「坂口力」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
122行目: | 122行目: | ||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
* [http://web.archive.org/web/20130819204911/http://www.chikara.serio.jp/index.html 元衆議院議員 坂口 力 ホームページ] - 閉鎖。(2013年8月19日時点の[[インターネット |
* [http://web.archive.org/web/20130819204911/http://www.chikara.serio.jp/index.html 元衆議院議員 坂口 力 ホームページ] - 閉鎖。(2013年8月19日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) |
||
{{-}} |
{{-}} |
||
{{start box}} |
{{start box}} |
2017年9月4日 (月) 14:55時点における版
坂口 力 さかぐち ちから | |
---|---|
生年月日 | 1934年4月1日(90歳) |
出生地 |
三重県一志郡白山町 (現:津市) |
出身校 |
三重県立大学医学部 三重県立大学大学院医学研究科 (いずれも現:三重大学) |
前職 | 衆議院議員 |
所属政党 |
(公明党→) (公明新党→) (新進党→) (新党平和→) 公明党 |
初-3代 厚生労働大臣 | |
内閣 |
第2次森改造内閣(中央省庁再編後) 第1次小泉内閣 第2次小泉内閣 |
在任期間 | 2001年1月6日 - 2004年9月27日 |
内閣 | 第2次森改造内閣(中央省庁再編前) |
在任期間 | 2000年12月5日 - 2001年1月6日 |
内閣 | 細川内閣 |
在任期間 | 1993年8月9日 - 1994年4月28日 |
選挙区 | 比例東海ブロック |
当選回数 | 11回 |
在任期間 | 1972年12月11日 - 2012年11月16日 |
坂口 力(さかぐち ちから、1934年〈昭和9年〉4月1日 - )は、日本の政治家、医師、医学博士。公明党特別顧問(厚生労働担当)。
衆議院議員(11期)、労働大臣(第58・69代)、公明党副代表、厚生大臣(第86代)、厚生労働大臣(第1・2・3代)などを歴任。
略歴
- 1934年4月1日 - 三重県一志郡白山町(現:津市)に生まれる。
- 松阪北高校(現:松阪工業高校)、三重県立大学(現:三重大学)医学部卒業。三重大学大学院医学研究科博士課程修了。
- 大学院修了後、日本赤十字センターに勤務[1]。
- 1972年12月 - 第33回衆議院議員総選挙に出馬し初当選(通算9回)。党委員長竹入義勝の下で党政策審議副会長に就任。以後、10年に渡り同職を務める。
- 1980年6月 - 第36回衆議院議員総選挙で落選。
- 1986年12月 - 7月の衆参同日選後、公明党大会で党委員長矢野絢也の下で党政策審議会長に就任。
- 1989年5月 明電工事件に絡み矢野が辞任し、後任に党副委員長石田幸四郎が就任する。党政策審議会長は留任。
- 1990年2月 - 第39回衆議院議員総選挙で落選。党政策審議会長を党副委員長神崎武法に譲り退任。
- 1993年
- 7月 - 第40回衆議院議員総選挙で当選。
- 8月 - 細川内閣が発足し労働大臣に就任。
- 1994年
- 1995年8月 - 党首海部俊樹の下で党政策審議会長代理に就任。
- 1997年10月 - 新進党の解党前に党内派閥の「公友会」を結成。
- 1998年
- 1999年9月 - 自自公連立内閣の発足に伴い改造人事を行い、党政策審議会長を党政審副会長北側一雄に譲り退任。党副代表の職は留任。
- 2000年12月 - 第2次森内閣で厚生大臣兼労働大臣に就任。
- 2001年
- 2004年9月 - 厚生労働大臣を退任。
- 2012年
人物・政策
- 省庁再編で統合された厚生労働省の初代大臣である。日本国政府として、初めてらい予防法によるハンセン病患者に対する「強制隔離収容政策」の日本国政府の責任を認め、2001年5月11日の熊本地裁で判決が下された『らい予防法違憲国家賠償訴訟』の国側敗訴を受け入れ、福岡高等裁判所へ控訴しないことを厚生労働大臣として決定し、内閣総理大臣小泉純一郎に進言した。また厚労省官僚は控訴すべきと各所に説明した際には、後年「霞が関はすごい組織です。あの時ほど役人が怖いと思ったことはない」と述べており、厚生労働大臣の辞任を決意していた。しかし控訴を断念し、確定判決なった際には、元ハンセン病患者・国立ハンセン病療養所入所者に対して謝罪した。
- BSE感染牛が発見されたことをきっかけに始まった全頭検査は、政治的判断や感情論が大きな背景にあったといわれる。これについて坂口は「風評被害があり、(全頭検査をしなければ)国民の安心が得られない」と説明している[4]。
- 2003年、労働者派遣法改法案が議論されていた際、厚生労働大臣として国会で「厳しい雇用失業情勢や働き方の多様化などに対応いたしまして、迅速、円滑かつ的確な労働力需給の結合を促進し、企業活動に必要な労働力の確保を図りますとともに、一人でも多くの方が雇用の機会を得られるようにするためのもの」「今回の直接雇用の促進の措置を法律に明記することにより、さらに派遣労働者から直接雇用に移る労働者がふえるものと確信しているところでございます」と答弁した[5]。
- 2004年3月、鳥インフルエンザが拡大している最中、記者会見において狙いすまして「牛やら鶏やら、モウ、ケッコウ」と発言。会見では大いにウケたが、その後「冗談を言っている場合ではない」と抗議が相次ぎ、結局謝罪に追い込まれた[6]。
- 労働者派遣法をめぐっては、規制緩和を唱えるオリックスの宮内義彦およびザ・アールの奥谷禮子と、労働者保護を唱える民主党「次の内閣・雇用担当大臣」の城島光力が激しく対立。結果として宮内・奥谷路線が政策として採用されたが、議論の過程で宮内の文書や奥谷の行動が問題となり、城島の質問主意書に対して衆議院の厚生労働委員会は宮内と奥谷の一連の行動について「議会制民主主義の基本的なルールを踏みにじるかつてない暴論である」との見解を正式に決定した[7]。
- 菅直人とは若手議員の頃からの親友である。かつては坂口、菅、伊藤茂(社会党)、米沢隆(民社党)の4人で「仲良しクラブ」を結成し、定期的に勉強会や研修旅行をしていた。2008年末には衆院第1議員会館で体調を崩した坂口を菅が発見し、腕を抱えて坂口の部屋まで送り届けたこともあった。しかし、菅が総理大臣に就任してからは厳しい視線を送っており、「友人 菅総理に贈る最後の言葉」と題して退陣を促すコメントを発表した[8]。
- 坂口が代表を勤める政治団体である「公明党衆議院比例区東海第二総支部」が、当時の現職社長が脱税容疑で逮捕された医療廃棄物輸送企業「メスキュード三重」(現:メスキュード中央)から計334万円の政治献金を受けていたことが2012年6月に発覚している[9]。
- 日中国会議員書画展へ書画を提供している[10]。
語録
政治家は、個人を犠牲にする覚悟があって初めてできる職業です。好きでやっている人がいるとすれば、それは政治屋です。
誰しも自分に犠牲を強いることは楽しいことではありません。政治家とは、自分を抑えて、みんなのために生きなければならない職業の一つなのです。
そして私は政治家である前に一人の人間であり、医師であることも忘れてはいません。これまで、そう信じてやってきました。これからもまた、頑迷にそう信じて「タケノコ医者」の私は政治に携わってゆくつもりです。 — 坂口力 『タケノコ医者』(2001年12月、光文社)
役職歴
公明党
- 特別顧問(厚生労働担当)
- 副代表
- 参議院選挙対策本部副本部長
- 社会保障制度調査会顧問
- 税制調査会顧問
- 憲法調査会顧問
- がん対策推進本部顧問
- 三重県本部顧問
内閣
議員連盟
- 適切な医療を実現する医師国会議員連盟顧問(2011年 - 2012年)
- イクメン議員連盟顧問(2012年)
脚注・出典
- ^ 廣新二 『日本政治史に残る三重県選出国会議員』 275ページ (1985年〈昭和60年〉)
- ^ 坂口・元厚労相ら公明6衆院議員、今期で引退2012年8月23日
- ^ 公明、特別顧問に坂口、遠藤両氏 執行部は留任:日本経済新聞
- ^ ジェイ・キャスト2012年1月8日
- ^ 国会会議事録検索システム 第156回通常国会衆議院本会議 平成15年04月22日 [1]
- ^ モウケッコウで厚労相陳謝 首相は「冗談言えないね」 47NEWS 2004年3月5日
- ^ サンデー毎日
- ^ 産経新聞 2011年6月23日付 『公明・坂口氏が首相に退陣勧告 友人として「心配で見ていられない』
- ^ 坂口元厚労相支部、脱税容疑の業者から政治献金 読売新聞 2012年6月16日
- ^ [2]NPO法人日中国会議員書画展実行委員会
関連項目
外部リンク
- 元衆議院議員 坂口 力 ホームページ - 閉鎖。(2013年8月19日時点のアーカイブ)
公職 | ||
---|---|---|
先代 創設 |
厚生労働大臣 初代:2001年 - 2004年 |
次代 尾辻秀久 |
先代 津島雄二 |
厚生大臣 第86代:2000年 - 2001年 |
次代 廃止 |
先代 吉川芳男 村上正邦 |
労働大臣 第69代:2000年 - 2001年 第58代:1993年 - 1994年 |
次代 廃止 羽田孜→鳩山邦夫 |