大杉守一
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大杉 守一 | |
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第三戦隊先任参謀時代 | |
生誕 |
1892年3月11日 日本 静岡県 |
死没 |
1948年8月28日(56歳没) オランダ領東インド マカッサル |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1913年12月19日 - 1946年12月10日 |
最終階級 | 海軍中将 |
大杉 守一(おおすぎ もりかず、1892年〈明治25年〉3月11日 - 1948年〈昭和23年〉8月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]1892年3月11日、静岡県で父・大杉喜三郎の子として生まれる。弟に吉岡忠一海軍中佐がいる。海軍兵学校41期、海軍大学校25期卒。同期には、兵学校で木村昌福、市丸利之助、大学校では柳本柳作、加来止男らがいる。大佐時代の1941年には、日本軍占領下で成立した中国親日政権「南京国民政府汪兆銘政権」に日本海軍顧問団首席指導官(中国威海衛海軍要港部)として派遣され、新中国海軍の整備育成(日華基本条約)[1]に尽力し、日華防共作戦や日中戦争処理等に多大な成果を挙げた[2]。1943年11月2日ブーゲンビル島沖海戦に第十戦隊司令官として参戦。同月11日のラバウル空襲において軽巡洋艦「阿賀野」座乗指揮中、敵機機銃掃射により重症を負う。1944年1月26日、第二十三特別根拠地隊司令官に任命され、インドネシアのマカッサルに着任。終戦後、蘭印マカッサル裁判(マニラ軍事裁判)で死刑判決。1948年8月28日公務死。これに先立つ同年3月、公職追放の仮指定を受けた[3]。
年譜
[編集]- 大正2年(1913年)12月19日 - 海軍兵学校41期卒業
- 大正3年(1914年)12月1日 - 任海軍少尉、八雲乗組
- 大正5年(1916年)12月1日 - 任海軍中尉
- 大正8年(1919年)12月1日 - 任海軍大尉
- 大正12年(1923年)11月1日 - 海軍兵学校教官兼監事
- 大正15年(1926年)2月1日[4] - 海軍大学校甲種学生25期入学
- 大正15年(1926年)12月1日 - 任海軍少佐
- 昭和2年(1927年)11月25日[5] - 海軍大学校甲種学生25期卒業
- 昭和3年(1928年)2月1日[6] - 「八雲」副砲長兼分隊長
- 昭和4年(1929年)2月1日[7][8] - 横須賀鎮守府附(海軍省派遣勤務員教育局勤務)
- 昭和6年(1931年)10月31日 - 第三戦隊参謀
- 昭和7年(1933年)2月1日[9] - 第一艦隊参謀兼連合艦隊参謀
- 昭和8年(1934年)2月1日[10] - 呉鎮守府参謀兼豊予要塞参謀下関要塞参謀由良要塞参謀
- 昭和10年(1935年)7月1日 - 上海海軍特別陸戦隊参謀兼第五艦隊司令部附
- 昭和11年(1936年)1月1日[11] - 上海海軍特別陸戦隊参謀兼第三艦隊司令部附
- 昭和11年(1936年)12月1日[12] - 任海軍大佐
- 昭和12年(1937年)1月1日[13] - 横須賀鎮守府附
- 昭和12年(1937年)4月1日 - 「隠戸」特務艦長[14][15][* 1]
- 昭和13年(1938年)10月22日 - 舞鶴要港部参謀長
- 昭和14年(1939年)11月15日[16][17][* 2] - 重巡洋艦「摩耶」艦長
- 昭和16年(1941年)4月15日 - 戦艦「金剛」艦長
- 昭和17年(1942年)2月3日[20] - 青島警備隊司令官(旧名称:青島方面特別根拠地隊)[21]
- 昭和17年(1942年)4月10日 - 海軍兵学校教頭兼監事長
- 昭和17年(1942年)6月21日[23] - 第十戦隊司令官
- 昭和19年(1944年)1月26日 - 第二十三特別根拠地隊司令官
- 昭和20年(1945年)5月1日[24] - 任海軍中将
- 昭和21年(1946年)12月10日 - 予備役編入
- 昭和23年(1948年)8月28日 - 56歳にて公務死。(マニラ軍事裁判)
脚注
[編集]- 注釈
- ^ 『日本海軍史第九巻』にはこの履歴はない。
- ^ 『日本海軍史第九巻』では1940年1月1日付
- ^ 『日本海軍史第九巻』にはこの履歴はない。なお開戦時の「金剛」艦長は小柳冨次である(『日本海軍史第九巻』「小柳富次)、小柳冨次『栗田艦隊』光人社NF文庫)。
- 出典
- ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A06030007800、日華基本条約並日満華共同宣言ニ関スル帝国政府公表・昭和十五年十一月三十日午後一時発表(国立公文書館)」
- ^ 『支那事変 第10回功績概見表綴』「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14121010500、自昭和16年6月 至昭和16年11月(防衛省防衛研究所)」 【新支那海軍整備並指導要綱機密支那方面艦隊命令第一五号別冊日本海軍顧問団服務規程及第三遺支艦隊命令第六一号威海衛海軍要港部指導部令ニ基キ日支海軍ノ協同作戦ニ適応スル如ク中国海軍機構制度ノ確立艦舶艇並ニ諸施設ノ整備充実及人員ノ育成指導ニ従事 新中国海軍ノ基歴ハ確立シ発展ノ一途ヲ連リ日支協力ノ趣旨ニ従ヒ北支沿岸作戦ノ補助兵力トシテ事変処理ニ従事多大ノ成果ヲ挙ゲタリ】
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、106頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『現役海軍士官名簿』(海軍省 大正15年2月1日調)119頁
- ^ 実松譲『海軍大学教育』(光人社NF文庫)375頁
- ^ 『現役海軍士官名簿』(海軍省 昭和3年2月1日調)107頁
- ^ 『現役海軍士官名簿』(海軍省 昭和4年2月1日調)
- ^ 『海軍省教育第54号海軍少佐大杉守一に家族移転料支給の件』(アジア歴史資料センターRef.C04016869500、公文備考 L 会計 巻1(防衛省防衛研究所)」)2頁
- ^ 『現役海軍士官名簿』(海軍省 昭和7年2月1日調)70頁
- ^ 『現役海軍士官名簿』(海軍省 昭和8年2月1日調)70頁
- ^ 『現役海軍士官名簿』(海軍省 昭和11年1月1日調)50頁
- ^ 『官房第5563号軍用術講習に関する件』「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034666400、公文備考 昭和11年 B 人事 巻4(防衛省防衛研究所)」
- ^ 『現役海軍士官名簿』(海軍省 昭和12年1月1日調)39頁
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』175頁
- ^ 『第2224号特務艦戸隠北米方面行動に関する件』「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06092484000、公文備考昭和12年Q通信、交通、気象時巻6(防衛省防衛研究所)」2項
- ^ 池田清『重巡摩耶』(学研M文庫)80頁
- ^ 『艦長たちの軍艦史』112頁
- ^ 『支那事変第10回功績概見表 青島方面特別根拠地隊』Ref.C14121058000、(防衛省防衛研究所)」
- ^ 『威海衞基地部指導部支那事変第10回功績概見表』「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14121010500、(防衛省防衛研究所)」
- ^ 『パナマ国汽船ニードウッド捕獲事件記録』(アジア歴史資料センター Ref.A08071153100)
- ^ 『海軍公報(部内限)第3994号』「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12070410000、昭和17年1月~4月 海軍公報(部内限)上巻(防衛省防衛研究所)」
- ^ 『海軍辞令公報(部内限)第851号』「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072085300、自昭和17年4月 至昭和17年6月 海軍辞令公報(防衛省防衛研究所)」
- ^ 『海軍辞令公報(部内限)第1154号』「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072085300、自昭和17年4月 至昭和17年6月 海軍辞令公報(防衛省防衛研究所)」
- ^ 『海軍辞令公報甲第1786号』「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072091700、自昭和18年4月 至昭和18年6月 海軍辞令公報(防衛省防衛研究所)」