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{{存命人物の出典明記|date=2018年9月}}
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{{Infobox baseball player
|選手名 = 中村 紀洋
| 選手名 = 中村 紀洋
|所属球団 =
| 所属球団 =浜松開誠館高校硬式野球部
| 役職 =コーチ
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|選手写真ファイル名 = 20130818 Norihiro Nakamura, infielder of the Yokohama DeNA BayStars, at Yokohama Stadium.JPG
| 画像 = 20130818 Norihiro Nakamura, infielder of the Yokohama DeNA BayStars, at Yokohama Stadium.JPG
|写真のコメント = DeNA時代<br/>(2013年8月18日、横浜スタジアムにて)
| 画像説明 = 現役時代<br/>(2013年8月18日、[[横浜スタジアム]]にて)
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| 利き腕 = 右
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|守備位置 = [[内野手]]
| 守備位置 = [[三塁手]]、[[一塁手]]
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| プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1991}}
| ドラフト順位 = ドラフト4位
|初出場 = NPB / 1992年6月12日<br/>MLB / 2005年4月10日
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|出場 = NPB / 1992年6月12日<br />MLB / 2005年410
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| 経歴 =
* [[大阪府立渋谷高等学校]]
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* [[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ<br/>大阪近鉄バファローズ]] (1992 - 2004)
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* [[オリックス・バファローズ]] (2005)
* [[ロサンゼルス・ドジャース]] (2005)
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* [[オリックス・バファローズ]] (2006)
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* [[中日ドラゴンズ]] (2007 - 2008)
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* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2009 - 2010)
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* [[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ<br/>横浜DeNAベイスターズ]] (2011 - 2014)
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| 経歴補足題 = コーチ歴
|代表チーム = {{Flagicon|JPN}} [[野球日本代表|日本]]
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|五輪 = [[シドニーオリンピックにおける野球競技|2000年]]、[[アテネオリンピック (2004年) における野球競技|2004年]]
* [[浜松開誠館中学校・高等学校|浜松開誠館高校]](2017 - 2021、2024 - )
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{{Infobox YouTube personality
'''中村 紀洋'''(なかむら のりひろ、[[1973年]][[7月24日]] - )は、[[大阪府]][[大阪市]][[東淀川区]](現・[[淀川区]])出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、アマチュア野球指導者。[[浜松開誠館中学校・高等学校|浜松開誠館高等学校]]硬式野球部非常勤コーチ。[[2013年]]に[[日本プロ野球名球会]]の会員となっている。愛称は「'''ノリ'''」。
| name = 中村 紀洋
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| channel_display_name = 中村紀洋公式チャンネル
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| years_active = [[2018年]][[7月12日]] - [[2021年]][[3月24日]]
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'''中村 紀洋'''(なかむら のりひろ、[[1973年]][[7月24日]] - )は、[[大阪府]][[大阪市]][[東淀川区]](現:[[淀川区]])出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])。[[愛称]]は「'''ノリ'''」。


現役時代は[[大阪近鉄バファローズ]]などでプレーし、[[中日ドラゴンズ]]時代の{{by|2007年}}には中日の53年ぶりとなる日本一に貢献、[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[最優秀選手 (野球)#日本シリーズMVP|日本シリーズMVP]]に選出されている<ref group="注" name="日本シリーズMVP"/>。{{by|2014年}}に[[横浜DeNAベイスターズ]]を[[戦力外通告|戦力外]]になり事実上現役を[[引退]]した([[#DeNA退団後|後述]])。その後は[[浜松開誠館中学校・高等学校|浜松開誠館高等学校]]非常勤コーチを経て{{by|2022年}}から中日でコーチを務めた<ref name="ドラゴンズ2021-10-29"/>。[[2004年アテネオリンピックの野球競技|アテネオリンピック]]野球の銅メダリスト。[[日本プロ野球名球会]]会員。
2014年に[[横浜DeNAベイスターズ]]を退団後は事実上の引退状態にある。


家族は、妻の浩子(元実業団[[バレーボール]]・[[日立ベルフィーユ|日立]]の選手)と3女。元プロ野球選手の[[村上隆行]]は義兄(妻の兄)。さらに[[広島東洋カー]]に所属する[[中田廉]]とも遠戚関係にある(中田の母の妹が村上の妻で、村上の妹の夫が中村になる)。
家族は、妻の浩子(元実業団[[バレーボール]]・[[日立ベルフィーユ|日立]]の選手)と3女。元プロ野球選手の[[村上隆行]]は義兄(妻の兄)。さらに同じく元ロ野球選手の[[中田廉]]とも遠戚関係にある(中田の母の妹が村上の妻で、村上の妹の夫が中村になる)。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
=== プロ入り前 ===
[[1985年]]4月17日[[阪神タイガース]]対[[読売ジャイアンツ]]の試合を観に行き、[[バックスクリーン3連発]]を観客席でていた<ref>{{Cite web|date=2010-08-09|url=http://fan.npb.or.jp/slogan/2010/game/e/infield.html|title=内野手|東北楽天ゴールデンイーグルス|「最高の試合」「名場面・名勝負」|2010年NPBスローガン「ここに、世界一がある。」スペシャルコンテンツ|publisher=日本野球機構|accessdate=2018-03-12|archivedate=2012-01-14|archiveurl=http://web.archive.org/web/20120114021440/http://fan.npb.or.jp/slogan/2010/game/e/infield.html}}</ref>。[[大阪府立渋谷高等学校]]時代{{by|1990年}}の[[全国高等学校野球選手権大阪大会]]で2年生ながら4番打者として4[[本塁打]]、守備でも[[三塁手]]兼[[投手]]としてチームを[[全国高等学校野球選手権大会|甲子園]]初出場に導く。[[第72回全国高等学校野球選手権大会|甲子園]]では初戦(2回戦)で敗れたが、大阪府立高校の出場が8年ぶりであった。高校通算35本塁打。高校時代の同級生に[[大鳥れい]](元[[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]トップ娘役)がいる。
[[大阪市立野中小学校]]・[[大阪市立十三中学校]]出身<ref>{{Cite web|和書|url=https://dragons.jp/teamdata/coach/coach.php?num=74 |title=監督・コーチのプロフィール 打撃コーチ 74 中村 紀洋 |access-date=2023-04-13 |publisher=中日ドラゴンズ |year=2023 |website=中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230413123354/https://dragons.jp/teamdata/coach/coach.php?num=74 |archive-date=2023-04-13}}</ref>。中学時代は[[リトルシニア#関西連盟|大阪淀川リトルシニア]]でプレーした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.netto.jp/cs/news.php?action=detail&news_id=20740 |title=【練習ログ更新】OBの中村紀洋さんに来訪いただきました! |access-date=2023-04-13 |publisher=大阪淀川リトルシニア -日本リトルシニア中学硬式野球協会 関西連盟- |date=2018-08-11 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230413123200/https://www.netto.jp/cs/news.php?action=detail&news_id=20740 |archive-date=2023-04-13}}</ref>。1985年4月17日に[[阪神甲子園球場]]で行われた[[阪神タイガース]]対[[読売ジャイアンツ]](巨人)の試合を観に行き、[[バックスクリーン3連発]]を見た<ref>{{Cite web|和書|date=2010-08-09 |url=http://fan.npb.or.jp/slogan/2010/game/e/infield.html |title=内野手|東北楽天ゴールデンイーグルス|「最高の試合」「名場面・名勝負」|2010年NPBスローガン「ここに、世界一がある。」スペシャルコンテンツ |publisher=日本野球機構 |language=ja |accessdate=2018-03-12 |archivedate=2012-01-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120114021440/http://fan.npb.or.jp/slogan/2010/game/e/infield.html}}</ref>。高校進学にあたって、「大阪の私立校は強すぎる。この状況を変えたいんや。みんなで公立から甲子園目指せへんか」とリトルやシニアの仲間を誘い、[[大阪府立渋谷高等学校]]へ進学した<ref name=sankei20170803>{{cite news|newspaper=[[産経新聞]]|title=「公立の星」27年前の主役ノリ|url=https://www.sankei.com/article/20170803-FC4QSBFZLRNDFF6PTK2SJV5MFM/|date=2017-08-03|accessdate=2024-08-20}}</ref>。{{by|1990年}}の[[全国高等学校野球選手権大阪大会]]で2年生ながら4番打者として4[[本塁打]]、守備でも[[三塁手]]兼[[投手]]としてチームを[[全国高等学校野球選手権大会|甲子園]]初出場に導く。府大会決勝では[[第61回選抜高等学校野球大会|前年のセンバツ]]準優勝投手である[[宮田正直]]を擁する[[上宮高等学校|上宮高校]]相手に打者としては2打席連続の2ラン本塁打を放ち、投手としては4回からリリーフ登板し、6回5安打2失点に抑えて6-4での勝利に貢献した<ref name=sankei20170803 />。大阪の公立高校としては[[1982年]]の[[第64回全国高等学校野球選手権大会|第64回大会]]・[[大阪府立春日丘高等学校|春日丘高校]]以来8年ぶりの出場となった。[[第72回全国高等学校野球選手権大会|甲子園]]では初戦(2回戦)で[[山口県宇部商業等学|宇部商]]に敗れた。高校通算35本塁打。高校時代の同級生に[[大鳥れい]](元[[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]トップ娘役)がいる。


[[1991年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1991年度ドラフト会議]]を前に[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]]の[[萩原誠]]([[阪神タイガース]]から1位指名)とともに大阪出身のスラッガーとして注目されており、会議では[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]から4位指名を受け<ref>『中日スポーツ』1991年11月23日第5版3頁「パ交渉権獲得選手」(中日新聞社)</ref>、入団。[[野球の背番号|背番号]]は'''66'''。なお、後に所属する[[中日ドラゴンズ]]の関西地区担当スカウトを務めていた[[中田宗男]]も中村を高く評価していたが、最終的には指名には至らなかった<ref>{{Cite news|和書 |title=投手では物足りないが打者として魅力…「鈴木一朗」指名を具申した慧眼スカウト 中日の“課長”の野球人生 |newspaper=[[中日スポーツ]] |date=2023-02-04 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/630107 |access-date=2023-05-22 |publisher=中日新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230522144933/https://www.chunichi.co.jp/article/630107 |archive-date=2023年5月22日}}</ref>。当時、ドラゴンズの親会社である[[中日新聞社]]の発行する『[[中日スポーツ]]』ではドラフト候補の選手たち(高校生は164人)をA・B・Cの3段階評価で評価していたが、当時投手だった中村はB評価で、[[大和銀行]]への入行が内定していた<ref>『中日スポーツ』1991年11月6日第5版4頁「高校生(164人)」(中日新聞社)</ref>。
[[1991年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1991年度ドラフト会議]]にて[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]から4位指名を受けて入団。[[野球の背番号|背番号]]は'''66'''。


=== 近鉄時代 ===
=== 近鉄時代 ===
{{by|1992年}}11試合に出場しシーズン2本塁打を記録([[パシフィック・リーグ]]の高卒新人で本塁打2本以上は[[清原和博]]・[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]以来6年ぶり)。{{by|1993年}}は8試合の出場にとどまる。
{{by|1992年}}11試合に出場しシーズン2本塁打を記録([[パシフィック・リーグ]]の高卒新人で本塁打2本以上は[[清原和博]]・[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]以来6年ぶり)。{{by|1993年}}は8試合の出場にとどまる。

{{by|1994年}}には故障した[[金村義明]]の代役として台頭。9月18日の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦([[藤井寺球場|藤井寺]])で[[サイクル安打]]、プロ初の三塁打がこの記録に結び付いた。この年は[[規定打席]]不足だったが、101試合に出場して打率.280、8本塁打をマークした。

{{by|1995年}}からレギュラーに定着。この年は129試合に出場し、打率.228だったが、初の20本塁打を記録した。

{{by|1996年}}から左手首の故障に悩まされる(これまでにも左手首の手術を3回受けている)。前年を下回る110試合の出場だったが、26本塁打、打率.273。


{{by|1997年}}には背番号を[[石井浩郎]]が着けていた'''3'''へ変更。同年は128試合に出場したが不調で三振数も100を超えた。
{{by|1994年}}には故障した[[金村義明]]の代役として台頭。9月18日の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦([[藤井寺球場|藤井寺]])で[[サイクル安打]]、プロ初の三塁打がこの記録に結び付いた。この年は[[規定打席]]不足だったが、打率.280。


{{by|1998年}}にはリーグ2位の32本塁打を放ち、自身初のシーズン30本塁打達成。
{{by|1995年}}からレギュラーに定着。この年は打率.228だったが、初の20本塁打。{{by|1996年}}から左手首の故障に悩まされる(これまでにも左手首の手術を3回受けている)。26本塁打、打率.273。


球団名が「大阪近鉄バファローズ」になった{{by|1999年}}は初の全試合出場を達成し、[[ゴールデングラブ賞]]を獲得。
{{by|1997年}}には、背番号を[[石井浩郎]]の着けていた'''3'''へ変更。同年は不調で三振数も100を超えた。


{{by|2000年}}にはシーズンでは二冠王([[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]、[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]])を獲得するが、近鉄は2年連続のパ・リーグ最下位。シーズン終了後、推定[[年俸]]3億円(1億6,000万円増)プラス出来高払い5,000万円で[[契約更改]]。[[シアトル・マリナーズ]]に移籍した[[イチロー]]に代わり、パ・リーグの日本人最高年俸選手になる。
{{by|1998年}}には、リーグ2位の32本塁打を放ち、自身初のシーズン30本塁打達成。左手首の故障から完全復活を果たした。


{{by|2001年}}の開幕前に背番号を[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]へ移籍した義兄・[[村上隆行|村上嵩幸]]の着けていた'''5'''へ変更。4番打者として活躍し、132打点で打点王を獲得した<ref group="注">平成時代のパ・リーグ記録。</ref>。3・4番合計101本塁打([[タフィ・ローズ]]55本、中村46本)は、{{by|1985年}}の阪神([[ランディ・バース]]54本、[[掛布雅之]]40本)を上回る最多記録を更新。さらに全試合出場を果たし打率は自己最高.320を記録した。9月24日の西武戦では[[松坂大輔]]からサヨナラ逆転2ランを放った<ref>{{Cite web|和書|title=中村紀洋が中日・松坂大輔に抱く特別な思い「体がボロボロになっても名球会に入れるまで頑張ってほしい」 {{!}} 野球コラム |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180413-16 |website=週刊ベースボールONLINE |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>。翌シーズンに[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント (FA) 権]]の取得が予想される中、近鉄から複数年契約(推定6年契約35億円)を提示される。しかし、12月26日に「1か月で判断するのは難しかった」と複数年契約を拒否し、推定年俸5億円+出来高払い1億円の単年契約を結ぶ。12月には[[大阪教育大学附属池田小学校]](同年6月に[[附属池田小事件|児童殺傷事件]]が発生)の慰問活動が評価され、第3回[[ゴールデンスピリット賞]]を受賞している<ref>{{Cite news|title=第3回受賞者(2001年) 近鉄・中村紀洋|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2001-12-13|url=https://www.hochi.co.jp/award/golden_spirit/2001.html|publisher=[[報知新聞社]]|language=ja|accessdate=2020-08-13|archivedate=2020年8月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200813040142/https://www.hochi.co.jp/award/golden_spirit/2001.html}}<!--この記事の日付は「2002年12月13日」となっているが、明らかに「2001年12月」の間違い--></ref>。
{{by|1999年}}は初の全試合出場を達成し、[[ゴールデングラブ賞]]を獲得。{{by|2000年}}には[[シドニーオリンピックにおける野球競技|シドニー五輪の野球競技]]に[[シドニーオリンピック野球日本代表|日本代表]]として参加も4位に終わる。4位が決まった直後に涙した全日本のメンバーは多かったが、中村はインタビューでテレビカメラの前でも人目を憚らず号泣した。シーズンでは二冠王([[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]、[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]])を獲得するが、近鉄は2年連続のパ・リーグ最下位。シーズン終了後、推定[[年俸]]3億円(1億6,000万円増)プラス出来高払い5,000万円で[[契約更改]]。[[シアトル・マリナーズ]]に移籍した[[イチロー]]に代わり、パ・リーグの日本人最高年俸選手になる。


{{by|2002年}}7月14日にFA権を取得。この年は3割は逃したが全試合出場を果たし、42本塁打、115打点と前年同様の打棒を発揮した。だが30本塁打以上を記録したのはこの年が最後となった。この頃「メジャー移籍はあまり頭にない」と話していたこともあったが、シーズン終了後から「中村紀洋というブランドをまず考えて、近鉄で終わっていいのか」と悩み抜き、11月5日にFA宣言<ref>{{Cite news |title=日めくりプロ野球 11月 【11月25日】2002年(平14) オフは忙しい!?中村紀洋、幻の巨人入り |newspaper=[[スポーツニッポン|nikkansports.com]] |date=2008-11-23|origdate=2002-11-25 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0711/kiji/K20081123Z00002680.html |publisher=スポーツニッポン新聞社 |language=ja |accessdate=2020-08-12 |archivedate=2004年11月20日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200813043419/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0711/kiji/K20081123Z00002680.html}}</ref>。12月19日には700万ドルでの2年契約プラス3年目のオプション600万ドルで[[ニューヨーク・メッツ]]と契約合意したと報じられるが、12月20日にこれがメッツの公式HPに載ったことに「そんな球団は信用できない」と激怒し交渉を白紙に戻す。そのため、近鉄と再交渉を行い、監督の[[梨田昌孝]]らから慰留されたこともあり、12月21日に近鉄残留を表明した(推定6年契約30億円+出来高払い<ref name="sanspo20041201" />)。なおこの時、2年後(2004年オフ)に[[ポスティングシステム]]による[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ (MLB) ]]移籍を容認する条件で契約を結んでいる<ref name="日刊スポーツ2004-11-04"/>。この件について中村は「確かにメッツと契約寸前までいっていた。しかしマスコミ関係から合意のネタが飛んできた。ルール違反する球団とは契約できない」とコメントし、代理人を務めた[[音楽プロデューサー]]の茂田雅美も当初は「守秘義務に違反したメッツの勇み足だった」とメッツの姿勢を批判したが、後にMLB機構とメッツから「中村側が違約の根拠としている公式ホームページの文書はMLB機構や球団の認可を受けたものではない上に、問題の記事はメッツと無関係の人物の情報に基づいている。今回の交渉に関し、メッツのルール破りは一切ない。また中村と彼のアドバイザーの茂田は各球団が選手との契約に先立ち契約内容をMLBに報告する必要があることを知らないと思われる。健康診断にパスした時点で拘束力のある合意が成立する」との声明が出され、茂田はこれを受けて「メッツが言うように、合意していたということに関して異論はない」と認め、中村の「メッツのルール違反」というコメントについて「あれは彼の言葉が足らなかった」と語った(音楽プロデューサーを本職とする茂田が代理人を務めたのは、中村が節税を目的に設立した会社の監査役を務めた縁から)<ref>日本人メジャー&候補生―それぞれのオフ『月刊スラッガー』2003年3月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、52頁。</ref>。
{{by|2001年}}、開幕前に背番号を[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]へ移籍した義兄・[[村上隆行|村上嵩幸]]の着けていた'''5'''へ変更。4番打者として活躍し、打点王を獲得した<ref group="注">優勝決定の数日前に優勝争いをしていた対西武戦([[大阪ドーム]])で[[松坂大輔]]から打った右中間への本塁打のシーンは今でも名勝負の代表的な場面として挙げられる。</ref>。3・4番合計101本塁打([[タフィ・ローズ]]55本、中村46本)は、{{by|1985年}}での阪神([[ランディ・バース]]54本、[[掛布雅之]]40本)を上回る最多記録を更新。さらに全試合出場を果たし、打率では.320と自己最高で初めての打率3割となった。また、打点132で打点王を獲得した。翌シーズンに[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA権]]の取得が予想される中、近鉄から複数年契約(推定6年契約35億円)を提示される。しかし、[[12月26日]]に「1か月で判断するのは難しかった」と複数年契約を拒否し、推定年俸5億円プラス出来高払い1億円の単年契約を結ぶ。[[大阪教育大学附属池田小学校|大阪教育大附属池田小学校]]の慰問活動が評価され第3回[[ゴールデンスピリット賞]]を受賞している。


{{by|2003年}}5月半ばに右[[膝]]を傷め6月10日に右膝[[半月板損傷]]と診断されるが、「自分が欠場するわけにはいかないから試合に出ながら治す」と言い、出場し続けた。しかし、ケガの影響で117試合の出場で打率.236、23本塁打、67打点に終わった上、1994年以来9年ぶりの100安打未満と前年を大きく下回る成績となってしまった。そして、チームもリーグ3位に終わる。[[2004年アテネオリンピックの野球競技|アテネ五輪]]の予選を兼ねたアジア野球選手権への参加を辞退し、10月17日に右膝を手術。これ以降、成績に直結する故障が増える。
{{by|2002年}}7月14日にFA権を取得。右足首痛、持病の[[腰痛]]をこらえ、52打席ぶりの一発。この年は3割は逃したが全試合出場を果たし、42本塁打、115打点と前年同様の打棒を発揮した。この頃「メジャー移籍はあまり頭にない」と話していたこともあったが、[[11月5日]]にはFA宣言し、シーズン終了後から「中村紀洋というブランドをまず考えて、近鉄で終わっていいのか」と悩み抜いた末に、FA宣言することを決めたという<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08november/KFullNormal20081123218.html オフは忙しい!?中村紀洋、幻の巨人入り] - 日めくりプロ野球,スポニチ{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。[[12月19日]]には700万ドルでの2年契約プラス3年目のオプション600万ドルで[[ニューヨーク・メッツ]]と契約合意したと報じられるが、[[12月20日]]にこれがメッツの公式HPに載ったことに「そんな球団は信用できない」と激怒し交渉を白紙に戻す。そのため、近鉄と再交渉を行い、監督の[[梨田昌孝]]らから慰留されたこともあり、[[12月21日]]に近鉄残留を表明した(推定4年契約20億円プラス出来高払い)。この件について中村は「確かにメッツと契約寸前までいっていた。しかしマスコミ関係から合意のネタが飛んできた。ルール違反する球団とは契約できない」とコメントし、代理人を務めた[[音楽プロデューサー]]の茂田雅美も当初は「守秘義務に違反したメッツの勇み足だった」とメッツの姿勢を批判したが、後にMLB機構とメッツから「中村側が違約の根拠としている公式ホームページの文書はMLB機構や球団の認可を受けたものではない上に、問題の記事はメッツと無関係の人物の情報に基づいている。今回の交渉に関し、メッツのルール破りは一切ない。また中村と彼のアドバイザーの茂田は各球団が選手との契約に先立ち契約内容をMLBに報告する必要があることを知らないと思われる。健康診断にパスした時点で拘束力のある合意が成立する」との声明が出され、茂田はこれを受けて「メッツが言うように、合意していたということに関して異論はない」と認め、中村の「メッツのルール違反」というコメントについて「あれは彼の言葉が足らなかった」と語った(音楽プロデューサーを本職とする茂田が代理人を務めたのは、中村が節税を目的に設立した会社の監査役を務めた縁から)<ref>日本人メジャー&候補生―それぞれのオフ『月刊スラッガー』2003年3月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、52頁。</ref>。


[[小惑星]][[紀洋 (小惑星)|(29737) Norihiro]]は2003年5月1日付けで中村の名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=29737|title=(29737) Norihiro = 1999 BG7 = 1995 HL5|publisher=MPC|accessdate=2021-09-12}}</ref>。
{{by|2003年}}は5月半ばに右[[膝]]を傷め[[6月10日]]に右膝[[半月板損傷]]と診断されるものの、「自分が欠場するわけにはいかないから試合に出ながら治す」と言い、出場し続けた。しかし、ケガの影響で打率.236、23本塁打、67打点だった。さらに1994年以来9年ぶりの100安打未満と前年を大きく下回る成績となってしまった。そして、チームもリーグ3位に終わる。[[アテネオリンピック (2004年) における野球競技|アテネ五輪]]の予選を兼ねたアジア野球選手権への参加を辞退し、[[10月17日]]に右膝を手術。これ以降、成績に直結する故障が増える。


{{by|2004年}}右膝の[[リハビリテーション|リハビリ]]を兼ねて[[ロサンゼルス・ドジャース]]の[[メジャーリーグベースボール#スプリングトレーニング|スプリングトレーニング]]に招待選手として参加した。渡米前に歯並びの治療を受けていたが、キャンプで守備練習中にノックの打球を歯に受け、帰国後に[[オープン戦]]を欠場し、治療を受けた。アテネ五輪の野球競技には[[アテネオリンピック野球日本代表|日本代表]]として参加して銅メダルを獲得した。しかし、試合後の宴会で右足裏を負傷し、[[9月10日]]まで欠場した。オリンピック招集とオリンピック終了後の負傷の影響もあり、105試合の出場に終わったものの、打率.274と前年ほど悪くはなかったが、本塁打は19本にとどまり、7年ぶりに20に届かなかった。打点も前年の67から一つ下回り66だった。そして、この年限りで近鉄は[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]への吸収合併により55年の歴史に幕を閉じた。
{{by|2004年}}右膝の[[リハビリテーション|リハビリ]]を兼ねて[[ロサンゼルス・ドジャース]]の[[メジャーリーグベースボール#スプリングトレーニング|スプリングトレーニング]]に招待選手として参加した。渡米前に歯並びの治療を受けていたが、キャンプで守備練習中にノックの打球を歯に受け、帰国後に[[オープン戦]]を欠場し、治療を受けた。アテネ五輪の試合後の宴会で右足裏を負傷し、9月10日まで欠場した。オリンピック招集とオリンピック終了後の負傷の影響もあり、105試合の出場打率.274、19本塁打、66打点にとどまり、本塁打は7年ぶりに20に届かなかった。


欠場中[[団野村]]を代理人として、[[ポスティングシステム]]による[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]入りを企図していることが報じられる。[[11月3日]]にメジャーリーグ入りの意思を表明。会見で近鉄と2年前に結んだ契約にスティングシステムによるメジャーリーグ移籍を容認する内容が含まれていたこと明かした<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130505-1120035.html 【復刻】ノリ、晴れてメジャ挑戦を宣言] nikkansports.com 201355日</ref>。[[11月8日]]の[[選手分配ドラフト]]の結果、合併球団[[オリックス・バファローズ]]に振り分けられた。[[12月1日]]に合併球団が発足、4年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残りの契約期間の年俸(2年分10億円)に相当する保証金を近鉄に要望、うち3億円が功労金として支払われた<ref>{{cite web|url=http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200411/bt2004120111.html|title=近鉄が中村に“功労金”3億円…契約途中の球団消滅で|publisher=サンケイスポーツ|accessdate=2015-06-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050408160737/http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200411/bt2004120111.html|archivedate=20054月8日|deadlinkdate=20179}}</ref><ref>[http://allabout.co.jp/gm/gc/212424/3/ 元オリックス、中村紀洋の契約と事情].All About(2007年01月31日)。</ref>。近鉄在籍時代に記録した307本塁打は球団記録となった<ref>週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ</ref>。
欠場中には[[団野村]]を代理人としてポスティングシステムによるMLB挑戦を企図し11月3日にメジャーリーグ入りの意思を表明した<ref name="日刊スーツ2004-11-04">{{Cite news |title=【復刻】ノリ、晴れてメジャー挑戦宣言(2004年11月4日付) |newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]] |date=2013-05-05|origdate=2004-11-04 |url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130505-1120035.html |publisher=日刊スポツ新聞社 |language=ja |accessdate=2020-08-13 |archivedate=2020813 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200813043843/https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130505-1120035.html}}</ref>。11月8日の[[オリックス・ブルーウェーブ]]の[[プロ野球再編問題 (2004年)|球団合併による選手分配ドラフト]]の結果、オリックス・バファローズに振り分けられた。12月1日に合併球団が発足、6年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残り4年の契約期間のうち2年分の年俸(10億円)に相当する保証金を近鉄に要望、うち3億円が功労金として支払われた<ref name="sanspo20041201">{{Cite news |title=近鉄が中村に“功労金”3億円…契約途中の球団消滅で |newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date=2004-12-01 |url=http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200411/bt2004120111.html |publisher=[[産業経済新聞社]] |language=ja |deadlinkdate=2020年8月13 |archivedate=2004124日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20041204105609/https://www.sanspo.com/baseball/top/bt200411/bt2004120111.html}}</ref>。近鉄在籍時代に記録した307本塁打は球団記録となった<ref>週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ</ref>。また同年11月に発生した[[奈良小1女児殺害事件]]では、被害者の女子児童が近鉄ファンで、自身の娘(次女)と同い年だったことから、遺族にサイン入りの野球用具を贈り<ref>{{Cite news |title=中村紀、(被害者の実名)ちゃん霊前にサイン入りバット |newspaper=nikkansports.com |date=2004-11-19 |url=http://www.nikkansports.com/ns/baseball/p-bb-tp0-041120-0004.html |publisher=日刊スポーツ新聞社 |language=ja |deadlinkdate=2020年8月13日 |archivedate=2004年11月20日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20041120124309/http://www.nikkansports.com/ns/baseball/p-bb-tp0-041120-0004.html}} - [[奈良小1女児殺害事件]]の関連記事</ref>、それらは女子児童の通夜で霊前に供えられた<ref>{{Cite news |title=Aちゃん通夜、同級生や中村紀洋選手のサインに送られ |newspaper=YOMIURI ONLINE |date=2004-11-19 |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20041119ic21.htm |publisher=読売新聞社 |language=ja |deadlinkdate=2020年8月13日 |archivedate=2004年12月20日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20041122024917/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20041119ic21.htm}}</ref>。


{{by|2005年}}[[1月25日]]にポスティング申請し、近鉄と業務提携していた[[ロサンゼルス・ドジャース]]が落札した。
{{by|2005年}}1月25日にポスティング申請し、近鉄と業務提携していた[[ロサンゼルス・ドジャース]]が落札した。これにより、中村は近鉄球団から直接メジャー移籍した最後の選手となった。


=== ドジャース時代 ===
=== ドジャース時代 ===
[[File:Norihiro_Nakamura_May_6,_2005_(7045029123)_(cropped).jpg|thumb|ロサンゼルス・ドジャース時代<br />(2005年5月6日)]]
2005年[[2月3日]]、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。背番号は近鉄入団当時と同じ'''66'''に決まった<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130505-1120039.html 【復刻】ノリがドジャース入団会見] nikkansports.com 2013-05-05</ref>。この移籍を皮切りに、中村はいわゆる[[ジャーニーマン]]として複数の球団を渡り歩くことになる。2004年に発生した[[奈良小1女児殺害事件]]では、被害者の女子児童が近鉄ファンで自身の娘と同年代ということもあり、サイン入りの野球用具を贈り霊前に供えられた。
2005年2月3日、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。背番号は近鉄入団当時と同じ'''66'''に決まった<ref>{{Cite news |title=【復刻】ノリがドジャース入団会見(2005年2月5日付) |newspaper=nikkansports.com |date=2013-05-05|origdate=2005-02-05 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130505-1120039.html |publisher=日刊スポーツ新聞社 |language=ja |accessdate=2020-08-13 |archivedate=2020年8月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200813044935/https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130505-1120039.html}}</ref>。この移籍を皮切りに、中村はいわゆる[[ジャーニーマン]]として複数の球団を渡り歩くことになる。


[[4月2日]]に[[マイナーリーグ#AAA|AAA級]][[パシフィックコーストリーグ]]の[[ラスベガス・フィフティワンズ]]へ合流するように通告されたが、[[4月10日]]には故障者リスト入りした[[アントニオ・ペレス]]に代わって、念願のメジャー昇格を果たした。しかし、[[5月8日]]の試合後、[[メキシンリ]]でプレーしていた[[オスカー・ロブレス]]が40人枠入りしたのに伴い、40人枠から外される。[[ウェイバー公示#MLB|ウェイバー公示]]にかけられたが獲得を希望する球団が現れなかったためAAA級への降格を了承、再びラスベガスでプレーする。
4月2日に[[マイナーリーグベースボール#階級と所属リーグ|AAA級]][[パシフィックコーストリーグ]]の[[ラスベガス・フィフティワンズ]]へ合流するように通告されたが、4月10日には故障者リスト入りした[[アントニオ・ペレス]]に代わって、念願のメジャー昇格を果たした。しかし、5月8日の試合後、[[リーガ・カーナ・デ・ベイスボル]]でプレーしていた[[オスカー・ロブレス]]が40人枠入りしたのに伴い、40人枠から外される。[[ウェイバー公示#MLB|ウェイバー公示]]にかけられたが獲得を希望する球団が現れなかったためAAA級への降格を了承、再びラスベガスでプレーする。


[[キャッシュマン・フィールド|ラスベガス]]では、本塁打こそリーグ17位の22本を放つも、[[打率]].249は[[規定打席]]を満たした選手90人のうち85位と低迷、OPS.818は打者優位の本拠地で平均OPS(投手も含む)が.798のチームにあっては平凡であった。守備ではチーム最多の20[[失策]]を記録。[[9月5日]]にAAA級のシーズンが終了。団野村との代理人契約を解除し、日本球界復帰を目指した。
[[キャッシュマン・フィールド|ラスベガス]]では、本塁打こそリーグ17位の22本を放つも、[[打率]].249は[[規定打席]]を満たした選手90人のうち85位と低迷、OPS.818は打者優位の本拠地で平均OPS(投手も含むが.798のチームにあっては平凡であった。守備ではチーム最多の20[[失策]]を記録。9月5日にAAA級のシーズンが終了。団野村との代理人契約を解除し、日本球界復帰を目指した。


=== オリックス時代 ===
=== オリックス時代 ===
2005年[[12月21日]]、分配ドラフトからドジャース入団までの間に一時在籍したオリックスへの復帰を表明<ref group="注">中村はドジャースと{{by|2006年}}1月末までの契約を結んでいたため、2005年のオフに日本へ復帰するためには、ドジャースとの業務提携により中村との優先交渉権を得ていたオリックスへ入団する以外に選択肢はなかったとされている。</ref>。推定年俸2億円プラス出来高払い5,000万円の単年契約。背番号は'''8'''<ref group="注">ドジャース移籍前に使用していた背番号5は清原が使用していたため、3+5=8とした。</ref>。
2005年12月21日、分配ドラフトからドジャース入団までの間に一時在籍したオリックスへの復帰を表明<ref group="注">中村はドジャースと{{by|2006年}}1月末までの契約を結んでいたため、2005年のオフに日本へ復帰するためには、ドジャースとの業務提携により中村との優先交渉権を得ていたオリックスへ入団する以外に選択肢はなかったとされている。</ref>。推定年俸2億円プラス出来高払い5,000万円の単年契約。背番号は'''8'''<ref group="注">ドジャース移籍前に使用していた背番号5は清原が使用していたため、3+5=8とした。</ref>。


{{by|2006年}}、「帰ってきたで」というキャッチコピーのポスターが製作され、[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]による西武入団から20年ぶりに出身地である関西地方へ戻ってきた[[清原和博]]との共演が話題となるが、開幕前に右足に肉離れを起こし、[[4月28日]]に左手親指を[[捻挫]]。更に[[5月13日]]の対ヤクルト戦で[[木田優夫]]からの[[死球]]を左手首に受けて負傷。負傷した箇所をかばいながら出場している間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなる。[[8月11日]]に左肘に死球を受け途中交代するとその後は試合出場がなく、日本球界復帰1年目は85[[試合#野球|試合]]出場、328[[打数]]、76安打、打率.232でシーズンを終える。[[二塁打]]22、本塁打12はチーム2位を記録したが、チーム大きく貢献きたと言えなかっ。期待外れ印象が強くチームも主軸できなかったことが響き前年下回るシーズン5位終わっ。9月に左手首手術
{{by|2006年}}、「帰ってきたで」というキャッチコピーのポスターが製作され、[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]による西武入団から20年ぶりに出身地である関西地方へ戻ってきた[[清原和博]]との共演が話題となるが、開幕前に右足に[[肉離れ]]を起こし、4月28日に左手親指を[[捻挫]]。更に5月13日の対ヤクルト戦で[[木田優夫]]からの[[死球]]を左手首に受けて負傷。負傷した箇所をかばいながら出場している間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなる。8月11日に左肘に死球を受け途中交代するとその後は試合出場がなく<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200709/CK2007090902047534.html |title=首位トラ逃がすかい!!4番ノリ 1.5差に3強 最後に勝つのは竜だ |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |date=2007-09-09 |archive-date=2009-07-14 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090713214700/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200708/CK2007081602041331.html}}</ref>、日本球界復帰1年目は85[[試合#野球|試合]]出場、328[[打数]]、76安打、打率.232でシーズンを終える。[[二塁打]]22、本塁打12はチーム2位を記録した。9月は左手首を手術。契約交渉では中村が左手首の故障を「公傷」と主張したのに対し球団側はそれ認めず、60%減の8,000万円(推)の単年契約を提示され。中村はれを戦力外通告判断し自由契約を申し入れるが、球団はこれ認めず交渉は長期化し<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/274726 帰る場所なくした中村紀 2007年2月1日は一人きりの自主キャンプ【平成球界裏面史】]</ref>


{{by|2007年}}1月12日までに6回の契約交渉が行われるが合意に達せず、球団側は契約更改を断念。中村の退団が決定する。その後、トレードを試みるも、獲得球団はなく、1月17日に正式に[[自由契約]]選手となった。
契約交渉では中村が左手首の故障を「公傷」と主張したのに対し、球団側はそれを認めず、60%減の8,000万円(推定)の単年契約を提示。


=== オリックス退団後 ===
{{by|2007年}}[[1月12日]]までに6回の契約交渉が行われるが合意に達せず、球団側は契約更改を断念。中村の退団が決定する。その後、トレードを試みるも獲得球団はなく、[[1月17日]]に正式に[[自由契約]]選手となった。中村はオリックスを除く11球団からの連絡を待ちながら、各球団の春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]が始まった[[2月1日]]以降も「架空のキャンプイン」と称して自主トレーニングを続ける。なお、この一件がきっかけとなり、2008年[[9月19日]]に[[日本プロフェッショナル野球組織]]と[[日本プロ野球選手会]]との間で[[戦力外通告]]に関するルールが取り決められた。
ようやく自由契約になったものの、この時期に獲得に動く球団はなく、各球団の春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]が始まった2月1日以降も「架空のキャンプイン」と称して自主トレーニングを続ける。なお、この一件がきっかけとなり、2008年9月19日に[[日本プロフェッショナル野球組織]]と[[日本プロ野球選手会]]との間で[[戦力外通告]]に関するルールが取り決められた。2月12日、[[中日ドラゴンズ]]からテスト生としてのキャンプ参加を呼び掛けられ、同15日から同チームのキャンプに参加し<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130505-1120048.html |title=【復刻】ノリ、中日と育成選手契約 |access-date=2022-05-17 |date=2013-05-05 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130507033255/https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130505-1120048.html |archive-date=2013-05-07 |publisher=nikkansports.com |language=ja}}</ref><ref group="注">その前に、MLBの[[ミネソタ・ツインズ]]が中村の入団テストを要請したが、中村は国内球団を強く要望していたため断った。</ref>、ここで入団テストを行った。

[[2月12日]]、[[中日ドラゴンズ]]からテスト生としてのキャンプ参加を呼び掛けられ、同15日から同チームのキャンプに参加し<ref group="注">その前に、MLBの[[ミネソタ・ツインズ]]が中村の入団テストを要請したが、中村は国内球団を強く要望していたため断った。</ref>、ここで入団テストを行った。


=== 中日時代 ===
=== 中日時代 ===
[[File:IMG_1879_Norihiro_Nakamura.jpg|thumb|中日ドラゴンズ時代<br>(2008年6月1日)]]
2007年2月25日、育成枠での中日入団が決定(年俸400万円)。背番号は'''205'''。これは中日の育成選手が慣例として200番台を与えられることと、近鉄時代に背番号'''5'''を着用していた中村に[[落合博満]]が配慮したものである<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130505-1120048.html 【復刻】ノリ、中日と育成選手契約] nikkansports.com 2013年5月5日</ref>。
{{by|2007年}}2月25日、[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]]枠での中日入団が決定(年俸400万円)<ref name=":1" />。背番号は'''205'''。これは中日の育成選手が慣例として200番台を与えられることと、近鉄時代に背番号'''5'''を着用していた中村に[[落合博満]]監督が配慮したものである<ref name=":1" />。

育成枠で中日入団を果たすとオープン戦で結果を残し、リーグ戦開幕直前の3月22日、年俸600万円<ref group="注">ただし、日本プロフェッショナル野球協約第89条の2の規定により、1年間出場選手登録をしたことから1,500万円となった。</ref>で支配下選手契約を結び、背番号も'''99'''<ref group="注">中村自身がかつて着けていた背番号は、当時の中日では全て主力選手(3:[[立浪和義]]、5:[[渡邉博幸]]、8:[[平田良介]])・落合博満(66)が使用中であることや、球団と落合の方針で、一から出直すために99を着けさせた。なお、中村本人は「プロ入りした際に初めて着けた番号('''66''')をひっくり返したもの」と語った。</ref>に変更された。開幕戦から公式戦に出場し<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/2007/games/s2007033000145.html |title=2007年3月30日 【公式戦】 試合結果 (中日vs東京ヤクルト) |access-date=2022-05-17 |publisher=NPB.jp 日本野球機構}}</ref>、序盤は主に6番・三塁手として出場していた<ref name=":2" />が、6月5日のオリックス戦(京セラドーム大阪)で右太ももを痛めた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200706/CK2007060602021950.html |title=ノリ、右太もも痛っ!!きょうの出場微妙 古巣相手に気合入りすぎた |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |date=2007-06-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080203140636/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200706/CK2007060602021950.html |archive-date=2008-02-03 |language=ja}}</ref>ため翌日登録抹消された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200706/CK2007060702022232.html |title=ノリ登録抹消 右太もも治療に専念 |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20080203140701/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200706/CK2007060702022232.html |archive-date=2008-02-03 |language=ja |date=2007-06-07}}</ref>。6月30日の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦([[秋田県立野球場|秋田]])から一軍に復帰<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200706/CK2007062802027744.html |title=ノリ、落合監督の前で復活号砲 お呼びの電話待ってます |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |date=2007-06-28 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080203141155/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200706/CK2007062802027744.html |archive-date=2008-02-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/2007/games/s2007063000887.html |title=2007年6月30日 【公式戦】 試合結果 (東京ヤクルトvs中日) |access-date=2022-05-17 |publisher=NPB.jp 日本野球機構}}</ref>。7月5日の[[広島東洋カープ|広島]]戦([[ナゴヤドーム]])で史上29人目の1000打点を達成した<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200707/CK2007070602029934.html |title=ノリ、史上29人目1000打点 天国の河西さんに捧げる |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |date=2007-07-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090713220537/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200707/CK2007070602029934.html |archive-date=2009-07-14}}</ref>。

シーズン後半は故障で離脱した[[福留孝介]]の代役として3番を任された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200708/CK2007081602041331.html |title=ノリ、新3番応えた チーム初ヒット!ジャン攻略おぜん立て |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |date=2007-08-16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090713214700/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200708/CK2007081602041331.html |archive-date=2009-07-14 |language=ja}}</ref>ほか、9月8日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)では1年ぶりに4番で出場し<ref name=":0" />、8回に逆転打を放ち<ref name=":0" />チームを勝利に導いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/2007/games/s2007090801451.html |title=2007年9月8日 【公式戦】 試合結果 (中日vs東京ヤクルト) |access-date=2022-05-17 |publisher=NPB.jp 日本野球機構}}</ref>。9月21日の広島戦(ナゴヤドーム)では3年ぶりにサヨナラ本塁打を放った<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200709/CK2007092202050622.html |title=奪首!ノリ、サヨナラ弾 あすにも優勝M8 |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20090714012606/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200709/CK2007092202050622.html |archive-date=2009-07-14 |language=ja |date=2007-09-22}}</ref>。9月10日には[[2007年アジア野球選手権大会日本代表|北京オリンピックアジア予選決勝リーグ日本代表]]候補に選出された。同年は130試合に出場し、広角に打ち分けるバッティングで3年ぶりに規定打席に到達、打率.293(チーム3位)、4年ぶりの20本塁打(同2位)、79打点(同3位)をマークした。

[[2007年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]と[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では主に5番を任された。[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では持病の[[腰痛]]が悪化していたため[[鎮痛剤]]を射ちながら強行出場し、打率.444(18打数8安打)、4打点と活躍<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200711/CK2007110202061149.html |title=激動の1年 ノリ号泣MVP 18打数8安打4打点 |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |date=2007-11-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20081029032226/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200711/CK2007110202061149.html |archive-date=2008-10-29}}</ref>。11月1日の第5戦にて日本一を決め、[[最優秀選手 (野球)#日本シリーズMVP|日本シリーズMVP]]を獲得した<ref name=":4" /><ref group="注" name="日本シリーズMVP">中日の選手が日本シリーズMVPを受賞した事例は、[[1954年の日本シリーズ]]MVPである[[杉下茂]]投手以来2人目(野手としては初)であり、近鉄に入団および在籍経験者が獲得した事例も史上初である。</ref>。日本一決定後の[[ヒーローインタビュー]]では男泣きを見せた<ref name=":4" />。[[2007年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]では帰国した[[タイロン・ウッズ]]の代役として4番に起用され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200711/CK2007110502061886.html |title=ウッズ代役・4番一塁ノリ アジアSにむけ練習開始 |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |date=2007-11-05 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080425193536/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200711/CK2007110502061886.html |archive-date=2008-04-26 |language=ja}}</ref>、日本勢として3年連続の優勝に貢献した。11月29日に行われた中日との契約更新では、3月の新規契約時より733%アップ<ref group="注">日本球界歴代3位、[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]では歴代1位となる年俸アップ率。</ref>となる年俸5,000万円の提示を受けこれを一発で了承し<ref name=":5">{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200711/CK2007113002068468.html |title=ノリ、セ史上最高733%アップ 「契約していただけるだけでありがたい…」 |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |date=2007-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080425194206/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2007/200711/CK2007113002068468.html |archive-date=2008-04-26}}</ref>、契約更新となった。記者会見では「契約してくれるだけでもありがたい。額を見ずに判を押すつもりだった」と述べた<ref name=":5" />。


{{by|2008年}}6月15日、[[父の日]]に[[日本メンズファッション協会]]・日本ファーザーズ・デイ委員会が主催する「2008年度[[ベスト・ファーザー イエローリボン賞]]」を、同年から12球団から1人ずつ選定することを受けて、中日から選出された。[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]でのオリックス対中日戦の試合前に行われた授賞式では、「芸能人がもらう賞だと思っていた。縁がないと思っていたので嬉しい」と大いに照れながら、近鉄・オリックス時代の元同僚・[[北川博敏]]と共に表彰された。試合直前には娘3人と記念撮影。4月14日に自身2回目のFA権を取得するが、当初FA宣言には否定的な姿勢で「そんなことより来季契約してくれるだろうか、そのことが心配です」と語っていた。FA権を再取得したことも記者に尋ねられるまではその時期にきたことを知らなかったと言っていた。5月7日から自身が出演する[[浜乙女]]のラジオCM([[東海ラジオ ガッツナイター]]のみ)が放送開始。
[[File:IMG 1879 Norihiro Nakamura.jpg|right|thumb|中日時代(2008年)]]
育成枠で中日入団を果たすとオープン戦で結果を残し、リーグ戦開幕直前の[[3月22日]]、年俸600万円<ref group="注">ただし、日本プロフェッショナル野球協約第89条の2の規定により、1年間出場選手登録をしたことから1,500万円となった。</ref>で支配下選手契約を結び、背番号も'''99'''<ref group="注">中村自身がかつて着けていた背番号は、当時の中日では全て主力選手(3:[[立浪和義]]、5:[[渡邉博幸]]、8:[[平田良介]])・落合博満(66)が使用中であることや、球団と落合の方針で、一から出直すために99を着けさせた。なお、中村本人は「プロ入りした際に初めて着けた番号('''66''')をひっくり返したもの」と語った。</ref>に変更された。開幕戦から公式戦に出場し、序盤は5番や6番を、シーズン後半は故障で離脱した[[福留孝介]]の代役として3番を、[[2007年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]と[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では主に5番を任された。広角に打ち分けるバッティングで打率.293(チーム3位)、2年ぶりの20本塁打(同2位)、79打点(同3位)で日本一に貢献した。[[9月10日]]には[[北京オリンピックにおける野球競技|北京オリンピック]]アジア予選決勝リーグ日本代表候補に選出された。[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では持病の[[腰痛]]が悪化していたため[[鎮痛剤]]を射ちながら強行出場し、打率.444(18打数8安打)、4打点と活躍。[[11月1日]]の第5戦にて日本一を決め、[[最優秀選手 (野球)#日本シリーズMVP|日本シリーズMVP]]を獲得した<ref group="注">中日の野手としては史上初の受賞であり、近鉄に入団及び在籍経験者の獲得においても初めてである。</ref>。日本一決定後のヒーローインタビューでは男泣きを見せた。[[2007年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]では帰国した[[タイロン・ウッズ]]の代役として4番に起用された。
[[11月30日]]に行われた中日との契約更新では、3月の新規契約時より733%アップ<ref group="注">日本球界歴代3位、[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]では歴代1位となる年俸アップ率</ref>となる年俸5,000万円の提示を受けこれを一発で了承し、契約更新となった。記者会見では「契約してくれるだけでもありがたい。額を見ずに判を押すつもりだった」と述べた。


{{by|2008}}[[6月15]]、[[父日]]に[[日本メンズファッション協会]]・日本ファーザーズ・デイ委員会が主催する「2008年度[[ベスト・ファーザー イエローリボン賞]]」を、同年から12球団から1人ずつ選定することを受けて、中日から選出された。[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]のオリックス対中日戦の試合前に行われた授賞式では、「芸能人がもらう賞だと思てい。縁がないと思っていたので嬉しい」と大いに照れながら、近鉄・オックス時代の元同僚・[[北川博敏]]共に表彰された。試合直前には娘3人と記念撮影。[[4月14]]に自身2回目のFA権を取得するが、当初FA宣言には否定的な姿勢で「そんなことより来季契約してくれるだろうか、そのことが心配です」と語っていたFA権を再取得したことも記者に尋ねられるまではその時期にきたことを知らなかったと言っていた。[[57]]から自身が出演する[[浜乙女]]ラジオCM([[東海 ガッツナイター]]のみ)が放送開始。[[6月17日]]、[[石川県立野球場]]での対西武戦で[[大沼幸二]]から2ラン本塁打を放ち、通算100[[猛打賞]]を達成。また次の打席で、元同僚の[[岡本真或|岡本真也]]からサヨナラソロ本塁打を放ち、通算サヨナラ本塁打記録が9本となり、[[王貞治]]・[[若松勉]]を抜き歴代3位となった。この年は打率.274と前年より下がるもホームランは24本放ち、前年同様勝負強さを見せた。11月、中日残留も視野に入れつつ「他球団からの評価も聞いてみたい」として2度目のFA権行使。[[11月25日]]に[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]と1回目の入団交渉を行った。
6月7日の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦(ナゴヤドーム350号本塁打を放った<ref name=":6">{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/200806/CK2008060802000070.html |title=ノ350号 どめ2ラン |access-date=2022-05-17 |publisher=中スポーツ |archive-url=https://web.archive.org/web/20081029004958/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/200806/CK2008060802000070.html |archive-date=2008-10-29 |date=2008-06-08 |language=ja}}</ref>617日の[[埼玉西武ンズ|西武]]戦([[石川県立野球場]]7回裏に[[大沼幸二]]から2ラン本塁打を放ち、通算100[[猛打賞]]を達成。また次の9回裏の打席で、元同僚の[[岡本真也]]からサヨナラソロ本塁打を放ち、通算サヨナラ本塁打記録が9本となり、[[王貞治]]・[[若松勉]]を抜き歴代3位となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/200806/CK2008061802000069.html |title=ノリ、サヨナラ弾 劇勝!!金沢の夜空に2連発 |access-date=2022-05-17 |publisher=中日スポーツ |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20081028232130/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/200806/CK2008061802000069.html |archive-date=2008-10-29 |date=2008-06-18}}</ref>。この年は前年を上回る140試合に出場し、打率.274と前年より下がるもホームランは24本放ち、前年同様勝負強さを見せた。11月、中日残留も視野に入れつつ「他球団からの評価も聞いてみたい」として2度目のFA権行使。11月25日に[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]と1回目の入団交渉を行った。


=== 楽天時代 ===
=== 楽天時代 ===
2008年[[11月29日]]に正式に楽天への移籍を表明(推定年俸1億5,000万円プラス出来高の2年契約)。楽天球団初のFA加入選手となった。[[12月5日]]に[[仙台市]]内で入団会見。背番号は自身の希望もあり、中日時代と同じ「'''99'''」となった。
2008年11月29日に正式に楽天への移籍を表明(推定年俸1億5,000万円プラス出来高の2年契約)。楽天球団初のFA加入選手となった。12月5日に[[仙台市]]内で入団会見。背番号は自身の希望もあり、中日時代と同じ「'''99'''」となった。


{{by|2009年}}[[4月5日]]、[[札幌ドーム]]での対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦で[[ブライアン・スウィーニー]]から移籍後初本塁打。この日は4安打5打点と大当たりだったその後は本塁打も全く出ず打率も低調、また持病の腰痛も悪化したこともあり、[[6月9日]]から[[6月25日]]まで登録を抹消された。一軍復帰後、[[7月11日]]の対ソフトバンク戦で[[佐藤誠 (野球)|佐藤誠]]から71試合ぶりとなる本塁打を放った。シーズンの前半戦終了時、監督の[[野村克也]]は打率2割前後、わずか2本塁打という不調に低迷した中村に対し、「ノリは誤算。もう少し打つと思ったが…」と語った。その後も調子は戻らず8月3日に一軍登録を抹消されると、再登録されることなくシーズンを終えた。結局加入1年目は77試合の出場に終わり、打率.221、本塁打2本、26打点と、期待とは大きくかけ離れた成績となってしまった。
{{by|2009年}}4月5日、[[札幌ドーム]]での対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦で[[ブライアン・スウィーニー]]から移籍後初本塁打。この日は4安打5打点と大当たりだったが、その後は本塁打も全く出ず打率も低調、また持病の腰痛も悪化したこともあり、6月9日から6月25日まで登録を抹消された。一軍復帰後、7月11日の対ソフトバンク戦で[[佐藤誠 (野球)|佐藤誠]]から71試合ぶりとなる本塁打を放った。シーズンの前半戦終了時、監督の[[野村克也]]は打率2割前後、わずか2本塁打という不調に低迷した中村に対し、「ノリは誤算。もう少し打つと思ったが…」と語った。その後も調子は戻らず8月3日に一軍登録を抹消されると、再登録されることなくシーズンを終えた。結局加入1年目は77試合の出場に終わり、打率.221、本塁打2本、26打点と、期待とは大きくかけ離れた成績となってしまった。


{{by|2010年}}序盤は調子が良く、前半はチーム打線が不調に喘いだため交流戦などでは4番を任された。一時は打率3割を記録したが、後半以降は徐々に下降。また、守備でも後半になるにつれ精彩を欠くプレーが目立つようになる。シーズン終盤には走塁中に肉離れを起こして一軍登録を抹消される。[[10月1日]]に球団から[[戦力外通告]]を受け、退団した。規定打席に到達した日本人選手がその年に戦力外通告を受けるのは極めて稀なケースである。[[12球団合同トライアウト]]には参加しなかったが、地元・大阪で自主練習をしながら他球団からのオファーを待つ形となった
{{by|2010年}}序盤は調子が良く、前半はチーム打線が不調に喘いだため交流戦などでは4番を任された。一時は打率3割を記録したが、後半以降は徐々に下降。また、守備でも後半になるにつれ精彩を欠くプレーが目立つようになる。シーズン終盤には走塁中に肉離れを起こして一軍登録を抹消される。2年ぶり規定打席に到達で129試合に出場して打率.266、13本塁打、64打点の成績を残したが、10月1日に球団から[[戦力外通告]]を受けた。規定打席に到達した日本人選手がその年に球団から戦力外通告を受けるのは極めて稀なケースである。


=== 楽天退団後 ===
{{by|2011年}}2月には[[徳島インディゴソックス]]の合同自主トレに参加した<ref>{{Cite web|date=2011-02-24|url=http://www.topics.or.jp/localSports/122545376129/2011/02/2011_129851109938.html|title=前楽天の中村、インディゴソックスの自主トレ参加|publisher=徳島新聞|accessdate=2011-02-25}}</ref>。
[[12球団合同トライアウト]]には参加しなかったが、地元・大阪で自主練習をしながら他球団からのオファーを待つ形となった。{{by|2011年}}2月には[[徳島インディゴソックス]]の合同自主トレに参加した<ref>{{Cite web|和書|title=前楽天の中村、インディゴソックスの自主トレ参加 - 徳島新聞社 |url=http://www.topics.or.jp/localSports/122545376129/2011/02/2011_129851109938.html |website= |date=2011-02-24 |access-date=2023-02-21 |publisher=[[徳島新聞社]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20110228061902/http://www.topics.or.jp/localSports/122545376129/2011/02/2011_129851109938.html |archive-date=2011-02-28}}</ref>。


=== 横浜・DeNA時代 ===
=== 横浜・DeNA時代 ===
[[File:Norihiro Nakamura, infielder of the Yokohama BayStars, at Yokohama Stadium.jpg|right|thumb|横浜時代(2011年)]]
[[File:Norihiro Nakamura, infielder of the Yokohama BayStars, at Yokohama Stadium.jpg|right|thumb|横浜時代(2011年)]]
{{by|2011年}}[[5月23日]]、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]への入団が発表された<ref>{{Cite web|date=2011-05-23|url=http://www.baystars.co.jp/bay/news/team_detail.html?category=4&news_thread=1&id=2975|title=選手獲得のお知らせ|publisher=横浜ベイスターズ公式サイト|accessdate=2011-05-23}}</ref>。翌24日に球団事務所で入団会見を行った。入団の話は、前日22日に[[加地隆雄]]球団社長より電話があったことが明らかにされた<ref>{{Cite web|date=2011-05-24|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/24/kiji/K20110524000883660.html|title=年俸500万円から再スタート 中村紀「電話切った後泣いてしまった」|publisher=スポーツニッポン|accessdate=2011-05-24}}</ref>。背番号は中日、楽天時代と同じ「'''99'''」となった。
{{by|2011年}}5月23日、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]への入団が発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2011-05-23 |url=http://www.baystars.co.jp/bay/news/team_detail.html?category=4&news_thread=1&id=2975 |title=選手獲得のお知らせ |publisher=横浜ベイスターズ公式サイト |accessdate=2011-05-23}}</ref>。翌24日に球団事務所で入団会見を行った。入団の話は、前日22日に[[加地隆雄]]球団社長より電話があったことが明らかにされた<ref>{{Cite web|和書|date=2011-05-24 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/24/kiji/K20110524000883660.html |title=年俸500万円から再スタート 中村紀「電話切った後泣いてしまった」 |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2011-05-24}}</ref>。背番号は中日、楽天時代と同じ「'''99'''」となった。6月8日に一軍登録され、同日の楽天戦([[宮城球場|Kスタ]])に「7番・一塁手」でスタメン出場した。6月18日、[[横浜スタジアム]]での[[福岡ソフトバンクホークス]]戦で代打で出場し、[[杉内俊哉]]から移籍後初本塁打。この本塁打で同点に追いつき、[[ターメル・スレッジ]]の本塁打でチームは勝利した。この年は当初は[[代打]]要員がメインだったが、対左投手時のスタメンや守備固めでの起用も増えた。10月13日の阪神戦([[横浜スタジアム]])では、急遽プロ入り初めて二塁手でスタメン出場(公式戦に二塁手としての出場はメジャー時代にあるが、この時は試合途中から二塁手を守った)した。最後まで一軍登録を抹消されることは無く、62試合に出場したが、打率.209、1本塁打、14打点の成績に終わった。
[[6月8日]]に一軍登録され、同日の楽天戦([[宮城球場|Kスタ]])に「7番・一塁手」でスタメン出場した。[[6月18日]]、[[横浜スタジアム]]での[[福岡ソフトバンクホークス]]戦で代打で出場し、[[杉内俊哉]]から移籍後初本塁打。この本塁打で同点に追いつき、[[ターメル・スレッジ]]の本塁打でチームは勝利した。この年は当初は[[代打]]要員がメインだったが、対左投手時のスタメンや守備固めでの起用も増えた。[[10月13日]]の阪神戦([[横浜スタジアム]])では、急遽プロ入り初めて二塁手でスタメン出場(公式戦に二塁手としての出場はメジャー時代にあるが、この時は試合途中から二塁手を守った)した。最後まで一軍登録を抹消されることは無く、62試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、14打点の成績に終わった。


{{by|2012年}}は新加入の[[アレックス・ラミレス]]故障により「4番・三塁手」で開幕スタメン出場。その後も主に三塁手や一塁手でスタメン出場。開幕直後から高い得点圏打率を維持し、[[4月15日]]の[[読売ジャイアンツ]]戦で、延長11回、[[サヨナラゲーム|サヨナラ本塁打]]を放つ。5月4日の中日戦で[[岩瀬仁紀]]から同点本塁打を打ち、史上22人目の[[全球団から本塁打]]を達成した(交流戦を除いた記録としては4人目)。2004年以来8年ぶりのオールスターにも選出され、7月20日のオールスターゲーム第1戦では逆転決勝2ラン本塁打を放ち、5人目となる両リーグでのMVP獲得。後半戦開幕後も好調を維持していたが、8月15日対[[阪神タイガース]]戦において、自身の打席で盗塁をした[[内村賢介]]にベンチで説教した。だが、内村には首脳陣から[[グリーンライト]]の権利が与えられているため、中村の叱責は采配批判にあたるとして[[中畑清]]監督から厳しく注意された。さらに、翌日の試合で右肘痛を訴え、試合途中にベンチ裏に姿を消したことが造反とみなされ、1軍登録を抹消された<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/31/kiji/K20120831004008770.html 中村紀 2軍落ちは懲罰降格だった!采配批判に中畑監督が決断]Sponichi Annex</ref><ref group="注">登録抹消直後は右肘痛が原因と発表された。</ref>。[[9月4日]]1軍に再登録。後半戦は数字を落とすも、チームは最下位を独走する中で主軸として活躍を見せた。ゴールデングラブ賞の投票では一塁手として2票差の2位<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/53698/ 中村紀“ロビー活動”実らずGグラブ賞落選]</ref>。
{{by|2012年}}は[[読売ジャイアンツ]]から移籍してきた[[アレックス・ラミレス]]故障によりベンチスタートとなったため「4番・三塁手」で開幕スタメン出場。その後も主に三塁手や一塁手でスタメン出場。開幕直後から高い得点圏打率を維持し、4月15日の[[読売ジャイアンツ]]戦で、延長11回、[[サヨナラゲーム|サヨナラ本塁打]]を放つ。5月4日の中日戦で[[岩瀬仁紀]]から同点本塁打を打ち、史上22人目の[[全球団から本塁打]]を達成した(交流戦を除いた記録としては4人目)。2004年以来8年ぶりのオールスターにも選出され、7月20日のオールスターゲーム第1戦([[大阪ドーム|京セラドーム大阪]])では逆転決勝2ラン本塁打を放ち、5人目となる両リーグでのMVP獲得。後半戦開幕後も好調を維持していたが、8月15日対[[阪神タイガース]]戦において、自身の打席で盗塁をした[[内村賢介]]にベンチで注意した。だが、内村には首脳陣から[[グリーンライト]]の権利が与えられているため、中村の叱責は采配批判にあたるとして[[中畑清]]監督から厳しく注意された。さらに、翌日の試合で右肘痛を訴え、試合途中にベンチ裏に姿を消したことが造反とみなされ、軍登録を抹消された<ref>{{Cite web|和書|title=中村紀軍落ちは懲罰降格だった!采配批判に中畑監督が決断 - スポニチ Sponichi Annex 野球 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/31/kiji/K20120831004008770.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref><ref group="注">登録抹消直後は右肘痛が原因と発表された。</ref>。9月4日に軍に再登録。後半戦は数字を落とすも、チームは最下位を独走する中で126試合に出場し、2年ぶりに規定打席到達を達成。ホームランは規定打席に到達した年では最少の11本塁打に留まったが、打率.274、主軸として活躍を見せた。ゴールデングラブ賞の投票では一塁手として2票差の2位<ref>{{Cite web|和書|title=中村紀“ロビー活動”実らずGグラブ賞落選 {{!}} 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社 |url=http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/53698/ |website= |date=2012-11-10 |access-date=2023-02-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20121114054323/http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/53698/ |archive-date=2012-11-14}}</ref>。


{{By|2013年}}は開幕カードは代打要員だったが、程なくして三塁手のレギュラーに定着<ref>{{cite news|author = |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/02/kiji/K20130502005723120.html|title = 中村紀 あと5本は「谷繁さんとかぶらないように、5月5日もやめよう」|newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]|publisher = |date=2013-05-02|accessdate=2013-05-02}}</ref>。5月1日のヤクルト戦(横浜スタジアム)でNPB/MLB通算2000本安打を本塁打で達成。イチロー、[[松井秀喜]]、[[松井稼頭央]]に次いで日本人選手として史上4人目の記録となったが、「日本のみで2000本を打ちたい」という本人の意向を汲んでセレモニーなどは行われなかった(「ドジャース時代の5安打は加算したくない」とも話していた。)<ref>{{cite news|author = |url = http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20130501-OYT1T01000.htm|title = DeNAの中村紀洋、日米通算2000安打|newspaper = [[読売新聞|YOMIURI ONLINE]]|publisher = |date=2013-05-02|accessdate=2013-05-02}}</ref>。そして5月5日、ナゴヤドームでの古巣中日戦で8回に[[中田賢一]]から左中間を破る2点[[二塁打]]を放ち、通算2162試合目で史上43人目のNPB通算2000安打を達成した<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130505/den13050518060002-n1.html DeNA・中村が2000安打 史上43人目] - サンケイスポーツ 2013年5月5日</ref>5球団に所属しての2000安打達成は[[加藤秀司|加藤英司]]に次いで人目。また、2162試合での到達は史上4番目の遅さ、39歳9か月での到達は8番目に遅い記録。ちなみに、チームメイトのラミレスも同年NPB通算2000本安打達成<ref group="注">同一チームの野手2人が同じシーズンで[[日本プロ野球名球会|名球会]]入りとなるのは、[[1987年]][[南海ホークス]]・[[加藤秀司|加藤英司]][[門田博光]]以来となる。</ref>。6月30日の中日戦では[[山本昌]]から先制のソロ本塁打を放ち、史上18人目の400本塁打を達成した。同試合では9回裏にサヨナラ安打を放った。最終的にはこの安定した成績を残した。
{{By|2013年}}は開幕カードは代打要員だったが、程なくして三塁手のレギュラーに定着<ref>{{Cite news |author= |url = https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/02/kiji/K20130502005723120.html |title=中村紀 あと5本は「谷繁さんとかぶらないように、5月5日もやめよう」 |newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]] |publisher= |date=2013-05-02 |accessdate=2013-05-02}}</ref>。5月1日のヤクルト戦(横浜スタジアム)でNPB/MLB通算2000本安打を本塁打で達成。この日米通算での2000本安打は、イチロー、[[松井秀喜]]、[[松井稼頭央]]に次いで日本人選手として史上4人目の記録となったが、「日本のみで2000本を打ちたい」という本人の意向を汲んでセレモニーなどは行われなかった(「ドジャース時代の5安打は加算したくない」とも話していた。)<ref>{{Cite news |author= |url = https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130502-1120839.html |title=ノリ日米通算2000安打達成も表情崩さず |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher= |date=2013-05-02 |accessdate=2018-09-06}}</ref>。そして5月5日、ナゴヤドームでの古巣中日戦で8回に[[中田賢一]]から左中間を破る2点[[二塁打]]を放ち、通算2162試合目で史上43人目のNPB通算2000安打を達成した<ref>{{Cite news |title=39歳ノリ2度の引退危機超え2000安打 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |date=2013-05-06 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130506-1122896.html |accessdate=2018-09-06}}</ref>5球団に所属しての2000安打達成は[[加藤秀司|加藤英司]]に次いで2人目。また、2162試合での到達は史上4番目の遅さ、39歳9か月での到達は8番目に遅い記録。ちなみに、チームメイトのラミレスも同年NPB通算2000本安打達成<ref group="注">同一チームの野手2人が同じシーズンで[[日本プロ野球名球会|名球会]]入りとなるのは、1987年の[[加藤秀司|加藤英司]][[門田博光]](ともに[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]])以来となる。</ref>。6月30日の中日戦では[[山本昌]]から先制のソロ本塁打を放ち、史上18人目の400本塁打を達成し9回裏にサヨナラ安打を放った<ref name="nikkansports20130701">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130701-1150445.html |title=中村紀洋、先制の400号&サヨナラ打 |publisher=日刊スポーツ |date=2013-07-01 |accessdate=2021-05-08}}</ref>。最終的には122試合に出場して前同様安定した成績を残した。


{{By|2014年}}は[[アーロム・バルディリス]]が一軍確約契約で加入し、[[一塁手]]には[[トニ・ブランコ]]がいたため、開幕当初は1軍メンバーから外れたが、[[トニ・ブランコ]]の故障もあり、戦力不足喘いだ中畑監督自身が本人に懇願する形で直接電話で連絡して1軍昇格させた。沈んでいたチームに[[ナイジャー・モーガン]]のTポーズを復活させ、チームを軌道にのせた<ref>{{cite news|author = |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/17/kiji/K20140417007992200.html|title = ブランコ、復帰は早くても5月下旬…代役でノリが1軍昇格}}</ref>。しかし5月6日の対巨人戦で「チーム方針に従わない言動があった」として登録抹消される。コーチに「自分の打席では、場面によっては走者を動かさず、打席に集中させてほしい」と相談したことが、中畑監督から采配批判とみなされた<ref>{{cite news|author = |url = http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/263878/|title = ノリが登録抹消 DeNA中畑監督「チーム方針に従わない言動があった」}}</ref>。これ以降は一度も1軍に昇格することかった。[[10月3日]]に球団から戦力外通告を受けた<ref>[http://www.baystars.co.jp/news/2014/10/1003_03.php 2015年度選手契約について]DeNA球団公式サイト2014年10月3日配信</ref>。DeNA球団は球界での実績や在籍時の貢献度が特に高かったことを改めて認め本拠地最終戦にあたる対ドラゴンズ戦で引退セレモニーを提案したが、中村は現役続行への強い意思があるとしてこれを拒否。最終的に同年は13試合の出場で打率.245、打席ではケースバッティングを心がけたため打点王ペースで打点を刻む10打点ながらも、2005年のドジャース時代を除けば1993年以来21年ぶりとなる本塁打0を記録。12月2日に自由契約公示された<ref>[http://www.npb.or.jp/players/2014pn_released.html 2014年度 自由契約選手] 日本野球機構オフィシャルサイト 201412月5日閲覧。</ref>。
{{By|2014年}}は[[アーロム・バルディリス]]が一軍確約契約で加入し、[[一塁手]]には[[トニ・ブランコ]]がいたため、開幕当初は軍メンバーから外れたが、そのブランコの故障もあり、4月軍昇格た<ref>{{Cite news |author= |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/17/kiji/K20140417007992200.html |title=ブランコ、復帰は早くても5月下旬…代役でノリが1軍昇格}}</ref>。しかし5月6日の対巨人戦で「チーム方針に従わない言動があった」として登録抹消される。コーチに「自分の打席では、場面によっては走者を動かさず、打席に集中させてほしい」と相談したことが、中畑監督から采配批判とみなされた<ref>{{Cite news |author= |url = https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/89543 |title=ノリが登録抹消 DeNA中畑監督「チーム方針に従わない言動があった」}}</ref>。この采配批判は野村克也も「独りよがり」とあきれていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/05/18/0006971289.shtml|title=ノムさんノリ酷評「野球選手じゃない」|date=2014-05-18|accessdate=2022-08-31}}</ref>。これ以降は一度も軍に昇格することなく、10月3日に球団から戦力外通告を受けた<ref>{{Cite web|和書|title=ニュース |  2015年度 選手契約について | 横浜DeNAベイスターズ |url=https://www.baystars.co.jp/news/2014/10/1003_03.php |website=www.baystars.co.jp |access-date=2023-02-21}}</ref>。DeNA球団は球界での実績や在籍時の貢献度が特に高かったことを改めて認め本拠地最終戦にあたる対中日戦で引退セレモニーを提案したが、中村は現役続行への強い意思があるとしてこれを拒否。最終的に13試合の出場で打率.245、10打点。日本球界では1993年以来21年ぶりとなる本塁打0を記録。12月2日に自由契約公示された<ref>{{Cite web|和書|title=2014年度 自由契約選手 |url=http://www.npb.or.jp/players/2014pn_released.html |website= |date= |access-date=2023-02-21 |publisher=[[日本野球機構]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20141208144658/http://www.npb.or.jp:80/players/2014pn_released.html |archive-date=2014-12-08}}</ref>。


=== 退団後 ===
=== 日本代表 ===
2000年の[[2000年シドニーオリンピックの野球競技|シドニー五輪の野球競技]]に[[2000年シドニーオリンピックの野球競技・日本代表|日本代表]]として参加も4位に終わる。4位が決まった直後に涙した全日本のメンバーは多かったが、中村はインタビューでテレビカメラの前でも人目を憚らず号泣した。
DeNAからの自由契約後には、現役続行を表明したが、[[日本野球機構|NPB]]加盟球団からのオファーはなかった。中村自身も[[12球団合同トライアウト]]には毎年参加していないなど、プロスポーツ選手としての活動はDeNA退団後は皆無であり実質的には「引退」状態である。


2004年の[[2004年アテネオリンピックの野球競技|アテネ五輪の野球競技]]に[[2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表|日本代表]]として参加して銅メダルを獲得した。
2015年5月5日には、居住地の西宮市内にあるスタジオで、小学校高学年および中学生の少年少女を対象にした野球教室「N’s Method(エヌズ・メソッド)」を開校。4月25日には、自身のFacebook公式アカウントで開校を報告するとともに「生涯現役選手」であることを表明した<ref>[http://baseballking.jp/ns/30823/ 中村紀洋氏が野球教室開校を報告「生涯現役を胸に様々な勝負に挑み続けていく」]BASEBALLKING 2015年4月25日</ref>。以降もNPB12球団からのオファーを待ち続けたが、[[支配下選手登録]]の期限(7月31日)までに獲得を表明する球団は現れなかった。この結果を受けて、中村は現役続行の意思が強いことを改めて表明。「まだまだチャレンジを楽しんで続けると諦めず常に挑戦する」とも明言した。


=== DeNA退団後 ===
同年にはテレビ出演し、金遣いが非常に荒く、自身や夫人が述べた話によると、食事代や交際費に高額を費やし、税金が払えないため保険を解約したことがあると告白している<ref>http://news.livedoor.com/article/detail/10245062/</ref><ref>https://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2015/10/22/0008500411.shtml</ref><ref>https://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/abc/29554/421984/</ref>。
DeNAからの自由契約後には現役続行を表明したが、[[日本野球機構|NPB]]加盟球団からのオファーはなかった。


2015年5月5日には、居住地の西宮市内にあるスタジオで、小学校高学年および中学生の少年少女を対象にした野球教室「N's Method(エヌズ・メソッド)」を開校。4月25日には、自身のFacebook公式アカウントで開校を報告するとともに「生涯現役選手」であることを表明した<ref>{{Cite web|和書|title=中村紀洋氏が野球教室開校を報告「生涯現役を胸に様々な勝負に挑み続けていく」 | BASEBALL KING |url=https://baseballking.jp/ns/30823 |website=BASEBALL KING |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>。以降もNPB12球団からのオファーを待ち続けたが、[[支配下選手登録]]の期限(7月31日)までに獲得を表明する球団は現れなかった。この結果を受けて、中村は現役続行の意思が強いことを改めて表明。「まだまだチャレンジを楽しんで続けると諦めず常に挑戦する」とも明言した。
2015年11月には[[高知市|高知市内]]で開かれた[[サンディエゴ・パドレス]]主催の野球教室に臨時コーチとして参加。28日には、プロ野球経験者による学生の指導に必要な学生野球資格の回復を視野に、NPB主催の大阪研修会へ参加した。研修会の終了後には、「現在野球教室で指導している小中学生が高校に進んでも、今の立場では高校へ足を踏み入れることができない。(高校時代の)恩師にも『早く来て(高校でも指導して欲しい)』と言われているので、何とか資格を回復させたい」と述べた。なお、自身の進退については、「まだ分からない」と話すにとどめている<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/11/28/kiji/K20151128011592020.html 学生指導資格回復へ中村紀洋が研修会受講「何とか取得したい」]スポーツニッポン 2015年11月28日</ref>。


同年にはテレビ出演し、金遣いが非常に荒く、自身や夫人が述べた話によると、食事代や交際費に高額(食費は一回で50万越え、年間で2500万円以上を費やしたこともあったという)を費やし、税金が払えないため、保険を解約したことがあると告白している<ref>{{Cite web|和書|title=最高年俸5億から400万へ。中村紀洋 “税金払えないんで保険とか全部解約した” |url=https://news.livedoor.com/article/detail/10245062/ |website=ライブドアニュース |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中村紀洋、年俸5億円時代の生活明かす/デイリースポーツ online |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2015/10/22/0008500411.shtml |website=デイリースポーツ online |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>。
2016年には、1月11日に[[福岡ドーム|福岡 ヤフオク!ドーム]]で催された[[日本プロ野球名球会|名球会]]フェスティバルに参加。[[アレックス・ラミレス]]とのホームラン競争を2本塁打で制した。さらに、その後のセ・パ対抗試合では、最終回に投手として登板。[[駒田徳広]]を1球で左飛に打ち取った<ref>{{Cite web|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1590726.html|title=野茂氏ら熱投 名球会夢の対決 セ・パ対抗戦/詳細|publisher=日刊スポーツ|date=2016-01-11|accessdate=2016-01-15}}</ref>。


2015年11月には[[高知市]]で開かれた[[サンディエゴ・パドレス]]主催の野球教室に臨時コーチとして参加。28日には、プロ野球経験者による学生の指導に必要な学生野球資格の回復を視野に、NPB主催の大阪研修会へ参加した。研修会の終了後には、「現在野球教室で指導している小中学生が高校に進んでも、今の立場では高校へ足を踏み入れることができない。(高校時代の)恩師にも『早く来て(高校でも指導して欲しい)』と言われているので、何とか資格を回復させたい」と述べた。なお、自身の進退については、「まだ分からない」と話すにとどめている<ref>{{Cite web|和書|title=学生指導資格回復へ中村紀洋が研修会受講「何とか取得したい」 - スポニチ Sponichi Annex 野球 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/11/28/kiji/K20151128011592020.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>。
2016年1月下旬には、[[全日本野球協会]]主催の2015年度野球指導者講習会で、[[大久保博元]]と共に打撃実技指導の講師を担当。2月2日付で、[[日本学生野球協会]]から、学生野球資格回復の適性認定を受けた<ref>[http://www.student-baseball.or.jp/charter_rule/rule/rule_tekiseishinsa_list.html 学生野球資格回復に関する規則第4条による適性認定者]日本学生野球協会</ref>。


2016年には、1月11日に[[福岡ドーム|福岡 ヤフオク!ドーム]]で催された[[日本プロ野球名球会|名球会]]フェスティバルに参加。[[アレックス・ラミレス]]とのホームラン競争を2本塁打で制した。さらに、その後のセ・パ対抗試合では、最終回に投手として登板。[[駒田徳広]]を1球で左飛に打ち取った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1590726.html |title=野茂氏ら熱投 名球会夢の対決 セ・パ対抗戦/詳細 |publisher=日刊スポーツ |date=2016-01-11 |accessdate=2016-01-15}}</ref>。
野球解説者としては2016年には[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]ゲスト解説者としても出演。


2016年1月下旬には、[[全日本野球協会]]主催の2015年度野球指導者講習会で、[[大久保博元]]と共に打撃実技指導の講師を担当。2月2日付で、[[日本学生野球協会]]から、学生野球資格回復の適性認定を受けた<ref>{{Cite web|和書|title=学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者 |url=https://www.student-baseball.or.jp/charter_rule/rule/rule_tekiseishinsa_list.html |website=www.student-baseball.or.jp |access-date=2023-02-21 |publisher=[[日本学生野球協会]]}}</ref>。
サントリードリームマッチ2016では、[[ザ・プレミアムモルツ球団]]の選手として試合に出場し、打点4をあげる活躍をしてMVPに選ばれた。


野球解説者としては2016年には[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]ゲスト解説者としても出演していた。また、2019年からは中日OBとして[[J SPORTS]]の解説者として活動していた。
元プロ野球選手・スポーツライターの[[高森勇旗]]の取材<ref>{{Cite web|url=http://wedge.ismedia.jp/articles/-/6139|title=中村紀洋が引退試合を拒否したワケ|publisher=WEDGE|date=2016-03-03|accessdate=2017-04-27}}</ref>によると、中村は「どんなことでもええ。俺は一生勝負し続ける。それが、生涯現役っていう意味や」と述べ、野球選手としてグラウンドに立つことのみが現役ではないとのポリシーが「生涯現役」という言葉に込められているという。


サントリードリームマッチ2016では[[モルツ球団|ザ・プレミアムモルツ球団]]の選手として試合に出場し、4打点を挙げる活躍をしてMVPに選ばれた。
「生涯現役」が野球選手としての現役を指す意味ではない事は2018年に受けたインタビューにも現れており、プロ野球の現役復帰について、自身の運営する野球教室「N's method」での指導に集中するため、仮に球団からオファーが有っても「行かない」と明言している<ref>{{Cite web|url=https://full-count.jp/2018/01/10/post101635/|title=中村紀洋氏インタ(下)子供たちに注ぐ情熱、NPBオファー来ても「行かない」|publisher=full-count|date=2018-01-10|accessdate=2018-01-29}}</ref>。


2019年12月3日、[[稲葉篤紀]]・[[岩村明憲]]・[[金子誠]](いずれも2014年限りで現役引退)とともに、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]の「プレーヤー表彰」候補者(現役引退から5年以上が経過した元選手が対象)としてノミネートされている<ref>{{Cite news|title=2020年野球殿堂入り候補者発表 稲葉篤紀氏や、「闘魂こめて」「六甲おろし」作曲の古関氏…全候補者47人一覧|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2019-12-03|url=https://hochi.news/articles/20191203-OHT1T50123.html?page=1|accessdate=2022-04-11|publisher=[[報知新聞社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220411133945/https://hochi.news/articles/20191203-OHT1T50123.html?page=1|archivedate=2022年4月11日}}</ref>。
===中学・高校野球の指導者へ===
2017年4月26日、[[静岡県]]にある[[浜松開誠館中学校・高等学校|浜松開誠館高校]]が、中村を同月1日付で硬式野球部の非常勤コーチに採用したことを発表した<ref name="Wcoach">[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1814616.html 浜松開誠野球部コーチ就任の中村紀洋氏 中学も指導](『[[日刊スポーツ]]』[[2017年]][[4月28日]]付記事)</ref>。自身と同じく1991年にNPBの球団([[中日ドラゴンズ]])へ入った後に、同部の監督へ転じた[[佐野心]]からの打診によるもので、メジャーリーグ経験者による高校野球の指導は異例。中村は指導に必要な学生野球資格の回復を済ませていることから、月に1~2回のペースで守備・打撃を指導する<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/1813885.html 中村紀洋氏が高校野球コーチに 浜松開誠館で指導へ](『[[日刊スポーツ]]』[[2017年]][[4月27日]]付記事)</ref>ほか、同校が併設する浜松開誠館中学校の軟式野球部での指導もあわせて担当する事となった<ref name="Wcoach" />。


2020年より、[[DAZN]]が特別協賛となって新設された[[最優秀バッテリー賞|プロ野球最優秀バッテリー賞]]の月間賞において、パ・リーグの選考委員を務める<ref>{{Cite news |title=2020プロ野球最優秀バッテリー賞にDAZNが特別協賛 「月間賞」ではTwitterでのユーザー投票も |newspaper=ベースボールチャンネル |date=2020-06-02 |url=https://www.baseballchannel.jp/npb/80742/ |accessdate=2020-10-14}}</ref>。
中学硬式野球の指導は浜松開誠館中学校以外でも行っており、2017年には自身主催により中学硬式野球大会「中村紀洋杯」を開催し<ref>{{Cite web|url=https://full-count.jp/2017/11/24/post94557/|title=通算404発・中村紀洋氏が中学硬式野球大会開催「素晴らしさを伝えたい」|publisher=full-count|date=2017-11-24|accessdate=2018-01-29}}</ref>、解説者も務めた。

元プロ野球選手・スポーツライターの[[高森勇旗]]の取材<ref>{{Cite web|和書|url=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/6139 |title=中村紀洋が引退試合を拒否したワケ |publisher=WEDGE |date=2016-03-03 |accessdate=2017-04-27}}</ref>によると、中村は「どんなことでもええ。俺は一生勝負し続ける。それが、生涯現役っていう意味や」と述べ、野球選手としてグラウンドに立つことのみが現役ではないとのポリシーが「生涯現役」という言葉に込められているという。

「生涯現役」が野球選手としての現役を指す意味ではない事は2018年に受けたインタビューにも現れており、プロ野球の現役復帰について、自身の運営する野球教室「N's method」での指導に集中するため、仮に球団からオファーがあっても「行かない」と明言している<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2018/01/10/post101635/ |title=中村紀洋氏インタ(下)子供たちに注ぐ情熱、NPBオファー来ても「行かない」 |publisher=Full-Count |date=2018-01-10 |accessdate=2018-01-29}}</ref>。2021年6月に[[関西テレビ放送|関西テレビ]]『[[こやぶるSPORTS|こやぶるSPORTS超]]』に出演した際も「引退は自分で言う必要があるのかどうか」という葛藤があったことに合わせて改めて生涯現役を語り、「引退は死んだ時。体が動くうちはチャレンジし続けることが本来の生き方」であるといった発言をしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/64260?page=1|title=戦力外の後に“現役続行”表明も…「引退宣言せず」プロ野球界から去った男たち|publisher=[[AERA dot.]]|date=2021-11-02|accessdate=2021-11-03}}</ref>。正式な引退の手続きを行っていないため、ルール上は以後も選手として契約することは可能である。

2024年5月28日、横浜スタジアムで行われたDeNA-楽天の試合前に行われた「交流戦SERIES2024」伝説のOB1打席対決に登場<ref>{{Cite web |title=【DeNA】伝説のOB1打席対決で中村紀洋氏が楽天福山博之氏から中前打も謝罪「すみません」|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202405280001032.html|website=[[日刊スポーツ]] |access-date=2024-05-30 |language=ja}}</ref>。

=== 高校野球の指導者へ ===
2017年4月26日、[[浜松開誠館中学校・高等学校|浜松開誠館高校]]([[静岡県]])が、中村を同月1日付で硬式野球部の非常勤コーチに採用したことを発表した<ref name="Wcoach">{{Cite web|和書|title=浜松開誠野球部コーチ就任の中村紀洋氏 中学も指導 - 大学・社会人 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1814616.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>。自身と同じく1991年にNPBの球団([[中日ドラゴンズ]])へ入った後に、同部の監督へ転じた[[佐野心]]からの打診によるもので、メジャーリーグ経験者による高校野球の指導は異例。中村は指導に必要な学生野球資格の回復を済ませていることから、月に1〜2回のペースで守備・打撃を指導する<ref>{{Cite web|和書|title=中村紀洋氏が高校野球コーチに 浜松開誠館で指導へ - 高校野球 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/1813885.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>ほか、同校が併設する浜松開誠館中学校の軟式野球部での指導もあわせて担当する事となった<ref name="Wcoach" />。

中学硬式野球の指導は浜松開誠館中学校以外でも行っており、2017年には自身主催により中学硬式野球大会「中村紀洋杯」を開催し<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2017/11/24/post94557/ |title=通算404発・中村紀洋氏が中学硬式野球大会開催「素晴らしさを伝えたい」 |publisher=Full-Count |date=2017-11-24 |accessdate=2018-01-29}}</ref>、解説者も務めた。

=== 中日コーチ時代 ===
[[File:CD-Norihiro Nakamura20230729.jpg|thumb|中日コーチ時代<br />(2023年7月29日)]]

{{by|2022年}}シーズンから中日の新[[プロ野球監督|監督]]に[[立浪和義]]が就任することが決定したことに合わせて、{{by|2021年}}10月29日に3年契約で一軍打撃[[プロ野球コーチ|コーチ]]を務めることが発表された<ref name="ドラゴンズ2021-10-29">{{Cite web|和書|url=https://www.dragons.jp/news/2021/21102902.html|title=ドラゴンズニュース ★来季コーチングスタッフのお知らせ|accessdate=2021-10-29|publisher=中日ドラゴンズ|date=2021-10-29|website=中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211029091910/https://www.dragons.jp/news/2021/21102902.html|archivedate=2021-10-29}}</ref>。これに伴い、同月限りで浜松開誠館高校の非常勤コーチを退任することとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kaiseikan.ed.jp/cat-news/%E6%9C%AC%E6%A0%A1%E9%87%8E%E7%90%83%E9%83%A8%E3%83%BB%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B4%80%E6%B4%8B%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E5%8B%A4%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E9%80%80%E4%BB%BB%E3%81%AB%E4%BC%B4%E3%81%86%E9%80%81/|title=本校野球部・中村紀洋非常勤コーチ退任に伴う送別会を行いました|accessdate=2021-10-31|publisher=学校法人誠心学園|date=2021-10-30|website=浜松開誠館中学校・高等学校|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211031070125/https://www.kaiseikan.ed.jp/cat-news/%E6%9C%AC%E6%A0%A1%E9%87%8E%E7%90%83%E9%83%A8%E3%83%BB%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B4%80%E6%B4%8B%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E5%8B%A4%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E9%80%80%E4%BB%BB%E3%81%AB%E4%BC%B4%E3%81%86%E9%80%81/|archivedate=2021-10-31}}</ref><ref>{{Cite news|title=浜松開誠館高・野球部の中村コーチ 10月末退任、中日指導陣へ|newspaper=[[静岡新聞]]|date=2021-10-30|url=https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/979342.html|accessdate=2021-10-31|publisher=静岡新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211031055342/https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/979342.html|archivedate=2021年10月31日}}</ref><ref>{{Cite news|title=浜松開誠館非常勤コーチ中村紀洋氏が送別会出席 来季中日打撃コーチ就任へ|newspaper=日刊スポーツ|date=2021-10-31|url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202110310000258.html|accessdate=2021-10-31|publisher=日刊スポーツ新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211031055031/https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202110310000258.html|archivedate=2021年10月31日}}</ref>。

しかし、1年目の2022年5月23日、開幕2か月にして[[波留敏夫]]と入れ替わりで二軍打撃コーチに配置転換された<ref>{{Cite news |title=【中日】中村紀洋1軍打撃コーチと波留敏夫2軍打撃コーチが入れ替え「監督の判断です」球団首脳 |newspaper=日刊スポーツ |date=2022-05-23 |url=https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202205230000756_m.html |accessdate=2022-05-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2022/05/24/0015326174.shtml|title=中日・中村紀打撃コーチ 2軍に配置転換|publisher=デイリースポーツ online|date=2022-05-24|accessdate=2022-06-10}}</ref>。立浪ら首脳陣との間になんらかのトラブルがあったと報道された<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/54821 中日・中村紀洋コーチ“異例の降格”の理由 “星野仙一より怖い男”が激怒]</ref>。その後、{{by|2023年}}も中日に在籍していたが、同年10月4日に今季限りで退団することが発表された<ref>[https://hochi.news/articles/20231004-OHT1T51157.html 【中日】荒木雅博、中村紀洋、西山秀二の3コーチが退団 大野奨太、堂上直倫、福田永将がコーチ就任] スポーツ報知 2023年10月4日</ref>。

=== 高校野球指導者復帰 ===
同年12月19日に学生野球資格を再回復したため、高校野球の指導が再び可能になり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.student-baseball.or.jp/system/prog/reinstatement_list.php?kid=4|title=学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者|publisher=公益財団法人 日本学生野球協会|accessdate=2024-01-10}}</ref>、{{by|2024年}}1月より浜松開誠館高校硬式野球部のコーチに復帰し、ほぼ毎日指導を行っている<ref>{{Cite news ja|title=⚾中村紀洋氏が浜松開誠館高コーチに復帰 「レベルアップ図る」|newspaper=あなたの静岡新聞|date=2024-04-11|author=吉沢光隆|url=https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/1449096.html|accessdate=2024-04-14}}</ref>。


== 選手としての特徴 ==
== 選手としての特徴 ==
{{スポーツ選手の出典明記|選手=選手として|特徴|section=1|date=2013年8月}}
=== 打撃 ===
=== 打撃 ===
[[File:20111015 Norihiro Nakamura, infielder of the Yokohama BayStars, at Yokohama Stadium.JPG|250px|right|thumb|中村紀洋のスイング(2011年)]]
[[File:20111015 Norihiro Nakamura, infielder of the Yokohama BayStars, at Yokohama Stadium.JPG|250px|right|thumb|中村紀洋のスイング(2011年)]]
平均より重く長い88cm/900gのバットを使用する<ref>[http://www.baseball-museum.or.jp/showcase/program/detail.html?id=335 企画展|公益財団法人野球殿堂博物館]</ref>。バットを高く放り投げるスタイルは、現役時代の中畑清を意識したものだと後に明かしている<ref>{{cite web|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20120416/den12041605070001-n2.html|title=中畑DeNA初サヨナラ!ノリ劇的2ラン(2/2ページ)|publisher=SANSPO.COM|accessdate=2016-05-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120622165254/http://www.sanspo.com/baseball/news/20120416/den12041605070001-n2.html|archivedate=2012年6月22|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
中村の打撃フォームは、狭いスタンスでバット上段に構え足を大きく上げてタイミングを取る。平均より長い88cm(900g)のバットを使用していた<ref>[http://www.baseball-museum.or.jp/showcase/program/detail.html?id=335 企画展|公益財団法人野球殿堂博物館]</ref>。
ホームランを確信した後にバットを高く放り投げるスタイルは、現役時代の[[中畑清]]を意識したものだと後に明かしている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20120416/den12041605070001-n2.html |title=中畑DeNA初サヨナラ!ノリ劇的2ラン(2/2ページ) |publisher=SANSPO.COM |accessdate=2016-05-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120622165254/http://www.sanspo.com/baseball/news/20120416/den12041605070001-n2.html |archivedate=2012-06-22 |url-status=dead|url-status-date=2017-09}}</ref>。

5回にわたる左手首の手術の影響で左手の握力は、40kg程度になっている<ref>{{Cite web|和書|title=39歳ノリ2度の引退危機超え2000安打 - プロ野球ニュース |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130506-1122896.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>。


同じ右打者で[[打者#用語|スラッガー]]の[[落合博満]]に憧れていた。落合が日本ハムに所属していた1997年<ref>{{Cite web|和書|title=DeNA【きょうは何の日】2013年 中村が日本通算2000安打達成/野球/デイリースポーツ online |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2020/05/05/0013321141.shtml |website=web.archive.org |date=2020-05-05 |access-date=2023-02-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200505201623/https://www.daily.co.jp/baseball/2020/05/05/0013321141.shtml |archive-date=2020-05-05}}</ref>、中村の所属する近鉄との対戦時に、中村が出塁後、一塁を守る落合に「今の打席、どうでした?」と訊くと、「遅い」と一言だけ指摘を受けた。再び出塁した際も「遅い」の一言のみ。しかし、その時の中村には何が「遅い」のか理解できなかった。後にこれは「スイングの始動が遅い」という意味で、原因は「構えに入った時点で90%以上は後ろの右足に体重をかけるべきで、ピッチャーのモーションに合わせて体重を移動させていたのでは遅い」からだと理解できたという<ref>{{Cite web|和書|date=2013-06-12 |url=https://gendai.media/articles/-/36098?page=5 |title=二宮清純レポート 横浜DeNA・内野手中村紀洋 嫌われても、笑われても自分の道を歩いてきた(5/7ページ) |publisher=週刊現代 |accessdate=2014-11-17}}</ref>。
5回にわたる左手首の手術の影響で左手の握力は40キロ程度になっている<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130506-1122896.html 39歳ノリ2度の引退危機超え2000安打] nikkansports.com 2013-05-06</ref>。


中村は「僕は近鉄時代に[[水谷実雄]]打撃コーチという恩師がいました。打撃の状態が悪い時もあります。その状況で当てにいかずに、持ち味のフルスイングを貫けたのは水谷さんの教えのおかげです。」<ref>[https://full-count.jp/2018/11/27/post256437/ 【中村紀洋の目】プロに入れば指名順位は関係ない 高卒入団で大成した選手の共通点とは]Full-Count</ref>と述べている。
[[落合博満]]に憧れていた。落合が同じパ・リーグである日本ハムに所属していた時期に、中村が所属していた近鉄との試合時で、中村が出塁し、一塁守備にいた落合に「今の打席、どうでした?」と聞くと「遅い」と一言だけ言われた。次に出塁した時も「遅い」の一言だけ。中村は「何のことだろう?」と考えたが、後にこれは「スイングの始動が遅い」との意味で、そうなる原因は「構えに入った時点で90%以上は後ろの右足に体重をかけるべきで、ピッチャーのモーションに合わせて体重を移動させていたのでは遅い」からだとわかったという<ref>{{Cite web|date=2013-06-12|url=http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36098?page=5|title=二宮清純レポート 横浜DeNA・内野手中村紀洋 嫌われても、笑われても自分の道を歩いてきた(5/7ページ)|publisher=週刊現代|accessdate=2014-11-17}}</ref>。


=== 守備 ===
=== 守備 ===
[[三塁手]]として[[ゴールデングラブ賞]]を7度受賞している。逆シングルやイレギュラーバウンドへの対応でグラブ捌きが光る<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/professional/report/f-bb-tp1-20100213-595543.html 【楽天】ノリの守備に指揮官「スゴイヨ」] nikkansports.com 2010年2月13日</ref>。三塁手にこだわりがあり、中日からFA宣言をしたのも、2007年2008年と三塁手ゴールデングラブを獲得したが、当時中日の監督であった落合から「守備範囲が狭い」<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20081101-425016.html 落合竜「守りの野球」ノリ一塁コンバート] nikkansports.com 2008年11月1日</ref>ことを理由に手失格と判断されたが一因であった<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20081116-430121.html ノリFA宣言「単年」と「三塁失格」理由] nikkansports.com 2008年11月16日</ref>。
[[三塁手]]として[[ゴールデングラブ賞]]を7度受賞している。これは、[[松田宣浩]]の8回に次ぐNPB史上2番目の記録でもある<ref>{{Cite web|和書|date=2019-10-31 |url=https://hochi.news/articles/20191031-OHT1T50104.html |title=【ソフトバンク】松田宣が7年連続8度目のGG受賞 三塁手としては歴代トップに |publisher=スポーツ報知 |accessdate=2019-10-31}}</ref>。逆シングルやイレギュラーバウンドにおけるグラブ捌きに長けている<ref>{{Cite web|和書|title=【楽天】ノリの守備に指揮官「スゴイヨ」 - プロ野球 キャンプ情報 : nikkansports.com |url=https://www.nikkansports.com/baseball/professional/report/f-bb-tp1-20100213-595543.html |website=www.nikkansports.com |access-date=2023-02-21}}</ref>。三塁手にこだわりがあり、2007年-2008年と三塁手ゴールデングラブを獲得。しかし、当時中日・[[落合博満]]監督から「守備範囲が狭い」<ref>{{Cite web|和書|title=落合竜「守りの野球」ノリ一塁コンバート - 野球ニュース |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20081101-425016.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>ことを理由に、一へのコンバートを命じられたこと中日からFA宣言をした一因であった<ref>{{Cite web|和書|title=ノリFA宣言「単年」と「三塁失格」理由 - 野球ニュース |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20081116-430121.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>。


横浜時代の2012年には一塁手として75試合に先発したことから、ファーストでのゴールデングラブ獲得にも意欲を見せた<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121101-1040956.html ノリ一塁で8度目Gグラブだ] nikkansports.com 2012年11月1日</ref>。但し2013年にはこちらも故障を抱える左膝の負担の関係から三塁手のポジションを狙う発言もしている<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130122-1075006.html DeNA中村ブラに白旗…筒香には負けん] nikkansports.com 2013年1月22日</ref>。
横浜時代の2012年には一塁手として75試合に先発したことから、一塁手でのゴールデングラブ獲得にも意欲を見せた<ref>{{Cite web|和書|title=【DeNA】ノリ一塁で8度目Gグラブだ - プロ野球ニュース |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121101-1040956.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>。但し2013年にはこちらも故障を抱える左膝の負担の関係から三塁手のポジションを狙う発言もしている<ref>{{Cite web|和書|title=DeNA中村ブラに白旗…筒香には負けん - プロ野球ニュース |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130122-1075006.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>。


大阪近鉄時代には遊撃手としても出場してる<ref name=baseball-reference />。横浜時代には2試合ながら二塁手も務めた<ref name=baseball-reference>[http://www.baseball-reference.com/japan/player.cgi?id=nakamu001nor Norihiro Nakamura] BASEBALL-REFERENCE.COM 2014年11月18日閲覧。※英語</ref>。
大阪近鉄時代には遊撃手としても出場しており、日本シリーズでも遊撃手でスタメンに入った事がある<ref name=baseball-reference />。横浜時代には2試合ながら二塁手も務めた<ref name="baseball-reference">{{Cite web |title=Norihiro Nakamura Japanese & Minor Leagues Statistics |url=https://www.baseball-reference.com/register/player.fcgi?id=nakamu001nor |website=Baseball-Reference.com |access-date=2023-02-21 |language=en}}</ref>。メジャーリーグ時代には少ない試合数の中で内野のポジション全てに就いている


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
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{| {{年度別打撃成績}}
{| {{年度別打撃成績}}
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|style="text-align:center;"|{{by2|1992}}
|style="text-align: center;"|{{by2|1992}}
|rowspan="13" style="text-align:center;"|[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]
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|11||27||27||4||6||1||0||2||13||5||0||0||0||0||0||0||0||8||0||.222||.222||.481||.704
|11||27||27||4||6||1||0||2||13||5||0||0||0||0||0||0||0||8||0||.222||.222||.481||.704
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|style="text-align:center;"|{{by2|1993}}
|style="text-align: center;"|{{by2|1993}}
|8||12||9||1||1||0||0||0||1||1||0||0||0||1||2||1||0||4||0||.111||.250||.111||.361
|8||12||9||1||1||0||0||0||1||1||0||0||0||1||2||1||0||4||0||.111||.250||.111||.361
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1994}}
|style="text-align: center;"|{{by2|1994}}
|101||215||192||23||54||13||1||8||93||36||0||0||2||2||19||1||0||49||2||.281||.343||.484||.827
|101||215||192||23||54||13||1||8||93||36||0||0||2||2||19||1||0||49||2||.281||.343||.484||.827
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1995}}
|style="text-align: center;"|{{by2|1995}}
|129||528||470||62||107||19||1||20||188||64||0||1||3||1||51||1||3||92||12||.228||.307||.400||.707
|129||528||470||62||107||19||1||20||188||64||0||1||3||1||51||1||3||92||12||.228||.307||.400||.707
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|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1996}}
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|110||454||411||60||112||15||1||26||207||67||4||1||0||0||39||3||4||89||7||.273||.341||.504||.845
|110||454||411||60||112||15||1||26||207||67||4||1||0||0||39||3||4||89||7||.273||.341||.504||.845
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1997}}
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|128||519||455||54||109||22||3||19||194||68||3||2||2||3||54||5||5||105||13||.240||.325||.426||.751
|128||519||455||54||109||22||3||19||194||68||3||2||2||3||54||5||5||105||13||.240||.325||.426||.751
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|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1998}}
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|132||564||481||74||125||14||1||32||237||90||1||1||2||2||74||3||5||114||12||.260||.363||.493||.856
|132||564||481||74||125||14||1||32||237||90||1||1||2||2||74||3||5||114||12||.260||.363||.493||.856
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|style="text-align:center;"|{{by2|1999}}
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|'''135''' ||601||514||83||134||23||0||31||250||95||3||0||1||3||'''79'''||0||4||116||'''21'''||.261||.362||.486||.848
|'''135''' ||601||514||83||134||23||0||31||250||95||3||0||1||3||'''79'''||0||4||116||'''21'''||.261||.362||.486||.848
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|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2000}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2000}}
|127||564||476||82||132||26||0||'''39'''||275||'''110'''||1||1||0||5||80||5||3||112||'''17'''||.277||.381||.578||.959
|127||564||476||82||132||26||0||'''39'''||275||'''110'''||1||1||0||5||80||5||3||112||'''17'''||.277||.381||.578||.959
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|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2001}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2001}}
|'''140'''||637||525||109||168||25||0||46||331||'''132'''||3||2||0||3||104||8||4||106||'''26'''||.320||'''.434'''||.630||1.064
|'''140'''||637||525||109||168||25||0||46||331||'''132'''||3||2||0||3||104||8||4||106||'''26'''||.320||'''.434'''||.630||1.064
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|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2002}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2002}}
|'''140'''||602||511||87||150||27||1||42||305||115||2||1||0||0||86||10||5||136||10||.294||.400||.597||.997
|'''140'''||602||511||87||150||27||1||42||305||115||2||1||0||0||86||10||5||136||10||.294||.400||.597||.997
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|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2003}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2003}}
|117||456||381||54||90||14||1||23||175||67||1||1||0||2||72||4||1||96||18||.236||.357||.459||.817
|117||456||381||54||90||14||1||23||175||67||1||1||0||2||72||4||1||96||18||.236||.357||.459||.817
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|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2004}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2004}}
|105||462||387||59||106||16||1||19||181||66||0||0||0||1||73||8||1||88||13||.274||.390||.468||.857
|105||462||387||59||106||16||1||19||181||66||0||0||0||1||73||8||1||88||13||.274||.390||.468||.857
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|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2005}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2005}}
|style="text-align:center;"|[[ロサンゼルス・ドジャース|LAD]]
|style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[ロサンゼルス・ドジャース|LAD]]
|17||41||39||1||5||2||0||0||7||3||0||0||0||0||2||0||0||7||3||.128||.171||.179||.350
|17||41||39||1||5||2||0||0||7||3||0||0||0||0||2||0||0||7||3||.128||.171||.179||.350
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2006}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2006}}
|style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[オリックス・バファローズ|オリックス]]
|style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[オリックス・バファローズ|オリックス]]
|85||359||328||39||76||22||0||12||134||45||0||1||0||2||26||2||3||70||10||.232||.292||.409||.701
|85||359||328||39||76||22||0||12||134||45||0||1||0||2||26||2||3||70||10||.232||.292||.409||.701
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2007}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2007}}
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[中日ドラゴンズ|中日]]
|rowspan="2" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[中日ドラゴンズ|中日]]
|130||521||457||64||134||24||0||20||218||79||2||1||4||8||51||3||0||87||'''18'''||.293||.359||.477||.836
|130||521||457||64||134||24||0||20||218||79||2||1||4||8||51||3||0||87||'''18'''||.293||.359||.477||.836
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2008}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2008}}
|140||557||493||56||135||20||0||24||227||72||0||1||10||3||50||4||1||119||11||.274||.340||.460||.800
|140||557||493||56||135||20||0||24||227||72||0||1||10||3||50||4||1||119||11||.274||.340||.460||.800
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2009}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2009}}
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]
|rowspan="2" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]
|77||294||263||16||58||11||0||2||75||26||0||1||1||1||29||2||0||41||11||.221||.297||.285||.582
|77||294||263||16||58||11||0||2||75||26||0||1||1||1||29||2||0||41||11||.221||.297||.285||.582
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2010}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2010}}
|129||521||473||51||126||23||0||13||188||64||0||1||1||2||44||2||1||84||18||.266||.329||.397||.726
|129||521||473||51||126||23||0||13||188||64||0||1||1||2||44||2||1||84||18||.266||.329||.397||.726
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2011}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2011}}
|rowspan="4" style="text-align:center;"|[[横浜DeNAベイスターズ|横浜<br/>DeNA]]
|rowspan="4" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[横浜DeNAベイスターズ|横浜<br />DeNA]]
|62||126||115||6||24||3||1||1||32||14||0||1||0||2||9||0||0||27||1||.209||.262||.278||.540
|62||126||115||6||24||3||1||1||32||14||0||1||0||2||9||0||0||27||1||.209||.262||.278||.540
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2012}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2012}}
|126||500||442||50||121||24||1||11||180||61||1||1||0||6||50||1||2||72||14||.274||.346||.407||.753
|126||500||442||50||121||24||1||11||180||61||1||1||0||6||50||1||2||72||14||.274||.346||.407||.753
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2013}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2013}}
|122||473||431||37||121||19||1||14||184||61||1||0||0||5||32||1||5||66||20||.281||.334||.427||.761
|122||473||431||37||121||19||1||14||184||61||1||0||0||5||32||1||5||66||20||.281||.334||.427||.761
|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2014}}
|style="text-align: center;"|{{by2|2014}}
|13||56||49||5||12||2||0||0||14||10||0||0||0||1||6||0||0||10||3||.245||.286||.321||.607
|13||56||49||5||12||2||0||0||14||10||0||0||0||1||6||0||0||10||3||.245||.321||.286||.607
|-
|-
!colspan="2"|[[日本プロ野球|NPB]]:22年
!colspan="2"|[[日本野球機構|NPB]]:22年
|2267||9048||7890||1076||2101||363||13||404||3702||1348||22||17||26||53||1030||64||47||1691||257||.266||.352||.469||.824
|2267||9048||7890||1076||2101||363||13||404||3702||1348||22||17||26||53||1030||64||47||1691||257||.266||.352||.469||.824
|-
|-
248行目: 321行目:
|17||41||39||1||5||2||0||0||7||3||0||0||0||0||2||0||0||7||3||.128||.171||.179||.350
|17||41||39||1||5||2||0||0||7||3||0||0||0||0||2||0||0||7||3||.128||.171||.179||.350
|}
|}
* 2014年度シーズン終了時
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
* 横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名を変更
* 横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名を変更


=== タイトル ===
=== タイトル ===
* [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:1回 (2000年)
* [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:1回(2000年)
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:2回 (2000年、2001年)
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:2回(2000年、2001年)
* [[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]:1回 (2001年)
* [[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]:1回(2001年)


=== 表彰 ===
=== 表彰 ===
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:5回 (1996年、1999年 - 2002年)
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:5回(1996年、1999年 - 2002年)
* [[ゴールデングラブ賞]]:7回 ('''三塁手部門史上最多'''・1999年 - 2002年、2004年、2007年、2008年)
* [[ゴールデングラブ賞]]:7回(1999年 - 2002年、2004年、2007年、2008年) ※三塁手部門を7度受賞は[[松田宣浩]]に次ぐ歴代2位、4年連続も松田に次いで歴代2位タイ(他に[[宮本慎也]]
** 両リーグでの年間連続受賞は[[平野謙 (野球)|平野謙]]、[[新庄剛志]]に次いで史上3人目
** 両リーグでの年間連続受賞は[[平野謙 (野球)|平野謙]]、[[新庄剛志]]に次いで史上3人目
** [[ゴールデングラブ賞#三井ゴールデン・グラブ レジェンズ|三井ゴールデン・グラブ レジェンズ]](三塁手部門)
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:5回 (1999年8月、2000年5月、2000年9月、2001年5月、2002年5月)
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:5回(1999年8月、2000年5月、2000年9月、2001年5月、2002年5月)
* [[JA全農Go・Go賞]]:1回 (好捕賞:2000年6月)
* [[スカパー! ドラマティックサヨナラ賞|スカパー! サヨナラ賞]]:1回 (20123・4月)
* [[JA全農GoGo賞]]:1回(好捕賞:20006月)
* 月間[[スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞|サヨナラ賞]]:1回(2012年3・4月)
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]MVP:1回 ([[2007年の日本シリーズ|2007年]])
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:2回 ([[2001年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2001年]] 第3戦、[[2012年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2012年]] 第1戦)
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]MVP:1回([[2007年の日本シリーズ|2007年]])<ref group="注" name="日本シリーズMVP"/>
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:2回([[2001年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2001年]] 第3戦、[[2012年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2012年]] 第1戦)
** 2001年はパ・リーグ選手として、2012年はセ・リーグ選手として。両リーグでの受賞は史上5人目
** 2001年はパ・リーグ選手として、2012年はセ・リーグ選手として。両リーグでの受賞は史上5人目
* オールスターゲーム優秀選手賞:1回 (2004年 第1戦)
* オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2004年 第1戦)
* オールスターゲーム敢闘選手賞:1回 (2013年 第1戦)
* オールスターゲーム敢闘選手賞:1回(2013年 第1戦)
* [[出身地別東西対抗戦]]最優秀選手:1回 (2000年)
* [[出身地別東西対抗戦]]最優秀選手:1回(2000年)
* 出身地別東西対抗戦優秀選手:1回 (2002年)
* 出身地別東西対抗戦優秀選手:1回(2002年)
* 花のパ・リーグ大賞:1回 (1996年){{Refnest|group="注"|パ・リーグの[[オープン戦#プロ野球のオープン戦|オープン戦]]MVP。<ref>『ベースボール・レコード・ブック1997』ベースボール・マガジン社、1996年12月、42頁。</ref>}}
* 花のパ・リーグ大賞:1回(1996年){{Refnest|group="注"|パ・リーグの[[オープン戦#日本プロ野球のオープン戦|オープン戦]]MVP。<ref>『ベースボール・レコード・ブック1997』ベースボール・マガジン社、1996年12月、42頁。</ref>}}
* [[サンケイスポーツ|サンスポ]]MVP大賞:1回 (2000年)<ref>{{cite news|url=http://www.sanspo.com/baseball/photos/20161123/tig16112305040011-p6.html|title=【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者|newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2016-11-23|accessdate=2017-09-08}}</ref>
* [[サンケイスポーツ|サンスポ]]MVP大賞:1回(2000年)<ref>{{Cite news |url=https://www.sanspo.com/gallery/20161122-JEYGFEERFFNUPIAFIRRQJ3A66A/ |title=【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者 |newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |date=2016-11-23 |accessdate=2017-09-08}}</ref>
* [[ゴールデンスピリット賞]] (2001年)
* [[ゴールデンスピリット賞]](2001年)
* [[ベスト・ファーザー イエローリボン賞#ベスト・プラウド・ファーザー賞|ベスト・ファーザー イエローリボン賞]] in「プロ野球部門」 (2008年)
* [[ベスト・ファーザー イエローリボン賞#ベスト・ファーザー賞 in 関西|ベスト・ファーザー イエローリボン賞]] in「プロ野球部門」(2008年)


=== 記録 ===
=== 記録 ===
{{スポーツ選手の出典明記|記録|date=2013年6月|section=1}}
{{スポーツ選手の出典明記|記録|date=2013年6月|section=1}}
==== NPB ====
; 初記録
; 初記録
* 初出場:1992年6月12日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]8回戦([[平和台野球場]])、8回表に[[ジェシー・リード]]の代打で出場
* 初出場:1992年6月12日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]8回戦([[平和台野球場]])、8回表に[[ジェシー・リード]]の代打で出場
284行目: 358行目:
* 初二塁打:1992年6月25日、対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]13回戦([[神戸総合運動公園野球場|グリーンスタジアム神戸]])、2回表に[[星野伸之]]から
* 初二塁打:1992年6月25日、対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]13回戦([[神戸総合運動公園野球場|グリーンスタジアム神戸]])、2回表に[[星野伸之]]から
* 初四球:1993年6月20日、対日本ハムファイターズ12回戦(藤井寺球場)、8回裏に[[酒井光次郎]]から
* 初四球:1993年6月20日、対日本ハムファイターズ12回戦(藤井寺球場)、8回裏に[[酒井光次郎]]から
* 初盗塁:1996年5月17日、対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]5回戦([[京都市西京極総合運動公園野球場|西京極野球場]])、4回裏に二盗(投手:[[新谷博]]、捕手:[[木大成]])
* 初盗塁:1996年5月17日、対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]5回戦([[京都市西京極総合運動公園野球場|西京極野球場]])、4回裏に二盗(投手:[[新谷博]]、捕手:[[木大成]])

; 節目の記録
; 節目の記録
* 100本塁打:1998年9月16日、対[[千葉ロッテマリーンズ]]25回戦([[大阪ドーム]])、9回裏に[[河本育之]]から中越逆転サヨナラ3ラン ※史上201人目
* 100本塁打:1998年9月16日、対[[千葉ロッテマリーンズ]]25回戦([[大阪ドーム]])、9回裏に[[河本育之]]から中越逆転サヨナラ3ラン ※史上201人目
291行目: 364行目:
* 200本塁打:2001年6月13日、対福岡ダイエーホークス12回戦([[福岡ドーム]])、7回表に[[吉田修司]]から右越ソロ ※史上72人目
* 200本塁打:2001年6月13日、対福岡ダイエーホークス12回戦([[福岡ドーム]])、7回表に[[吉田修司]]から右越ソロ ※史上72人目
* 1000試合出場:2001年9月2日、対日本ハムファイターズ27回戦([[東京ドーム]])、4番・[[三塁手]]で先発出場 ※史上375人目
* 1000試合出場:2001年9月2日、対日本ハムファイターズ27回戦([[東京ドーム]])、4番・[[三塁手]]で先発出場 ※史上375人目
* 1000安打:2002年5月29日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(大阪ドーム)、5回裏に[[ネイサン・ミンチー]]から左中間へ3ラン ※史上209人目
* 1000安打:2002年5月29日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(大阪ドーム)、5回裏に[[ネイサン・ミンチー]]から左中間へ3ラン ※史上209人目
* 250本塁打:2002年8月18日、対西武ライオンズ21回戦([[西武ドーム]])、1回表に[[張誌家]]から左越2ラン<ref group="注">右足首痛、持病の[[腰痛]]をこらえ、52打席ぶりの一発。</ref> ※史上43人目
* 250本塁打:2002年8月18日、対西武ライオンズ21回戦([[西武ドーム]])、1回表に[[張誌家]]から左越2ラン<ref group="注">右足首痛、持病の[[腰痛]]をこらえ、52打席ぶりの一発。</ref> ※史上43人目
* 1000三振:2003年7月30日、対福岡ダイエーホークス18回戦(福岡ドーム)、7回表に[[斉藤和巳]]から ※史上33人目
* 1000三振:2003年7月30日、対福岡ダイエーホークス18回戦(福岡ドーム)、7回表に[[斉藤和巳]]から ※史上33人目
* 300本塁打:2004年6月4日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦([[千葉マリンスタジアム]])、6回表に[[高木晃次]]から右越2ラン ※史上29人目
* 300本塁打:2004年6月4日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦([[千葉マリンスタジアム]])、6回表に[[高木晃次]]から右越2ラン ※史上29人目
* 1500試合出場:2007年5月6日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]9回戦([[ナゴヤドーム]])、5番・三塁手で先発出場 ※史上151人目
* 1500試合出場:2007年5月6日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]9回戦([[ナゴヤドーム]])、5番・三塁手で先発出場 ※史上151人目
* 1000打点:2007年7月5日、対[[広島東洋カープ]]10回戦(ナゴヤドーム)、4回裏に[[ジャレッド・フェルナンデス]]から左翼フェンス直撃2点適時二塁打 ※史上29人目
* 1000打点:2007年7月5日、対[[広島東洋カープ]]10回戦(ナゴヤドーム)、4回裏に[[ジャレッド・フェルナンデス]]から左翼フェンス直撃2点適時二塁打 ※史上29人目<ref name=":3" />
* 1500安打:2007年9月26日、対[[読売ジャイアンツ]]24回戦(東京ドーム)、1回表に[[高橋尚成]]から左前安打 ※史上95人目
* 1500安打:2007年9月26日、対[[読売ジャイアンツ]]24回戦(東京ドーム)、1回表に[[高橋尚成]]から左前安打 ※史上95人目
* 350本塁打:2008年6月7日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に[[星野八千穂]]から左越2ラン ※史上22人目
* 350本塁打:2008年6月7日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に[[星野八千穂]]から左越2ラン<ref name=":6" /> ※史上22人目
* 100猛打賞:2008年6月17日、対埼玉西武ライオンズ3回戦([[石川県立野球場]])
* 100猛打賞:2008年6月17日、対埼玉西武ライオンズ3回戦([[石川県立野球場]])
* 300二塁打:2010年5月8日、対北海道日本ハムファイターズ7回戦([[函館オーシャンスタジアム]])、5回表に[[ダルビッシュ有]]から右翼線二塁打 ※史上55人目
* 300二塁打:2010年5月8日、対北海道日本ハムファイターズ7回戦([[函館オーシャンスタジアム]])、5回表に[[ダルビッシュ有]]から右翼線二塁打 ※史上55人目
* 1500三振:2010年8月18日、対オリックス・バファローズ21回戦(スカイマークスタジアム)、5回表に[[近藤一樹]]から ※史上10人目
* 1500三振:2010年8月18日、対オリックス・バファローズ21回戦(スカイマークスタジアム)、5回表に[[近藤一樹]]から ※史上10人目
* 2000試合出場:2011年10月4日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、8回裏に[[一塁手]]で出場 ※史上43人目
* 2000試合出場:2011年10月4日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、8回裏に[[一塁手]]で出場 ※史上43人目
* 1000得点:2012年5月20日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(横浜スタジアム)、1回裏に[[唐川侑己]]から左越2ラン ※史上38人目
* 1000得点:2012年5月20日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(横浜スタジアム)、1回裏に[[唐川侑己]]から左越2ラン ※史上38人目
* 3500塁打:2012年9月28日、対読売ジャイアンツ戦20回戦(横浜スタジアム)、2回裏に[[内海哲也]]から右前安打 ※史上26人目
* 3500塁打:2012年9月28日、対読売ジャイアンツ戦20回戦(横浜スタジアム)、2回裏に[[内海哲也]]から右前安打 ※史上26人目
* 1000四球:2013年4月27日、対阪神タイガース5回戦(横浜スタジアム)、6回裏に[[川﨑雄介]]から ※史上14人目
* 1000四球:2013年4月27日、対阪神タイガース5回戦(横浜スタジアム)、6回裏に[[川﨑雄介]]から ※史上14人目
* 2000安打:2013年5月5日、対[[中日ドラゴンズ]]9回戦(ナゴヤドーム)、8回表[[中田賢一]]から左中間2点適時二塁打 ※史上43人目
* 2000安打:2013年5月5日、対[[中日ドラゴンズ]]9回戦(ナゴヤドーム)、8回表[[中田賢一]]から左中間2点適時二塁打 ※史上43人目
* 350二塁打:2013年5月23日、対福岡ソフトバンクホークス2回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、2回表に[[大隣憲司]]から中越二塁打 ※史上36人目
* 350二塁打:2013年5月23日、対福岡ソフトバンクホークス2回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、2回表に[[大隣憲司]]から中越二塁打 ※史上36人目
* 400本塁打:2013年6月30日、対中日ドラゴンズ12回戦(横浜スタジアム)、2回裏に[[山本昌]]から左越ソロ ※史上18人目
* 400本塁打:2013年6月30日、対中日ドラゴンズ12回戦(横浜スタジアム)、2回裏に[[山本昌]]から左越ソロ ※史上18人目

;NPB、MLBにまたがった記録
* NPB/MLB通算2000安打:2013年5月1日、対[[東京ヤクルトスワローズ]]6回戦(横浜スタジアム)、4回裏に[[赤川克紀]]から左越ソロ ※史上4人目
; その他の記録
; その他の記録
* 通算満塁本塁打:14本('''歴代3位タイ''')
* 通算満塁本塁打:14本歴代3位タイ
* 通算サヨナラ本塁打:10本('''歴代単独3位''')<ref group="注">10本目は2012年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(新潟県立野球場)、11回裏に[[西村健太朗]]から。</ref>
* 通算サヨナラ本塁打:10本歴代単独3位<ref group="注">10本目は2012年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(新潟県立野球場)、11回裏に[[西村健太朗]]から。</ref>
* 通算サヨナラ安打:17本 *歴代単独3位<ref name="nikkansports20130701" />
* 通算サヨナラ安打:17本('''歴代単独3位''')<ref>{{Cite web|date=2013-06-30|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130630-00000834-yom-base|title=DeNA・中村、通算サヨナラ安打歴代単独3位|publisher=読売新聞|accessdate=2013-07-03}}{{リンク切れ|date=2017年12月}}</ref>
* [[サイクル安打]]:1回=1994年9月18日、対日本ハムファイターズ25回戦(藤井寺球場
* [[サイクル安打]]:1994年9月18日、対日本ハムファイターズ25回戦(藤井寺球場)※史上45人目、47度目
* 代打満塁本塁打:1回=2007年10月6日、対東京ヤクルトスワローズ24回戦([[明治神宮野球場]])、6回表に[[花田真人]]から
* 代打満塁本塁打:2007年10月6日、対東京ヤクルトスワローズ24回戦([[明治神宮野球場]])、6回表に[[花田真人]]から
* シーズン満塁本塁打:3本 2回(2000年、2001年)
* シーズン満塁本塁打:3本(2000年、2001年)
* 17試合連続安打(2010年5月4日 - 5月29日
* 17試合連続安打:2010年5月4日 - 5月29日
* 5試合連続本塁打(2000年6月3日 - 6月9日
* 5試合連続本塁打:2000年6月3日 - 6月9日 ※全て両翼100m以上の球場での達成は史上初
** 全て両翼100m以上の球場での達成は史上初
* 1試合9打点:2001年5月29日、対日本ハムファイターズ10回戦(東京ドーム)
* 1試合9打点:2001年5月29日、対日本ハムファイターズ10回戦(東京ドーム)
* 1試合5四球:2003年5月3日、対日本ハムファイターズ7回戦(大阪ドーム) ※リーグタイ記録
* 1試合5四球:2003年5月3日、対日本ハムファイターズ7回戦(大阪ドーム)※リーグタイ記録
* 1試合3本塁打:4回 (1997年9月20日、2000年9月7日、2001年5月29日、2008年7月29日)
* 1試合3本塁打:4回(1997年9月20日、2000年9月7日、2001年5月29日、2008年7月29日)
* 3打席連続本塁打:4回 (1997年9月20日、2000年9月7日、2001年9月8日 - 9月9日、2008年7月29日 - 8月3日([[オールスターゲーム (日本プロ野球)|球宴]]期間明け))
* 3打席連続本塁打:4回(1997年9月20日、2000年9月7日、2001年9月8日 - 9月9日、2008年7月29日 - 8月3日([[オールスターゲーム (日本プロ野球)|球宴]]期間明け))
** 1997年9月20日、2000年9月7日の記録はいずれもレフト・センター・ライトに打ち分けての3打席連続本塁打で、これは史上初であり、広角に打てる証明といえる
** 1997年9月20日、2000年9月7日の記録はいずれもレフト・センター・ライトに打ち分けての3打席連続本塁打で、これは史上初。
* 同一球団40HRコンビ(2001年 近鉄[[タフィ・ローズ|ローズ]]55本塁打・中村46本塁打、2002年 近鉄ローズ46本塁打・中村42本塁打)
* 同一球団40HRコンビ(2001年 近鉄[[タフィ・ローズ|ローズ]]55本塁打・中村46本塁打、2002年 近鉄ローズ46本塁打・中村42本塁打)
* [[全球団から本塁打]]<ref group="注">達成時に存在の全球団であり、自身が所属した近鉄からは記録していない。</ref>:2012年5月4日、対中日ドラゴンズ6回戦([[横浜スタジアム]])、9回裏に[[岩瀬仁紀]]から左越同点ソロ ※史上22人目
* [[全球団から本塁打]]<ref group="注">達成時に存在の全球団であり、自身が所属した近鉄からは記録していない。</ref>:2012年5月4日、対中日ドラゴンズ6回戦([[横浜スタジアム]])、9回裏に[[岩瀬仁紀]]から左越同点ソロ ※史上22人目
;; オールスターゲーム
;; オールスターゲーム
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:9回 (1995年、1996年、1999年 - 2002年、2004年、2012年、2013年)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:9回(1995年、1996年、1999年 - 2002年、2004年、2012年、2013年)
* 両リーグで本塁打:史上5人目
* 両リーグで本塁打:史上5人目
** 全セ・リーグ選手として出場した[[2012年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2012年]]第1戦([[大阪ドーム|京セラドーム大阪]])、2回表に[[斎藤佑樹]]から本塁打を打って達成。
** 全セ・リーグ選手として出場した[[2012年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2012年]]第1戦([[大阪ドーム|京セラドーム大阪]])、2回表に[[斎藤佑樹]]から本塁打を打って達成。
** 全パ・リーグ選手としては、[[2001年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2001年]]第1戦・第2戦・第3戦、[[2004年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2004年]]第1戦の4本塁打を放っている。
** 全パ・リーグ選手としては、[[2001年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2001年]]第1戦・第2戦・第3戦、[[2004年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2004年]]第1戦の4本塁打を放っている。

==== NPB/MLB通算 ====
; 節目の記録
* 2000安打:2013年5月1日、対[[東京ヤクルトスワローズ]]6回戦(横浜スタジアム)、4回裏に[[赤川克紀]]から左越ソロ ※史上4人目


=== 背番号 ===
=== 背番号 ===
* '''66''' (1992年 - 1996年、2005年)
* '''66'''(1992年 - 1996年、2005年)
* '''3''' (1997年 - 2000年)
* '''3'''(1997年 - 2000年)
* '''5''' (2001年 - 2004年)
* '''5'''(2001年 - 2004年)
* '''8''' (2006年)
* '''8'''(2006年)
* '''205''' (2007年 - 同年途中
* '''205'''(2007年 - 同年3月22日
* '''99''' (2007年途中 - 2010年、2011年途中 - 2014年)
* '''99'''(2007年3月23日 - 2010年、2011年5月25日 - 2014年)
* '''74'''(2022年 - 2023年)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
353行目: 427行目:
* [[大阪市出身の人物一覧]]
* [[大阪市出身の人物一覧]]
* [[大阪近鉄バファローズの選手一覧]]
* [[大阪近鉄バファローズの選手一覧]]
* [[オリンピック野球競技メダリスト一覧]]
* [[オリンピック野球競技メダリスト一覧]]
* [[オリックス・バファローズの選手一覧]]
* [[オリックス・バファローズの選手一覧]]
* [[メジャーリーグベースボールの選手一覧 N]]
* [[メジャーリーグベースボールの選手一覧 N]]
360行目: 434行目:
* [[東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧]]
* [[東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧]]
* [[横浜DeNAベイスターズの選手一覧]]
* [[横浜DeNAベイスターズの選手一覧]]
*[[Mr.FULLSWING]] - 2001年から2006年まで[[週刊少年ジャンプ]]に連載されていた[[鈴木信也]]による漫画作品。作品タイトルが連載当時全盛期を迎えていた中村の愛称に由来しており、また中村をモチーフにしたキャラクターも登場する。
* [[Mr.FULLSWING]] - 2001年から2006年まで[[週刊少年ジャンプ]]に連載されていた[[鈴木信也]]による漫画作品。作品タイトルが連載当時全盛期を迎えていた中村の愛称に由来しており、また中村をモチーフにしたキャラクターも登場する。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2024年12月29日 (日) 03:14時点における最新版

中村 紀洋
浜松開誠館高校硬式野球部 コーチ
現役時代
(2013年8月18日、横浜スタジアムにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市東淀川区
(現:淀川区
生年月日 (1973-07-24) 1973年7月24日(51歳)
身長
体重
180 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手
プロ入り 1991年 ドラフト4位
初出場 NPB / 1992年6月12日
MLB / 2005年4月10日
最終出場 NPB / 2014年5月6日
MLB / 2005年5月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2000年2004年
オリンピック
男子 野球
2004 野球
中村 紀洋
YouTube
チャンネル
活動期間 2018年7月12日 - 2021年3月24日
ジャンル 野球
登録者数 約5.06万人
総再生回数 4,662,079回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年10月17日時点。
テンプレートを表示

中村 紀洋(なかむら のりひろ、1973年7月24日 - )は、大阪府大阪市東淀川区(現:淀川区)出身の元プロ野球選手内野手)。愛称は「ノリ」。

現役時代は大阪近鉄バファローズなどでプレーし、中日ドラゴンズ時代の2007年には中日の53年ぶりとなる日本一に貢献、日本シリーズでは日本シリーズMVPに選出されている[注 1]2014年横浜DeNAベイスターズ戦力外になり事実上現役を引退した(後述)。その後は浜松開誠館高等学校非常勤コーチを経て2022年から中日でコーチを務めた[1]アテネオリンピック野球の銅メダリスト。日本プロ野球名球会会員。

家族は、妻の浩子(元実業団バレーボール日立の選手)と3女。元プロ野球選手の村上隆行は義兄(妻の兄)。さらに同じく元プロ野球選手の中田廉とも遠戚関係にある(中田の母の妹が村上の妻で、村上の妹の夫が中村になる)。

経歴

[編集]

プロ入り前

[編集]

大阪市立野中小学校大阪市立十三中学校出身[2]。中学時代は大阪淀川リトルシニアでプレーした[3]。1985年4月17日に阪神甲子園球場で行われた阪神タイガース読売ジャイアンツ(巨人)の試合を観に行き、バックスクリーン3連発を見た[4]。高校進学にあたって、「大阪の私立校は強すぎる。この状況を変えたいんや。みんなで公立から甲子園目指せへんか」とリトルやシニアの仲間を誘い、大阪府立渋谷高等学校へ進学した[5]1990年全国高等学校野球選手権大阪大会で2年生ながら4番打者として4本塁打、守備でも三塁手投手としてチームを甲子園初出場に導く。府大会決勝では前年のセンバツ準優勝投手である宮田正直を擁する上宮高校相手に打者としては2打席連続の2ラン本塁打を放ち、投手としては4回からリリーフ登板し、6回5安打2失点に抑えて6-4での勝利に貢献した[5]。大阪の公立高校としては1982年第64回大会春日丘高校以来8年ぶりの出場となった。甲子園では初戦(2回戦)で宇部商に敗れた。高校通算35本塁打。高校時代の同級生に大鳥れい(元宝塚歌劇団花組トップ娘役)がいる。

1991年度ドラフト会議を前に大阪桐蔭高校萩原誠阪神タイガースから1位指名)とともに大阪出身のスラッガーとして注目されており、会議では近鉄バファローズから4位指名を受け[6]、入団。背番号66。なお、後に所属する中日ドラゴンズの関西地区担当スカウトを務めていた中田宗男も中村を高く評価していたが、最終的には指名には至らなかった[7]。当時、ドラゴンズの親会社である中日新聞社の発行する『中日スポーツ』ではドラフト候補の選手たち(高校生は164人)をA・B・Cの3段階評価で評価していたが、当時投手だった中村はB評価で、大和銀行への入行が内定していた[8]

近鉄時代

[編集]

1992年は11試合に出場し、シーズン2本塁打を記録(パシフィック・リーグの高卒新人で本塁打2本以上は清原和博田中幸雄以来6年ぶり)。1993年は8試合の出場にとどまる。

1994年には故障した金村義明の代役として台頭。9月18日の日本ハム戦(藤井寺)でサイクル安打、プロ初の三塁打がこの記録に結び付いた。この年は規定打席不足だったが、101試合に出場して打率.280、8本塁打をマークした。

1995年からレギュラーに定着。この年は129試合に出場し、打率.228だったが、初の20本塁打を記録した。

1996年から左手首の故障に悩まされる(これまでにも左手首の手術を3回受けている)。前年を下回る110試合の出場だったが、26本塁打、打率.273。

1997年には背番号を石井浩郎が着けていた3へ変更。同年は128試合に出場したが不調で三振数も100を超えた。

1998年にはリーグ2位の32本塁打を放ち、自身初のシーズン30本塁打達成。

球団名が「大阪近鉄バファローズ」になった1999年は初の全試合出場を達成し、ゴールデングラブ賞を獲得。

2000年にはシーズンでは二冠王(本塁打王打点王)を獲得するが、近鉄は2年連続のパ・リーグ最下位。シーズン終了後、推定年俸3億円(1億6,000万円増)プラス出来高払い5,000万円で契約更改シアトル・マリナーズに移籍したイチローに代わり、パ・リーグの日本人最高年俸選手になる。

2001年の開幕前に背番号を西武ライオンズへ移籍した義兄・村上嵩幸の着けていた5へ変更。4番打者として活躍し、132打点で打点王を獲得した[注 2]。3・4番合計101本塁打(タフィ・ローズ55本、中村46本)は、1985年の阪神(ランディ・バース54本、掛布雅之40本)を上回る最多記録を更新。さらに全試合出場を果たし打率は自己最高.320を記録した。9月24日の西武戦では松坂大輔からサヨナラ逆転2ランを放った[9]。翌シーズンにフリーエージェント (FA) 権の取得が予想される中、近鉄から複数年契約(推定6年契約35億円)を提示される。しかし、12月26日に「1か月で判断するのは難しかった」と複数年契約を拒否し、推定年俸5億円+出来高払い1億円の単年契約を結ぶ。12月には大阪教育大学附属池田小学校(同年6月に児童殺傷事件が発生)の慰問活動が評価され、第3回ゴールデンスピリット賞を受賞している[10]

2002年7月14日にFA権を取得。この年は3割は逃したが全試合出場を果たし、42本塁打、115打点と前年同様の打棒を発揮した。だが30本塁打以上を記録したのはこの年が最後となった。この頃「メジャー移籍はあまり頭にない」と話していたこともあったが、シーズン終了後から「中村紀洋というブランドをまず考えて、近鉄で終わっていいのか」と悩み抜き、11月5日にFA宣言[11]。12月19日には700万ドルでの2年契約プラス3年目のオプション600万ドルでニューヨーク・メッツと契約合意したと報じられるが、12月20日にこれがメッツの公式HPに載ったことに「そんな球団は信用できない」と激怒し交渉を白紙に戻す。そのため、近鉄と再交渉を行い、監督の梨田昌孝らから慰留されたこともあり、12月21日に近鉄残留を表明した(推定6年契約30億円+出来高払い[12])。なおこの時、2年後(2004年オフ)にポスティングシステムによるメジャーリーグ (MLB) 移籍を容認する条件で契約を結んでいる[13]。この件について中村は「確かにメッツと契約寸前までいっていた。しかしマスコミ関係から合意のネタが飛んできた。ルール違反する球団とは契約できない」とコメントし、代理人を務めた音楽プロデューサーの茂田雅美も当初は「守秘義務に違反したメッツの勇み足だった」とメッツの姿勢を批判したが、後にMLB機構とメッツから「中村側が違約の根拠としている公式ホームページの文書はMLB機構や球団の認可を受けたものではない上に、問題の記事はメッツと無関係の人物の情報に基づいている。今回の交渉に関し、メッツのルール破りは一切ない。また中村と彼のアドバイザーの茂田は各球団が選手との契約に先立ち契約内容をMLBに報告する必要があることを知らないと思われる。健康診断にパスした時点で拘束力のある合意が成立する」との声明が出され、茂田はこれを受けて「メッツが言うように、合意していたということに関して異論はない」と認め、中村の「メッツのルール違反」というコメントについて「あれは彼の言葉が足らなかった」と語った(音楽プロデューサーを本職とする茂田が代理人を務めたのは、中村が節税を目的に設立した会社の監査役を務めた縁から)[14]

2003年5月半ばに右を傷め6月10日に右膝半月板損傷と診断されるが、「自分が欠場するわけにはいかないから試合に出ながら治す」と言い、出場し続けた。しかし、ケガの影響で117試合の出場で打率.236、23本塁打、67打点に終わった上、1994年以来9年ぶりの100安打未満と前年を大きく下回る成績となってしまった。そして、チームもリーグ3位に終わる。アテネ五輪の予選を兼ねたアジア野球選手権への参加を辞退し、10月17日に右膝を手術。これ以降、成績に直結する故障が増える。

小惑星(29737) Norihiroは2003年5月1日付けで中村の名前にちなんで命名された[15]

2004年は右膝のリハビリを兼ねてロサンゼルス・ドジャーススプリングトレーニングに招待選手として参加した。渡米前に歯並びの治療を受けていたが、キャンプで守備練習中にノックの打球を歯に受け、帰国後にオープン戦を欠場し、治療を受けた。アテネ五輪の試合後の宴会で右足裏を負傷し、9月10日まで欠場した。オリンピック招集とオリンピック終了後の負傷の影響もあり、105試合の出場で打率.274、19本塁打、66打点にとどまり、本塁打は7年ぶりに20本に届かなかった。

欠場中には団野村を代理人としてポスティングシステムによるMLB挑戦を企図し、11月3日にメジャーリーグ入りの意思を表明した[13]。11月8日のオリックス・ブルーウェーブとの球団合併による選手分配ドラフトの結果、オリックス・バファローズに振り分けられた。12月1日に合併球団が発足、6年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残り4年の契約期間のうち2年分の年俸(10億円)に相当する保証金を近鉄に要望、うち3億円が功労金として支払われた[12]。近鉄在籍時代に記録した307本塁打は球団記録となった[16]。また同年11月に発生した奈良小1女児殺害事件では、被害者の女子児童が近鉄ファンで、自身の娘(次女)と同い年だったことから、遺族にサイン入りの野球用具を贈り[17]、それらは女子児童の通夜で霊前に供えられた[18]

2005年1月25日にポスティング申請し、近鉄と業務提携していたロサンゼルス・ドジャースが落札した。これにより、中村は近鉄球団から直接メジャー移籍した最後の選手となった。

ドジャース時代

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ロサンゼルス・ドジャース時代
(2005年5月6日)

2005年2月3日、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。背番号は近鉄入団当時と同じ66に決まった[19]。この移籍を皮切りに、中村はいわゆるジャーニーマンとして複数の球団を渡り歩くことになる。

4月2日にAAA級パシフィックコーストリーグラスベガス・フィフティワンズへ合流するように通告されたが、4月10日には故障者リスト入りしたアントニオ・ペレスに代わって、念願のメジャー昇格を果たした。しかし、5月8日の試合後、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルでプレーしていたオスカー・ロブレスが40人枠入りしたのに伴い、40人枠から外される。ウェイバー公示にかけられたが獲得を希望する球団が現れなかったためAAA級への降格を了承、再びラスベガスでプレーする。

ラスベガスでは、本塁打こそリーグ17位の22本を放つも、打率.249は規定打席を満たした選手90人のうち85位と低迷、OPS.818は打者優位の本拠地で平均OPS(投手も含む)が.798のチームにあっては平凡であった。守備ではチーム最多の20失策を記録。9月5日にAAA級のシーズンが終了。団野村との代理人契約を解除し、日本球界復帰を目指した。

オリックス時代

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2005年12月21日、分配ドラフトからドジャース入団までの間に一時在籍したオリックスへの復帰を表明[注 3]。推定年俸2億円プラス出来高払い5,000万円の単年契約。背番号は8[注 4]

2006年、「帰ってきたで」というキャッチコピーのポスターが製作され、ドラフトによる西武入団から20年ぶりに出身地である関西地方へ戻ってきた清原和博との共演が話題となるが、開幕前に右足に肉離れを起こし、4月28日に左手親指を捻挫。更に5月13日の対ヤクルト戦で木田優夫からの死球を左手首に受けて負傷。負傷した箇所をかばいながら出場している間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなる。8月11日に左肘に死球を受け途中交代するとその後は試合出場がなく[20]、日本球界復帰1年目は85試合出場、328打数、76安打、打率.232でシーズンを終える。二塁打22、本塁打12はチーム2位を記録した。9月には左手首を手術。契約交渉では中村が左手首の故障を「公傷」と主張したのに対し、球団側はそれを認めず、60%減の8,000万円(推定)の単年契約を提示された。中村はこれを戦力外通告と判断し自由契約を申し入れるが、球団はこれを認めずに交渉は長期化した[21]

2007年1月12日までに6回の契約交渉が行われるが合意に達せず、球団側は契約更改を断念。中村の退団が決定する。その後、トレードを試みるも、獲得球団はなく、1月17日に正式に自由契約選手となった。

オリックス退団後

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ようやく自由契約になったものの、この時期に獲得に動く球団はなく、各球団の春季キャンプが始まった2月1日以降も「架空のキャンプイン」と称して自主トレーニングを続ける。なお、この一件がきっかけとなり、2008年9月19日に日本プロフェッショナル野球組織日本プロ野球選手会との間で戦力外通告に関するルールが取り決められた。2月12日、中日ドラゴンズからテスト生としてのキャンプ参加を呼び掛けられ、同15日から同チームのキャンプに参加し[22][注 5]、ここで入団テストを行った。

中日時代

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中日ドラゴンズ時代
(2008年6月1日)

2007年2月25日、育成選手枠での中日入団が決定(年俸400万円)[22]。背番号は205。これは中日の育成選手が慣例として200番台を与えられることと、近鉄時代に背番号5を着用していた中村に落合博満監督が配慮したものである[22]

育成枠で中日入団を果たすとオープン戦で結果を残し、リーグ戦開幕直前の3月22日、年俸600万円[注 6]で支配下選手契約を結び、背番号も99[注 7]に変更された。開幕戦から公式戦に出場し[23]、序盤は主に6番・三塁手として出場していた[23]が、6月5日のオリックス戦(京セラドーム大阪)で右太ももを痛めた[24]ため翌日登録抹消された[25]。6月30日のヤクルト戦(秋田)から一軍に復帰[26][27]。7月5日の広島戦(ナゴヤドーム)で史上29人目の1000打点を達成した[28]

シーズン後半は故障で離脱した福留孝介の代役として3番を任された[29]ほか、9月8日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)では1年ぶりに4番で出場し[20]、8回に逆転打を放ち[20]チームを勝利に導いた[30]。9月21日の広島戦(ナゴヤドーム)では3年ぶりにサヨナラ本塁打を放った[31]。9月10日には北京オリンピックアジア予選決勝リーグ日本代表候補に選出された。同年は130試合に出場し、広角に打ち分けるバッティングで3年ぶりに規定打席に到達、打率.293(チーム3位)、4年ぶりの20本塁打(同2位)、79打点(同3位)をマークした。

クライマックスシリーズ日本シリーズでは主に5番を任された。日本シリーズでは持病の腰痛が悪化していたため鎮痛剤を射ちながら強行出場し、打率.444(18打数8安打)、4打点と活躍[32]。11月1日の第5戦にて日本一を決め、日本シリーズMVPを獲得した[32][注 1]。日本一決定後のヒーローインタビューでは男泣きを見せた[32]アジアシリーズでは帰国したタイロン・ウッズの代役として4番に起用され[33]、日本勢として3年連続の優勝に貢献した。11月29日に行われた中日との契約更新では、3月の新規契約時より733%アップ[注 8]となる年俸5,000万円の提示を受けこれを一発で了承し[34]、契約更新となった。記者会見では「契約してくれるだけでもありがたい。額を見ずに判を押すつもりだった」と述べた[34]

2008年6月15日、父の日日本メンズファッション協会・日本ファーザーズ・デイ委員会が主催する「2008年度ベスト・ファーザー イエローリボン賞」を、同年から12球団から1人ずつ選定することを受けて、中日から選出された。京セラドーム大阪でのオリックス対中日戦の試合前に行われた授賞式では、「芸能人がもらう賞だと思っていた。縁がないと思っていたので嬉しい」と大いに照れながら、近鉄・オリックス時代の元同僚・北川博敏と共に表彰された。試合直前には娘3人と記念撮影。4月14日に自身2回目のFA権を取得するが、当初FA宣言には否定的な姿勢で「そんなことより来季契約してくれるだろうか、そのことが心配です」と語っていた。FA権を再取得したことも記者に尋ねられるまではその時期にきたことを知らなかったと言っていた。5月7日から自身が出演する浜乙女のラジオCM(東海ラジオ ガッツナイターのみ)が放送開始。

同年は6月7日の日本ハム戦(ナゴヤドーム)で350号本塁打を放った[35]。6月17日の西武戦(石川県立野球場)で7回裏に大沼幸二から2ラン本塁打を放ち、通算100猛打賞を達成。また次の9回裏の打席で、元同僚の岡本真也からサヨナラソロ本塁打を放ち、通算サヨナラ本塁打記録が9本となり、王貞治若松勉を抜き歴代3位となった[36]。この年は前年を上回る140試合に出場し、打率.274と前年より下がるもホームランは24本放ち、前年同様勝負強さを見せた。11月、中日残留も視野に入れつつ「他球団からの評価も聞いてみたい」として2度目のFA権行使。11月25日に東北楽天ゴールデンイーグルスと1回目の入団交渉を行った。

楽天時代

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2008年11月29日に正式に楽天への移籍を表明(推定年俸1億5,000万円プラス出来高の2年契約)。楽天球団初のFA加入選手となった。12月5日に仙台市内で入団会見。背番号は自身の希望もあり、中日時代と同じ「99」となった。

2009年4月5日、札幌ドームでの対北海道日本ハムファイターズ戦でブライアン・スウィーニーから移籍後初本塁打。この日は4安打5打点と大当たりだったが、その後は本塁打も全く出ず打率も低調、また持病の腰痛も悪化したこともあり、6月9日から6月25日まで登録を抹消された。一軍復帰後、7月11日の対ソフトバンク戦で佐藤誠から71試合ぶりとなる本塁打を放った。シーズンの前半戦終了時、監督の野村克也は打率2割前後、わずか2本塁打という不調に低迷した中村に対し、「ノリは誤算。もう少し打つと思ったが…」と語った。その後も調子は戻らず8月3日に一軍登録を抹消されると、再登録されることなくシーズンを終えた。結局加入1年目は77試合の出場に終わり、打率.221、本塁打2本、26打点と、期待とは大きくかけ離れた成績となってしまった。

2010年序盤は調子が良く、前半はチーム打線が不調に喘いだため交流戦などでは4番を任された。一時は打率3割を記録したが、後半以降は徐々に下降。また、守備でも後半になるにつれ精彩を欠くプレーが目立つようになる。シーズン終盤には走塁中に肉離れを起こして一軍登録を抹消される。2年ぶり規定打席に到達で129試合に出場して打率.266、13本塁打、64打点の成績を残したが、10月1日に球団から戦力外通告を受けた。規定打席に到達した日本人選手がその年に球団から戦力外通告を受けるのは極めて稀なケースである。

楽天退団後

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12球団合同トライアウトには参加しなかったが、地元・大阪で自主練習をしながら他球団からのオファーを待つ形となった。2011年2月には徳島インディゴソックスの合同自主トレに参加した[37]

横浜・DeNA時代

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横浜時代(2011年)

2011年5月23日、横浜ベイスターズへの入団が発表された[38]。翌24日に球団事務所で入団会見を行った。入団の話は、前日22日に加地隆雄球団社長より電話があったことが明らかにされた[39]。背番号は中日、楽天時代と同じ「99」となった。6月8日に一軍登録され、同日の楽天戦(Kスタ)に「7番・一塁手」でスタメン出場した。6月18日、横浜スタジアムでの福岡ソフトバンクホークス戦で代打で出場し、杉内俊哉から移籍後初本塁打。この本塁打で同点に追いつき、ターメル・スレッジの本塁打でチームは勝利した。この年は当初は代打要員がメインだったが、対左投手時のスタメンや守備固めでの起用も増えた。10月13日の阪神戦(横浜スタジアム)では、急遽プロ入り初めて二塁手でスタメン出場(公式戦に二塁手としての出場はメジャー時代にあるが、この時は試合途中から二塁手を守った)した。最後まで一軍登録を抹消されることは無く、62試合に出場したが、打率.209、1本塁打、14打点の成績に終わった。

2012年読売ジャイアンツから移籍してきたアレックス・ラミレスが故障によりベンチスタートとなったため「4番・三塁手」で開幕スタメン出場。その後も主に三塁手や一塁手でスタメン出場。開幕直後から高い得点圏打率を維持し、4月15日の読売ジャイアンツ戦で、延長11回、サヨナラ本塁打を放つ。5月4日の中日戦で岩瀬仁紀から同点本塁打を打ち、史上22人目の全球団から本塁打を達成した(交流戦を除いた記録としては4人目)。2004年以来8年ぶりのオールスターにも選出され、7月20日のオールスターゲーム第1戦(京セラドーム大阪)では逆転決勝2ラン本塁打を放ち、5人目となる両リーグでのMVP獲得。後半戦開幕後も好調を維持していたが、8月15日対阪神タイガース戦において、自身の打席で盗塁をした内村賢介にベンチで注意した。だが、内村には首脳陣からグリーンライトの権利が与えられているため、中村の叱責は采配批判にあたるとして中畑清監督から厳しく注意された。さらに、翌日の試合で右肘痛を訴え、試合途中にベンチ裏に姿を消したことが造反とみなされ、一軍登録を抹消された[40][注 9]。9月4日に一軍に再登録。後半戦は数字を落とすも、チームは最下位を独走する中で126試合に出場し、2年ぶりに規定打席到達を達成。ホームランは規定打席に到達した年では最少の11本塁打に留まったが、打率.274、主軸として活躍を見せた。ゴールデングラブ賞の投票では一塁手として2票差の2位[41]

2013年は開幕カードは代打要員だったが、程なくして三塁手のレギュラーに定着[42]。5月1日のヤクルト戦(横浜スタジアム)でNPB/MLB通算2000本安打を本塁打で達成。この日米通算での2000本安打は、イチロー、松井秀喜松井稼頭央に次いで日本人選手として史上4人目の記録となったが、「日本のみで2000本を打ちたい」という本人の意向を汲んでセレモニーなどは行われなかった(「ドジャース時代の5安打は加算したくない」とも話していた。)[43]。そして5月5日、ナゴヤドームでの古巣中日戦で8回に中田賢一から左中間を破る2点二塁打を放ち、通算2162試合目で史上43人目のNPB通算2000安打を達成した[44]5球団に所属しての2000安打達成は加藤英司に次いで2人目。また、2162試合での到達は史上4番目の遅さ、39歳9か月での到達は8番目に遅い記録。ちなみに、チームメイトのラミレスも同年NPB通算2000本安打達成[注 10]。6月30日の中日戦では山本昌から先制のソロ本塁打を放ち、史上18人目の400本塁打を達成し、9回裏にはサヨナラ安打を放った[45]。最終的には122試合に出場して前年同様安定した成績を残した。

2014年アーロム・バルディリスが一軍確約契約で加入し、一塁手にはトニ・ブランコがいたため、開幕当初は一軍メンバーから外れたが、そのブランコの故障もあり、4月に一軍昇格した[46]。しかし、5月6日の対巨人戦で「チーム方針に従わない言動があった」として、登録抹消される。コーチに「自分の打席では、場面によっては走者を動かさず、打席に集中させてほしい」と相談したことが、中畑監督から采配批判とみなされた[47]。この采配批判は野村克也も「独りよがり」とあきれていた[48]。これ以降は一度も一軍に昇格することなく、10月3日に球団から戦力外通告を受けた[49]。DeNA球団は球界での実績や在籍時の貢献度が特に高かったことを改めて認め、本拠地最終戦にあたる対中日戦で引退セレモニーを提案したが、中村は現役続行への強い意思があるとして、これを拒否。最終的に13試合の出場で打率.245、10打点。日本球界では1993年以来21年ぶりとなる本塁打0を記録。12月2日に自由契約公示された[50]

日本代表

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2000年のシドニー五輪の野球競技日本代表として参加も4位に終わる。4位が決まった直後に涙した全日本のメンバーは多かったが、中村はインタビューでテレビカメラの前でも人目を憚らず号泣した。

2004年のアテネ五輪の野球競技日本代表として参加して銅メダルを獲得した。

DeNA退団後

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DeNAからの自由契約後には現役続行を表明したが、NPB加盟球団からのオファーはなかった。

2015年5月5日には、居住地の西宮市内にあるスタジオで、小学校高学年および中学生の少年少女を対象にした野球教室「N's Method(エヌズ・メソッド)」を開校。4月25日には、自身のFacebook公式アカウントで開校を報告するとともに「生涯現役選手」であることを表明した[51]。以降もNPB12球団からのオファーを待ち続けたが、支配下選手登録の期限(7月31日)までに獲得を表明する球団は現れなかった。この結果を受けて、中村は現役続行の意思が強いことを改めて表明。「まだまだチャレンジを楽しんで続けると諦めず常に挑戦する」とも明言した。

同年にはテレビ出演し、金遣いが非常に荒く、自身や夫人が述べた話によると、食事代や交際費に高額(食費は一回で50万越え、年間で2500万円以上を費やしたこともあったという)を費やし、税金が払えないため、保険を解約したことがあると告白している[52][53]

2015年11月には高知市で開かれたサンディエゴ・パドレス主催の野球教室に臨時コーチとして参加。28日には、プロ野球経験者による学生の指導に必要な学生野球資格の回復を視野に、NPB主催の大阪研修会へ参加した。研修会の終了後には、「現在野球教室で指導している小中学生が高校に進んでも、今の立場では高校へ足を踏み入れることができない。(高校時代の)恩師にも『早く来て(高校でも指導して欲しい)』と言われているので、何とか資格を回復させたい」と述べた。なお、自身の進退については、「まだ分からない」と話すにとどめている[54]

2016年には、1月11日に福岡 ヤフオク!ドームで催された名球会フェスティバルに参加。アレックス・ラミレスとのホームラン競争を2本塁打で制した。さらに、その後のセ・パ対抗試合では、最終回に投手として登板。駒田徳広を1球で左飛に打ち取った[55]

2016年1月下旬には、全日本野球協会主催の2015年度野球指導者講習会で、大久保博元と共に打撃実技指導の講師を担当。2月2日付で、日本学生野球協会から、学生野球資格回復の適性認定を受けた[56]

野球解説者としては2016年には東海ラジオゲスト解説者としても出演していた。また、2019年からは中日OBとしてJ SPORTSの解説者として活動していた。

サントリードリームマッチ2016ではザ・プレミアムモルツ球団の選手として試合に出場し、4打点を挙げる活躍をしてMVPに選ばれた。

2019年12月3日、稲葉篤紀岩村明憲金子誠(いずれも2014年限りで現役引退)とともに、野球殿堂の「プレーヤー表彰」候補者(現役引退から5年以上が経過した元選手が対象)としてノミネートされている[57]

2020年より、DAZNが特別協賛となって新設されたプロ野球最優秀バッテリー賞の月間賞において、パ・リーグの選考委員を務める[58]

元プロ野球選手・スポーツライターの高森勇旗の取材[59]によると、中村は「どんなことでもええ。俺は一生勝負し続ける。それが、生涯現役っていう意味や」と述べ、野球選手としてグラウンドに立つことのみが現役ではないとのポリシーが「生涯現役」という言葉に込められているという。

「生涯現役」が野球選手としての現役を指す意味ではない事は2018年に受けたインタビューにも現れており、プロ野球の現役復帰について、自身の運営する野球教室「N's method」での指導に集中するため、仮に球団からオファーがあっても「行かない」と明言している[60]。2021年6月に関西テレビこやぶるSPORTS超』に出演した際も「引退は自分で言う必要があるのかどうか」という葛藤があったことに合わせて改めて生涯現役を語り、「引退は死んだ時。体が動くうちはチャレンジし続けることが本来の生き方」であるといった発言をしている[61]。正式な引退の手続きを行っていないため、ルール上は以後も選手として契約することは可能である。

2024年5月28日、横浜スタジアムで行われたDeNA-楽天の試合前に行われた「交流戦SERIES2024」伝説のOB1打席対決に登場[62]

高校野球の指導者へ

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2017年4月26日、浜松開誠館高校静岡県)が、中村を同月1日付で硬式野球部の非常勤コーチに採用したことを発表した[63]。自身と同じく1991年にNPBの球団(中日ドラゴンズ)へ入った後に、同部の監督へ転じた佐野心からの打診によるもので、メジャーリーグ経験者による高校野球の指導は異例。中村は指導に必要な学生野球資格の回復を済ませていることから、月に1〜2回のペースで守備・打撃を指導する[64]ほか、同校が併設する浜松開誠館中学校の軟式野球部での指導もあわせて担当する事となった[63]

中学硬式野球の指導は浜松開誠館中学校以外でも行っており、2017年には自身主催により中学硬式野球大会「中村紀洋杯」を開催し[65]、解説者も務めた。

中日コーチ時代

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中日コーチ時代
(2023年7月29日)

2022年シーズンから中日の新監督立浪和義が就任することが決定したことに合わせて、2021年10月29日に3年契約で一軍打撃コーチを務めることが発表された[1]。これに伴い、同月限りで浜松開誠館高校の非常勤コーチを退任することとなった[66][67][68]

しかし、1年目の2022年5月23日、開幕2か月にして波留敏夫と入れ替わりで二軍打撃コーチに配置転換された[69][70]。立浪ら首脳陣との間になんらかのトラブルがあったと報道された[71]。その後、2023年も中日に在籍していたが、同年10月4日に今季限りで退団することが発表された[72]

高校野球指導者復帰

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同年12月19日に学生野球資格を再回復したため、高校野球の指導が再び可能になり[73]2024年1月より浜松開誠館高校硬式野球部のコーチに復帰し、ほぼ毎日指導を行っている[74]

選手としての特徴

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打撃

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中村紀洋のスイング(2011年)

中村の打撃フォームは、狭いスタンスでバット上段に構え足を大きく上げてタイミングを取る。平均より長い88cm(900g)のバットを使用していた[75]

ホームランを確信した後にバットを高く放り投げるスタイルは、現役時代の中畑清を意識したものだと後に明かしている[76]

5回にわたる左手首の手術の影響で左手の握力は、40kg程度になっている[77]

同じ右打者でスラッガー落合博満に憧れていた。落合が日本ハムに所属していた1997年[78]、中村の所属する近鉄との対戦時に、中村が出塁後、一塁を守る落合に「今の打席、どうでした?」と訊くと、「遅い」と一言だけ指摘を受けた。再び出塁した際も「遅い」の一言のみ。しかし、その時の中村には何が「遅い」のか理解できなかった。後にこれは「スイングの始動が遅い」という意味で、原因は「構えに入った時点で90%以上は後ろの右足に体重をかけるべきで、ピッチャーのモーションに合わせて体重を移動させていたのでは遅い」からだと理解できたという[79]

中村は「僕は近鉄時代に水谷実雄打撃コーチという恩師がいました。打撃の状態が悪い時もあります。その状況で当てにいかずに、持ち味のフルスイングを貫けたのは水谷さんの教えのおかげです。」[80]と述べている。

守備

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三塁手としてゴールデングラブ賞を7度受賞している。これは、松田宣浩の8回に次ぐNPB史上2番目の記録でもある[81]。逆シングルやイレギュラーバウンドにおけるグラブ捌きに長けている[82]。三塁手にこだわりがあり、2007年-2008年と三塁手でゴールデングラブを獲得。しかし、当時の中日・落合博満監督から「守備範囲が狭い」[83]ことを理由に、一塁へのコンバートを命じられたことが中日からFA宣言をした一因であった[84]

横浜時代の2012年には一塁手として75試合に先発したことから、一塁手でのゴールデングラブ獲得にも意欲を見せた[85]。但し、2013年にはこちらも故障を抱える左膝の負担の関係から三塁手のポジションを狙う発言もしている[86]

大阪近鉄時代には遊撃手としても出場しており、日本シリーズでも遊撃手でスタメンに入った事がある[87]。横浜時代には2試合ながら二塁手も務めた[87]。メジャーリーグ時代には少ない試合数の中で内野のポジション全てに就いている。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1992 近鉄 11 27 27 4 6 1 0 2 13 5 0 0 0 0 0 0 0 8 0 .222 .222 .481 .704
1993 8 12 9 1 1 0 0 0 1 1 0 0 0 1 2 1 0 4 0 .111 .250 .111 .361
1994 101 215 192 23 54 13 1 8 93 36 0 0 2 2 19 1 0 49 2 .281 .343 .484 .827
1995 129 528 470 62 107 19 1 20 188 64 0 1 3 1 51 1 3 92 12 .228 .307 .400 .707
1996 110 454 411 60 112 15 1 26 207 67 4 1 0 0 39 3 4 89 7 .273 .341 .504 .845
1997 128 519 455 54 109 22 3 19 194 68 3 2 2 3 54 5 5 105 13 .240 .325 .426 .751
1998 132 564 481 74 125 14 1 32 237 90 1 1 2 2 74 3 5 114 12 .260 .363 .493 .856
1999 135 601 514 83 134 23 0 31 250 95 3 0 1 3 79 0 4 116 21 .261 .362 .486 .848
2000 127 564 476 82 132 26 0 39 275 110 1 1 0 5 80 5 3 112 17 .277 .381 .578 .959
2001 140 637 525 109 168 25 0 46 331 132 3 2 0 3 104 8 4 106 26 .320 .434 .630 1.064
2002 140 602 511 87 150 27 1 42 305 115 2 1 0 0 86 10 5 136 10 .294 .400 .597 .997
2003 117 456 381 54 90 14 1 23 175 67 1 1 0 2 72 4 1 96 18 .236 .357 .459 .817
2004 105 462 387 59 106 16 1 19 181 66 0 0 0 1 73 8 1 88 13 .274 .390 .468 .857
2005 LAD 17 41 39 1 5 2 0 0 7 3 0 0 0 0 2 0 0 7 3 .128 .171 .179 .350
2006 オリックス 85 359 328 39 76 22 0 12 134 45 0 1 0 2 26 2 3 70 10 .232 .292 .409 .701
2007 中日 130 521 457 64 134 24 0 20 218 79 2 1 4 8 51 3 0 87 18 .293 .359 .477 .836
2008 140 557 493 56 135 20 0 24 227 72 0 1 10 3 50 4 1 119 11 .274 .340 .460 .800
2009 楽天 77 294 263 16 58 11 0 2 75 26 0 1 1 1 29 2 0 41 11 .221 .297 .285 .582
2010 129 521 473 51 126 23 0 13 188 64 0 1 1 2 44 2 1 84 18 .266 .329 .397 .726
2011 横浜
DeNA
62 126 115 6 24 3 1 1 32 14 0 1 0 2 9 0 0 27 1 .209 .262 .278 .540
2012 126 500 442 50 121 24 1 11 180 61 1 1 0 6 50 1 2 72 14 .274 .346 .407 .753
2013 122 473 431 37 121 19 1 14 184 61 1 0 0 5 32 1 5 66 20 .281 .334 .427 .761
2014 13 56 49 5 12 2 0 0 14 10 0 0 0 1 6 0 0 10 3 .245 .321 .286 .607
NPB:22年 2267 9048 7890 1076 2101 363 13 404 3702 1348 22 17 26 53 1030 64 47 1691 257 .266 .352 .469 .824
MLB:1年 17 41 39 1 5 2 0 0 7 3 0 0 0 0 2 0 0 7 3 .128 .171 .179 .350
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名を変更

タイトル

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表彰

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記録

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NPB

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初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1998年9月16日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(大阪ドーム)、9回裏に河本育之から中越逆転サヨナラ3ラン ※史上201人目
  • 150本塁打:2000年5月26日、対日本ハムファイターズ9回戦(大阪ドーム)、1回裏に新谷博から左越2ラン ※史上113人目
  • 200本塁打:2001年6月13日、対福岡ダイエーホークス12回戦(福岡ドーム)、7回表に吉田修司から右越ソロ ※史上72人目
  • 1000試合出場:2001年9月2日、対日本ハムファイターズ27回戦(東京ドーム)、4番・三塁手で先発出場 ※史上375人目
  • 1000安打:2002年5月29日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(大阪ドーム)、5回裏にネイサン・ミンチーから左中間へ3ラン ※史上209人目
  • 250本塁打:2002年8月18日、対西武ライオンズ21回戦(西武ドーム)、1回表に張誌家から左越2ラン[注 12] ※史上43人目
  • 1000三振:2003年7月30日、対福岡ダイエーホークス18回戦(福岡ドーム)、7回表に斉藤和巳から ※史上33人目
  • 300本塁打:2004年6月4日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(千葉マリンスタジアム)、6回表に高木晃次から右越2ラン ※史上29人目
  • 1500試合出場:2007年5月6日、対横浜ベイスターズ9回戦(ナゴヤドーム)、5番・三塁手で先発出場 ※史上151人目
  • 1000打点:2007年7月5日、対広島東洋カープ10回戦(ナゴヤドーム)、4回裏にジャレッド・フェルナンデスから左翼フェンス直撃2点適時二塁打 ※史上29人目[28]
  • 1500安打:2007年9月26日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、1回表に高橋尚成から左前安打 ※史上95人目
  • 350本塁打:2008年6月7日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に星野八千穂から左越2ラン[35] ※史上22人目
  • 100猛打賞:2008年6月17日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(石川県立野球場
  • 300二塁打:2010年5月8日、対北海道日本ハムファイターズ7回戦(函館オーシャンスタジアム)、5回表にダルビッシュ有から右翼線二塁打 ※史上55人目
  • 1500三振:2010年8月18日、対オリックス・バファローズ21回戦(スカイマークスタジアム)、5回表に近藤一樹から ※史上10人目
  • 2000試合出場:2011年10月4日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、8回裏に一塁手で出場 ※史上43人目
  • 1000得点:2012年5月20日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(横浜スタジアム)、1回裏に唐川侑己から左越2ラン ※史上38人目
  • 3500塁打:2012年9月28日、対読売ジャイアンツ戦20回戦(横浜スタジアム)、2回裏に内海哲也から右前安打 ※史上26人目
  • 1000四球:2013年4月27日、対阪神タイガース5回戦(横浜スタジアム)、6回裏に川﨑雄介から ※史上14人目
  • 2000安打:2013年5月5日、対中日ドラゴンズ9回戦(ナゴヤドーム)、8回表中田賢一から左中間2点適時二塁打 ※史上43人目
  • 350二塁打:2013年5月23日、対福岡ソフトバンクホークス2回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、2回表に大隣憲司から中越二塁打 ※史上36人目
  • 400本塁打:2013年6月30日、対中日ドラゴンズ12回戦(横浜スタジアム)、2回裏に山本昌から左越ソロ ※史上18人目
その他の記録
  • 通算満塁本塁打:14本 ※歴代3位タイ
  • 通算サヨナラ本塁打:10本 ※歴代単独3位[注 13]
  • 通算サヨナラ安打:17本 *歴代単独3位[45]
  • サイクル安打:1994年9月18日、対日本ハムファイターズ25回戦(藤井寺球場)※史上45人目、47度目
  • 代打満塁本塁打:2007年10月6日、対東京ヤクルトスワローズ24回戦(明治神宮野球場)、6回表に花田真人から
  • シーズン満塁本塁打:3本(2000年、2001年)
  • 17試合連続安打:2010年5月4日 - 5月29日
  • 5試合連続本塁打:2000年6月3日 - 6月9日 ※全て両翼100m以上の球場での達成は史上初
  • 1試合9打点:2001年5月29日、対日本ハムファイターズ10回戦(東京ドーム)
  • 1試合5四球:2003年5月3日、対日本ハムファイターズ7回戦(大阪ドーム)※リーグタイ記録
  • 1試合3本塁打:4回(1997年9月20日、2000年9月7日、2001年5月29日、2008年7月29日)
  • 3打席連続本塁打:4回(1997年9月20日、2000年9月7日、2001年9月8日 - 9月9日、2008年7月29日 - 8月3日(球宴期間明け))
    • 1997年9月20日、2000年9月7日の記録はいずれもレフト・センター・ライトに打ち分けての3打席連続本塁打で、これは史上初。
  • 同一球団40HRコンビ(2001年 近鉄ローズ55本塁打・中村46本塁打、2002年 近鉄ローズ46本塁打・中村42本塁打)
  • 全球団から本塁打[注 14]:2012年5月4日、対中日ドラゴンズ6回戦(横浜スタジアム)、9回裏に岩瀬仁紀から左越同点ソロ ※史上22人目
オールスターゲーム
  • オールスターゲーム出場:9回(1995年、1996年、1999年 - 2002年、2004年、2012年、2013年)
  • 両リーグで本塁打:史上5人目

NPB/MLB通算

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節目の記録

背番号

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  • 66(1992年 - 1996年、2005年)
  • 3(1997年 - 2000年)
  • 5(2001年 - 2004年)
  • 8(2006年)
  • 205(2007年 - 同年3月22日)
  • 99(2007年3月23日 - 2010年、2011年5月25日 - 2014年)
  • 74(2022年 - 2023年)

脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ a b c 中日の選手が日本シリーズMVPを受賞した事例は、1954年の日本シリーズMVPである杉下茂投手以来2人目(野手としては初)であり、近鉄に入団および在籍経験者が獲得した事例も史上初である。
  2. ^ 平成時代のパ・リーグ記録。
  3. ^ 中村はドジャースと2006年1月末までの契約を結んでいたため、2005年のオフに日本へ復帰するためには、ドジャースとの業務提携により中村との優先交渉権を得ていたオリックスへ入団する以外に選択肢はなかったとされている。
  4. ^ ドジャース移籍前に使用していた背番号5は清原が使用していたため、3+5=8とした。
  5. ^ その前に、MLBのミネソタ・ツインズが中村の入団テストを要請したが、中村は国内球団を強く要望していたため断った。
  6. ^ ただし、日本プロフェッショナル野球協約第89条の2の規定により、1年間出場選手登録をしたことから1,500万円となった。
  7. ^ 中村自身がかつて着けていた背番号は、当時の中日では全て主力選手(3:立浪和義、5:渡邉博幸、8:平田良介)・落合博満(66)が使用中であることや、球団と落合の方針で、一から出直すために99を着けさせた。なお、中村本人は「プロ入りした際に初めて着けた番号(66)をひっくり返したもの」と語った。
  8. ^ 日本球界歴代3位、セ・リーグでは歴代1位となる年俸アップ率。
  9. ^ 登録抹消直後は右肘痛が原因と発表された。
  10. ^ 同一チームの野手2人が同じシーズンで名球会入りとなるのは、1987年の加藤英司門田博光(ともに南海ホークス)以来となる。
  11. ^ パ・リーグのオープン戦MVP。[88]
  12. ^ 右足首痛、持病の腰痛をこらえ、52打席ぶりの一発。
  13. ^ 10本目は2012年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(新潟県立野球場)、11回裏に西村健太朗から。
  14. ^ 達成時に存在の全球団であり、自身が所属した近鉄からは記録していない。

出典

[編集]
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  3. ^ 【練習ログ更新】OBの中村紀洋さんに来訪いただきました!”. 大阪淀川リトルシニア -日本リトルシニア中学硬式野球協会 関西連盟- (2018年8月11日). 2023年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月13日閲覧。
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  6. ^ 『中日スポーツ』1991年11月23日第5版3頁「パ交渉権獲得選手」(中日新聞社)
  7. ^ 投手では物足りないが打者として魅力…「鈴木一朗」指名を具申した慧眼スカウト 中日の“課長”の野球人生」『中日スポーツ』中日新聞社、2023年2月4日。オリジナルの2023年5月22日時点におけるアーカイブ。2023年5月22日閲覧。
  8. ^ 『中日スポーツ』1991年11月6日第5版4頁「高校生(164人)」(中日新聞社)
  9. ^ 中村紀洋が中日・松坂大輔に抱く特別な思い「体がボロボロになっても名球会に入れるまで頑張ってほしい」 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2023年2月21日閲覧。
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関連項目

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外部リンク

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