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その後2シーズンは怪我に苦しみ、2004-05シーズンに至っては無得点に終わるなど、満足な活躍を見せられなかった。 |
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2005-06シーズンも当初は欠場を余儀なくされたが、怪我を癒して迎えた第8節[[USチッタ・ディ・パレルモ|パレルモ]]戦にて、ブランクを感じさせないダイビングヘッドを決めてみせた。やがて調子を上げたインザーギは、このシーズンから加入した[[アルベルト・ジラルディーノ]]からレギュラーを奪い、セリエAにおいては12得点を挙げた。この復活劇は当時のイタリア代表監督[[マルチェロ・リッピ]]の目に留まり、ドイツW杯メンバーに名を連ねることにもつながった。 |
2005-06シーズンも当初は欠場を余儀なくされたが、怪我を癒して迎えた第8節[[USチッタ・ディ・パレルモ|パレルモ]]戦にて、ブランクを感じさせないダイビングヘッドを決めてみせた。やがて調子を上げたインザーギは、このシーズンから加入した[[アルベルト・ジラルディーノ]]からレギュラーを奪い、セリエAにおいては12得点を挙げた。この復活劇は当時のイタリア代表監督[[マルチェロ・リッピ]]の目に留まり、ドイツW杯メンバーに名を連ねることにもつながった。 |
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またチャンピオンズリーグにおいても、ベスト16の[[バイエルン・ミュンヘン]]戦2ndレグ、準々決勝の[[オリンピック・リヨン|リヨン]]戦2ndレグでそれぞれ2ゴールを挙げるなど好調を維持していた。しかし、準決勝直前に風邪をひき[[FCバルセロナ]]戦の1stレグは欠場、2ndレグの出場は叶ったが精彩を欠き、クラブも敗戦し決勝進出を逃した。ちなみに、2006年3月8日には欧州カップでの通算50ゴール目を決めている。 |
またチャンピオンズリーグにおいても、ベスト16の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]戦2ndレグ、準々決勝の[[オリンピック・リヨン|リヨン]]戦2ndレグでそれぞれ2ゴールを挙げるなど好調を維持していた。しかし、準決勝直前に風邪をひき[[FCバルセロナ]]戦の1stレグは欠場、2ndレグの出場は叶ったが精彩を欠き、クラブも敗戦し決勝進出を逃した。ちなみに、2006年3月8日には欧州カップでの通算50ゴール目を決めている。 |
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2006-07シーズン、チャンピオンズリーグ予備戦[[レッドスター・ベオグラード]]戦でホーム・アウェイ共にゴールを決めミランを本戦出場の原動力となるなど滑り出しこそ好調だったが、途中怪我もあり満足な活躍が出来なかった。しかし、チャンピオンズリーグ決勝[[リヴァプールFC|リヴァプール]]戦では「らしさ」をフルに発揮、全2得点を叩き出して勝利への原動力となり、試合後にはマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた(この時のユニフォームはチャリティオークションに出品し、200万円以上の値が付いたと言われる)。チャンピオンズリーグでの相性の良さ(この時点で66試合38ゴール、歴代3位)を見せており、{{要出典範囲|この2ゴールをキャリアでのベストゴールと本人も話している|date=2017-05}}。負けたイギリスの新聞には、インザーギの最初の得点がハンドではないかという疑惑に引っ掛けて、「インザーギの腕に負けた」と書きたてたものもあったが、2005年のリヴァプールの奇跡に対するリベンジ([[UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝|イスタンブールの悲劇]]を参照。この試合にインザーギは出場していない)を止められなかったと敗戦は認めた。なお、手が体に密着していたのでハンドではないとする見方が一般的である。ちなみに[[ファビオ・カンナヴァーロ]]は最初の得点を見て、「運ではない。これがインザーギだ」と呟いたという<ref>([[Sports Graphic Number]]誌より{{要出典|date=2010年11月}})</ref>。 |
2006-07シーズン、チャンピオンズリーグ予備戦[[レッドスター・ベオグラード]]戦でホーム・アウェイ共にゴールを決めミランを本戦出場の原動力となるなど滑り出しこそ好調だったが、途中怪我もあり満足な活躍が出来なかった。しかし、チャンピオンズリーグ決勝[[リヴァプールFC|リヴァプール]]戦では「らしさ」をフルに発揮、全2得点を叩き出して勝利への原動力となり、試合後にはマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた(この時のユニフォームはチャリティオークションに出品し、200万円以上の値が付いたと言われる)。チャンピオンズリーグでの相性の良さ(この時点で66試合38ゴール、歴代3位)を見せており、{{要出典範囲|この2ゴールをキャリアでのベストゴールと本人も話している|date=2017-05}}。負けたイギリスの新聞には、インザーギの最初の得点がハンドではないかという疑惑に引っ掛けて、「インザーギの腕に負けた」と書きたてたものもあったが、2005年のリヴァプールの奇跡に対するリベンジ([[UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝|イスタンブールの悲劇]]を参照。この試合にインザーギは出場していない)を止められなかったと敗戦は認めた。なお、手が体に密着していたのでハンドではないとする見方が一般的である。ちなみに[[ファビオ・カンナヴァーロ]]は最初の得点を見て、「運ではない。これがインザーギだ」と呟いたという<ref>([[Sports Graphic Number]]誌より{{要出典|date=2010年11月}})</ref>。 |
2017年8月29日 (火) 09:26時点における版
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2011年のインザーギ | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | ピッポ、スーペル・ピッポ | |||||
ラテン文字 | Filippo Inzaghi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1973年8月9日(51歳) | |||||
出身地 | ピアチェンツァ | |||||
身長 | 181cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW (CF) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1991-1995 | ピアチェンツァ | 39 | (15) | |||
1992-1993 | → レッフェ (loan) | 21 | (13) | |||
1993-1994 | → エラス・ヴェローナ (loan) | 36 | (13) | |||
1995-1996 | パルマ | 15 | (2) | |||
1996-1997 | アタランタ | 33 | (24) | |||
1997-2001 | ユヴェントス | 122 | (58) | |||
2001-2012 | ACミラン | 202 | (73) | |||
代表歴 | ||||||
1993-1996 | イタリア U-21 | 14 | (3) | |||
1997-2007[1] | イタリア | 57 | (25) | |||
監督歴 | ||||||
2014-2015 | ACミラン | |||||
2016- | ヴェネツィア | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
フィリッポ・インザーギ(Filippo Inzaghi, 1973年8月9日 - )は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァ出身の元サッカー選手。元イタリア代表。現ヴェネツィアFC監督。
弟のシモーネ・インザーギも元サッカー選手。
選手経歴
初期の経歴
当時セリエBに所属していた ピアチェンツァの下部組織で本格的に競技生活をスタートさせ、1991年にトップチームへ昇格を果たす。翌年に当時セリエC1に所属していたレッフェにレンタル移籍し、21試合に出場し13得点を記録。その翌年に今度は当時セリエBに所属していたエラス・ヴェローナに渡り、36試合に出場し13得点を記録した。
この活躍で1994年に開催されたU-21の欧州選手権のイタリア代表にも選出され、後の代表でも共に戦うクリスティアン・ヴィエリやアレッサンドロ・デル・ピエロと出場している。
2クラブへのレンタル移籍を経て、1994-95シーズンにピアチェンツァに戻り、37試合に出場し15得点を記録。クラブはセリエBを優勝しセリエAに昇格した。この活躍によりパルマに引き抜かれ、ピアチェンツァを後にした。
当時のパルマはセリエAで優勝争いを繰り広げる強豪であり、攻撃陣にはコロンビアのファウスティーノ・アスプリージャ、ブルガリアのフリスト・ストイチコフ、そしてジャンフランコ・ゾラがおり、1995-96シーズンは完全に控えに回り、途中出場で15試合に出場して2得点を記録するのみであった。またシーズン終盤には足首の骨を骨折して、ベンチにも座れない日々が続いた。
1995-96シーズン終了後にはパルマから放出され、奇しくもセリエAデビューを飾った際の対戦相手、アタランタに移籍した。活躍の場を与えられたインザーギは、シーズン序盤から得点を着実に重ねチームを牽引、リーグ最多の24得点を挙げ、セリエAの得点王となった。
ユヴェントス時代
アタランタBCでの活躍により、予てから入団を熱望していたユヴェントスに(推定)移籍金200億リラ、(推定)年俸20億リラ、5年契約で入団[2]。当時のユヴェントスのエースはアレッサンドロ・デル・ピエロ、そしてクリスティアン・ヴィエリとアレン・ボクシッチがいたが、後者の2人がインザーギと入れ代わりで退団し、当然デル・ピエロとインザーギの2トップが形成された。
迎えた1997-98シーズン、開幕当初はチーム自体が波に乗れず、インザーギとデル・ピエロのコンビ(後に「デル・ピッポ」と評される)は、前シーズンまで所属したヴィエリ、ボクシッチの2人に比べてCFとしての重厚感の乏しさを指摘される一幕もあったが、インザーギは18得点を記録し(デル・ピエロは21得点)、またジネディーヌ・ジダンの活躍もあり、結果的にユヴェントスはリーグ2連覇を達成した。
1998-99シーズン、W杯出場選手の疲労からチームは低調が続き、インザーギ自身も前シーズンの終わり頃から抱えていた内転筋の炎症に悩まされ[3]、またデル・ピエロが長期離脱を余儀なくされ、更に年明けに当時ローマの指揮を執っていたズデネク・ゼーマンによるユヴェントスの選手を中心としたドーピング疑惑の告発により、インザーギ自身も参考人としてトリノ検事局で証言するなど[3]、ごたごたシーズンの中でチームは6位の成績に終わった。
ユヴェントスがトレゼゲを獲得、そして彼がフィットしていくに連れて出場機会が減っていったために2001年にACミランへ移籍金約27億円で移籍した。
ACミラン時代
2002-03シーズンはセリエAにおいてチームトップの17得点を挙げた。またチャンピオンズリーグでは準々決勝アヤックス戦2ndレグにおいて、自らの先制ゴールをはじめとした全得点に絡む活躍を見せ、チームの6度目のビッグイヤー獲得に貢献した。
その後2シーズンは怪我に苦しみ、2004-05シーズンに至っては無得点に終わるなど、満足な活躍を見せられなかった。 2005-06シーズンも当初は欠場を余儀なくされたが、怪我を癒して迎えた第8節パレルモ戦にて、ブランクを感じさせないダイビングヘッドを決めてみせた。やがて調子を上げたインザーギは、このシーズンから加入したアルベルト・ジラルディーノからレギュラーを奪い、セリエAにおいては12得点を挙げた。この復活劇は当時のイタリア代表監督マルチェロ・リッピの目に留まり、ドイツW杯メンバーに名を連ねることにもつながった。 またチャンピオンズリーグにおいても、ベスト16のバイエルン・ミュンヘン戦2ndレグ、準々決勝のリヨン戦2ndレグでそれぞれ2ゴールを挙げるなど好調を維持していた。しかし、準決勝直前に風邪をひきFCバルセロナ戦の1stレグは欠場、2ndレグの出場は叶ったが精彩を欠き、クラブも敗戦し決勝進出を逃した。ちなみに、2006年3月8日には欧州カップでの通算50ゴール目を決めている。
2006-07シーズン、チャンピオンズリーグ予備戦レッドスター・ベオグラード戦でホーム・アウェイ共にゴールを決めミランを本戦出場の原動力となるなど滑り出しこそ好調だったが、途中怪我もあり満足な活躍が出来なかった。しかし、チャンピオンズリーグ決勝リヴァプール戦では「らしさ」をフルに発揮、全2得点を叩き出して勝利への原動力となり、試合後にはマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた(この時のユニフォームはチャリティオークションに出品し、200万円以上の値が付いたと言われる)。チャンピオンズリーグでの相性の良さ(この時点で66試合38ゴール、歴代3位)を見せており、この2ゴールをキャリアでのベストゴールと本人も話している[要出典]。負けたイギリスの新聞には、インザーギの最初の得点がハンドではないかという疑惑に引っ掛けて、「インザーギの腕に負けた」と書きたてたものもあったが、2005年のリヴァプールの奇跡に対するリベンジ(イスタンブールの悲劇を参照。この試合にインザーギは出場していない)を止められなかったと敗戦は認めた。なお、手が体に密着していたのでハンドではないとする見方が一般的である。ちなみにファビオ・カンナヴァーロは最初の得点を見て、「運ではない。これがインザーギだ」と呟いたという[4]。
2007年11月6日時点で予備予選を含むCLでは45ゴール、欧州カップでは97試合62ゴールを記録している。欧州カップでは現役首位、過去を含めてもゲルト・ミュラーと並ぶ最多得点者であったが、2007年12月4日、チャンピオンズリーグ、グループステージ第6節(対セルティック戦)の後半25分にゴールを決め、ゲルト・ミュラーの持つ欧州カップ戦における最多得点記録を抜いた。そしてFIFAクラブワールドカップ2007決勝ボカ・ジュニアーズ戦でも2得点で優勝に貢献。CL、UEFAスーパーカップ、CWCと3つの決勝戦で5得点と大舞台での勝負強さを発揮して、2007年を実りのある年とした。2007-08シーズンは怪我もあり欠場も多かったが、シーズン終盤には5試合連続ゴールを含む9ゴールを挙げた。
2009年3月15日、アウェーのシエーナ戦で2ゴールを決め、キャリア300ゴールを達成。シルヴィオ・ピオラ(364)、ジュゼッペ・メアッツァ(338)、ロベルト・バッジョ(318)に次ぐイタリア人においては4番目の同記録達成者となった。試合前日に背番号300INZAGHIというユニフォームを用意しており、それを使うこととなった[5]
2010年11月3日、ホームでのCLレアル・マドリード戦で2ゴールを決めたが、ゲルト・ミュラーとラウル・ゴンサレスが挙げた欧州カップ通算69得点を追い越す70得点目という歴代最多得点記録となった[6][7](現時点ではラウルがさらに追い抜いている)。またミランにおいてはマルコ・ファン・バステンの記録124得点を追い抜く通算125得点の記録を打ち立てる得点となった[6]。キャリア300ゴール達成時のように、背番号70INZAGHIというユニフォームを用意してその喜びを示した。対戦前にも彼を警戒するコメントを発していた敵将ジョゼ・モウリーニョからも祝福を受けた[8]。
上記のゴールでキャリア315得点に達しR.バッジョの記録が射程圏内に入った矢先の11日、パレルモ戦で負傷退場、そして左ひざの前十字靭帯及び外半月板の損傷により全治6-9ヶ月と診断された[9][10]。
2012年、2011-12シーズンをもって10年以上在籍してきたミランを退団することを発表。さらには現役引退を匂わす発言もした。そしてミランでのラストイヤーの最終戦となるセリエA第38節のノヴァーラ戦に後半途中から出場。同じく長年ミランを象徴する存在であり、同年限りでの退団が決まっていたアレッサンドロ・ネスタやクラレンス・セードルフらも出場する中、持ち前のDFラインの裏を取る動きから浮き球を胸トラップし、右足でジャンピングボレーを決め有終の美を飾った。これが現役ラストゴールであり、この得点をアシストした浮き球パスを出したのはセードルフであった。その後、7月24日に現役を引退することを正式表明。引退後はACミラン育成組織のコーチングスタッフに就任すると発表した[11]。
イタリア代表
イタリア代表としては1997年6月8日にフランス・リヨンで行われたブラジルとの親善試合で代表デビューを飾り、1998 FIFAワールドカップ、UEFA EURO 2000、2002 FIFAワールドカップ、2006 FIFAワールドカップなどで代表に選出され、国際Aマッチ57試合に出場し25得点を記録した。
2004年の欧州選手権直前に負傷し、代表からは遠ざかっていたが、クラブで好調を維持した事もあり、ドイツ大会のイタリア代表に再び名を連ねる事となった。そして、決勝トーナメント進出のかかったチェコ戦で後半42分にハーフライン手前でスルーパスを受け見事に抜け出すと、完全フリーの状態でペナルティエリアまで独走。最後はキーパーのペトル・チェフをドリブルでかわし左足で流し込んでゴールを決め、W杯3回目の出場にしてついに初ゴールを決めた。その後イタリア代表は、トーナメントを勝ち進み24年ぶりのワールドカップ優勝を決めた。
監督経歴
2014年6月、解任されたクラレンス・セードルフの後任としてACミランの監督に就任。2014-15シーズン10位となり、2015年6月16日に解任が発表された[12]。
2016年6月7日、レガ・プロ・ジローネBに所属するヴェネツィアFCの監督に就任した[13]。
特徴・評価
インザーギの通算300ゴール達成時点での内訳は、カテゴリーではセリエA145、B28、C1で13。代表25、アンダー21代表3。コッパ・イタリア15、欧州カップ66、(伊、欧)スーパーカップ3、クラブワールドカップ2。内容は右足123、左足79、頭63、PK17、「脚」14、FK3、肩1。ヒザや太ももなど「脚のどこか」で泥臭く14点も取っているのが特徴的である[14]。
プレーの特徴としては、DFラインのオフサイドトラップを破り、絶妙なタイミングでゴール前に飛び出して、ゴールキーパーとの1対1を冷静に決めるという得点パターンを持つ[15][16]。インザーギは自身のスタイルについて、一瞬の動きでゴールを奪うストライカーという点でパオロ・ロッシに似ていると分析しており[15]、マーカーの視野から消える動きをすること、パサーとの呼吸を合わせることが重要だと述べている[16]。また、こぼれ球に反応して泥臭く押し込むゴールも多く、こうした特長を持つFWを指す"Alla Inzaghi"(インザーギ流、インザーギ風)という言葉もある[17]。
ファビオ・カンナヴァーロは自身が作成した優秀なフォワードベスト3にインザーギを挙げ、理由については「抜群に鼻(得点感覚)が利くからさ。ACミランというビッグクラブで長年にわたって得点を量産することは並大抵のことではない…。脱帽だよ」と語っている[14][要出典]。 マンチェスター・ユナイテッドFC元監督のアレックス・ファーガソンは、オフサイドラインを上手く突破するインザーギについて「オフサイドポジションで生まれた男」とコメントしている[18]。またヨハン・クライフは「彼はサッカーをまったくしていない。ただ常に的を射た場所にいるだけだ」、ゲルト・ミュラーは「彼がしている事の全てはゴールを決めることだ」とのコメントを残している[18]。
タイトル
クラブ
- セリエA
- 1996-97、ユベントス
- 1997-98、ユベントス
- 2003-04、ACミラン
- 2010-11, ACミラン
- コッパ・イタリア
- 2002-03、ACミラン
- UEFAチャンピオンズリーグ
- 2002-03、ACミラン
- 2006-07、ACミラン
- FIFAクラブワールドカップ
- 2007、 ACミラン
個人
- セリエA最優秀若手選手、1996-97
- セリエA得点王、1996-97
監督
- レガ・プロ、2016-17
- コッパ・イタリア・レガ・プロ、2016-17
所属クラブ・成績
クラブ | シーズン | リーグ | イタリア杯 | UEFACL・EL | その他 | 期間通算 | |||||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
ピアチェンツァ | 1991-92 | 2 | 0 | 1 | 0 | - | - | - | - | 3 | 0 |
レッフェ | 1992-93 | 21 | 13 | - | - | - | - | - | - | 21 | 13 |
エラス・ヴェローナ | 1993-94 | 36 | 13 | 1 | 1 | - | - | - | - | 37 | 14 |
ピアチェンツァ | 1994-95 | 37 | 15 | 4 | 2 | - | - | - | - | 41 | 17 |
パルマ | 1995-96 | 15 | 2 | 1 | 0 | 6 | 2 | - | - | 22 | 4 |
アタランタ | 1996-97 | 33 | 24 | 1 | 1 | - | - | - | - | 34 | 25 |
ユヴェントス | 1997-98 | 31 | 18 | 4 | 1 | 10 | 6 | 1 | 2 | 46 | 27 |
1998-99 | 30 | 14 | 1 | 0 | 10 | 6 | 1 | 0 | 42 | 20 | |
1999-00 | 33 | 15 | 2 | 1 | 8 | 10 | - | - | 43 | 26 | |
2000-01 | 28 | 11 | - | - | 6 | 5 | - | - | 34 | 16 | |
通算 | 122 | 58 | 7 | 2 | 34 | 27 | 2 | 2 | 165 | 89 | |
ミラン | 2001-02 | 20 | 10 | 1 | 2 | 7 | 4 | - | - | 28 | 16 |
2002-03 | 30 | 17 | 3 | 1 | 16 | 12 | - | - | 49 | 30 | |
2003-04 | 14 | 3 | 3 | 2 | 9 | 2 | 2 | 0 | 28 | 7 | |
2004-05 | 11 | 0 | 2 | 0 | 2 | 1 | - | - | 15 | 1 | |
2005-06 | 23 | 12 | 2 | 1 | 6 | 4 | - | - | 31 | 17 | |
2006-07 | 20 | 2 | 5 | 3 | 12 | 6 | - | - | 37 | 11 | |
2007-08 | 21 | 11 | - | - | 6 | 5 | 2 | 2 | 29 | 18 | |
2008-09 | 26 | 13 | - | - | 6 | 3 | - | - | 32 | 16 | |
2009-10 | 24 | 2 | 2 | 1 | 7 | 2 | - | - | 33 | 5 | |
2010-11 | 6 | 2 | 0 | 0 | 3 | 2 | - | - | 9 | 4 | |
2011-12 | 7 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | - | - | 9 | 1 | |
通算 | 202 | 73 | 20 | 10 | 74 | 41 | 4 | 2 | 300 | 126 | |
総通算 | 466 | 197 | 35 | 16 | 114 | 70 | 6 | 4 | 623 | 287 |
※所属リーグは2009-10シーズンまでレガ・カルチョ、2010-11シーズンよりレガ・セリエA
背番号
- 9(1997年 - 2012年)
脚注
- ^ “Filippo Inzaghi - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ 金子義仁『ワールドサッカーすごいヤツ全集』フットワーク出版、1999年、p.147-153頁。ISBN 4-87689-330-6。
- ^ a b 金子義仁『ワールドサッカーすごいヤツ全集 2005~2006』フットワーク出版、2004年、p.18-26頁。ISBN 4-87689-509-0。
- ^ (Sports Graphic Number誌より[要出典])
- ^ “ミランFWインザーギ300得点” (2009.3.17付ニュースリリース). 2009.03.17 8:13 (UTC)閲覧。
- ^ a b “フィリッポ、ヨーロッパの王様” (2010.4.11付ニュースリリース). 2010.11.6 14:12 (UTC)閲覧。
- ^ UEFA主催クラブ大会の最多得点者は? http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=1563813.html
- ^ インザーギ、欧州70ゴールに到達
- ^ ミランのインザーギ、じん帯損傷で今季絶望「決してあきらめはしない」 スポーツナビ 2010.11.12付記事 (アーカイヴ)
- ^ Inzaghi se rompe el cruzado y se pierde el resto de temporadaマルカ 2010.11.11付記事
- ^ “サッカー=インザギが引退、ミランのコーチングスタッフに”. ロイター. (2012年7月25日) 2012年7月25日閲覧。
- ^ ミラン、インザーギ監督解任を発表。過去15年最低の10位で引責 フットボールチャンネル 2015年6月16日
- ^ インザーギ、3部からの再出発が決定 ヴェネツィア監督に就任 - Goal.com 2016年6月8日
- ^ a b ワールドサッカーダイジェスト誌の記事およびインタビューより
- ^ a b ジャンニ・ヴィズナーディ. “フィリッポ・インザーギ(ミラン) 「失敗したって、次のチャンスは必ず来る」(1/2)”. ワールドサッカーキング 11.04.21(No.175)掲載インタビュー. OCNスポーツ. 2012年5月15日閲覧。
- ^ a b ジャンニ・ヴィズナーディ. “フィリッポ・インザーギ(ミラン) 「失敗したって、次のチャンスは必ず来る」(2/2)”. ワールドサッカーキング 11.04.21(No.175)掲載インタビュー. OCNスポーツ. 2012年5月15日閲覧。
- ^ 弓削高志 (2012年1月27日). “38歳になったインザーギの試練。戦力外ギリギリでも己を貫けるか?”. セリエAダイレクトレポート. Number Web. 2012年5月15日閲覧。
- ^ a b Rob Bagchi (2009年3月18日). “Inzaghi finds greatness in greed” (英語). ガーディアンスポーツブログ. 2010.5.24 05:26 (UTC)閲覧。
外部リンク
- フィリッポ・インザーギ – FIFA主催大会成績