アルシンド・サルトーリ
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2011年3月、クリチバにて | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
アルシンド・サルトーリ Alcindo Sartori | |||||
ラテン文字 | ALCINDO Sartori | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1967年10月21日(57歳) | |||||
出身地 | メジアネイラ | |||||
身長 | 175cm | |||||
体重 | 77kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1986-1990 | フラメンゴ | 212 | (32) | |||
1990 | サンパウロ | 14 | (1) | |||
1991-1993 | グレミオ | 60 | (18) | |||
1993-1994 | 鹿島アントラーズ | 71 | (50) | |||
1995 | ヴェルディ川崎 | 38 | (19) | |||
1996 | コンサドーレ札幌 | 5 | (1) | |||
1996 | コリンチャンス | 12 | (2) | |||
1996 | フルミネンセ | 2 | (2) | |||
1997 | ヴェルディ川崎 | 16 | (10) | |||
1998 | フルミネンセ | |||||
1999 | カボフリエンセ | |||||
2000 | CFZ・ド・リオ | |||||
通算 | 430 | (135) | ||||
代表歴 | ||||||
1987 | ブラジルU-20 | |||||
監督歴 | ||||||
2015- | フォス・カタラタス | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アルシンド(Alcindo Sartori, 1967年10月21日 - )は、ブラジル・パラナ州メジアネイラ出身の元サッカー選手。サッカー指導者。ポジションはフォワード。
日本サッカー界時代は河童頭の若禿の選手として話題を集めた。
長男のイゴールもサッカー選手で2011年には鹿島アントラーズに所属。鹿島アントラーズで親子2代の外国籍選手は史上初。
来歴
[編集]CRフラメンゴの下部組織で育ち、1986年にトップデビューした。フラメンゴではジーコやジュニオールと共にプレーした。フラメンゴではポジションを得られず、1987年にフラメンゴがコパ・ウニオンを制覇した際には、ベベットやレナト・ガウショの控えとなった。
1987年にはU-20ブラジル代表の一員としてFIFAワールドユース選手権に出場。4試合すべてに出場して2得点を挙げている。
1990年にCRフラメンゴを離れ、サンパウロへ移籍した。しかし、サンパウロでのキャリアは非常に短く、翌年にはグレミオに移った。
グレミオで2シーズンを過ごした後、鹿島アントラーズが負傷離脱した石井正忠のポジションを出来る選手を鹿島が探していたことから[1]、ジーコから直に誘われ[2]、1993年に新たに設立された日本のプロサッカーリーグ、Jリーグのアントラーズに移籍。中盤の左サイドでの起用が想定されて入団したが、FWとして起用されることとなった[1]。開幕戦の名古屋グランパスエイト戦では2得点を挙げ、更にジーコのゴールをアシストして勝利した[3]。6月19日には再び対戦したグランパスエイトに対しハットトリックを記録するなど[4]、ゴールを量産。ジーコが負傷離脱した中、サントスと共にサントリーシリーズ優勝の原動力となった。また、プレーのみならず、独特の風貌も注目を集め、テレビ出演やコマーシャル出演するなど一躍時の人となった[5]。1994年のチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗れたが、この時挙げたゴールを自身のベストゴールの一つに挙げた[6]。鹿島では71試合の出場で50ゴールを記録した。
しかし、契約更新の際、金銭面の問題を巡ってフロントと対立し、ヴェルディ川崎へと移籍した[3]。V川崎に移籍して1シーズン目は19得点を記録、セカンドステージ優勝をしたものの、V川崎でも契約更新の際、金銭面の問題を巡って1年で退団[3]。翌1996年はジャパンフットボールリーグのコンサドーレ札幌へ移籍した。しかし、4月28日の富士通川崎戦で判定を不服とし審判に対し15回に渡って「バカ」と罵倒、4試合の出場停止処分を受け、さらに6月9日の大塚製薬戦で再び退場処分を受けると、その責任を感じ同チームを退団[3]。コリンチャンスへ移籍した。翌1997年、再びヴェルディ川崎に戻り、その年は出場16試合で10得点した[3]。
キャリアの終盤には、カボフリエンセとジーコが設立したCFZでプレーした。
引退後はブラジルに帰国し、父の農場経営を引き継いだ[7]。
2015年2月、ブラジル女子サッカーチームのフォス・カタラタスの監督に就任した [8]。
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1986 | フラメンゴ | ||||||||||
1987 | |||||||||||
1988 | |||||||||||
1989 | |||||||||||
1990 | |||||||||||
1991 | サンパウロ | ||||||||||
1992 | グレミオ | ||||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1993 | 鹿島 | - | J | 28 | 22 | 5 | 2 | 5 | 3 | 38 | 27 |
1994 | 43 | 28 | 1 | 0 | 0 | 0 | 44 | 28 | |||
1995 | V川崎 | 38 | 19 | - | 2 | 1 | 40 | 20 | |||
1996 | 札幌 | 11 | 旧JFL | 5 | 1 | - | - | 5 | 1 | ||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1996 | コリンチャンス | ||||||||||
1997 | フルミネンセ | ||||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1997 | V川崎 | 21 | J | 16 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 | 10 |
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1998 | フルミネンセ | ||||||||||
1999 | カボフリエンセ | ||||||||||
2000 | CFZ | ||||||||||
通算 | ブラジル | ||||||||||
日本 | J | 125 | 79 | 6 | 2 | 7 | 4 | 138 | 85 | ||
日本 | 旧JFL | 5 | 1 | - | - | 5 | 1 | ||||
総通算 |
その他の公式戦
- 1993年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 1995年
タイトル
[編集]- CRフラメンゴ
- リオデジャネイロ州選手権:1回(1986)
- グアナバラ杯:2回(1988、1989)
- リオ杯:1回(1986)
- リオデジャネイロスポーツ記者協会杯:1回(1986)
- リンフィールドFC百周年杯:1回(1986)
- コパ・ウニオン、モドゥロ・ヴェルデ:1回(1987)
- Taça Euzebio de Andrade:1回(1987)
- Torneio EL Gabón:1回(1987)
- Torneio Internacional de Angola:1回(1987)
- Troféu João Havelange:1回(1987)
- Taça Governador Jader Ribeiro:1回(1988)
- トロフェオ・コロンビーノ:1回(1988)
- キリンカップ:1回(1988)
- Copa Porto de Hamburgo:1回(1988)
- Troféu Classico das Multidoes:1回(1989)
- Troféu Seis Anos da Rede Manchetes de Televisão:1回(1989)
- マールボロ・カップ:1回(1990)
- コパ・ド・ブラジル:1回(1990)
- Torneio de Verão de Nova Friburgo:1回(1990)
- Taça Associação dos Cronistas Esportivos de Sergipe:1回(1990)
- Copa Sharp:1回(1990)
- Torneio Quadrangular de Varginha:1回(1990)
- グレミオFBPA
- カンピオナート・ガウショ:1回(1993)
- 鹿島アントラーズ
- ヴェルディ川崎
- XEROX SUPER CUP:1回(1995)
- SCコリンチャンス・パウリスタ
- ラモン・デ・カランサ杯:1回(1996)
- フルミネンセFC
- Copa Rio de Janeiro:1回(1998)
- 個人
- 鹿島アントラーズ功労賞(2013)
エピソード
[編集]この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
- Jリーグブームの1993年-1994年頃は三浦知良、ラモス瑠偉らを凌ぐ人気で、アデランスのコマーシャルにも出演。当時若年ながら頭頂部の抜け毛具合が河童やフランシスコ・ザビエルに似ていると、老若男女にその存在が浸透し、社会現象にもなった。ハゲのおかげでCMに出られた事を「そのハゲも金になるんだな」とジーコに散々からかわれたという。また、その人気にあやかって、鹿島のソバ屋で「あるしん丼」という料理も売られた[9]。
- 2006年に『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ)の企画「スマスマW杯」(フットサルの試合)において、助っ人としてSMAPチームに参戦し、2得点をあげた。また2007年には、『とんねるずのスポーツ王は俺だ!夢対決2007』(テレビ朝日)の「サッカーボウル」において、ストライクを連発するなど好調ぶりを発揮し、健在ぶりを示した。
- ブラジルのサッカー選手はジーコやペレなど、サッカーネームを使う選手も多いが、アルシンドはイタリア移民2世のために姓名が短かったことから本名でプレーした。
- 2011年3月、縁のある日本が東北地方太平洋沖地震で大惨事となり心を痛めていたが、同年4月にジーコの呼びかけで南米でチャリティーマッチを行った。ドゥンガ、ロマーリオなどと共にプレーした。また、同年6月にはカシマスタジアムで行われた震災復興チャリティーイベント SMILE AGAIN〜YELL FROM KASHIMA〜に参加。「ANTLERS LEGENDS」のメンバーとして、鹿島OBや長男のイゴールと同じチームでともにプレーした。
- 2013年5月11日、「Jリーグ20周年 アニバーサリーマッチ」と銘打たれた浦和-鹿島戦にて元浦和所属のポンテと共に試合前のセレモニーに参加した。
- 2021年10月、千葉県の建設会社「駒崎興業」主催による講演会に来日した[10]
語録
[編集]この節に雑多な内容が羅列されています。 |
独特のハイトーンな早口で知られ、CMなどではユーモラスな決め台詞で当時の流行となった。
著書
[編集]- アルシンドが教えるスーパーシュートテクニック(ナガセ・東進ブックス 1994年10月刊)ISBN 978-4931256927
脚注
[編集]- ^ a b ““神様”ジーコと40歳でのハットトリック 記録と記憶に残る「ベスト3ゲーム」とは?”. SPORTS NAVI (2023年4月29日). 2023年4月30日閲覧。
- ^ “アルシンドが明かす鹿島アントラーズ入団秘話。「日本に来てみないか」ジーコの誘いに「イエス」と即答した”. SPORTIVA. 2023年4月17日閲覧。
- ^ a b c d e “CMにも登場した人気者ブラジル人FW。親子2代で鹿島に所属”. SPORTIVA. 2023年4月17日閲覧。
- ^ “J1 ハットトリック”. データJリーグ. 2023-417閲覧。
- ^ “アルシンドが選んだ自身のベストゴールと日本のベストプレーヤーたち。「カズは外せない。井原は頭痛の種だった」3”. SPORTIVA. 2023年4月17日閲覧。
- ^ “アルシンドが選んだ自身のベストゴールと日本のベストプレーヤーたち。「カズは外せない。井原は頭痛の種だった」1”. SPORTIVA. 2023年4月17日閲覧。
- ^ “<『Dear KAZU』出版記念> アルシンド 「ピッチ上の存在感は桁違い」 ~カズへの6通のエール~”. Number Web (2011年12月19日). 2013年5月13日閲覧。
- ^ アルシンド新監督、就任早々に指揮をとる (2015年2月2日 MEGABRASIL)
- ^ 「時代」を彩った男と女・あの人は今 元Jリーガー・アルシンドさん‐リアルライブ 2009年11月05日付(2010年9月21日閲覧)
- ^ アルシンド氏(元Jリーガー)トークショー 駒﨑興業
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- アルシンド・サルトーリ - Soccerway.com
- アルシンド・サルトーリ - FootballDatabase.eu
- アルシンド・サルトーリ - WorldFootball.net
- アルシンド・サルトーリ - Transfermarkt.comによる選手データ
- アルシンド・サルトーリ - FIFA主催大会成績
- アルシンド・サルトーリ - J.League Data Siteによる選手データ