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その後、[[大阪府]]にある友人(坂本の元マネージャー)の[[選挙]]応援として翌13日に行われる事務所開きに駆けつける途中<ref name="webreport 9898">{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20140826161303/http://www.webreport.jp/9898.html|title=【日航機墜落事故から28年】 坂本九さんの死とともに〜元マネージャーの静かな夏〜|newspaper= |publisher=日本webリポート&ニュース|date=2013-08-26|accessdate=2017-08-21|archiveurl= |archivedate= }} ※ 現在は[[インターネットアーカイブ]]内に残存</ref>、[[日本航空123便墜落事故]]に遭遇し死去した。{{没年齢|1941|12|10|1985|08|12}}。
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2017年9月4日 (月) 14:04時点における版

坂本 九
さかもと きゅう
1960年代初頭の坂本九
基本情報
出生名 坂本 九(さかもと ひさし)
生誕 1941年12月10日
出身地 日本の旗 日本 神奈川県川崎市川崎区
死没 (1985-08-12) 1985年8月12日(43歳没)
日本の旗 日本 群馬県多野郡上野村
ジャンル アメリカンポップス
ロカビリー
ポップス
歌謡曲
職業 歌手俳優タレント
担当楽器 ボーカル
ギター
活動期間 1958年 - 1985年
レーベル 日本ビクター(1959年)
東芝レコード・エキスプレス
(1960年 - 1984年)
ファンハウス(1985年)
共同作業者 ザ・ドリフターズ
ダニー飯田とパラダイス・キング
公式サイト www.sakamoto-kyu.com

坂本 九(さかもと きゅう、本名:大島 九(おおしま ひさし)、1941年12月10日 - 1985年8月12日[1])は、日本の俳優タレント歌手司会者神奈川県川崎市川崎区出身。愛称は九ちゃん(きゅうちゃん)

妻は女優柏木由紀子。柏木との間に娘が2人おり、長女は大島花子、次女は舞坂ゆき子。実祖父は茨城県田伏村(現:かすみがうら市)出身の漁師坂本金吉[注 1]。またサックス奏者の阿部薫は甥(姉の息子)。

上を向いて歩こう』や『見上げてごらん夜の星を』、『明日があるさ』など数多くのヒット曲を出し、全世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達した[2]。また、映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など活動は多岐に渡り活動していたが、1985年(昭和60年)8月12日に起きた日本航空123便墜落事故で帰らぬ人となった。

人物・来歴

思春期の坂本(右)と姉・八千代(1956年)

少年時代

川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛と妻・いく(旧姓:大島)の第9子(後妻であった実母にとっては3番目)として誕生[1]。9番目に生まれて、そろそろ名前のネタが尽きてきたことから、「九」と命名されたという説がある。また、「九」の読みが「久」に通じるからとも言われている。

誕生日である1941年12月10日は、第二次世界大戦マレー沖海戦が起こった日である。第二次世界大戦中に幼少期を送り、戦争中は母の実家のある茨城県笠間市疎開した。また川崎在住時代、一時松あきら一家が坂本家の近所に転居・在住してきた時期があり、坂本は松とよく遊んであげたりしていたとのこと。

戦争中の1943年10月26日に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、疎開のために笠間に向かっていた坂本は母と乗り合わせていた。ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として、終生信仰していたという。後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる[1]。そして、日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった[3]

高校生の時に両親が離婚。といっても家は近所で家族の交流は変わらなかった。九など下の兄弟は母親に引き取られ、姓は坂本から大島に。この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れるようになり[1]、右に出る物が他にいなかったと言われるほど、プレスリーの物まねで仲間内の人気者となった。

バンド時代

高校に上がると、当時不良の音楽で、一部の最も流行に敏感な若者たちに流行り始めていたロックン・ロール(当時は総じてロカビリーと言われていた)にさらに熱を上げ、初めて立川の将校クラブでアメリカ人を相手に人前で歌う。その時に歌ったのがエルビス・プレスリーの「Hound dog」リトル・リチャードの「Send me Some Lovin'」だった。

1958年5月、日大高校[4]在学中にバンド・ボーイを経て、当時ロカビリーバンドとして活動していたザ・ドリフターズに加入し、ボーカルギターを担当。8月26日にはロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、新人賞を受賞する[1]。 半年後(11月)芸能界の苦しさも経験し、母親の反対を押し切って入った芸能界が、どうも間違いだったと思い始めていた坂本は、学校を休学して芸能活動をしていたので「芸能界を一旦休業して学業に専念する」と引退してしまった。しかし渡辺美佐の妹曲直瀬信子は、坂本家まで通い、坂本と、母親を強く説得。そして初代ドリフターズのリーダー岸部清も説得し、事実上の引き抜きという形でドリフターズを脱退。 12月に水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイス・キングの一員[1]としてビクターレコードと契約。1959年6月に「題名のない唄だけど」でデビューしたが[1]、ヒットしなかった[5]

無名時代、平尾昌章ミッキー・カーチス山下敬二郎などが出演した、日劇ウエスタンカーニバルに事務所の意向を無視して無理やり出演。バックでギターを弾いていたが、当初は知られることがなかったがのちに上記の新人賞を受賞している。

ダニー飯田とパラダイス・キング加入でヒットしてテレビに出る以前のライブ時代の九は、新品のギターを叩き壊すなどのパフォーマンスもする、パワフルでワイルドなロックン・ロールスタイルだった。

ソロに転向、そして世界的スターに

1960年7月に、東芝音楽出版(東芝レコード)に移籍。同年8月に、移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき六十才」[1]が10万枚[6]を売り上げ、初ヒットとなった(この曲は、日本航空123便墜落事故の慰霊式における鎮魂曲となる)。

1961年の「上を向いて歩こう[1]は日本国外でも大ヒットし、作詞の永六輔、作曲の中村八大と合わせて六八九トリオと呼ばれた。中でも1963年には、SUKIYAKIというタイトルでアメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で、3週連続1位を獲得、キャッシュボックス(Cash Box)誌でも4週連続1位を獲得。 "Billboard Hot 100" で1位を獲得した東洋人及び日本人アーティストは、2010年まで坂本だけである(2010年にメンバー全員がアジア系アメリカ人であるファーイースト・ムーヴメントが同チャートで1位を獲得した)。この曲は後に英語歌詞が付いたが、1位を獲得したのは坂本の歌う日本語版であり、その点でもこれまで唯一の例である。

ヒットに伴い、1963年、坂本はスティーブ・アレン・ショーに招かれ渡米する。エド・サリヴァン・ショーにも招かれたが、自身が主役の映画刀を抜いての撮影スケジュールと合わず、エドのほうは出演は叶わなかった。渡米の際、キャピトル社長一家、当時のニューヨーク市長、クインシー・ジョーンズ、ディズニーランド副社長や多くのアーティストや著名人と対面しており、空港には1万人のファンが集まるなど、今では考えられないほど歓迎された日本人だった。 そのため後年亡くなるまでの間、坂本はプライベートで外国に行ってアーティストのショーを観客席で見ていても、「kyu sakamotoが来ている」と必ず司会者に紹介されていた。

また、この「上を向いて歩こう」は1964年に米国内でのレコード累計販売枚数が100万枚を超えたため坂本は日本人初の「ゴールドディスク」を受賞した[1][7]

「上を向いて歩こう」の海外でのヒットにより世界的に名前が知られたことで、国際的な活動も多かった。1964年第18回オリンピック東京大会のウェルカムパーティーにゲスト出演し、「サヨナラ東京」「君が好き」を歌った。

資金難だった東京パラリンピックチャリティコンサートで寄付金支援した。

1970年日本万国博覧会で若手芸能人の万国博委員に起用される[1]。さらに、読売テレビクイズEXPO'70』の司会にも起用された。

タレントとして、テレビの司会や映画、舞台でも活躍した。また、「あゆみの箱」運動[1]手話を広げる運動、障碍者福祉関係の慈善活動に積極的に参加していた。

1971年12月8日に女優の柏木由紀子と結婚[1]

「上を向いて歩こう」がヒットする最中、夕張市を中心に当時流行していた小児麻痺の為の「チャリティーショー」が1962年から札幌テレビ放送主催の下、札幌市で開かれ、坂本は無報酬で出演した。以来、毎年10年間北海道でチャリティーショーを続け、それをきっかけに1976年札幌テレビ放送制作の福祉番組「ふれあい広場・サンデー九」に取り組む[1]。月に2回北海道の施設を取材し番組は作られた。この番組は急逝まで9年間、日曜朝9時から30分間放送された。番組の中、コンサートでも披露されたが、日本初の手話の歌「そして想い出」を1979年発表。全国ろうあ者大会で披露した。

当時、坂本はヒットについて岡本太郎に声をかけられると、周囲からの重圧についての葛藤を泣きながら語っていたという[8]

独特の歌唱法

坂本は、幼少時から兄弟や花街という土地柄や稼業などの影響で、邦楽はもとより、洋楽の影響も多分に受けて育っていた。小学生の頃から「ハリー・ジェイムストランペットは色っぽい」「歌舞伎の所作がいいね」などというほど、自然に芸事や洋楽に触れていて当時としてもとてもハイカラな環境で育った。 家族兄弟でいうと、ジャズ、シャンソン、芝居、日舞、三味線、邦楽など、一通りの影響を強く受けた。 また、兄弟の影響でヨーデルにも手を出して、のちにそれを生かしたファルセットボイスをビキニスタイルのお嬢さん素敵なタイミングなどで生かしている。

三味線片手にさのさも歌えば、小学生の頃からナット・キング・コールも歌い、中学生になると三味線をギターに持ち替えて当時最も新しい音楽のロックンロールに感化されていく。 「う〜えをむ〜いて」を「ウフエヘヲホムフイテ」というように言葉の裏の音「ウフ」「エヘ」「オホ」と、邦楽の素養も、洋楽の要素も持ちながら表現した独特の歌い方は、だれもやっていない当時最も斬新な歌い方であったと九重佑三子がのちに回想している。 また、斬新で新しい歌唱法と同時に、当時はまだまだロックン・ロールロカビリー)は音楽的な市民権を得てなかったこともあり、坂本の歌はとても個性的で注目されたが、保守的な大人からはそれほど評価は高くなかった。 デビュー当時は、本人も大好きなアメリカンポップス、ロックをカバーして歌っていたこともあり、カバー歌手はほかにもいたが、体の芯から理解して日本語を英語のようなグルーヴで歌うのも初めての歌手だった。 また、キーが高めで軽いハスキーな声質も個性的であった。

航空機事故死

1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を本格化させようとしていた。8月9日には、中村八大のコンサートにて「もう一度、六・八・九としてやり直したい、歌手としてやり直したい」という意志を伝え、中村と再度の意気投合を誓っていたという。

8月12日、坂本はNHK-FM放送で『歌謡スペシャル 秋一番!坂本九』の収録[注 2]を行っており、これが生前最後の仕事となった[1]。この番組の中で坂本は、「ステキなタイミング」・「上を向いて歩こう(欧陽菲菲とデュエット)」・「For The Good Times」[注 3]・「We are the world」・「心の瞳」・「親父」・「見上げてごらん夜の星を」・「懐しきlove-song」を披露[注 4]したほか、同年6月8日に「古賀政男記念音楽大賞」で入賞[1]したことに触れ、「とても嬉しかった。これからも皆さんと一緒に、いつまでも歌い続けていきたい」と、将来への抱負を語っていた。なお、この番組は同年9月1日に放送され、冒頭で坂本の死去を伝えるアナウンスが流れた。

その後、大阪府にある友人(坂本の元マネージャー)の選挙応援として翌13日に行われる事務所開きに駆けつける途中[9]日本航空123便墜落事故に遭遇し死去した。43歳没。

坂本は本来、国内移動には日本航空(JAL)ではなく必ず全日空(ANA)を使っており、所属プロダクションや妻の由紀子も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった[注 5]。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった[注 6][9]。事故の数日前、「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話が入っているが、当時電話をうけとった由紀子は忙しく、また勘違いをしていたこともあり、事故が起こるまで特に気に留めていなかった[12]。そのため、家族も乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていた。

しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」と「コミヤ・カツヒロ」(小宮勝廣、坂本が所属するマナセプロダクションのマネージャー)の名が出て、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。この事故で運命をともにした小宮は早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。坂本、そして小宮の両名は、政治家や著名人が利用することの多いボーイング747SR-100の2階席、右列の前方から4番目(64列)に搭乗していた[13]。坂本は、ハンティングワールドのボストンバッグを機内に持ち込んでおり、墜落現場で発見・回収された。その中に録音機能付きのウォークマンSONY製WM-F85)が入っていたため、家族は遺言が残っていないかと期待したが、当時頻繁に聞いていたWe are the worldが入っていただけで、遺言らしきものは何も録音されていなかった。[12]。ちなみに、8月12日当日最後の仕事で坂本はWe are the worldを歌っている。

坂本の遺体が発見された時間が墜落から99時間後、棺番号が333、司会を務めていたクイズクロス5は99回放送、北海道で放送されていた福祉番組サンデー九は9年間務めあげ、偶然にも9という数字が重なっていた。また、後に、永六輔は滞在していた北海道から坂本の法事に向かおうとしたところ、偶然となりに座った女性の夫が医師で坂本の検死をしたと打ち明けられ、坂本の法事に出席するまで鳥肌が止まらなかったと語っている。

事故翌日の8月13日には、事前収録の坂本本人が出演する、フジテレビなるほど!ザ・ワールド』200回記念が放送された。この時点では安否不明の状態であったため敢えて放送され、番組の最後ではブラックバックに「坂本九さんの無事をお祈りします」というコメントが寄せられた。墜落から99時間後の16日、家族らによって遺体が確認された[9](遺体が発見されたのは14日頃)。遺体は損傷が激しかったが、普段から身に着けていた笠間稲荷のペンダントが胸に突き刺さっていた事と首の太さが確認の決め手となった[12]。また、墜落現場では両手で足首を掴み頭を膝の中に入れる「安全姿勢」をとった状態で発見されており、即死状態であったという[12]

1985年8月17日放送のTBSキッチンパトロール』では、遺体が確認された翌日であったため、番組冒頭に坂本の死去を伝え哀悼の意を示すテロップ、収録日を示すテロップが番組の前半と後半に表示されつつ、元気な姿が放送された。

密葬は東京都目黒区の自宅で行われ、本葬は9月9日に港区増上寺で執り行われた。しかし、札幌テレビ放送で福祉番組『ふれあい広場・サンデー九』を担当していたこともあり、坂本の遺族と一緒に亡くなった小宮の遺族を札幌市内のSTVホールに招き、障害者とその家族だけを対象にした「偲ぶ会」という一般葬儀も執り行われた。

戒名は「天真院九心玄聲居士(てんしんいんきゅうしんげんせいこじ)」[9]。墓所は東京都港区西麻布二丁目の長谷寺[1]。墓には「見上げてごらん夜の星を」の歌詞の一部が刻まれている。

また、親交があった石倉三郎夫妻の媒酌人を由紀子と務めることになっていたが、結婚式直前に坂本が亡くなったため実現しなかった。

没後

坂本の不慮の死は、日本音楽界・歌手界、そして芸能界にとって大きな損失と言われたほか、福祉界においても大きな損失と言われた。例えば、彼の死によって手話が市民権を得るのが5年は遅れたと言われている。

坂本は前述の「サンデー九」の一環で北海道栗山町と交流があったことから、逝去後栗山町に「坂本九思い出記念館」が設立され、関連の展示がなされている。

坂本を記念して命名された、(6980) Kyusakamoto という小惑星がある(発見は1993年、命名は1998年)。小惑星番号の6980を「六八九トリオ」にかけたものである。

坂本が最後に歌った「心の瞳」は、結果的に遺作となってしまったが、横山潤子などによって編曲され、現在では混声3部合唱として主に中学生に歌われている。また、「明日があるさ」は2000年8月より約1年半間にわたりジョージアコマーシャルに起用され、CMソングを歌ったウルフルズによる『明日があるさ』はオリコン4位を獲得し、出演する吉本興業所属タレント達によるRe:Japanが結成されるといった現象が起き、坂本の楽曲が再び注目されるようになった。

2007年3月4日より、ゆかりの地茨城県笠間市の中心駅である常磐線友部駅で「明日があるさ」・「上を向いて歩こう」・「幸せなら手をたたこう」のアレンジが発車メロディとして使用されている。笠間市(旧:友部町)が、坂本が戦時中の学童疎開で滞在し育った街であるということと、駅舎橋上駅舎に改築したことの記念という意味を込めて、遺族とレコード会社などの許諾を得て採用した、ということである。さらに2012年7月24日には、常磐線岩間駅の橋上駅舎完成に合わせ、「幸せなら手をたたこう」・「レットキス」の発車メロディーを導入している。2014年4月29日には、水戸線笠間駅でも岩間駅と同じ発車メロディーが導入された。

九の曲は、日本航空の機内オーディオサービスでは他アーティストのカバーを含め絶対にかけられないという。雑誌報道によれば、事務所側が拒否しているのは勿論のこと、他のアーティストが歌っている「明日があるさ」がかかっただけでも、日航へ乗客からクレームが殺到したためと言われている。

2008年12月20日からは、「上を向いて歩こう」が坂本の出生地である神奈川県川崎市京浜急行電鉄京急川崎駅にて、電車接近メロディ(駅メロディ)に使用されている[1]。 また、2016年12月10日からは、JR東日本川崎駅の5・6番線、東海道本線のホームの発車メロディとしても使用されている[14]

2012年現在、茨城県笠間市の一部(おもに笠間地区)では正午に「上を向いて歩こう」、午後5時に「見上げてごらん夜の星を」のメロディが流れている。

ドラマ化

没後20年にあたる2005年8月(放送日は8月21日)に、テレビ東京系列で『上を向いて歩こう〜坂本九物語〜』が放送された。坂本役を山口達也、由紀子役をともさかりえがそれぞれ演じた。なお、このドラマでは、次女の舞坂ゆき子が父の姉(舞坂にとっては父方の伯母)である遠藤八千代役で出演している。 劇中に使われる主演映画のポスターはオリジナルの坂本の顔を同じ髪型にした山口に変えた物である。

主な楽曲

発売年は「坂本九 Official Web Site」などを参照した。 なお、原盤のアーティストクレジットは、*ダニー飯田とパラダイスキング(ソロクレジットなし)、**坂本九・ダニー飯田とパラダイスキング。

主なシングル曲

  • 何もいらない俺だけど/題名のない唄だけど**(1959年10月5日発売: ビクターレコードVS-256)
    A面はダニー飯田とパラダイス・キング(ソロ増田多夢)で、B面が坂本九の歌。両曲ともダニー飯田の作詞・作曲による。
  • 悲しき六十才(ムスターファ)/恋のホームタウン*(1960年8月臨発:JP-5043)
    東芝レコード移籍後の第1弾シングルで、初のヒット曲。トルコのヒット曲「ムスターファ」のカバー。B面の「恋のホームタウン」にはヨーデルのみで参加しており、歌唱には全く加わっていない。
  • ビキニスタイルのお嬢さん/ステキなタイミング*(1960年10月臨発:JP-5051)
    ビキニスタイルのお嬢さん*(メインボーカル:石川進)のB面だが、A面をはるかに凌ぐ大ヒット。ジミー・ジョーンズの「Good Timin'」のカバー。
  • 遙かなるアラモ*/ 夢のナポリターナ**(1960年12月臨発:JP-5054)
    遙かなるアラモ*(メインボーカル:石川進、増田多夢)のB面。原曲はイタリアで歌唱されていた歌。ザ・ピーナッツとの競作。ただし歌詞違いであるため完全な競作とはなっていない。また、ザ・ピーナッツ版は原曲通り「ルナ・ナポリターナ」である。
  • 砂漠の恋の物語**/GIブルース**(1961年1月下旬臨発:JP-5056)
    GIブルースはエルヴィス・プレスリーのヒット曲のカバー。
  • 九ちゃんのズンタタッタ**/それが悩みさ(1961年4月新譜:JP-5058)
    青島幸男作詞・作曲。B面は石川進の歌。
  • カレンダーガール**/悲しきあしおと(1961年6月新譜:JP-5065)
    ニール・セダカのヒット曲のカバー。B面は佐野修の歌。
  • 月夜に歩けば**/おんぼろ汽車ポッポ**(1961年8月新譜:JP-5069)
  • 九ちゃん音頭(それが浮世と云うものさ)**/何処かでだれかが(1961年9月臨発:JP-5074)
  • モデル・ガール**/16個の角砂糖(1961年9月臨発:JP-5077)
  • 上を向いて歩こう/あの娘の名前はなんてんかな(1961年10月臨発:JP-5083)
    世界中で発売された坂本の代名詞的ヒット曲。
    2008年12月20日から、出生地川崎市京浜急行電鉄京急川崎駅の電車接近メロディー(駅メロディー)として使用される。
  • 九ちゃんのジングル・ベル**/赤鼻のトナカイ**(1961年11月1日発売:JP-5086)
  • いつもアイラヴユー/シンデレラ(1961年11月臨発:JP-5090)A面は森山加代子とのデュエット。B面は森山加代子のソロ。
  • 戦場に陽は落ちて/花咲く街角(1962年2月20日臨発:JP-5102)
    A面はリトル・リチャード、B面はデル・シャノンのカバー曲。
  • もう一人のボク/初めてのラブレター(1962年5月上旬臨発:JP-5114)
  • ボクの星/ヒゲの唄(1962年9月新譜:JP-5141)
    映画『九ちゃん音頭』主題歌。
  • レッツ・ゴー物語(ストーリー)/カマ・カマ・ベイビー(1962年9月20日臨発:JP-5153)
  • 一人ぼっちの二人/君なんか君なんか(1962年12月5日臨発:JP-5170)A面は日活映画「一人ぼっちの二人だが」主題歌。
  • 九ちゃんのツンツン節/グッドバイ・ジョー**(1963年2月10日臨発:JP-1523)
    A面は作曲者不詳のメロディに坂本が作詞。B面はアルマ・コーガンのカバー。
  • 見上げてごらん夜の星を/勉強のチャチャチャ(1963年7月新譜:JP-5217)
  • 東京五輪音頭/前向きで行こう**(1963年8月新譜:JP-1581)*: 三波春夫三橋美智也橋幸夫らと競作。
  • 九ちゃんの炭坑節/オールナイトで踊れたら(1963年10月15日臨発:JP-5257)
  • 明日があるさ/夢を育てよう(1964年1月新譜:JP-5263)
    青島幸男作詞。1999年ダウンタウンらが出演した「ジョージア」(日本コカ・コーラ)のCMソング(Re:Japanによるカバー)で脚光を集める。
  • 勝利の旗/ブブンブンブンジャイアンツ(1964年4月新譜:TR-1039)
    東京映画『ミスタージャイアンツ・勝利の旗』主題歌。B面は柴田勲(読売巨人軍)の歌。
  • 困っちゃうよ/かもめのように(1964年5月新譜?:TR-1051)
  • 幸せなら手をたたこう/手のひらの唄(1964年6月新譜:TR-1079)
    原曲はアメリカ民謡だが、この時点では作詞・作曲者不詳(編曲者のクレジットは有田怜)となっていた。そのためか、メロディが一部異なっている。
  • サヨナラ東京/君が好き(1964年8月新譜:TR-1099)
    東京オリンピックウェルカムパーティーで坂本が、各国選手団・外交使節団の前で歌唱した。B面はNHK-TV「夢で逢いましょう」今月の唄。
  • 夜明けの唄/もし好きになったら(1964年11月新譜:TP-1005)TPナンバーはステレオ盤。
  • 赤鼻のトナカイ/ジングル・ベル**(1964年11月新譜:TR-1141)JP-5086の再発盤。
  • ともだち/行ってみよう(1965年4月新譜:TP-1053)1969年涙くんさよならのB面で再発)
    宮城県立西多賀養護学校の応援歌として制作された曲。また、『あゆみの箱』のテーマソングとなった。
  • 涙くんさよなら/真ん中とはじっこ(1965年7月新譜:TP-1080)
  • 九ちゃん音頭/九ちゃんのツンツン節(1965年6月新譜:TR-1149)A面はJP-5074、B面はJP-1523のカップリング替え再発盤。
  • 明日があるさ/夢を育てよう(1965年6月新譜:TR-1151)JP-5263の再発盤。
  • ミーケとマライケ/ガラスの涙(1965年9月新譜:TP-1120)B面は海汀の歌。
  • 幸せのうた/今日も元気で(1965年12月新譜:TP-1168)
  • 僕が君なら/僕と今夜(1965年12月5日発売:TP-1183)B面はNHK「夢で逢いましょう」今月の歌。
  • あした天気になーれ/おーい雲(1966年2月5日発売:TP-1183)A面はNHK「今日のうた」より、B面はテレビ映画「おーい雲」より。
  • 口笛だけが/涙(1966年3月5日発売:TP-1230)
  • 結構だね音頭/下町の青春(1966年7月5日発売:TP-1302)A面はNTV「九ちゃん」より、B面はNET「下町の青春」主題歌。
  • 哀しみのバイパス/あの人と?(1966年8月5日発売:TP-1317)
  • 皆んなで笑いましょ/ レットキス(ジェンカ)(1966年9月15日発売:TP-1351)
    作詞は永六輔フィンランドラウノ・レティネン (Rauno Lehtinen) 作曲だが、この時点では作曲者不詳となっている。
    東芝レコード月報(MONTHLY SUPPLEMENT)1966年11月号では、B面タイトルは、単に「ジェンカ」となっている。
  • まあるくなった/しあわせの色(1966年11月5日発売:TP-1355)
  • 夢はどこにある/街角の歌(1967年1月15日臨発:TP-1395)松竹映画「九ちゃんのでっかい夢」主題歌。
  • 世界の国からこんにちは/これが音楽(1967年3月1日発売:TP-1410)
    A面は日本万国博のテーマソングで各社競作。坂本のバージョンは、作曲者の中村八大が編曲も手がけ、第19回NHK紅白歌合戦では坂本が歌った。
    B面はNHKテレビ「音楽の花ひらく」テーマ・ソング。
  • さよなら さよなら/セッセで踊ろう(1967年5月15日発売:TP-1466)
  • エンピツが一本/うちの大物(1967年6月15日発売:TP-1482)B面はフジテレビ「うちの大物」主題歌。
  • 少女/夕陽のなかを(1967年10月5日発売:TP-1537)
  • ラヴ・ラヴ・ラヴ/久し振りのあなた(1967年12月25日発売:TP-1574)
  • 窓を開けはなしてみよう/今日かぎりの恋(1968年3月1日発売:TP-2001)
  • 上を向いて歩こう/ 幸せなら手をたたこう(1968年4月1日:TP-1625)ベスト・カップル・シリーズでの再発盤。
    B面につき、ここで(きむら・りひと作詩 アメリカ民謡 有田怜編曲)と表記された。[15]
    オリジナル盤は、A面がJP-5083,B面がTR-1079。
  • 太陽はさんさん/恋のラベンダー(1968年5月1日発売:TP-2009)
  • 若者たち/想い出の砂浜(1968年6月21日発売:TP-2020)A面はデレビ映画「若者たち」主題歌。B面は坂本九自身の作詩・作曲による。
  • コングラチュレーションズ/恋の終り(1968年9月10日発売:TP-2053)A面はクリフ・リチャードのカバー。B面は坂本九自身の作詩・作曲による。
  • 涙くんさよなら(1969年7月)
  • 遠い昔の母の胸に(1969年8月)
    前々作「蝶々」(1969年6月)が理不尽な放送禁止(それ以前に、他の人が歌った卑猥な替え歌が広まっていたという理由であった)を受けたために、急遽、坂本がかねてから作っていた曲に歌詞をつけて発売された。坂本が歌いたいと願っていた「母の歌」でもある。
  • マイ・マイ・マイ(1970年7月)
  • 夕やけの空(1973年12月)
    NHK人形劇『新八犬伝』エンディング曲。
  • 何かいいことありそうな(1976年10月)
    北海道限定で発売されたシングル。札幌テレビふれあい広場・サンデー九』テーマ曲。
  • あの時の約束(1979年6月)
    • そして思い出(B面) - 当時まだ手話が聾学校でも使用が認められておらず、聴覚障害者の間で独自に発展していたことや、そのために健常者との本音でのコミュニケーションが取れないことに悩む子供が多かったことを憂いた坂本が「手話の歌を作りたい」と永六輔に持ちかけて、手話通訳者の丸山浩路が協力、中村八大が作曲した、世界で初めての「手話で歌うことを前提とした歌」である。
  • 親父(1982年2月)
    亡き父に捧げた曲で、坂本自ら作詞・作曲を担当した。
  • ぶっちぎりNO文句/おとなの童話〜今だからいうけれど〜(1983年11月)
    覆面歌手「XQS(エクスキューズ)」として発売。目と口だけ穴を空けた紙袋を被りスーツに黒タイツに革靴という出で立ちで踊りながら歌うプロモーション映像が「おはようスタジオ」や「歌う天気予報」などのテレビ番組に登場し、視聴者に強烈なインパクトを与えた。
  • 懐しきlove-song/心の瞳(1985年5月)
    ファンハウス(現在のアリオラジャパン)移籍後第1弾シングルとして発売されたが、3ヶ月後の日本航空123便墜落事故で結果的に遺作となった。

CD化

  • 上を向いて歩こう(1994年、VERY BEST OF KYU SAKAMOTOおよびメモリアルボックスと同時発売)
    カップリングはオリジナルと同じ。新たに録音されたカラオケ版を収録。
  • 明日があるさ(2000年)
    「明日があるさ」の楽曲がCMで起用されたことで、CMで使用されたウルフルズ版のCD化(2001年2月)に先駆けて急遽発売された。カップリングは「幸せなら手をたたこう」。

アルバム

オリジナル作品

  • 九ちゃんとパラキン(1961年2月上旬臨発:JP0-1080)* 25cmモノラルLP。
  • 九ちゃんとパラキン(第2集)(1961年9月新譜:JP0-1117)* 25cmモノラルLP
    坂本九の歌唱は「九ちゃんのズンタタッタ」「月夜に歩けば」「カレンダー・ガール」「おんぼろ汽車ポッポ」の4曲。
  • 九ちゃんとパラキン(第3集)(1962年3月臨発:JP0-1171)* 25cmモノラルLP。
    坂本九の歌唱は「九ちゃん音頭」「モデル・ガール」「上を向いて歩こう」「何処かでだれかが」「あの娘の名前はなんてんかな」の5曲。
  • ボクの星(坂本九ヒット・ソング)(1962年10月20日臨発:JP0-1233)25cmモノラル盤。
  • 九ちゃんの歌(1963年5月新譜:JLP-3001)30cmモノラル盤。
  • 九ちゃんの唄 第2集(1964年8月新譜:TR-7003)30cmモノラル盤。
  • ミュージカル 見上げてごらん夜の星を(1964年12月新譜:TP-7050)30cmステレオ盤。
    第19回文部省(当時)芸術祭参加作品。作・構成:永六輔、音楽:いずみたく
    出演は坂本九の他、九重佑三子、ダニー飯田とパラダイス・キング、越路吹雪、大貫ゆみ子
  • 坂本九リサイタル(1966年10月5日発売:TP-7131)1966年4月3日、厚生年金ホールに於ける実況録音盤。
  • 九ちゃん明治を歌う(1967年1月15日発売:TP-7156)
  • 九ちゃんのベスト・ヒット・パレード(1967年7月5日発売:TP-7194)
  • 坂本九オン・ステージ 芸人その九年目(1968年5月1日発売:TP-9002)
  • 九ちゃんと歌おう(1968年7月)
  • 坂本九 プレスリーを歌う(1972年7月)
  • ターニング・ポイント(1975年12月)
  • 689(1979年6月)

CD復刻版

紙ジャケット仕様

  • 九ちゃんの歌(2003年)
  • 九ちゃんの歌 第2集 (2008年)

ベストアルバム

レコード

  • 九・メモリアル(1985年10月19日 ファンハウス発売)
    追悼盤として急遽発売された。

CD

  • BIG ARTIST BEST COLLECTION 坂本九(1989年7月)
    1960年代の楽曲を中心に収録。これよりCD化。
  • VERY BEST OF KYU SAKAMOTO(1994年9月・2001年再発)
    「悲しき60歳」から「懐かしきLove-Song」までを選り抜いた25曲を収録。1970年代以降の収録楽曲は初CD化となる。
  • 坂本九メモリアルボックス(1994年9月、VERY BEST OF KYU SAKAMOTOと同時発売)
    全てのシングルス(カップリング含む)作品と、1960年代後半以降のアルバム楽曲の大半と、未発売楽曲を収録。近年まではEMI直営通販の「EMIミュージック・ジャパンショップ(現:UNIVERSAL MUSIC STORE)」にて販売していたが現在は廃盤。なお、アルバム楽曲についてはマスターテープが発掘できず、レコード盤の再生から収録したと断り書きがある。
  • 坂本九シングルス(1998年)
    「悲しき60歳」から「そして思い出」まで選り抜いたシングルス作品を収録。ライナーノーツの代わりとして、オリジナルのレコードジャケット(裏面の歌詞などを含む)を1枚ずつCDライナーサイズに縮小したものを封入。後年のシングル全集ではカットされた「新八犬伝のテーマ」もシングルレコード盤のままで収録されている。
  • 坂本九ゴールデン☆ベスト(2002年6月)
    ゴールデン☆ベストシリーズ。1960年代の楽曲を収録。
  • 坂本九シングル全集(2004年7月)
    シングルス全てをリマスタリングの上収録。6枚組で9999円と、九にちなんだ価格となっている。
  • 坂本九メモリアルベスト(2004年9月)
    シングル全集との連続企画で同作から選り抜いた19曲を収録。20曲目はボーナストラックとして、1961年にキャピトル・レコードで録音されて全米向けに発売された「CHINA LIGHT(支那の夜)」を日本向けとして初めて収録。
  • ベスト30(2005年)
    「悲しき60歳」から1966年までの楽曲を選り抜いた30曲を収録。紙ジャケット仕様。
  • 坂本九 CD&DVD THE BEST(2005年)
    1960年代から1970年代までの楽曲を選り抜いたベスト盤でDVDを同封。CD13曲目はボーナストラックとして、1984年頃に録音された坂本のボーカルをミキシングして編曲された、柏木由紀子とのデュエット「あの日の約束(坂本九作詞曲・三木たかし編曲)」が収録されている。なお同楽曲の初披露は2004年9月開催の「坂本九音楽祭」で行われている。
    DVDには、いわゆる蔵出しとして、1983年頃に撮影され事務所で保管されていた歌謡ショーの秘蔵映像から4曲分が収録されている。
  • ベスト坂本九99(2007年9月)
    ロカビリー系のリサイタル作品(メモリアルボックスと大半が重複)や、未商品・未CD化のテレビ番組やコンサートにまつわる音源を中心にリマスタリング処理のうえ収録。CD4枚組み。EMIミュージック・ジャパンへと社名が変わってから坂本九としての初作品である。ライナーノーツによればまだ商品化されていない楽曲が存在しているとのこと。
  • 坂本九アニバーサリー・ベスト 689コンプリート(2011年10月)
    オリジナルアルバム「689」(メモリアルボックスにてCD化)と、「上を向いて歩こう」「久しぶりのあなた」など六八九トリオによる楽曲全29曲を新たにリマスタリングのうえ収録。2枚組。

企画盤

出演作

映画

舞台

CM

ほか、多数

テレビ

NHK紅白歌合戦出場歴

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1961年(昭和36年)/第12回[1] 1 上を向いて歩こう 21/25 坂本スミ子
1962年(昭和37年)/第13回[1] 2 一人ぼっちの二人 12/25 吉永小百合
1963年(昭和38年)/第14回[1] 3 見上げてごらん夜の星を 20/25 梓みちよ
1964年(昭和39年)/第15回[1] 4 サヨナラ東京 24/25 ザ・ピーナッツ トリ前
1965年(昭和40年)/第16回[1] 5 ともだち 04/25 雪村いづみ
1966年(昭和41年)/第17回[1] 6 レッツ・キス 06/25 倍賞千恵子
1967年(昭和42年)/第18回[1] 7 エンピツが一本 14/23 中尾ミエ
1968年(昭和43年)/第19回[1] 8 世界の国からこんにちは 21/23 水前寺清子
1969年(昭和44年)/第20回[1] 9 見上げてごらん夜の星を(2回目) 10/23 岸洋子
1970年(昭和45年)/第21回[1] 10 マイ・マイ・マイ 04/24 日吉ミミ
1971年(昭和46年)/第22回[1] 11 この世のある限り 04/25 ちあきなおみ

(注意点)

  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
  • 備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す

坂本九の持ち歌が紅白歌合戦で他の歌手によって歌唱された例

  • 坂本の死後も、多くの歌手によって坂本の持ち歌が歌い継がれている。
年度/放送回 歌手名 曲目 備考
1992年(平成4年)/第43回 デューク・エイセス 見上げてごらん夜の星を
1995年(平成7年)/第46回 南こうせつ 上を向いて歩こう 阪神・淡路大震災の被災者へのメッセージの意味を込めた特別企画として歌唱された。
2000年(平成12年)/第51回[1] 出場歌手全員 上を向いて歩こう 第一部終了後、坂本九の紅白出演時の映像のもと、出場歌手によって「上を向いて歩こう」が大合唱された。
2001年(平成13年)/第52回 ウルフルズRe:Japan 明日があるさ 「明日があるさ 新世紀スペシャル」のタイトルで、両者がコラボレーションした。
2003年(平成15年)/第54回 平井堅 見上げてごらん夜の星を 最新技術を用いた坂本のオリジナル映像との組み合わせで、平井と坂本の映像のデュエットが披露された。
2004年(平成16年)/第55回 出場歌手全員 上を向いて歩こう 第一部後半において、出場歌手によって「上を向いて歩こう」が大合唱された。
2005年(平成17年)/第56回 布施明ゴスペラーズ 上を向いて歩こう 企画コーナー「タイムスリップ60年 昭和・平成ALWAYS」内で歌唱。
2011年(平成23年)/第62回 松田聖子神田沙也加 上を向いて歩こう 東日本大震災の復興ソングとして、聖子のカウントダウンライブが行われていた東京体育館から中継で歌唱した。
2012年(平成24年)/第63回 徳永英明 上を向いて歩こう

脚注

注釈

  1. ^ 金吉は秋田県山本郡芦崎(現三種町)に止宿したとき、霞ケ浦ワカサギシラウオエビ等が乱獲のため水揚げが減少しているのに八郎潟では豊富であることから打瀬船(うたせぶね)の漁法を地域に伝授し、また、家族を呼び寄せて佃煮原料に加工して東京に送って利益を得た。子供たちは芦崎の小学校を出たが、坂本家は大正年代に川崎に移り住んだ。1970年、父・寛の母校体育館で九は歌い、その後、豪華な舞台用の一式を寄贈している。『秋田県の不思議事典』(2002)pp.164-165
  2. ^ 当時の司会のうつみ宮土理が夏休みをとっていたため、その代役を務めた。ゲストは欧陽菲菲、生ピアノ伴奏は羽田健太郎
  3. ^ 坂本が尊敬していたペリー・コモのヒット曲。
  4. ^ オンエアされなかったが、アンコールでは「明日があるさ」を披露している。
  5. ^ 柏木由紀子は著書の中で、「夫は日本航空の体質を常日頃から非難しており、それだからいつも全日空を利用していた」と記述している[10]。また、ドラマ『上を向いて歩こう〜坂本九物語〜』で坂本の父・寛を演じた古谷一行によると、生前の坂本本人から「飛行機で怖い思いをした」という話を聞かされたことがあったという[11]
  6. ^ 事故当日のダイヤでは、日本航空123便と同時刻・同区間で全日空35便も飛んでいた。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an 坂本九 Official Web Site プロフィール”. マナセプロダクション. 2009年7月20日閲覧。
  2. ^ 『坂本九 トリビュートアルバム』ライナーノーツより。
  3. ^ 事故機は反転して高天原山の斜面に墜落したため、坂本が搭乗していた2階席部分は最も強い圧力がかかった。このため、坂本の遺体は胴体部分しか発見されず、DNA型鑑定が確立されていなかった当時は遺留品などで遺体の識別をするしかなかった。
  4. ^ 同期に飯田久彦石橋蓮司がいる。
  5. ^ 『上を向いて歩こう』(坂本九著) 33頁
  6. ^ 『上を向いて歩こう』(坂本九著) 35頁
  7. ^ 朝日新聞 1964年(昭和39年)5月13日記事
  8. ^ 『自分の中に毒を持て』(岡本太郎著)
  9. ^ a b c d “【日航機墜落事故から28年】 坂本九さんの死とともに〜元マネージャーの静かな夏〜”. 日本webリポート&ニュース. (2013年8月26日). https://web.archive.org/web/20140826161303/http://www.webreport.jp/9898.html 2017年8月21日閲覧。  ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存
  10. ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著)
  11. ^ 坂本九没後20年ドラマスペシャル「上を向いて歩こう 坂本九物語」|制作ニュース”. テレビ東京. 2015年2月23日閲覧。
  12. ^ a b c d 柏木由紀子の後日談より。
  13. ^ フジテレビ8.12日航機墜落30回目の夏 生存者が明かす"32分間の闘い"〜ボイスレコーダーの"新たな声"』(2014年8月12日放送)より。
  14. ^ ~駅と地域の活性化を目指して~ 川崎駅 東海道線ホーム発車メロディに「上を向いて歩こう」を導入します” (PDF). 川崎市、JR東日本 横浜支社 (2016年12月6日). 2017年4月11日閲覧。
  15. ^ 東芝レコード月報1968年4月発売号 3ページ
  16. ^ 銀河ドラマ わが歌声の高ければ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス

参考文献

  • 柏木由紀子(著)『上を向いて歩こう』扶桑社(フジテレビ出版)、1986年4月。ISBN 978-4-89353-079-0ISBN 4-89353-079-8 
  • 岡本太郎(著)『自分の中に毒を持て あなたは“常識人間”を捨てられるか』青春出版社(青春文庫)、1988年1月。ISBN 978-4-413-01456-4ISBN 4-413-01456-1 
  • 坂本九(著) 著、マナセプロダクション(編) 編『人間の記録 141巻 坂本九 上を向いて歩こう』日本図書センター、2001年9月、33-35頁。ISBN 978-4-8205-5972-6ISBN 4-8205-5972-9 

外部リンク