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{{イラクの歴史}} |
{{イラクの歴史}} |
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'''バビロニア'''({{lang-grc-short|Βαβυλωνία}}、{{lang-en-short|Babylonia}})、または'''バビュロニア'''は、現代の[[イラク]]南部、[[チグリス川|ティグリス川]]と[[ユーフラテス川]]下流の[[沖積平野]]一帯を指す歴史地理的領域である。南北は概ね現在の[[バグダード]]周辺から[[ペルシア湾]]まで、東西は[[ザグロス山脈]]から[[シリア砂漠]]や[[アラビア砂漠]]までの範囲に相当する<ref name="オリエント事典バビロニア">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.440-442. 「バビロニア」の項目より。</ref>。その中心都市[[バビロン]]は『[[旧約聖書]]』に代表される伝説によって現代でも有名である。バビロニアは古代においては更に南部の[[シュメール]]地方と北部の[[アッカド]]地方に大別され、「シュメールとアッカドの地」という表現で呼ばれていた<ref name="オリエント事典バビロニア"/>。 |
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'''バビロニア'''([[アッカド語]]: {{cuneiform|[[:wikt:𒆍𒀭𒊏𒆠|𒆍𒀭𒊏𒆠]]}}、[[古代ペルシア語]]: {{cuneiform|[[:wikt:𐎲𐎠𐎲𐎡𐎽𐎢𐏁|𐎲𐎠𐎲𐎡𐎽𐎢𐏁]]}}、{{lang-grc-short|Βαβυλωνία}}、{{lang-en-short|Babylonia}})は、[[メソポタミア]](現在の[[イラク]])南部を占める[[地域]]、またはそこに興った[[王国]]([[帝国]])。首都は'''[[バビロン]]'''<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/バビロニア-116019 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-03 }}</ref>。 |
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バビロニアは世界で最も古くから[[農耕]]が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には[[文字]]が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築した[[シュメール]]人や[[アッカド]]人たちはバビロニア南部で[[ウル]]や[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]、[[ニップル]]、[[ラガシュ]]などに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半には[[アッカド帝国]]がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更に[[ウル第三王朝]]がそれに続いた。 |
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== 呼称 == |
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バビュロニアとも。[[ヘブライ語聖書]]では「[[:en:Shinar|Shinar]]」という名前で8回言及されている。Shinarの語源は「[[シュメール]]」と考えられている。 |
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前2000年期に入ると、[[アムル人]](アモリ人)と呼ばれる人々がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てた。その内の一つで[[バビロン]]に勃興した[[バビロン第1王朝]]は、[[ハンムラビ]]王(在位:前1792年-前1750年)の時代にメソポタミアをほぼ統一し、バビロンが地域の中心都市となる契機を作った。前2000年期後半には[[カッシート人]]が作った王朝([[カッシート人#バビロニア統一以後|バビロン第3王朝]])が支配権を握り、古代オリエント各地の国々と活発に交流を行い、または戦った。カッシート人の王朝は東の[[エラム]]との戦いによって滅亡した。 |
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前1000年期前半にはバビロニアの王朝はアッシリアとの相次ぐ戦いの中で次第に劣勢となり、アッシリアの王[[ティグラト・ピレセル3世]](在位:前745年-前727年)によってその支配下に組み込まれた。アッシリアによるバビロニアの支配は恒常的な反乱にもかかわらず、短期間の中断を挟み100年以上継続したが、前625年に[[カルデア#カルデア人|カルデア人]][[ナボポラッサル]](ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がアッシリア人を駆逐し、[[新バビロニア|新バビロニア王国]](カルデア王国)を建設したことで終わった。新バビロニアは更に前539年に[[アケメネス朝]](ハカーマニシュ朝)の王[[キュロス2世]](クル2世、在位:前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。アケメネス朝を滅ぼした[[アレクサンドロス3世]](大王、在位:前336年-前323年)は遠征の途上、バビロンに入城し、また征服の後はバビロンで死去した。 |
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アレクサンドロス大王の死後、後継者([[ディアドコイ]])の一人[[セレウコス1世]](在位:前305年-前281年)がバビロニアの支配者となった。彼がバビロニアに新たな拠点として[[セレウキア|ティグリス河畔のセレウキア]]を建設するとバビロンの重要性は次第に失われて行き、続く[[パルティア|アルサケス朝]](アルシャク朝、パルティア王国)時代にはセレウキアとその対岸の都市[[クテシフォン]](テーシフォーン)が完全にバビロニアの中心となってバビロン市は放棄された。それに伴い、シュメール時代から続けられていた楔形文字による文字体系も失われ、古くから伝承された[[シュメール語]]や[[アッカド語|バビロニア語]]の文学的伝統も途絶えた。 |
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バビロニアは[[法律]]、[[文学]]、[[宗教]]、[[芸術]]、[[数学]]、[[天文学]]などが発達した古代オリエント文明の中心地であり、多くの遺産が後代の文明に引き継がれた。政治体制は基本的に都市国家的な性格を強く残し、地域全体を包括する政治的統一が成し遂げられたのは特定の時代に限られる。アムル人、カッシート人、[[アラム人]]など外部からの頻繁な移住が行われ、地元の住民と衝突、混交した。地域の中心的な言語は[[シュメール語]]及び[[アッカド語]](バビロニア語)から[[アラム語]]へと移り変わり、[[アレクサンドロス3世]](大王)による征服の後には[[ギリシア語]]も普及した。 |
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なお、歴史上のどの時点からをバビロニアと呼び、またそれはいつまでであるのかについて明確な定義があるわけではない。本項では便宜上、[[バビロン]]市が史料に初めて登場するアッカド帝国時代前後から、バビロン市が完全に放棄され[[楔形文字]]による文字記録が途絶えるまでを中心として述べる。現在において年代が確実な最期の楔形文字文書は西暦74/75年の天文記録であり、年代不明の文書の一部は1世紀以降まで時代が下る可能性がある。 |
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== 名称 == |
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バビロニア(バビュロニア)と言う名称は、その主邑[[バビロン]](バビュローン、{{lang-grc-short|{{Unicode|Βαβυλών}}}}、 {{transl|el|''Babylṓn''}})に由来する[[古代ギリシア語|ギリシア語]]の名前、'''バビュローニアー'''({{lang-grc-short|{{unicode|Βαβυλωνία}}}}、''Babylōnía'') から来ている<ref name="西洋古典学事典2010バビロニア">[[#西洋古典学事典 2010|西洋古典学事典 2010]], pp. 925-926, 「バビュローニアー」の項目より</ref><ref name="中田2014p12">[[#中田 2014|中田 2014]], p. 12</ref>。従ってこれは外部からの呼称であり、現地においてギリシア語のバビュローニアーに完全に対応する地理概念が当初より存在したわけではない。なお、[[ギリシア人]]や[[ローマ人]]はしばしば[[アッシリア]](アッシュリア)とバビロニアを混同している<ref name="西洋古典学事典2010バビロニア"/>。 |
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バビロニアに相当する地域は、現地では南部の[[シュメール]]と北部の[[アッカド]]と言う二つの地域として認識されていた<ref name="中田2014p12"/><ref name="松本2000p97_98">[[#松本 2000|松本 2000]], pp. 97-98</ref>。この二つの地名に由来する称号が「'''シュメールとアッカドの王'''([[シュメール語]]:''lugal ki.en.gi ki.uri''、[[アッカド語]]/[[バビロニア語]]:''Šar māt šumeri u akkadi'')」であり、[[ウル第三王朝]]の王[[ウル・ナンム]](在位:前2112年-前2095年)の時代に初めて登場して以来、バビロニア、メソポタミアの広い範囲を統治する王たちによって好んで用いられた<ref name="渡辺2003p146">[[#渡辺 2003|渡辺 2003]], p. 146</ref>。シュメールとアッカドと言う二つの土地('''シュメールとアッカドの地''')からなると伝統的に認識されていた地域は、カッシート朝(バビロン第3王朝、前15世紀頃-前1155年)の時代には'''{{仮リンク|カルドゥニアシュ|en|Karduniaš}}'''(''Karduniaš'')と言う名称の下で政治的統一体として認識されるようになった<ref name="前田ら2000pp81_82">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], pp. 81-82</ref>。[[アケメネス朝]]の王[[ダレイオス1世]](ダーラヤワウ1世、在位:前522年-前486年)が残した[[ベヒストゥン碑文]]には、彼が支配する国々の一つとして'''バービル'''(バービルシュ、''Bābiruš'')と言う名でバビロニアが言及されている<ref name="伊藤1974p22">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], p. 22</ref>。 |
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== 地理 == |
== 地理 == |
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[[ファイル:Babylon city Iraq.jpg|thumb|left|復元されたバビロンの都]] |
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南半分の[[シュメール]]と北半分の[[アッカド]]を含み、北西側に[[アッシリア]]と隣接する。 |
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バビロニアの地理的範囲は、現在の[[イラク]]、[[チグリス川|ティグリス川]]と[[ユーフラテス川]]に挟まれたいわゆる[[メソポタミア]]の下流域である。南北は概ね現在の[[バグダード]]から[[ペルシア湾]]までの範囲であり、東西は[[ザグロス山脈]]から[[シリア砂漠]]や[[アラビア砂漠]]までの範囲に相当する<ref name="オリエント事典バビロニア"/>。バビロニアの最南部は湿地帯で、人々は陸上のみならず海上で小舟の上で生活を送っていた<ref name="オリエント事典バビロニア"/>。メソポタミアのバグダードよりも上流域の地方は[[アッシリア]]と呼ばれた<ref name="松本2000p97_98"/>。そしてバビロニアの東側、現在の[[イラン]]南西部には[[エラム]]と呼ばれる地域があり<ref name="オリエント事典エラム">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.101-102. 「エラム」の項目より。</ref>、いずれも有力な勢力としてバビロニアの政治・文化・歴史に大きな影響を及ぼした。バビロニアの西側には[[砂漠]]地帯が広がっている。これは砂砂漠ではなく、小礫を含んだ岩砂漠地帯で、ユーフラテス川に合流する多数のワジ(涸れ河)と[[オアシス]]があり、[[遊牧民]]の活動地帯であった<ref name="松本2000p97_98"/>。バビロニアはティグリス川とユーフラテス川の沖積平野であり、起伏に乏しい広大な平原が広がっている<ref name="オリエント事典バビロニア"/><ref name="杉山1981pp108_110">[[#杉山 1981|杉山 1981]], pp. 108-110</ref>。バビロニアの北端部分にあたる[[バグダード]]周辺から南端部の[[バスラ]]までの高低差は極僅かで、山の迫る北部メソポタミアの[[アッシリア]]地方とは異なる景観を有している<ref name="杉山1981pp108_110"/>。 |
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[[ファイル:Iraqi mudhif interior.jpg|thumb|right|現代の最南部の湿地帯で葦で造られた集会場の内部。シュメールの時代から大きくは変わらない様式で建造されている。]] |
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バビロニアを含むメソポタミア地域の地理・気候の条件が当時どのような物であったのかと言う予測は、ほとんど現在の状況からの投影に基づいている<ref name="Christensen2016p49">[[#Christensen 2016|Christensen 2016]], p. 49</ref>。ただし現在見られるイラク南部の景観は少なくとも部分的には数千年に渡る人類の活動の結果である<ref name="Christensen2016p49"/>。 |
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この地域の気候は直近の1000年と大きく変化してはいないと予想され<ref name="Christensen2016p49"/>、年間雨量100ミリ以下という乾燥地帯であることに特徴づけられる<ref name="松本2000p97_98"/>。これは[[乾燥農業|乾地農業]]の理論的限界を下回っており、人々は収穫を得るために[[灌漑]]農業を発達させた<ref name="オリエント事典バビロニア"/><ref name="杉山1981pp108_110"/><ref name="Christensen2016p49"/>。灌漑のための水源はこの地域を縦断するユーフラテス川とティグリス川であった。バビロニアの農業は高い生産性を誇ったが、[[エジプト]]の[[ナイル川]]と異なりこの両河川を効果的に利用するには多くの困難があった。原因の一つは両河川の増水と減水のサイクルが、農作業のサイクルと一致しなかったことである<ref name="Christensen2016p49"/>。この地域では通常10月から11月に播種し、4月から6月にかけて収穫が行われる<ref name="Christensen2016p49"/>。しかし、ティグリス・ユーフラテス両河は毎年春、3月から4月頃にかけて雪解け水によって増水・氾濫し<ref name="杉山1981pp108_110"/>、水量が最大になるのはティグリス川が4月、ユーフラテス川が5月である<ref name="Christensen2016p49"/>。だが、この時期は既に灌漑を必要とせず、むしろ洪水の脅威をもたらした<ref name="Christensen2016p49"/>。逆に両河川の流量が最小となるのは8月から9月にかけてであり、灌漑用水がこれから必要になる時期である<ref name="Christensen2016p49"/>。このためにバビロニアでの灌漑農業には水量が減少する時期に灌漑用水をくみ上げて農地に導入するための運河の建設とメンテナンスが欠かせないものであった<ref name="Christensen2016p50">[[#Christensen 2016|Christensen 2016]], p. 50</ref>。また春に多発した洪水の惨禍から畑を保護するために堤防や貯水池も準備しなければならなかった<ref name="Christensen2016p50"/>。 |
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この地域の農業に困難をもたらしたもう一つの要因は極めて傾斜の緩いその地勢である。南に進むにつれて川の流れは遅くなり、逆に土砂の堆積量は増大した<ref name="Christensen2016p50"/>。増水する春には、流されてきた荒い土砂によって自然堤防が形成される一方、細かい粒子は広い範囲に蓄積されて不浸透性のなめらかな表面を形成し、滞留した水がそれを覆った<ref name="Christensen2016p50"/>。このような状況は洪水の際の流路変更の原因となり、大洪水の際には川の流路が完全に変化してしまうこともあった<ref name="Christensen2016p50"/>。実際にティグリス川は[[サーサーン朝]]時代の5世紀の終わりに大きな流路変更を経験している<ref name="Christensen2016p50"/>。このような地勢のため、灌漑設備や農地からの排水は悪く、また土砂の堆積に対応するために継続的な清掃が必要であった<ref name="Christensen2016p50"/>。そして、灌漑用水のうちのかなりの割合が排水ではなく蒸発によって漏出したが、それに伴い地下水位が上昇し、[[毛細管現象]]によって地下から表面に出た水に含まれる塩分が深刻な塩害を引き起こしたため、これも定期的な休耕や農地の洗浄を要求した<ref name="Christensen2016p50"/>。 |
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灌漑用水源としてはユーフラテス川が特に重要であった。これはユーフラテス川に合流する大きな支流が[[ハブール川]]だけであり、ティグリス川よりも相対的に安定していたためである<ref name="Christensen2016p49"/>。ティグリス川は[[ザグロス山脈]]から流れ込む[[大ザブ川]]、[[小ザブ川]]、[[ディヤラ川]]などと合流するため、その傾斜の落差と広大な流域面積によって不意の洪水が発生しやすく治水が困難であった<ref name="Christensen2016p49"/>。このため人口と農地はユーフラテス川沿いで密であり、ティグリス川沿いでは希薄であった<ref name="Christensen2016p52">[[#Christensen 2016|Christensen 2016]], p. 52</ref>。 |
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バビロニアは[[鉱物]]資源に乏しく、樹木の植生も[[ナツメヤシ]]や[[ギョリュウ|タマリスク]]を中心として木材に適する物に乏しかったため、建造物は一般に[[日干し煉瓦]]や[[焼成煉瓦]]のような容易に手に入る[[泥]]を原材料とする建材で建造され、石は土台にしか用いられなかった<ref name="オリエント事典バビロニア"/>。南端部の湿地帯ではシュメール時代から大型の建造物が[[ヨシ|葦]]を用いて建設された。これは20世紀まで[[ハワール]](マーシュランド)と呼ばれるイラク南部地方で建設されていた葦で造られる集会場とよく似た様式であった<ref name="小口2000pp144_145">[[#小口 2000|小口(和) 2000]], pp. 144-145</ref>。メソポタミアの粘土質の土は、[[土器]]を作ることには適しており、前7000年期には土器が普及し始めていた<ref name="小口2000pp144_145"/>。土器のみならず、[[鎌]]のような生活用具や、模型などもみな土から作られた<ref name="小口2000pp144_145"/>。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 編年 === |
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バビロンについての最も早い言及は、[[紀元前23世紀]]頃の[[アッカド帝国]]([[:en:Akkadian Empire|en]])期の[[サルゴン]]の統治のタブレットに見ることができる。 |
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{{Main|古代オリエントの編年}} |
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[[シュメール文明]]と[[アッカド]]を征服して、[[チグリス川]]と[[ユーフラテス川]]の間を中心に栄え、後にアッシリアの支配を受けた。のちアッシリアが衰えると[[新バビロニア|新バビロニア王国]](帝国、「カルデア帝国」ともいう)が興り、[[ネブカドネザル2世]]の時その勢力は各地に及んだが、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア帝国]]に征服されてその属州となった。 |
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バビロニアを含む古代オリエント世界の[[編年]]は完全には確立されていない。前1千年紀、特にアッシリア時代については[[アッシュル・ダン3世]]の治世中に発生した[[日食]]が紀元前763年6月15日のものであることが同定できており<ref name="前田ら2000p125">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 125</ref>、豊富な史料と組み合わせて現在の暦と接続された[[絶対年代]]が割り出されている。しかし、前2千年紀については、高年代説、中年代説、低年代説と呼ばれる3つの主要な説が存在し、未だ絶対年代は確定されていない<ref name="中田1988bpp30_31">[[#中田 1988|中田 1988]], pp. 30-31</ref>。それぞれの学説において、現代の暦におけるハンムラビ王の在位は前1848年-1806年(高年代説)、前1792年-前1750年(中年代説)、前1728年-前1686年(低年代説)となる<ref name="中田1988bpp30_31"/>。本節では最も頻繁に使用される中年代説に基づいて記述を行うが<ref name="中田1988bpp30_31"/>、確定した年代ではないことに注意されたい。 |
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=== シュメールとアッカド === |
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==歴代君主== |
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{{Main|メソポタミア|シュメール|アッカド帝国|ウル第三王朝}} |
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[[Image:Hammurabi's Babylonia Locator Map 1.svg|right|thumb|300px|ハンムラビ バビロニア, 紀元前1792年 - 紀元前1750年]] |
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[[ファイル:Orientmitja2300aC.png|thumb|right|300px|アッカド帝国(緑)とその周辺]] |
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===バビロン第1王朝(古バビロニア)=== |
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後世バビロニアと呼ばれることになるシュメールとアッカドの地では、前3200年頃には大きな人口を抱え、複雑な社会機構を持つ都市国家が誕生していた<ref name="山田2014pp195-196">[[#山田 2014|山田 2014]], pp. 195-196</ref>。その後、[[シュメール初期王朝時代]](前2900年頃-前2335年頃)にはメソポタミアと周辺の西アジア各地に都市文明が拡散していった<ref name="山田2014pp195-196"/><ref name="前田ら2000pp18_21">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], pp. 18-21</ref>。初期王朝時代末期の前2500年頃から、おぼろげながらも同時代史料に基づいてその歴史の一部を知ることができるようになる<ref name="山田2014pp195-196"/><ref name="前田ら2000pp21_28">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], pp. 21-28</ref>。バビロニアは(エジプトを除き)この時代の歴史を文字史料を通じて復元できる唯一の地域である<ref name="山田2014pp195-196"/><ref name="前田ら2000pp21_28"/>。 |
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#[[スムアブム]](前1894年 - 前1881年) |
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# {{仮リンク|スムラエル|en|Sumu-la-El}}(前1880年 - 前1845年) |
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# {{仮リンク|サビウム|en|Sabium}}(前1844年 - 前1831年) |
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# {{仮リンク|アピル・シン|en|Apil-Sin}}(前1830年 - 前1813年) |
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# {{仮リンク|シン・ムバリト|en|Sin-Muballit}}(前1812年 - 前1793年) |
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#[[ハンムラビ]](前1792年 - 前1750年) |
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#[[サムス・イルナ]](前1749年 - 前1712年) |
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#[[アビ・エシュフ]](前1711年 - 前1684年) |
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# {{仮リンク|アンミ・ディタナ|en|Ammi-Ditana}}(前1683年 - 前1647年) |
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# {{仮リンク|アンミ・サドゥカ|en|Ammi-Saduqa}}(前1646年 - 前1626年) |
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# {{仮リンク|サムス・ディタナ|en|Samsu-Ditana}}(前1625年 - 前1595年) |
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初期王朝時代末期にはシュメール人、アッカド人の都市国家が興亡を繰り返した。これらの都市国家の中でも有力となったものは次第に近隣都市を服属させて地域統合を果たすようになった<ref name="前田2017p39">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 39</ref>{{refnest|group="注釈"|古代メソポタミア史を研究する前田徹は、このような都市国家を中近世のドイツ史における[[領邦国家]](Territorialstaat)の概念を参考に領邦都市国家と命名している<ref name="前田2017p12">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 12</ref>。}}。そのような都市国家には[[キシュ]]、[[ニップル]]、[[アダブ]]、[[シュルッパク]]、[[ウンマ (シュメールの都市国家)|ウンマ]]、[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]、[[ウル]]などがある<ref name="前田2017p39"/>。これらの都市国家では王権が強化され特定の家系に王位が独占されていくと共に<ref name="前田2017pp45_49">[[#前田 2017|前田 2017]], pp. 45-49</ref>、各国の間で領土や覇権を巡って相互に激しい争いが行われた<ref name="前田2017pp49_55">[[#前田 2017|前田 2017]], pp. 49-55</ref>。この時代の都市国家の争いと覇権の移り変わりは、前21世紀頃に成立した『[[シュメール王名表|シュメール王朝表]]{{refnest|group="注釈"|『シュメール王朝表』と呼ばれるテキスト群は、伝統的には『シュメール王名表』と呼ばれており、こちらの名前で広く知られている。日本においてメソポタミア史研究の先駆者であった[[中原与茂九郎]]は、「諸都市王朝による継起的な南部メソポタミア支配がこれらのテキストの基本主題であることに正しく着目してこれらを『シュメール王朝表』と呼んだ」(前川和也)<ref name="前川1998pp165_166">[[#前川 1998a|前川 1998a]], pp. 165-166</ref>。}}』において、歴代王朝の覇権交代と言う形の伝承にまとめられている<ref name="前川1998pp165_166"/>。ただしこれは同時代に存在していた有力な都市国家全てに触れてはいないし、またそれぞれが順番に覇権を握っていったという体裁をとるが、実際にそのように整然と勢力が交代したわけではない<ref name="前川1998pp165_166"/>。 |
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===「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝)=== |
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*イルマ・イルム(イルマ,前1732年頃? - ?,60年) |
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*イティ・イリ・ニビ(イティリ,56年) |
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*ダミク・イリシュ(ダミク・イリ,36年) |
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*イシュキバル(15年) |
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*シュシュシ(24年) |
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*グルキシャル(55年) |
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*DIŠ-U-EN (不明) |
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*ペシュガルダラマシュ (50年) |
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*アダラカランマ (28年) |
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*エクルドゥアンナ (26年) |
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*メラムクルクッカ (7年) |
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*エアガムイル (9年) |
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こうした都市国家群は前24世紀半ばに[[ウンマ (シュメールの都市国家)|ウンマ]]王で後に[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]に拠点を遷した[[ルガルザゲシ]]によって大部分が征服され初めて統合された<ref name="前川1998p181">[[#前川 1998a|前川 1998a]], p. 181</ref>。このルガルザゲシの王国は、[[アッカド]]市(アガデ)の王[[サルゴン (アッカド王)|サルゴン]](シャル・キン)によって打倒された<ref name="前川1998p182">[[#前川 1998b|前川 1998b]], p. 182</ref>。サルゴンが建設した王国は[[アッカド帝国]]とも呼ばれ、一般に初の統一王朝として扱われる<ref name="前川1998p182"/>。バビロニアの中枢となる都市、バビロン(バーブイル/バーブ・イリ ''Bābili'')は後世の史料ではこのサルゴン王によって建設されたという<ref name="サルヴィニ2005p33">[[#サルヴィニ 2005|サルヴィニ 2005]], p. 33</ref>。しかし、これは一つの伝説であり、同時代史料におけるバビロンの初出はアッカド帝国最後の王、[[シャル・カリ・シャッリ]](在位:前22世紀頃)の時代に建造された神殿の定礎碑文である<ref name="サルヴィニ2005p33"/>。 |
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===初期カッシート王朝(バビロン第3王朝)=== |
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{{main|{{仮リンク|初期カッシート王名表|en|Early Kassite rulers}}}} |
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アッカド帝国は[[地中海]]沿岸地域にいたるまでユーフラテス川とティグリス川の流域を征服し、サルゴン王は「世界の王(シュメール語:''LUGAL KIŠ''、アッカド語:''šar kišš ati'')<ref name="渡辺2003pp139_140">[[#渡辺 2003|渡辺 2003]], pp. 138-139</ref>、[[ナラム・シン]]王の時代には「四方領域の王(シュメール語:''LUGAL ki-ib-ra-tim ar-ba-im'')」などの称号を採用し、都市国家を超えた領域を支配する王権観を発達させていった<ref name="渡辺2003pp139_140"/><ref name="前田2017p102">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 102</ref>。しかしアッカド帝国による統合は、シャル・カリ・シャッリの治世の後崩壊した。『シュメール王朝表』は彼の治世の後、「誰が王であり、誰が王でなかったか」と言う文章で書き始めている<ref name="前川1998p188">[[#前川 1998b|前川 1998b]], p. 188</ref>。後世の伝承はアッカド帝国の崩壊とその後の混乱を蛮族[[グティ人]]の侵入の結果として描写するが、その史実性は疑わしいとされる<ref name="前田2017p115">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 115</ref>。この混乱と分裂は前22世紀の終わり頃、ウルクの将軍でウルの王となった[[ウル・ナンム]](ウル・ナンマ、在位:前2112年-前2095年)による統合で終止符が打たれた<ref name="前川1998p189">[[#前川 1998b|前川 1998b]], p. 189</ref><ref name="前田2017p125">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 125</ref>。これを[[ウル第三王朝]]と呼ぶ<ref name="前川1998p189"/>。 |
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*ガンダシュ |
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*アグム1世 |
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*カシュティリアシュ1世 |
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*ウシュシ |
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*アビラッタシュ |
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*カシュティリアシュ2世 |
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*ウルジグルマシュ |
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*ハルバシフ |
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*ティプタクジ |
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ウル・ナンムは現在知られる限り後世バビロニアの支配者によって繰り返し使用される「シュメールとアッカドの王」と言う称号を用いた最初の王である<ref name="渡辺2003p146"/><ref name="前田2017p126">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 126</ref>。また、記録に残る最初の法典編纂が行われた([[ウル・ナンム法典]])<ref name="前田2017p130">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 130</ref>。これは後に古バビロニア時代に行われる各種の法典編纂に先行するものである<ref name="前田2017p130"/>。この頃には[[正義]](シュメール語:''nig-si-sá'')の観念も整備され、後のバビロニアの王が従うべき道徳規範も形作られて行った<ref name="前田2017p130"/>。しかし、ウル第3王朝自体は100年余りしか存続しなかった。[[シュ・シン]](在位:前2037年-前2029年)の時代には西方からメソポタミアに移住していた[[アムル人]](アモリ人)の勢力が増し、その影響で辺境において徴税が不可能になっていることを訴える現地司令官の報告が残されている<ref name="前川1998pp196-198">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 196-198</ref>。また東方では[[エラム]]が[[ザブシャリ]]国を中心として反乱を起こしていた。シュ・シンは恐らくこの反乱を鎮圧したが<ref name="前川1998pp196-198"/>、次の王[[イビ・シン]](在位:前2028年-前2004年)の時代には[[イシン]]市で将軍[[イシュビ・エッラ]](彼もアムル人であるとされる場合もある)がウル第3王朝から事実上自立し、その力は大きく衰えた<ref name="前川1998pp196-198"/>。そしてイシュビ・エッラとの争いや他のアムル人諸部族の反抗の中で、エラムが再び反逆し前2004年にウルを占領した<ref name="前川1998pp198-200">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 198-200</ref>。これによってウル第三王朝は滅亡した。 |
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===カッシート王朝(バビロン第3王朝)=== |
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{{main|[[カッシート人|カッシート]]}} |
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=== 古バビロニア時代 === |
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* {{仮リンク|アグム2世|en|Agum II}}(? - 前1570年頃) |
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[[ファイル:Hammurabi's Babylonia 1.svg|thumb|right|300px|ハンムラビ王時代のバビロン第1王朝]] |
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* {{仮リンク|ブルナ・ブリアシュ1世|en|Burnaburiash I}} |
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ウル第3王朝の滅亡(前2004年)から、[[バビロン第1王朝]]の滅亡(前1595年)までの時代は'''古バビロニア時代'''と呼ばれている<ref name="前田ら2000pp40_41">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], pp. 40-41</ref>。 |
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* {{仮リンク|カシュティリアシュ3世|en|Ulamburiash}} |
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更に、群雄割拠の時代(前期)と、バビロンによる統一の時代(後期)に二区分し、前期を[[イシン・ラルサ時代]]、後期をバビロン統一王朝時代、または[[ハンムラビ]]王国時代と区分するのが一般的である<ref name="前田ら2000pp40_41"/>。 |
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* {{仮リンク|ウラム・ブリアシュ|en|Ulamburiash}} |
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* {{仮リンク|アグム3世|en|Agum III}} |
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* {{仮リンク|カラインダシュ|en|Karaindash}} |
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* {{仮リンク|カダシュマン・ハルベ1世|en|Kadashman-harbe I}} |
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* {{仮リンク|クリガルズ1世|en|Kurigalzu I}} |
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* {{仮リンク|カダシュマン・エンリル1世|en|Kadashman-Enlil I}}(? - 前1376年) |
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* {{仮リンク|ブルナ・ブリアシュ2世|en|Burna-Buriash II}}(前1375年 - 前1347年) |
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** [[カラ・ハルダシュ]]({{lang|en|Kara-ḫardaš}})(前1347年 - 前1345年) |
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** [[ナジ・ブガシュ]]({{lang|en|Nazi-Bugaš}}) |
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* {{仮リンク|クリガルズ2世|en|Kurigalzu II}}(前1345年 - 前1324年) |
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* {{仮リンク|ナジ・マルッタシュ|en|Nazi-Maruttash}}(前1323年 - 前1298年) |
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* {{仮リンク|カダシュマン・トゥルグ|en|Kadashman-Turgu}}(前1297年 - 前1280年) |
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* {{仮リンク|カダシュマン・エンリル2世|en|Kadashman-Enlil II}}(前1279年 - 前1265年) |
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* {{仮リンク|クドゥル・エンリル|en|Kudur-Enlil}}(前1265年 - 前1255年) |
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* {{仮リンク|シャガラクティ・シュリアシュ|en|Shagarakti-Shuriash}}(前1255年 - 前1243年) |
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* {{仮リンク|カシュティリアシュ4世|en|Kashtiliash IV}}(前1243年 - 前1235年) |
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==== イシン・ラルサ時代 ==== |
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([[アッシリア#中アッシリア時代|中アッシリア帝国]]の[[トゥクルティ・ニヌルタ1世]]による支配:前1235年 - 前1227年) |
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{{Main|イシン・ラルサ時代}} |
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ウル第三王朝滅亡後のメソポタミアでは、移住した'''アムル人'''たちが各地に王国を作り上げていった。この時代に有力勢力として現れる王国のほとんどはアムル系の王国である<ref name="前川1998pp202_205">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 202-205</ref>。これらの中でも、イシュビ・エッラが作り上げた[[イシン#イシン第1王朝|イシン第1王朝]]と、[[ナプラヌム]]と呼ばれるアムル人が王朝を作った[[ラルサ]]が中心となって覇権争いを演じた<ref name="前川1998pp201_202">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 201-202</ref>。当初はイシンが最も有力であったが、第5代王[[リピト・イシュタル]](在位:前1932年-前1903年)の時代には、ラルサがやはり第5代の[[グングヌム]](前1932年-前1906年)王の下で強大化し、イシンを圧倒した<ref name="前川1998pp201_202"/>。イシンの第2代王[[シュ・イリシュ]]や、グングヌム以降のラルサ王はかつてのウル第三王朝時代の称号「シュメールとアッカドの王」を再び用いている<ref name="渡辺2003pp146_147">[[#渡辺 2003|渡辺 2003]], pp. 146-147</ref>。 |
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この頃にバビロンが次第に成長し、南部メソポタミアに台頭し始める。バビロンはウル第三王朝時代に知事が派遣されていたことなどが記録に残るが、イシン・ラルサ時代の初め頃までは一地方都市に過ぎなかった<ref name="クレンゲル1980p33">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 33</ref>。この時代のバビロンの遺跡は地下水のために満足な調査が行われていないが、それでもこの都市がさしたる重要性を持っていなかったことは間違いない<ref name="クレンゲル1980p33"/><ref name="マッキーン1976p37">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 37</ref>。前1894年頃、アムル人の首長[[スムアブム|スム・アブム]]、または[[スム・ラ・エル]]がこの都市を拠点として王朝を開いたとされる<ref name="マッキーン1976p37"/><ref name="山田2017p18_21">[[#山田 2017|山田 2017]], pp. 18-21</ref>{{refnest|group="注釈"|バビロン第1王朝の初代王は、『バビロン王名表』の記述に基づき「スム・アブム」とするのが通例である。しかし、初代スム・アブムと2代目スム・ラ・エルの間の血縁関係が付記されていないことや、後代のバビロン第1王朝の王たちが先祖に言及する際にスム・ラ・エルには言及するのに対し、スム・アブムに言及しないことなどから、このことは古くから疑問視されている。近年では、スム・アブムはバビロンの王と言うわけではなく、バビロニア北部の広範囲に宗主権を及ぼした人物であり、バビロンもその宗主権の下にあったものと考えられている。そして王名表編纂時にバビロン第1王朝の王として取り込まれたものとされる<ref name="山田2017p18_21"/>。}}。これが'''バビロン第1王朝'''である。バビロン第1王朝の王たちはイシン第1王朝や南方から勢力を拡大するラルサと戦いつつ周辺地域に勢力を拡大したが、[[ハンムラビ]](在位:前1792年-前1750年)が即位した時もなお、ささやかな領土を持つに過ぎなかった<ref name="クレンゲル1980p34">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 34</ref>。 |
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* {{仮リンク|エンリル・ナディン・シュミ|en|Enlil-nadin-shumi}} |
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* {{仮リンク|カダシュマン・ハルベ2世|en|Kadashman-Harbe II}} |
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* {{仮リンク|アダド・シュマ・イディナ|en|Adad-shuma-iddina}} |
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* {{仮リンク|アダド・シュマ・ウスル|en|Adad-shuma-usur}}(前1218年 - 前1189年) |
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* {{仮リンク|メリシパク2世|en|Meli-Shipak II}}(前1188年 - 前1174年) |
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* {{仮リンク|マルドゥク・アプラ・イディナ1世|en|Marduk-apla-iddina I}}([[メロダク・バルアダン1世]])(前1173年 - 前1161年) |
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* {{仮リンク|ザババ・シュマ・イディナ|en|Zababa-shuma-iddin}}(前1161年 - 前1159年) |
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* {{仮リンク|エンリル・ナディン・アヘ|en|Enlil-nadin-ahi}}(前1159年 - 前1157年) |
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ハンムラビの即位時、バビロンの南では既にイシンを滅ぼして南部メソポタミアの大部分を支配下に置くラルサ、東では[[エシュヌンナ]]、北では[[アッシリア]]を支配下に置く[[シャムシ・アダド1世]](在位:在位:前1813年 - 前1781年<ref group="注釈">アッシリア王としての在位期間</ref>)の「上メソポタミア王国」が大きな勢力を持っていた<ref name="山田2017p22_23">[[#山田 2017|山田 2017]], pp. 22-23</ref>。特にシャムシ・アダド1世は当時メソポタミアで最も強大な勢力を誇った君主であり、その王国は北部メソポタミアの広い範囲に及んでいる<ref name="小口2000pp198_200">[[#小口(裕) 2000|小口(裕) 2000]], pp. 198-200</ref>。ハンムラビは即位時にはシャムシ・アダド1世の宗主権の下にあり、その支援を得てラルサやエシュヌンナと戦っていた<ref name="山田2017p22_23"/><ref name="クレンゲル1980p41">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 41</ref><ref name="小口2000p202">[[#小口(裕) 2000|小口(裕) 2000]], p. 202</ref>。シャムシ・アダド1世は前1781年頃に死亡した。彼の死亡は当時のメソポタミアにおける一大事であり、エシュヌンナのような外国においてもこの年の年名は「シャムシ・アダド1世が死んだ年」と名付けられている<ref name="小口2000p203">[[#小口(裕) 2000|小口(裕) 2000]], p. 203</ref>。彼の死後、「上メソポタミア王国」は急速に瓦解し、メソポタミアには「一人で十分強力な王はいない」とされる状態が訪れた<ref name="前川1998pp205-206">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 205-206</ref>。バビロンのハンムラビ、ラルサの[[リム・シン1世]]、エシュヌンナの[[イバル・ピ・エル2世]]、[[カトナ]]の[[アムト・ピ・エル]]、[[マリ (メソポタミア)|マリ]]の[[ジムリ・リム]]、そして[[ヤムハド]]([[アレッポ]])の[[ヤリム・リム]]などが有力な王として数えられた<ref name="中田2000p173">[[#中田 2000|中田 2000]], p. 173</ref>。ハンムラビは長期にわたる戦いを経てラルサ、エシュヌンナ、マリを征服し、南部メソポタミアの全域を支配下に置いた<ref name="クレンゲル1980pp40_51">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], pp. 40-51</ref>。彼自身が主張するところによれば、更にアッシリアまでも征服したとしている<ref name="クレンゲル1980pp40_51"/>。 |
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===イシン第2王朝(バビロン第4王朝)=== |
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{{main|[[イシン#イシン第2王朝|イシン第2王朝]]}} |
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==== バビロン第1王朝時代 ==== |
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* {{仮リンク|マルドゥク・カビト・アヘシュ|en|Marduk-kabit-ahheshu}} |
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{{Main|バビロン第1王朝}} |
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* {{仮リンク|イティ・マルドゥク・バラトゥ|en|Itti-Marduk-balatu (king)}} |
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{{Quote box |
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* {{仮リンク|ニヌルタ・ナディン・シュミ|en|Ninurta-nadin-shumi}} |
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| quote = §196 もしアウィールム<ref group="注釈">当時バビロニアには、大きく分けてアウィールム、ムシュケーヌム、奴隷という三つの社会階層があったことが知られる。しかし奴隷以外の前二者がいかなる性質のものであるのか定説は無い。ハンムラビ法典ではアウィールム同士の傷害に対して同害復讐原理が適用されるのに対し、アウィールムからムシュケーヌム、ムシュケーヌムからムシュケーヌムへの傷害は金銭賠償とされており、奴隷からアウィールムへの傷害は、加えた傷害よりも重い罰を与えられた。</ref> がアウィールム仲間の目を損なったなら、彼らは彼の目を損なわなければならない。<br/> |
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* [[ネブカドネザル1世]](前1124年 - 前1103年) |
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§197 もし彼がアウィールム仲間の骨を折ったなら、彼らは彼の骨を折らなければならない。<br/> |
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* {{仮リンク|エンリル・ナディン・アプリ|en|Enlil-nadin-apli}} |
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§198 もし彼がムシュケーヌムの目を損なったか、ムシュケーヌムの骨を折ったなら、彼は銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない。<br/> |
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* {{仮リンク|マルドゥク・ナディン・アヘ|en|Marduk-nadin-ahhe}} |
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§199 もし彼がアウィールムの奴隷の目を損なったかアウィールムの奴隷の骨を折ったなら、彼は彼(奴隷)の値段の半額を支払わなければならない。<br/> |
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* {{仮リンク|マルドゥク・シャピク・ゼリ|en|Marduk-shapik-zeri}} |
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§200 もしアウィールムが彼と対等のアウィールムの歯を折ったなら、彼らは彼の歯を折らなければならない。<br/> |
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* {{仮リンク|アダド・アプラ・イディナ|en|Adad-apla-iddina}}(前1067年 - 前1046年) |
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§201 もし彼がムシュケーヌムの歯を折ったなら、彼は銀3分の1マナ(約167グラム)を支払わなければならない。 |
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* {{仮リンク|マルドゥク・アヘ・エリバ|en|Marduk-ahhe-eriba}}(前1045年) |
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| source=- ハンムラビ法典<ref name="ハンムラビ法典">[[#ハンムラビ法典|中田訳 1999]], pp. 56-57</ref> |
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* {{仮リンク|マルドゥク・ゼリ・X|en|Marduk-zer-X}}(前1046年 - 前1032年) |
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| align = left |
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* {{仮リンク|ナブー・シュム・リブル|en|Nabu-shum-libur}}(前1032年 - 前1025年) |
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| width = 23em |
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[[ファイル:Code de Hammurabi - musée Champollion 01.JPG|thumb|right|ハンムラビ法典]] |
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ハンムラビは征服事業と並行して、戦乱で荒廃した運河網を整備拡充するとともに<ref name="山田2017p61_67">[[#山田 2017|山田 2017]], pp. 61-67</ref>、'''ハンムラビ法典'''と呼ばれる法典碑を作らせた。このハンムラビ法典は、商業、農業、犯罪、結婚、相続など、社会経済の多様な領域に対する「条文」を含んでおり、「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理でも名高い。この「法典」は多数のコピーが作成され広く行き渡ったが、実際には模範判例集に近いものであり、これに基づいて裁判を行ったような記録は現存していない<ref name="ハンムラビ法典まえがき">[[#ハンムラビ法典|中田訳 1999]], まえがき, i-v</ref><ref name="山田2017p68_92">[[#山田 2017|山田 2017]], pp. 68-92</ref>。しかし、ハンムラビが領内での裁判を監督し、場合によっては自ら裁定を下していたことは、現存する多数の裁判記録によって明らかとなっている<ref name="山田2017p68_92"/>。 |
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ハンムラビの死後、バビロン第1王朝の王たちは反乱と外敵の侵入に対して長く対処しなくてはならなかった。次の王[[サムス・イルナ]](在位:前1749年-前1712年)の即位から程なく、ラルサで[[リム・シン2世]]が、エシュヌンナで[[トゥプリアシュ]]が反乱を起こした<ref name="クレンゲル1980p52">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 52</ref>。バビロンの年名はこれらに対する勝利を記録しているが、サムス・イルナの治世第20年に至ってもなお反乱勢力に対して「一年に八度の勝利」を記録しているように、その統治は安定しなかった<ref name="クレンゲル1980p52"/>。更にペルシア湾岸地方では[[イルマン]](イルマ・イルム)という人物が自立し、その後「[[海の国]]」と呼ばれる王朝を創立した([[海の国第1王朝|「海の国」第1王朝]]、バビロン第2王朝とも)<ref name="クレンゲル1980p53">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 53</ref>。更に重要なこととして、サムス・イルナの治世中に初めて'''カッシュ'''('''[[カッシート人]]''')の軍勢への言及が見られる<ref name="クレンゲル1980p53"/><ref name="フィネガン1983p81">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 81</ref>。サムス・イルナの次の王、[[アビ・エシュフ]](在位:前1711年-前1684年)は「海の国」に勝利したが、その統治を永続させることはできず、加えてその治世の間にマリ地方を拠点に「ハナ」王朝が創立された<ref name="クレンゲル1980p53"/>。この王朝の王はカッシート語の名前を持っており、当時カッシート人の集団がユーフラテス川中流域に移住を進めていたことを示す<ref name="クレンゲル1980p54">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 54</ref>。 |
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===「海の国」第2王朝(バビロン第5王朝)=== |
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* {{仮リンク|シムバル・シパク|en|Simbar-shipak}} (前1024年 - 前1007年) |
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* {{仮リンク|エア・ムキン・ゼリ|en|Ea-mukin-zeri}} |
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* {{仮リンク|カシュシュ・ナディン・アッヘ|en|Kashshu-nadin-ahi}} (前1007年 - 前1004年) |
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アビ・エシュフの後の王たちの時代にも継続的にバビロン第1王朝の支配地域は縮小したが、この王朝の崩壊過程は時代が進むにつれ具体的な状況を把握することができなくなる<ref name="クレンゲル1980p54"/>。弱体化していたバビロン第1王朝は最後の王[[サムス・ディタナ]](前1625年-前1595年)の時、突如アナトリアからバビロニアへ長駆遠征を行った[[ヒッタイト]]の[[ムルシリ1世]]の攻撃によってバビロンを占領され滅亡した<ref name="クレンゲル1980p54"/><ref name="前川1998p207">[[#前川 1998b|前川 1998b]], p. 207</ref>。このヒッタイトの遠征が行われた理由についてはよくわかっていない。ヒッタイト人が残した記録にもその意図を推測できるようなものはなく、彼らがバビロニアまでも含む巨大な王国を構築していようとしたとするような説は証明されない<ref name="クレンゲル1980p54"/>。バビロニア人もまた、非常に簡潔な記録を残すに過ぎない<ref name="クレンゲル1980p55">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 55</ref>。しかし、意図はともかく、結果だけを見ればヒッタイトによるバビロンの占領は一時的なものであり、弱体化したバビロン第1王朝にとどめを刺した事件であった<ref name="クレンゲル1980p55"/>。その後にシュメールとアッカドの地の政治的混乱を収拾して新しい秩序を確立したのはヒッタイト人ではなく、カッシート人であった<ref name="クレンゲル1980p55"/><ref name="フィネガン1983p82">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 82</ref><ref name="前田ら2000p74">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 74</ref>。 |
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===バジ王朝(バビロン第6王朝)=== |
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* {{仮リンク|エウルマ・シャキン・シュミ|en|Eulmash-shakin-shumi}} (前1003年 - 前987年) |
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* {{仮リンク|ニヌルタ・クドゥルリ・ウスル|en|Ninurta-kudurri-usur I}} (前987年 - 前985年) |
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* {{仮リンク|シリクティ・シュカムナ|en|Shirikti-shuqamuna}} (前985年 - 前984年) |
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=== 中期バビロニア時代 === |
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ヒッタイト人がバビロンを寇掠した後、アッシリアが帝国的な発展を遂げるまでの前1000年頃までの中間期を中バビロニア時代、または中期バビロニア時代と言う<ref name="前田ら2000p74"/><ref name="渡辺1998p275">[[#渡辺 1998b|渡辺 1998b]], p. 275</ref>。この時代区分はまた、メソポタミアにおける[[後期青銅器時代]]に対応するが、[[新バビロニア]]の成立(前626年)までを中バビロニア時代として扱う学者もいる<ref name="フィネガン1983p83">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 83</ref>。この節では前者の区分に従い、アッシリアの興隆までの時期を扱う。この時代にはメソポタミア北部のアッシリアや、その周辺域にある[[ヒッタイト]]、[[ミタンニ]]、[[古代エジプト|エジプト]]、[[エラム]]が勢力を拡張し、互いに争いつつ盛衰を繰り返した<ref name="前田ら2000p74"/>。これらの諸国の間に密接な関係が構築されていったことから、「国際化の時代」ともされる<ref name="前田ら2000p74"/>。 |
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* {{仮リンク|マール・ビティ・アプラ・ウスル|en|Mar-biti-apla-usur}} (前984年 - 前977年) |
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==== カッシート人の王朝 ==== |
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=== バビロンE王朝(バビロン第8王朝 / バビロン第9王朝) === |
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{{Main|カッシート}} |
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[[ファイル:Kassite Babylonia EN.svg|thumb|right|300px|カッシート(バビロン第3王朝)の征服。]] |
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前1595年にヒッタイト人がバビロンを去った後、[[カッシート人]]がバビロニアを手中に収めるまでの過程は、史料が極度に乏しいため確実に言えることがほとんどない<ref name="前田ら2000p74"/>。はっきりしているのは、前1500年頃にはカッシート人の王朝がバビロニアの中核部分を支配下に置いていた事である<ref name="前田ら2000p75">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 75</ref>。このことはカッシート人の王{{仮リンク|ブルナ・ブリアシュ1世|en|Burnaburiash I}}(在位:前1500年頃)がアッシリアの[[プズル・アッシュル3世]](在位:前1500年頃)との間で結んだ国境確定の条約によってわかる<ref name="前田ら2000p75"/><ref name="フィネガン1983p86">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 86</ref>。ブルナ・ブリアシュ1世の2代後の王、{{仮リンク|ウラム・ブリアシュ|en|Ulamburiash}}(在位:前15世紀初頭)とその甥の{{仮リンク|アグム3世|en|Agum III}}(在位:前15世紀初頭)は、「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝)も滅ぼしてバビロニア全域を支配した<ref name="前田ら2000p75"/>。このカッシート人の王朝が'''バビロン第3王朝'''であるが、カッシート王朝、カッシート朝、カッシュ王朝などの呼び名の方がしばしば用いられる<ref name="フィネガン1983p84">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 84</ref>。 |
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カッシート王朝はバビロニアの王朝としては最も長く400年前後の期間バビロニアの支配権を維持することができ、その支配は前1155年まで続いた<ref name="前田ら2000p75"/><ref name="渡辺1998p278">[[#渡辺 1998b|渡辺 1998b]], p. 278</ref>。その間に周辺諸国との緊密な外交が繰り広げられたことが、それぞれの国で発見された外交書簡などによってわかっている。最も名高いのはエジプトの[[ファラオ]]、[[アメンホテプ4世|アクエンアテン]](アメンヘテプ4世)の王宮から発見されたいわゆる[[アマルナ文書]]で、カッシートの王女のエジプトへの輿入れや、贈答品のやりとり、[[カナン]]の地で殺害されたバビロニア商人の問題や、アッシリアとの確執などについての情報が残されている<ref name="前川1998pp280_283">[[#前川 1998a|前川 1998a]], pp. 280-283</ref><ref name="フィネガン1983p88">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 88</ref>。 |
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* {{仮リンク|ナブー・ムキン・アプリ|en|Nabû-mukin-apli}} (前977年 - 前942年) |
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* {{仮リンク|ニヌルタ・クドゥリ・ウスル|en|Ninurta-kudurri-usur II}} |
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* {{仮リンク|マル・ビティ・アヘ・イディナ|en|Mar-biti-ahhe-iddina}} |
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* {{仮リンク|シャマシュ・ムダミク|en|Shamash-mudammiq}} |
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* {{仮リンク|ナブー・シュマ・ウキン1世|en|Nabu-shuma-ukin I}} |
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* {{仮リンク|ナブー・アプラ・イディナ|en|Nabu-apla-iddina}} |
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* {{仮リンク|マルドゥク・ザキル・シュミ1世|en|Marduk-zakir-shumi I}} |
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* {{仮リンク|マルドゥク・バラシュ・イクビ|en|Marduk-balassu-iqbi}} |
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* {{仮リンク|ババ・アハ・イディナ|en|Baba-aha-iddina}} |
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*(空位期間・・・5人の王?)(前811年 - 前800年) |
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* {{仮リンク|ニヌルタ・アプラ・X|en|Ninurta-apla-X}} |
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* {{仮リンク|マルドゥク・ベール・ゼリ|en|Marduk-bel-zeri}} |
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* {{仮リンク|マルドゥク・アプラ・ウスル|en|Marduk-apla-usur}} |
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* {{仮リンク|エリバ・マルドゥク|en|Eriba-Marduk}} |
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* {{仮リンク|ナブー・シュマ・イシュクン|en|Nabu-shuma-ishkun}} |
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* {{仮リンク|ナボナッサル|en|Nabonassar}} (前747年 - 前734年) |
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* {{仮リンク|ナブー・ナディン・ゼリ|en|Nabu-nadin-zeri}} |
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* {{仮リンク|ナブー・シュマ・ウキン2世|en|Nabu-suma-ukin II}} |
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* {{仮リンク|ナブー・ムキン・ゼリ|en|Nabu-mukin-zeri}}({{lang|en|Bīt-Yakin}}, King of the Sealand, 『海の国の王』の意)/アッシリア王による兼任又は傀儡王、並びにカルデア人による一時的な独立王。 |
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カッシート人は古いバビロニアの文化を継承すると共に、より古いシュメール文化をも掘り起こし、シュメール語を[[円筒印章]]に用いるなど、一種の復古主義をもたらした<ref name="渡辺1998pp283_286">[[#渡辺 1998a|渡辺 1998a]], pp. 283-286</ref>。カッシート語の文書は発見されておらず、現存する文書は楔形文字によってアッカド語か[[シュメール語]]で書かれている。また、この王朝の時代には従来シュメールとアッカドの地と呼ばれた領域は'''{{仮リンク|カルドゥニアシュ|en|KarduniaŠ}}'''(''Karduniaš'')と言う単一の名称で呼称されるようになった<ref name="前田ら2000pp81_82"/>。そして、年ごとに個別の年名が割り当てられる記録法に代わり、王の統治年数で記録する方法に変わった(年の途中で王が死亡した場合、死亡時までは前王の統治年であり、新王の即位後は即位年(シュメール語:''mu-sag-namlugal-ak, ''、アッカド語:''resh sharruti'')と呼ばれ、翌年が新王の「統治第1年」であった<ref name="フィネガン1983p89">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 89</ref>。 |
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===バビロン第10王朝 === |
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{{main|[[アッシリア#新アッシリア時代|新アッシリア帝国]]|[[アッシリアの君主一覧#新アッシリア時代|新アッシリア帝国の歴代君主]]}} |
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* [[ティグラト・ピレセル3世]](プル(アッシリア王)) |
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* [[シャルマネセル5世]](ウルラユ(アッシリア王)) |
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* マルドゥク・アプラ・イディナ2世([[メロダク・バルアダン2世]]とも。ナブー・ムキン・ゼリの王子) |
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* [[サルゴン2世]](アッシリア王) |
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* [[センナケリブ]](アッシリア王) |
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** {{仮リンク|マルドゥク・ザキル・シュミ2世|en|Marduk-zakir-shumi II}} |
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** [[メロダク・バルアダン2世]](マルドゥク・アプラ・イディナ2世(復位)) |
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** {{仮リンク|ベール・イブニ|en|Bel-ibni}} |
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** [[アッシュール・ナディン・シュミ]](アッシリア王センナケリブの王子) |
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** {{仮リンク|ネルガル・ウシェズィプ|en|Nergal-ushezib}} |
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** [[ムシェズィプ・マルドゥク]] |
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* [[センナケリブ]](アッシリア王(復位)) |
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* [[エサルハドン]](アッシリア王) |
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* [[シャマシュ・シュム・ウキン]](エサルハドンの子) |
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* {{仮リンク|カンダラヌ|en|Kandalanu}}(アッシリア王[[アッシュールバニパル]]?又は彼の兄弟、配下) |
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時代と共にアッシリアが強大化し、カッシート朝の後半期にはバビロニア(カッシート)の王とアッシリアの王の戦いの記録が数多く見出される<ref name="フィネガン1983p88"/>。アッシリアの王[[トゥクルティ・ニヌルタ1世]](在位:前1244年-前1208年)は、碑文の一つでバビロニア王{{仮リンク|カシュ・ティリアシュ4世|en|Kashtiliash IV}}を捕らえ、裸にして連行し、バビロンの城壁を破壊したことを誇っている<ref name="フィネガン1983p89"/>。バビロニアは7年間にわたりアッシリアの支配を受けたが、トゥクルティ・ニヌルタ1世が暗殺されアッシリアが混乱に陥った隙に{{仮リンク|アダド・シュマ・ウツル|en|Adad-shuma-usur}}(在位:1216年-前1187年)が独立を回復した<ref name="前田ら2000p77">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 77</ref>。しかし、王朝の弱体化は避け難く、アッシリア人と、東方のエラム人からの相次ぐ攻撃によって崩壊へと向かった。前1157年、エラムの王{{仮リンク|シュトゥルク・ナフンテ|en|Shutruk-Nahhunte}}はバビロニアを制圧してバビロニア王{{仮リンク|ザババ・シュマ・イディナ|en|Zababa-shuma-iddin}}を廃し、自分の息子[[クティル・ナフンテ]]をバビロニア王に擁立した<ref name="フィネガン1983p89"/>。ハンムラビ法典碑を含む戦利品もエラムに持ちさられ、カッシート最後の王{{仮リンク|エンリル・ナディン・アヒ|en|Enlil-nadin-ahi}}はなお3年間に渡り抵抗を続けたが、前1155年に遂に鎮圧されカッシート朝は滅亡した<ref name="フィネガン1983p89"/>。 |
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===新バビロニア(カルデア)=== |
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{{main|新バビロニア}} |
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==== イシン第2王朝 ==== |
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{{Main|イシン第2王朝}} |
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{{Quote box |
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| quote = 私は偉大な主にして運命と決定の主、マルドゥクである。(私以外に)誰がこの旅をしただろうか。私が(それを)命じたのである。私はエラムへ行き、全ての神々が(そこへ)行った。(中略)(新たな)バビロンの王(ネブカドネザル1世)が現れ、すばらしい神殿エクル・サギラを修復する。彼はエクル・サギラ内に天と地の図面を描き、その高さを二倍にする。彼は我が町バビロンに対し解放令を発布する。彼は我が手を取って、〈私を〉我が町バビロンとエクル・サギラへと永遠に入れる。(中略)私ならびに全ての神は彼と和解する。彼はエラムを粉砕し、その町々を粉砕し、その要塞を取り除く。彼はデールの大王を彼のものではない玉座から立ち上がらせ、彼の(もたらした)荒廃を改め、彼の悪を…する。彼は彼の手を取って、彼をデールと(その神殿)エクル・ディムガル・カランマへと永遠に入れる。 |
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| source=- マルドゥクの預言<ref name="マルドゥクの預言">[[#マルドゥクの預言|山田訳 2012]], pp. 46-47</ref> |
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| align = right |
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| width = 23em |
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バビロニアからエラム勢力を一掃したのは、[[イシン]]市で{{仮リンク|マルドゥク・カビト・アヘシュ|en|Marduk-kabit-ahheshu}}(在位:前1157年-前1140年)が新たに打ち立てた王朝であった<ref name="渡辺1998bp286">[[#渡辺 1998b|渡辺 1998b]], p. 286</ref>。これを'''[[イシン#イシン第2王朝|イシン第2王朝]]'''、または'''バビロン第4王朝'''と呼ぶ<ref name="渡辺1998bp286"/><ref name="フィネガン1983p90">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 90</ref>。イシン第2王朝は、第2代の{{仮リンク|イッティ・マルドゥク・バラト|en|Itti-Marduk-balatu (king)}}(在位:前1139年-前1132年)の時代には既にバビロンを首都として周辺地域を支配下に置いていたと見られる<ref name="前田ら2000p77"/>。この王朝は短命であったが、その王[[ネブカドネザル1世]](ナブー・クドゥリ・ウツル1世、在位:前1124年-前1103年)はエラムに侵攻し、カッシート朝滅亡時に奪い去られていた[[マルドゥク]]神像を取り戻したことで名高い<ref name="フィネガン1983p90"/>。どの程度史実に忠実であるのかは不明であるが、彼の功績を称揚する歴史文学が後世のコピーによって知られている<ref name="渡辺1998bp286"/>。この頃から神々の王としてバビロンの都市神マルドゥクの地位が高められ、次第に[[パンテオン]]の最高位に置かれるようになっていった<ref name="渡辺1998bp286"/>。 |
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{{仮リンク|マルドゥク・ナディン・アヘ|en|Marduk-nadin-ahhe}}(在位:前1099年-前1082年)の時代には、アッシリアの王[[ティグラト・ピレセル1世]]との戦いに敗れ、イシン第2王朝は大いに弱体化した<ref name="前田ら2000p77"/><ref name="渡辺1998bp286"/>。その後出自不明の王が相次ぎ、この王朝は前1026年に滅亡した<ref name="前田ら2000p77"/><ref name="渡辺1998p287">[[#渡辺 1998b|渡辺 1998b]], p. 287</ref>。にもかかわらず、この混乱期にはアッシリアとの友好関係が保たれた。これは西方の[[アラム人]]や[[カルデア#カルデア人|カルデア人]]の流入が両国にとって共通の脅威となっていたためと考えられる<ref name="渡辺1998p287"/>。 |
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イシン第2王朝の崩壊と前後して、バビロニアでは短命の王朝がいくつも登場した。『バビロニア王名表』の記述に従えば、3人の王からなる「海の国」第2王朝(バビロン第5王朝、前1024年-前1004年)、やはり3人の王からなるバズ王朝(バビロン第6王朝、前1003年-前984年)、そして単独の王{{仮リンク|マルビティ・アプラ・ウツル|en|Mar-biti-apla-usur}}のエラム王朝(バビロン第7王朝、前983年-前978年)である<ref name="フィネガン1983pp90_91">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], pp. 90-91</ref>。この間の詳細は詳らかでない。 |
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=== アッシリア帝国の時代 === |
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[[ファイル:アッシリア帝国の版図(前9~7世紀).png|left|thumb|[[アッシリア]]の帝国]] |
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前1000年期初頭のバビロニアの歴史は『バビロニア王名表』『アッシリア・バビロニア関係史』およびアッシリアの王碑文の部分的な記述からしか復元できず、極めて断片的にしかわからない<ref name="前田ら2000p133">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 133</ref>。前1000年期初頭の250年余りの期間は'''E王朝'''(バビロン第8王朝、前977年-前732年)と呼ばれ、ある程度国力を回復したであろうことが、アッシリアとの国境争いの記録から読み取れる<ref name="前田ら2000p133"/><ref name="フィネガン1983p91">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 91</ref>。バビロニアとアッシリアはおよそ100年余りの間均衡していたが、前9世紀後半にはアッシリアが強大化する一方でバビロニアは混乱し、南部と東部におけるアラム人やカルデア人の諸部族の侵入を抑え込むことができなかった<ref name="前田ら2000p133"/>。この王朝の末期の王、{{仮リンク|ナブー・ナツィル|en|Nabonassar}}(ナボナサル、在位:747年-734年)の治世から『バビロニア年代誌』がバビロニアの重要な政治的事件を記録し始める<ref name="前田ら2000p133"/>。この王の治世のすぐ後にはアッシリアの王[[ティグラト・ピレセル3世]]がバビロニアを征服し、アッシリアによるバビロニア支配が始まった<ref name="前田ら2000p133"/>。アッシリア支配下のバビロニアについては各種の膨大な史料が残されており、詳細な政治史が復元されている<ref name="前田ら2000p133"/>。 |
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==== アッシリアの支配 ==== |
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{{Main|アッシリア}} |
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前8世紀後半から前7世紀初頭にかけて、アッシリアは北は[[アナトリア半島]]南東部、西・南は[[エジプト]]、東はエラムに至る地域を支配する帝国を構築していった(アッシリア帝国/新アッシリア)。この時代のバビロンの王は『バビロニア王名表』にまとめられており、これを'''バビロン第9/第10王朝'''とする<ref name="フィネガン1983p93">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 93</ref>{{refnest|group="注釈"|name="王朝区分"|第8/第9/第10/第11王朝の区分については出典により一致しない。板倉らは第8から第10王朝までの王をまとめてリストする<ref name="板倉ら1988pp92_100"/>。フィネガンと高橋は第9王朝にナブー・ムキン・ゼリからカンダラヌまでの全ての王を分類し、第10王朝には事実上言及しない<ref name="フィネガン1983p93">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 93</ref><ref name="高橋1993pp66_74">[[#高橋 1993|フィネガン 1993]], pp. 66-74</ref>。ボーリュー(Beaulieu)は第9王朝の取り扱いについてはフィネガン、高橋と同様であるが新バビロニアを第10王朝とし、第11王朝を置かない<ref name="Beaulieu2018p12">[[#Beaulieu 2018|Beaulieu 2018]], p. 12</ref>。 }}。バビロン第9王朝の最初の王とされているのはアラム人とみられる{{仮リンク|ナブー・ムキン・ゼリ|en|Nabu-mukin-zeri}}(在位:前731年-前729年)であり、彼の治世前後からバビロニアにおけるアラム語使用の痕跡が確認され始める<ref name="フィネガン1983p93"/>。その次の王はプルとされている。これはアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前728年-前727年<ref group="注釈">バビロニア王としての在位期間。</ref>)を指す。ティグラト・ピレセル3世はナブー・ムキン・ゼリからバビロンの支配権を奪った経緯、そしてマルドゥク神像の手を握る儀式を行って正式にバビロニアの王として即位したことを記録に残している<ref name="フィネガン1983p93"/>。 |
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ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを征服した後、アッシリアが滅亡するまでの間のほとんどの王の時代にバビロニアでは反乱が発生した。アッシリアで[[サルゴン2世]](シャル・キン2世、在位:前721年-前705年)が即位した時、バビロニアではカルデア人部族の首長[[メロダク・バルアダン2世]](マルドゥク・アプラ・イディナ2世、在位:前721年-前710年)がエラム王[[フンバニガシュ]]の支援を受けてバビロン市を掌握し、アッシリアから自立してバビロニア王となった<ref name="渡辺1998p338">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 338</ref><ref name="フィネガン1983p94">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 94</ref>。12年余りに及ぶ彼の反乱は最終的にサルゴン2世によって鎮圧されたが、メロダク・バルアダン2世は生き残ってエラムへと逃亡し、再起の機会を待った<ref name="渡辺1998p338"/><ref name="フィネガン1983p94"/>。アッシリアでサルゴン2世が死に、[[センナケリブ]](シン・アヘ・エリバ、在位:前704年-前681年)が即位すると、{{仮リンク|マルドゥク・ザキル・シュミ2世|en|Marduk-zakir-shumi II}}(在位:前703年)が再び反乱を起こし、その後にはエラムから舞い戻ったメロダク・バルアダン2世(在位:前703年)が反乱を継続した<ref name="フィネガン1983p94"/><ref name="渡辺1998p341">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 341</ref>。メロダク・バルアダン2世は最終的にキシュ平野の戦いでセンナケリブに敗れ、その後彼に再起の機会は訪れなかった<ref name="フィネガン1983p94"/><ref name="渡辺1998p341"/>。センナケリブは「宮殿で小犬のごとく」成長した{{仮リンク|ベル・イブニ|en|Bel-ibni}}(在位:前702年-前700年)を新たなバビロニア王に据えたが、センナケリブの期待に反してベル・イブニも反逆者となった<ref name="フィネガン1983p94"/>。センナケリブはこの反乱も鎮圧し、今度はバビロニア王として自身の息子[[アッシュル・ナディン・シュミ]]を据えた<ref name="フィネガン1983p94"/>。しかし、アッシュル・ナディン・シュミはエラムの襲撃とバビロニアで発生した反乱によってエラムに連れ去られ行方不明となってしまった<ref name="フィネガン1983p94"/><ref name="渡辺1998p348">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 348</ref>。センナケリブは息子の犠牲と言う事態に再度のバビロン征服に乗り出し、前689年にバビロン市を破壊して毎年の新年祭を禁止した<ref name="フィネガン1983p94"/><ref name="サルヴィニ2005p41">[[#サルヴィニ 2005|サルヴィニ 2005]], p. 41</ref>。 |
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センナケリブによって破壊されたバビロンは、彼の後継者[[エサルハドン]](アッシュル・アハ・イディナ、在位:前680年-前669年)によって再建された<ref name="渡辺1998p348"/>{{refnest|group="注釈"|センナケリブによるバビロンの破壊とエサルハドンによる再建は、彼ら自身が王碑文においてそのように語っていることからアッシリア史、バビロニア史において一般に史実として言及され強調される。しかし、センナケリブによる破壊は徹底したものではなく、バビロニアへの融和政策というエサルハドンの政策は、センナケリブ時代から始まっていたものを継続したものであるとする見解もある<ref name="佐藤1991p155">[[#佐藤 1991|佐藤 1991]], p. 155</ref>。}}。彼は即位後すぐに再建事業に取り掛かり、バビロニアへの優遇処置を矢継ぎ早に打ち出して民心の掌握に努めた<ref name="マッキーン1976p164">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 164</ref>。これが功を奏してか、エサルハドンはアッシリア帝国時代の王としては例外的にバビロニアの反乱に相対することがなかった<ref name="マッキーン1976p164"/>。メソポタミアにおいて圧倒的な求心力を誇ったバビロン市を中心とするバビロニアは、アッシリアにとって格段の配慮と警戒を要する支配地域であった<ref name="佐藤1991p156">[[#佐藤 1991|佐藤 1991]], p. 156</ref>。再建されたバビロンは、その政治的・宗教的な卓越性に加え、各種の特権を与えられ、国際商業の中枢として繁栄の時代を迎えた<ref name="佐藤1991p156"/>。バビロニアの[[ロスチャイルド家|ロスチャイルド]]とも呼ばれる古代の大商人{{仮リンク|エギビ家|en|House of Egibi}}の活動も、この時代のバビロニアで開始されていた<ref name="佐藤1991p156"/>。 |
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エサルハドンはその死に際し、自分の王国を[[アッシュルバニパル]](アッシュル・バニ・アプリ、在位:前668年-前631年頃)と[[シャマシュ・シュム・ウキン]](在位:前667年-前648年)と言う二人の王子に分割して継承させることを決定した。その規定ではアッシュルバニパルがアッシリア王、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王にそれぞれ即位し、前者が優越するものとされた<ref name="渡辺1998p350">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 350</ref>。その後実際にこの定めの通りに王位が継承され、少なくとも前651年までは平穏が保たれた<ref name="渡辺1998p358">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 358</ref>。アッシュルバニパルはバビロンに建てた石碑にこの兄弟の名前を刻む配慮を示したが、アッシリア王に対するバビロニア王の従属的地位は明らかであり、このことに不満を持っていたであろうシャマシュ・シュム・ウキンは前651年にエラムなど周辺諸勢力を引き込んで反乱を起こした([[兄弟戦争]])<ref name="渡辺1998p360">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 360</ref><ref name="マッキーン1976pp166_167">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], pp. 166-167</ref><ref name="フィネガン1983p95">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 95</ref>。この反乱は3年に渡り続いたが、最後にアッシュルバニパルが勝利を収め、前648年に包囲されたバビロンでシャマシュ・シュム・ウキンは死亡した<ref name="渡辺1998p361">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 361</ref>。その後は[[カンダラヌ]](在位:前647年-前627年)と言うバビロニア王の称号を与えられた代官が赴任してバビロニアを統治した<ref name="渡辺1998p361"/>。 |
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=== 新バビロニア(カルデア) === |
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{{Main|新バビロニア}} |
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[[ファイル:Neo-Babylonian Empire.png|thumb|right|300px|[[新バビロニア]]の勢力範囲]] |
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アッシュルバニパルの没後、アッシリアの政局は混乱に陥ったらしく短期間に何人もの王が交代する事態となった<ref name="渡辺1998p364">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 364</ref>。王位争いは最終的に[[シン・シャル・イシュクン]](在位:前623年-前612年)が勝利して終わったが、この混乱に乗じて「海の国」の首長とされるカルデア人[[ナボポラッサル]](ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がバビロニアの支配権を握りアッシリアの支配から離脱した<ref name="渡辺1998p364"/>{{refnest|group="注釈"|ナボポラッサルの出自についてはメロダク・バルアダン2世などと同一の家系に属するとする考えや<ref name="フィネガン1983p140">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 140</ref>、「海の国」で最も有力なカルデア人の部族「ビート・ヤキン」の出自とする説などが出されている。しかし、実際にナボポラッサルがカルデア人であるとする明確な同時代史料もなく、確実なものではない。山田重郎は彼が「誰でもない者の子」であったにもかかわらず、マルドゥク神が王命を授けてくれたと記す建築記念碑分の存在から、直接バビロニア王の家系に連なる出自ではなかったとしている<ref name="山田2017p31">[[#山田 2017|山田2017]], p. 31</ref>。}}。彼が打ち立てた王朝は'''[[新バビロニア]]'''(バビロン第11王朝)、または'''カルデア王国'''と呼ばれる。ナボポラッサルは鎮圧のために派遣されたアッシリアの軍勢をバビロニアから排除することに成功し、更に東方の[[メディア王国|メディア人]]と同盟を結んでアッシリア本国に攻撃をかけ、前612年にはその首都[[ニネヴェ]]を陥落させることに成功した<ref name="渡辺1998p365">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 365</ref>。アッシリアの残党はなお[[ハッラーン]]に逃れて抵抗を続けたが、前609年にはこれも終わり、全メソポタミアがバビロンの支配の下に入った<ref name="渡辺1998p365"/><ref name="前田ら2000p140">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 140</ref><ref name="山田2017p26">[[#山田 2017|山田2017]], p. 26</ref>。 |
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更にナボポラッサルは王太子[[ネブカドネザル2世]](ナブー・クドゥリ・ウツル2世、在位:前604年-前562)に、アッシリア残党を支援した[[古代エジプト|エジプト]]([[エジプト第26王朝|第26王朝]])を攻撃させ、前605年に[[カルケミシュの戦い]]でエジプトを破り、[[歴史的シリア|シリア]]を支配下に置くことに成功した<ref name="渡辺1998p366">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 366</ref>。翌年即位したネブカドネザル2世は、[[旧約聖書]]にある[[バビロン捕囚]]の実行者としても有名である。彼は前597年に[[エルサレム]]を占領すると、その王[[エホヤキン]]他有力者たちをバビロンへと連行し、[[ゼデキヤ (ユダ王)|ゼデキヤ]]を王位につけた<ref name="渡辺1998p366"/>。更に前586年にはゼデキヤが反乱を起こしたため、これを討伐して再びエルサレムを占領し、ゼデキヤとユダの人々を連行した<ref name="渡辺1998p366"/>。この結果ユダ王国は滅亡した。彼は[[フェニキア]]の都市[[ティルス]]や周辺の王国も攻撃して併呑し、パレスチナはバビロニアの属領となった<ref name="渡辺1998p366"/><ref name="山田2017p49">[[#山田 2017|山田2017]], p. 49</ref>。 |
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ネブカドネザル2世は建築活動を熱心に行った事が、大量に残された建築記念碑文などから知られている<ref name="山田2017p54">[[#山田 2017|山田2017]], p. 54</ref>。彼が残した建築遺構にはバビロニアを代表する建造物として名高い[[イシュタル門]]や、[[バベルの塔]]のモデルとなったともされるマルドゥク神殿[[エサギル]]の[[ジッグラト]]跡などが含まれ、また現在発掘調査が行われているバビロン市の遺構は大部分が彼の治世のものである<ref name="渡辺1998pp367">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], pp. 367-368</ref>。 |
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最後の王[[ナボニドゥス]](ナブー・ナイド、在位:前555年-前539年)は、祭祀に没頭し政治を顧みなかったともされる<ref name="渡辺1998p369">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 369</ref>。彼は[[月神]][[シン (メソポタミア神話)|シン]]の崇拝に没頭し、バビロンの南西800キロにあるアラビアのオアシス都市[[タイマー (サウジアラビア)|テイマ]]に10年に渡って滞在するという不可解な行動をとった<ref name="渡辺1998p369"/><ref name="山田2017p93">[[#山田 2017|山田2017]], p. 93</ref>。この都市はウルやハッラーンと並ぶ月神信仰の中心地であった<ref name="フィネガン1983p150">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 150</ref>。本国の政治は王太子[[ベルシャザル]](ベル・シャル・ウツル)に任された<ref name="渡辺1998p370">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 370</ref>。 |
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この頃、[[イラン高原]]ではメディアを打倒した[[アンシャン]]の王[[キュロス2世]](クル2世、在位:前559年-前530年)が新たな世界帝国を築きつつあった。これは一般に[[アケメネス朝]](ハカーマニシュ朝)、あるいはペルシア帝国などと呼ばれる。前540年までにはエジプトを除くバビロニアの周辺諸国はアケメネス朝の支配下に落ちていた。テイマ周辺の遊牧民の族長たちもキュロス2世になびき、ナボニドゥスはテイマを放棄して本国へ帰還せざるを得なかった<ref name="マッキーン1976pp194">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], pp. 194</ref>。前539年3月にはキュロス2世がバビロニアに侵攻し、ナボニドゥスは迎撃したが国内からは離反者が相次いだ<ref name="マッキーン1976pp195">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 195</ref>。10月10日に[[シッパル]]が陥落し、10月12日にはキュロス2世の軍勢はバビロンへ達した<ref name="フィネガン1983p152">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 152</ref>。同日中にバビロンは無血開城し、シッパル陥落の報に接して逃亡したナボニドゥスは遊牧民に捕らわれてバビロンへ差し出された<ref name="マッキーン1976pp196">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], pp. 196</ref>。10月29日、キュロス2世は市民の歓呼の中でバビロンに入城し、バビロニアはアケメネス朝の支配下に入った<ref name="マッキーン1976pp196"/>。 |
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=== アケメネス朝 === |
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{{Main|アケメネス朝}} |
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[[ファイル:Achaemenid Empire En.svg|thumb|right|300px|[[アケメネス朝]](ペルシア帝国)]] |
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キュロス2世はバビロニア人からの支持を維持することに腐心し、バビロニアの伝統的な王号である「世界の王」「シュメールとアッカドの王」「四方領域の王」などを採用すると同時に、マルドゥク神とナブー神と言うバビロニアの神がキュロスに王権を与えたことを宣言している<ref name="田辺2003p155">[[#田辺 2003|田辺 2003]], p. 155</ref>。また新バビロニア時代に強制移住によってバビロニアに連れてこられた人々に対し故郷への帰還を許可し、「ナボニドゥスの悪行」によって荒廃した建造物と信仰とを救い出すことを喧伝した<ref name="マッキーン1976pp275">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 275</ref>。アケメネス朝の支配下にあってもバビロニアの経済的繁栄は継続し、エギビ家のような大商人や銀行家は栄え続けた<ref name="マッキーン1976pp278">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 278</ref>。キュロス2世はバビロニアを離れる時、息子の[[カンビュセス2世]](カンブジヤ2世、在位:前530年-前522年)をバビロンの総督に任命し、彼は父の死までの間平穏に統治することができた<ref name="マッキーン1976pp279">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 279</ref><ref name="山本1997p124">[[#山本 1997|山本 1997]], p. 124</ref>。前530年にキュロス2世が[[マッサゲダイ]]との戦闘中に戦死しカンビュセス2世が即位した際には、バビロニアを含め帝国内は平穏であり目立った反乱は発生しなかった<ref name="山本1997p125_126">[[#山本 1997|山本 1997]], pp. 125-126</ref>。 |
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しかし、カンビュセス2世が死ぬと僭称者とされる[[スメルディス]]([[ガウマータ]])を排除して王位に昇った[[ダレイオス1世]](ダーラヤワウ1世、在位:前522年-前486年)は帝国全土で発生した反乱の鎮圧に追われた<ref name="山本1997p131">[[#山本 1997|山本 1997]], p. 131</ref>。バビロニアもこの時反乱を起こした属州の一つであった。ダレイオス1世が残した[[ベヒストゥン碑文]]の記録などから、バビロニアでは前522年10月に{{仮リンク|ネブカドネザル3世|en|Nebuchadnezzar III}}(ナブー・クドゥリ・ウツル3世、ニディントゥ・ベール、在位:前522年)が、そして前521年には[[アルメニア人]]とされる[[ネブカドネザル4世]](ナブー・クドゥリ・ウツル4世、アラカ、在位:前521年)が、それぞれ反乱を起こして鎮圧されたことが伝わる<ref name="山本1997p131"/><ref name="森谷2016pp67_68">[[#森谷 2016|森谷 2016]], pp. 67-68</ref><ref name="マッキーン1976pp281">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 281</ref>。バビロニアはこの反乱にもかかわらず繁栄を維持し、後継者と定められた[[クセルクセス1世]](クシャヤールシャン1世、在位:前486年-前465年)は王の代理人としてバビロンに駐在した<ref name="マッキーン1976pp283">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 283</ref>。 |
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クセルクセス1世が即位した後、バビロニアでは再び反乱が発生した。前482年にバビロニア総督ゾビュラスは暴動の中で殺害され、ベル・シマンニとシャマシュ・エリバと言う人物が王位を主張した<ref name="マッキーン1976pp284">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 284</ref>。ペルシア軍によって反乱はたちまち制圧されたが、この代償は高くつき、バビロンの城壁、マルドゥク神殿とジッグラトは破壊され、黄金製のマルドゥク神像は融解された<ref name="マッキーン1976pp284"/><ref name="サルヴィニ2005p138">[[#サルヴィニ 2005|サルヴィニ 2005]], p. 138</ref>。クセルクセス1世は、父の代まで用いられてきた「バビロンの王」と言う称号を拒否し、バビロニア属州(バービル)はアッシリア属州(アスラー)と合併させられたと伝えられる<ref name="マッキーン1976pp284"/>。ただし、「バビロンの王」と言う称号は実際にはその後も[[アルタクセルクセス1世]]時代まで使用され続けていたことが発掘史料によって確認されている<ref name="前田ら2000pp147_148">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], pp. 147-148</ref>{{refnest|group="注釈"|クセルクセスのバビロンにまつわる見解にはギリシア人の著述家の影響が強く反映しており、実際にはクセルクセスによる神殿の破壊やマルドゥク神像の破壊は無かったとする説がある<ref name="前田ら2000pp147_148"/>。}}。 |
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=== ヘレニズム時代 === |
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{{Main|ヘレニズム|アレクサンドロス3世|セレウコス朝}} |
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[[ファイル:Alexander and Bucephalus - Battle of Issus mosaic - Museo Archeologico Nazionale - Naples BW.jpg|thumb|left|アレクサンドロス3世(大王)]] |
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[[マケドニア]]の王[[アレクサンドロス3世]](大王、在位:前336年-前323年)は[[古代ギリシア|ギリシア]]全土の支配権を握り、前334年春には[[ダーダネルス海峡]]を越えて東征を開始した<ref name="小川1997p182">[[#小川 1997|小川 1997]], p. 182</ref>。アケメネス朝の最後の王[[ダレイオス3世]](ダーラヤワウ3世、在位:前336年-前330年)はこれを迎え撃ったが、[[イッソスの戦い]](前333年)と[[ガウガメラの戦い]](前331年)で相次いで敗北し、アケメネス朝は瓦解、その遺領はアレクサンドロス3世に制圧された<ref name="小川1997pp182_190">[[#小川 1997|小川 1997]], pp. 182-190</ref>。[[インド亜大陸|インド]]北西部までを征服したアレクサンドロス3世は前323年にバビロンで病死した<ref name="小川1997p190">[[#小川 1997|小川 1997]], p. 190</ref>。彼の死後、その将軍たちは後継者([[ディアドコイ]])であることを主張し、互いに争った<ref name="小川1997p191">[[#小川 1997|小川 1997]], p. 191</ref>。バビロンでその遺領の後継を巡る会議が開かれ、主導権を握った[[ペルディッカス]]らによって帝国各地の統治分担が決定された<ref name="小川1997p191"/>。しかしペルディッカスが内戦と権力闘争に敗れ暗殺されると、前321年に[[アンティパトロス]]の主導でシリアの[[トリパラデイソス]]で再度領土分割の会議が持たれ、この結果バビロニアは[[セレウコス1世]](在位:前305年-前281年)の所領となった<ref name="小川1997p191"/>。 |
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この会議において卓越した地位を獲得したのは主導者のアンティパトロスと[[フリギア]]または[[リュディア]]の総督[[アンティゴノス1世]]であった。前319年にはアンティパトロスが死亡したが、その後継者となった[[ポリュペルコン]]はアンティゴノス1世と激しく対立し、長い戦争が繰り広げられることになった<ref name="マッキーン1976pp294">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 294</ref>。アンティゴノス1世に与したセレウコス1世を、ポリュペルコン麾下の将軍[[カルディアのエウメネス]]が攻撃し、前318年10月にバビロンが占領され、セレウコス1世の反撃は失敗した<ref name="マッキーン1976pp294"/>。セレウコス1世は翌年にアンティゴノス1世の助力を得て北部バビロニアに戻り、前316年にアンティゴノス1世のエウメネス討伐軍に合流してこれを破る事に成功した<ref name="マッキーン1976pp294"/><ref name="シャムー2011p71">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 71</ref>。旧アレクサンドロス王国の大部分を支配下に収めたアンティゴノス1世は、バビロニアを支配するセレウコス1世を疎んずるようになり、前315年にセレウコス1世はバビロニアを脱してエジプトの[[プトレマイオス1世]]の下に身を寄せた<ref name="ウォールバンク1988p68">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 68</ref>。そしてプトレマイオス1世とアンティゴノス1世の戦いに乗じる形で、前311年にバビロニアに舞い戻りその支配権を奪回した<ref name="シャムー2011p73">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 73</ref>。後に[[セレウコス朝]]で用いられる[[セレウコス暦]]はこの年をもってセレウコス朝の統治の始まりと規定し、数世紀にわたってバビロニアを含むその領土で共通の暦法として用いられた<ref name="シャムー2011p73"/>。この戦い([[ディアドコイ戦争]])の過程で地中海からメソポタミアに至る地域にヘレニズム王朝([[アンティゴノス朝]]、[[プトレマイオス朝]]、[[リュシマコス朝]]、[[アンティパトロス朝|カッサンドロス朝]]、[[セレウコス朝]])と呼ばれるグレコ・マケドニア系の諸王国が成立した。バビロニアの支配を盤石なものとしたセレウコス1世は、[[イラン高原]]もその支配下に収め、東はインドとの境まで<ref name="シャムー2011p74">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 74</ref>、西は前301年に[[イプソスの戦い]]でアンティゴノス1世を破ってシリア・アナトリアまでを支配下に収めた<ref name="シャムー2011p81">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 81</ref>。 |
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バビロニアにおけるセレウコス朝時代の極めて重要な変化は、セレウコス1世が新たなバビロニアの中心として新都市、[[セレウキア|ティグリス河畔のセレウキア]]を建設したことであった<ref name="マッキーン1976pp295">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 295</ref>。セレウキア市の建設はセレウコス朝がバビロニアを重視していたからこそであったが<ref name="大戸1993p327">[[#大戸 1993|大戸 1993]], p. 327</ref>、商業的中心としてのバビロンの地位を脅かし、その最終的な放棄へと至る出発点となった<ref name="マッキーン1976pp295"/>。バビロンの人口は徐々に減り始め、その建物の建材はセレウキアでの建設活動に転用された<ref name="マッキーン1976pp296">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 296</ref>。セレウコス1世の後継者[[アンティオコス1世ソテル|アンティオコス1世]](在位:前281年-前261年)はバビロンの神殿建設を続けてはいるが、前275年頃にバビロンの市民にセレウキアへ移住するように命じ、その家屋を没収した<ref name="マッキーン1976pp296"/><ref name="サルヴィニ2005p139">[[#サルヴィニ 2005|サルヴィニ 2005]], p. 139</ref>。この時没収された土地は[[アンティオコス2世テオス|アンティオコス2世]](在位:前261年-前247年)の時代に返還された<ref name="マッキーン1976p297">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 297</ref>。セレウコス朝はなおバビロニアの伝統的な宗教に一定の敬意を払った。当時バビロニアでは既にアッカド語(バビロニア語)は口語としては死語となりつつあり、一部では[[ギリシア語]]が普及し、そしてより広い範囲ではアラム語が支配的な言語となっていたが、考古学的発見によって、バビロンとウルクの神殿では伝統的なアッカド語(バビロニア語)の楔形文字文書が作成され続けていることがわかっている<ref name="大戸1993pp328_337">[[#大戸 1993|大戸 1993]], pp. 328-337</ref>。 |
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=== パルティアの征服とバビロンの放棄 === |
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{{Main|パルティア}} |
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バビロニアは前141年7月、[[パルティア|アルサケス朝]](アルシャク朝、パルティア)の王[[ミトラダテス1世]](ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)に征服された。その後、セレウコス朝とパルティアのバビロニア争奪戦の中でバビロンの支配者は何度も入れ替わり、最終的に[[ミトラダテス2世]](ミフルダート2世、在位:前124年-前90年頃)によってパルティアのバビロニア支配が確定した<ref name="マッキーン1976pp298_300">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], pp. 298_299</ref>。この間にバビロンは大きく破壊され、多くの住民がメディアへと連れ去られた<ref name="マッキーン1976pp298_300"/>。 |
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商業的中心がセレウキアと、パルティア人がその対岸に作った[[クテシフォン]](テーシフォーン)に移った後も、バビロンはなお宗教的中心としての役割は残していた<ref name="サルヴィニ2005p139"/>。また、パルティア時代にはいくつかの大型建造物が再建されており<ref name="サルヴィニ2005p139"/>、西暦0年代頃には[[パルミラ|パルミュラ人]]商人の居留地がバビロンに建設された<ref name="マッキーン1976pp298_300"/>。これがバビロン最後の繁栄となり、半世紀後にパルミュラ人たちがセレウキア・クテシフォンへと移動するとともにバビロンは孤立した都市として衰亡の一途をたどった<ref name="マッキーン1976pp298_300"/>。 |
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バビロンが完全に放棄された年代は明確ではない。1世紀の学者[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]はマルドゥク神殿がなお瓦礫の中に立っており、活動を継続していたことを報告しているが<ref name="サルヴィニ2005p139"/><ref name="マッキーン1976pp298_300"/>、20世紀の学者サルヴィニやマッキーンなど現代の学者は西暦始めの1世紀のうちにバビロンが放棄されたと語る。マッキーンは[[カッシウス・ディオ]]などの古典古代の作家の記録に基づき、次のようにバビロンの最期を描写している。 |
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{{quotation| |
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[[ローマ皇帝]][[トラヤヌス]]は、一一六年のパルチア遠征の途上、冬季をここ(引用注:バビロン)で宿営した。かれは伝えられた名声にひかれてバビロンを訪れたが、土塁と石と廃墟とを見たにすぎなかった。かれが為し得たのは、アレクサンダー王の逝去した部屋の跡で犠牲を捧げることだけであった。<br/> |
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-J. G. マッキーン、岩永博訳 |
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しかし[[ルーヴェン・カトリック大学]]の[[トム・ボーイ]](Tom Boiy)は、初期キリスト教徒の著作内におけるバビロンへの言及などの分析を通じて、その「都市」としての規模が不明ながらバビロンはさらに長く存続していたと主張している<ref name="Boiy2004p192">[[#Boiy 2004|Boiy 2004]], p. 192</ref><ref name="柴田2018p137">[[#柴田 2018|柴田 2018]], p. 137</ref>。[[テオドレトス]]によれば、最末期の住民の数は少なく、それはもはや「アッシリア人」でも「バビロニア人(カルデア人)」でもなく[[ユダヤ人]]であったという<ref name="Boiy2004p192"/>。 |
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バビロンの終焉と共に、古代シュメール時代から連綿と受け継がれてきた楔形文字による文筆活動は完全に停止し、アッカド語(バビロニア語)も忘れ去られた。その後もバビロニアに相当する地域は中東の政治・社会・経済における中心の一つであったが、バビロニア文化の多くは後のペルシア文化やイスラーム文化に痕跡を残しつつ終焉を迎えた。楔形文字文書の作成が終焉を迎えた時期は正確には不明である。年代がはっきりしているものの中で、現在知られている最後の楔形文字によるアッカド語文書は西暦74/75年の天文記録であり<ref name="柴田2018p137"/><ref name="コトバンクアッカド語">[[#コトバンク アッカド語|コトバンク 「アッカド語」の項目より]]</ref>、年代不明の文書の一部は1世紀以降まで時代が下るであろう<ref name="柴田2018p138">[[#柴田 2018|柴田 2018]], p. 138</ref>。トム・ボーイはバビロンには西暦3世紀までは人間が居住していたと結論づけている。 |
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== 言語と住民 == |
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=== 「民族」 === |
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バビロニアの歴史では数多くの「民族」が登場し、様々な王朝を打ち立てた。このためしばしばその歴史は「諸民族の興亡」の過程として描かれる<ref name="柴田2014pp23_25">[[#柴田 2014|柴田 2014]], pp. 23-25</ref>。しかし、バビロニア史(さらにはメソポタミア史)に登場する「民族(エトノス)」、例えばシュメール人、アッカド人、カッシート人、アラム人などを日本人、フランス人、ロシア人のような現代の「民族(ネイション)」と同質の物として扱うことに対しては複数の学者が警鐘を鳴らしている<ref name="柴田2014pp23_25"/>。こうしたバビロニアの「民族」を現代の学者が区分する時、しばしばその根拠は彼らが母語としていた(と予想される)言語の分類に依っている<ref name="柴田2014p27">[[#柴田 2014|柴田 2014]], p. 27</ref>。即ちシュメール人とはシュメール語を母語とする人々であり、カッシート人とはカッシート語を母語とする人々という事になる<ref name="柴田2014p27"/>。また、多くの言語は系統毎に分類が行われている([[アフロ・アジア語族]]:セム語に分類されるアッカド語、アラム語など)。 |
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しかし、バビロニアの人々のアイデンティティや共同体意識が言語区分に従って形成されていたことは必ずしも証明されない<ref name="柴田2014pp29_33">[[#柴田 2014|柴田 2014]], pp. 29-33</ref>。少なくともバビロニア(シュメールとアッカドの地)という地域的まとまりが形成される以前のシュメール人たちやアッカド人たちが残した文書からは言語毎にまとまった共同体意識が存在したことを読み取ることはできず、彼らの帰属意識はむしろ各々の都市にあったことが示されている<ref name="前田2003pp163_166">[[#前田 2003|前田 2003]], pp. 163-166</ref>。 |
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無論、言語自体は人々を区別する上で重要な要素の一つではあり、例えばアラム人(Aramāya)という用語で呼ばれていた遊牧民の部族集団の主たる言語はアラム語であったと考えられている<ref name="柴田2014pp29_33"/>。だが、この用語は(同義語とみられるストゥ人''Sutiu/Sutû''と共に)「アラム人ではない者」から用いられる外部からの呼称として登場し、「アラム人」自身が共同体意識を持っていた事は確認されていない<ref name="柴田2014pp29_33"/>。彼ら自身の自己認識・帰属意識を決定していたのは血縁や部族、共通した生活習慣などであったと考えられる<ref name="柴田2014pp29_33"/>。従って、「アラム人」と言う概念は当時より存在したものの、アラム語によって結びつく政治的一体性や共同体意識を持った「アラム人」と言う集団が存在していたわけではなく、あくまでアラム系と呼びうる人々の分類が存在したに過ぎない<ref name="柴田2014pp29_33"/>。 |
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つまり、バビロニアに登場する様々な「民族」が覇権を争い、あるいは主導権争いをしていたわけではなく、より様々な要素で分類されうる多様な共同体がそれぞれにバビロニアの住民としてその歴史に関わっていたのであり、現代において言語毎に設定された「民族」の分類は古い学説の援用<ref name="柴田2014pp33_39">[[#柴田 2014|柴田 2014]], pp. 33-39</ref>、または便宜上のものである{{refnest|group="注釈"|ただし、2005年の段階でも、「バビロニア人」や「アッシリア人」といった用語をあたかも現代の「フランス人」や「ドイツ人」といった用語と等価の分類として扱うような研究は存在する<ref name="柴田2014pp23_25"/>。}}。 |
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=== 文字に残されたバビロニアの言語 === |
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{{See also|アッカド語|シュメール語|アラム語}} |
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[[ファイル:Cuneiform prism describing the restoration of Babylon by Esarhaddon, stamped with Assyrian hieroglyphic inscription MET DP375615.jpg|thumb|right|250px|アッシリア王[[エサルハドン]]によるバビロン再建記念文書]] |
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バビロニアではその長い歴史を通じて多数の「民族」が住み着き、多様な言語が使用されていた。しかし、筆記法を備え文字記録によって現代に残されているものは限られている。主要な言語としてまず挙げられるのは、初期王朝時代以前から使用され、楔形文字を直接生み出した系統不明の言語である'''[[シュメール語]]'''である。シュメール語は前2千年紀の初頭、少なくともハンムラビ時代頃までには口語としては使用されなくなっていたと考えられる<ref name="前田ら2000p43">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 43</ref>。しかし、文語としては、学問の言語、また祈りの言語として使用され続け、セレウコス朝時代までシュメール語による文書が残されている。バビロニアの歴史上の多くの期間において中心的な言語となったのは'''[[アッカド語]]'''である。アッカド語は[[アフロ・アジア語族]]の中の[[東セム諸語]]に分類される言語であり、[[アッカド語|アッシリア語]]、[[アッカド語|バビロニア語]]は共にこのアッカド語の方言と分類される<ref name="オリエント事典アッカド語">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.14-15. 「アッカド語」の項目より。</ref><ref name="渡辺1998ap255">[[#渡辺 1998a|渡辺 1998a]], p. 255</ref>。前2千年紀にはアッカド語はオリエント世界の共通語として広く外交言語や商業言語としても用いられ、例えばエジプトで発見された[[アマルナ文書]]からはアッカド語(バビロニア語)の外交書簡が発見されている<ref name="渡辺1998bpp272_275">[[#渡辺 1998b|渡辺 1998b]], pp. 272-275</ref>。 |
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同じくアフロ・アジア語族の[[西セム諸語]]に分類される'''[[アラム語]]'''は前1千年紀に入ると広く普及し、アッカド語もアラム語から大きな影響を受けた<ref name="オリエント事典アッカド語"/>。[[アラム人]]は、その商業活動による移住とアッシリア帝国時代の強制移住とによってオリエント世界の広範囲に居住するようになり、それに伴いアラム語が広く通じる共通語となっていった<ref name="高階1985pp288-293">[[#高階 1985|高階 1985]], pp. 288-285</ref><ref name="オリエント事典アラム人">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.40-41. 「アラム人」の項目より。</ref>。この影響を受けて、アッシリアと共にバビロニア人の日常言語も次第にアッカド語からアラム語へと切り替わっていった。既にアッシリア帝国時代には書記が二人一組でアッカド語とアラム語の記録を取る様子が壁画に残されており、アラム語の普及が始まっていたことがわかる<ref name="渡辺1998p355">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 355</ref>。前7世紀頃にはアッカド語で書かれた粘土板の外部に文書の概要をアラム語でメモ書きしたものも見られるようになり、これもアラム語の普及を示している<ref name="高階1985pp288-293"/>。 |
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アッカド語からアラム語への変化は、記録媒体の変化をも伴っていた。アッカド語が[[楔形文字]]で粘土板に筆記されたのに対し、アラム語は[[アラム文字]](アルファベット)で[[羊皮紙]]や[[パピルス]]などに筆写された<ref name="高階1985pp288-293"/><ref name="渡辺1998p355"/>。このためアラム語は楔形文字で筆記される言語に比べ早く書くことができ、また書写材の制限も少なかったことが普及の大きな要因であった<ref name="高階1985pp288-293"/>。しかし、これらは粘土板に比べて耐久性に劣ったため、アラム語で書かれた文書の多くは風化し現代に残されていない。このためにアッカド語が衰退しアラム語に切り替わっていった前1千年紀後半は、現地史料が極めて乏しくなっている。楔形文字による記録は少なくともバビロンとウルクではセレウコス朝、更にパルティア時代まで続いたが、この時代のアッカド語文書はもはや口語としてのアッカド語が死語となり、日常言語が完全にアラム語に切り替わっていたことを示している<ref name="大戸1993p332">[[#大戸 1993|大戸 1993]], p. 332</ref>{{refnest|group="注釈"|大戸千之はヘレニズム時代のウルクにおける粘土板文書について以下のように述べる。「ヘレニズム期ウルクの粘土板文書についてみるならば、アッカド語に通じた書記の手になるものとは考えがたいところがある。つまり、書きまちがいが少なくないということだ。それは格変化を誤ったり、性をとりちがえたりするというにとどまらず、複数人称の動詞語尾をつけるのに名詞のそれとまちがったりするほどのものであるという。(中略)当時日常の言語は、くりかえしいうようにアラム語であったと考えられる。粘土板契約文書の中には、一部にアラム語が数語、ぞんざいに書き込まれている例がある。これはいうまでもなく当事者のメモであって、楔形文字で書くということは、やはり特別のことなのだ、と感じさせる<ref name="大戸1993p336">[[#大戸 1993|大戸 1993]], p. 336</ref>。」}}。 |
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アレクサンドロス3世による征服の後には[[ギリシア語]]も一部に普及した。しかし、アラム語と同様に羊皮紙やパピルスに筆記されたその文書は現代には残されていない。これらの文書が「かつて存在したこと」だけが、その文書を保管するために用いられていた封印が多数残されていることによって理解される<ref name="大戸1993p332"/>。 |
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=== その他の言語 === |
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バビロニアで使用されていたであろうその他の言語は、筆記法を持たなかったためにその人名や神名のような固有名詞や極一部の単語を除き、詳細を知る術がほとんどない。前2千年紀前半にバビロニアを席巻した[[アムル人]](アモリ人)の諸部族が話していた言語は[[アムル語]]と呼ばれているが、この言語で書かれた文書は存在しない<ref name="オリエント事典アモリ人">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.29-30. 「アモリ人」の項目より。</ref>。アムル語は西セム語に分類され、アラム語や[[ヘブライ語]]と密接な関わりを持っていると考えられている<ref name="オリエント事典アモリ人"/>。 |
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前16世紀以降、バビロニアを統一する王朝を作り上げた[[カッシート人]]たちの言語([[カッシート語]])もバビロニアで使用されていたはずであるが、情報源はアッカド語文中に登場する僅かな数の固有名詞と単語に限られるため、どのような言語系統に属するのか明らかではない<ref name="前田ら2000p79">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 79</ref>。かつては[[インド・ヨーロッパ語族|インド・ヨーロッパ語]]の一つとされたこともあるが、現在では支持されていない<ref name="渡辺1998p275"/>。 |
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== 宗教と神話 == |
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{{Main|バビロニア神話}} |
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古代世界における一般的な信仰体系と同じく、バビロニア(あるいは更に広くメソポタミア)では、現代社会におけるように[[宗教]]と[[世俗]]を弁別するような観念は存在しなかった<ref name="岡田小林2008pp2-5">[[#岡田・小林 2008|岡田・小林 2008]], 三笠宮崇仁による序文 p. 2-5</ref>。 |
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バビロニアに住む人々はシュメール時代から信仰されていた数多くの神々を崇拝したが、後世の[[啓示宗教]]のような統一的な教義や聖典が準備されることはなく、神々の地位は人々の間での人気やそれを称揚する王朝の盛衰に伴って変化した{{refnest|group="注釈"|フランスの歴史学者[[ジャン・ボテロ]]はバビロニアを含むメソポタミアの宗教について次のように指摘している。「しかしメソポタミアの宗教について考察する際には、[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]、さらには[[仏教]]など、今日われわれが最も普通に出会う大宗教のシステムと同様のものとしてメソポタミアの宗教を想像させるあらゆるものを、われわれから遠ざけておく方が望ましい。(中略)それは歴史上のある時期に、強い宗教精神の持ち主によって始められたものではなかった。メソポタミアの宗教は、先史の闇のなかで同じように聖なるものに向き合って、この地の住民が彼らの伝統文化固有の視点、感性、心性から引き出すことのできた彼ら共通の反応に由来するものであって、それゆえ彼ら生来の考え方、感じ方、生き方を超自然に当てはめたものにほかならない<ref name="ボテロ1998p304">[[#ボテロ 1998|ボテロ 1998]], p. 304</ref>。}}。シュメールの神々はアッカドの神々と同一視され、シュメール語とアッカド語両方の名前が使用された<ref name="岡田小林2008p15_17">[[#岡田・小林 2008|岡田・小林 2008]], pp. 15-17</ref>。 |
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=== 神々 === |
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シュメール時代以来、バビロニア地方では数多くの神々が信仰された。偉大な神々は「[[天空]]」「[[地球の大気|大気]]」「[[大地]]」「[[深淵]]」「[[冥界]]」「[[豊作|豊穣]]」などの神性を有していると共に、各都市に固有の守護神でもあった<ref name="岡田小林2008p17">[[#岡田・小林 2008|岡田・小林 2008]], p. 17</ref>。また、シュメール時代には、より身近な神として個々の人々を保護し、大いなる神々と人々の間を取り次ぐ[[個人神]]という概念が存在した<ref name="岡田小林2008p17"/>。個人神の神格は低く、シュメール時代の王たちの個人神を例外として、名前すらほとんど伝わらない<ref name="岡田小林2000pp61_62">[[#岡田・小林 2000|岡田・小林 2000]], pp. 61-62</ref>。ウル第三王朝以降、バビロニア時代には個人神の概念が発達し、固有の神名をふられることなく「私の神」「私の女神」として崇められた<ref name="岡田小林2000pp64_66">[[#岡田・小林 2000|岡田・小林 2000]], pp. 64-66</ref>。 |
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==== 神性 ==== |
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「神」を意味する単語はシュメール語で'''[[ディンギル]]'''(''Dingir'')、アッカド語で'''イル'''(''iru'')であった<ref name="ボテロ2001p71">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 71</ref>。だが、これらの用語からメソポタミアにおける「神」の概念の源流を読み取ることはできない。''Dingir''、''Iru''の両語は共に、語構成の中に語源を解き明かすヒントは含まれていない<ref name="ボテロ2001p96"/>。 |
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楔形文字の文書では同音の言葉が多数存在したため、ある単語が何を表しているかを示す発音しない記号([[限定詞]]、限定符とも)が用いられた。例えばある単語が「土地」の名前である場合には限定詞''KI''が、「川」の名前である場合には''ID''が付された。神を表す限定詞の記号は[[アスタリスク]]に似た星を表す文字𒀭で、現代の学者は「神」を意味するシュメール語のディンギル(''DINGIR'')と同じ名称で呼んでいる<ref name="ボテロ2001p96">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 96</ref>。神を表す限定詞として星が選ばれたのは「天」「一際高い」といった神の持つ卓越性・優越性が意識された結果であろう<ref name="ボテロ2001p96"/>。 |
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バビロニアを含むメソポタミアの宗教において、「神性」即ち何が神であるのかについての概念が明確に規定されたことはなく<ref name="ボテロ2001p95">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 95</ref>、ただ恩恵をもたらすによ被害をもたらすにせよ、その力が人間よりも卓越した存在として認識されていた<ref name="ボテロ2001p96"/>。神々を称える際の決まり文句には「強く(''dannu/gašru'')」「並外れて強く(''dandannu/kaškaššu)''」「偉大である(''rabû'')」「非常に高くに位置し(''šûturu'')」「威厳に満ち(''šagapûru'')」「輝きに満ち(''šûpû'')」「完璧である(''gitmal'')」など、その優越性を示す物が無数に見つかる<ref name="ボテロ2001p96"/>。また、明確に人と神とを隔てる特徴の一つが神が不死であることであった<ref name="ボテロ2001p1011">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 1011</ref>。 |
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フランスの歴史学者ジャン・ボテロは、古いシュメール時代の描写では神々の行動と思考は「幼稚」で「粗野」で「無骨」であり、明らかに人間と同じ特徴を有していたと評している<ref name="ボテロ1998p325">[[#ボテロ 1998|ボテロ 1998]], p. 325</ref>。しかし、時代が進むと共にその描写における品行は少しずつ洗練される傾向があった<ref name="ボテロ1998p326">[[#ボテロ 1998|ボテロ 1998]], p. 326</ref>。前2千年紀初頭以降、人々は「高位」の存在に相応しい気高く崇高な性格を神々に与えるようになっていった<ref name="ボテロ1998p326"/>。 |
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==== 主要な神々 ==== |
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[[ファイル:Marduk and pet.jpg|thumb|right|[[マルドゥク]]神と随獣[[ムシュフシュ]]]] |
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以下にバビロニアで信仰された主要な神々を記す。複数の名前が記されている神名は原則として左側がシュメール語名、右側がアッカド語(バビロニア語)名である。 |
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* '''[[アヌ (メソポタミア神話)|アン/アヌ]]''':天空神であり理念上は最高神である。シュメール語でアン(An)は「天」を意味すると共に、天空神の名前でもあった。セレウコス朝時代には[[ウルク]]で[[イシュタル]]女神と並んで重要視された。シュメール時代からバビロニア時代までの全期間を通じて最も重要な神の1柱とされていたにもかかわらず、文学や芸術的な描写がされることは少なくその性質はよくわかっていない<ref name="オリエント事典アヌ_アン">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], p. 26. 「アヌ/アン」の項目より。</ref>。 |
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* '''[[エンキ|エンキ/エア]]''':地下の清水の大洋(アプスー)を司る神であり、知恵・魔術・呪文などの属性と結び付けられた。信仰の中心は[[エリドゥ]]市のエアブズ神殿であり、『[[アトラ・ハシース|アトラハシス叙事詩]]』や『[[ギルガメシュ叙事詩]]』の[[大洪水|洪水神話]]では大洪水から人間が逃れるのを助ける役回りを演ずるなど、常に人間に好意的な神として描写された<ref name="オリエント事典エア">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], p. 86. 「エア」の項目より。</ref>。 |
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* '''[[エンリル]]''':メソポタミアのパンテオンにおいて最も重要な神の1柱である。信仰の中心地は[[ニップル]]市のエクル神殿であり<ref name="オリエント事典エンリル">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], p. 109. 「エンリル」の項目より。</ref>、その重要性からイシン・ラルサ時代にはニップル市は各国の争奪の対象となった。バビロニアの王権概念と深く結びついており、「エンリル権」という用語は王権を意味した<ref name="岡田小林2000pp119_121">[[#岡田・小林 2000|岡田・小林 2000]], pp. 119-121</ref>。ハンムラビ法典の序文ではエア神の長子[[マルドゥク]]にエンリル権を授けたとされている<ref name="岡田小林2000pp119_121"/>。 |
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* '''[[シャマシュ|ウトゥ/シャマシュ]]''':[[太陽神]]であり、[[正義]]を司る神とされた。アッカド語のシャマシュは元来は女神であったと考えられるが、男神であるシュメールの太陽神ウトゥとの習合の過程で男神に変化したと考えられている。ウトゥの主神殿はアッカドの[[シッパル]]とシュメールの[[ラルサ]]にあった<ref name="オリエント事典シャマシュ">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], p. 254. 「シャマシュ」の項目より。</ref>。ハンムラビ法典の上部には祈りの仕草を取るハンムラビの対面に玉座に座すウトゥ/シャマシュが描かれており、これが最も有名な図像表現である<ref name="岡田小林2000pp119_121"/>。 |
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* '''[[マルドゥク|アマルウトゥ/マルドゥク]]''':非常に古い時代からバビロン市の守護神とされていた。[[シュメール初期王朝時代]]からアマルウトゥ/マルドゥクへの言及があるが、シュメール時代にはさしたる重要性を持つ神ではなかった。元来は農耕神であったと考えられているが、バビロン市の隆盛と共にその神格は向上し続け、ハンムラビ時代にはエンリルから王権を授けられた神と描写され、更に後には神々の王となり、他の神々の多くはマルドゥクの諸相に過ぎないとまでされ、単に'''ベル'''(主人)と呼ばれるようになった<ref name="オリエント事典マルドゥク">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp. 487-488. 「マルドゥク」の項目より。</ref>。天地創造神話『[[エヌマ・エリシュ]]』では[[ティアマト]]女神と彼女が生み出した怪物を退治し1年を12ヶ月と定めたとされる。バビロンを支配した王は「マルドゥク神の御手を取る」儀式を行うことが慣例となり、[[キュロス2世]]や[[アレクサンドロス3世]]もこの慣例に従った<ref name="岡田小林2000pp118_119">[[#岡田・小林 2000|岡田・小林 2000]], pp. 118-119</ref>。 |
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* '''[[イシュタル|イナンナ/イシュタル]]''':性愛と戦いの女神であり、バビロニアの全時代を通じて最も重要な女神であった。イシュタルと言う単語は元来[[金星]]を表したが、この星は[[金星|明けの明星]]としては男神、[[金星|宵の明星]]としては女神であった。バビロニアとアッシリアではこの2柱の神は戦闘神と言う男性的特徴を維持してイシュタルと言う1柱の女神に習合された<ref name="オリエント事典イシュタル">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp. 55-56. 「イシュタル」の項目より。</ref>。 |
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* '''[[シン (メソポタミア神話)|スエン/シン]]''':月神。シュメール語ではスエン、またはナンナであり、ナンナ・スエンとも呼ばれた。その信仰の中心は[[ウル]]であり、新バビロニア時代にはシリアの[[ハッラーン]]も重視された。古バビロニア時代以来人気のある神であったにもかかわらず、パンテオンにおいては下位にあり続けた<ref name="オリエント事典シン">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], p. 290. 「シン(スエン)」の項目より。</ref>。 |
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* '''[[ネルガル]]''':冥界の神。ネルガルと言う名前は恐らく外来語であり、バビロニア人はこの名前に「冥界の主」と言うもっともらしい語源説明を与えたと考えられる。古バビロニア時代までにシュメールの複数の冥界神と習合され、[[クトゥ]]市や[[マシュカン・シャピル]]市を中心的な聖所として、この神の属性とされた危険を回避すべく各地で広く信仰された<ref name="オリエント事典ネルガル">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], p. 392. 「ネルガル」の項目より。</ref>。 |
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* '''[[ナブー (メソポタミア神話)|ナブー]]''':書記の神。「天命の書板」に人間の運命を記す書記であると共に知恵の神でもあり、アムル人の到来を機にバビロニアにもたらされ[[ボルシッパ]]を中心的な聖所とした。カッシート時代にはマルドゥク神の息子とされ、バビロンの新年祭では父であるマルドゥクを訪れるため、その神像が「連れて」こられた。前1千年紀には最高神マルドゥクを凌駕するほどの信仰を集め、少なくともパルティア時代までこの神の祭儀は存続した<ref name="オリエント事典ナブー">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp. 377-378. 「ナブー」の項目より。</ref><ref name="岡田小林2000pp201_205">[[#岡田・小林 2000|岡田・小林 2000]], pp. 201-205</ref>。 |
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このような偉大な神々の大半は、前2千年紀以降、次第にシュメール語よりも好んでセム語(アッカド語)化した名称で呼ばれるようになっていった<ref name="ボテロ1998p325"/>。また、神々は時代と共に類似した属性を持つ別の神と同一視・習合され、次第にその数は少なくなっていった<ref name="ボテロ1998p324">[[#ボテロ 1998|ボテロ 1998]], p. 324</ref>。シュメール時代以来、1,000以上の神々が言及されてはいるが、最終的に実際の信仰行為が第一線で継続する神々は30柱ばかりまで整理されている<ref name="ボテロ1998p325"/>。 |
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==== 神の図像と神像 ==== |
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[[ファイル:Milkau Oberer Teil der Stele mit dem Text von Hammurapis Gesetzescode 369-2.jpg|thumb|right|「鼻に手を置く」礼拝の姿勢を取るハンムラビ王(左)と玉座に座す太陽神シャマシュ。]] |
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神々の姿は原則的に人間をモデルとして描かれており、動物形態、あるいは動物崇拝は採用されていなかった<ref name="ボテロ2001p105">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 105</ref>。一部の動物が神を象徴する存在として宗教的画像に描かれることはあったが、様々な彫像や浮彫、[[円筒印章]]などにおいて神は常に人間の姿で描かれた<ref name="ボテロ2001p106">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 106</ref>。単なる人間とは異なる卓越した神の図像であることを示すために、男神の場合には角のついた冠が被せられていた<ref name="ボテロ2001p106"/><ref name="岡田小林2000pp77_79">[[#岡田・小林 2000|岡田・小林 2000]], pp. 77-79</ref>。女神の場合には尖帽や像の姿の厳粛さなどによって表現された<ref name="ボテロ2001p106"/>。 |
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神の姿を写した神像は大きな宗教的意義を持っていた。神学的な体系を持っていたわけではないが、神像はそれが表現している神その物、あるいは神の存在を内包しているものであり、神像の移動は神が移動したことを意味していた<ref name="ボテロ2001p107">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 107</ref>。これに関連して最も激しい争奪の対象となったのがバビロンの都市神マルドゥクの神像である。戦争の結果として「捕虜」としてマルドゥク神像が連れ去られたこと、そしてそれを奪還したことは、それが真実であるにせよないにせよ、偉大な王の業績として盛んに喧伝された。カッシートの王アグム3世はヒッタイトがバビロン第1王朝を滅ぼした時に奪われたマルドゥク神像を取り戻したとされ<ref name="岡田小林2000p140">[[#岡田・小林 2000|岡田・小林 2000]], p. 140</ref>、イシン第2王朝の王ネブカドネザル1世もまた、エラムに奪われたマルドゥク神像を奪還したことが記録に残されている<ref name="マルドゥクの預言"/><ref name="渡辺1998bp286"/>。アッシリア王エサルハドンとアッシュルバニパルはバビロン市の復興に際して、鹵獲していたマルドゥク神像を返還することで王の寛容を示そうとした<ref name="渡辺1998cp348">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 286</ref>。 |
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ジャン・ボテロはバビロニアにおける宗教観において、神像はその神格自体を内包し、神が「実在すること」を保証していたと述べている<ref name="ボテロ2001p107"/>。そしてこのような「現実感」から、神像は儀式の過程で神その物として他の神々を「訪問」したり、前1千年紀には「聖婚」において二体の神像が「寝室」に並べられて一夜を過ごしたりした<ref name="ボテロ2001p107"/>。 |
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==== 神的存在と呪術 ==== |
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偉大な自然や崇拝すべき事象は人間より上位の存在としてそれ自体が神格化される場合があった。例えば偉大なる山々や水流などがそれにあたった<ref name="ボテロ2001p103">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 103</ref>。とりわけ水流は重視され神に準ずる権威を持っていた<ref name="ボテロ2001p103"/>。川の流れには罪を判別する能力があると考えられたことから、[[神明裁判]]に川が利用された<ref name="ボテロ2001p104">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 104</ref>。有用な力であるとともに脅威でもあった[[火]]も同様に神格化された<ref name="ボテロ2001p104"/>。更に自然の中の重要な出来事、たとえば「小家畜の繁殖(''Laḫlu'')」「穀物の発芽(''Ašnan'')」のような事象が神格化されパンテオンに加えられていた<ref name="ボテロ2001p104"/>。これらの神格化された事象は明らかに第二級の存在であり、頂点を極めた偉大な神々からは大きく隔たった存在であったが、まぎれもなく人々の崇拝の対象であった<ref name="ボテロ2001p104"/>。 |
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また、世にはびこる不幸の理由として言及される危険な「力」も人間を超越した存在として認識されていた<ref name="ボテロ2001p104"/>。これらは現代の学者によって「悪魔(デモン)」と呼ばれているが、当時これらを総称するような名称は存在せず、個別に言及されていた<ref name="ボテロ2001p104"/><ref name="オリエント事典医療">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp. 62-63「医療」の項目より。</ref>。これらもまた神格化されていたことを示す限定詞ディンギルが付されている場合があり、人間を凌駕した「神的」存在であったことがわかる<ref name="ボテロ2001p104"/>。しかしこのような悪魔たちは決して崇拝すべき神々のカタログに掲載されることはなかった<ref name="ボテロ2001p104"/>。また同じくディンギルはしばしば出現する危険な「幽霊(エツェンム ''eṭemmu'')」に付されることもあった<ref name="ボテロ2001p104"/>。 |
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このような「悪魔」の脅威に対抗するための技術として「[[魔術|呪術]]」が既にシュメール時代から発達し、人々は[[呪文]]や儀式を通じてそれを排除しようとした<ref name="ボテロ2001p317_320">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], pp. 317-320</ref>。「悪魔」による様々な[[病気]]や動物の毒の害、また卜占の結果もらたらされた悪い予兆を解消するために祓魔技術が発達し<ref name="ボテロ2001p321_330">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], pp. 321-330</ref>、これを専門技能として行う祓魔師(シュメール語:''lú-maš-maš''、アッカド語:''âšipu'')がいた<ref name="ボテロ2001p331">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 331</ref>。卜占に通じ、必要に応じて邪悪を祓うことができると考えられた祓魔師たちは、いわば卜占師、心理治療師、医者、カウンセラーのような存在として活動し、また典礼儀官でもあった<ref name="オリエント事典医療"/><ref name="ボテロ2001p331"/>。聖職としての祓魔師の地位は決して高いものではなかったと推定されているが、祓魔師はマルドゥク神と結び付けられその庇護下に置かれた<ref name="ボテロ2001p331_333">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], pp. 331-333</ref>。更に直接的には神殿の礼拝の運営に関わることのない庶民に神々の偉大さとその恩寵を感じ取る機会を提供するという意味において重要な存在であったかもしれない<ref name="ボテロ2001p331_333"/>。 |
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=== 神殿 === |
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[[ファイル:Ziggurat of Borsippa 5.jpg|thumb|right|[[ボルシッパ]]のジッグラト跡。]] |
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メソポタミアにおける神殿はまず第一に神々が生活する場であった<ref name="オリエント事典神殿">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp. 294-295「神殿」の項目より。</ref><ref name="ボテロ2001p190">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 190</ref>。地上における神々の住居はシュメール語でエ(''É'')、アッカド語でビートゥ(''Bītu'')と呼ばれたが、この言葉はそのまま「家」と言う意味であった<ref name="オリエント事典神殿"/><ref name="ボテロ2001p190"/>。この単語を現代の学者は慣習的に「神殿」と訳している<ref name="ボテロ2001p190"/>。規模の大小や神殿の周囲に住む神官達の住居など、構成の違いはあっても、神殿の第一義はまず住居であり、通常の住宅の一般的な間取りを基礎としていた<ref name="ボテロ2001p190"/>。 |
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主たる神々のための大規模な神域は高い壁で囲われた「神々の町」を構成しており、各種の施設が立ち並んでいた<ref name="ボテロ2001p190"/>。聖堂の中心となるのは内陣と呼ばれる場所で、主神の像が置かれる神の住居の本体であった<ref name="ボテロ2001p192">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 192</ref>。それに隣接して建てられ、「神々の町」の中で最も目を引き大規模であったのはシュメール語でウニル(''U.NIR'')<ref name="岡田小林2008p100">[[#岡田・小林 2008|岡田・小林 2008]], p. 100</ref>、アッカド語でジックッラトゥ(''Ziqqurratu''、慣習的にはジッグラト)と呼ばれる階段状の塔である<ref name="ボテロ2001p190"/>。これは大規模神殿集合体にのみ見られる建物で、3段から7段の層からなり傾斜路または階段を使用して登れるようになっていた<ref name="ボテロ2001p191">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 191</ref>。ジッグラトにはそれぞれ固有の名前が付けられており、バビロンのマルドゥク神のジッグラトはエテメンアンキ(''É-temen-an-ki''、天と地の礎の家)、ニップルのエンリル神のジッグラトはエドゥルアンキ(天と地の結び目の家)、ボルシッパのジッグラトはエウルメイミンアンキ(天と地の七賢聖の家)と呼ばれた<ref name="岡田小林2008p100"/><ref name="ボテロ2001p194">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 194</ref>。神殿それ自体にも固有の名前が付けられており、バビロンのマルドゥク神殿の名はエサギル(''É-sag-íl'')、ニップルのエンリル神殿はエクル(''É-kur'')であった<ref name="ボテロ2001p193">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 193</ref>。 |
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==== 聖職者 ==== |
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神殿には多数の聖職者たちが仕えていた。この聖職者たちのうち高位のそれはしばしば世襲であったが、様々な儀式を経てその地位についたと想定される<ref name="ボテロ2001p197">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 197</ref>。聖職者たちは通常は一般の人々と同様の生活を送っていたが、身分の高い一部の女性神官に限って、神々に身を捧げた存在とされ、子供を持つことが禁じられていた<ref name="ボテロ2001p197"/>。だが、聖職者の生活は宗教儀式に関わるという点を除けば、(特定の衣服を纏うにせよ)原則的には普通の人々との違いはなかった<ref name="ボテロ2001p198">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 198</ref>。様々な聖職者の職位を表す用語、例えばカルー(''Kalû'')、シャングー(''Šangu'')、パシーシュ(''Pašîšu'')などが今に伝わるが、それぞれの職位がどのような役割を担っていたのかについて具体的な情報はあまり残されていない<ref name="ボテロ2001p199">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 199</ref>。これらの職位の名前のうち、古いものの起源は原則的にはシュメール語に由来し、あるいはアッカド語に借用語として取り入れられたり、直訳したものであった<ref name="ボテロ2001p199"/>。また、女性の聖職者もおり重要な役割を担っていた<ref name="ボテロ2001p199"/>。聖職者の頂点にはエン(''En''、主人/女主人)がおり、男性である場合でも女性である場合でも同様の名称で呼ばれた<ref name="ボテロ2001p200">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 200</ref>。聖職者たちは職能ごとに良く組織化されており、それぞれに「長(''gal/rabû''、または''ugla/waklu'')」がいた。 |
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==== 聖婚と売春 ==== |
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バビロニアにおける宗教的祭儀には聖婚と呼ばれる儀式があった。この聖婚(Hieros Gamos、{{lang-grc-short|ιερός γάμος}})と言う用語はギリシア宗教史の用語から借用されたものである<ref name="オリエント事典聖婚">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp. 304-305「聖婚」の項目より。</ref>。この用語は2つの異なる儀式を指して用いられる。一つはアッシリア帝国時代から新バビロニア時代以降に記録されている2柱の神の「結婚」の儀式であり、寝台に神像を並べ「結婚」が行われるものである<ref name="オリエント事典聖婚"/>。もう一つはウル第3王朝時代からイシン・ラルサ時代にかけて記録に残されているイシュタル女神と神格化された王の結婚の儀式である<ref name="オリエント事典聖婚"/>。ただし、この結婚の儀式を伝える記録は全て文学テキストであり、実際の儀式の内容が全く伝わらないため、イシュタルの代理としての女性神官と王の間で現実に「結婚」が成立したのか、完全に象徴的な儀式であったのかははっきりとしない<ref name="オリエント事典聖婚"/>。 |
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また、バビロニアにおいて宗教と売春の間には近しい関係性があったと考えられている<ref name="ボテロ2001p201">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 201</ref>。当地においても古くから売春は存在し、また娼婦は宗教的活動に関わる女性グループと共に言及される<ref name="オリエント事典売春">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp. 400-401「売春」の項目より。</ref>。最も広い崇拝を集めたイシュタルは性愛の女神であり、娼婦の守護神であった<ref name="オリエント事典売春"/>。実際に多くの女性神官たちが職務として売春を行っていたと考えられている<ref name="ボテロ2001p201"/>。こうした「専門家」を指すと思われる複数の用語、例えばヌ・ギグ(''Nu-gig''、アッカド語:''Qadištu'')や、ヌ・バル(''Nu-bar''、アッカド語:''Kulmašîtu'')が知られているが、いずれも詳細な意味は不明である<ref name="ボテロ2001p201"/>。アッカド語でイシュターリートゥ(''Ištarîtu''、イシュタル女神に帰依した女)と呼ばれた女性たちは通常の娼婦とは多少区別された<ref name="ボテロ2001p201"/>。こうした女性聖職者の中でも良家からごく若いうちに神に捧げられ子供を持つことを禁じられて神殿付属の施設に隔離されて集団生活を送ったのがシュメール語でルクル(''lukur''、神殿奴隷)、アッカド語でナディートゥ(''Nadîto''、放棄された者)と呼ばれた女性たちである。彼女たちは読み書きの能力を備え、高い教養を持っており、その優れた詩歌や手紙が残されている<ref name="ボテロ2001p201"/>{{refnest|group="注釈"|このことに関係するかもしれない伝承として[[ヘロドトス]]の記録がある。ヘロドトスはバビロニアにおいて全ての女性が一度は「[[アフロディーテ]]」の神殿、すなわちイシュタルの神殿に行って、自らの膝に向けてコインを投げた男と性交をせねばならず、これによってこの女神への義務を果たしたことになるとする説話を伝えている。しかし実際のところヘロドトスの記録はほとんど想像の産物であると考えられている<ref name="オリエント事典売春"/>。}}。 |
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宗教的売春婦と対をなすように同じような職務を遂行する男性がいた<ref name="ボテロ2001p203">[[#ボテロ 2001|ボテロ 2001]], p. 203</ref>。アッシンヌ(''Assinnu'')、クルガッルー(''Kurgarrû'')、クルウ(''Kulu'u'')、さらにカルーなどがそのような職務を行ったが、女性の場合と同じくそれぞれの違いはよくわからない<ref name="ボテロ2001p203"/>。実際に彼らがどのような状況において職務を行ったのかも不明である<ref name="ボテロ2001p203"/>。彼らはイシュタル女神を称える儀式の中で女装し、性的かつ宗教的な舞踊に参加した<ref name="ボテロ2001p203"/>。ジャン・ボテロは、彼らは実際には聖職者の集団の外部に位置しており、儀式の際に宗教的役割を果たすために神殿に呼び出されたとする<ref name="ボテロ2001p203"/>。 |
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== 学問と文化 == |
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=== 文学 === |
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| quote = 「私とともにあらゆる苦(労)をわけもった者、私が心から愛したエンキドゥは、私とともにあらゆる苦労をわけもった彼は、いまは人間の宿命へと向かっていった。昼も夜も、彼にむかってわたしは涙した。彼を墓へ運びこませたくなかった。(中略)彼が行ってしまってからも生命は見つからぬ。狩人のように私は野原のさなかをさまよった。女主人よ、お前の顔を見たからには私の恐れる死を見ないようにさせてくれ。」女主人はギルガメシュにむかって言った。「ギルガメシュよ、あなたはどこまでさまよい行くのです。あなたの求める生命は見つかることがないでしょう。神々が人間を創られたとき、人間には死をわりふられたのです。生命は自分たちの手のうちに留めおいて。ギルガメシュよ、あなたはあなたの腹を満たしなさい。昼も夜もあなたは楽しむがよい。(中略)あなたの手につかまる子供たちをかわいがり、あなたの胸に抱かれた妻を喜ばせなさい。それが(人間の)なすべきことだからです。」 |
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| source=- ギルガメシュ叙事詩<ref name="ギルガメシュ叙事詩">[[#ギルガメシュ叙事詩|ギルガメシュ叙事詩]]、矢島文夫訳より</ref> |
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| align = left |
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バビロニアの文学はシュメールの文学に起源を持つ<ref name="マッキーン1976p240">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 240</ref>。既にシュメールの時代に多様な文学的作品が作成されていたと見られるが、ウル第三王朝(前2112年-前2004年)以前の文学作品は特殊な例外を除き十分に知られてはいない<ref name="オリエント事典文学">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp. 450-451 「文学」の項目より。</ref>。古バビロニア時代に入ると文学作品の現存例は激増する<ref name="オリエント事典文学"/>。古バビロニア時代にはシュメール語は口語としては死語となっていたと見られるが<ref name="前田ら2000p43"/>、この時代には同一のシュメール語文書が各都市で盛んに複製された<ref name="オリエント事典文学"/>。この一群のシュメール語文書の多くを占めるのは書記学校の生徒たちが練習のために複写したものである<ref name="オリエント事典文学"/>。 |
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{{Quote box |
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| quote = 上ではまだ天空が命名されず、下では大地が名づけられなかったとき、かれら(神々)をはじめてもうけた男親、アプスー(「淡水」)、ムンム(「生命力」)かれらをすべて生んだ女親、ティアマト(「塩水」)だけがいて、かれらの水(淡水と塩水)が一つにまじりあった。草地は(まだ)織りなされず、アシのしげみは見当たらなかった。(中略)神々のなかでももっとも賢明なものが生れた。《アプスー》でマルドゥクが生れたのだ。聖なる《アプスー》でマルドゥクが生れたのだ。父エアがかれをもうけた。母ダムキナはかれとともに産褥に横たわっていた。かれは女神たちの乳房を吸った。かれをいつも入れかわり立ちかわり世話した保母たちは(かれを)畏怖でみたした。かれの姿は豊満で、ひとみはきらめいていた。かれが出てくる様子は男らしく、もともとことのほか強健だった。かれをもうけた父親エアはかれをみて、よろこび、(かれの顔は)かがやき、かれの心は歓喜にみちた。二倍の神性をかれはかれに付与した。かれはかれら(ほかの神々)よりはるかに高められ、すべての点で抜きんでていた... |
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| source=- エヌマ・エリシュ<ref name="エヌマ・エリシュ">[[#エヌマ・エリシュ|エヌマ・エリシュ]]、後藤光一郎訳より</ref> |
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一方で、古バビロニア時代はアッカド語(バビロニア語)文学の発展期であり、シュメール語文学に範を取った文学作品や、シュメール語文学のアッカド語訳が盛んに作成された<ref name="オリエント事典文学"/>。この中でシュメールの文学はアッカド語話者の嗜好に合わせ多彩に改変され編集された<ref name="マッキーン1976p240"/>。バビロニアの文学作品の中でも傑作中の傑作として名高い『[[ギルガメシュ叙事詩]]』も、その原型はシュメール時代の多数の伝説にある<ref name="マッキーン1976p240"/><ref name="岡田小林2008pp224_225">[[#岡田・小林 2008|岡田・小林 2008]], pp. 224-225</ref>。シュメール時代には'''ビルガメシュ'''と呼ばれた冥界神の物語は、取捨選択と再創造を経てウルク王'''ギルガメシュ'''の物語として結実した<ref name="オリエント事典文学"/><ref name="岡田小林2008pp231_259">[[#岡田・小林 2008|岡田・小林 2008]], pp. 231-259</ref>。3分の1が人間、3分の2が神であるウルクの王ギルガメシュの武勇伝、友人[[エンキドゥ]]の死を切っ掛けにした[[不老不死|不死]]の探求、それが不可能であることを悟るまでの苦悩、そして最終的にそれを受け入れるに至る一連の物語は、最古の[[教養小説]]としての側面を持ち、[[アッシリア]]や[[ヒッタイト]]など全オリエント世界に普及した<ref name="岡田小林2008pp259_260">[[#岡田・小林 2008|岡田・小林 2008]], pp. 259-260</ref>。 |
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今一つ、バビロニア文学の代表作として名高いのが創世神話の『[[エヌマ・エリシュ]]』である。この作品はマルドゥク神に捧げられたバビロン市の新年祭において朗踊された作品であり、前12世紀頃の作品であると見られる<ref name="岡田小林2008pp43_44">[[#岡田・小林 2008|岡田・小林 2008]], pp. 43-44</ref>。この時代はバビロニアにおけるマルドゥクの神格が最高位まで引き上げられた時期であり、その神々の王としての地位を称揚し、そして他の神々の属性をもマルドゥクの中へ取り込むことを企図した作品であった<ref name="岡田小林2008pp43_44"/>。この作品の中でマルドゥクは神々の労働を肩代わりさせるために人間を創ったとされる<ref name="岡田小林2008pp43_44"/>。 |
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バビロニア文学の多様な作品の多くはパルティア時代に楔形文字が使用されなくなるまで複写が続けられ、ほとんどの「図書館」に標準的コレクションとして保存された<ref name="オリエント事典文学"/>。ギルガメシュの伝説は更に2世紀後半から3世紀頃まで、変形しつつも伝存し続けていたことがローマの作家[[アイリアノス|クラウディオス・アイリアノス]]の著作での引用によって知られる<ref name="岡田小林2008p161">[[#岡田・小林 2008|岡田・小林 2008]], pp. 161</ref>。このような叙事詩・神話は今日最も注目されるものであるが、他にも王賛歌、儀礼、魔術に関わる多様な文書が残されている<ref name="オリエント事典文学"/>。バビロンの新年祭で朗踊された『エヌマ・エリシュ』を除けば、こうした文学作品がどのような目的で創られたのかは必ずしも明白ではない<ref name="オリエント事典文学"/>。あるものは呪術的効果を期待され、あるものは教育のためであり、そしてあるものは単なる娯楽作品であったかもしれない<ref name="オリエント事典文学"/>。文学作品はすべて声に出して朗踊されたと推測される<ref name="オリエント事典文学"/>。今日残された作品は全体の極一部に過ぎないと考えられている<ref name="オリエント事典文学"/>。 |
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=== 数学 === |
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{{Main|バビロニア数学}} |
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[[ファイル:Plimpton 322.jpg|thumb|right|発見されたバビロニアの計算表。[[コロンビア大学]]収蔵。[[イラク]]で発見されたと見られるが出土地不明。前1800年頃。1行目には以下の数値がリストされている。<div>119(底辺:w)</div><div>169(斜辺:d)</div><div>28561(d^2)</div><div>14161(w^2)</div><div>14400(L = d^2 - w^2)</div><div>120(l = SQRT(L))</div><div>14400(l^2)</div>記載されている数値から[[ピタゴラスの定理|三平方の定理]]に関わるリストであることがわかる<ref>[[#Casselman 322|Casselman 322]]</ref>。]] |
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バビロニアの数学はシュメールの数学から発達した。シュメールでは少なくとも紀元前3,000年頃には[[トークン]]を使った計算が行われていた<ref name="オリエント事典数学">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], p. 296 「数学」の項目より。</ref><ref name="ウォーカー1995pp9_15">[[#ウォーカー 1995|ウォーカー 1995]], pp. 9-15</ref>。そして、[[楔形文字]]による記録体系は、その登場の最初期から物品の数量管理と密接に関わっており、様々な商業的取引、農地の収穫、土地の面積、借入金の記録、税収などが記録の対象となった。当然のこととしてこれらの記録を有効に活用するためには各種の算術や数学的知識が必要であった<ref name="オリエント事典数学"/><ref name="ウォーカー1995pp9_15"/><ref name="室井2000pp1_5">[[#室井 2000|室井 2000]], pp. 1-5</ref>。書記たちは学校で数学を教わり、農地面積の計算や労働者の1日あたりの労働量の算出を行っていた<ref name="オリエント事典数学"/>。この様な計算技術、数学は日々の業務における実用上の必要性から発達したと見られる<ref name="オリエント事典数学"/>。 |
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ウル第三王朝時代まで数学文書は原則としてシュメール語で書かれたが、前2千年紀、古バビロニア時代に入るとアッカド語で書かれるようになった<ref name="オリエント事典数学"/>。古バビロニア時代(前20世紀-前16世紀)の社会経済の発達と共にバビロニアの数学体系は発達し、西暦紀元前後まで2000年余りにわたって存続したが、時代と共に発展を続けていたわけではない。現存するバビロニアの数学文書は大部分が古バビロニア時代のものであり、後期バビロニア時代(前6世紀-前1世紀 アケメネス朝-パルティア時代)の物がそれに次いで少数見つかっている<ref name="オリエント事典数学"/><ref name="室井2000p7">[[#室井 2000|室井 2000]], p. 7</ref>。基本的な計算法と解法は古バビロニア時代に確立されたが、分野によってはその後退化傾向がみられる<ref name="室井2000p8">[[#室井 2000|室井 2000]], p. 8</ref>。従ってバビロニア数学の最盛期は古バビロニア時代であった<ref name="室井2000p8"/>。 |
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現存する数学文書は計算表と問題集に大別される<ref name="オリエント事典数学"/>。計算表は算術処理に必要な多数の数をリストしたものである。例えば掛け算表などがそれにあたる。バビロニアの数学では60進法を採用していたため、10進法の体系における九・九(1×1から9×9までの掛け算)に相当する五九・五九(1×1から59×59の掛け算)が必要であった<ref name="室井2000p20">[[#室井 2000|室井 2000]], p. 20</ref>。しかしこれを暗記するのは困難であったことから、多数の掛け算表が使用されることとなった<ref name="室井2000p20"/>。また、除算を行うための逆数表も用意された。これはバビロニアの数学においてa÷bを計算する際には、bの逆数を作り、それをaに掛けることで求めていたため、能率的に除算を行うためには逆数表が必要であったことによる<ref name="室井2000p21">[[#室井 2000|室井 2000]], p. 21</ref>。掛け算表と逆数表は出土例が多く、計算に使用される基本的な道具であったと見られる<ref name="室井2000p23">[[#室井 2000|室井 2000]], p. 23</ref>。このような計算表には他に、[[平方根]]、[[立方根]]、[[定数]]、特定の数字の[[累乗]]と[[冪指数|指数]]の表などがあった<ref name="オリエント事典数学"/>。 |
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現代において数学の教科書は定義とそれについての説明、公式や定理の証明、例題と練習問題などからなっているが、バビロニアの数学文書ではこのうち例題と練習問題に相当する部分のみが現存している<ref name="室井2000p44">[[#室井 2000|室井 2000]], p. 44</ref>。学習に必要な説明は口頭で行われたと見られるが、その内容は現在では不明である<ref name="室井2000p44"/>。この問題集には、[[二次方程式]]、[[三次方程式]]、[[数列]]、[[円 (数学)|円]]や[[四角形|四角]]、[[三角]]の面積を求めるような初歩的な[[幾何学]]などの分野が含まれる<ref name="オリエント事典数学"/>。 |
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バビロニア人は明らかに[[ピタゴラスの定理|三平方の定理]]や[[円周率]]を知っていた<ref name="オリエント事典数学"/><ref name="室井2000p56">[[#室井 2000|室井 2000]], p. 56</ref>。ただし円周率はほとんどの場合3で計算された<ref name="オリエント事典数学"/><ref name="室井2000p56"/>。これは精密な計算が不可能であったわけではなく、バビロニアの数学における実用重視の側面の現れであったと思われる。バビロニア人の数学的関心は厳密な円周率の近似値を求めることではなく、円周や円の面積をどのように効率的に計算するかにあった<ref name="室井2000p56"/>。 |
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近現代の研究者は一般に、バビロニアでは幾何学分野に関する述語は未発達で整理されておらず、現代における[[角度]]や[[相似]]を意味する述語は知られていないとしている<ref name="オリエント事典数学"/><ref name="室井2000p57">[[#室井 2000|室井 2000]], p. 57</ref>。そして角度の概念の欠如の結果として幾何学分野の発達は貧弱であり、[[三角法]]や円錐形、角錐形、球形の幾何学は欠如していたと評してきた<ref name="オリエント事典数学"/><ref name="室井2000pp129_130">[[#室井 2000|室井 2000]], pp. 129-130</ref>。このことは[[エウクレイデス|ユークリッド]]に代表される高度な幾何学を発達させた[[ギリシア数学]]としばしば対比され<ref name="オリエント事典数学"/><ref name="室井2000pp129_130"/>、現代から見た場合、バビロニア数学の水準は最後まで初歩的なレベルにとどまったとする評価がある<ref name="オリエント事典数学"/>。 |
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ただし、バビロニア数学を研究する[[室井和夫]]は問題文の内容から見てバビロニアには相似の概念はあったとしており<ref name="室井2000p58">[[#室井 2000|室井 2000]], p. 58</ref>、さらに事実としてバビロニア人たちは円に内接する多角形を正確に作図し、直角三角形の3辺の長さを計算し、建造物を建てる際に必要な水平・直角・垂直をきちんと判断し設計できていた。室井和夫のその後の研究でバビロニアでは明確に角度が理解され、計算にも使われていたことが明らかとなっている<ref name="室井2017pp70-85">[[#室井 2017|室井 2017]], pp. 70-85</ref>。室井和夫はバビロニアの書記たちの学術的水準について次のように述べている。「もしバビロニア人の書記たちが我々の数学を学んだとしたら、これを良く消化吸収し、現代人の平均的水準を超える学力を身に付けたであろう。何千年も前に、数の世界の合理性に気付き、その研究を進めていた名も知れぬ書記たちが、バビロニアにはいたのである。彼らこそ最初の数学者であり、合理的精神の持ち主であった<ref name="室井2000pp129_130"/>。」 |
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=== 天文学と占星術 === |
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[[ファイル:Kudurru of Eanna-shum-iddina BM K.3401.jpg|thumb|right|エアンナ・シュム・イディナの境界石([[クドゥル]])。中央右側のサソリの絵はさそり座の図像と同形である<ref name="近藤2010p74">[[#近藤 2010|近藤 2010]], p. 74</ref>。]] |
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バビロニアを含むメソポタミアの天文学は[[占星術]]との密接な関係の中で発展した<ref name="オリエント事典天文学">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp. 349-350 「天文学と占星術」の項目より。</ref>。今日とは異なり、天文観測の主要な目的は占いを通じて未来を予知するための情報を収集することにあった<ref name="オリエント事典天文学"/>。規則的な天空の動きの中に現れる変化、例えば[[惑星]]の動きや[[彗星]]の出現、[[日食]]や[[月食]]を通じて人間の運命の転変を知る事ができると考えられた<ref name="近藤2010p20">[[#近藤 2010|近藤 2010]], p. 20</ref>。バビロニアの天文観測の水準は高く<ref name="矢島2000p53">[[#矢島 2000|矢島 2000]], p. 53</ref>、その記録は曖昧さを含むものの、編年情報の確立に大きな役割を果たしている。 |
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古い時代のバビロニア天文学の水準についての情報は完全ではない。組織的な天体観測に関わる最初期の文書は前1700年頃の古バビロニア時代に現れる<ref name="オリエント事典天文学"/>。しかし星名や[[星座]]名を記録した初期の文書はあまり発見されておらず、現在知られている知識は、占星術的な予兆についての情報の編纂が全盛を極めた前1千年紀になってからの情報が中心である<ref name="オリエント事典天文学"/><ref name="近藤2010p21">[[#近藤 2010|近藤 2010]], p. 21</ref>。 |
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バビロニア・アッシリアの天文学について重要な情報を残しているのは[[ムル・アピン]]と呼ばれる二つのグループ(I, II)に分類される恒星リストである。ムル・アピンの現存する最古の写本は前687年にアッシリアで作られたものであり、またアケメネス朝時代(前500年頃)のバビロンで造られた大英博物館 No. 86378がその代表例とされる<ref name="近藤2010p22">[[#近藤 2010|近藤 2010]], p. 22</ref>。これにはバビロニア天文学の基礎をなす天界の3区分に従った星と星座のリスト、主要な星や星座が日の出時に出現する日のリストなどが記載されている<ref name="近藤2010p26">[[#近藤 2010|近藤 2010]], p. 26</ref><ref name="矢島2000pp46_47">[[#矢島 2000|矢島 2000]], pp. 46-47</ref>。天界の3区分とは、[[北極星]]の周囲を回転する星々の領域を「エンリルの道」。天空の最も高く東西に広がる領域を「アヌの道」。そして南側の、星々が長時間[[地平線]]の下(アプスー、深淵)にある領域を「エアの道」という3つの「道」に天を分けるものである<ref name="矢島2000pp43_44">[[#矢島 2000|矢島 2000]], pp. 43-44</ref>{{refnest|group="注釈"|例えばエンリルの道には恒星[[レグルス]]や[[しし座]]、[[かに座]]が含まれ、アヌの道には[[プレアデス星団]](すばる)や[[オリオン座]]が、エアの道には[[アンタレス]]や[[さそり座]]がリストされている<ref name="近藤2010p33">[[#近藤 2010|近藤 2010]], p. 33</ref>。}}。 |
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ムル・アピンの記録には、[[太陽]]、[[木星]]、[[金星]]、[[火星]]、[[水星]]、[[土星]]のような「月と同じ道を旅をし」常に場所を変える6つの星や、季節ごとの太陽の軌道などが言及されており<ref name="近藤2010pp30_32">[[#近藤 2010|近藤 2010]], pp. 30-32</ref>、これらが恒星の位置と共に観測されていたことがわかる。 |
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また、バビロニア人は複数の星を[[黄道十二宮]]を始めとした[[星座]]として分類した。バビロニア時代の星座は現代の星座と完全に同一ではないが、明らかに現代の星座の原型となっている<ref name="近藤2010pp46_48">[[#近藤 2010|近藤 2010]], pp. 46-48</ref>。[[人間]]の上半身と[[ウマ]]の下半身を持ち、鳥の翼と[[サソリ]]の尾、さらに後頭部に[[イヌ]]の頭を持って弓を構える[[パピルサグ]](''Pabilsag'')は[[いて座]]の原型であり<ref name="近藤2010pp48_50">[[#近藤 2010|近藤 2010]], pp. 48-50</ref>、[[ヤギ]]の上半身と魚の下半身を持ったスクル・マシュ(''suḫurmašu'' ヤギ魚)は[[やぎ座]]の原型であると見られる<ref name="近藤2010pp50_51">[[#近藤 2010|近藤 2010]], pp. 50-51</ref>。 |
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占星術においてはこうした天体の運行と変化が未来の出来事を指し示すと考えられ、「(天で)Xが起こったならば、Yとなるであろう」と言う形式で様々なことが占われた<ref name="オリエント事典天文学"/>。実例としては以下のようなものとなる。 |
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<blockquote>「月が第一日(太陰月の)に現れれば、静けさあり、国土は安定。計算上、昼が長ければ、在位は長いであろう。月が満ちれば王は卓越するであろう。イシュタル・ジュマ・イリシュより<ref name="矢島2000p55a">[[#矢島 2000|矢島 2000]], p. 55より、矢島訳を引用。</ref>。」<br/>「木星(サグミガル)が日没の位置に進むならば、住まいには安泰、国土には平和が来るであろう(それはアルルル<ref group="注釈">矢島の推定ではかに座。</ref> の前に現れた)。木星が天蠍宮(さそり座)の領域に入り、輝きを増してニビル星(「渡し場の星」の意。木星の別名)となったならばアッカドは国力充実し、アッカドの王は強力となるであろう<ref name="矢島2000p57">[[#矢島 2000|矢島 2000]], p. 57 より、矢島訳を引用。</ref>。」<br/> |
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「タンムーズ月に火星が見えるならば、戦士たちの寝台は広がる(病死者が増える?)。水星が北に位置するならば、死者があり、アッカド王の敵国への侵入があるだろう。火星が双子宮(ふたご座)に接近するならば、ある王が死に、敵対関係が生ずるだろう<ref name="矢島2000p58">[[#矢島 2000|矢島 2000]], p. 58 より、矢島訳を引用。</ref>。」</blockquote> |
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バビロニアでは様々な占いが行われていたが占星術は主として王家や国家などについて吉凶を判断するために行われる公的なものであった<ref name="矢島2000p54">[[#矢島 2000|矢島 2000]], p. 54</ref>。占星術で最も頻繁に言及される天体は月であり、大半を占めている<ref name="矢島2000p55b">[[#矢島 2000|矢島 2000]], p. 55</ref>。バビロニアの占星術は[[ギリシア人]]や[[ヘブライ人]]たちのそれにも影響を与えた。バビロニアの天文学者[[ベロッソス]]は小アジアの[[コス島]]でその教えを伝えたとローマ人の[[ウィトルウィウス]]はその著書の中に記録している<ref name="矢島2000p59">[[#矢島 2000|矢島 2000]], p. 59</ref>。ギリシア人・ローマ人を通じて、バビロニアの天文学・占星術は西洋の知的伝統の一部に取り込まれて行った<ref name="矢島2000p59"/>。また、『[[旧約聖書]]』の中にもバビロニアの天文学の系譜を引くと考えられる記述があり、ヘブライの預言者たちはバビロニアの占星術師の言葉に惑わされないよう警告を発している<ref name="矢島2000pp63_68">[[#矢島 2000|矢島 2000]], pp. 63-68</ref>。 |
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=== 建築 === |
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バビロニアにおける建材はその最初期から粘土から作られた泥レンガを主体とするものであった<ref name="オリエント事典建材">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.203-204 「建材」の項目より。</ref><ref name="マッキーン1976p255">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 255</ref>。バビロニアの沖積平野には建材に適した石は少なく、木材も事実上皆無であり、遠隔地から輸入されるこれらの資材は貴重であった<ref name="マッキーン1976p255"/>。最南部では[[ヨシ|葦]]の小屋が一般的に見られたが、歴史を通じて粘土がバビロニアの主要な建材であり続けた<ref name="マッキーン1976p255"/>。 |
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==== 神殿建築 ==== |
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多くの地域と同じようにバビロニアの古い建築を代表するものは宗教建築である。バビロニアの宗教建築はシュメール時代、更にそれ以前まで遡る古い宗教建築の系譜に連なるものである。前5000年頃の[[エリドゥ]]の神殿には後世のバビロニアの建築にも伝わる二つの特徴が既に備わっていた。その特徴とは神像を据える壁の[[壁龕]](ニッチ)とそこまで続く参道であり、もう1つは祭壇(供物台)である<ref name="オリエント事典神殿"/><ref name="マッキーン1976p255"/>。シュメール時代からバビロニア時代にかけて神殿は大型化したが、これを泥レンガで建造するためには屋根を支える構造が必要であった。そのためにバビロニアの建築家たちは[[梁 (建築)|梁]]を支えるために建物の外部に張り出した扶壁([[控え壁|バットレス]])を発達させた<ref name="マッキーン1976p256">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 256</ref>。これは後に純装飾的な要素となったが、このような構造を元来必要とするような大型の建造物は神殿に限られていたため、ヘレニズム時代に至るまで扶壁の存在は宗教建築と世俗的建築を区別する特色となっていた<ref name="マッキーン1976p256"/>。バビロニアを含むメソポタミアの神殿建築のもう一つの特徴は既に述べたアッカド語でジックッラトゥ(''Ziqqurratu''、慣習的にはジッグラト)と呼ばれる階段状の塔である<ref name="ボテロ2001p190"/><ref name="マッキーン1976p256"/>。古い時代には泥レンガで築いた檀上に建立されていた神殿がその原型となり、時代と共により高く発達していった<ref name="マッキーン1976p256"/>。一般的には30メートル程の高さであったが、最大の規模を誇ったバビロンのジッグラトは90メートルの高さを誇ったという<ref name="ボテロ2001p191"/>。バビロニアの神殿の第一義は何よりも神のためのものであり、礼拝する人間のためのものではなかったため、こうした高所の神殿は平地のそれに比べて小型であったが、基本的な構成は同じであった<ref name="マッキーン1976p256"/>。こうした大型の神殿の外装には焼成レンガが使われることもあった<ref name="オリエント事典建材"/>。上薬を塗った装飾用レンガは前2千年紀に登場する<ref name="オリエント事典建材"/>。 |
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神殿のプランには様々なバリエーションが存在し、古い時代には一時的に卵型のプランの神殿が建設されることもあったが、基本的にはバビロニアの神殿の平面プランは矩形である<ref name="マッキーン1976p257">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 257</ref>。神殿は四方が解放され、儀式はその周囲の平野で行われていた<ref name="マッキーン1976p257"/>。次第に神殿が建物に取り巻かれるようになると、入口は1つだけとなり儀式の空間は入口正面の不定形の広場となった<ref name="マッキーン1976p257"/>。こうした儀式の場は周囲から壁で分離されるようになり、こうした中庭は神殿の不可欠な一部となった<ref name="マッキーン1976p257"/>。聖堂は「奥の院」となったが、この内部は柱と隔壁で分離され、神像と一般人は隔離されるようになっていった<ref name="マッキーン1976p257"/>。このため祭壇は聖堂の外部、または中庭に配置されるようになった<ref name="マッキーン1976p258">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 258</ref>。 |
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==== 住宅建築 ==== |
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紀元前7千年紀には[[アラビア語]]でタウフ、あるいはビゼと呼ばれる突き固められた粘土で作られた長方形の住居がバビロニアにおける一般的な形態であった<ref name="ローフ1994p47">[[#ローフ 1994|ローフ 1994]], p. 47</ref>。この住居は通常2つか3つの部屋でできており、1家族が居住していたと見られる<ref name="ローフ1994p47"/>。前5千年紀初頭の日干し煉瓦によって建設された農家が発見されているが、このような農家の基本的な建築は20世紀頃まで大きく変わらず継続したように思われる<ref name="マッキーン1976p258"/>。住居は中央主室を取り巻くように作られ、後には中庭を取り囲むように建設された<ref name="マッキーン1976p258"/>。古くは傾斜屋根がかけられていたが、その後平屋根が一般的となり、中庭にも屋根がかけられる場合もあった<ref name="マッキーン1976p258"/>。主室は日陰に建設され、酷暑に対応し部屋の温度上昇を避けるために窓を作らないのが一般的であった<ref name="マッキーン1976p258"/>。南部の湿地帯の周囲では葦を泥で固めて作る住居も広く建設された<ref name="フィネガン1983p11">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 11</ref>。 |
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王宮は通常の住居を大型化し、一般住居には存在しないいくつかの施設を追加したものであった<ref name="マッキーン1976p258"/>。バビロニアの建築様式は強い継続性を示し、古バビロニア時代から新バビロニア時代まで、王宮もまた中庭を取り巻く一連の部屋によって構成された<ref name="マッキーン1976p259">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 259</ref>。社会が複雑化し、王が大きな力を持つにつれて王宮には事務所や大広間が加えられていき、また城塞としての役割も担って防壁で囲まれるようになった<ref name="マッキーン1976p259"/>。特に大型の宮殿の残存例としては、シリア地方の遺跡ではあるが、[[マリ (シリア)|マリ]]の王[[ジムリ・リム]]の宮殿や、バビロンの王[[ネブカドネザル2世]]の宮殿が発見されている<ref name="マッキーン1976p259"/>。 |
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== 経済 == |
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メソポタミアは鉱物資源、木材など原料となる各種資源に乏しく、これらを手に入れるために古くから周辺諸地域との交易が盛んであった。既に前21世紀頃の[[ウル第三王朝]]時代までにその交易網は中間的業者を挟みつつ東は[[インダス川]]流域から西は[[エーゲ海]]、[[エジプト]]まで。北は[[アルメニア]]の高原地帯にまで達していた<ref name="クレンゲル1980p67">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 67</ref>。手工業も独立した細かい部門に分かれて確立されており、多数の専門職が存在した<ref name="クレンゲル1980p67"/>。更に徴税を管理するための高度な財政システムも確立されていた。このような多彩な経済活動についての記録は、時代ごと、分野ごとに史料の残存状態に著しい差があり、通時的な叙述は困難である。 |
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ウル第三王朝時代の経済活動については詳細な記録が残されているが、内容的には徴税や財政、土地管理など公的部門に著しく偏っている。私的経済についての情報は相続などの裁判記録や王室によって没収された個人資産の点検リストなどがあるにすぎず、個人の私生活についての情報はほとんど存在しない<ref name="前川1998bpp190_191">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 190-191</ref>。ウル第三王朝では[[ニップル]]市近郊に[[プズリシュ・ダガン]]と呼ばれる、周辺国から徴収された家畜群を登記し一時収容する施設が建設された<ref name="前川1998bpp190_191"/>。そして[[度量衡]]の統一や大規模な[[検地]]が行われ、王朝が主導して耕作地の開発や運河の掘削が実施されていたことが各種の記録から判明している<ref name="前川1998bpp192_195">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 192-195</ref><ref name="前川2009pp8_33">[[#前川 2009|前川 2009]], pp. 8-33</ref>。また、この時代の遠隔地交易について、ドイツの学者[[ホルスト・クレンゲル]]は、ほとんど支配者の独占であり商人は事実上王の官吏として振る舞っていたとしている<ref name="クレンゲル1983pp62_63">[[#クレンゲル 1983|クレンゲル 1983]], pp. 62-63</ref>。 |
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ウル第三王朝の行政機構が機能を停止し古バビロニア時代に入ると、イシンやラルサなどの後継国家はウル第3王朝と同じやり方で経済運営を行おうと試みたが上手くいかなかった<ref name="クレンゲル1980p68">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 68</ref>。この時代に入ると私的経済が強力に台頭した<ref name="クレンゲル1983pp63_64">[[#クレンゲル 1983|クレンゲル 1983]], pp. 63-64</ref>。ラルサの支配下にあった頃のウルの商人たちは[[バーレーン]]などペルシア湾岸地方([[ディルムン]])と交易を行い、羊毛やコムギ、[[ゴマ]]などを輸出し、[[銅]]、[[ラピスラズリ]]、[[カーネリアン|紅玉髄]]、魚の目([[真珠]]と考えられる)、[[象牙]]、[[珊瑚]]、各種木工品を輸入していた<ref name="クレンゲル1983pp65_66">[[#クレンゲル 1983|クレンゲル 1983]], pp. 65-66</ref>。これらの業者は利益の一部を宮廷ではなく神殿に納入しており、このことは彼らが特定の王室に仕えるのではない私的な業者であったことを示すと思われる<ref name="クレンゲル1983pp65_66"/>。さらにメソポタミアでは貴重な木材や石材がシリア地方からもたらされた<ref name="クレンゲル1980pp69_70">[[#クレンゲル 1983|クレンゲル 1980]], pp. 69-70</ref>。貿易の比重は時代とともにペルシア湾岸地方から地中海方面に移っていった<ref name="クレンゲル1980pp69_70"/>。この時代の大商人の商業活動にまつわる記録が複数発見されており、彼らの具体的な商取引の一端を復元することもできる<ref name="クレンゲル1980pp62_67">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], pp. 62-67</ref><ref name="クレンゲル1983pp68_72">[[#クレンゲル 1983|クレンゲル 1983]], pp. 68-72</ref><ref group="注釈">古バビロニア時代の富裕な商人の経済活動については、ホルスト・クレンゲルが古バビロニア時代の大土地所有者イッディンラガマルとその息子ナーヒルムのそれについてや、ウル市の銅取引商エアナースィルについて、具体的な姿を著書の中で描写している。なお、[[江上波夫]]、[[五味亨]]らによるホルスト・クレンゲルの和訳書における人名表記のカナ転写法は他に例が少ないものであるが、この注釈での人名表記はそれに依ったため、同一の人名構成要素のカナ転写は本記事本文と一致しない。</ref>。ハンムラビを始めとした多くの国の王たちが遠隔地の物品を入手するために隊商を派遣し<ref name="クレンゲル1983pp95_103">[[#クレンゲル 1983|クレンゲル 1983]], pp. 95-103</ref>、また交易から税収を挙げるために各地に税関を設けていた<ref name="クレンゲル1983pp104_107">[[#クレンゲル 1983|クレンゲル 1983]], pp. 104-107</ref>。 |
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古バビロニア時代私的経済の発達は金融業を興隆させた。取引の簡便のために一種の[[小切手]]のようなものも導入された<ref name="クレンゲル1980p74">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 74</ref>。また[[信用取引]]が発達し、資金の貸付が大規模になされた<ref name="クレンゲル1980pp81-94">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], pp. 81-94</ref>。このことは商取引を容易にし、円滑な取引を可能としたが、当然のこととして返済不能に陥る債務者も多数出た<ref name="クレンゲル1980pp81-94"/>。一度その状態に陥るとほとんど復帰が不可能であり、このことは様々な社会問題を引き起こしたため、当時の王たちは[[金利]]の統制を行い、また繰り返し[[徳政令]]を発布して商業を統制しようと試みた<ref name="クレンゲル1980pp81-94"/><ref name="クレンゲル1983pp107-116">[[#クレンゲル 1983|クレンゲル 1983]], pp. 107-116</ref>。 |
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こうした商業取引の決済手段には[[銀]]が重要な役割を果たしていた<ref name="クレンゲル1983p69">[[#クレンゲル 1983|クレンゲル 1983]], p. 69</ref>。当時まだ[[貨幣]]は発明されていなかったが、単純に純度と重量によって価値が決定され、少量でも価値が大きい銀は物の価値を量る指標として用いられ、貨幣としての役割を果たしていた<ref name="クレンゲル1983p69"/>。銀は粒銀や延べ棒、装身具の形態で流通していた<ref name="クレンゲル1983p69"/>。銀の重量単位にはアッカド語でシクル(セケル)、シュメール語でギンと呼ばれる単位が使われた。これは「目方を量る」という意味の言葉から来ており、ほぼ8グラムに相当する<ref name="クレンゲル1983p69"/>。その下にウッテトゥ(シュメール語:シェ)という単位があり、原義は「穀粒」である。元来穀粒1粒の重さを表したもので、ほぼ44ミリグラムである<ref name="クレンゲル1983p69"/>。大きな単位にはマヌー(シュメール語:マナ)があり、60シクル(約500グラム)に相当した<ref name="クレンゲル1983p69"/>。最大の単位はビルトゥ(シュメール語:グン)であり、約30キログラムに相当した<ref name="クレンゲル1983p69"/>。 |
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カッシート時代に入ると、[[古代エジプト|エジプト]]との交易を通じて大量に流入した[[金]]がバビロニアの経済に大きな影響を与えた<ref name="前田ら2000p83">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 83</ref>。前14世紀には一時的に物価の基準として銀ではなく金が用いられるようになった<ref name="前田ら2000p83"/>。だが、この「金本位制」はカッシート王朝の衰退と共に消失した<ref name="前田ら2000p83"/>。 |
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新バビロニア時代の経済は、王宮文書が出土していないため、主に神殿の行財政文書からの間接的な情報しか得られず、不明点が多い<ref name="前田ら2000p152">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 152</ref>。神殿所有地について言えば、新バビロニア時代からアケメネス朝時代にかけて、神殿はその広大な所領地を徴税請負人に農具・家畜付で貸付け、徴税請負人は更に小作人にそれを貸し出して小作料を徴収し神殿に納めるという形態で経営が行われていた<ref name="前田ら2000p152"/>。王領地についても同じく小作契約による経営が行われていたと推定されているが、史料の不足から実態は不明である<ref name="前田ら2000p153">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 153</ref>。 |
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この他、神殿には現代の学者によって「十分の一税」と呼ばれる税収があった<ref name="前田ら2000p153"/>。これは新バビロニア時代には王も支払いを行ったが、アケメネス朝時代には廃止されたと見られる<ref name="前田ら2000p153"/>。 |
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新バビロニア時代からアケメネス朝時代にかけて、やはり私的経済を担う大商人の活躍が見られる。この中でも多くの史料が残されていることから良く研究され言及されるのがネブカドネザル2世時代にバビロニアの最大の商人となった{{仮リンク|エギビ家|en|House of Egibi}}である<ref name="前田ら2000p153"/><ref name="渡井2012p2">[[#渡井 2012|渡井 2012]], p. 2</ref>。彼らは[[バビロン]]や[[ボルシッパ]]に複数の邸宅を構え<ref name="渡井2012pp2_5">[[#渡井 2012|渡井 2012]], pp. 2_5</ref>、土地を小作に出したり資金を個人に貸付けて利益を確保し、また王室と結びついて遠隔地交易を行っていた<ref name="前田ら2000p153"/>。エギビ家の活動はアケメネス朝時代前半に追跡できなくなるが<ref name="渡井2012p14">[[#渡井 2012|渡井 2012]], p. 14</ref>、アケメネス朝時代にはその政治的統合によって広範囲の交易路の安全が確保されたため彼らのような私的商人の活動は一層目立つようになった<ref name="前田ら2000p153"/>。 |
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== 歴代君主 == |
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|+'''バビロニアの諸王朝の王(中年代説による)''' |
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! 王朝 !! 王名 !! 王名の別表記等 !! 在位 !! 備考 |
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|rowspan=16 | '''イシン第1王朝''' |
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| [[イシュビ・エッラ]] || - || 前2017 - 前1985<ref name="板倉ら1988pp92_100">[[#板倉ら 1988|板倉ら 1998]], pp. 92-100, 巻末付録「メソポタミア諸王朝の王とその治世」</ref> || |
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| [[シュ・イリシュ]] || - || 前1984-前1975<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[イッディン・ダガン|イディン・ダガン]] || - || 前1974-前1954<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[イシュメ・ダガン]] || - || 前1953-前1935<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[リピト・イシュタル]] || - || 前1934-前1924<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ウル・ニヌルタ]] || - || 前1923-前1896<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ブール・シーン|ブル・シン]] || - || 前1895-前1874<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[リピト・エンリル]] || - || 前1873-前1869<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[イルラ・イミッティ]] || - || 前1868-前1861<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[エンリル・バーニ]] || - || 前1860-前1837<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ザンビヤ (イシン王)|ザンビヤ]] || - || 前1836-前1834<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[イテル・ピシャ]] || - || 前1833-前1831<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ウル・ドゥ・クガ]] || - || 前1830-前1828<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[シン・マギル]] || - || 前1827-前1817<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ダミク・イリシュ]] || - || 前1816-前1794<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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|rowspan=15 | '''ラルサ''' |
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| [[ナプラヌム]] || - || 前2025-前2005<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[エミスム]] || - || 前2004-前1977<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[サミウム]] || - || 前1976-前1942<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ザバイア]] || ザバヤ || 前1941-前1933<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[グングヌム]] || - || 前1932-前1906<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[アビサレ]] || - || 前1905-前1895<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[スムエル]] || - || 前1894-前1866<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ヌル・アダド]] || - || 前1865-前1850<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[シン・イディナム]] || - || 前1849-前1843<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[シン・エリバム]] || - || 前1842-前1841<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[シン・イキシャム]] || - || 前1840-前1836<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[シリ・アダド]] || - || 前1835-前1835<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ワラド・シン]] || - || 前1834-前1823<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[リム・シン1世]] || - || 前1822-前1763<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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|rowspan=12 | '''バビロン第1王朝''' |
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| [[スムアブム|スム・アブム]] || - || 前1894-前1881<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[スム・ラ・エル]] || - || 前1880-前1845<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[サビウム]] || - || 前1844-前1831<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[アピル・シン]] || - || 前1830-前1813<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[シン・ムバリット]] || - || 前1812-前1793<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ハンムラビ]] || - || 前1792-前1750<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[サムス・イルナ]] || - || 前1749-前1712<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[アビ・エシュフ]] || - || 前1711-前1684<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[アンミ・ディタナ]] || - || 前1683-前1647<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[アンミ・サドゥカ]] || アンミ・サドカ<br/>アンミ・ツァドゥカ || 前1646-前1626<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || 統治第8年が古バビロニアの編年各説の起点となっている。 |
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| [[サムス・ディターナ|サムス・ディタナ]] || - || 前1625-前1595<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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|rowspan=13 | '''「海の国」第1王朝'''<br/>(バビロン第2王朝) |
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| イルマ・イルム || イルマ『バビロニア王名表A』<br/>イルマ・イルム『バビロニア王名表B』<ref name="フィネガン1983p83"/> || 60年間 || |
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| イティ・イリ・ニビ || イティリ『バビロニア王名表A』<br/>イティ・イリ・ニビ『バビロニア王名表B』<ref name="フィネガン1983p83"/> || 56年間 || |
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|- |
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| ダミク・イリシュ || ダミク・イリ『バビロニア王名表A』<br/>ダミク・イリシュ『バビロニア王名表B』<ref name="フィネガン1983p83"/> || 36年間 ||バビロン第1王朝の王、アンミ・ディタナと同時代<ref name="フィネガン1983p83"/>。 |
|||
|- |
|||
| イシュキバル || イシュキ(『バビロニア王名表A』)<br/>、イシュキバル(『バビロニア王名表B』) || 15年間<ref name="Oppenheim2013p337">[[#Oppenheim 2013|Oppenheim 2013]], p. 337</ref> || |
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|- |
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| シュシュシ || - || 24年間<ref name="Oppenheim2013p337"/> || |
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|- |
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| グルキシャル || - || 55年間<ref name="Oppenheim2013p337"/> || |
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|- |
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| - || mDIŠ-U-EN || 12年間<ref name="Oppenheim2013p337"/> || |
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|- |
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| ペシュガルダラマシュ || - || 50年間<ref name="Oppenheim2013p337"/> || |
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|- |
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| アドラカランマ || - || 28年間<ref name="Oppenheim2013p337"/> || |
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|- |
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| エクラドゥアンナ || - || 26年間<ref name="Oppenheim2013p337"/> || |
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|- |
|||
| メラムクルカッラ || - || 7年間<ref name="Oppenheim2013p337"/> || |
|||
|- |
|||
| エア・ガムイル || - || 9年間<ref name="Oppenheim2013p337"/> || |
|||
|- |
|||
|rowspan=37 | '''カッシート王朝'''<br/>(バビロン第3王朝) |
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| ガンダシュ<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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| アグム1世<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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| カシュ・ティリアシュ1世<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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|- |
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| 不明<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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|- |
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| 不明<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
|||
|- |
|||
| ウルジグルマシュ<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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|- |
|||
| 不明<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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|- |
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| アグム2世<ref name="前田ら2000p80">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 80</ref> || アグム・カクリメ<ref name="前田ら2000p80"/> || ? || 実在するならば第8代または第9代と想定される<ref name="前田ら2000p80"/>。 |
|||
|- |
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| 不明<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
|||
|- |
|||
| ブルナ・ブリアシュ1世<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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|- |
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| 不明<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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|- |
|||
| ウラム・ブリアシュ || - || ? || 第11から第14代のいずれかと想定される<ref name="前田ら2000p80"/>。 |
|||
|- |
|||
| アグム3世 || - || ? || 第11から第14代のいずれかと想定される<ref name="前田ら2000p80"/>。 |
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|- |
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| 不明<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
|||
|- |
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| カラ・インダシュ<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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|- |
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| カダシュマン・ハルベ1世<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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| クリガルズ1世<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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| カダシュマン・エンリル1世 || - || 前1374頃-前1360<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|ブルナ・ブリアシュ2世|en|Burna-Buriash II}} || - || 前1359-前1333<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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|- |
|||
| カラ・ハルダシュ || - || 前1333-前1333<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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|- |
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| ナジ・ブガシュ || - || 前1333-前1333<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[クリガルズ2世]] || - || 前1332-前1308<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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|- |
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| {{仮リンク|ナジ・マルッタシュ|en|Nazi-Maruttash}} || - || 前1307-前1282<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|カダシュマン・トゥルグ|en|Kadashuman-Turgu}} || - || 前1281-前1264<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || カダシュマン・エンリル2世と即位順が逆転した文書が存在する<ref name="前田ら2000p80"/>。 |
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| {{仮リンク|カダシュマン・エンリル2世|en|Kadashuman-Enlil II}} || - || 前1263-前1255<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || ダシュマン・トゥルグと即位順が逆転した文書が存在する<ref name="前田ら2000p80"/>。 |
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|- |
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| {{仮リンク|クドゥル・エンリル|en|Kudur-Enlil}} || - || 前1254-前1246<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|シャガラクティ・シュリアシュ|en|Shagarakti-Shuriash}} || - || 前1245-前1233<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|カシュ・ティリアシュ4世|en|Kashtiliashu IV}} || - || 前1232-前1225<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|エンリル・ナディン・シュミ|en|Enlil-nadin-shumi}} || - || 前1224-前1224<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|カダシュマン・ハルベ2世|en|Kadashman-Harbe II}} || - || 前1223-前1233<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|アダド・シュマ・イディナ|en|Adad-shuma-iddina}} || - || 前1222-前1217<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|アダド・シュマ・ウツル|en|Adad-shuma-usur}} || - || 前1216-前1187<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|メリ・シフ|en|Meli-Shipak II}} || メリ・パク || 前1186-前1172<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|マルドゥク・アプラ・イディナ1世|en|Marduk-apla-iddina I}} || メロダク・バルアダン1世 || 前1171-前1159<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|ザババ・シュマ・イディナ|en|Zababa-shuma-iddin}} || - || 前1158-前1158<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|エンリル・ナディン・アヒ|en|Enlil-nadin-ahi}} || - || 前1157-前1155<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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|- |
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|rowspan=12 | '''イシン第2王朝'''<br/>(バビロン第4王朝) |
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| {{仮リンク|マルドゥク・カビト・アヘシュ|en|Marduk-kabit-ahheshu}} || - || 前1157-前1140<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|イティ・マルドゥク・バラトゥ|en|Itti-Marduk-balatu (king)}} || - || 前1139-前1132<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|ニヌルタ・ナディン・シュミ|en|Ninurta-nadin-shumi}} || - || 前1131-前1126<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ネブカドネザル1世|ナブー・クドゥリ・ウツル1世]] || ネブカドネザル1世 || 前1125-前1104<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|エンリル・ナディン・アプリ|en|Enlil-nadin-apli}} || - || 前1103-前1100<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|マルドゥク・ナディン・アヘ|en|Marduk-nadin-ahhe}} || - || 前1099-前1082<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|マルドゥク・シャピク・ゼリ|en|Marduk-shapik-zeri}} || - || 前1081-前1069<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|アダド・アプラ・イディナ|en|Adad-apla-iddina}} || - || 前1068-前1047<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|マルドゥク・アヘ・エリバ|en|Marduk-ahhe-eriba}} || - || 前1046-前1046<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|マルドゥク・ゼリ・X|en|Marduk-zer-X}}|| - || 前1045-前1034<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || 名前の末尾は不明 |
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|- |
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| {{仮リンク|ナブー・シュム・リブル|en|Nabu-shum-libur}} || - || 前1033-前1026<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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|rowspan=4 | '''「海の国」第2王朝'''<br/>(バビロン第5王朝) |
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| {{仮リンク|シンバル・シパク|en|Simbar-shipak}} || シンマシュシフ || 前1024-前1007<ref name="マッキーン1976px">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], pp. x 巻末付録2 王名表より</ref> || |
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| {{仮リンク|エア・ムキン・ゼリ|en|Ea-mukin-zeri}} || エア・ムキン・シュミ || 前1007-前1007<ref name="マッキーン1976px"/> || |
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| {{仮リンク|カシュシュ・ナディン・アヒ|en|Kashshu-nadin-ahi}} || - || 前1006-前1004<ref name="マッキーン1976px"/> || |
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|rowspan=4 | '''バズ王朝'''<br/>(バビロン第6王朝) |
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|- |
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| {{仮リンク|エウルマ・シャキン・シュミ|en|Eulmash-shakin-shumi}} || - || 前1003-前987<ref name="マッキーン1976px"/> || |
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|- |
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| {{仮リンク|ニヌルタ・クドゥル・ウツル1世 |en|Ninurta-kudurri-usur I}} || - || 前986-前984<ref name="マッキーン1976px"/> || |
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| {{仮リンク|シリクティ・シュカムナ|en|Shirikti-shuqamuna}} || - || 前984-前984<ref name="マッキーン1976px"/> || |
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|rowspan=2 | '''エラム王朝'''<br/>(バビロン第7王朝) |
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| {{仮リンク|マル・ビティ・アプラ・ウツル|en|Mar-biti-apla-usur}} || - || 前983-前978<ref name="フィネガン1983pp90_91"/> || |
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|rowspan=19 | '''E王朝'''<br/>(バビロン第8王朝) |
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| {{仮リンク|ナブー・ムキン・アプリ|en|Nab?-mukin-apli}} || - || 前978-前943<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|ニヌルタ・クドゥリ・ウツル2世 |en|Ninurta-kudurri-usur II}}<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || 前943-前943 || |
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| {{仮リンク|マル・ビティ・アヘ・イディナ|en|Mar-biti-ahhe-iddina}}<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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| {{仮リンク|シャマシュ・ムダミク|en|Shamash-mudammiq}}<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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| {{仮リンク|ナブー・シュマ・ウキン1世|en|Nabu-shuma-ukin I}}<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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| {{仮リンク|ナブー・アプラ・イディナ|en|Nabu-apla-iddina}}<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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| {{仮リンク|マルドゥク・ザキル・シュミ1世|en|Marduk-zakir-shumi I}}<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || - || ? || |
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| {{仮リンク|マルドゥク・バラッス・イクビ|en|Marduk-balassu-iqbi}} || - || 前?-前813<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|ババ・アハ・イディナ|en|Baba-aha-iddina}} || - || 前812-前?<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| 空位時代 || - || ? || |
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| {{仮リンク|ニヌルタ・アプラ・X|en|Ninurta-apla-X}} || - || ?<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || ニヌルタ以降の名称は不明<ref name="板倉ら1988pp92_100"/>。<br/>「アプラ」部は英語版の記事名に依る。 |
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| {{仮リンク|マルドゥク・ベル・ゼリ|en|Marduk-bel-zeri}} || - || ?<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|マルドゥク・アプラ・ウツル|en|Marduk-apla-usur}} || - || ?<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|エリバ・マルドゥク|en|Eriba-Marduk}} || - || ?<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|ナブー・シュマ・イシュクン|en|Nabu-shuma-ishkun}} || - || 前760頃-前748<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|ナボナッサル|label=ナブー・ナツィル|en|Nabonassar}} || ナボナッサル || 前747-前734<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|ナブー・ナディン・ゼリ|en|Nabu-nadin-zeri}} || - || 前733-前732<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| {{仮リンク|ナブー・シュマ・ウキン2世|en|Nabu-suma-ukin II}} || - || 前732-前732<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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|rowspan=18 | '''バビロン第9/10王朝'''{{refnest|group="注釈"|name="王朝区分"|}} |
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| {{仮リンク|ナブー・ムキン・ゼリ|en|Nabu-mukin-zeri}} || - || 前731-前729<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ティグラト・ピレセル3世|トゥクルティ・アピル・エシャラ3世]] || ティグラト・ピレセル3世<br/>プル || 前728-前727<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || アッシリア王 |
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| [[シャルマネセル5世|シャルマヌ・アシャレド5世]] || シャルマネセル5世<br/>ウルラユ || 前726-前722<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || アッシリア王 |
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| [[メロダク・バルアダン2世|マルドゥク・アプラ・イディナ2世]]|| メロダク・バルアダン2世 || 前721-前710<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[サルゴン2世|シャル・キン2世]]|| サルゴン2世 || 前709-前705<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || アッシリア王 |
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| [[センナケリブ|シン・アヘ・エリバ]] || センナケリブ || 前704-前703<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || アッシリア王 |
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| {{仮リンク|マルドゥク・ザキル・シュミ2世|en|Marduk-zakir-shumi II}} || - || 前703-前703<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[メロダク・バルアダン2世|マルドゥク・アプラ・イディナ2世]]|| メロダク・バルアダン2世 || 前703-前703<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || 復辟 |
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| {{仮リンク|ベル・イブニ|en|Bel-ibni}} || - || 前702-前700<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[アッシュル・ナディン・シュミ]] || - || 前699-前694<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || アッシリア王子 |
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| {{仮リンク|ネルガル・ウシェズィブ|en|Nergal-ushezib}} || - || 前693-前693<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ムシェズィプ・マルドゥク]] || - || 前692-前689<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[センナケリブ|シン・アヘ・エリバ]] || センナケリブ || 前688-前681<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || アッシリア王、復辟 |
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| [[エサルハドン|アッシュル・アハ・イディナ]] || エサルハドン || 前680-前669<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || アッシリア王 |
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| [[アッシュルバニパル|アッシュル・バニ・アプリ]] || アッシュルバニパル || 前668-前668<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || アッシリア王 |
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| [[シャマシュ・シュム・ウキン]] || - || 前667-前648<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || アッシュルバニパルの兄弟 |
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| [[カンダラヌ]] || - || 前647-前627<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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|rowspan=7 | '''新バビロニア'''<br/>(カルデア/バビロン第11王朝) |
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| [[ナボポラッサル|ナブー・アパル・ウツル]] || ナボポラッサル || 前625-前605<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ネブカドネザル2世|ナブー・クドゥリ・ウツル2世]] || ネブカドネザル2世 || 前604-前562<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[アメル・マルドゥク]] || エビル・メロダク || 前561-前560<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ネルガル・シャレゼル]] || ネリグリッサル || 前559-前556<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ラバシ・マルドゥク]] || - || 前556-前556<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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| [[ナボニドゥス|ナブー・ナイド]] || ナボニドゥス || 前555-前539<ref name="板倉ら1988pp92_100"/> || |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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<references/> |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|3}} |
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== 参考文献 == |
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=== 史料 === |
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* {{Cite book|和書|translator=[[中田一郎]] |title=原典訳 ハンムラビ「法典」 |date=1999-12 |publisher=[[リトン]] |series=古代オリエント資料集成ⅰ |isbn=978-4-947668-41-7 |ref=ハンムラビ法典}} |
|||
* {{Cite book |和書 |translator=[[後藤光一郎]] |chapter=エヌマ・エリシュ |pages=105-133 |title=筑摩世界文学大系1 古代オリエント集 |publisher=[[筑摩書房]] |date=1978-4 |isbn=978-4-480-20601-5 |ref=エヌマ・エリシュ }} |
|||
* {{Cite book |和書 |translator=[[矢島文夫]] |chapter=ギルガメシュ叙事詩 |pages=134-166 |title=筑摩世界文学大系1 古代オリエント集 |publisher=[[筑摩書房]] |date=1978-4 |isbn=978-4-480-20601-5 |ref=ギルガメシュ叙事詩 }} |
|||
* {{Cite book|和書|translator=[[山田雅道]] |chapter=マルドゥクの預言|title= 古代のオリエントと地中海世界 |date=2012-7 |publisher=[[岩波書店]] |series=世界史史料1 |pages=46-47 |isbn=978-4-00-026379-5 |ref=マルドゥクの預言}} |
|||
* {{Cite book |和書 |translator=[[伊藤義教]]|title=古代ペルシア |chapter=ベヒストゥン碑文|publisher=[[岩波書店]] |date=1974-1 |isbn=978-4007301551 |ref=ベヒストゥン碑文 }} |
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=== 書籍・論文 === |
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* '''通史・全体''' |
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** {{Cite book |和書 |author1=板倉勝正|authorlink1=板倉勝正|author2=堀晄|authorlink2=堀晄|author3=前田徹|authorlink3=前田徹|author4=中田一郎|authorlink4=中田一郎|author5=月本昭男|authorlink5=月本昭男|author6=渡辺和子|authorlink6=渡辺和子|author7=山本由美子|authorlink7=山本由美子 |title=メソポタミアの世界 必携 |publisher=[[NHK学園]] |date=1988-12 |asin=B01LTIPZH4 |ref=板倉ら 1988 }} |
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** {{Cite book |和書 |author=高橋正男|authorlink=高橋正男 |title=年表 古代オリエント史 |publisher=[[時事通信社]] |date=1993-4 |isbn= 978-4-7887-9307-1 |ref=高橋 1993 }} |
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** {{Cite book |和書 |author1=前田徹|authorlink1=前田徹|author2=川崎康司|authorlink2=川崎康司|author3=山田雅道|authorlink3=山田雅道|author4=小野哲|authorlink4=小野哲|author5=山田重郎|authorlink5=山田重郎|author6=鵜木元尋|authorlink6=鵜木元尋 |year=2000-7|title=歴史の現在 古代オリエント |publisher=山川出版社 |isbn=978-4-634-64600-1 |ref=前田ら 2000}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=ジャック・フィネガン|authorlink=ジャック・フィネガン |translator=[[三笠宮崇仁]] |title=考古学から見た古代オリエント史 |publisher=[[岩波書店]] |date=1983-12 |isbn=978-4-00-000787-0 |ref=フィネガン 1983 }} |
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** {{Cite book |和書 |author=ジェームズ・G・マッキーン|authorlink=ジェームズ・G・マッキーン |translator=[[岩永博]] |title=バビロン |date=1976-2 |publisher=[[法政大学|法政大学出版局]] |isbn=978-4-588-35406-9 |ref=マッキーン 1976}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=ベアトリス・アンドレ=サルヴィニ|authorlink=ベアトリス・アンドレ=サルヴィニ |translator=[[斎藤かぐみ]] |title=バビロン |date=2005-7 |publisher=[[白水社]] |series=文庫クセジュ |isbn=978-4-560-50889-3 |ref=サルヴィニ 2005}}(2009年8月新装版) |
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* '''シュメール時代''' |
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** {{Cite book |和書 |author=山田重郎|authorlink=山田重郎 |chapter=第III部第III章 古代西アジアの歴史と文書史料 |title=西アジア文明学への招待 |publisher=[[悠書館]] |date=2014-12 |pages= 194-214|isbn=978-4-903487-96-0 |ref=山田 2014 }} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=前川和也|authorlink=前川和也 |chapter=5 メソポタミア文明の誕生|title=人類の起源と古代オリエント|series=世界の歴史1 |date=1998-11 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4-12-403401-1 ||pages=145-181|ref=前川 1998a}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=前川和也|authorlink=前川和也 |chapter=6 都市の境界をこえて|title=人類の起源と古代オリエント|series=世界の歴史1 |date=1998-11 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4-12-403401-1 ||pages=182-224|ref=前川 1998b}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=前田徹|authorlink=前田徹 |title=初期メソポタミア史の研究 |date=2017-5 |publisher=[[早稲田大学|早稲田大学出版部]] |isbn=978-4-657-17701-8 |ref=前田 2017}} |
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* '''古バビロニア時代''' |
|||
** {{Cite book |和書 |author=小口裕通|authorlink=小口裕通 |chapter=シャムシ・アダド1世とその王国の興亡 |title=NHKスペシャル 四大文明 メソポタミア |publisher=[[NHK出版]] |date=2000-7 |pages=188-204|isbn=978-4-14-080533-6 |ref=小口(裕) 2000 }} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=中田一郎|authorlink=中田一郎 |chapter=第三章 古バビロニア時代の歴史と社会 |title=メソポタミアの世界 必携 |publisher=[[NHK学園]] |date=1988-12 |pages=30-44|asin=B01LTIPZH4 |ref=中田 1988 }} |
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** {{Cite book |和書 |author=中田一郎|authorlink=中田一郎 |chapter=ハンムラビとハンムラビ「法典」 |title=NHKスペシャル 四大文明 メソポタミア |publisher=[[NHK出版]] |date=2000-7 |pages=172-187|isbn=978-4-14-080533-6 |ref=中田 2000 }} |
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** {{Cite book |和書 |author=中田一郎|authorlink=中田一郎 |title=ハンムラビ王 |date=2014-2 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界史リブレット 人 001|isbn=978-4-634-35001-4 |ref=中田 2014}} |
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** {{Cite book |和書 |author=前川和也|authorlink=前川和也 |chapter=第一章 初期メソポタミアにおける領域国家の土地政策 -空間の拡大-|title=空間と移動の社会史|series=MINERVA西洋史ライブラリー81 |date=2009-2 |publisher=[[ミネルヴァ書房]] |isbn=978-4-623-04775-8 ||pages=3-34|ref=前川 2009}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=渡辺千香子|authorlink=渡辺千香子 |chapter=第四章 アッカド語系王朝における王権観 |title=古代王権の誕生III 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇 |publisher=[[角川書店]] |date=2003-6 |pages= 136-153|isbn=978-4-04-523003-5 |ref=渡辺 2003 }} |
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** {{Cite book |和書 |author=ホルスト・クレンゲル|authorlink=ホルスト・クレンゲル |translator=[[江上波夫]]|translator2=[[五味亨]] |title=古代バビロニアの歴史 ハンムラビ王とその社会 |date=1980-3 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-65170-8 |ref=クレンゲル 1980}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=ホルスト・クレンゲル|authorlink=ホルスト・クレンゲル |translator=[[江上波夫]]|translator2=[[五味亨]] |title=古代オリエント商人の世界 |date=1983-8 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-65590-4 |ref=クレンゲル 1983}} |
|||
* '''中期バビロニア時代''' |
|||
** {{Cite book |和書 |author=小川英雄|authorlink=小川英雄 |title=オリエント世界の発展 |chapter=5 地中海アジアの隷属|series=世界の歴史4|publisher=[[中央公論社]]|date=1997-7|pages=159-192|isbn=978-4-12-403404-2 |ref=小川 1997}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=渡辺和子|authorlink=渡辺和子 |chapter=8 アッシリアとフリ人の勢力|title=人類の起源と古代オリエント|series=世界の歴史1 |date=1998-11 |publisher=[[中央公論新社]] |pages=254-271|isbn=978-4-12-403401-1 |ref=渡辺 1998a}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=渡辺和子|authorlink=渡辺和子 |chapter=9 国際関係の時代|title=人類の起源と古代オリエント|series=世界の歴史1 |date=1998-11 |publisher=[[中央公論新社]] |pages=272-324|isbn=978-4-12-403401-1 |ref=渡辺 1998b}} |
|||
* '''アッシリア支配時代''' |
|||
** {{Cite book |和書 |author=佐藤進|authorlink=佐藤進 (歴史学者) |chapter=選ばれてあることの恍惚と不安-エサルハドンの場合- |title=古代オリエントの生活|series=生活の世界歴史1 |publisher=[[河出書房新社]] |date=1991-5 |pages=107-168|isbn=978-4-309-47211-9 |ref=佐藤 1991 }} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=渡辺和子|authorlink=渡辺和子 |chapter=10 大帝国の興亡|title=人類の起源と古代オリエント|series=世界の歴史1 |date=1998-11 |publisher=[[中央公論新社]] |pages=325-370|isbn=978-4-12-403401-1 |ref=渡辺 1998c}} |
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* '''新バビロニア時代''' |
|||
** {{Cite book |和書 |author=山田重郎|authorlink=山田重郎 |title=ネブカドネザル2世 |date=2017-1 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界史リブレット 人 003 |isbn=978-4-634-35003-8 |ref=山田 2017}} |
|||
* '''アケメネス(ハカーマニシュ)朝時代''' |
|||
** {{Cite book |和書 |author=伊藤義教|authorlink=伊藤義教|title=古代ペルシア |publisher=[[岩波書店]] |date=1974-1 |isbn=978-4007301551 |ref=伊藤 1974 }} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=田辺勝美|authorlink=田辺勝美|title=古代王権の誕生III 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇 |chapter=第5章 古代ペルシアの王権とその造形|publisher=[[角川書店]] |date=2003-6|pages=154-169 |isbn=978-4-04-523003-5 ||ref=田辺 2003 }} |
|||
** {{Cite journal|和書|author=[[渡井葉子]]|date=2012|title=前6世紀バビロニアのエギビ家の都市不動産 |journal=オリエント |volume=55|issue=2 |publisher=日本オリエント学界 |url= https://doi.org/10.5356/jorient.55.1|issn=0030-5219|ref=渡井 2012}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=山本由美子|authorlink=山本由美子 (歴史学者) |title=オリエント世界の発展 |chapter=4 アケメネス朝ペルシアの成立と発展|series=世界の歴史4|publisher=[[中央公論社]]|date=1997-7|pages=115-158|isbn=978-4-12-403404-2 |ref=山本 1997}} |
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* '''ヘレニズム・古典古代''' |
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** {{Cite book |和書 |author=大戸千之|authorlink=大戸千之 |title=ヘレニズムとオリエント |publisher=[[ミネルヴァ書房]] |date=1993-5 |isbn= 978-4-623-02271-7 |ref=大戸 1998 }} |
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** {{Cite book |和書 |author=柴田大輔|authorlink=柴田大輔 (歴史学者) |editor=柴田大輔、中町信夫|editor-link=中町信夫 |chapter=第四章 ヘレニズム時代のバビロニア神殿 -古代文明の継承と新しい潮流 |title=イスラームは特殊か 西アジアの宗教と政治の系譜 |series= |publisher=[[聖公会出版]] |date=2018-2 |pages=133-154|isbn=978-4-326-20058-0 |ref=柴田 2018 }} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=森谷公俊|authorlink=森谷公俊 |title=ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王 |chapter=第四章 ダレイオス一世とアカイメネス朝の創出|publisher=雄山閣 |date=2016-6 |pages=54-77|isbn=978-4-639-02427-9 |ref=森谷 2016 }} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=フランソワ・シャムー|authorlink=フランソワ・シャムー |translator=[[桐村泰次]] |title=ヘレニズム文明 |publisher=[[諭創社]] |date=2011-3 |isbn=978-4-8460-0840-6 |ref=シャムー 2011}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=フランク・ウィリアム・ウォールバンク|authorlink=フランク・ウィリアム・ウォールバンク |translator=[[小河陽]] |title=ヘレニズム世界 |publisher=[[教文館]] |date=1988-1 |isbn=978-4-7642-6606-3 |ref=ウォールバンク 1988}} |
|||
** {{Cite book |洋書 |author=トム・ボーイ(Tom Boiy)|title=Late Achaemenid and Hellenistic Babylon (Orientalia Lovaniensia Analecta) |publisher=Peeters Pub & Booksellers |date=2004-11 |isbn= 978-90-4291449-0 |ref=Boiy 2004 }} |
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*'''地理''' |
|||
** {{Cite book |和書 |author=松本健|authorlink=松本健 |chapter=よみがえるメソポタミア文明 |title=NHKスペシャル 四大文明 メソポタミア |publisher=[[NHK出版]] |date=2000-7 |pages=95-120|isbn=978-4-14-080533-6 |ref=小口 2000 }} |
|||
** {{Cite book |洋書 |author=ピーター・クリステンセン(Peter Christensen)|translator=スティーヴン・サンプソン(Steven Sampson)|title=The Decline of Iranshahr: Irrigation and Environment in the Middle East, 500 BC-AD 1500 |publisher=Tauris Academic Studies |date=2016-4 |isbn=978-1-78453-318-2 |ref=Christensen 2016 }}(ペーパーバック版。原著:1993年、) |
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* '''宗教・住民・文化・学問''' |
|||
** {{Cite book |和書 |author1=岡田明子|authorlink1=岡田明子|author2=小林登志子|authorlink2=小林登志子|other=[[三笠宮崇仁]]監修 |title=古代メソポタミアの神々 世界最古の「王と神の饗宴」 |publisher=[[集英社]] |date=2000-12 |isbn= 978-4-08-781180-3 |ref=岡田・小林 2000 }} |
|||
** {{Cite book |和書 |author1=岡田明子|authorlink1=岡田明子|author2=小林登志子|authorlink2=小林登志子|title=シュメル神話の世界 |publisher=[[中央公論社]] |series=[[中公新書]] |date=2008-12 |isbn= 978-4-12-101977-6 |ref=岡田・小林 2008 }} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=小口和美|authorlink=小口和美 |chapter=古代文明への視点 文明の美と形 人々の暮らしと遊び2 |title=NHKスペシャル 四大文明 メソポタミア |publisher=[[NHK出版]] |date=2000-7 |pages=144-145|isbn=978-4-14-080533-6 |ref=小口(和) 2000 }} |
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** {{Cite book |和書 |author=近藤二郎|authorlink=近藤二郎 |title=わかってきた星座神話の起源 古代メソポタミアの星座 |date=2010-12 |publisher=[[誠文堂新光社]] |isbn=978-4-416-21024-6 |ref=近藤 2010}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=柴田大輔|authorlink=柴田大輔 (歴史学者) |chapter=第二部第一章 古代メソポタミア史は諸民族興亡の歴史か |title=楔形文字文化の世界 |series=月本昭男先生退職記念献呈論文集第3巻 |publisher=[[聖公会出版]] |date=2014-3 |pages=23-40|isbn=978-4-88274-261-6 |ref=柴田 2014 }} |
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** {{Cite book |和書 |author=杉山二郎|authorlink=杉山二郎 |title=オリエント考古美術誌 中東文化と日本|date=1981-3 |publisher=[[NHK出版]] |ncid=BN02192859 |ref=杉山 1981}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=高階美行|authorlink=高階美行 |chapter=アフロアジアの民族と言語 4 アラム語の世界|title=アフロアジアの民族と文化|series=民族の世界史11 |date=1985-11 |publisher=[[山川出版社]] |pages=288-310|isbn=978-4-634-44110-1 |ref=高階 1985}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=前田徹|authorlink=前田徹 |title=メソポタミアの王・神・世界観 |date=2003-10 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-64900-2 |ref=前田 2003}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=室井和夫|authorlink=室井和夫 |title=バビロニアの数学 |date=2000-3 |publisher=[[東京大学|東京大学出版会]] |isbn=978-4-13-061302-6 |ref=室井 2000}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=室井和夫|authorlink=室井和夫 |title=シュメール人の数学 |date=2017-6 |publisher=[[共立出版]] |isbn=978-4-320-00916-5 |ref=室井 2017}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=矢島文夫|authorlink=矢島文夫 |title=占星術の起源 |date=2000-8 |publisher=[[筑摩書房]]|series=ちくま学芸文庫 |isbn=978-4-480-08573-3 |ref=矢島 2000}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=クリストファー・ウォーカー|authorlink=クリストファー・ウォーカー |translator=[[大城光正]] |title=楔形文字 |date=1995-11 |publisher=[[学芸書林]] |series=大英博物館双書 失われた文字を読む1 |isbn=978-4-87517-011-2 |ref=ウォーカー 1995}} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=ジャン・ボテロ|authorlink=ジャン・ボテロ |translator=[[松島英子]] |title=メソポタミア 文字・理性・神々 |publisher=[[法政大学|法政大学出版局]] |date=1998-8 |isbn=978-4-588-02193-0 |ref=ボテロ 1998 }} |
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==関連項目== |
== 関連項目 == |
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* [[メソポタミア]] |
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*[[バビロニアとアッシリア]]([[w:Babylonia and Assyria<!-- リダイレクト先の「[[:en:Mesopotamia]]」は、[[:ja:メソポタミア]] とリンク -->|Babylonia and Assyria]]) |
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** [[ユーフラテス川]] |
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*[[バビロニアの法]]([[w:Babylonian law<!-- [[:ja:バビロンの城壁]] とリンク -->|Babylonian law]]) |
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** [[チグリス川|ティグリス川]] |
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*[[バビロニアの文学と科学]]([[w:Babylonian literature and science|Babylonian literature and science]]) |
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* [[アッシリア]] |
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*[[バビロニアとアッシリアの年代学]]([[w:Chronology of Babylonia and Assyria|Chronology of Babylonia and Assyria]]) |
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* [[エラム]] |
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* [[バビロニアの法]]([[:en:Babylonian law<!-- [[:ja:バビロンの城壁]] とリンク -->|Babylonian law]]) |
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* [[バビロニアの文学と科学]]([[:en:Babylonian literature and science|Babylonian literature and science]]) |
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* [[古代オリエントの年代学]] |
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* [[バビロン]] |
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==外部リンク== |
== 外部リンク == |
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*[http://ancientneareast.tripod.com/Old_Kingdom_of_Babylonia.html The History of the Ancient Near East] 古代近東史より |
*[http://ancientneareast.tripod.com/Old_Kingdom_of_Babylonia.html The History of the Ancient Near East]{{en icon}}古代近東史より |
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バビロニア(古希: Βαβυλωνία、英: Babylonia)、またはバビュロニアは、現代のイラク南部、ティグリス川とユーフラテス川下流の沖積平野一帯を指す歴史地理的領域である。南北は概ね現在のバグダード周辺からペルシア湾まで、東西はザグロス山脈からシリア砂漠やアラビア砂漠までの範囲に相当する[1]。その中心都市バビロンは『旧約聖書』に代表される伝説によって現代でも有名である。バビロニアは古代においては更に南部のシュメール地方と北部のアッカド地方に大別され、「シュメールとアッカドの地」という表現で呼ばれていた[1]。
バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築したシュメール人やアッカド人たちはバビロニア南部でウルやウルク、ニップル、ラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半にはアッカド帝国がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更にウル第三王朝がそれに続いた。
前2000年期に入ると、アムル人(アモリ人)と呼ばれる人々がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てた。その内の一つでバビロンに勃興したバビロン第1王朝は、ハンムラビ王(在位:前1792年-前1750年)の時代にメソポタミアをほぼ統一し、バビロンが地域の中心都市となる契機を作った。前2000年期後半にはカッシート人が作った王朝(バビロン第3王朝)が支配権を握り、古代オリエント各地の国々と活発に交流を行い、または戦った。カッシート人の王朝は東のエラムとの戦いによって滅亡した。
前1000年期前半にはバビロニアの王朝はアッシリアとの相次ぐ戦いの中で次第に劣勢となり、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)によってその支配下に組み込まれた。アッシリアによるバビロニアの支配は恒常的な反乱にもかかわらず、短期間の中断を挟み100年以上継続したが、前625年にカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がアッシリア人を駆逐し、新バビロニア王国(カルデア王国)を建設したことで終わった。新バビロニアは更に前539年にアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の王キュロス2世(クル2世、在位:前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)は遠征の途上、バビロンに入城し、また征服の後はバビロンで死去した。
アレクサンドロス大王の死後、後継者(ディアドコイ)の一人セレウコス1世(在位:前305年-前281年)がバビロニアの支配者となった。彼がバビロニアに新たな拠点としてティグリス河畔のセレウキアを建設するとバビロンの重要性は次第に失われて行き、続くアルサケス朝(アルシャク朝、パルティア王国)時代にはセレウキアとその対岸の都市クテシフォン(テーシフォーン)が完全にバビロニアの中心となってバビロン市は放棄された。それに伴い、シュメール時代から続けられていた楔形文字による文字体系も失われ、古くから伝承されたシュメール語やバビロニア語の文学的伝統も途絶えた。
バビロニアは法律、文学、宗教、芸術、数学、天文学などが発達した古代オリエント文明の中心地であり、多くの遺産が後代の文明に引き継がれた。政治体制は基本的に都市国家的な性格を強く残し、地域全体を包括する政治的統一が成し遂げられたのは特定の時代に限られる。アムル人、カッシート人、アラム人など外部からの頻繁な移住が行われ、地元の住民と衝突、混交した。地域の中心的な言語はシュメール語及びアッカド語(バビロニア語)からアラム語へと移り変わり、アレクサンドロス3世(大王)による征服の後にはギリシア語も普及した。
なお、歴史上のどの時点からをバビロニアと呼び、またそれはいつまでであるのかについて明確な定義があるわけではない。本項では便宜上、バビロン市が史料に初めて登場するアッカド帝国時代前後から、バビロン市が完全に放棄され楔形文字による文字記録が途絶えるまでを中心として述べる。現在において年代が確実な最期の楔形文字文書は西暦74/75年の天文記録であり、年代不明の文書の一部は1世紀以降まで時代が下る可能性がある。
名称
[編集]バビロニア(バビュロニア)と言う名称は、その主邑バビロン(バビュローン、古希: Βαβυλών、 Babylṓn)に由来するギリシア語の名前、バビュローニアー(古希: Βαβυλωνία、Babylōnía) から来ている[2][3]。従ってこれは外部からの呼称であり、現地においてギリシア語のバビュローニアーに完全に対応する地理概念が当初より存在したわけではない。なお、ギリシア人やローマ人はしばしばアッシリア(アッシュリア)とバビロニアを混同している[2]。
バビロニアに相当する地域は、現地では南部のシュメールと北部のアッカドと言う二つの地域として認識されていた[3][4]。この二つの地名に由来する称号が「シュメールとアッカドの王(シュメール語:lugal ki.en.gi ki.uri、アッカド語/バビロニア語:Šar māt šumeri u akkadi)」であり、ウル第三王朝の王ウル・ナンム(在位:前2112年-前2095年)の時代に初めて登場して以来、バビロニア、メソポタミアの広い範囲を統治する王たちによって好んで用いられた[5]。シュメールとアッカドと言う二つの土地(シュメールとアッカドの地)からなると伝統的に認識されていた地域は、カッシート朝(バビロン第3王朝、前15世紀頃-前1155年)の時代にはカルドゥニアシュ(Karduniaš)と言う名称の下で政治的統一体として認識されるようになった[6]。アケメネス朝の王ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世、在位:前522年-前486年)が残したベヒストゥン碑文には、彼が支配する国々の一つとしてバービル(バービルシュ、Bābiruš)と言う名でバビロニアが言及されている[7]。
地理
[編集]バビロニアの地理的範囲は、現在のイラク、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたいわゆるメソポタミアの下流域である。南北は概ね現在のバグダードからペルシア湾までの範囲であり、東西はザグロス山脈からシリア砂漠やアラビア砂漠までの範囲に相当する[1]。バビロニアの最南部は湿地帯で、人々は陸上のみならず海上で小舟の上で生活を送っていた[1]。メソポタミアのバグダードよりも上流域の地方はアッシリアと呼ばれた[4]。そしてバビロニアの東側、現在のイラン南西部にはエラムと呼ばれる地域があり[8]、いずれも有力な勢力としてバビロニアの政治・文化・歴史に大きな影響を及ぼした。バビロニアの西側には砂漠地帯が広がっている。これは砂砂漠ではなく、小礫を含んだ岩砂漠地帯で、ユーフラテス川に合流する多数のワジ(涸れ河)とオアシスがあり、遊牧民の活動地帯であった[4]。バビロニアはティグリス川とユーフラテス川の沖積平野であり、起伏に乏しい広大な平原が広がっている[1][9]。バビロニアの北端部分にあたるバグダード周辺から南端部のバスラまでの高低差は極僅かで、山の迫る北部メソポタミアのアッシリア地方とは異なる景観を有している[9]。
バビロニアを含むメソポタミア地域の地理・気候の条件が当時どのような物であったのかと言う予測は、ほとんど現在の状況からの投影に基づいている[10]。ただし現在見られるイラク南部の景観は少なくとも部分的には数千年に渡る人類の活動の結果である[10]。
この地域の気候は直近の1000年と大きく変化してはいないと予想され[10]、年間雨量100ミリ以下という乾燥地帯であることに特徴づけられる[4]。これは乾地農業の理論的限界を下回っており、人々は収穫を得るために灌漑農業を発達させた[1][9][10]。灌漑のための水源はこの地域を縦断するユーフラテス川とティグリス川であった。バビロニアの農業は高い生産性を誇ったが、エジプトのナイル川と異なりこの両河川を効果的に利用するには多くの困難があった。原因の一つは両河川の増水と減水のサイクルが、農作業のサイクルと一致しなかったことである[10]。この地域では通常10月から11月に播種し、4月から6月にかけて収穫が行われる[10]。しかし、ティグリス・ユーフラテス両河は毎年春、3月から4月頃にかけて雪解け水によって増水・氾濫し[9]、水量が最大になるのはティグリス川が4月、ユーフラテス川が5月である[10]。だが、この時期は既に灌漑を必要とせず、むしろ洪水の脅威をもたらした[10]。逆に両河川の流量が最小となるのは8月から9月にかけてであり、灌漑用水がこれから必要になる時期である[10]。このためにバビロニアでの灌漑農業には水量が減少する時期に灌漑用水をくみ上げて農地に導入するための運河の建設とメンテナンスが欠かせないものであった[11]。また春に多発した洪水の惨禍から畑を保護するために堤防や貯水池も準備しなければならなかった[11]。
この地域の農業に困難をもたらしたもう一つの要因は極めて傾斜の緩いその地勢である。南に進むにつれて川の流れは遅くなり、逆に土砂の堆積量は増大した[11]。増水する春には、流されてきた荒い土砂によって自然堤防が形成される一方、細かい粒子は広い範囲に蓄積されて不浸透性のなめらかな表面を形成し、滞留した水がそれを覆った[11]。このような状況は洪水の際の流路変更の原因となり、大洪水の際には川の流路が完全に変化してしまうこともあった[11]。実際にティグリス川はサーサーン朝時代の5世紀の終わりに大きな流路変更を経験している[11]。このような地勢のため、灌漑設備や農地からの排水は悪く、また土砂の堆積に対応するために継続的な清掃が必要であった[11]。そして、灌漑用水のうちのかなりの割合が排水ではなく蒸発によって漏出したが、それに伴い地下水位が上昇し、毛細管現象によって地下から表面に出た水に含まれる塩分が深刻な塩害を引き起こしたため、これも定期的な休耕や農地の洗浄を要求した[11]。
灌漑用水源としてはユーフラテス川が特に重要であった。これはユーフラテス川に合流する大きな支流がハブール川だけであり、ティグリス川よりも相対的に安定していたためである[10]。ティグリス川はザグロス山脈から流れ込む大ザブ川、小ザブ川、ディヤラ川などと合流するため、その傾斜の落差と広大な流域面積によって不意の洪水が発生しやすく治水が困難であった[10]。このため人口と農地はユーフラテス川沿いで密であり、ティグリス川沿いでは希薄であった[12]。
バビロニアは鉱物資源に乏しく、樹木の植生もナツメヤシやタマリスクを中心として木材に適する物に乏しかったため、建造物は一般に日干し煉瓦や焼成煉瓦のような容易に手に入る泥を原材料とする建材で建造され、石は土台にしか用いられなかった[1]。南端部の湿地帯ではシュメール時代から大型の建造物が葦を用いて建設された。これは20世紀までハワール(マーシュランド)と呼ばれるイラク南部地方で建設されていた葦で造られる集会場とよく似た様式であった[13]。メソポタミアの粘土質の土は、土器を作ることには適しており、前7000年期には土器が普及し始めていた[13]。土器のみならず、鎌のような生活用具や、模型などもみな土から作られた[13]。
歴史
[編集]編年
[編集]バビロニアを含む古代オリエント世界の編年は完全には確立されていない。前1千年紀、特にアッシリア時代についてはアッシュル・ダン3世の治世中に発生した日食が紀元前763年6月15日のものであることが同定できており[14]、豊富な史料と組み合わせて現在の暦と接続された絶対年代が割り出されている。しかし、前2千年紀については、高年代説、中年代説、低年代説と呼ばれる3つの主要な説が存在し、未だ絶対年代は確定されていない[15]。それぞれの学説において、現代の暦におけるハンムラビ王の在位は前1848年-1806年(高年代説)、前1792年-前1750年(中年代説)、前1728年-前1686年(低年代説)となる[15]。本節では最も頻繁に使用される中年代説に基づいて記述を行うが[15]、確定した年代ではないことに注意されたい。
シュメールとアッカド
[編集]後世バビロニアと呼ばれることになるシュメールとアッカドの地では、前3200年頃には大きな人口を抱え、複雑な社会機構を持つ都市国家が誕生していた[16]。その後、シュメール初期王朝時代(前2900年頃-前2335年頃)にはメソポタミアと周辺の西アジア各地に都市文明が拡散していった[16][17]。初期王朝時代末期の前2500年頃から、おぼろげながらも同時代史料に基づいてその歴史の一部を知ることができるようになる[16][18]。バビロニアは(エジプトを除き)この時代の歴史を文字史料を通じて復元できる唯一の地域である[16][18]。
初期王朝時代末期にはシュメール人、アッカド人の都市国家が興亡を繰り返した。これらの都市国家の中でも有力となったものは次第に近隣都市を服属させて地域統合を果たすようになった[19][注釈 1]。そのような都市国家にはキシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ウルク、ウルなどがある[19]。これらの都市国家では王権が強化され特定の家系に王位が独占されていくと共に[21]、各国の間で領土や覇権を巡って相互に激しい争いが行われた[22]。この時代の都市国家の争いと覇権の移り変わりは、前21世紀頃に成立した『シュメール王朝表[注釈 2]』において、歴代王朝の覇権交代と言う形の伝承にまとめられている[23]。ただしこれは同時代に存在していた有力な都市国家全てに触れてはいないし、またそれぞれが順番に覇権を握っていったという体裁をとるが、実際にそのように整然と勢力が交代したわけではない[23]。
こうした都市国家群は前24世紀半ばにウンマ王で後にウルクに拠点を遷したルガルザゲシによって大部分が征服され初めて統合された[24]。このルガルザゲシの王国は、アッカド市(アガデ)の王サルゴン(シャル・キン)によって打倒された[25]。サルゴンが建設した王国はアッカド帝国とも呼ばれ、一般に初の統一王朝として扱われる[25]。バビロニアの中枢となる都市、バビロン(バーブイル/バーブ・イリ Bābili)は後世の史料ではこのサルゴン王によって建設されたという[26]。しかし、これは一つの伝説であり、同時代史料におけるバビロンの初出はアッカド帝国最後の王、シャル・カリ・シャッリ(在位:前22世紀頃)の時代に建造された神殿の定礎碑文である[26]。
アッカド帝国は地中海沿岸地域にいたるまでユーフラテス川とティグリス川の流域を征服し、サルゴン王は「世界の王(シュメール語:LUGAL KIŠ、アッカド語:šar kišš ati)[27]、ナラム・シン王の時代には「四方領域の王(シュメール語:LUGAL ki-ib-ra-tim ar-ba-im)」などの称号を採用し、都市国家を超えた領域を支配する王権観を発達させていった[27][28]。しかしアッカド帝国による統合は、シャル・カリ・シャッリの治世の後崩壊した。『シュメール王朝表』は彼の治世の後、「誰が王であり、誰が王でなかったか」と言う文章で書き始めている[29]。後世の伝承はアッカド帝国の崩壊とその後の混乱を蛮族グティ人の侵入の結果として描写するが、その史実性は疑わしいとされる[30]。この混乱と分裂は前22世紀の終わり頃、ウルクの将軍でウルの王となったウル・ナンム(ウル・ナンマ、在位:前2112年-前2095年)による統合で終止符が打たれた[31][32]。これをウル第三王朝と呼ぶ[31]。
ウル・ナンムは現在知られる限り後世バビロニアの支配者によって繰り返し使用される「シュメールとアッカドの王」と言う称号を用いた最初の王である[5][33]。また、記録に残る最初の法典編纂が行われた(ウル・ナンム法典)[34]。これは後に古バビロニア時代に行われる各種の法典編纂に先行するものである[34]。この頃には正義(シュメール語:nig-si-sá)の観念も整備され、後のバビロニアの王が従うべき道徳規範も形作られて行った[34]。しかし、ウル第3王朝自体は100年余りしか存続しなかった。シュ・シン(在位:前2037年-前2029年)の時代には西方からメソポタミアに移住していたアムル人(アモリ人)の勢力が増し、その影響で辺境において徴税が不可能になっていることを訴える現地司令官の報告が残されている[35]。また東方ではエラムがザブシャリ国を中心として反乱を起こしていた。シュ・シンは恐らくこの反乱を鎮圧したが[35]、次の王イビ・シン(在位:前2028年-前2004年)の時代にはイシン市で将軍イシュビ・エッラ(彼もアムル人であるとされる場合もある)がウル第3王朝から事実上自立し、その力は大きく衰えた[35]。そしてイシュビ・エッラとの争いや他のアムル人諸部族の反抗の中で、エラムが再び反逆し前2004年にウルを占領した[36]。これによってウル第三王朝は滅亡した。
古バビロニア時代
[編集]ウル第3王朝の滅亡(前2004年)から、バビロン第1王朝の滅亡(前1595年)までの時代は古バビロニア時代と呼ばれている[37]。 更に、群雄割拠の時代(前期)と、バビロンによる統一の時代(後期)に二区分し、前期をイシン・ラルサ時代、後期をバビロン統一王朝時代、またはハンムラビ王国時代と区分するのが一般的である[37]。
イシン・ラルサ時代
[編集]ウル第三王朝滅亡後のメソポタミアでは、移住したアムル人たちが各地に王国を作り上げていった。この時代に有力勢力として現れる王国のほとんどはアムル系の王国である[38]。これらの中でも、イシュビ・エッラが作り上げたイシン第1王朝と、ナプラヌムと呼ばれるアムル人が王朝を作ったラルサが中心となって覇権争いを演じた[39]。当初はイシンが最も有力であったが、第5代王リピト・イシュタル(在位:前1932年-前1903年)の時代には、ラルサがやはり第5代のグングヌム(前1932年-前1906年)王の下で強大化し、イシンを圧倒した[39]。イシンの第2代王シュ・イリシュや、グングヌム以降のラルサ王はかつてのウル第三王朝時代の称号「シュメールとアッカドの王」を再び用いている[40]。
この頃にバビロンが次第に成長し、南部メソポタミアに台頭し始める。バビロンはウル第三王朝時代に知事が派遣されていたことなどが記録に残るが、イシン・ラルサ時代の初め頃までは一地方都市に過ぎなかった[41]。この時代のバビロンの遺跡は地下水のために満足な調査が行われていないが、それでもこの都市がさしたる重要性を持っていなかったことは間違いない[41][42]。前1894年頃、アムル人の首長スム・アブム、またはスム・ラ・エルがこの都市を拠点として王朝を開いたとされる[42][43][注釈 3]。これがバビロン第1王朝である。バビロン第1王朝の王たちはイシン第1王朝や南方から勢力を拡大するラルサと戦いつつ周辺地域に勢力を拡大したが、ハンムラビ(在位:前1792年-前1750年)が即位した時もなお、ささやかな領土を持つに過ぎなかった[44]。
ハンムラビの即位時、バビロンの南では既にイシンを滅ぼして南部メソポタミアの大部分を支配下に置くラルサ、東ではエシュヌンナ、北ではアッシリアを支配下に置くシャムシ・アダド1世(在位:在位:前1813年 - 前1781年[注釈 4])の「上メソポタミア王国」が大きな勢力を持っていた[45]。特にシャムシ・アダド1世は当時メソポタミアで最も強大な勢力を誇った君主であり、その王国は北部メソポタミアの広い範囲に及んでいる[46]。ハンムラビは即位時にはシャムシ・アダド1世の宗主権の下にあり、その支援を得てラルサやエシュヌンナと戦っていた[45][47][48]。シャムシ・アダド1世は前1781年頃に死亡した。彼の死亡は当時のメソポタミアにおける一大事であり、エシュヌンナのような外国においてもこの年の年名は「シャムシ・アダド1世が死んだ年」と名付けられている[49]。彼の死後、「上メソポタミア王国」は急速に瓦解し、メソポタミアには「一人で十分強力な王はいない」とされる状態が訪れた[50]。バビロンのハンムラビ、ラルサのリム・シン1世、エシュヌンナのイバル・ピ・エル2世、カトナのアムト・ピ・エル、マリのジムリ・リム、そしてヤムハド(アレッポ)のヤリム・リムなどが有力な王として数えられた[51]。ハンムラビは長期にわたる戦いを経てラルサ、エシュヌンナ、マリを征服し、南部メソポタミアの全域を支配下に置いた[52]。彼自身が主張するところによれば、更にアッシリアまでも征服したとしている[52]。
バビロン第1王朝時代
[編集]§197 もし彼がアウィールム仲間の骨を折ったなら、彼らは彼の骨を折らなければならない。
§198 もし彼がムシュケーヌムの目を損なったか、ムシュケーヌムの骨を折ったなら、彼は銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない。
§199 もし彼がアウィールムの奴隷の目を損なったかアウィールムの奴隷の骨を折ったなら、彼は彼(奴隷)の値段の半額を支払わなければならない。
§200 もしアウィールムが彼と対等のアウィールムの歯を折ったなら、彼らは彼の歯を折らなければならない。
ハンムラビは征服事業と並行して、戦乱で荒廃した運河網を整備拡充するとともに[54]、ハンムラビ法典と呼ばれる法典碑を作らせた。このハンムラビ法典は、商業、農業、犯罪、結婚、相続など、社会経済の多様な領域に対する「条文」を含んでおり、「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理でも名高い。この「法典」は多数のコピーが作成され広く行き渡ったが、実際には模範判例集に近いものであり、これに基づいて裁判を行ったような記録は現存していない[55][56]。しかし、ハンムラビが領内での裁判を監督し、場合によっては自ら裁定を下していたことは、現存する多数の裁判記録によって明らかとなっている[56]。
ハンムラビの死後、バビロン第1王朝の王たちは反乱と外敵の侵入に対して長く対処しなくてはならなかった。次の王サムス・イルナ(在位:前1749年-前1712年)の即位から程なく、ラルサでリム・シン2世が、エシュヌンナでトゥプリアシュが反乱を起こした[57]。バビロンの年名はこれらに対する勝利を記録しているが、サムス・イルナの治世第20年に至ってもなお反乱勢力に対して「一年に八度の勝利」を記録しているように、その統治は安定しなかった[57]。更にペルシア湾岸地方ではイルマン(イルマ・イルム)という人物が自立し、その後「海の国」と呼ばれる王朝を創立した(「海の国」第1王朝、バビロン第2王朝とも)[58]。更に重要なこととして、サムス・イルナの治世中に初めてカッシュ(カッシート人)の軍勢への言及が見られる[58][59]。サムス・イルナの次の王、アビ・エシュフ(在位:前1711年-前1684年)は「海の国」に勝利したが、その統治を永続させることはできず、加えてその治世の間にマリ地方を拠点に「ハナ」王朝が創立された[58]。この王朝の王はカッシート語の名前を持っており、当時カッシート人の集団がユーフラテス川中流域に移住を進めていたことを示す[60]。
アビ・エシュフの後の王たちの時代にも継続的にバビロン第1王朝の支配地域は縮小したが、この王朝の崩壊過程は時代が進むにつれ具体的な状況を把握することができなくなる[60]。弱体化していたバビロン第1王朝は最後の王サムス・ディタナ(前1625年-前1595年)の時、突如アナトリアからバビロニアへ長駆遠征を行ったヒッタイトのムルシリ1世の攻撃によってバビロンを占領され滅亡した[60][61]。このヒッタイトの遠征が行われた理由についてはよくわかっていない。ヒッタイト人が残した記録にもその意図を推測できるようなものはなく、彼らがバビロニアまでも含む巨大な王国を構築していようとしたとするような説は証明されない[60]。バビロニア人もまた、非常に簡潔な記録を残すに過ぎない[62]。しかし、意図はともかく、結果だけを見ればヒッタイトによるバビロンの占領は一時的なものであり、弱体化したバビロン第1王朝にとどめを刺した事件であった[62]。その後にシュメールとアッカドの地の政治的混乱を収拾して新しい秩序を確立したのはヒッタイト人ではなく、カッシート人であった[62][63][64]。
中期バビロニア時代
[編集]ヒッタイト人がバビロンを寇掠した後、アッシリアが帝国的な発展を遂げるまでの前1000年頃までの中間期を中バビロニア時代、または中期バビロニア時代と言う[64][65]。この時代区分はまた、メソポタミアにおける後期青銅器時代に対応するが、新バビロニアの成立(前626年)までを中バビロニア時代として扱う学者もいる[66]。この節では前者の区分に従い、アッシリアの興隆までの時期を扱う。この時代にはメソポタミア北部のアッシリアや、その周辺域にあるヒッタイト、ミタンニ、エジプト、エラムが勢力を拡張し、互いに争いつつ盛衰を繰り返した[64]。これらの諸国の間に密接な関係が構築されていったことから、「国際化の時代」ともされる[64]。
カッシート人の王朝
[編集]前1595年にヒッタイト人がバビロンを去った後、カッシート人がバビロニアを手中に収めるまでの過程は、史料が極度に乏しいため確実に言えることがほとんどない[64]。はっきりしているのは、前1500年頃にはカッシート人の王朝がバビロニアの中核部分を支配下に置いていた事である[67]。このことはカッシート人の王ブルナ・ブリアシュ1世(在位:前1500年頃)がアッシリアのプズル・アッシュル3世(在位:前1500年頃)との間で結んだ国境確定の条約によってわかる[67][68]。ブルナ・ブリアシュ1世の2代後の王、ウラム・ブリアシュ(在位:前15世紀初頭)とその甥のアグム3世(在位:前15世紀初頭)は、「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝)も滅ぼしてバビロニア全域を支配した[67]。このカッシート人の王朝がバビロン第3王朝であるが、カッシート王朝、カッシート朝、カッシュ王朝などの呼び名の方がしばしば用いられる[69]。
カッシート王朝はバビロニアの王朝としては最も長く400年前後の期間バビロニアの支配権を維持することができ、その支配は前1155年まで続いた[67][70]。その間に周辺諸国との緊密な外交が繰り広げられたことが、それぞれの国で発見された外交書簡などによってわかっている。最も名高いのはエジプトのファラオ、アクエンアテン(アメンヘテプ4世)の王宮から発見されたいわゆるアマルナ文書で、カッシートの王女のエジプトへの輿入れや、贈答品のやりとり、カナンの地で殺害されたバビロニア商人の問題や、アッシリアとの確執などについての情報が残されている[71][72]。
カッシート人は古いバビロニアの文化を継承すると共に、より古いシュメール文化をも掘り起こし、シュメール語を円筒印章に用いるなど、一種の復古主義をもたらした[73]。カッシート語の文書は発見されておらず、現存する文書は楔形文字によってアッカド語かシュメール語で書かれている。また、この王朝の時代には従来シュメールとアッカドの地と呼ばれた領域はカルドゥニアシュ(Karduniaš)と言う単一の名称で呼称されるようになった[6]。そして、年ごとに個別の年名が割り当てられる記録法に代わり、王の統治年数で記録する方法に変わった(年の途中で王が死亡した場合、死亡時までは前王の統治年であり、新王の即位後は即位年(シュメール語:mu-sag-namlugal-ak, 、アッカド語:resh sharruti)と呼ばれ、翌年が新王の「統治第1年」であった[74]。
時代と共にアッシリアが強大化し、カッシート朝の後半期にはバビロニア(カッシート)の王とアッシリアの王の戦いの記録が数多く見出される[72]。アッシリアの王トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:前1244年-前1208年)は、碑文の一つでバビロニア王カシュ・ティリアシュ4世を捕らえ、裸にして連行し、バビロンの城壁を破壊したことを誇っている[74]。バビロニアは7年間にわたりアッシリアの支配を受けたが、トゥクルティ・ニヌルタ1世が暗殺されアッシリアが混乱に陥った隙にアダド・シュマ・ウツル(在位:1216年-前1187年)が独立を回復した[75]。しかし、王朝の弱体化は避け難く、アッシリア人と、東方のエラム人からの相次ぐ攻撃によって崩壊へと向かった。前1157年、エラムの王シュトゥルク・ナフンテはバビロニアを制圧してバビロニア王ザババ・シュマ・イディナを廃し、自分の息子クティル・ナフンテをバビロニア王に擁立した[74]。ハンムラビ法典碑を含む戦利品もエラムに持ちさられ、カッシート最後の王エンリル・ナディン・アヒはなお3年間に渡り抵抗を続けたが、前1155年に遂に鎮圧されカッシート朝は滅亡した[74]。
イシン第2王朝
[編集]バビロニアからエラム勢力を一掃したのは、イシン市でマルドゥク・カビト・アヘシュ(在位:前1157年-前1140年)が新たに打ち立てた王朝であった[77]。これをイシン第2王朝、またはバビロン第4王朝と呼ぶ[77][78]。イシン第2王朝は、第2代のイッティ・マルドゥク・バラト(在位:前1139年-前1132年)の時代には既にバビロンを首都として周辺地域を支配下に置いていたと見られる[75]。この王朝は短命であったが、その王ネブカドネザル1世(ナブー・クドゥリ・ウツル1世、在位:前1124年-前1103年)はエラムに侵攻し、カッシート朝滅亡時に奪い去られていたマルドゥク神像を取り戻したことで名高い[78]。どの程度史実に忠実であるのかは不明であるが、彼の功績を称揚する歴史文学が後世のコピーによって知られている[77]。この頃から神々の王としてバビロンの都市神マルドゥクの地位が高められ、次第にパンテオンの最高位に置かれるようになっていった[77]。
マルドゥク・ナディン・アヘ(在位:前1099年-前1082年)の時代には、アッシリアの王ティグラト・ピレセル1世との戦いに敗れ、イシン第2王朝は大いに弱体化した[75][77]。その後出自不明の王が相次ぎ、この王朝は前1026年に滅亡した[75][79]。にもかかわらず、この混乱期にはアッシリアとの友好関係が保たれた。これは西方のアラム人やカルデア人の流入が両国にとって共通の脅威となっていたためと考えられる[79]。
イシン第2王朝の崩壊と前後して、バビロニアでは短命の王朝がいくつも登場した。『バビロニア王名表』の記述に従えば、3人の王からなる「海の国」第2王朝(バビロン第5王朝、前1024年-前1004年)、やはり3人の王からなるバズ王朝(バビロン第6王朝、前1003年-前984年)、そして単独の王マルビティ・アプラ・ウツルのエラム王朝(バビロン第7王朝、前983年-前978年)である[80]。この間の詳細は詳らかでない。
アッシリア帝国の時代
[編集]前1000年期初頭のバビロニアの歴史は『バビロニア王名表』『アッシリア・バビロニア関係史』およびアッシリアの王碑文の部分的な記述からしか復元できず、極めて断片的にしかわからない[81]。前1000年期初頭の250年余りの期間はE王朝(バビロン第8王朝、前977年-前732年)と呼ばれ、ある程度国力を回復したであろうことが、アッシリアとの国境争いの記録から読み取れる[81][82]。バビロニアとアッシリアはおよそ100年余りの間均衡していたが、前9世紀後半にはアッシリアが強大化する一方でバビロニアは混乱し、南部と東部におけるアラム人やカルデア人の諸部族の侵入を抑え込むことができなかった[81]。この王朝の末期の王、ナブー・ナツィル(ナボナサル、在位:747年-734年)の治世から『バビロニア年代誌』がバビロニアの重要な政治的事件を記録し始める[81]。この王の治世のすぐ後にはアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを征服し、アッシリアによるバビロニア支配が始まった[81]。アッシリア支配下のバビロニアについては各種の膨大な史料が残されており、詳細な政治史が復元されている[81]。
アッシリアの支配
[編集]前8世紀後半から前7世紀初頭にかけて、アッシリアは北はアナトリア半島南東部、西・南はエジプト、東はエラムに至る地域を支配する帝国を構築していった(アッシリア帝国/新アッシリア)。この時代のバビロンの王は『バビロニア王名表』にまとめられており、これをバビロン第9/第10王朝とする[83][注釈 6]。バビロン第9王朝の最初の王とされているのはアラム人とみられるナブー・ムキン・ゼリ(在位:前731年-前729年)であり、彼の治世前後からバビロニアにおけるアラム語使用の痕跡が確認され始める[83]。その次の王はプルとされている。これはアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前728年-前727年[注釈 7])を指す。ティグラト・ピレセル3世はナブー・ムキン・ゼリからバビロンの支配権を奪った経緯、そしてマルドゥク神像の手を握る儀式を行って正式にバビロニアの王として即位したことを記録に残している[83]。
ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを征服した後、アッシリアが滅亡するまでの間のほとんどの王の時代にバビロニアでは反乱が発生した。アッシリアでサルゴン2世(シャル・キン2世、在位:前721年-前705年)が即位した時、バビロニアではカルデア人部族の首長メロダク・バルアダン2世(マルドゥク・アプラ・イディナ2世、在位:前721年-前710年)がエラム王フンバニガシュの支援を受けてバビロン市を掌握し、アッシリアから自立してバビロニア王となった[87][88]。12年余りに及ぶ彼の反乱は最終的にサルゴン2世によって鎮圧されたが、メロダク・バルアダン2世は生き残ってエラムへと逃亡し、再起の機会を待った[87][88]。アッシリアでサルゴン2世が死に、センナケリブ(シン・アヘ・エリバ、在位:前704年-前681年)が即位すると、マルドゥク・ザキル・シュミ2世(在位:前703年)が再び反乱を起こし、その後にはエラムから舞い戻ったメロダク・バルアダン2世(在位:前703年)が反乱を継続した[88][89]。メロダク・バルアダン2世は最終的にキシュ平野の戦いでセンナケリブに敗れ、その後彼に再起の機会は訪れなかった[88][89]。センナケリブは「宮殿で小犬のごとく」成長したベル・イブニ(在位:前702年-前700年)を新たなバビロニア王に据えたが、センナケリブの期待に反してベル・イブニも反逆者となった[88]。センナケリブはこの反乱も鎮圧し、今度はバビロニア王として自身の息子アッシュル・ナディン・シュミを据えた[88]。しかし、アッシュル・ナディン・シュミはエラムの襲撃とバビロニアで発生した反乱によってエラムに連れ去られ行方不明となってしまった[88][90]。センナケリブは息子の犠牲と言う事態に再度のバビロン征服に乗り出し、前689年にバビロン市を破壊して毎年の新年祭を禁止した[88][91]。
センナケリブによって破壊されたバビロンは、彼の後継者エサルハドン(アッシュル・アハ・イディナ、在位:前680年-前669年)によって再建された[90][注釈 8]。彼は即位後すぐに再建事業に取り掛かり、バビロニアへの優遇処置を矢継ぎ早に打ち出して民心の掌握に努めた[93]。これが功を奏してか、エサルハドンはアッシリア帝国時代の王としては例外的にバビロニアの反乱に相対することがなかった[93]。メソポタミアにおいて圧倒的な求心力を誇ったバビロン市を中心とするバビロニアは、アッシリアにとって格段の配慮と警戒を要する支配地域であった[94]。再建されたバビロンは、その政治的・宗教的な卓越性に加え、各種の特権を与えられ、国際商業の中枢として繁栄の時代を迎えた[94]。バビロニアのロスチャイルドとも呼ばれる古代の大商人エギビ家の活動も、この時代のバビロニアで開始されていた[94]。
エサルハドンはその死に際し、自分の王国をアッシュルバニパル(アッシュル・バニ・アプリ、在位:前668年-前631年頃)とシャマシュ・シュム・ウキン(在位:前667年-前648年)と言う二人の王子に分割して継承させることを決定した。その規定ではアッシュルバニパルがアッシリア王、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王にそれぞれ即位し、前者が優越するものとされた[95]。その後実際にこの定めの通りに王位が継承され、少なくとも前651年までは平穏が保たれた[96]。アッシュルバニパルはバビロンに建てた石碑にこの兄弟の名前を刻む配慮を示したが、アッシリア王に対するバビロニア王の従属的地位は明らかであり、このことに不満を持っていたであろうシャマシュ・シュム・ウキンは前651年にエラムなど周辺諸勢力を引き込んで反乱を起こした(兄弟戦争)[97][98][99]。この反乱は3年に渡り続いたが、最後にアッシュルバニパルが勝利を収め、前648年に包囲されたバビロンでシャマシュ・シュム・ウキンは死亡した[100]。その後はカンダラヌ(在位:前647年-前627年)と言うバビロニア王の称号を与えられた代官が赴任してバビロニアを統治した[100]。
新バビロニア(カルデア)
[編集]アッシュルバニパルの没後、アッシリアの政局は混乱に陥ったらしく短期間に何人もの王が交代する事態となった[101]。王位争いは最終的にシン・シャル・イシュクン(在位:前623年-前612年)が勝利して終わったが、この混乱に乗じて「海の国」の首長とされるカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がバビロニアの支配権を握りアッシリアの支配から離脱した[101][注釈 9]。彼が打ち立てた王朝は新バビロニア(バビロン第11王朝)、またはカルデア王国と呼ばれる。ナボポラッサルは鎮圧のために派遣されたアッシリアの軍勢をバビロニアから排除することに成功し、更に東方のメディア人と同盟を結んでアッシリア本国に攻撃をかけ、前612年にはその首都ニネヴェを陥落させることに成功した[104]。アッシリアの残党はなおハッラーンに逃れて抵抗を続けたが、前609年にはこれも終わり、全メソポタミアがバビロンの支配の下に入った[104][105][106]。
更にナボポラッサルは王太子ネブカドネザル2世(ナブー・クドゥリ・ウツル2世、在位:前604年-前562)に、アッシリア残党を支援したエジプト(第26王朝)を攻撃させ、前605年にカルケミシュの戦いでエジプトを破り、シリアを支配下に置くことに成功した[107]。翌年即位したネブカドネザル2世は、旧約聖書にあるバビロン捕囚の実行者としても有名である。彼は前597年にエルサレムを占領すると、その王エホヤキン他有力者たちをバビロンへと連行し、ゼデキヤを王位につけた[107]。更に前586年にはゼデキヤが反乱を起こしたため、これを討伐して再びエルサレムを占領し、ゼデキヤとユダの人々を連行した[107]。この結果ユダ王国は滅亡した。彼はフェニキアの都市ティルスや周辺の王国も攻撃して併呑し、パレスチナはバビロニアの属領となった[107][108]。
ネブカドネザル2世は建築活動を熱心に行った事が、大量に残された建築記念碑文などから知られている[109]。彼が残した建築遺構にはバビロニアを代表する建造物として名高いイシュタル門や、バベルの塔のモデルとなったともされるマルドゥク神殿エサギルのジッグラト跡などが含まれ、また現在発掘調査が行われているバビロン市の遺構は大部分が彼の治世のものである[110]。
最後の王ナボニドゥス(ナブー・ナイド、在位:前555年-前539年)は、祭祀に没頭し政治を顧みなかったともされる[111]。彼は月神シンの崇拝に没頭し、バビロンの南西800キロにあるアラビアのオアシス都市テイマに10年に渡って滞在するという不可解な行動をとった[111][112]。この都市はウルやハッラーンと並ぶ月神信仰の中心地であった[113]。本国の政治は王太子ベルシャザル(ベル・シャル・ウツル)に任された[114]。
この頃、イラン高原ではメディアを打倒したアンシャンの王キュロス2世(クル2世、在位:前559年-前530年)が新たな世界帝国を築きつつあった。これは一般にアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)、あるいはペルシア帝国などと呼ばれる。前540年までにはエジプトを除くバビロニアの周辺諸国はアケメネス朝の支配下に落ちていた。テイマ周辺の遊牧民の族長たちもキュロス2世になびき、ナボニドゥスはテイマを放棄して本国へ帰還せざるを得なかった[115]。前539年3月にはキュロス2世がバビロニアに侵攻し、ナボニドゥスは迎撃したが国内からは離反者が相次いだ[116]。10月10日にシッパルが陥落し、10月12日にはキュロス2世の軍勢はバビロンへ達した[117]。同日中にバビロンは無血開城し、シッパル陥落の報に接して逃亡したナボニドゥスは遊牧民に捕らわれてバビロンへ差し出された[118]。10月29日、キュロス2世は市民の歓呼の中でバビロンに入城し、バビロニアはアケメネス朝の支配下に入った[118]。
アケメネス朝
[編集]キュロス2世はバビロニア人からの支持を維持することに腐心し、バビロニアの伝統的な王号である「世界の王」「シュメールとアッカドの王」「四方領域の王」などを採用すると同時に、マルドゥク神とナブー神と言うバビロニアの神がキュロスに王権を与えたことを宣言している[119]。また新バビロニア時代に強制移住によってバビロニアに連れてこられた人々に対し故郷への帰還を許可し、「ナボニドゥスの悪行」によって荒廃した建造物と信仰とを救い出すことを喧伝した[120]。アケメネス朝の支配下にあってもバビロニアの経済的繁栄は継続し、エギビ家のような大商人や銀行家は栄え続けた[121]。キュロス2世はバビロニアを離れる時、息子のカンビュセス2世(カンブジヤ2世、在位:前530年-前522年)をバビロンの総督に任命し、彼は父の死までの間平穏に統治することができた[122][123]。前530年にキュロス2世がマッサゲダイとの戦闘中に戦死しカンビュセス2世が即位した際には、バビロニアを含め帝国内は平穏であり目立った反乱は発生しなかった[124]。
しかし、カンビュセス2世が死ぬと僭称者とされるスメルディス(ガウマータ)を排除して王位に昇ったダレイオス1世(ダーラヤワウ1世、在位:前522年-前486年)は帝国全土で発生した反乱の鎮圧に追われた[125]。バビロニアもこの時反乱を起こした属州の一つであった。ダレイオス1世が残したベヒストゥン碑文の記録などから、バビロニアでは前522年10月にネブカドネザル3世(ナブー・クドゥリ・ウツル3世、ニディントゥ・ベール、在位:前522年)が、そして前521年にはアルメニア人とされるネブカドネザル4世(ナブー・クドゥリ・ウツル4世、アラカ、在位:前521年)が、それぞれ反乱を起こして鎮圧されたことが伝わる[125][126][127]。バビロニアはこの反乱にもかかわらず繁栄を維持し、後継者と定められたクセルクセス1世(クシャヤールシャン1世、在位:前486年-前465年)は王の代理人としてバビロンに駐在した[128]。
クセルクセス1世が即位した後、バビロニアでは再び反乱が発生した。前482年にバビロニア総督ゾビュラスは暴動の中で殺害され、ベル・シマンニとシャマシュ・エリバと言う人物が王位を主張した[129]。ペルシア軍によって反乱はたちまち制圧されたが、この代償は高くつき、バビロンの城壁、マルドゥク神殿とジッグラトは破壊され、黄金製のマルドゥク神像は融解された[129][130]。クセルクセス1世は、父の代まで用いられてきた「バビロンの王」と言う称号を拒否し、バビロニア属州(バービル)はアッシリア属州(アスラー)と合併させられたと伝えられる[129]。ただし、「バビロンの王」と言う称号は実際にはその後もアルタクセルクセス1世時代まで使用され続けていたことが発掘史料によって確認されている[131][注釈 10]。
ヘレニズム時代
[編集]マケドニアの王アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)はギリシア全土の支配権を握り、前334年春にはダーダネルス海峡を越えて東征を開始した[132]。アケメネス朝の最後の王ダレイオス3世(ダーラヤワウ3世、在位:前336年-前330年)はこれを迎え撃ったが、イッソスの戦い(前333年)とガウガメラの戦い(前331年)で相次いで敗北し、アケメネス朝は瓦解、その遺領はアレクサンドロス3世に制圧された[133]。インド北西部までを征服したアレクサンドロス3世は前323年にバビロンで病死した[134]。彼の死後、その将軍たちは後継者(ディアドコイ)であることを主張し、互いに争った[135]。バビロンでその遺領の後継を巡る会議が開かれ、主導権を握ったペルディッカスらによって帝国各地の統治分担が決定された[135]。しかしペルディッカスが内戦と権力闘争に敗れ暗殺されると、前321年にアンティパトロスの主導でシリアのトリパラデイソスで再度領土分割の会議が持たれ、この結果バビロニアはセレウコス1世(在位:前305年-前281年)の所領となった[135]。
この会議において卓越した地位を獲得したのは主導者のアンティパトロスとフリギアまたはリュディアの総督アンティゴノス1世であった。前319年にはアンティパトロスが死亡したが、その後継者となったポリュペルコンはアンティゴノス1世と激しく対立し、長い戦争が繰り広げられることになった[136]。アンティゴノス1世に与したセレウコス1世を、ポリュペルコン麾下の将軍カルディアのエウメネスが攻撃し、前318年10月にバビロンが占領され、セレウコス1世の反撃は失敗した[136]。セレウコス1世は翌年にアンティゴノス1世の助力を得て北部バビロニアに戻り、前316年にアンティゴノス1世のエウメネス討伐軍に合流してこれを破る事に成功した[136][137]。旧アレクサンドロス王国の大部分を支配下に収めたアンティゴノス1世は、バビロニアを支配するセレウコス1世を疎んずるようになり、前315年にセレウコス1世はバビロニアを脱してエジプトのプトレマイオス1世の下に身を寄せた[138]。そしてプトレマイオス1世とアンティゴノス1世の戦いに乗じる形で、前311年にバビロニアに舞い戻りその支配権を奪回した[139]。後にセレウコス朝で用いられるセレウコス暦はこの年をもってセレウコス朝の統治の始まりと規定し、数世紀にわたってバビロニアを含むその領土で共通の暦法として用いられた[139]。この戦い(ディアドコイ戦争)の過程で地中海からメソポタミアに至る地域にヘレニズム王朝(アンティゴノス朝、プトレマイオス朝、リュシマコス朝、カッサンドロス朝、セレウコス朝)と呼ばれるグレコ・マケドニア系の諸王国が成立した。バビロニアの支配を盤石なものとしたセレウコス1世は、イラン高原もその支配下に収め、東はインドとの境まで[140]、西は前301年にイプソスの戦いでアンティゴノス1世を破ってシリア・アナトリアまでを支配下に収めた[141]。
バビロニアにおけるセレウコス朝時代の極めて重要な変化は、セレウコス1世が新たなバビロニアの中心として新都市、ティグリス河畔のセレウキアを建設したことであった[142]。セレウキア市の建設はセレウコス朝がバビロニアを重視していたからこそであったが[143]、商業的中心としてのバビロンの地位を脅かし、その最終的な放棄へと至る出発点となった[142]。バビロンの人口は徐々に減り始め、その建物の建材はセレウキアでの建設活動に転用された[144]。セレウコス1世の後継者アンティオコス1世(在位:前281年-前261年)はバビロンの神殿建設を続けてはいるが、前275年頃にバビロンの市民にセレウキアへ移住するように命じ、その家屋を没収した[144][145]。この時没収された土地はアンティオコス2世(在位:前261年-前247年)の時代に返還された[146]。セレウコス朝はなおバビロニアの伝統的な宗教に一定の敬意を払った。当時バビロニアでは既にアッカド語(バビロニア語)は口語としては死語となりつつあり、一部ではギリシア語が普及し、そしてより広い範囲ではアラム語が支配的な言語となっていたが、考古学的発見によって、バビロンとウルクの神殿では伝統的なアッカド語(バビロニア語)の楔形文字文書が作成され続けていることがわかっている[147]。
パルティアの征服とバビロンの放棄
[編集]バビロニアは前141年7月、アルサケス朝(アルシャク朝、パルティア)の王ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)に征服された。その後、セレウコス朝とパルティアのバビロニア争奪戦の中でバビロンの支配者は何度も入れ替わり、最終的にミトラダテス2世(ミフルダート2世、在位:前124年-前90年頃)によってパルティアのバビロニア支配が確定した[148]。この間にバビロンは大きく破壊され、多くの住民がメディアへと連れ去られた[148]。
商業的中心がセレウキアと、パルティア人がその対岸に作ったクテシフォン(テーシフォーン)に移った後も、バビロンはなお宗教的中心としての役割は残していた[145]。また、パルティア時代にはいくつかの大型建造物が再建されており[145]、西暦0年代頃にはパルミュラ人商人の居留地がバビロンに建設された[148]。これがバビロン最後の繁栄となり、半世紀後にパルミュラ人たちがセレウキア・クテシフォンへと移動するとともにバビロンは孤立した都市として衰亡の一途をたどった[148]。
バビロンが完全に放棄された年代は明確ではない。1世紀の学者大プリニウスはマルドゥク神殿がなお瓦礫の中に立っており、活動を継続していたことを報告しているが[145][148]、20世紀の学者サルヴィニやマッキーンなど現代の学者は西暦始めの1世紀のうちにバビロンが放棄されたと語る。マッキーンはカッシウス・ディオなどの古典古代の作家の記録に基づき、次のようにバビロンの最期を描写している。
しかしルーヴェン・カトリック大学のトム・ボーイ(Tom Boiy)は、初期キリスト教徒の著作内におけるバビロンへの言及などの分析を通じて、その「都市」としての規模が不明ながらバビロンはさらに長く存続していたと主張している[149][150]。テオドレトスによれば、最末期の住民の数は少なく、それはもはや「アッシリア人」でも「バビロニア人(カルデア人)」でもなくユダヤ人であったという[149]。
バビロンの終焉と共に、古代シュメール時代から連綿と受け継がれてきた楔形文字による文筆活動は完全に停止し、アッカド語(バビロニア語)も忘れ去られた。その後もバビロニアに相当する地域は中東の政治・社会・経済における中心の一つであったが、バビロニア文化の多くは後のペルシア文化やイスラーム文化に痕跡を残しつつ終焉を迎えた。楔形文字文書の作成が終焉を迎えた時期は正確には不明である。年代がはっきりしているものの中で、現在知られている最後の楔形文字によるアッカド語文書は西暦74/75年の天文記録であり[150][151]、年代不明の文書の一部は1世紀以降まで時代が下るであろう[152]。トム・ボーイはバビロンには西暦3世紀までは人間が居住していたと結論づけている。
言語と住民
[編集]「民族」
[編集]バビロニアの歴史では数多くの「民族」が登場し、様々な王朝を打ち立てた。このためしばしばその歴史は「諸民族の興亡」の過程として描かれる[153]。しかし、バビロニア史(さらにはメソポタミア史)に登場する「民族(エトノス)」、例えばシュメール人、アッカド人、カッシート人、アラム人などを日本人、フランス人、ロシア人のような現代の「民族(ネイション)」と同質の物として扱うことに対しては複数の学者が警鐘を鳴らしている[153]。こうしたバビロニアの「民族」を現代の学者が区分する時、しばしばその根拠は彼らが母語としていた(と予想される)言語の分類に依っている[154]。即ちシュメール人とはシュメール語を母語とする人々であり、カッシート人とはカッシート語を母語とする人々という事になる[154]。また、多くの言語は系統毎に分類が行われている(アフロ・アジア語族:セム語に分類されるアッカド語、アラム語など)。
しかし、バビロニアの人々のアイデンティティや共同体意識が言語区分に従って形成されていたことは必ずしも証明されない[155]。少なくともバビロニア(シュメールとアッカドの地)という地域的まとまりが形成される以前のシュメール人たちやアッカド人たちが残した文書からは言語毎にまとまった共同体意識が存在したことを読み取ることはできず、彼らの帰属意識はむしろ各々の都市にあったことが示されている[156]。
無論、言語自体は人々を区別する上で重要な要素の一つではあり、例えばアラム人(Aramāya)という用語で呼ばれていた遊牧民の部族集団の主たる言語はアラム語であったと考えられている[155]。だが、この用語は(同義語とみられるストゥ人Sutiu/Sutûと共に)「アラム人ではない者」から用いられる外部からの呼称として登場し、「アラム人」自身が共同体意識を持っていた事は確認されていない[155]。彼ら自身の自己認識・帰属意識を決定していたのは血縁や部族、共通した生活習慣などであったと考えられる[155]。従って、「アラム人」と言う概念は当時より存在したものの、アラム語によって結びつく政治的一体性や共同体意識を持った「アラム人」と言う集団が存在していたわけではなく、あくまでアラム系と呼びうる人々の分類が存在したに過ぎない[155]。
つまり、バビロニアに登場する様々な「民族」が覇権を争い、あるいは主導権争いをしていたわけではなく、より様々な要素で分類されうる多様な共同体がそれぞれにバビロニアの住民としてその歴史に関わっていたのであり、現代において言語毎に設定された「民族」の分類は古い学説の援用[157]、または便宜上のものである[注釈 11]。
文字に残されたバビロニアの言語
[編集]バビロニアではその長い歴史を通じて多数の「民族」が住み着き、多様な言語が使用されていた。しかし、筆記法を備え文字記録によって現代に残されているものは限られている。主要な言語としてまず挙げられるのは、初期王朝時代以前から使用され、楔形文字を直接生み出した系統不明の言語であるシュメール語である。シュメール語は前2千年紀の初頭、少なくともハンムラビ時代頃までには口語としては使用されなくなっていたと考えられる[158]。しかし、文語としては、学問の言語、また祈りの言語として使用され続け、セレウコス朝時代までシュメール語による文書が残されている。バビロニアの歴史上の多くの期間において中心的な言語となったのはアッカド語である。アッカド語はアフロ・アジア語族の中の東セム諸語に分類される言語であり、アッシリア語、バビロニア語は共にこのアッカド語の方言と分類される[159][160]。前2千年紀にはアッカド語はオリエント世界の共通語として広く外交言語や商業言語としても用いられ、例えばエジプトで発見されたアマルナ文書からはアッカド語(バビロニア語)の外交書簡が発見されている[161]。
同じくアフロ・アジア語族の西セム諸語に分類されるアラム語は前1千年紀に入ると広く普及し、アッカド語もアラム語から大きな影響を受けた[159]。アラム人は、その商業活動による移住とアッシリア帝国時代の強制移住とによってオリエント世界の広範囲に居住するようになり、それに伴いアラム語が広く通じる共通語となっていった[162][163]。この影響を受けて、アッシリアと共にバビロニア人の日常言語も次第にアッカド語からアラム語へと切り替わっていった。既にアッシリア帝国時代には書記が二人一組でアッカド語とアラム語の記録を取る様子が壁画に残されており、アラム語の普及が始まっていたことがわかる[164]。前7世紀頃にはアッカド語で書かれた粘土板の外部に文書の概要をアラム語でメモ書きしたものも見られるようになり、これもアラム語の普及を示している[162]。
アッカド語からアラム語への変化は、記録媒体の変化をも伴っていた。アッカド語が楔形文字で粘土板に筆記されたのに対し、アラム語はアラム文字(アルファベット)で羊皮紙やパピルスなどに筆写された[162][164]。このためアラム語は楔形文字で筆記される言語に比べ早く書くことができ、また書写材の制限も少なかったことが普及の大きな要因であった[162]。しかし、これらは粘土板に比べて耐久性に劣ったため、アラム語で書かれた文書の多くは風化し現代に残されていない。このためにアッカド語が衰退しアラム語に切り替わっていった前1千年紀後半は、現地史料が極めて乏しくなっている。楔形文字による記録は少なくともバビロンとウルクではセレウコス朝、更にパルティア時代まで続いたが、この時代のアッカド語文書はもはや口語としてのアッカド語が死語となり、日常言語が完全にアラム語に切り替わっていたことを示している[165][注釈 12]。
アレクサンドロス3世による征服の後にはギリシア語も一部に普及した。しかし、アラム語と同様に羊皮紙やパピルスに筆記されたその文書は現代には残されていない。これらの文書が「かつて存在したこと」だけが、その文書を保管するために用いられていた封印が多数残されていることによって理解される[165]。
その他の言語
[編集]バビロニアで使用されていたであろうその他の言語は、筆記法を持たなかったためにその人名や神名のような固有名詞や極一部の単語を除き、詳細を知る術がほとんどない。前2千年紀前半にバビロニアを席巻したアムル人(アモリ人)の諸部族が話していた言語はアムル語と呼ばれているが、この言語で書かれた文書は存在しない[167]。アムル語は西セム語に分類され、アラム語やヘブライ語と密接な関わりを持っていると考えられている[167]。
前16世紀以降、バビロニアを統一する王朝を作り上げたカッシート人たちの言語(カッシート語)もバビロニアで使用されていたはずであるが、情報源はアッカド語文中に登場する僅かな数の固有名詞と単語に限られるため、どのような言語系統に属するのか明らかではない[168]。かつてはインド・ヨーロッパ語の一つとされたこともあるが、現在では支持されていない[65]。
宗教と神話
[編集]古代世界における一般的な信仰体系と同じく、バビロニア(あるいは更に広くメソポタミア)では、現代社会におけるように宗教と世俗を弁別するような観念は存在しなかった[169]。
バビロニアに住む人々はシュメール時代から信仰されていた数多くの神々を崇拝したが、後世の啓示宗教のような統一的な教義や聖典が準備されることはなく、神々の地位は人々の間での人気やそれを称揚する王朝の盛衰に伴って変化した[注釈 13]。シュメールの神々はアッカドの神々と同一視され、シュメール語とアッカド語両方の名前が使用された[171]。
神々
[編集]シュメール時代以来、バビロニア地方では数多くの神々が信仰された。偉大な神々は「天空」「大気」「大地」「深淵」「冥界」「豊穣」などの神性を有していると共に、各都市に固有の守護神でもあった[172]。また、シュメール時代には、より身近な神として個々の人々を保護し、大いなる神々と人々の間を取り次ぐ個人神という概念が存在した[172]。個人神の神格は低く、シュメール時代の王たちの個人神を例外として、名前すらほとんど伝わらない[173]。ウル第三王朝以降、バビロニア時代には個人神の概念が発達し、固有の神名をふられることなく「私の神」「私の女神」として崇められた[174]。
神性
[編集]「神」を意味する単語はシュメール語でディンギル(Dingir)、アッカド語でイル(iru)であった[175]。だが、これらの用語からメソポタミアにおける「神」の概念の源流を読み取ることはできない。Dingir、Iruの両語は共に、語構成の中に語源を解き明かすヒントは含まれていない[176]。
楔形文字の文書では同音の言葉が多数存在したため、ある単語が何を表しているかを示す発音しない記号(限定詞、限定符とも)が用いられた。例えばある単語が「土地」の名前である場合には限定詞KIが、「川」の名前である場合にはIDが付された。神を表す限定詞の記号はアスタリスクに似た星を表す文字𒀭で、現代の学者は「神」を意味するシュメール語のディンギル(DINGIR)と同じ名称で呼んでいる[176]。神を表す限定詞として星が選ばれたのは「天」「一際高い」といった神の持つ卓越性・優越性が意識された結果であろう[176]。
バビロニアを含むメソポタミアの宗教において、「神性」即ち何が神であるのかについての概念が明確に規定されたことはなく[177]、ただ恩恵をもたらすによ被害をもたらすにせよ、その力が人間よりも卓越した存在として認識されていた[176]。神々を称える際の決まり文句には「強く(dannu/gašru)」「並外れて強く(dandannu/kaškaššu)」「偉大である(rabû)」「非常に高くに位置し(šûturu)」「威厳に満ち(šagapûru)」「輝きに満ち(šûpû)」「完璧である(gitmal)」など、その優越性を示す物が無数に見つかる[176]。また、明確に人と神とを隔てる特徴の一つが神が不死であることであった[178]。
フランスの歴史学者ジャン・ボテロは、古いシュメール時代の描写では神々の行動と思考は「幼稚」で「粗野」で「無骨」であり、明らかに人間と同じ特徴を有していたと評している[179]。しかし、時代が進むと共にその描写における品行は少しずつ洗練される傾向があった[180]。前2千年紀初頭以降、人々は「高位」の存在に相応しい気高く崇高な性格を神々に与えるようになっていった[180]。
主要な神々
[編集]以下にバビロニアで信仰された主要な神々を記す。複数の名前が記されている神名は原則として左側がシュメール語名、右側がアッカド語(バビロニア語)名である。
- アン/アヌ:天空神であり理念上は最高神である。シュメール語でアン(An)は「天」を意味すると共に、天空神の名前でもあった。セレウコス朝時代にはウルクでイシュタル女神と並んで重要視された。シュメール時代からバビロニア時代までの全期間を通じて最も重要な神の1柱とされていたにもかかわらず、文学や芸術的な描写がされることは少なくその性質はよくわかっていない[181]。
- エンキ/エア:地下の清水の大洋(アプスー)を司る神であり、知恵・魔術・呪文などの属性と結び付けられた。信仰の中心はエリドゥ市のエアブズ神殿であり、『アトラハシス叙事詩』や『ギルガメシュ叙事詩』の洪水神話では大洪水から人間が逃れるのを助ける役回りを演ずるなど、常に人間に好意的な神として描写された[182]。
- エンリル:メソポタミアのパンテオンにおいて最も重要な神の1柱である。信仰の中心地はニップル市のエクル神殿であり[183]、その重要性からイシン・ラルサ時代にはニップル市は各国の争奪の対象となった。バビロニアの王権概念と深く結びついており、「エンリル権」という用語は王権を意味した[184]。ハンムラビ法典の序文ではエア神の長子マルドゥクにエンリル権を授けたとされている[184]。
- ウトゥ/シャマシュ:太陽神であり、正義を司る神とされた。アッカド語のシャマシュは元来は女神であったと考えられるが、男神であるシュメールの太陽神ウトゥとの習合の過程で男神に変化したと考えられている。ウトゥの主神殿はアッカドのシッパルとシュメールのラルサにあった[185]。ハンムラビ法典の上部には祈りの仕草を取るハンムラビの対面に玉座に座すウトゥ/シャマシュが描かれており、これが最も有名な図像表現である[184]。
- アマルウトゥ/マルドゥク:非常に古い時代からバビロン市の守護神とされていた。シュメール初期王朝時代からアマルウトゥ/マルドゥクへの言及があるが、シュメール時代にはさしたる重要性を持つ神ではなかった。元来は農耕神であったと考えられているが、バビロン市の隆盛と共にその神格は向上し続け、ハンムラビ時代にはエンリルから王権を授けられた神と描写され、更に後には神々の王となり、他の神々の多くはマルドゥクの諸相に過ぎないとまでされ、単にベル(主人)と呼ばれるようになった[186]。天地創造神話『エヌマ・エリシュ』ではティアマト女神と彼女が生み出した怪物を退治し1年を12ヶ月と定めたとされる。バビロンを支配した王は「マルドゥク神の御手を取る」儀式を行うことが慣例となり、キュロス2世やアレクサンドロス3世もこの慣例に従った[187]。
- イナンナ/イシュタル:性愛と戦いの女神であり、バビロニアの全時代を通じて最も重要な女神であった。イシュタルと言う単語は元来金星を表したが、この星は明けの明星としては男神、宵の明星としては女神であった。バビロニアとアッシリアではこの2柱の神は戦闘神と言う男性的特徴を維持してイシュタルと言う1柱の女神に習合された[188]。
- スエン/シン:月神。シュメール語ではスエン、またはナンナであり、ナンナ・スエンとも呼ばれた。その信仰の中心はウルであり、新バビロニア時代にはシリアのハッラーンも重視された。古バビロニア時代以来人気のある神であったにもかかわらず、パンテオンにおいては下位にあり続けた[189]。
- ネルガル:冥界の神。ネルガルと言う名前は恐らく外来語であり、バビロニア人はこの名前に「冥界の主」と言うもっともらしい語源説明を与えたと考えられる。古バビロニア時代までにシュメールの複数の冥界神と習合され、クトゥ市やマシュカン・シャピル市を中心的な聖所として、この神の属性とされた危険を回避すべく各地で広く信仰された[190]。
- ナブー:書記の神。「天命の書板」に人間の運命を記す書記であると共に知恵の神でもあり、アムル人の到来を機にバビロニアにもたらされボルシッパを中心的な聖所とした。カッシート時代にはマルドゥク神の息子とされ、バビロンの新年祭では父であるマルドゥクを訪れるため、その神像が「連れて」こられた。前1千年紀には最高神マルドゥクを凌駕するほどの信仰を集め、少なくともパルティア時代までこの神の祭儀は存続した[191][192]。
このような偉大な神々の大半は、前2千年紀以降、次第にシュメール語よりも好んでセム語(アッカド語)化した名称で呼ばれるようになっていった[179]。また、神々は時代と共に類似した属性を持つ別の神と同一視・習合され、次第にその数は少なくなっていった[193]。シュメール時代以来、1,000以上の神々が言及されてはいるが、最終的に実際の信仰行為が第一線で継続する神々は30柱ばかりまで整理されている[179]。
神の図像と神像
[編集]神々の姿は原則的に人間をモデルとして描かれており、動物形態、あるいは動物崇拝は採用されていなかった[194]。一部の動物が神を象徴する存在として宗教的画像に描かれることはあったが、様々な彫像や浮彫、円筒印章などにおいて神は常に人間の姿で描かれた[195]。単なる人間とは異なる卓越した神の図像であることを示すために、男神の場合には角のついた冠が被せられていた[195][196]。女神の場合には尖帽や像の姿の厳粛さなどによって表現された[195]。
神の姿を写した神像は大きな宗教的意義を持っていた。神学的な体系を持っていたわけではないが、神像はそれが表現している神その物、あるいは神の存在を内包しているものであり、神像の移動は神が移動したことを意味していた[197]。これに関連して最も激しい争奪の対象となったのがバビロンの都市神マルドゥクの神像である。戦争の結果として「捕虜」としてマルドゥク神像が連れ去られたこと、そしてそれを奪還したことは、それが真実であるにせよないにせよ、偉大な王の業績として盛んに喧伝された。カッシートの王アグム3世はヒッタイトがバビロン第1王朝を滅ぼした時に奪われたマルドゥク神像を取り戻したとされ[198]、イシン第2王朝の王ネブカドネザル1世もまた、エラムに奪われたマルドゥク神像を奪還したことが記録に残されている[76][77]。アッシリア王エサルハドンとアッシュルバニパルはバビロン市の復興に際して、鹵獲していたマルドゥク神像を返還することで王の寛容を示そうとした[199]。
ジャン・ボテロはバビロニアにおける宗教観において、神像はその神格自体を内包し、神が「実在すること」を保証していたと述べている[197]。そしてこのような「現実感」から、神像は儀式の過程で神その物として他の神々を「訪問」したり、前1千年紀には「聖婚」において二体の神像が「寝室」に並べられて一夜を過ごしたりした[197]。
神的存在と呪術
[編集]偉大な自然や崇拝すべき事象は人間より上位の存在としてそれ自体が神格化される場合があった。例えば偉大なる山々や水流などがそれにあたった[200]。とりわけ水流は重視され神に準ずる権威を持っていた[200]。川の流れには罪を判別する能力があると考えられたことから、神明裁判に川が利用された[201]。有用な力であるとともに脅威でもあった火も同様に神格化された[201]。更に自然の中の重要な出来事、たとえば「小家畜の繁殖(Laḫlu)」「穀物の発芽(Ašnan)」のような事象が神格化されパンテオンに加えられていた[201]。これらの神格化された事象は明らかに第二級の存在であり、頂点を極めた偉大な神々からは大きく隔たった存在であったが、まぎれもなく人々の崇拝の対象であった[201]。
また、世にはびこる不幸の理由として言及される危険な「力」も人間を超越した存在として認識されていた[201]。これらは現代の学者によって「悪魔(デモン)」と呼ばれているが、当時これらを総称するような名称は存在せず、個別に言及されていた[201][202]。これらもまた神格化されていたことを示す限定詞ディンギルが付されている場合があり、人間を凌駕した「神的」存在であったことがわかる[201]。しかしこのような悪魔たちは決して崇拝すべき神々のカタログに掲載されることはなかった[201]。また同じくディンギルはしばしば出現する危険な「幽霊(エツェンム eṭemmu)」に付されることもあった[201]。
このような「悪魔」の脅威に対抗するための技術として「呪術」が既にシュメール時代から発達し、人々は呪文や儀式を通じてそれを排除しようとした[203]。「悪魔」による様々な病気や動物の毒の害、また卜占の結果もらたらされた悪い予兆を解消するために祓魔技術が発達し[204]、これを専門技能として行う祓魔師(シュメール語:lú-maš-maš、アッカド語:âšipu)がいた[205]。卜占に通じ、必要に応じて邪悪を祓うことができると考えられた祓魔師たちは、いわば卜占師、心理治療師、医者、カウンセラーのような存在として活動し、また典礼儀官でもあった[202][205]。聖職としての祓魔師の地位は決して高いものではなかったと推定されているが、祓魔師はマルドゥク神と結び付けられその庇護下に置かれた[206]。更に直接的には神殿の礼拝の運営に関わることのない庶民に神々の偉大さとその恩寵を感じ取る機会を提供するという意味において重要な存在であったかもしれない[206]。
神殿
[編集]メソポタミアにおける神殿はまず第一に神々が生活する場であった[207][208]。地上における神々の住居はシュメール語でエ(É)、アッカド語でビートゥ(Bītu)と呼ばれたが、この言葉はそのまま「家」と言う意味であった[207][208]。この単語を現代の学者は慣習的に「神殿」と訳している[208]。規模の大小や神殿の周囲に住む神官達の住居など、構成の違いはあっても、神殿の第一義はまず住居であり、通常の住宅の一般的な間取りを基礎としていた[208]。
主たる神々のための大規模な神域は高い壁で囲われた「神々の町」を構成しており、各種の施設が立ち並んでいた[208]。聖堂の中心となるのは内陣と呼ばれる場所で、主神の像が置かれる神の住居の本体であった[209]。それに隣接して建てられ、「神々の町」の中で最も目を引き大規模であったのはシュメール語でウニル(U.NIR)[210]、アッカド語でジックッラトゥ(Ziqqurratu、慣習的にはジッグラト)と呼ばれる階段状の塔である[208]。これは大規模神殿集合体にのみ見られる建物で、3段から7段の層からなり傾斜路または階段を使用して登れるようになっていた[211]。ジッグラトにはそれぞれ固有の名前が付けられており、バビロンのマルドゥク神のジッグラトはエテメンアンキ(É-temen-an-ki、天と地の礎の家)、ニップルのエンリル神のジッグラトはエドゥルアンキ(天と地の結び目の家)、ボルシッパのジッグラトはエウルメイミンアンキ(天と地の七賢聖の家)と呼ばれた[210][212]。神殿それ自体にも固有の名前が付けられており、バビロンのマルドゥク神殿の名はエサギル(É-sag-íl)、ニップルのエンリル神殿はエクル(É-kur)であった[213]。
聖職者
[編集]神殿には多数の聖職者たちが仕えていた。この聖職者たちのうち高位のそれはしばしば世襲であったが、様々な儀式を経てその地位についたと想定される[214]。聖職者たちは通常は一般の人々と同様の生活を送っていたが、身分の高い一部の女性神官に限って、神々に身を捧げた存在とされ、子供を持つことが禁じられていた[214]。だが、聖職者の生活は宗教儀式に関わるという点を除けば、(特定の衣服を纏うにせよ)原則的には普通の人々との違いはなかった[215]。様々な聖職者の職位を表す用語、例えばカルー(Kalû)、シャングー(Šangu)、パシーシュ(Pašîšu)などが今に伝わるが、それぞれの職位がどのような役割を担っていたのかについて具体的な情報はあまり残されていない[216]。これらの職位の名前のうち、古いものの起源は原則的にはシュメール語に由来し、あるいはアッカド語に借用語として取り入れられたり、直訳したものであった[216]。また、女性の聖職者もおり重要な役割を担っていた[216]。聖職者の頂点にはエン(En、主人/女主人)がおり、男性である場合でも女性である場合でも同様の名称で呼ばれた[217]。聖職者たちは職能ごとに良く組織化されており、それぞれに「長(gal/rabû、またはugla/waklu)」がいた。
聖婚と売春
[編集]バビロニアにおける宗教的祭儀には聖婚と呼ばれる儀式があった。この聖婚(Hieros Gamos、古希: ιερός γάμος)と言う用語はギリシア宗教史の用語から借用されたものである[218]。この用語は2つの異なる儀式を指して用いられる。一つはアッシリア帝国時代から新バビロニア時代以降に記録されている2柱の神の「結婚」の儀式であり、寝台に神像を並べ「結婚」が行われるものである[218]。もう一つはウル第3王朝時代からイシン・ラルサ時代にかけて記録に残されているイシュタル女神と神格化された王の結婚の儀式である[218]。ただし、この結婚の儀式を伝える記録は全て文学テキストであり、実際の儀式の内容が全く伝わらないため、イシュタルの代理としての女性神官と王の間で現実に「結婚」が成立したのか、完全に象徴的な儀式であったのかははっきりとしない[218]。
また、バビロニアにおいて宗教と売春の間には近しい関係性があったと考えられている[219]。当地においても古くから売春は存在し、また娼婦は宗教的活動に関わる女性グループと共に言及される[220]。最も広い崇拝を集めたイシュタルは性愛の女神であり、娼婦の守護神であった[220]。実際に多くの女性神官たちが職務として売春を行っていたと考えられている[219]。こうした「専門家」を指すと思われる複数の用語、例えばヌ・ギグ(Nu-gig、アッカド語:Qadištu)や、ヌ・バル(Nu-bar、アッカド語:Kulmašîtu)が知られているが、いずれも詳細な意味は不明である[219]。アッカド語でイシュターリートゥ(Ištarîtu、イシュタル女神に帰依した女)と呼ばれた女性たちは通常の娼婦とは多少区別された[219]。こうした女性聖職者の中でも良家からごく若いうちに神に捧げられ子供を持つことを禁じられて神殿付属の施設に隔離されて集団生活を送ったのがシュメール語でルクル(lukur、神殿奴隷)、アッカド語でナディートゥ(Nadîto、放棄された者)と呼ばれた女性たちである。彼女たちは読み書きの能力を備え、高い教養を持っており、その優れた詩歌や手紙が残されている[219][注釈 14]。
宗教的売春婦と対をなすように同じような職務を遂行する男性がいた[221]。アッシンヌ(Assinnu)、クルガッルー(Kurgarrû)、クルウ(Kulu'u)、さらにカルーなどがそのような職務を行ったが、女性の場合と同じくそれぞれの違いはよくわからない[221]。実際に彼らがどのような状況において職務を行ったのかも不明である[221]。彼らはイシュタル女神を称える儀式の中で女装し、性的かつ宗教的な舞踊に参加した[221]。ジャン・ボテロは、彼らは実際には聖職者の集団の外部に位置しており、儀式の際に宗教的役割を果たすために神殿に呼び出されたとする[221]。
学問と文化
[編集]文学
[編集]バビロニアの文学はシュメールの文学に起源を持つ[223]。既にシュメールの時代に多様な文学的作品が作成されていたと見られるが、ウル第三王朝(前2112年-前2004年)以前の文学作品は特殊な例外を除き十分に知られてはいない[224]。古バビロニア時代に入ると文学作品の現存例は激増する[224]。古バビロニア時代にはシュメール語は口語としては死語となっていたと見られるが[158]、この時代には同一のシュメール語文書が各都市で盛んに複製された[224]。この一群のシュメール語文書の多くを占めるのは書記学校の生徒たちが練習のために複写したものである[224]。
一方で、古バビロニア時代はアッカド語(バビロニア語)文学の発展期であり、シュメール語文学に範を取った文学作品や、シュメール語文学のアッカド語訳が盛んに作成された[224]。この中でシュメールの文学はアッカド語話者の嗜好に合わせ多彩に改変され編集された[223]。バビロニアの文学作品の中でも傑作中の傑作として名高い『ギルガメシュ叙事詩』も、その原型はシュメール時代の多数の伝説にある[223][226]。シュメール時代にはビルガメシュと呼ばれた冥界神の物語は、取捨選択と再創造を経てウルク王ギルガメシュの物語として結実した[224][227]。3分の1が人間、3分の2が神であるウルクの王ギルガメシュの武勇伝、友人エンキドゥの死を切っ掛けにした不死の探求、それが不可能であることを悟るまでの苦悩、そして最終的にそれを受け入れるに至る一連の物語は、最古の教養小説としての側面を持ち、アッシリアやヒッタイトなど全オリエント世界に普及した[228]。
今一つ、バビロニア文学の代表作として名高いのが創世神話の『エヌマ・エリシュ』である。この作品はマルドゥク神に捧げられたバビロン市の新年祭において朗踊された作品であり、前12世紀頃の作品であると見られる[229]。この時代はバビロニアにおけるマルドゥクの神格が最高位まで引き上げられた時期であり、その神々の王としての地位を称揚し、そして他の神々の属性をもマルドゥクの中へ取り込むことを企図した作品であった[229]。この作品の中でマルドゥクは神々の労働を肩代わりさせるために人間を創ったとされる[229]。
バビロニア文学の多様な作品の多くはパルティア時代に楔形文字が使用されなくなるまで複写が続けられ、ほとんどの「図書館」に標準的コレクションとして保存された[224]。ギルガメシュの伝説は更に2世紀後半から3世紀頃まで、変形しつつも伝存し続けていたことがローマの作家クラウディオス・アイリアノスの著作での引用によって知られる[230]。このような叙事詩・神話は今日最も注目されるものであるが、他にも王賛歌、儀礼、魔術に関わる多様な文書が残されている[224]。バビロンの新年祭で朗踊された『エヌマ・エリシュ』を除けば、こうした文学作品がどのような目的で創られたのかは必ずしも明白ではない[224]。あるものは呪術的効果を期待され、あるものは教育のためであり、そしてあるものは単なる娯楽作品であったかもしれない[224]。文学作品はすべて声に出して朗踊されたと推測される[224]。今日残された作品は全体の極一部に過ぎないと考えられている[224]。
数学
[編集]バビロニアの数学はシュメールの数学から発達した。シュメールでは少なくとも紀元前3,000年頃にはトークンを使った計算が行われていた[232][233]。そして、楔形文字による記録体系は、その登場の最初期から物品の数量管理と密接に関わっており、様々な商業的取引、農地の収穫、土地の面積、借入金の記録、税収などが記録の対象となった。当然のこととしてこれらの記録を有効に活用するためには各種の算術や数学的知識が必要であった[232][233][234]。書記たちは学校で数学を教わり、農地面積の計算や労働者の1日あたりの労働量の算出を行っていた[232]。この様な計算技術、数学は日々の業務における実用上の必要性から発達したと見られる[232]。
ウル第三王朝時代まで数学文書は原則としてシュメール語で書かれたが、前2千年紀、古バビロニア時代に入るとアッカド語で書かれるようになった[232]。古バビロニア時代(前20世紀-前16世紀)の社会経済の発達と共にバビロニアの数学体系は発達し、西暦紀元前後まで2000年余りにわたって存続したが、時代と共に発展を続けていたわけではない。現存するバビロニアの数学文書は大部分が古バビロニア時代のものであり、後期バビロニア時代(前6世紀-前1世紀 アケメネス朝-パルティア時代)の物がそれに次いで少数見つかっている[232][235]。基本的な計算法と解法は古バビロニア時代に確立されたが、分野によってはその後退化傾向がみられる[236]。従ってバビロニア数学の最盛期は古バビロニア時代であった[236]。
現存する数学文書は計算表と問題集に大別される[232]。計算表は算術処理に必要な多数の数をリストしたものである。例えば掛け算表などがそれにあたる。バビロニアの数学では60進法を採用していたため、10進法の体系における九・九(1×1から9×9までの掛け算)に相当する五九・五九(1×1から59×59の掛け算)が必要であった[237]。しかしこれを暗記するのは困難であったことから、多数の掛け算表が使用されることとなった[237]。また、除算を行うための逆数表も用意された。これはバビロニアの数学においてa÷bを計算する際には、bの逆数を作り、それをaに掛けることで求めていたため、能率的に除算を行うためには逆数表が必要であったことによる[238]。掛け算表と逆数表は出土例が多く、計算に使用される基本的な道具であったと見られる[239]。このような計算表には他に、平方根、立方根、定数、特定の数字の累乗と指数の表などがあった[232]。
現代において数学の教科書は定義とそれについての説明、公式や定理の証明、例題と練習問題などからなっているが、バビロニアの数学文書ではこのうち例題と練習問題に相当する部分のみが現存している[240]。学習に必要な説明は口頭で行われたと見られるが、その内容は現在では不明である[240]。この問題集には、二次方程式、三次方程式、数列、円や四角、三角の面積を求めるような初歩的な幾何学などの分野が含まれる[232]。
バビロニア人は明らかに三平方の定理や円周率を知っていた[232][241]。ただし円周率はほとんどの場合3で計算された[232][241]。これは精密な計算が不可能であったわけではなく、バビロニアの数学における実用重視の側面の現れであったと思われる。バビロニア人の数学的関心は厳密な円周率の近似値を求めることではなく、円周や円の面積をどのように効率的に計算するかにあった[241]。
近現代の研究者は一般に、バビロニアでは幾何学分野に関する述語は未発達で整理されておらず、現代における角度や相似を意味する述語は知られていないとしている[232][242]。そして角度の概念の欠如の結果として幾何学分野の発達は貧弱であり、三角法や円錐形、角錐形、球形の幾何学は欠如していたと評してきた[232][243]。このことはユークリッドに代表される高度な幾何学を発達させたギリシア数学としばしば対比され[232][243]、現代から見た場合、バビロニア数学の水準は最後まで初歩的なレベルにとどまったとする評価がある[232]。
ただし、バビロニア数学を研究する室井和夫は問題文の内容から見てバビロニアには相似の概念はあったとしており[244]、さらに事実としてバビロニア人たちは円に内接する多角形を正確に作図し、直角三角形の3辺の長さを計算し、建造物を建てる際に必要な水平・直角・垂直をきちんと判断し設計できていた。室井和夫のその後の研究でバビロニアでは明確に角度が理解され、計算にも使われていたことが明らかとなっている[245]。室井和夫はバビロニアの書記たちの学術的水準について次のように述べている。「もしバビロニア人の書記たちが我々の数学を学んだとしたら、これを良く消化吸収し、現代人の平均的水準を超える学力を身に付けたであろう。何千年も前に、数の世界の合理性に気付き、その研究を進めていた名も知れぬ書記たちが、バビロニアにはいたのである。彼らこそ最初の数学者であり、合理的精神の持ち主であった[243]。」
天文学と占星術
[編集]バビロニアを含むメソポタミアの天文学は占星術との密接な関係の中で発展した[247]。今日とは異なり、天文観測の主要な目的は占いを通じて未来を予知するための情報を収集することにあった[247]。規則的な天空の動きの中に現れる変化、例えば惑星の動きや彗星の出現、日食や月食を通じて人間の運命の転変を知る事ができると考えられた[248]。バビロニアの天文観測の水準は高く[249]、その記録は曖昧さを含むものの、編年情報の確立に大きな役割を果たしている。
古い時代のバビロニア天文学の水準についての情報は完全ではない。組織的な天体観測に関わる最初期の文書は前1700年頃の古バビロニア時代に現れる[247]。しかし星名や星座名を記録した初期の文書はあまり発見されておらず、現在知られている知識は、占星術的な予兆についての情報の編纂が全盛を極めた前1千年紀になってからの情報が中心である[247][250]。
バビロニア・アッシリアの天文学について重要な情報を残しているのはムル・アピンと呼ばれる二つのグループ(I, II)に分類される恒星リストである。ムル・アピンの現存する最古の写本は前687年にアッシリアで作られたものであり、またアケメネス朝時代(前500年頃)のバビロンで造られた大英博物館 No. 86378がその代表例とされる[251]。これにはバビロニア天文学の基礎をなす天界の3区分に従った星と星座のリスト、主要な星や星座が日の出時に出現する日のリストなどが記載されている[252][253]。天界の3区分とは、北極星の周囲を回転する星々の領域を「エンリルの道」。天空の最も高く東西に広がる領域を「アヌの道」。そして南側の、星々が長時間地平線の下(アプスー、深淵)にある領域を「エアの道」という3つの「道」に天を分けるものである[254][注釈 15]。
ムル・アピンの記録には、太陽、木星、金星、火星、水星、土星のような「月と同じ道を旅をし」常に場所を変える6つの星や、季節ごとの太陽の軌道などが言及されており[256]、これらが恒星の位置と共に観測されていたことがわかる。
また、バビロニア人は複数の星を黄道十二宮を始めとした星座として分類した。バビロニア時代の星座は現代の星座と完全に同一ではないが、明らかに現代の星座の原型となっている[257]。人間の上半身とウマの下半身を持ち、鳥の翼とサソリの尾、さらに後頭部にイヌの頭を持って弓を構えるパピルサグ(Pabilsag)はいて座の原型であり[258]、ヤギの上半身と魚の下半身を持ったスクル・マシュ(suḫurmašu ヤギ魚)はやぎ座の原型であると見られる[259]。
占星術においてはこうした天体の運行と変化が未来の出来事を指し示すと考えられ、「(天で)Xが起こったならば、Yとなるであろう」と言う形式で様々なことが占われた[247]。実例としては以下のようなものとなる。
「月が第一日(太陰月の)に現れれば、静けさあり、国土は安定。計算上、昼が長ければ、在位は長いであろう。月が満ちれば王は卓越するであろう。イシュタル・ジュマ・イリシュより[260]。」
「木星(サグミガル)が日没の位置に進むならば、住まいには安泰、国土には平和が来るであろう(それはアルルル[注釈 16] の前に現れた)。木星が天蠍宮(さそり座)の領域に入り、輝きを増してニビル星(「渡し場の星」の意。木星の別名)となったならばアッカドは国力充実し、アッカドの王は強力となるであろう[261]。」
「タンムーズ月に火星が見えるならば、戦士たちの寝台は広がる(病死者が増える?)。水星が北に位置するならば、死者があり、アッカド王の敵国への侵入があるだろう。火星が双子宮(ふたご座)に接近するならば、ある王が死に、敵対関係が生ずるだろう[262]。」
バビロニアでは様々な占いが行われていたが占星術は主として王家や国家などについて吉凶を判断するために行われる公的なものであった[263]。占星術で最も頻繁に言及される天体は月であり、大半を占めている[264]。バビロニアの占星術はギリシア人やヘブライ人たちのそれにも影響を与えた。バビロニアの天文学者ベロッソスは小アジアのコス島でその教えを伝えたとローマ人のウィトルウィウスはその著書の中に記録している[265]。ギリシア人・ローマ人を通じて、バビロニアの天文学・占星術は西洋の知的伝統の一部に取り込まれて行った[265]。また、『旧約聖書』の中にもバビロニアの天文学の系譜を引くと考えられる記述があり、ヘブライの預言者たちはバビロニアの占星術師の言葉に惑わされないよう警告を発している[266]。
建築
[編集]バビロニアにおける建材はその最初期から粘土から作られた泥レンガを主体とするものであった[267][268]。バビロニアの沖積平野には建材に適した石は少なく、木材も事実上皆無であり、遠隔地から輸入されるこれらの資材は貴重であった[268]。最南部では葦の小屋が一般的に見られたが、歴史を通じて粘土がバビロニアの主要な建材であり続けた[268]。
神殿建築
[編集]多くの地域と同じようにバビロニアの古い建築を代表するものは宗教建築である。バビロニアの宗教建築はシュメール時代、更にそれ以前まで遡る古い宗教建築の系譜に連なるものである。前5000年頃のエリドゥの神殿には後世のバビロニアの建築にも伝わる二つの特徴が既に備わっていた。その特徴とは神像を据える壁の壁龕(ニッチ)とそこまで続く参道であり、もう1つは祭壇(供物台)である[207][268]。シュメール時代からバビロニア時代にかけて神殿は大型化したが、これを泥レンガで建造するためには屋根を支える構造が必要であった。そのためにバビロニアの建築家たちは梁を支えるために建物の外部に張り出した扶壁(バットレス)を発達させた[269]。これは後に純装飾的な要素となったが、このような構造を元来必要とするような大型の建造物は神殿に限られていたため、ヘレニズム時代に至るまで扶壁の存在は宗教建築と世俗的建築を区別する特色となっていた[269]。バビロニアを含むメソポタミアの神殿建築のもう一つの特徴は既に述べたアッカド語でジックッラトゥ(Ziqqurratu、慣習的にはジッグラト)と呼ばれる階段状の塔である[208][269]。古い時代には泥レンガで築いた檀上に建立されていた神殿がその原型となり、時代と共により高く発達していった[269]。一般的には30メートル程の高さであったが、最大の規模を誇ったバビロンのジッグラトは90メートルの高さを誇ったという[211]。バビロニアの神殿の第一義は何よりも神のためのものであり、礼拝する人間のためのものではなかったため、こうした高所の神殿は平地のそれに比べて小型であったが、基本的な構成は同じであった[269]。こうした大型の神殿の外装には焼成レンガが使われることもあった[267]。上薬を塗った装飾用レンガは前2千年紀に登場する[267]。
神殿のプランには様々なバリエーションが存在し、古い時代には一時的に卵型のプランの神殿が建設されることもあったが、基本的にはバビロニアの神殿の平面プランは矩形である[270]。神殿は四方が解放され、儀式はその周囲の平野で行われていた[270]。次第に神殿が建物に取り巻かれるようになると、入口は1つだけとなり儀式の空間は入口正面の不定形の広場となった[270]。こうした儀式の場は周囲から壁で分離されるようになり、こうした中庭は神殿の不可欠な一部となった[270]。聖堂は「奥の院」となったが、この内部は柱と隔壁で分離され、神像と一般人は隔離されるようになっていった[270]。このため祭壇は聖堂の外部、または中庭に配置されるようになった[271]。
住宅建築
[編集]紀元前7千年紀にはアラビア語でタウフ、あるいはビゼと呼ばれる突き固められた粘土で作られた長方形の住居がバビロニアにおける一般的な形態であった[272]。この住居は通常2つか3つの部屋でできており、1家族が居住していたと見られる[272]。前5千年紀初頭の日干し煉瓦によって建設された農家が発見されているが、このような農家の基本的な建築は20世紀頃まで大きく変わらず継続したように思われる[271]。住居は中央主室を取り巻くように作られ、後には中庭を取り囲むように建設された[271]。古くは傾斜屋根がかけられていたが、その後平屋根が一般的となり、中庭にも屋根がかけられる場合もあった[271]。主室は日陰に建設され、酷暑に対応し部屋の温度上昇を避けるために窓を作らないのが一般的であった[271]。南部の湿地帯の周囲では葦を泥で固めて作る住居も広く建設された[273]。
王宮は通常の住居を大型化し、一般住居には存在しないいくつかの施設を追加したものであった[271]。バビロニアの建築様式は強い継続性を示し、古バビロニア時代から新バビロニア時代まで、王宮もまた中庭を取り巻く一連の部屋によって構成された[274]。社会が複雑化し、王が大きな力を持つにつれて王宮には事務所や大広間が加えられていき、また城塞としての役割も担って防壁で囲まれるようになった[274]。特に大型の宮殿の残存例としては、シリア地方の遺跡ではあるが、マリの王ジムリ・リムの宮殿や、バビロンの王ネブカドネザル2世の宮殿が発見されている[274]。
経済
[編集]メソポタミアは鉱物資源、木材など原料となる各種資源に乏しく、これらを手に入れるために古くから周辺諸地域との交易が盛んであった。既に前21世紀頃のウル第三王朝時代までにその交易網は中間的業者を挟みつつ東はインダス川流域から西はエーゲ海、エジプトまで。北はアルメニアの高原地帯にまで達していた[275]。手工業も独立した細かい部門に分かれて確立されており、多数の専門職が存在した[275]。更に徴税を管理するための高度な財政システムも確立されていた。このような多彩な経済活動についての記録は、時代ごと、分野ごとに史料の残存状態に著しい差があり、通時的な叙述は困難である。
ウル第三王朝時代の経済活動については詳細な記録が残されているが、内容的には徴税や財政、土地管理など公的部門に著しく偏っている。私的経済についての情報は相続などの裁判記録や王室によって没収された個人資産の点検リストなどがあるにすぎず、個人の私生活についての情報はほとんど存在しない[276]。ウル第三王朝ではニップル市近郊にプズリシュ・ダガンと呼ばれる、周辺国から徴収された家畜群を登記し一時収容する施設が建設された[276]。そして度量衡の統一や大規模な検地が行われ、王朝が主導して耕作地の開発や運河の掘削が実施されていたことが各種の記録から判明している[277][278]。また、この時代の遠隔地交易について、ドイツの学者ホルスト・クレンゲルは、ほとんど支配者の独占であり商人は事実上王の官吏として振る舞っていたとしている[279]。
ウル第三王朝の行政機構が機能を停止し古バビロニア時代に入ると、イシンやラルサなどの後継国家はウル第3王朝と同じやり方で経済運営を行おうと試みたが上手くいかなかった[280]。この時代に入ると私的経済が強力に台頭した[281]。ラルサの支配下にあった頃のウルの商人たちはバーレーンなどペルシア湾岸地方(ディルムン)と交易を行い、羊毛やコムギ、ゴマなどを輸出し、銅、ラピスラズリ、紅玉髄、魚の目(真珠と考えられる)、象牙、珊瑚、各種木工品を輸入していた[282]。これらの業者は利益の一部を宮廷ではなく神殿に納入しており、このことは彼らが特定の王室に仕えるのではない私的な業者であったことを示すと思われる[282]。さらにメソポタミアでは貴重な木材や石材がシリア地方からもたらされた[283]。貿易の比重は時代とともにペルシア湾岸地方から地中海方面に移っていった[283]。この時代の大商人の商業活動にまつわる記録が複数発見されており、彼らの具体的な商取引の一端を復元することもできる[284][285][注釈 17]。ハンムラビを始めとした多くの国の王たちが遠隔地の物品を入手するために隊商を派遣し[286]、また交易から税収を挙げるために各地に税関を設けていた[287]。
古バビロニア時代私的経済の発達は金融業を興隆させた。取引の簡便のために一種の小切手のようなものも導入された[288]。また信用取引が発達し、資金の貸付が大規模になされた[289]。このことは商取引を容易にし、円滑な取引を可能としたが、当然のこととして返済不能に陥る債務者も多数出た[289]。一度その状態に陥るとほとんど復帰が不可能であり、このことは様々な社会問題を引き起こしたため、当時の王たちは金利の統制を行い、また繰り返し徳政令を発布して商業を統制しようと試みた[289][290]。
こうした商業取引の決済手段には銀が重要な役割を果たしていた[291]。当時まだ貨幣は発明されていなかったが、単純に純度と重量によって価値が決定され、少量でも価値が大きい銀は物の価値を量る指標として用いられ、貨幣としての役割を果たしていた[291]。銀は粒銀や延べ棒、装身具の形態で流通していた[291]。銀の重量単位にはアッカド語でシクル(セケル)、シュメール語でギンと呼ばれる単位が使われた。これは「目方を量る」という意味の言葉から来ており、ほぼ8グラムに相当する[291]。その下にウッテトゥ(シュメール語:シェ)という単位があり、原義は「穀粒」である。元来穀粒1粒の重さを表したもので、ほぼ44ミリグラムである[291]。大きな単位にはマヌー(シュメール語:マナ)があり、60シクル(約500グラム)に相当した[291]。最大の単位はビルトゥ(シュメール語:グン)であり、約30キログラムに相当した[291]。
カッシート時代に入ると、エジプトとの交易を通じて大量に流入した金がバビロニアの経済に大きな影響を与えた[292]。前14世紀には一時的に物価の基準として銀ではなく金が用いられるようになった[292]。だが、この「金本位制」はカッシート王朝の衰退と共に消失した[292]。
新バビロニア時代の経済は、王宮文書が出土していないため、主に神殿の行財政文書からの間接的な情報しか得られず、不明点が多い[293]。神殿所有地について言えば、新バビロニア時代からアケメネス朝時代にかけて、神殿はその広大な所領地を徴税請負人に農具・家畜付で貸付け、徴税請負人は更に小作人にそれを貸し出して小作料を徴収し神殿に納めるという形態で経営が行われていた[293]。王領地についても同じく小作契約による経営が行われていたと推定されているが、史料の不足から実態は不明である[294]。 この他、神殿には現代の学者によって「十分の一税」と呼ばれる税収があった[294]。これは新バビロニア時代には王も支払いを行ったが、アケメネス朝時代には廃止されたと見られる[294]。
新バビロニア時代からアケメネス朝時代にかけて、やはり私的経済を担う大商人の活躍が見られる。この中でも多くの史料が残されていることから良く研究され言及されるのがネブカドネザル2世時代にバビロニアの最大の商人となったエギビ家である[294][295]。彼らはバビロンやボルシッパに複数の邸宅を構え[296]、土地を小作に出したり資金を個人に貸付けて利益を確保し、また王室と結びついて遠隔地交易を行っていた[294]。エギビ家の活動はアケメネス朝時代前半に追跡できなくなるが[297]、アケメネス朝時代にはその政治的統合によって広範囲の交易路の安全が確保されたため彼らのような私的商人の活動は一層目立つようになった[294]。
歴代君主
[編集]王朝 | 王名 | 王名の別表記等 | 在位 | 備考 |
---|---|---|---|---|
イシン第1王朝 | ||||
イシュビ・エッラ | - | 前2017 - 前1985[84] | ||
シュ・イリシュ | - | 前1984-前1975[84] | ||
イディン・ダガン | - | 前1974-前1954[84] | ||
イシュメ・ダガン | - | 前1953-前1935[84] | ||
リピト・イシュタル | - | 前1934-前1924[84] | ||
ウル・ニヌルタ | - | 前1923-前1896[84] | ||
ブル・シン | - | 前1895-前1874[84] | ||
リピト・エンリル | - | 前1873-前1869[84] | ||
イルラ・イミッティ | - | 前1868-前1861[84] | ||
エンリル・バーニ | - | 前1860-前1837[84] | ||
ザンビヤ | - | 前1836-前1834[84] | ||
イテル・ピシャ | - | 前1833-前1831[84] | ||
ウル・ドゥ・クガ | - | 前1830-前1828[84] | ||
シン・マギル | - | 前1827-前1817[84] | ||
ダミク・イリシュ | - | 前1816-前1794[84] | ||
ラルサ | ||||
ナプラヌム | - | 前2025-前2005[84] | ||
エミスム | - | 前2004-前1977[84] | ||
サミウム | - | 前1976-前1942[84] | ||
ザバイア | ザバヤ | 前1941-前1933[84] | ||
グングヌム | - | 前1932-前1906[84] | ||
アビサレ | - | 前1905-前1895[84] | ||
スムエル | - | 前1894-前1866[84] | ||
ヌル・アダド | - | 前1865-前1850[84] | ||
シン・イディナム | - | 前1849-前1843[84] | ||
シン・エリバム | - | 前1842-前1841[84] | ||
シン・イキシャム | - | 前1840-前1836[84] | ||
シリ・アダド | - | 前1835-前1835[84] | ||
ワラド・シン | - | 前1834-前1823[84] | ||
リム・シン1世 | - | 前1822-前1763[84] | ||
バビロン第1王朝 | ||||
スム・アブム | - | 前1894-前1881[84] | ||
スム・ラ・エル | - | 前1880-前1845[84] | ||
サビウム | - | 前1844-前1831[84] | ||
アピル・シン | - | 前1830-前1813[84] | ||
シン・ムバリット | - | 前1812-前1793[84] | ||
ハンムラビ | - | 前1792-前1750[84] | ||
サムス・イルナ | - | 前1749-前1712[84] | ||
アビ・エシュフ | - | 前1711-前1684[84] | ||
アンミ・ディタナ | - | 前1683-前1647[84] | ||
アンミ・サドゥカ | アンミ・サドカ アンミ・ツァドゥカ |
前1646-前1626[84] | 統治第8年が古バビロニアの編年各説の起点となっている。 | |
サムス・ディタナ | - | 前1625-前1595[84] | ||
「海の国」第1王朝 (バビロン第2王朝) | ||||
イルマ・イルム | イルマ『バビロニア王名表A』 イルマ・イルム『バビロニア王名表B』[66] |
60年間 | ||
イティ・イリ・ニビ | イティリ『バビロニア王名表A』 イティ・イリ・ニビ『バビロニア王名表B』[66] |
56年間 | ||
ダミク・イリシュ | ダミク・イリ『バビロニア王名表A』 ダミク・イリシュ『バビロニア王名表B』[66] |
36年間 | バビロン第1王朝の王、アンミ・ディタナと同時代[66]。 | |
イシュキバル | イシュキ(『バビロニア王名表A』) 、イシュキバル(『バビロニア王名表B』) |
15年間[298] | ||
シュシュシ | - | 24年間[298] | ||
グルキシャル | - | 55年間[298] | ||
- | mDIŠ-U-EN | 12年間[298] | ||
ペシュガルダラマシュ | - | 50年間[298] | ||
アドラカランマ | - | 28年間[298] | ||
エクラドゥアンナ | - | 26年間[298] | ||
メラムクルカッラ | - | 7年間[298] | ||
エア・ガムイル | - | 9年間[298] | ||
カッシート王朝 (バビロン第3王朝) | ||||
ガンダシュ[84] | - | ? | ||
アグム1世[84] | - | ? | ||
カシュ・ティリアシュ1世[84] | - | ? | ||
不明[84] | - | ? | ||
不明[84] | - | ? | ||
ウルジグルマシュ[84] | - | ? | ||
不明[84] | - | ? | ||
アグム2世[299] | アグム・カクリメ[299] | ? | 実在するならば第8代または第9代と想定される[299]。 | |
不明[84] | - | ? | ||
ブルナ・ブリアシュ1世[84] | - | ? | ||
不明[84] | - | ? | ||
ウラム・ブリアシュ | - | ? | 第11から第14代のいずれかと想定される[299]。 | |
アグム3世 | - | ? | 第11から第14代のいずれかと想定される[299]。 | |
不明[84] | - | ? | ||
カラ・インダシュ[84] | - | ? | ||
カダシュマン・ハルベ1世[84] | - | ? | ||
クリガルズ1世[84] | - | ? | ||
カダシュマン・エンリル1世 | - | 前1374頃-前1360[84] | ||
ブルナ・ブリアシュ2世 | - | 前1359-前1333[84] | ||
カラ・ハルダシュ | - | 前1333-前1333[84] | ||
ナジ・ブガシュ | - | 前1333-前1333[84] | ||
クリガルズ2世 | - | 前1332-前1308[84] | ||
ナジ・マルッタシュ | - | 前1307-前1282[84] | ||
カダシュマン・トゥルグ | - | 前1281-前1264[84] | カダシュマン・エンリル2世と即位順が逆転した文書が存在する[299]。 | |
カダシュマン・エンリル2世 | - | 前1263-前1255[84] | ダシュマン・トゥルグと即位順が逆転した文書が存在する[299]。 | |
クドゥル・エンリル | - | 前1254-前1246[84] | ||
シャガラクティ・シュリアシュ | - | 前1245-前1233[84] | ||
カシュ・ティリアシュ4世 | - | 前1232-前1225[84] | ||
エンリル・ナディン・シュミ | - | 前1224-前1224[84] | ||
カダシュマン・ハルベ2世 | - | 前1223-前1233[84] | ||
アダド・シュマ・イディナ | - | 前1222-前1217[84] | ||
アダド・シュマ・ウツル | - | 前1216-前1187[84] | ||
メリ・シフ | メリ・パク | 前1186-前1172[84] | ||
マルドゥク・アプラ・イディナ1世 | メロダク・バルアダン1世 | 前1171-前1159[84] | ||
ザババ・シュマ・イディナ | - | 前1158-前1158[84] | ||
エンリル・ナディン・アヒ | - | 前1157-前1155[84] | ||
イシン第2王朝 (バビロン第4王朝) | ||||
マルドゥク・カビト・アヘシュ | - | 前1157-前1140[84] | ||
イティ・マルドゥク・バラトゥ | - | 前1139-前1132[84] | ||
ニヌルタ・ナディン・シュミ | - | 前1131-前1126[84] | ||
ナブー・クドゥリ・ウツル1世 | ネブカドネザル1世 | 前1125-前1104[84] | ||
エンリル・ナディン・アプリ | - | 前1103-前1100[84] | ||
マルドゥク・ナディン・アヘ | - | 前1099-前1082[84] | ||
マルドゥク・シャピク・ゼリ | - | 前1081-前1069[84] | ||
アダド・アプラ・イディナ | - | 前1068-前1047[84] | ||
マルドゥク・アヘ・エリバ | - | 前1046-前1046[84] | ||
マルドゥク・ゼリ・X | - | 前1045-前1034[84] | 名前の末尾は不明 | |
ナブー・シュム・リブル | - | 前1033-前1026[84] | ||
「海の国」第2王朝 (バビロン第5王朝) | ||||
シンバル・シパク | シンマシュシフ | 前1024-前1007[300] | ||
エア・ムキン・ゼリ | エア・ムキン・シュミ | 前1007-前1007[300] | ||
カシュシュ・ナディン・アヒ | - | 前1006-前1004[300] | ||
バズ王朝 (バビロン第6王朝) | ||||
エウルマ・シャキン・シュミ | - | 前1003-前987[300] | ||
ニヌルタ・クドゥル・ウツル1世 | - | 前986-前984[300] | ||
シリクティ・シュカムナ | - | 前984-前984[300] | ||
エラム王朝 (バビロン第7王朝) | ||||
マル・ビティ・アプラ・ウツル | - | 前983-前978[80] | ||
E王朝 (バビロン第8王朝) | ||||
ナブー・ムキン・アプリ | - | 前978-前943[84] | ||
ニヌルタ・クドゥリ・ウツル2世 [84] | - | 前943-前943 | ||
マル・ビティ・アヘ・イディナ[84] | - | ? | ||
シャマシュ・ムダミク[84] | - | ? | ||
ナブー・シュマ・ウキン1世[84] | - | ? | ||
ナブー・アプラ・イディナ[84] | - | ? | ||
マルドゥク・ザキル・シュミ1世[84] | - | ? | ||
マルドゥク・バラッス・イクビ | - | 前?-前813[84] | ||
ババ・アハ・イディナ | - | 前812-前?[84] | ||
空位時代 | - | ? | ||
ニヌルタ・アプラ・X | - | ?[84] | ニヌルタ以降の名称は不明[84]。 「アプラ」部は英語版の記事名に依る。 | |
マルドゥク・ベル・ゼリ | - | ?[84] | ||
マルドゥク・アプラ・ウツル | - | ?[84] | ||
エリバ・マルドゥク | - | ?[84] | ||
ナブー・シュマ・イシュクン | - | 前760頃-前748[84] | ||
ナブー・ナツィル | ナボナッサル | 前747-前734[84] | ||
ナブー・ナディン・ゼリ | - | 前733-前732[84] | ||
ナブー・シュマ・ウキン2世 | - | 前732-前732[84] | ||
バビロン第9/10王朝[注釈 6] | ||||
ナブー・ムキン・ゼリ | - | 前731-前729[84] | ||
トゥクルティ・アピル・エシャラ3世 | ティグラト・ピレセル3世 プル |
前728-前727[84] | アッシリア王 | |
シャルマヌ・アシャレド5世 | シャルマネセル5世 ウルラユ |
前726-前722[84] | アッシリア王 | |
マルドゥク・アプラ・イディナ2世 | メロダク・バルアダン2世 | 前721-前710[84] | ||
シャル・キン2世 | サルゴン2世 | 前709-前705[84] | アッシリア王 | |
シン・アヘ・エリバ | センナケリブ | 前704-前703[84] | アッシリア王 | |
マルドゥク・ザキル・シュミ2世 | - | 前703-前703[84] | ||
マルドゥク・アプラ・イディナ2世 | メロダク・バルアダン2世 | 前703-前703[84] | 復辟 | |
ベル・イブニ | - | 前702-前700[84] | ||
アッシュル・ナディン・シュミ | - | 前699-前694[84] | アッシリア王子 | |
ネルガル・ウシェズィブ | - | 前693-前693[84] | ||
ムシェズィプ・マルドゥク | - | 前692-前689[84] | ||
シン・アヘ・エリバ | センナケリブ | 前688-前681[84] | アッシリア王、復辟 | |
アッシュル・アハ・イディナ | エサルハドン | 前680-前669[84] | アッシリア王 | |
アッシュル・バニ・アプリ | アッシュルバニパル | 前668-前668[84] | アッシリア王 | |
シャマシュ・シュム・ウキン | - | 前667-前648[84] | アッシュルバニパルの兄弟 | |
カンダラヌ | - | 前647-前627[84] | ||
新バビロニア (カルデア/バビロン第11王朝) | ||||
ナブー・アパル・ウツル | ナボポラッサル | 前625-前605[84] | ||
ナブー・クドゥリ・ウツル2世 | ネブカドネザル2世 | 前604-前562[84] | ||
アメル・マルドゥク | エビル・メロダク | 前561-前560[84] | ||
ネルガル・シャレゼル | ネリグリッサル | 前559-前556[84] | ||
ラバシ・マルドゥク | - | 前556-前556[84] | ||
ナブー・ナイド | ナボニドゥス | 前555-前539[84] |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 古代メソポタミア史を研究する前田徹は、このような都市国家を中近世のドイツ史における領邦国家(Territorialstaat)の概念を参考に領邦都市国家と命名している[20]。
- ^ 『シュメール王朝表』と呼ばれるテキスト群は、伝統的には『シュメール王名表』と呼ばれており、こちらの名前で広く知られている。日本においてメソポタミア史研究の先駆者であった中原与茂九郎は、「諸都市王朝による継起的な南部メソポタミア支配がこれらのテキストの基本主題であることに正しく着目してこれらを『シュメール王朝表』と呼んだ」(前川和也)[23]。
- ^ バビロン第1王朝の初代王は、『バビロン王名表』の記述に基づき「スム・アブム」とするのが通例である。しかし、初代スム・アブムと2代目スム・ラ・エルの間の血縁関係が付記されていないことや、後代のバビロン第1王朝の王たちが先祖に言及する際にスム・ラ・エルには言及するのに対し、スム・アブムに言及しないことなどから、このことは古くから疑問視されている。近年では、スム・アブムはバビロンの王と言うわけではなく、バビロニア北部の広範囲に宗主権を及ぼした人物であり、バビロンもその宗主権の下にあったものと考えられている。そして王名表編纂時にバビロン第1王朝の王として取り込まれたものとされる[43]。
- ^ アッシリア王としての在位期間
- ^ 当時バビロニアには、大きく分けてアウィールム、ムシュケーヌム、奴隷という三つの社会階層があったことが知られる。しかし奴隷以外の前二者がいかなる性質のものであるのか定説は無い。ハンムラビ法典ではアウィールム同士の傷害に対して同害復讐原理が適用されるのに対し、アウィールムからムシュケーヌム、ムシュケーヌムからムシュケーヌムへの傷害は金銭賠償とされており、奴隷からアウィールムへの傷害は、加えた傷害よりも重い罰を与えられた。
- ^ a b 第8/第9/第10/第11王朝の区分については出典により一致しない。板倉らは第8から第10王朝までの王をまとめてリストする[84]。フィネガンと高橋は第9王朝にナブー・ムキン・ゼリからカンダラヌまでの全ての王を分類し、第10王朝には事実上言及しない[83][85]。ボーリュー(Beaulieu)は第9王朝の取り扱いについてはフィネガン、高橋と同様であるが新バビロニアを第10王朝とし、第11王朝を置かない[86]。
- ^ バビロニア王としての在位期間。
- ^ センナケリブによるバビロンの破壊とエサルハドンによる再建は、彼ら自身が王碑文においてそのように語っていることからアッシリア史、バビロニア史において一般に史実として言及され強調される。しかし、センナケリブによる破壊は徹底したものではなく、バビロニアへの融和政策というエサルハドンの政策は、センナケリブ時代から始まっていたものを継続したものであるとする見解もある[92]。
- ^ ナボポラッサルの出自についてはメロダク・バルアダン2世などと同一の家系に属するとする考えや[102]、「海の国」で最も有力なカルデア人の部族「ビート・ヤキン」の出自とする説などが出されている。しかし、実際にナボポラッサルがカルデア人であるとする明確な同時代史料もなく、確実なものではない。山田重郎は彼が「誰でもない者の子」であったにもかかわらず、マルドゥク神が王命を授けてくれたと記す建築記念碑分の存在から、直接バビロニア王の家系に連なる出自ではなかったとしている[103]。
- ^ クセルクセスのバビロンにまつわる見解にはギリシア人の著述家の影響が強く反映しており、実際にはクセルクセスによる神殿の破壊やマルドゥク神像の破壊は無かったとする説がある[131]。
- ^ ただし、2005年の段階でも、「バビロニア人」や「アッシリア人」といった用語をあたかも現代の「フランス人」や「ドイツ人」といった用語と等価の分類として扱うような研究は存在する[153]。
- ^ 大戸千之はヘレニズム時代のウルクにおける粘土板文書について以下のように述べる。「ヘレニズム期ウルクの粘土板文書についてみるならば、アッカド語に通じた書記の手になるものとは考えがたいところがある。つまり、書きまちがいが少なくないということだ。それは格変化を誤ったり、性をとりちがえたりするというにとどまらず、複数人称の動詞語尾をつけるのに名詞のそれとまちがったりするほどのものであるという。(中略)当時日常の言語は、くりかえしいうようにアラム語であったと考えられる。粘土板契約文書の中には、一部にアラム語が数語、ぞんざいに書き込まれている例がある。これはいうまでもなく当事者のメモであって、楔形文字で書くということは、やはり特別のことなのだ、と感じさせる[166]。」
- ^ フランスの歴史学者ジャン・ボテロはバビロニアを含むメソポタミアの宗教について次のように指摘している。「しかしメソポタミアの宗教について考察する際には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、さらには仏教など、今日われわれが最も普通に出会う大宗教のシステムと同様のものとしてメソポタミアの宗教を想像させるあらゆるものを、われわれから遠ざけておく方が望ましい。(中略)それは歴史上のある時期に、強い宗教精神の持ち主によって始められたものではなかった。メソポタミアの宗教は、先史の闇のなかで同じように聖なるものに向き合って、この地の住民が彼らの伝統文化固有の視点、感性、心性から引き出すことのできた彼ら共通の反応に由来するものであって、それゆえ彼ら生来の考え方、感じ方、生き方を超自然に当てはめたものにほかならない[170]。
- ^ このことに関係するかもしれない伝承としてヘロドトスの記録がある。ヘロドトスはバビロニアにおいて全ての女性が一度は「アフロディーテ」の神殿、すなわちイシュタルの神殿に行って、自らの膝に向けてコインを投げた男と性交をせねばならず、これによってこの女神への義務を果たしたことになるとする説話を伝えている。しかし実際のところヘロドトスの記録はほとんど想像の産物であると考えられている[220]。
- ^ 例えばエンリルの道には恒星レグルスやしし座、かに座が含まれ、アヌの道にはプレアデス星団(すばる)やオリオン座が、エアの道にはアンタレスやさそり座がリストされている[255]。
- ^ 矢島の推定ではかに座。
- ^ 古バビロニア時代の富裕な商人の経済活動については、ホルスト・クレンゲルが古バビロニア時代の大土地所有者イッディンラガマルとその息子ナーヒルムのそれについてや、ウル市の銅取引商エアナースィルについて、具体的な姿を著書の中で描写している。なお、江上波夫、五味亨らによるホルスト・クレンゲルの和訳書における人名表記のカナ転写法は他に例が少ないものであるが、この注釈での人名表記はそれに依ったため、同一の人名構成要素のカナ転写は本記事本文と一致しない。
出典
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- 前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学出版部、2017年5月。ISBN 978-4-657-17701-8。
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関連項目
[編集]- メソポタミア
- アッシリア
- エラム
- バビロニアの法(Babylonian law)
- バビロニアの文学と科学(Babylonian literature and science)
- 古代オリエントの年代学
- バビロン
外部リンク
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