以下の「長波」の乗員は「浜波」を離れ、陸上から迎えに来た大発に移ってレイテ島に上陸した[295]。「浜波」の船体がその後どうなったのかは定かではないが、飛田艦長は生還して、戦後海上自衛隊に入隊した[296]。長波乗組員43名が海軍陸戦隊に編入され[297]マニラ市街戦フィリピン地上戦に投入された。

1945年(昭和20年)1月10日、長波は艦艇類別等級表から削除[298]。同時に帝国駆逐艦籍から除籍[299]。第31駆逐隊(長波、沖波、浜波、岸波)も解隊された[300]1981年(昭和56年)、長波の元乗員10名によって、京都霊山護国神社に長波の慰霊碑が建立された[296]

歴代艦長

[編集]
艤装員長
  1. 隈部傳 中佐:1942年5月20日[301] - 1942年6月30日[302]
駆逐艦長
  1. 隈部傳 中佐:1942年6月30日[302] - 1943年11月25日[303]
  2. 森卓次 少佐:1943年11月25日[303] - 1944年2月10日[238]、以後1944年6月1日まで駆逐艦長の発令無し。
  3. 飛田清 少佐/中佐:1944年6月1日[240] - 1944年12月5日[304]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 潜水艦「ダーター」の雷撃により第二艦隊旗艦「愛宕」が沈没して重巡「高雄」が大破。潜水艦「デイス」の雷撃で重巡「摩耶」が沈没。
  2. ^ 9月8日時点での支援部隊軍隊区分より、前進部隊本隊編成[59]
    • 第四戦隊:愛宕、高雄、摩耶
    • 第三戦隊:金剛、榛名
    • 第五戦隊:妙高、羽黒
    • 第八戦隊:利根、筑摩
    • 第二水雷戦隊:神通、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)、第31駆逐隊(長波、巻波)
    • 第四水雷戦隊:由良、第2駆逐隊(春雨、五月雨)、第9駆逐隊(朝雲、夏雲、峯雲)
  3. ^ 1942年9月時点での兵力部署においては、支援部隊指揮官と前進部隊指揮官を兼務する[59]
  4. ^ 従来の二水戦旗艦「神通」は損傷修理のため内地へ帰投した。9月25日、五十鈴が二水戦に編入され[67]田中頼三少将の旗艦となった。
  5. ^ 第15駆逐隊所属の駆逐艦「陽炎」は、第二航空戦隊護衛のため別行動。
  6. ^ 第七戦隊(鈴谷)、摩耶、第二水雷戦隊、第10駆逐隊。
  7. ^ 早潮(第二水雷戦隊旗艦)、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、巻波、長波、天霧、望月。
  8. ^ 「五十鈴」は外南洋部隊主隊として別働[67]、「黒潮」は待機隊として出動せず、「天霧」と「望月」が収容隊として二水戦に同行[90]
  9. ^ 南太平洋海戦での損傷の修理中、艦載機をヘンダーソン飛行場に移動させていた[93]
  10. ^ 第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊(長波、巻波)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第4駆逐隊(嵐、野分)、第27駆逐隊(夕暮)
  11. ^ 連合艦隊の命令により、12月1日附で「照月」と「浦風」は外南洋部隊に編入されていた。
  12. ^ 第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊(長波)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第4駆逐隊(嵐、野分)、第17駆逐隊(浦風、谷風)、第27駆逐隊(有明)
  13. ^ 増援部隊旗艦(照月)、第4駆逐隊(嵐)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊(長波)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第17駆逐隊(谷風、浦風)、第27駆逐隊(有明)
  14. ^ 第二水雷戦隊司令官直率、第31駆逐隊(長波、巻波)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第17駆逐隊(谷風)
  15. ^ 「卯月」は「有明」に曳航されていたが、空襲で「有明」は中破する[143]。「卯月」は「浦風」に曳航され、ラバウルに帰投した。
  16. ^ 警戒隊(長波、江風、涼風、巻波、荒潮)、輸送隊(親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)
  17. ^ 前進部隊復帰は、「親潮」「陽炎」「涼風」が1月6日付、「長波」と二水戦司令部は1月10日付。
  18. ^ 8月3日附で原隊に復帰した艦・部隊は、「摩耶」「島風」「五月雨」「長波」「響」、第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲)、第12潜水隊。
  19. ^ 駆逐艦「藤波」も出撃予定だったが、修理が間に合わずラバウルに残留した。
  20. ^ 「長波」ふくめ第31駆逐隊は挺身輸送隊・警戒隊に属していた。だが支援部隊の「時雨」の修理が間に合わず、「長波」は第二支援部隊に回された。
  21. ^ 「長良」は前年12月5日にクェゼリン環礁で空襲を受け魚雷が誘爆[21][225]、乗組員の1/3を失っていた。
  22. ^ その後、「長良」は舞鶴へ移動し、舞鶴海軍工廠で修理をおこなった[21]
  23. ^ 栗田長官直率(旗艦「愛宕」)。
    • 第四戦隊:愛宕、高雄、鳥海
    • 第一戦隊:大和、武蔵
    • 第七戦隊:熊野、鈴谷、利根、筑摩
    • 第二水雷戦隊:旗艦「能代」、第27駆逐隊(時雨、五月雨)、第31駆逐隊、第32駆逐隊(浜波(、附属(島風)
  24. ^ 損傷した「妙高」は第五戦隊旗艦を「羽黒」に譲り、10月25日7時40分[256]、コロンに入泊した。
  25. ^ 10月29日1030時点のブルネイ在泊艦[260]
    • 戦艦4隻:大和、長門、金剛、榛名
    • 重巡3隻:羽黒、利根、妙高
    • 軽巡「矢矧」
    • 駆逐艦9隻:浦風、磯風、雪風、浜波、岸波、朝霜、長波、秋霜、島風
    「熊野」「沖波」「浜風」「清霜」は別行動中。
  26. ^ この命令時の南西方面部隊指揮官は、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将であった[262]。11月1日、南西方面艦隊司令長官は三川中将から大川内傳七中将に交替した[263]
  27. ^ 二水戦「沖波」は重巡「熊野」を護衛した関係で既にマニラにおり、第二次多号作戦に従事した。第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将は二水戦の大部分から遅れて「清霜」に乗りブルネイを出発、11月4日にマニラで駆逐艦「島風」に将旗を掲げた。
  28. ^ 11月10日3時30分、「せれべす丸」が座礁して「駆潜艇46号」が残り[282]、第三次輸送部隊から落伍した。

出典

[編集]
  1. ^ a b #S16.7-12達/12月(2)画像5-6、昭和16年12月17日附達第391号
  2. ^ a b c d e f g h 山本ほか、夕雲型 2015, pp. 221a-222長波(ながなみ)
  3. ^ #昭和17年12月31日艦艇類別等級表, p.4
  4. ^ a b c d 歴群19、水雷戦隊II 1998, pp. 93–94長波(ながなみ)
  5. ^ a b c 山本ほか、夕雲型 2015, p. 223a巻波(まきなみ)
  6. ^ a b #内令昭和17年8月(4), p.11
  7. ^ a b c 重巡摩耶 2002, p. 149ガダルカナル島基地砲撃一覧表
  8. ^ a b 戦史叢書83 1975, pp. 354–355外南洋部隊
  9. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 147ルンガ沖夜戦
  10. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, pp. 223b高波(たかなみ)
  11. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 512a-513.
  12. ^ a b #S1803舞鎮日誌(2), p.19(昭和18年3月17日記事)「長波入港」
  13. ^ 戦史叢書29 1969, p. 533a.
  14. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, p. 229島風(しまかぜ)
  15. ^ 戦史叢書62 1973, p. 439b.
  16. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 424a-425第一航空戦隊の飛行機隊のラバウル進出
  17. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 391–394ボーゲンビル島沖海戦・その一
  18. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 414–415邀撃空戦と艦艇の被害
  19. ^ 戦史叢書62 1973, p. 431a「長波」の曳航護衛
  20. ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 490a-491長良、五十鈴、内地へ
  21. ^ a b c d 写真日本の軍艦8巻、軽巡I、174-175「軽巡洋艦『長良・五十鈴・名取』行動年表 ◆長良◆」
  22. ^ a b 山本ほか、夕雲型 2015, p. 224a清波(きよなみ)
  23. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, pp. 223c-224大波(おおなみ)
  24. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, p. 226a沖波(おきなみ)
  25. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, pp. 226b-227岸波(きしなみ)
  26. ^ a b 山本ほか、夕雲型 2015, pp. 227–228朝霜(あさしも)
  27. ^ a b c #内令昭和19年2月(2)、p.18
  28. ^ 戦史叢書37巻 1970, p. 385挿図第9、甲部隊リンガ進出行動概要図
  29. ^ ニミッツ 1962, pp. 306–307最初の椿事
  30. ^ a b c d e f 戦史叢書56巻 1972, p. 152.
  31. ^ 戦史叢書54巻 1972, pp. 450–453フィリピン沖海戦直後の水上部隊
  32. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 538a-541二水戦司令官戦史、第二船団全滅
  33. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 289a日本海軍駆逐艦艦名一覧/長波 Naganami
  34. ^ #内令昭和16年12月(3)、pp.8-9
  35. ^ a b #内令昭和17年6月(4)、pp.1-2
  36. ^ #S1707 横須賀鎮守府日誌 (1), pp.48-49
  37. ^ #S1707 横須賀鎮守府日誌 (3), p.22
  38. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 326–327米潜水艦の作戦
  39. ^ 陽炎型 2014, p. 301霰(あられ)
  40. ^ 陽炎型 2014, p. 303不知火(しらぬい)
  41. ^ 陽炎型 2014, p. 302霞(かすみ)
  42. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 272–273米潜水艦の作戦
  43. ^ a b c 戦史叢書29 1969, pp. 287–288.
  44. ^ #S1707 横須賀鎮守府日誌 (3), p.27
  45. ^ #S1707 横須賀鎮守府日誌 (4), p.11、#S1708 横須賀鎮守府日誌 (5), p.26
  46. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94a巻波(まきなみ)
  47. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 289b日本海軍駆逐艦艦名一覧/巻波 Makinami
  48. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 182.
  49. ^ 大正7年11月22日 官報第1892号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ3香川補少尉候補生〈445下段〉、コマ4清水(旧姓吉富)補少尉候補生〈446上段〉
  50. ^ 昭和17年8月31日(発令8月31日付)海軍辞令公報(部内限)第931号 p.21」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086700 
  51. ^ #S1708 横須賀鎮守府日誌 (5), p.20
  52. ^ #S1701三戦隊日誌(5)、pp.4-5
  53. ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 84.
  54. ^ #S1708 第二水戦日誌 (1), p.5
  55. ^ #S17.07呉防戦日誌(3)、p.8「(ハ)九月六日 待機部隊(3S 31dg)出撃」
  56. ^ #S1709 第二水戦日誌 (1), pp.4,5
  57. ^ #S1701三戦隊日誌(5), p.18
  58. ^ a b #S1701三戦隊日誌(5)、p.19
  59. ^ a b 戦史叢書83 1975, pp. 85–86の軍隊区分表より。
  60. ^ 戦史叢書83 1975, p. 117.
  61. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 189–190第二師団の「ガ」島飛行場総攻撃の失敗
  62. ^ 戦史叢書83 1975, p. 143.
  63. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94b高波(たかなみ)
  64. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 289c日本海軍駆逐艦艦名一覧/高波 Takanami
  65. ^ #内令昭和17年10月(1)、pp.1-2
  66. ^ 昭和17年12月18日(金)海軍公報(部内限)第4270号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C12070423900 
  67. ^ a b c 写真日本の軍艦8巻、軽巡I、175-176「軽巡洋艦『長良・五十鈴・名取』行動年表 ◆五十鈴◆」
  68. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 211–212.
  69. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 213a-215.
  70. ^ 戦史叢書83 1975, p. 214.
  71. ^ #S1710 第二水戦詳報 (3), pp.16, 29-30
  72. ^ 戦史叢書83 1975, p. 220.
  73. ^ 戦史叢書83 1975, p. 222a第五戦隊の飛行場射撃
  74. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 226–229前進部隊の作戦
  75. ^ #S1710 第二水戦詳報 (3), p.37
  76. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 150–152.
  77. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 222b.
  78. ^ #S1710 第二水戦詳報 (3), pp.37-38
  79. ^ #S1710 第二水戦詳報 (3), p.73
  80. ^ 戦史叢書83 1975, p. 232-233.
  81. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 273–275支援部隊の編制
  82. ^ 戦史叢書83 1975, p. 306.
  83. ^ #S1710 第二水戦詳報 (3), p.71
  84. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 325–327兵力の再編制
  85. ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 349.
  86. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 350–351七日の輸送
  87. ^ a b #S1711 第二水戦日誌 (1), pp.15-16
  88. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 351.
  89. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, p. 196.
  90. ^ 戦史叢書83 1975, p. 355.
  91. ^ 戦史叢書83 1975, p. 376.
  92. ^ a b c d 戦史叢書83 1975, p. 379.
  93. ^ 木俣、水雷戦史 1986, pp. 232–233.
  94. ^ ニミッツ 1962, p. 138.
  95. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 380.
  96. ^ 戦史叢書83 1975, p. 381.
  97. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 397–398第二次輸送船団の壊滅
  98. ^ ニミッツ 1962, p. 140.
  99. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 398.
  100. ^ #S1711 第二水戦日誌 (3), p.7
  101. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 407–408聯合艦隊司令部
  102. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 431–432ドラム罐輸送計画
  103. ^ #S1711 第二水戦日誌 (1),pp.38,40
  104. ^ a b c d 戦史叢書83 1975, pp. 432–433.
  105. ^ #S1711 第二水戦日誌 (1),pp.40-41
  106. ^ #S1711 第二水戦日誌 (3), pp.1-2, 42-44
  107. ^ #S1711 第二水戦日誌 (3), pp.1, 3-4
  108. ^ a b c d e 戦史叢書83 1975, p. 433.
  109. ^ #S1711 第二水戦日誌 (3), pp.44-45,48
  110. ^ #S1711 第二水戦日誌 (3), pp.45,48
  111. ^ ニミッツ 1962, p. 141.
  112. ^ ポッター 1991, p. 306.
  113. ^ ニミッツ 1962, p. 142.
  114. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 435.
  115. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 184.
  116. ^ 戦史叢書83 1975, p. 434挿図第32、ルンガ沖夜戦合戦図
  117. ^ #S1711 第二水戦日誌 (1), p.51
  118. ^ a b c d e ニミッツ 1962, p. 143.
  119. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 437–440米艦隊の戦闘
  120. ^ 木俣、水雷戦史 1986, p. 242.
  121. ^ 戦史叢書83 1975, p. 436.
  122. ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 440b.
  123. ^ #内令昭和17年12月分(4)、p.29
  124. ^ 戦史叢書83 1975, p. 440a十二月三日
  125. ^ 大和最後の艦長 2011, pp. 198–199.
  126. ^ 戦史叢書83 1975, p. 441a十二月七日
  127. ^ a b c d 戦史叢書83 1975, p. 441b.
  128. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, p. 203.
  129. ^ 大和最後の艦長 2011, pp. 199–200.
  130. ^ a b ニミッツ 1962, p. 144.
  131. ^ 戦史叢書83 1975, p. 446a-447第四次ガ島ドラム罐輸送
  132. ^ 大和最後の艦長 2011, pp. 200–201.
  133. ^ 戦史叢書83 1975, p. 446b.
  134. ^ a b c d 戦史叢書83 1975, p. 447.
  135. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, p. 205.
  136. ^ 大和最後の艦長 2011, pp. 203–204.
  137. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 452–453ムンダ基地設営
  138. ^ #S1711 外南洋増援部隊日誌 (3), p.6
  139. ^ 戦史叢書83 1975, p. 453a第一回輸送
  140. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 453b.
  141. ^ 戦史叢書83 1975, p. 454a第二回輸送
  142. ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 454b.
  143. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 454–455.
  144. ^ 戦史叢書83 1975, p. 455.
  145. ^ #S1711 外南洋増援部隊日誌 (3), pp.25-26, 33
  146. ^ a b #S1801 第二水戦日誌 (1), p.7
  147. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 510–512一月二日
  148. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 511.
  149. ^ 戦史叢書83 1975, p. 512b.
  150. ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 513.
  151. ^ #S1801 第二水戦日誌 (1), pp.5,10
  152. ^ #S1801 第二水戦日誌 (1), p.10、#S1801 第二水戦日誌 (3), p.7、#S1801 第二水戦日誌 (4), p.7
  153. ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 519.
  154. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, p. 206.
  155. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94c大波(おおなみ)
  156. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 290a日本海軍駆逐艦艦名一覧/大波 Onami
  157. ^ #内令昭和18年1月(2)、p.25
  158. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94d清波(きよなみ)
  159. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 290b日本海軍駆逐艦艦名一覧/清波 Kiyonami
  160. ^ #内令昭和18年2月(4)、pp.48-49
  161. ^ #S1801 第二水戦日誌 (4), pp.12,15
  162. ^ #S1804舞鎮日誌, p.66(昭和18年4月20日記事)「木曾入港 長波出港」
  163. ^ #S1801 第二水戦日誌 (5), p.6
  164. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 469.
  165. ^ #S1712四水戦日誌(6), p.7
  166. ^ 戦史叢書62 1973, p. 310第十四戦隊の内南洋部隊への進出
  167. ^ a b c 日本空母戦史 1977, p. 494.
  168. ^ 戦史叢書62 1973, p. 328a「大和」等の内地回航
  169. ^ 戦史叢書29 1969, p. 520.
  170. ^ 戦史叢書62 1973, p. 328b.
  171. ^ 戦史叢書29 1969, p. 529五月十二日の状況
  172. ^ #S1801 第二水戦日誌 (6), p.6、#S1803 第一水戦日誌 (4), p.8
  173. ^ 戦史叢書29 1969, p. 533b.
  174. ^ 戦史叢書29 1969, p. 546.
  175. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 545–547北方部隊の状況
  176. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 554–556北方部隊の作戦・水上部隊
  177. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 558–559.
  178. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 549–550アッツ島における状況
  179. ^ a b 戦史叢書29 1969, p. 599.
  180. ^ a b #S1806舞鎮日誌, p.6「(二)造修(a)修理工事(b)長波 五日入港船體損傷及機銃増備工事施行二十三日完成出港」
  181. ^ #S1806舞鎮日誌, p.67(1943年6月23日項目)「長波工事完了出動」
  182. ^ #S1803 第一水戦日誌 (4), pp.15,35,45
  183. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 609–610第二 軍隊区分
  184. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 615–616.
  185. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 618–620突入断念、帰投
  186. ^ #S1806 第一水戦日誌 (2), p.47
  187. ^ 戦史叢書29 1969, p. 620.
  188. ^ a b 戦史叢書29 1969, pp. 632–633.
  189. ^ 戦史叢書29巻 1969, pp. 633–634.
  190. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 636–639「國後」出現による触衝事故
  191. ^ a b c 戦史叢書29 1969, p. 637.
  192. ^ a b 戦史叢書29 1969, p. 638.
  193. ^ 戦史叢書29 1969, p. 666.
  194. ^ #S1807 第一水戦日誌 (4), p.15
  195. ^ #S1808舞鎮日誌, p.9
  196. ^ #S1806 第二水戦日誌 (3), p.7
  197. ^ #S1809舞鎮日誌(2), p.4 (1943年9月5日記事)「長波、呂三六潜工事完成出撃」
  198. ^ 戦史叢書62 1973, p. 439a第六、第四十三各防空隊等のトラック等への進出
  199. ^ a b 戦史叢書62巻 1973, p. 439b.
  200. ^ #S1806 第二水戦日誌 (4), p.7
  201. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 372–373「ろ」号作戦発令―十月二十八日
  202. ^ 戦史叢書62 1973, p. 424b.
  203. ^ 戦史叢書62 1973, p. 425b.
  204. ^ 戦史叢書96巻 1976, p. 384.
  205. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 388–390タロキナへの逆上陸輸送計画の生起
  206. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 390–391第二回出撃 ― 輸送隊の反転帰投
  207. ^ ニミッツ 1962, pp. 178–184.
  208. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 425a-426遊撃部隊のラバウル進出直後の被害
  209. ^ a b ニミッツ 1962, pp. 185–186.
  210. ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 426.
  211. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 190–192.
  212. ^ 戦史叢書96巻 1976, pp. 400–401重巡部隊のトラック帰投
  213. ^ #S1806 第二水戦日誌 (5), p.13
  214. ^ 戦史叢書96巻 1976, p. 401-404タロキナ北方逆上陸の成功
  215. ^ 戦史叢書96巻 1976, p. 402.
  216. ^ a b c d 戦史叢書96巻 1976, p. 413.
  217. ^ #S1806 第二水戦日誌 (6), p.1
  218. ^ 戦史叢書96巻 1976, p. 416.
  219. ^ #S1806 第二水戦日誌 (5), p.48
  220. ^ 戦史叢書96巻 1976, p. 415.
  221. ^ a b c 戦史叢書62 1973, p. 431b.
  222. ^ #S1812 第二水戦日誌 (1), p.15
  223. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 490b.
  224. ^ #S1812三水戦日誌(5), p.12
  225. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 489.
  226. ^ 海軍人間語録 1985, pp. 63–64西村友晴中佐の「英霊を抱いて死のう」
  227. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 491.
  228. ^ #S1812三水戦日誌(6)、p.21
  229. ^ #S1812 第二水戦日誌 (3), p.14
  230. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 150〔セント・ジョージ岬沖海戦〕
  231. ^ #内令昭和18年10月(4)、p.8
  232. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94g沖波(おきなみ)
  233. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 290c日本海軍駆逐艦艦名一覧/沖波 Okinami
  234. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94h岸波(きしなみ)
  235. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 290d日本海軍駆逐艦艦名一覧/岸波 Kishinami
  236. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94i朝霜(あさしも)
  237. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 290e日本海軍駆逐艦艦名一覧/朝霜 Asahimo
  238. ^ a b 昭和19年2月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1319号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095700 
  239. ^ 昭和19年4月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1401号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072097000 
  240. ^ a b 昭和19年6月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1492号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099300 
  241. ^ 戦史叢書37巻 1970, pp. 382–383遊撃部隊主隊
  242. ^ 戦史叢書37巻 1970, pp. 383–384呉から中城湾までの行動
  243. ^ 戦史叢書37巻 1970, pp. 384–386中城湾以後の甲部隊の行動
  244. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 65.
  245. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 137.
  246. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 141–142旗艦愛宕の被雷沈没
  247. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 247–254.
  248. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 145-146.
  249. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 144「高雄」の被雷
  250. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 146–147.
  251. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 151a-152「高雄」、ブルネイに回航
  252. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 151b.
  253. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 153–155付記、米潜水艦の戦闘状況
  254. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, p. 154.
  255. ^ 真実の艦艇史2 2005, p. 170, 田村俊夫「米潜「ダーター」の機銃を装備した「長波」.
  256. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 168.
  257. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 167–168「妙高」、被爆落伍す
  258. ^ a b c 戦史叢書56巻 1972, p. 470.
  259. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 199–200救助作業
  260. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 481.
  261. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 480–481主隊のブルネイ入泊
  262. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 503.
  263. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 504.
  264. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 501a聯合艦隊作戦要領
  265. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, p. 501b.
  266. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 521a二水戦のマニラ進出
  267. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 529-530マニラ出港
  268. ^ 岸見 2010, pp. 32–37最大規模の第二次輸送作戦
  269. ^ 木俣、水雷戦史 1986, p. 552.
  270. ^ 岸見、多号作戦 2010, pp. 37–43「大発準備なく無念」第四次輸送作戦
  271. ^ a b c 戦史叢書56巻 1972, p. 532.
  272. ^ 岸見 2010, pp. 41–42.
  273. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, p. 534.
  274. ^ 岸見 2010, pp. 42–43.
  275. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 534–536第三次輸送部隊の行動、船団全滅す・マニラ出港
  276. ^ 岸見 2010, pp. 43–47壮絶、第三次輸送部隊
  277. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 536b.
  278. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 536a-537「長波」等の合同
  279. ^ 岸見 2010, pp. 44–45.
  280. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, p. 537b.
  281. ^ #S1909 第一水戦日誌 (5), p.16
  282. ^ 戦史叢書56 1972, p. 536.
  283. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, p. 212.
  284. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 537a-538米魚雷艇と交戦す
  285. ^ 木俣、水雷戦史 1986, p. 559.
  286. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 540–541米軍の作戦概況
  287. ^ 志賀、駆逐艦物語 2016, pp. 234–235.
  288. ^ a b 岸見 2010, pp. 46–47.
  289. ^ a b c 戦史叢書56巻 1972, pp. 539–540.
  290. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 538b.
  291. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, pp. 216–219乗艦との永遠の別れ
  292. ^ 志賀、駆逐艦物語 2016, pp. 235–238.
  293. ^ 橋本 1992, p. 265.
  294. ^ 橋本 1992, p. 266.
  295. ^ a b 橋本 1992, p. 267.
  296. ^ a b 橋本 1992, p. 237.
  297. ^ #10月18日以降増援兵力, p.2
  298. ^ #秘公報昭和20年1月(2)、p.2
  299. ^ #秘公報昭和20年1月(2)、pp.8-10
  300. ^ #秘公報昭和20年1月(2)、p.7
  301. ^ 昭和17年5月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第863号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085500 。
  302. ^ a b 昭和17年7月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第892号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 。
  303. ^ a b 昭和18年11月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1267号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094500 
  304. ^ 昭和19年12月15日付 秘海軍辞令公報 甲 第1669号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102300 

参考文献

[編集]
  • 池田清『重巡 摩耶』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X 
  • 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長(新装版)』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年11月。ISBN 9784-7698-2143-4 
  • 岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年12月。ISBN 978-4-7698-2666-8 
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。ISBN 978-4809900389 
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年。ISBN 978-4809901089 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。ISBN 978-4809901331 
  • 志賀博ほか『駆逐艦物語』潮書房光人社、2016年4月。ISBN 978-4-7698-1615-7 
    • (231-239頁) 芦田収「夕雲型『朝霜』多号作戦オルモック輸送」
  • 重本俊一 ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8 
    • (255-342頁) 伊達久「日本海軍駆逐艦戦歴一覧」
  • C. W. ニミッツ、E. B. ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。ISBN 978-4770407573 
  • 橋本衛「駆逐艦『長波』残弾なし! 完結編」『丸』第45巻第1号、潮書房、1992年。 
  • 半藤一利『ルンガ沖夜戦』 41巻、朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1984年5月。ISBN 4-257-17041-7 
  • 福井静夫 著、阿部安雄・戸高一成 編『日本駆逐艦物語』光人社〈福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 第5巻〉、1983年1月。ISBN 4-7698-0611-6 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 北東方面海軍作戦』 第29巻、朝雲新聞社、1969年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 海軍捷号作戦<1> 臺灣沖航空戦まで』 第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 海軍捷号作戦<2> フィリピン沖海戦』 第56巻、朝雲新聞社、1972年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書  中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収後』 第96巻、朝雲新聞社、1976年8月。 
  • E. B. ポッター 著、秋山信雄 訳『BULL HALSEY / キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年。ISBN 4-7698-0576-4 
  • 『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 軽巡I 天龍型・球磨型・夕張・長良型』 第8巻、光人社、1990年3月。ISBN 4-7698-0458-X 
  • 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型>』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6 
    • (178-192頁) 前田憲夫「南太平洋に奇跡を起こした『巻波』奮迅録」
    • (193-206頁) 初田太四郎「強運艦『長波』快心の中央突破四十八時間」
    • (207-219頁) 中沢五郎「オルモック急行『浜波』砲塔に息絶えて」
    • (220-229頁) 伊達久「夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争」
    • (230-238頁) 上村嵐「追随をゆるさぬ最高速艦『島風』の最後」
  • 吉田俊雄『海軍人間語録』光人社、1985年6月。ISBN 4-7698-0271-4 
  • 『歴史群像』編集部 編『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ 第19巻〉、1998年8月。 
    • (85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
    • (143-158頁)「戦闘ドキュメント 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕」
    • (160-165頁)上原光晴「特別企画1 駆逐艦「島風」の記録 韋駄天「島風」18か月間の戦い」
  • 『歴史群像』編集部 編『帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ 51〉、2005年。ISBN 4-05-604083-4 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和16年7月~12月 達/12月(2)』。JACAR:C12070111300 
    • 『昭和16年10月~12月 内令/昭和16年12月(3)』。JACAR:C12070159700 
    • 『昭和17年4月~6月 内令2巻/昭和17年6月(4)』。JACAR:C12070163400 
    • 『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月(4)』。JACAR:C12070164700 
    • 『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年10月(1)』。JACAR:C12070165700 
    • 『昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年1月(2)』。JACAR:C12070175100 
    • 『昭和18年1月~4月 内令1巻/昭和18年2月(4)』。JACAR:C12070175600 
    • 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(4)』。JACAR:C12070181400 
    • 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年2月(2)』。JACAR:C12070194500 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)』。JACAR:C12070503600 
    • 『昭和17年12月31日現在10版内令提要追録第12号原稿/巻3/第13類艦船(1)』。JACAR:C13072013300 
    • 『昭和17年7月1日~昭和17年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌(3)』。JACAR:C08030366600 
    • 『昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第3戦隊(5)』。JACAR:C08030041400 
    • 『昭和18年3月1日〜昭和18年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。JACAR:C08030084000 
    • 『昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。JACAR:C08030084500 
    • 『昭和18年7月22日〜昭和18年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。JACAR:C08030085200 
    • 『昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。JACAR:C08030087600 
    • 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030095600 
    • 『昭和17年9月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030097200 
    • 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030098300 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030098800 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030099000 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030099000 
    • 『昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(2)』。JACAR:C08030099600 
    • 『昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030100200 
    • 『昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030100400 
    • 『昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。JACAR:C08030100500 
    • 『昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。JACAR:C08030100600 
    • 『昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。JACAR:C08030100700 
    • 『昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030101200 
    • 『昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。JACAR:C08030101300 
    • 『昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。JACAR:C08030101400 
    • 『昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。JACAR:C08030101500 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030101800 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030102000 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。JACAR:C08030106900 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。JACAR:C08030107000 
    • 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)』。JACAR:C08030116500 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)』。JACAR:C08030319500 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)』。JACAR:C08030319700 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)』。JACAR:C08030319800 
    • 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)』。JACAR:C08030320800 
    • 『昭和18年3月1日~昭和18年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)』。JACAR:C08030355800 
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年4月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。JACAR:C08030355900 
    • 『昭和18年6月1日~昭和18年6月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。JACAR:C08030356400 
    • 『昭和18年8月1日~昭和18年8月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。JACAR:C08030356900 
    • 『昭和18年9月1日~昭和18年9月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)』。JACAR:C08030357100 
    • 『第1表/2.1944年10月18日以降増援兵力』。JACAR:C14061098700 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]