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{{橋 |
{{橋 |
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|名称 = 名港トリトン |
|名称 = 名港トリトン |
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|画像 = |
|画像 = Meiko Triton 20170927A.jpg |
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|画像幅 = 280px |
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|画像説明 =名港中央大橋 |
|画像説明 =名港中央大橋 |
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|国 = {{JPN}} |
|国 = {{JPN}} |
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|都市 = [[飛島村]]・[[名古屋市]]・[[東海市]] |
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| 経度度 = 136|経度分 = 50|経度秒 = 02 |
| 経度度 = 136|経度分 = 50|経度秒 = 02 |
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| 座標表示 = title |
| 座標表示 = title |
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|長さ = 2,628 |
|長さ = 2,628 [[メートル|m]](3橋合計){{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=341 - 342}}<br />6,117 m(全長:東海IC - 飛島IC下り線){{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=巻頭綴込み}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=5-6}} |
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|最大支間長 = 590 m([[名港中央大橋]]){{Sfn|古郷誠|1990|p=92}} |
|最大支間長 = 590 m([[名港中央大橋]]){{Sfn|古郷誠|1990|p=92}} |
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|幅 = |
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|幅 = 30 m(名港中央大橋){{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|p=384}} |
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|高さ = 195 m(名港中央大橋主塔){{Sfn|古郷誠|1990|p=92}} |
|高さ = [[日本水準原点#東京湾平均海面|T.P]] + 195 m(名港中央大橋主塔){{Sfn|古郷誠|1990|p=92}} |
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|建築家と技術者 = |
|建築家と技術者 = |
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|形式 = 3径間連続斜張橋{{Sfn|古郷誠|1990|p=92}} |
|形式 = 3径間連続斜張橋{{Sfn|古郷誠|1990|p=92}} |
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|素材 = |
|素材 = 鋼{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=69}} |
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|建設 = [[ |
|建設 = [[1979年]][[12月22日]]{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=473}} - [[1998年]][[3月31日]]{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=473}} |
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| 地図名 = Japan Aichi#Japan |
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| 地図幅 = 200px |
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| 地図説明 = 名港トリトンの位置 |
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'''名港トリトン'''(めいこうトリトン)とは、[[伊勢湾岸自動車道]]のうち、伊勢湾岸道路([[国道302号]]の[[愛知県]][[東海市]] - [[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[飛島村]]間)の[[東海インターチェンジ|東海IC]]から[[飛島インターチェンジ|飛島IC]]の間にある、3つの[[斜張橋]]([[名港西大橋]]、[[名港中央大橋]]、[[名港東大橋]])の愛称である<ref name="日本の名橋">『日本の名橋 完全名鑑』廣済堂出版、2013年3月、pp.76-78、ISBN 978-4-331-80222-9</ref>。 |
'''名港トリトン'''(めいこうトリトン)とは、[[伊勢湾岸自動車道]]のうち、伊勢湾岸道路([[国道302号]]の[[愛知県]][[東海市]] - [[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[飛島村]]間)の[[東海インターチェンジ|東海IC]]から[[飛島インターチェンジ|飛島IC]]の間にある、3つの[[斜張橋]]([[名港西大橋]]、[[名港中央大橋]]、[[名港東大橋]])の愛称である<ref name="日本の名橋">『日本の名橋 完全名鑑』廣済堂出版、2013年3月、pp.76-78、ISBN 978-4-331-80222-9</ref>。 |
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名港トリトンとその前後の取り付け区間は |
名港トリトンとその前後の取り付け区間は、一般有料道路事業と直轄国道整備事業として整備された経緯から{{Sfn|名古屋都市計画史編集実行委員会|2017|p=381}}、東海IC - 飛島IC間の全線が[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]となっている<ref name="高規格 愛知県">『人・モノ・情報の交流促進をめざして 高規格幹線道路&地域高規格道路』愛知県建設部道路建設課、2012年4月(パンフレットのためページ数なし・愛知県図書館蔵)</ref>。また、当該区間は[[名古屋環状2号線]]の一部を構成する{{Sfn|荒牧英城|1982|pp=54 - 55}}。 |
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本項では、3橋 |
本項では、主として3つの斜張橋の解説である「名港トリトン」と、東海IC - 飛島IC間(6.1 km)の路線解説である「伊勢湾岸道路」の二部構成で解説する。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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名港トリトンの3橋は[[名古屋港]](名港)の[[埋立地]]を東西に横断し、流通基地をはじめ工業地帯が点在する各[[埠頭|ふ頭]]間を連絡する使命の他に、名古屋港と周辺工業地帯の有機的連携を目的として架橋された{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|pp=488 - 489}}。さらに、[[東名高速道路|東名]]、[[新東名高速道路|新東名]]と[[東名阪自動車道|東名阪]]、[[新名神高速道路|新名神]][[高速道路]]の短絡ルートを構成することから、東西主要都市間の直結ルートとしての役割も担っている<ref name="中日20041214">{{Cite news |date=2004-12-14 |title=豊田JCT - 豊田南が開通 伊勢湾岸道 |newspaper=中日新聞 朝刊 |page=22}}</ref>。さらに、[[中央自動車道]]、[[名古屋第二環状自動車道|名二環]]、[[東海環状自動車道]]、[[東海北陸自動車道]]とも連絡 |
名港トリトンの3橋は[[名古屋港]](名港)の[[埋立地]]を東西に横断し、流通基地をはじめ工業地帯が点在する各[[埠頭|ふ頭]]間を連絡する使命の他に、名古屋港と周辺工業地帯の有機的連携を目的として架橋された{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|pp=488 - 489}}。さらに、[[東名高速道路|東名]]、[[新東名高速道路|新東名]]と[[東名阪自動車道|東名阪]]、[[新名神高速道路|新名神]]の各[[高速道路]]の短絡ルートを構成することから、東西主要都市間の直結ルートとしての役割も担っている<ref name="中日20041214">{{Cite news |date=2004-12-14 |title=豊田JCT - 豊田南が開通 伊勢湾岸道 |newspaper=中日新聞 朝刊 |page=22}}</ref>。さらに、[[中央自動車道]]、[[名古屋第二環状自動車道|名二環]]、[[東海環状自動車道]]、[[東海北陸自動車道]]とも間接的に連絡のうえ名古屋港と関西、北陸、信越地方が自動車専用道路で結ばれることで、海上輸送と陸上輸送が一体となって国際物流を形成し、国内産業を下支えしている{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=11}}。 |
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[[File:Triton map 20170618.png|thumb|550px|left|高速道路ネットワークによって名古屋港と国内各地を直結し、輸送コスト削減、時間短縮効果をもたらしている。港の中を高規格幹線道路が横断するのは名古屋港のポテンシャルの高さのあらわれである{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=11}}。]] |
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名古屋港は資源および工業材料や衣類などを海外から輸入するほか、輸入した原材料を国内工場で加工、製品化して海外へ輸出するための[[貿易港]]である{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=9}}。名古屋港の特色はこうした貿易港としての機能のみならず、港と中部圏の各工場間の道路ネットワークが完備されている点にある{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=11}}。海外から輸入した製品、原材料を中部圏の各工場に輸送する際、それが交通渋滞に巻き込まれて製品調達が滞るようでは企業の生産活動に深刻な影響をもたらしかねない{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=344 - 345}}。したがって港と道路の連携が確実な輸送、コストの面からとりわけ重要な要素となるが、名古屋港の場合は港を[[高規格幹線道路]](高速道路)が貫いており、信号待機による渋滞の心配が無用な高速道路の輸送は、輸送コスト削減と調達時間短縮を実現して効率的な生産、加工を可能としている{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=344 - 345}}。名港トリトンにはマイカー利用のみならず、こうした国内産業を支える物流ルートとしての重要な側面がある。なお、港の中を高規格幹線道路が貫いているのは日本国内では名古屋港のみとされ、日本の中央部に位置するロケーション{{Refnest|group="注釈"|名古屋港は関西と関東の間にあって、ここに物流基地を置くことによって関西、北陸、京浜までもカバーできるメリットがある<ref>『Port of Nagoya 名古屋港利用促進協議会設立25周年 名古屋港開港100周年』名古屋港利用促進協議会、p.19</ref>。}}と共に交通インフラの優位性をいかんなく発揮している{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=11}}。 |
名古屋港は資源および工業材料や衣類などを海外から輸入するほか、輸入した原材料を国内工場で加工、製品化して海外へ輸出するための[[貿易港]]である{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=9}}。名古屋港の特色はこうした貿易港としての機能のみならず、港と中部圏の各工場間の道路ネットワークが完備されている点にある{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=11}}。海外から輸入した製品、原材料を中部圏の各工場に輸送する際、それが交通渋滞に巻き込まれて製品調達が滞るようでは企業の生産活動に深刻な影響をもたらしかねない{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=344 - 345}}。したがって港と道路の連携が確実な輸送、コストの面からとりわけ重要な要素となるが、名古屋港の場合は港を[[高規格幹線道路]](高速道路)が貫いており、信号待機による渋滞の心配が無用な高速道路の輸送は、輸送コスト削減と調達時間短縮を実現して効率的な生産、加工を可能としている{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=344 - 345}}。名港トリトンにはマイカー利用のみならず、こうした国内産業を支える物流ルートとしての重要な側面がある。なお、港の中を高規格幹線道路が貫いているのは日本国内では名古屋港のみとされ、日本の中央部に位置するロケーション{{Refnest|group="注釈"|名古屋港は関西と関東の間にあって、ここに物流基地を置くことによって関西、北陸、京浜までもカバーできるメリットがある<ref>『Port of Nagoya 名古屋港利用促進協議会設立25周年 名古屋港開港100周年』名古屋港利用促進協議会、p.19</ref>。}}と共に交通インフラの優位性をいかんなく発揮している{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=11}}。 |
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[[1985年]]([[昭和]]60年)3月、[[名港西大橋]]が[[暫定2車線]][[対面通行]]により単体で供用開始された(後に伊勢湾岸道の豊田方面行き車線、片側3車線として供用){{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。[[1998年]](平成10年)3月には伊勢湾岸道の開通に伴い、名港中央大橋(片側3車線ずつ計6車線)と名港東大橋(片側3車線ずつ計6車線)および名港西大橋(四日市方面行き片側3車線)がそれぞれ開通した<ref name="朝日19980330夕">{{Cite news |title=「名港トリトン」が直結 名古屋南-飛島開通パレード |newspaper=朝日新聞(名古屋)夕刊|date=1998-03-30|page=}}</ref>。これに伴い、地域のシンボルとしてより親しみをもってもらうべく3つの斜張橋に愛称を付与することになり、一般公募で約2万通の応募がなされた。選考委員会の審査によって6作品(ポートプリズム、名古屋マリンゲートブリッジ、名港ウィングス、名港スリーハープ、名港トリトン、名港三彩大橋)が選ばれ、これを2作品(名港ウィングス、名港トリトン)に絞り込んだうえで決選投票を行い「'''名港トリトン'''」が選ばれた{{Sfn|山田隆昭|1998| |
[[1985年]]([[昭和]]60年)3月、[[名港西大橋]]が[[暫定2車線]][[対面通行]]により単体で供用開始された(後に伊勢湾岸道の豊田方面行き車線、片側3車線として供用){{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。[[1998年]](平成10年)3月には伊勢湾岸道の開通に伴い、名港中央大橋(片側3車線ずつ計6車線)と名港東大橋(片側3車線ずつ計6車線)および名港西大橋(四日市方面行き片側3車線)がそれぞれ開通した<ref name="朝日19980330夕">{{Cite news |title=「名港トリトン」が直結 名古屋南-飛島開通パレード |newspaper=朝日新聞(名古屋)夕刊|date=1998-03-30|page=}}</ref>。これに伴い、地域のシンボルとしてより親しみをもってもらうべく3つの斜張橋に愛称を付与することになり、一般公募で約2万通の応募がなされた。選考委員会の審査によって6作品(ポートプリズム、名古屋マリンゲートブリッジ、名港ウィングス、名港スリーハープ、名港トリトン、名港三彩大橋)が選ばれ、これを2作品(名港ウィングス、名港トリトン)に絞り込んだうえで決選投票を行い、「'''名港トリトン'''」が選ばれた{{Sfn|山田隆昭|1998|pp=60 - 63}}。[[トリートーン|'''トリトン''']]('''Triton''')とは、[[ギリシャ神話]]の海神[[ポセイドン]]とその妻[[アムピトリーテー|アンピトリテ]]の間に生まれた息子である。緑色の髪とひげをはやし、手には[[トリアイナ|三叉戟]](みつまたほこ)と[[ホラガイ|ほら貝]]を携え、下半身は[[イルカ]]の尾を持つ半人半魚の風貌を持っている。父ポセイドンとその弟である[[ゼウス]]によって大洪水が引き起こされた際、難破した船を救うためにほら貝を吹き鳴らして荒波を鎮めた海の守護神である{{Sfn|飯島宗一|1998|p=18 - 19}}{{Sfn|山田隆昭|1998|pp=60 - 63}}。海神であることからのふさわしさと共に、「トリ」が「3つ」を意味する「'''tri-'''」に通じることから、3橋になぞらえる意味でこの愛称が採用された{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=343 - 344}}<ref name="中日19980329">{{Cite news |date=1998-03-29 |title=名港トリトン 夢のかけ橋を行く、伊勢湾岸道、あす開通 |newspaper=中日新聞 朝刊 |page=16}}</ref><ref>『やっとかめ!大(でゃあ)名古屋語辞典』ISBN 4 05-401984-6(清水義範著、なかむら治彦画、学習研究社、2003年)173頁4行目「名港トリトン」の項目</ref>。 |
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3橋は西側(飛島IC側)から、名港西大橋、名港中央大橋、名港東大橋の順に架橋されている。架橋されているふ頭と自治体は、木場金岡ふ頭(海部郡飛島村)、金城ふ頭(名古屋市港区)、潮見ふ頭(名古屋市港区)、新宝ふ頭(東海市新宝町)である<ref name="名港ふ頭">{{Cite web|url=http://www.port-of-nagoya.jp/aramashi/index.html|title=名古屋港のあらまし(ふ頭紹介)|publisher=名古屋港管理組合|accessdate=2017-02-14|language=日本語}}</ref>。名港西大橋が木場金岡ふ頭 - 金城ふ頭間、名港中央大橋が金城ふ頭 - 潮見ふ頭間、名港東大橋が潮見ふ頭 - 新宝ふ頭間にそれぞれ架橋されている。3橋は連続して架橋されていることから、名港トリトン進入の際に、A形の主塔が8つ居並ぶ光景を見ることが出来る<ref name="中日19980329"/>。3橋は貿易港たる名古屋港のゲートに位置し、[[フェリー]]、[[タンカー]]、貨物船など<ref name="毎日19760830夕"/>、 |
3橋は西側(飛島IC側)から、名港西大橋、名港中央大橋、名港東大橋の順に架橋されている。架橋されているふ頭と自治体は、木場金岡ふ頭(海部郡飛島村)、金城ふ頭(名古屋市港区)、潮見ふ頭(名古屋市港区)、新宝ふ頭(東海市新宝町)である<ref name="名港ふ頭">{{Cite web|和書|url=http://www.port-of-nagoya.jp/aramashi/index.html|title=名古屋港のあらまし(ふ頭紹介)|publisher=名古屋港管理組合|accessdate=2017-02-14|language=日本語}}</ref>。名港西大橋が木場金岡ふ頭 - 金城ふ頭間、名港中央大橋が金城ふ頭 - 潮見ふ頭間、名港東大橋が潮見ふ頭 - 新宝ふ頭間にそれぞれ架橋されている。3橋は連続して架橋されていることから、名港トリトン進入の際に、A形の主塔が8つ居並ぶ光景を見ることが出来る<ref name="中日19980329"/>。3橋は貿易港たる名古屋港のゲートに位置し、[[フェリー]]、[[タンカー]]、貨物船など<ref name="毎日19760830夕"/>、相当数の船が橋の下を通過する<ref name="中日20110706">{{Cite news |title=名古屋の空から 名港トリトン 海の旅人をねぎらう |newspaper=中日新聞朝刊|date=2011-07-06|page=14}}</ref>。なお、名港トリトンは自動車専用道路に架かる橋梁であることから、徒歩で横断するための橋ではない。よって港を展望するための遊歩道のたぐいは一切設置されていない<ref name="朝日19920218夕">{{Cite news |title=夜景望む違法駐車、事故原因にも 金城ふ頭の名港西大橋 |newspaper=朝日新聞(名古屋)夕刊|date=1992-02-18|page=8}}</ref>。 |
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{{wide image|トリトン画像(国土地理院).png| |
{{wide image|トリトン画像(国土地理院).png|900px|名港トリトンは西側(画像左側)から名港西大橋、名港中央大橋、名港東大橋の順に架橋されている。名港中央大橋は北航路(法定航路)が横断する{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=69}}。<br /><small>出典:『国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」(配布元:[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス)]』</small>}} |
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建設は主として[[日本道路公団]]( |
建設は主として[[日本道路公団]](一部の道路は[[建設省]])が担当した{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}<ref name="中日19871121"/>。運営者は[[中日本高速道路|NEXCO中日本]](当初は日本道路公団<ref name="朝日20000809"/>)である。 |
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名港トリトン |
名港トリトンの建設では、1988年(昭和63年)5月の日米政府間で合意された特例措置が適用されている<ref group="注釈">特例措置とは、参加を希望する外国企業が日本国内の工事実績が無くても海外での実績を日本国内と同等のものとして扱うこと、及び指名から入札までの期間を40日に短縮するなどの優遇措置である(『中日新聞』1988年6月1日夕刊、8面)。</ref>。当時約60兆円ともされる日本国内建設市場の外国企業への開放を求める米国政府の要請に応えたもので、対象とされた7公共事業の一つに名港トリトンの建設工事が含まれたものである<ref name="中日19880526">{{Cite news |title=7公共事業に特例措置 日米建設市場開放が決着 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1988-05-26|page=1}}</ref>。このため、マスタープランが公表され{{Sfn|古郷誠|1990|p=92}}、適用となる工事は名港中央大橋とされた<ref name="中日19880601">{{Cite news |title=伊勢湾岸道など4事業 マスタープラン公表 建設市場開放で建設省 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1988-06-01|page=8}}</ref>。 |
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名港トリトンを含む東海IC - 飛島IC間6.1 kmは国道302号の一般有料道路('''伊勢湾岸道路'''、自動車専用道路)である{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=340 - 341}}。当該区間の1 km換算の通行料金は、その他の区間と比較して高めに設定されている。理由は、斜張橋に関わる工事費が高速道路平均の10倍以上を要し、工事費償還のために割高としているためである<ref name="朝日19980304">{{Cite news |title=1ヵ所で最大13個・・・運転ご用心 伊勢湾岸「標識」道路? 高速と接続し「規制」強化|newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊 |date=1998-03-04|page=}}</ref>。現状、東海IC - 飛島IC間が普通車870円で、これを伊勢湾岸自動車道[[弥富木曽岬インターチェンジ|弥富木曽岬IC]] - [[湾岸桑名インターチェンジ|湾岸桑名IC]]間(6.5 km)330円と比較しても2倍強の料金設定となっている<ref name="料金">{{Cite web|url=http://media2.c-nexco.co.jp/images/charge/212357123153b63ba32d50a.pdf|format=PDF|title=普通車料金|publisher=NEXCO中日本|accessdate=2016-10-28|language=日本語}}</ref>(通行料金については後述)。なお、伊勢湾岸自動車道と名港トリトンを含む一般有料区間(伊勢湾岸道路)の連続利用に関しては、一本の道路のようにそのまま通過できるが、境界となる飛島ICと東海IC付近には「ここから高速道路」「ここから一般有料道路」の案内標識が設置され、境界が視覚化されると共に、高速道路に準じた規制が設けられている<ref name="朝日19980304"/>(詳細は[[伊勢湾岸自動車道#概要]]を参照)。これに関連して、当該区間には[[最低速度]]が設定され、このため時速50 km以下で走行することは禁じられている<ref name="朝日19980304"/>。また、名港トリトンを含む伊勢湾岸道路には4つのインターチェンジ([[東海インターチェンジ#伊勢湾岸自動車道「東海インターチェンジ」|東海IC]]、[[名港潮見インターチェンジ|名港潮見IC]]、[[名港中央インターチェンジ|名港中央IC]]、[[飛島インターチェンジ|飛島IC]])が設けられている。各インターは名古屋港に点在する物流拠点や石油化学工場、鉄鋼生産基地付近に敷設され、工業色が濃厚なICとなっている。 |
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名港トリトンを含む一般有料道路・伊勢湾岸道路(東海IC - 飛島IC間)の路線データは以下の内容である。なお、この区間は[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]によって{{Sfn|ぎょうせい|2015|p=506・509・537}}東海IC - 名港中央IC間<ref name="高規格 愛知県"/>が[[第二東海自動車道|第二東海自動車道横浜名古屋線]]、名港中央IC<ref name="高規格 愛知県"/> - 飛島IC間が[[近畿自動車道|近畿自動車道名古屋神戸線]]に指定されている。 |
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=== 路線データ === |
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* 有料道路名 : 伊勢湾岸道路{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=341}} |
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* 路線名 : 一般国道302号{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=341}} |
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* 主な経由地 : 海部郡飛島村、名古屋市港区、東海市{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=341}} |
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* 道路区分 : 第1種第2級{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=341}} |
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* 車線数 : 6車線(片側3車線){{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=341}} |
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* 設計速度 : 100 km/h{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=341}} |
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| footer = |
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| image1 = Kinjo Pier 20170617B.jpg |
| image1 = Kinjo Pier 20170617B.jpg |
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| caption1 = 金城ふ頭の自動車積出基地。国内生産された自動車を新宝ふ頭、弥富ふ頭と共に世界各地に輸送する{{Sfn|名古屋港管理組合|2013|pp=19 - 20}}。各拠点で生産された自動車を名古屋港へ輸送するためにも名港トリトンはその一翼を担う。 |
| caption1 = 金城ふ頭の自動車積出基地。国内生産された自動車を新宝ふ頭、弥富ふ頭と共に世界各地に輸送する{{Sfn|名古屋港管理組合|2013|pp=19 - 20}}。各拠点で生産された自動車を名古屋港へ輸送するためにも名港トリトンはその一翼を担う。 |
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| image2 = Meiko |
| image2 = Meiko Triton 20171008A.jpg |
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| caption2 = |
| caption2 = 名港トリトン直下を幾多の船舶が潜り抜ける。巨大船の通過を考慮して橋桁も高く設定している。画像は名港東大橋を潜り抜ける自動車運搬船{{Sfn|名古屋港管理組合|2013|p=21}}。 |
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| image3 = |
| image3 = Meiko Triton 20171111A.jpg |
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| caption3 = 眼下に名古屋港と港湾施設を一望できる。画像は中央大橋から見たエネルギー基地の潮見ふ頭。 |
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| caption3 = 伊勢湾岸道路は一般国道302号(一般有料道路)の扱いながら往復6車線で設計速度は100 km/hと高速道路規格で設計されている([[東海インターチェンジ|東海IC]]付近)。 |
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| image4 = |
| image4 = Meiko East Bridge20190128A.jpg |
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| caption4 = 名港東大橋と潮見ふ頭の工場群。海外から原油や大豆などを輸入する他、モータープールも併設する。 |
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| caption4 = 速度規制標識群(左端が最低速度規制標識)。名港トリトンを含む伊勢湾岸道路は50 km/h以下で走行することは禁止されている。 |
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}}{{-}} |
}}{{-}} |
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== 港湾横断形式・ルートの変遷 == |
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== 構想 == |
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[[File:Port of Nagoya 1962 - 1985.png|thumb|300px|1964年に提起された名古屋港港湾計画に名古屋港横断道路の計画が構想された。これはふ頭造成計画と足並みを揃えて出された計画であった<ref name="中日19640517"/>。画像は1962年当時で、今日の伊勢湾岸道路の陸上ルートはまだ海の中である。下段の画像(1987年時点)と比較するとルートが人工島にまたがっていることが判る。<br /><small>出典:『国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」』</small>。]] |
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{{double image aside|right|Meiko West Bridge 20160910C.jpg|220|Meiko Central Bridge 20160910A.jpg|230|船舶横断のため橋桁は十分な高さを取っている(画像は[[太平洋フェリー]]「[[いしかり (フェリー・3代)|いしかり]](画像左)<br />海難事故防止のため橋脚は防護柵で囲っている(画像右)}} |
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[[名古屋環状2号線]]の名古屋港横断が具体化した[[1960年代]]半ば、新聞紙上で様々な横断方法が記載され、[[トンネル]]もしくは「夢の大橋」で横断すると報じられた<ref name="中日19640517">{{Cite news |title=管理組合が長期整備計画を発表 10年後に大名古屋港 貨物は年間9500万トン 商港の中心に13号地 |newspaper=中部日本新聞朝刊|date=1964-05-17|page=1}}</ref><ref name="中日19650602">{{Cite news |title=環状二号道路を急げ 名古屋大都市計画懇談会が中間報告 |newspaper=中日新聞朝刊 |date=1965-06-02|page=2}}</ref>。しかしそれは所詮構想であって具体的な検討は1969年(昭和44年)以降に行なわれた。地盤調査や海洋気象調査は建設省が行なったが{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1980|pp=291 - 293}}、概略設計は委託先の[[本州四国連絡橋公団]]が担当した{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1980|p=283}}。 |
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{{double image aside|right|USS New Orleans under Huey P Long Bridge.jpg|217|Back to FRISCO (4734975172).jpg|233|名港トリトンの3橋は当初はゲルバートラス橋で構想された(画像は[[アメリカ合衆国|米国]][[ルイジアナ州]]の[[ミシシッピ川]]に架かる[[w:Huey P. Long Bridge (Jefferson Parish)|Huey P. Long橋]])(画像左)<br />ゲルバートラス橋案の破棄後の名港中央大橋は当初、吊り橋式で計画され、その外観は米国[[カリフォルニア州]]の[[ゴールデンゲート海峡]]に架かる[[ゴールデン・ゲート・ブリッジ|金門橋]]に近いものとされた<ref name="中日19730905"/>(画像右)}} |
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構想段階では海底トンネル式および橋梁式とトンネル式両方の組み合わせも考案された。しかし、トンネル式では建設費が高く、換気や道路照明に要する費用も高額であることから採算性が劣るとされた{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=3 - 5}}。また[[高潮]]による浸水被害が心配され、車両火災等のリスクも懸念された。さらに、海底から20 mという長い距離で泥土層が存在することで、トンネル構造物を支えきれないとされた<ref name="中日19730905">{{Cite news |title=第2名四 架橋方式が適当 中部地建の来年度予算要求 調査費は三倍に まず金城ふ頭-西二区間 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1973-09-05|page=3}}</ref>。そして海底トンネルであるために、[[危険物#道路の通行規制|危険物積載車輛]]の通行制限がかかることは、当該区間の利用交通が[[タンクローリー]]等の港湾業務に従事する車であることを考えた場合、利用実態にそぐわないことからトンネル方式は破棄された<ref name="中日19730905"/>。また橋との複合案も、トンネルと橋の移行区間で掘割となることで工業地帯の分断が生じ、急勾配(4.2 %)となることで走行性が劣ることから、こちらも破棄された。なお、複合案における移行区間は金城ふ頭が該当し、西大橋が橋梁式、ほかはトンネル式であった{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=3 - 5}}。 |
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[[File:Meiko Triton JD19a5d.svg|thumb|left|400px|橋梁構造の変遷を示す図。橋梁形式は地盤、安全性、建設コストなど多角的に検討して決定された。]] |
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この点、全てが橋であれば、船舶追突防止対策のほか、場所によっては船舶の航路制限がかかるにしても、土地利用上の問題が少なく、美観的に好ましいことや港のランドマークともなりえることから、橋梁案が採用された{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=3 - 5}}。ただし、橋梁案は船舶関係者からは安全面で憂慮されたことから、海難事故防止策として橋桁の最高潮位面高さを十分に取ることのほかに、海中の橋脚に防護柵を設置するなどの対策を講じることになった{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|pp=490 - 491}}。当初は橋脚で支える[[トラス橋#カンチレバートラス(ゲルバートラス)|ゲルバートラス橋]]で構想されたが、大型船の通過に橋脚が障害となることから、[[吊り橋]]式と斜張橋式に変更された<ref name="毎日19760830夕">{{Cite news |title=つり橋三つで結ぶ 「環2」の名古屋港大橋構想 6車線に縮小 シスコの「金門橋」そっくり |newspaper=毎日新聞(中部)夕刊|date=1976-08-30|page=}}</ref>。 |
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設計は地盤調査の進捗具合やその他諸条件によって変化したが、初期案は[[水底トンネル|海底トンネル]]([[沈埋トンネル]])式、あるいは橋梁式とトンネル式両方の組み合わせが主流であった{{Sfn|山本邦夫・久賀英男・和田実|1974|p=37}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=3 - 5}}。しかし、トンネル式では建設費が高く、換気や道路照明に要する費用も高額であることから採算性が劣るとされた{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=3 - 5}}。また、[[高潮]]による浸水被害が心配され、車両火災等のリスクも懸念された。さらに、海底から20[[メートル]] (m) という長い距離で泥土層が存在することで、トンネル構造物を支えきれないとされた<ref name="中日19730905">{{Cite news |title=第2名四 架橋方式が適当 中部地建の来年度予算要求 調査費は三倍に まず金城ふ頭-西二区間 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1973-09-05|page=3}}</ref>。そして海底トンネルであるために、[[危険物#道路の通行規制|危険物積載車輛]]の通行制限がかかることは、当該区間の利用交通が[[タンクローリー]]等の港湾業務に従事する車であることを考えた場合、利用実態にそぐわないことからトンネル方式は破棄された<ref name="中日19730905"/>。また、橋との複合案もトンネルと橋の移行区間で掘割となることで工業地帯の分断が生じ、急勾配(4.2 %)となることで走行性が劣ることから、こちらも破棄された。なお、複合案における移行区間は金城ふ頭が該当し、西大橋が橋梁式、ほかはトンネル式であった{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=3 - 5}}。 |
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この点、全てが橋であれば、船舶追突防止対策のほか、場所によっては船舶の航路制限がかかるにしても、土地利用上の問題が少なく、美観的に好ましいことや港のランドマークともなりえることから、橋梁案が採用された{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=3 - 5}}。ただし、橋梁案は船舶関係者からは安全面で憂慮されたことから、海難事故防止策として橋桁の最高潮位面高さを十分に取ることのほかに、海中の橋脚に防護柵を設置するなどの対策を講じることになった{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|pp=490 - 491}}。当初は橋脚で支える[[トラス橋#カンチレバートラス(ゲルバートラス)|ゲルバートラス橋]]で構想されたが、大型船の通過に橋脚が障害となることから、1976年(昭和51年)には[[吊橋]]式と斜張橋式に変更された<ref name="毎日19760830夕">{{Cite news |title=つり橋三つで結ぶ 「環2」の名古屋港大橋構想 6車線に縮小 シスコの「金門橋」そっくり |newspaper=毎日新聞(中部)夕刊|date=1976-08-30|page=}}</ref>。 |
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橋梁案決定後、中央大橋建設区域の地盤に問題があることが判った。中央大橋は当初は水域内に主塔が1本のみで計画され(もう1本は9号地に近接設置{{Sfn|名古屋港史編集委員会 |1990|pp=247 - 249}})、これは船舶の航行条件による制約であった{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|pp=384 - 385}}。このため橋長1,560 m、中央径間780 mと規模が大きいために吊り橋式で計画された。吊り橋式はケーブルの張力を得るために[[アンカーブロック]]とケーブルを連結させる必要があるが、当該区域にはアンカーブロックを支える支持岩盤が存在せず、これによるクリープ<ref group="注釈">吊り橋に見られる現象で、荷重が当初は一定に保たれても時間と共にひずんでいく現象。</ref>が特に懸念された{{Sfn|名古屋港史編集委員会 |1990|p=247}}。そして中央径間が長すぎることは事業費が多額で、9号地(現・潮見ふ頭)に計画されているインターが片方向しか造れないという問題もあった{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|pp=384 - 385}}。そこでやむを得ず中央径間を縮小することになり、航路の変更について海事関係者と協議した結果、了解を得た。これによって主塔は水域内に2本設置することが可能となり、併せて橋長が1,170 mに短縮された。この時も吊り橋案は生きていたが、最終的に工期や経済性に優れる現行の斜張橋式に変更された{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|pp=384 - 385}}。また、港湾を出入する船舶の支障なきよう、桁下空間を確保する意図から橋の中央部については海面から47 mの空間を確保した{{Sfn|名古屋港史編集委員会|1990|p=248}}。 |
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しかしながら、この時点では港湾計画として正式決定された訳ではなく、依然として構想の領域を超えるものではなかった。決定がなされなかったのは国の財政事情もさることながら、船舶関係者による架橋反対の兆しが芽吹いていたためである{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議 |1984|p=489}}。しかし、名古屋環状2号線の中でも当該区間だけが都市計画されておらず、既に建設省によって要求されていた西大橋の関連予算請求手続きを迅速化するためにも計画決定を急ぐ必要に迫られたことから、1978年(昭和53年)12月の名古屋港湾審査会に諮問され、了承を得た<ref name="中日19781223夕刊">{{Cite news |title=名港大つり橋、建設へ前進 西、中央、東の3本 『環2』計画を港湾審が了承 来年度にも着工 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1978-12-23|page=1}}</ref>。そして中央港湾審議会の承認を得たうえで、都市計画決定の手続きを行い、ここに工事開始の前提手続きが全て終了するが、3大橋を含む伊勢湾岸道路の都市計画決定を見たのは1979年(昭和54年)8月10日であった{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。 |
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3橋の建設優先順位を決めるにあたり、[[コンテナ]]基地および流通基地を控えることによる港湾交通需要の高さ、および地元経済界から早期の建設を要望された経緯から{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=3}}、木場金岡ふ頭と金城ふ頭を結ぶ名港西大橋が3橋の先陣を切って建設されることになった<ref name="中日19780905">{{Cite news |title=第2名四 架橋方式が適当 中部地建の来年度予算要求 調査費は三倍に まず金城ふ頭-西二区間 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1973-09-05|page=3}}</ref>。建設に当たっては、第一期と第二期に分けることになり{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=4}}、第一期として北側(現・上り線)の橋のみが建設され、暫定往復2車線として1985年3月に供用開始した<ref name="中日19871121"/>。独立2橋並列とされたのは、第一期と第二期として分離施工するうえで施工プロセスおよび経済性に問題がなかったためである{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=4 - 5}}。一方で、名港東大橋並に幅広の主塔を構築して、その中心部に暫定的に細幅の道路を載せて第一期線とする案もあったが、ケーブルを全完成時点の仕様で張ることから、つり合い荷重を必要とし、第二期線の建設(道路を左右に拡幅する)が大変困難になることで破棄された{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=4 - 5}}。一方で、上下に道路を構築する案もあったが、一期線建設時点で約90 %の建設費を要することから、こちらも破棄された{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=4 - 5}}。 |
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{{wide image|Meiko West Bridge 20170617E.jpg|900px|コンテナ基地と流通基地を控えて港湾交通需要が高いと見込まれることから名港西大橋を先行建設することになった。画像は西大橋とその背後の飛島ふ頭のコンテナ基地。同基地はシンガポール、東南アジア、北米との航路による輸出入のターミナルで{{Sfn|名古屋港管理組合|2013|pp=17 - 18}}、同基地で取り扱う貨物と国内各地の産業間の円滑な陸上輸送を期するためにも、名港西大橋の建設を優先することになった{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=3}}。}} |
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[[File:Meiko Triton Route.png|thumb|300px|橋種と共に横断ルートも変更された。初期案の9号地南端をかすめる案が、建設省による調査の進展によって東西直線ルートに変更された{{Sfn|山本邦夫・久賀英男・和田実|1974|pp=26 - 28}}。しかし、密集する石油関連企業の万一の油槽所大爆発による危険を鑑み、1979年に現行ルートに変更された{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。画像は1975年当時。<br /><small>出典:『国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」』</small>。]] |
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名港西大橋および残り2橋の以上に見る構想および調査は進展したものの、実際の着工は西大橋のみで、残りは着工の目途さえ立たなかった。しかしながら、西大橋単独の開通では港湾物流は全く機能せず、投資対効果でも劣悪であり、この状況を一刻も早く脱するためには残り2橋を含む豊田 - 四日市間の全線早期開通が望ましいことから、地元の要請を受けた国は建設に向けて重い腰を上げることになった<ref name="中日19860301">{{Cite news |title=伊勢湾岸道路 民活で 建設相、早期完成へ検討指示 国の無利子金投入 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-03-01|page=1}}</ref>。ただし、財政難であることから国は早期着工の条件として地元経済界にも応分の負担を求めることになった。具体的には、日本道路公団が発行する公団債を地元経済界が低利で引き受けるという内容で<ref name="中日19850730">{{Cite news |title=民間資金の活用を 名港中央、東大橋の建設 建設相提案 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1985-07-30|page=1}}</ref>、国からは無利子金投入、民間からは低利の資金を投入することで建設に弾みを付けて内需拡大につなげるという、当時の[[内閣総理大臣]]、[[中曽根康弘]]の肝いりの政策であった<ref name="中日19860323">{{Cite news |title=名港2大橋 62年度着工 政府方針 伊勢湾岸道を推進 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-03-23|page=1}}</ref>。これによって停滞していた残り2橋も1986年3月には政府[[自由民主党|自民党]]によって計画推進が決定した<ref name="中日19860323"/>。なお、縁故債の利率は平均6.149 %以下(10年満期)の低利で、本四連絡橋公団が[[明石海峡大橋]]建設で関西の各財界に提示した利率と同様である<ref name="中日19870908">{{Cite news |title=建設へゴーサイン 伊勢湾岸道の名港2大橋 公団発行の低利縁故債 引き受け条件決まる |newspaper=中日新聞朝刊|date=1987-09-08|page=3}}</ref>。 |
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この都市計画決定に先立って横断ルートの変更が行なわれた。この時までのルートは、1964年(昭和39年)の立案ルート<ref>『名古屋市 都市計画のあらまし』No.1-10 1962-80(合冊製本)内の「都市計画のあらまし」1968、No.3、36頁の「名古屋港計画平面図 昭和39年5月改訂」([[名古屋都市センターまちづくりライブラリー]]蔵)</ref>に若干の修正を加えたもので、東海 - 西二区間はカーブがない東西一直線であった。金城ふ頭や南1区で既に用地確保がされている等の理由からである{{Sfn|山本邦夫・久賀英男・和田実|1974|pp=26 - 28}}。今回はこれを再度変更するもので、理由は石油関連企業が密集する9号地では防災上の問題があり、「危険物の規制に関する政令」の改正もあって、防災上の保安距離を確保するためである{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1980|p=286}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=33}}。決定は1979年(昭和54年)3月である{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。 |
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都市計画決定ののち、以前から懸念されていた中央大橋の橋梁形式を再検討する意見が強まった。中央大橋は当初は水域内に主塔が1本のみで計画され(もう1本は9号地に設置<ref name="中日19781223夕刊"/>)、これは船舶の航行条件による制約であった。このため橋長1560 m、中央径間780 mと規模が大きいために吊橋式で計画された{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|pp=384 - 385}}。吊橋はケーブルの張力を得るために[[アンカーブロック]]とケーブルを連結させる必要があるが、通常は堅固な地盤に設置されるべきアンカーブロックが、当該区域は軟弱地盤であることから基礎地盤の変形にともなうアンカーブロック傾斜の危険性が以前から指摘されていた{{Sfn|山本邦夫・久賀英男・和田実|1974|p=38}}{{Sfn|名古屋港史編集委員会 |1990|p=247}}。そして中央径間が長すぎることは事業費が多額で、有料道路事業における採算性に問題があること{{Sfn|松本章|1985|p=57}}、および9号地(現・潮見ふ頭)に計画されているインターが片方向アクセスとなってサービスレベルダウンとなることが問題視された{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|pp=384 - 385}}。そこで、アンカーブロックの支持層の負担軽減、および9号地インターの双方向アクセスを実現するために橋梁規模を縮小することになり、航路の変更について海事関係者と協議した結果、了解を得た。これによって主塔は水域内に2本設置することが可能となり、併せて橋長が1170 mに短縮された。橋梁規模縮小により斜張橋の選択も可能となり、最終的に工期や経済性に優れる斜張橋式が選択された{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|pp=384 - 385}}。これらは1985年(昭和60年)5月に正式決定をみた{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。 |
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ところで、名古屋港には海底トンネルが少なくとも2本設けられている。1本目は、[[木曽川]]近辺に位置する笹川取水場から知多浄水場に送水するための[[水路|導水路]]で、1960年代における[[知多半島]]の水需要の増加によって、従来の[[愛知用水]]からの供給では間に合わなくなっていたことから設けられたものである{{Sfn|愛知県水道局 |1980|pp=1-3}}。建設にあたり、ルート候補の一つに[[名古屋環状2号線]]の海上区間(名港トリトン区間)が挙げられた。名古屋環状2号線に添架できればそれに越したことはないが、計画当時は海上区間の施工時期が未定で、仮に海上横断が橋梁方式となった場合は橋に載せる導水管の構造が複雑化するうえ、海面から約50 mの高さまで揚水する必要があるなど問題点が多く、当該候補は早々と却下されている{{Sfn|愛知県水道局 |1980|p=8}}。なお、海底トンネルは飛島ふ頭と東海元浜ふ頭の間で敷設された{{Sfn|愛知県水道局 |1980|p=8}}。このほか、名古屋港には、[[知多第二火力発電所]](愛知県知多市)から[[西名古屋火力発電所]](愛知県海部郡飛島村)まで天然ガスを送るパイプラインを収容する延長4.6 kmの[[水底トンネル|海底トンネル]]が存在する<ref>{{Cite news|title=これが海底トンネルの現場だ: 火力発電所、建て替え中|date=2015-12-04|newspaper=朝日新聞DIGITAL|last=大隈|first=悠|url=https://www.asahi.com/articles/ASHD34SJXHD3OIPE01Q.html|accessdate=2019-08-20|archivedate=2019-08-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190820131704/https://www.asahi.com/articles/ASHD34SJXHD3OIPE01Q.html}}</ref>。 |
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== 構造 == |
== 構造 == |
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=== 3橋の諸元 === |
=== 3橋の諸元 === |
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[[File:Meiko West Bridge 20160910A.jpg|thumb| |
[[File:Meiko West Bridge 20160910A.jpg|thumb|260px|right|名港西大橋]] |
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==== 名港西大橋 ==== |
==== 名港西大橋 ==== |
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* 橋長:758 m<ref name="日本の名橋"/> |
* 橋長:758 m<ref name="日本の名橋"/> |
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* 形式 |
* 形式:鋼3径間連続斜張橋{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}} |
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* 支間割:176.5 m + 405 m + 176.5 m{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=341}} |
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* 中央径間:405 m<ref name="日本の名橋"/> |
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* 桁下:38 m{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}} |
* 桁下:38 m{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}} |
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* 主桁 |
* 主桁:箱型{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=177}}、幅員16 m(一期線)、19.4 m(二期線){{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=11}} |
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* ケーブル |
* ケーブル:ファン型(2面12段マルチケーブル){{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=165}} |
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* 基礎 |
* 基礎:ニューマチックケーソン基礎{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}} |
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* 有効幅員:二期線13.75 m (2.25 + 3.5 + 3.75 + 3.5 + 0.75) {{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=341}}、一期線12.75 m (1.75 + 3.5 × 3 + 0.5) {{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=11}} |
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* 建設費:一期線 185億円、二期線 300億円{{Sfn|日経BP社|1998|p=102}} |
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[[File:Meiko Central Bridge 20170610A.jpg|thumb|260px|right|名港中央大橋]] |
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[[File:Meiko Central Bridge 20170610A.jpg|thumb|300px|right|名港中央大橋]] |
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==== 名港中央大橋 ==== |
==== 名港中央大橋 ==== |
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* 橋長:1,170 m{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=69}} |
* 橋長:1,170 m{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=69}} |
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* 形式 |
* 形式:鋼3径間連続斜張橋 |
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* |
* 支間割:290 m + 590 m + 290 m{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=341}} |
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* 桁下:47 m<ref name="日本の名橋"/> |
* 桁下:47 m<ref name="日本の名橋"/> |
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* 主桁 |
* 主桁:多室箱型{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=69}}、幅員37.5 m {{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=11}} |
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* ケーブル |
* ケーブル:ファン型(2面17段マルチケーブル){{Sfn|鈴木裕二|1997|p=69}} |
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* 基礎 |
* 基礎:ニューマチックケーソン基礎{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=72}} |
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* 有効幅員:27.5 m(片側13.75 m = 2.25 + 3.5 + 3.75 + 3.5 + 0.75){{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=341}} |
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* 建設費:730億円{{Sfn|日経BP社|1998|p=102}} |
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[[File:Meiko East Bridge 20160910A.jpg|thumb|260px|right|名港東大橋]] |
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[[File:Meiko East Bridge 20160910A.jpg|thumb|300px|right|名港東大橋]] |
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==== 名港東大橋 ==== |
==== 名港東大橋 ==== |
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* 橋長:700 m{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=342}} |
* 橋長:700 m{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=342}} |
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* 形式 |
* 形式:鋼3径間連続斜張橋{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=4}} |
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* |
* 支間割:145 m + 410 m + 145 m{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=341}} |
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* 桁下:40 m |
* 桁下:40 m |
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* 主桁 |
* 主桁:多室箱型{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=4}}、幅員37.5 m{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=11}} |
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* ケーブル |
* ケーブル:ファン型(2面12段マルチケーブル){{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=4}} |
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* 基礎 |
* 基礎:ニューマチックケーソン基礎{{Sfn|古郷誠|1990|p=92}} |
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* 有効幅員:27.5 m(片側13.75 m = 2.25 + 3.5 + 3.75 + 3.5 + 0.75){{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=341}} |
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* 建設費:410億円{{Sfn|日経BP社|1998|p=102}} |
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=== 下部工(基礎) === |
=== 下部工(基礎) === |
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[[File:Meiko Triton 20180106B.png|thumb|450px|right|架橋地点の地質。基礎の支持層として適切とされる東海層は東側では地表に近いが、西に向かうにつれて深度を増し、西大橋付近では[[日本水準原点#東京湾平均海面|T.P.]] - 150 mでもその存在を確認できない{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=87}}。表面に近い地質ほど[[N値 (ボーリング調査)|N値]]が5程度の非常に軟弱な地盤である{{Sfn|山腰隆信|1983|p=151}}。<small>図の出典:『伊勢湾岸道路工事誌』日本道路公団名古屋建設局 伊勢湾岸道路工事事務所、26 - 29頁</small>。]] |
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海上に姿を見せる主塔を海面下で支えるのが下部工(基礎)で、その深さは、海面基準で東大橋が約37 m{{Sfn|古郷誠|1990|p=93}}、中央大橋が約52 m{{Sfn|古郷誠|1990|p=92}}、西大橋が約45 m{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=168}}である。3橋に差があるのは、地質構造が東と西では大きく変移しているためで、東側は東海層群が海面から近接することから東大橋はこの層を支持基盤としている。しかし、西に向かうにつれて東海層群は深さを増し、西大橋付近では100m以下となることからそこまで掘削することは不可能である。同様に中央大橋でも70mで不可能であることから、それよりも上層にある適正な層を支持基盤とした{{Sfn|古郷誠|1990|p=93}}。ただし、西大橋の支持層は洪積層中間の砂層で、軟弱地盤であることから{{Sfn|佐久間智・前川利聡・宮内秀敏|1995|p=55}}主塔形状もそれに対応している(後述)。 |
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海上に姿を見せる主塔を海面下で支えるのが下部工(基礎)で、その深さは、T.P.(Tokyo Peil : [[日本水準原点#東京湾平均海面|東京湾の平均海面]]{{Sfn|名古屋港管理組合議会事務局議事課|2012|p=27}})基準で、東大橋が約 -34 m{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|p=24}}、中央大橋が約 -52 m{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|p=24}}、西大橋が約 -45 m{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=168}}である。3橋に差があるのは、地質構造が東と西では大きく変移しているためで、東側は東海層群が海面から近接することから東大橋はこの層を支持基盤としている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=25}}。しかし、西に向かうにつれて東海層群は深さを増し、西大橋付近では -100 m以下となることからそこまで掘削することは不可能である。同様に中央大橋でも -70 mで不可能であることから、それよりも上層にある適正な層として、海部・弥富累層(あま・やとみるいそう)を支持層とした{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=8}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=352}}。 |
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基礎構造の選定において、鋼管矢板基礎方式は、それが超大型となった場合の設計手法が未確立であったことに加え{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=100}}、名古屋港の船舶往来の激しさを加味して、工事専有面積を縮小出来る方式としてフローティング工法(海上に鋼製函体を浮かせてから沈み込ませる工法{{Sfn|杉田秀夫|1994|p=103}})による{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=50}}{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|p=27}}ニューマチック(pneumatic:[[圧縮空気]]の意味{{Sfn|土木学会関西支部編 田中輝彦・渡邊英一|2010|p=133}})[[ケーソン]]工法を採用した{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}。これはコップを逆さにして水中に沈めると空気が充満する(空気の圧力によって水の侵入を防ぐ)ことを応用した工法で、コップに相当する巨大な箱(ケーソン:caissonとはハコの意味)を海中に沈め、人間がそこに入れば呼吸しながら海底を掘削できることに加え、地盤を直接肉眼で確認しながら掘削できることが特徴である{{Sfn|杉田秀夫|1994|pp=22 - 23}}{{Sfn|土木学会関西支部編 田中輝彦・渡邊英一|2010|p=133}}。その施工プロセスは、ケーソン(鉄筋コンクリート製)の型枠となる鋼製函体(縦35 m、横33 m、高さ16 m〈名港西大橋の場合〉{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=111}})を地上で製作したのち所定の場所に沈め、函体にコンクリートを充填し、なおかつコンクリート硬化後に水を注水してコンクリートと水荷重{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=309}}により海底に着底させる。これは函体の重量だけでは潮の干満によって浮き沈みのムラが発生するため、水荷重によって強制的に着底させるものである{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=34}}。着底後、函体底部の作業室に圧縮空気を送って水や泥を押し出し、人間をそこに送り込んだうえで掘削作業を行う。そこでは地上でばらした函内[[油圧ショベル|ショベル]]を作業室に搬入し、組み立て、名古屋港の海の底で人間がショベルを操りながら掘削する{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=293}}。一方、函体上部ではコンクリートを継ぎ足してケーソンを構築し、底部における掘削と上部における継ぎ足しを繰り返しながら{{Sfn|藤原稔・久保田宗孝・菅谷洸・寺田博昌|1994|p=123}}{{Sfn|杉田秀夫|1994|pp=22 - 23}}海面から-45 m(名港西大橋){{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=278 - 279}}あるいは-52 m(名港中央大橋){{Sfn|古郷誠|1990|p=92}}の位置まで沈めてゆくものである。ケーソン頂上部は水面よりも5 m高いことから、名港中央大橋のケーソンの長さは57.5 mに達し{{Sfn|古郷誠|1990|p=92}}、高さ20階のビルに相当する大規模な基礎となった{{Sfn|イカロス出版|2011|p=71}}。 |
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[[File:Meiko Central Bridge20190128B.jpg|thumb|250px|right|橋梁を船舶衝突から完全に防護するために、基礎の突起(海中にあって見えない)と併せて、基礎の周りに防護柵を設置している{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=112}}]] |
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ケーソン下部に空気の空間を維持するためには地上から高圧の空気を送って作業室の気圧を高くする必要があるが{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=302}}、海底奥深くまで掘削するに従って水圧も増すことから、それに負けないだけの高圧の空気を送り込めば、やがては血管内に空気([[窒素]])が大量に溶け込み、それが急激に地上に上昇して[[気圧|大気圧]]に戻ると血液中に気泡が生じて[[減圧症|潜函病(ケーソン病)]]を発症する{{Sfn|杉田秀夫|1994|pp=188 - 189}}{{Sfn|土木学会関西支部編 田中輝彦・渡邊英一|2010|p=133}}。気泡が毛細血管に入れば血流を止めることから体の一部が壊死、または死に至るなど、過去には多数の犠牲者を出した経緯から、海外の多くの国ではニューマチックケーソン工法を禁じている{{Sfn|塩井幸武 |2014|pp=199 - 200}}。また、潜函病の発症と並んで危惧されるのが、気圧の上昇とともに呼吸抵抗の増大や[[窒素中毒|窒素酔い]]による作業効率の低下を招いて事故を誘発する危険の増大である{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=62}}{{Sfn|佐久間智・前川利聡・宮内秀敏|1995|p=58}}。このことから名港トリトンの建設では、ケーソン周辺に大深度の井戸を掘って地下水を揚水することで高圧の圧縮空気を送り込まなくてもよいように取り計らった(ディープウェル工法){{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=50 - 51}}。当工法は大深度掘削の中央大橋でも採用されたが{{Sfn|古郷誠|1992|p=39}}、西大橋二期線の掘削にあたって当工法を使うと地盤が影響を受けて近接する一期線の基礎が傾斜することが懸念された{{Sfn|佐久間智・前川利聡・宮内秀敏|1995|pp=55-57}}。よって、当工法以外で作業員の安全を図る方法が模索され、結果、T.P. - 30 m以下では[[ヘリウム]]混合ガス(ヘリウム、[[酸素]]、[[窒素]]の3種類を混合したもの)を作業員に呼吸させることになった{{Sfn|佐久間智・前川利聡・宮内秀敏|1995|pp=57 - 59}}。これに世界初の無人掘削システムを併用するなどして高気圧障害から作業員を守っている{{Sfn|佐久間智・前川利聡・宮内秀敏|1995|pp=57-59}}<ref name="朝日19980122夕">{{Cite news |title=鈴木寿代さん 動き出す第二東名・名神(ふぇいす) |newspaper=朝日新聞(名古屋)夕刊|date=1998-01-22|page=2}}</ref>。 |
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基礎には南北側端部に数メートル規模の突起が設けられている。これは防護工と呼ばれ、船舶が誤って衝突した場合、基礎および主塔を完全に防護するための設備である。防護工があることによって、[[船首]]が主塔に接触しないように設計されている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=364}}。 |
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基礎完成後、その上に主塔が載る。そのために、基礎と主塔基部を連結するアンカーフレームと呼ばれる[[檻]]のような巨大な金属棒の一群を基礎の上に据え付けて鉄筋コンクリートで固定した。この棒の一群に主塔にあけられた穴がかみ合うことで両者は連結される。この際、密着面のコンクリートに研磨機をかけて平坦にし、主塔の鉛直精度を確保した{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|pp=64 - 67}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=409 - 411}}。主塔据え付け後、アンカーフレームは締結に使用したボルト、ナットの防錆の観点から完全にコンクリートで覆われ、その姿を見ることは出来ない{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=422-423}}。 |
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以下は主として西大橋について解説するが、中央大橋と東大橋も概ね同様の工法である{{Sfn|横山正則・鈴木裕二・馬場敦美|1992|pp=39 - 43}}。 |
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基礎の選定において船舶の往来が激しいことから、工事専有面積を縮小出来る方式として{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|p=27}}ニューマチック[[ケーソン]]方式を採用した{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}。コップを逆さにして水中に沈めると、コップの中に空気が充満する(空気の圧力によって水の侵入を防ぐ)状態が維持されるが、ケーソン工法はこの原理を応用したものである。コップに相当するケーソン躯体は、縦35m、横33m、高さ16m(重量はケーソン躯体の他に鉄筋と必要な機材込みで2000トン{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=108}})で、この巨大な箱を水深12 mの海底に沈め、ケーソン躯体最下部の作業室に圧縮空気を送り込み、作業室内の水を排除したうえで人力([[油圧ショベル|パワーショベル]]使用)により掘削を行い、同時に躯体上部ではケーソン本体の構築(継ぎ足し)を行う{{Sfn|藤原稔・久保田宗孝・菅谷洸・寺田博昌|1994|p=123}}。掘削と継ぎ足しを繰り返しながらケーソン躯体を沈めていき{{Sfn|横山正則・鈴木裕二・馬場敦美|1992|pp=39 - 43}}、最終的に支持層の45 m付近まで到達する{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=278 - 279}}。掘り出した土砂はバケットに投入して巻き上げ機で地上に吊り上げて排土する{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=297}}。また、ニューマチックケーソン工法の中でも、ケーソン基礎構築と同時に橋脚の躯体の一部を構築するピアケーソン工法を採用している{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=99 - 100}}。所定の深度まで掘り進めたケーソンは内部全体にコンクリートを充填、基礎そのもとして埋め殺しとした{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=27}}。なお、一期線の隣り10 mの間隔をおいて将来二期線の基礎を構築するにあたり、一期線の基礎の安定性については両者の施工時期に10年間の間隔があることを踏まえ、特に問題はないと判断されている{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=100}}。 |
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なお、先の[[第二次世界大戦]]の米軍による[[空襲]]によって名古屋港に大量の爆発物が投下された経緯から、下部工の施工に先立って架橋予定地の[[機雷]]の確認が磁気探査によって行われた。結果は、爆発物の残存は皆無であった{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=280}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=20}}。 |
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ケーソン下部に空気の空間を維持するためには地上から高圧の空気を送って作業室の気圧を高くする必要があるが{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=302}}、[[減圧症|潜函病(ケーソン病)]]にかかるリスクがあることから、地下水を揚水することで作業室内の気圧を低減することになった(ディープウェル工法){{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=50 - 51}}。当工法は大深度掘削の中央大橋でも採用されたが{{Sfn|古郷誠|1992|p=39}}、西大橋二期線の掘削にあたって当工法を使うと地盤が影響を受けて近接する一期線の基礎が傾斜することが懸念された{{Sfn|佐久間智・前川利聡・宮内秀敏|1995|pp=55-57}}。よって、当工法以外で作業員の安全を図る方法が模索され、結果、[[ヘリウム]]混合ガス(ヘリウム、[[酸素]]、[[窒素]]の3種類を混合したもの)を作業員に呼気させることになった{{Sfn|佐久間智・前川利聡・宮内秀敏|1995|p=57}}。これに世界初の無人掘削システムを併用するなどして高気圧障害から作業員を守っている{{Sfn|佐久間智・前川利聡・宮内秀敏|1995|pp=57-59}}<ref name="朝日19980122夕">{{Cite news |title=鈴木寿代さん 動き出す第二東名・名神(ふぇいす) |newspaper=朝日新聞(名古屋)夕刊|date=1998-01-22|page=2}}</ref>。 |
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=== 主塔 === |
=== 主塔 === |
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{{triple image aside|right|Meiko East Bridge20170604A.jpg|195|Meiko Central Bridge 20160910G.jpg|168|Meiko West Bridge 20170917C.jpg|200|主塔は美観向上の意図からA形を採用。左から東大橋、中央大橋、西大橋。東と中央大橋は下段水平梁よりも下層をV字型に絞り込み、下部構造の寸法を極力小さく抑えた。}} |
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主塔は美観向上の意図の他に、軟弱地盤に建設されることから重量軽減のためにA形とされ{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=165}} |
主塔は美観向上の意図の他に、特に西大橋の場合は軟弱地盤に建設されることから重量軽減のためにA形とされた{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=165}}。最初に建設された西大橋のみ、橋軸中心線基準で50 m分離した独立2橋並列とされた{{Sfn|鈴木裕二|1997|pp=68-70}}{{Refnest|group="注釈"|一期線建設当初は45 m分離で計画されていた<ref>『名港西大橋工事誌』日本道路公団名古屋建設局、1986年、p.37</ref>。}}。これは北側(上り線)の橋のみ先行供用として、南側は段階施工とするためである{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=8}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=165}}。50 m分離とされたのは、北側の橋によって乱れた風が南側の橋に不規則な強制振動を与えることを抑制するに適当な間隔だからである{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=37}}。 |
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塔高さは、 |
塔高さは、橋の長さの関係上{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=9}}、中央大橋が最も高く、T.P. + 195 m {{Sfn|古郷誠 |1992|p=34}}、次いで東大橋のT.P. + 130 m{{Sfn|古郷誠 |1992|p=33}}、西大橋のT.P. + 127 m{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=168}}の順である。この内、東大橋と西大橋は工場でAの形に組み上げてから[[フローティングクレーン]]で海上輸送のうえ一括架設を行なったが{{Sfn|鈴木裕二 |1997|pp=71-73}}、中央大橋だけは高過ぎることで、当時最大級の4100[[トン]] (t)フローティングクレーンをもってしても一括架設は不可能であった{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=175}}。従って、塔の下段水平梁より上については積み木のごとく小ブロック単位で架設した{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|p=29}}{{Sfn|水口和之・長井正・溝江実|1997|p=83}}。その際はブロックに沿って足場を組み、異物が混入しないようにして溶接を行った<ref name="朝日19940809"/>。 |
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[[File:Meiko Central Bridge 20170917B.jpg|thumb|200px|left|中央大橋だけは塔断面を八角形として耐風安定性に配慮した。四隅の角を取っていることが判る。]] |
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主塔の基部(底辺)は、西大橋は塔上部からストレートで基部に達し、その形状はAであるのに対し、中央大橋と東大橋は基部で塔柱間隔を絞り込んでいる{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|p=384}}。理由は、下部工の寸法を極力小さく抑えるためである{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=69}}。 |
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主塔の断面形状は、西大橋と東大橋が四角形で、中央大橋だけが八角形である{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|p=26}}。中央大橋は他の2橋に比べて全高が高く、海風の影響(発散振動{{Sfn|鈴木裕二 |1997|p=69}}:一旦発振すると振幅が徐々に成長する[[自励振動]]{{Sfn|長井正嗣・井澤衛・中村宏|1997|p=168}})を受けて主塔が揺らぐ危険性が高いことから、風の影響を抑えるために角を取ることとなった<ref name="中日19980511夕">{{Cite news |title=橋ものがたり 名港トリトン 130メートル吹き上げる海風 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1998-05-11|page=1}}</ref>。なお、東大橋も主塔にぶつかった海風が塔を伝うことで猛烈な風圧を受ける点は中央大橋と同様である<ref name="中日19980511夕"/>。 |
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主塔の下段水平梁より下層は、西大橋は塔上部からストレートで基部(底辺)に達し、その形状はAであるのに対し、中央大橋と東大橋はV字型に絞り込んでいる。理由は、下部工の寸法を極力小さく抑えるためである{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=69}}。 |
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主塔の断面形状は、西大橋と東大橋が四角形で、中央大橋だけが八角形である{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|p=26}}。中央大橋は他の2橋に比べて全高が高く、海風の影響を受けて主塔が揺らぐ危険性が高いことから、風の影響を抑えるために角を取ることとなった<ref name="中日19980511夕">{{Cite news |title=橋ものがたり 名港トリトン 130メートル吹き上げる海風 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1998-05-11|page=1}}</ref>。なお、東大橋も主塔にぶつかった海風が塔を伝うことで猛烈な風圧を受ける点は中央大橋と同様である<ref name="中日19980511夕"/>。 |
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主塔内部には3橋とも[[エレベーター]]を装備している。主塔塔頂に据え付けられている[[航空障害灯]]のほか、主ケーブル、塗装等の維持管理のためである{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=389}} |
主塔内部には3橋とも[[エレベーター]]を装備している。主塔塔頂に据え付けられている[[航空障害灯]]のほか、主ケーブル、塗装等の維持管理のためである{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=389}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=233}}。名港西大橋二期線を除いて全て北側の柱(西大橋二期線のみ南側)に設けられている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=233}}。中央大橋の場合、約3分で頂上へ到着する<ref name="中日19980511夕"/>。 |
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主塔は東側の橋が青、中央が白、西側が赤の[[トリコロール]] |
主塔は東側の橋が青、中央が白、西側が赤の[[色の三原色|トリコロール]]で塗装されている{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=344}}。最初に建設された西大橋は誘目性、視認性、港のシンボルを考慮して赤とされた{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=560 - 562}}。後年になって3橋がグランドオープンするに伴い、色彩に新たな検討を加えることになった。結果、連続する3つの斜張橋は海外にも例がないことから、この景観資源を生かし、港のゲート性を強く印象づけるためにも公団主催の検討委員会の提言によって3橋の色彩を別々にすることになった{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=344}}。これによって、西大橋は親しみなれたイメージを壊さないために赤をそのまま生かし{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=65}}、中央大橋は[[オオハクチョウ|大白鳥]]が羽を広げたイメージを表現するために白、東大橋はさわやかな空と海の青が採用された{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=75}}<ref name="中日19980329"/>。[[マンセル・カラー・システム|マンセル値]]では、それぞれ 2.5R4/4(名港西大橋)、10PB9/2(名港中央大橋)、2.5PB4/8(名港東大橋)である{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=65}}。 |
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=== 橋桁 === |
=== 橋桁 === |
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[[File:Meiko |
[[File:Meiko Central Bridge 20171119A.png|thumb|300px|right|橋桁の風洞実験による風の流れ。<br><small>出典:『土木技術』第53巻第5号、26頁</small>]] |
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橋桁は桁高さを抑えて重量軽減を図り、ケーブルの定着性向上と耐風安定性の観点から両端に三角形状の[[フェアリング]]を取り付けた薄型偏平六角形の箱型構造である{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=10}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=45}}。特に名港トリトンは海上に架かる長大支間長の橋梁であるために風の影響を無視できない。海上は高層の建物が密集する陸上よりも表面がなだらかであることから架橋地点の風速は高く{{Sfn|藤原稔・久保田宗孝・菅谷洸・寺田博昌|1994|p=108}}、船舶の航行を確保するために桁位置を非常に高く設定していることから3橋とも橋桁に対して概ね60 [[メートル毎秒|m/s]]の風速に耐える設計を行っている{{Sfn|佐久間智・渡部恒雄・山田三郎|1998|p=8}}{{Sfn|古郷誠|1992|p=37}}。風は橋の側面に水平方向の力が働き、橋が水平に長いものであることを考えた場合、橋全体に受ける風圧は膨大なものとなり、その結果として橋を構成する部材が曲がったり、橋を支える下部工に悪影響を及ぼす危険性がある{{Sfn|藤原稔・久保田宗孝・菅谷洸・寺田博昌|1994|p=107}}。特に長大支間橋梁では精巧な橋梁の模型を使った[[風洞]]実験を行って風に対する安全を保障するが{{Sfn|藤原稔・久保田宗孝・菅谷洸・寺田博昌|1994|pp=107 - 108}}、名港トリトンの3橋もこの例に漏れない{{Sfn|佐久間智・渡部恒雄・山田三郎|1998|p=8}}{{Sfn|古郷誠|1992|p=37}}。風洞実験の結果、発現した振動が有害と判断される場合、それを制御するための空気力学的な対策が実施される{{Sfn|長井正嗣・井澤衛・中村宏|1997|p=174}}。橋桁の両端に鋭角のフェアリングを取り付けて断面を流線形としているのも風圧の作用を少しでも低減するためであり、同様に橋桁の上下長さを小さくして薄型偏平としているのも同様の理由である{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=56}}。風に対する影響を無視できないのは、過去に幾多の落橋事故に遭遇しているからであり、なかでも完成後わずか4か月にして19 m/sの風で落橋した[[タコマナローズ橋]]が有名である{{Sfn|長井正嗣・井澤衛・中村宏|1997|p=168}}{{Sfn|藤原稔・久保田宗孝・菅谷洸・寺田博昌|1994|pp=107 - 108}}{{Sfn|土木学会関西支部編 田中輝彦・渡邊英一|2010|pp=224 - 231}}。タコマナローズ橋は吊橋であるが、斜張橋の耐風安定も吊橋と共通する問題であり{{Sfn|遠田良喜|1997|pp=202 - 203}}、タコマナローズ橋の落橋原因となった発散振動{{Sfn|長井正嗣・井澤衛・中村宏|1997|p=168}}については名港トリトンの風洞実験でも入念な検討が行われた{{Sfn|古郷誠|1992|p=37}}。 |
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{{Vertical_images_list |
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{{wide image|Meiko Triton JD20a5a.svg|800px|橋桁断面形状。薄型偏平の六角形箱形である。西大橋一期線は1985年開通当初の仕様(図は片側3車線だが実際の運用は暫定往復2車線)。橋桁の左右でケーブルを連結する2面吊り方式である。両端の角が耐風安定のために取り付けたフェアリング。<small>出典:『土木技術』第52巻第1号、56頁および『名港西大橋工事誌』168頁</small>。}} |
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| 1= Meiko East Bridge 20170709A.jpg |
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橋桁およびタワー、基礎([[ケーソン]])の鋼材は大規模であることから陸上輸送が不可能であることに加え{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=401}}、輸送コストの面から海上輸送を基本とした{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=10}}。このため、名古屋港と航路で輸送可能な鉄工企業が選定され、[[三重県]][[津市]]の[[日本鋼管]]津造船所をはじめ、[[日本車両製造]]衣浦工場、[[石川島播磨重工業]]愛知工場など近在の企業のほか{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=333}}<ref name="中日19940614">{{Cite news |title=「名港東大橋」の東主塔 青色鮮やか そびえ立つ 東海市寄り海上 高さ130メートル 西側は19日架設|newspaper=中日新聞朝刊|date=1994-06-14|page=17}}</ref>、[[横浜市]]や遠くは[[北九州市]]{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=10}}、[[愛媛県]][[東予市]](現・[[西条市]])で製作されたものが名古屋港まで曳航された{{Sfn|横山正則・鈴木裕二・馬場敦美|1992|p=42}}。橋桁の場合、概ね15 m(西大橋は7 - 12 m{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=449}})程度の単ブロックを台船に載せて直接現地に運ばれている{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=9}}。 |
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| 2=東大橋は中央径間に比べ側径間が短いため{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|pp=4-5}}、ケーブルの張り方もアンバランスとなっている。側径間の橋桁にはカウンターウエイトとしてRCを打設した{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=10}}。 |
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| 3= Meiko Central Bridge 20170615-S.jpg |
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橋桁の架設方法は、側径間が工程の短縮、作業省略の意図からベント(Bent:橋脚を意味するが日本では仮支柱をベントと呼ぶ。ステージングともいう{{Sfn|藤原稔・久保田宗孝・菅谷洸・寺田博昌|1994|p=169}})工法による架設{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=427}}、中央径間側は航路確保の前提からベントを設けずに橋桁を渡す張り出し架設工法(カンチレバー工法ともいう:Cantilever{{Sfn|藤原稔・久保田宗孝・菅谷洸・寺田博昌|1994|pp=170 - 171}})を用いた{{Sfn|鈴木裕二|1997|pp=71 - 73}}。側径間は橋桁4ブロックを工場であらかじめ一体化して大ブロックに仕立ててからフローティングクレーンで吊り上げてベント上に載せた{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=435 - 439}}。中央径間の場合、大ブロック上に直下吊りクレーンを設置のうえ、台船で曳航された橋桁単ブロックを直下吊りクレーンで持ち上げて大ブロックに継ぎ足し、これを両側から中心部に向かって繰り返して橋桁を伸長した{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|pp=5 - 7}}{{Sfn|鈴木裕二|1997|pp=71 - 73}}。 |
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| 4=中央大橋の側径間は航路のため長くなっており東大橋とは対照的である。昨今のクルーズ船は大型化の傾向にあり、客船によっては中央大橋をくぐることが出来ない。 |
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}} |
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橋桁の色は名港西大橋一期線竣工時は主塔と同じ赤が採用された{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=560 - 562}}。しかし、中央と東の完成を機に陸上区間の高架橋との統一感を考慮のうえ、青い空、海に連続した水平線を表現するために3橋とも白とされた{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=75}}。なお、陸上高架橋は、第二東名と伊勢湾岸道路が東海ICで接続するにあたって、第二東名と伊勢湾岸道路の塗り分け位置、桁の色彩検討が行なわれた{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=67}}。この結果、新宝ふ頭で桁は白色に変化してそのまま名港東大橋の橋桁に連結することになり、見た目の連続性が確保された{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=75}}。 |
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橋桁は桁高さを抑えて重量軽減を図り、ケーブルの定着性向上と耐風安定性の観点から両端にフェアリングを取り付けた薄型偏平六角形の箱型構造である{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=10}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=45}}。その両端には飛行機の[[高揚力装置|フラップ]]にも似た形の抑流板を取り付けたが{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=103}}(二期線完成を機に撤去{{Sfn|佐久間智・渡部恒雄・山田三郎|1998|p=11}})、いずれも風洞実験の結果をフィードバックしたもので、[[伊勢湾台風]]以上の暴風に対処できる構造とされた<ref name="中日19980329"/>。橋梁部と両端の取り付け高架部の主桁の断面形状は大きくことなることから、見栄え向上のために橋梁部主桁端部にもフェアリングを据付けた{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=105}}。 |
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{{double image aside|right|ISHIKARI 20170625A.jpg|232|Meiko Triton20190110A.jpg|220|画像左:西大橋建設時点では最もマストの高い客船は「いしかり」と想定されたが、後年になってそれを上回る客船が名古屋港に寄港することになった。画像は「いしかり」と金城ふ頭に接岸する「ダイヤモンドプリンセス」。画像右:名港西大橋をくぐり抜ける太平洋フェリー「[[きそ (フェリー・2代)|きそ]]」。}} |
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なお、東大橋の場合、航路確保という大前提から中央径間(2つの主塔の間)が長く、潮見ふ頭側に名港潮見ICが近接する関係上、中央径間に比べ側径間(主塔からふ頭側)が極端に短いアンバランスな橋となった{{Sfn|鈴木裕二 |1997|p=72}}。これによる負反力発生が懸念されたことから、当径間の橋桁上におもり(カウンターウエイト)として[[鉄筋コンクリート|RC]]を打設し、負反力を軽減している{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=10}}。一方で、中央大橋は航路が側径間にも設定されていることで大径間となり、ケーブルのたわみ対策に万全を期している{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|pp=23-24}}。 |
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3橋の中で橋桁が最も高いのが中央大橋で、直下の航路空間を47 m確保、次いで東大橋の40 m、西大橋の38 mである{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|pp=24 - 25}}。ただし、日本道路公団と名古屋港管理組合が協議のうえ[[第四管区海上保安本部|名古屋海上保安部]]に提出した桁下空間はこれとは異なり、名港中央大橋は55 m、名港東大橋は41 m、名港西大橋は39 mとなっている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=16}}。これと連動して中央大橋の路面高さが最も高くなっている。設計当初は当時考えられる限りの大型船の通行を考慮して桁高さを決定し、西大橋の場合はカーフェリーの「[[いしかり (フェリー・初代)|いしかり]]」(マスト高36 m)が対象とされた{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=31}}。また、中央大橋の場合は、[[航海練習船]]「[[日本丸 (初代)|日本丸]]」と「[[海王丸 (初代)|海王丸]]」の高さを基準としたことから、海上から橋桁までの空間が概ね50 mで計画された{{Sfn|伊藤順夫|1977|pp=82 - 83}}。しかしながら、後年になってより巨大な[[クルーズ客船|クルーズ船]]が名古屋港に寄港することになった。[[ダイヤモンドプリンセス (客船)|ダイヤモンドプリンセス]]のほか、[[クァンタム・オブ・ザ・シーズ]]や[[ボイジャー・オブ・ザ・シーズ]]が寄港した際は、名港中央大橋の許容高さ51 m(桁下空間は55 mだが、余裕を4 m以上保持する決まりから51 m{{Sfn|名古屋港管理組合議会事務局議事課|2013|p=53}})を超過することから客船用のガーデンふ頭<ref name="中日20150430夕">{{Cite news |title=「洋上の街」名港に再び |newspaper=中日新聞夕刊|date=2015-04-30|page=10}}</ref>に接岸することが叶わず、貨物船用の金城ふ頭に接岸している<ref name="朝日20161208">{{Cite news |title=クルーズ船誘致、前途は荒波 外国から名古屋港、昨年わずか4回 |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=2016-12-08|page=23}}</ref><ref name="中日20140217">{{Cite news |title=名港に4月25日豪華客船が寄港 記念クルーズ参加を |newspaper=中日新聞朝刊|date=2014-02-17|page=14}}</ref><ref name="中日20160118">{{Cite news |title=なごやみち 2本目 名港トリトン モノづくり支える |newspaper=中日新聞朝刊|date=2016-01-18|page=12}}</ref>。なお、外国客船が寄港することによる地域への経済効果は4000万円ともされ、名古屋港としてもその恩恵に与ろうと誘致に力を入れているが、いかんせん中央大橋をくぐれないことから金城ふ頭受け入れとならざるを得ず、入国態勢が貧弱なこともあって他港に出し抜かれているのが現状である<ref name="朝日20150618夕">{{Cite news |title=外国船も来てちょ 名港、貨物量は全国1位だけど |newspaper=朝日新聞(名古屋)夕刊|date=2015-06-18|page=1}}</ref>。 |
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橋桁には桁に吊り下がるようにして検査車が設置されている。主桁外面の点検、塗装作業のためで、これにより修理の際は困難な足場を組むことなく作業できる。特に大規模橋梁の大敵は微細なさびであることから、発見次第適切な処置を施している<ref name="michi No.123 P12-13">『みち』No.123、平成13年7月(季刊)、日本道路公団、12-13頁(愛知県図書館蔵)</ref>。検査車は前後の径間に1台、中央部に1台で、一つの橋に対して3台付属し、各径間を分速8 mで移動できる<ref name="michi No.123 P12-13"/>。動力はディーゼルエンジンで、躯体は防錆、軽量化の観点からアルミ合金製である{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=388}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=106}}。また、景観性を考慮して塗色は橋桁と同一として、下面には化粧板を取り付けている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=233}}。 |
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橋桁およびタワー、基礎([[ケーソン]])の鋼材は大規模であることから陸上輸送が不可能であることに加え{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=401}}、輸送コストの面から海上輸送を基本とした{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=10}}。このため、名古屋港と航路で輸送可能な鉄工企業が選定され、[[三重県]][[津市]]の日本鋼管(現・[[JFEエンジニアリング]])をはじめ、[[日本車両製造]]衣浦工場、石川島播磨重工業(現・[[IHI]])愛知工場など近在の企業のほか{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=333}}<ref name="中日19940614">{{Cite news |title=「名港東大橋」の東主塔 青色鮮やか そびえ立つ 東海市寄り海上 高さ130メートル 西側は19日架設|newspaper=中日新聞朝刊|date=1994-06-14|page=17}}</ref>、[[横浜市]]や遠くは[[北九州市]]{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=10}}、[[愛媛県]][[伊予市]]で製作されたものが名古屋港まで曳航された{{Sfn|横山正則・鈴木裕二・馬場敦美|1992|p=42}}。 |
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橋脚と主塔の上に位置する橋桁は、後述する弾性拘束ケーブルのほか、[[支承]]と連結するための接合部がある。橋端部は大きな負反力(この場合は上に向かう力)が生じ、かつ橋軸方向の移動も考慮して、アイバー形式のペンデル支承を用いている{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=241 - 244}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|pp=116 - 117}}。ただし、橋軸直角方向(橋軸方向は車の進行方向、対する橋軸直角方向は橋軸に対して90度直角の方向)には抵抗できないため、水平支承を左右に配置した{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=241 - 244}}。一方、主塔部には中間支承を各2個ずつ配置して、いずれも橋軸方向のみ可働とした{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=241 - 244}}。 |
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3橋の中で橋桁が最も高いのが中央大橋で、直下の航路空間を47 m確保、次いで東大橋の40 m、西大橋の38 mである{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|pp=24 - 25}}。これと連動して中央大橋の路面高さが最も高くなっている。設計当初は当時考えられる限りの大型船の通行を考慮して桁高さを決定し、西大橋の場合はカーフェリーの「いしかり」(マスト高36 m)が対象とされた{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=31}}。しかしながら、後年になってより巨大な[[クルーズ客船|クルーズ船]]が名古屋港に寄港することになった。[[ダイヤモンドプリンセス (客船)|ダイヤモンドプリンセス]]のほか、[[クァンタム・オブ・ザ・シーズ]]や[[ボイジャー・オブ・ザ・シーズ]]が寄港した際は、名港中央大橋の許容高さ51 m(桁下空間は55 mだが、余裕を4 m以上保持する決まりから51 m{{Sfn|名古屋港管理組合議会事務局議事課|2013|p=53}})を超過することから客船用のガーデンふ頭<ref name="中日20150430夕">{{Cite news |title=「洋上の街」名港に再び |newspaper=中日新聞夕刊|date=2015—04-30|page=10}}</ref>に接岸することが叶わず、貨物船用の金城ふ頭に接岸している<ref name="朝日20161208">{{Cite news |title=クルーズ船誘致、前途は荒波 外国から名古屋港、昨年わずか4回 |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=2016-12-08|page=23}}</ref><ref name="中日20140217">{{Cite news |title=名港に4月25日豪華客船が寄港 記念クルーズ参加を |newspaper=中日新聞朝刊|date=2014—02-17|page=14}}</ref><ref name="中日20160118">{{Cite news |title=なごやみち 2本目 名港トリトン モノづくり支える |newspaper=中日新聞朝刊|date=2016-01-18|page=12}}</ref>。なお、外国客船が寄港することによる地域への経済効果は4000万円ともされ、名古屋港としてもその恩恵に与ろうと誘致に力を入れているが、いかんせん中央大橋をくぐれないことから金城ふ頭受け入れとならざるを得ず、入国態勢が貧弱なこともあって他港に出し抜かれているのが現状である<ref name="朝日20150618夕">{{Cite news |title=外国船も来てちょ 名港、貨物量は全国1位だけど |newspaper=朝日新聞(名古屋)夕刊|date=2015-06-18|page=1}}</ref>。 |
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橋桁の上には[[アスファルト]]を舗装しているが、これを2層として表層は[[透水性舗装|排水性舗装]]、下層(すなわち鋼床板上)は空げき率がほとんどなく防水性に優れたグースアスファルトを舗装した。これにより排水性舗装に浸透する水をグースアスファルトで遮断することで鋼床板の腐食を防いでいる{{Sfn|日経BP社|1998|p=101}}。 |
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橋桁には桁に吊り下がるようにして検査車が設置されている。主桁外面の点検、塗装作業のためで、前後の径間に1台、中央部に1台で、一つの橋に対して3台付属し、各径間を移動できる。動力はディーゼルエンジンで、躯体は防錆、軽量化の観点からアルミ合金製である{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=388}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=106}}。 |
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| footer = |
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| align = left |
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| width = 220 |
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| image1 = Meiko East Bridge 20170917A.jpg |
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| caption1 = 橋桁は薄型偏平六角形として耐風安定性、ケーブルの定着性に配慮{{Sfn| |
| caption1 = 橋桁は薄型偏平六角形として耐風安定性、ケーブルの定着性に配慮{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=4}}。橋桁に吊り下げてあるのは検査車。 |
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| image2 = Meiko West Bridge 20170617A.jpg |
| image2 = Meiko West Bridge 20170617A.jpg |
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| caption2 = 橋桁と主ケーブルとの連結は橋桁外側腹板に定着鋼管を割り込ませる方式であ |
| caption2 = 橋桁と主ケーブルとの連結は橋桁外側腹板に定着鋼管を割り込ませる方式である。 |
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| image3 = Meiko Central Bridge 20170604B.jpg |
| image3 = Meiko Central Bridge 20170604B.jpg |
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| caption3 = 3橋の中で名港中央大橋の桁高さが最も高いため、中央大橋からは他の2橋を見下ろすように映る。 |
| caption3 = 3橋の中で名港中央大橋の桁高さが最も高いため、中央大橋からは他の2橋を見下ろすように映る。 |
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| image4 = |
| image4 = Meiko East Bridge20190120A.jpg |
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| caption4 = 陸上高架橋と斜張橋の橋桁が白で統一され、見た目の連続性が確保されている。 |
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| caption4 = 西大橋建設時点では最もマストの高い船は「いしかり」と想定されたが、後年になってそれを上回る船舶が名古屋港に寄港することになった。画像は「いしかり」と金城ふ頭に接岸する「ダイヤモンドプリンセス」。 |
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}}{{-}} |
}}{{-}} |
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=== ケーブル === |
=== ケーブル === |
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{{double image aside|right|Meiko East Bridge 20171112E.jpg|230|Meiko Central Bridge 20170625A.jpg|230|東大橋と西大橋のケーブルは黒だが中央大橋はライトアップ効果をはかるため白のフッ素樹脂被膜で覆われている。}} |
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3橋とも[[斜張橋#構造|ファン型]](fan:[[扇子]]の意味{{Sfn|中井博・北田俊行|1992|p=525}})で張られたマルチ(多数段{{Sfn|長井正嗣・井澤衛・中村宏|1997|pp=27 - 28}})ケーブル方式を採用した{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|p=23}}。少数段(例:[[w:Erskine Bridge|Erskine橋]])に比べ、一本あたりのケーブル張力が少なくて済み、橋桁などへの連結もコンパクト化できること、および張り出し架設時にケーブルを利用できるメリットがある{{Sfn|長井正嗣・井澤衛・中村宏|1997|pp=27 - 28}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=393}}。西大橋一期線で採用されたマルチケーブル方式は、その有用性から中央、東大橋でも採用され、他の橋でも積極採用されている{{Sfn|長井正嗣・井澤衛・中村宏|1997|pp=27 - 28}}。 |
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西大橋の場合、直径5 mmの鋼線に防錆のために亜鉛めっきを施したものをポリエステル焼付(樹脂被覆)のうえ、用途に合わせて163 - 379本に収束して7種類のケーブルを製作し、これをポリエチレン管で覆った。そして、主塔と主桁をケーブルで緊張する際に防錆のためのセメントミルクを充填している{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=222}}。ケーブル段数は当初、片側11本と6本の場合とが比較され、6本の場合、ケーブルの断面積が大きくなり、主桁との定着(連結)が不利となるため11本(本採用は12本)とされた{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=37}}。このため、片側12本ずつの2面吊り(一つの橋で96本)で主桁を吊り上げている{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}。なお、東大橋も同本数であるが{{Sfn|鈴木裕二 |1997|p=69}}、直径は7 mmでノングラウト(セメントミルクなし)とされた{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=5}}。ケーブルは[[斜張橋#構造|ファン型]]で張られている{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=165}}。計画段階ではハープ型も検討されたが、たわみ剛性が大きく取れるなど{{Sfn|古郷誠 |1992|p=32}}力学的観点から現行方式とされた{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=36}}。 |
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ケーブルは名港西大橋一期線を除き、NEW-PWS(名港東大橋はHiAm)で、直径7[[ミリメートル]] (mm)の鋼線を平行(わずかなねじりを加えているが、これはリールへの巻き付けを容易化するためである{{Sfn|長井正嗣・井澤衛・中村宏|1997|p=26}})に配置して1つのストランド(束)としている{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=59}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=194}}。 |
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中央大橋の場合、主塔から伸びるケーブルは17本ずつで重さ2万トン以上の橋桁を支えている<ref name="中日19980329"/>。直径7 mmの亜鉛めっき鋼線を397本から199本の間で束ねて(都合10種類製作)、最も太い場合で直径17 cmの一本のケーブルとしてまとめている{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=56}}。ケーブルは樹脂で被覆して塩害対策を施し、寿命を100年と想定している<ref name="中日19980329"/>。また、中央大橋だけはライトアップ効果を図るため、ケーブルを主塔と同色の白いフッ素樹脂被膜で覆っている{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=69}}。残る2橋は塔の色が映える黒を基調とした{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|p=31}}。 |
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中央大橋の場合、主塔から伸びるケーブルは17本ずつで重さ2万トン以上の橋桁を支えている<ref name="中日19980329"/>。直径7 mmの亜鉛めっき鋼線を397本から199本の間で束ねて(都合10種類製作)、最も太い場合で直径17[[センチメートル]] (cm)の一本のケーブルとしてまとめた{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=56}}。ケーブル1本に働く張力は最大で810トンである{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=9}}。ケーブルは樹脂で被覆して塩害対策を施し、寿命を100年と想定している<ref name="中日19980329"/>。また、中央大橋だけはライトアップ効果を図るため、ケーブルを主塔と同色の白いフッ素樹脂被膜で覆っている{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=69}}。残る2橋は塔の色が映える黒を基調とした{{Sfn|鈴木裕二・橋本昌郎|1998|p=31}}。 |
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=== その他設備 === |
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[[航空法]]に基づいて[[航空障害灯]]を設置している{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=599 - 602}}。これは地表(水面)から60 m以上の高さの施設について設置が義務付けられているためである{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=599 - 602}}。<!--昼間はカメラのフラッシュのように白く閃く高光度航空標識灯を、夜間は赤色で明滅する中光度航空障害灯、低位置には赤色不動光(点きっぱなし)の低光度航空障害灯を灯している{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=599 - 602}}。 2017年現在では赤色灯の点灯はなく、昼夜を問わずフラッシュタイプとなっています。よって出典はあるもののコメントアウトとします--> |
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ケーブルによって橋桁は安定性が保たれるが、ケーブルがひとたび振動を起こすと橋全体が危険な状態に置かれる。ケーブルが振動を起こす要因の一つに雨が挙げられる{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=134}}。雨がケーブルを伝う際に水みちが発生し、これに特定の速度帯の風が吹くとケーブルが大きく揺れるが、これをレインバイブレーションと呼ぶ{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=134}}。名港トリトンのケーブルにはこのレインバイブレーションを抑えるゴムないしダンパーが取り付けられている{{Sfn|日経BP社|1998|p=103}}。 |
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港を横断することから航行船舶の安全確保のために[[航路標識|航路標識灯]]を設置している。中心灯、側端灯、橋脚灯として[[海上保安庁]]規定に基づいた器具を各々設置している{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=602 - 603}}。 |
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=== 耐震システム === |
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道路照明はポール照明である{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=599 }}。また、名古屋港のイメージアップのために夜間はライティングを実施しているが、これについては後述する。 |
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{{double image aside|right|Meiko West Bridge 20180318D.jpg|230|Meiko West Bridge 20180310D.jpg|231|改良された西大橋一期線。予想される東海、東南海地震に備えるべく免振支承とダンパーおよびアップリフト防止ケーブルを新たに取り付けている。}} |
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3大橋でとりわけ特徴的なシステムが橋軸方向に対する主塔と橋桁の固定システムである。地震が発生した場合、水平に働く力が橋桁に大きく作用することで主塔に悪影響を及ぼすことから{{Sfn|村里正彦・井ヶ瀬良則|1990|pp=6 - 7}}、水平力を低減するシステムとして採用されている。ただし、橋桁は金属製であるがゆえに温度によって伸縮することから(鉄道の[[軌条|レール]]が夏の暑さで伸びて曲がることと原理は同様)、仮に橋桁と主塔をピンで固定してしまうと、伸縮によって主塔に曲がる力が作用する。これが結果的に下部工に負担を及ぼすことでケーソン底面の地盤が影響を受けて沈下することが懸念された{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=41 - 43}}。特に西大橋付近は軟弱地盤で、主塔形状も軽量化の意図でA形とされていることは既述している。 |
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そこで地震および温度変化における水平力を緩和するために開発されたのが「弾性拘束ケーブル(略称はMCD、Meiko-Cable-Damper System)」である{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=233 - 241}}。弾性拘束ケーブルとは主塔と橋桁にケーブルを固定するための突起を設け、これを張力をかけたケーブル2本で連結することで、ケーブルの[[降伏 (物理)|降伏]]伸びをダンパーとして利用したものである。これによって主塔に作用する力は2点ピン固定比で4割減少するとしている{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=233 - 241}}。MCDは橋桁内部のシステムのため、普段は目にすることはない。本システムは橋の固有周期を地震による卓越周期から離して[[長周期地震動]]を低減できることが大きなメリットであり{{Sfn|長井正嗣・井澤衛・中村宏|1997|p=187}}、西大橋一期線で初採用されて以後、中央大橋や東大橋でも採用されている{{Sfn|鈴木裕二|1997|p=59}}{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|pp=4 - 5}}。 |
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橋桁両端は遮音壁等、視界を遮るものはなく、名古屋の街と港を一望することが可能であるが<ref name="中日19980329"/>、名港東大橋の東側途中からは壁に囲まれ、視界は効かない。理由は、付近の新宝ふ頭に敷設されている化学工場から東海市を通して日本道路公団に要請があったためで、自動車通過時に眼下の工場を見下ろすことによる企業秘密の漏洩を避けるためである<ref name="中日19980506夕">{{Cite news |title=橋ものがたり 名港トリトン 天を突く巨大ハープ |newspaper=中日新聞朝刊|date=1998-05-06|page=1}}</ref>。さらに、南側には[[トヨタ自動車]]の海外への自動車積出基地(モータープール)があり{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=328 - 329}}、高架から空き缶等の落下物があった場合に新車に傷が付くことが懸念されたことで、道路両脇が壁で目隠しされることになった<ref name="中日19980506夕"/>。 |
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当時の最高水準の水平力低減システムとして開発されたMCDも、今後想定される[[東海地震|東海]]・[[東南海地震]]が発生した場合、MCD自体が損傷することが後に明らかとなり、耐震性を高める必要もあって2016年(平成28年)以後、MCDの耐震機能を廃止して、油圧ダンパー追加および従来から設置されている支承を免振タイプに交換、さらにペンデル支承の万一の破損に備えて橋桁の浮き上がりを防止するためのアップリフト防止ケーブルを取り付ける工事を施工し、西大橋一期線については2017年(平成29年)8月に完工した{{Sfn|呉菲・野竹壮一郎・古田俊彦 |2018|p=97}}。ただし、主桁に作用している圧縮力のバランスを保つ名目でMCD自体は残した{{Sfn|安藤博文・山本大貴・細川浩一・畑中栄太|2018|p=45}}。 |
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橋上には「たばこ投げ捨て禁止」看板が設置されている。これは潮見ふ頭が石油製品基地であり{{Sfn|名古屋港管理組合|2013|p=21}}、なかでも名港トリトンの道路直下に油槽所があることから火災防止のための措置である<ref name="中日19980329"/>。なお、潮見ふ頭はこうした事情から消防法によって火気の使用が厳しく禁じられている{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=9}}。 |
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=== その他設備 === |
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[[File:Meiko Central Bridge20190128A.jpg|thumb|250px|right|橋桁に設置された橋梁標群。各径間に左側端標(緑色の四角)、中央標(赤色の縦じま入りの円)(中央径間のみ)、右側端標(赤色の三角)を設置{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=69 - 70}}。]] |
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港を横断することから航行船舶の安全確保のために橋梁標および[[航路標識|航路標識灯]]を設置している。中心灯、側端灯、橋脚灯として[[海上保安庁]]規定に基づいた器具を各々設置している{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=69 - 70}}。また、防護柵の四隅にも橋脚基部表示灯を設置している{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=69 - 70}}。橋脚灯と橋脚基部表示灯は3秒に1閃光の単閃黄光で同期点滅し、実効光度52[[カンデラ]]、4[[海里]]まで光達する<ref>『官報』号外第110号、平成20年5月28日、海上保安庁告示第153号</ref>。なお、名港西大橋の橋梁標は2橋が向き合う側には無設置となっている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=69 - 70}}。 |
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[[航空法]]に基づいて[[航空障害灯]]を設置している{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=599 - 602}}。これは地表(水面)から60 m以上の高さの施設について設置が義務付けられているためである{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=599 - 602}}。なお、名港西大橋一期線が事業着手された1980年(昭和55年){{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=560}}に[[航空法]]施行規則の一部が改正され、[[昼間障害標識|昼間航空障害標識]]としての高光度航空障害灯(カメラのフラッシュのように白く閃く灯具)を設置した場合は施行規則に基づく塗装(黄赤と白のコンビネーション)の対象外とされたことで、主塔の色を自由に選べることになった{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=560}}。もし改正されていなければ、主塔は[[電線路|送電線]]の[[鉄塔]]のような黄赤と白に塗装されるところであった([[東京タワー]]の塗装がその代表例)。 |
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| align = left |
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| width = 220 |
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| image1 = Meiko West Bridge 20171008B.jpg |
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| caption1 = 橋桁に設置された橋梁灯で橋梁標とセットになる(消灯時)。 |
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| caption1 = 名港東大橋の東側は壁で目隠しされ景色が見えない。化学工場からの要請と新車の傷防止の観点からである。 |
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| image2 = |
| image2 = Meiko West bridge 20180318B.jpg |
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| caption2 = 点灯された橋梁灯。 |
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| caption2 = 伊勢湾岸道路に近接する化学工場(新宝ふ頭) |
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| image3 = |
| image3 = Meiko East Bridge 20180318B.jpg |
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| caption3 = |
| caption3 = 橋脚灯(左)と橋脚基部表示灯(右)。 |
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| image4 = Meiko West Bridge 20180318C.jpg |
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| caption4 = 夜間点灯中の橋脚灯と橋脚基部表示灯(名港西大橋)。 |
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| image5 = Meiko East Bridge 20180318A.jpg |
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| caption5 = 名港東大橋の塔頂および塔柱に設置された白色航空障害灯。 |
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== ライトアップ == |
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[[File: Meiko Central Bridge 20170704A.jpg|thumb|250px|right|中央大橋の夏のライティング。テーマカラーはブルー。]] |
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3橋は夜間の一部時間帯にライトアップを実施している。この内、中央大橋のみ季節ごとにライティングカラーを変えるため、848個の水銀灯を取り付けている<ref name="朝日19961218">{{Cite news |title=4色の彩り、主塔に点灯 名古屋港の中央大橋 |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1996-12-18|page=25}}</ref>。中央大橋は各ケーブル毎にライトを用意し、白のケーブルに沿った投光パターンにより斜張橋特有の構造美を表現する{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=66}}。一方、西大橋と東大橋はケーブルは照射しない代わりに主塔と主桁に投光することで、中央大橋とは別の構造的表現を行なっている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=66}}。灯具にはルーバーを設け、通行車両に対する[[グレア]]防止を図った{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=172}}。 |
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ライティングのテーマカラーは、春がグリーン(若葉のイメージ)、夏がブルー(海と空のイメージ)、秋がグリーンイエロー(紅葉のイメージ)、冬がレッド(暖炉のイメージ)である{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=66}}。点灯時間は、当初から日没に合わせて開始時間を変えており<ref name="朝日19980331">{{Cite news |title=春宵に浮かぶ、名港トリトン |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1998-03-31|page=29}}</ref>、現在も月によって18時から22時と19時から22時の2通りで点灯されている<ref name="ライティング">{{Cite web|和書|url=http://www.port-of-nagoya.jp/triton/index.html|title=名港トリトンのライトアップ |publisher=名古屋港管理組合|accessdate=2017-06-20|language=日本語}}</ref>。また、クリスマスや年末年始、ゴールデンウィークには特別点灯が実施される<ref name="ライティング"/>。 |
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ライトアップは基本的に地元負担とされ{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=18}}、ライティング用機材6億円は[[名古屋港管理組合]]が負担し、電気代も同組合が負担している<ref name="中日19950316">{{Cite news |title=名港三大橋をライトアップ 管理組合 建設費6億円計上|newspaper=中日新聞朝刊|date=1995-03-16|page=14}}</ref>{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=344}}。日本道路公団(現、NEXCO中日本)は高額な斜張橋の建設費が通行料金に跳ね返っていることからライティング費用の負担については消極的である<ref name="中日19941124"/>。また、ライトアップ効果向上用として白のフッ素樹脂皮膜に要した費用も名古屋港管理組合が負担している{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=19}}。ただし、名港西大橋一期線のライトアップ設備は公団設備のため、維持管理費用および電気代は公団持ちとなっている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=19}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=322}}。 |
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なお、ライトアップは1989年(平成元年)の [[世界デザイン博覧会]]開催中に名古屋港のイメージアップを狙って、7月14日から11月26日までの日没から22時の間で西大橋を点灯したのがその起源である<ref name="中日19890713">{{Cite news |title=名港西大橋キラリ ライトアップ試験点灯 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1989-07-13|page=30}}</ref>。その後、1991年(平成3年)の年末から翌年の年始の期間でライトアップを再開している<ref name="朝日19911221">{{Cite news |title=イブの名所になるかナ…?名港西大橋ライトアップ |newspaper=中日新聞朝刊|date=1991-12-21|page=25}}</ref>。 |
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== 広告 == |
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{{double image aside|right|Port house 20180318A.jpg|220|Meiko Triton 20180329A.jpg|221|画像左:ガーデンふ頭に敷設された無料休憩施設「ポートハウス」。この場で名港3大橋の愛称発表会が催され、名古屋少年少女合唱団の歌声に乗せて「名港トリトン」の名を発表した<ref name="michi No.108"/>。<br>画像右:一般公募で選ばれた名港トリトンの愛称は道路上に設置する標識や事業パンフレットに活用されている{{Sfn|山田隆昭 |1998|p=63}}。}} |
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日本道路公団は伊勢湾岸道路建設に当たり、一般人に道路を啓蒙することを目的として[[コーポレートアイデンティティ]](CI)活動を行なった。ネーミングを「夢渡り21」として、シンボルマークは、伊勢湾岸道路の3つの大橋、道路が第二東名・名神、名古屋環状2号線、東海環状自動車道の3つの路線の一部となること、公団と建設会社および地域住民の三者の協調理解、21世紀への夢の橋渡し、の4テーマを元に決定した{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=14}}。また、建設事業のイメージアップのため、金城ふ頭三丁目に「JH夢渡り館」なる事業紹介施設をオープンさせた{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=8-9}}。 |
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名港3大橋のシンボルネームを募集するにあたり、1997年(平成9年)3月14日に記者発表を行なった{{Sfn|山田隆昭|1998|pp=60 - 63}}。3月15日から5月8日まで愛称募集が行なわれ{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=477}}、47都道府県全てから応募がなされた{{Sfn|山田隆昭|1998|pp=60 - 63}}。なお、応募県上位は1位愛知県、2位東京都、3位三重県であった。最終的に20004通(13059作品)の応募がなされ{{Sfn|山田隆昭|1998|pp=60 - 63}}、愛称選考委員会による6月27日の最終選考を経て、7月20日の名古屋港ガーデンふ頭ポートハウス<ref name="michi No.108">『みち』No.108、1997年10月(季刊)、日本道路公団、34-35頁(愛知県図書館蔵)</ref>にて岐阜県出身の塾講師が考案した「名港トリトン」を発表した<ref name="中日19970721"/>{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=226}}。選考委員は、愛知芸術文化センター館長(選考委員会委員長)をはじめ、大学助教授、作家、俳人、新聞社編集局長などで構成した{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=226}}。愛称は道路標識のほか、パンフレットなど広告に広く使用した{{Sfn|山田隆昭 |1998|p=63}}。 |
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1998年(平成10年)3月30日の開通を前に、事前案内リーフレットおよびポスターが作成され、イメージキャラクターとして[[佐藤藍子]]を起用した{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=227}}。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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[[File:Nagoya Ring Route No.2 20160818A.png|350px|thumb|right|名港トリトンを含む東海 - 飛島間は名古屋環状2号線の一部として構想された。のちに飽和状態の国道23号(名四 |
[[File:Nagoya Ring Route No.2 20160818A.png|350px|thumb|right|名港トリトンを含む東海 - 飛島間は名古屋環状2号線の一部として構想された。のちに飽和状態の国道23号(名四バイパス)の海側にバイパスを造り、東名高速豊田と東名阪四日市を連絡するために第2名四国道が構想され、名四東IC - 飛島間で環状道路と並行することとされた。並行区間はのちに統合され往復6車線となった。路線名やインター名は計画当時の名称。]] |
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名港トリトンとその取り付け道路(東海IC - 飛島IC間)は[[名古屋環状2号線]]の海上区間であり、あくまで環状道路の一部分として構想された<ref name="朝日19980304"/>。その起源は1964年で、1975年を目標年次とする長期港湾整備計画の策定に端を発している<ref name="中日19640517">{{Cite news |title=管理組合が長期整備計画を発表 10年後に大名古屋港 貨物は年間9500万トン 商港の中心に13号地 |newspaper=中部日本新聞朝刊|date=1964-05-17|page=1}}</ref>。計画では名古屋市を取り巻く名古屋環状2号線と名古屋港を連絡する名目で、南と西のふ頭間のほぼ中央を大橋で連絡する構想が初めて示され、そのルートはほぼ現在の名港トリトンと一致している<ref name="中日19640517"/>。この横断ルートは名古屋環状2号線のルートに組み込まれたが{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|p=488}}、1967年3月の名古屋環状2号線(一部)の都市計画決定にあたって陸上区間は現行ルートに決定されたものの、海上横断ルートについては路線計画が進んでいないために計画から除外された{{Sfn|名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会|1967|p=20}}。この時点では、海上区間は臨海工業地帯の適地を横断する、といった程度の構想に過ぎなかった{{Sfn|名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会|1967|p=23}}。 |
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=== 構想・計画 === |
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やがては並行する国道23号と国道1号の慢性的な渋滞を緩和する意図から、海上区間を東西に延ばして<ref name="中日19780905"/>、東側は東名高速豊田JCT、西側は東名阪自動車道四日市JCTまでつなげることで、名実ともに国道23号線のバイパス(第二名四国道)とすることになった{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300 - 301}}。この内、名古屋南JCT - 飛島IC間が環状道路と第二名四国道が重複し、当初は両道路を上下に並行して建設することとされ、環状道路が往復6車線、第二名四国道が往復4車線の合計10車線とされた{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300 - 301}}。しかしながら、名古屋港通過箇所は橋の規模が大きくなり、建設費が3千数百億円と事業化の見通しが得られないことに加えて、交通量の将来予測が見込みよりも減少することが明らかとなった。このため、1976年には両道路を統合して、シングルデッキの往復6車線に変更した{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300 - 301}}。この他にもトンネル構造から橋梁への変更、ゲルバートラス橋から斜張橋への変更を経て{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=3 - 5}}1979年8月に海上区間の都市計画が決定を見た(名古屋環状2号線全線の都市計画決定){{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。なお、この時点の海上区間は一般有料道路としての規格であったが、1989年に第二名四国道が高速道路([[新東名高速道路|新東名]]・[[新名神高速道路]])に昇格したことを受けて{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=340 - 341}}<ref name="中日19890201">{{Cite news |title=第2東名・名神を優先建設 基本計画に昇格 審議会決定 |newspaper=中日新聞朝刊 |date=1989-02-01|page=1}}</ref>、重複する国道302号東海IC - 飛島IC間も高速道路規格の構造に変更され、橋梁の横幅も拡大されるに至った。橋梁は当初は設計速度80km/h規格であったが{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=4}}、この変更を受けて100 km/hとされた<ref name="中日19910427">{{Cite news |title=名古屋高速1号 2.8キロをトンネル化 都市計画変更の知事案を発表 場所により幅員拡大 伊勢湾岸道路 |newspaper=中日新聞朝刊 |date=1991-04-27|page=18}}</ref>。 |
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名港トリトンとその取り付け道路(東海IC - 飛島IC間)は名古屋環状2号線の海上区間であり、あくまで環状道路の一部分として構想された<ref name="朝日19980304"/>。その起源は1964年(昭和39年)で、1975年(昭和50年)を目標年次とする長期港湾整備計画の策定に端を発している<ref name="中日19640517">{{Cite news |title=管理組合が長期整備計画を発表 10年後に大名古屋港 貨物は年間9500万トン 商港の中心に13号地 |newspaper=中部日本新聞朝刊|date=1964-05-17|page=1}}</ref>。計画では名古屋市を取り巻く名古屋環状2号線と名古屋港を連絡する名目で、南と西のふ頭間のほぼ中央を大橋で連絡する構想が初めて示され、そのルートはほぼ現在の名港トリトンと一致している<ref name="中日19640517"/>。この横断ルートは名古屋環状2号線のルートに組み込まれたが{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|p=488}}、1967年(昭和42年)3月の名古屋環状2号線(一部)の都市計画決定にあたって陸上区間は現行ルートに決定されたものの、海上横断ルートについては路線計画が進んでいないために計画から除外された{{Sfn|名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会|1967|p=20}}。この時点では、海上区間は臨海工業地帯の適地を横断する、といった程度の構想に過ぎなかった{{Sfn|名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会|1967|p=23}}。 |
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やがては並行する国道23号と国道1号の慢性的な渋滞を緩和する意図から、計画中の第2名四国道(飛島 - 三重県三重郡[[川越町]]間)を東海市まで延伸することになった{{sfn|伊藤順夫|1977|p=79}}。この内、東海IC - 飛島IC間が環状道路と第2名四国道が重複し、当初は両道路を上下に並行して環状道路が往復6車線、第2名四国道が往復4車線の合計10車線で計画された{{sfn|建設省 中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300-301}}。しかしながら、名古屋港通過箇所は橋の規模が大きくなり、建設費が3千数百億円と事業化の見通しが得られないことに加えて、交通量の将来予測が見込みよりも減少することが明らかとなった。このため、1976年(昭和51年)には両道路を統合して、シングルデッキの往復6車線に変更した{{sfn|建設省 中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300-301}}。これと併せて第二名四国道は東は豊田市まで、西は四日市市まで延長された{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1980|p=282}}。 |
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[[File:Meiko West Bridge 20170617G.jpg|thumb|250px|left|名港西大橋は当初は右側の橋のみ建設された。1998年3月までは西大橋のみの開通のため、時間短縮効果のメリットはなく、港湾物流関係者にとっては無用の長物であった<ref name="中日19860429"/>。]] |
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1985年3月20日、3橋の先陣を切って名港西大橋(北側・現在の上り線)が暫定往復2車線にて、有料道路「名港西大橋」(路線名は一般国道302号)として供用開始された{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}。この時は金城ふ頭側に料金所が設置された<ref name="中日19850320夕">{{Cite news |title=輸入博 舞台は出来た 名港西大橋 待望の開通 世界最長の斜張橋 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1985-03-20|page=1}}</ref>。なお、その翌日より金城ふ頭で開催された「輸入博」(ワールド・インポート・フェア・ナゴヤ)は西大橋開通に合わせたイベントとして企画された<ref name="中日19850320夕"/>。開通当初の西大橋の利用台数は1日平均1,700台で、事業主体の日本道路公団の当初予測たる8,900台を大幅に下回った(ただし通行量は年々1割程度の上昇を見せた<ref name="朝日19930528"/>)<ref name="中日19860429">{{Cite news |title=新動脈への期待 伊勢湾岸道路 上 点から線へ 全線整備への第一歩 採算ワーストワン |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-04-29|page=1}}</ref>。事業費185億円{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=8}}に対して全くの赤字経営で、[[会計検査院]]による調査が入るなど、投資対効果の点で疑問が付された<ref name="中日19860429"/>。地元経済界の強い要請で先行建設された割には、蓋を開けてみれば、西大橋の主要な収入源と目論んでいた港湾物流業界から全く見放された格好であった。開通当初の西大橋の通行料金は西二区(現・木場金岡ふ頭) - 金城ふ頭間3.2 kmの通行で片道1,400円([[特定大型車]])であったが、そもそも高額な通行料金を支払ってまで利用する大きな理由は、行きたい場所に短時間でアクセスできるからである。ひるがえって当時の西大橋は、それ自体で道路が完結しているため、四日市方面や北陸、静岡方面にアクセスするには、西大橋を渡ってから国道23号や国道1号に出なければならなず、広域アクセスする業務交通にとって西大橋を利用した場合の時間距離短縮効果は皆無に等しかった<ref name="中日19860429"/>。それならば、わざわざ西大橋を使わずとも最初から国道23号および国道1号を使った方が経費節約となるため、西大橋は港湾業界から全く見向きもされない状況に陥ることになった<ref name="中日19860429"/>。当時の西大橋は行楽客主体の利用で、伊勢湾に沈む夕日を見るための隠れたスポットであって、増収に結びつかないこれらの利用方法は公団関係者にとって頭痛の種であった<ref name="中日19860429"/>。なお、この状況を打開するべく、公団は港湾物流の利用促進を狙って業界に回数券を売り込んだが、冷たくあしらわれるだけだった<ref name="中日19860429"/>。 |
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豊田 - 四日市間を連絡することで、国道23号の混雑解消のほかに東名高速と東名阪自動車道を結ぶ新たな動脈として期待がかかる第2名四国道(以下、伊勢湾岸道路と記述)だが、全線着工するには莫大な費用を要し、名古屋港横断区間の橋梁建設に長い期間を要することから、特に地元要望が強く、緊急性が高い金城ふ頭 - 西2区間の着工が望ましいとされた{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1980|p=286}}<ref name="中日19780905">{{Cite news |title=第2名四 架橋方式が適当 中部地建の来年度予算要求 調査費は三倍に まず金城ふ頭-西二区間 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1973-09-05|page=3}}</ref>。建設に当たっては当面、西大橋のみの短区間営業となることから、予想通行台数は約1万台にとどまるとの予想を受けて半分の幅員で先行開業することとされた<ref name="中日19781223夕刊"/>。このため、西大橋の建設を第一期と第二期に分けることになり{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=4}}、第一期として北側(現・上り線)の橋のみが建設されることになった<ref name="中日19871121"/>。 |
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西大橋の低調さをさらに印象付ける出来事として、通行量が少ないことをいいことに<ref name="朝日19920218夕"/>、港の夜景を眺めるためにカップルが大挙して西大橋に押し寄せ、路肩に駐車のうえ、週末にはその列が1kmに及ぶこともあった<ref name="朝日19930528"/><ref name="朝日19920709">{{Cite news |title=名港西大橋 夜景見物の困った名所(えんぴつ最前線) |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1992-07-09|page=25}}</ref>。当時は往復2車線で中央分離帯もなかったことから、料金所の無い飛島側から西大橋に入り、夜景をみてからUターンして料金を払わずに退出する者が続出した<ref name="朝日19920709"/>。カップルが去った後には多数の落書きとごみが残され、職員がそれを片付けるのが仕事の一つであった<ref name="朝日19920709"/>。その翌年には退散を促すスピーカーを設置しているが、これは付近に民家が無いことを逆手に取った対策であった<ref name="朝日19930528">{{Cite news |title=スピーカーで夜景目当ての違法駐車を一掃 名港西大橋 |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1993-05-28|page=27}}</ref>。 |
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建設のための調査、予算請求手続きが進行する中で、港湾計画および都市計画が未決定のため<ref name="中日19781223夕刊"/>、名古屋港管理組合や自治体は架橋反対を唱える船舶関係者への説得や、建設省に海難事故防止のための種々の申し入れを行ない{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議 |1984|pp=489 - 490}}、1979年(昭和54年)3月に港湾計画に、同年8月に東海 - 飛島間の都市計画が決定した{{Sfn|建設省 中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300 - 301}}。これを受けて同年12月に建設大臣より名港西大橋の事業許可が下され{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=2}}、建設に着手した。 |
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名港トリトンはあくまでその前後を高速道路で直結のうえ、東名高速と東名阪自動車道を連絡してこそ、その真価を発揮できるのであって<ref name="中日19860429"/>、実際、1998年3月の3橋のグランドオープンおよび名古屋南IC - 東海IC間が供用開始した後も依然として赤字経営であった<ref name="朝日20000809">{{Cite news |title=一般有料道、26道路赤字 道路公団営業文を監察 |newspaper=朝日新聞朝刊|date=2000-08-09|page=2}}</ref>。しかし、1986年時点における逆風のさなかにあっても、建設省は3橋を境にして[[名古屋南インターチェンジ|名古屋南IC]]直結(すなわち国道23号に連結)で1日交通量約2万台、続く[[みえ川越インターチェンジ|みえ川越IC]]までの開通(同様に国道23号に連結)で約4万台、そして最終的に東名高速と東名阪自動車道の連結で約6万台と強気の予想通行量を算出した<ref name="中日19860501">{{Cite news |title=新動脈への期待 伊勢湾岸道路 民活の条件 採算性の裏付けを |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-05-01|page=5}}</ref>。結果として、3大橋のグランドオープンを含む名古屋南IC - 名港中央ICの開通以降は利用台数が大きく増加し始め、2003年のみえ川越IC連結による国道23号のバイパスルート完成によって25000台に増加{{Sfn|日本道路公団中部支社|1998|p=38}}、その後も増加傾向は続き、2013年には93000台を記録した。このことは、高速道路とは一定のネットワークを形成して初めてその真価を発揮することを示し{{Sfn|名古屋高速道路公社20年史編集委員会|1991|pp=100 - 101}}、その中間部分(名古屋港の横断部分)だけを構築してもほとんど意味を成さないことを名港トリトンの歴史は如実に示している。 |
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{{wide image|トリトン日平均交通量.png|1000px|1985年 - 1997年までのデータは名港西大橋の平均利用台数。<small>出典:『高速道路と自動車』公益財団法人高速道路調査会、vol.28 - vol.56までの毎年7月号「一般有料道路統計月報」</small>}} |
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=== 西大橋開通 === |
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名港西大橋が単体で開通していた頃の港湾物流業者の嘆きの一つに、港が世界と結ばれても国内各地とは結ばれていないということがあった<ref name="中部読売19880509">{{Cite news |title=新伊勢湾時代 夢ジェクト21 伸びる貨物量、交通渋滞でさばけず 名古屋港が死んでいる |newspaper=中部読売新聞朝刊|date=1988-05-09|page=}}</ref>。名古屋自体は各高速道路と結ばれているが、名古屋港と直結する高速道路は当時一本も存在しなかった。当時、勢いを増す名古屋港のコンテナ貨物も、それを国内各地に配送するための道路が常時渋滞する一般国道のみとあっては、国際貿易港の機能が著しく損なわれる状態におかれることになった<ref name="中部読売19880509"/>。名港トリトンが港を通り抜けて各高速道路と結ばれている今日、それは当時の港湾物流業者が十数年先のこととして頭に思い描いた未来の道路網そのものであった<ref name="中部読売19880509"/>。 |
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[[File:Meiko West Bridge 20170617E.jpg|500px|thumb|right|コンテナ基地と流通基地を控えて港湾交通需要が高いと見込まれることから名港西大橋を先行建設することになった。画像は西大橋とその背後の飛島ふ頭のコンテナ基地。同基地はシンガポール、東南アジア、北米との航路による輸出入のターミナルで{{Sfn|名古屋港管理組合|2013|pp=17 - 18}}、同基地で取り扱う貨物と国内各地の産業間の円滑な陸上輸送を期するためにも、名港西大橋の建設を優先することになった{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=3}}。]] |
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1985年(昭和60年)3月20日、3橋の先陣を切って名港西大橋(北側・現在の上り線)が暫定往復2車線にて、有料道路「名港西大橋」(路線名は一般国道302号)として供用開始した{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}。この時は金城ふ頭側に料金所が設置された<ref name="中日19850320夕">{{Cite news |title=輸入博 舞台は出来た 名港西大橋 待望の開通 世界最長の斜張橋 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1985-03-20|page=1}}</ref>。なお、その翌日より金城ふ頭で開催された「輸入博」(ワールド・インポート・フェア・ナゴヤ)は西大橋開通に合わせたイベントとして企画された<ref name="中日19850320夕"/>。開通当初の西大橋の利用台数は1日平均1,700台で、事業主体の日本道路公団の当初予測たる8,900台を大幅に下回った(ただし通行量は年々1割程度の上昇を見せた<ref name="朝日19930528"/>)<ref name="中日19860429">{{Cite news |title=新動脈への期待 伊勢湾岸道路 上 点から線へ 全線整備への第一歩 採算ワーストワン |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-04-29|page=1}}</ref>。事業費185億円{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=8}}に対して全くの赤字経営で、[[会計検査院]]による調査が入るなど、投資対効果の点で疑問が付された<ref name="中日19860429"/>。地元経済界の強い要請で先行建設された割には、蓋を開けてみれば、西大橋の主要な収入源と目論んでいた港湾物流業界から全く見放された格好であった。開通当初の西大橋の通行料金は西二区(現・木場金岡ふ頭) - 金城ふ頭間3.2 kmの通行で片道1,400円([[特定大型車]])であったが、そもそも高額な通行料金を支払ってまで利用する大きな理由は、行きたい場所に短時間でアクセスできるからである。ひるがえって当時の西大橋は、それ自体で道路が完結しているため、四日市方面や北陸、静岡方面にアクセスするには、西大橋を渡ってから国道23号や国道1号に出なければならず、広域アクセスする業務交通にとって西大橋を利用した場合の時間距離短縮効果は皆無に等しかった<ref name="中日19860429"/>。それならば、わざわざ西大橋を使わずとも最初から国道23号および国道1号を使った方が経費節約となるため、西大橋は港湾業界から全く見向きもされない状況に陥ることになった<ref name="中日19860429"/>。当時の西大橋は行楽客主体の利用で、伊勢湾に沈む夕日を見るための隠れたスポットであって、増収に結びつかないこれらの利用方法は公団関係者にとって頭痛の種であった<ref name="中日19860429"/>。なお、この状況を打開するべく、公団は港湾物流の利用促進を狙って業界に[[回数券]]を売り込んだが、冷たくあしらわれるだけだった<ref name="中日19860429"/>。 |
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西大橋の低調さをさらに印象付ける出来事として、通行量が少ないことをいいことに<ref name="朝日19920218夕"/>、港の夜景を眺めるためにカップルが大挙して西大橋に押し寄せ、路肩に駐車のうえ、週末にはその列が1 kmに及ぶこともあった<ref name="朝日19930528"/><ref name="朝日19920709">{{Cite news |title=名港西大橋 夜景見物の困った名所(えんぴつ最前線) |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1992-07-09|page=25}}</ref>。当時は往復2車線で中央分離帯もなかったことから、料金所の無い飛島側から西大橋に入り、夜景をみてからUターンして料金を払わずに退出する者が続出した<ref name="朝日19920709"/>。カップルが去った後には多数の落書きとごみが残され、職員がそれを片付けるのが仕事の一つであった<ref name="朝日19920709"/>。この頃、同じ問題で悩む[[横浜ベイブリッジ]]を公団職員が訪ねて対策を聞くも、監視カメラ導入やパトカーによる監視体制があっても一向に効果を上げ得ないとのことで、まるで打つ手がない状況であった<ref name="朝日19920709"/>。その後、一応の対策として退散を促すスピーカーを設置しているが、これは付近に民家が無いことを逆手に取った対策であった<ref name="朝日19930528">{{Cite news |title=スピーカーで夜景目当ての違法駐車を一掃 名港西大橋 |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1993-05-28|page=27}}</ref>。 |
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以上の如く、西大橋単独の開通では物流ルートとして全くといっていいほど機能しなかった<ref name="朝日19920709"/>。この状況を一刻も早く脱するためには残り2橋を含む豊田 - 四日市間の全線早期開通が望ましいことから、地元の要請を受けた国は建設に向けて重い腰を上げることになった<ref name="中日19860301">{{Cite news |title=伊勢湾岸道路 民活で 建設相、早期完成へ検討指示 国の無利子金投入 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-03-01|page=1}}</ref>。ただし、財政難であることから国は早期着工の条件として地元経済界にも応分の負担を求めることになった。 |
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=== 残る大橋の建設 === |
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通常であれば、公団が事業主体となる一般有料道路事業は、[[財政投融資]]([[郵便貯金]]などを財源とする資金)及び金融機関からの借金によって実施される{{Sfn|石川浩|1987|p=53}}。借金である以上は公団には毎年利息を払う義務が生じるが、公団の負担を減じるために税金を投入することで公団の利子負担を約6パーセント(この公団が負担する割合を資金コストと呼ぶ{{Sfn|NHK報道局「道路公団」取材班|2005|p=92}})に抑えている。今回は財政投融資金に代えて民間からの資金を導入してより公団の利子負担を減らそうというものである{{Sfn|石川浩|1987|p=53}}。具体的には、日本道路公団が発行する公団債(低利縁故債)を地元経済界が低利で引き受けるという内容で<ref name="中日19850730">{{Cite news |title=民間資金の活用を 名港中央、東大橋の建設 建設相提案 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1985-07-30|page=1}}</ref>、通常の金融機関向け縁故債と比較して、表面利率で0.1パーセント、発行価格で50銭低く設定されるなど、公団にとってはより低利な資金調達を可能としている{{Sfn|道路局有料道路課|1998|p=19}}<ref name="中日19860416">{{Cite news |title=中部財界が協力回答 伊勢湾岸道路の民活案 公団方式で |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-04-16|page=1}}</ref>。また、それでも不足する資金については地元協力を仰ぐことになり、インターチェンジ等の用地確保に要する交渉、資金は地元が一部協力することになった{{Sfn|石川浩|1987|p=53}}。 |
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以上の方策によって国の負担は2割低減することが見込まれ{{Sfn|石川浩|1987|p=54}}、こうした調整が実を結んで、残り2橋の建設も1986年(昭和61年)3月には政府[[自由民主党 (日本)|自民党]]によって決定した<ref name="中日19860323"/>。そして満を持して1987年(昭和62年)11月、従前に許可されていた有料道路「名港西大橋」の事業変更という形で、東海 - 金城ふ頭間が一般有料道路「伊勢湾岸道路」として事業許可され{{Sfn|道路局有料道路課|1998|pp=18-19}}、中央大橋の下部工が1989年(平成元年)12月に発注された{{Sfn|村里正彦・井ヶ瀬良則|1990|p=7}}。ただし、この時点では名港西大橋下り線(二期線)の事業許可を受けられる目処は立っておらず、半ば見切り発車的な工事スタートとなった{{Sfn|日経BP社|1998|pp=100-101}}。 |
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工事は6.1 kmの短い区間に3つの斜張橋が連続して建設されるという世界でも前例がない大工事となり、加えて名港中央大橋クラスの長大支間斜張橋も公団としては施工例が少ないこともあって手探り状態の設計、工事となった{{Sfn|日経BP社|1998|pp=100-101}}。なお、名港西大橋下り線(二期線)の事業許可が下りたのは1993年(平成5年)7月と非常に遅く、これが尾を引いて当初予定の1996年度開通を1年延期に至らせた{{Sfn|日経BP社|1998|pp=100-101}}。設計は軟弱地盤であることも手伝って事業化以前より橋種が猫の目のように変わり{{Sfn|山本邦夫・久賀英男・和田実|1974|p=37}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=2-3}}、特に中央大橋は事業許可が出る2年半前になってようやく現行の斜張橋方式に決定している{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。その後も設計変更や施工方法の見直しが相次いだうえに{{Sfn|日経BP社|1998|p=102}}、当初は豊田 - 四日市間の自動車専用道路であった伊勢湾岸道路が、第二東名、第二名神に取り込まれたことで{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=2}}、道路規格を高速自動車国道並に揃える必要が生じた。このため都市高速並みの低規格で設計された名港3大橋は規格アップされることになり{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=7}}、結果、始終何らかの設計変更がつきまとう斜張橋となった。 |
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施工に至っては海上高く架かる橋だけに1年を通して風が強く、夏の鋼床板上の作業は気温60度と厳しかった{{Sfn|日経BP社|1998|p=101}}。中央大橋は主塔に足場を組んで溶接しながらT.P. + 195 mまで建設したが、現場は異物が入らないように完全密閉のうえ溶接することもあって蒸し風呂状態であり、それも海上から100 m付近の高所作業である<ref name="朝日19940809">{{Cite news |title=巨大な積み木 名古屋港中央大橋主塔の建設進む |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1994-08-09|page=20}}</ref>。こうした劣悪な条件下で溶接接合によるひずみや寸法誤差を抑えて施工精度を確保しなければならなかった{{Sfn|日経BP社|1998|p=101}}。また、新宝ふ頭などは現場に隣接して自動車輸出基地があって、コンクリートから出る水や鋼のさび汁が新車に降りかからないように作業の都度ブルーシートで現場周辺を覆うなど気を遣う作業となった{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=19}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=215}}{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=9}}。こうした苦難の末に1998年(平成10年)3月に「名港トリトン」としてグランドオープンするに至った。 |
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=== 3大橋開通後 === |
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名港トリトンはあくまでその前後を高速道路で直結のうえ、東名高速と東名阪自動車道を連絡してこそ、その真価を発揮できるのであって<ref name="中日19860429"/>、実際、1998年(平成10年)3月の3橋のグランドオープンおよび名古屋南IC - 東海IC間が供用開始した後も依然として赤字経営であった<ref name="朝日20000809">{{Cite news |title=一般有料道、26道路赤字 道路公団営業文を監察 |newspaper=朝日新聞朝刊|date=2000-08-09|page=2}}</ref><!-- 『営業分』? -->。しかし、1986年(昭和61年)時点における逆風のさなかにあっても、建設省は3橋を境にして[[名古屋南インターチェンジ|名古屋南IC]]直結(すなわち国道23号[[名四バイパス]]に連結)で1日交通量約2万台、続く[[みえ川越インターチェンジ|みえ川越IC]]までの開通(同様に国道23号に連結)で約4万台、そして最終的に東名高速と東名阪道の連結で約6万台と強気の予想通行量を算出したが<ref name="中日19860501">{{Cite news |title=新動脈への期待 伊勢湾岸道路 民活の条件 採算性の裏付けを |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-05-01|page=5}}</ref>、結果は建設省の予測を上回る形で現れた。 |
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3大橋のグランドオープンを含む名古屋南IC - 名港中央ICの開通以降は利用台数が急激に増加し始め、2002年(平成14年)のみえ川越IC連結による国道23号のバイパスルート完成によって2万5000台に増加{{Sfn|日本道路公団中部支社|2002|p=38}}、その後も増加傾向は続き、2017年(平成29年)4月には10万500台を記録した<ref>『高速道路と自動車』公益財団法人高速道路調査会、vol.60-7、60頁「一般有料道路統計月報」</ref>。このことは、高速道路とは一定のネットワークを形成して初めてその真価を発揮することを示し{{Sfn|名古屋高速道路公社20年史編集委員会|1991|pp=100 - 101}}、その中間部分(名古屋港の横断部分)だけを構築してもほとんど意味を成さないことを名港トリトンの歴史は如実に示している。 |
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{{wide image|Meiko Triton1985-2017.png|900px|1985年から1997年までは名港西大橋単体の開通のため平均利用台数はほぼ横ばい。それが1998年以後は右肩上がりで増加している。<small>出典:『高速道路と自動車』公益財団法人高速道路調査会、vol.28 - vol.60までの毎年7月号「一般有料道路統計月報」</small>}} |
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[[File:Triton map1987.png|thumb|300px|right|1987年時点の高速道路網。名古屋港エリアは名港西大橋一期線が供用しているのみで、周囲の高速道路網から取り残されている。当時、コンテナ貨物の輸送で名古屋港から東名高速道路岡崎ICに向かうだけで約2時間を要した<ref name="中部読売19880509"/>。]] |
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名港西大橋が単体で開通していた頃の港湾物流業者の嘆きの一つに、港が世界と結ばれても国内各地とは結ばれていないということがあった<ref name="中部読売19880509">{{Cite news |title=新伊勢湾時代 夢ジェクト21 伸びる貨物量、交通渋滞でさばけず 名古屋港が死んでいる |newspaper=中部読売新聞朝刊|date=1988-05-09|page=}}</ref>。名古屋自体は各高速道路と結ばれているが、名古屋港と直結する高速道路は当時1本も存在しなかった。当時、勢いを増す名古屋港のコンテナ貨物も、それを国内各地に配送するための道路が常時渋滞する一般国道のみとあっては、国際貿易港の機能が著しく損なわれる状態におかれることになった<ref name="中部読売19880509"/>。名港トリトンが港を通り抜けて各高速道路と結ばれている今日、それは当時の港湾物流業者が十数年先のこととして頭に思い描いた未来の道路網そのものであった<ref name="中部読売19880509"/>。 |
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=== 年表 === |
=== 年表 === |
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* [[1964年]](昭和39年)5月16日 : [[名古屋港管理組合]]は長期港湾整備計画を発表。ここで海上横断道路を初めて示した{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|p=488}}<ref name="中日19640517"/>。 |
* [[1964年]](昭和39年)5月16日 : [[名古屋港管理組合]]は長期港湾整備計画を発表。ここで海上横断道路の構想を初めて示した{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|p=488}}<ref name="中日19640517"/>。 |
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* [[1969年]](昭和44年)4月 : 名古屋環状2号線の名古屋港横断箇所(海上区間)について建設省直轄の幹線道路整備計画の一環として調査開始{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=11}}。 |
* [[1969年]](昭和44年)4月 : 名古屋環状2号線の名古屋港横断箇所(海上区間)について建設省直轄の幹線道路整備計画の一環として調査開始{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=11}}。 |
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* [[1973年]](昭和48年) |
* [[1973年]](昭和48年) |
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** 4月 : 海上区間の大規模特殊事業調査を推進。名古屋港A水域(西二区と金城ふ頭間)の横断構造物を中央径間405 mの斜張橋とする案が具体化{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=11}}。ただし、トンネル案は引き続き検討{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=3}}。 |
** 4月 : 海上区間の大規模特殊事業調査を推進。名古屋港A水域(西二区と金城ふ頭間)の横断構造物を中央径間405 mの斜張橋とする案が具体化{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=11}}。ただし、トンネル案は引き続き検討{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=3}}。 |
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** [[9月4日]] : 建設省中部地方建設局は名古屋環状2号線・第二名四国道の海上区間を当初の海底トンネル式から橋梁式に変更するための調査費を含む来年度予算要求の概要を発表<ref name="中日19730905"/>。 |
** [[9月4日]] : 建設省中部地方建設局は名古屋環状2号線・第二名四国道の海上区間を当初の海底トンネル式から橋梁式に変更するための調査費を含む来年度予算要求の概要を発表<ref name="中日19730905"/>。 |
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* [[1974年]](昭和49年)[[2月6日]] : 西二区 - 金城ふ頭間の地質調査開始{{Sfn|名古屋港開港90周年記念事業実行委員会|1997|p=194}}。 |
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* [[1976年]](昭和51年)[[8月30日]] : 建設省で名古屋港3大橋の予備設計が開始。ゲルバートラス橋案を完全破棄して斜張橋と吊橋案で計画推進<ref name="毎日19760830夕"/>。 |
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* [[1978年]](昭和53年)[[12月23日]] : 名古屋港管理組合は3橋の構造、長さ等を含む港湾計画を名古屋港湾審議会に諮り、了承を得た<ref name="中日19781223夕刊"/>。 |
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* [[1979年]](昭和54年) |
* [[1979年]](昭和54年) |
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** [[3月30日]] : 港湾計画が決定告示{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=13}}。 |
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** [[8月10日]] : 名古屋環状2号線海上部が都市計画決定(L = 9.83 km){{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=13}}。 |
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** [[12月7日]] : 名港西大橋の建設事業を建設省から日本道路公団に引き継ぐための事業許可が下りる{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=761}}。 |
** [[12月7日]] : 名港西大橋の建設事業を建設省から日本道路公団に引き継ぐための事業許可が下りる{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=761}}。 |
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* [[1980年]](昭和55年) |
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* [[1980年]](昭和55年)[[6月3日]] : ターニングベースン浚渫工事開始(翌年3月20日まで){{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=761}}。 |
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** [[5月1日]] : 日本道路公団名港西大橋工事事務所設置{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=473}}。 |
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** [[6月3日]] : ターニングベースン浚渫工事開始(翌年3月20日まで){{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=761}}。 |
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* [[1981年]](昭和56年)[[11月17日]] : 名港西大橋一期線の起工式を[[仲谷義明|仲谷]]愛知県知事、[[本山政雄|本山]]名古屋市長臨席のもと[[名古屋市国際展示場]]で挙行{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|pp=491 - 492}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=761}}。 |
* [[1981年]](昭和56年)[[11月17日]] : 名港西大橋一期線の起工式を[[仲谷義明|仲谷]]愛知県知事、[[本山政雄|本山]]名古屋市長臨席のもと[[名古屋市国際展示場]]で挙行{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|pp=491 - 492}}{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=761}}。 |
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* [[ |
* [[1983年]](昭和58年)[[8月1日]] : 西大橋一期線の主塔設置工事完了{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=762}}。 |
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* [[1984年]](昭和59年)[[7月24日]] : 一期線主桁が閉合{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=762}}。 |
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* [[1985年]](昭和60年) |
* [[1985年]](昭和60年) |
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** [[3月20日]] : [[名港西大橋]]関連区間 |
** [[3月20日]] : [[名港西大橋]]関連区間 (3.2 km) が15時開通{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=11}}<ref name="中日19850320夕"/>。 |
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** [[5月1日]] : 名港中央大橋の構造変更を運輸大臣の許可を得て告示{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。橋長を1,560 mから1,170 mに縮小{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。 |
** [[5月1日]] : 名港中央大橋の構造変更を運輸大臣の許可を得て告示{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。橋長を1,560 mから1,170 mに縮小{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。 |
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* [[1986年]](昭和61年)[[3月22日]] : 政府自民党は中央大橋、東大橋を含む豊田市 - 四日市市間の建設推進を正式決定<ref name="中日19860323">{{Cite news |title=名港2大橋 62年度着工 |
* [[1986年]](昭和61年)[[3月22日]] : 政府自民党は中央大橋、東大橋を含む豊田市 - 四日市市間の建設推進を正式決定<ref name="中日19860323">{{Cite news |title=名港2大橋 62年度着工 政府方針 伊勢湾岸道を推進 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-03-23|page=1}}</ref>。 |
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[[File:Toyo suisan20180701.jpg|thumb|250px|名古屋市港区千年三丁目に所在する[[東洋水産]]。1987年12月の事務所開き以降約半年間、ここの一角に日本道路公団名古屋建設局伊勢湾岸道路工事事務所の仮事務所が置かれた<ref name="中日19871209">{{Cite news |title=伊勢湾岸道路工事事務所 知事ら出席し開所式 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1987-12-09|page=15}}</ref>。大規模斜張橋建設と総工費2000億円以上のビッグプロジェクトにしては職員6名による間借りした事務所からのつつましいスタートとなった。のちに業務量と職員増加により手狭となったことから名古屋市緑区大高の公団自前の新事務所に移転した{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=冒頭解説『伊勢湾岸道路着工までのプロローグ 初代所長 吉田浩』}}。]] |
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* [[1987年]](昭和62年) |
* [[1987年]](昭和62年) |
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** [[6月15日]] : 9号地(現・潮見ふ頭)の企業移転に絡んだ用地交渉が合意<ref name="中日19870616">{{Cite news |title=伊勢湾岸道用地 名港9号地の交渉大筋合意 |
** [[6月15日]] : 9号地(現・潮見ふ頭)の企業移転に絡んだ用地交渉が合意<ref name="中日19870616">{{Cite news |title=伊勢湾岸道用地 名港9号地の交渉大筋合意 中央・東大橋の結節点 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1987-06-16|page=1}}</ref>。 |
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** [[9月8日]] :中央大橋と東大橋の建設のための公団発行の低利縁故債500億円について、中部の経済4団体の引き受け条件が決定 |
** [[9月8日]] : 中央大橋と東大橋の建設のための公団発行の低利縁故債500億円について、中部の経済4団体の引き受け条件が決定<ref name="中日19870908">{{Cite news |title=建設へゴーサイン 伊勢湾岸道の名港2大橋 公団発行の低利縁故債 引き受け条件決まる |newspaper=中日新聞朝刊|date=1987-09-08|page=3}}</ref>。 |
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** [[11月20日]] : 東海市新宝町 - 金城ふ頭間3.9 kmの事業許可が建設大臣より下る<ref name="中日19871121">{{Cite news |title=名港中央・東大橋に事業許可 72年度開通目指す |newspaper=中日新聞朝刊|date=1987-11-21|page=1}}</ref>。 |
** [[11月20日]] : 東海市新宝町 - 金城ふ頭間3.9 kmの事業許可が建設大臣より日本道路公団に下りる<ref name="中日19871121">{{Cite news |title=名港中央・東大橋に事業許可 72年度開通目指す |newspaper=中日新聞朝刊|date=1987-11-21|page=1}}</ref>。 |
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** [[12月1日]] : 日本道路公団名古屋建設局伊勢湾岸道路工事事務所が名古屋市港区の仮事務所にて職員6人で発足{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=巻頭プロローグ}}。 |
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* [[1989年]](平成元年) [[12月24日]] : 建設省が要求していた中央大橋と東大橋の建設事業費138億円が満額で認められる<ref name="中日19891225">{{Cite news |title=中部の事業、次々と予算<道路>名港中央、東大橋に満額 伊勢湾岸道 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1989-12-25|page=3}}</ref>。 |
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* [[1988年]](昭和63年)[[5月31日]] : 日米両政府間合意された日本の建設市場開放に関わるマスタープランと年度発注計画を公表<ref name="中日19880601"/>。 |
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* [[1989年]]([[平成]]元年) |
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** [[7月28日]] : 伊勢湾岸道路の前後が第二東名、第二名神に組み込まれたことによる道路規格アップによる事業変更{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=474}}。 |
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** [[12月18日]] : 名港中央大橋主塔下部工の工事発注{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=474}}。 |
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* [[1990年]](平成2年) |
* [[1990年]](平成2年) |
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** [[4月4日]] : 金城ふ頭 - 東海IC間の起工式が[[鈴木礼治|鈴木]]愛知県知事、[[西尾武喜|西尾]]名古屋市長臨席のもと名古屋市国際展示場で挙行<ref name="中日19900404夕">{{Cite news |title=伊勢湾岸道が着工 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1990-04-04|page=1}}</ref>。 |
** [[4月4日]] : 金城ふ頭 - 東海IC間の起工式が[[鈴木礼治|鈴木]]愛知県知事、[[西尾武喜|西尾]]名古屋市長臨席のもと名古屋市国際展示場で挙行<ref name="中日19900404夕">{{Cite news |title=伊勢湾岸道が着工 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1990-04-04|page=1}}</ref>。 |
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** 8月1日 : 金城ふ頭沖に灯浮標を設置。名港中央大橋が着工<ref name="中日19900801夕">{{Cite news |title=「名港中央大橋」が着工 伊勢湾岸道路 世界最長の斜張橋に |newspaper=中日新聞夕刊|date=1990-08-01|page=1}}</ref>。 |
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* [[1991年]](平成3年)[[10月1日]] : 9号地沖の海上に灯浮標を設置。東大橋が着工<ref name="中日19911001夕">{{Cite news |title=東大橋も着工へゴー |newspaper=中日新聞夕刊|date=1991-10-01|page=12}}</ref>。 |
* [[1991年]](平成3年) |
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** [[3月18日]] : 名港東大橋下部工工事発注{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=474}}。 |
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** [[10月1日]] : 9号地沖の海上に灯浮標を設置。東大橋が着工<ref name="中日19911001夕">{{Cite news |title=東大橋も着工へゴー |newspaper=中日新聞夕刊|date=1991-10-01|page=12}}</ref>。 |
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* [[1993年]](平成5年) |
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* [[1992年]](平成4年)[[4月13日]] : 中央大橋のケーソンをジャケットに引き込み完了{{Sfn|横山正則・鈴木裕二・馬場敦美|1992|p=43}}。 |
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** [[7月20日]] : 名港西大橋二期線が一般有料道路として事業許可{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=475}}。 |
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* [[1994年]](平成6年)[[11月24日]] : 名古屋市市議会で計画局長が名港三大橋の夜間ライトアップを計画していることを表明<ref name="中日19941124">{{Cite news |title=名古屋港三大橋 ライトアップヘ |newspaper=中日新聞夕刊|date=1994-11-24|page=10}}</ref>。 |
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** [[8月5日]] : 9号地通過ルートの支障物件だったリノール油脂(現・[[日清オイリオグループ]])の用地補償調印式が行なわれた{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=221}}。 |
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** [[11月9日]] : 名港西大橋二期線下部工工事発注{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=475}}。 |
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* [[1994年]](平成6年) [[11月24日]] : 名古屋市市議会で計画局長が名港三大橋の夜間ライトアップを計画していることを表明<ref name="中日19941124">{{Cite news |title=名古屋港三大橋 ライトアップヘ |newspaper=中日新聞夕刊|date=1994-11-24|page=10}}</ref>。 |
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* [[1995年]](平成7年)[[2月23日]] : 名港東大橋東西主塔工事竣工{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=476}}。 |
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* [[1996年]](平成8年) |
* [[1996年]](平成8年) |
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** [[6月22日]] : 名港中央大橋の主桁が閉合<ref name="中日19960622">{{Cite news |title=「日本一」つながった |
** [[3月15日]] : 名港中央大橋東西主塔工事竣工{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=476}}。 |
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** [[6月22日]] : 名港中央大橋の主桁が閉合<ref name="中日19960622">{{Cite news |title=「日本一」つながった 斜張橋の名港中央大橋 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1986-06-22|page=12}}</ref>。 |
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** [[7月13日]] : 名港中央大橋の橋桁連結式典を挙行。愛知県知事と名古屋市長によるセレモニー後、「夢渡りフェスティバル」として市民への公開(翌14日も実施)のほか、橋上結婚式や橋上テニススクールを開催{{Sfn|名古屋港利用促進協議会|1996|p=58-60}}。 |
** [[7月13日]] : 名港中央大橋の橋桁連結式典を挙行。愛知県知事と名古屋市長によるセレモニー後、「夢渡りフェスティバル」として市民への公開(翌14日も実施)のほか、橋上結婚式や橋上テニススクールを開催{{Sfn|名古屋港利用促進協議会|1996|p=58-60}}。 |
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** 8月10日 : 名港東大橋の主桁が閉合<ref name="中日19960810">{{Cite news |title=名港東大橋が海上で”連結” |newspaper=中日新聞夕刊|date=1996-08-10|page=11}}</ref>。 |
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** [[9月5日]] : 名港東大橋の橋桁連結式典を挙行。東海市長や東レの従業員が金ボルトを締結<ref name="中日199600905">{{Cite news |title=名港東大橋・橋桁連結式 |
** [[8月26日]] : 名港西大橋二期線東西主塔工事竣工{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=476}}。 |
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** [[9月5日]] : 名港東大橋の橋桁連結式典を挙行。東海市長や東レの従業員が金ボルトを締結<ref name="中日199600905">{{Cite news |title=名港東大橋・橋桁連結式 東海市側関係者も祝う 儀式・金色スパナで金ボルト締め |newspaper=中日新聞朝刊|date=1996-09-05|page=20}}</ref>。 |
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** [[11月11日]] : 名港西大橋一期線(暫定往復2車線)を片側3車線化するための工事の施工に伴って11日から26日まで夜間通行止めを実施<ref name="中日19961110">{{Cite news |title=名港西大橋で夜間通行止め |
** [[11月11日]] : 名港西大橋一期線(暫定往復2車線)を片側3車線化するための工事の施工に伴って11日から26日まで夜間通行止めを実施<ref name="中日19961110">{{Cite news |title=名港西大橋で夜間通行止め あすから26日まで |newspaper=中日新聞朝刊|date=1996-11-10|page=25}}</ref>。 |
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[[File:Meiko shiomi IC 20170610A.jpg|thumb|250px|right|1997年に一般公募で選ばれた名港トリトンの愛称は道路上に設置する標識や事業パンフレットに活用されている{{Sfn|山田隆昭 |1998|p=63}}。]] |
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* [[1997年]](平成9年) |
* [[1997年]](平成9年) |
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** [[6月17日]] : 名港西大橋二期線の主桁が閉合し、これで3橋が全てつながった<ref name="中日19970617夕">{{Cite news |title=名港3大橋一つに 西大橋 |
** [[6月17日]] : 名港西大橋二期線の主桁が閉合し、これで3橋が全てつながった<ref name="中日19970617夕">{{Cite news |title=名港3大橋一つに 西大橋 下り線の主桁連結 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1997-06-17|page=10}}</ref>。 |
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** 7月 |
** [[7月16日]] : 名港西大橋二期線の主桁連結式典開催<ref name="中日19970717">{{Cite news |title=名港西大橋二期線が完成 伊勢湾岸道 名古屋市-飛島村758メートル 華やかに連結式典 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1997-07-17|page=18}}</ref>。 |
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** [[7月19日]] : 名港中央大橋で試験的にライトアップ(翌20日も実施)。15分ごとに季節のテーマカラーを照射<ref name="朝日19970720">{{Cite news |title=夜の名港、光のアーチ |
** [[7月19日]] : 名港中央大橋で試験的にライトアップ(翌20日も実施)。15分ごとに季節のテーマカラーを照射<ref name="朝日19970720">{{Cite news |title=夜の名港、光のアーチ 「中央大橋」ライトアップ |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1997-07-20|page=26}}</ref>。 |
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** [[7月20日]] : 三大橋の愛称を一般公募により |
** [[7月20日]] : 三大橋の愛称を一般公募により「名港トリトン」に決定<ref name="中日19970721">{{Cite news |title=愛称は「トリトン」に |newspaper=中日新聞朝刊|date=1997-07-21|page=22}}</ref>。 |
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** [[10月3日]] : 名古屋世界都市景観会議関連行事として3大橋全てが初めてライトアップ{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=477}}。 |
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* [[1998年]](平成10年) |
* [[1998年]](平成10年) |
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** [[3月21日]] : 東海IC - 名港中央大橋間で「開通記念サイクリング大会」を挙行<ref name="中日19980323">{{Cite news |title=「名港トリトン」来月30日開通 盛大に記念イベント 参加者募集 名古屋南 - 飛島 |
** [[3月16日]] : 名港西大橋一期線の拡幅工事竣工{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=478}}。 |
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** [[3月21日]] : 東海IC - 名港中央大橋間で「開通記念サイクリング大会」を挙行<ref name="中日19980323">{{Cite news |title=「名港トリトン」来月30日開通 盛大に記念イベント 参加者募集 名古屋南 - 飛島 所要時間30分短縮 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1998-02-08|page=34}}</ref>。 |
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** [[3月22日]] : 大府IC - 名港中央IC間で「夢ロードわくわくフェスタ」を挙行。徒歩で3万人が渡り初め<ref name="中日19980208">{{Cite news |title=名港3大橋 |
** [[3月22日]] : 大府IC - 名港中央IC間で「夢ロードわくわくフェスタ」を挙行。徒歩で3万人が渡り初め<ref name="中日19980208">{{Cite news |title=名港3大橋 3万人が"渡り初め" |newspaper=中日新聞朝刊|date=1998-03-23|page=1}}</ref>。 |
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** |
** 3月30日 : 東海IC - 名港中央IC(名港東大橋、名港中央大橋)が15時開通<ref name="朝日19980330夕"/>。あわせて名港西大橋の二期線(南側の橋)が供用され、一期線も3車線化された<ref name="朝日19980330夕"/>。 |
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** [[4月24日]] : 「名港トリトン」が[[土木学会田中賞]]受賞{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=478}}。 |
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{{-}} |
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== 通行料金 == |
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名港トリトン(伊勢湾岸道路)は一般国道302号であるが、東海IC - 飛島IC間は有料区間であるため、通行料金が発生する。 |
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== 伊勢湾岸道路 == |
|||
伊勢湾岸道路(東海IC - 飛島IC)のみの利用では、全区間利用で普通車870円、区間利用は、東海IC - 名港中央ICで570円、名港中央IC - 飛島ICで310円となっており、いずれもキロ当たりの料金は他の高速国道と比べ割高に設定されている<ref name="料金">{{Cite web|url=http://media2.c-nexco.co.jp/images/charge/212357123153b63ba32d50a.pdf|format=PDF|title=普通車料金|publisher=NEXCO中日本|accessdate=2016-10-28|language=日本語}}</ref>。また、伊勢湾岸道路を全線利用し、その前後の高速国道(伊勢湾岸自動車道)を連続利用する場合は、東海IC - 飛島IC間の料金から普通車で150円引きとなる<ref name="ETCガイド">{{Cite web|url=http://www.c-nexco.co.jp/etc/pdf/discount_guide.pdf|format=PDF|title=高速道路 ETC割引ガイド |publisher=NEXCO中日本|accessdate=2017-02-27|language=日本語}}</ref>。[[ETC]]でなくとも適用されるため、料金検索では本割引適用後の額を通常料金として表示している。[[ETC割引制度|ETC時間帯割引]]や[[障害者]]割引は、本割引適用後の料金に対して重複適用する<ref name="ETCガイド"/>。 |
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{{Infobox_road |
|||
|種別・系統 = [[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路|一般国道自動車専用道路 (A')]]<br />([[有料道路|有料]]) |
|||
|アイコン = [[ファイル:SIGN ON ISEWANGAN EXP(E1A).svg|130px|伊勢湾岸道路]] |
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|名前 = [[File:Japanese_National_Route_Sign_0302.svg|35px]]{{Ja Exp Route Sign|E1A}} 伊勢湾岸道路 |
|||
|名前の補足 = |
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|総距離 = 7.2 [[キロメートル|km]]<br>(本線6.1 km・連絡路1.1 km) |
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|開通年 = [[1985年]] - [[1998年]] |
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|起点 = [[愛知県]][[東海市]]新宝町 |
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|終点 = 愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[飛島村]]木場 |
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|接続する主な道路 = 記事参照 |
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}} |
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=== 概要 === |
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東海IC(第二料金所)から飛島IC(第一料金所)に至る延長7.2 km(本線6.1 km、連絡路1.1 km{{Sfn|道路局有料道路課 |1998|p=19}})の路線を、一般国道302号自動車専用道路「伊勢湾岸道路」と称する{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=巻頭綴込み「伊勢湾岸道路の概要」}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=1}}。日本道路公団の一般有料道路事業として整備されたことから一般有料道路となっている{{Sfn|名古屋都市計画史編集実行委員会|2017|p=381}}。名港トリトンの3橋はこの伊勢湾岸道路に含まれている。なお、「伊勢湾岸自動車道」とは、この「伊勢湾岸道路」と「第二東名高速道路」の豊田東JCT - 東海IC間、および「第二名神高速道路」の飛島IC - 四日市JCT間(計56.4 km)の総称である{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=2}}。 |
|||
路線は「[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]」である。一般国道302号と[[国土開発幹線自動車道]](高速自動車国道)を兼務する。これは隘路(名古屋港)を横断する道路を2本造るよりも、一般国道の整備に際して高速走行可能な自動車専用道路として建設する方が経済的であるという発想からこの位置付けを得ている{{Sfn|建設省道路局高速国道課 |1997|pp=32-35}}<ref group="注釈">平成7年11月30日の道路審議会中間答申による。</ref>。これにより、一般国道の役割を果たしながら高速自動車国道の機能も代替させるとしている。よって、東海ICで第二東名高速道路に、飛島ICで第二名神高速道路に接続し、この両道路の橋渡しを担なうと同時に、一般国道302号の一部区間をも構成している{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=1-2}}。 |
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== ライトアップ == |
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[[File: Meiko Central Bridge 20170704A.jpg|thumb|250px|right|中央大橋の夏のライティング。テーマカラーはブルー。]] |
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伊勢湾岸道路の道路規格はその前後で接続する高速自動車国道(第二東名、第二名神)と同一で、道路規格第1種第2級、設計速度100 km/hである{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=3}}。一般国道でありながら接続する高速自動車国道と同一スピードで走行するために、東海IC - 飛島IC間については規制を設けることで一般国道の交通規則の例外として認められているが<ref name="朝日19980304">{{Cite news |date=1998-03-04 |title=1ヵ所で最大13個・・・運転ご用心 伊勢湾岸「標識」道路? 高速と接続し「規制」強化 |newspaper=朝日新聞(名古屋) 朝刊|page=21}}</ref>、この点については後述する。これに関連して、当該区間には[[最低速度]]が設定され、このため50 [[キロメートル毎時|km/h]]以下で走行することは禁じられている<ref name="朝日19980304"/>。また、名港トリトンを含む伊勢湾岸道路には4つのインターチェンジ([[東海インターチェンジ#伊勢湾岸自動車道「東海インターチェンジ」|東海IC]]、[[名港潮見インターチェンジ|名港潮見IC]]、[[名港中央インターチェンジ|名港中央IC]]、[[飛島インターチェンジ|飛島IC]])が設けられている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=3}}。各インターは名古屋港に点在する物流拠点や石油化学工場、鉄鋼生産基地付近に敷設され、工業色が濃厚なICとなっている。 |
|||
3橋は夜間の一部時間帯にライトアップを実施している。この内、中央大橋のみ季節ごとにライティングカラーを変えるため、848個の水銀灯を取り付けている<ref name="朝日19961218">{{Cite news |title=4色の彩り、主塔に点灯 名古屋港の中央大橋 |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1996-12-18|page=25}}</ref>。ライティングのテーマカラーは、春がグリーン(若葉のイメージ)、夏がブルー(海と空のイメージ)、秋がグリーンイエロー(紅葉のイメージ)、冬がレッド(炎のイメージ)である。点灯時間は当初は日没に合わせて開始時間を変えたが<ref name="朝日19980331">{{Cite news |title=春宵に浮かぶ、名港トリトン |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1998-03-31|page=29}}</ref>、現在は19時から22時の間で固定している<ref name="ライティング">{{Cite web|url=http://www.port-of-nagoya.jp/triton/index.html|title=名港トリトンのライトアップ |publisher=名古屋港管理組合|accessdate=2017-06-20|language=日本語}}</ref>。また、クリスマスや年末年始、ゴールデンウィークには特別点灯が実施される<ref name="ライティング"/>。 |
|||
なお、この区間は[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]によって{{Sfn|ぎょうせい|2015|p=506・509・537}}東海IC - 名港中央IC間<ref name="高規格 愛知県"/>が[[第二東海自動車道|第二東海自動車道横浜名古屋線]]、名港中央IC<ref name="高規格 愛知県"/> - 飛島IC間が[[近畿自動車道|近畿自動車道名古屋神戸線]]に指定されている。 |
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伊勢湾岸道路の歴史については[[伊勢湾岸自動車道#歴史]]を参照されたい。 |
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==== 路線データ ==== |
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* 有料道路名 : 伊勢湾岸道路{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=3}} |
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* 路線名 : 一般国道302号{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=3}} |
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* 主な経由地 : 海部郡飛島村、名古屋市港区、東海市{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=3}} |
|||
* [[道路構造令|道路区分]] : 第1種第2級{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=3}} |
|||
* 車線数 : 6車線(片側3車線){{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=3}} |
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* 設計速度 : 100 km/h{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=3}} |
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=== インターチェンジなど === |
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* IC番号欄の背景色が {{colorbox|#BFB}} である区間は既開通区間に存在する。 |
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* 英略字は以下の項目を示す。 |
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*: IC:[[インターチェンジ]] |
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* 全線[[愛知県]]に所在。 |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号 |
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!style="border-bottom:3px solid green"|施設名 |
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!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 |
|||
!style="border-bottom:3px solid green"|起点<br /><span style="font-size:small">から<br />([[キロメートル|km]])</span> |
|||
!style="border-bottom:3px solid green"|備考 |
|||
!style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |
|||
|- |
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|colspan="8" style="text-align:center"|{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[伊勢湾岸自動車道]] [[豊田東ジャンクション|豊田東]]方面 |
|||
|- |
|||
!style="background-color:#BFB"|7 |
|||
|[[東海インターチェンジ|東海IC]] |
|||
|国道302号(名古屋環状2号線)<br /> [[国道247号]]([[西知多産業道路]])<br /> [[愛知県道59号名古屋中環状線|県道59号名古屋中環状線]](国道247号重複) <br /> [[愛知県道55号名古屋半田線|県道55号名古屋半田線]] |
|||
|style="text-align:right" rowspan="1"|0.0 |
|||
|第二料金所 - 本線間の連絡路は約0.4 km{{Sfn|道路局有料道路課 |1998|p=19}} |
|||
|rowspan="2"|[[東海市]] |
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|- |
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!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|- |
|||
|rowspan="2"|[[名港東大橋]] |
|||
|rowspan="2"| |
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|rowspan="2"| |
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|rowspan="2"| |
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|- |
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|rowspan="5"|[[名古屋市]][[港区 (名古屋市)|港区]] |
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|- |
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!style="background-color:#BFB"|8 |
|||
|[[名港潮見インターチェンジ|名港潮見IC]] |
|||
|[[愛知県道225号名古屋東港線|県道225号名古屋東港線]] |
|||
|style="text-align:right"|1.7{{Sfn|道路局有料道路課 |1998|p=19}} |
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| |
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|- |
|||
!style="background-color:#BFB"|- |
|||
|[[名港中央大橋]] |
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| |
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| |
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|北航路(法定航路) |
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|- |
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!style="background-color:#BFB"|9 |
|||
|[[名港中央インターチェンジ|名港中央IC]] |
|||
|[[名古屋市道金城埠頭線|市道金城埠頭線]] |
|||
|style="text-align:right"|2.4{{Sfn|道路局有料道路課 |1998|p=19}} |
|||
| |
|||
|- |
|||
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|- |
|||
|rowspan="2"|[[名港西大橋]] |
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|rowspan="2"| |
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|rowspan="2"| |
|||
|rowspan="2"| |
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|- |
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|rowspan="2"|[[飛島村]] |
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|- |
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!style="background-color:#BFB"|10 |
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|[[飛島インターチェンジ|飛島IC]] |
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|国道302号(名古屋環状2号線)<br /> [[愛知県道71号名古屋西港線|県道71号名古屋西港線]] |
|||
|rowspan="1" style="text-align:right"|6.1{{Sfn|道路局有料道路課 |1998|p=19}} |
|||
|本線 - 第一料金所間の連絡路は約0.7 km{{Sfn|道路局有料道路課 |1998|p=19}} |
|||
|- |
|||
|colspan="8" style="text-align:center"|{{Ja Exp Route Sign|E1A}} 伊勢湾岸自動車道 [[四日市ジャンクション|四日市]]方面 |
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|} |
|||
東海IC第二料金所 - 飛島IC第一料金所間の連絡路込みの距離は7.2 km{{Sfn|道路局有料道路課 |1998|p=19}}。 |
|||
{{multiple image |
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| footer = |
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| align = left |
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| width = 200 |
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| image1 = Tokai IC20190202A.jpg |
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| caption1 = 東海IC(第二料金所) |
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| image2 = Meiko-Shiomi IC20180907A.jpg |
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| caption2 = 名港潮見IC |
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| image3 = Meiko Chuo IC20190205A.jpg |
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| caption3 = 名港中央IC |
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| image4 = Tobishima IC JD21a23a.jpg |
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| caption4 = 飛島IC(第一料金所) |
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}}{{-}} |
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=== 路線状況 === |
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==== 車線・最高速度 ==== |
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{| class="wikitable" style="text-align:center" |
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|- |
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! colspan="1" | 区間 |
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! [[車線]]<br />上下線=上り線+下り線 |
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! [[最高速度]] |
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|- |
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| 東海IC - 飛島IC |
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| 6=3+3 |
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| 100 [[キロメートル毎時|km/h]] |
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|- |
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|} |
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==== 主な橋梁 ==== |
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伊勢湾岸道路は全区間が橋梁により構成され、土工部はない(連絡路を除く){{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=巻頭綴込みの「伊勢湾岸道路の概要」}}。海上部は斜張橋、陸上部は高架橋である{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=3}}。名古屋港港域部および人為的に造成されたふ頭を横断する橋梁群である{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=3}}。名港トリトンの3橋は陸上の高架橋を介して連結され、東側から新宝高架橋、名港東大橋、潮見高架橋、名港中央大橋、金城高架橋、名港西大橋、飛島高架橋の順に敷設されている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=3-6}}。 |
|||
{{multiple image |
|||
| footer = |
|||
| align = left |
|||
| width = 200 |
|||
| image1 = Isewangan Road20190205C.jpg |
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| caption1 = 新宝高架橋(東海市新宝町)。東海IC、第二東名と名港東大橋を接続する{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=3-6}}。 |
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| image2 = Isewangan Road20190128B.jpg |
|||
| caption2 = 潮見高架橋(名古屋市港区)。名港東大橋と名港中央大橋を接続する{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=3-6}}。途中、名港潮見ICを併設。 |
|||
| image3 = Meiko Triton20190205A.jpg |
|||
| caption3 = 金城高架橋(名古屋市港区)。名港中央大橋と名港西大橋を接続する{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=3-6}}。途中、名港中央ICを併設。 |
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| image4 = Isewangan Road20190120A.jpg |
|||
| caption4 = 飛島高架橋(海部郡飛島村)。名港西大橋と飛島IC、第二名神を接続する{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=3-6}}。橋梁は上下線が分離している。 |
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}}{{-}} |
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{| class="wikitable" style="text-align:center;" |
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|- |
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|'''区間''' |
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|'''架橋区域''' |
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|'''構造物名''' |
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|'''長さ ()は上り線''' |
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|'''形式''' |
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|- |
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|東海IC付近 |
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|新宝ふ頭 |
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|新宝高架橋 |
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|845 m (890 m) |
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|PC床板鈑桁・RC床板箱桁 |
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|- |
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|東海IC - 名港潮見IC |
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|名古屋港C水域 |
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|[[名港東大橋]] |
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|700 m |
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|鋼斜張橋 |
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|- |
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|名港潮見IC付近 |
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|潮見ふ頭 |
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|潮見高架橋 |
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|738 m |
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|RC床板箱桁・鋼床板箱桁 |
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|- |
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|名港潮見IC - 名港中央IC |
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|名古屋港B水域 |
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|[[名港中央大橋]] |
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|1170 m |
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|鋼斜張橋 |
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|- |
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|名港中央IC付近 |
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|金城ふ頭 |
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|金城高架橋 |
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|1410 m (1406 m) |
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|RC床板箱桁・鋼床板箱桁 |
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|- |
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|名港中央IC - 飛島IC |
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|名古屋港A水域 |
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|[[名港西大橋]] |
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|758 m |
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|鋼斜張橋 |
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|- |
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|飛島IC付近 |
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|木場金岡ふ頭 |
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|飛島高架橋 |
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|496 m |
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|RC床板箱桁・RC床板鈑桁 |
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|- |
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|} |
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<small>(出典:『伊勢湾岸道路工事誌 写真集』日本道路公団名古屋建設局伊勢湾岸道路工事事務所、平成10年3月、10-13頁)</small> |
|||
{{double image aside|right|Kinjyo Bridge20190120A.jpg|220|Kinjyo Bridge20190210A.jpg|220|画像左:金城高架橋(工事中の名称は名港西大橋高架橋)。道路規格アップのため両側に拡幅された{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=293-310}}。<br>画像右:金城高架橋の橋脚は短形断面として四隅を面取りした。橋脚中央にはスリットを設け、その中に排水管を設置した。}} |
|||
伊勢湾岸道路の東海IC - 飛島IC間は、当初は名古屋環状2号線専用部([[名古屋第二環状自動車道]])の道路規格で計画されたことから、第2種第1級(設計速度80 Km/h)として設計された。その後、東海IC以東と飛島IC以西が第二東名と第二名神に取り込まれたことから、第二東名と第二名神をつなぐ東海IC - 飛島IC間(6.1 km)についても、第二東名、第二名神に合わせた道路規格のアップが必要となった(第2種第1級〈設計速度80 km/h〉→第1種第2級〈設計速度100 km/h〉{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=293}})。この時点で、計画中の施設については設計変更で対応したが、既に営業していた名港西大橋一期線とその前後の取り付け道路については、規格アップにおいて道路を拡幅する必要があった。このため、斜張橋については主桁の幅は変えずに高欄の移動で対応し、路肩幅員の拡幅を図った{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=293}}(詳細は[[名港西大橋#構造]]を参照)。一方の陸上高架橋については、鉄筋コンクリート製の高欄をカッター切断のうえ、鉄筋を溶接で継ぎ足し、新製した鋼製の桁をボルト接合するなどして床板を増設した{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=293-310}}。 |
|||
高架橋のうち、名港中央ICを境として東側が上下線一体構造、西側が上下線分離構造となっている。西側が上下分離とされたのは、名港西大橋が半断面で先行して建設されたためである{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=12}}。 |
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伊勢湾岸道路の橋梁は名古屋港を横断することで、国際港名古屋港のゲートイメージを体現することから、それにふさわしいデザインを導入した{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=63}}。伊勢湾岸道路の橋梁群のうち、斜張橋についてはA形形状や配色にはトリコロールの採用をおこなったが、陸上高架橋についてもデザイン検討された。中でも、金城ふ頭は商取引の会場である[[名古屋市国際展示場]](ポートメッセなごや)や、将来はオフィス街としての計画もあることから、景観的配慮が特に重要視された{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=63}}。このため、橋脚は短形断面として、柔らかく、そして親しみを出すために四隅を20センチ程度の直線面取りを行なった{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=63}}。四隅を丸めなかったのは、近接する斜張橋の直線的なイメージとのバランスにそぐわないからである{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=64}}。また、橋脚中央にスリットを設けて、そこに排水管を内蔵した{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=63}}。 |
|||
{{double image aside|right|Isewangan 20180303A.jpg|220|Isewangan road cx19d8a.jpg|220|画像左:飛島高架橋。右側が一期線、左側が二期線。一期線は主桁間隔を約3 mとしたが、二期線は倍に拡大して主桁本数を減らした。<br>画像右:橋脚の手前側主桁が鈑桁、奥側主桁が箱桁。双方とも合理化設計とした{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=264}}。}} |
|||
伊勢湾岸道路が事業化された1987年(昭和62年)は、第二東名、第二名神が国土開発幹線自動車道建設法にその予定路線として盛り込まれた年でもあった{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=2}}。計画段階で高コストとなることが予想された第二東名、第二名神は、国からコスト低減を要請されるに至り{{Sfn|NHK報道局「道路公団」取材班|2005|pp=167-168}}、従来の工法を大きく見直す契機ともなった。そして、第二東名と第二名神の予定路線の一部を成す伊勢湾岸道路においてもその余波を受けることになった。折しも第二東名として最も早い着工区間となった名古屋南IC - 東海IC間と伊勢湾岸道路は東海ICで直接つながっている上に、陸上高架橋の設計、検討時期が両者でほぼ重なったことから、第二東名で試験採用予定の新工法を伊勢湾岸道路の新宝高架橋と飛島高架橋にも採用することになった{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=269}}。新工法とは、鋼少数主桁の開発であり、従来形式の主桁と比較して橋軸直角方向の主桁を7本から3本に低減させる工法である。従来の鋼橋が7本必要とされたのは、昭和40年代前半に建設された同種の橋が損傷したことを受けて、RC床板の床圧を増して適用支間を3 m以下とした結果である{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=269}}。しかしながら、[[プレストレストコンクリート]](PC)床板の開発によって適用支間を拡大しても差し支えないことから、支間を従来の倍の6 mに拡大することとされ、新宝、飛島の両高架橋に採用された{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=269}}。 |
|||
上記のコストダウンの思想は鈑桁のみならず、箱桁にも適用された。箱桁内部のリブ数の減少、使用鋼材減少、ダイヤフラムの形状変更など多岐に渡った。これは従来の設計思想が鋼材費に関わる費用低減を目標としていたのに対し、鋼材費よりも人件費が上回る時代においてはそれが必ずしも合理的とは言えなくなってきたことを反映したものである{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=264}}。よって、切断加工、溶接に関わる、主として製作費や架設費における合理化を推進することとされた{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=264}}。 |
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新宝ふ頭に建設された新宝高架橋は、[[東レ]]と[[トヨタ自動車]]のモータープールに挟まれ、なおかつ[[愛知県道59号名古屋中環状線|愛知県道59号名古屋第二環状線]](現・名古屋中環状線)が敷設されていた。そこに橋脚を建設するに当たっては県道の切り回しが必要とされたが、東レとモータープールの間隔が狭いことから、県道を通行可としながらのフーチング(橋脚の基礎)の建設は不可能であった。このため、基礎に関わる専有面積を縮小することが求められ、その打開策として上下線の基礎が別々に施工できる鋼管矢板井筒基礎が採用された{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=253}}{{Sfn|日本道路公団名古屋建設局伊勢湾岸道路工事事務所|1996|p=102}}。施工に当たっては杭を油圧ハンマーで打設することになるが、近接する東レの化学天秤(精度:1万分の1[[グラム]])への影響を避けるために、化学天秤の使用時間帯はハンマー打設を一時中止する措置をとった{{Sfn|日本道路公団名古屋建設局伊勢湾岸道路工事事務所|1996|p=102}}。 |
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{{multiple image |
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| footer = |
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| align = left |
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| width = 200 |
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| image1 = Isewangan Road20190309C.jpg |
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| caption1 = 新宝高架橋の下り線側。トヨタ自動車のモータープールが所在。トレーラーが走行中の道路が県道59号。 |
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| image2 = Isewangan road bcv572.jpg |
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| caption2 = 新宝高架橋の上り線側。東レをはじめとする化学工場が所在。左側道路が県道59号。 |
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| image3 = Isewangan Expwy cx19d8b.jpg |
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| caption3 = 伊勢湾岸道路の橋梁は名港中央IC以西で上下線が分離する構造となる{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=12}}。名港中央ICから奥の名港西大橋を望む{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会(写真集)|1998|p=12}}。 |
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}}{{-}} |
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==== 路上設備 ==== |
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{{double image aside|right|Isewangan 20180108A.jpg|188|Isewangan 20180309B.jpg|220|画像左:第二東名と伊勢湾岸道路の境界に設置された可変式速度規制標識と「ここから一般有料道路」の標識板(下り東海IC付近、KP30+649)。トレーラーの車線指定標識も設置された。<br>画像右:可変式速度規制標識は平均1.3 km毎に設置されている。画像は高速車50 km/h規制時で、最低速度標識は消灯している。}} |
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一般国道自動車専用道路である伊勢湾岸道路は、本来は60 km/hが最高速度であるが<ref name="朝日19980304" />、接続する高速自動車国道(第二東名)と同じ100 km/h走行を可能とするために速度規制を行う{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=328}}。この際、[[愛知県警察]]本部との協議により、伊勢湾岸道路6.1 kmの範囲に設置間隔2 km以内、平均1.3 km毎に可変式速度規制標識を設置している。可変式としたのは、気象状況の悪化、事故等の障害に対応するためである{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=328}}。速度規制標識は、高速車(100)、低速車(80)、最低速度(50)の3種類が用意され、それぞれを1本の支柱に取り付けている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=18}}。また、第二東名(のちに第二名神も追加)と伊勢湾岸道路の境界(KP30+649下り線)には「ここから一般有料道路」の標識板も併せて設置され、一般国道と高速自動車国道の境界を視覚化している{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=18}}。なお、高速車用標識が50 km/h規制となった場合は、最低速度規制標識は無表示となる{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=328}}。これらの速度規制標識群と併せて、トレーラーの車線指定標識も設置された{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=17}}。当該標識は1997年(平成9年)10月30日に道路交通法が改正された際、自動車専用道路および高速道路では、大型車、トレーラーの車線指定が必要となったために設置されたものである{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=17}}。ただし、大型車の車線指定標識はIC間隔が短いことから分合流が難しく、安全性確保のため設置を見送られた。よって設置されたのはトレーラーの車線指定標識のみとなり、本線合流部および1 kmピッチの設置とされた{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=17}}。設置位置は法令に則り、第一走行車線上である{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=18}}。 |
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{{wide image|Meiko Triton JD20a5b.svg|800px|伊勢湾岸道路の可変式速度規制標識の配置図。6.1 kmの短い区間に高い密度で配置されている。<br /><small>出典:『伊勢湾岸道路工事誌』日本道路公団名古屋建設局 伊勢湾岸道路工事事務所、巻頭綴込み・319頁</small>}} |
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{{double image aside|right|Tokai IC 20180107A.jpg|220|Meiko-Chuo IC20180907A.jpg|212|伊勢湾岸道路を構成する施設は斜張橋と並ぶデザイン検討が行なわれた。トールゲートについても斜張橋のイメージとの整合性が考慮されている(東海IC第二料金所と名港中央IC){{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=326 - 327}}。}} |
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[[File:Isewangan Expwy cx19d8a.jpg|thumb|220px|right|標識柱についても斜張橋との調和を図るべくデザインされた{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=336}}。画像は門形標識柱。]] |
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東海IC - 飛島IC間の伊勢湾岸道路の構築に当たっては、斜張橋のみならず、関連するインターチェンジ設備についてもデザイン検討された。伊勢湾岸道路の主要構造物たる斜張橋は、斜めに張ったケーブルから直線的なイメージがつきまとい、トールゲート(料金所)のデザイン展開にあたっては斜張橋のイメージを壊さない形状が模索された。スレンダー、シャープ、近代的といったコンセプトを元にデザイン展開した結果、屋根はカーブを描き、色調をグレートーンに統一のうえ一体感を持たせた。トールゲート周辺の業務施設は、コンクリートと同化する色調を採用のうえ、極力トールゲートを前面に押し出すイメージを持たせた{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=326 - 327}}。こうしたデザイン処理は本線標識にも及んだ。門形標識柱、F型標識柱ともに通常は鋼管(円柱)を用いるところを、斜張橋との整合性に配慮して角形鋼管を用いた{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=336}}。 |
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伊勢湾岸道路はその前後で接続する高速道路と同じく最高速度が100 km/hとなっているが、眼下の名古屋港の景色を眺めるために最低速度50 km/hを下回って走行する自動車、および路肩に駐車する自動車の発生が懸念されることから、主塔に旋回式のITVカメラを設置のうえモニター監視を行なっている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=330}}。該当の自動車があった場合、橋梁路肩部に設置したスピーカーで注意を喚起するとしている{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=330}}。 |
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東海IC - 飛島IC間は伊勢湾岸自動車道の中にあって、IC間隔が極端に短いことから明暗の変化が連続し、港湾という立地条件から道路周辺からの明かりが強いことでドライバーへの影響が懸念された。このため全線で本線照明を取り付け、塔やケーブル形状と調和したポール式を採用し、ランプカバーもテーパー状でシャープなイメージを表現している{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=321}}。 |
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橋桁両端は遮音壁等、視界を遮るものはなく、名古屋の街と港を一望することが可能であるが<ref name="中日19980329"/>、名港東大橋の東側途中からは壁に囲まれ、視界は効かない。理由は、付近の新宝ふ頭に敷設されている化学工場から東海市を通して日本道路公団に要請があったためで、自動車通過時に眼下の工場を見下ろすことによる企業秘密の漏洩を避けるためである<ref name="中日19980506夕">{{Cite news |title=橋ものがたり 名港トリトン 天を突く巨大ハープ |newspaper=中日新聞朝刊|date=1998-05-06|page=1}}</ref>。さらに、南側にはトヨタ自動車の海外への自動車積出基地(モータープール)があり{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=328 - 329}}、高架から空き缶等の落下物があった場合に新車に傷が付くことが懸念されたことで、道路両脇が壁で目隠しされることになった<ref name="中日19980506夕"/>。 |
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橋上には「たばこ投げ捨て禁止」看板が設置されている。これは潮見ふ頭が石油製品基地であり{{Sfn|名古屋港管理組合|2013|p=21}}、なかでも伊勢湾岸道路の直下に油槽所があることから火災防止のための措置である<ref name="中日19980329"/>。なお、潮見ふ頭はこうした事情から消防法によって火気の使用が厳しく禁じられている{{Sfn|本庄清司・岸川秩世・小原俊和|1996|p=9}}。 |
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{{multiple image |
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| footer = |
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| align = left |
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| width = 200 |
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| image1 = Route302 20170625A.jpg |
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| caption1 = 名港東大橋の東側は壁で目隠しされ景色が見えない。化学工場からの要請と新車の傷防止の観点からである。 |
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| image2 = Meiko Central Bridge 20180105A.jpg |
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| caption2 = ポール式照明は塔やケーブル形状と調和したデザインを採用 |
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| image3 = Meiko East Bridge cx19d8a.jpg |
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| caption3 = 油槽所が近接することからたばこの投げ捨てが禁じられている。 |
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| image4 = Meiko-Shiomi IC cx19d7a.jpg |
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| caption4 = 名港潮見IC付近の「たばこ投げ捨て禁止」看板 |
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}}{{-}} |
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=== 資金計画と地元協力 === |
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{{double image aside|right|Isewangan Road20190309E.jpg|220|Meiko-Shiomi IC20190121A.jpg|220|伊勢湾岸道路は愛知県など地元の強い要請によって建設された{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=21}}。このため国は、建設の見返りに費用負担など強い地元協力を要請した{{Sfn|中部財界 |1986|pp=30-31}}。画像左は新宝ふ頭に建設された新宝高架橋で、橋脚部分や東海IC料金所関係施設を除いて、高架下や両端の県道用地の取得費用は愛知県負担となった{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=21}}。画像右は名港潮見ICで、当該ICの建設費用は名古屋市と愛知県が全額負担のうえ、名古屋港管理組合が建設した{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=340 - 344}}。}} |
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伊勢湾岸道路は、国道23号名四国道の混雑が著しいことで、中京圏の経済に大打撃を被っている状況から、豊田市の東名高速道路と四日市市の東名阪自動車道を結ぶ国道23号のバイパスとして地元自治体や経済界が国に伊勢湾岸道路建設を要請したことから計画は具体化した{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=3}}<ref name="中日19860429">{{Cite news |title=新動脈への期待 伊勢湾岸道路 上 点から線へ 全線整備への第一歩 採算ワーストワン |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-04-29|page=1}}</ref>。なお、計画初期から高速自動車国道として計画することは当時の状況から不可能で、これは高速自動車国道建設の拠り所となる当時の[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]に、豊田 - 四日市間に該当する法的根拠となる路線の記載がないためである。よって伊勢湾岸道路は、国土開発幹線自動車道建設法に拠らずに建設できる一般有料道路として計画が進められた{{Sfn|NHK報道局「道路公団」取材班|2005|pp=56-61}}。 |
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長きに渡った地元自治体や経済界の陳情が効を奏し、1979年(昭和54年)に環状道路である一般国道302号を構成する路線の一部という位置付けで事業許可を受け、まずは整備の緊急度が高い金城ふ頭 - 西二区(飛島)間3.2 km(名港西大橋とその取り付け道路)が着工されることになった{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=13}}。この時の着工にまつわる役割分担としては、一般有料道路事業としての名港西大橋本体(758 m)が日本道路公団受け持ちで{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1980|p=295}}、最終的な工費は185億円{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}、その前後のふ頭と西大橋をつなぐ連絡道路を建設省の担当として{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1980|p=286}}、こちらは税金投入とされた。いわゆる[[合併施行方式]]である{{Sfn|名古屋都市計画史編集実行委員会|2017|p=381}}。 |
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1986年(昭和61年)3月、残る東海市 - 金城ふ頭間の路線建設について、建設省から愛知県と名古屋市に建設案が提示された。この時の名古屋市の考えは、名港西大橋一期線と同様の公団による建設を望んでいたが、建設省から示されたのは、地元にも応分の負担を求めるものであった{{Sfn|中部財界 |1986|pp=30-31}}。当時の国は財政再建のための国費節減を謳っており、伊勢湾岸道路建設に対する国の反応として、地元による応分の負担は当然の流れでもあった{{Sfn|中部財界 |1986|pp=30-31}}。資金計画としては、有料限度額を1150億円に設定したが、これは30年間で資金を返済していくためには、この金額が限度であるためで、それを上回る工費については地元で調達して欲しいということである。計画初期段階の見積もりでは1340億円(のちに1500億円に修正<ref name="中日19871121"/>)とされ、1150億円の差額の190億円について、地元協力、公共事業分とした{{Sfn|中部財界 |1986|pp=30-31}}。また、1150億円のうち、500億円については地元経済界から低金利で資金を借り入れることとされ、民間資金活用を着工の前提条件とした{{Sfn|中部財界 |1986|pp=30-31}}。この結果、東海IC - 飛島IC間 (6.1 km) のうち、新宝高架橋の用地買収費は大部分を愛知県が負担し、名港潮見ICの建設は地元施設として整備するという合意から、名古屋市と愛知県が全額負担のうえ、名古屋港管理組合が建設を担当した{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=340 - 344}}。また、飛島高架橋および金城高架橋の用地は、名古屋港管理組合が無償提供することになった{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|pp=21-23}}。 |
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こうした地元協力の甲斐あって、1987年(昭和62年)11月に、東海市 - 金城ふ頭間(3.9 km)が一般有料道路事業として事業許可が下り、これに建設省着工分の東海ICから名港東大橋付近までの1.1 km(のちに1.1 km区間は公団受け持ち化{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=7}})を含めた合計5.0 kmの事業がスタートした<ref name="中日19871121"/>{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|p=72}}。 |
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当初でこそ1500億円とされた事業費も、その後の名港西大橋二期線の事業取り込みによって2050億円に増加し、これに物価上昇分を加味して2210億円が最終事業費となった{{Sfn|日経BP社|1998|pp=101-102}}{{Sfn|伊勢湾岸道路編集委員会|1998|p=7}}。名港西大橋一期線(185億円{{Sfn|JH日本道路公団 |2003|p=15}})を加えると、僅か6.1 kmの短い区間に2395億円の巨費が投じられたことになる。 |
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=== 通行料金 === |
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[[File:Isewangan Road20190128A.jpg|thumb|220px|right|伊勢湾岸道路は個別採算性である。路線に高コストの斜張橋を3つ含むことで通行料金は高速自動車国道と比べて割高である<ref name="朝日19980304"/>。]] |
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伊勢湾岸道路は高速自動車国道ではなく、一般有料道路である。高速自動車国道(第二東名、第二名神)と同様に日本道路公団が建設したが、[[日本の高速道路#建設費と償還|全国プール制]]の対象からは外れているため、個別採算制となっている{{Sfn|高橋国一郎・中村貢|1984|p=30}}。このため、伊勢湾岸道路の通行に際しては、高速自動車国道の通行料金とは別で伊勢湾岸道路単独の通行料金を支払う必要がある。特に伊勢湾岸道路の建設費は、斜張橋が3つ連なるなどして工費が高速道路平均の約10倍を要したことから、総工費2000億円以上の費用を償還するために割高となっている<ref name="朝日19980304"/>。 |
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1985年(昭和60年)3月の有料道路「名港西大橋」開通時点では四車種区分の下、普通車については410 円で設定されていたが、1998年(平成10年)3月の3大橋グランドオープンに伴って車種区分は五車種となり、名港西大橋区間の料金は300 円に値下げされた{{Sfn|道路局有料道路課 |1998|pp=19-20}}。この時から伊勢湾岸道路と第二東名を直通する場合は、伊勢湾岸道路区間内の料金割引制度が適用された{{Sfn|道路局有料道路課 |1998|pp=19-20}}。 |
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2014年(平成26年)7月1日現在、伊勢湾岸道路(東海IC - 飛島IC)のみの利用では、全区間利用で普通車870円、区間利用は、東海IC - 名港中央ICで570円、名港中央IC - 飛島ICで310円となっており、いずれも1 km当たりの料金は他の高速国道と比べ割高に設定されている<ref name="NEXCO料金">{{Cite web|和書|url=http://media2.c-nexco.co.jp/images/charge/212357123153b63ba32d50a.pdf|format=PDF|title=普通車料金|publisher=NEXCO中日本|accessdate=2017-08-14|language=日本語}}</ref>。また、伊勢湾岸道路を全線利用し、その前後の高速国道(第二東名、第二名神)を連続利用する場合は、東海IC - 飛島IC間の料金を割り引く制度があり、例として普通車では150円、特大車では350円が割り引かれる<ref name="連続利用割引">{{Cite web|和書|url=http://dc2.c-nexco.co.jp/etc/discount/etc/ise-wangan/|title=伊勢湾岸道路と高速国道との連続利用割引 |publisher=NEXCO中日本|accessdate=2017-08-13|language=日本語}}</ref>。<!-- 当割引ページはETC割引の時間帯割引の次に地域限定割引として紹介されている -->伊勢湾岸道路と高速国道との連続利用割引は、[[ETC]]でなくとも適用されるため、料金検索では本割引適用後の額を通常料金として表示している。[[ETC割引制度|ETC時間帯割引]]や[[障害者]]割引は、本割引適用'''後'''の料金に対して重複適用する<ref name="連続利用割引"/>。 |
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ライトアップは地元負担とされ、ライティング用機材6億円は[[名古屋港管理組合]]が負担し、電気代も同組合が負担している<ref name="中日19950316">{{Cite news |title=名港三大橋をライトアップ 管理組合 建設費6億円計上|newspaper=中日新聞朝刊|date=1995-03-16|page=14}}</ref>{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=344}}。日本道路公団(現、NEXCO中日本)は高額な斜張橋の建設費が通行料金に跳ね返っていることからライティング費用の負担については消極的である<ref name="中日19941124"/>。 |
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なお、伊勢湾岸道路の料金徴収期間は2037年3月19日までとなっている{{Sfn|JH日本道路公団 |2003|p=15}}。 |
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なお、ライトアップは1989年の [[世界デザイン博覧会]]開催中に名古屋港のイメージアップを狙って、7月14日から11月26日までの日没から22時の間で西大橋を点灯したのがその起源である<ref name="中日19890713">{{Cite news |title=名港西大橋キラリ ライトアップ試験点灯 |newspaper=中日新聞朝刊|date=1989-07-13|page=30}}</ref>。その後、1991年の年末年始でライトアップを再開している<ref name="朝日19911221">{{Cite news |title=イブの名所になるかナ…?名港西大橋ライトアップ |newspaper=中日新聞朝刊|date=1991-12-21|page=25}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite |和書|author = 名港西大橋編集委員会 |title =名港西大橋工事誌 |year = 1986||date = 1986-03-15|edition = |publisher =日本道路公団名古屋建設局 |isbn = |series = |ref = harv }}<!-- 愛知県図書館蔵 非売品--> |
* {{Cite |和書|author = 名港西大橋編集委員会 |title =名港西大橋工事誌 |year = 1986||date = 1986-03-15|edition = |publisher =日本道路公団名古屋建設局 |isbn = |series = |ref = harv }}<!-- 愛知県図書館蔵 非売品--> |
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* {{Cite |和書|author = 名港西大橋編集委員会(写真集) |title =名港西大橋写真集 |date = 1985 |edition = |publisher =日本道路公団名古屋建設局 |isbn = |series = |ref = harv }} |
* {{Cite |和書|author = 名港西大橋編集委員会(写真集) |title =名港西大橋写真集 |date = 1985 |edition = |publisher =日本道路公団名古屋建設局 |isbn = |series = |ref = harv }} |
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* 『伊勢湾岸道路工事誌』・『伊勢湾岸道路写真集』は[[三重県立図書館]]で閲覧可(閉架)(非売品) |
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** {{Cite |和書|author = 伊勢湾岸道路編集委員会 |title =伊勢湾岸道路工事誌 |year = 1998|date = 1998-03 |edition = |publisher =日本道路公団名古屋建設局 伊勢湾岸道路工事事務所 |isbn = |series = |ref = harv }} |
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** {{Cite |和書|author = 伊勢湾岸道路編集委員会(写真集) |title =伊勢湾岸道路写真集 |year = 1998|date = 1998-03 |edition = |publisher =日本道路公団名古屋建設局 伊勢湾岸道路工事事務所 |isbn = |series = |ref = harv }} |
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* 『技術報告会資料』は[[愛知県図書館]]で閲覧可(閉架) |
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** {{Cite journal|和書|author = 山本邦夫・久賀英男・和田実|year = 1974 |date = 1974-08|title = 伊勢湾岸道路計画について|journal = 第23回 技術報告会資料 道路編|volume = |issue = |pages = 25-39 |publisher = 建設省中部地方建設局 |ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author = 藤本豊明・足立義雄・水野英男|year = 1976 |date = 1976-07|title = 大型ケーソンの施工計画と揚水試験|journal = 第25回 技術報告会資料 道路編|volume = |issue = |pages = 393-406 |publisher = 建設省中部地方建設局 |ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author = 伊藤順夫|year = 1977 |date = 1977-07|title = 伊勢湾岸道路名古屋港横断部の計画について|journal = 第26回 技術報告会資料 道路編|volume = |issue = |pages = 79-86 |publisher = 建設省中部地方建設局 |ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author = 山腰隆信|year = 1983 |date = 1983-07|title = 一般国道302号海上部基礎杭打撃応力試験について|journal = 第32回 技術報告会資料 道路編|volume = |issue = |pages = 151-158 |publisher = 建設省中部地方建設局 |ref = harv }} |
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** {{Cite journal|和書|author = 松本章|year = 1985 |date = 1985-08|title = 名港中央大橋桁下空間の変更について|journal = 第34回 技術報告会資料 道路編|volume = |issue = |pages = 57-64 |publisher = 建設省中部地方建設局 |ref = harv }} |
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* {{Cite journal|和書|author = 古郷誠|year = 1990 |date = 1990-08|title = 伊勢湾岸道路|journal = 橋梁と基礎|volume = 24 |issue = 8 |pages = 91-93 |publisher = 株式会社建設図書 |ref = harv }} |
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* {{Cite journal|和書|author = 横山正則・鈴木裕二・馬場敦美|year = 1992 |date = 1992-02|title = 名港中央・東大橋下部工の設計・施工|journal = 橋梁と基礎|volume = 26 |issue = 2 |pages = 39-43 |publisher = 株式会社建設図書 |ref = harv }} |
* {{Cite journal|和書|author = 横山正則・鈴木裕二・馬場敦美|year = 1992 |date = 1992-02|title = 名港中央・東大橋下部工の設計・施工|journal = 橋梁と基礎|volume = 26 |issue = 2 |pages = 39-43 |publisher = 株式会社建設図書 |ref = harv }} |
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* {{Cite journal|和書|author =佐久間智・前川利聡・宮内秀敏 |year = 1995 |date = 1995-11|title = 新技術紹介 ヘリウム混合ガス併用無人掘削工法による大深度ニューマチックケーソンの近接施工-名港西大橋II期線-|journal = 土木技術|volume = 50 |issue = 11 |pages = 54-65|publisher = 土木技術社|ref = harv }} |
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* {{Cite journal|和書|author =鈴木裕二・橋本昌郎|year = 1998 |date = 1998-05|title = 伊勢湾岸自動車道の建設(1) |journal = 土木技術|volume = 53 |issue = 5 |pages = 23-31 |publisher = 土木技術社|ref = harv }} |
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* {{Cite journal|和書|author =本庄清司・岸川秩世・小原俊和 |year = 1996 |date = 1996-05|title = 伊勢湾岸道路 名港東大橋|journal = 橋梁|volume = 32 |issue = 5 |pages = 4-11 |publisher = 橋梁編纂委員会|ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = 名古屋港管理組合 |title =Port of Nagoya 2016-2017 |year = 2016|date = 2016-09 |edition = |publisher = 名古屋港管理組合|isbn = |series = |ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = 名古屋港編集部 |title =Port of Nagoya 名古屋港利用促進協議会設立25周年 名古屋港開港100周年 |year = 2008|date = 2008-03-31 |edition = |publisher = 名古屋港利用促進協議会|isbn = |series = |ref = harv }} |
* {{Cite |和書|author = 名古屋港編集部 |title =Port of Nagoya 名古屋港利用促進協議会設立25周年 名古屋港開港100周年 |year = 2008|date = 2008-03-31 |edition = |publisher = 名古屋港利用促進協議会|isbn = |series = |ref = harv }} |
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* {{Cite journal|和書|author =名古屋港利用促進協議会|year = 1996 |date = 1996-07-20|title =ルポ21 "夢渡り"名港中央大橋連結|journal =名古屋港|volume = 15 |issue = 1|pages = 58-61 |publisher = 名古屋港利用促進協議会|ref = harv }} |
* {{Cite journal|和書|author =名古屋港利用促進協議会|year = 1996 |date = 1996-07-20|title =ルポ21 "夢渡り"名港中央大橋連結|journal =名古屋港|volume = 15 |issue = 1|pages = 58-61 |publisher = 名古屋港利用促進協議会|ref = harv }} |
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* 『人・モノ・情報の交流促進をめざして 高規格幹線道路&地域高規格道路』愛知県建設部道路建設課、2012年4月(パンフレットのためページ数なし・愛知県図書館蔵) |
* 『人・モノ・情報の交流促進をめざして 高規格幹線道路&地域高規格道路』愛知県建設部道路建設課、2012年4月(パンフレットのためページ数なし・愛知県図書館蔵) |
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* {{Cite |和書|author = 藤原稔・久保田宗孝・菅谷洸・寺田博昌 |title =第8巻 橋の世界 |year = 1994 |date = 1994-06-30 |edition = |publisher =株式会社山海堂 |isbn = 438108196X |series = ニューコンストラクションシリーズ|ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author =[[ぎょうせい]] |title =道路法令総覧 平成28年版 |date = 2015 |edition = |publisher = |isbn =978-4-324-10011-0|series = |ref = harv }} |
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* 名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会による以下の3資料は3冊を1冊にまとめた合冊製本である(愛知県図書館蔵)。 |
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** {{Cite |和書|author = 名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会 |title = 名古屋環状2号線のあらまし 昭和44年6月 |date = 1969 |edition = |publisher = |isbn = |series = |ref = harv }} |
** {{Cite |和書|author = 名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会 |title = 名古屋環状2号線のあらまし 昭和44年6月 |date = 1969 |edition = |publisher = |isbn = |series = |ref = harv }} |
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** {{Cite |和書|author = 名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会 |title = 名古屋環状2号線のあらまし 昭和45年5月 |date = 1970 |edition = |publisher = |isbn = |series = |ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = 名古屋高速道路公社20年史編集委員会 |title = 名古屋高速道路公社二十年史 |date = 1991 |edition = |publisher = |isbn = |series = |ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = 遠田良喜|title =橋梁工学 鋼構造の理論と設計|year = 1997|date = 1997-01-20 |edition = |publisher = 培風館|isbn =4-563-03517-3|series = |ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = 長井正嗣・井澤衛・中村宏 |title = 斜張橋の基本計画設計法| year = 1997 |date = 1997-11-13 |edition = |publisher = 森北出版株式会社 |isbn = 4-627-48461-5 |series = |ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = 日経コンストラクション |title = 橋の改修・改良図鑑 計画・設計・施工の勘所を目で覚える| year = 2016 |date = 2016-03-23 |edition = |publisher = 日経BP社|isbn = 978-4-8222-3517-8 |series = |ref = harv }} |
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* {{Cite journal|和書|author = 日本道路公団名古屋建設局伊勢湾岸道路工事事務所 |title = 伊勢湾岸道路 青、白、赤の塔で三連続する世界的規模の斜張橋 ハイウェイTALK:2015年・1万4000kmへの道 第9回|journal = 開発往来|volume = 40 |issue = 9 |pages = 100-115 |publisher = |ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = JH日本道路公団 |title = 日本道路公団(JH)年報(平成15年度版)| year = 2003 |date = 2003-11|edition = |publisher = 日本道路公団 |isbn = |series = |ref = harv }}<!--愛知県図書館蔵--> |
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* {{Cite journal|和書|author =呉菲・野竹壮一郎・古田俊彦 |year = 2018 |date = 2018-03-01|title = 20歳を迎えた伊勢湾岸道路 伊勢湾岸道路の今昔物語 |journal = 中部圏研究|volume = 202 |issue = |pages = 95-103 |publisher = 公益財団法人中部圏社会経済研究所|ref = harv }} |
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* {{Cite journal|和書|author =日経BP社 |year = 1998 |date = 1998-04-24|title = フラッシュ 着工から8年あまりで開通 最終事業費は2210億円|journal = 日経コンストラクション|volume = 206 |issue = |pages = 100-103 |publisher = 日経BP社|ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = 名古屋都市計画史編集実行委員会 |title = 名古屋都市計画史II(昭和45年~平成12年度)上巻 |year = 2017 |date = 2017-12 |edition = |publisher = 名古屋市 公益財団法人名古屋まちづくり公社 |isbn = |series = |ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = NHK報道局「道路公団」取材班 |title = 日本道路公団 借金30兆円の真相 |year = 2005 |date = 2005-05-30 |edition = |publisher = 日本放送出版協会 |isbn = 4-14-081020-3 |series = NHKスペシャルセレクション|ref = harv }} |
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* {{Cite journal|和書|author =中部財界 |year = 1986 |date = 1986-06|title = ついに動き始めた「伊勢湾岸道路」 |journal = 中部財界|volume = 29 |issue = 7 |pages = 30-31 |publisher = 中部財界社|ref = harv }} |
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* {{Cite |和書|author = イカロス出版 |title = 東名高速をゆく |year = 2011 |date = 2011-09-30 |edition = |publisher = イカロス出版株式会社 |isbn = 978-4-86320-484-3 |series = ゆくシリーズ|ref = harv }} |
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名港トリトン | |
---|---|
基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 飛島村・名古屋市・東海市 |
交差物件 | 名古屋港 |
用途 | 道路橋 |
路線名 | 国道302号(伊勢湾岸道路) |
管理者 | 中日本高速道路 |
建設 | 1979年12月22日[1] - 1998年3月31日[1] |
座標 | 北緯35度03分05秒 東経136度50分02秒 / 北緯35.05139度 東経136.83389度座標: 北緯35度03分05秒 東経136度50分02秒 / 北緯35.05139度 東経136.83389度 |
構造諸元 | |
形式 | 3径間連続斜張橋[2] |
材料 | 鋼[6] |
全長 |
2,628 m(3橋合計)[3] 6,117 m(全長:東海IC - 飛島IC下り線)[4][5] |
高さ | T.P + 195 m(名港中央大橋主塔)[2] |
最大支間長 | 590 m(名港中央大橋)[2] |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
名港トリトン(めいこうトリトン)とは、伊勢湾岸自動車道のうち、伊勢湾岸道路(国道302号の愛知県東海市 - 海部郡飛島村間)の東海ICから飛島ICの間にある、3つの斜張橋(名港西大橋、名港中央大橋、名港東大橋)の愛称である[7]。
名港トリトンとその前後の取り付け区間は、一般有料道路事業と直轄国道整備事業として整備された経緯から[8]、東海IC - 飛島IC間の全線が高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路となっている[9]。また、当該区間は名古屋環状2号線の一部を構成する[10]。
本項では、主として3つの斜張橋の解説である「名港トリトン」と、東海IC - 飛島IC間(6.1 km)の路線解説である「伊勢湾岸道路」の二部構成で解説する。
概要
[編集]名港トリトンの3橋は名古屋港(名港)の埋立地を東西に横断し、流通基地をはじめ工業地帯が点在する各ふ頭間を連絡する使命の他に、名古屋港と周辺工業地帯の有機的連携を目的として架橋された[11]。さらに、東名、新東名と東名阪、新名神の各高速道路の短絡ルートを構成することから、東西主要都市間の直結ルートとしての役割も担っている[12]。さらに、中央自動車道、名二環、東海環状自動車道、東海北陸自動車道とも間接的に連絡のうえ名古屋港と関西、北陸、信越地方が自動車専用道路で結ばれることで、海上輸送と陸上輸送が一体となって国際物流を形成し、国内産業を下支えしている[13]。
名古屋港は資源および工業材料や衣類などを海外から輸入するほか、輸入した原材料を国内工場で加工、製品化して海外へ輸出するための貿易港である[14]。名古屋港の特色はこうした貿易港としての機能のみならず、港と中部圏の各工場間の道路ネットワークが完備されている点にある[13]。海外から輸入した製品、原材料を中部圏の各工場に輸送する際、それが交通渋滞に巻き込まれて製品調達が滞るようでは企業の生産活動に深刻な影響をもたらしかねない[15]。したがって港と道路の連携が確実な輸送、コストの面からとりわけ重要な要素となるが、名古屋港の場合は港を高規格幹線道路(高速道路)が貫いており、信号待機による渋滞の心配が無用な高速道路の輸送は、輸送コスト削減と調達時間短縮を実現して効率的な生産、加工を可能としている[15]。名港トリトンにはマイカー利用のみならず、こうした国内産業を支える物流ルートとしての重要な側面がある。なお、港の中を高規格幹線道路が貫いているのは日本国内では名古屋港のみとされ、日本の中央部に位置するロケーション[注釈 1]と共に交通インフラの優位性をいかんなく発揮している[13]。
1985年(昭和60年)3月、名港西大橋が暫定2車線対面通行により単体で供用開始された(後に伊勢湾岸道の豊田方面行き車線、片側3車線として供用)[17]。1998年(平成10年)3月には伊勢湾岸道の開通に伴い、名港中央大橋(片側3車線ずつ計6車線)と名港東大橋(片側3車線ずつ計6車線)および名港西大橋(四日市方面行き片側3車線)がそれぞれ開通した[18]。これに伴い、地域のシンボルとしてより親しみをもってもらうべく3つの斜張橋に愛称を付与することになり、一般公募で約2万通の応募がなされた。選考委員会の審査によって6作品(ポートプリズム、名古屋マリンゲートブリッジ、名港ウィングス、名港スリーハープ、名港トリトン、名港三彩大橋)が選ばれ、これを2作品(名港ウィングス、名港トリトン)に絞り込んだうえで決選投票を行い、「名港トリトン」が選ばれた[19]。トリトン(Triton)とは、ギリシャ神話の海神ポセイドンとその妻アンピトリテの間に生まれた息子である。緑色の髪とひげをはやし、手には三叉戟(みつまたほこ)とほら貝を携え、下半身はイルカの尾を持つ半人半魚の風貌を持っている。父ポセイドンとその弟であるゼウスによって大洪水が引き起こされた際、難破した船を救うためにほら貝を吹き鳴らして荒波を鎮めた海の守護神である[20][19]。海神であることからのふさわしさと共に、「トリ」が「3つ」を意味する「tri-」に通じることから、3橋になぞらえる意味でこの愛称が採用された[21][22][23]。
3橋は西側(飛島IC側)から、名港西大橋、名港中央大橋、名港東大橋の順に架橋されている。架橋されているふ頭と自治体は、木場金岡ふ頭(海部郡飛島村)、金城ふ頭(名古屋市港区)、潮見ふ頭(名古屋市港区)、新宝ふ頭(東海市新宝町)である[24]。名港西大橋が木場金岡ふ頭 - 金城ふ頭間、名港中央大橋が金城ふ頭 - 潮見ふ頭間、名港東大橋が潮見ふ頭 - 新宝ふ頭間にそれぞれ架橋されている。3橋は連続して架橋されていることから、名港トリトン進入の際に、A形の主塔が8つ居並ぶ光景を見ることが出来る[22]。3橋は貿易港たる名古屋港のゲートに位置し、フェリー、タンカー、貨物船など[25]、相当数の船が橋の下を通過する[26]。なお、名港トリトンは自動車専用道路に架かる橋梁であることから、徒歩で横断するための橋ではない。よって港を展望するための遊歩道のたぐいは一切設置されていない[27]。
建設は主として日本道路公団(一部の道路は建設省)が担当した[29][30]。運営者はNEXCO中日本(当初は日本道路公団[31])である。
名港トリトンの建設では、1988年(昭和63年)5月の日米政府間で合意された特例措置が適用されている[注釈 2]。当時約60兆円ともされる日本国内建設市場の外国企業への開放を求める米国政府の要請に応えたもので、対象とされた7公共事業の一つに名港トリトンの建設工事が含まれたものである[32]。このため、マスタープランが公表され[2]、適用となる工事は名港中央大橋とされた[33]。
港湾横断形式・ルートの変遷
[編集]名古屋環状2号線の名古屋港横断が具体化した1960年代半ば、新聞紙上で様々な横断方法が記載され、トンネルもしくは「夢の大橋」で横断すると報じられた[36][37]。しかしそれは所詮構想であって具体的な検討は1969年(昭和44年)以降に行なわれた。地盤調査や海洋気象調査は建設省が行なったが[38]、概略設計は委託先の本州四国連絡橋公団が担当した[39]。
設計は地盤調査の進捗具合やその他諸条件によって変化したが、初期案は海底トンネル(沈埋トンネル)式、あるいは橋梁式とトンネル式両方の組み合わせが主流であった[40][41]。しかし、トンネル式では建設費が高く、換気や道路照明に要する費用も高額であることから採算性が劣るとされた[41]。また、高潮による浸水被害が心配され、車両火災等のリスクも懸念された。さらに、海底から20メートル (m) という長い距離で泥土層が存在することで、トンネル構造物を支えきれないとされた[42]。そして海底トンネルであるために、危険物積載車輛の通行制限がかかることは、当該区間の利用交通がタンクローリー等の港湾業務に従事する車であることを考えた場合、利用実態にそぐわないことからトンネル方式は破棄された[42]。また、橋との複合案もトンネルと橋の移行区間で掘割となることで工業地帯の分断が生じ、急勾配(4.2 %)となることで走行性が劣ることから、こちらも破棄された。なお、複合案における移行区間は金城ふ頭が該当し、西大橋が橋梁式、ほかはトンネル式であった[41]。
この点、全てが橋であれば、船舶追突防止対策のほか、場所によっては船舶の航路制限がかかるにしても、土地利用上の問題が少なく、美観的に好ましいことや港のランドマークともなりえることから、橋梁案が採用された[41]。ただし、橋梁案は船舶関係者からは安全面で憂慮されたことから、海難事故防止策として橋桁の最高潮位面高さを十分に取ることのほかに、海中の橋脚に防護柵を設置するなどの対策を講じることになった[43]。当初は橋脚で支えるゲルバートラス橋で構想されたが、大型船の通過に橋脚が障害となることから、1976年(昭和51年)には吊橋式と斜張橋式に変更された[25]。
しかしながら、この時点では港湾計画として正式決定された訳ではなく、依然として構想の領域を超えるものではなかった。決定がなされなかったのは国の財政事情もさることながら、船舶関係者による架橋反対の兆しが芽吹いていたためである[44]。しかし、名古屋環状2号線の中でも当該区間だけが都市計画されておらず、既に建設省によって要求されていた西大橋の関連予算請求手続きを迅速化するためにも計画決定を急ぐ必要に迫られたことから、1978年(昭和53年)12月の名古屋港湾審査会に諮問され、了承を得た[45]。そして中央港湾審議会の承認を得たうえで、都市計画決定の手続きを行い、ここに工事開始の前提手続きが全て終了するが、3大橋を含む伊勢湾岸道路の都市計画決定を見たのは1979年(昭和54年)8月10日であった[17]。
この都市計画決定に先立って横断ルートの変更が行なわれた。この時までのルートは、1964年(昭和39年)の立案ルート[47]に若干の修正を加えたもので、東海 - 西二区間はカーブがない東西一直線であった。金城ふ頭や南1区で既に用地確保がされている等の理由からである[46]。今回はこれを再度変更するもので、理由は石油関連企業が密集する9号地では防災上の問題があり、「危険物の規制に関する政令」の改正もあって、防災上の保安距離を確保するためである[48][49]。決定は1979年(昭和54年)3月である[17]。
都市計画決定ののち、以前から懸念されていた中央大橋の橋梁形式を再検討する意見が強まった。中央大橋は当初は水域内に主塔が1本のみで計画され(もう1本は9号地に設置[45])、これは船舶の航行条件による制約であった。このため橋長1560 m、中央径間780 mと規模が大きいために吊橋式で計画された[50]。吊橋はケーブルの張力を得るためにアンカーブロックとケーブルを連結させる必要があるが、通常は堅固な地盤に設置されるべきアンカーブロックが、当該区域は軟弱地盤であることから基礎地盤の変形にともなうアンカーブロック傾斜の危険性が以前から指摘されていた[51][52]。そして中央径間が長すぎることは事業費が多額で、有料道路事業における採算性に問題があること[53]、および9号地(現・潮見ふ頭)に計画されているインターが片方向アクセスとなってサービスレベルダウンとなることが問題視された[50]。そこで、アンカーブロックの支持層の負担軽減、および9号地インターの双方向アクセスを実現するために橋梁規模を縮小することになり、航路の変更について海事関係者と協議した結果、了解を得た。これによって主塔は水域内に2本設置することが可能となり、併せて橋長が1170 mに短縮された。橋梁規模縮小により斜張橋の選択も可能となり、最終的に工期や経済性に優れる斜張橋式が選択された[50]。これらは1985年(昭和60年)5月に正式決定をみた[17]。
ところで、名古屋港には海底トンネルが少なくとも2本設けられている。1本目は、木曽川近辺に位置する笹川取水場から知多浄水場に送水するための導水路で、1960年代における知多半島の水需要の増加によって、従来の愛知用水からの供給では間に合わなくなっていたことから設けられたものである[54]。建設にあたり、ルート候補の一つに名古屋環状2号線の海上区間(名港トリトン区間)が挙げられた。名古屋環状2号線に添架できればそれに越したことはないが、計画当時は海上区間の施工時期が未定で、仮に海上横断が橋梁方式となった場合は橋に載せる導水管の構造が複雑化するうえ、海面から約50 mの高さまで揚水する必要があるなど問題点が多く、当該候補は早々と却下されている[55]。なお、海底トンネルは飛島ふ頭と東海元浜ふ頭の間で敷設された[55]。このほか、名古屋港には、知多第二火力発電所(愛知県知多市)から西名古屋火力発電所(愛知県海部郡飛島村)まで天然ガスを送るパイプラインを収容する延長4.6 kmの海底トンネルが存在する[56]。
構造
[編集]3橋の諸元
[編集]名港西大橋
[編集]- 橋長:758 m[7]
- 形式:鋼3径間連続斜張橋[29]
- 支間割:176.5 m + 405 m + 176.5 m[57]
- 桁下:38 m[29]
- 主桁:箱型[58]、幅員16 m(一期線)、19.4 m(二期線)[59]
- ケーブル:ファン型(2面12段マルチケーブル)[60]
- 基礎:ニューマチックケーソン基礎[29]
- 有効幅員:二期線13.75 m (2.25 + 3.5 + 3.75 + 3.5 + 0.75) [57]、一期線12.75 m (1.75 + 3.5 × 3 + 0.5) [59]
- 建設費:一期線 185億円、二期線 300億円[61]
名港中央大橋
[編集]- 橋長:1,170 m[6]
- 形式:鋼3径間連続斜張橋
- 支間割:290 m + 590 m + 290 m[57]
- 桁下:47 m[7]
- 主桁:多室箱型[6]、幅員37.5 m [59]
- ケーブル:ファン型(2面17段マルチケーブル)[6]
- 基礎:ニューマチックケーソン基礎[62]
- 有効幅員:27.5 m(片側13.75 m = 2.25 + 3.5 + 3.75 + 3.5 + 0.75)[57]
- 建設費:730億円[61]
名港東大橋
[編集]- 橋長:700 m[63]
- 形式:鋼3径間連続斜張橋[64]
- 支間割:145 m + 410 m + 145 m[57]
- 桁下:40 m
- 主桁:多室箱型[64]、幅員37.5 m[59]
- ケーブル:ファン型(2面12段マルチケーブル)[64]
- 基礎:ニューマチックケーソン基礎[2]
- 有効幅員:27.5 m(片側13.75 m = 2.25 + 3.5 + 3.75 + 3.5 + 0.75)[57]
- 建設費:410億円[61]
下部工(基礎)
[編集]海上に姿を見せる主塔を海面下で支えるのが下部工(基礎)で、その深さは、T.P.(Tokyo Peil : 東京湾の平均海面[67])基準で、東大橋が約 -34 m[68]、中央大橋が約 -52 m[68]、西大橋が約 -45 m[69]である。3橋に差があるのは、地質構造が東と西では大きく変移しているためで、東側は東海層群が海面から近接することから東大橋はこの層を支持基盤としている[70]。しかし、西に向かうにつれて東海層群は深さを増し、西大橋付近では -100 m以下となることからそこまで掘削することは不可能である。同様に中央大橋でも -70 mで不可能であることから、それよりも上層にある適正な層として、海部・弥富累層(あま・やとみるいそう)を支持層とした[71][72]。
基礎構造の選定において、鋼管矢板基礎方式は、それが超大型となった場合の設計手法が未確立であったことに加え[73]、名古屋港の船舶往来の激しさを加味して、工事専有面積を縮小出来る方式としてフローティング工法(海上に鋼製函体を浮かせてから沈み込ませる工法[74])による[75][76]ニューマチック(pneumatic:圧縮空気の意味[77])ケーソン工法を採用した[29]。これはコップを逆さにして水中に沈めると空気が充満する(空気の圧力によって水の侵入を防ぐ)ことを応用した工法で、コップに相当する巨大な箱(ケーソン:caissonとはハコの意味)を海中に沈め、人間がそこに入れば呼吸しながら海底を掘削できることに加え、地盤を直接肉眼で確認しながら掘削できることが特徴である[78][77]。その施工プロセスは、ケーソン(鉄筋コンクリート製)の型枠となる鋼製函体(縦35 m、横33 m、高さ16 m〈名港西大橋の場合〉[79])を地上で製作したのち所定の場所に沈め、函体にコンクリートを充填し、なおかつコンクリート硬化後に水を注水してコンクリートと水荷重[80]により海底に着底させる。これは函体の重量だけでは潮の干満によって浮き沈みのムラが発生するため、水荷重によって強制的に着底させるものである[81]。着底後、函体底部の作業室に圧縮空気を送って水や泥を押し出し、人間をそこに送り込んだうえで掘削作業を行う。そこでは地上でばらした函内ショベルを作業室に搬入し、組み立て、名古屋港の海の底で人間がショベルを操りながら掘削する[82]。一方、函体上部ではコンクリートを継ぎ足してケーソンを構築し、底部における掘削と上部における継ぎ足しを繰り返しながら[83][78]海面から-45 m(名港西大橋)[84]あるいは-52 m(名港中央大橋)[2]の位置まで沈めてゆくものである。ケーソン頂上部は水面よりも5 m高いことから、名港中央大橋のケーソンの長さは57.5 mに達し[2]、高さ20階のビルに相当する大規模な基礎となった[85]。
ケーソン下部に空気の空間を維持するためには地上から高圧の空気を送って作業室の気圧を高くする必要があるが[87]、海底奥深くまで掘削するに従って水圧も増すことから、それに負けないだけの高圧の空気を送り込めば、やがては血管内に空気(窒素)が大量に溶け込み、それが急激に地上に上昇して大気圧に戻ると血液中に気泡が生じて潜函病(ケーソン病)を発症する[88][77]。気泡が毛細血管に入れば血流を止めることから体の一部が壊死、または死に至るなど、過去には多数の犠牲者を出した経緯から、海外の多くの国ではニューマチックケーソン工法を禁じている[89]。また、潜函病の発症と並んで危惧されるのが、気圧の上昇とともに呼吸抵抗の増大や窒素酔いによる作業効率の低下を招いて事故を誘発する危険の増大である[90][91]。このことから名港トリトンの建設では、ケーソン周辺に大深度の井戸を掘って地下水を揚水することで高圧の圧縮空気を送り込まなくてもよいように取り計らった(ディープウェル工法)[92]。当工法は大深度掘削の中央大橋でも採用されたが[93]、西大橋二期線の掘削にあたって当工法を使うと地盤が影響を受けて近接する一期線の基礎が傾斜することが懸念された[94]。よって、当工法以外で作業員の安全を図る方法が模索され、結果、T.P. - 30 m以下ではヘリウム混合ガス(ヘリウム、酸素、窒素の3種類を混合したもの)を作業員に呼吸させることになった[95]。これに世界初の無人掘削システムを併用するなどして高気圧障害から作業員を守っている[95][96]。
基礎には南北側端部に数メートル規模の突起が設けられている。これは防護工と呼ばれ、船舶が誤って衝突した場合、基礎および主塔を完全に防護するための設備である。防護工があることによって、船首が主塔に接触しないように設計されている[97]。
基礎完成後、その上に主塔が載る。そのために、基礎と主塔基部を連結するアンカーフレームと呼ばれる檻のような巨大な金属棒の一群を基礎の上に据え付けて鉄筋コンクリートで固定した。この棒の一群に主塔にあけられた穴がかみ合うことで両者は連結される。この際、密着面のコンクリートに研磨機をかけて平坦にし、主塔の鉛直精度を確保した[98][99]。主塔据え付け後、アンカーフレームは締結に使用したボルト、ナットの防錆の観点から完全にコンクリートで覆われ、その姿を見ることは出来ない[100]。
なお、先の第二次世界大戦の米軍による空襲によって名古屋港に大量の爆発物が投下された経緯から、下部工の施工に先立って架橋予定地の機雷の確認が磁気探査によって行われた。結果は、爆発物の残存は皆無であった[101][102]。
主塔
[編集]主塔は美観向上の意図の他に、特に西大橋の場合は軟弱地盤に建設されることから重量軽減のためにA形とされた[60]。最初に建設された西大橋のみ、橋軸中心線基準で50 m分離した独立2橋並列とされた[103][注釈 3]。これは北側(上り線)の橋のみ先行供用として、南側は段階施工とするためである[105][106]。50 m分離とされたのは、北側の橋によって乱れた風が南側の橋に不規則な強制振動を与えることを抑制するに適当な間隔だからである[107]。
塔高さは、橋の長さの関係上[108]、中央大橋が最も高く、T.P. + 195 m [109]、次いで東大橋のT.P. + 130 m[110]、西大橋のT.P. + 127 m[69]の順である。この内、東大橋と西大橋は工場でAの形に組み上げてからフローティングクレーンで海上輸送のうえ一括架設を行なったが[111]、中央大橋だけは高過ぎることで、当時最大級の4100トン (t)フローティングクレーンをもってしても一括架設は不可能であった[112]。従って、塔の下段水平梁より上については積み木のごとく小ブロック単位で架設した[113][114]。その際はブロックに沿って足場を組み、異物が混入しないようにして溶接を行った[115]。
主塔の断面形状は、西大橋と東大橋が四角形で、中央大橋だけが八角形である[116]。中央大橋は他の2橋に比べて全高が高く、海風の影響(発散振動[6]:一旦発振すると振幅が徐々に成長する自励振動[117])を受けて主塔が揺らぐ危険性が高いことから、風の影響を抑えるために角を取ることとなった[118]。なお、東大橋も主塔にぶつかった海風が塔を伝うことで猛烈な風圧を受ける点は中央大橋と同様である[118]。
主塔の下段水平梁より下層は、西大橋は塔上部からストレートで基部(底辺)に達し、その形状はAであるのに対し、中央大橋と東大橋はV字型に絞り込んでいる。理由は、下部工の寸法を極力小さく抑えるためである[6]。
主塔内部には3橋ともエレベーターを装備している。主塔塔頂に据え付けられている航空障害灯のほか、主ケーブル、塗装等の維持管理のためである[119][120]。名港西大橋二期線を除いて全て北側の柱(西大橋二期線のみ南側)に設けられている[120]。中央大橋の場合、約3分で頂上へ到着する[118]。
主塔は東側の橋が青、中央が白、西側が赤のトリコロールで塗装されている[121]。最初に建設された西大橋は誘目性、視認性、港のシンボルを考慮して赤とされた[122]。後年になって3橋がグランドオープンするに伴い、色彩に新たな検討を加えることになった。結果、連続する3つの斜張橋は海外にも例がないことから、この景観資源を生かし、港のゲート性を強く印象づけるためにも公団主催の検討委員会の提言によって3橋の色彩を別々にすることになった[121]。これによって、西大橋は親しみなれたイメージを壊さないために赤をそのまま生かし[123]、中央大橋は大白鳥が羽を広げたイメージを表現するために白、東大橋はさわやかな空と海の青が採用された[124][22]。マンセル値では、それぞれ 2.5R4/4(名港西大橋)、10PB9/2(名港中央大橋)、2.5PB4/8(名港東大橋)である[123]。
橋桁
[編集]橋桁は桁高さを抑えて重量軽減を図り、ケーブルの定着性向上と耐風安定性の観点から両端に三角形状のフェアリングを取り付けた薄型偏平六角形の箱型構造である[125][126]。特に名港トリトンは海上に架かる長大支間長の橋梁であるために風の影響を無視できない。海上は高層の建物が密集する陸上よりも表面がなだらかであることから架橋地点の風速は高く[127]、船舶の航行を確保するために桁位置を非常に高く設定していることから3橋とも橋桁に対して概ね60 m/sの風速に耐える設計を行っている[128][129]。風は橋の側面に水平方向の力が働き、橋が水平に長いものであることを考えた場合、橋全体に受ける風圧は膨大なものとなり、その結果として橋を構成する部材が曲がったり、橋を支える下部工に悪影響を及ぼす危険性がある[130]。特に長大支間橋梁では精巧な橋梁の模型を使った風洞実験を行って風に対する安全を保障するが[131]、名港トリトンの3橋もこの例に漏れない[128][129]。風洞実験の結果、発現した振動が有害と判断される場合、それを制御するための空気力学的な対策が実施される[132]。橋桁の両端に鋭角のフェアリングを取り付けて断面を流線形としているのも風圧の作用を少しでも低減するためであり、同様に橋桁の上下長さを小さくして薄型偏平としているのも同様の理由である[133]。風に対する影響を無視できないのは、過去に幾多の落橋事故に遭遇しているからであり、なかでも完成後わずか4か月にして19 m/sの風で落橋したタコマナローズ橋が有名である[117][131][134]。タコマナローズ橋は吊橋であるが、斜張橋の耐風安定も吊橋と共通する問題であり[135]、タコマナローズ橋の落橋原因となった発散振動[117]については名港トリトンの風洞実験でも入念な検討が行われた[129]。
橋桁およびタワー、基礎(ケーソン)の鋼材は大規模であることから陸上輸送が不可能であることに加え[136]、輸送コストの面から海上輸送を基本とした[125]。このため、名古屋港と航路で輸送可能な鉄工企業が選定され、三重県津市の日本鋼管津造船所をはじめ、日本車両製造衣浦工場、石川島播磨重工業愛知工場など近在の企業のほか[137][138]、横浜市や遠くは北九州市[125]、愛媛県東予市(現・西条市)で製作されたものが名古屋港まで曳航された[139]。橋桁の場合、概ね15 m(西大橋は7 - 12 m[140])程度の単ブロックを台船に載せて直接現地に運ばれている[141]。
橋桁の架設方法は、側径間が工程の短縮、作業省略の意図からベント(Bent:橋脚を意味するが日本では仮支柱をベントと呼ぶ。ステージングともいう[142])工法による架設[143]、中央径間側は航路確保の前提からベントを設けずに橋桁を渡す張り出し架設工法(カンチレバー工法ともいう:Cantilever[144])を用いた[111]。側径間は橋桁4ブロックを工場であらかじめ一体化して大ブロックに仕立ててからフローティングクレーンで吊り上げてベント上に載せた[145]。中央径間の場合、大ブロック上に直下吊りクレーンを設置のうえ、台船で曳航された橋桁単ブロックを直下吊りクレーンで持ち上げて大ブロックに継ぎ足し、これを両側から中心部に向かって繰り返して橋桁を伸長した[146][111]。
橋桁の色は名港西大橋一期線竣工時は主塔と同じ赤が採用された[122]。しかし、中央と東の完成を機に陸上区間の高架橋との統一感を考慮のうえ、青い空、海に連続した水平線を表現するために3橋とも白とされた[124]。なお、陸上高架橋は、第二東名と伊勢湾岸道路が東海ICで接続するにあたって、第二東名と伊勢湾岸道路の塗り分け位置、桁の色彩検討が行なわれた[147]。この結果、新宝ふ頭で桁は白色に変化してそのまま名港東大橋の橋桁に連結することになり、見た目の連続性が確保された[124]。
3橋の中で橋桁が最も高いのが中央大橋で、直下の航路空間を47 m確保、次いで東大橋の40 m、西大橋の38 mである[148]。ただし、日本道路公団と名古屋港管理組合が協議のうえ名古屋海上保安部に提出した桁下空間はこれとは異なり、名港中央大橋は55 m、名港東大橋は41 m、名港西大橋は39 mとなっている[149]。これと連動して中央大橋の路面高さが最も高くなっている。設計当初は当時考えられる限りの大型船の通行を考慮して桁高さを決定し、西大橋の場合はカーフェリーの「いしかり」(マスト高36 m)が対象とされた[150]。また、中央大橋の場合は、航海練習船「日本丸」と「海王丸」の高さを基準としたことから、海上から橋桁までの空間が概ね50 mで計画された[151]。しかしながら、後年になってより巨大なクルーズ船が名古屋港に寄港することになった。ダイヤモンドプリンセスのほか、クァンタム・オブ・ザ・シーズやボイジャー・オブ・ザ・シーズが寄港した際は、名港中央大橋の許容高さ51 m(桁下空間は55 mだが、余裕を4 m以上保持する決まりから51 m[152])を超過することから客船用のガーデンふ頭[153]に接岸することが叶わず、貨物船用の金城ふ頭に接岸している[154][155][156]。なお、外国客船が寄港することによる地域への経済効果は4000万円ともされ、名古屋港としてもその恩恵に与ろうと誘致に力を入れているが、いかんせん中央大橋をくぐれないことから金城ふ頭受け入れとならざるを得ず、入国態勢が貧弱なこともあって他港に出し抜かれているのが現状である[157]。
橋桁には桁に吊り下がるようにして検査車が設置されている。主桁外面の点検、塗装作業のためで、これにより修理の際は困難な足場を組むことなく作業できる。特に大規模橋梁の大敵は微細なさびであることから、発見次第適切な処置を施している[158]。検査車は前後の径間に1台、中央部に1台で、一つの橋に対して3台付属し、各径間を分速8 mで移動できる[158]。動力はディーゼルエンジンで、躯体は防錆、軽量化の観点からアルミ合金製である[159][160]。また、景観性を考慮して塗色は橋桁と同一として、下面には化粧板を取り付けている[120]。
橋脚と主塔の上に位置する橋桁は、後述する弾性拘束ケーブルのほか、支承と連結するための接合部がある。橋端部は大きな負反力(この場合は上に向かう力)が生じ、かつ橋軸方向の移動も考慮して、アイバー形式のペンデル支承を用いている[161][162]。ただし、橋軸直角方向(橋軸方向は車の進行方向、対する橋軸直角方向は橋軸に対して90度直角の方向)には抵抗できないため、水平支承を左右に配置した[161]。一方、主塔部には中間支承を各2個ずつ配置して、いずれも橋軸方向のみ可働とした[161]。
橋桁の上にはアスファルトを舗装しているが、これを2層として表層は排水性舗装、下層(すなわち鋼床板上)は空げき率がほとんどなく防水性に優れたグースアスファルトを舗装した。これにより排水性舗装に浸透する水をグースアスファルトで遮断することで鋼床板の腐食を防いでいる[163]。
ケーブル
[編集]3橋ともファン型(fan:扇子の意味[164])で張られたマルチ(多数段[165])ケーブル方式を採用した[166]。少数段(例:Erskine橋)に比べ、一本あたりのケーブル張力が少なくて済み、橋桁などへの連結もコンパクト化できること、および張り出し架設時にケーブルを利用できるメリットがある[165][167]。西大橋一期線で採用されたマルチケーブル方式は、その有用性から中央、東大橋でも採用され、他の橋でも積極採用されている[165]。
ケーブルは名港西大橋一期線を除き、NEW-PWS(名港東大橋はHiAm)で、直径7ミリメートル (mm)の鋼線を平行(わずかなねじりを加えているが、これはリールへの巻き付けを容易化するためである[168])に配置して1つのストランド(束)としている[169][170]。
中央大橋の場合、主塔から伸びるケーブルは17本ずつで重さ2万トン以上の橋桁を支えている[22]。直径7 mmの亜鉛めっき鋼線を397本から199本の間で束ねて(都合10種類製作)、最も太い場合で直径17センチメートル (cm)の一本のケーブルとしてまとめた[133]。ケーブル1本に働く張力は最大で810トンである[108]。ケーブルは樹脂で被覆して塩害対策を施し、寿命を100年と想定している[22]。また、中央大橋だけはライトアップ効果を図るため、ケーブルを主塔と同色の白いフッ素樹脂被膜で覆っている[6]。残る2橋は塔の色が映える黒を基調とした[171]。
ケーブルによって橋桁は安定性が保たれるが、ケーブルがひとたび振動を起こすと橋全体が危険な状態に置かれる。ケーブルが振動を起こす要因の一つに雨が挙げられる[172]。雨がケーブルを伝う際に水みちが発生し、これに特定の速度帯の風が吹くとケーブルが大きく揺れるが、これをレインバイブレーションと呼ぶ[172]。名港トリトンのケーブルにはこのレインバイブレーションを抑えるゴムないしダンパーが取り付けられている[173]。
耐震システム
[編集]3大橋でとりわけ特徴的なシステムが橋軸方向に対する主塔と橋桁の固定システムである。地震が発生した場合、水平に働く力が橋桁に大きく作用することで主塔に悪影響を及ぼすことから[174]、水平力を低減するシステムとして採用されている。ただし、橋桁は金属製であるがゆえに温度によって伸縮することから(鉄道のレールが夏の暑さで伸びて曲がることと原理は同様)、仮に橋桁と主塔をピンで固定してしまうと、伸縮によって主塔に曲がる力が作用する。これが結果的に下部工に負担を及ぼすことでケーソン底面の地盤が影響を受けて沈下することが懸念された[175]。特に西大橋付近は軟弱地盤で、主塔形状も軽量化の意図でA形とされていることは既述している。
そこで地震および温度変化における水平力を緩和するために開発されたのが「弾性拘束ケーブル(略称はMCD、Meiko-Cable-Damper System)」である[176]。弾性拘束ケーブルとは主塔と橋桁にケーブルを固定するための突起を設け、これを張力をかけたケーブル2本で連結することで、ケーブルの降伏伸びをダンパーとして利用したものである。これによって主塔に作用する力は2点ピン固定比で4割減少するとしている[176]。MCDは橋桁内部のシステムのため、普段は目にすることはない。本システムは橋の固有周期を地震による卓越周期から離して長周期地震動を低減できることが大きなメリットであり[177]、西大橋一期線で初採用されて以後、中央大橋や東大橋でも採用されている[169][178]。
当時の最高水準の水平力低減システムとして開発されたMCDも、今後想定される東海・東南海地震が発生した場合、MCD自体が損傷することが後に明らかとなり、耐震性を高める必要もあって2016年(平成28年)以後、MCDの耐震機能を廃止して、油圧ダンパー追加および従来から設置されている支承を免振タイプに交換、さらにペンデル支承の万一の破損に備えて橋桁の浮き上がりを防止するためのアップリフト防止ケーブルを取り付ける工事を施工し、西大橋一期線については2017年(平成29年)8月に完工した[179]。ただし、主桁に作用している圧縮力のバランスを保つ名目でMCD自体は残した[180]。
その他設備
[編集]港を横断することから航行船舶の安全確保のために橋梁標および航路標識灯を設置している。中心灯、側端灯、橋脚灯として海上保安庁規定に基づいた器具を各々設置している[181]。また、防護柵の四隅にも橋脚基部表示灯を設置している[181]。橋脚灯と橋脚基部表示灯は3秒に1閃光の単閃黄光で同期点滅し、実効光度52カンデラ、4海里まで光達する[182]。なお、名港西大橋の橋梁標は2橋が向き合う側には無設置となっている[181]。
航空法に基づいて航空障害灯を設置している[183]。これは地表(水面)から60 m以上の高さの施設について設置が義務付けられているためである[183]。なお、名港西大橋一期線が事業着手された1980年(昭和55年)[184]に航空法施行規則の一部が改正され、昼間航空障害標識としての高光度航空障害灯(カメラのフラッシュのように白く閃く灯具)を設置した場合は施行規則に基づく塗装(黄赤と白のコンビネーション)の対象外とされたことで、主塔の色を自由に選べることになった[184]。もし改正されていなければ、主塔は送電線の鉄塔のような黄赤と白に塗装されるところであった(東京タワーの塗装がその代表例)。
ライトアップ
[編集]3橋は夜間の一部時間帯にライトアップを実施している。この内、中央大橋のみ季節ごとにライティングカラーを変えるため、848個の水銀灯を取り付けている[185]。中央大橋は各ケーブル毎にライトを用意し、白のケーブルに沿った投光パターンにより斜張橋特有の構造美を表現する[186]。一方、西大橋と東大橋はケーブルは照射しない代わりに主塔と主桁に投光することで、中央大橋とは別の構造的表現を行なっている[186]。灯具にはルーバーを設け、通行車両に対するグレア防止を図った[187]。
ライティングのテーマカラーは、春がグリーン(若葉のイメージ)、夏がブルー(海と空のイメージ)、秋がグリーンイエロー(紅葉のイメージ)、冬がレッド(暖炉のイメージ)である[186]。点灯時間は、当初から日没に合わせて開始時間を変えており[188]、現在も月によって18時から22時と19時から22時の2通りで点灯されている[189]。また、クリスマスや年末年始、ゴールデンウィークには特別点灯が実施される[189]。
ライトアップは基本的に地元負担とされ[190]、ライティング用機材6億円は名古屋港管理組合が負担し、電気代も同組合が負担している[191][121]。日本道路公団(現、NEXCO中日本)は高額な斜張橋の建設費が通行料金に跳ね返っていることからライティング費用の負担については消極的である[192]。また、ライトアップ効果向上用として白のフッ素樹脂皮膜に要した費用も名古屋港管理組合が負担している[193]。ただし、名港西大橋一期線のライトアップ設備は公団設備のため、維持管理費用および電気代は公団持ちとなっている[193][194]。
なお、ライトアップは1989年(平成元年)の 世界デザイン博覧会開催中に名古屋港のイメージアップを狙って、7月14日から11月26日までの日没から22時の間で西大橋を点灯したのがその起源である[195]。その後、1991年(平成3年)の年末から翌年の年始の期間でライトアップを再開している[196]。
広告
[編集]日本道路公団は伊勢湾岸道路建設に当たり、一般人に道路を啓蒙することを目的としてコーポレートアイデンティティ(CI)活動を行なった。ネーミングを「夢渡り21」として、シンボルマークは、伊勢湾岸道路の3つの大橋、道路が第二東名・名神、名古屋環状2号線、東海環状自動車道の3つの路線の一部となること、公団と建設会社および地域住民の三者の協調理解、21世紀への夢の橋渡し、の4テーマを元に決定した[199]。また、建設事業のイメージアップのため、金城ふ頭三丁目に「JH夢渡り館」なる事業紹介施設をオープンさせた[200]。
名港3大橋のシンボルネームを募集するにあたり、1997年(平成9年)3月14日に記者発表を行なった[19]。3月15日から5月8日まで愛称募集が行なわれ[201]、47都道府県全てから応募がなされた[19]。なお、応募県上位は1位愛知県、2位東京都、3位三重県であった。最終的に20004通(13059作品)の応募がなされ[19]、愛称選考委員会による6月27日の最終選考を経て、7月20日の名古屋港ガーデンふ頭ポートハウス[197]にて岐阜県出身の塾講師が考案した「名港トリトン」を発表した[202][203]。選考委員は、愛知芸術文化センター館長(選考委員会委員長)をはじめ、大学助教授、作家、俳人、新聞社編集局長などで構成した[203]。愛称は道路標識のほか、パンフレットなど広告に広く使用した[198]。
1998年(平成10年)3月30日の開通を前に、事前案内リーフレットおよびポスターが作成され、イメージキャラクターとして佐藤藍子を起用した[204]。
歴史
[編集]構想・計画
[編集]名港トリトンとその取り付け道路(東海IC - 飛島IC間)は名古屋環状2号線の海上区間であり、あくまで環状道路の一部分として構想された[205]。その起源は1964年(昭和39年)で、1975年(昭和50年)を目標年次とする長期港湾整備計画の策定に端を発している[36]。計画では名古屋市を取り巻く名古屋環状2号線と名古屋港を連絡する名目で、南と西のふ頭間のほぼ中央を大橋で連絡する構想が初めて示され、そのルートはほぼ現在の名港トリトンと一致している[36]。この横断ルートは名古屋環状2号線のルートに組み込まれたが[206]、1967年(昭和42年)3月の名古屋環状2号線(一部)の都市計画決定にあたって陸上区間は現行ルートに決定されたものの、海上横断ルートについては路線計画が進んでいないために計画から除外された[207]。この時点では、海上区間は臨海工業地帯の適地を横断する、といった程度の構想に過ぎなかった[208]。
やがては並行する国道23号と国道1号の慢性的な渋滞を緩和する意図から、計画中の第2名四国道(飛島 - 三重県三重郡川越町間)を東海市まで延伸することになった[209]。この内、東海IC - 飛島IC間が環状道路と第2名四国道が重複し、当初は両道路を上下に並行して環状道路が往復6車線、第2名四国道が往復4車線の合計10車線で計画された[210]。しかしながら、名古屋港通過箇所は橋の規模が大きくなり、建設費が3千数百億円と事業化の見通しが得られないことに加えて、交通量の将来予測が見込みよりも減少することが明らかとなった。このため、1976年(昭和51年)には両道路を統合して、シングルデッキの往復6車線に変更した[210]。これと併せて第二名四国道は東は豊田市まで、西は四日市市まで延長された[211]。
豊田 - 四日市間を連絡することで、国道23号の混雑解消のほかに東名高速と東名阪自動車道を結ぶ新たな動脈として期待がかかる第2名四国道(以下、伊勢湾岸道路と記述)だが、全線着工するには莫大な費用を要し、名古屋港横断区間の橋梁建設に長い期間を要することから、特に地元要望が強く、緊急性が高い金城ふ頭 - 西2区間の着工が望ましいとされた[48][212]。建設に当たっては当面、西大橋のみの短区間営業となることから、予想通行台数は約1万台にとどまるとの予想を受けて半分の幅員で先行開業することとされた[45]。このため、西大橋の建設を第一期と第二期に分けることになり[213]、第一期として北側(現・上り線)の橋のみが建設されることになった[30]。
建設のための調査、予算請求手続きが進行する中で、港湾計画および都市計画が未決定のため[45]、名古屋港管理組合や自治体は架橋反対を唱える船舶関係者への説得や、建設省に海難事故防止のための種々の申し入れを行ない[214]、1979年(昭和54年)3月に港湾計画に、同年8月に東海 - 飛島間の都市計画が決定した[210]。これを受けて同年12月に建設大臣より名港西大橋の事業許可が下され[215]、建設に着手した。
西大橋開通
[編集]1985年(昭和60年)3月20日、3橋の先陣を切って名港西大橋(北側・現在の上り線)が暫定往復2車線にて、有料道路「名港西大橋」(路線名は一般国道302号)として供用開始した[29]。この時は金城ふ頭側に料金所が設置された[218]。なお、その翌日より金城ふ頭で開催された「輸入博」(ワールド・インポート・フェア・ナゴヤ)は西大橋開通に合わせたイベントとして企画された[218]。開通当初の西大橋の利用台数は1日平均1,700台で、事業主体の日本道路公団の当初予測たる8,900台を大幅に下回った(ただし通行量は年々1割程度の上昇を見せた[219])[220]。事業費185億円[105]に対して全くの赤字経営で、会計検査院による調査が入るなど、投資対効果の点で疑問が付された[220]。地元経済界の強い要請で先行建設された割には、蓋を開けてみれば、西大橋の主要な収入源と目論んでいた港湾物流業界から全く見放された格好であった。開通当初の西大橋の通行料金は西二区(現・木場金岡ふ頭) - 金城ふ頭間3.2 kmの通行で片道1,400円(特定大型車)であったが、そもそも高額な通行料金を支払ってまで利用する大きな理由は、行きたい場所に短時間でアクセスできるからである。ひるがえって当時の西大橋は、それ自体で道路が完結しているため、四日市方面や北陸、静岡方面にアクセスするには、西大橋を渡ってから国道23号や国道1号に出なければならず、広域アクセスする業務交通にとって西大橋を利用した場合の時間距離短縮効果は皆無に等しかった[220]。それならば、わざわざ西大橋を使わずとも最初から国道23号および国道1号を使った方が経費節約となるため、西大橋は港湾業界から全く見向きもされない状況に陥ることになった[220]。当時の西大橋は行楽客主体の利用で、伊勢湾に沈む夕日を見るための隠れたスポットであって、増収に結びつかないこれらの利用方法は公団関係者にとって頭痛の種であった[220]。なお、この状況を打開するべく、公団は港湾物流の利用促進を狙って業界に回数券を売り込んだが、冷たくあしらわれるだけだった[220]。
西大橋の低調さをさらに印象付ける出来事として、通行量が少ないことをいいことに[27]、港の夜景を眺めるためにカップルが大挙して西大橋に押し寄せ、路肩に駐車のうえ、週末にはその列が1 kmに及ぶこともあった[219][221]。当時は往復2車線で中央分離帯もなかったことから、料金所の無い飛島側から西大橋に入り、夜景をみてからUターンして料金を払わずに退出する者が続出した[221]。カップルが去った後には多数の落書きとごみが残され、職員がそれを片付けるのが仕事の一つであった[221]。この頃、同じ問題で悩む横浜ベイブリッジを公団職員が訪ねて対策を聞くも、監視カメラ導入やパトカーによる監視体制があっても一向に効果を上げ得ないとのことで、まるで打つ手がない状況であった[221]。その後、一応の対策として退散を促すスピーカーを設置しているが、これは付近に民家が無いことを逆手に取った対策であった[219]。
以上の如く、西大橋単独の開通では物流ルートとして全くといっていいほど機能しなかった[221]。この状況を一刻も早く脱するためには残り2橋を含む豊田 - 四日市間の全線早期開通が望ましいことから、地元の要請を受けた国は建設に向けて重い腰を上げることになった[222]。ただし、財政難であることから国は早期着工の条件として地元経済界にも応分の負担を求めることになった。
残る大橋の建設
[編集]通常であれば、公団が事業主体となる一般有料道路事業は、財政投融資(郵便貯金などを財源とする資金)及び金融機関からの借金によって実施される[223]。借金である以上は公団には毎年利息を払う義務が生じるが、公団の負担を減じるために税金を投入することで公団の利子負担を約6パーセント(この公団が負担する割合を資金コストと呼ぶ[224])に抑えている。今回は財政投融資金に代えて民間からの資金を導入してより公団の利子負担を減らそうというものである[223]。具体的には、日本道路公団が発行する公団債(低利縁故債)を地元経済界が低利で引き受けるという内容で[225]、通常の金融機関向け縁故債と比較して、表面利率で0.1パーセント、発行価格で50銭低く設定されるなど、公団にとってはより低利な資金調達を可能としている[226][227]。また、それでも不足する資金については地元協力を仰ぐことになり、インターチェンジ等の用地確保に要する交渉、資金は地元が一部協力することになった[223]。
以上の方策によって国の負担は2割低減することが見込まれ[228]、こうした調整が実を結んで、残り2橋の建設も1986年(昭和61年)3月には政府自民党によって決定した[229]。そして満を持して1987年(昭和62年)11月、従前に許可されていた有料道路「名港西大橋」の事業変更という形で、東海 - 金城ふ頭間が一般有料道路「伊勢湾岸道路」として事業許可され[230]、中央大橋の下部工が1989年(平成元年)12月に発注された[231]。ただし、この時点では名港西大橋下り線(二期線)の事業許可を受けられる目処は立っておらず、半ば見切り発車的な工事スタートとなった[232]。
工事は6.1 kmの短い区間に3つの斜張橋が連続して建設されるという世界でも前例がない大工事となり、加えて名港中央大橋クラスの長大支間斜張橋も公団としては施工例が少ないこともあって手探り状態の設計、工事となった[232]。なお、名港西大橋下り線(二期線)の事業許可が下りたのは1993年(平成5年)7月と非常に遅く、これが尾を引いて当初予定の1996年度開通を1年延期に至らせた[232]。設計は軟弱地盤であることも手伝って事業化以前より橋種が猫の目のように変わり[40][233]、特に中央大橋は事業許可が出る2年半前になってようやく現行の斜張橋方式に決定している[17]。その後も設計変更や施工方法の見直しが相次いだうえに[61]、当初は豊田 - 四日市間の自動車専用道路であった伊勢湾岸道路が、第二東名、第二名神に取り込まれたことで[234]、道路規格を高速自動車国道並に揃える必要が生じた。このため都市高速並みの低規格で設計された名港3大橋は規格アップされることになり[235]、結果、始終何らかの設計変更がつきまとう斜張橋となった。
施工に至っては海上高く架かる橋だけに1年を通して風が強く、夏の鋼床板上の作業は気温60度と厳しかった[163]。中央大橋は主塔に足場を組んで溶接しながらT.P. + 195 mまで建設したが、現場は異物が入らないように完全密閉のうえ溶接することもあって蒸し風呂状態であり、それも海上から100 m付近の高所作業である[115]。こうした劣悪な条件下で溶接接合によるひずみや寸法誤差を抑えて施工精度を確保しなければならなかった[163]。また、新宝ふ頭などは現場に隣接して自動車輸出基地があって、コンクリートから出る水や鋼のさび汁が新車に降りかからないように作業の都度ブルーシートで現場周辺を覆うなど気を遣う作業となった[193][236][141]。こうした苦難の末に1998年(平成10年)3月に「名港トリトン」としてグランドオープンするに至った。
3大橋開通後
[編集]名港トリトンはあくまでその前後を高速道路で直結のうえ、東名高速と東名阪自動車道を連絡してこそ、その真価を発揮できるのであって[220]、実際、1998年(平成10年)3月の3橋のグランドオープンおよび名古屋南IC - 東海IC間が供用開始した後も依然として赤字経営であった[31]。しかし、1986年(昭和61年)時点における逆風のさなかにあっても、建設省は3橋を境にして名古屋南IC直結(すなわち国道23号名四バイパスに連結)で1日交通量約2万台、続くみえ川越ICまでの開通(同様に国道23号に連結)で約4万台、そして最終的に東名高速と東名阪道の連結で約6万台と強気の予想通行量を算出したが[237]、結果は建設省の予測を上回る形で現れた。
3大橋のグランドオープンを含む名古屋南IC - 名港中央ICの開通以降は利用台数が急激に増加し始め、2002年(平成14年)のみえ川越IC連結による国道23号のバイパスルート完成によって2万5000台に増加[238]、その後も増加傾向は続き、2017年(平成29年)4月には10万500台を記録した[239]。このことは、高速道路とは一定のネットワークを形成して初めてその真価を発揮することを示し[240]、その中間部分(名古屋港の横断部分)だけを構築してもほとんど意味を成さないことを名港トリトンの歴史は如実に示している。
名港西大橋が単体で開通していた頃の港湾物流業者の嘆きの一つに、港が世界と結ばれても国内各地とは結ばれていないということがあった[241]。名古屋自体は各高速道路と結ばれているが、名古屋港と直結する高速道路は当時1本も存在しなかった。当時、勢いを増す名古屋港のコンテナ貨物も、それを国内各地に配送するための道路が常時渋滞する一般国道のみとあっては、国際貿易港の機能が著しく損なわれる状態におかれることになった[241]。名港トリトンが港を通り抜けて各高速道路と結ばれている今日、それは当時の港湾物流業者が十数年先のこととして頭に思い描いた未来の道路網そのものであった[241]。
年表
[編集]- 1964年(昭和39年)5月16日 : 名古屋港管理組合は長期港湾整備計画を発表。ここで海上横断道路の構想を初めて示した[206][36]。
- 1969年(昭和44年)4月 : 名古屋環状2号線の名古屋港横断箇所(海上区間)について建設省直轄の幹線道路整備計画の一環として調査開始[29][242]。
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)2月6日 : 西二区 - 金城ふ頭間の地質調査開始[243]。
- 1976年(昭和51年)8月30日 : 建設省で名古屋港3大橋の予備設計が開始。ゲルバートラス橋案を完全破棄して斜張橋と吊橋案で計画推進[25]。
- 1978年(昭和53年)12月23日 : 名古屋港管理組合は3橋の構造、長さ等を含む港湾計画を名古屋港湾審議会に諮り、了承を得た[45]。
- 1979年(昭和54年)
- 1980年(昭和55年)
- 1981年(昭和56年)11月17日 : 名港西大橋一期線の起工式を仲谷愛知県知事、本山名古屋市長臨席のもと名古屋市国際展示場で挙行[246][245]。
- 1983年(昭和58年)8月1日 : 西大橋一期線の主塔設置工事完了[247]。
- 1984年(昭和59年)7月24日 : 一期線主桁が閉合[247]。
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)3月22日 : 政府自民党は中央大橋、東大橋を含む豊田市 - 四日市市間の建設推進を正式決定[229]。
- 1987年(昭和62年)
- 1988年(昭和63年)5月31日 : 日米両政府間合意された日本の建設市場開放に関わるマスタープランと年度発注計画を公表[33]。
- 1989年(平成元年)
- 1990年(平成2年)
- 1991年(平成3年)
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年) 11月24日 : 名古屋市市議会で計画局長が名港三大橋の夜間ライトアップを計画していることを表明[192]。
- 1995年(平成7年)2月23日 : 名港東大橋東西主塔工事竣工[259]。
- 1996年(平成8年)
- 3月15日 : 名港中央大橋東西主塔工事竣工[259]。
- 6月22日 : 名港中央大橋の主桁が閉合[260]。
- 7月13日 : 名港中央大橋の橋桁連結式典を挙行。愛知県知事と名古屋市長によるセレモニー後、「夢渡りフェスティバル」として市民への公開(翌14日も実施)のほか、橋上結婚式や橋上テニススクールを開催[261]。
- 8月10日 : 名港東大橋の主桁が閉合[262]。
- 8月26日 : 名港西大橋二期線東西主塔工事竣工[259]。
- 9月5日 : 名港東大橋の橋桁連結式典を挙行。東海市長や東レの従業員が金ボルトを締結[263]。
- 11月11日 : 名港西大橋一期線(暫定往復2車線)を片側3車線化するための工事の施工に伴って11日から26日まで夜間通行止めを実施[264]。
- 1997年(平成9年)
- 1998年(平成10年)
伊勢湾岸道路
[編集]一般国道自動車専用道路 (A') (有料) | |
---|---|
E1A 伊勢湾岸道路 | |
路線延長 | 7.2 km (本線6.1 km・連絡路1.1 km) |
開通年 | 1985年 - 1998年 |
起点 | 愛知県東海市新宝町 |
終点 | 愛知県海部郡飛島村木場 |
接続する 主な道路 (記法) |
記事参照 |
■テンプレート(■ノート ■使い方) ■PJ道路 |
概要
[編集]東海IC(第二料金所)から飛島IC(第一料金所)に至る延長7.2 km(本線6.1 km、連絡路1.1 km[226])の路線を、一般国道302号自動車専用道路「伊勢湾岸道路」と称する[271][272]。日本道路公団の一般有料道路事業として整備されたことから一般有料道路となっている[8]。名港トリトンの3橋はこの伊勢湾岸道路に含まれている。なお、「伊勢湾岸自動車道」とは、この「伊勢湾岸道路」と「第二東名高速道路」の豊田東JCT - 東海IC間、および「第二名神高速道路」の飛島IC - 四日市JCT間(計56.4 km)の総称である[234]。
路線は「高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路」である。一般国道302号と国土開発幹線自動車道(高速自動車国道)を兼務する。これは隘路(名古屋港)を横断する道路を2本造るよりも、一般国道の整備に際して高速走行可能な自動車専用道路として建設する方が経済的であるという発想からこの位置付けを得ている[273][注釈 4]。これにより、一般国道の役割を果たしながら高速自動車国道の機能も代替させるとしている。よって、東海ICで第二東名高速道路に、飛島ICで第二名神高速道路に接続し、この両道路の橋渡しを担なうと同時に、一般国道302号の一部区間をも構成している[274]。
伊勢湾岸道路の道路規格はその前後で接続する高速自動車国道(第二東名、第二名神)と同一で、道路規格第1種第2級、設計速度100 km/hである[275]。一般国道でありながら接続する高速自動車国道と同一スピードで走行するために、東海IC - 飛島IC間については規制を設けることで一般国道の交通規則の例外として認められているが[205]、この点については後述する。これに関連して、当該区間には最低速度が設定され、このため50 km/h以下で走行することは禁じられている[205]。また、名港トリトンを含む伊勢湾岸道路には4つのインターチェンジ(東海IC、名港潮見IC、名港中央IC、飛島IC)が設けられている[275]。各インターは名古屋港に点在する物流拠点や石油化学工場、鉄鋼生産基地付近に敷設され、工業色が濃厚なICとなっている。
なお、この区間は高速自動車国道の路線を指定する政令によって[276]東海IC - 名港中央IC間[9]が第二東海自動車道横浜名古屋線、名港中央IC[9] - 飛島IC間が近畿自動車道名古屋神戸線に指定されている。
伊勢湾岸道路の歴史については伊勢湾岸自動車道#歴史を参照されたい。
路線データ
[編集]- 有料道路名 : 伊勢湾岸道路[275]
- 路線名 : 一般国道302号[275]
- 主な経由地 : 海部郡飛島村、名古屋市港区、東海市[275]
- 道路区分 : 第1種第2級[275]
- 車線数 : 6車線(片側3車線)[275]
- 設計速度 : 100 km/h[275]
インターチェンジなど
[編集]IC 番号 |
施設名 | 接続路線名 | 起点 から (km) |
備考 | 所在地 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
E1A 伊勢湾岸自動車道 豊田東方面 | |||||||
7 | 東海IC | 国道302号(名古屋環状2号線) 国道247号(西知多産業道路) 県道59号名古屋中環状線(国道247号重複) 県道55号名古屋半田線 |
0.0 | 第二料金所 - 本線間の連絡路は約0.4 km[226] | 東海市 | ||
- | 名港東大橋 | ||||||
名古屋市港区 | |||||||
8 | 名港潮見IC | 県道225号名古屋東港線 | 1.7[226] | ||||
- | 名港中央大橋 | 北航路(法定航路) | |||||
9 | 名港中央IC | 市道金城埠頭線 | 2.4[226] | ||||
- | 名港西大橋 | ||||||
飛島村 | |||||||
10 | 飛島IC | 国道302号(名古屋環状2号線) 県道71号名古屋西港線 |
6.1[226] | 本線 - 第一料金所間の連絡路は約0.7 km[226] | |||
E1A 伊勢湾岸自動車道 四日市方面 |
東海IC第二料金所 - 飛島IC第一料金所間の連絡路込みの距離は7.2 km[226]。
路線状況
[編集]車線・最高速度
[編集]区間 | 車線 上下線=上り線+下り線 |
最高速度 |
---|---|---|
東海IC - 飛島IC | 6=3+3 | 100 km/h |
主な橋梁
[編集]伊勢湾岸道路は全区間が橋梁により構成され、土工部はない(連絡路を除く)[277]。海上部は斜張橋、陸上部は高架橋である[275]。名古屋港港域部および人為的に造成されたふ頭を横断する橋梁群である[275]。名港トリトンの3橋は陸上の高架橋を介して連結され、東側から新宝高架橋、名港東大橋、潮見高架橋、名港中央大橋、金城高架橋、名港西大橋、飛島高架橋の順に敷設されている[278]。
区間 | 架橋区域 | 構造物名 | 長さ ()は上り線 | 形式 |
東海IC付近 | 新宝ふ頭 | 新宝高架橋 | 845 m (890 m) | PC床板鈑桁・RC床板箱桁 |
東海IC - 名港潮見IC | 名古屋港C水域 | 名港東大橋 | 700 m | 鋼斜張橋 |
名港潮見IC付近 | 潮見ふ頭 | 潮見高架橋 | 738 m | RC床板箱桁・鋼床板箱桁 |
名港潮見IC - 名港中央IC | 名古屋港B水域 | 名港中央大橋 | 1170 m | 鋼斜張橋 |
名港中央IC付近 | 金城ふ頭 | 金城高架橋 | 1410 m (1406 m) | RC床板箱桁・鋼床板箱桁 |
名港中央IC - 飛島IC | 名古屋港A水域 | 名港西大橋 | 758 m | 鋼斜張橋 |
飛島IC付近 | 木場金岡ふ頭 | 飛島高架橋 | 496 m | RC床板箱桁・RC床板鈑桁 |
(出典:『伊勢湾岸道路工事誌 写真集』日本道路公団名古屋建設局伊勢湾岸道路工事事務所、平成10年3月、10-13頁)
伊勢湾岸道路の東海IC - 飛島IC間は、当初は名古屋環状2号線専用部(名古屋第二環状自動車道)の道路規格で計画されたことから、第2種第1級(設計速度80 Km/h)として設計された。その後、東海IC以東と飛島IC以西が第二東名と第二名神に取り込まれたことから、第二東名と第二名神をつなぐ東海IC - 飛島IC間(6.1 km)についても、第二東名、第二名神に合わせた道路規格のアップが必要となった(第2種第1級〈設計速度80 km/h〉→第1種第2級〈設計速度100 km/h〉[280])。この時点で、計画中の施設については設計変更で対応したが、既に営業していた名港西大橋一期線とその前後の取り付け道路については、規格アップにおいて道路を拡幅する必要があった。このため、斜張橋については主桁の幅は変えずに高欄の移動で対応し、路肩幅員の拡幅を図った[280](詳細は名港西大橋#構造を参照)。一方の陸上高架橋については、鉄筋コンクリート製の高欄をカッター切断のうえ、鉄筋を溶接で継ぎ足し、新製した鋼製の桁をボルト接合するなどして床板を増設した[279]。
高架橋のうち、名港中央ICを境として東側が上下線一体構造、西側が上下線分離構造となっている。西側が上下分離とされたのは、名港西大橋が半断面で先行して建設されたためである[281]。
伊勢湾岸道路の橋梁は名古屋港を横断することで、国際港名古屋港のゲートイメージを体現することから、それにふさわしいデザインを導入した[282]。伊勢湾岸道路の橋梁群のうち、斜張橋についてはA形形状や配色にはトリコロールの採用をおこなったが、陸上高架橋についてもデザイン検討された。中でも、金城ふ頭は商取引の会場である名古屋市国際展示場(ポートメッセなごや)や、将来はオフィス街としての計画もあることから、景観的配慮が特に重要視された[282]。このため、橋脚は短形断面として、柔らかく、そして親しみを出すために四隅を20センチ程度の直線面取りを行なった[282]。四隅を丸めなかったのは、近接する斜張橋の直線的なイメージとのバランスにそぐわないからである[283]。また、橋脚中央にスリットを設けて、そこに排水管を内蔵した[282]。
伊勢湾岸道路が事業化された1987年(昭和62年)は、第二東名、第二名神が国土開発幹線自動車道建設法にその予定路線として盛り込まれた年でもあった[234]。計画段階で高コストとなることが予想された第二東名、第二名神は、国からコスト低減を要請されるに至り[285]、従来の工法を大きく見直す契機ともなった。そして、第二東名と第二名神の予定路線の一部を成す伊勢湾岸道路においてもその余波を受けることになった。折しも第二東名として最も早い着工区間となった名古屋南IC - 東海IC間と伊勢湾岸道路は東海ICで直接つながっている上に、陸上高架橋の設計、検討時期が両者でほぼ重なったことから、第二東名で試験採用予定の新工法を伊勢湾岸道路の新宝高架橋と飛島高架橋にも採用することになった[286]。新工法とは、鋼少数主桁の開発であり、従来形式の主桁と比較して橋軸直角方向の主桁を7本から3本に低減させる工法である。従来の鋼橋が7本必要とされたのは、昭和40年代前半に建設された同種の橋が損傷したことを受けて、RC床板の床圧を増して適用支間を3 m以下とした結果である[286]。しかしながら、プレストレストコンクリート(PC)床板の開発によって適用支間を拡大しても差し支えないことから、支間を従来の倍の6 mに拡大することとされ、新宝、飛島の両高架橋に採用された[286]。
上記のコストダウンの思想は鈑桁のみならず、箱桁にも適用された。箱桁内部のリブ数の減少、使用鋼材減少、ダイヤフラムの形状変更など多岐に渡った。これは従来の設計思想が鋼材費に関わる費用低減を目標としていたのに対し、鋼材費よりも人件費が上回る時代においてはそれが必ずしも合理的とは言えなくなってきたことを反映したものである[284]。よって、切断加工、溶接に関わる、主として製作費や架設費における合理化を推進することとされた[284]。
新宝ふ頭に建設された新宝高架橋は、東レとトヨタ自動車のモータープールに挟まれ、なおかつ愛知県道59号名古屋第二環状線(現・名古屋中環状線)が敷設されていた。そこに橋脚を建設するに当たっては県道の切り回しが必要とされたが、東レとモータープールの間隔が狭いことから、県道を通行可としながらのフーチング(橋脚の基礎)の建設は不可能であった。このため、基礎に関わる専有面積を縮小することが求められ、その打開策として上下線の基礎が別々に施工できる鋼管矢板井筒基礎が採用された[287][288]。施工に当たっては杭を油圧ハンマーで打設することになるが、近接する東レの化学天秤(精度:1万分の1グラム)への影響を避けるために、化学天秤の使用時間帯はハンマー打設を一時中止する措置をとった[288]。
路上設備
[編集]一般国道自動車専用道路である伊勢湾岸道路は、本来は60 km/hが最高速度であるが[205]、接続する高速自動車国道(第二東名)と同じ100 km/h走行を可能とするために速度規制を行う[289]。この際、愛知県警察本部との協議により、伊勢湾岸道路6.1 kmの範囲に設置間隔2 km以内、平均1.3 km毎に可変式速度規制標識を設置している。可変式としたのは、気象状況の悪化、事故等の障害に対応するためである[289]。速度規制標識は、高速車(100)、低速車(80)、最低速度(50)の3種類が用意され、それぞれを1本の支柱に取り付けている[190]。また、第二東名(のちに第二名神も追加)と伊勢湾岸道路の境界(KP30+649下り線)には「ここから一般有料道路」の標識板も併せて設置され、一般国道と高速自動車国道の境界を視覚化している[190]。なお、高速車用標識が50 km/h規制となった場合は、最低速度規制標識は無表示となる[289]。これらの速度規制標識群と併せて、トレーラーの車線指定標識も設置された[290]。当該標識は1997年(平成9年)10月30日に道路交通法が改正された際、自動車専用道路および高速道路では、大型車、トレーラーの車線指定が必要となったために設置されたものである[290]。ただし、大型車の車線指定標識はIC間隔が短いことから分合流が難しく、安全性確保のため設置を見送られた。よって設置されたのはトレーラーの車線指定標識のみとなり、本線合流部および1 kmピッチの設置とされた[290]。設置位置は法令に則り、第一走行車線上である[190]。
東海IC - 飛島IC間の伊勢湾岸道路の構築に当たっては、斜張橋のみならず、関連するインターチェンジ設備についてもデザイン検討された。伊勢湾岸道路の主要構造物たる斜張橋は、斜めに張ったケーブルから直線的なイメージがつきまとい、トールゲート(料金所)のデザイン展開にあたっては斜張橋のイメージを壊さない形状が模索された。スレンダー、シャープ、近代的といったコンセプトを元にデザイン展開した結果、屋根はカーブを描き、色調をグレートーンに統一のうえ一体感を持たせた。トールゲート周辺の業務施設は、コンクリートと同化する色調を採用のうえ、極力トールゲートを前面に押し出すイメージを持たせた[291]。こうしたデザイン処理は本線標識にも及んだ。門形標識柱、F型標識柱ともに通常は鋼管(円柱)を用いるところを、斜張橋との整合性に配慮して角形鋼管を用いた[292]。
伊勢湾岸道路はその前後で接続する高速道路と同じく最高速度が100 km/hとなっているが、眼下の名古屋港の景色を眺めるために最低速度50 km/hを下回って走行する自動車、および路肩に駐車する自動車の発生が懸念されることから、主塔に旋回式のITVカメラを設置のうえモニター監視を行なっている[293]。該当の自動車があった場合、橋梁路肩部に設置したスピーカーで注意を喚起するとしている[293]。
東海IC - 飛島IC間は伊勢湾岸自動車道の中にあって、IC間隔が極端に短いことから明暗の変化が連続し、港湾という立地条件から道路周辺からの明かりが強いことでドライバーへの影響が懸念された。このため全線で本線照明を取り付け、塔やケーブル形状と調和したポール式を採用し、ランプカバーもテーパー状でシャープなイメージを表現している[294]。
橋桁両端は遮音壁等、視界を遮るものはなく、名古屋の街と港を一望することが可能であるが[22]、名港東大橋の東側途中からは壁に囲まれ、視界は効かない。理由は、付近の新宝ふ頭に敷設されている化学工場から東海市を通して日本道路公団に要請があったためで、自動車通過時に眼下の工場を見下ろすことによる企業秘密の漏洩を避けるためである[295]。さらに、南側にはトヨタ自動車の海外への自動車積出基地(モータープール)があり[296]、高架から空き缶等の落下物があった場合に新車に傷が付くことが懸念されたことで、道路両脇が壁で目隠しされることになった[295]。
橋上には「たばこ投げ捨て禁止」看板が設置されている。これは潮見ふ頭が石油製品基地であり[35]、なかでも伊勢湾岸道路の直下に油槽所があることから火災防止のための措置である[22]。なお、潮見ふ頭はこうした事情から消防法によって火気の使用が厳しく禁じられている[141]。
資金計画と地元協力
[編集]伊勢湾岸道路は、国道23号名四国道の混雑が著しいことで、中京圏の経済に大打撃を被っている状況から、豊田市の東名高速道路と四日市市の東名阪自動車道を結ぶ国道23号のバイパスとして地元自治体や経済界が国に伊勢湾岸道路建設を要請したことから計画は具体化した[217][220]。なお、計画初期から高速自動車国道として計画することは当時の状況から不可能で、これは高速自動車国道建設の拠り所となる当時の国土開発幹線自動車道建設法に、豊田 - 四日市間に該当する法的根拠となる路線の記載がないためである。よって伊勢湾岸道路は、国土開発幹線自動車道建設法に拠らずに建設できる一般有料道路として計画が進められた[300]。
長きに渡った地元自治体や経済界の陳情が効を奏し、1979年(昭和54年)に環状道路である一般国道302号を構成する路線の一部という位置付けで事業許可を受け、まずは整備の緊急度が高い金城ふ頭 - 西二区(飛島)間3.2 km(名港西大橋とその取り付け道路)が着工されることになった[244]。この時の着工にまつわる役割分担としては、一般有料道路事業としての名港西大橋本体(758 m)が日本道路公団受け持ちで[301]、最終的な工費は185億円[29]、その前後のふ頭と西大橋をつなぐ連絡道路を建設省の担当として[48]、こちらは税金投入とされた。いわゆる合併施行方式である[8]。
1986年(昭和61年)3月、残る東海市 - 金城ふ頭間の路線建設について、建設省から愛知県と名古屋市に建設案が提示された。この時の名古屋市の考えは、名港西大橋一期線と同様の公団による建設を望んでいたが、建設省から示されたのは、地元にも応分の負担を求めるものであった[298]。当時の国は財政再建のための国費節減を謳っており、伊勢湾岸道路建設に対する国の反応として、地元による応分の負担は当然の流れでもあった[298]。資金計画としては、有料限度額を1150億円に設定したが、これは30年間で資金を返済していくためには、この金額が限度であるためで、それを上回る工費については地元で調達して欲しいということである。計画初期段階の見積もりでは1340億円(のちに1500億円に修正[30])とされ、1150億円の差額の190億円について、地元協力、公共事業分とした[298]。また、1150億円のうち、500億円については地元経済界から低金利で資金を借り入れることとされ、民間資金活用を着工の前提条件とした[298]。この結果、東海IC - 飛島IC間 (6.1 km) のうち、新宝高架橋の用地買収費は大部分を愛知県が負担し、名港潮見ICの建設は地元施設として整備するという合意から、名古屋市と愛知県が全額負担のうえ、名古屋港管理組合が建設を担当した[299]。また、飛島高架橋および金城高架橋の用地は、名古屋港管理組合が無償提供することになった[302]。
こうした地元協力の甲斐あって、1987年(昭和62年)11月に、東海市 - 金城ふ頭間(3.9 km)が一般有料道路事業として事業許可が下り、これに建設省着工分の東海ICから名港東大橋付近までの1.1 km(のちに1.1 km区間は公団受け持ち化[235])を含めた合計5.0 kmの事業がスタートした[30][303]。
当初でこそ1500億円とされた事業費も、その後の名港西大橋二期線の事業取り込みによって2050億円に増加し、これに物価上昇分を加味して2210億円が最終事業費となった[304][235]。名港西大橋一期線(185億円[305])を加えると、僅か6.1 kmの短い区間に2395億円の巨費が投じられたことになる。
通行料金
[編集]伊勢湾岸道路は高速自動車国道ではなく、一般有料道路である。高速自動車国道(第二東名、第二名神)と同様に日本道路公団が建設したが、全国プール制の対象からは外れているため、個別採算制となっている[306]。このため、伊勢湾岸道路の通行に際しては、高速自動車国道の通行料金とは別で伊勢湾岸道路単独の通行料金を支払う必要がある。特に伊勢湾岸道路の建設費は、斜張橋が3つ連なるなどして工費が高速道路平均の約10倍を要したことから、総工費2000億円以上の費用を償還するために割高となっている[205]。
1985年(昭和60年)3月の有料道路「名港西大橋」開通時点では四車種区分の下、普通車については410 円で設定されていたが、1998年(平成10年)3月の3大橋グランドオープンに伴って車種区分は五車種となり、名港西大橋区間の料金は300 円に値下げされた[307]。この時から伊勢湾岸道路と第二東名を直通する場合は、伊勢湾岸道路区間内の料金割引制度が適用された[307]。
2014年(平成26年)7月1日現在、伊勢湾岸道路(東海IC - 飛島IC)のみの利用では、全区間利用で普通車870円、区間利用は、東海IC - 名港中央ICで570円、名港中央IC - 飛島ICで310円となっており、いずれも1 km当たりの料金は他の高速国道と比べ割高に設定されている[308]。また、伊勢湾岸道路を全線利用し、その前後の高速国道(第二東名、第二名神)を連続利用する場合は、東海IC - 飛島IC間の料金を割り引く制度があり、例として普通車では150円、特大車では350円が割り引かれる[309]。伊勢湾岸道路と高速国道との連続利用割引は、ETCでなくとも適用されるため、料金検索では本割引適用後の額を通常料金として表示している。ETC時間帯割引や障害者割引は、本割引適用後の料金に対して重複適用する[309]。
なお、伊勢湾岸道路の料金徴収期間は2037年3月19日までとなっている[305]。
脚注
[編集]注釈
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関連項目
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