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特に[[セリエA (サッカー) 2007-2008|2007-08シーズン]]前半、12月23日に行われた[[ミラノダービー]]で左ひざの前十字靭帯を負傷するまでは、[[イバン・コルドバ]]と共に鉄壁のディフェンスで幾度と無く相手の攻撃を食い止め続けた。[[セリエA (サッカー) 2008-2009|2008-09シーズン]]は前述の怪我の影響で約11ヶ月もの間ピッチから遠ざかるものの、11月22日に行われた[[ユヴェントスFC]]との大一番[[イタリアダービー]]で復帰、インテルの勝利に貢献している。


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[[セリエA (サッカー) 2009-2010|2009-10シーズン]]からは[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]から移籍した[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]の[[ルシマール・ダ・シウヴァ・フェレイラ|ルシオ]]とコンビを組み、鉄壁の守備陣を結成。セリエA、[[コッパ・イタリア]]、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10|チャンピオンズリーグ]]の3冠獲得に貢献し、2011年1月には[[オスカル・デル・カルチョ|セリエA最優秀DF賞]]を受賞した。


[[2010 FIFAワールドカップ]]ではレギュラーとして臨むも、第2戦の[[サッカー大韓民国代表|韓国]]戦で負傷し、大会を去った。
[[2010 FIFAワールドカップ]]ではレギュラーとして臨むも、第2戦の[[サッカー大韓民国代表|韓国]]戦で負傷し、大会を去った。

2017年8月29日 (火) 09:36時点における版

ワルテル・サムエル
インテル時代のサムエル (2011年)
名前
本名 ワルテル・アドリアン・ルハン・サムエル
Walter Adrián Luján Samuel
愛称 ザ・ウォール
ラテン文字 Walter SAMUEL
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
スペインの旗 スペイン
生年月日 (1978-03-23) 1978年3月23日(46歳)
出身地 ラボルデスペイン語版
身長 183cm
体重 83kg
選手情報
ポジション DF (CB)
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-1997 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ 42 (0)
1997-2000 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 77 (4)
2000-2004 イタリアの旗 ローマ 122 (9)
2004-2005 スペインの旗 レアル・マドリード 30 (2)
2005-2014 イタリアの旗 インテル 169 (14)
2014-2016 スイスの旗 バーゼル 29 (2)
通算 469 (31)
代表歴
1997 アルゼンチンの旗 アルゼンチン U-20 6 (0)
1999-2010 アルゼンチンの旗 アルゼンチン [1] 56 (5)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ワルテル・アドリアン・ルハン・サムエルWalter Adrián Luján Samuel, 1978年3月23日 - )は、アルゼンチンコルドバ州出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー

経歴

1978年3月23日にアルゼンチンのサンタフェで生まれる。生まれてすぐに父親が蒸発し、幼い頃から養父に育てられるが経済状況はとても苦しいものだった。 当時フィルマットに住んでいた彼は、家族の支えもあり毎日サッカーの練習に通うことが出来た。彼自身幼い頃家族から受けた協力のおかげでサッカー選手になることができたと後に語っている。

1996年ニューウェルズ・オールドボーイズでキャリアをスタート。1997年にはFIFAワールドユース選手権に出場して優勝を果たし、ボカ・ジュニアーズへ移籍。在籍中、複数の大会での優勝を経験した。

2000年にはセリエAASローマへ移籍。その年の優勝に貢献した。

2004年からは守備の強化を望んでいたレアル・マドリードへ移籍した。しかし、序盤は活躍の機会がなく(冬にトーマス・グラヴェセンが加入してからはプレーも安定した)、2005年にルイス・フィーゴサンティアゴ・ソラーリと共にインテル・ミラノに移籍した。2006 FIFAワールドカップの代表メンバーからは外れた。

特に2007-08シーズン前半、12月23日に行われたミラノダービーで左ひざの前十字靭帯を負傷するまでは、イバン・コルドバと共に鉄壁のディフェンスで幾度と無く相手の攻撃を食い止め続けた。2008-09シーズンは前述の怪我の影響で約11ヶ月もの間ピッチから遠ざかるものの、11月22日に行われたユヴェントスFCとの大一番イタリアダービーで復帰、インテルの勝利に貢献している。

2009-10シーズンからはバイエルン・ミュンヘンから移籍したブラジル代表ルシオとコンビを組み、鉄壁の守備陣を結成。セリエA、コッパ・イタリアチャンピオンズリーグの3冠獲得に貢献し、2011年1月にはセリエA最優秀DF賞を受賞した。

2010 FIFAワールドカップではレギュラーとして臨むも、第2戦の韓国戦で負傷し、大会を去った。

2013-14シーズン終了後、インテル・ミラノ退団を公式チャンネルで発表。 FCバーゼルと1年契約を結んだ。

2015年10月、肉体的な衰えを理由にシーズン限りで現役を引退することを表明した[2]

人物

かつてチームメイトであった長友佑都によると、外見とは裏腹に冗談好きな人物。息子が二人いる[3]

個人成績

クラブでの成績

クラブ シーズン リーグ戦 カップ戦 欧州カップ戦 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ASローマ
2000-01 34 1 0 0 0 0 34 1
2001-02 26 5 0 0 7 0 33 5
2002-03 31 2 0 0 10 0 41 2
2003-04 31 1 0 0 8 0 39 1
合計 122 9 0 0 25 0 147 9
レアル・マドリード
2004-05 30 2 2 0 8 0 40 2
合計 30 2 2 0 8 0 40 2
インテル
2005-06 27 2 6 0 9 0 42 2
2006-07 18 3 6 0 3 0 27 3
2007-08 12 0 1 0 5 1 18 1
2008-09 17 1 2 0 1 0 20 1
2009-10 28 3 1 0 13 1 42 4
2010-11 10 0 0 0 3 0 13 0
2011-12 28 2 1 0 6 1 35 3
2012-13 16 1 1 0 5 0 22 1
合計 156 12 18 0 45 3 219 15

代表での成績

出典[4]


アルゼンチン代表国際Aマッチ
出場得点
1999 10 1
2000 10 0
2001 8 2
2002 6 0
2003 5 1
2004 6 0
2005 5 1
2006 2 0
2007 0 0
2008 0 0
2009 0 0
2010 4 0
通算 56 5

獲得タイトル

クラブ

ボカ・ジュニアーズ
ローマ
インテル
バーゼル

代表

アルゼンチン U-20

個人

脚注

  1. ^ RSSSF. “Argentina - Record International Players”. 2009年3月2日閲覧。
  2. ^ 元アルゼンチン代表サムエルが現役引退…インテルやレアルなどで活躍”. サッカーキング (2015年10月18日). 2016年7月9日閲覧。
  3. ^ お久しぶりです!【 長友佑都 】|GUAPOオフィシャルブログ Powered by Ameba
  4. ^ Samuel, Wálter”. National-Football-Teams.com. 2017年7月15日閲覧。

外部リンク