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{{Otheruses|[[イギリス]]の社会改革家|その他|ロバート・オーウェン (曖昧さ回避)}} |
{{Otheruses|[[イギリス]]の社会改革家|その他|ロバート・オーウェン (曖昧さ回避)}} |
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{{Infobox 哲学者 |
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| region = [[イギリス]]、[[アメリカ合衆国]] |
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| era = 19世紀初頭[[産業革命]]期 |
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| image_name = Portrait of Robert Owen.png |
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| image_alt = ロバート・オウエン |
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| image_caption = 50歳ごろのロバート・オウエン |
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| name = ロバート・オウエン<br />{{lang|wn|Robert Owen}} |
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| birth_date = {{生年月日と年齢|1771|5|14|no}} |
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{{flagicon|WAL}}[[ウェールズ]]、{{仮リンク|モントゴメリーシャー|en|Montgomeryshire}}の{{仮リンク|ニュータウン(ポーイス)|en|Newtown, Powys}} |
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| school_tradition = [[空想社会主義]]、イギリス社会主義、[[人道主義]]、[[博愛主義]]、[[世俗主義]] |
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| main_interests = 紡績工場経営、[[協同組合]]、[[労働組合]]運動、[[社会改良主義]]、性格形成論、幼児教育運動、宗教批判、共産村建設運動 |
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| notable_ideas = 環境決定論、直観教育、協同組合、生協、労働交換所、生産と生活の共同体 |
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| influences = [[ジャン・ジャック・ルソー]]、{{仮リンク|トーマス・パーシヴァル|en|Thomas Percival}}、[[ロバート・フルトン]]、[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ]]、[[ジェレミー・ベンサム]]、[[フランシス・プレイス]]、[[ジェームズ・ミル]]、[[デヴィッド・リカード]]、[[トマス・ロバート・マルサス]]、{{仮リンク|トマス・アトウッド(庶民院議員)|en|Thomas Attwood}} |
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| influenced = {{仮リンク|デイヴィッド・デイル|en|David Dale Owen}}、{{仮リンク|ロバート・デイル|en|Robert Dale Owen}}、{{仮リンク|リチャード・オウエン|en|Richard Owen (geologist)}}、{{仮リンク|ジョージ・ムーディー|en|George Mudie (social reformer)}}、{{仮リンク|アブラム・クーム|en|Abram Combe}}、{{仮リンク|ジョン・グレイ(社会主義者)|en|John Gray (socialist)}}、{{仮リンク|ウィリアム・トンプソン|en|William Thompson (philosopher)}}、{{仮リンク|ジョン・フランシス・ブレイ|en|John Francis Bray}}、{{仮リンク|ウィリアム・キング (医者)|en|William King (physician)|label=ウィリアム・キング}}、{{仮リンク|ジョン・ドハティー(労働運動家)|en|John Doherty (trade unionist)}}、{{仮リンク|ウィリアム・ラヴェット|en|William Lovett}}ら[[チャーティズム]]指導者たち、[[ジョージ・ヤコブ・ホリョーク]]、[[カール・マルクス]]、[[フリードリヒ・エンゲルス]] |
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'''ロバート・オウエン'''('''Robert Owen'''、[[1771年]][[5月14日]] - [[1858年]][[11月17日]])は、[[イギリス]]の[[実業家]]、社会改革家、社会主義者。人間の活動は環境によって決定される、とする[[環境決定論]]を主張し、環境改善によって優良な性格形成を促せるとして先進的な教育運動を展開した。[[協同組合]]の基礎を作り、[[労働組合]]運動の先駆けとなった[[空想社会主義]]者。初めて国際的な労働者保護を唱えたとされる<ref>[[大門実紀史]]『ルールある経済って、なに?』、新日本出版社、2010年、101頁、ISBN 4406053476</ref>。'''ロバート・オーウェン'''あるいは'''ロバート・オーエン'''の表記ゆれがみられる。 |
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== 概要 == |
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[[File:Robertowen.jpg|200px|thumb|ロバート・オウエン]] |
[[File:Robertowen.jpg|200px|thumb|ロバート・オウエン]] |
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'''ロバート・オウエン'''('''Robert Owen'''、[[1771年]][[5月14日]] - [[1858年]][[11月17日]])は、[[イギリス]]の社会改革家、[[実業家]]。人間の活動が環境によって決定される、とする[[環境決定論]]を主張した。今の[[協同組合]]の基礎を作った。初めて国際的な労働者保護を唱えたとされる<ref>[[大門実紀史]]『ルールある経済って、なに?』、新日本出版社、2010年、101頁、ISBN 4406053476</ref>。'''ロバート・オーウェン'''あるいは'''ロバート・オーエン'''の表記ゆれがみられる。 |
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[[File:Robert Owen Statue, Balloon Street, Manchester.jpg|200px|thumb|イギリス、マンチェスターの生協銀行の前に立つオウエンの立像]] |
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[[File:Robert Owen's House, New Lanark.jpg|200px|thumb|[[ニュー・ラナーク]]のオウエンの自宅]] |
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1771年、ロバート・オウエンは、北[[ウェールズ]]地方{{仮リンク|モントゴメリーシャー|en|Montgomeryshire}}の{{仮リンク|ニュータウン(ポーイス)|en|Newtown, Powys}}で、小手工業者の子として生まれ、10代で商店に奉公して各地を転々とした。この間に[[産業革命]]の進行にともなう労働者の困窮を目撃する。 |
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== 人物 == |
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1771年、北[[ウェールズ]]、{{仮リンク|モントゴメリーシャー|en|Montgomeryshire}}のニュータウンで、馬具や金物を扱っていた家庭に7人兄弟の6番目の子供として生まれた。父は駅逓長も努めていた。ロバートは、5歳の時、ある日朝食の熱いオートミールをあわてて飲み込んで、お腹の中に火傷をしてしまった・そのことがもとで、後年自叙伝の中で、細かく観察したり、深く考える習慣がついたと回想している。この事件は、彼の「性格を形成するものに大きな影響を与えた。」1799年、[[グラスゴー]]の工場[[ニュー・ラナーク]]を経営していた{{仮リンク|デイヴィッド・デイル|en|David Dale}}の娘カロラインと結婚、のちニュー・ラナークの共同経営者となった。オウエンは、低所得の労働者階層の実情を目の当たりにし、10歳未満の子どもの工場労働を止めさせ、性格改良のための幼児の学校を工場に併設。性格形成学院と名づけた。幼児教育の最初の試みで、[[幼稚園]]の生みの親といわれる[[フリードリヒ・フレーベル]]よりも先んじて、就学前の子どものための学校を実践。教室での掛け軸の利用など、教育方法にも工夫を凝らした。また、大人のための[[夜間学校]]をニュー・ラナークに開校し、これが世界初の夜間学校となった<ref>[http://diamond.jp/articles/-/2957?page=2 ロバート・オーエン 人事管理のパイオニア] DIAMOND online</ref>。 |
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1790年、[[マンチェスター]]の[[紡績]][[工場]]の支配人となって、数々の技術改良を進め、工場経営に成功、[[資本家]]となっていく。ついで、1800年以降、[[スコットランド]]の[[ニュー・ラナーク]]紡績工場の共同経営者となって最新技術の導入を図り、優れた経営手腕で2000人の労働者を雇用する「綿業王」へと立身出世を果たしていく。同時に、労働者の生活改善やその子弟の教育に尽力して、工場に[[幼稚園]]や[[共済]]店舗を設けた。著述を通じて労働立法の必要を説き、{{仮リンク|1819年の紡績工場法|en|Cotton Mills and Factories Act 1819}}の制定に貢献した。 |
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幼児労働の制限と、その分の時間における教育の充実を立法化しようとした。その結果、1819年の[[工場法]]が成立するが、教育面における法整備は果たされないなど、彼の望む内容からは遠いものとなった。 |
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1817年には、貧民階級救済のために協同主義社会の創設を提案した。1839-1842年には、私財を投じて[[アメリカ]]・[[インディアナ州]]に協同村{{仮リンク|ニューハーモニー|en|New_Harmony,_Indiana#Owenite_community_.281825.E2.80.931827.29}}を建設したが失敗に終わった。帰国後、1839-42年にクイーンウッドでも同様の試みをしたがやはり失敗する。財産を失って庶民へと身を落した後は、社会運動や言論活動を通じて[[私有財産]]制度・[[宗教]]・財産結婚、金属貨幣制度を厳しく糾弾した。 |
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1833-1834年には{{仮リンク|全国労働組合大連合|en|Grand National Consolidated Trades Union}}を創設したが、政府の弾圧と内部分裂で初の全国的統一組合は瓦解した。その後、1837-1858年にかけて成人男子選挙権と議席再配分を要求する急進的な民主化運動[[チャーティスト運動]]が発展を見せたが、オウエンは労働者解放を実現する方法を経済的な抑圧の打破に求めたため、こうした政治運動には距離を置いた。晩年は、精神更生運動に没頭して1858年に87歳で貧困のうちに没した。 |
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日本国内に、ロバート・オウエン協会がある<ref>[http://ccij.jp/robart/ ロバアト・オウエン協会] | CCIJ-公益財団法人 [[生協総合研究所]]</ref>。 |
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[[エンゲルス]]によって[[アンリ・ド・サン=シモン]]や[[シャルル・フーリエ]]と並んで「[[空想社会主義]]者」と位置づけられた。 |
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== ニューハーモニー村の実験共同体 == |
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[[File:New harmony vision.jpg|thumb|新聞New Moral Worldに掲載された実現しなかった計画図]] |
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== 経歴 == |
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スコットランド生まれの成功した元貿易商人で、[[フィラデルフィア自然科学アカデミー]]のパトロンで地質学者の[[ウィリアム・マクルール]]は、オウエンの理想に共鳴し、オウエンと共同で共産主義的なコミュニティの建設を試みた。コミュニティを作る場所としてドイツから信者とアメリカに渡ってきたジョージ・ラップ(George Rapp、ドイツ語名:Johann Georg Rapp)が築いた、宗教的コミュニティの土地をオウエンとマクルールが購入し、1826年からコミュニティの建設は始まった。コミュニティに参加した人々として、オウエンとその息子たち、マクルールの友人の科学者たち、個人主義的無政府主義者の企業家のジョサイア・ウォーレン(Josiah Warren)らが知られている。さまざまな信条をもった人々の集団は意見の対立を生み、試みは2年あまりで崩壊した。 |
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=== 幼少期(1771-1780) === |
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[[1771年]]、北[[ウェールズ]]地方{{仮リンク|モントゴメリーシャー|en|Montgomeryshire}}の{{仮リンク|ニュータウン(ポーイス)|en|Newtown, Powys}}で誕生した<ref name="自叙伝(1961)13">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] p.13</ref><ref name="世界の名著42(1980)20">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.20</ref>。父ロバート・オウエンは馬具や金物を扱っていた小手工業者であった。父は駅逓長も努めたほか教区の会計役も果たし、地域で信頼された人物であった。そして、母アンは地元富農の娘で評判の美人で品行方正な女性だったと伝わっている。ロバートはこの両親の7人兄弟の6番目の子供として生まれた。内二人は夭折したが、上からウィリアム、アン、ジョン、リチャードが残った<ref name="自叙伝(1961)13-14">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] pp.13-14</ref>。 |
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幼児期に注目すべき逸話としてこんなエピソードが残っている。ロバートは、5歳の時、ある日登校時刻に間に合わなくなりそうになり、朝食の熱いオートミールをあわてて飲み込んで、お腹の中に火傷をしてしまった。そのことがもとで、細かく観察したり、深く考える習慣がついたと、後年『自叙伝』の中で回想している。本書によると、この事件は自身の性格を形成するものに大きな影響を与えたと言及されている<ref name="自叙伝(1961)15-16">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] pp.15-16</ref>。 |
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また、ロバート・オウエンは幼少期から読書を好み、『[[ロビンソン・クルーソー]]』などの小説類、[[ジェームズ・クック]]の航海記などの冒険譚、偉人たちの伝記を読み漁った<ref name="自叙伝(1961)16-17">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] pp.16-17</ref>。8歳ごろ、[[メソジスト]]の姉妹と交流を持ったのをきっかけに宗教書を読んだ。彼は[[宗教]]に関心を抱いて、宗教間・宗派間の対立の存在を知って、いつしか宗教に疑問を募らせていき、宗教に対する否定的な立場を生涯持ち続けた。。その結果、地元では「小牧師」の異名を持ったという<ref name="自叙伝(1961)17">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] p.17</ref>。学業については、音楽、ダンス、体育が得意だった。負けず嫌いで一番になりたがり、競争心が強かった<ref name="自叙伝(1961)18-19">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] pp.18-19</ref>。地元のジェームズ・ダン青年と交友して各所を散策、自然観察の楽しみを享受することを覚えた<ref name="自叙伝(1961)20">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] p.20</ref>。従弟のリチャード・ウィリアムとはとりわけ仲が良く、一緒に遊んで過ごした。そのなかで、二人で草刈りの手伝いをしたことがあり、作業を通じて働くことの達成感とやりがいを感じたという<ref name="自叙伝(1961)22">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] p.22</ref>。 |
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母親とも愛情に満ちた日々を過ごしていた。しかし、一度だけ母アンの折檻を受けた記憶があるという。彼は母から呼びかけられたが、よく聞きもせず、「いいや」と生返事したという。それで母が立腹して叩かれたというが、ロバートによると十分に意図を理解しているが尋ねて叱ればよいのであって、一方的に怒り罰するのは理不尽だと感じたようだ。これにより、罰は罰する側にも罰せられる側にも有害であると考えるようになったという<ref name="自叙伝(1961)28-29">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] pp.28-29</ref>。 |
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=== 店員時代(1780-1789) === |
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ロバートは温かい家庭に恵まれ、両親の寵愛を受けて育てられた。だが、この時代の子供の自立は早く、10歳で働き始めるのが普通であった。ニュータウンの隣家の店の手伝いを始めて幼い頃から働き始める。したがって、ロバートの教育レベルも初歩的な教育を受けて読書算ができる程度であった。以後の知的活動は全て独学の産物である。当然、ロバートもやがては[[ロンドン]]のような都会に出て働きたいと考えるようになった。10歳になったら家を出てロンドンに行き、当地でしかるべき親方のもとで奉公することを両親に伝え、その承諾を得ることになった<ref name="自叙伝(1961)29">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] p.29</ref>。 |
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ロバートは、父親の伝で[[リンカンシャー]]の{{仮リンク|スタムフォード|en|Stamford, Lincolnshire}}の高級[[リンネル]]の生地商ジェイムズ・マクガフォッグの商店で一年目は無給、二年目は8ポンド、三年目は10ポンドの契約で寝食付きの住み込み奉公を始めた。以降、経済的に親から独立して自力で生計を立てていく<ref name="自叙伝(1961)31">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] p.31</ref>。その後、夢に抱いていたロンドン行きを決意して、当時流行していた10セントストアのフリント・パーマー商会で働いた<ref name="世界の名著42(1980)21">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.21</ref>。 |
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また、[[マンチェスター]]の呉服卸商店サタフィールド商店で働き始めて繊維業界での知識を蓄えていった。モスリン、キャンブリック、アイリシュ・リネン、レースなどの細糸織物の製作、品質評価(目利き)、取引、在庫管理、労務管理、経理、仕入れなど業務ノウハウを身につけていく。サタフィールド商店での経験が後の成功の礎となっていく<ref name="世界の名著42(1980)21">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.21</ref>。 |
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=== 実業家時代(1789-1799) === |
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==== 青年経営者への道 ==== |
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[[Image:Mule-jenny.jpg|thumb|250px|発明家[[サミュエル・クロンプトン]]が[[1779年]]に発明したミュール紡績機。]] |
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1789年、ロバートがサタフィールド商店で働いていた頃、婦人帽の針金部材の納品で商店に来る一人の職人ジョーン・ジョーンズという青年に出会った。そして、[[紡績機]]を購入して合資会社を設立して商売をしないか持ちかけられた。ロバートは兄ウィリアムから100ポンドを借りて[[ミュール紡績機]]を購入して改良し、工場を借りて40人の職人を雇用して、[[紡績]]に着手した。だが、ジョーンは発明家を志していたものの経営については素人で、実際の仕入れ、在庫管理、労務など経営実務はすべてロバートがやっていた<ref name="世界の名著42(1980)22">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.22</ref>。その後、ジョーンは他社からの提携話で会社を売却するが、以後ロバートが三台のミュール紡績機と三人の工員を引き受けて独立、アンコーツ・レインの工場で単身経営を担うことになった。その結果、平均週6ポンドの利益を出すようになった<ref name="世界の名著42(1980)23">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.23</ref>。 |
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[[File:Baines 1835-Mule spinning.png|thumb|250px|1835年の綿紡績工場の様子]] |
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こうした実業における成果は業界の有力者の目にも留まった。業界人{{仮リンク|ピーター・ドリンクウォーター|en|Peter Drinkwater}}の工場ではジョージ・リーという有能な支配人が急に退社して支配人不在の状態になっていた。そこで、工場支配人を募集する広告を出していたのであるが、この広告をロバートの工員が見つけて彼に応募するように勧めたのである。こうして、ロバートは[[ランカシャー]]随一の[[蒸気機関]]を動力とする最新設備を備えた紡績工場{{仮リンク|ピカディリー工場|en|Piccadilly Mill}}の支配人として抜擢された。このときの起用は、オウエン自身が自力でも稼げると豪語したうえで強気と言える300ポンドもの破格の俸給を要求しての異例な取立てだった。1792年、早速これまで経営していた会社をドリンクウォーターに売却して成年男女小児合わせて500人の工員を雇用する巨大な近代化工場の支配人に着任した<ref name="世界の名著42(1980)23-24">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] pp.23-24</ref>。 |
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ロバートは朝一番に出勤して工場の鍵を開け、日々寡黙に働いて仕入れから製造、商品開発、在庫管理、労務管理、経理、取引をこなし、夜最期に帰宅するという生活を続けた。製糸の技術改良に取り組み、繊度を高めて細糸を製作する技術を開発して最高120番手の製糸を達成し、翌年には300番手という極細糸を製造することに成功した<ref name="世界の名著42(1980)24-25">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] pp.24-25</ref>。また、仕入れでは品質に優れたアメリカ[[綿]]の輸入をいち早く決定して、原産地を変えて製造を試み、品質向上を実現した。やがて、アメリカ綿は国内需要の90パーセントを占めるようになる<ref name="世界の名著42(1980)25">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.25</ref>。 |
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かくして、オウエンの製品は前任者リーの在庫品よりも歓迎され、この若手支配人は早々に失敗するだろうという周囲の予測を裏切り、大成功を挙げた。これに喜んだドリンクウォーターはロバートに破格の高給を与えて、二人の息子と合資会社を発足させる協定を提示した。ピカディリー糸は市場の好評を受けて生産能力の全てを挙げても追いつかないほどの人気商品となり、商品の包装にはオウエンの名が印刷されることになった<ref name="世界の名著42(1980)25">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.25</ref>。 |
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こうした技術面以上に成果を上げたのが、オウエンの進んだ労務管理体制であった。工場の就業規則と取決めを定めて規律・訓練・節制を中心に厳格な労務管理を構築するとともに、労働条件や労働環境を思い切って改善し、労働者に対して高賃金と高待遇、高い独立性をもった労働条件を提示して雇用した工員の心情を掌握した。整然と規律正しい労働をもって生産力を向上させ、製品の品質向上と商品開発に精力を傾け、増産と利益向上を実現した<ref name="世界の名著42(1980)25-26">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] pp.25-26</ref>。オウエンにとって重要だったのは、労働者に対する雇用条件の改善がもたらす効果が人と企業に響いていく事実を見出して、そこに「繁栄の法則性」を発見したことだった。この発見と手ごたえはさらに理論的に発展されていく。 |
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==== パーシヴァルとの出会い ==== |
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('''不健康と労働被災の障害児童の記述追加''') |
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1793年、ロバート・オウエンは事業で成功を収めて名士の仲間入りを果たした。 |
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[[非国教徒]]系のマンチェスター大学の学者と交友し、23歳にして紡績業界の専門家として学術団体「{{仮リンク|マンチェスター文学哲学協会|en|Manchester Literary and Philosophical Society}}」に参加を許された。同協会は、大学で助手を務めていた化学者[[ジョン・ドルトン]]、詩人[[サミュエル・テイラー・コールリッジ|コールリッジ]]、[[汽船]]発明者の[[ロバート・フルトン]]らが所属していた。オウエンはフルトンに資金援助をするとともに、彼らと[[科学]]と[[発明]]、[[宗教]]、[[啓蒙]]や[[改革]]に関する討議を夜毎重ねた。そして、オウエンは協会で綿の問題に関する三篇の論文を発表している<ref name="世界の名著42(1980)26">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.26</ref>。 |
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[[File:Scene from Factory Boy.jpg|thumb|200px|19世紀初期の工場内での児童の様子。]] |
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また、協会の会長{{仮リンク|トーマス・パーシヴァル|en|Thomas Percival}}博士は当時もっとも優れた[[公衆衛生学]]者であった<ref name="世界の名著42(1980)26">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.26</ref><ref name="ハチスン、ハリソン(1976)6">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] p.6</ref>。 |
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16世紀に教区徒弟を雇用する法が制定されており、それに基づき7歳になると教区の救済を受けている子供たちが教区吏によって親方に連れていかれ工房で雇用された。当初、子供の浮浪化を防いで定職に就くように促す目的があったものの、やがて過酷な児童労働を科す産業革命の暗黒面を表象する制度となっていった。19世紀にはいる頃には、子供は5-6歳で工場に連れてこられ、安価な労働力として利用され、不健康な状態の中で通常14-16時間にわたって長時間働かされていた。 |
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1794年、パーシヴァル博士は、[[マンチェスター]]を襲った熱病に関する報告書において、幼い児童らが不衛生な工場内で長時間の過重労働を強いられてきた結果熱病で倒れたのだと結論を示し、時の工場労働の実態を告発した。同報告書において、密集状態の解消、衛生環境の改善、長時間労働の是正を要求した<ref name="ハチスン、ハリソン(1976)7">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] p.7</ref>。1795年、パーシヴァル博士はマンチェスター保健局を設立し、労働調査委員会の{{仮リンク|サー・ロバート・ピール|en|Sir Robert Peel, 1st Baronet}}に児童労働に対処するように求めた。児童の教育レベルを向上させるために児童の深夜業を禁じ、工場内の環境を改善するように工場主に注意喚起をするよう働きかけた<ref name="ハチスン、ハリソン(1976)8-9">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] pp.8-9</ref>。 |
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パーシヴァル博士の提言により、工場主が徒弟に対して、建物内の[[衛生]]を整え、衣類と食事を提供し、十分な休養を取れるように配慮し、[[医療]]扶助をおこない、読書算を教え込む責任があることが確認された<ref name="ハチスン、ハリソン(1976)10">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] p.10</ref>。そして、この内容に即して{{仮リンク|1802年の徒弟健康公徳法|en|Health and Morals of Apprentices Act 1802}}制定された。同法では徒弟の労働時間が12時間に制限され、深夜業は廃止された。また、雇用主に衣類と食事の提供、毎日三時間を利用して読書算の[[教育]]を与える義務が負わされた。また、年一回は大規模な清掃を実施することが定められ、常に換気をおこなうことが明記された。工場監督官が法令の順守状況を確認することとされ、違反した場合は罰金を科されることが規定された<ref name="ハチスン、ハリソン(1976)16">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] p.16</ref>。だが、工場主はしばしば法令を無視した。また、教師は老齢で無能で学校の設備や備品は十分に整備されず、三歳以上の児童が雑居していてほとんど教育効果を発揮しなかった。 |
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こうした欠陥があったものの、博士は先進的な法律制定に寄与した他、ロバート・オウエンも保健局の一員となりその思想に影響を与えた。ロバート・オウエンは小学校相当の教育しか受けていないが、それ故に人一倍知識欲が旺盛であった。この時期の知的交流の結果、合理的思考に研磨が加わり、工場立法の必要性と環境改善による性格形成理論の原型ができ始めていった<ref name="世界の名著42(1980)26">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.26</ref>。観察や経験、思考に基づいて人間性というものが科学と社会の基礎にあることを発見した。オウエンの哲学は[[アイザック・ニュートン]]の自然観に影響を受けた他、[[プラトン]]、[[ディドロ]]、[[エルヴェシウス]]、[[ウィリアム・ゴドウィン]]、[[ジョン・ロック]]、[[ジェームズ・ミル]]、[[ジェレミー・ベンサム]]といった思想家の影響を受けた。しかし、オウエンは啓蒙思想の直接的影響を受けなかった。 |
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==== 独立、恋愛、結婚 ==== |
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[[File:David Dale Williams.jpg|thumb|200px|right|{{仮リンク|デイヴィッド・デイル|en|David Dale}}]] |
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オウエンが成功を収めた時、再び大きな変化が生じた。サミュエル・オルドノオが[[ナポレオン戦争]]による恐慌から巨額の損失を抱えて、ドリンクウォーターの娘との縁談話を持ちかけて、合併計画を策したのである。そして、オルドノオはドリンクウォーターにオウエンとの合資協定を要求、ドリンクウォーターもこれを受諾したのである。オウエンは経営権剥奪を通達されたため激怒して支配人辞任を声明し、独立することを決意した<ref name="世界の名著42(1980)27">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.27</ref>。 |
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1796年、オウエンはロンドンのボロデール・アトキンス商会とマンチェスターのバーデン商会と合資協定を締結して、コールトン紡績会社を設立した。[[綿花]]の買い付け、紡績操作、精巧な商品開発、販売営業などで、[[ランカシャー]]と[[スコットランド]]を駆け回り、まもなくドリンクウォーター商会を圧倒した<ref name="世界の名著42(1980)27">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.27</ref>。 |
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この商用の旅の途上、[[グラスゴウ]]の街頭でカロライン・デイル嬢と引き合わされ、やがて恋愛関係になった。1798年、カロラインの父であり、有力な商人、木綿王、銀行家、紡績工場を経営していた{{仮リンク|デイヴィッド・デイル|en|David Dale}}と協定を結んで新会社を発足させ、[[ニュー・ラナーク]]工場の共同経営者となった。翌年、ロバート・オウエンはデイルの娘カロラインと結婚した<ref name="世界の名著42(1980)27">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.27</ref>。ロバートとカロラインの間には8人の子が生まれた。最初の子は早くに亡くなったものの、{{仮リンク|ロバート・デイル|en|Robert Dale Owen}}(1801–77)、ウィリアム(1802–42)、アン・カロライン(1805–31)、ジェーン・デイル(1805–61)、{{仮リンク|デイヴィッド・デイル|en|David Dale Owen}}(1807-1860)、{{仮リンク|リチャード・オウエン|en|Richard Owen (geologist)}}(1809–90)、メアリ(1810–32)が成人した{{#tag:ref|各人の紹介を注釈|group=注釈}}。 |
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=== ニュー・ラナーク時代(1798-1813) === |
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[[File:Mary Ann Knight - Robert Owen, 1771 - 1858. Pioneer socialist - Google Art Project.jpg|thumb|200px|1800年の若きロバート・オウエン。]] |
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[[File:New Lanark buildings 2009.jpg|240px|thumb|[[ニュー・ラナーク]]工場の外観。現在は[[世界遺産]]となり、保全協定のもと管理されている。]] |
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[[File:Robert Owen's House, New Lanark.jpg|240px|thumb|[[ニュー・ラナーク]]のオウエンの自宅]] |
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ニュー・ラナーク工場は[[スコットランド]]・[[サウス・ラナークシャー]]の都市[[ラナーク]]から約2.2[[キロメートル|km]]を流れる[[クライド川]]沿いに位置する。 |
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ニュー・ラナークの起源は、[[1786年]]にデヴィッド・デイルが綿紡績工場を建設して1700名の工員を雇用し、工場労働者用の住宅を建設したことに端を発するが、デイルがその場所に工場を建てたのは川の水力を活用するためだった{{#tag:ref|アークライトに関して、注釈を追記|group=注釈}}。[[1798年]]、ロバート・オウエンは年利5%の償還条件に基づいて総額6万ポンドで工場を買収した。こうしてデイルの娘婿であった[[博愛主義]]者で[[社会改良主義]]者の[[ロバート・オウエン]]も経営陣に名を連ね、デイルとの共同所有のもと[[工場]][[労働]]の悪弊を打破すべく苦闘を重ねていく。ロバート・オウエンは決意を次のように表明した。 |
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{{quotation|「(当時は)、自分が克服せねばならぬ悪習や悪行が、人々の間に行われていることが直ちに見出した。…全工場を通じて。人々はのんだくれで不道徳であった。主な支配人たちは、「いわゆる命の洗濯」なるもの―何週間もぶっ通しに毎日毎日酒に浸って、その期間は全く彼担当の仕事を放っておく、それ―をしきりにやっていたものだ。盗みなどごく普通のことで、おびただしく途方もない程にまで行われていた。デール氏の財産はあらゆる方面で掠奪され、殆ど公有財産と見なされていた。……。 |
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私はこれらの不幸な地位におかれてある人々をば、彼らが実際にあるがままに、無知な悪い境遇の被造物だと考えなければならぬ、すなわちそれらの人々は、彼らを囲むようにされた悪条件のために、今日あるが如きものにされたのであって、それに対して責任を負うべきものがあるとすれば社会のみである。かつ個人個人を苦しめる代わりに、―ある者を獄に投じ、ある者を流罪にし、ある者を絞首刑にし、人々を常に不合理な興奮の状態においておく代わりに―、私はこれらの悪状態を、良き状態に変じなければならぬ。 |
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この後の方法は、…人間性およびそれに及ぼす境遇の力の科学に関する知識を必要とする。……。その秘密は、一つの源泉からのみ開かれうるのだ。「われわれ人類の各人の性格は、神すなわち自然により、および社会によって形成される。従ってまたいかなる人間も、自分の諸性質あるいは性格を、形成しえたとか、うるとかということは、不可能なのだ。」という知識からのみだ。」<ref name="自叙伝(1961)111-113">[[#自叙伝(1961)|自叙伝(1961)]] pp.111-113</ref>}} |
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ここで提起された「人間性に関する知識」はやがて人間形成理論として体系化されていく。 |
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ここでもオウエンは「統治」と称する革新的な経営管理を試み、矢継ぎ早に労務改革、管理体制の刷新を図った。「統治」の原理は、ドリンクウォーターのピカディリー工場で導入した経営手法に基づいたものであった。厳格な原価計算、ストック・コントロールを採用して、作業の能率化と[[労働時間]]を10時間半に縮減した。沈黙の操業報告「作業モニター」に基づく勤務評定を採用して[[賃金]]体系を定めた{{#tag:ref|四色付きの長さ50センチほどの長方形型の木片を掲示して作業報告をおこなう生産管理方式。木片は黒・青・黄・白の四色が側面部に彩色されており、掲示される正面の色が前日の各工員たちの作業工程に関する評価を示していた。黒は悪い、青は普通、黄は良、白が優を意味しており、これを操業記録簿に記載して工場長が記録を管理して人事評定を決定していた。各工員には操業評価に不満がある場合、工場長を飛び越えてオウエンに訴え出る権利があった。オウエンによると、この制度を導入した結果、初めは黒が大多数だったものの次第に黒が減少し始め、やがて白が出てくるようになったと回想している<ref name="五島茂(1973)100-101">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.100-101</ref>。|group=注釈}}。[[福祉]]施設を整備して[[生協]]の購買ショップを開設して生活費の切り下げを図り、労働者に対する充実した[[福利厚生]]を実現した<ref name="世界の名著42(1980)28">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.28</ref>。 |
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一方、オウエンは最大の[[利潤]]を得られるように努力し、企業家としての本分である利潤追求についても結果を出した。前期14年間で年平均2万5千ポンド、後期12年間で年平均1万9千ポンドの利潤を記録、年率5%の利払いの後も5万ポンドの資本増強を達成した<ref name="世界の名著42(1980)28">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.28</ref>。しかし、オウエンは企業的利益の追求だけに満足はしなかった。彼の関心は客観的な労働条件の改善と主体的な人格の陶冶に向けられていた。新しい人間性の形成とそれによる社会変革の思想が現れてきた。やがて、ニュー・ラナークは[[ソーシャルビジネス]]により事業的にも成功を収め、いわゆる[[ユートピア社会主義]]を体現する存在となった<ref name="世界の名著42(1980)29,33">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.29, p.33</ref>。 |
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=== 公的人生の始まり(1810-1825) === |
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==== 児童労働問題の再浮上 ==== |
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{{節スタブ}} |
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[[ファイル:FrameBreaking-1812.jpg|thumb|250px|[[織機]]に対する破壊。1812年]] |
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*('''ラッダイト・児童労働・団結禁止法以降について詳細な記述必要''') |
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1802年、ロバート・オウエンは劣悪な工場経営を刷新する上で中心となる理論を世に広めようと執筆に取り組んでいく。翌年、グラスゴー製造業主委員会に「イギリス綿工業報告書」を提出、産業問題、労働問題に関する発言を増加させた。 |
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1806年には義父のデイヴィッド・デイルが死去してその娘を引き取っている。翌年1807年、[[アメリカ合衆国]]が[[フランス]]と結んでイギリスと国交を断絶して綿花の輸出を停止させた。これにより繊維産業で[[不況]]が発生し、ニューラナーク工場も操業停止を余儀なくされたが、オウエンは職工の生活防衛のために四カ月の休業期間も[[賃金]]を支給した<ref name="世界の名著42(1980)563">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.563</ref>。1808年にはランカシャーで大規模な労働争議が発生した他、1810年にも[[恐慌]]が襲いスコットランドの織布工の大争議が発生した<ref name="世界の名著42(1980)564">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.564</ref>。 |
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1810年代、各地で[[ラッダイト運動]]が激化していた<ref name="世界の名著42(1980)564">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.564</ref>。これに対して、オウエンは機械は時代の進歩から生み出され、さらに文明の発展を促していくものと考えていた。オウエンは機械の打ち壊しに反対して、代替案として機械化を前進させて労働時間短縮など労働条件の改善に取り組んだ。{{仮リンク|1799年団結禁止法|en|Combination Act 1799}}下で20年にわたり停滞してきた[[労働運動]]を前進させ、労働者の待遇改善のために工場立法の必要を訴え始めた。1812年には、グラスゴーで十時間労働法案第一回公開集会が開かれて、議長に指名された<ref name="世界の名著42(1980)564">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.564</ref>。しかし、雇用者側で意見の折り合いがつかず、結局、議員と折衝して法制化することを検討する。 |
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1812年、オウエンは「ピール委員会」でニュー・ラナーク工場での経営の実例を紹介し、綿工場での過酷な労働の実態を証言した。そして、10歳未満の[[児童労働]]の禁止を要求するとともに、12歳までの少年については半日工とすること、また一般労働者の[[労働時間]]を12時間以内に制限して順次時短を図るように訴えた。しかし、{{仮リンク|サー・ロバート・ピール|en|Sir Robert Peel, 1st Baronet}}が主導力や戦略が不足していたため法制化に対する委員からの十分な支持が集まらず、委員会での議論は長期化して成果を出すには至らなかった。 |
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しかし、オウエンの見識はニュー・ラナークで培った経験を社会に役立てる段階に到達していた。 |
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{{See also|ラッダイト運動}} |
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*'''『社会にかんする新見解』''' |
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(簡単な内容紹介を記述する) |
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==== 性格形成学院と児童教育 ==== |
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『社会にかんする新見解』の中心をなすものは教育による人間性の改良であったが、これを実践する方法は[[学校教育]]であった。1802年、オウエンは1000ポンドの資金を寄付して[[アンドリュー・ベル]]と[[ジョセフ・ランカスター]]による大規模教授法({{仮リンク|モニトリアル法|label=ベル・ランカスター法|en|Monitorial System}})の開発に資金援助をしていたが、これに飽き足らず教育事業に積極的に取り組んだ<ref name="世界の名著42(1980)539-540">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] pp.539-540</ref>。工場内教育を実践して、その経験を活用する学校を設立、独自に教育原理を確立しようと試みた。 |
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オウエンの時代には、およそ2500人がニュー・ラナークに住んでいたが、その多くはグラスゴーや[[エディンバラ]]の[[救貧院]]出身の貧しい労働者であった。労働者は過酷な境遇にはなかったが、オウエンは既存の労働環境に満足せず、環境改善を推進していた。彼は子供たちに格段の注意を払き、先進的な教育のプランを実践した。オウエンは学院を設立するにあたっての動機をこのように語った。 |
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{{quotation|「貧しい労働者階級の住宅は、おおむね幼い子供たちの訓練には全く適しない。幼い子供たちは、これらの住居の限られた広さや設備のもとでは、しょっちゅうその親たち、すなわち日々の仕事でいっぱいな親たちにとっては、邪魔になってしょうがないものだ。だから子供たちは、訓練の行き届いた子供たちに必要なやりかたとまるで正反対な物言いもし扱われもする。それで百のうち九十九まで、親たちは子を、殊に自分の子を扱う正しい方法をまるで知らない。こうした考慮が、私に、まず幼児がその親たちの手を離れうるそもそもの始まりから、性格形成の真の原理に基づいた幼児教育の必要にかんする最初の考えを私の心の中に創り出したのである。」<ref name="五島茂(1973)153-154">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.153-154</ref>}} |
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[[File:NewlanarkNL00.jpg|thumb|240px|right|学院校舎の外観]] |
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[[Image:New_Lanark_school_class_restored_02.jpg|thumb|240px|right|復元された教室]] |
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当時のニュー・ラナークには500人ほどの子供が暮らしており、多くの子供たちが工場で働いていた。オウエンは育児や教育における[[労働者階級]]の実情を目の当たりにして、貧しい労働者の家庭が児童教育に相応しい環境になっていないことを痛感した。子供たちを危険な工場から隔離して児童の取り扱いのできる者に監督させ、一方、両親は子供を保育所に預けて日中労働に専念して、安心して子育てしながら働いていくというコンセプトを実現させようと考えた<ref name="世界の名著42(1980)34-35">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] pp.34-35</ref>。すぐに10歳未満の子どもの工場労働を止めさせ、子供たちの性格改良のための[[幼児教育|幼児学校]]を工場に併設することを決断する。 |
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しかし、1809年、オウエンは[[学校]]の建設を開始したものの出資者の反対にあって一時中断した。合資協定をめぐるトラブルによって一時破産しかけたものの、支援者からの資金援助で危機を辛くも乗り越えていた。1813-14年にニュー・ラナーク工場は競売にかけられ、オウエンが11万4100ポンドで工場を購入、[[ジェレミー・ベンサム]]など進歩的知識人を含む出資者と新しい合資協定を締結した{{#tag:ref|オウエンは経営の刷新のためにロンドンの財界人から資金集めを行った。合資協定は一株一万ポンドで内訳は次の通り。ウォーカー三株、フォスター一株、アレン一株、ベンサム一株、ギップス一株、オウエン五株。合計十二株。ウォーカー、フォスター、アレンは富裕な[[クエーカー]]教徒で慈善家として知られた人物であった。ギップスは[[国教会]]の[[トーリー]]党員でロンドン市長にもなった市参事会員で彼も慈善家として知られていた。[[ジェレミー・ベンサム|ベンサム]]は[[功利主義]]の[[哲学]]者である。彼ら有志はオウエンの教育プランに賛同して「学院」の発足に貢献していく<ref name="宮瀬睦夫(1962)68-69">[[#宮瀬睦夫(1962)|宮瀬睦夫(1962)]] pp.68-69</ref>。|group=注釈}}。学院の建設事業を再開させ、ようやく1816年1月1日に開校に漕ぎつけた。オウエンは学校を「性格形成新学院」と名付けた<ref name="世界の名著42(1980)34">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.34</ref>。この学院は三階建て煉瓦造りの二つの校舎からなり、昼間は幼稚園と小学校、夜間は青少年と成人のための夜間学校であった。これが世界初の夜間学校となった。学校建設費は3000ポンドで費用は会社の利潤から充て、運営費用{{#tag:ref|運営費の内訳。|group=注釈}}は授業料では賄い切れなかったため、工場の生協ストアの売り上げから捻出した<ref name="世界の名著42(1980)36">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.36</ref>。子供たちに健康を与え、優美な肉体を与え、自然的な服従と規律を与え、心に平和と幸福を与え、心身ともに健全な素地を育成することが建学の理念であった<ref name="宮瀬睦夫(1962)93">[[#宮瀬睦夫(1962)|宮瀬睦夫(1962)]] p.93</ref>。 |
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オウエンの教育事業は幼児教育の最初の試みであった。1840年に[[幼稚園]]を開園し、幼児教育の生みの親といわれる[[フリードリヒ・フレーベル]]よりも先んじて、就学前の子どものための学校を実践した<ref name="五島茂(1973)158-159">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.158-59</ref>。 |
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オウエンは満1歳から歩けるようになれば子供をすぐに学院に収容した。三歳までを第一組、3-6歳までを第二組として、それぞれの組で30-50人が収容されていた。選ばれた婦人一人が監督していた{{#tag:ref|オウエンは伝統的教育の形態を改革するためにプロの教育家を採用しなかった。新しい教育プログラムを担当する教師の資質として、1)子供が大好きなこと、2)子供の面倒が行き届くこと、3)徹底的に従順で命令には喜んで従うこと、4)理由の如何に関わらず子供を打たないこと、5)どんな言葉や仕方であるかを問わず、子供を脅かしたり罵らないこと、6)いつも愉快に親切に優しい言葉や態度で子供に接すること、7)どんなことがあっても子供を書物でいじめないこと、8)子供が好奇心を抱いて自発的に質問するようになってから、物の使い方、性質を教えること―が求められた。子供は人を傷つけず、互いの幸福を追求するということがモットーとして教え込まれ、子供の問題行動には忍耐強く諭すといった対処法が取られた。最初の教師として任用されたのは、木綿の手織り作業を担当していたジェームズ・ブキャナン、17歳の女工モリー・ヤングの二人であった。ブキャナンは読書算さえ知らなかったが、純朴で子供好きで面倒見の良い人間で、モリー・ヤングは子供の保育についての天賦の才があったと伝わっている<ref name="宮瀬睦夫(1962)91-92">[[#宮瀬睦夫(1962)|宮瀬睦夫(1962)]] pp.91-92</ref>。|group=注釈}}。第一組は校舎一階の一室と運動場が中心、第二組は教室と運動場に加えて田園散策も頻繁におこなわれた。1816年の開校時に園児の内訳は男児が49人、女児が31人であった。幼稚園と小学校で制服が無償で提供され{{#tag:ref|ロバート・デイルによると、子供たちは白地[[木綿]]の最良質の着物を着て、[[ローマ]]式の[[チュニック]]の形をしており、男児は膝まで、女児は踝までの長さがあって、いつも清潔でいられるように衣服を週三回着替えていたという。[[スコットランド]]は冷涼な気候なので、男児用にハイランド風の[[キルト (衣装)|キルト]]が、女児はジンジャムを着ていたのではないかとも推測されている。予算は学院運営費の2割近くが充てられていた<ref name="五島茂(1973)166">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] p.166</ref><ref name="永井義雄(1993)表紙">[[#永井義雄(1993)|永井義雄(1993)]] 表紙</ref><ref name="世界の名著42(1980)149">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.149</ref>。|group=注釈}}、幼稚園の授業料は無料で小学校の授業料は3ペンスであった<ref name="世界の名著42(1980)35">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.35</ref><ref name="五島茂(1973)162">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] p.162</ref>。 |
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[[1818年]]、オウエンは[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]を訪問して{{#tag:ref|宮瀬から大陸旅行を追記。p.39-|group=注釈}}、幼児教育における最先端の手法「[[実物教授]]」に基づく教育原理を採用した<ref name="世界の名著42(1980)36">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.36</ref>。児童教育の方針を次のように語っている。 |
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*ヨーロッパ旅行 |
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{{quotation|「幼児小児は、眼に見えるもの―すなわち実物(模型や絵)によって、また打ち解けた話によって教えられる。」 |
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「小児を書物でいじめるな。身の回りにころがっている物の使い方や本性・性質を教えるものだ、小児の好奇心が刺激され、それらについて質問するようになったときに打ち解けた言葉で。……これらの幼児小児の真の知識が書物なしで立派に進歩してゆくのを見るのはこの上もなく元気づけられる悦ばしいことだった。且つ教育、すなわち性格形成の最良の方法が広まる暁には、子供たちが10歳にもならぬうちから、いったい書物を使うべきかどうか私は疑う。ともあれ彼らは、書物なしで、10歳にして優秀な性格を自分らのために作ってもらうだろう。一番の物知りがそれらの問題につき成年で今知っているよりも、また世界のどの年齢の大衆よりもはるかによく、自分および社会を原理的実践的に知っている合理的な人間として。」<ref name="五島茂(1973)155-156">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.155-156</ref><ref name="世界の名著42(1980)115">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.115</ref>}} |
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オウエンの教育プランは、1)環境改善教育、2)子供自身から引き出す教育、すなわち子供中心教育、3)愛と幸福との教育、4)賞罰の廃止、5)書物を使用しない直観教育、6)生産労働と直結した教育、7)自然と結びついた教育からなっていた{{#tag:ref|注釈を追記。|group=注釈}}<ref name="五島茂(1973)153-154">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.153-154</ref><ref name="マーガレット・コール(1974)107">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] p.107</ref>。自然に基づく教育が実践され、[[サマータイム]]が導入された。これは子供たちが日光をよく多く浴びることができるようにして成長と健康を促す目的があった。2歳以上はダンス、4歳以上はダンス、第二の小学校は満5歳からで12歳までが対象だった。上のクラスでは40人ほどが学業に励み、下のクラスではより生徒数が多く男女共学となっていた<ref name="世界の名著42(1980)35">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.35</ref><ref name="五島茂(1973)164-165">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.164-165</ref>。 |
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講義は大教室で200人をまとめて一斉教授をおこなった。教師はクラス担任が各1名ずつ配置され、他にダンスと音楽教師、教練の教師、裁縫教師が1名ずつ配属された。学科は読書算、裁縫、博物、地理、歴史、音楽、ダンス、軍事教練からなっていた。とりわけ、革新的だったのは非宗教的な[[世俗教育]]に徹したことに加えて、読書算に留まらず博物、歴史や地理などの学科に至るまで、本の使用は極力制限され、直観教育の器材が用いられたことである<ref name="宮瀬睦夫(1962)92-93">[[#宮瀬睦夫(1962)|宮瀬睦夫(1962)]] pp.92-93</ref><ref name="五島茂(1973)165-166">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.165-166</ref><ref name="マーガレット・コール(1974)107">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] p.107</ref>。オウエンは、木のブロック(フレーベルはこうした教材を[[恩物]]と名付けた)や教室での掛け軸といった視覚教材を活用するなど教育方法にも工夫を凝らしたいた<ref name="世界の名著42(1980)35">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.35</ref><ref name="五島茂(1973)171-172">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.171-172</ref>。これは見学に訪れた人々に感銘を与えたという。 |
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しかし、親の都合による小学校の中退者が多かったため、オウエンは青少年教育にも取り組んだ。対象は中退者を含めて10歳から20歳までを対象として無償で授業がおこなわれた。講義とダンスによる教育が行われたが、出席率が低かったため、1816年には労働時間を削減して出席率向上の施策に取り組み、講義に合わせて人材育成を目的に紡績機械の操作実習など実践的な技術教育が施された<ref name="世界の名著42(1980)36">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.36</ref>。 |
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{{See also|ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|フリードリヒ・フレーベル}} |
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==== 労働立法の提言 ==== |
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1815年、[[ワーテルローの戦い]]で[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]が[[ナポレオン]]を撃破した。これにより、ナポレオンは退位してセント・ヘレナ島に流刑となり、[[ナポレオン戦争]]が終結した<ref name="マーガレット・コール(1974)127">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] p.127</ref>。 |
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これはイギリスにとっても歴史の転換点を意味した。需要の縮小の結果、イギリスで戦後恐慌が発生して多数の労働者が失業し、労働条件の改善の要求も高まっていた。また、外国産の穀物輸入の増加によって国内の地主階級の収入が減少することを危惧した政府によって[[穀物法]]が成立した。同法は貴族階級の権益を擁護する一方で、食料価格を不当に吊り上げて労働者階級を虐げ国民生活を圧迫する悪法となった。ロバート・オウエンも穀物法成立が国内に新しい政治危機を生み出すことを予見していた。 |
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{{Labor}} |
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一方、オウエンは児童労働と労働時間をめぐる状況に危機感を募らせていた。十九世紀社会は現代社会と同様に[[児童労働]]と[[子どもの貧困]]が最も深刻化した時代であった。あらゆる先進工業国が児童を酷使し、[[搾取]]し、虐げることを経済発展の糧としてあらゆる形態の[[人権侵害]]を恣にした<ref name="ハチスン、ハリソン(1976)6">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] p.6</ref><ref name="マーガレット・コール(1974)127">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] p.127</ref>。 |
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[[File:Coaltub.png|right|200px|thumb|坑道で石炭をひく少女。19世紀中頃、このような児童労働の実態が議会でも採り上げられ問題となった]] |
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オウエンは人道的な観点から児童労働に反対する立場をとっていた。さらに、機械化の進展による生産性の向上によって、労働時間を短縮させることが可能であると見ていた<ref name="ハチスン、ハリソン(1976)21">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] p.21</ref>。1815年に綿業家の集会が開催された際にも彼は演説をおこない、幼少年の工場労働条件についての具体案を示した。1815年、オウエンは繊維産業で働く児童の雇用条件を改善させ児童の利用を規制するようサー・ロバート・ピールに提言、法案提出に向けて草案を共に作成しようと嘆願した<ref name="ハチスン、ハリソン(1976)23">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] p.23</ref>。 |
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1816年、{{仮リンク|ロンドン・ターヴァン|en|London Tavern}}での公開集会で「機械による手工業労働者の排除について」という講演を行い、翌年3月『貧困の原因と対策に関する報告書』({{lang-en|''Report to the Committee of the Association for the Relief of the Manufacturing and Labouring Poor''}}, 1817)を作成して[[カンタベリー大主教]]の{{仮リンク|チャールズ・マナーズ・サトン|en|Charles Manners-Sutton}}が議長を務めた工業労働貧民救済対策員会に提出した。その見解の革新性からオウエンの発議は救貧法委員会に回されたものの却下されてしまう<ref name="世界の名著42(1980)564">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.564</ref>。これを機にオウエンは議会や宗教をはじめ支配構造に対して不信感を強めていく。オウエンは委員会による法案審議の進捗が芳しくないことに苛立ちを強め、息子のデイル・オウエンを連れて各地の工場を巡り調査活動を進めた。後にデイル・オウエンはこう語っている。 |
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{{quotation|「諸事実は、私にはほとんど信じられないほど怖ろしく思われた。例外ではなく、一般に、われわれは見出した、10歳の子供が一日14時間―昼夜にわずかに30分の休みを含んで、それも工場内で食べるのだ―レギュラリーに労働していることを。細糸紡績工業(1ポンド当たり120ハンクから300ハンクまで生産する)では、普通75度以上の暖度のなかで労働させられた。で、どの綿糸紡績工場でも、多少とも肺に悪い空気を吸う。塵埃やこまかい綿繊維がそこに充満しているからだ。 |
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ある場合など強欲な紡績工場主たちを、もっともっと過激な全く文明人には実に恥ずべき非人道行為へ追いつめているのも見た。彼れの工場は一人が一日15時間も、稀には16時間も働き続ける。そして男女児とも8歳から雇っても平気だ。それ以下の子もかなり多く見たものだ。こんな制度が笞刑なしでは維持しえぬのはいうまでもあるまい。多数の親方が固い革紐をおおっぴらに持ち歩いている。われわれは年の一番幼い子供でもひどく打たれているのを頻々と見たことであった。 |
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若干の大工場では子供は四分の一から五分の一は跛足か畸形だった。過労で、時には極道な虐待で生傷の絶えまがない。子供の幼い方は、三、四年できっとひどい病気か死ぬかしてしまうのだ。」<ref name="五島茂(1973)198-199">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.198-199</ref>}} |
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同時に、オウエンは協同社会に関する計画を練り始め、救貧対策、社会変革、新社会建設を含んだ「協同社会の計画」を発表した。1817年夏からオウエンはヨーロッパ大陸各国を歴訪する旅に出る。その行程は[[フランス]]、[[スイス]]、[[オーストリア]]、[[ドイツ]]に及んだ。帰国後はカンタベリー大主教に公開状を発したほか、[[首相]][[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]に[[工場法]]の法制化を促した。幼児労働の制限と、その分の時間における教育の充実を立法化しようとした。 |
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{{仮リンク|サー・ロバート・ピール|en|Sir Robert Peel, 1st Baronet}}は、オウエンが作成した法案が議会を通過成立できるよう、1815年の会期末に第一読会に入るのに同意した。1816年会期中、ピールは法律が必要であることを示すために関連証拠を集め、庶民院に設置された委員会での議長も務めた。しかし、1817年の議会審議を前にピールが病気が理由で職務を中断させざるを得なくなり、法案を提出できなかった。また、1818年ピールは法案を提出したが、総選挙が行われたため審議を継続できなくなってしまう。しかし、この頃になると貴族院も事態を把握するために委員会を設置する必要があることを認めるようになった。 |
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[[File:Sir Robert Peel, 1st Bt cropped.jpg|thumb|200px|{{仮リンク|サー・ロバート・ピール|en|Sir Robert Peel, 1st Baronet}}の肖像。]] |
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1819年、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に設置された委員会は証拠を収集するべく査問会を開き、29か所の綿工場を調査したボルトン治安判事から聞き取りを行った。20か所の工場は徒弟を雇用しておらず、合計550人に及ぶ14歳未満の子供たちを使役していた。その他の9つの工場は、合計98人の徒弟と14歳未満の合計350人の子供たちを雇用していた。徒弟の大部分は大工場で雇用されており、いくらか良い条件で働いていた。とはいえ、児童は1日12時間以下の条件で働いていた。ツーティントンのグラント兄弟の工場では11時間半働かせていたようである。治安判事は「この施設は非常によく換気されています。すべての徒弟と子供たちは、健康で、幸せで、清潔で、日々の配慮がよく払われていて衣類も与えられています。そして、日曜日には教会の礼拝に定期的に出席しています」と報告した。他方、他の工場で労働する子供たちはさらに悪い状況で、1日につき最高15時間も労働していた。例えばゴールトンにあったロバーツのエルトン工場では、「最も不潔で、換気がなされず、徒弟と子供たちは発育が悪く体格が小さい。そして、全く衣類を支給されていなかった。いかなる種類の配慮も与えられず、哀れでならない」と言及している。結局、1819年になってサー・ロバート・ピールは法案を再び提出し、綿工場で働いている子供たちの労働条件を規制するためにようやく法案は可決され、{{仮リンク|1819年の紡績工場法|en|Cotton Mills and Factories Act 1819}}が成立した。 |
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だが、新法は教育面における法整備は果たされないなど、オウエンの望む内容からは遠いものとなった<ref name="ハチスン、ハリソン(1976)23">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] p.23</ref>。 |
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1815年の法案では、繊維産業の工場内で雇用されたすべての子供たちに適用されることが謳われ、10歳未満の児童労働が禁止された。10歳から18歳の少年は10時間以上労働してはならないこととされており、食事時間の間の2時間と学校教育のための30分で労働時間は10時間に制限されることを盛り込んでいた。治安判事は工場監督官としての強制力ある公的権限が与えられ、工場労働の実態を把握するために工場内をいつでも検査することができるとされていた<ref name="ハチスン、ハリソン(1976)24">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] p.24</ref><ref name="マーガレット・コール(1974)127">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] p.127</ref>。しかし、1819年に可決された法は、1815年に提出されたオウエンの草案を骨抜きにする形で成立した<ref name="マーガレット・コール(1974)131-132">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] pp.131-132</ref>。 |
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1819年の紡績工場法は紡績工場でのみ適用されるに留まり、全産業の児童労働を規制する包括的法律にならなかった。 |
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9歳未満の児童労働が禁止された<ref name="ハチスン、ハリソン(1976)25">[[#ハチスン、ハリソン(1976)|ハチスン、ハリソン(1976)]] p.25</ref>。9歳から16歳までの子供たちは日12時間労働(食事時間または学校教育を含まない)していた。午前5時と午後9時の間に12時間労働することが規定されたが、朝食に少なくとも30分、午前11時と午後2時の間で夕食と休息を取ることが見込まれた。(翌年の会期に修正された法では休息時間は午前11時から午後4時に修正された)。二人の目撃者が工場が法を破っていたという情報を宣誓して伝えるなら、地元の治安判事が工場を調べるために視察を行うことができたものの、工場監督官による抜き打ち検査や自由に視察できるとした条文は削除された。同法は政府介入の原則を十二分に確立していないため、実質的な強制力の乏しい内容となっていた。 |
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{{see also|en:Cotton Mills and Factories Act 1819}} |
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==== 1817年の宗教否定演説 ==== |
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*「宮瀬睦夫」pp.84-87 参考に執筆 |
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=== ニュー・ハーモニー時代(1825年-1830) === |
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==== 協同社会への構想 ==== |
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{{節スタブ}} |
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オウエンは労働組合運動を指導したほか、協同組合などの事業も手がけた。 |
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ロバート・オウエンは今後の活動の方向性を協同組合運動に向け始める。早くも1817年には「協同社会の計画書」を執筆し、各界の指導者を対象に公開していた。しかし、オウエンの宗教否定に対する反発も加わり、議会は[[協同組合]]計画の法制化を拒否、反対意見が噴出して議会から拒絶される結果に終わった。政界の反発に直面したもののオウエンは諦めなかった。1819年には選挙法の改正を求める大衆運動を政府が武力鎮圧した[[ピータールーの虐殺]]が発生した<ref name="G.D.H.コール(1952)84">[[#G.D.H.コール(1952)|G.D.H.コール(1952)]] p.84</ref>。社会不安が蔓延するなかで1820年代にはオウエン主義に基づく協同組合運動が盛んになっていく。 |
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[[ファイル:Peterloo Massacre.png|thumb|300px|{{仮リンク|リチャード・カーライル|en|Richard Carlile}}によるピータールーの虐殺の絵画]] |
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{{See also|ピータールーの虐殺}} |
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1830年代にはイギリスにおける協同組合の数は300を超えるまでに発展していた。ただし、オウエンは協同社会のヴィジョンを打ち出して[[資本主義]]に対抗しようと試み、協同組合の設立に影響力を発揮した。ただし、協同組合の設立はオウエンによるものではなく、オウエン主義者による指導であった。 |
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1821年、{{仮リンク|ジョージ・ムーディー|en|George Mudie (social reformer)}}の指導によって改革精神旺盛なロンドンの知的アーティザンである印刷工が結集し、{{仮リンク|スパ・フィールド|en|Spa Fields}}に200世帯からなる生活共同体「協同経済組合」({{lang-en|Co-operative and Economical Society}})が結成された。最初の組合規則前文には「本組合の終局目的はニュー・ラナークのミスター・オウエンによって計画されたプランに基づき、農業・工業・交易を結合したひとつの一致と協同の村を建設することにある」と記された。当面の目的は居住施設の確保。食料、衣類、その他の日用品の購入のために共同基金を創設して「集合家族居住共同体」を設立、共同印刷工場が開かれた<ref name="世界の名著42(1980)42-43">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] pp.42-43</ref>。 |
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生産と生活の共同体を設立して、混乱と窮乏の資本主義社会の現実に対抗するというのが運動の目標であった。そして、短期間ながらもムーディーによって週刊誌『エコノミスト』({{lang-en|''The Economist''}}, 1821-1822)が創刊された。この機関誌での共同活動を通じてオウエンとムーディーは急激に親しくなっていき、オウエンも同誌に「現下窮乏原因の一解明」({{lang-en|''An Explanation of the Cause of Distress which pervades the civilised parts of the world''}}, 1823)という論文を寄稿するなど、同誌はオウエン主義者の広告塔として活用された<ref name="世界の名著42(1980)42-43">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] pp.42-43</ref>。 |
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*'''『社会制度論』、『ラナーク州への報告』'''寄稿 |
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**(平方四辺形など共産主義的都市計画を紹介) |
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==== ニュー・ハーモニー建設 ==== |
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{{共産主義のサイドバー}} |
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[[Image:New Harmony by F. Bate (View of a Community, as proposed by Robert Owen) printed 1838.jpg|300px|right|thumb|新聞『新道徳世界』({{lang-en|''The New Moral World''}})に掲載された実現しなかった計画図]] |
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ニュー・ラナーク工場での教育事業に対して宗教教育を盛り込むように圧力がかかり教育事業での主導権がなくなると{{#tag:ref|注釈を追記。|group=注釈}}、オウエンの新事業に対する志に熱気が生じるようになる。オウエンは執筆活動や社会活動に限らず、「協同社会の計画書」での構想に基づいてより野心的な[[共産主義]]的共同体建設の社会実験に取り組む。 |
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1824年、オウエンは反対者が多いブリテンを離れて計画を実現できないか模索して[[アメリカ]]に渡り、首都[[ワシントンD.C.]]で[[ジェームズ・モンロー]][[大統領]]と会談、新コミュニティ建設事業の計画を伝えた。後の1829年には知米派の知識人として再渡米して[[アンドリュー・ジャクソン]]大統領と会談、緊張状態にあった英米関係の仲介者にもなった。新共同体を作る場所として[[インディアナ州]]ハーモニー村が予定されていた。ハーモニー村はドイツから信奉者とともにアメリカに渡ってきた{{仮リンク|ジョージ・ラップ|en|George Rapp}}が築いた宗教的コミュニティによって開拓されたものである。だが、ラップは経済的繁栄で信仰が鈍るのを恐れて別に新天地を構えようと考えて競売にかけることを決意した。イリノイ州の不動産業者ジョージ・フラワー(リチャード・フラワーとの記載もあり)がニュー・ラナークのオウエンを訪問して商談を持ち掛けた<ref name="宮瀬睦夫(1962)123">[[#宮瀬睦夫(1962)|宮瀬睦夫(1962)]] p.123</ref><ref name="マーガレット・コール(1974)185">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] p.185</ref><ref name="五島茂(1973)231-232">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.231-232</ref><ref name="世界の名著42(1980)566">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.566</ref>。 |
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{{quotation|「ハーモニーの町。一級の土地二万エーカー付き。[[ウォバッシュ川]]の東岸に位置し、……[[オハイオ川]]から陸路15マイル。ウォバッシュ川は四季を通じて20トン積みの船舶航行可能、中型蒸気船は一年の大部分。二千エーカーのよく開墾された土地。そのうち15エーカーは葡萄畑。35エーカーはりんご果樹園。果樹と植木の多い快適な庭園。」 |
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「三階建ての水力利用製粉工場一棟。宏大な綿織物毛織物工場一棟。製材所二棟。煉瓦石造りの大倉庫一棟。大穀物倉庫二棟。商店一戸。大きな宿屋一戸。作業場…六棟。…なめし皮工場一棟。脱穀機付き納屋三棟。大きい羊小屋三棟。二階建て煉瓦造り住宅群…。大醸造所一棟。」<ref name="五島茂(1973)232-233">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.232-233</ref>}} |
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以上がラップの財産目録であった。フラワーとの交渉において評価額6万ポンドが提示されたが、オウエンは自信を示したかったのか二倍の購入額12万ポンド提示した。交渉人のフラワーも商談に懸念を感じたが、当事者のオウエンには微塵も不安を持たなかった。何よりも[[アメリカ中西部]]は河川による水運が利用できるものの近傍に大都市が少なく社会的基盤が乏しかった。こういった問題点は交渉で吟味されなかった。地所の欠点については息子のロバート・デイルが注進すべきであったが、彼は自身の恋愛問題に関心が向かい、全力をもって父に歯向かうことはできなかった。結局、オウエンは長男に工場での業務を引き継ぎ、現地視察のために渡米した。オウエンはニュー・ラナーク工場の株式を売却して調達した資金12万5千ドルを投じて競売でハーモニー村を買い取ったのである<ref name="宮瀬睦夫(1962)123-124">[[#宮瀬睦夫(1962)|宮瀬睦夫(1962)]] pp.123-124</ref><ref name="五島茂(1973)233-236">[[#五島茂(1973)|五島茂(1973)]] pp.233-236</ref><ref name="マーガレット・コール(1974)185">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] p.185</ref><ref name="世界の名著42(1980)566">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.566</ref>。 |
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スコットランド生まれの成功した元貿易商人で、[[フィラデルフィア自然科学アカデミー]]のパトロンで[[地質学]]者の[[ウィリアム・マクルール]]が合資者となった。マクルールはオウエンの理想に共鳴してオウエンとともに私財を投じ、コミュニティの建設を試みた。オウエンとその息子たち{{仮リンク|デイヴィッド・デイル|en|David Dale Owen}}、{{仮リンク|ロバート・デイル|en|Robert Dale Owen}}、{{仮リンク|リチャード・オウエン|en|Richard Owen (geologist)}}、マクルールの友人の科学者たち、[[無政府主義]]者で企業家でもあった{{仮リンク|ジョサイア・ウォーレン|en|Josiah Warren}}らとともにプロジェクトに参加した。[[アメリカ]]に渡って自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体({{仮リンク|ニューハーモニー|en|New_Harmony,_Indiana#Owenite_community_.281825.E2.80.931827.29}}村)の実現を目指す。 |
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このような経緯でハーモニー村をオウエンとマクルールが購入して、少し遅れて息子ロバート・デイルが加わり、共産村建設プロジェクトは1826年から始まった。 |
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プロジェクトの計画の柱は、ニュー・ハーモニーの丘でのスクウェア・パレスという壮麗な建築物の建築、「フィラデルフィア自然アカデミー」の科学者たちのコミュニティ加入、完全平等のコミュニティ実現のための新憲法制定であった。ちょうどその頃、1825年には世界初の生産過剰を原因とする近代[[恐慌]]が発生した。翌年にかけて欧州からの移住者が増加、労働者900人をはじめとして移住希望者が集まった。マクルールと親交がある優秀な自然科学者たち27名がアメリカへと移住した結果、ニューハーモニー村は知識人の移住とともにアメリカにおける文化の中心地となった<ref name="世界の名著42(1980)41">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.41</ref>。オウエンの子供たちも成人後アメリカ[[市民権]]を獲得し、父親の志を受けてニュー・ハーモニー建設運動に参加したほか、ロバート・デイルは議員に、リチャード・デイルは学者となってアメリカ社会の発展に貢献していった。彼ら息子たちは、老齢となり仕事も収入を失って無一文となったオウエンの生活を支えていくことになる。 |
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しかし、オウエンの挑戦は難事業となった。早くも翌年には様々な信条をもった人々の集団は意見の対立を生んでいったのである。 |
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1826年2月5日、オウエンは目標とした「ニューハーモニー完全平等協同体憲法」を制定した<ref name="宮瀬睦夫(1962)124">[[#宮瀬睦夫(1962)|宮瀬睦夫(1962)]] p.124</ref>。しかし、それ以外の計画は実現できずに終わる。各成員の見解の相違を克服するために独裁制も採用するが、村は混乱を極めていった。5月に入るころには分村が進行、それにつれて合資者のマクルールとオウエンとの対立が深刻化していった。1826年7月4日、アメリカ建国五十年記念の日におこなった演説、「精神的独立宣言」はこの頃の彼の思想的到達点を示していて興味深い。彼はその中で、「悪の三位一体」として「私有財産、矛盾と不合理な宗教、それらと結合した不合理な結婚制度」を挙げ、それらの「奴隷」として生きてきた人類の解放を謳った。 |
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しかし、村の存続は厳しい状況にあり、事業は2年あまりで崩壊、間もなくオウエンは巨額損失を覚悟で村の経営権を放棄する決断を下した。失敗の原因は概ね次のとおりのことが指摘されている。1)住民選別が不十分だったこと、つまり、入植を希望する人々に知識人・文化人・労働者が多い一方、農業の経験や専門知識をもった自営農がおらず道具のメンテナンスを担当するスキルのある職人が僅かで、即戦力となる人材が揃わなかったこと、2)成員間の宗教的・社会的・人種的偏見が根強く内部に対立抗争が生じたこと、3)怠慢・勤勉に対する賞罰が欠落しており労働規律が弛緩して意欲低下が深刻化したこと、4)舞踏や音楽などの文化活動に耽って労働を忌避したこと、5)平等の実現を掲げたため意思決定の過程が不明確で、オウエンとマクルール間の連携も円滑でなく、上席者による意思決定や責任と権限が不明確であったことなど組織化の欠如といった問題点が挙げられる<ref name="宮瀬睦夫(1962)124-125">[[#宮瀬睦夫(1962)|宮瀬睦夫(1962)]] pp.124-125</ref><ref name="マーガレット・コール(1974)191">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] p.191</ref><ref name="世界の名著42(1980)41">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.41</ref>。ニュー・ハーモニーはアメリカ社会主義の発祥の地となった。アメリカ初の幼稚園、幼児学校、職業学校、無償公教育制度、婦人クラブ、民間劇場、地質学研究学会、労働者研究博物図書館を設立し、アメリカ史上に不朽の業績を残した。 |
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村では土地の開発と裏腹に共有資産の私物化が進行してオウエンの財産は完全に失われていた。1828年に帰国した後、自己精算した際の損失額は20万ドルに上り、かつて有力な資産家であったオウエンの資産の大部分が失われた。それでもオウエンは協同村の実現を諦めてはいなかった。[[メキシコ]]政府から当時メキシコ領だった[[テキサス]]のアメリカ合衆国との国境地帯の土地を無償提供する話が持ちかけられ、オウエンは再び協同村建設計画に関心を抱く。しかし、この計画はメキシコの政情不安のために暗礁に乗り上げて立ち消えとなってしまう。 |
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オウエンは帰国を決意して[[アメリカ大陸]]を離れる途上で[[大英帝国]]の[[植民地]][[ジャマイカ]]に立ち寄っている。ジャマイカで見た情景は酷使され虐げられる[[黒人奴隷]]の姿であったが、オウエンはジャマイカの[[黒人]]以上にブリテン本国の労働実態に心を痛め、危険で過酷な[[ワーキングプア|苦汗労働]]を強いられている白人労働者が置かれている労働条件の深刻さを痛感した。帰国後の4月28日、オウエンは自身の失敗を認め、協同体に対する批判の演説をおこなう。集団内部の党派対立が原因だったとはいえ、ニュー・ハーモニー建設事業はオウエンにとって完全なる失敗となった<ref name="世界の名著42(1980)566">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.566</ref>。ただし、協同村建設の夢はオウエンの志となってその後も胸中に残っていく。 |
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{{See also|en:New_Harmony|社会主義|共産主義}} |
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=== 帰国後の活動(1830-1858年) === |
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==== 第一次選挙法改正 ==== |
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[[File:Detail House of Commons.JPG|thumb|right|300px|議会で対峙するグレイ伯(左)とウェリントン公(右)]] |
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[[File:Benjamin Haydon - Meeting of the Birmingham Political Union.jpg|thumb|300px|20万人が参加したバーミンガム政治同盟の集会(1832年5月16日)。ベンジャミン・ハイドン画。]] |
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1817年、[[デヴィッド・リカード]]によって『[[経済学および課税の原理]]』が発表され、近代経済学は発展を見せた。かれは地代論を展開して、商品価値は労働力と関係があることを指摘した。また、商品を生産している労働者は対価として賃金を受け取るが、商品生産のための[[資本]](土地・工場・機械・道具)を提供している[[資本家]]は労せず利潤を受け取る、これが社会の仕組み([[資本主義]])になっていることを明らかにしている。この経済論は[[労働価値説]]を説明するものであると同時に[[搾取]]の存在を示唆するもので、後の時代の[[社会主義]]思想の出発点になる考え方であった。オウエンは産業の発達を真に担ったのは労働者であり、その労働者が貧しいのは資本家が搾取するためであるとに見ていた<ref name="古賀秀男(1980)51-53">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] pp.51-53</ref>。 |
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ブリテンでは19世紀に入り[[産業革命]]の本格的進展によって各地の産業構造に変化が生じ、南部の農村地帯から北部の工業地帯へと人口移動がおこっていた。その結果、北部の工業都市に移住した多数の労働者が政治的権利のない二級市民の立場に置かれていた。それまで合理性があった旧来の選挙制度は急速に時代にそぐわないものとなっていた。イギリスでは議会制度の腐敗が進み{{#tag:ref|いくつかの都市選挙区は工業化による人口移動で過疎化して2名の議員を数名の有権者から選出する[[腐敗選挙区|ポケット選挙区]]と化していた。そこでは接待や贈賄による買収で有権者の投票が左右される不正選挙の温床となっていった。急激に成長した工業都市は工業化以前は農村だった地域で州選挙区という扱いであった。土地を所有していない市民に選挙権はなく、土地を所有できた一握りの人々がわずか1名の議員を選出する状況下にあった。1830年代の危機的時代状況の中で貴族や地主層に対する中産階級と労働者階級の闘争は激しさを増し、ここに議会改革は不可避なものとなっていく。議会は世論を正確に代表する能力を失って国民に対する権威は失墜し、革命直前の社会状況にあった。|group=注釈}}、改革は避けがたいものとなっていた。こうして大規模な社会変動、政治変動が始まる。 |
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1830年、改革の障害であった[[ジョージ4世]]が崩御、改革要求の激化が革命に発展することへの恐怖を前に議会改革に着手する必要性があった。しかし、議会では党派的な対立が改革の足かせとなった。 |
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[[ホイッグ]]派は改革に積極的な立場をとった。財産と教養をもつ裕福な資本家階級の支配体制への編入を試み、1830年[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ卿]]を筆頭にホイッグ急進派は改革動議を提出するに至る。しかし、[[トーリー]]派は内相[[ロバート・ピール]]が改革に意欲的だったものの、[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公]]が現行制度は完全であるとしていかなる改革にも反対、さらに他の議員も改革が更なる改革の要求を正当化する可能性を指摘して反対したがゆえに時のトーリー政府による改革は不可能となった。 |
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一方、議会外では1829年末、{{仮リンク|トマス・アトウッド(庶民院議員)|en|Thomas Attwood}}が中心となり{{仮リンク|バーミンガム政治同盟|en|Birmingham Political Union}}が発足、普通選挙権と平等選挙区の実現を目指して選挙法改正運動が展開される。中産階級に留まらず労働階級も参加して改革の実現を求めていく。1831年、BPUの成員は遅々として進展しない改革に苛立ちを強めていった。第一次法案が廃案となったため{{仮リンク|五月暴動|en|Days of May}}という騒乱状態に入っていく<ref name="古賀秀男(1980)54">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] p.54</ref>。 |
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トーリー党は政治担当能力の欠如が批判され{{仮リンク|第一次ウェリントン公爵内閣|en|Wellington ministry}}は内閣総辞職に追い込まれる。1831年、{{仮リンク|第一次グレイ内閣|en|Whig government, 1830–1834}}が成立して改革派は改正案を提出し、庶民院通過を果たした。さらに、国王[[ウィリアム4世]]を味方につけ貴族院に対して新貴族創家を盾に法案通過を強行、1832年、{{仮リンク|第一次選挙法改正|en|Reform Act 1832}}が実現する<ref name="古賀秀男(1980)55">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] p.55</ref>{{#tag:ref|このときの改革では、都市選挙区に居住する10ポンド以上の家屋・店舗を占有する戸主、州選挙区に居住する10ポンド以上の長期(60年)自由土地保有者、50ポンド以上の短期(20年)自由土地保有者に選挙権が与えられ、議席再配分によって[[腐敗選挙区]]の廃止と工業都市への選挙区の割り振りが実施された。だが、労働者には選挙権は与えられず、改革は未解決のままに残され、議会改革問題は[[チャーティズム|チャーティスト運動]]へと引き継がれる<ref name="古賀秀男(1980)3-4,54-55">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] pp.3-4,54-55</ref>。南部のロンドンからイングランド北部マンチャスターに連なる工業都市がチャーティスト運動の一大拠点となっていた<ref name="古賀秀男(1980)87-89">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] pp.87-89</ref>。|group=注釈}}。資本家を始め中産階級が選挙権を獲得する一方で、労働者には選挙権は与えられず、議席配分では依然として農村に重点が置かれたため議会改革問題は未解決のままに残された。議会制度の欠陥をめぐる争点は[[チャーティズム|チャーティスト運動]]へと引き継がれる<ref name="古賀秀男(1980)56">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] p.56</ref>。 |
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{{see also|en:Reform Act 1832}} |
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==== 1830年代の労働運動 ==== |
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1824年に{{仮リンク|1799年の団結禁止法|en|Combination Act 1799)}}が改正され規制が緩和されたため、1830年代になると労働運動の発展が顕著となっていった<ref name="浜林正夫(2009)72-73">[[#浜林正夫(2009)|浜林正夫(2009)]] pp.72-73</ref>。 |
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[[ヨークシャー]]では[[トーリー]]急進派{{仮リンク|リチャード・オストラー|en|Richard Oastler}}による工場法制定運動が活発化していた。労働時間を10時間に制限することを目標に時短運動であった。労働運動は労働時間の短縮や賃下げへの防衛的な抵抗を柱に結集を始めていった。やがて十時間労働制の要求は八時間労働制の要求へと発展していく。 |
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[[アイルランド]]出身の紡績工{{仮リンク|ジョン・ドハティー(労働運動家)|en|John Doherty (trade unionist)}}が労働運動を指導して、マンチェスター紡績工組合の専従書記となり、1829年にストライキを闘ったが敗北し、業種を超えたより包括的で全国的な組織を結成しようと試みた<ref name="浜林正夫(2009)77-78">[[#浜林正夫(2009)|浜林正夫(2009)]] pp.77-78</ref><ref name="マーガレット・コール(1974)235">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] p.235</ref>。1829年、ドハティーは仲間とともに[[マン島]]に渡って会議を招集し、「イギリス・アイルランド紡績職工大連合」を結成した<ref name="古賀秀男(1980)48-49">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] pp.48-49</ref>。1827年には大工・指物工大連合が、マンチェスター連合という煉瓦積職人らの全国協会が結成されていた。1832年にはヨークシア労働組合が結成され、工事発注を請け負う中間業者の搾取の温床となっていた請負制を廃止して、最低賃金の設定を要求する大規模な運動が展開された。この運動により、大工、指物工、石工、煉瓦積工をはじめ建築業種の7業種が合同して、1833年には{{仮リンク|建築工組合|en|Operative Builders' Union)}}が組織され職種を超えた労働者の大同団結が加速していた。翌年9月にはロバート・オウエンも建築工が主催する「建築工議会」に参加して、雇用主を排除した生産ギルドを結成する構想を提案した<ref name="古賀秀男(1980)49">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] pp.49</ref>。 |
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*生産者ギルド (マーガレット pp.231-254) |
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1834年にはドハティーが主導して「{{仮リンク|全国労働者保護協会|en|National Association for the Protection of Labour}}」(NAPL)が設立された。また、『人民の声』({{lang-en|''The Voice of People''}})という週刊の機関誌が創刊され、3000部が発行された。[[マンチェスター]]近傍の[[チェシャー]]や[[ランカシャー]]、[[ダービー]]といった北部工業都市で活動する14の紡績工組合が中心となり、染色工、機械工、鋳物工、鍛冶屋、木挽き、製糸工、製靴工、指物工、帽子工などの組合が合流していった。全国組織を名乗ったもののランカシャー地方など活動領域が限定されており、中部のノッティンガムに若干の支持団体が存在していたに留まった。そこで、ドハティーはロンドンに本部を移転させ、名実ともに全国組織に勢力拡大を図ろうとしたが、激しい反対論に直面して実現できずに終わる。組織は賃下げ反対を目的に樹立され、攻撃的な賃上げ要求を掲げなかったものの、職種を超えた労働者の団結に資本家や治安当局から危険視する警戒感が高まり、『人民の声』には売価三ペンスに対して四ペンスが課税され、武装蜂起の計画を立てているといったデマが流されるなかで、建築工が組合に参加するのを拒絶したり加盟団体が集まらずに財政難に陥って組織の解散を決議せざるを得なくなった<ref name="浜林正夫(2009)77-78">[[#浜林正夫(2009)|浜林正夫(2009)]] pp.77-78</ref>。 |
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労働組合の影響力の拡大に対して、政府・メディアの反応は厳しくなっていった。団結禁止法撤廃を主導した[[フランシス・プレイス]]も個々の業種からなる労働組合はきわめて大事な組織だが、組合連合や全国的な組合はきわめて有害であるという認識をもっていた。こうした状況下でも労働運動は冷却しなかった。ダービーでは、多くの職種で資本家が労働者に組合活動に参加しないと記した宣誓書(ドキュメント)への署名を求め、署名しないならば雇用を打ち切るとしてロックアウトに踏み切り、労使間の紛争が多発した。しかし、最終的に雇用主側が勝利して運動は分裂していく<ref name="浜林正夫(2009)77-78">[[#浜林正夫(2009)|浜林正夫(2009)]] pp.77-78</ref>。 |
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選挙法改正と労働者の政治的排除は社会的抑圧の構図も浮かび上がらせた。 |
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[[File:ChartistRiot.jpg|right|300px|thumb|チャーティスト暴動]] |
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選挙法改正後は中産階級による階級立法が加速し、労働者に不利になる法律が成立していった。{{仮リンク|1834年の救貧法改正|en|Poor Law Amendment Act 1834}}によって貧民救済の手段は[[救貧院 (ワークハウス)|救貧院]]による院内救済に置かれることになった。ただし、救貧院での貧民の待遇は劣悪なもので、被救済民は家族と引き離され男女別々に収容され、さらに重労働が課された。被救済民に人間的な扱いはなく、待遇は最下層に位置する労働者の生活水準以下に設定され、実態は犯罪者に対する懲役と大差のない待遇となっていた。労働者は救貧法改正に強く反発して反対暴動を展開していく<ref name="古賀秀男(1980)64-65">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] pp.64-65</ref>。改革に対する労働者の失望がチャーティスト運動とオウエン主義運動の発展を促す<ref name="古賀秀男(1980)63">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] p.63</ref>。 |
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労働者は社会環境の悪化に抵抗すべく自衛のために活発な社会運動を発展させた。革命的プロレタリアートの運動に二つの流派が形成された。それが、ロバート・オウエンによる社会主義運動([[空想的社会主義]])と『人民憲章』を旗印に普通選挙権獲得を目指し民主化運動を展開していた[[チャーティスト運動]]であった{{#tag:ref|1831年{{仮リンク|ヘンリー・ヘザリントン|en|Henry Hetherington}}と{{仮リンク|ウィリアム・ラヴェット|en|William Lovett}}は「労働者階級全国同盟」({{lang-en-short|National Union of the Working Classes}}) を結成、機関誌として{{仮リンク|『プア・マンズ・ガーディアン』|en|''The Poor Man's Guardian''}}を発行した。かれらはフランスの『[[人権宣言]]』と[[トマス・ペイン]]の思想を前文に掲げて綱領を発表した。まず、利潤や地代による収奪を批判して、[[労働全収権]]を提唱して労働者が労働生産物の全価値を享受する権利を訴えた。これと同時に雇用主の搾取に抵抗するための[[団結権]]や[[ストライキ]]権の保証を求めていた。そして、その手段を[[イギリス議会|議会]]改革の推進に求めた他、社会経済的な変革を要求して労働者階級の窮状を打破しようとした<ref name="古賀秀男(1980)56-58">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] pp.56-58</ref>。1836年の恐慌時、ヘザリントンとラヴェットをはじめロンドンの指導者は集会を開き、{{仮リンク|ロンドン労働者協会|en|London Working Men's Association}}を設立した<ref name="古賀秀男(1980)66-68">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] pp.66-68</ref>。執行部は声明を出して「イギリスには21歳以上の男子が602万いるうち、84万人にしか選挙権が与えられていない」ことを指摘、「将来の奴隷制」(苦汗制度・現代的には[[ワーキング・プア]])の根っこに存在していた腐敗した議会による支配構造を合法的に断ち切って平等な社会を実現させることを目標に、志ある人々の結集を呼びかけた。[[1838年]]、1)成人男子選挙権、2)秘密投票、3)毎年選ばれる一年任期の議会、4)議員に対する財産資格の廃止、5)議員への歳費支給、6)十年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区の六項目を掲げた『人民憲章』が発表された<ref name="マックス・ベア(1972)45-48">[[#マックス・ベア(1972)|マックス・ベア(1972)]] pp.45-48</ref><ref name="古賀秀男(1980)77-79">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] pp.77-79</ref>|group=注釈}}。 |
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オウエンは政治への不信感から議会改革に懐疑的で、労働者の救済は経済的方法での実現に限られると考えていた<ref name="宮瀬睦夫(1962)128">[[#宮瀬睦夫(1962)|宮瀬睦夫(1962)]] p.128</ref>。それゆえ、第一次選挙法改正運動、その後に続くチャーティスト運動とは距離を取り続けた。労働者救済のために強固な組合組織と教育活動による社会の改良が必要であると考えていた。こうした考えは協同組合運動への労働者の結集へとつながっていく<ref name="古賀秀男(1980)51-53">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] pp.51-53</ref>。一方、チャーティストも民主主義の実現によって労働者を解放し、労働者を基盤にした人民の政府によって資本主義の諸矛盾の解決策を模索するという展望を持って、労働者を民主化運動のもとに集結させようとしていた。両派は競合関係にあった<ref name="ハント(2016)123">[[#ハント(2016)|ハント(2016)]] p.123</ref>。 |
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{{see also|チャーティズム}} |
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==== 1833年の工場法制定 ==== |
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{{節スタブ}} |
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一方、[[トーリー]]派の{{仮リンク|マイケル・サドラー|en|Michael Thomas Sadler}}が中心となって、児童労働と労働時間の制限が再度議論された。工場法改正委員会が発足して実態調査が行われ、改めて労働の実態が報告された。 |
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・[[工場法]]制定(救貧院の実態・児童労働の現状に関する記述を引用する)。 |
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ついに1833年の[[工場法]]が制定された。 |
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==== オウエン主義運動の展開 ==== |
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[[File:Truck system of payment by order of Robert Owen and Benj Woolfield, July 22nd 1833 (1294620).jpg|thumb|200px|1833年7月22日、「全国衡平労働交換所」が発行した{{仮リンク|労働紙幣|en|Time-based currency}}。]] |
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[[File:Robert Owen Statue, Balloon Street, Manchester.jpg|200px|thumb|イギリス、[[マンチェスター]]の{{仮リンク|信用金庫(イギリス)|en|The Co-operative Bank}}の前に立つオウエンの立像]] |
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ニュー・ハーモニー建設運動に失敗して財産を失ったものの、ロバート・オウエンの士気と名声は衰えなかった。 |
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協同村建設の夢から協同組合運動の種はイギリス社会に広く播かれて芽吹こうとしていた。1829-34年の五年間にわたって[[暴力革命]]目前の政情にあった。深刻な政治危機の時代のなかで人道的な理想を説き暴力革命を否定するオウエンの穏健な協同組合主義は人々の希望の旗印となる。産業革命期にあって資本主義の成長を前に喘ぐ労働者・職工たちが、オウエンの描く社会ヴィジョンに共感して、協同組合運動の社会的拠点を形成していき、[[プロレタリアート]]の[[階級意識]]を持った[[労働運動]]を育み、また[[チャーティスト運動]]の基盤ともなった。 |
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{{仮リンク|ウィリアム・キング(哲学者)|en|William King (physician)}}の[[生協]]運動が盛んとなった後、協同組合は年々増加して1830年末には400を超えていった。巨大化した協同組合運動は全国的な統合を目指していく。{{仮リンク|ウィリアム・トンプソン|en|William Thompson (philosopher)}}の主導の下に、1831-1835年にかけて半年ごとに「協同組合会議」なる代議員会合が招集され、卸売連合機関と全国統一機構、共同体建設運動が論じられた。 |
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1832年、{{仮リンク|第一次選挙法改正|en|Reform Act 1832}}は歴史的画期であったが、この時の改革は多くの課題を残すものであった。選挙法改正は有権者数を増加させたものの、財産資格による制限選挙制が残され、最終的にブルジョワジーに利するものとなった。労働者階級はモブ・エネルギーとして利用されたものの、改革運動の物理力の源泉であった労働者が選挙権を得ることはなかった。政治に失望した労働者が結集したのが、[[チャーティスト運動]]とオウエン主義運動の二択であった。その結果、オウエン主義の労働組合運動と協同組合運動はさらに勢力を拡大させ、飛躍的な量的膨張を達成する。 |
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オウエン主義は労働者の経済的利害にもっとも調和していた。 |
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1832-1834年、オウエンは「全国衡平労働交換所」を設置、協同組合の生産品の相互交換を目的とした{{仮リンク|労働紙幣|en|Time-based currency}}による生産バザーで、ロンドンとバーミンガムとスコットランドに開設された。この施策は[[ストライキ]]で[[ロックアウト]]された労働組合員の生活助成のための協同生産も包含していた。労働者自主を培い、共同体原理の実現を図る経済活動の新形態となるはずだった<ref name="世界の名著42(1980)44">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.44</ref>。チャーティストの若き青年運動家の一人となった{{仮リンク|ウィリアム・ラヴェット|en|William Lovett}}もオウエンの労働交換所ロンドン支店で店主となっていた。彼らはオウエンの思想に感化を受け社会改革の理想に目覚め、[[トーマス・ホジスキン]]の経済思想で理論武装を果たし、チャーティスト運動の指導者へと成長していく<ref name="古賀秀男(1980)53">[[#古賀秀男(1980)|古賀秀男(1980)]] p.53</ref>。労働交換所設立の運動背景にはオウエンの貨幣観が存在している。オウエンは富の源泉を労働者による生産活動が作り出す労働価値([[労働価値説]])に求めており、労働者が貧しいのは金銀など金属貨幣に基づく誤った通貨制度が根底に存在しているためだと考えていた。したがって、従来の貨幣を廃止して、時間単位での標準労働量を基礎に紙幣を発行すれば、搾取を克服した経済活動が可能になり、働く者が報われる社会が実現すると考えていた<ref name="都築忠七(1986)43-53">[[#都築忠七(1986)|都築忠七(1986)]] pp.43-53</ref><ref name="マーガレット・コール(1974)224-229">[[#マーガレット・コール(1974)|マーガレット・コール(1974)]] pp.224-229</ref><ref name="宮瀬睦夫(1962)132">[[#宮瀬睦夫(1962)|宮瀬睦夫(1962)]] p.132</ref>。しかし、労働価値に対する評価問題をはじめとする労働紙幣の信頼性が課題となり続け、さらには紙幣自体が悪徳商人の投機対象となってしまい、結局失敗に終わった<ref name="世界の名著42(1980)44">[[#世界の名著42(1980)|世界の名著42(1980)]] p.44</ref>。 |
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(マーガレット pp.226-228) |
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{{see also|en:Time-based currency}} |
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ロバート・オウエンは「貨幣の廃止」に失敗したものの、活動を停止したりはしなかった。 |
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彼は[[労働組合]]と[[協同組合]]の二つの潮流を結合させる中心人物で、オウエン思想は労働運動界の権威となっていた。1833年10月、オウエンは労働組合の代表者が集まった会合に参加して様々な職種の職人達を糾合する動きは加速させることを提案した。1834年にはロンドンの労働者内にオウエンの影響は拡大しており、仕立て工を中心にすべての生産階級の全国的結集を目標に、{{仮リンク|全国労働組合大連合|en|Grand National Consolidated Trades Union}}が発足した。「生産階級の全体的組織」を樹立するために、オウエンは資本家も含めて生産にたずさわる全ての階級が提携して労使協調的な大連合を構想してその指導者となった。主たる活動目標は、1)諸団体の構成を合理的に統合編成していくこと、2)生産調整などの方法を実行して賃下げに有効な戦略を試みること、3)ストライキを支援して賃上げ運動を展開することにあった<ref name="浜林正夫(2009)80">[[#浜林正夫(2009)|浜林正夫(2009)]] p.80</ref>。機関誌『パイオニア』によると、「大連合」は加盟団体を順調に獲得してその勢力は急激に拡大、自称50万人の会員を擁する巨大組織へと成長した<ref name="浜林正夫(2009)81">[[#浜林正夫(2009)|浜林正夫(2009)]] p.81</ref>。 |
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[[労働組合]]の組織化を援助するために各地の闘争を支援した。 |
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だが、1833年11月に始まったダービーの絹織工によるストライキは大連合にとって大打撃となった。絹織工は組合脱退要請を拒絶して闘争を開始したが、雇用主側のロックアウトに直面したため自分たちのために労働することを宣言した。オウエンは闘争を支援する目的で協同組合工場の設立を構想するが実現できず、ストライキも4ヶ月の抵抗の末敗北した。さらに、当時のイングランド南部の農村では、{{仮リンク|スウィング蜂起|en|Swing Riots}}という脱穀機を破壊するといった騒擾が激化していた。そんな中で[[ドーチェスター]]近郊のトルパドルでジョージ・ラヴレスら6名の農業労働者が大連合に参加する誓約書に署名した嫌疑で逮捕され、裁判の結果[[オーストラリア]]や[[タスマニア]]への七年間の流刑が言い渡された。これが{{仮リンク|トルパドル事件|en|Tolpuddle Martyrs}}である。1834年4月21日、オウエンと大連合はこの事件での判決に25万人の署名を集めて不服を表明、抗議のために過少に見積もっても三万人が参加した大請願集会を開催し、被告人らの刑期短縮を獲得した<ref name="浜林正夫(2009)82">[[#浜林正夫(2009)|浜林正夫(2009)]] p.82</ref>。 |
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その後、大連合崩壊につながる亀裂が生じ始めた。綿紡績工の組織化での困難に直面している間に建築工のストライキに突入、全国的な労働闘争とその支援に忙殺される。しかし、現実的に大連合が提供できる支援策は少なく、傘下の組織の足並みや意見も不統一のままであった。建築工、陶工、紡績工、織物工といった業種の有力組合が参加せず、活動規模と財政力は主張するほど勢力を持ってはいなかったのである。大連合や傘下の労働組合内では基金横領事件が発生するなど内部統制上の問題も抱えていた。こうした状況下で組合闘争の多くが資本家によるロックアウトで挫折していく<ref name="浜林正夫(2009)81">[[#浜林正夫(2009)|浜林正夫(2009)]] p.81</ref>。やがて、大連合指導部の足並みも乱れ始め、戦闘的なストライキを試みる組合指導者と階級協調や協同組合主義を模索するオウエンの立場は隔たっていく。かくして「大連合」は崩壊してオウエン主義の後退が生じるが、この間隙のなかで選挙法改正運動において[[チャーティスト運動]]が勢力を拡大させていく。 |
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*オウエンと組合指導者間の対立 (組合観の相違) |
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=== 晩年と死 === |
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[[File:Portrait of Robert Owen (1771 - 1858) by John Cranch, 1845.jpg|thumb|200px|1845年のロバート・オウエン]] |
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[[File:Tomb of Robert Owen (1771-1858) - geograph.org.uk - 661997.jpg|thumb|260px|ロバート・オウエンの墓]] |
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*『新道徳世界』の刊行 |
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**オウエン主義とは何か? |
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***「社会主義の父」(経済の重視・階級闘争の否定・道徳改革への理想) |
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**ヨーロッパ旅行 |
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*クイーンウッド協同村の建設 |
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** [[ロッチデール先駆者協同組合]]の運動(1844年)へと発展 |
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*1848年革命 |
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*心霊主義者としての晩年を記述 |
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**ケント公の霊と交友することに没頭した |
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*老衰 |
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**社会科学協会での講演 → 老衰で発言を続けられず |
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*ニュータウンへの帰郷 |
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*死 |
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**墓碑銘「ロバート・オウエン。人類愛に燃えた人。」 |
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== 家族 == |
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*{{仮リンク|デイヴィッド・デイル|en|David Dale}} |
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*カロライン・オウエン |
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オウエンの人生に残された偉業は、彼とニュー・ハーモニーに移住した四人の息子ロバート・デイル、ウィリアム、デーヴィット・デイル、リチャード・デイルと娘のジェーンに受け継がれた。 |
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[[File:Owen-Robert-Dale-1840s.jpg|thumb|150px|{{仮リンク|ロバート・デイル・オウエン|en|Robert Dale Owen}}(1801–1877)。]] |
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*{{仮リンク|ロバート・デイル・オウエン|en|Robert Dale Owen}}(1801–1877)。1825年、父とともにアメリカへと渡ったロバート・デイルは、ニューヨークに上陸後、すぐさまアメリカ市民権を申請した。父を支えてニューハーモニー・コミュニティを運営し、1820年代後半に『ニューハーモニー新聞』の発行を助け、協同主義の有能な提唱者となった。また、1826年以降はアメリカの自由思想家{{仮リンク|フランシス・ライト|en|Frances Wright)}}とともに活動してナショーバーで黒人解放奴隷の定住化計画に協力した。ライトと[[ニューヨーク]]で週刊誌『自由探求者』を共同で編集、[[エイブラハム・リンカーン]]とも30年以上も交友し、婦人解放、奴隷解放、協同主義の宣伝に努めた。1832年にニューハーモニーに戻り、[[インディアナ州]]で政治家になる。1835年には民主党から{{仮リンク|インディアナ州議会|en|Indiana House of Representatives}}議員に選出され、1836–1839年にかけて、1851–1853年にかけて議員を務めた。1843-1847年にはインディアナ州から[[アメリカ合衆国下院]]議員に選出された。1844年には[[オレゴン州]]境問題で境界案を提示したほか、1845年には[[スミソニアン研究所]]の設置、1850年の州憲法改正に貢献した。1853年には[[ナポリ王国]]駐在代理公使、1855年にはイタリア大使、1858年に帰国した後は再び奴隷解放問題に向けて活動した。1861-1865年の[[南北戦争]]の末期に[[アメリカ国防省|国防省]]に設置された自由民対策庁長官に就任、北軍作戦地域の自由民や難民の救済と保護を担当した。戦後も[[ワシントンD.C.]]に留まり、公民権法として知られる[[合衆国憲法]]修正第14条の制定のために尽力した<ref name="上田千秋(1984)339">[[#上田千秋(1984)|上田千秋(1984)]] p.339</ref>。 |
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*ウィリアム・オウエン (1802–1842)。1824年、父とともにアメリカに渡ったウィリアムは、ニュー・ハーモニー建設運動に当初から参加して終生に渡って共同体の実験に尽くした。父がアメリカを去った後も現地に留まり、1837年メアリと結ばれて弟たちと共に結婚式を挙げた。わずか一年で妻を失い、五年後には早すぎる死を遂げた。若くして亡くなったため伝えられている事績は乏しいが、演劇に関する関心が深く、1827年にニュー・ハーモニーに演劇組合を設立した。組合は百年ほど存続したといわれている。1838年には「演劇の船」をつくり[[ミシシッピ川]]を下って各地の巡回公演を行った<ref name="上田千秋(1984)340">[[#上田千秋(1984)|上田千秋(1984)]] p.340</ref>。 |
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*ジェーン・デイル・オウエン(1805–1861)。母と姉妹の死後、ジェーンは最後にニュー・ハーモニーに入った。1835年に[[バージニア州]]出身で村の売店を共同経営していたロバート・ヘンリー・フォーンテレロリーと結婚するが、1850年に商用で南部に出かけた夫を[[黄熱病]]で亡くした。その後は子供と甥や姪の教育に専念した。長女のコンスタンスは伯父のロバート・デイルの[[ナポリ]]赴任に随行してヨーロッパに渡って教育を受け、帰国後はニュー・ハーモニーに定住して、1859年にアメリカ最初の婦人の文化サークル「ミネルバ協会」を設立した。協会の規約は叔父のロバート・デイルが書いた<ref name="上田千秋(1984)340">[[#上田千秋(1984)|上田千秋(1984)]] p.340</ref>。 |
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== 影響と評価 == |
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{{社会主義}} |
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{{社会民主主義}} |
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[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]らから、[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]、[[シャルル・フーリエ|フーリエ]]などと共に[[空想的社会主義]]者と評されつつも、挙げた実績に関しては高い評価を受けた。日本国内に、ロバート・オウエン協会がある。 |
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== 著書 == |
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*{{lang-en|''A New View of Society: Or, Essays on the Formation of Human Character, and the Application of the Principle to Practice''}} (London, 1813). Retitled, ({{lang-en|''A New View of Society: Or, Essays on the Formation of Human Character Preparatory to the Development of a Plan for Gradually Ameliorating the Condition of Mankind''}}, for second edition, 1816. |
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*{{lang-en|''Observations on the Effect of the Manufacturing System''}}. (London, 1815). |
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*{{lang-en|''Report to the Committee of the Association for the Relief of the Manufacturing and Labouring Poor''}} (1817).<ref>Harrison, "Robert Owen's Quest for the New Moral World in America," in ({{lang-en|''Robert Owen's American Legacy''}}, p. 32.</ref> |
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*{{lang-en|''Two Memorials Behalf of the Working Classes''}} (London: Longman, Hurst, Rees, Orme, and Brown, 181<ref>{{cite book | author=Robert Owen | title =Two Memorials Behalf of the Working Classes | publisher =Longman, Hurst, Rees, Orme, and Brown | series = | volume = | edition = | year =1818 | location =London | pages = | url = https://books.google.com/books/about/Two_Memorials_on_Behalf_of_the_Working_C.html?id=sUNBAAAAYAAJ | isbn =}}</ref> |
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*{{lang-en|''An Address to the Master Manufacturers of Great Britain: On the Present Existing Evils in the Manufacturing System''}} (Bolton, 1819) |
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*{{lang-en|''Report to the County of Lanark of a Plan for relieving Public Distress''}} (Glasgow: Glasgow University Press, 1821) |
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*{{lang-en|''An Explanation of the Cause of Distress which pervades the civilised parts of the world''}} (London and Paris, 1823) |
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*{{lang-en|The Social System}} in {{lang-en|''The New-Harmony Gazette''}}, Vol.2, (1826-1827) |
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*{{lang-en|''An Address to All Classes in the State''}} (London, 1832) |
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*{{lang-en|''The Revolution in the Mind and Practice of the Human Race''}} (London, 1849) |
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==著書== |
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主な著書 |
主な著書 |
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*『オウエン自叙伝』([[五島茂]]訳、[[岩波書店]]、[[岩波文庫]]、1961年、ISBN 4003410823) |
*『オウエン自叙伝』([[五島茂]]訳、[[岩波書店]]、[[岩波文庫]]、1961年、ISBN 4003410823) |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=ロバート・オウエン|translator=[[五島茂]]|year=1961|title=オウエン自叙伝|publisher=[[岩波書店]]|ref={{harvid|オウエン自叙伝|1961}}}} |
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*{{Cite book|和書|author=ロバート・オウエン、サン・シモン、シャルル・フーリエ|editor=[[五島茂]]、[[坂本慶一]]|year=1980|title=世界の名著 42 オウエン、サン・シモン、フーリエ |publisher=[[中央公論社]]|ref={{harvid|世界の名著 42|1980}}}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[浜林正夫]]|date=2009|title=イギリス労働運動史|publisher=[[学習の友社]]|ref={{harvid|浜林/労働運動|2009}}}} |
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*{{Cite book|和書|author= [[マックス・ベア]]|translator=[[大島清]] |year=1970 |title=イギリス社会主義史(2)|publisher=[[岩波書店]]|ref={{harvid|マックス・ベア|1970}}}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ヘンリー・ペリング]]|translator=[[大前朔郎]],[[大前真]] |year=1982|title=イギリス労働組合運動史|publisher=[[東洋経済新報社]]|ref={{harvid|ペリング|1982}}}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[シドニー・ウェッブ]],[[ビアトリス・ウエッブ]]|translator=[[荒畑寒村]]|date=1949年|title=労働組合運動の歴史|publisher=[[板垣書店]]|ref=ウェッブ(1949)}} |
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*{{Cite book|和書|editor=[[都築忠七]]|date=1986年|title=イギリス社会主義思想史|publisher=[[三省堂]]|ref=都築忠七(1986)}} |
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*[http://ccij.jp/robart/ ロバアト・オウエン協会 | CCIJ-公益財団法人 生協総合研究所] |
*[http://ccij.jp/robart/ ロバアト・オウエン協会 | CCIJ-公益財団法人 生協総合研究所] |
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*[http://diamond.jp/articles/-/2957?page=2 ロバート・オーエン 人事管理のパイオニア] DIAMOND online |
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*{{cite NIE|wstitle=Owen, Robert|year=1905 |short=x}} |
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*{{Internet Archive author|name=Robert Owen}} |
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2018年6月30日 (土) 14:12時点における版
50歳ごろのロバート・オウエン | |
生誕 | ウェールズ、モントゴメリーシャーのニュータウン(ポーイス) |
---|---|
死没 | ウェールズ、モントゴメリーシャーのニュータウン(ポーイス) |
時代 | 19世紀初頭産業革命期 |
地域 | イギリス、アメリカ合衆国 |
学派 | 空想社会主義、イギリス社会主義、人道主義、博愛主義、世俗主義 |
研究分野 | 紡績工場経営、協同組合、労働組合運動、社会改良主義、性格形成論、幼児教育運動、宗教批判、共産村建設運動 |
主な概念 | 環境決定論、直観教育、協同組合、生協、労働交換所、生産と生活の共同体 |
ロバート・オウエン(Robert Owen、1771年5月14日 - 1858年11月17日)は、イギリスの実業家、社会改革家、社会主義者。人間の活動は環境によって決定される、とする環境決定論を主張し、環境改善によって優良な性格形成を促せるとして先進的な教育運動を展開した。協同組合の基礎を作り、労働組合運動の先駆けとなった空想社会主義者。初めて国際的な労働者保護を唱えたとされる[1]。ロバート・オーウェンあるいはロバート・オーエンの表記ゆれがみられる。
概要
1771年、ロバート・オウエンは、北ウェールズ地方モントゴメリーシャーのニュータウン(ポーイス)で、小手工業者の子として生まれ、10代で商店に奉公して各地を転々とした。この間に産業革命の進行にともなう労働者の困窮を目撃する。
1790年、マンチェスターの紡績工場の支配人となって、数々の技術改良を進め、工場経営に成功、資本家となっていく。ついで、1800年以降、スコットランドのニュー・ラナーク紡績工場の共同経営者となって最新技術の導入を図り、優れた経営手腕で2000人の労働者を雇用する「綿業王」へと立身出世を果たしていく。同時に、労働者の生活改善やその子弟の教育に尽力して、工場に幼稚園や共済店舗を設けた。著述を通じて労働立法の必要を説き、1819年の紡績工場法の制定に貢献した。
1817年には、貧民階級救済のために協同主義社会の創設を提案した。1839-1842年には、私財を投じてアメリカ・インディアナ州に協同村ニューハーモニーを建設したが失敗に終わった。帰国後、1839-42年にクイーンウッドでも同様の試みをしたがやはり失敗する。財産を失って庶民へと身を落した後は、社会運動や言論活動を通じて私有財産制度・宗教・財産結婚、金属貨幣制度を厳しく糾弾した。
1833-1834年には全国労働組合大連合を創設したが、政府の弾圧と内部分裂で初の全国的統一組合は瓦解した。その後、1837-1858年にかけて成人男子選挙権と議席再配分を要求する急進的な民主化運動チャーティスト運動が発展を見せたが、オウエンは労働者解放を実現する方法を経済的な抑圧の打破に求めたため、こうした政治運動には距離を置いた。晩年は、精神更生運動に没頭して1858年に87歳で貧困のうちに没した。
エンゲルスによってアンリ・ド・サン=シモンやシャルル・フーリエと並んで「空想社会主義者」と位置づけられた。
経歴
幼少期(1771-1780)
1771年、北ウェールズ地方モントゴメリーシャーのニュータウン(ポーイス)で誕生した[2][3]。父ロバート・オウエンは馬具や金物を扱っていた小手工業者であった。父は駅逓長も努めたほか教区の会計役も果たし、地域で信頼された人物であった。そして、母アンは地元富農の娘で評判の美人で品行方正な女性だったと伝わっている。ロバートはこの両親の7人兄弟の6番目の子供として生まれた。内二人は夭折したが、上からウィリアム、アン、ジョン、リチャードが残った[4]。
幼児期に注目すべき逸話としてこんなエピソードが残っている。ロバートは、5歳の時、ある日登校時刻に間に合わなくなりそうになり、朝食の熱いオートミールをあわてて飲み込んで、お腹の中に火傷をしてしまった。そのことがもとで、細かく観察したり、深く考える習慣がついたと、後年『自叙伝』の中で回想している。本書によると、この事件は自身の性格を形成するものに大きな影響を与えたと言及されている[5]。
また、ロバート・オウエンは幼少期から読書を好み、『ロビンソン・クルーソー』などの小説類、ジェームズ・クックの航海記などの冒険譚、偉人たちの伝記を読み漁った[6]。8歳ごろ、メソジストの姉妹と交流を持ったのをきっかけに宗教書を読んだ。彼は宗教に関心を抱いて、宗教間・宗派間の対立の存在を知って、いつしか宗教に疑問を募らせていき、宗教に対する否定的な立場を生涯持ち続けた。。その結果、地元では「小牧師」の異名を持ったという[7]。学業については、音楽、ダンス、体育が得意だった。負けず嫌いで一番になりたがり、競争心が強かった[8]。地元のジェームズ・ダン青年と交友して各所を散策、自然観察の楽しみを享受することを覚えた[9]。従弟のリチャード・ウィリアムとはとりわけ仲が良く、一緒に遊んで過ごした。そのなかで、二人で草刈りの手伝いをしたことがあり、作業を通じて働くことの達成感とやりがいを感じたという[10]。
母親とも愛情に満ちた日々を過ごしていた。しかし、一度だけ母アンの折檻を受けた記憶があるという。彼は母から呼びかけられたが、よく聞きもせず、「いいや」と生返事したという。それで母が立腹して叩かれたというが、ロバートによると十分に意図を理解しているが尋ねて叱ればよいのであって、一方的に怒り罰するのは理不尽だと感じたようだ。これにより、罰は罰する側にも罰せられる側にも有害であると考えるようになったという[11]。
店員時代(1780-1789)
ロバートは温かい家庭に恵まれ、両親の寵愛を受けて育てられた。だが、この時代の子供の自立は早く、10歳で働き始めるのが普通であった。ニュータウンの隣家の店の手伝いを始めて幼い頃から働き始める。したがって、ロバートの教育レベルも初歩的な教育を受けて読書算ができる程度であった。以後の知的活動は全て独学の産物である。当然、ロバートもやがてはロンドンのような都会に出て働きたいと考えるようになった。10歳になったら家を出てロンドンに行き、当地でしかるべき親方のもとで奉公することを両親に伝え、その承諾を得ることになった[12]。
ロバートは、父親の伝でリンカンシャーのスタムフォードの高級リンネルの生地商ジェイムズ・マクガフォッグの商店で一年目は無給、二年目は8ポンド、三年目は10ポンドの契約で寝食付きの住み込み奉公を始めた。以降、経済的に親から独立して自力で生計を立てていく[13]。その後、夢に抱いていたロンドン行きを決意して、当時流行していた10セントストアのフリント・パーマー商会で働いた[14]。
また、マンチェスターの呉服卸商店サタフィールド商店で働き始めて繊維業界での知識を蓄えていった。モスリン、キャンブリック、アイリシュ・リネン、レースなどの細糸織物の製作、品質評価(目利き)、取引、在庫管理、労務管理、経理、仕入れなど業務ノウハウを身につけていく。サタフィールド商店での経験が後の成功の礎となっていく[14]。
実業家時代(1789-1799)
青年経営者への道
1789年、ロバートがサタフィールド商店で働いていた頃、婦人帽の針金部材の納品で商店に来る一人の職人ジョーン・ジョーンズという青年に出会った。そして、紡績機を購入して合資会社を設立して商売をしないか持ちかけられた。ロバートは兄ウィリアムから100ポンドを借りてミュール紡績機を購入して改良し、工場を借りて40人の職人を雇用して、紡績に着手した。だが、ジョーンは発明家を志していたものの経営については素人で、実際の仕入れ、在庫管理、労務など経営実務はすべてロバートがやっていた[15]。その後、ジョーンは他社からの提携話で会社を売却するが、以後ロバートが三台のミュール紡績機と三人の工員を引き受けて独立、アンコーツ・レインの工場で単身経営を担うことになった。その結果、平均週6ポンドの利益を出すようになった[16]。
こうした実業における成果は業界の有力者の目にも留まった。業界人ピーター・ドリンクウォーターの工場ではジョージ・リーという有能な支配人が急に退社して支配人不在の状態になっていた。そこで、工場支配人を募集する広告を出していたのであるが、この広告をロバートの工員が見つけて彼に応募するように勧めたのである。こうして、ロバートはランカシャー随一の蒸気機関を動力とする最新設備を備えた紡績工場ピカディリー工場の支配人として抜擢された。このときの起用は、オウエン自身が自力でも稼げると豪語したうえで強気と言える300ポンドもの破格の俸給を要求しての異例な取立てだった。1792年、早速これまで経営していた会社をドリンクウォーターに売却して成年男女小児合わせて500人の工員を雇用する巨大な近代化工場の支配人に着任した[17]。
ロバートは朝一番に出勤して工場の鍵を開け、日々寡黙に働いて仕入れから製造、商品開発、在庫管理、労務管理、経理、取引をこなし、夜最期に帰宅するという生活を続けた。製糸の技術改良に取り組み、繊度を高めて細糸を製作する技術を開発して最高120番手の製糸を達成し、翌年には300番手という極細糸を製造することに成功した[18]。また、仕入れでは品質に優れたアメリカ綿の輸入をいち早く決定して、原産地を変えて製造を試み、品質向上を実現した。やがて、アメリカ綿は国内需要の90パーセントを占めるようになる[19]。
かくして、オウエンの製品は前任者リーの在庫品よりも歓迎され、この若手支配人は早々に失敗するだろうという周囲の予測を裏切り、大成功を挙げた。これに喜んだドリンクウォーターはロバートに破格の高給を与えて、二人の息子と合資会社を発足させる協定を提示した。ピカディリー糸は市場の好評を受けて生産能力の全てを挙げても追いつかないほどの人気商品となり、商品の包装にはオウエンの名が印刷されることになった[19]。
こうした技術面以上に成果を上げたのが、オウエンの進んだ労務管理体制であった。工場の就業規則と取決めを定めて規律・訓練・節制を中心に厳格な労務管理を構築するとともに、労働条件や労働環境を思い切って改善し、労働者に対して高賃金と高待遇、高い独立性をもった労働条件を提示して雇用した工員の心情を掌握した。整然と規律正しい労働をもって生産力を向上させ、製品の品質向上と商品開発に精力を傾け、増産と利益向上を実現した[20]。オウエンにとって重要だったのは、労働者に対する雇用条件の改善がもたらす効果が人と企業に響いていく事実を見出して、そこに「繁栄の法則性」を発見したことだった。この発見と手ごたえはさらに理論的に発展されていく。
パーシヴァルとの出会い
(不健康と労働被災の障害児童の記述追加)
1793年、ロバート・オウエンは事業で成功を収めて名士の仲間入りを果たした。
非国教徒系のマンチェスター大学の学者と交友し、23歳にして紡績業界の専門家として学術団体「マンチェスター文学哲学協会」に参加を許された。同協会は、大学で助手を務めていた化学者ジョン・ドルトン、詩人コールリッジ、汽船発明者のロバート・フルトンらが所属していた。オウエンはフルトンに資金援助をするとともに、彼らと科学と発明、宗教、啓蒙や改革に関する討議を夜毎重ねた。そして、オウエンは協会で綿の問題に関する三篇の論文を発表している[21]。
また、協会の会長トーマス・パーシヴァル博士は当時もっとも優れた公衆衛生学者であった[21][22]。
16世紀に教区徒弟を雇用する法が制定されており、それに基づき7歳になると教区の救済を受けている子供たちが教区吏によって親方に連れていかれ工房で雇用された。当初、子供の浮浪化を防いで定職に就くように促す目的があったものの、やがて過酷な児童労働を科す産業革命の暗黒面を表象する制度となっていった。19世紀にはいる頃には、子供は5-6歳で工場に連れてこられ、安価な労働力として利用され、不健康な状態の中で通常14-16時間にわたって長時間働かされていた。
1794年、パーシヴァル博士は、マンチェスターを襲った熱病に関する報告書において、幼い児童らが不衛生な工場内で長時間の過重労働を強いられてきた結果熱病で倒れたのだと結論を示し、時の工場労働の実態を告発した。同報告書において、密集状態の解消、衛生環境の改善、長時間労働の是正を要求した[23]。1795年、パーシヴァル博士はマンチェスター保健局を設立し、労働調査委員会のサー・ロバート・ピールに児童労働に対処するように求めた。児童の教育レベルを向上させるために児童の深夜業を禁じ、工場内の環境を改善するように工場主に注意喚起をするよう働きかけた[24]。
パーシヴァル博士の提言により、工場主が徒弟に対して、建物内の衛生を整え、衣類と食事を提供し、十分な休養を取れるように配慮し、医療扶助をおこない、読書算を教え込む責任があることが確認された[25]。そして、この内容に即して1802年の徒弟健康公徳法制定された。同法では徒弟の労働時間が12時間に制限され、深夜業は廃止された。また、雇用主に衣類と食事の提供、毎日三時間を利用して読書算の教育を与える義務が負わされた。また、年一回は大規模な清掃を実施することが定められ、常に換気をおこなうことが明記された。工場監督官が法令の順守状況を確認することとされ、違反した場合は罰金を科されることが規定された[26]。だが、工場主はしばしば法令を無視した。また、教師は老齢で無能で学校の設備や備品は十分に整備されず、三歳以上の児童が雑居していてほとんど教育効果を発揮しなかった。
こうした欠陥があったものの、博士は先進的な法律制定に寄与した他、ロバート・オウエンも保健局の一員となりその思想に影響を与えた。ロバート・オウエンは小学校相当の教育しか受けていないが、それ故に人一倍知識欲が旺盛であった。この時期の知的交流の結果、合理的思考に研磨が加わり、工場立法の必要性と環境改善による性格形成理論の原型ができ始めていった[21]。観察や経験、思考に基づいて人間性というものが科学と社会の基礎にあることを発見した。オウエンの哲学はアイザック・ニュートンの自然観に影響を受けた他、プラトン、ディドロ、エルヴェシウス、ウィリアム・ゴドウィン、ジョン・ロック、ジェームズ・ミル、ジェレミー・ベンサムといった思想家の影響を受けた。しかし、オウエンは啓蒙思想の直接的影響を受けなかった。
独立、恋愛、結婚
オウエンが成功を収めた時、再び大きな変化が生じた。サミュエル・オルドノオがナポレオン戦争による恐慌から巨額の損失を抱えて、ドリンクウォーターの娘との縁談話を持ちかけて、合併計画を策したのである。そして、オルドノオはドリンクウォーターにオウエンとの合資協定を要求、ドリンクウォーターもこれを受諾したのである。オウエンは経営権剥奪を通達されたため激怒して支配人辞任を声明し、独立することを決意した[27]。
1796年、オウエンはロンドンのボロデール・アトキンス商会とマンチェスターのバーデン商会と合資協定を締結して、コールトン紡績会社を設立した。綿花の買い付け、紡績操作、精巧な商品開発、販売営業などで、ランカシャーとスコットランドを駆け回り、まもなくドリンクウォーター商会を圧倒した[27]。
この商用の旅の途上、グラスゴウの街頭でカロライン・デイル嬢と引き合わされ、やがて恋愛関係になった。1798年、カロラインの父であり、有力な商人、木綿王、銀行家、紡績工場を経営していたデイヴィッド・デイルと協定を結んで新会社を発足させ、ニュー・ラナーク工場の共同経営者となった。翌年、ロバート・オウエンはデイルの娘カロラインと結婚した[27]。ロバートとカロラインの間には8人の子が生まれた。最初の子は早くに亡くなったものの、ロバート・デイル(1801–77)、ウィリアム(1802–42)、アン・カロライン(1805–31)、ジェーン・デイル(1805–61)、デイヴィッド・デイル(1807-1860)、リチャード・オウエン(1809–90)、メアリ(1810–32)が成人した[注釈 1]。
ニュー・ラナーク時代(1798-1813)
ニュー・ラナーク工場はスコットランド・サウス・ラナークシャーの都市ラナークから約2.2kmを流れるクライド川沿いに位置する。
ニュー・ラナークの起源は、1786年にデヴィッド・デイルが綿紡績工場を建設して1700名の工員を雇用し、工場労働者用の住宅を建設したことに端を発するが、デイルがその場所に工場を建てたのは川の水力を活用するためだった[注釈 2]。1798年、ロバート・オウエンは年利5%の償還条件に基づいて総額6万ポンドで工場を買収した。こうしてデイルの娘婿であった博愛主義者で社会改良主義者のロバート・オウエンも経営陣に名を連ね、デイルとの共同所有のもと工場労働の悪弊を打破すべく苦闘を重ねていく。ロバート・オウエンは決意を次のように表明した。
「(当時は)、自分が克服せねばならぬ悪習や悪行が、人々の間に行われていることが直ちに見出した。…全工場を通じて。人々はのんだくれで不道徳であった。主な支配人たちは、「いわゆる命の洗濯」なるもの―何週間もぶっ通しに毎日毎日酒に浸って、その期間は全く彼担当の仕事を放っておく、それ―をしきりにやっていたものだ。盗みなどごく普通のことで、おびただしく途方もない程にまで行われていた。デール氏の財産はあらゆる方面で掠奪され、殆ど公有財産と見なされていた。……。私はこれらの不幸な地位におかれてある人々をば、彼らが実際にあるがままに、無知な悪い境遇の被造物だと考えなければならぬ、すなわちそれらの人々は、彼らを囲むようにされた悪条件のために、今日あるが如きものにされたのであって、それに対して責任を負うべきものがあるとすれば社会のみである。かつ個人個人を苦しめる代わりに、―ある者を獄に投じ、ある者を流罪にし、ある者を絞首刑にし、人々を常に不合理な興奮の状態においておく代わりに―、私はこれらの悪状態を、良き状態に変じなければならぬ。
この後の方法は、…人間性およびそれに及ぼす境遇の力の科学に関する知識を必要とする。……。その秘密は、一つの源泉からのみ開かれうるのだ。「われわれ人類の各人の性格は、神すなわち自然により、および社会によって形成される。従ってまたいかなる人間も、自分の諸性質あるいは性格を、形成しえたとか、うるとかということは、不可能なのだ。」という知識からのみだ。」[28]
ここで提起された「人間性に関する知識」はやがて人間形成理論として体系化されていく。
ここでもオウエンは「統治」と称する革新的な経営管理を試み、矢継ぎ早に労務改革、管理体制の刷新を図った。「統治」の原理は、ドリンクウォーターのピカディリー工場で導入した経営手法に基づいたものであった。厳格な原価計算、ストック・コントロールを採用して、作業の能率化と労働時間を10時間半に縮減した。沈黙の操業報告「作業モニター」に基づく勤務評定を採用して賃金体系を定めた[注釈 3]。福祉施設を整備して生協の購買ショップを開設して生活費の切り下げを図り、労働者に対する充実した福利厚生を実現した[30]。
一方、オウエンは最大の利潤を得られるように努力し、企業家としての本分である利潤追求についても結果を出した。前期14年間で年平均2万5千ポンド、後期12年間で年平均1万9千ポンドの利潤を記録、年率5%の利払いの後も5万ポンドの資本増強を達成した[30]。しかし、オウエンは企業的利益の追求だけに満足はしなかった。彼の関心は客観的な労働条件の改善と主体的な人格の陶冶に向けられていた。新しい人間性の形成とそれによる社会変革の思想が現れてきた。やがて、ニュー・ラナークはソーシャルビジネスにより事業的にも成功を収め、いわゆるユートピア社会主義を体現する存在となった[31]。
公的人生の始まり(1810-1825)
児童労働問題の再浮上
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- (ラッダイト・児童労働・団結禁止法以降について詳細な記述必要)
1802年、ロバート・オウエンは劣悪な工場経営を刷新する上で中心となる理論を世に広めようと執筆に取り組んでいく。翌年、グラスゴー製造業主委員会に「イギリス綿工業報告書」を提出、産業問題、労働問題に関する発言を増加させた。
1806年には義父のデイヴィッド・デイルが死去してその娘を引き取っている。翌年1807年、アメリカ合衆国がフランスと結んでイギリスと国交を断絶して綿花の輸出を停止させた。これにより繊維産業で不況が発生し、ニューラナーク工場も操業停止を余儀なくされたが、オウエンは職工の生活防衛のために四カ月の休業期間も賃金を支給した[32]。1808年にはランカシャーで大規模な労働争議が発生した他、1810年にも恐慌が襲いスコットランドの織布工の大争議が発生した[33]。
1810年代、各地でラッダイト運動が激化していた[33]。これに対して、オウエンは機械は時代の進歩から生み出され、さらに文明の発展を促していくものと考えていた。オウエンは機械の打ち壊しに反対して、代替案として機械化を前進させて労働時間短縮など労働条件の改善に取り組んだ。1799年団結禁止法下で20年にわたり停滞してきた労働運動を前進させ、労働者の待遇改善のために工場立法の必要を訴え始めた。1812年には、グラスゴーで十時間労働法案第一回公開集会が開かれて、議長に指名された[33]。しかし、雇用者側で意見の折り合いがつかず、結局、議員と折衝して法制化することを検討する。
1812年、オウエンは「ピール委員会」でニュー・ラナーク工場での経営の実例を紹介し、綿工場での過酷な労働の実態を証言した。そして、10歳未満の児童労働の禁止を要求するとともに、12歳までの少年については半日工とすること、また一般労働者の労働時間を12時間以内に制限して順次時短を図るように訴えた。しかし、サー・ロバート・ピールが主導力や戦略が不足していたため法制化に対する委員からの十分な支持が集まらず、委員会での議論は長期化して成果を出すには至らなかった。
しかし、オウエンの見識はニュー・ラナークで培った経験を社会に役立てる段階に到達していた。
- 『社会にかんする新見解』
(簡単な内容紹介を記述する)
性格形成学院と児童教育
『社会にかんする新見解』の中心をなすものは教育による人間性の改良であったが、これを実践する方法は学校教育であった。1802年、オウエンは1000ポンドの資金を寄付してアンドリュー・ベルとジョセフ・ランカスターによる大規模教授法(ベル・ランカスター法)の開発に資金援助をしていたが、これに飽き足らず教育事業に積極的に取り組んだ[34]。工場内教育を実践して、その経験を活用する学校を設立、独自に教育原理を確立しようと試みた。
オウエンの時代には、およそ2500人がニュー・ラナークに住んでいたが、その多くはグラスゴーやエディンバラの救貧院出身の貧しい労働者であった。労働者は過酷な境遇にはなかったが、オウエンは既存の労働環境に満足せず、環境改善を推進していた。彼は子供たちに格段の注意を払き、先進的な教育のプランを実践した。オウエンは学院を設立するにあたっての動機をこのように語った。
「貧しい労働者階級の住宅は、おおむね幼い子供たちの訓練には全く適しない。幼い子供たちは、これらの住居の限られた広さや設備のもとでは、しょっちゅうその親たち、すなわち日々の仕事でいっぱいな親たちにとっては、邪魔になってしょうがないものだ。だから子供たちは、訓練の行き届いた子供たちに必要なやりかたとまるで正反対な物言いもし扱われもする。それで百のうち九十九まで、親たちは子を、殊に自分の子を扱う正しい方法をまるで知らない。こうした考慮が、私に、まず幼児がその親たちの手を離れうるそもそもの始まりから、性格形成の真の原理に基づいた幼児教育の必要にかんする最初の考えを私の心の中に創り出したのである。」[35]
当時のニュー・ラナークには500人ほどの子供が暮らしており、多くの子供たちが工場で働いていた。オウエンは育児や教育における労働者階級の実情を目の当たりにして、貧しい労働者の家庭が児童教育に相応しい環境になっていないことを痛感した。子供たちを危険な工場から隔離して児童の取り扱いのできる者に監督させ、一方、両親は子供を保育所に預けて日中労働に専念して、安心して子育てしながら働いていくというコンセプトを実現させようと考えた[36]。すぐに10歳未満の子どもの工場労働を止めさせ、子供たちの性格改良のための幼児学校を工場に併設することを決断する。
しかし、1809年、オウエンは学校の建設を開始したものの出資者の反対にあって一時中断した。合資協定をめぐるトラブルによって一時破産しかけたものの、支援者からの資金援助で危機を辛くも乗り越えていた。1813-14年にニュー・ラナーク工場は競売にかけられ、オウエンが11万4100ポンドで工場を購入、ジェレミー・ベンサムなど進歩的知識人を含む出資者と新しい合資協定を締結した[注釈 4]。学院の建設事業を再開させ、ようやく1816年1月1日に開校に漕ぎつけた。オウエンは学校を「性格形成新学院」と名付けた[38]。この学院は三階建て煉瓦造りの二つの校舎からなり、昼間は幼稚園と小学校、夜間は青少年と成人のための夜間学校であった。これが世界初の夜間学校となった。学校建設費は3000ポンドで費用は会社の利潤から充て、運営費用[注釈 5]は授業料では賄い切れなかったため、工場の生協ストアの売り上げから捻出した[39]。子供たちに健康を与え、優美な肉体を与え、自然的な服従と規律を与え、心に平和と幸福を与え、心身ともに健全な素地を育成することが建学の理念であった[40]。
オウエンの教育事業は幼児教育の最初の試みであった。1840年に幼稚園を開園し、幼児教育の生みの親といわれるフリードリヒ・フレーベルよりも先んじて、就学前の子どものための学校を実践した[41]。
オウエンは満1歳から歩けるようになれば子供をすぐに学院に収容した。三歳までを第一組、3-6歳までを第二組として、それぞれの組で30-50人が収容されていた。選ばれた婦人一人が監督していた[注釈 6]。第一組は校舎一階の一室と運動場が中心、第二組は教室と運動場に加えて田園散策も頻繁におこなわれた。1816年の開校時に園児の内訳は男児が49人、女児が31人であった。幼稚園と小学校で制服が無償で提供され[注釈 7]、幼稚園の授業料は無料で小学校の授業料は3ペンスであった[46][47]。
1818年、オウエンはペスタロッチを訪問して[注釈 8]、幼児教育における最先端の手法「実物教授」に基づく教育原理を採用した[39]。児童教育の方針を次のように語っている。
- ヨーロッパ旅行
「幼児小児は、眼に見えるもの―すなわち実物(模型や絵)によって、また打ち解けた話によって教えられる。」 「小児を書物でいじめるな。身の回りにころがっている物の使い方や本性・性質を教えるものだ、小児の好奇心が刺激され、それらについて質問するようになったときに打ち解けた言葉で。……これらの幼児小児の真の知識が書物なしで立派に進歩してゆくのを見るのはこの上もなく元気づけられる悦ばしいことだった。且つ教育、すなわち性格形成の最良の方法が広まる暁には、子供たちが10歳にもならぬうちから、いったい書物を使うべきかどうか私は疑う。ともあれ彼らは、書物なしで、10歳にして優秀な性格を自分らのために作ってもらうだろう。一番の物知りがそれらの問題につき成年で今知っているよりも、また世界のどの年齢の大衆よりもはるかによく、自分および社会を原理的実践的に知っている合理的な人間として。」[48][49]
オウエンの教育プランは、1)環境改善教育、2)子供自身から引き出す教育、すなわち子供中心教育、3)愛と幸福との教育、4)賞罰の廃止、5)書物を使用しない直観教育、6)生産労働と直結した教育、7)自然と結びついた教育からなっていた[注釈 9][35][50]。自然に基づく教育が実践され、サマータイムが導入された。これは子供たちが日光をよく多く浴びることができるようにして成長と健康を促す目的があった。2歳以上はダンス、4歳以上はダンス、第二の小学校は満5歳からで12歳までが対象だった。上のクラスでは40人ほどが学業に励み、下のクラスではより生徒数が多く男女共学となっていた[46][51]。
講義は大教室で200人をまとめて一斉教授をおこなった。教師はクラス担任が各1名ずつ配置され、他にダンスと音楽教師、教練の教師、裁縫教師が1名ずつ配属された。学科は読書算、裁縫、博物、地理、歴史、音楽、ダンス、軍事教練からなっていた。とりわけ、革新的だったのは非宗教的な世俗教育に徹したことに加えて、読書算に留まらず博物、歴史や地理などの学科に至るまで、本の使用は極力制限され、直観教育の器材が用いられたことである[52][53][50]。オウエンは、木のブロック(フレーベルはこうした教材を恩物と名付けた)や教室での掛け軸といった視覚教材を活用するなど教育方法にも工夫を凝らしたいた[46][54]。これは見学に訪れた人々に感銘を与えたという。
しかし、親の都合による小学校の中退者が多かったため、オウエンは青少年教育にも取り組んだ。対象は中退者を含めて10歳から20歳までを対象として無償で授業がおこなわれた。講義とダンスによる教育が行われたが、出席率が低かったため、1816年には労働時間を削減して出席率向上の施策に取り組み、講義に合わせて人材育成を目的に紡績機械の操作実習など実践的な技術教育が施された[39]。
労働立法の提言
1815年、ワーテルローの戦いでウェリントン公爵がナポレオンを撃破した。これにより、ナポレオンは退位してセント・ヘレナ島に流刑となり、ナポレオン戦争が終結した[55]。
これはイギリスにとっても歴史の転換点を意味した。需要の縮小の結果、イギリスで戦後恐慌が発生して多数の労働者が失業し、労働条件の改善の要求も高まっていた。また、外国産の穀物輸入の増加によって国内の地主階級の収入が減少することを危惧した政府によって穀物法が成立した。同法は貴族階級の権益を擁護する一方で、食料価格を不当に吊り上げて労働者階級を虐げ国民生活を圧迫する悪法となった。ロバート・オウエンも穀物法成立が国内に新しい政治危機を生み出すことを予見していた。
労働 |
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一方、オウエンは児童労働と労働時間をめぐる状況に危機感を募らせていた。十九世紀社会は現代社会と同様に児童労働と子どもの貧困が最も深刻化した時代であった。あらゆる先進工業国が児童を酷使し、搾取し、虐げることを経済発展の糧としてあらゆる形態の人権侵害を恣にした[22][55]。
オウエンは人道的な観点から児童労働に反対する立場をとっていた。さらに、機械化の進展による生産性の向上によって、労働時間を短縮させることが可能であると見ていた[56]。1815年に綿業家の集会が開催された際にも彼は演説をおこない、幼少年の工場労働条件についての具体案を示した。1815年、オウエンは繊維産業で働く児童の雇用条件を改善させ児童の利用を規制するようサー・ロバート・ピールに提言、法案提出に向けて草案を共に作成しようと嘆願した[57]。
1816年、ロンドン・ターヴァンでの公開集会で「機械による手工業労働者の排除について」という講演を行い、翌年3月『貧困の原因と対策に関する報告書』(英語: Report to the Committee of the Association for the Relief of the Manufacturing and Labouring Poor, 1817)を作成してカンタベリー大主教のチャールズ・マナーズ・サトンが議長を務めた工業労働貧民救済対策員会に提出した。その見解の革新性からオウエンの発議は救貧法委員会に回されたものの却下されてしまう[33]。これを機にオウエンは議会や宗教をはじめ支配構造に対して不信感を強めていく。オウエンは委員会による法案審議の進捗が芳しくないことに苛立ちを強め、息子のデイル・オウエンを連れて各地の工場を巡り調査活動を進めた。後にデイル・オウエンはこう語っている。
「諸事実は、私にはほとんど信じられないほど怖ろしく思われた。例外ではなく、一般に、われわれは見出した、10歳の子供が一日14時間―昼夜にわずかに30分の休みを含んで、それも工場内で食べるのだ―レギュラリーに労働していることを。細糸紡績工業(1ポンド当たり120ハンクから300ハンクまで生産する)では、普通75度以上の暖度のなかで労働させられた。で、どの綿糸紡績工場でも、多少とも肺に悪い空気を吸う。塵埃やこまかい綿繊維がそこに充満しているからだ。ある場合など強欲な紡績工場主たちを、もっともっと過激な全く文明人には実に恥ずべき非人道行為へ追いつめているのも見た。彼れの工場は一人が一日15時間も、稀には16時間も働き続ける。そして男女児とも8歳から雇っても平気だ。それ以下の子もかなり多く見たものだ。こんな制度が笞刑なしでは維持しえぬのはいうまでもあるまい。多数の親方が固い革紐をおおっぴらに持ち歩いている。われわれは年の一番幼い子供でもひどく打たれているのを頻々と見たことであった。
若干の大工場では子供は四分の一から五分の一は跛足か畸形だった。過労で、時には極道な虐待で生傷の絶えまがない。子供の幼い方は、三、四年できっとひどい病気か死ぬかしてしまうのだ。」[58]
同時に、オウエンは協同社会に関する計画を練り始め、救貧対策、社会変革、新社会建設を含んだ「協同社会の計画」を発表した。1817年夏からオウエンはヨーロッパ大陸各国を歴訪する旅に出る。その行程はフランス、スイス、オーストリア、ドイツに及んだ。帰国後はカンタベリー大主教に公開状を発したほか、首相リヴァプール伯爵に工場法の法制化を促した。幼児労働の制限と、その分の時間における教育の充実を立法化しようとした。
サー・ロバート・ピールは、オウエンが作成した法案が議会を通過成立できるよう、1815年の会期末に第一読会に入るのに同意した。1816年会期中、ピールは法律が必要であることを示すために関連証拠を集め、庶民院に設置された委員会での議長も務めた。しかし、1817年の議会審議を前にピールが病気が理由で職務を中断させざるを得なくなり、法案を提出できなかった。また、1818年ピールは法案を提出したが、総選挙が行われたため審議を継続できなくなってしまう。しかし、この頃になると貴族院も事態を把握するために委員会を設置する必要があることを認めるようになった。
1819年、貴族院に設置された委員会は証拠を収集するべく査問会を開き、29か所の綿工場を調査したボルトン治安判事から聞き取りを行った。20か所の工場は徒弟を雇用しておらず、合計550人に及ぶ14歳未満の子供たちを使役していた。その他の9つの工場は、合計98人の徒弟と14歳未満の合計350人の子供たちを雇用していた。徒弟の大部分は大工場で雇用されており、いくらか良い条件で働いていた。とはいえ、児童は1日12時間以下の条件で働いていた。ツーティントンのグラント兄弟の工場では11時間半働かせていたようである。治安判事は「この施設は非常によく換気されています。すべての徒弟と子供たちは、健康で、幸せで、清潔で、日々の配慮がよく払われていて衣類も与えられています。そして、日曜日には教会の礼拝に定期的に出席しています」と報告した。他方、他の工場で労働する子供たちはさらに悪い状況で、1日につき最高15時間も労働していた。例えばゴールトンにあったロバーツのエルトン工場では、「最も不潔で、換気がなされず、徒弟と子供たちは発育が悪く体格が小さい。そして、全く衣類を支給されていなかった。いかなる種類の配慮も与えられず、哀れでならない」と言及している。結局、1819年になってサー・ロバート・ピールは法案を再び提出し、綿工場で働いている子供たちの労働条件を規制するためにようやく法案は可決され、1819年の紡績工場法が成立した。
だが、新法は教育面における法整備は果たされないなど、オウエンの望む内容からは遠いものとなった[57]。
1815年の法案では、繊維産業の工場内で雇用されたすべての子供たちに適用されることが謳われ、10歳未満の児童労働が禁止された。10歳から18歳の少年は10時間以上労働してはならないこととされており、食事時間の間の2時間と学校教育のための30分で労働時間は10時間に制限されることを盛り込んでいた。治安判事は工場監督官としての強制力ある公的権限が与えられ、工場労働の実態を把握するために工場内をいつでも検査することができるとされていた[59][55]。しかし、1819年に可決された法は、1815年に提出されたオウエンの草案を骨抜きにする形で成立した[60]。
1819年の紡績工場法は紡績工場でのみ適用されるに留まり、全産業の児童労働を規制する包括的法律にならなかった。
9歳未満の児童労働が禁止された[61]。9歳から16歳までの子供たちは日12時間労働(食事時間または学校教育を含まない)していた。午前5時と午後9時の間に12時間労働することが規定されたが、朝食に少なくとも30分、午前11時と午後2時の間で夕食と休息を取ることが見込まれた。(翌年の会期に修正された法では休息時間は午前11時から午後4時に修正された)。二人の目撃者が工場が法を破っていたという情報を宣誓して伝えるなら、地元の治安判事が工場を調べるために視察を行うことができたものの、工場監督官による抜き打ち検査や自由に視察できるとした条文は削除された。同法は政府介入の原則を十二分に確立していないため、実質的な強制力の乏しい内容となっていた。
1817年の宗教否定演説
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- 「宮瀬睦夫」pp.84-87 参考に執筆
ニュー・ハーモニー時代(1825年-1830)
協同社会への構想
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オウエンは労働組合運動を指導したほか、協同組合などの事業も手がけた。
ロバート・オウエンは今後の活動の方向性を協同組合運動に向け始める。早くも1817年には「協同社会の計画書」を執筆し、各界の指導者を対象に公開していた。しかし、オウエンの宗教否定に対する反発も加わり、議会は協同組合計画の法制化を拒否、反対意見が噴出して議会から拒絶される結果に終わった。政界の反発に直面したもののオウエンは諦めなかった。1819年には選挙法の改正を求める大衆運動を政府が武力鎮圧したピータールーの虐殺が発生した[62]。社会不安が蔓延するなかで1820年代にはオウエン主義に基づく協同組合運動が盛んになっていく。
1830年代にはイギリスにおける協同組合の数は300を超えるまでに発展していた。ただし、オウエンは協同社会のヴィジョンを打ち出して資本主義に対抗しようと試み、協同組合の設立に影響力を発揮した。ただし、協同組合の設立はオウエンによるものではなく、オウエン主義者による指導であった。
1821年、ジョージ・ムーディーの指導によって改革精神旺盛なロンドンの知的アーティザンである印刷工が結集し、スパ・フィールドに200世帯からなる生活共同体「協同経済組合」(英語: Co-operative and Economical Society)が結成された。最初の組合規則前文には「本組合の終局目的はニュー・ラナークのミスター・オウエンによって計画されたプランに基づき、農業・工業・交易を結合したひとつの一致と協同の村を建設することにある」と記された。当面の目的は居住施設の確保。食料、衣類、その他の日用品の購入のために共同基金を創設して「集合家族居住共同体」を設立、共同印刷工場が開かれた[63]。
生産と生活の共同体を設立して、混乱と窮乏の資本主義社会の現実に対抗するというのが運動の目標であった。そして、短期間ながらもムーディーによって週刊誌『エコノミスト』(英語: The Economist, 1821-1822)が創刊された。この機関誌での共同活動を通じてオウエンとムーディーは急激に親しくなっていき、オウエンも同誌に「現下窮乏原因の一解明」(英語: An Explanation of the Cause of Distress which pervades the civilised parts of the world, 1823)という論文を寄稿するなど、同誌はオウエン主義者の広告塔として活用された[63]。
- 『社会制度論』、『ラナーク州への報告』寄稿
- (平方四辺形など共産主義的都市計画を紹介)
ニュー・ハーモニー建設
共産主義 |
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ニュー・ラナーク工場での教育事業に対して宗教教育を盛り込むように圧力がかかり教育事業での主導権がなくなると[注釈 10]、オウエンの新事業に対する志に熱気が生じるようになる。オウエンは執筆活動や社会活動に限らず、「協同社会の計画書」での構想に基づいてより野心的な共産主義的共同体建設の社会実験に取り組む。
1824年、オウエンは反対者が多いブリテンを離れて計画を実現できないか模索してアメリカに渡り、首都ワシントンD.C.でジェームズ・モンロー大統領と会談、新コミュニティ建設事業の計画を伝えた。後の1829年には知米派の知識人として再渡米してアンドリュー・ジャクソン大統領と会談、緊張状態にあった英米関係の仲介者にもなった。新共同体を作る場所としてインディアナ州ハーモニー村が予定されていた。ハーモニー村はドイツから信奉者とともにアメリカに渡ってきたジョージ・ラップが築いた宗教的コミュニティによって開拓されたものである。だが、ラップは経済的繁栄で信仰が鈍るのを恐れて別に新天地を構えようと考えて競売にかけることを決意した。イリノイ州の不動産業者ジョージ・フラワー(リチャード・フラワーとの記載もあり)がニュー・ラナークのオウエンを訪問して商談を持ち掛けた[64][65][66][67]。
以上がラップの財産目録であった。フラワーとの交渉において評価額6万ポンドが提示されたが、オウエンは自信を示したかったのか二倍の購入額12万ポンド提示した。交渉人のフラワーも商談に懸念を感じたが、当事者のオウエンには微塵も不安を持たなかった。何よりもアメリカ中西部は河川による水運が利用できるものの近傍に大都市が少なく社会的基盤が乏しかった。こういった問題点は交渉で吟味されなかった。地所の欠点については息子のロバート・デイルが注進すべきであったが、彼は自身の恋愛問題に関心が向かい、全力をもって父に歯向かうことはできなかった。結局、オウエンは長男に工場での業務を引き継ぎ、現地視察のために渡米した。オウエンはニュー・ラナーク工場の株式を売却して調達した資金12万5千ドルを投じて競売でハーモニー村を買い取ったのである[69][70][65][67]。
スコットランド生まれの成功した元貿易商人で、フィラデルフィア自然科学アカデミーのパトロンで地質学者のウィリアム・マクルールが合資者となった。マクルールはオウエンの理想に共鳴してオウエンとともに私財を投じ、コミュニティの建設を試みた。オウエンとその息子たちデイヴィッド・デイル、ロバート・デイル、リチャード・オウエン、マクルールの友人の科学者たち、無政府主義者で企業家でもあったジョサイア・ウォーレンらとともにプロジェクトに参加した。アメリカに渡って自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(ニューハーモニー村)の実現を目指す。
このような経緯でハーモニー村をオウエンとマクルールが購入して、少し遅れて息子ロバート・デイルが加わり、共産村建設プロジェクトは1826年から始まった。
プロジェクトの計画の柱は、ニュー・ハーモニーの丘でのスクウェア・パレスという壮麗な建築物の建築、「フィラデルフィア自然アカデミー」の科学者たちのコミュニティ加入、完全平等のコミュニティ実現のための新憲法制定であった。ちょうどその頃、1825年には世界初の生産過剰を原因とする近代恐慌が発生した。翌年にかけて欧州からの移住者が増加、労働者900人をはじめとして移住希望者が集まった。マクルールと親交がある優秀な自然科学者たち27名がアメリカへと移住した結果、ニューハーモニー村は知識人の移住とともにアメリカにおける文化の中心地となった[71]。オウエンの子供たちも成人後アメリカ市民権を獲得し、父親の志を受けてニュー・ハーモニー建設運動に参加したほか、ロバート・デイルは議員に、リチャード・デイルは学者となってアメリカ社会の発展に貢献していった。彼ら息子たちは、老齢となり仕事も収入を失って無一文となったオウエンの生活を支えていくことになる。
しかし、オウエンの挑戦は難事業となった。早くも翌年には様々な信条をもった人々の集団は意見の対立を生んでいったのである。
1826年2月5日、オウエンは目標とした「ニューハーモニー完全平等協同体憲法」を制定した[72]。しかし、それ以外の計画は実現できずに終わる。各成員の見解の相違を克服するために独裁制も採用するが、村は混乱を極めていった。5月に入るころには分村が進行、それにつれて合資者のマクルールとオウエンとの対立が深刻化していった。1826年7月4日、アメリカ建国五十年記念の日におこなった演説、「精神的独立宣言」はこの頃の彼の思想的到達点を示していて興味深い。彼はその中で、「悪の三位一体」として「私有財産、矛盾と不合理な宗教、それらと結合した不合理な結婚制度」を挙げ、それらの「奴隷」として生きてきた人類の解放を謳った。
しかし、村の存続は厳しい状況にあり、事業は2年あまりで崩壊、間もなくオウエンは巨額損失を覚悟で村の経営権を放棄する決断を下した。失敗の原因は概ね次のとおりのことが指摘されている。1)住民選別が不十分だったこと、つまり、入植を希望する人々に知識人・文化人・労働者が多い一方、農業の経験や専門知識をもった自営農がおらず道具のメンテナンスを担当するスキルのある職人が僅かで、即戦力となる人材が揃わなかったこと、2)成員間の宗教的・社会的・人種的偏見が根強く内部に対立抗争が生じたこと、3)怠慢・勤勉に対する賞罰が欠落しており労働規律が弛緩して意欲低下が深刻化したこと、4)舞踏や音楽などの文化活動に耽って労働を忌避したこと、5)平等の実現を掲げたため意思決定の過程が不明確で、オウエンとマクルール間の連携も円滑でなく、上席者による意思決定や責任と権限が不明確であったことなど組織化の欠如といった問題点が挙げられる[73][74][71]。ニュー・ハーモニーはアメリカ社会主義の発祥の地となった。アメリカ初の幼稚園、幼児学校、職業学校、無償公教育制度、婦人クラブ、民間劇場、地質学研究学会、労働者研究博物図書館を設立し、アメリカ史上に不朽の業績を残した。
村では土地の開発と裏腹に共有資産の私物化が進行してオウエンの財産は完全に失われていた。1828年に帰国した後、自己精算した際の損失額は20万ドルに上り、かつて有力な資産家であったオウエンの資産の大部分が失われた。それでもオウエンは協同村の実現を諦めてはいなかった。メキシコ政府から当時メキシコ領だったテキサスのアメリカ合衆国との国境地帯の土地を無償提供する話が持ちかけられ、オウエンは再び協同村建設計画に関心を抱く。しかし、この計画はメキシコの政情不安のために暗礁に乗り上げて立ち消えとなってしまう。
オウエンは帰国を決意してアメリカ大陸を離れる途上で大英帝国の植民地ジャマイカに立ち寄っている。ジャマイカで見た情景は酷使され虐げられる黒人奴隷の姿であったが、オウエンはジャマイカの黒人以上にブリテン本国の労働実態に心を痛め、危険で過酷な苦汗労働を強いられている白人労働者が置かれている労働条件の深刻さを痛感した。帰国後の4月28日、オウエンは自身の失敗を認め、協同体に対する批判の演説をおこなう。集団内部の党派対立が原因だったとはいえ、ニュー・ハーモニー建設事業はオウエンにとって完全なる失敗となった[67]。ただし、協同村建設の夢はオウエンの志となってその後も胸中に残っていく。
帰国後の活動(1830-1858年)
第一次選挙法改正
1817年、デヴィッド・リカードによって『経済学および課税の原理』が発表され、近代経済学は発展を見せた。かれは地代論を展開して、商品価値は労働力と関係があることを指摘した。また、商品を生産している労働者は対価として賃金を受け取るが、商品生産のための資本(土地・工場・機械・道具)を提供している資本家は労せず利潤を受け取る、これが社会の仕組み(資本主義)になっていることを明らかにしている。この経済論は労働価値説を説明するものであると同時に搾取の存在を示唆するもので、後の時代の社会主義思想の出発点になる考え方であった。オウエンは産業の発達を真に担ったのは労働者であり、その労働者が貧しいのは資本家が搾取するためであるとに見ていた[75]。
ブリテンでは19世紀に入り産業革命の本格的進展によって各地の産業構造に変化が生じ、南部の農村地帯から北部の工業地帯へと人口移動がおこっていた。その結果、北部の工業都市に移住した多数の労働者が政治的権利のない二級市民の立場に置かれていた。それまで合理性があった旧来の選挙制度は急速に時代にそぐわないものとなっていた。イギリスでは議会制度の腐敗が進み[注釈 11]、改革は避けがたいものとなっていた。こうして大規模な社会変動、政治変動が始まる。
1830年、改革の障害であったジョージ4世が崩御、改革要求の激化が革命に発展することへの恐怖を前に議会改革に着手する必要性があった。しかし、議会では党派的な対立が改革の足かせとなった。
ホイッグ派は改革に積極的な立場をとった。財産と教養をもつ裕福な資本家階級の支配体制への編入を試み、1830年グレイ卿を筆頭にホイッグ急進派は改革動議を提出するに至る。しかし、トーリー派は内相ロバート・ピールが改革に意欲的だったものの、ウェリントン公が現行制度は完全であるとしていかなる改革にも反対、さらに他の議員も改革が更なる改革の要求を正当化する可能性を指摘して反対したがゆえに時のトーリー政府による改革は不可能となった。
一方、議会外では1829年末、トマス・アトウッド(庶民院議員)が中心となりバーミンガム政治同盟が発足、普通選挙権と平等選挙区の実現を目指して選挙法改正運動が展開される。中産階級に留まらず労働階級も参加して改革の実現を求めていく。1831年、BPUの成員は遅々として進展しない改革に苛立ちを強めていった。第一次法案が廃案となったため五月暴動という騒乱状態に入っていく[76]。
トーリー党は政治担当能力の欠如が批判され第一次ウェリントン公爵内閣は内閣総辞職に追い込まれる。1831年、第一次グレイ内閣が成立して改革派は改正案を提出し、庶民院通過を果たした。さらに、国王ウィリアム4世を味方につけ貴族院に対して新貴族創家を盾に法案通過を強行、1832年、第一次選挙法改正が実現する[77][注釈 12]。資本家を始め中産階級が選挙権を獲得する一方で、労働者には選挙権は与えられず、議席配分では依然として農村に重点が置かれたため議会改革問題は未解決のままに残された。議会制度の欠陥をめぐる争点はチャーティスト運動へと引き継がれる[80]。
1830年代の労働運動
1824年に1799年の団結禁止法が改正され規制が緩和されたため、1830年代になると労働運動の発展が顕著となっていった[81]。
ヨークシャーではトーリー急進派リチャード・オストラーによる工場法制定運動が活発化していた。労働時間を10時間に制限することを目標に時短運動であった。労働運動は労働時間の短縮や賃下げへの防衛的な抵抗を柱に結集を始めていった。やがて十時間労働制の要求は八時間労働制の要求へと発展していく。
アイルランド出身の紡績工ジョン・ドハティー(労働運動家)が労働運動を指導して、マンチェスター紡績工組合の専従書記となり、1829年にストライキを闘ったが敗北し、業種を超えたより包括的で全国的な組織を結成しようと試みた[82][83]。1829年、ドハティーは仲間とともにマン島に渡って会議を招集し、「イギリス・アイルランド紡績職工大連合」を結成した[84]。1827年には大工・指物工大連合が、マンチェスター連合という煉瓦積職人らの全国協会が結成されていた。1832年にはヨークシア労働組合が結成され、工事発注を請け負う中間業者の搾取の温床となっていた請負制を廃止して、最低賃金の設定を要求する大規模な運動が展開された。この運動により、大工、指物工、石工、煉瓦積工をはじめ建築業種の7業種が合同して、1833年には建築工組合が組織され職種を超えた労働者の大同団結が加速していた。翌年9月にはロバート・オウエンも建築工が主催する「建築工議会」に参加して、雇用主を排除した生産ギルドを結成する構想を提案した[85]。
- 生産者ギルド (マーガレット pp.231-254)
1834年にはドハティーが主導して「全国労働者保護協会」(NAPL)が設立された。また、『人民の声』(英語: The Voice of People)という週刊の機関誌が創刊され、3000部が発行された。マンチェスター近傍のチェシャーやランカシャー、ダービーといった北部工業都市で活動する14の紡績工組合が中心となり、染色工、機械工、鋳物工、鍛冶屋、木挽き、製糸工、製靴工、指物工、帽子工などの組合が合流していった。全国組織を名乗ったもののランカシャー地方など活動領域が限定されており、中部のノッティンガムに若干の支持団体が存在していたに留まった。そこで、ドハティーはロンドンに本部を移転させ、名実ともに全国組織に勢力拡大を図ろうとしたが、激しい反対論に直面して実現できずに終わる。組織は賃下げ反対を目的に樹立され、攻撃的な賃上げ要求を掲げなかったものの、職種を超えた労働者の団結に資本家や治安当局から危険視する警戒感が高まり、『人民の声』には売価三ペンスに対して四ペンスが課税され、武装蜂起の計画を立てているといったデマが流されるなかで、建築工が組合に参加するのを拒絶したり加盟団体が集まらずに財政難に陥って組織の解散を決議せざるを得なくなった[82]。
労働組合の影響力の拡大に対して、政府・メディアの反応は厳しくなっていった。団結禁止法撤廃を主導したフランシス・プレイスも個々の業種からなる労働組合はきわめて大事な組織だが、組合連合や全国的な組合はきわめて有害であるという認識をもっていた。こうした状況下でも労働運動は冷却しなかった。ダービーでは、多くの職種で資本家が労働者に組合活動に参加しないと記した宣誓書(ドキュメント)への署名を求め、署名しないならば雇用を打ち切るとしてロックアウトに踏み切り、労使間の紛争が多発した。しかし、最終的に雇用主側が勝利して運動は分裂していく[82]。
選挙法改正と労働者の政治的排除は社会的抑圧の構図も浮かび上がらせた。
選挙法改正後は中産階級による階級立法が加速し、労働者に不利になる法律が成立していった。1834年の救貧法改正によって貧民救済の手段は救貧院による院内救済に置かれることになった。ただし、救貧院での貧民の待遇は劣悪なもので、被救済民は家族と引き離され男女別々に収容され、さらに重労働が課された。被救済民に人間的な扱いはなく、待遇は最下層に位置する労働者の生活水準以下に設定され、実態は犯罪者に対する懲役と大差のない待遇となっていた。労働者は救貧法改正に強く反発して反対暴動を展開していく[86]。改革に対する労働者の失望がチャーティスト運動とオウエン主義運動の発展を促す[87]。
労働者は社会環境の悪化に抵抗すべく自衛のために活発な社会運動を発展させた。革命的プロレタリアートの運動に二つの流派が形成された。それが、ロバート・オウエンによる社会主義運動(空想的社会主義)と『人民憲章』を旗印に普通選挙権獲得を目指し民主化運動を展開していたチャーティスト運動であった[注釈 13]。
オウエンは政治への不信感から議会改革に懐疑的で、労働者の救済は経済的方法での実現に限られると考えていた[92]。それゆえ、第一次選挙法改正運動、その後に続くチャーティスト運動とは距離を取り続けた。労働者救済のために強固な組合組織と教育活動による社会の改良が必要であると考えていた。こうした考えは協同組合運動への労働者の結集へとつながっていく[75]。一方、チャーティストも民主主義の実現によって労働者を解放し、労働者を基盤にした人民の政府によって資本主義の諸矛盾の解決策を模索するという展望を持って、労働者を民主化運動のもとに集結させようとしていた。両派は競合関係にあった[93]。
1833年の工場法制定
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一方、トーリー派のマイケル・サドラーが中心となって、児童労働と労働時間の制限が再度議論された。工場法改正委員会が発足して実態調査が行われ、改めて労働の実態が報告された。
・工場法制定(救貧院の実態・児童労働の現状に関する記述を引用する)。
ついに1833年の工場法が制定された。
オウエン主義運動の展開
ニュー・ハーモニー建設運動に失敗して財産を失ったものの、ロバート・オウエンの士気と名声は衰えなかった。
協同村建設の夢から協同組合運動の種はイギリス社会に広く播かれて芽吹こうとしていた。1829-34年の五年間にわたって暴力革命目前の政情にあった。深刻な政治危機の時代のなかで人道的な理想を説き暴力革命を否定するオウエンの穏健な協同組合主義は人々の希望の旗印となる。産業革命期にあって資本主義の成長を前に喘ぐ労働者・職工たちが、オウエンの描く社会ヴィジョンに共感して、協同組合運動の社会的拠点を形成していき、プロレタリアートの階級意識を持った労働運動を育み、またチャーティスト運動の基盤ともなった。
ウィリアム・キング(哲学者)の生協運動が盛んとなった後、協同組合は年々増加して1830年末には400を超えていった。巨大化した協同組合運動は全国的な統合を目指していく。ウィリアム・トンプソンの主導の下に、1831-1835年にかけて半年ごとに「協同組合会議」なる代議員会合が招集され、卸売連合機関と全国統一機構、共同体建設運動が論じられた。
1832年、第一次選挙法改正は歴史的画期であったが、この時の改革は多くの課題を残すものであった。選挙法改正は有権者数を増加させたものの、財産資格による制限選挙制が残され、最終的にブルジョワジーに利するものとなった。労働者階級はモブ・エネルギーとして利用されたものの、改革運動の物理力の源泉であった労働者が選挙権を得ることはなかった。政治に失望した労働者が結集したのが、チャーティスト運動とオウエン主義運動の二択であった。その結果、オウエン主義の労働組合運動と協同組合運動はさらに勢力を拡大させ、飛躍的な量的膨張を達成する。
オウエン主義は労働者の経済的利害にもっとも調和していた。
1832-1834年、オウエンは「全国衡平労働交換所」を設置、協同組合の生産品の相互交換を目的とした労働紙幣による生産バザーで、ロンドンとバーミンガムとスコットランドに開設された。この施策はストライキでロックアウトされた労働組合員の生活助成のための協同生産も包含していた。労働者自主を培い、共同体原理の実現を図る経済活動の新形態となるはずだった[94]。チャーティストの若き青年運動家の一人となったウィリアム・ラヴェットもオウエンの労働交換所ロンドン支店で店主となっていた。彼らはオウエンの思想に感化を受け社会改革の理想に目覚め、トーマス・ホジスキンの経済思想で理論武装を果たし、チャーティスト運動の指導者へと成長していく[95]。労働交換所設立の運動背景にはオウエンの貨幣観が存在している。オウエンは富の源泉を労働者による生産活動が作り出す労働価値(労働価値説)に求めており、労働者が貧しいのは金銀など金属貨幣に基づく誤った通貨制度が根底に存在しているためだと考えていた。したがって、従来の貨幣を廃止して、時間単位での標準労働量を基礎に紙幣を発行すれば、搾取を克服した経済活動が可能になり、働く者が報われる社会が実現すると考えていた[96][97][98]。しかし、労働価値に対する評価問題をはじめとする労働紙幣の信頼性が課題となり続け、さらには紙幣自体が悪徳商人の投機対象となってしまい、結局失敗に終わった[94]。
(マーガレット pp.226-228)
ロバート・オウエンは「貨幣の廃止」に失敗したものの、活動を停止したりはしなかった。
彼は労働組合と協同組合の二つの潮流を結合させる中心人物で、オウエン思想は労働運動界の権威となっていた。1833年10月、オウエンは労働組合の代表者が集まった会合に参加して様々な職種の職人達を糾合する動きは加速させることを提案した。1834年にはロンドンの労働者内にオウエンの影響は拡大しており、仕立て工を中心にすべての生産階級の全国的結集を目標に、全国労働組合大連合が発足した。「生産階級の全体的組織」を樹立するために、オウエンは資本家も含めて生産にたずさわる全ての階級が提携して労使協調的な大連合を構想してその指導者となった。主たる活動目標は、1)諸団体の構成を合理的に統合編成していくこと、2)生産調整などの方法を実行して賃下げに有効な戦略を試みること、3)ストライキを支援して賃上げ運動を展開することにあった[99]。機関誌『パイオニア』によると、「大連合」は加盟団体を順調に獲得してその勢力は急激に拡大、自称50万人の会員を擁する巨大組織へと成長した[100]。
労働組合の組織化を援助するために各地の闘争を支援した。
だが、1833年11月に始まったダービーの絹織工によるストライキは大連合にとって大打撃となった。絹織工は組合脱退要請を拒絶して闘争を開始したが、雇用主側のロックアウトに直面したため自分たちのために労働することを宣言した。オウエンは闘争を支援する目的で協同組合工場の設立を構想するが実現できず、ストライキも4ヶ月の抵抗の末敗北した。さらに、当時のイングランド南部の農村では、スウィング蜂起という脱穀機を破壊するといった騒擾が激化していた。そんな中でドーチェスター近郊のトルパドルでジョージ・ラヴレスら6名の農業労働者が大連合に参加する誓約書に署名した嫌疑で逮捕され、裁判の結果オーストラリアやタスマニアへの七年間の流刑が言い渡された。これがトルパドル事件である。1834年4月21日、オウエンと大連合はこの事件での判決に25万人の署名を集めて不服を表明、抗議のために過少に見積もっても三万人が参加した大請願集会を開催し、被告人らの刑期短縮を獲得した[101]。
その後、大連合崩壊につながる亀裂が生じ始めた。綿紡績工の組織化での困難に直面している間に建築工のストライキに突入、全国的な労働闘争とその支援に忙殺される。しかし、現実的に大連合が提供できる支援策は少なく、傘下の組織の足並みや意見も不統一のままであった。建築工、陶工、紡績工、織物工といった業種の有力組合が参加せず、活動規模と財政力は主張するほど勢力を持ってはいなかったのである。大連合や傘下の労働組合内では基金横領事件が発生するなど内部統制上の問題も抱えていた。こうした状況下で組合闘争の多くが資本家によるロックアウトで挫折していく[100]。やがて、大連合指導部の足並みも乱れ始め、戦闘的なストライキを試みる組合指導者と階級協調や協同組合主義を模索するオウエンの立場は隔たっていく。かくして「大連合」は崩壊してオウエン主義の後退が生じるが、この間隙のなかで選挙法改正運動においてチャーティスト運動が勢力を拡大させていく。
- オウエンと組合指導者間の対立 (組合観の相違)
晩年と死
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- 『新道徳世界』の刊行
- オウエン主義とは何か?
- 「社会主義の父」(経済の重視・階級闘争の否定・道徳改革への理想)
- ヨーロッパ旅行
- オウエン主義とは何か?
- クイーンウッド協同村の建設
- ロッチデール先駆者協同組合の運動(1844年)へと発展
- 1848年革命
- 心霊主義者としての晩年を記述
- ケント公の霊と交友することに没頭した
- 老衰
- 社会科学協会での講演 → 老衰で発言を続けられず
- ニュータウンへの帰郷
- 死
- 墓碑銘「ロバート・オウエン。人類愛に燃えた人。」
家族
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- カロライン・オウエン
オウエンの人生に残された偉業は、彼とニュー・ハーモニーに移住した四人の息子ロバート・デイル、ウィリアム、デーヴィット・デイル、リチャード・デイルと娘のジェーンに受け継がれた。
- ロバート・デイル・オウエン(1801–1877)。1825年、父とともにアメリカへと渡ったロバート・デイルは、ニューヨークに上陸後、すぐさまアメリカ市民権を申請した。父を支えてニューハーモニー・コミュニティを運営し、1820年代後半に『ニューハーモニー新聞』の発行を助け、協同主義の有能な提唱者となった。また、1826年以降はアメリカの自由思想家フランシス・ライトとともに活動してナショーバーで黒人解放奴隷の定住化計画に協力した。ライトとニューヨークで週刊誌『自由探求者』を共同で編集、エイブラハム・リンカーンとも30年以上も交友し、婦人解放、奴隷解放、協同主義の宣伝に努めた。1832年にニューハーモニーに戻り、インディアナ州で政治家になる。1835年には民主党からインディアナ州議会議員に選出され、1836–1839年にかけて、1851–1853年にかけて議員を務めた。1843-1847年にはインディアナ州からアメリカ合衆国下院議員に選出された。1844年にはオレゴン州境問題で境界案を提示したほか、1845年にはスミソニアン研究所の設置、1850年の州憲法改正に貢献した。1853年にはナポリ王国駐在代理公使、1855年にはイタリア大使、1858年に帰国した後は再び奴隷解放問題に向けて活動した。1861-1865年の南北戦争の末期に国防省に設置された自由民対策庁長官に就任、北軍作戦地域の自由民や難民の救済と保護を担当した。戦後もワシントンD.C.に留まり、公民権法として知られる合衆国憲法修正第14条の制定のために尽力した[102]。
- ウィリアム・オウエン (1802–1842)。1824年、父とともにアメリカに渡ったウィリアムは、ニュー・ハーモニー建設運動に当初から参加して終生に渡って共同体の実験に尽くした。父がアメリカを去った後も現地に留まり、1837年メアリと結ばれて弟たちと共に結婚式を挙げた。わずか一年で妻を失い、五年後には早すぎる死を遂げた。若くして亡くなったため伝えられている事績は乏しいが、演劇に関する関心が深く、1827年にニュー・ハーモニーに演劇組合を設立した。組合は百年ほど存続したといわれている。1838年には「演劇の船」をつくりミシシッピ川を下って各地の巡回公演を行った[103]。
- ジェーン・デイル・オウエン(1805–1861)。母と姉妹の死後、ジェーンは最後にニュー・ハーモニーに入った。1835年にバージニア州出身で村の売店を共同経営していたロバート・ヘンリー・フォーンテレロリーと結婚するが、1850年に商用で南部に出かけた夫を黄熱病で亡くした。その後は子供と甥や姪の教育に専念した。長女のコンスタンスは伯父のロバート・デイルのナポリ赴任に随行してヨーロッパに渡って教育を受け、帰国後はニュー・ハーモニーに定住して、1859年にアメリカ最初の婦人の文化サークル「ミネルバ協会」を設立した。協会の規約は叔父のロバート・デイルが書いた[103]。
影響と評価
社会主義 |
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社会民主主義 |
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エンゲルスらから、サン=シモン、フーリエなどと共に空想的社会主義者と評されつつも、挙げた実績に関しては高い評価を受けた。日本国内に、ロバート・オウエン協会がある。
著書
- 英語: A New View of Society: Or, Essays on the Formation of Human Character, and the Application of the Principle to Practice (London, 1813). Retitled, (英語: A New View of Society: Or, Essays on the Formation of Human Character Preparatory to the Development of a Plan for Gradually Ameliorating the Condition of Mankind, for second edition, 1816.
- 英語: Observations on the Effect of the Manufacturing System. (London, 1815).
- 英語: Report to the Committee of the Association for the Relief of the Manufacturing and Labouring Poor (1817).[104]
- 英語: Two Memorials Behalf of the Working Classes (London: Longman, Hurst, Rees, Orme, and Brown, 181[105]
- 英語: An Address to the Master Manufacturers of Great Britain: On the Present Existing Evils in the Manufacturing System (Bolton, 1819)
- 英語: Report to the County of Lanark of a Plan for relieving Public Distress (Glasgow: Glasgow University Press, 1821)
- 英語: An Explanation of the Cause of Distress which pervades the civilised parts of the world (London and Paris, 1823)
- 英語: The Social System in 英語: The New-Harmony Gazette, Vol.2, (1826-1827)
- 英語: Region, property, MARRIAGE in 英語: The New Moral World, Vol.5, (1839)
- 英語: An Address to All Classes in the State (London, 1832)
- 英語: The Revolution in the Mind and Practice of the Human Race (London, 1849)
主な著書
脚注
注釈
- ^ 各人の紹介を注釈
- ^ アークライトに関して、注釈を追記
- ^ 四色付きの長さ50センチほどの長方形型の木片を掲示して作業報告をおこなう生産管理方式。木片は黒・青・黄・白の四色が側面部に彩色されており、掲示される正面の色が前日の各工員たちの作業工程に関する評価を示していた。黒は悪い、青は普通、黄は良、白が優を意味しており、これを操業記録簿に記載して工場長が記録を管理して人事評定を決定していた。各工員には操業評価に不満がある場合、工場長を飛び越えてオウエンに訴え出る権利があった。オウエンによると、この制度を導入した結果、初めは黒が大多数だったものの次第に黒が減少し始め、やがて白が出てくるようになったと回想している[29]。
- ^ オウエンは経営の刷新のためにロンドンの財界人から資金集めを行った。合資協定は一株一万ポンドで内訳は次の通り。ウォーカー三株、フォスター一株、アレン一株、ベンサム一株、ギップス一株、オウエン五株。合計十二株。ウォーカー、フォスター、アレンは富裕なクエーカー教徒で慈善家として知られた人物であった。ギップスは国教会のトーリー党員でロンドン市長にもなった市参事会員で彼も慈善家として知られていた。ベンサムは功利主義の哲学者である。彼ら有志はオウエンの教育プランに賛同して「学院」の発足に貢献していく[37]。
- ^ 運営費の内訳。
- ^ オウエンは伝統的教育の形態を改革するためにプロの教育家を採用しなかった。新しい教育プログラムを担当する教師の資質として、1)子供が大好きなこと、2)子供の面倒が行き届くこと、3)徹底的に従順で命令には喜んで従うこと、4)理由の如何に関わらず子供を打たないこと、5)どんな言葉や仕方であるかを問わず、子供を脅かしたり罵らないこと、6)いつも愉快に親切に優しい言葉や態度で子供に接すること、7)どんなことがあっても子供を書物でいじめないこと、8)子供が好奇心を抱いて自発的に質問するようになってから、物の使い方、性質を教えること―が求められた。子供は人を傷つけず、互いの幸福を追求するということがモットーとして教え込まれ、子供の問題行動には忍耐強く諭すといった対処法が取られた。最初の教師として任用されたのは、木綿の手織り作業を担当していたジェームズ・ブキャナン、17歳の女工モリー・ヤングの二人であった。ブキャナンは読書算さえ知らなかったが、純朴で子供好きで面倒見の良い人間で、モリー・ヤングは子供の保育についての天賦の才があったと伝わっている[42]。
- ^ ロバート・デイルによると、子供たちは白地木綿の最良質の着物を着て、ローマ式のチュニックの形をしており、男児は膝まで、女児は踝までの長さがあって、いつも清潔でいられるように衣服を週三回着替えていたという。スコットランドは冷涼な気候なので、男児用にハイランド風のキルトが、女児はジンジャムを着ていたのではないかとも推測されている。予算は学院運営費の2割近くが充てられていた[43][44][45]。
- ^ 宮瀬から大陸旅行を追記。p.39-
- ^ 注釈を追記。
- ^ 注釈を追記。
- ^ いくつかの都市選挙区は工業化による人口移動で過疎化して2名の議員を数名の有権者から選出するポケット選挙区と化していた。そこでは接待や贈賄による買収で有権者の投票が左右される不正選挙の温床となっていった。急激に成長した工業都市は工業化以前は農村だった地域で州選挙区という扱いであった。土地を所有していない市民に選挙権はなく、土地を所有できた一握りの人々がわずか1名の議員を選出する状況下にあった。1830年代の危機的時代状況の中で貴族や地主層に対する中産階級と労働者階級の闘争は激しさを増し、ここに議会改革は不可避なものとなっていく。議会は世論を正確に代表する能力を失って国民に対する権威は失墜し、革命直前の社会状況にあった。
- ^ このときの改革では、都市選挙区に居住する10ポンド以上の家屋・店舗を占有する戸主、州選挙区に居住する10ポンド以上の長期(60年)自由土地保有者、50ポンド以上の短期(20年)自由土地保有者に選挙権が与えられ、議席再配分によって腐敗選挙区の廃止と工業都市への選挙区の割り振りが実施された。だが、労働者には選挙権は与えられず、改革は未解決のままに残され、議会改革問題はチャーティスト運動へと引き継がれる[78]。南部のロンドンからイングランド北部マンチャスターに連なる工業都市がチャーティスト運動の一大拠点となっていた[79]。
- ^ 1831年ヘンリー・ヘザリントンとウィリアム・ラヴェットは「労働者階級全国同盟」(英: National Union of the Working Classes) を結成、機関誌として『プア・マンズ・ガーディアン』を発行した。かれらはフランスの『人権宣言』とトマス・ペインの思想を前文に掲げて綱領を発表した。まず、利潤や地代による収奪を批判して、労働全収権を提唱して労働者が労働生産物の全価値を享受する権利を訴えた。これと同時に雇用主の搾取に抵抗するための団結権やストライキ権の保証を求めていた。そして、その手段を議会改革の推進に求めた他、社会経済的な変革を要求して労働者階級の窮状を打破しようとした[88]。1836年の恐慌時、ヘザリントンとラヴェットをはじめロンドンの指導者は集会を開き、ロンドン労働者協会を設立した[89]。執行部は声明を出して「イギリスには21歳以上の男子が602万いるうち、84万人にしか選挙権が与えられていない」ことを指摘、「将来の奴隷制」(苦汗制度・現代的にはワーキング・プア)の根っこに存在していた腐敗した議会による支配構造を合法的に断ち切って平等な社会を実現させることを目標に、志ある人々の結集を呼びかけた。1838年、1)成人男子選挙権、2)秘密投票、3)毎年選ばれる一年任期の議会、4)議員に対する財産資格の廃止、5)議員への歳費支給、6)十年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区の六項目を掲げた『人民憲章』が発表された[90][91]
出典
- ^ 大門実紀史『ルールある経済って、なに?』、新日本出版社、2010年、101頁、ISBN 4406053476
- ^ 自叙伝(1961) p.13
- ^ 世界の名著42(1980) p.20
- ^ 自叙伝(1961) pp.13-14
- ^ 自叙伝(1961) pp.15-16
- ^ 自叙伝(1961) pp.16-17
- ^ 自叙伝(1961) p.17
- ^ 自叙伝(1961) pp.18-19
- ^ 自叙伝(1961) p.20
- ^ 自叙伝(1961) p.22
- ^ 自叙伝(1961) pp.28-29
- ^ 自叙伝(1961) p.29
- ^ 自叙伝(1961) p.31
- ^ a b 世界の名著42(1980) p.21
- ^ 世界の名著42(1980) p.22
- ^ 世界の名著42(1980) p.23
- ^ 世界の名著42(1980) pp.23-24
- ^ 世界の名著42(1980) pp.24-25
- ^ a b 世界の名著42(1980) p.25
- ^ 世界の名著42(1980) pp.25-26
- ^ a b c 世界の名著42(1980) p.26
- ^ a b ハチスン、ハリソン(1976) p.6
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- ^ ハチスン、ハリソン(1976) p.10
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- ^ 自叙伝(1961) pp.111-113
- ^ 五島茂(1973) pp.100-101
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- ^ 世界の名著42(1980) p.29, p.33
- ^ 世界の名著42(1980) p.563
- ^ a b c d 世界の名著42(1980) p.564
- ^ 世界の名著42(1980) pp.539-540
- ^ a b 五島茂(1973) pp.153-154
- ^ 世界の名著42(1980) pp.34-35
- ^ 宮瀬睦夫(1962) pp.68-69
- ^ 世界の名著42(1980) p.34
- ^ a b c 世界の名著42(1980) p.36
- ^ 宮瀬睦夫(1962) p.93
- ^ 五島茂(1973) pp.158-59
- ^ 宮瀬睦夫(1962) pp.91-92
- ^ 五島茂(1973) p.166
- ^ 永井義雄(1993) 表紙
- ^ 世界の名著42(1980) p.149
- ^ a b c 世界の名著42(1980) p.35
- ^ 五島茂(1973) p.162
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- ^ Harrison, "Robert Owen's Quest for the New Moral World in America," in (英語: Robert Owen's American Legacy, p. 32.
- ^ Robert Owen (1818). Two Memorials Behalf of the Working Classes. London: Longman, Hurst, Rees, Orme, and Brown
参考文献
- ロバート・オウエン 著、五島茂 訳『オウエン自叙伝』岩波書店、1961年。
- ロバート・オウエン、サン・シモン、シャルル・フーリエ 著、五島茂、坂本慶一 編『世界の名著 42 オウエン、サン・シモン、フーリエ』中央公論社、1980年。
- G.D.H.コール 著、林健太郎 訳『イギリス労働運動史Ⅰ』岩波書店、1952年。
- B.L.ハチスン、A.ハリソン 著、大前朔郎等 訳『イギリス工場法の歴史』新評論、1976年。
- 上田千秋『オウエンとニュー・ハーモニイ』ミネルヴァ書房、1984年。
- 土方直史『ロバート・オウエン(イギリス思想叢書)』研究社、2003年。
- 宮瀬睦夫『ロバート・オウエン―人と思想』誠信書房、1962年。
- 永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』ミネルヴァ書房、1993年。
- マーガレット・コール 著、新田貞章 訳『ロバアト・オウエン伝―1771-1858』白桃書房、1974年。
- 古賀秀男『チャーティスト運動―大衆運動の先駆』教育社、1980年。
- 五島茂『ロバアト・オウエン』家の光協会、1973年。
- 浜林正夫『イギリス労働運動史』学習の友社、2009年。
- 浜林正夫『物語 労働者階級の誕生』学習の友社、2007年。
- マックス・ベア 著、大島清 訳『イギリス社会主義史(2)』岩波書店、1970年。
- ヘンリー・ペリング 著、大前朔郎,大前真 訳『イギリス労働組合運動史』東洋経済新報社、1982年。
- レオ・ヒューバーマン 著、小林良正,雪山慶正 訳『資本主義経済の歩み〈下〉―封建制から現代まで』岩波書店、1953年。
- シドニー・ウェッブ,ビアトリス・ウエッブ 著、荒畑寒村 訳『労働組合運動の歴史』板垣書店、1949年。
- 都築忠七 編『イギリス社会主義思想史』三省堂、1986年。
関連項目
外部リンク
- オーエン(おーえん)とは - コトバンク
- オーエンとは - コトバンク
- Robert L. Owen Collection, 1913-1946 - FRASER - St. Louis Fed
- New Lanark Visitor Centre, Lanarkshire Scotland
- Welcome | Robert Owen Museum
- ロバアト・オウエン協会 | CCIJ-公益財団法人 生協総合研究所
- ロバート・オーエン 人事管理のパイオニア DIAMOND online
- Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). 1911. .
- New International Encyclopedia (英語). 1905. .
- Robert Owenに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- "ロバート・オウエンの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- ロバート・オウエン - ナショナル・ポートレート・ギャラリー