「連邦準備制度」の版間の差分
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1914年、[[USスチール]]社長でAMEA理事でもあったジェームズ・ファレル([[:en:James A. Farrell|James A. Farrell]])が、連邦準備法に外国手形の割引特権と外国支店の設立(次節)が認められていることを指摘し、これらにより米系銀行による貿易金融が現実的となったことを喜び、また積極的な資本輸出を主張した<ref>AMEA, ''Proceedings of Annual Convention'', 1914, pp.71-76.</ref><ref>同年AMEAに参加していた企業は235社であった。</ref>。このAMEAは1917年、フランスの復興需要について報告書をまとめている<ref>[[インターネット |
1914年、[[USスチール]]社長でAMEA理事でもあったジェームズ・ファレル([[:en:James A. Farrell|James A. Farrell]])が、連邦準備法に外国手形の割引特権と外国支店の設立(次節)が認められていることを指摘し、これらにより米系銀行による貿易金融が現実的となったことを喜び、また積極的な資本輸出を主張した<ref>AMEA, ''Proceedings of Annual Convention'', 1914, pp.71-76.</ref><ref>同年AMEAに参加していた企業は235社であった。</ref>。このAMEAは1917年、フランスの復興需要について報告書をまとめている<ref>[[インターネットアーカイブ]] AMEA, ''[https://archive.org/details/cu31924029982471 Franco=American Trade]'', Sep-Oct, 1916.</ref><ref>1918年、AMEA参加企業が814社に急増した。</ref>。 |
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[[1921年]]4月、ポール・ウォーバーグが''International Acceptance Bank'' という[[ノンバンク]]をニューヨークで開業した。主要株主は[[クーン・ローブ]]、[[M・M・ヴァールブルク&CO]]、[[N・M・ロスチャイルド&サンズ]]およびその他であった。業務は銀行引受手形であり、合衆国では連邦準備局(連邦準備制度の旧名)とIAB が事実上[[独占]]した。ヨーロッパでは馴染みの貿易金融であった。<ref>ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ ユダヤ財閥の興亡(上)』 日本経済新聞社 1998年 p.341.</ref> |
[[1921年]]4月、ポール・ウォーバーグが''International Acceptance Bank'' という[[ノンバンク]]をニューヨークで開業した。主要株主は[[クーン・ローブ]]、[[M・M・ヴァールブルク&CO]]、[[N・M・ロスチャイルド&サンズ]]およびその他であった。業務は銀行引受手形であり、合衆国では連邦準備局(連邦準備制度の旧名)とIAB が事実上[[独占]]した。ヨーロッパでは馴染みの貿易金融であった。<ref>ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ ユダヤ財閥の興亡(上)』 日本経済新聞社 1998年 p.341.</ref> |
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*[https://www.federalreserve.gov/ 連邦準備制度理事会公式サイト] {{en icon}} |
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*[https://archive.org/details/TheAmericanDreamFilm-FullLength The American Dream Film - Full Length] 2011年11月 インターネット・アーカイブ |
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{{Commons&cat|Federal Reserve|Federal Reserve}} |
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2017年9月4日 (月) 14:24時点における版
FRSのあるエクルズ・ビル(Eccles Building) | |
本店 |
ワシントンD.C. 20th Street and Constitution Avenue NW |
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位置 | 北緯38度53分34.8秒 西経77度2分44.8秒 / 北緯38.893000度 西経77.045778度 |
連邦準備制度理事会議長 | ジャネット・イエレン |
国 | アメリカ合衆国 |
通貨 |
アメリカ合衆国ドル USD (ISO 4217) |
基準貸付利率 | 0-0.25% |
預金基準金利 | 3.5% |
ウェブサイト | federalreserve.gov |
連邦準備制度(れんぽうじゅんびせいど、英語: Federal Reserve System, FRS)は、アメリカ合衆国の中央銀行制度である。ワシントンD.C.にある連邦準備制度理事会(Federal Reserve Board, FRB)が全国の主要都市に散在する連邦準備銀行(Federal Reserve Bank, FRB)を統括する。
連邦準備制度理事会は連邦議会の下にある政府機関であるが、予算の割当や人事の干渉を受けない。各連邦準備銀行は株式を発行する法人(body corporate)である(#連邦準備銀行の株主)。恐慌を収拾するついでに貿易金融を統括する機関として、連邦準備制度はジョン・モルガンをはじめとするメガバンク代表者の秘密会議で立案された。モルガンを中心とするイギリスとヨーロッパの歴史が、世界金融危機のベイルアウトへ至るメガバンクと連邦準備制度の関係を基礎づけた。
歴史
ウォール街とスイス
1776年の建国以来、アメリカ合衆国では第一合衆国銀行や第二合衆国銀行のような試みはあったものの、アンドリュー・ジャクソンら分権主義者の反対で取り潰される等して(Bank War)、中央銀行は成立せず、個々の銀行等が米国債や金準備を使って紙幣を発行していた。もっとも、インディアナ州においては連邦準備制度の原型とみられる金融制度が採用されていた[2]。
分権主義を逆手にとって、欧州資本が進出してきた。1834年ロスチャイルドが大規模に合衆国公債を引受け、翌1835年までにボストン・ニューヨーク・フィラデルフィア・ボルチモアにロスチャイルドの利益を代表する支店または代理商がおかれ、さらにロスチャイルドは500万ドルのアメリカ公債を保有した[3]。1837年恐慌で州立銀行がデフォルトすると、代わりにウォール街の金融が栄え出した。州債発行額は1835年から著しく増加して1842年をピークに漸減したが、それは恐慌にかまわず公債が欧州へ輸出されたことを意味する。この現象は綿花の売上げ低下と関係する。恐慌をすぎて合衆国銀行はニコラス・ビドル(Nicholas Biddle)の主導により、綿花受入・販売のためリヴァプールに、州債売却のためロンドンに、各代理店を同時に置いた[4]。そして買いつけた綿花を代理店に蓄え相場の上がるまで卸さず、またその間の信用は手形を代理店に送って州債を担保に調達した[5]。1839年10月の州債デフォルトによりビドル体制は行き詰まりだした。ベルギー・プロイセン・ザクセンの綿産業が(メリノ種羊毛と競い)不況となったからである[6]。デニソン商会(Denison & Co.)とロスチャイルド、そしてホープ商会は合衆国銀行に1220万ドルの州債を担保に追加するよう求めた[7]。1840年3月に州債を連邦で保証する法案が否決され、ペンシルベニア州債が利子の支払いを遅滞するとベアリングス銀行が連邦保証を求めた[8]。6月からベアリングはニューヨーク(市と州)とオハイオ州の公債を売りまくった。1841年2月に合衆国銀行が営業停止となってフリーバンキング時代が到来した。しかしホープ商会とベアリング家が買収を支援したルイジアナ州では地金型金貨を銀行に準備させる制度が採られた(The Forstall System)。
1839年にベルギーが永世中立を保障されてから、欧州綿産業は大雑把に表現すれば次のように展開した。1843年にプロイセンのケルンとベルギーのアントウェルペンが鉄道で結ばれた。1848年スイス連邦が分離同盟戦争を経て成立した。その北部ではカルヴァン派をふくむ宗教改革派が産業革命を達成した。それはチューリッヒを核とする勢力であったが、ミュルーズと高ライン地域に綿工業ベルトをつくっていた。製品を南へ出荷することは戦争のほとぼりが冷めるまで難しかったから、西・北・東でベルト地帯に接するフランス・バーデン王国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国・オーストリアのいずれかを取引先とした。これらの輸出先もカトリックをルーツにもっていたが、当時は啓蒙思想による改革が進み、割り切った輸入がなされていた。
貿易金融の掌握
1861年にアメリカで南北戦争が起こり、綿製品需要が生じた。スヘルデ川の航行権を回復したベルギーから、ベルト地帯の製品が取引先を経由して戦地へ輸出された。綿ブローカーが戦地アメリカで利権を築こうとし、ドイツの証券市場が盛況となった。するとアメリカでも販路開拓の動きが起こった。1864年、New York Guaranty and Indemnity Company という信託会社が生まれた。1870年の普仏戦争でミュルーズをふくむアルザスがドイツ帝国のものとなり、輸出経路の国境が取り払われてベルトは回転速度を増した。
世界的な大不況が進行するにつれて欧州各国で金本位制が採用されていった。その前半に三国同盟が成りスイスの商圏が広がった。合衆国への拡大は時間の問題であった。1891年、相互生命(Mutual Life Insurance Company of New York、現アクサ)が先に英名で書いた信託会社の経営権を取得し、5年後にその信託会社をギャランティ・トラスト・カンパニー(1959年からモルガン・ギャランティ・トラスト)へ改名した[9]。ギャランティは1897年にロンドン支店を開設し[10]、巨大な外国部もニューヨークへ置いた[11]。
1901年、ハートリー(Marcellus Hartley)が地元コネチカットの認可を受けて貿易金融会社(International Banking Corporation)をつくった。エドワード・ヘンリー・ハリマンやアイザック・グッゲンハイムを重役としてアジア開発を仲介した。競争相手のギャランティから1904年にアジアの三支店を譲り受けたが、1907年恐慌は主力のロンドン支店を窮地へ追いやった[12]。
ギャランティは恐慌をすぎてから急速に総資産額を伸ばした。1909年時点で、ギャランティは次の銀行とコルレス契約を結び、証券の発行・引受・償還を代行していた。ナショナル・シティ、チェイス・ナショナル、そしてメロン・ナショナルである[13]。このころのギャランティが擁した主要な重役を並べてみる。リーヴァイ・モートン、ジェームズ・デューク(James Buchanan Duke)、ジェイ・グールドの息子(George Jay Gould I)、ダニエル・グッゲンハイム(Daniel Guggenheim)、トーマス・ラモント(Thomas W. Lamont)、C.A.ピーボディ(C.A.Peabody)J.D.ライアン(J.D. Ryan)、ウィリアム・ダグラス・スローン(エミリー・ソーン・ヴァンダービルトと結婚)、アルバート・ウィギン(Albert H. Wiggin)、A.W.フェリン(Augustine William Ferrin, 米外交官)[14]。
FRB設立
ジョージ・コーテルユー財務長官は、金融業界を保護するために、経済の安定を維持する国家主導の十分な能力が必要であると考えた。その対策として、まずオルドリッチ・ヴリーランド法(1908年)でアメリカ通貨委員会を設立。1910年11月22日、ジョージア州沿岸のジキル島にJ・P・.モルガンが所有するジキル島クラブ[15]で秘密会議が開かれ、FRBを設立する計画が討議された。計画は、彼らが掌握した貿易金融を促進すべく、アメリカの国際的な手形交換制度を建設した。
ギャランティなどが担う綿・穀物の貿易金融とは一見独立して、国内の工業系大企業は自己金融による輸出を拡大していた。デュポン・コダック・ゼネラルモーターズ・ゼネラルエレクトリック・NCR・レミントンランド・ウェスタンエレクトリック・ウェスティングハウスなど約30社は、1910年にアメリカ製造業者輸出協会(American Manufacturers Export Association)を結成した[16][17]。
1913年中に、この段すべての出来事がおきた。まずアメリカ合衆国憲法修正第16条とアメリカ合衆国憲法修正第17条が批准された。ジキル島での会合時すでに修正が議論されていた2つの変革は、各州の財政力と政治力をそぎ落とした。基礎工事が済むと、J.P.モルガンやポール・ウォーバーグ、ジョン・ロックフェラーの後ろ盾の下に、ウッドロウ・ウィルソン大統領[18]がロバート・オーウェンとカーター・グラスの提出したオーウェン・グラス法[19]に署名した。こうして、多くの上院議員が休暇で不在の隙を突いて12月23日にワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される連邦準備制度が成立した[20]。「準備」とは預金準備のことを意味する。
1914年、USスチール社長でAMEA理事でもあったジェームズ・ファレル(James A. Farrell)が、連邦準備法に外国手形の割引特権と外国支店の設立(次節)が認められていることを指摘し、これらにより米系銀行による貿易金融が現実的となったことを喜び、また積極的な資本輸出を主張した[21][22]。このAMEAは1917年、フランスの復興需要について報告書をまとめている[23][24]。
1921年4月、ポール・ウォーバーグがInternational Acceptance Bank というノンバンクをニューヨークで開業した。主要株主はクーン・ローブ、M・M・ヴァールブルク&CO、N・M・ロスチャイルド&サンズおよびその他であった。業務は銀行引受手形であり、合衆国では連邦準備局(連邦準備制度の旧名)とIAB が事実上独占した。ヨーロッパでは馴染みの貿易金融であった。[25]
ロスチャイルド家だけでなくユニオン・バンクもIAB の経営を支えた[26]。ロックフェラーのEquitable Trust Company(現・JPモルガン)やディロン・リードも協力し、IAB の短期信用網をティッセンなどが利用した[27]。
エッジ法
FRBができるときにウォルター・エッジが、FRBの会員銀行は国際銀行業務とその他の国際金融業務に参入するため、連邦企業を組織できるようにするべきだと提唱した。この提案は、オーウェン・グラス法に附属する形で法律エッジ法となった。当時、債務国のヨーロッパは合衆国からの輸入物をUSドルで買う余裕がなかった。そこでウォルター・エッジは、連邦企業がヨーロッパの通貨を引受け、運用しつつ、ヨーロッパの経済が回復するのを待ってからドルにするという提案をした。この債権は世界恐慌で見事に焦げついた。しかし、グラス・スティーガル法ができてしまうと、議会はエッジ法による国際金融業務を封じ込めるのをすっかり忘れてしまった。[28]
合衆国の国益追及姿勢は、独占資本を国外で好きにさせるが、成長して帰ってくる道理に無関心である。1918年、アメリカはシャーマン法をウェッブ・ポメリン法で修正し輸出カルテルを認めた。エッジ法は、独占体がオフショア・ファンドを使って1940年投資会社法を脱法するとき、連邦企業を通じて資金を供給した。
1975年、会員銀行とその系列企業が20をこえ、それらは30以上の連邦企業を経営している。この連邦企業は普通、会員銀行の子会社である。FRBは国内の連邦企業について、会員銀行が行う海外事業に付随する業務しか行わないと約束してはいるが、しかしウォール・ストリート・ジャーナルをはじめとする経済各紙掲載の公告は、オフショア市場開発、穀物取引、ロンドンのよく分からない市場混乱、国際的な中期融資、国際的な不動産貸借、そして合衆国輸出入銀行の事業に対し、連邦企業が連邦政府を通して融資を行っている実態を示す。[28]
2002年9月、エッジ法によりニューヨーク連邦準備銀行の監督でCLS銀行がサービスを開始した。為替差損を回避するため、参加通貨[29]を発行する各中央銀行の重なった営業時間帯に、CLSが中央銀行にもつノストロ口座を利用して決済する。この業務においては世界シェアの大半を占める金融インフラであるが、しかしネットワークは国際銀行間通信協会に頼っている。国内決済のように、流動性供給銀行という通貨不足を互助する仕組みがある。CLS銀行は通貨取引開発税をめぐる議論でも言及されている。
世界準備制度
1928年12月14日の国際連盟理事会で、金融委員会からの勧告が採択された。勧告の内容は、金購買力変動を調査する委員会を設置するものであった。アルベルト・ヤンセン(Albert-Édouard Janssen)を議長とする委員会に、ジョージ・ロバーツ親子(父がGeorge E. Roberts、子はミドルネームだけが父と異なりBassett)が委員として参加した[30][31]。1930年6月に最初の中間報告書が提出された[32]。報告書は金本位制の準備金が世界的に不足している計算結果を示した。さらに各国の準備金保有割合も弾き出した。1928年時点で、主要15カ国が世界の準備金100億3500万ドルの91.2%をもっており、そのうちアメリカだけで37.3%を占めるというのである。FRB が報告書の公表に強く反対したので、公表は1930年9月となった。報告書は準備金節約の手段として、郵便諸制度の活用を推奨したり、金為替制度の拡大を追認したりした。前者はライヒスバンクに、後者はフランス銀行に有利な主張であった。準備金の偏在と世界恐慌との関係は、後にも委員会の権限外として調べられることがなかった。
1934年、金準備法(Gold Reserve Act)が成立して、アメリカの金輸出は固定価格で金売買を行っている外国中央銀行に対してだけなされることになり[33][34]、1974年12月まで民間の金兌換はできなくなった。財務省は通貨安定基金を使いドル相場を統制できるようになった。また物価の安定を名目とした外国為替介入や公開市場操作も可能となった。こうした手段は準備金の輸出を直接規制しうるものであった。固定化するドル安に、欧州各国はデフレ政策と通貨切り下げで応戦した。1936年9月25日、英仏が白旗をあげてアメリカと三国通貨協定(Tripartite Agreement)を結んだ。この策定にパウル・ファン・ゼーラントらベルギー勢が尽力した。
第二次世界大戦中の1938年、FRB はフランス銀行から準備金600トンの移送を受け入れた。戦後経済ではキューバが米州機構を脱退するまでにファンド・オブ・ファンズや知的所有権保護合同国際事務局でジュネーヴ金融が台頭した。
ブレトンウッズ体制下の1962年7月21日、FRB はスイス国立銀行と結んだスワップ協定を公表した。ニクソン・ショックより9年も早いドル防衛である。二者の他にスイス銀行と国際決済銀行が連携して、ニューヨーク連邦準備銀行に4.32億スイスフランを集め、その反対債権を利用して米国債に1億US ドルをもっていき兌換を阻止した。技術的に同様のスワップ協定は少し前に英仏オランダベルギーカナダと結んでいた。イングランド銀行は年始に金プールの代理人として参加国中央銀行から承認され、プール引き出しを連銀に報告しなくてよいことになっており、協力的な立場にあった。それにしても7月21日協定は直ちにプロセスの半分を履行するという電撃的なものであった。公表から2週間ほどの間に国際決済銀行はさらに1千万ドルのスワップを追加した。そして少し後に連銀と西ドイツブンデスバンクの間に5千万ドルのスワップ協定が結ばれた。[35]
銀証分離の緩和
1968年から銀行引受手形市場は、ギャランティのユーロクリアが支配するユーロダラーに奪われていた。1971年、NY手形交換所(New York Clearing House)加盟銀行9行がCHIPSを稼動[36]。これは、ユーロダラーやマネー・マーケット・ファンド、コマーシャル・ペーパーと並んで、連邦準備制度が要求する預金準備率をメガバンクが無視する常套手段としてもてはやされた[37]。
1975年、連邦準備制度による通貨供給量の増加に歯止めをかけようと議会が挑み、金融政策の目標値を公表・達成させるために民主的統制を制度保障する合意を得た。しかし同年3月の両院共同決議を最初として、連邦準備制度は二方向から攪乱してきた。通貨の定義を複数設けて(M1A, M1B, M2, M3, L)、それぞれに目標値を出すようにした。しかも供給量伸び率目標値の変動幅を算定する式を年内に五回も変更した。[38]
1976年、怒った議会は連邦準備制度の重役を連銀レベルまで調べあげて、民間銀行や大企業との具体的な人的関係を暴露した[39]。連邦準備制度は同年からフェデラル・ファンド金利の変動許容幅を狭めて現金の不足を演出し、なおかつ供給量伸び率の変動許容幅を広げて存分に現金を注入、インフレを煽動した[38]。
1978年アメリカで外国銀行の支店設置を一つの州に限るという法律ができたが、バークレイズは適用除外された[40]。
規制緩和という名の門戸開放が進んだ。グラス・スティーガル法第20条と1956年銀行持株会社法は、それぞれ異なる角度から銀証分離を定めている。これらに基づいて、銀行持株会社が所有できる非銀行子会社は、常識的な態様で銀行業務に付随し、かつ証券業務を主体としないものに制限されていたのである。ここで子会社の認可を出していたのはFRB であり、司法当局ではない。そして銀証分離はグラム・リーチ・ブライリー法ができる前からFRB が大幅に緩和していた。[41]
1987年4月にFRB は、コマーシャル・ペーパー、モーゲージ担保証券、特定地方財源債の引受を業務に含む子会社に対する認可を求めてきた銀行持株会社に対し、これら業務を銀証分離の対象とした上で、それら業務からの収入がその子会社の総収入において5%以内であれば先の主体性を否定して認可するという態度を示した。この5%以内という収入制限は、1989年に10%、1997年には25%になった。子会社の営める証券業務範囲も1989年には社債、1990年には株式にまで拡大した。[41]
このような緩和に伴い、地方債・モーゲージ証券・および国債をあつかうミューチュアル・ファンドへ資金が流入した。ファンドは以前から株式も積極的に購入しており、銀行は流れ出た預金を独自の投資信託で吸収していた。1863年国家銀行法(National Bank Act 1863)は銀行が事業会社株式を取得することを禁じていたが、投信は良い抜け穴であった。
世界金融危機以降
FRBは世界金融危機に際し、TARPに紛れて16兆ドルもベイルアウトした。融資先は以下の15行。[42]
- シティグループ 2.5兆ドル
- モルガン・スタンレー 2.04兆ドル
- メリルリンチ 1.949兆ドル
- バンカメ 1.344兆ドル
- バークレイズ 8,680億ドル
- ベア・スターンズ 8,530億ドル
- ゴールドマン・サックス 8,140億ドル
- JPモルガン・チェース 3,910億ドル
- ドイツ銀行 3,540億ドル
- UBS 2,870億ドル
- クレディ・スイス 2,620億ドル
- リーマン・ブラザーズ 1,830億ドル
- スコットランド銀行 1,810億ドル
- パリバ 1.750億ドル
- ロイヤルバンク・オブ・スコットランド 5,410億ドル
2008年11月7日、ブルームバーグがベイルアウトなどの情報開示を求めてニューヨーク南部地区地方裁判所で連邦準備制度理事会を提訴した。翌年8月24日、FRB に対し開示命令が出た。27日、裁判所はFRB の打診を受けて9月30日までの履行延期を認めた。その間に手形交換所協会の加盟銀行が連絡をとり、訴訟に介入しFRB を弁護しはじめた。2010年5月4日に協会とFRB は控訴したが、いずれも8月20日に却下された。26日、合衆国最高裁判所は上告の準備として10月19日までの履行延期を認めた。訴訟は最終的に棄却され、2011年3月21日に再び開示命令が出た。FRB は5日以内にブルームバーグへ情報を提供することとなった。なお、ブルームバーグへはメリルリンチが30%資本参加している。
名前の列挙された銀行は手形交換所協会の加盟銀行として上のような防戦を展開する一方で、サブプライム住宅ローン危機の引き金となった住宅ローン担保証券をめぐり次々と訴訟を提起されている[43]。またベイルアウトを受けた銀行の多くは、手形交換所協会の加盟銀行であるHSBCの不祥事とロングターム・キャピタル・マネジメントの救済融資に登場する。
不祥事の一部が周知され、2015年5月13日に米上院銀行委員会の長が、FRBに対する議会の監査強化や大手金融機関の資産基準引き下げなどを盛り込んだ、多岐にわたる法案を提出する運びとなった[44]。同年3月、FRB とその他主要中央銀行はブロックチェーンによる通貨のデジタル化と決済ネットワークの構築に関してIBM と非公式に協議していた[45][46]。
連邦準備銀行の株主
連邦準備制度理事会は政府機関であるが、各連邦準備銀行は株式を発行する法人である。ただし、合衆国政府は連邦準備銀行の株式を所有しておらず、各連邦準備銀行によって管轄される個別金融機関が出資(=株式の所有)義務を負っている[47][48][49]。また、個人や非金融機関の法人は連邦準備銀行の株式を所有できない。
個別金融機関による出資額は金融機関の資本規模に比例するが、連邦準備銀行理事を選出する際の投票権は出資規模に関わらず一票ずつであるため、大手銀行が主導権を握るといったことはできない[48]。
連邦準備法[50]により、連邦準備銀行の株主が連邦準備制度に及ぼす影響力はきわめて小さいものに限定されている。連邦準備法における連邦準備銀行の株主の位置づけは、9人の連邦準備銀行理事のうち6人を選定するにすぎない(他の3人は連邦準備制度理事会が指名)[51]。また、連邦準備銀行理事の権限は理事長の選出のみであり、その理事長の権限も以下のものに限られている。
連邦準備制度は大統領の指名と議会の承認による連邦準備制度理事会の主導により運営されている。但し、連邦準備制度理事会が政府機関であるのに対し、連邦準備銀行が民間企業の形式を採っているのは事実である。とはいえ完全な民間企業とも言えず、両者を折衷した性格を持っている[48]。
主要業務
中央銀行としての一般的な業務は次のようなもの。
- 市中銀行の監督と規制(ユーロダラーの台頭から形骸化)
- 金融政策の実施(レーガン時代の高金利が連邦貯蓄貸付保険公社にダメージ)
- 財務省証券などの売買による公開市場操作(オイルショック手前のインフレを煽動)
以下は新しい知見となりうるもの。
実際、支払制度が十分に維持されているとは言いがたい。2016年2月にバングラデシュ銀行が不正送金で損害を受けた事件をめぐり、バングラデシュ警察が捜査したところ、FRBはファイアウォールを有効にせずに10ドルの中古ルーターで国際銀行間通信協会に接続していたことが分かった[57]。他にもずさんな実態の中央銀行があるものと世銀関係者が見ている。
金融政策の独立性については発足当時政府の影響を強く受けたとされる。この点、ミルトン・フリードマンなどが、「世界恐慌にまで発展した1920年代のアメリカの金融バブル崩壊に際して、連邦準備制度が明白な不作為によって事態を深刻化させた」と指摘する。この考え方は今ではベン・バーナンキ(第14代議長)をはじめとする経済学者に広く受け入れられている[58]。戦後、ブレトンウッズ体制がスタートし、FRBと財務省が協定を締結し、金融政策の独自性を持つようになったとされる。
組織
連邦準備制度理事会
連邦準備制度理事会 (Federal Reserve Board of Governors) は連邦準備制度の統括機関。中央銀行に相当。14年任期の理事7人によって構成され、理事の中から議長・副議長が4年の任期で任命される。議長・副議長・理事は大統領が上院の助言と同意に基づいて任命する。
金融政策の策定と実施を任務としており、また連邦準備制度の活動の最終責任を負う。
大統領に対して、政府機関中最も強い独立性を有する一方で、世界経済に対する影響力は絶大であるため、FRB議長は「アメリカ合衆国において大統領に次ぐ権力者」と多くの人々に考えられている[59]。
現在の理事会メンバーは以下の通りである。定員は7人。
役職 | 氏名 | 就任年月日 | 任期満了予定年月日 | 前職 |
---|---|---|---|---|
議長 | ジャネット・イエレン | 2010年10月4日[60] | 2024年1月31日(理事の任期[60]) 2018年2月3日(議長の任期[60]) |
連邦準備制度理事会副議長 |
副議長 | スタンレー・フィッシャー | 2014年6月17日 | 2028年1月31日(理事の任期) 2018年6月12日(副議長の任期) |
イスラエル銀行総裁 (アメリカとイスラエルの二重国籍) |
理事 | ラエル・ブレイナード | 2014年6月16日[61] | 2026年1月31日[61] | 国際担当財務次官[61] |
理事 | ダニエル・タルーロ | 2009年1月28日[62] | 2022年1月31日[62] | ジョージタウン大学ローセンター教授[62] |
理事 | ジェローム・パウエル | 2014年6月16日(再任)[63] | 2028年1月31日[63] | カーライルグループ(Carlyle Group)幹部[63] |
理事 | 空席 | |||
理事 | 空席 |
連邦公開市場委員会
連邦公開市場委員会 (Federal Open Market Committee, FOMC) は、FRBが定期的に開く会合で、FRB理事7人と連邦準備銀行総裁5人(ニューヨーク連邦準備銀行総裁と、持ち回りで選ばれる他地区連銀の総裁4人。それ以外の地区連銀総裁も議論には参加するが議決権はない)で構成されるアメリカの金融政策決定機関である。議長はFRB議長、副議長はニューヨーク連邦準備銀行総裁が担当する。
FOMC定期的会合は年間8回開かれ、フェデラル・ファンド金利の誘導目標、及び公定歩合が決定されるが、市場の急変などでは臨時会議が開かれ、暫定的に公定歩合などが決定される(例:2000年末の株価大暴落時や、エンロンショック、2007年8月17日の0.5パーセント引き下げ等)。
連邦準備銀行
連邦準備銀行 (Federal Reserve Banks) は市中銀行の監督と規制など、公開市場操作以外の連邦準備制度の業務を行い、また連邦準備券(ドル紙幣)の発行を行う。連邦銀行(連銀)と呼ばれることもある。以下の12地区に分割されている。このうち第2地区のニューヨーク連邦準備銀行が全体の要となる。
地区 | 銀行 | 本部所在地 |
---|---|---|
第1地区 | ボストン連邦準備銀行 | マサチューセッツ州ボストン |
第2地区 | ニューヨーク連邦準備銀行 | ニューヨーク州ニューヨーク |
第3地区 | フィラデルフィア連邦準備銀行 | ペンシルベニア州フィラデルフィア |
第4地区 | クリーブランド連邦準備銀行 | オハイオ州クリーブランド |
第5地区 | リッチモンド連邦準備銀行 | バージニア州リッチモンド |
第6地区 | アトランタ連邦準備銀行 | ジョージア州アトランタ |
第7地区 | シカゴ連邦準備銀行 | イリノイ州シカゴ |
第8地区 | セントルイス連邦準備銀行 | ミズーリ州セントルイス |
第9地区 | ミネアポリス連邦準備銀行 | ミネソタ州ミネアポリス |
第10地区 | カンザスシティ連邦準備銀行 | ミズーリ州カンザスシティ |
第11地区 | ダラス連邦準備銀行 | テキサス州ダラス |
第12地区 | サンフランシスコ連邦準備銀行 | カリフォルニア州サンフランシスコ |
歴代議長
連邦準備制度理事会の長は「議長」(Chair of the Federal Reserve Board)と呼ばれる。
脚注
- ^ 前者の発券銀行名First National Bank of Trenton、国債を担保に発行していることが読み取れる。
- ^ 大森拓磨 黎明期アメリカ・インディアナの銀行制度 1814-1832年 アメリカ連邦準備制度の新たな嚆矢として 経済理論 332, pp.117-148, 2006-07
- ^ 松田智雄 『巨富への道 西欧編』 中央公論社 1955年 128頁
- ^ 後者は恐慌の扇動者であったサミュエル・ジョードン(Samuel Jaudon)が支配した。
- ^ 入江節次郎 『世界金融史研究』 藤原書店 1991年 pp.425-431.
- ^ Leland Hamilton Jenks, The Migration of British Capital to 1875, Thomas Nelson and Son Ltd, 1927, p.96.
- ^ Mira Wilkins, The History of Foreign Investment in the United States to 1914, Harvard University Press, 1989, pp.67-68.
- ^ Jenks, The Migration of British Capital to 1875, p.100.
- ^ Guaranty Trust Co., One Hundred Years of Banking Service 1839-1939, New York, 1939, pp.19-25.
- ^ One Hundred Years of Banking Service 1839-1939, p.26.
- ^ Guaranty Trust Co, Banking Power of the Trust Company, 1905, p.18.
- ^ IBC は為替取引をロンドン市場へ依存していた。これには資金調達の都合等さまざまな理由を指摘できる。明らかなものとして、ニューヨーク支店はニューヨーク州法で外国銀行とみなされ、預金受入・手形割引・証券発行を全て禁止されていた。
- ^ The Banking Almanac, Waterlow and Sons Limited, London, 1910, p.414.
- ^ Moody's Magazine, Vol.17, 1914, pp.405, 408.
- ^ Jekyll Island Clubはアメリカ合衆国国家歴史登録財となっている。
- ^ AMEA, Proceedings of Annual Convention, 1911, pp.145-145.
- ^ 参加企業を一瞥すれば、モルガンを通じてギャランティに関係すると分かる。
- ^ FRBの基礎構築に貢献したウィリアム・マカドゥーに娘をやった。
- ^ 第26条が1900年金本位法でも謳われた次の事項を確認している。合衆国で発行または鋳造される全貨幣が、本位価値の金と平価に維持されること。そして維持と準備の責任は財務長官にあること。一方でオーウェン・グラス法は、加盟銀行から買い入れた国債を担保とする連邦準備銀行券Federal Reserve Bank notes の発行を可能にした。さらに、現実取引による商業手形・銀行引受手形・金および金証券を担保に連邦準備券Federal Reserve notes も発行できるようになった。連邦準備券は償還が手厚い。財務省においては金、連銀においては金または合法貨幣で償還された。関税をふくむ納税においては完全な通用性が認められた。
- ^ クリスマス休暇中、自分たちが買収した議員を残らせ、95名の下院議員と32名の上院議員が不在の中で採決を決行した。[要出典]
- ^ AMEA, Proceedings of Annual Convention, 1914, pp.71-76.
- ^ 同年AMEAに参加していた企業は235社であった。
- ^ インターネットアーカイブ AMEA, Franco=American Trade, Sep-Oct, 1916.
- ^ 1918年、AMEA参加企業が814社に急増した。
- ^ ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ ユダヤ財閥の興亡(上)』 日本経済新聞社 1998年 p.341.
- ^ Youssef Cassis, Eric Bussière, London and Paris as International Financial Centres in the Twentieth Century, OUP Oxford, 2005, p.158.
- ^ Youssef Cassis, Philip Cottrell, Iain L. Fraser, The World of Private Banking, Routledge, 2016. "The International Acceptance Bank not only collaborated with the Equitable Trust Company, one of the largest New York banks, but also …"
- ^ a b Wright Patman, "What's wrong with the Federal Reserve and what to do about it", American Bar Association Journal vol.61. February, 1975 p.183. 著者ライト・パットマンは投信による合衆国経済の独占を1968年に報告している。この実績が基く詳細なデータは日本語で読むことができる。
- ^ 当初はUSドル、ユーロ、日本円、英ポンド、スイスフラン、カナダドル、豪ドルの7つ。2003年9月にデンマーククローネ、ノルウェークローネ、スウェーデンクローネ、シンガポールドルが追加された。2004年12月には香港ドル、韓国ウォン、ニュージーランドドル、南アフリカランドが追加された。2008年5月にイスラエスシュケルとメキシコペソが追加されて参加通貨は17となった。
- ^ ベルギー国立銀行出身のヤンセンはドーズ案策定においてベルギーを代表した。後にポール=アンリ・スパーク外相と同期で財務大臣を務めた。
- ^ ジョージ・ロバーツ親子のプロフィール。父はウィリアム・マッキンリー大統領のときに鋳造所の所長(Director of the United States Mint)として活躍、1914年に下野してからシティバンク会長のアシスタントをするようになった。子は日清戦争開戦年に生まれた。1917年コロンビア大学を卒業。第一次世界大戦おわりごろに在欧米軍の中尉となった。1919年ニューヨーク連邦準備銀行で働きはじめ、1926年シティバンクへ移った。1943年から1969年まで全米経済研究所を経営した。1982年まで研究所の投資委員会で会長だった。子の記事が未作成なのでソースを貼っておく。ニューヨーク・タイムズ George B. Roberts, 102, Director Of Citibank Economics Division 1996/9/4
- ^ League of Nations, Interm Report of the Gold Delegation of the Financial Committee, Geneva, 1930.
- ^ 矢尾次郎 『米国連邦準備制度』 東洋経済新報社 1978年 379頁
- ^ この1934年から約半世紀も続いた合衆国の金融規制は、後に銀行カルテルだと批判された。Thomas F. Huertas, "The Regulation of Financial Institutions: AHistorical Perspective of Current Issues", in George J. Benston (ed.), Financial Services: The Changing Institutions and Government Policy, Prentice-Hall, 1983, pp.6-27.
- ^ 東京銀行月報 14, (11), 1962年11月 「スイス中銀・BISとニューヨーク連銀間のスワップ協定」
- ^ ダラス連邦準備銀行 THE CLEARIIIGH OUSEII ITERBAIIKP AYI,IEI{TSSY STEII: A DTSCRIPTIOOXF ITS OPERATIOAIN AND RISK MANAGEMENT, JUNE 1989
- ^ マクスウェル・ニュートン 『米国中央銀行 The FED』 東洋経済新報社 1985年 287頁
- ^ a b マクスウェル・ニュートン 『米国中央銀行 The FED』 東洋経済新報社 1985年 107-110頁
- ^ United States House of Representatives, Federal Reserve Directors: A Study Of Corporate And Banking Influence, 94th Congress, Second Session, 1976
- ^ 1978年国際銀行法(International Banking Act of 1978)によるマクファーデン法(McFadden Act)の準用
- ^ a b 樋口修 米国における金融・資本市場改革の展開 国立国会図書館調査企画課 2003年12月 pp.54-55.
- ^ 北沢洋子 DebtNet通信 (vol.8 #22) 米GAOの監査はFRBによる16兆ドルの銀行救済融資を暴く 2011年9月 合衆国での報道。Federal Reserve gives 16 Trillion of your money to their bankster buddies. lincoln county watch
- バーニー・サンダース議員のブログ(出典下部)からGAOの監査報告書全文を読むことができる。The Fed Audit Thursday, July 21, 2011
- ^ まずJPモルガン
- JPモルガン、マドフ事件めぐり当局と和解―26億ドル支払い 2014年1月8日07:30
- モルガン・スタンレーが3千億円で米司法省と和解 リーマン契機の不正販売で 2015.2.26
- 米シティなど3行、住宅ローン証券訴訟で和解 2.35億ドル支払い 2015年2月14日
- 野村とRBS、住宅ローン担保証券販売の米訴訟で損害賠償へ 2015/05/12
- 野村とRBSに960億円の支払い命令-住宅証券販売で米地裁 2015/05/16 17:32 JST
- ^ The Wall Street Journal 米上院銀行委員長、12日にFRB監査強化法案提出 2015年5月12日 14:55 JST
- ^ 経済産業省 Fintech研究会資料 2015年11月30日 p.6.
- ^ 日本デジタルマネー協会 BITCOIN2.0概況 2015.05.08 p.50.
- ^ 連邦準備制度理事会 (2007年3月7日). “FRB: FAQs: Federal Reserve System”. 連邦準備制度. 2010年6月17日閲覧。
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- ^ 日銀は、日本政府が株式(正確には出資証券)の55パーセントを保有し、残りが公開市場(ジャスダック)で流通されている。
- ^ http://www.federalreserve.gov/aboutthefed/fract.htm
- ^ http://www.law.cornell.edu/uscode/html/uscode12/usc_sec_12_00000302----000-.html
- ^ http://www.law.cornell.edu/uscode/12/263.html
- ^ http://www.federalreserve.gov/aboutthefed/fac.htm
- ^ 即時グロス決済資金移動ネットワーク。日銀ネットのようなもの。個人手形交換所の CHIPS と結合し、プライベートの有限会社に運用されている。
- ^ 自動手形交換制度。実質的な証券集中保管機関。
- ^ NACHA は ACH のスポンサー。1974年という、国際決済オンライン化が世界で一気に普及した時期に設立されたNPO。
- ^ ZuuOnline バングラデシュ銀不正送金問題「FRBは中古10ドルのルーター使用 2016/4/30
- ^ Wood & Woods 1990, p. 420
- ^ アメリカ国務省. “米国の統治の仕組み – 連邦政府”. アメリカンセンターJAPAN. 2016年4月10日閲覧。
- ^ a b c 連邦準備制度理事会のホームページに掲載されたイエレンの経歴
- ^ a b c 連邦準備制度理事会のホームページに掲載されたブレイナードの経歴
- ^ a b c 連邦準備制度理事会のホームページに掲載されたタルーロの経歴
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参考文献
- Wood, John Cunningham; Woods, Ronald N. (1990), Milton Friedman: Critical Assessments, Routledge, ISBN 0415020050
- フルフォード, ベンジャミン (2008/12/20). アメリカが隠し続ける金融危機の真実. 青春出版社. ISBN 978-4-413-03698-6
- The Secrets of the Federal Reserve, 1952. Reprinted John McLaughlin, 1983, 208 pages, ISBN 0-9656492-1-0
外部リンク
- 連邦準備制度理事会公式サイト
- Federal Reserve Bank Disclosures 2012年2月 インターネットアーカイブ
- The American Dream Film - Full Length 2011年11月 インターネット・アーカイブ