「田英夫」の版間の差分
→政治活動: リンクを追加 タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 |
|||
90行目: | 90行目: | ||
[[2001年]]7月の[[第19回参議院議員通常選挙|第19回参院選]]では戦争に対する危惧から、以前より表明していた引退を撤回して比例代表区(社会民主党)から出馬するも落選する。しかし[[田嶋陽子]]の議員辞職に伴って[[2003年]]4月に[[繰り上げ当選]]となり、6期目を務めることになった。 |
[[2001年]]7月の[[第19回参議院議員通常選挙|第19回参院選]]では戦争に対する危惧から、以前より表明していた引退を撤回して比例代表区(社会民主党)から出馬するも落選する。しかし[[田嶋陽子]]の議員辞職に伴って[[2003年]]4月に[[繰り上げ当選]]となり、6期目を務めることになった。 |
||
[[2003年]]、[[静岡空港]]建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている<ref>[http://web.archive.org/web/20090307071308/http://kuukouno.hp.infoseek.co.jp/kokaiginsyomei.htm 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会](2009年3月7日時点の[[インターネット |
[[2003年]]、[[静岡空港]]建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている<ref>[http://web.archive.org/web/20090307071308/http://kuukouno.hp.infoseek.co.jp/kokaiginsyomei.htm 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会](2009年3月7日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 |
||
[[2004年]]の年金国会においては、本会議における年金法案の採決阻止を目的として与党出身者を議長職から退かせた場合に、最年長議員が仮議長を務める国会の慣例として名前が浮上していた。しかし副議長の散会宣言に同調して再出席しなかったこともあるが、最年長議員が仮議長に就任する慣例がないと参院事務局から見解を出されて、仮議長には就任できなかった。 |
[[2004年]]の年金国会においては、本会議における年金法案の採決阻止を目的として与党出身者を議長職から退かせた場合に、最年長議員が仮議長を務める国会の慣例として名前が浮上していた。しかし副議長の散会宣言に同調して再出席しなかったこともあるが、最年長議員が仮議長に就任する慣例がないと参院事務局から見解を出されて、仮議長には就任できなかった。 |
2017年9月4日 (月) 17:13時点における版
田 英夫 でん ひでお | |
---|---|
生年月日 | 1923年6月9日 |
出生地 | 日本 東京府東京市 |
没年月日 | 2009年11月13日(86歳没) |
死没地 | 日本 東京都港区 |
出身校 | 東京大学 |
前職 |
共同通信記者 東京放送社員 |
所属政党 |
(日本社会党→) (社会クラブ→) (社会民主連合→) (護憲リベラルの会→) (新党護憲リベラル→) (平和・市民→) (参議院フォーラム→) 社会民主党 |
称号 |
従三位[1] 勲一等旭日大綬章[2] 参議院永年在職議員 経済学士 |
親族 |
田健治郎(祖父) 田艇吉(大伯父) |
公式サイト | 田英夫 ジャーナリスト・元社会民主党護憲連合参議院議員 |
選挙区 |
(全国区→) (東京都選挙区→) 比例区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1971年7月4日 - 2007年7月28日 |
初代 社会民主連合代表 | |
在任期間 | 1978年3月26日 - 1985年2月10日 |
田 英夫(でん ひでお、1923年(大正12年)6月9日 - 2009年(平成21年)11月13日)は、日本のジャーナリスト、政治家である。従三位勲一等。参議院議員を務めた。
来歴・人物
生い立ち
貴族院議員や台湾総督を務めた男爵田健治郎の孫、日本ホテル会長を務めた田誠の次男として、東京府東京市(現:東京都区部)にて出生した。東京帝国大学入学直後の1943年に学徒出陣で応召、海軍兵科第4期予備学生を経て、第16震洋特別攻撃隊艇隊長として宮崎県の赤水に配置され訓練を重ねていたが、出撃命令が下る前に終戦を迎え、海軍中尉(従七位)で復員した。
ジャーナリストとして
1947年、東京大学経済学部卒業[3]。共同通信社に入社し[3]社会部、政治部記者(東京裁判等の取材にあたる)、1956年の第一次南極観測隊報道担当隊員。1960年に共同通信社会部長、1962年に文化部長を経て、同年11月に当時のラテ兼営放送局・TBS(東京放送[4])に入社した。
1962年10月から放送を開始した『JNNニュースコープ』の初代のメインキャスター[5]となり、1968年3月まで務めた。日本独特の文化であるニュースキャスターの先駆けであるとされている[6]。
『JNNニュースコープ』降板の原因は、西側のテレビメディア初の、北ベトナムでのベトナム戦争取材の最中に発生した。建前上の解雇理由は「『北ベトナムが負けていない』という『真実でない』報道」での放送法第3条2違反であるが、その真実は、報道姿勢そのものを反米的と見なした政府筋、自民党及び福田赳夫幹事長が、TBS社長・今道潤三を自民党本部に呼んでTBS首脳部に圧力をかけたからだとされている。TBSへの再免許更新なしをちらつかせる最終段階まで経営首脳部は解任圧力に抵抗したが、1968年3月10日の成田空港建設反対集会取材のさなか、TBSのドキュメンタリー製作スタッフのマイクロバスにプラカードを所持した集会参加者の反対同盟の農婦7人とヘルメットを着けた若い男3人を乗せたTBS成田事件の影響もあり、最後の放送では降板の経緯に触れることなく「それではみなさん、また明日」を「それではみなさん、さようなら」と言い換えるのみでTV画面から去った。1970年同社を退職[7]。
後日談として、後の首相である自民党衆議院議員・三木武夫が「田英夫君を励ます会」を帝国ホテルで主催し、同じく後の首相であり当時運輸大臣であった中曽根康弘をはじめ宇都宮徳馬など多数の自民党議員も出席した。
政治活動
1971年6月、日本社会党から第9回参院選の全国区に立候補して192万票を獲得し、トップ当選した(いわゆるタレント候補)。
当選間もないころ、通商産業大臣を務めていた田中角栄のもとを陳情で訪れた際に封筒を持たされ、その中身は100万円の裏金だったことを、後にオフレコ扱いで政治評論家の岩見隆夫に告白した。岩見は田の死後、その事実を発表した[8]。
1972年に発生したあさま山荘事件の直後に連合赤軍について述べ、「赤軍派を非難する声があるが、幕末明治維新を御覧なさい。正義のための殺人もあれば暗殺もある。水戸の天狗党は維新に先駆けて決起し結局幕府のために死刑になったが、全ては歴史が審判する」と赤軍派擁護の発言を行い、後に批判されることとなる。
横路孝弘らとともに「新しい流れの会」を結成し、党改革を目指していたが、1977年、中道の結集を目指して離党した[3]。
社会党時代は穏健な社会民主主義者として知られ、社会主義協会とは激しく対立した。1977年に党改革が不十分であることを理由に社会党を離党した。その後、社会党を除名された。西欧型の社会民主主義路線を掲げる社会民主連合を結成した。
社民連時代
1978年3月、社会民主連合の結成に参画し、初代代表となった[3]。 1983年、横路孝弘、八代英太らと共にMPD・平和と民主運動の呼びかけ人となり、事実上の中心人物でもあった。
保守政党の新自由クラブや進歩党と統一会派新自由クラブ民主連合や進歩民主連合を結成、新自由クラブ民主連合で比例区の名簿も共同で出した。長年対立してきた東京都知事鈴木俊一を自公民相乗り候補の対抗馬として支持・支援した。
辛光洙釈放署名問題
1989年、在日韓国人政治犯釈放の要望書に署名した。この中には当時から拉致事件容疑者として韓国で逮捕され、日本でも報道されていた北朝鮮による日本人拉致問題の容疑者が含まれていた(辛光洙の項目参照)。田の求めで、菅直人(後の第94代内閣総理大臣)・千葉景子(後の第83・84代法務大臣)・江田五月(後の第87代法務大臣)もこの釈放署名要望書に署名した。
社民連解党後から社民党入党まで
1994年、國弘正雄や翫正敏、三石久江ら小選挙区制に反対する社会党参院議員と共同で院内会派「護憲リベラルの会」を結成、同年9月22日、新党護憲リベラルを結党した。その間、反小沢一郎色を強めていく。
自社さ連立政権についてはいち早く支持を表明した。さらには社会党最左派と言われた伊東秀子を北海道知事選挙に自民党推薦で擁立したりもした。これらの行動は彼とさまざまな社会運動を共にしてきた支持者・支援者からは裏切りとも取られ、東京都議会議員下元孝子は代表を務めていた大衆党を離党したり、護憲リベラルは「平和・市民」と憲法みどり農の連帯に分裂したりと数々の対立・分断の原因ともなった。
95年参院選後、田らの「平和・市民」は解党。田は椎名素夫らと院内会派「参議院フォーラム」を結成する。
社会民主党時代
1997年に社会党の後身である社民党に入党した[3]。党外交・防衛部会長を務めた。民主党の成立後は左派色を前面に出して活動した。
2001年7月の第19回参院選では戦争に対する危惧から、以前より表明していた引退を撤回して比例代表区(社会民主党)から出馬するも落選する。しかし田嶋陽子の議員辞職に伴って2003年4月に繰り上げ当選となり、6期目を務めることになった。
2003年、静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている[9]。
2004年の年金国会においては、本会議における年金法案の採決阻止を目的として与党出身者を議長職から退かせた場合に、最年長議員が仮議長を務める国会の慣例として名前が浮上していた。しかし副議長の散会宣言に同調して再出席しなかったこともあるが、最年長議員が仮議長に就任する慣例がないと参院事務局から見解を出されて、仮議長には就任できなかった。
2005年3月、脳内出血を患い[6]4月からは療養のために国会に登院していなかったが2005年8月には郵政国会において政局となった郵政法案の賛成派と反対派が拮抗し、1票の価値が重要視されるようになると4ヶ月ぶりに登院し、反対票を投じた。
2006年12月、2007年夏の参院選に出馬しないことを表明し、34年間の議員生活を終えた[6]。
政界引退後
2009年11月13日8時50分、呼吸不全のため東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院で死去した。享年86。
選挙歴
当落 | 選挙 | 施行日 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 得票順位 /候補者数 |
比例区 | 比例順位 /候補者数 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
当 | 第9回参議院議員通常選挙 | 1971年6月27日 | 全国区 | 日本社会党 | 1,921,641 | ' | 1/106 | - | - | |
当 | 第11回参議院議員通常選挙 | 1977年7月10日 | 全国区 | 日本社会党 | 1,587,262 | ' | 1/102 | - | - | |
当 | 第13回参議院議員通常選挙 | 1983年6月26日 | 比例区 | 新自由クラブ・民主連合 | ' | ' | ' | 第1位 | - | |
当 | 第15回参議院議員通常選挙 | 1989年7月23日 | 東京都選挙区 | 無所属 | 1,164,511 | 22.7 | 1/43 | - | - | |
当 | 第17回参議院議員通常選挙 | 1995年7月23日 | 東京都選挙区 | 平和・市民 | 435,773 | 11.4 | 4/72 | - | - | |
繰当 | 第19回参議院議員通常選挙 | 2001年7月29日 | 比例区 | 社会民主党 | 134,934 | 10.1 | 4/10 | - | - | |
当選回数6回 (参議院議員6) |
栄典
脚注
- ^ 平成21年12月7日付け官報本紙第5209号
- ^ 平成13年11月5日付け官報号外第235号
- ^ a b c d e 「田英夫さん死去:元社民連代表、ハト派論客:86歳」 『毎日新聞』 2009年11月18日、13版、1面。
- ^ 会社としては、現在の東京放送ホールディングス。放送局としては、現在のTBSテレビ・TBSラジオ&コミュニケーションズ。TBSの略称は、2009年4月よりTBSテレビに引き継がれている。
- ^ 開始1か月は共同通信社から出向扱い。上記のとおり同11月から正式にTBSに移籍
- ^ a b c 「田英夫さん死去:特攻隊の経験が原点『平和のために議員に』」 『毎日新聞』 2009年11月18日、13版、27面。
- ^ “「ハノイの微笑」オンライン復刻版 (田英夫公式サイト)”. 2007年7月4日閲覧。
- ^ 「近聞遠見」 『毎日新聞』 2009年11月28日
- ^ 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会(2009年3月7日時点のアーカイブ)
関連項目
外部リンク
党職 | ||
---|---|---|
先代 結成 |
社会民主連合代表 初代:1978年 - 1985年 |
次代 江田五月 |
名誉職 | ||
先代 大田昌秀 |
最年長参議院議員 2003年4月 - 2007年7月 |
次代 木村仁 |
ビジネス | ||
先代 番組開始 |
JNNニュースコープ 月・火曜メインキャスター 1962年 - 1968年 |
次代 古谷綱正 |
期間 | 平日 | 休日 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
メインキャスター | アシスタント | スポーツ | お天気 | メインキャスター | スポーツ | |||||||
月曜日 | 火曜日 | 水曜日 | 木曜日 | 金曜日 | 土曜日 | 日曜日 | ||||||
1962年10月1日 | 1964年3月28日 | 田英夫 | 戸川猪佐武 | なし | なし | なし | 戸川猪佐武 | (放送なし) | なし | |||
1964年3月30日 | 1965年3月27日 | 田英夫 | 古谷綱正 | 藤原弘達 | 藤原弘達 | |||||||
1965年3月29日 | 1968年3月31日 | 藤原弘達 | ||||||||||
1968年4月1日 | 1968年9月29日 | 古谷綱正 | ||||||||||
1968年9月30日 | 1969年9月28日 | 近江正俊 | 近江正俊☆ | |||||||||
1969年9月29日 | 1975年3月30日 | 古谷綱正 | 入江徳郎 | |||||||||
1975年3月31日 | 1981年3月29日 | 浅野輔 | 入江徳郎 | |||||||||
1981年3月30日 | 1983年10月2日 | 新堀俊明 | ||||||||||
1983年10月3日 | 1984年9月30日 | 新堀俊明☆ | 浅野輔 | 浅野輔 | ||||||||
1984年10月1日 | 1987年10月4日 | 田畑光永 | 吉川美代子 | 松下賢次 | 浅野芳 | 多田護 | ||||||
1987年10月5日 | 1988年10月2日 | なし | 森田正光1・2・3・5 | 木場弘子4 | ||||||||
1988年10月3日 | 1989年10月1日 | 平本和生 | 三雲孝江3 | |||||||||
1989年10月2日 | 1990年4月1日 | 吉川美代子2 | 戸崎貴広2 | |||||||||
|