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礒部公一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
礒部 公一
楽天コーチ時代
(2014年 QVCマリンフィールドにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県東広島市
生年月日 (1974-03-12) 1974年3月12日(50歳)
身長
体重
174 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手捕手
プロ入り 1996年 ドラフト3位
初出場 1997年4月9日
最終出場 2009年4月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス (2010 - 2017)
礒部 公一
YouTube
チャンネル
活動期間 2020年3月1日 -
ジャンル 野球
登録者数 約2170人
総再生回数 約7.4万回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2022年7月26日時点。
テンプレートを表示

礒部 公一(いそべ こういち、1974年3月12日 - )は、広島県東広島市出身の元プロ野球選手外野手捕手、右投左打)・コーチ野球解説者YouTuber

NPBにおける現役選手時代は1997年 - 2004年パシフィック・リーグ大阪近鉄バファローズ1998年までの球団名は「近鉄バファローズ」)で、2005年 - 2009年東北楽天ゴールデンイーグルスでそれぞれプレーした。2004年のプロ野球再編問題では、近鉄球団最後の選手会長として労使交渉に奔走[1]。楽天に移籍した2005年には初代選手会長に就任。「ミスターイーグルス」と呼ばれた[2]

経歴

アマチュア時代

東広島市立志和中学校を卒業後、高校は市内中心部の広島県立西条農業高等学校に進学。高校では主に4番捕手でチームの主将も担当した。高校3年時に第73回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦の東北高等学校戦はサヨナラ勝利、2回戦の千葉県立我孫子高等学校戦ではセンターバックスクリーンに本塁打を放つなどの活躍も6対3で敗れた。大会後、高校野球日本代表に選ばれた。

高校卒業後、三菱重工業に入社して地元の三菱重工広島に所属、主砲として活躍した。1996年の都市対抗野球ではチームを決勝に導く活躍。決勝で入来祐作擁する本田技研和光市)に敗れたが、大会の優秀選手に選ばれた。

1996年NPBドラフト会議近鉄バファローズ1999年以降の球団名は「大阪近鉄バファローズ」)から3位指名を受け、捕手として入団。ドラフト3位で指名されたが、礒部は当初オリックス・ブルーウェーブ志望であった。しかし、当時近鉄の監督を務めていた佐々木恭介ヘリコプターで近鉄の指名選手中一番先に礒部に会いに行き、その結果説得された礒部は近鉄入団を決意した。当時の背番号22

近鉄時代

入団当時の正捕手は的山哲也で、礒部は当時の近鉄に左打者が不足していたチーム事情から捕手兼外野手として一軍に定着した。しかし佐々木は礒部を外野手にコンバートさせる意向を持っており、1999年はすべて外野手または代打として130試合に出場したほか、1試合だけ試合途中から二塁手に入っている。しかし的山は打力に難があったため、2000年に監督に就任した梨田昌孝は礒部を捕手に戻すことを決断。顔面骨折による離脱もあったが捕手としては自己最多の87試合に出場した。打率.311と礒部の打力を見込んで捕手に再起用した梨田の期待に応えた一方、捕手としては強肩ではあったがスローイングに致命的な弱点があり(梨田は後に『週刊ベースボール[いつ?]のコラムの中で「捕手としての礒部は送球の際にバックステップするクセがあり、この分の時間のロスでランナーを刺せなかった」とコメントしている)、この年の盗塁阻止率は当時のプロ野球ワーストとなる.109を記録している。バックステップについては1999年に一度も捕手を守らず、外野手の癖でバックステップが身につき阻止率低下につながったのではとされている(事実1998年は阻止率が3割を超えていた)。

2001年は背番号を梨田が現役時代に着けていた8に変更し、春季キャンプで梨田自らキャッチングやスローイングの基礎から指導するなど正捕手としての期待が大きかったが、オープン戦で8回の盗塁機会を1回も刺せなかったなど守備面の向上が見られず、球団アドバイザーのトミー・ラソーダの進言を受けて梨田は礒部の捕手起用を断念し、礒部は外野手に専念することとなった。しかし守備面での負担が軽減され、打撃面が一気に開花。主に5番として打率.320、17本塁打、95打点の成績を残し、中村紀洋タフィ・ローズらとともに「いてまえ打線」の強力クリーンナップを組みチーム12年ぶりのパ・リーグ優勝に大きく貢献。リーグ1位の得点圏打率.417を記録して、この年「最強の5番打者」と言われた。また右投手より左投手からの方が打率が高かったが、ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは第1戦で左投手の石井一久に完全に抑え込まれ、結局このシリーズ無安打に終わり「逆シリーズ男」の烙印を押されてしまった。また、自身唯一のタイトルのベストナインの外野手部門にも輝いた。

2002年は登録上も捕手から外野手に変更したが、前年の日本シリーズの不振を引きずったのか、打率.270、3本塁打、30打点と低調な成績に終わった。このため、2年連続優勝を逃したフロントから「(V逸の)戦犯は、打が礒部で投が前川」と契約更改時に厳しい評価を受けた。

プロ野球再編問題

2003年、近鉄最後の選手会長となる。

2004年6月、近鉄とオリックスの合併計画が浮上。近鉄の選手会長として労使交渉、署名活動など反対運動に奔走するが、結局阻止はならなかった。近鉄の消滅が決まった時、礒部は「僕らの近鉄に対する誇りは忘れない」と涙ながらに語った。球団合併による選手分配ドラフトの際、礒部ら近鉄の一部の選手は、労使妥結の前提となった「申し合わせ」を引き合いに、近鉄を吸収する側であるオリックスのプロテクト(選手優先保有)を拒否。オリックスも、近鉄のエースであった岩隈久志投手を除いてこれを認め、新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが彼らを獲得した。結果的には岩隈も金銭トレードで新規参入球団の楽天に移籍した。この年、自己最多の26本塁打を放った。

楽天時代

2005年に楽天球団の初代選手会長・初代主将となる。開幕戦は6番・右翼手で出場した。開幕から17打席連続ノーヒットだったが、4月1日の西武ライオンズ戦(フルキャストスタジアム宮城)で1番打者として起用されると、初回に岡本篤志から球団第1号本塁打をバックスクリーンに放った。1番で起用されることが多かったが、シーズン終盤は5番に定着。オールスターではチーム唯一の出場をファン投票で果たす。第1戦で3打数2安打2打点と結果を出した。

2006年FA権を取得し、当初「優勝できるチームでプレーしたい」と行使を示唆する発言をしたが、近年の成績不振から最終的には行使せず、残留を選択。球団の選手会長の座は近鉄時代からの同僚でもある高須洋介に譲り、辞任した。

2007年シーズン序盤は不動の3番・右翼手での先発出場が多く、一時は首位打者争いにも加わったが、セ・パ交流戦以降の不振や守備の衰えから鉄平草野大輔が3番に置かれた。守備面では左翼手としてスタメンに出場したり、チームの若返り構想から守備で勝る牧田明久にスタメンを奪われることも増えた。結果的にシーズン後半は6番以降や代打で出ることが多くなった。シーズン末に出場機会を求めてFA権の行使をする動きも見られたが「野村監督を胴上げしたい」と2006年に続き残留した。ただし、野村の著書である『ああ、阪神タイガース』によると、減俸に不満を持ったため宣言をしたが単に獲得球団がなかっただけであり、そのため仕方なく残留したとのこと。野村は、礒部の宣言について自分で過大評価していると書いている。

2008年からは聖澤諒横川史学中村真人などの同じ左打ちで一定の守備力がある外野手が台頭、出場機会が大幅に減ってしまい、年俸も大幅カットされた。また、主将の座を山﨑武司に譲った。

2009年のオープン戦で3割を超える打率を残し、開幕スタメンの座を勝ち取るが結果を残せず4月20日に一軍登録を抹消。以降は一度も一軍復帰を果たせず、9月末に球団から戦力外通告を受ける。一時は現役続行を希望し、12球団合同トライアウトや他球団のオファーなどの道を模索したが、最終的には「このまま現役生活を続けるのは難しい」と判断。トライアウトを前にした11月2日に現役引退を発表[3]、同時に二軍育成コーチ(打撃担当)の就任も併せて発表された[4]。11月23日にはファン感謝祭で引退セレモニーが行われ、ファンや関係者に感謝を伝えた[5]

現役引退後

2010年には、前半戦で一軍が総得点・チーム打率ともリーグ最下位に低迷していたことを受けて、7月25日に安部理と担当を入れ替える格好で一軍打撃コーチ補佐へ異動した。

2011年も一軍打撃コーチ補佐を務めていたが、チームの不振などで、5月15日付で二軍打撃兼外野守備コーチに異動[6]2012年には、二軍打撃コーチ補佐を担当した。

2013年からは二軍外野守備走塁コーチを務めていたが、2014年6月17日付で一軍外野守備走塁コーチに異動[7]。一軍の外野守備・走塁へのテコ入れを目的にした異動で、公式戦では一塁ベースコーチを担当する[8]2015年秋からは一軍打撃コーチ。2017年10月23日に球団から退団が発表された[9]2018年からは、東日本放送東北放送仙台放送J SPORTSの野球解説者に就任。

選手としての特徴・人物

勝負強さ[10]と強打が持ち味の好打者。捕手から外野手に転向した2001年は、近鉄"いてまえ打線"の5番打者を担い、12年ぶりのペナントレース優勝に大きく貢献。その後も中心選手として活躍を続けた[11]

2004年のプロ野球再編問題を経験し、「すごく辛かった。でも、近鉄最後の選手会長としてそういう活動ができたことは、野球人としていい経験になったんじゃないかとは思う。ただ、今後はあんなことはあってはならないと思う。これからの選手たちには、自分と同じような気持ちになって欲しくない」と引退後に語っている[12]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1997 近鉄 62 147 133 15 31 7 0 0 38 6 3 2 6 2 5 0 1 23 1 .233 .262 .286 .548
1998 118 359 320 43 93 22 4 4 135 31 2 4 5 5 26 1 3 32 7 .291 .345 .422 .767
1999 130 384 336 42 78 20 0 4 110 27 1 0 16 2 26 0 4 24 11 .232 .293 .327 .621
2000 94 359 318 41 99 18 5 6 145 33 6 0 10 2 26 2 3 26 9 .311 .367 .456 .823
2001 140 604 537 82 172 42 4 17 273 95 7 7 6 5 52 1 4 59 19 .320 .381 .508 .890
2002 117 444 396 44 107 19 1 3 137 30 6 1 7 2 36 4 3 43 10 .270 .334 .346 .680
2003 135 516 444 56 128 26 3 12 196 72 9 5 8 5 55 3 4 60 17 .288 .368 .441 .810
2004 120 529 457 82 141 22 1 26 243 75 7 4 5 3 62 3 2 69 19 .309 .391 .532 .923
2005 楽天 122 534 484 65 128 22 2 16 202 51 2 6 4 2 42 1 2 100 15 .264 .325 .417 .742
2006 96 382 346 37 95 13 1 4 122 36 5 1 3 4 28 0 1 69 16 .275 .327 .353 .680
2007 123 486 441 43 122 20 2 5 161 48 5 3 5 5 33 1 2 72 16 .277 .326 .365 .691
2008 46 140 124 6 29 2 0 0 31 12 2 3 0 3 12 0 1 16 2 .234 .300 .250 .550
2009 8 21 17 0 2 0 0 0 2 1 0 0 0 1 3 0 0 3 1 .118 .238 .118 .356
通算:13年 1311 4905 4353 556 1225 233 23 97 1795 517 55 36 75 41 406 16 30 596 143 .281 .344 .412 .756

年度別守備成績


外野 二塁
























1997 17 41 3 0 0 1.000 -
1998 71 103 1 2 1 .981 -
1999 114 199 8 2 1 .990 1 0 0 0 0 -
2000 34 18 0 0 0 1.000 -
2001 140 278 5 2 2 .993 -
2002 114 190 8 0 0 1.000 -
2003 131 209 7 3 2 .986 -
2004 120 208 8 1 3 .995 -
2005 120 238 7 8 1 .968 -
2006 95 176 2 4 0 .978 -
2007 117 198 6 2 3 .990 -
2008 37 57 2 1 0 .983 -
通算 1110 1915 57 25 13 .987 1 0 0 0 0 -
捕手守備

捕手






















1997 33 121 9 0 0 1.000 18 15 3 7 .167
1998 70 254 39 2 2 .993 50 34 16 1 .320
2000 87 489 26 3 4 .994 55 49 6 3 .109
通算 190 864 74 5 6 .995 123 98 25 11 .203
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 22 (1997年 - 2000年)
  • 8 (2001年 - 2009年)
  • 83 (2010年 - 2017年)

脚注

  1. ^ 礒部 公一(3) | 著者ページ”. 東洋経済オンライン. 2021年4月13日閲覧。
  2. ^ 「楽天」スポニチ”. www.sponichi.co.jp (2009年12月10日). 2021年4月12日閲覧。
  3. ^ 礒部公一選手 現役引退について”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2009年11月2日). 2011年11月29日閲覧。[リンク切れ]
  4. ^ 新任コーチについて”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2009年11月2日). 2011年11月29日閲覧。
  5. ^ 11/23にファン感謝祭2009が開催されました!|東北楽天ゴールデンイーグルス”. 楽天イーグルス オフィシャルサイト. 2021年4月14日閲覧。
  6. ^ コーチ人事について”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011年5月15日). 2011年11月29日閲覧。
  7. ^ コーチの役職変更に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2014年6月18日). 2014年6月17日閲覧。
  8. ^ 楽天が配置転換 米村コーチ2軍へ、礒部コーチが昇格”. スポーツニッポン (2014年6月18日). 2014年6月18日閲覧。
  9. ^ 楽天礒部1軍打撃コーチの退団発表、初代選手会”. 日刊スポーツ (2017年10月23日). 2017年10月23日閲覧。
  10. ^ 球団消滅から15年― 豪快伝説、個性派集団、いてまえ打線…最後の選手会長が語る近鉄”. Full-Count(フルカウント) 野球ニュース・速報・コラム (2019年12月7日). 2021年4月12日閲覧。
  11. ^ 礒部公一 | 選手”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年4月12日閲覧。
  12. ^ 「球団消滅から15年― 豪快伝説、個性派集団、いてまえ打線…最後の選手会長が語る近鉄」 page2”. Full-Count(フルカウント) 野球ニュース・速報・コラム (2019年12月7日). 2021年4月14日閲覧。

関連項目

外部リンク