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Aki no Momijigari (会話 | 投稿記録) →タイトル: 代表歴加筆 |
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{{サッカー選手 |
{{サッカー選手 |
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|名前=ピエール・リトバルスキー |
| 名前 = ピエール・リトバルスキー |
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|画像=Pierre Littbarski |
| 画像 = Pierre Littbarski - 2023141120241 2023-05-21 ZDF-Fernsehgarten - Sven - 1D X MK II - 0396 - B70I7819.jpg |
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| 画像サイズ = 220px |
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|本名= |
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| 画像の説明 = 母国マインツのイベントにて(2023年) |
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|愛称=リティ<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、50頁によれば、1.FCケルン移籍直後、チームメイトの[[ハラルト・シューマッハー]]が「名前が長すぎる」という理由でリティと呼んだのがはじまりである</ref>、スタン<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、80頁によれば、リトバルスキーとプレースタイルが似ている[[スタンリー・マシューズ]]、あるいは漫才師のスタン・ローレルに由来しており、ケルンのジャーナリストやチームメイトの中にはこの呼び名を使う者も多かった</ref> |
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| 本名 = |
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|カタカナ表記= |
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| 愛称 = リティ<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、50頁によれば、1.FCケルン移籍直後、チームメイトの[[ハラルト・シューマッハー]]が「名前が長すぎる」という理由でリティと呼んだのがはじまりである</ref>、スタン<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、80頁によれば、リトバルスキーとプレースタイルが似ている[[スタンリー・マシューズ]]、あるいは漫才師のスタン・ローレルに由来しており、ケルンのジャーナリストやチームメイトの中にはこの呼び名を使う者も多かった</ref> |
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|アルファベット表記=Pierre LITTBARSKI |
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| カタカナ表記 = |
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|原語名= |
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| アルファベット表記 = Pierre LITTBARSKI |
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|原語表記= |
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| 原語名 = |
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|国={{GER}} |
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| 原語表記 = |
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|誕生日={{生年月日と年齢|1960|4|16}} |
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| 国 = {{GER}} |
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|出身地=[[西ベルリン]][[シェーネベルク]] |
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| 誕生日 = {{生年月日と年齢|1960|4|16}} |
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|身長=168cm |
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| 出身地 = [[西ベルリン]]、[[シェーネベルク]] |
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|体重=64kg |
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| 身長 = 168cm |
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|血液型= |
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| 体重 = 64kg |
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|所属チーム名= |
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| 所属チーム名 = |
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|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]](OH)/[[フォワード (サッカー)|FW]](WG) |
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| ポジション = [[ミッドフィールダー|MF]](OH)/[[フォワード (サッカー)|FW]](WG) |
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|背番号= |
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| 背番号 = |
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|利き足=右足 |
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| 利き足 = 右足 |
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|年1=1978-1986|クラブ1={{Flagicon|GER}} [[1.FCケルン]]|出場1=234|得点1=89 |
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| ユース年1 = 1976-1978 | ユースクラブ1 = {{flagicon|BRD}} ヘルタ・ツェーレンドルフ |
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|年2=1986-1987|クラブ2={{Flagicon|FRA}} [[ラシン・クラブ・ド・フランス|ラシン・パリ]]|出場2=34|得点2=4 |
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|年 |
| 年1 = 1978-1986 | クラブ1 = {{Flagicon|BRD}} [[1.FCケルン]] |
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| 出場1 = 234 | 得点1 = 89 |
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|年 |
| 年2 = 1986-1987 | クラブ2 = {{Flagicon|FRA}} [[ラシン・クラブ・ド・フランス|RCパリ]] |
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| 出場2 = 34 | 得点2 = 4 |
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|年5=1996-1997|クラブ5={{Flagicon|JPN}} [[ベガルタ仙台|ブランメル仙台]]|出場5=29|得点5=5 |
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| 年3 = 1987-1993 | クラブ3 = {{Flagicon|GER}} [[1.FCケルン]] |
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| 出場3 = 172 | 得点3 = 27 |
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| 年4 = 1993-1994 | クラブ4 = {{Flagicon|JPN}} [[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]] |
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| 出場4 = 63 | 得点4 = 10 |
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| 年5 = 1996-1997 | クラブ5 = {{Flagicon|JPN}} [[ベガルタ仙台|ブランメル仙台]] |
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| 出場5 = 29 | 得点5 = 5 |
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|通算出場=532|通算得点=135 |
|通算出場=532|通算得点=135 |
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| 代表年1 = 1979-1982 | 代表1 = {{fbu|21|BRD|name=西ドイツ U-21}} |
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|クラブ成績更新日= |
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| 代表出場1 = 21 | 代表得点1 = 18 |
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| 代表年2 = 1980 | 代表2 = {{BRDf}} B |
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|代表成績更新日= |
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| 代表出場2 = 1 | 代表得点2 = 0 |
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|監督年1=1999-2000|監督チーム1={{Flagicon|JPN}} [[横浜FC]] |
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| 代表年3 = 1981-1990 | 代表3 = {{BRDf}} |
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|監督年2=2001-2002|監督チーム2={{Flagicon|GER}} [[MSVデュースブルク]] |
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| 代表出場3 = 73 | 代表得点3 = 18 |
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|監督年3=2003-2004|監督チーム3={{Flagicon|JPN}} 横浜FC |
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|監督年 |
| 監督年1 = 1999-2000 | 監督チーム1 = {{Flagicon|JPN}} [[横浜FC]] |
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|監督年 |
| 監督年2 = 2001-2002 | 監督チーム2 = {{Flagicon|GER}} [[MSVデュースブルク]] |
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|監督年 |
| 監督年3 = 2003-2004 | 監督チーム3 = {{Flagicon|JPN}} [[横浜FC]] |
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|監督年 |
| 監督年4 = 2005-2006 | 監督チーム4 = {{Flagicon|AUS}} [[シドニーFC]] |
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| 監督年5 = 2007-2008 | 監督チーム5 = {{Flagicon|JPN}} [[アビスパ福岡]] |
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| 監督年6 = 2008 | 監督チーム6 = {{Flagicon|IRN}} [[サイパFC]] |
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| 監督年7 = 2008-2010 | 監督チーム7 = {{Flagicon|LIE}} [[FCファドゥーツ]] |
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| クラブ成績更新日 = |
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| 代表成績更新日 = |
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'''ピエール・リトバルスキー'''<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、9頁によれば、母親がフランス風の名前を好んだためピエールという名がついた</ref>(Pierre Littbarski, [[1960年]][[4月16日]] - )は、 |
'''ピエール・リトバルスキー'''<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、9頁によれば、母親がフランス風の名前を好んだためピエールという名がついた</ref>(Pierre Littbarski, [[1960年]][[4月16日]] - )は、[[西ベルリン]]出身の[[ドイツ]]の元[[サッカー選手]]、現サッカー指導者。 |
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== 概要 == |
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[[ケルン大学]]出身。1980年代のドイツを代表するドリブラーである。1981年に[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]]に選出されると3度の[[FIFAワールドカップ]]に出場し、優勝1回(1990年の[[1990 FIFAワールドカップ|イタリアワールドカップ]])、準優勝2回(1982年の[[1982 FIFAワールドカップ|スペインワールドカップ]]、1986年の[[1986 FIFAワールドカップ|メキシコワールドカップ]])を経験した。20代後半になってからは代表で控えに回ることが多くなったが、1990年の代表引退までに73試合に出場し18得点を記録した。ドイツ代表では背番号7がトレードマークであった。また1982年の[[1982 FIFAワールドカップ|スペインワールドカップ]]では大会最多の5つのアシストをマークした<ref>[http://www.planetworldcup.com/CUPS/1982/wc82statistics.html Most Assists World Cup 1982]-planet World cup 1982</ref>。 |
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クラブでは選手生活の大半を[[1.FCケルン]]で過ごした。後年には背番号10を付けキャプテンを務め、同クラブの象徴的な存在であった。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]初年度の1993年に[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]]へ移籍し、[[ベガルタ仙台|ブランメル仙台]]と合わせて日本で4年間プレーした後に現役引退した。 |
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1999年に[[横浜FC]]初代監督に就任してチームをJリーグ昇格へと導いた。その後はドイツで指導者を務め、2005年に就任した[[シドニーFC]]ではチームを[[OFCチャンピオンズリーグ|オセアニア・クラブチャンピオンシップ]]優勝に導いた。2007年には[[アビスパ福岡]]の監督に就任したが、結果を残せずに2008年7月に解任され、その後すぐに就任した[[ペルシアン・ガルフ・プロリーグ|イランリーグ]]・[[サイパFC]]でも好成績を残せなかった。[[スーパーリーグ (スイス)|スイス・スーパーリーグ]]・[[FCファドゥーツ]]監督を経て、2010年6月から[[VfLヴォルフスブルク]]のアシスタントコーチを務め、[[2011年]]2月に[[スティーブ・マクラーレン|マクラーレン]]監督の解任に伴い、代理監督に就任、同3月に[[フェリックス・マガト|マガト]]監督就任とともに退任した。 |
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== 選手経歴 == |
== 選手経歴 == |
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=== プロデビュー前 === |
=== プロデビュー前 === |
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父親の先祖はロシアからの移民である<ref name="自伝16頁"> [[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、16頁</ref>。1960年、税務署に勤務する父親と秘書の仕事をする母親の間に、[[西ベルリン]]の{{仮リンク|シェーネベルク|de|Berlin-Schöneberg}}に生まれた<ref name="自伝16頁"></ref>。6歳か7歳の時にVfLシェーネベルクの下部組織に入団し、当時から巧みなドリブルや精度の高いフリーキックで目立つ存在であった。16歳の時にコーチとともに{{仮リンク|ヘルタ・ツェーレンドルフ|de|Hertha Zehlendorf}}の下部組織に移り、1978年に行われたユース年代の全国選手権で準優勝した。この大会の準決勝では[[1.FCケルン]]のユースチームと対戦し、彼らのマネージャーに見 |
父親の先祖はロシアからの移民である<ref name="自伝16頁"> [[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、16頁</ref>。1960年、税務署に勤務する父親と秘書の仕事をする母親の間に、[[西ベルリン]]の{{仮リンク|シェーネベルク|de|Berlin-Schöneberg}}に生まれた<ref name="自伝16頁"></ref>。6歳か7歳の時にVfLシェーネベルクの下部組織に入団し、当時から巧みなドリブルや精度の高いフリーキックで目立つ存在であった。16歳の時にコーチとともに{{仮リンク|ヘルタ・ツェーレンドルフ|de|Hertha Zehlendorf}}の下部組織に移り、1978年に行われたユース年代の全国選手権で準優勝した。この大会の準決勝では[[1.FCケルン]]のユースチームと対戦し、彼らのマネージャーに見初められて大会後に移籍金5万マルクで1.FCケルンに移籍した<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、42頁</ref>。 |
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=== 1.FCケルン時代 === |
=== 1.FCケルン時代 === |
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[[1.FCカイザースラウテルン]]とのプレシーズンマッチでデビュー |
移籍2年目の元[[サッカー日本代表]]の[[奥寺康彦]]とチームメイトになった。[[1.FCカイザースラウテルン]]とのプレシーズンマッチでデビュー。シーズンに入るとすぐさまレギュラーに定着してリーグ戦16試合に出場した。1980年10月に1.FCケルン監督に就任した[[リヌス・ミケルス]]は20歳のリトバルスキーをキャプテンに指名したが、厳格で規律を重んじる監督との間には確執が生じ、1983年に監督が退任するまで対立は続いた<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、100-104頁</ref>。 |
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1982-83シーズンの[[DFBポカール]]決勝の[[SCフォルトゥナ・ケルン]]戦では優勝を決める得点を挙げた。その後数年間はスランプに陥り、ドイツ代表の南米遠征での[[サッカーホンジュラス代表|ホンジュラス]]戦ではプロデビュー後初めてレッドカードによる退場処分を受けたが<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、121頁</ref>、1985-86シーズンの[[UEFAカップ1985-86|UEFAカップ]]では[[ハンマルビーIF]]や[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル]]を破って決勝に駒を進め、[[レアル・マドリード]]に2試合合計3-5で敗れたものの準優勝を果たした。 |
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1986年夏、フランス・[[リーグ・アン|ディヴィジオン・アン]](1部)に昇格したばかりの[[ラシン・クラブ・ド・フランス|ラシン・パリ]]に移籍したが、開幕から低迷を続けたうえにフランスの文化や習慣になじめず<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、143-148頁</ref>、わずか1年の在籍で1.FCケルンに復帰した。DF[[モアテン・オルセン]]、MF[[トーマス・ヘスラー]]、GK[[ボド・イルクナー]]などの名選手がいたチームは快進撃を続け、1988-89シーズンには30試合5ゴール11アシスト<ref>{{cite news|title =pierre-littbarski 88-89| url =https://www.kicker.de/pierre-littbarski-11822/spieler/1-bundesliga/1988-89/1-fc-koeln-16 | publisher =kicker.de| accessdate = 2020-4-16}}</ref>、1989-90シーズンには34試合8ゴール11アシストの活躍で<ref>{{cite news|title =pierre-littbarski 89-90| url =https://www.kicker.de/pierre-littbarski-11822/spieler/1-bundesliga/1989-90/1-fc-koeln-16 | publisher =kicker.de| accessdate = 2020-4-16}}</ref>、2シーズン連続して2位の好成績を収めた。 |
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1990年9月7日のトレーニング中に靭帯断裂の大怪我を負い、8か月の離脱を余儀なくされた<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、214-215頁</ref>。1991-92シーズンはチームメイトのモーリス・バナッハの事故死という悲しい出来事があったにもかかわらずリーグ戦で4位に入ったが、1992-93シーズンは[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ツヴァイテ・リーガ]](2部)降格の危機に瀕し、さらに外出禁止中に交通事故を起こして監督と衝突したため、クラブを離れる決断をした<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、232-236頁</ref>。リーグ29節の[[1.FCニュルンベルク|ニュルンベルク]]戦では2ゴールを決めて1部チームを残留に導いた<ref name=goal>{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E9%82%84%E6%9A%A6%E3%82%92%E8%BF%8E%E3%81%88%E3%81%9F%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E6%B0%8F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%84%9B%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B%E7%A7%81%E3%81%AF%E3%81%8A%E3%81%9D%E3%82%89%E3%81%8F%E5%BF%83%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A7%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%A0%E3%82%88/r67snc7id75b1aqhgwq9hpz2e|title=還暦を迎えたリトバルスキー氏、日本への愛を語る「私はおそらく心のなかでは日本人なのだよ」|work=GOAL|date=2020-4-16|access-date=2023-3-14}}</ref>。ラストシーズンは26試合3ゴール10アシストの成績を残した<ref>{{cite news|title =pierre-littbarski 92-93| url =https://www.kicker.de/pierre-littbarski-11822/spieler/1-bundesliga/1992-93/1-fc-koeln-16 | publisher =kicker.de|accessdate=2020-4-16}}</ref>。 |
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[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]での通算成績は406試合に出場して116得点<ref>{{cite news|title =pierre-littbarski| url =https://www.kicker.de/pierre-littbarski-11822/spieler/1-bundesliga/1991-92/1-fc-koeln-16 | publisher =kicker.de| accessdate = 2020-4-16}}</ref>、欧州カップ戦には53試合に出場して16得点を記録している。2万2000人の観客を集めて行われたお別れ試合にはGK[[ハラルト・シューマッハー]]、モアテン・オルセン、DF[[ギド・ブッフバルト]]、トーマス・ヘスラー、MF[[ローター・マテウス]]、FW[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]などの名選手がずらりと勢ぞろいし、試合に出場した選手と[[フランツ・ベッケンバウアー]]監督の代表キャップ数を合計すると1100にも上った<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、255頁</ref>。 |
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=== ジェフ市原 === |
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1993年、[[1.FCケルン]]との契約満了に伴い[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]]へ移籍、推定年俸は当時の外国人選手としてはリーグ第2位の2億5000万であった<ref name="number"> Sports Graphic Number 332 1994年2月3日号 p.42-43 </ref>。また、前年の1992年には[[浦和レッズ]]からオファーがあったが、断った事を明かしている<ref name=goal/><ref name="Football">{{cite news |
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|title =「私の心は明らかに日本人」 元Jリーグ大物助っ人、来日後の“変化”告白「生まれ変わった」| url =https://www.football-zone.net/archives/256909 | publisher =football-zone.net| date = 2004-12-15 | accessdate = 2020-4-16}}</ref>。契約以前に日本を訪れたことはなかったが、[[1.FCケルン]]時代にチームメイトだった[[奥寺康彦]]に「お前は前から日本人だったんだよ」と言われるリトバルスキーの性格と、控え目で秩序正しい日本人の性質がマッチし<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、294頁</ref>、「リティ」の愛称で親しまれCMにも出演するなど、創成期の[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]においてチームの中心としてはもちろんリーグを代表する看板選手となり、圧倒的な存在感を示した<ref name="number"/>。ジェフに入団するために日本にやって来た際には、約5000人のファンや大勢の報道陣が空港で待ち受けており、歓声を持って迎えられた<ref name="Football"/>。当時のJリーグは固定番号制ではなかったが、先発出場時にはドイツ代表で馴染みのある7番ではなく、必ず10番を選んでいた(後述)。なお、リトバルスキーは1993年にJリーグに在籍していた外国人選手の中で唯一、FIFAワールドカップ優勝経験がある選手である。1993年5月19日、ファーストステージ第2節の[[ヴェルディ川崎]]戦で直接FKからJリーグ初ゴールを決めた<ref>{{cite news|title =リトバルスキー| url =http://data.j-league.or.jp/SFIX04/?player_id=770 | publisher =data.j-league| accessdate = 2020-4-16}}</ref>。同年ファーストステージ、6月26日の[[横浜マリノス]]戦で決めたドリブルからの得点はJリーグ30周年ベストゴールのテクニカル部門にもノミネートされた<ref>{{cite web|url=https://www.jleague.jp/special/30th/J30bestawards/bestgoal.html|title=J30 BEST AWARDS|website=JLEAGUE|accessdate=2024-9-10}}</ref>。ファーストステージでは優勝候補のヴェルディ、マリノスに勝利するなど、一時チームは首位に立ち、加入効果は確実に表れていたが、攻撃面ではチームメートからの依存度が高まり、また疲れを見せるようになるとチームは失速、ファーストステージを5位で終えた<ref>Jサッカーグランプリ Jリーグイヤーブック1993 120-121ページ</ref>。セカンドステージ、8月7日に[[札幌厚別公園競技場]]で行われたヴェルディ川崎戦では試合には1-2と敗れたが、コーナーキックから直接ゴールを決める技術の高さを見せるなど<ref>{{cite news|title =ジェフ千葉、歴代最強外国籍選手5人。リトバルスキーにオッツェ、オシム時代の実力者たちも| url =https://www.footballchannel.jp/2020/04/21/post371324/ | publisher =footballchannel.jp| accessdate = 2020-4-21}}</ref><ref>{{cite news|title =’93JリーグNICOSシリーズ 第4節第1日| url =https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=154 | publisher =data.j-league| accessdate = 2020-4-16}}</ref>、リーグ戦35試合に出場し9得点、カップ戦は9試合に出場し2得点を挙げるなどチームの主力として活躍した。 |
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しかし、翌1994年は[[清雲栄純]]監督との対立や[[ネナド・マスロバル]]の加入もあり、チームから契約を延長しないことを告げられた<ref name=jsg> Jサッカーグランプリ 1994年10月号 p.10</ref>。これに対し「自分のプレーをこれ以上見せられなくなるのは残念だ。」とコメントを残した<ref name=jsg/>。来シーズンの契約を結ばないと通告を受けた最初の試合となる9月10日の対[[ジュビロ磐田]]戦に出場し、3得点に絡む活躍を見せマンオブザマッチに選ばれた<ref name=jsg/>。そして9月21日の[[横浜フリューゲルス]]戦に先発し、0-3と敗戦した試合を最後に<ref>{{cite news|title=94JリーグNICOSシリーズ 第12節第1日| url =https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=656 | publisher =data.j-league| accessdate = 2020-4-16}}</ref>ベンチ入りはせず、契約終了と共に現役引退を表明。引退試合として[[柏レイソル]]との[[ちばぎんカップ]]が開催された。 |
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1981年10月、[[ユップ・デアヴァル]]監督によって[[1982 FIFAワールドカップ]]欧州予選・[[サッカーオーストリア代表|オーストリア]]戦に臨む[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]に初招集され、2得点を決めて華々しいデビューを飾った。1982年にはスペインで開催された[[1982 FIFAワールドカップ]]に出場し、第1ラウンドを得失点差で勝ちあがると、[[サッカーイングランド代表|イングランド]]・[[サッカースペイン代表|スペイン]]と対戦した第2ラウンドはトップ通過した。[[ミシェル・プラティニ]]などがいた[[サッカーフランス代表|フランス]]との準決勝ではドイツの3得点すべてに絡み、17分に相手ゴールキーパーの弾いたボールを蹴りこんだ先制点のシーンは後年になってもしばしば流される映像である。この試合は両者譲らずPK戦にもつれ込んだが、GK[[ハラルト・シューマッハー]]が好セーブを連発して決勝進出を決めた。[[サッカーイタリア代表|イタリア]]との決勝戦には1-3で敗れ、自身初のFIFAワールドカップは準優勝に終わったが、[[サッカーオーストリア代表|オーストリア]]戦、スペイン戦、そしてフランス戦の活躍で世界に名を知らしめた。 |
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=== ブランメル仙台 === |
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1982-83シーズンの[[DFBポカール]]決勝の[[SCフォルトゥナ・ケルン]]戦では優勝を決める得点を挙げた。その後数年間はスランプに陥り、ドイツ代表の南米遠征での[[サッカーホンジュラス代表|ホンジュラス]]戦ではプロデビュー後初めてレッドカードによる退場処分を受けたが<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、121頁</ref>、1985-86シーズンの[[UEFAカップ1985-86|UEFAカップ]]では[[ハンマルビーIF]]や[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル]]を破って決勝に駒を進め、[[レアル・マドリード]]に2試合合計3-5で敗れたものの準優勝を果たした。メキシコで開催された[[1986 FIFAワールドカップ]]には控え選手として出場し、準々決勝の[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]戦はPK戦要員として途中出場したが、準決勝のフランス戦と決勝のアルゼンチン戦は出場することなくベンチから試合を眺めた。 |
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1996年に現役復帰して[[ジャパンフットボールリーグ]](旧JFL)の[[ベガルタ仙台|ブランメル仙台]]で<ref>{{cite news|title =リトバルスキーさんインタビュー| url =https://www.jiji.com/jc/v4?id=201606littbarski&p=201606littbarski-jpp0127525 | publisher =www.jiji.com| accessdate = 2020-4-16}}</ref>2年間プレーした。1996シーズンのリーグ戦では5ゴールを挙げただけでなく、チーム最多となる12アシストを決めた<ref> 月刊ブランメル仙台 1996 NO.23号 p.8-9</ref>。また同年の[[ジャパンフットボールリーグ|JFLオールスターサッカー]]ではMVPに選出された<ref> 月刊ブランメル仙台 1996 NO.20号 p.3-4</ref>。 |
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1997年、[[ブランコ・エルスナー]]が監督に就任、3月29日、Jリーグカップ第6節で古巣ジェフ市原と対戦、先発出場すると、FKからアシストを決め<ref> 月刊ブランメル仙台 1997 NO.28号 p.6-7</ref>、JFL開幕戦の[[NTT関東サッカー部|NTT関東]]戦にこそ先発出場したが<ref> 月刊ブランメル仙台 1997 NO.29号 p.6-7</ref>、その後は殆ど起用されず、エルスナー監督が成績不振で辞任し、[[ミロシュ・ルス]]新監督になると全く起用されず、この年限りで引退した<ref>{{cite web|url=https://www.sanspo.com/article/20180425-VAO6GF5AUVKU7FZPPHK6T63SIA/3/|title=【ベガルタ仙台魂】リトバルスキー、最終ラインでプレー世界のリティ|website=サンスポ|date=2018-4-25|accessdate=2024-3-14}}</ref>。その後、[[JFA 公認S級コーチ]]資格を取得している。 |
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1986年夏、フランス・[[リーグ・アン|ディヴィジオン・アン]](1部)に昇格したばかりの[[ラシン・クラブ・ド・フランス|ラシン・パリ]]に移籍したが、開幕から低迷を続けたうえにフランスの文化や習慣になじめず<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、143-148頁</ref>、わずか1年の在籍で1.FCケルンに復帰した。DF[[モアテン・オルセン]]、MF[[トーマス・ヘスラー]]、GK[[ボド・イルクナー]]などの名選手がいたチームは快進撃を続け、1988-89シーズンと1989-90シーズンには2シーズン連続して2位の好成績を収めた。1989年11月の[[1990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選]]・[[サッカーウェールズ代表|ウェールズ]]戦では[[フランツ・ベッケンバウアー]]監督にキャプテンに指名され、この試合で珍しくPKを失敗したが、1990年にイタリアで開催されるFIFAワールドカップの切符を手に入れた。最年長選手のひとりとして迎えた本大会はベンチから味方を鼓舞する立場だったが、アルゼンチンとの決勝では4年前の雪辱を果たして優勝杯を手にした。 |
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== 代表経歴 == |
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1990年9月7日のトレーニング中に靭帯断裂の大怪我を負い、8か月の離脱を余儀なくされた<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、214-215頁</ref>。1991-92シーズンはチームメイトのモーリス・バナッハの事故死という悲しい出来事があったにもかかわらずリーグ戦で4位に入ったが、1992-93シーズンは[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ツヴァイテ・リーガ]](2部)降格の危機に瀕し、さらに外出禁止中に交通事故を起こして監督と衝突したため、クラブを離れる決断をした<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、232-236頁</ref>。 |
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1981年10月14日に[[ユップ・デアヴァル]]監督によって[[1982 FIFAワールドカップ]]欧州予選・[[サッカーオーストリア代表|オーストリア]]戦に臨む[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]に初招集され、初出場を果たすと、2ゴールを決める華々しいデビューを飾った<ref>{{cite news | url =https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/928074 | publisher = transfermarkt.com| title =Austria-Germany Oct 141981 Match sheet| accessdate =8 April 2020}}</ref>。3度の[[FIFAワールドカップ]]に出場し、優勝1回(1990年の[[1990 FIFAワールドカップ|イタリアワールドカップ]])、準優勝2回(1982年の[[1982 FIFAワールドカップ|スペインワールドカップ]]、1986年の[[1986 FIFAワールドカップ|メキシコワールドカップ]])を経験した。1990年の代表引退までに73試合に出場し18得点を記録した。 |
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1982年の[[1982 FIFAワールドカップ|スペインワールドカップ]]では2次リーグの[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦で1ゴール1アシスト、準決勝の[[サッカーフランス代表|フランス]]戦で1ゴール1アシストの活躍でチームを決勝に導くなど<ref>{{cite news | url =https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/965882 | publisher = transfermarkt.com| title =Germany-France Jul8 1982 Match sheet| accessdate =8 April 2020}}</ref>、大会最多の5つのアシストをマークした<ref>[http://www.planetworldcup.com/CUPS/1982/wc82statistics.html Most Assists World Cup 1982]-planet World cup 1982</ref>。[[1986 FIFAワールドカップ|メキシコワールドカップ]]では5試合に出場したが、準決勝の[[サッカーフランス代表|フランス]]戦と決勝のアルゼンチン戦は出場することなくベンチから試合を眺めた。[[UEFA欧州選手権1988]]ではグループリーグの[[サッカーイタリア代表|イタリア]]戦、[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]戦でゴールを決め、準決勝に進出したが[[サッカーオランダ代表|オランダ]]に1-2と破れた<ref>{{cite news | url =https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/946327 | publisher = transfermarkt.com| title =Germany-Netherlands Jul21 1988 Match sheet| accessdate =8 April 2020}}</ref>。 |
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[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]では406試合に出場して113得点を決め、欧州カップ戦には53試合に出場して16得点を決めた。[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]としては73試合に出場して18得点し、[[FIFAワールドカップ]]に3度出場して1度の優勝と2度の準優勝という輝かしい成績を残した。2万2000人の観客を集めて行われたお別れ試合にはGK[[ハラルト・シューマッハー]]、モアテン・オルセン、DF[[ギド・ブッフバルト]]、トーマス・ヘスラー、MF[[ローター・マテウス]]、FW[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]などの名選手がずらりと勢ぞろいし、試合に出場した選手と[[フランツ・ベッケンバウアー]]監督の代表キャップ数を合計すると1100にも上った<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、255頁</ref>。 |
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1989年11月の[[1990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選]]・[[サッカーウェールズ代表|ウェールズ]]戦では[[フランツ・ベッケンバウアー]]監督にキャプテンに指名され、この試合ではPKを失敗した。[[1990 FIFAワールドカップ|イタリアワールドカップ]]ではグループリーグの[[サッカーアラブ首長国連邦代表|アラブ首長国連邦]]戦で2アシスト<ref>{{cite news | url =https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/928045 | publisher = transfermarkt.com| title =Germany-United Arab Emirates Jul15 1990 Match sheet| accessdate =8 April 2020}}</ref>、[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]戦では代表でのラストゴールとなるゴールを決め<ref>{{cite news | url =https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/928056 | publisher = transfermarkt.com| title =Germany-Colombia Jul 1990 Match sheet| accessdate =8 April 2020}}</ref>、決勝トーナメント進出に貢献、準決勝の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦のみ出場していないが、決勝の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]戦では先発フル出場を果たし優勝に貢献した<ref>{{cite news | url =https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/928085 | publisher = transfermarkt.com| title =Germany-Argentina Jul 8 1990 Match sheet| accessdate =8 April 2020}}</ref>。この試合が代表ラストマッチとなった。 |
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=== 日本での貢献 === |
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1.FCケルンとの契約が切れる1993年、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]]へ移籍した。契約以前に日本を訪れたことはなかったが、[[1.FCケルン]]時代にチームメイトだった[[奥寺康彦]]に「お前は前から日本人だったんだよ」と言われるリトバルスキーの性格と、控え目で秩序正しい日本人の性質がマッチし<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、294頁</ref>、創成期の[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]において健在振りをアピールした。なお、リトバルスキーは1993年にJリーグに在籍していた外国人選手の中で唯一、FIFAワールドカップ優勝経験がある選手である。1994年になると[[清雲栄純]]監督と激しく対立し、さらに[[ネナド・マスロバル]]の加入により後半戦はまったく出場機会がなく、1995年に現役引退を表明した。1996年に現役復帰して[[ジャパンフットボールリーグ]](旧JFL)の[[ベガルタ仙台|ブランメル仙台]]で2年間プレーした。1997年、[[JFA 公認S級コーチ]]資格を取得した。 |
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== 指導者経歴 == |
== 指導者経歴 == |
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大幅に選手を入れ替えて迎えた2008年シーズンだったが、今度は開幕から全く調子が上がらず、チームは第1クールから10位以下に低迷した。3バックに変更するなどして<ref>{{cite news |
大幅に選手を入れ替えて迎えた2008年シーズンだったが、今度は開幕から全く調子が上がらず、チームは第1クールから10位以下に低迷した。3バックに変更するなどして<ref>{{cite news |
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|title =リティ監督、猶予3試合の初戦落とした| url = |
|title =リティ監督、猶予3試合の初戦落とした| url = https://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20080512-358936.html | publisher =ニッカンスポーツ| date = 2008-07-11 | accessdate = 2010-10-27}}</ref>少しずつ調子を上向かせたものの、結局7月にヘッドコーチの[[篠田善之]]がS級ライセンスを取得した事もあり、成績不振により解任された<ref>{{cite news |
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|title =福岡がリティ監督解任、後任に篠田コーチ| url = |
|title =福岡がリティ監督解任、後任に篠田コーチ| url = https://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20080711-382414.html | publisher =ニッカンスポーツ| date = 2008-07-11 | accessdate = 2010-10-27}}</ref>。 |
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=== その後の指導者経歴 === |
=== その後の指導者経歴 === |
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2008年7月には[[イラン]]・[[サイパFC]]の監督に就任したが<ref>{{cite news |
2008年7月には[[イラン]]・[[サイパFC]]の監督に就任したが<ref>{{cite news |
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|title =リトバルスキー氏がサイパ新監督に| url = http://www.the-afc.com/jp/afc-champions-league-2009-previous-competitions/20063 | publisher = AFC公式サイト| date = 2008-07-26 | accessdate = 2010-10-27}}</ref>、国内リーグでは最下位に低迷し、就任前に決勝トーナメント進出が決まっていた[[AFCチャンピオンズリーグ2008|AFCチャンピオンズリーグ]]では |
|title =リトバルスキー氏がサイパ新監督に| url = http://www.the-afc.com/jp/afc-champions-league-2009-previous-competitions/20063 | publisher = AFC公式サイト| date = 2008-07-26 | accessdate = 2010-10-27}}</ref>、国内リーグでは最下位に低迷し、就任前に決勝トーナメント進出が決まっていた[[AFCチャンピオンズリーグ2008|AFCチャンピオンズリーグ]]では決勝トーナメント1回戦で敗退と、全く結果を残せず、就任から3か月後の10月に解任された。同年11月に[[スーパーリーグ (スイス)|スイス・スーパーリーグ]]・[[FCファドゥーツ]]の監督に就任したが<ref>{{cite news |
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|title =ファドゥーツ新監督にリトバルスキー氏| url = http://jp.uefa.com/memberassociations/association=lie/news/newsid=770201.html | publisher = UEFA.com| date = 2008-11-04 | accessdate = 2010-10-27}}</ref>、2008-09シーズンの成績から2部に降格した。[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]]の[[アイントラハト・フランクフルト]]就任の噂もあったがFCファドゥーツに残り、2009-10シーズンも同クラブで指揮をとったが、成績不振から2010年4月12日に解任された<ref>{{cite news |
|title =ファドゥーツ新監督にリトバルスキー氏| url = http://jp.uefa.com/memberassociations/association=lie/news/newsid=770201.html | publisher = UEFA.com| date = 2008-11-04 | accessdate = 2010-10-27}}</ref>、2008-09シーズンの成績から2部に降格した。[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]]の[[アイントラハト・フランクフルト]]就任の噂もあったがFCファドゥーツに残り、2009-10シーズンも同クラブで指揮をとったが、成績不振から2010年4月12日に解任された<ref>{{cite news |
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|title = Pierre Littbarski in Vaduz entlassen | url = http://bazonline.ch/sport/fussball/Pierre-Littbarski-in-Vaduz-entlassen/story/15323042 | publisher = Baz Online | date = 2010-04-12 | accessdate = 2010-10-27}}</ref>。 |
|title = Pierre Littbarski in Vaduz entlassen | url = http://bazonline.ch/sport/fussball/Pierre-Littbarski-in-Vaduz-entlassen/story/15323042 | publisher = Baz Online | date = 2010-04-12 | accessdate = 2010-10-27}}</ref>。 |
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2010年6月、ドイツ・[[VfLヴォルフスブルク]]のアシスタント・コーチに就任した<ref>{{cite news |
2010年6月、ドイツ・[[VfLヴォルフスブルク]]のアシスタント・コーチに就任した<ref>{{cite news |
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|title = リトバルスキー氏がコーチ就任 ウォルフスブルク | url = http://sankei.jp.msn.com/sports/soccer/100610/scr1006101111017-n1.htm | publisher = msn産経ニュース | date = 2010-06-10 | accessdate = 2010-10-27}}</ref>。2011年2月に前監督[[スティーブ・マクラーレン]]の解任に伴い代理監督に昇格した<ref>[http://www.vfl-wolfsburg.de/50543+M540a9dc4271.html VfL part company with Steve McClaren / Pierre Littbarski takes over] [[VfLヴォルフスブルク]]公式サイト英語版 2011.2.7付ニュースリリース</ref>。同3月に[[フェリックス・マガト|マガト]]監督就任とともに退任し、アシスタントコーチに戻った。 |
|title = リトバルスキー氏がコーチ就任 ウォルフスブルク | url = https://web.archive.org/web/20101121194653/http://sankei.jp.msn.com/sports/soccer/100610/scr1006101111017-n1.htm | publisher = msn産経ニュース | date = 2010-06-10 | accessdate = 2010-10-27}}</ref>。2011年2月に前監督[[スティーブ・マクラーレン]]の解任に伴い代理監督に昇格した<ref>[http://www.vfl-wolfsburg.de/50543+M540a9dc4271.html VfL part company with Steve McClaren / Pierre Littbarski takes over] [[VfLヴォルフスブルク]]公式サイト英語版 2011.2.7付ニュースリリース</ref>。同3月に[[フェリックス・マガト|マガト]]監督就任とともに退任し、アシスタントコーチに戻った。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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=== プレースタイル === |
=== プレースタイル === |
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170cmに満たない身長ながら、 |
170cmに満たない身長ながら、柔軟なボールタッチを生かしたドリブル突破を持ち味としていた。プレースキックも得意であり、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]]移籍後2戦目の[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]戦では25mの位置から直接フリーキックを決め、1993年にはどの選手よりも多くのフリーキックによる得点を挙げた<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、288-290頁</ref> |
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幼少期から[[ラシン・クラブ・ド・フランス|ラシン・パリ]]在籍時までは常に右ウィングまたは右サイドハーフとしてプレーしていたが、かねてより背番号10を身に着けるゲームメーカーに憧れており、1.FCケルン復帰後に初めてこのポジションでプレーする機会を得た<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、158-159頁</ref>。[[ベガルタ仙台|ブランメル仙台]]加入当初はリベロとしてもプレーした。 |
幼少期から[[ラシン・クラブ・ド・フランス|ラシン・パリ]]在籍時までは常に右ウィングまたは右サイドハーフとしてプレーしていたが、かねてより背番号10を身に着けるゲームメーカーに憧れており、1.FCケルン復帰後に初めてこのポジションでプレーする機会を得た<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、158-159頁</ref>。[[ベガルタ仙台|ブランメル仙台]]加入当初はリベロとしてもプレーした。 |
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=== 私生活 === |
=== 私生活 === |
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プロデビュー2年目の1979年、16歳の頃から付き合い早くから婚約していたドイツ人女性と結婚式を挙げた<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、68頁</ref>。1.FCケルン移籍直後はワンルームの狭い部屋で同棲していたが、結婚を機に近代的な高層マンションに移り、1.FCケルンでスター選手になってからは郊外のヴァイラースヴィストに持ち家を手に入れた<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、81頁</ref>。1982年に長女が誕生し、[[ラシン・クラブ・ド・フランス|ラシン・パリ]]時代は妻が妊娠していたこともあって途中から単身赴任の形となった。日本行きに際しても妻と2人の娘はヴァイラースヴィストにとどまったため疎遠となり<ref> [[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、320-321頁</ref>、その後に離婚した。日本で現夫人と知り合い、2男をもうけている。 |
プロデビュー2年目の1979年、16歳の頃から付き合い早くから婚約していたドイツ人女性と結婚式を挙げた<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、68頁</ref>。1.FCケルン移籍直後はワンルームの狭い部屋で同棲していたが、結婚を機に近代的な高層マンションに移り、1.FCケルンでスター選手になってからは郊外のヴァイラースヴィストに持ち家を手に入れた<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、81頁</ref>。1982年に長女が誕生し、[[ラシン・クラブ・ド・フランス|ラシン・パリ]]時代は妻が妊娠していたこともあって途中から単身赴任の形となった。日本行きに際しても妻と2人の娘はヴァイラースヴィストにとどまったため疎遠となり<ref> [[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、320-321頁</ref>、その後に離婚した。日本で現夫人と知り合い、2男をもうけている。二男の[[ルシアン・リトバルスキー|ルシアン]]は、プロサッカー選手である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/Greuther-Furth-Littbarski-20220520/bltdd49502a3adee75a |title=2部降格のフュルトが19歳の日独ハーフMFを獲得…父は日本でもプレーしたリトバルスキー氏 |website=Goal |date=2022-05-20 |accessdate=2022-11-26}}</ref>。 |
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1989年春のドイツ連邦大統領選挙の際には連邦議会の選挙人となり、[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]] (CDU) を支持していると報道されたために、CDUに反対する国民の間に過剰反応を引き起こした。新しく誕生したドイツ連邦共和国の首都問題に際して「ベルリンを首都にすることには反対だ」と答えたため、その意見に反対する者から洗濯かごいっぱいの手紙が届けられた<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、174-177頁</ref>。 |
1989年春のドイツ連邦大統領選挙の際には連邦議会の選挙人となり、[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]] (CDU) を支持していると報道されたために、CDUに反対する国民の間に過剰反応を引き起こした。新しく誕生したドイツ連邦共和国の首都問題に際して「ベルリンを首都にすることには反対だ」と答えたため、その意見に反対する者から洗濯かごいっぱいの手紙が届けられた<ref>[[#リトバルスキー1994|リトバルスキー1994]]、174-177頁</ref>。 |
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日本語が流暢であり<ref name="スポニチ"></ref>、サッカー番組のトークや解説などでは日本語で話すことが多い。[[中村俊輔]]が[[セルティックFC]]に所属していた際に[[グラスゴー]]で行われた日本のテレビ番組に出演し、[[アルシンド・サルトーリ|アルシンド]]とタッグを組んでさまざまな競技などで中村に挑戦した。アルシンドとともに(左利きの)中村に対して日本語で「右足で蹴れ」などと冷やかし、挑発に乗った中村は実際に右足で蹴った。 |
日本語が流暢であり<ref name="スポニチ"></ref>、サッカー番組のトークや解説などでは日本語で話すことが多い。[[中村俊輔]]が[[セルティックFC]]に所属していた際に[[グラスゴー]]で収録が行われた日本のテレビ番組に出演し、[[アルシンド・サルトーリ|アルシンド]]とタッグを組んでさまざまな競技などで中村に挑戦した。アルシンドとともに(左利きの)中村に対して日本語で「右足で蹴れ」などと冷やかし、挑発に乗った中村は実際に右足で蹴った。 |
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==所属クラブ== |
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=== 選手 === |
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* 1978-1986 [[1.FCケルン]] |
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* 1986-1987 [[ラシン・クラブ・ド・フランス|ラシン・クラブ・パリ / マトラ・ラシン]] |
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* 1987-1993 [[1.FCケルン]] |
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* 1993-1994 [[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]] |
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* 1996-1997 [[ベガルタ仙台|ブランメル仙台]] |
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=== 指導者 === |
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* 1999-2000 [[横浜FC]] 監督 |
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* 2001 [[バイエル・レバークーゼン]] コーチ |
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* 2001-2002 [[MSVデュースブルク]] 監督 |
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* 2003-2004 [[横浜FC]] 監督 |
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* 2005-2006 [[シドニーFC]] 監督 |
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* 2007-2008.7 [[アビスパ福岡]] 監督 |
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* 2008.7-2008.10 [[サイパFC]] 監督 |
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* 2008.11-2010.04 [[FCファドゥーツ]] 監督 |
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* 2010.6-2012 [[VfLヴォルフスブルク]] アシスタント・コーチ→代理監督 (2011.2-.3) →アシスタント・コーチ |
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== 個人成績 == |
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{{サッカー選手国内成績表 top|yy}} |
{{サッカー選手国内成績表 top|yy}} |
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{{サッカー選手国内成績表 th|ドイツ|all}} |
{{サッカー選手国内成績表 th|ドイツ|all}} |
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136行目: | 173行目: | ||
{{サッカー選手国内成績表 th|日本|all}} |
{{サッカー選手国内成績表 th|日本|all}} |
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|[[1993年のJリーグ|1993]]||rowspan="2"|[[ジェフユナイテッド市原・千葉|市原]]||-||rowspan="2"|[[日本プロサッカーリーグ|J]]||35||9|||||||||||| |
|[[1993年のJリーグ|1993]]||rowspan="2"|[[ジェフユナイテッド市原・千葉|市原]]||rowspan=2|-||rowspan="2"|[[日本プロサッカーリーグ|J]]||35||9||6||0||3||2||44||11 |
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|- |
|- |
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|[[1994年のJリーグ|1994]] |
|[[1994年のJリーグ|1994]]||28||1||2||0||0||0||30||1 |
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|- |
|- |
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|[[1996年のJFL|1996]]||rowspan="2"|[[ベガルタ仙台|B仙台]]||||rowspan="2"|[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL]]||27||5||colspan="2"|-|||||||| |
|[[1996年のJFL|1996]]||rowspan="2"|[[ベガルタ仙台|B仙台]]||rowspan=2|10||rowspan="2"|[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL]]||27||5||colspan="2"|-||3||1||30||6 |
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|- |
|- |
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|[[1997年のJFL|1997]] |
|[[1997年のJFL|1997]]||2||0||5||0||0||0||7||0 |
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{{サッカー選手国内成績表 通算始|4|ドイツ|ブンデス1部}}406||116|||||||||||| |
{{サッカー選手国内成績表 通算始|4|ドイツ|ブンデス1部}}406||116|||||||||||| |
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{{サッカー選手国内成績表 通算行|フランス|ディヴィジョン・アン}}34||4|||||||||||| |
{{サッカー選手国内成績表 通算行|フランス|ディヴィジョン・アン}}34||4|||||||||||| |
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{{サッカー選手国内成績表 通算行|日本|J}}63||10|||||||||||| |
{{サッカー選手国内成績表 通算行|日本|J}}63||10||8||0||3||2||74||12 |
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{{サッカー選手国内成績表 通算行|日本|旧JFL}}29||5|||||||||||| |
{{サッカー選手国内成績表 通算行|日本|旧JFL}}29||5||5||0||3||1||37||6 |
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{{サッカー選手国内成績表 通算終}}532||135|||||||||||| |
{{サッカー選手国内成績表 通算終}}532||135|||||||||||| |
||
|} |
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==代表歴== |
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===試合数=== |
|||
* 国際Aマッチ 73試合 18得点(1981年-1990年)<ref>{{Nfteams}}</ref> |
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{{サッカー代表個人成績|ドイツ|1}} |
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|- |
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|1981||2||3 |
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|- |
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|1982||15||5 |
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|- |
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|1983||8||0 |
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|- |
|||
|1984||3||0 |
|||
|- |
|||
|1985||10||4 |
|||
|- |
|||
|1986||7||0 |
|||
|- |
|||
|1987||6||3 |
|||
|- |
|||
|1988||8||0 |
|||
|- |
|||
|1989||4||2 |
|||
|- |
|||
|1990||10||1 |
|||
|- |
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!通算||73||18 |
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|} |
|} |
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== |
==タイトル== |
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=== |
===選手時代=== |
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;1.FCケルン |
|||
*[[DFBポカール]]: 1982-83 |
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* 1986-1987 {{Flagicon|FRA}} [[ラシン・クラブ・ド・フランス|ラシン・クラブ・パリ / マトラ・ラシン]] |
|||
;ドイツ代表 |
|||
* 1987-1993 {{Flagicon|GER}} [[1.FCケルン]] |
|||
*[[FIFAワールドカップ]]: [[1990 FIFAワールドカップ|1990]] |
|||
* 1993-1994 {{Flagicon|JPN}} [[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]] |
|||
;個人 |
|||
* 1996-1997 {{Flagicon|JPN}} [[ベガルタ仙台|ブランメル仙台]] |
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*[[キッカー (新聞)|キッカー]]誌[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]ベストイレブン:3回(1981-82、1984-85、1989-90) |
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*ドイツ年間最優秀ゴール: 1985 |
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*JFLオールスターサッカーMVP : 1996 |
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===指導者時代=== |
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;横浜FC |
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* 1999-2000 {{Flagicon|JPN}} [[横浜FC]] 監督 |
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*[[日本フットボールリーグ]]:2回([[第1回日本フットボールリーグ|1999]]、[[第2回日本フットボールリーグ|2000]]) |
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* 2001 {{Flagicon|GER}} [[バイエル・レバークーゼン]] コーチ |
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* 2001-2002 {{Flagicon|GER}} [[MSVデュースブルク]] 監督 |
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*[[シドニーFC]]殿堂入り : 2015 |
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* 2003-2004 {{Flagicon|JPN}} [[横浜FC]] 監督 |
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* 2005-2006 {{Flagicon|AUS}} [[シドニーFC]] 監督 |
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* 2007-2008.7 {{Flagicon|JPN}} [[アビスパ福岡]] 監督 |
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* 2008.7-2008.10 {{Flagicon|IRI}} [[サイパFC]] 監督 |
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* 2008.11-2010.04 {{Flagicon|LIE}} [[FCファドゥーツ]] 監督 |
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* 2010.6-2012 {{Flagicon|GER}} [[VfLヴォルフスブルク]] アシスタント・コーチ→代理監督 (2011.2-.3) →アシスタント・コーチ |
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== 著書 == |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=ピエール・リトバルスキー 、[[山際淳司]]監修|title=Litti -ピエール・リトバルスキー自伝-|publisher=同朋舎出版|year=1994|isbn=4-8104-2089-2|ref=リトバルスキー1994}} |
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== 関連項目 == |
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*[[Jリーグの外国籍選手一覧]] |
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*[[ジェフユナイテッド市原・千葉の選手一覧]] |
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== 外部リンク == |
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* [http://www.fussballdaten.de/spieler/littbarskipierre/ Career stats at fussballdaten.de] {{de icon}} |
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2024年11月16日 (土) 08:16時点における最新版
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母国マインツのイベントにて(2023年) | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | リティ[1]、スタン[2] | |||||
ラテン文字 | Pierre LITTBARSKI | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1960年4月16日(64歳) | |||||
出身地 | 西ベルリン、シェーネベルク | |||||
身長 | 168cm | |||||
体重 | 64kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF(OH)/FW(WG) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1976-1978 | ヘルタ・ツェーレンドルフ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978-1986 | 1.FCケルン | 234 | (89) | |||
1986-1987 | RCパリ | 34 | (4) | |||
1987-1993 | 1.FCケルン | 172 | (27) | |||
1993-1994 | ジェフユナイテッド市原 | 63 | (10) | |||
1996-1997 | ブランメル仙台 | 29 | (5) | |||
通算 | 532 | (135) | ||||
代表歴 | ||||||
1979-1982 | 西ドイツ U-21 | 21 | (18) | |||
1980 | 西ドイツ B | 1 | (0) | |||
1981-1990 | 西ドイツ | 73 | (18) | |||
監督歴 | ||||||
1999-2000 | 横浜FC | |||||
2001-2002 | MSVデュースブルク | |||||
2003-2004 | 横浜FC | |||||
2005-2006 | シドニーFC | |||||
2007-2008 | アビスパ福岡 | |||||
2008 | サイパFC | |||||
2008-2010 | FCファドゥーツ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ピエール・リトバルスキー[3](Pierre Littbarski, 1960年4月16日 - )は、西ベルリン出身のドイツの元サッカー選手、現サッカー指導者。
選手経歴
[編集]プロデビュー前
[編集]父親の先祖はロシアからの移民である[4]。1960年、税務署に勤務する父親と秘書の仕事をする母親の間に、西ベルリンのシェーネベルクに生まれた[4]。6歳か7歳の時にVfLシェーネベルクの下部組織に入団し、当時から巧みなドリブルや精度の高いフリーキックで目立つ存在であった。16歳の時にコーチとともにヘルタ・ツェーレンドルフの下部組織に移り、1978年に行われたユース年代の全国選手権で準優勝した。この大会の準決勝では1.FCケルンのユースチームと対戦し、彼らのマネージャーに見初められて大会後に移籍金5万マルクで1.FCケルンに移籍した[5]。
1.FCケルン時代
[編集]移籍2年目の元サッカー日本代表の奥寺康彦とチームメイトになった。1.FCカイザースラウテルンとのプレシーズンマッチでデビュー。シーズンに入るとすぐさまレギュラーに定着してリーグ戦16試合に出場した。1980年10月に1.FCケルン監督に就任したリヌス・ミケルスは20歳のリトバルスキーをキャプテンに指名したが、厳格で規律を重んじる監督との間には確執が生じ、1983年に監督が退任するまで対立は続いた[6]。
1982-83シーズンのDFBポカール決勝のSCフォルトゥナ・ケルン戦では優勝を決める得点を挙げた。その後数年間はスランプに陥り、ドイツ代表の南米遠征でのホンジュラス戦ではプロデビュー後初めてレッドカードによる退場処分を受けたが[7]、1985-86シーズンのUEFAカップではハンマルビーIFやスポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルを破って決勝に駒を進め、レアル・マドリードに2試合合計3-5で敗れたものの準優勝を果たした。
1986年夏、フランス・ディヴィジオン・アン(1部)に昇格したばかりのラシン・パリに移籍したが、開幕から低迷を続けたうえにフランスの文化や習慣になじめず[8]、わずか1年の在籍で1.FCケルンに復帰した。DFモアテン・オルセン、MFトーマス・ヘスラー、GKボド・イルクナーなどの名選手がいたチームは快進撃を続け、1988-89シーズンには30試合5ゴール11アシスト[9]、1989-90シーズンには34試合8ゴール11アシストの活躍で[10]、2シーズン連続して2位の好成績を収めた。
1990年9月7日のトレーニング中に靭帯断裂の大怪我を負い、8か月の離脱を余儀なくされた[11]。1991-92シーズンはチームメイトのモーリス・バナッハの事故死という悲しい出来事があったにもかかわらずリーグ戦で4位に入ったが、1992-93シーズンはツヴァイテ・リーガ(2部)降格の危機に瀕し、さらに外出禁止中に交通事故を起こして監督と衝突したため、クラブを離れる決断をした[12]。リーグ29節のニュルンベルク戦では2ゴールを決めて1部チームを残留に導いた[13]。ラストシーズンは26試合3ゴール10アシストの成績を残した[14]。
ブンデスリーガでの通算成績は406試合に出場して116得点[15]、欧州カップ戦には53試合に出場して16得点を記録している。2万2000人の観客を集めて行われたお別れ試合にはGKハラルト・シューマッハー、モアテン・オルセン、DFギド・ブッフバルト、トーマス・ヘスラー、MFローター・マテウス、FWカール=ハインツ・ルンメニゲなどの名選手がずらりと勢ぞろいし、試合に出場した選手とフランツ・ベッケンバウアー監督の代表キャップ数を合計すると1100にも上った[16]。
ジェフ市原
[編集]1993年、1.FCケルンとの契約満了に伴いジェフユナイテッド市原へ移籍、推定年俸は当時の外国人選手としてはリーグ第2位の2億5000万であった[17]。また、前年の1992年には浦和レッズからオファーがあったが、断った事を明かしている[13][18]。契約以前に日本を訪れたことはなかったが、1.FCケルン時代にチームメイトだった奥寺康彦に「お前は前から日本人だったんだよ」と言われるリトバルスキーの性格と、控え目で秩序正しい日本人の性質がマッチし[19]、「リティ」の愛称で親しまれCMにも出演するなど、創成期のJリーグにおいてチームの中心としてはもちろんリーグを代表する看板選手となり、圧倒的な存在感を示した[17]。ジェフに入団するために日本にやって来た際には、約5000人のファンや大勢の報道陣が空港で待ち受けており、歓声を持って迎えられた[18]。当時のJリーグは固定番号制ではなかったが、先発出場時にはドイツ代表で馴染みのある7番ではなく、必ず10番を選んでいた(後述)。なお、リトバルスキーは1993年にJリーグに在籍していた外国人選手の中で唯一、FIFAワールドカップ優勝経験がある選手である。1993年5月19日、ファーストステージ第2節のヴェルディ川崎戦で直接FKからJリーグ初ゴールを決めた[20]。同年ファーストステージ、6月26日の横浜マリノス戦で決めたドリブルからの得点はJリーグ30周年ベストゴールのテクニカル部門にもノミネートされた[21]。ファーストステージでは優勝候補のヴェルディ、マリノスに勝利するなど、一時チームは首位に立ち、加入効果は確実に表れていたが、攻撃面ではチームメートからの依存度が高まり、また疲れを見せるようになるとチームは失速、ファーストステージを5位で終えた[22]。セカンドステージ、8月7日に札幌厚別公園競技場で行われたヴェルディ川崎戦では試合には1-2と敗れたが、コーナーキックから直接ゴールを決める技術の高さを見せるなど[23][24]、リーグ戦35試合に出場し9得点、カップ戦は9試合に出場し2得点を挙げるなどチームの主力として活躍した。
しかし、翌1994年は清雲栄純監督との対立やネナド・マスロバルの加入もあり、チームから契約を延長しないことを告げられた[25]。これに対し「自分のプレーをこれ以上見せられなくなるのは残念だ。」とコメントを残した[25]。来シーズンの契約を結ばないと通告を受けた最初の試合となる9月10日の対ジュビロ磐田戦に出場し、3得点に絡む活躍を見せマンオブザマッチに選ばれた[25]。そして9月21日の横浜フリューゲルス戦に先発し、0-3と敗戦した試合を最後に[26]ベンチ入りはせず、契約終了と共に現役引退を表明。引退試合として柏レイソルとのちばぎんカップが開催された。
ブランメル仙台
[編集]1996年に現役復帰してジャパンフットボールリーグ(旧JFL)のブランメル仙台で[27]2年間プレーした。1996シーズンのリーグ戦では5ゴールを挙げただけでなく、チーム最多となる12アシストを決めた[28]。また同年のJFLオールスターサッカーではMVPに選出された[29]。
1997年、ブランコ・エルスナーが監督に就任、3月29日、Jリーグカップ第6節で古巣ジェフ市原と対戦、先発出場すると、FKからアシストを決め[30]、JFL開幕戦のNTT関東戦にこそ先発出場したが[31]、その後は殆ど起用されず、エルスナー監督が成績不振で辞任し、ミロシュ・ルス新監督になると全く起用されず、この年限りで引退した[32]。その後、JFA 公認S級コーチ資格を取得している。
代表経歴
[編集]1981年10月14日にユップ・デアヴァル監督によって1982 FIFAワールドカップ欧州予選・オーストリア戦に臨むドイツ代表に初招集され、初出場を果たすと、2ゴールを決める華々しいデビューを飾った[33]。3度のFIFAワールドカップに出場し、優勝1回(1990年のイタリアワールドカップ)、準優勝2回(1982年のスペインワールドカップ、1986年のメキシコワールドカップ)を経験した。1990年の代表引退までに73試合に出場し18得点を記録した。
1982年のスペインワールドカップでは2次リーグのスペイン戦で1ゴール1アシスト、準決勝のフランス戦で1ゴール1アシストの活躍でチームを決勝に導くなど[34]、大会最多の5つのアシストをマークした[35]。メキシコワールドカップでは5試合に出場したが、準決勝のフランス戦と決勝のアルゼンチン戦は出場することなくベンチから試合を眺めた。UEFA欧州選手権1988ではグループリーグのイタリア戦、デンマーク戦でゴールを決め、準決勝に進出したがオランダに1-2と破れた[36]。
1989年11月の1990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選・ウェールズ戦ではフランツ・ベッケンバウアー監督にキャプテンに指名され、この試合ではPKを失敗した。イタリアワールドカップではグループリーグのアラブ首長国連邦戦で2アシスト[37]、コロンビア戦では代表でのラストゴールとなるゴールを決め[38]、決勝トーナメント進出に貢献、準決勝のイングランド戦のみ出場していないが、決勝のアルゼンチン戦では先発フル出場を果たし優勝に貢献した[39]。この試合が代表ラストマッチとなった。
指導者経歴
[編集]現役引退後は指導者の道へ進み、1999年には誕生したばかりの横浜FC初代監督に就任した。2年連続でJFL優勝を果たし、横浜FCをJリーグに導いた。ここで一旦退任し、ドイツ・ブンデスリーガでコーチ・監督を経験し、2003年と2004年には再び横浜FCを率いたが、このときは目立った成績を残せず退任した。2004年12月にはヴィッセル神戸監督就任が決定的だと報じられたが[40]、2005年からはオーストラリアサッカープロリーグのシドニーFCを指揮し、同年のオセアニア・クラブチャンピオンシップ優勝に導き、チームはFIFAクラブワールドカップに出場した。
アビスパ福岡監督時代
[編集]2007年より、J2に降格したばかりのアビスパ福岡の監督としてJリーグに復帰した[41]。1年でのJ1復帰を至上命令として臨み[42]、第1クールを首位で折り返すなど序盤は快調に勝利を重ねたが、中盤以降負けが増えだすとチームを立て直すことができず、昇格争いに戻ることの出来ないまま7位でシーズンを終えた。このシーズン終了後、福岡は主力を含む選手16人(登録メンバー31人の過半数)を戦力外にする大改革を行ったが、これには選手とリトバルスキーの確執が大きく絡んでいたとされる。
大幅に選手を入れ替えて迎えた2008年シーズンだったが、今度は開幕から全く調子が上がらず、チームは第1クールから10位以下に低迷した。3バックに変更するなどして[43]少しずつ調子を上向かせたものの、結局7月にヘッドコーチの篠田善之がS級ライセンスを取得した事もあり、成績不振により解任された[44]。
その後の指導者経歴
[編集]2008年7月にはイラン・サイパFCの監督に就任したが[45]、国内リーグでは最下位に低迷し、就任前に決勝トーナメント進出が決まっていたAFCチャンピオンズリーグでは決勝トーナメント1回戦で敗退と、全く結果を残せず、就任から3か月後の10月に解任された。同年11月にスイス・スーパーリーグ・FCファドゥーツの監督に就任したが[46]、2008-09シーズンの成績から2部に降格した。ドイツ・ブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルト就任の噂もあったがFCファドゥーツに残り、2009-10シーズンも同クラブで指揮をとったが、成績不振から2010年4月12日に解任された[47]。
2010年6月、ドイツ・VfLヴォルフスブルクのアシスタント・コーチに就任した[48]。2011年2月に前監督スティーブ・マクラーレンの解任に伴い代理監督に昇格した[49]。同3月にマガト監督就任とともに退任し、アシスタントコーチに戻った。
人物
[編集]プレースタイル
[編集]170cmに満たない身長ながら、柔軟なボールタッチを生かしたドリブル突破を持ち味としていた。プレースキックも得意であり、ジェフユナイテッド市原移籍後2戦目のヴェルディ川崎戦では25mの位置から直接フリーキックを決め、1993年にはどの選手よりも多くのフリーキックによる得点を挙げた[50]
幼少期からラシン・パリ在籍時までは常に右ウィングまたは右サイドハーフとしてプレーしていたが、かねてより背番号10を身に着けるゲームメーカーに憧れており、1.FCケルン復帰後に初めてこのポジションでプレーする機会を得た[51]。ブランメル仙台加入当初はリベロとしてもプレーした。
私生活
[編集]プロデビュー2年目の1979年、16歳の頃から付き合い早くから婚約していたドイツ人女性と結婚式を挙げた[52]。1.FCケルン移籍直後はワンルームの狭い部屋で同棲していたが、結婚を機に近代的な高層マンションに移り、1.FCケルンでスター選手になってからは郊外のヴァイラースヴィストに持ち家を手に入れた[53]。1982年に長女が誕生し、ラシン・パリ時代は妻が妊娠していたこともあって途中から単身赴任の形となった。日本行きに際しても妻と2人の娘はヴァイラースヴィストにとどまったため疎遠となり[54]、その後に離婚した。日本で現夫人と知り合い、2男をもうけている。二男のルシアンは、プロサッカー選手である[55]。
1989年春のドイツ連邦大統領選挙の際には連邦議会の選挙人となり、キリスト教民主同盟 (CDU) を支持していると報道されたために、CDUに反対する国民の間に過剰反応を引き起こした。新しく誕生したドイツ連邦共和国の首都問題に際して「ベルリンを首都にすることには反対だ」と答えたため、その意見に反対する者から洗濯かごいっぱいの手紙が届けられた[56]。
日本語が流暢であり[42]、サッカー番組のトークや解説などでは日本語で話すことが多い。中村俊輔がセルティックFCに所属していた際にグラスゴーで収録が行われた日本のテレビ番組に出演し、アルシンドとタッグを組んでさまざまな競技などで中村に挑戦した。アルシンドとともに(左利きの)中村に対して日本語で「右足で蹴れ」などと冷やかし、挑発に乗った中村は実際に右足で蹴った。
所属クラブ
[編集]選手
[編集]- 1978-1986 1.FCケルン
- 1986-1987 ラシン・クラブ・パリ / マトラ・ラシン
- 1987-1993 1.FCケルン
- 1993-1994 ジェフユナイテッド市原
- 1996-1997 ブランメル仙台
指導者
[編集]- 1999-2000 横浜FC 監督
- 2001 バイエル・レバークーゼン コーチ
- 2001-2002 MSVデュースブルク 監督
- 2003-2004 横浜FC 監督
- 2005-2006 シドニーFC 監督
- 2007-2008.7 アビスパ福岡 監督
- 2008.7-2008.10 サイパFC 監督
- 2008.11-2010.04 FCファドゥーツ 監督
- 2010.6-2012 VfLヴォルフスブルク アシスタント・コーチ→代理監督 (2011.2-.3) →アシスタント・コーチ
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
1978-79 | 1.FCケルン | ブンデス1部 | 16 | 4 | |||||||
1979-80 | 34 | 7 | |||||||||
1980-81 | 32 | 6 | |||||||||
1981-82 | 33 | 15 | |||||||||
1982-83 | 34 | 16 | |||||||||
1983-84 | 33 | 17 | |||||||||
1984-85 | 28 | 16 | |||||||||
1985-86 | 24 | 8 | |||||||||
フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
1986-87 | ラシン・パリ | ディヴィジオン・アン | 32 | 4 | |||||||
1987-88 | マトラ・ラシン | 2 | 0 | ||||||||
ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
1987-88 | 1.FCケルン | ブンデス1部 | 31 | 8 | |||||||
1988-89 | 30 | 5 | |||||||||
1989-90 | 34 | 8 | |||||||||
1990-91 | 15 | 2 | |||||||||
1991-92 | 36 | 1 | |||||||||
1992-93 | 26 | 3 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1993 | 市原 | - | J | 35 | 9 | 6 | 0 | 3 | 2 | 44 | 11 |
1994 | 28 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 30 | 1 | |||
1996 | B仙台 | 10 | 旧JFL | 27 | 5 | - | 3 | 1 | 30 | 6 | |
1997 | 2 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | |||
通算 | ドイツ | ブンデス1部 | 406 | 116 | |||||||
フランス | ディヴィジョン・アン | 34 | 4 | ||||||||
日本 | J | 63 | 10 | 8 | 0 | 3 | 2 | 74 | 12 | ||
日本 | 旧JFL | 29 | 5 | 5 | 0 | 3 | 1 | 37 | 6 | ||
総通算 | 532 | 135 |
代表歴
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 73試合 18得点(1981年-1990年)[57]
ドイツ代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1981 | 2 | 3 |
1982 | 15 | 5 |
1983 | 8 | 0 |
1984 | 3 | 0 |
1985 | 10 | 4 |
1986 | 7 | 0 |
1987 | 6 | 3 |
1988 | 8 | 0 |
1989 | 4 | 2 |
1990 | 10 | 1 |
通算 | 73 | 18 |
タイトル
[編集]選手時代
[編集]- 1.FCケルン
- DFBポカール: 1982-83
- ドイツ代表
- 個人
指導者時代
[編集]- 横浜FC
- 日本フットボールリーグ:2回(1999、2000)
- 個人
- シドニーFC殿堂入り : 2015
著書
[編集]- 『Litti -ピエール・リトバルスキー自伝-』山際淳司監修、同朋舎出版、1994年
脚注
[編集]- ^ リトバルスキー1994、50頁によれば、1.FCケルン移籍直後、チームメイトのハラルト・シューマッハーが「名前が長すぎる」という理由でリティと呼んだのがはじまりである
- ^ リトバルスキー1994、80頁によれば、リトバルスキーとプレースタイルが似ているスタンリー・マシューズ、あるいは漫才師のスタン・ローレルに由来しており、ケルンのジャーナリストやチームメイトの中にはこの呼び名を使う者も多かった
- ^ リトバルスキー1994、9頁によれば、母親がフランス風の名前を好んだためピエールという名がついた
- ^ a b リトバルスキー1994、16頁
- ^ リトバルスキー1994、42頁
- ^ リトバルスキー1994、100-104頁
- ^ リトバルスキー1994、121頁
- ^ リトバルスキー1994、143-148頁
- ^ “pierre-littbarski 88-89”. kicker.de 2020年4月16日閲覧。
- ^ “pierre-littbarski 89-90”. kicker.de 2020年4月16日閲覧。
- ^ リトバルスキー1994、214-215頁
- ^ リトバルスキー1994、232-236頁
- ^ a b “還暦を迎えたリトバルスキー氏、日本への愛を語る「私はおそらく心のなかでは日本人なのだよ」”. GOAL (2020年4月16日). 2023年3月14日閲覧。
- ^ “pierre-littbarski 92-93”. kicker.de 2020年4月16日閲覧。
- ^ “pierre-littbarski”. kicker.de 2020年4月16日閲覧。
- ^ リトバルスキー1994、255頁
- ^ a b Sports Graphic Number 332 1994年2月3日号 p.42-43
- ^ a b “「私の心は明らかに日本人」 元Jリーグ大物助っ人、来日後の“変化”告白「生まれ変わった」”. football-zone.net. (2004年12月15日) 2020年4月16日閲覧。
- ^ リトバルスキー1994、294頁
- ^ “リトバルスキー”. data.j-league 2020年4月16日閲覧。
- ^ “J30 BEST AWARDS”. JLEAGUE. 2024年9月10日閲覧。
- ^ Jサッカーグランプリ Jリーグイヤーブック1993 120-121ページ
- ^ “ジェフ千葉、歴代最強外国籍選手5人。リトバルスキーにオッツェ、オシム時代の実力者たちも”. footballchannel.jp 2020年4月21日閲覧。
- ^ “’93JリーグNICOSシリーズ 第4節第1日”. data.j-league 2020年4月16日閲覧。
- ^ a b c Jサッカーグランプリ 1994年10月号 p.10
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- ^ リトバルスキー1994、174-177頁
- ^ ピエール・リトバルスキー - National-Football-Teams.com
参考文献
[編集]- ピエール・リトバルスキー 、山際淳司監修『Litti -ピエール・リトバルスキー自伝-』同朋舎出版、1994年。ISBN 4-8104-2089-2。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ピエール・リトバルスキー - National-Football-Teams.com
- ピエール・リトバルスキー - Soccerway.com
- ピエール・リトバルスキー - FootballDatabase.eu
- ピエール・リトバルスキー - WorldFootball.net
- ピエール・リトバルスキー - Transfermarkt.comによる選手データ
- ピエール・リトバルスキー - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ピエール・リトバルスキー - FIFA主催大会成績
- ピエール・リトバルスキー - J.League Data Siteによる選手データ
- ピエール・リトバルスキー - J.League Data Siteによる監督データ
- ピエール・リトバルスキー - playmakerstats.com