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1913年(大正2年)8月<ref name="nenpu292"/>、東京に滞在していた直哉は、『出来事』という小説を書き上げた晩、里見弴と一緒に素人相撲を見に行くが、その帰り道に<ref name="yodan"/>[[山手線]]の電車にはねられ重傷を負い、東京病院(現・[[東京慈恵会医科大学附属病院]])<ref>貴田庄『志賀直哉、映画に行く―エジソンから小津安二郎まで見た男』p.164、朝日選書、2015年</ref>に入院する。同年10月<ref name="nenpu292"/>、その養生のために[[兵庫県]][[城崎]]に滞在する。城崎滞在中、直哉は[[ハチ|蜂]]・[[ネズミ|鼠]]・[[アカハライモリ|いもり]]という3つの小動物の死を目撃する。この体験が、後に短編『城の崎にて』の形で結実することになる。 |
1913年(大正2年)8月<ref name="nenpu292"/>、東京に滞在していた直哉は、『出来事』という小説を書き上げた晩、里見弴と一緒に素人相撲を見に行くが、その帰り道に<ref name="yodan"/>[[山手線]]の電車にはねられ重傷を負い、東京病院(現・[[東京慈恵会医科大学附属病院]])<ref>貴田庄『志賀直哉、映画に行く―エジソンから小津安二郎まで見た男』p.164、朝日選書、2015年</ref>に入院する。同年10月<ref name="nenpu292"/>、その養生のために[[兵庫県]][[城崎]]に滞在する。城崎滞在中、直哉は[[ハチ|蜂]]・[[ネズミ|鼠]]・[[アカハライモリ|いもり]]という3つの小動物の死を目撃する。この体験が、後に短編『城の崎にて』の形で結実することになる。 |
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城崎での養生後、直哉は一度は尾道に戻ったものの、[[中耳炎]]を患い、その治療のために帰京する。その後、東京の下[[大井町 (東京府)|大井町]]([[大森駅 (東京都)|大森駅]]の近く)に家を借りてそこに住む<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.205、岩波書店、1994年</ref>が、夏目漱石から依頼された新聞小説執筆のため<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.204、岩波書店、1994年</ref>、[[1914年]](大正3年)5月に東京を離れて[[島根県]][[松江]]へ転居する<ref name="nenpu292-293>「志賀直哉略年譜」、『暗夜行路 前篇』pp.292-293、岩波文庫、2004年</ref>。松江居住時、[[大山 (鳥取県)|大山]]に赴いた直哉は、その眺望に感銘を受ける。この大山からの眺望は、『[[暗夜行路]]』の結末の場面に採用されている。松江において、後の創作につながるこうした体験をしていた直哉であったが、肝心の小説の執筆は進まなかった。漱石からの新聞小説連載依頼を断った直哉は、漱石に不義理を働いたとの自責の念に悩み<ref name="zokuyodan"/>、結果的にこの年から3年間休筆をする。 |
城崎での養生後、直哉は一度は尾道に戻ったものの、[[中耳炎]]を患い、その治療のために帰京する。その後、東京の下[[大井町 (東京府)|大井町]]([[大森駅 (東京都)|大森駅]]の近く)に家を借りてそこに住む<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.205、岩波書店、1994年</ref>が、夏目漱石から依頼された新聞小説執筆のため<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.204、岩波書店、1994年</ref>、[[1914年]](大正3年)5月に東京を離れて[[島根県]][[松江]]へ転居する<ref name="nenpu292-293">「志賀直哉略年譜」、『暗夜行路 前篇』pp.292-293、岩波文庫、2004年</ref>。松江居住時、[[大山 (鳥取県)|大山]]に赴いた直哉は、その眺望に感銘を受ける。この大山からの眺望は、『[[暗夜行路]]』の結末の場面に採用されている。松江において、後の創作につながるこうした体験をしていた直哉であったが、肝心の小説の執筆は進まなかった。漱石からの新聞小説連載依頼を断った直哉は、漱石に不義理を働いたとの自責の念に悩み<ref name="zokuyodan"/>、結果的にこの年から3年間休筆をする。 |
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[[画像:志賀直哉書斎 - panoramio (1).jpg|thumb|240px|我孫子市の志賀直哉邸跡]] |
[[画像:志賀直哉書斎 - panoramio (1).jpg|thumb|240px|我孫子市の志賀直哉邸跡]] |
2018年1月29日 (月) 00:39時点における版
志賀 直哉 (しが なおや) | |
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諏訪町の自宅にて(1938年) | |
誕生 |
1883年2月20日 日本・宮城県牡鹿郡石巻町 (現・石巻市住吉町) |
死没 |
1971年10月21日(88歳没) 日本・東京都世田谷区上用賀 |
墓地 | 青山霊園 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京帝国大学国文科中退 |
活動期間 | 1908年 - 1971年 |
ジャンル | 小説 |
主題 |
父との不和と和解 自我の形成 |
文学活動 |
白樺派 私小説 心境小説 |
代表作 |
『網走まで』(1910年) 『清兵衛と瓢箪』(1913年) 『城の崎にて』(1917年) 『赤西蠣太』(1917年) 『和解』(1917年) 『小僧の神様』(1920年) 『暗夜行路』(1921–37年) 『灰色の月』(1946年) |
主な受賞歴 | 文化勲章(1949年) |
デビュー作 |
『網走まで』(1910年) 『或る朝』(1918年) 『菜の花と小娘』(1920年) |
ウィキポータル 文学 |
志賀 直哉(しが なおや、1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ、多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。宮城県石巻生まれ、東京府育ち。
経歴
生い立ち
志賀直哉は1883年(明治16年)2月20日、宮城県牡鹿郡石巻町に、父・志賀直温と母・銀の次男として[1]生まれた。父・直温は当時第一銀行石巻支店に勤務していた。明治期の財界で重きをなした人物である。母・銀は、伊勢亀山藩の家臣・佐本源吾の娘であった[2]。なお、直哉には兄・直行がいたが、直哉誕生の前年に早世していた[3]。
2歳の時、第一銀行を辞めた父とともに、東京府麹町区内幸町1丁目の相馬家旧藩邸に移る[4][5]。この家で直哉は祖父・直道と祖母・留女(るめ)に育てられる。直哉の兄・直行早世の責任は母・銀にあると考えた祖父母が、志賀家の家系を絶やさないように、今度は孫を自分の手元で育てることに決めたからであった。毎晩祖母に抱かれて寝る[3]など、幼少期の直哉は祖父母に溺愛されて育った。
3歳の時、芝麻布有志共立幼稚園に入園。この幼稚園は東京で開設された2番目の幼稚園であった[6]。次いで1889年(明治22年)9月、学習院に入学し、予備科6級(現・初等科1年)に編入される[7]。初等科を卒業した1895年(明治28年)8月[8]、実母・銀が死去。同年秋[9]、父・直温が漢学者・高橋元次の娘・浩と再婚する。直哉の『母の死と新しい母』という作品では、この実母の死と父の再婚の様子が描かれている。
作家への道
1895年(明治28年)9月、学習院中等科に入学する。翌1896年(明治29年)、有島生馬らとともに「倹遊会」(後に「睦友会」に改名)を結成し、その会誌『倹遊会雑誌』を発行する。直哉は「半月楼主人」や「金波楼半月」といった筆名で同誌に和歌などを発表。これが直哉にとって初めての文筆活動であった[10]。また、中等科在学中の1901年(明治34年)7月[11]、直哉は志賀家の書生だった末永馨の勧めにより、新宿角筈で行われていた内村鑑三の講習会に出席する。直哉は内村の人間的な魅力に惹かれ、以後7年間、内村に師事するようになる。直哉は後に、自分が影響を受けた人物の一人として内村の名を挙げている[12]。そして同年11月[11]、直哉は足尾銅山鉱毒事件の視察に行くことを計画するが、祖父・直道がかつて古河市兵衛と足尾銅山を共同経営していたという理由から父・直温に反対され、激しく衝突。長年にわたる不和のきっかけとなる。
中等科時代の直哉は、真面目な学生だったとは言い難く、3年時と6年時に2回落第している。複数回の落第をしたことに対し直哉は「品行点が悪かった」ためであると説明している。授業中、口の中に唾がたまると勝手に立ち上がり窓を開けて校庭に向かって唾を吐くなど、教室での落ち着きのなさが目立ったために低い点をつけられたようである[13]。しかし落第の結果、2歳年下の武者小路実篤と2度目の6年時に同級となる。途中、文学上の言い争いから直哉が武者小路に絶縁状をたたきつける事件[14]はあったものの、直哉と武者小路は生涯にわたって親交を結ぶことになる。
1903年(明治36年)、学習院高等科に入学。高等科のころの直哉は女義太夫に熱中していたが、それがきっかけとなり小説家志望の意志を固めた。女義太夫の昇之助の公演を見て感動し、「(自分も昇之助と同じように)自分のやる何かで以て人を感動させたい」「自分の場合(それは)小説の創作」だと考えたと直哉は後に語っている[15]。それ以前に直哉が親しんでいたのは、尾崎紅葉、幸田露伴、泉鏡花といった硯友社に参加する作家であり、「一番面白く思った」のは紅葉の『金色夜叉』だったが、小説家になる決心をして最も愛読した作家は夏目漱石だった。小説家になる意志を固めたころの直哉は漱石のほかに、国木田独歩、近松門左衛門、井原西鶴、イプセン、ゴーリキー、モーパッサンといった作家の作品を読んでいる[16]。アンデルセンの童話も愛読していたが、直哉はそれに影響され、『菜の花と小娘』という作品を執筆している[注 1]。一般的に直哉の処女作は『或る朝』(後述)とされるが、後年、直哉はこの作品を「別の意味で処女作」だったと振り返っている[17]。なお1906年(明治39年)1月[8]、祖父・直道が死去している。
1906年(明治39年)7月、学習院高等科を卒業。卒業時の成績は武課が甲、それ以外はすべて乙、品行は中、席次は22人中16番目であった[18]。同年9月、東京帝国大学文学部英文学科に入学する(後に国文学科に転じた)。東京帝大では夏目漱石の講義には興味を持ったものの、授業にはほとんど出席しなかった[19][20]。一方で、東京帝大在学中の1907年(明治40年)4月、武者小路実篤、木下利玄、正親町公和と文学読み合わせ会「十四日会」を開く[21]。翌1908年(明治41年)、「十四日会」の4人により同人誌『暴矢』(後に『望野』)が発行される[22]。そしてこの年、直哉は『或る朝』を執筆している[注 2]。これは祖父の三回忌の朝における、祖母とのやりとりについて書いた作品である。直哉は後にこの作品について、「多少ともものになった最初で、これをよく私は処女作として挙げている」と述べている[17]。その後1910年(明治43年)、大学を中退した直哉は、『望野』の他のメンバー、『麦』(里見弴らが所属)のメンバー、『桃園』(柳宗悦らが所属)のメンバーとともに雑誌『白樺』を創刊する[23]。そしてその創刊号に『網走まで』を発表する。以後、直哉はこの雑誌に『范の犯罪』や『城の崎にて』、『小僧の神様』などの作品を発表していった。
父との不和
1907年(明治40年)[22]、東京帝大に在学していた直哉は、志賀家の女中と深い仲になり、結婚を希望するが、父から強い反対に遭う。足尾銅山問題によりもともと良好ではなかった直哉と父の関係はこの一件で悪化する。1912年(大正元年)9月[22]、直哉は『大津順吉』を『中央公論』に発表する。この『大津順吉』は、女中との結婚問題を題材にした作品であった。この作品で、直哉は初めて原稿料100円を得る[24]。そのころ、『白樺』の版元である洛陽堂から直哉初の短編集を出版する話が進み、その出版費用を父が負担することが約束された。そこで直哉がその費用を父に求めにいったところ、父は、「小説なぞ書いてゐて将来どうするつもりだ」「小説家なんて、どんな者になるんだ」と、直哉の小説家としての将来を否定するような発言をした。言い争いになった結果、直哉は10月25日に家出をし、東京の銀座木挽町の旅館に2週間ほど滞在した後、広島県尾道に転居する[25]。
尾道転居後の1913年(大正2年)1月[26]、初の短編集となる『留女』を刊行。題名は祖母の名にちなむ。後にこの短編集は夏目漱石によって賞賛された[27]。『留女』刊行の同月、読売新聞紙上に『清兵衛と瓢箪』を発表する。これは瓢箪を愛する少年と、その価値観を理解しようとしない大人たちの話であるが、後年、直哉は「自分が小説を書く事に甚だ不満であった父への私の不服」がこの作品を書く動機であったと語っている[28]。そして尾道において直哉は、自身初となる長編『時任謙作』の執筆に着手する。直哉自身がモデルである時任謙作を主人公とし、父との不和を題材とした作品だった。しかし思うように筆が進まず、執筆を中断する。長編執筆が進まなかったことも相まって直哉は1913年(大正2年)4月[26]、尾道滞在を半年程度で切り上げ帰京する。
1913年(大正2年)8月[26]、東京に滞在していた直哉は、『出来事』という小説を書き上げた晩、里見弴と一緒に素人相撲を見に行くが、その帰り道に[28]山手線の電車にはねられ重傷を負い、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)[29]に入院する。同年10月[26]、その養生のために兵庫県城崎に滞在する。城崎滞在中、直哉は蜂・鼠・いもりという3つの小動物の死を目撃する。この体験が、後に短編『城の崎にて』の形で結実することになる。
城崎での養生後、直哉は一度は尾道に戻ったものの、中耳炎を患い、その治療のために帰京する。その後、東京の下大井町(大森駅の近く)に家を借りてそこに住む[30]が、夏目漱石から依頼された新聞小説執筆のため[31]、1914年(大正3年)5月に東京を離れて島根県松江へ転居する[32]。松江居住時、大山に赴いた直哉は、その眺望に感銘を受ける。この大山からの眺望は、『暗夜行路』の結末の場面に採用されている。松江において、後の創作につながるこうした体験をしていた直哉であったが、肝心の小説の執筆は進まなかった。漱石からの新聞小説連載依頼を断った直哉は、漱石に不義理を働いたとの自責の念に悩み[17]、結果的にこの年から3年間休筆をする。
1914年(大正3年)9月、直哉は京都へ転居する[32]。同年12月[26]、武者小路実篤の従妹である勘解由小路康子と結婚。康子は華族女学校中退である上、再婚だったことなどから[33]、この結婚は父の望むものではなく、結果として直哉と父との対立は深まった。結婚の翌年[34]、直哉は父の家から自ら離籍している。結婚式は武者小路宅で行われたが、列席者は武者小路・勘解由小路の両夫妻のみ、京都の料亭「左阿彌」で行われた結婚披露宴は友人数人のみの出席にとどまった[35]。結婚後、神経衰弱になった康子のため、翌1915年(大正4年)5月に群馬県赤城山へ転居。猪谷六合雄の建築した[36]山小屋に住む。赤城山での生活は、1920年(大正9年)に発表された『焚火』に描き出されている[37]。
このように転居を繰り返していた直哉であったが、1915年(大正4年)9月[38]、柳宗悦の勧めで千葉県我孫子の手賀沼の畔に移り住むと、この後1923年(大正12年)まで我孫子に住み、同時期に同地に移住した武者小路実篤やバーナード・リーチと親交を結んだ。我孫子に転居した翌1916年(大正5年)、康子との間に長女・慧子が誕生するが夭折。この実子夭折の経験は、『和解』や『暗夜行路』といった作品に描かれている。
父との「和解」
1917年(大正6年)、直哉は執筆を再開する。5月[39]、『白樺』誌上に『城の崎にて』を発表。この作品は城崎での養生中の体験を基にしたもので、小動物の死を通して自らの生と死を考察した作品である。また、直哉の代表作となると同時に、いわゆる「心境小説」の代表作となる。続く6月[39]、武者小路実篤の勧めで[28]『佐々木の場合』を雑誌『黒潮』に発表。この作品は前年に死去した夏目漱石に捧げられた[17]。8月には『好人物の夫婦』、9月には『赤西蠣太』[39]を発表する。そして直哉はこの年、父との「和解」を実現する。その喜びも覚めやらぬ中、この経験を描いた『和解』を一気に書き上げ、同年10月、雑誌『黒潮』に発表した。直哉本人の述懐によると、直哉はこの作品を原稿用紙1日平均10枚15日間で書き上げたが、この執筆のペースは「後にも前にもないレコード」だったという[17]。
この1917年(大正6年)から我孫子を離れる1923年(大正12年)までは、作家・志賀直哉にとって「充実期」といえる期間であった。生涯寡作であったにもかかわらず、直哉はこの期間に『小僧の神様』や『焚火』、『真鶴』といった代表作を次々と発表している。雑誌『改造』における長編『暗夜行路』の連載開始もこのころである。また、『留女』以外になかった直哉の作品集が、この期間に9冊出版された[40]。『大津順吉』や『清兵衛と瓢箪』を収めた『大津順吉』、『和解』や『城の崎にて』を収めた『夜の光』、『焚火』や『小僧の神様』を収めた『荒絹』はその一部である。なお、『夜の光』の装幀はバーナード・リーチが担当している。
京都・奈良時代
我孫子において「充実期」を過ごしていた直哉であったが、1922年(大正11年)の末になると、長編執筆の行き詰まりもあり、「自分は読む事も書く事も嫌いだ」「読みも書きもしたくない」と日記に書くほど、作家としての自信を失っていた。そうした状態から抜け出し気分転換を図る意味もあってか[41]、直哉は1923年(大正12年)3月、我孫子を離れて京都市上京区粟田口三条坊町に移り住む[39]。同年10月には京都郊外の宇治郡山科村に転居。短編『雨蛙』を完成させ、翌1924年(大正13年)1月、『中央公論』に発表する。直哉によると、「『暗夜行路』を書き上げたら書こうと思っていたのを、『暗夜行路』が何時までも埒あかないので、これを先に書いてしまった」という[28]。この作品は直哉の全作品中、仕上げるのに最も時間のかかった短編だとされる[42]。その後直哉は山科での体験を基に、いわゆる「山科もの」四部作(『山科の記憶』『痴情』『些事』『晩秋』)を残している。
1925年(大正14年)4月、今度は奈良県幸町に転居[39]。幸町に住んでいた1926年(大正15年)6月[39]、美術図鑑『座右宝』を刊行する。これは、尾道・松江時代から東洋の古美術に関心を持っていた直哉が、手元に置いて東洋の古美術をいつでも鑑賞できるような写真集を欲して刊行したものである[43]。その後、自ら設計した邸宅が奈良の上高畑に完成したため、1929年(昭和4年)4月[39]、直哉はそこに引っ越した。この奈良において直哉は多くの文化人と交流した。交流を持ったのは、直哉の後を追うように奈良に移り住んだ瀧井孝作や武者小路実篤、網野菊、小林秀雄、尾崎一雄をはじめ、奈良に居住していた上司海雲[44]、直哉を慕って上高畑の邸宅を訪れた小林多喜二らの文化人である。こうした交流の結果、直哉の上高畑の邸宅はいつのころからか「高畑サロン」と呼ばれるようになった[45]。そしてこの上高畑居住時、直哉は『暗夜行路』を完結させた。この作品は以下の経緯を辿って完成している。
『暗夜行路』の完成
唯一の長編小説である『暗夜行路』は近代日本文学の代表作の一つに挙げられる[注 3]。この小説は尾道時代に着手した『時任謙作』を前身としている。執筆当初、武者小路実篤を介して夏目漱石から東京朝日新聞に小説を連載するよう依頼されたことから、直哉は漱石の『こゝろ』の連載終了後に同紙にこの『時任謙作』を掲載するつもりで執筆を進めていた。しかし、一回ごとに山や謎を持たせるという、連載小説特有の書き方に苦労する[46]。結局、直哉は1914年(大正3年)の夏[47]、松江から東京の漱石宅を訪問し、漱石に直接詫びを入れ、連載辞退を申し入れた。
父との「和解」後、それを題材にした『和解』『或る男、其姉の死』を発表したことで、直哉は父との不和が題材の『時任謙作』を執筆する必要性に疑問を感じ、執筆意欲を失う。しかし、主人公が実は祖父の子であったという設定を思いつくと、手付かずだった長編を執筆する意欲を取り戻した[17]。そして1918年(大正7年)から翌1919年(大正8年)ごろ、『時任謙作』は『暗夜行路』と名を改められた上で、菊池寛の通俗小説『真珠夫人』に続く連載作品として大阪毎日新聞に掲載されることが一旦は約束された。ところが、直哉が途中まで執筆したとき、同紙から「なるべく調子を下げ、読者を喜ばすように書いてほしい」という注文が来てしまう。通俗小説を書く気のなかった直哉はその注文に応じることが出来ず、結局掲載の約束は破棄された[48][49]。その後、芥川龍之介と一緒に活動写真を見に来ていた雑誌『改造』の記者・瀧井孝作と浅草で偶然会った直哉は瀧井に『暗夜行路』連載の意向を伝えた。これが承諾されると、『暗夜行路』は雑誌『改造』の1921年(大正10年)新年号に掲載された[50]。翌1922年(大正11年)の7月、その「前篇」が新潮社から出版された。「前篇」の出版時、「後篇」はすでに『改造』誌上で連載が開始されていたが、直哉はその執筆に難航し、断続的な発表を経て、1928年(昭和3年)の掲載を最後に未完のまま執筆を中断する。
1937年(昭和12年)、改造社から『志賀直哉全集』が発行されることをきっかけに、直哉は中断していた『暗夜行路』を完結させることを心に決める。そして同年4月、『暗夜行路』は『改造』誌上で完結し、その「後篇」が『志賀直哉全集』の第8巻に収録される形で出版された。『時任謙作』の執筆開始から25年、『改造』誌上における『暗夜行路』の連載開始から16年であった。
再び東京
1938年(昭和13年)3月、東京の諏訪町の貸家に引っ越す。奈良での生活を気に入っていた直哉だが、男の子の教育は東京で受けさせたいと2年前に直吉に学習院の編入試験を受けさせ、妹の実吉英子宅に預けて通わせていた。まず1937年(昭和12年)10月、康子夫人が留女子・田鶴子・貴美子を連れて上京し、直吉と貸家に入居、翌年3月、女学校を卒業した寿々子・万亀子と直哉が合流した。それに先立つ1937年(昭和12年)9月、改造社から『志賀直哉全集』9巻の刊行が始まり、翌年6月完結する。直哉は最終回配本の月報に寄せた「全集完了」の短文で「私は此全集完了を機会に一ト先づ(ひとまず)文士を廃業し、こまこました書きものには縁を断りたいと思ふ」と作家活動からの廃業を宣言する[51]。直哉は支那事変に始まる日本の優位な戦局報道に立腹しており、物を書こうとしても不満が文面に出そうで書けなかった。下落合に仕事用のアパートを借りた直哉は、油絵に熱中し、憂鬱な気分から救われる[52]。1939年(昭和14年)前後は胆石に苦しむ[53]。1940年(昭和15年)5月、世田谷区新町に家を買い、引っ越す。奈良の家を売って引っ越した新居を直哉は大変気に入り、執筆活動を再開。1941年(昭和16年)、直吉と京都奈良北陸旅行した経験を綴った『早春の旅』を発表する[54]。
太平洋戦争中の1942年(昭和17年)2月17日、直哉の『シンガポール陥落』がラジオで朗読放送され、『文藝』3月号にも再録される。シンガポールの戦いの勝利を称えた内容で、この頃の直哉は国内の戦争勝利報道に熱狂する世論に同調していたが、その後3年半沈黙する。鈴木貫太郎の「日本は勝っても負けても三等国に下る」という発言を鈴木家に出入りしていた網野菊から聞かされたからとも言われる[55]。
晩年
戦後は熱海市大洞台の山荘に移住。この地では『山鳩』や『朝顔』といった作品を残した。1949年(昭和24年)、親交を深めていた谷崎潤一郎と共に文化勲章受章。1952年(昭和27年)、古希を迎えた直哉は、柳宗悦、浜田庄司と念願のヨーロッパ旅行に出発する。当初、毎日新聞社が「本社文化使節団」として旅費を負担する話を進めていたが、新聞社に口出しされることを嫌った直哉は自腹で旅費を工面した。ベニスの国際美術祭に参加する梅原龍三郎も合流し、5月31日、羽田空港から出発し、ローマに到着。イタリア各地の史跡や美術館を巡り、19日間滞在。その後、パリ、マドリッド、リスボンと美術鑑賞の旅を続けるが、直哉は体調を崩し、ロンドンでは寝たり起きたりの状態になる。北欧とアメリカにも行く予定であったが、帰国する梅原に合わせて飛行機に乗り、8月12日帰国した。東京の直吉の家で4日間休み熱海に戻る。門人たちに語った旅の感想は「命からがら帰ってきたよ」だった[56]。
1955年(昭和30年)、渋谷常盤松に居を移した。1969年(昭和44年)の随筆『ナイルの水の一滴』(2月23日朝日新聞PR版)が最後の作家活動になった[57]。1971年(昭和46年)11月21日午前11時58分に肺炎と老衰により関東中央病院で没した[58][59]。23日、代々幡斎場で荼毘に付され[60]、26日、青山葬儀所での葬儀・告別式は本人の希望により無宗教式で取り行われた。国立音楽大学ピアノ科在学中の孫娘・柳美和子(四女万亀子の娘)がピアノ演奏する中[61]、葬儀委員長の里見弴が弔辞を述べ、東大寺の上司海雲と橋本聖準が読経、その後参列者の献花が行われた。また葬儀に駆けつけた86歳の武者小路実篤が、急遽原稿なしで遺影に語り掛けるように弔辞を述べたが細々とした声で聞き取れた者はいなかった[62]。遺骨は濱田庄司制作の骨壺に納められ、青山霊園に葬られたが、1980年(昭和55年)に盗難に遭って行方不明となっている[63]。
死後
1996年(平成8年)、長男の直吉が多くの原稿類を日本近代文学館に寄贈[64] 、2016年(平成28年)にも書簡や写真が寄贈された[65] 。岩波書店から『志賀直哉全集』が数次出版されている。一時期居住していた我孫子市にある白樺文学館では、直哉の原稿、書簡、ゆかりの品を公開している。なお遺族と弟子の申し合わせにより、芥川龍之介の「河童忌」、太宰治の「桜桃忌」のような命日に故人を偲ぶ集まりは行われていない[66]。
評価
「写実の名手」であり、鋭く正確に捉えた対象を簡潔な言葉で表現しているとの定評がある。また、過度な装飾と技巧的な表現を廃し、自らの好悪の判断を率直に表現する文体が特徴である[67]。無駄を省いたこうした文章は、文体の理想のひとつと見なされ、高い評価を得ている[34]。そのため作品は文章練達のために、模写の題材にされることもある。当時の文学青年から崇拝され、代表作『小僧の神様』にかけて「小説の神様」に擬せられていた。
芥川龍之介は、文学評論『文芸的な、余りに文芸的な』の中で、「通俗的興味のない」、「最も詩に近い」、「最も純粋な小説」を書く日本の小説家は志賀直哉であるとしている。その上で、以下のように直哉を論じている。まず、「志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家」であり、作中には「道徳的口気(こうき)」、「道徳的魂の苦痛」が垣間見えるとしている。また、その写実的な文章を高く評価し、「リアリズムの細さいに入つてゐることは少しも前人の後に落ちない」「(細密な描写によりリアリズムを実現するという)効果を収めたものは…写生の妙を極めないものはない」と賞賛している。さらに、『焚火』や『真鶴』といった作品を挙げつつ、「リアリズムに東洋的伝統の上に立つた詩的精神を流しこんでゐる」として、その東洋的詩精神をも賛美している[68]。
菊池寛は、「志賀氏は現在の日本の文壇では、最も傑出した作家の一人だと思っている」と直哉を絶賛している。さらに、直哉をリアリストとした上で、「(志賀)氏のリアリズムは、文壇における自然派系統の老少幾多の作家の持っているリアリズムとは、似ても似つかぬ」ものであると述べている。その理由として、「厳粛な表現の撰択」がなされていること、内容に「ヒューマニスチックな温味」があることを挙げている[69]。
加賀乙彦は、『小僧の神様』や『清兵衛と瓢箪』、『網走まで』、『出来事』、『暗夜行路』といった作品を例に挙げ、直哉が子供の動作や表情を鮮やかに描写していることに感心している。また、直哉の文学を「共感の文学」と呼び、「他者への共感の強さが志賀直哉の小説を、それが一人の男の視点で書かれながらも広く深く他者の世界を描き出すもとい(=根幹)」であるとしている[70]。
一方で、太宰治は自身の小説『津軽』の中で直哉を批判。直哉は座談会の席上で太宰に反論したが、これに対して太宰も連載評論『如是我聞』を書き、直哉を激しく攻撃した。その後太宰は心中自殺をするが、これを受けて直哉は随筆『太宰治の死』の中で「私の言った事が心身共に弱っていた太宰君には何倍かになって響いたらしい。これは…太宰君にとっても、私にとっても不幸な事であった」と、太宰を批判したことに対する後悔の念を表している[71]。
戦争に対しては、戦後に発表した『鈴木貫太郎』などの随想で内心反対であった旨のことを述べている。しかし戦時中は「シンガポール陥落」等で戦争讃美の発言も残しており、太宰治の『如是我聞』などによって攻撃材料とされた。ただ、同じ白樺派の武者小路実篤や高村光太郎らがかなり積極的な戦争協力の姿勢を示したのと比べて特に目立つほどのものではなく、1946年(昭和21年)から小田切秀雄らによって文学者の戦争責任が追及されたとき、武者小路や高村はいち早く槍玉に上がったが、直哉は対象とされていない[注 4]。
人物像・エピソード
挨拶
挨拶代わりに「失敬」をよく使った。これは「こんにちは」「いらっしゃい」「初めまして」「失礼します」「さようなら」まですべて含んだ直哉独特の挨拶だった。ただし家族には使わなかった[72]。
引越し魔
談話『転居二十三回』によれば生涯23回引っ越しをしたという。実際、直哉は以下のように住む場所を頻繁に変えている[注 5][5]。
居住開始年月 | 居住地 |
---|---|
1883年 | 2月宮城県牡鹿郡石巻町 |
1885年 | 2月東京府東京市麹町区内幸町 |
1890年 | 4月東京府東京市芝区芝公園地 |
1897年 | 7月東京府東京市麻布区三河台町 |
1912年11月 | 広島県尾道市土堂町 |
1913年12月 | 東京府荏原郡大井町 |
1914年 | 5月島根県松江市 |
1914年 | 9月京都府京都市上京区南禅寺町 |
1915年 | 1月京都府京都市上京区一条御前通 |
1915年 | 5月神奈川県鎌倉郡鎌倉町 |
居住開始年月 | 居住地 |
---|---|
1915年 | 5月群馬県勢多郡富士見村 |
1915年 | 9月千葉県東葛飾郡我孫子町 |
1923年 | 3月京都府京都市上京区粟田口三条坊町 |
1923年10月 | 京都府宇治郡山科村 |
1925年 | 4月奈良県奈良市幸町 |
1929年 | 4月奈良県奈良市高畑町 |
1938年 | 4月東京府東京市淀橋区諏訪町 |
1940年 | 5月東京府東京市世田谷区新町 |
1948年 | 1月静岡県熱海市稲村大洞台 |
1955年 | 5月東京都渋谷区常磐松町 |
交友関係
学習院以来の友人である武者小路実篤、細川護立、柳宗悦、里見弴らの他、谷崎潤一郎、梅原龍三郎、安倍能成、和辻哲郎、安井曽太郎、谷川徹三、小林多喜二など多くの知識・文化人と交流があった。その動静は残された多くの日誌や書簡にみることができる。また、瀧井孝作、尾崎一雄、 廣津和郎、網野菊、藤枝静男、島村利正、直井潔、阿川弘之らの作家が、直哉に師事し交流を持った(関連人物も参照のこと)。
趣味
中等科6年生のころ、歌舞伎に夢中になり、歌舞伎座や明治座に通った。日曜日の朝、人力車で内村鑑三の家に乗りつけ、車を待たせて講義を聞いたあと、また人力車に乗って芝居小屋に行き、人を雇って取らせた良い席で一日観劇を楽しんだ。車代は義母の浩が父親の直温に見つからぬようこっそり支払っていたという[73]。
フランス語国語論
1946年(昭和21年)、直哉は『改造』4月号に『国語問題』というエッセイを発表する。直哉は40年近い文筆生活の中で、日本の国語が不完全であると痛感したとして「日本は思ひ切って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。」と提言する。直哉はフランス語が話せなかったが、「文化の進んだ国であり、小説を読んでみても何か日本と通ずるものがあると思はれる」という根拠でフランス語を推した。日本語の文章においては随一の作家であると評価されていた直哉のこの意見に、読者は戸惑い、議論となった。直哉の門人である河森好蔵や辰野隆は「失言」ととらえており、他の門人たちも特に触れた文章を残していない。阿川弘之の調査によれば、エッセイ発表後、学者や文人が反論した文章はほとんど見つからないという。福田恆存・土屋道雄による「國語問題論爭史」(1962年、新潮社)では、直哉のフランス語国語論は世間の注目を浴びたが、真面目に受け取られることなく流されてしまったと書いている。大野晋は若いころから志賀直哉の作品を愛読しており、「小説の神様」が日本語を見捨てようとしたことに大変ショックを受けたが、公に反論を書いてはいない。大野は「日本古典文学大系」の編集担当だった直哉の息子・直吉に直哉の発言の真意を問いただしたところ、直吉は、日本の文学が読まれない、わかってもらえないのは日本語が特殊なせいで、フランス語のような国際語で書かれていればという考えがあったのではないかと答えたという[74]。
批判者の代表として丸谷才一[注 6]、三島由紀夫[注 7]を挙げることができる。これに対して蓮實重彦は、『反=日本語論』や『表層批評宣言』などにおいて、直哉を擁護した。
戦後、直哉が閉口していたのは、原稿を当用漢字や現代仮名遣いに修正されることで、「原文のまま載せてくれない新聞雑誌には書かぬことにする」(展望、1950年3月号)と宣言している[75]。
年譜
- 1883年(明治16年)2月20日、陸前石巻(現在の石巻市住吉町)に、銀行員の父直温(なおはる)の次男として生まれる(長男・直行は夭折)。祖父直道は旧相馬中村藩士で、二宮尊徳の門人。母銀は伊勢亀山藩士の佐本源吾の4女。
- 1885年(明治18年)、両親と上京、祖父母と同居。
- 1889年(明治22年)、学習院の初等科へ入学。
- 1895年(明治28年)、学習院の中等科へ進学。
- 8月30日、母の銀が妊娠中病死。
- 秋、父の直温が、漢学者高橋元次の長女・浩(こう)と再婚。その後直哉に弟一人、妹5人が生まれる。
- 1901年(明治34年)
- 夏から内村鑑三の元に通う。
- 足尾銅山鉱毒事件の見解について、父と衝突。以後の決定的な不和のきっかけとなる。
- 1902年(明治35年)、中等科2度目の落第。武者小路実篤と同級になる。
- 1906年(明治39年)、東京帝国大学英文学科へ入学。
- 1907年(明治40年)、父と結婚についての問題で再度衝突。
- 1908年(明治41年)
- 処女作となる『或る朝』を執筆。
- 回覧雑誌『望野』を創刊。
- 英文学科から国文学科へ転科したものの、大学に登校しなくなる。
- 1910年(明治43年)
- 『白樺』を創刊、『網走まで』を発表。
- 東京帝国大学を中退。徴兵検査を受け甲種合格。市川の砲兵連隊に入営するが、8日後に除隊。
- 1911年(明治44年)
- 12月、武者小路実篤と衝突、『白樺』に絶縁状を出す。実篤の謝罪と説得で思いとどまるが、白樺同人とのつきあいに不愉快を感じるようになる[76]。
- 1912年(大正元年)、『大津順吉』『正義派』『母の死と新しい母』を発表。
- 1913年(大正2年)、『清兵衛と瓢箪』『范の犯罪』を発表。
- 8月15日、上京した際に山手線にはねられ重傷を負うも12日後退院。
- 10月、城崎温泉に3週間滞在。
- 11月、尾道に戻るが、中耳炎のため東京に戻る。
- 12月末日、武者小路実篤を介して、夏目漱石から東京朝日新聞の連載小説依頼の手紙を受け取る。
- 1914年(大正3年)
- 1915年(大正4年)、柳宗悦にすすめられて千葉県我孫子市に移住。
- 1916年(大正5年)、長女慧子(さとこ)誕生するも夭折[77]。
- 1917年(大正6年)、次女留女子(るめこ)誕生[77]。
- 1919年(大正8年)、長男直康誕生するも夭折[77]
- 1920年(大正9年)、『小僧の神様』『焚火』を発表。三女寿々子誕生[77]
- 1921年(大正10年)、『暗夜行路』の前篇を発表。祖母留女死去[77]
- 1922年(大正11年)、『暗夜行路』後篇連載開始。四女万亀子誕生[77]
- 1923年(大正12年)
- 3月、京都粟田口へ移住。尾崎一雄、網野菊らが訪問。
- 10月、山科へ移住。『雨蛙』完成。祇園花見小路の茶屋の仲居と交際。のちに『山科の記憶』『痴情』『瑣事』『晩秋』に書かれる[79]。
- 1925年(大正14年)、奈良市幸町に移住。次男直吉誕生。
- 1929年(昭和4年)、上高畑に自邸を新築、移住。五女田鶴子誕生。この年から休筆。
- 1931年(昭和6年)11月、訪ねて来た小林多喜二を宿泊させ懇談。
- 1932年(昭和7年)、六女貴美子誕生。
- 1933年(昭和8年)、5年ぶりの小説『万暦赤絵』を発表。
- 1937年(昭和12年)、『暗夜行路』の後篇を発表し、完結させる。
- 1938年(昭和13年)、東京の高田馬場に移住。改造社『志賀直哉全集』最後の月報で文士廃業宣言。
- 1940年(昭和15年)、世田谷新町に引っ越し。
- 1941年(昭和16年)、『早春の旅』で文筆活動再開。
- 1942年(昭和17年)、『シンガポール陥落』『龍頭蛇尾』を最後に終戦まで休筆。
- 1948年(昭和23年)、熱海市大洞台の山荘に移住。
- 1949年(昭和24年)、文化勲章を受章。
- 1952年(昭和27年)、柳宗悦、浜田庄司らとヨーロッパ周遊旅行。
- 1955年(昭和30年)、渋谷区常盤松に自邸新築、移住。
- 1971年(昭和46年)10月21日、死去。
系譜
志賀家に伝わる家系図によれば、近江国志賀城主の一万石の大名、志賀直為が一族の祖であるという。ただし直哉は「ほんとうかどうか、怪しいもんだよ」と言っている。直為の二代あとの志賀甚兵衛直久は上総国の土屋利直の家来となっており禄高二百石の侍に格下げされている。その跡継ぎの志賀三左衛門直之の代に土屋家から相馬中村藩に養子に入った相馬忠胤の側近として一家で相馬に移住。以後志賀家当主は代々三左衛門を名乗る。直之から七代あとの当主が直哉の祖父直道である[80]。
- 祖父・志賀直道
- 磐城国相馬中村の城下町に生まれる。明治維新後は福島県の大参事という役職についていたが、困窮していた相馬家から請われ、月給25円の家令(事務、会計)を勤める。二宮尊徳の弟子でもあり、相馬家立て直しのため、古河財閥創始者古河市兵衛と共に足尾銅山開発にも関わっている。気性の激しい留女と違い、無口で温厚な性格だった。相馬事件では、旧藩主を毒殺した疑いで告訴され、70余日拘留されたが、拘留中の出来事は一切話さなかったという。晩年は禅学に親しんだが、食道癌を発症し数え80歳で死去[81]。
- 祖母・留女(るめ)
- 相馬家の家臣・木村惣左衛重基の娘。直道に嫁いでからは、自家製の味噌やどぶろくを近所に売って家計を支えた。働き者で気性も激しかった。直哉の妹の英子によれば、文盲であったという[82]。
- 父・志賀直温
- 磐城国宇多郡中村(現在の福島県相馬市)に生まれる。16歳のとき山岡鉄舟の元に剣術修行に出たのを皮切りに各地の私塾を転々とし1876年(明治9年)6月慶應義塾を卒業。1880年(明治13年)、第一国立銀行に就職。1885年(明治18年)、同行を退職、文部省会計局の下級役人となる。1890年(明治23年)文部省を非職(休職)。1893年(明治26年)、40歳で文部省を非職満期(正式に辞職)となると、相馬藩士の青田綱三と総武鉄道会社の創立に参加し、会計を担当。のちに、専務取締役を務める。帝国生命保険、武蔵電気鉄道、相模水力電気、札幌木材、豊前採炭、日本醋酸の7社に取締役として関与[83]。実業家として成功しても無駄遣いはせず、蓄財に努め、志賀家を栄えさせようとした。晩年は交詢社に毎日通い、牧野伸顕や松方正作(松方正義次男)と碁を打つという優雅な生活だった[84]。
- 母・銀
- 亀山藩の上屋敷があった江戸下谷の御成道に、6人兄弟の五女として生まれる。16歳で直温と結婚。姑の留女に息子の直哉を取り上げられるなど苦労する。1895年(明治28年)、13年ぶりに妊娠するが、悪性のつわりのため、8月30日、数え33歳で死去。
- 養母・浩(こう)
- 天童藩織田家に仕えた漢学者高橋元次の娘。23歳で直温の後妻として嫁ぎ、一男五女をもうける。仲たがいした直哉と直温を和解させようと気苦労を重ねた[85]。実子の直三によれば、「継母の継子いじめってことは世の中にあるけれど私の場合はそれが逆になってしまった」と嘆いていたという[86]。晩年、直哉の住む奈良に転居するが、直三の行状に悩まされ[87]、脳溢血で死去[88]。
- 妹・英子(ふさこ)
- 東京府立第三高女卒業後、海軍士官の実吉敏郎(海軍の軍医総監実吉安純の息子)と結婚。
- 弟・直三
- 幼稚舎から大学予科まで慶應義塾で学ぶ。学生時代から飲酒・夜遊びと不良行為が絶えず、留学させられる。アメリカでマサチューセッツ工科大学、イギリスでケンブリッジ大学に入学するがどちらもすぐに退学し、競馬や女遊びに耽溺。6年後、義兄の実吉敏郎に連れ戻される。帰国後、副島道正の娘・順子(のぶこ)と結婚。文部省社会教育課で教育映画製作の仕事に就く。直温亡き後、相続を巡って直哉たちと反目、以後放蕩の限りを尽くし、奈良に引っ越した実母・浩の家に高利貸しや暴力団が押し掛け、直三は2年3か月収監される騒ぎとなる。出所前、浩が死去。その後直三は華道・慈草流の家元、茶道・宗偏流では志賀幽荃を名乗り、風雅の世界に生きる。自伝『阿保傳』(新制社、1958年)を出版している[89]。
- 妹・淑子(よしこ)
- 英子と同じ第三高女卒業後、元会津若松藩の家臣・山際家出身の山際太郎と結婚。
- 妹・隆子
- 英子と同じ第三高女卒業後、第三代住友総理事の鈴木馬左也の長男愨太郎と結婚。
- 妹・昌子
- 聖心女子学院卒業後、鈴木馬左也の三男乾三と結婚。
- 妹・禄子
- 香蘭女学校卒業後、大倉商事の社員(のちに社長、会長)伊藤英次郎と結婚。結婚式では亡くなった直温の代わりに直哉が父親役を務めた。
- 志賀直方
- 直道の兄、志賀直員正斎の孫。直哉の作品にしばしば「叔父直方」として登場している。直哉にとっては4歳上の又従妹になるが、両親が病死し、直道の養子となったため、戸籍上は叔父である。直哉とは兄弟のように育ち、直哉と同時期に学習院に編入している。中等科卒業後は陸軍士官学校へ進み、日露戦争に出征、右目を失う重傷を負う。軍籍を離れたのちは大日本連合青年団理事として政治活動をしながら、志賀家のもめごとの仲裁にあたった[90]。
- 妻・康子(さだこ)
- 勘解由小路資承の長女で武者小路実篤の母方の従妹。10歳から華族女学校に学ぶ。中等科の同級生にのちに女優になる東山千栄子がいた。家の事情で卒業2年前に退学[91]。1908年(明治41年)、勘解由小路家の縁戚で男爵家の軍人川口武孝と結婚、娘・喜久子をもうけるが、夫が病死し未亡人となる[92]。武者小路夫妻の紹介で直哉と見合いし結婚。喜久子は武者小路夫妻が養女にしている[93]。癇癪もちで時に暴力をふるう直哉を辛抱強く支えた。直哉の門人たちにも慕われており、河盛好蔵は「日本三名夫人の一人(二人は小泉信三夫人と辰野隆夫人)」と評した[94]。
- 長女・慧子(さとこ)
- 我孫子に移住してから一年後の1916年(大正6年)6月7日に東京の病院で生まれる。直哉と絶縁中の直温も初孫の誕生を喜び、病院に顔を見にいき、出産費用も出した。我孫子に帰ってからも祖母の留女にまた東京に連れてくるよう言われ、汽車で上京したが帰宅後、様子がおかしくなり、7月31日、腸捻転で急死した。直哉は赤ん坊を汽車に乗せたのが原因と思い込み、以後子供の扱いに厳しくなる[95]。
- 次女・留女子(るめこ)
- 1917年(大正6年)7月23日我孫子で誕生。汽車に乗せずに済むよう、自宅出産で生まれた。直哉は祖母の留女に名付けを頼んだが、良い名を思いつかないので自分の名はどうかと言われたので、子の字をつけて留女子となった。直哉は今度こそ無事に育てようと外出や食べ物を制限し、その過保護ぶりは周囲でも有名だった。奈良女子高等師範学校附属高等女学校卒業後、柳宗悦の妻で声楽家の柳兼子の紹介で、ピアニストの土川正浩と結婚、二人の娘をもうける[96]。
- 長男・直康
- 1919年(大正8年)6月2日に生まれ、36日後の7月8日丹毒で早逝[97]。
- 三女・寿々子
- 1920年(大正9年)5月31日に生まれる。留女子と同じ奈良女高師附属女学校卒業。身長172センチの大柄な娘だった。康子夫人の同級生東山千栄子の甥で、身長186センチでベルリンオリンピックにバスケットボールで出場し、農林省に勤務する中江孝男(祖父は鉱山開発などを行った中江種造、母親は料理研究家の中江百合子)と結婚。中江は農林省退官後、祖父が大阪に起こした中江産業の役員となり、寿々子も関西に移住した。息子二人をもうけた[98]。
- 四女・万亀子
- 1922年(大正11年)1月19日に生まれる。奈良女高師の付属幼稚園から、付属小学校、附属女学校を卒業。柳宗悦の次男で美術史家の柳宗玄と結婚。娘一人、息子二人をもうける[99]。
- 次男・直吉
- 1925年(大正14年)5月26日、奈良で誕生。奈良の小学校から5年生に進級する際、学習院に編入する。一人息子の将来に期待する直哉は、「今大学なんか出て一体何になるかね」と大学進学をさせず、高等科も中退させる。商人や月給取を嫌っていた直哉は、直吉に出版社をやらせることを考え、岩波書店の小林勇の口利きで岩波に入社させ出版人の修行をさせる。しかし、小林から出版社経営の難しさを理由に反対され、あきらめている。直吉は日劇ダンシングチームのメンバーで台湾銀行初代ロンドン支店長の娘、佐藤福子と恋愛結婚。息子3人をもうける。岩波では、父親の志賀直哉全集編纂や日本古典文学大系の編集を担当、常務取締役まで勤め上げた[99]。
- 五女・田鶴子
- 1929年(昭和4年)10月13日、奈良に生まれる。日本女子大付属豊明小学校から付属高等女学校に進学するが、直哉は「女の子が学校の勉強なんか大してする必要なし」という考えで、終戦前後の勤労奉仕も「馬鹿々々しい」と休ませ、出席日数不足で退学する。実吉安純の孫で三井化学の社員(のちに日本揮発油社長)山田伸雄と結婚。一男一女をもうける[100]。
- 六女・貴美子
- 1932年(昭和7年)11月19日、奈良に生まれる。香蘭女学校に進むが、病弱で欠席しがちだったため、熱海に引っ越したのを機に退学し、伸び伸びと育てられた。戦後派らしい物怖じしない性格で、周囲からは島津貴子になぞらえ「志賀家のおすたさん」と呼ばれていた。AP通信・朝日新聞社で電気通信関係の仕事をしていた安場保文と結婚、一男一女をもうけた[101]。
主な作品
カッコ内は発表年。
- 『網走まで』(1910年)
- 『剃刀』(1910年)
- 『濁つた頭』(1911年)
- 『母の死と新しい母』(1912年)
- 『大津順吉』(1912年)
- 『正義派』(1912年)
- 『クローディアスの日記』(1912年)
- 『清兵衛と瓢箪』(1913年)
- 『范の犯罪』(1913年)
- 『児を盗む話』(1914年)
- 『荒絹』(1917年)
- 『城の崎にて』(1917年)
- 『好人物の夫婦』(1917年)
- 『赤西蠣太』(1917年)
- 『和解』(1917年)
- 『十一月三日午後の事』(1918年)
- 『流行感冒』(1919年)
- 『小僧の神様』(1920年)
- 『或る男、其姉の死』(1920年)
- 『焚火』(1920年)
- 『真鶴』(1920年)
- 『暗夜行路』(1921年 - 1937年)
- 『雨蛙』(1924年)
- 『些事』(1925年)
- 『山科の記憶』(1926年)
- 『痴情』(1926年)
- 『晩秋』(1926年)
- 『邦子』(1927年)
- 『万暦赤絵』(1933年)
- 『灰色の月』(1946年)
- 『山鳩』(1950年)
- 『朝顔』(1954年)
関連人物
- 阿川弘之
- 芥川龍之介
- 網野菊
- 尾崎一雄
- 上司海雲
- 東大寺別当。直哉が奈良に住んでいたころに知り合う。海雲は「あんなすぐれた人は仏教界にもどこにも見当たらない」と直哉を絶賛、直哉が亡くなるまでの40年間親しい関係が続いた。直哉も奈良を去り東京へ帰った後も、武者小路実篤や里見弴と同じ頻度で手紙を書いている[102]。志賀のサロンの一部は上司海雲に引き継がれていった(観音院サロン)。
- 小林多喜二
- 志賀直哉で文学を学んだ[103]。小樽高等商業学校時代から、北海道で育った自分が日本文学を席捲すると怪気炎をあげる手紙をたびたび送りつけ、直哉に名前を覚えられていた。獄中からも直哉に手紙を出している。1931年 (昭和6年)1月、直哉は随想『リズム』(読売新聞、1/13-14付)で、プロレタリア運動と小説に熱心なある男は「日本のプロレタリア作品を読むより西鶴を読んだ方が何百倍も仕事に対する意思を強く感ずるかも知れない」と書く[注 8]。6月、新進作家として注目されはじめた多喜二は、自分の作品に対する忌憚ない意見を聞かせてほしいと自著『蟹工船』と手紙を送り、直哉はプロレタリア運動意識が作品として不純になると返信している。その5か月後の11月はじめ、多喜二は上高畑の志賀家を訪れる。この時の多喜二は自分の思想を押し付けることもなくおとなしい様子で、昔の手紙の話をされると赤面していたという。直哉の息子・直吉と3人であやめ池の遊園地に遊びに行き、一晩泊まって帰っていった[104]。多喜二が拷問死した時、直哉は多喜二の実母に「不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持ちになりました」と、香典と弔文を贈り、日記に「小林多喜二(余の誕生日)に捕らへられ死す、警察官に殺されたるらし、不図彼らの意図ものになるべしとふ気がする」と記している[103]。
- 小林秀雄
- 里見弴
- 太宰治
- 谷崎潤一郎
- 中野重治
- 1945年(昭和20年)3月、世田谷新町の志賀家を訪れ、その後も何度か交流があった。戦後、中野は宮本百合子、窪川鶴次郎らと「新日本文学会」を結成。中野の人柄に好感を持っていた直哉も賛助会員となる。翌年3月中野は『学芸封鎖の悪令』(読売新聞)で「国民は飢ゑてゐて天皇とその一家は肥え太っている」と皇室を、『安倍さんの「さん」』では文部大臣安倍能成を批判する。これを読んだ直哉は「何か復しう心のやうなものも感じられ兎に角甚だ不純な印象」と手紙に書き文学会を脱会。直哉に畏敬の念を抱いていた中野と徳永直は手紙で慰留したが、これ以後直哉が新日本文学会に関わることはなかった[105]。
- 広津和郎
- 武者小路実篤
- 柳宗悦
脚注
注釈
- ^ 発表は『金の船』1920年(大正9年)1月号。
- ^ 発表は『中央文学』1918年(大正7年)3月号。
- ^ 小説家・大岡昇平は「近代文学の最高峰である」と讃えている。
- ^ シンガポール陥落の際は多くの文学者が祝意を表しており、谷崎潤一郎も「シンガポール陥落に際して」という文でそれを讃美している。その後の谷崎は『細雪』発禁によって戦争に非協力的な作家という印象が強くなり、直哉もその後はほとんど沈黙していた。それゆえ、戦後の「鈴木さんが総理大臣になった時、これはきっと、この内閣で戦争は終るのだろうという風に私は思った」(「鈴木貫太郎」)という発言もそれほど不自然なものとは言えない。
- ^ 以下の表に加え、内幸町において新築の家に転居、松江において最初に住んだ家から別の家に転居、我孫子時代に一時東京四谷の九里四郎の家を借りてそこに転居している。これらの転居と最初の石巻町の家を含めると「転居二十三回」となる(貴田、2015)。
- ^ 丸谷才一はエッセイ「日本語への関心」(1974年刊行の『日本語のために』に収録)において、「志賀が日本語で書く代表的な文学者であつたといふ要素を考へに入れるとき、われわれは近代日本文学の貧しさと程度の低さに恥ぢ入りたい気持ちになる。(中略) 彼を悼む文章のなかでこのことに一言半句でも触れたもののあることをわたしは知らないが、人はあまりの悲惨に眼を覆ひたい一心で、志賀のこの醜態を論じないのだらう」と述べている。
- ^ 三島由紀夫は『日本への信条』(愛媛新聞 1967年1月1日に掲載)において、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と述べている。
- ^ 多喜二を意識しているという解釈もあるが、阿川弘之は、当時自宅に訪ねてきてプロレタリア主義を押し付けてくる学者や労働運動家に辟易したことを書いたものと推測している。
出典
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参考文献
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- 阿川弘之『志賀直哉 上』新潮社〈新潮文庫〉、1997年。ISBN 4101110158。
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- 末永航「白樺ヨーロッパ旅行団―志賀直哉と柳宗悦」『イタリア、旅する心―大正教養世代のみた都市と文化』青弓社、2005年。ISBN 9784787271969。
- 貴田庄『志賀直哉、映画に行く―エジソンから小津安二郎まで見た男』朝日選書、2015年。ISBN 9784022630292。