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#第6回(2016年)該当無し
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#第7回(2017年)阪神タイガース選手会
#第7回(2017年)阪神タイガース選手会
#:2005年以降セ・パ交流戦やウル虎の夏などで実際に着用したユニフォームを対象とするチャリティーオークションを球団とともに開催しています。ファンの方々の支持による寄付金は累計で1億8000万円を超え、毎年恵まれない子供の試合や国内外の災害地の救済などに大いに役立っています。多年にわたり多くの寄付を募るために尽力するその姿勢が評価され、特別賞の受賞となった<ref>{{cite news|url=http://http://hanshintigers.jp/news/topics/info_5286.html|title若林忠志賞・特別賞受賞について|newspaper=阪神タイガース公式サイト|date=2017-11-20|accessdate=2017-11-20}}</ref>。
#:2005年以降セ・パ交流戦やウル虎の夏などで実際に着用したユニフォームを対象とするチャリティーオークションを球団とともに開催しています。ファンの方々の支持による寄付金は累計で1億8000万円を超え、毎年恵まれない子供の試合や国内外の災害地の救済などに大いに役立っています。多年にわたり多くの寄付を募るために尽力するその姿勢が評価され、特別賞の受賞となった<ref>{{cite news|url=http://hanshintigers.jp/news/topics/info_5286.html|title若林忠志賞・特別賞受賞について|newspaper=阪神タイガース公式サイト|date=2017-11-20|accessdate=2017-11-20}}</ref>。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==

2018年1月29日 (月) 00:21時点における版

若林 忠志
Tadashi Wakabayashi
1946年 - 1948年頃
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ハワイ準州オアフ島
生年月日 1908年3月1日
没年月日 (1965-03-05) 1965年3月5日(57歳没)
身長
体重
175 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1936年
初出場 1936年
最終出場 1953年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1964年
選出方法 競技者表彰

若林 忠志(わかばやし ただし、1908年3月1日 - 1965年3月5日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州Territory of Hawaii)生まれのプロ野球選手投手)・監督ハワイ移民日系2世。アメリカ名はタダシ・ヘンリー・ワカバヤシ(Tadashi Henry Wakabayashi)。ジャズ・ミュージシャンの津上研太は孫。

経歴

1908年3月1日 ハワイ準州Territory of Hawaii)・オアフ島ワヒアワで出生[1][2]。九人兄妹の五番目の三男[1]。父親の代に広島県芦品郡戸手村(現:福山市)からハワイへ移民しており、父母ともに広島県芦品郡生まれの日本人[1][3][4]。両親は日本を主な取引相手とする雑貨貿易商を営むかたわら、パイナップル缶詰会社を経営する等、事業で成功し裕福な家庭で育った[1]

国籍はアメリカ・日本の二重だったが、1928年に日本国籍を一旦離脱。日系外国人に退去命令が出された1941年に日本国籍を回復、アメリカ国籍から離脱した。愛称は「ボゾ(BOZO)」。寺に預けられていた坊主頭時代の「坊主」が訛ったとも、年の割に老けた若林の外観から「鼻下のうぶ毛」を意味するスペイン語「bozo」に由来するとも言われる。マッキンレー・ハイスクール時代は、アメリカンフットボールに熱心だったが、試合中に頭を蹴られ2ヶ月の大けがをする。以後、両親からアメリカンフットボールを禁止され、次にベースボールをはじめた。元は捕手だったが、マッキンレー・ハイスクール時代の1学年上の田中義雄には敵わず、田中から投手転向を勧められ、上段から投げ下ろす剛速球を武器とするエースとなった[1][3]

アマ時代

1927年、ハイスクール生ながら実業団チームのメンバーに選抜され、親善試合のため来日。当時日本にはまだプロ野球が存在しなかったため東京六大学が相手を務めた。若林の存在はたちまち話題になり、東京六大学のうち特に法政大学(旧制)が熱心に勧誘した。若林自身も両親の母国である日本に敬愛の念を抱いており、法政入学は決定かと思われたが、大学に入学するには手続き上日本の旧制中学を卒業する必要があり、同年7月のハイスクール卒業を待って再来日させ、9月、横浜の旧制本牧中学校(現:横浜高等学校)に4年生として編入学させた。若林にはアメリカのAAAサンフランシスコ・シールズからの誘いもあった[5]1929年3月に卒業。同年4月晴れて法政大学予科に入学となった。当時の東京六大学野球は早慶の2強が争っており、対して法大野球部は弱小チーム。若林の右腕に全てがかかっていたが、1年目はハワイと日本の野球の違いに戸惑い好結果を残せなかった。1930年徐々に適応してきたのリーグで法大は念願の初優勝。エースとして存分の働きを見せた。

3年生となった1931年秋、肘・肩を痛めサイドスローへの転向を余儀なくされる。これにより剛速球を失い、変化球とコーナーワークを磨くことになる。1932年4月に本科経済学部に進学。この年の秋季リーグ戦で2度目の優勝を果たす。1933年1月15日、東北の大富農本間家の出である妻・房と学生結婚し、原宿穏田に居を構えていた。1934年通年1シーズン全15戦の試合形式に変更され、法大は主力が大量に卒業し戦力が低下。若林が全15戦全てに登板し、11勝3敗1分の個人成績=チーム成績を残すという空前絶後の働きを見せ、3度目の優勝に輝いた。リーグ戦通算87試合(史上最多)、43勝[6](史上4位。リーグ初の40勝)28敗。この他、隠し球をプロ野球で初めてやったといわれる苅田久徳にやり方を教えたのは大学時代の若林という[7]。同年、同校体育会アメリカンフットボール部の創設に携わる[8]1935年3月、法大を卒業。4月、知人の紹介で日本コロムビアに入社[6]。ビジネスマンとして働く傍ら同社の実業団(社会人)チーム「川崎コロムビア」にも参加し野球を続けた。給料は当時の一流会社の重役以上の500円と破格だった[5]

1935年7月16日に東京巨人軍が米国遠征から帰国し、阪神電鉄を始めとする各企業が職業野球球団を設立。若林の元には巨人、阪急タイガースが勧誘に訪れた。最初に来たのは巨人だったが、月給150円を提示され、「プロ野球が隆盛に向かうように持っていく自信があるが、それにしては金額が安すぎる」として、巨人の勧誘を断る。次に阪急とタイガースが来るが、若林は当時日本になかった概念「契約金」(1万円)を要求。8月、第9回都市対抗野球大会で決勝戦進出、東京倶楽部に敗れたが最優秀選手に選ばれる[5]1936年1月9日、阪神がこれに応じて契約をまとめ、若林は本契約書サインをもってタイガース(阪神)に入団した。若林は妻の実家も裕福で、前述のようにハワイの実家も事業で成功していたため、父親から「野球をやらなくても食えるようにしてやっている。ハワイに戻って来い」と催促されたが、「人の援助はもう受けたくない。アメリカの野球選手は立派に一流の社会人として成功している。日本だって必ずプロ選手としてやっていける」と確信してタイガース入団を決意した[5]。プロ野球は最初は非常に茨の道であったが、若林は将来最も有望な事業であると堅く信じていたという[5]。タイガースは1936年の背番号を"いろは"順に定めたが、若林はこの順番とは違い18番だった。若林は本来4番をつけるはずだったが、4は縁起が悪いため、空番号のうち一番若い18番をつけることになったのが理由である。若林が18番をつけてエースとして活躍したことで「エースナンバーが18」と言われるようになる。

プロ時代

タイガース入団時すでに28歳になっていたが投手寿命は非常に長く、45歳まで現役を続け、1リーグ時代の技巧派の代表的投手とされている。「七色の変化球」(ストレートカーブシュートスライダーシンカードロップナックル)と呼ばれ、ナックルを初めて投げたとも言われる。だが、普段はそれほど多くの球種を投げておらず、殆どはストレートとカーブで、それを制球力と緩急によって投げ分け、打者を幻惑させた。コントロールに優れ、わざとコースを3つ続けて外して3ボールとし打者の打ち気を外してから打ち取ることを楽しみにしていた。特に絶妙のコントロールで、低めで変化させる球を持つことが、長く勝てる理由だとも述べている。[9]

1936年(1年目)は10勝、1397年(2年目)は17勝を挙げる。この頃は彼より若い西村幸生御園生崇男の方が活躍していた。秋シーズン前に肩痛が悪化する。3年目の春シーズンは戦線を離脱して治療に専念し、秋シーズン終盤に復帰した。

1939年(4年目)には全盛期に入り、自己最高の28勝と勝率・防御率のタイトルを獲得。以後シーズン20勝以上を6度記録し、ヴィクトル・スタルヒン野口二郎と共に、戦中から戦後復興期の日本を代表する投手として活躍を続けた。

1942年からは選手兼任監督に就任した[6]

1944年、戦前最後のシーズンは35試合しか行われなかったが、そのうち31試合に登板して阪神を優勝に導き[6]、最多勝・勝率1位・防御率1位とMVPを獲得した。この年の阪神のチーム勝利27勝のうち8割以上の22勝を稼ぎ、2位巨人のチーム勝利(19勝)より多かった。36歳で開幕を迎えたシーズンの最多勝獲得は2005年下柳剛(阪神)と並び史上最年長タイ記録である。また、14試合連続登板の日本記録も残している。

終戦後は妻の故郷である宮城県石巻市で水産会社の社長を務めていた。プロ野球再開で復帰を要請されたが年齢も40に近く、会社も軌道に乗っていたため当初は復帰を拒否した。しかし戦時に何度も召集された藤村富美男が、体がボロボロになりながら監督兼エースとして投げている、などと聞き心を動かされ復帰を決意したといわれる[10]1947年に監督兼選手に復帰[6]。11月3日対中日戦(後楽園球場)の延長10回裏1死から救援登板、11回表に味方打線が勝ち越し点を奪い裏を若林が締めてゲームセット。勝ち投手となり、スタルヒンに次ぐ200勝目を挙げた。このシーズンは26勝を挙げて優勝に貢献し、二度目のMVPに選ばれた[6]。この年39歳で20勝投手の最年長記録である。

1948年3月、若林は自身が監修・発行人となり大阪で雑誌『ボールフレンド』を創刊[11]。また子供のために『少年ボールフレンド』を発行した[5]。同年「タイガース子供の会」を個人で立ち上げ、少年野球の発展ひいては阪神ファンの開拓に尽力した[5][12]

1949年、41歳で15勝を挙げ、この年まで阪神在籍13年で501試合に登板し233勝を挙げた。この数字は現在も阪神の投手最多勝記録である。この間、1940年 - 1941年は助監督を、1942年 - 1944年、1947年 - 1949年は監督を兼任している。

1950年、2リーグ分裂に伴い、パ・リーグ毎日へ移籍した[6]。彼は以前から2リーグ制論者であり、1949年に始まったプロ野球再編問題に際しては阪神と毎日を中心とする新リーグ設立を積極的に支持していたが、結局阪神が巨人と同じリーグに残ることを決定したため、フロントとの対立が深刻化した結果である。別当薫土井垣武呉昌征らも行動を共にして阪神の弱体化を招いたため、阪神サイドから裏切り者扱いされて長らくそのイメージがつきまとうようになった。だが彼にしてみれば、2リーグ制の確立に貢献したいという信念に基づく行動である。水原茂は『プロ野球史再発掘』の中で、「若林は考えが進歩的で、アメリカ式の価値判断でものごとをやっていく。日本式の義理人情じゃない。阪神には義理を感じてなかった男です。~われわれは入団当時、プロの初期のときには月給いくらと決まって、それっきりでいった時代です。ところが若林はちゃんと計算して、月給いくらよこせ、いくら契約金くれということで入っているんですよ。~新しいリーグができる。それじゃ新しく、変わった新天地で、自分を高く評価判断して買ってもらおうとすぐ割り切る男ですよ。だから阪神で相当もらっていても、それは別として、毎日から評価を受けて買われるとなると、パッと切り替えるんですよ」などと述べている[13]。既に42歳になっており、選手としてはシーズンをフルに戦える余力はなかったが、11月12日の対近鉄戦では最年長完封勝利(当時)を果たしている[14]。同年の第1回日本シリーズ第1戦に自ら志願して先発。老練な投球内容で日本シリーズ最初の勝利投手となり[15]、毎日の日本一に貢献した。第6戦に2番手投手として登板した際、その試合で既に2本の本塁打を放っていた岩本義行を無死満塁から敬遠した。満塁での敬遠は日本プロ野球史上初である(リーグ公式戦では1975年に広島中日戦で記録されたのが最初)。岩本自身が「ノーアウト満塁で敬遠なんて、自分の長い野球生活でも後にも先にもない」と驚く作戦だった。

1951年は白星ゼロに終わり、翌1952年は登板もなく、引退同然の状態であった。1953年は2試合に登板したが、これは通算奪三振数がそれまで999個だったので、1000個にするためだったといわれる。黒星1個・自責点8と引き替えに三振1個をもぎ取り、同年正式に現役引退を表明した。

引退後

毎日時代も監督を兼任していたが、1950年 - 1952年は総監督の湯浅禎夫が実指揮を執っており、若林はヘッドコーチ的な立場に過ぎなかった。なお1952年は平和台事件の責任を取って、シーズン途中で二軍監督に降格している。1954年には毎日の営業担当取締役に就任するが1年限りで退職し、トンボのヘッドコーチに招かれる。しかしチームは記録的な敗数を喫し1年で退団した。この後いったんプロ野球を離れ「日本ペプシコ」社長やアメリカのテレビ映画ローハイド』などを輸入した「PCAジャパン」日本支社長に就き、その傍ら毎日放送MBSテレビMBSラジオ)の野球解説者としても活動した。

1961年大洋の二軍非常勤投手コーチとして球界に復帰。1963年西鉄のヘッドコーチに就任。トニー・ロイジム・バーマジョージ・ウイルソンら3名の外国人選手を西鉄に紹介[16]。また、田中勉安部和春若生忠男畑隆幸井上善夫ら若手の投手陣を指導し、長らく稲尾和久一人に頼った西鉄投手陣の立て直しを図った[16]。西鉄は南海に14.5ゲーム差をつけられたが、これらの選手が活躍してゲーム差を逆転し10月21日にリーグ優勝を達成、若林の手腕は高く評価された。

1964年には野球殿堂入りを果たす。しかし11月に末期のガンが判明し、同年限りで西鉄から退団した。ただし妻の房の意向で妻と当時の西鉄監督だった中西太以外には事実が伏せられたため、「チームの不振の責任を若林1人に負わせた」として西鉄球団や中西が非難される事態となった。1965年3月5日、57歳で死去。プロ野球葬が行われ、「最期まで病床で現場復帰を懇願していた」と中西が後に語っている。

若林忠志賞

没後の2011年3月4日、阪神球団がチーム内において優秀な社会貢献活動をした者を表彰する「若林忠志賞」を創設することを決定。2011年シーズンオフから実施することを明らかにし[17]7月21日に阪神から正式に発表された。毎年11月の優秀な社会貢献活動をした選手は11月の球団納会などにおいて、記念盾と表彰金100万円、活動支援金100万円がそれぞれ贈呈されるほか、阪神甲子園球場内にある「甲子園歴史館」に賞のコーナーを設置して顕彰される[18]。なお、監督・コーチ・フロントなどから「若林忠志賞特別賞」を授与する場合もある[19]

同じくして2011年4月8日から7月31日まで「甲子園歴史館」にて、企画展『初代エース若林忠志と助っ人外国人列伝』が開催された[17][20]

歴代表彰選手

  1. 第1回(2011年) 桧山進次郎
    現役時代10年間にわたり母子生活支援施設の児童を甲子園の公式戦に招待。また児童福祉施設に図書などを寄付するなどの社会的評価を得た。
  2. 第2回(2012年) 藤川球児
    フリースクールなどに通う児童などを招待、また絶対的守護神としてチームの勝利とファンへの勇気をもたらすなど、プレー以外でのファンサービスの姿勢など、社会的な貢献を熱心に進めた。
  3. 第3回(2013年) 岩田稔
    糖尿病を抱えながらプロ野球選手としてプレーし、様々なハンディキャップを克服しながら日々の生活を送る子供たちに勇気を与え、また糖尿病の子供たちを公式戦に招待するといった活動を通して、糖尿病の社会的な啓蒙活動を展開。
  4. 第4回(2014年) 久保田智之
    2009年から6年間にわたり、7千人以上の子供たちを甲子園の公式戦に招待した。
  5. 第5回(2015年) 鳥谷敬
    2011年から5年間にわたり沖縄の医療施設を訪問、またフィリピンの恵まれない子供達に靴を贈るなど幅広く活動。[21]
  6. 第6回(2016年) 能見篤史
    2014年から1勝につき10万円分の玩具を西宮市豊岡市の児童施設に贈る活動を行う[22]
  7. 第7回(2017年)該当無し
  • 特別賞
  1. 第1回(2011年)阪神タイガース選手会、阪神タイガースOB会
    東日本大震災復興支援募金活動をシーズンを通じて実施した。また、エコキャップ活動により社会的に高い評価を受けたため。
    川藤会長を中心とし、OB会員委員のみならず、阪神・球界OBタレント等にも呼びかけ、募金活動を2011年シーズン最終戦まで実施したため。
  2. 第2回(2012年)該当無し
  3. 第3回(2013年)該当無し
  4. 第4回(2014年)該当無し
  5. 第5回(2015年)該当無し
  6. 第6回(2016年)該当無し
  7. 第7回(2017年)阪神タイガース選手会
    2005年以降セ・パ交流戦やウル虎の夏などで実際に着用したユニフォームを対象とするチャリティーオークションを球団とともに開催しています。ファンの方々の支持による寄付金は累計で1億8000万円を超え、毎年恵まれない子供の試合や国内外の災害地の救済などに大いに役立っています。多年にわたり多くの寄付を募るために尽力するその姿勢が評価され、特別賞の受賞となった[23]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1936春夏 大阪
阪神
大阪
9 7 4 0 0 5 2 -- -- .714 311 68.0 70 3 29 -- 3 39 0 0 42 30 3.97 1.46
1936 12 9 4 1 0 5 4 -- -- .556 318 75.2 60 1 28 -- 1 27 0 0 24 19 2.25 1.16
1937 21 10 4 0 1 8 2 -- -- .800 393 92.0 85 1 25 -- 2 41 1 0 37 18 1.76 1.20
1937 19 13 6 2 1 9 4 -- -- .692 434 104.2 95 2 25 -- 0 35 0 0 42 29 2.49 1.15
1938 7 4 2 0 0 4 2 -- -- .667 184 44.2 32 2 18 -- 0 14 0 0 18 15 3.00 1.12
1939 48 30 25 8 3 28 7 -- -- .800 1326 330.0 248 4 91 -- 3 99 1 0 79 40 1.09 1.03
1940 56 28 23 6 3 22 17 -- -- .564 1380 347.1 266 5 108 -- 4 88 0 0 94 70 1.81 1.08
1941 42 23 21 2 0 18 17 -- -- .514 1264 321.2 234 2 102 -- 1 87 1 0 70 52 1.45 1.04
1942 58 27 24 4 2 26 12 -- -- .684 1518 377.1 294 4 127 -- 3 109 1 0 96 67 1.60 1.12
1943 52 39 39 10 4 24 15 -- -- .615 1656 415.2 299 1 123 -- 2 99 2 0 80 49 1.06 1.02
1944 31 24 24 5 4 22 4 -- -- .846 990 248.0 199 1 53 -- 0 45 0 1 59 43 1.56 1.02
1946 12 7 7 0 0 4 4 -- -- .500 359 82.2 83 1 38 -- 3 25 1 0 35 28 3.04 1.46
1947 43 35 31 10 5 26 12 -- -- .684 1318 331.2 277 8 69 -- 5 86 1 0 101 77 2.09 1.04
1948 48 33 26 4 5 17 20 -- -- .459 1338 326.1 318 7 66 -- 2 78 0 2 120 90 2.48 1.18
1949 43 25 19 4 2 15 14 -- -- .517 1135 271.0 271 14 73 -- 3 93 1 1 117 99 3.29 1.27
1950 毎日 14 7 4 1 1 4 3 -- -- .571 306 73.0 79 7 15 -- 0 20 0 0 41 30 3.70 1.29
1951 11 5 0 0 0 0 4 -- -- .000 173 41.0 46 6 6 -- 0 14 0 1 29 22 4.83 1.27
1953 2 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 35 6.2 15 0 2 -- 0 1 0 0 9 8 10.29 2.55
通算:16年 528 327 263 57 31 237 144 -- -- .622 14438 3557.1 2971 69 998 -- 32 1000 9 5 1093 786 1.99 1.12
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大阪(大阪タイガース)は、1940年途中に阪神(阪神軍)に、1947年に、大阪(大阪タイガース)に球団名を変更

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1942年 昭和17年 阪神 3位 105 52 48 5 .520 21 9 .204 1.82 34歳
1943年 昭和18年 3位 84 41 36 7 .532 11 12 .201 1.80 35歳
1944年 昭和19年 1位 35 27 6 2 .818 - 1 .248 1.53 36歳
1947年 昭和22年 1位 119 79 37 3 .681 - 17 .258 2.18 39歳
1948年 昭和23年 3位 140 70 66 4 .515 17 50 .262 2.88 40歳
1949年 昭和24年 6位 137 65 69 3 .485 20.5 141 .283 4.47 41歳
1953年 昭和28年 毎日 5位 120 56 62 2 .475 14.5 56 .252 3.13 45歳
通算:7年 740 390 324 26 .546

タイトル

表彰

  • MVP:2回(1944年、1947年)
  • 野球殿堂入り (競技者表彰:1964年)

記録

  • シーズン20勝以上 6回 (1939年、1940年、1942年 - 1944年、1947年)
  • 14試合連続登板(1944年、日本記録)
  • 最年長最多勝利投手(1944年)
  • 最年長20勝投手(1947年)

背番号

  • 18(1936年 - 1943年、1946年)
  • 30(1947年 - 1949年、1963年 - 1964年)
  • 33(1950年 - 1953年)
  • 50(1955年)
  • 60(1956年)

参考文献

  • 七色の魔球―回想の若林忠志(山本茂著、ベースボール・マガジン社、1994年10月)
  • プロ野球審判の眼(島秀之助著、岩波書店、1986年9月)
  • プロ野球を変えた男たち(鈴木明新潮社、1983年8月)
  • サンデー毎日 1949年8月21日、28日 若林忠志自叙小傳(上)(下)

脚注

  1. ^ a b c d e サンデー毎日 1949年8月21日 若林忠志自叙伝(自叙小傳(上))11-13頁
  2. ^ 阿部牧郎 『素晴らしきプロ野球』 中央公論新社、1994年、94頁
  3. ^ a b Vol.2 ハワイの剛腕|若林忠志が見た夢|エンタメ|阪神タイガース公式サイト
  4. ^ SportsClick:この人にこの技あり
  5. ^ a b c d e f g サンデー毎日 1949年8月28日 若林忠志自叙小傳(下)11-13頁
  6. ^ a b c d e f g 史上最高の投手兼監督・若林忠志のすごさ『週刊ベースボール』2011年12月26日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-12/26, 82頁。
  7. ^ 高橋安幸 『伝説のプロ野球選手に会いに行く』 白夜書房、2008年、32頁
  8. ^ 法政大学 アメリカンフットボール部 クラブ紹介
  9. ^ 日本プロ野球偉人伝vol1 ベースボールマガジン社P50
  10. ^ プロ野球を変えた男たち、P111
  11. ^ Vol.6 アイデアマン|若林忠志が見た夢|エンタメ|阪神タイガース公式サイト
  12. ^ Vol.7 社会貢献|若林忠志が見た夢|エンタメ|阪神タイガース公式サイト
  13. ^ 関三穂『プロ野球史再発掘(1)』ベースボール・マガジン社、1987年、P132 - 133。
  14. ^ この記録は2010年9月4日、中日山本昌によって更新されるまで、59年10ヶ月の間破られなかった。
  15. ^ ポストシーズンにおける42歳8ヶ月の勝利投手は、2016年時点でもNPB史上最年長となっている。スポーツニッポン 2016年10月26日
  16. ^ a b 朝日新聞1963年10月10日13面「西鉄快進撃のカゲに若林コーチの功績 見事、若い投手を育成 "連れ子"の外人選手大活躍」朝日新聞縮刷版1963年10月p253
  17. ^ a b “阪神が「若林忠志賞」創設…社会貢献者を表彰”. スポーツニッポン. (2011年3月5日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/03/05/kiji/K20110305000366250.html 
  18. ^ “「若林忠志賞」創設…社会貢献などで阪神選手を表彰”. スポーツニッポン. (2011年7月22日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/22/kiji/K20110722001256810.html 
  19. ^ “「若林忠志賞」の創設について”. 阪神タイガース. (2011年7月21日). http://hanshintigers.jp/news/topics/info_1858.html 2011年7月25日閲覧。 
  20. ^ 「初代エース若林忠志と助っ人外国人列伝」スタート 甲子園歴史館スタッフブログ(2011年4月7日)
  21. ^ “「2015年度(第5回)若林忠志賞」鳥谷敬選手が受賞”. 阪神タイガース公式サイト. (2015年11月17日). http://hanshintigers.jp/news/topics/info_4061.html 2015年11月24日閲覧。 
  22. ^ “阪神 能見に若林賞 14年から児童施設に玩具贈る活動継続”. スポニチアネックス. (2016年11月15日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/11/15/kiji/K20161115013724780.html 2016年11月15日閲覧。 
  23. ^ 阪神タイガース公式サイト. (2017年11月20日). http://hanshintigers.jp/news/topics/info_5286.html+2017年11月20日閲覧。 
  24. ^ 1939年の勝率1位はチームの同僚、御園生崇男が記録した.824(14勝3敗)だったが、最高勝率のタイトルは.800(28勝7敗)の若林が獲得。

関連項目

外部リンク