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ドン・ビュフォード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドン・ビュフォード
Don Buford
2014年8月8日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州カス郡リンデン英語版
生年月日 (1937-02-02) 1937年2月2日(87歳)
身長
体重
5' 8" =約172.7 cm
165 lb =約74.8 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手三塁手二塁手
プロ入り 1959年
初出場 MLB / 1963年9月14日
NPB / 1973年4月14日
最終出場 MLB / 1972年10月3日
NPB / 1976年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

ドナルド・アルビン・ビュフォードDonald Alvin "Don" Buford , 1937年2月2日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州カス郡リンデン英語版出身の元プロ野球選手外野手内野手)・コーチ

経歴

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南カリフォルニア大学卒業後の1959年シカゴ・ホワイトソックスに入団。5年目の1963年にメジャー昇格を果たすと、三塁手の定位置を掴む。小柄な体格ながら、左右両打席から鋭い当たりを飛ばす俊足・好打のアベレージヒッターとして活躍し、1968年ボルチモア・オリオールズへ移籍。3度のワールドシリーズ出場と1970年の世界一に貢献し、1971年にはオールスターゲーム日米野球でも活躍するなど日本のファンにも名前が知られていた。

1973年に8万ドルという当時としては破格の高年俸で太平洋クラブライオンズへ入団[1]。当初、太平洋はジム・ラフィーバーを獲得する予定であったが、ラフィーバーと個人的に親しい金田正一が監督を務めるロッテオリオンズとの争奪戦に敗れる。そのため「それ以上の選手を」と補強の目玉として声を掛けた選手がビュフォードであった。来日した時すでに36歳と高齢ではあったが、メジャーリーガーの実力を存分に発揮。1973年4月14日の開幕戦・ロッテ戦(平和台)では村田兆治から派手なサヨナラ本塁打を放ち[2]、同29日の日拓戦(後楽園)では高橋直樹金田留広から1試合2本の本塁打を放っているが、そのうちの1本はバットを真っ二つに折りながら打球を右翼席へ運んだものであった[3]。1年目から130試合フル出場で、打率.242ながら114安打を放つ勝負強さで貢献。

この頃の太平洋対ロッテ戦は遺恨試合とまでいわれ、客寄せのファンサービスとして乱闘やファンの暴動を演出したとされる。その中で、福岡市内に掲示された試合のポスターにビュフォードとロッテ・金田正一監督による乱闘シーンを描いた写真が掲載されると、市の当局から暴力を助長するという理由で、ポスターの撤去命令まで出る始末となった[4][5][6]

2年目の1974年には張本勲との首位打者争いに敗れるも打率.330(リーグ2位)でベストナインを獲得。3年目の1975年には来日後自己最多の140安打を記録し、マティ・アルーと共に山賊打線の主軸を担い、1967年以来8年ぶりのAクラス入り(3位)に貢献。

その後も日本でのプレーを希望し、1976年には野崎恒男との交換トレードで南海ホークスに移籍。外野手として1年プレーし、同年限りで現役を引退。

引退後は、ジャイアンツコーチ(1982年 - 1984年)、古巣・オリオールズベンチコーチ(1988年, 1994年)、ナショナルズ一塁ベースコーチ(2005年)を務めた。

息子のデーモン・ビュフォードは、2000年シカゴ・カブスの一員として来日している。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1963 CHW 12 48 42 9 12 1 2 0 17 5 1 0 0 1 5 0 0 72 1 .286 .354 .405 .759
1964 135 504 442 62 116 14 6 4 154 30 12 7 8 3 46 2 5 62 7 .262 .337 .348 .685
1965 155 668 586 93 166 22 5 10 228 47 17 7 6 5 67 4 4 76 6 .283 .358 .389 .747
1966 163 698 607 85 148 26 7 8 212 52 51 22 17 2 69 3 3 71 3 .244 .323 .349 .672
1967 156 609 535 61 129 10 9 4 169 32 34 21 4 4 65 3 1 51 3 .241 .322 .316 .638
1968 BAL 130 494 426 65 120 13 4 15 186 46 27 12 1 6 57 5 4 46 1 .282 .367 .437 .804
1969 144 663 554 99 161 31 3 11 231 64 19 18 3 5 96 7 5 62 5 .291 .397 .417 .814
1970 144 629 504 99 137 15 2 17 207 66 16 8 3 5 109 8 8 55 1 .272 .406 .411 .816
1971 122 549 449 99 130 19 4 19 214 54 15 7 2 2 89 15 7 62 2 .290 .413 .477 .890
1972 125 485 408 46 84 6 2 5 109 22 8 3 3 1 69 10 4 83 5 .206 .326 .267 .593
1973 太平洋 130 565 472 81 114 17 3 20 197 60 25 17 3 5 75 6 10 72 8 .242 .354 .417 .771
1974 108 453 382 55 126 16 1 14 186 43 15 8 2 1 63 4 5 39 2 .330 .430 .487 .917
1975 129 581 507 68 140 16 0 21 219 67 12 11 1 3 57 3 13 53 8 .276 .362 .432 .794
1976 南海 123 471 418 40 100 13 0 10 143 43 14 7 3 4 37 0 9 43 9 .239 .312 .342 .654
MLB:10年 1286 5347 4553 718 1203 157 44 93 1727 418 200 105 47 34 672 57 41 575 34 .264 .362 .379 .741
NPB:4年 490 2070 1779 244 480 62 4 65 745 213 66 43 9 13 232 13 37 207 27 .270 .363 .419 .782
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

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NPB

記録

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MLB
NPB

背番号

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  • 24(1963年 - 1964年)
  • 7(1965年 - 1967年)
  • 9(1968年 - 1972年、1982年 - 1983年)
  • 1(1973年 - 1975年)
  • 4(1976年)
  • 6(1984年)
  • 2(1988年)
  • 13(1994年)
  • 12(2005年)

脚注

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  1. ^ 『菊とバット』246頁
  2. ^ ベースボールマガジン』、ベースボール・マガジン社、2012年5月、91頁。 
  3. ^ 伊東一雄『メジャー・リーグ紳士録』ベースボール・マガジン社、1997年、72-73頁。ISBN 4-583-03411-3 
  4. ^ “【プロ野球仰天伝説101】出来レースと言われた遺恨だが、カネやんの怒りは本物だった【怒れる男たち】”. 週刊ベースボール. (2018年4月3日). https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180403-10 
  5. ^ “平和台球場 西鉄の本拠地、ファン暴発 選手は装甲バスで脱出”. 西日本スポーツ. (2021年3月9日). オリジナルの2021年3月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210308234631/https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/295899/ 
  6. ^ まだある!カネやん、張さんらの逸話!!愛甲猛(最終回) - YouTube

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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