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{{複数の問題
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|略名 =フランク王国
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|亡国時期 =[[887年]]<ref>表記年はフランク王国継承政権の最後のカロリング朝政権(西フランク王国)断絶年。[[843年]]-[[884年]]は分裂期間。[[884年]]-[[887年]][[カール3世]]による一時的統一したが、これより後は統一されることなし。[[962年]]に東フランク王国が[[神聖ローマ帝国]]になり、[[987年]]に西フランク王国ではカロリング朝が断絶し[[カペー朝]][[フランス王国]]となる。</ref>
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|先旗1 =Labarum.svg
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|位置画像説明 = フランク王国の最大版図
|位置画像説明 = フランク王国の最大版図
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[[File:Franks expansion.gif|right|thumb|フランク王国の時代別の領土]]
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'''フランク王国'''(フランクおうこく、{{lang-fr|'''Royaumes francs'''}}、{{lang-de|'''Fränkisches Reich'''}})は、[[5世紀]]から[[9世紀]]にかけて[[西ヨーロッパ]]を支配した[[ゲルマン人|ゲルマン]]系の[[王国]]。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニアを領土とし、最大版図はイベリア半島とイタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域に及ゲルン系[[フランク]]の[[サリー・フラク族]]が建てた王国であることからこ名がある首都508年に[[パリ]]に置かれ、[[ル大帝]]時代は[[アーヘン]]に王宮が置かれここが事実上首都となった。
'''フランク王国'''(フランクおうこく、{{lang-fr|'''Royaumes francs'''}}、{{lang-de|'''Fränkisches Reich'''}})は、[[5世紀]]から[[9世紀]]にかけて[[西ヨーロッパ]]を支配した[[ゲルマン人|ゲルマン]]系の[[王国]]。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニアに相当する地域支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力をぼした[[キリスト教]]を受容し、ロー・カトリック教会と密接な関係を構築したことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及と、キリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域に分裂しており、統一されている期間は寧ろ例外であった。[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]](敬虔王、ルイ1世とも)の死後の[[843年]]、[[ヴェルダ条約]]が結ばれ、フランク王国は東・中・西3王国に分割されたその後、一時的な統一がなされたものの、西フランクは[[フランス王国]]、東フランクは[[神聖ロ]]の母体となり、中フランク北部領土喪失の後、[[イタリ王国]]を形成した。このようフランク国は政治的枠組み、宗教、文化など多くの面におい[[中世ヨーロッパ]]社会原型を構築した。


== 成立と発展 ==
== 歴史 ==
=== フランク族の登場と移住 ===
フランク王国の成立は、古代末期、旧[[ローマ帝国]]領にゲルマン系諸族が大量の移住を行ったことに起因する([[ゲルマン民族の大移動]])。特にフランク族のサリー支族はローマ帝国の同盟軍として、{{仮リンク|シカンブリ人|en|Sicambri}}など他のゲルマン系部族やローマ系住民を吸収して共同の軍役の中で集団形成を行い、ローマ的要素とゲルマン的要素を併せ持つ文化を発展させた。幾つかの幸運が重なり、フランク族は3世紀の間、中部ヨーロッパで勢力を保ち続け、次第に現在のドイツとフランスに勢力を伸ばした。ローマ帝国の没落につれて、フランク王国は西ヨーロッパで最大の国力をもつこととなった。フランク王国の系譜は、シカンブリ人系のサリー・フランク人[[クロヴィス1世]]がフランク人を統一して王国を開いた[[メロヴィング朝]]と、それを継承した[[カロリング朝]]に分けられる。
[[フランク族]]の名前は西暦[[3世紀]]半ばに初めて史料に登場する<ref name="五十嵐2003p317">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 317</ref>。記録に残る「フランク(francus または franci)」という言葉の最も古い用例は[[241年]]頃の歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてである<ref name="フランス史1995p134">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 134</ref>。これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている<ref name="フランス史1995p134"/>。[[ローマ人]]は[[ライン川]]中流域に居住するゲルマン人達を一括して「フランク人」と呼んでいた{{refnest|group="注釈"|この名前は「勇敢な人々」<ref name="五十嵐2003p317"/>、「大胆な人々」<ref name="フランス史1995p134"/>、或いは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味である<ref name="ドイツ史1996p45">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 45</ref>。}}。3世紀から4世紀にかけて、[[カマーウィー族]]、[[ブルクテリー族]]、[[カットゥアリー族]]、[[サリー族]]、[[アムシヴァリー族]]、[[トゥヴァンテース族]]が、ローマ側の史料において「フランク人」と呼ばれている<ref name="五十嵐2003p317"/>。この呼称はあくまでローマ人側からの呼称であり、この名前で呼ばれたゲルマン人の諸部族が実際に同族意識を持っていたかどうかは不明である<ref name="五十嵐2003p317"/>。[[ローマ帝国]]の国境地帯にこれらの諸部族が居住していたことが、彼らを共通の政治的状況に置き、そのことが彼ら自身とローマ人の意識において共族意識を育んだかもしれない<ref name="五十嵐2003p317"/>。


ローマ帝国国境地帯に居住した彼ら「フランク人」達は、その都度従士団を組織して隣接するゲルマン諸部族や、ローマ帝国の属州で略奪を行っていた<ref name="五十嵐2003p317_318">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], pp. 317-318</ref>。一方でその勇猛と武力を買われ、ローマ側によって兵士や将軍として「フランク人」が雇われるようになった<ref name="五十嵐2003p318">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], pp. 318</ref>。そのような「フランク人」の一人[[シルウァヌス]]は[[355年]]に[[コロニア・アグリッピナ]](現、[[ケルン]])で皇帝(アウグストゥス)を僭称している<ref>[[#松原 2010|西洋古典学辞典 2010]], p. 648 「シルウァーヌス」の項目より</ref>。また、西ローマ帝国で[[メロバウドゥス]]や、[[バウト]]のように西ローマ帝国において[[コンスル]]職に就任するフランク人も現れた<ref name="フランス史1995p134"/>。バウトの甥にあたる[[テウドメール]]は「フランク人の王(rex Francorum)」という称号を帯びた最初の人物であり<ref name="フランス史1995p134"/>、[[マロバデウス]]というフランク人はローマ軍の将軍を務めた後、「フランク人の王」になり[[378年]]の[[アラマン族]]との戦いを勝利に導いたとされる<ref name="五十嵐2003p318"/>。また、バウトの娘は[[コンスタンティノープル]]の宮廷で教育を受け、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[アルカディウス]]の妃となった<ref name="フランス史1995p134"/>。このように4世紀後半には東西両帝国の政界でフランク人のめざましい活躍があった。
=== メロヴィング朝時代 ===

{{seealso|メロヴィング朝}}
一方、ライン川流域のフランク系諸部族は離合集散を経てサリー・フランク人とライン・フランク人という二つの集団に収斂していった<ref name="五十嵐2003p319">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 319</ref>。ライン・フランク人達は380年代に、[[ゲンノバウド]]、[[マルコメル]]、[[スンノ]]という三人の指導者の下、ライン川を越えてローマ領に侵入し周辺を荒らしまわった<ref name="五十嵐2003p318"/>。当時[[西ローマ帝国]]で権勢を極めていた[[アルボガスト]]は(彼はバウトの息子であり自身もフランク人であったが)侵入したフランク諸部族を殲滅するように主張し迎撃を主導した。ローマ軍との戦闘の後、フランク族、アラマン族の小王達と[[エウゲニウス]]帝との間に和約が結ばれたとされる<ref name="五十嵐2003p318"/>。[[406年]]にはライン・フランク人達はローマの同盟軍として[[ヴァンダル族]]、[[スエヴィ族]]、[[アラン人|アラン族]]の侵入に対応した<ref name="五十嵐2003p319"/>。更に遅くとも[[5世紀]]の半ばにはライン・フランク人達は一人の王を戴く国制を確立していたと考えられる<ref name="五十嵐2003p319"/>。彼らの勢力範囲はケルンを中心とし、[[ニーダーライン]]からライン川中流域の[[マインツ]]にまで広がり、[[モーゼル川]]流域もその支配下にあった。

ライン川下流域に勢力を持ったサリー・フランク人は、[[358年]]に[[ブラバント]]北部のトクサンドリアへの移住をローマ帝国から認められ、国境警備の任にあたるようになった<ref name="五十嵐2003p319"/>。サリー・フランク人の間でも、少なくとも5世紀半ば以降には権力の集中がなされたと考えられる<ref name="五十嵐2003p319"/>。彼らは[[クロディオ]]王の指揮下で[[アラス]]付近まで侵入し、[[フン族]]の侵入や[[ヴァレンティアヌス3世]]の死による混乱に乗じて[[カンブレー]]も占領、[[ソム川]]の流域まで達した<ref name="五十嵐2003p319"/>。そしてサリー・フランク人達もまたローマの同盟軍となる許可を得た<ref name="ル・ジャン2009p16">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 16</ref>

このようにゲルマン諸部族をローマの同盟軍(フォエドゥス foedus)としてローマ領内に居住地を与える政策がしばしば取られ、それによって西ローマ帝国領の各地にゲルマン系諸部族の「王国」が構築された。フランク王国もその一つであり、他に[[トゥールーズ]](トロサ)を中心とするガリア南部からイベリア半島にかけては[[西ゴート王国]]が<ref>[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 129</ref>、[[ヴォルムス|ウォルマティア]](ヴォルムス)の周囲には[[ブルグント王国]]が形成された{{refnest|group="注釈"|ブルグント族は後に[[フン族]]との戦いで壊滅的な損害を被り、[[サヴォワ|サバウディア]]([サヴォワ)地方に移りその地で王国を再建した<ref>[[#松原 2010|西洋古典学辞典 2010]], p. 1065 「ブルグンディオーネース(族)」の項目より</ref>。}}。また、ガリア北西部には[[サクソン人]]が海上から移住した他、[[ケルト人|ケルト系]]の[[ブルトン人]]が[[ブルターニュ半島]]に移住を進めつつあった<ref name="フランス史1995pp129_130">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], pp. 129-130</ref>。

=== メロヴィング朝 ===
==== メロヴィング朝の成立 ====
{{main|メロヴィング朝}}
[[画像:ClovisDomain japref.jpg|400px|right|thumb|メロヴィング朝フランク王国([[600年]]ころ)]]
[[画像:ClovisDomain japref.jpg|400px|right|thumb|メロヴィング朝フランク王国([[600年]]ころ)]]
サリー・フランク人達はローマ文化から多大な影響を受けていた。そのことは[[1653年]]に[[トゥルネ]]で発見された[[キルデリク1世]](キルデリクス)王の墓の副葬品によって確かめられている<ref name="ル・ジャン2009p16"/>。[[ランス (マルヌ県)|ランス]]司教の[[レミギウス]]の書簡によれば、キルデリク1世は[[ガリア・ベルギカ|第2ベルギカ]]属州を統治し、司教や諸都市に指示を与えていたとされる<ref name="ル・ジャン2009p17">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 17</ref>。この時期のサリー・フランク人は、西ローマ皇帝[[マヨリアヌス]]によりガリア軍司令官に任命されていた[[アエギディウス]]と密接な関係を築いた。ガリアで最大の勢力を築いていた西ゴート族とアエギディウスが戦った時、キルデリク1世はアエギディウスの同盟軍として戦った<ref name="フランス史1995pp129_130"/>。このキルデリク1世がメロヴィング朝の最初の「歴史的な」王である<ref>[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 7</ref>。メロヴィングという名は、キルデリク1世の父親とされる[[メロヴィクス|メロヴィク]](メロヴィクス)に由来し、「メロヴィクの子孫」という意味である<ref name="フランス史1995pp136">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 136</ref>。
サリー支族から出たクローヴィス王は、フランク人を統一して覇権を得た。その上で[[ランス (マルヌ県)|ランス]]司教の[[レミギウス]]の[[洗礼]]により[[カトリック教会|カトリック]]を受容した。このことは、旧ローマ帝国領で既にカトリックを受容していた在地勢力からの支持を得る上でも有益だった。その後もゲルマン諸勢力に対して遠征を敢行し、[[507年]]には{{仮リンク|ヴイエの戦い|en|Battle of Vouillé}}で[[西ゴート王国]]からガリア南部([[ガリア・アクィタニア]])を奪い、ガリア支配を確立させた。


キルデリク1世の息子が[[クローヴィス1世]]である。クローヴィス1世は[[466年]]頃に生まれ、[[482年]]頃に父キルデリク1世の死を受けて「フランク人の王」の地位を継いだ<ref name="フランス史1995pp136"/>。クローヴィス1世が王位を継承した時、北ガリアではキルデリク1世の同盟者であったガリア軍司令官アエギディウスの息子[[シャグリウス]]が「ローマ人の王」と呼ばれ、カンブレー地方から[[ロワール川]]までの支配権を抑えていた<ref name="フランス史1995pp137">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 137</ref>。クローヴィス1世は父親同士が最後まで崩さなかった友好関係を破棄し、北ガリアの覇権を巡ってシャグリウスと争った。[[486年]]に[[ソワソンの戦い]]でクローヴィス1世がシャグリウスを打ち破りlロワール川流域までフランク族の支配が広がった<ref name="フランス史1995pp137"/><ref name="ル・ジャン2009p18">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 18</ref>。その後クローヴィス1世は周辺諸部族との戦いに次々と勝利を収めていく。[[491年]]にライン地方で[[テューリンゲン人]]を撃破して服属させ、[[496年]]に[[スイス]]地方で[[アラマン人]]に勝利した<ref name="フランス史1995pp137"/>。[[トゥールのグレゴリウス]]の伝えるところによれば、この間にブルグント王[[グンドバト]]の娘[[クロティルド]]と結婚した。彼女は[[カトリック]]教徒であり、その教化と対アラマン戦での奇跡的な勝機の出現に啓示を得て従士3000人とともに[[ランス (マルヌ県)|ランス]]大司教の[[レミギウス]]によってカトリックの[[洗礼]]を受けたとされる<ref name="フランス史1995pp137"/>。
フランク王国では分割相続がとられた。そのため、クローヴィスの死後王国は[[テウデリヒ1世]]([[ランス (マルヌ県)|ランス]])、[[クロドメール]]([[オルレアン]])、[[キルデベルト1世]]([[パリ]])、[[クロタール1世]]([[ソワソン]])の4人によって分割された。これらの分王国([[アウストラシア|アウストラシア分王国]]、[[ネウストリア|ネウストリア分王国]]、[[ブルグント王国|ブルグント分王国]]、[[ガリア・アクィタニア|アキテーヌ分王国]])は、6世紀半ばのクロタール1世や、7世紀初頭の[[クロタール2世]]によって再統一されることもあったが、多くの分国王は領内の指導力を欠いており、有力貴族が[[宮宰]](王宮の長官)の地位について貴族を統率していた。とりわけ、[[アウストラシア|アウストラシア分王国]]では[[カロリング朝|カロリング家]]が宮宰の地位を世襲化しており、7世紀後半の宮宰[[ピピン2世]](中ピピン)は全ての分王国における宮宰職を独占するに至った。こうして台頭したカロリング家は、各地の実力者にその所領や特権を保障し、その代償として自らの家臣団に組み込んで軍事的奉仕を求めることで、その地位を強化していった。


クローヴィス1世は更に[[507年]]、ライン・フランク人とブルグント族の支援を受け<ref name="ル・ジャン2009p19">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 19</ref>、[[ヴイエの戦い]]でガリア最大の勢力であった西ゴート王国に勝利をおさめ、その王[[アラリック2世]]を戦死させた<ref name="フランス史1995pp137"/>。西ゴートを支援する[[東ゴート王国]]の介入のために[[地中海]]へ到達することは叶わなかったものの<ref name="ル・ジャン2009p19"/>、これによりガリア南部([[ガリア・アクィタニア]])から西ゴートの勢力を駆逐し、イベリア半島へと追いやった<ref name="フランス史1995pp138">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 138</ref>。クローヴィス1世の勢力の急激な拡張はフランク族の他の王達との間に軋轢を生んだ。この段階においてもクローヴィス1世はフランク族の唯一の王であったわけではなかった<ref name="五十嵐2003p326">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], pp. 326</ref>。クローヴィス1世以外のフランク族の王についての情報は乏しいが、カンブレーを中心とする[[ラグナカール]]、支配地域不明の[[カラリク]]、ケルンを中心とする[[シギベルト]]などのフランク王の名が伝えられている<ref name="五十嵐2003p326"/>。西ゴートをガリアから駆逐した後、クローヴィス1世は策略によってこれらの王国を奪い取り、ついに唯一のフランク人の王となった<ref name="五十嵐2003p326"/>。その時期は508年以降であると考えられている<ref name="五十嵐2003p326"/>。このため、後にクローヴィス1世は「フランク王国の初代の王」と記録されている<ref name="五十嵐2003p326"/>。
=== カロリング朝時代 ===

{{seealso|カロリング朝}}
また、西ゴート戦からの凱旋の後、東ローマ皇帝[[アナスタシオス]]から西ローマのコンスル職への任命状が届けられた<ref name="フランス史1995pp138"/>。この称号はもはや単なる名誉職に過ぎなかったが、クローヴィス1世の王国が東ローマ皇帝(この時点では唯一のローマ皇帝である)から正式に承認され、フランク王国によるガリア支配がローマの名の下に正当なものであることを意味した<ref name="五十嵐2003p328"/>。クローヴィス1世はコンスルを自身の正式な称号に付け加えることはなかったが、この事実はガリアに多数住むローマ系住民に強くアピールするものであった<ref name="五十嵐2003p328"/>。彼は特にローマ系住民の多いガリア南部の支配を確実なものにするためにこの称号を利用したように思われる<ref name="五十嵐2003p328"/>。

==== 分割と統一 ====
クローヴィス1世1世は[[511年]]、パリにあるシテ島の宮廷で歿した<ref name="フランス史1995pp138"/>。フランク族では分割相続の習慣があった。そのため、クローヴィス1世の死後その王国は[[テウデリク1世]]([[ランス (マルヌ県)|ランス]])、[[クロドメール]]([[オルレアン]])、[[キルデベルト1世]]([[パリ]])、[[クロタール1世]]([[ソワソン]])の4人によって分割された<ref name="フランス史1995pp140">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 140</ref>。クローヴィス1世の息子たちはフランク王国の領土を更に拡大し、フランクは旧西ローマ帝国領内に成立したゲルマン諸国家の覇者となった<ref name="フランス史1995pp140"/>。テウデリク1世とクロタール1世は[[サクソン人]]の支援を得て[[エルベ川]]から[[マイン川]]至る地域に勢力を持っていたテューリンゲン人の王国を滅ぼし、サクソン人(ザクセン人)との間で分割した<ref name="フランス史1995pp140"/><ref name="ドイツ史1996p51">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 51</ref><ref name="ル・ジャン2009p25">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 25</ref>。キルデベルト1世は[[533年]]に[[ピレネー山脈]]に到達し、[[537年]]には[[プロヴァンス]]を征服した<ref name="ル・ジャン2009p25"/>。更にクローヴィス1世の息子たちは[[524年]]と[[534年]]には二度にわたる遠征によって[[ブルグント王国]]を滅ぼし、支配下に置いた<ref name="フランス史1995pp140"/>。更にアレマニアと[[バイエルン]]へも勢力拡張が行われたが<ref name="ル・ジャン2009p25"/>、[[ランゴバルド族]]に阻まれて[[イタリア]]への勢力拡張は成らなかった<ref name="ル・ジャン2009p25"/>。

クローヴィス1世の息子たちの王国は、彼らの死後には更にその息子たちによって継承される可能性があったが、相続人は排除された。[[524年]]にクロドメールが死亡すると、彼の息子たちは暴力によって除かれ、その遺領はキルデベルト1世とクロタール1世によって分割された。テウデリク1世は[[534年]]に歿し、その領土は息子の[[テウデベルト1世]]に継承された。そのテウデベルト1世も[[555年]]に死亡し、キルデベルト1世も[[558年]]に死亡すると、クローヴィス1世の息子の中で唯一人生き残っていたクロタール1世が全フランクの王となり王国は再統一された<ref name="ル・ジャン2009p25"/>。しかしクロタール1世はサクソン人やテューリンゲン人の蜂起や、息子である[[フラム]]の反乱に忙殺され、それ以上の勢力拡大はできなかった<ref name="ドイツ史1996p52">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 52</ref>。彼が[[561年]]に死亡すると、フランク王国は当然のこととしてクロタール1世の息子たちによって再び分割された<ref name="フランス史1995pp140"/><ref name="ル・ジャン2009p26">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 26</ref>。長兄[[シギベルト1世]]はランスの王国を継承した。この分王国の首都はやがてランスから[[メッス]]へと移動し、分王国は'''[[アウストラシア]]'''(東王国)と呼ばれるようになった<ref name="フランス史1995pp140"/>。次男[[グントラム]]はオルレアンの王国を継承した。この王国には旧ブルグント王国領が含まれ、その統治に便利な[[シャロン=シュル=ソーヌ]]へ首都が移された<ref name="フランス史1995pp141">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 141</ref>。第三子[[カリベルト]]はパリの王国を、末子[[キルペリク1世]]はフランク族の故地を含む[[ベルギー]]地方を継承した<ref name="フランス史1995pp141"/>{{refnest|group="注釈"|この分割割り当ては即興で決まったものではなく、ある程度計画的に予定が建てられていたものである。それはランス近辺を継承したシギベルト1世の名前が、クローヴィス1世によって滅ぼされたライン・フランク人の王シギベルトから取られており、旧ブルグント領を含むオルレアンの王国を継承したグントラムの名が、典型的なブルグント王族の名であることからわかる。彼らがあらかじめその地を継承することを想定されて命名されていることは明らかである<ref name="フランス史1995pp141"/><ref name="ル・ジャン2009p26"/>。}}。[[567年]]には早くもカリベルトが死亡したため、パリの王国は残る3人によって分割され、その首都パリは一種の中立都市となった<ref name="フランス史1995pp141"/>。これによってキルペリク1世の王国は[[大西洋]]沿岸全域を含むようになり、'''[[ネウストリア]]'''(西王国)と呼ばれるようになった<ref name="フランス史1995pp141"/>。また、グントラムの分王国は'''[[ブルグンディア]]'''と呼ばれるようになった。[[575年]]、ネウストリア王キルペリク1世の妻[[フレデグンド]]が刺客を放ちアウストラシア王シギベルト1世を暗殺すると、シギベルト1世の息子、[[キルデベルト2世]]とその母[[ブルンヒルド]]がアウストラシア王位を継承し、三勢力の間で同盟と離反のを繰り返す激しい権力闘争が始まった<ref name="フランス史1995pp141"/>。この争いの中で、フランク王国を構成する三つの分王国の枠組みが形成されていき、旧ローマ世界の枠組みは徐々に喪失していった<ref name="フランス史1995pp141"/>。

==== 王家の争い ====
版図という意味ではクロタール1世の死亡時がメロヴィング朝で最大の時期であり、以後これを上回る支配地を持つことはなかった<ref name="ドイツ史1996p53">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 53</ref>。アウストラシア王シギベルト1世は西ゴート王国の王女ブルンヒルドと結婚した。この繋がりに脅威を感じたキルペリク1世は元の妻を退け、自らも西ゴートの王女でブルンヒルドの姉妹である[[ガルスヴィンタ]]と結婚した<ref name="ル・ジャン2009p26">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 26</ref>。しかしキルペリク1世の愛妾フレデグンドはガルスヴィンタを殺害し、自らが王妃の地位に上ったと伝えられている<ref name="ル・ジャン2009p26"/>。このため、恐らくブルンヒルドの強い意向の下、シギベルト1世はキルペリク1世と対立するようになった<ref name="ル・ジャン2009p26"/>。これに対してネウストリア王妃となったフレグデンドとキルペリク1世はシギベルト1世の暗殺という対応で応えた<ref name="ル・ジャン2009p27">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 27</ref>。

ブルンヒルドとシギベルト1世の廷臣たちは残された幼い王子[[キルデベルト2世]]をアウストラシア王に選出したが、外国出身の王妃の立場は不安定であった<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。彼女はやむなくブルグンディア分王国の王グントラムに支援を求めた。息子がいなかったグントラムは要請に応じキルデベルト2世を養子とした<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。更に、[[584]]年にはキルペリク1世も暗殺された。彼もまた、幼い王子[[クロタール2世]]を遺したのみであり、フレグデンドもまたグントラムに後見を求めクロタール2世を養子に出した。この結果二人の甥を後見することとなったブルグンディア王グントラムは[[587年]]に仲介者として[[アンドロ条約]]を締結させた<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。この条約によって、不透明であった領土上の問題が解決された。また、争いの発端となった王妃ガルスヴィンダ殺害事件の後に残された彼女の持参財を、姉妹であるブルンヒルドが相続することも定められた<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。また、グントラムの後継者は養子となったキルデベルト2世であることも決定された<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。

南ガリアではクロタール1世の遺児を自称する[[グンドワルドゥス]]が王位を主張して勢力を拡大した。[[コンスタンティノープル]]からやってきた彼は、東ローマ帝国の支配をこの地に及ぼすための使者ではないかという見方が広まり、そのことが[[ボルドー]]司教[[ベルトラムヌス]]を始めた多数の有力者が彼の陣営に馳せ参じる原因となった<ref name="フランス史1995pp143">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 143</ref>。結局この僭称者はグントラムが派遣した軍隊によって[[サン=ベルトラン=ド=コマンジュ]]で打たれた<ref name="フランス史1995pp143"/>。

[[画像:Brunhilda.jpg|250px|right|thumb|ブルンヒルドの処刑]]
[[592年]]にグントラムが死亡すると、キルデベルト2世がアウストラシアとブルグンディアを相続し、フランク王国の大部分を支配することとなった<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。一方クロタール2世はネウストリアを継承した。ところが早くも[[596年]]にキルデベルト2世が夭折すると、その息子[[テウデベルト2世]]がアウストラシアを、[[テウデリク2世]]がブルグンディアを継承した。当初は祖母ブルンヒルドの監督下に置かれたが、兄弟は不和となり、[[611年]]にテウデリク2世はテウデベルト2世を攻めてこれを打ち滅ぼした<ref name="ル・ジャン2009p28">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 28</ref>。しかし、この兄弟の争いはネウストリア王クロタール2世に漁夫の利を与えた。アウストラシアの廷臣であった[[アルヌルフ]]と[[ピピン1世|ピピン]]は、テウデリク2世に対抗するためにクロタール2世の支援を求め、これに応じたクロタール2世の攻撃によって[[612年]]にテウデリク2世とその息子たちは殺害された<ref name="ル・ジャン2009p28"/>。クロタール2世は[[613年]]、老王妃ブルンヒルドも捕らえて処刑した。これによってフランク王国は半世紀ぶりにただ一人の王、クロタール2世の下に統治されることになった<ref name="フランス史1995pp144">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 144</ref>。

==== クロタール2世とダゴベルト1世 ====
クロタール2世はただ一人の王となったが、半世紀にもわたる分裂を通じてアウストラシア、ネウストリア、ブルグンディアという枠組みにそった政治的伝統が確立されており、クロタール2世がネウストリアを軸にして一元的な王国として統合するのは困難であった<ref name="フランス史1995pp145">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 145</ref>。[[614年]]、秩序を再編するためにパリで三つの王国の司教、有力者を集めた集会を開かれた<ref name="ル・ジャン2009p29">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 29</ref>。クロタール2世の勝利には、アウストラシアやブルグンディアの貴族勢力が重要な役割を果たしており、彼らの意向を無視することは政治的な冒険であった<ref name="フランス史1995pp145"/>。このためアウストラシアとブルグンディアの貴族たちがそれぞれの分王国を[[宮宰]]によって自律的に統治することを主張した時、クロタール2世はこれを拒否することはできなかった<ref name="フランス史1995pp145"/>。貴族たちが国王大権を認める代わりに、王は貴族や教会の特権を承認した<ref name="ル・ジャン2009p29"/>。各分王国の国王の役人は、それぞれの分王国の在地の人間から登用されることが定められ、彼らの不正や横領については自らの財産によって責任を負うことも定められた<ref name="ル・ジャン2009p29"/>。この決定は歴史上「[[パリ勅令]]」の名で知られている<ref name="フランス史1995pp145"/>。これはしばしば貴族側の地域的利害に対する王権の屈服を示す証拠として歴史学者から取り扱われるが、少なくてもクロタール2世の時代には王権は貴族層を掣肘する実力を有していたと考えられ、むしろ各分王国(特に勝者であるネウストリア)の貴族が無分別に他の分王国に勢力を拡張するのを防止する処置として当初は構築されたものとされる<ref name="フランス史1995pp145"/>。クロタール2世の貴族に対する強力な指導力を示す出来事として、ブルグンディアの宮宰[[ワルカナリウス]]が626年に死去した際、その息子が地位を継承することを阻止するために即座に介入を行い、門閥の形成を阻止したことがあげられる<ref name="フランス史1995pp146">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 146</ref>。この事件の後、ブルグンディアは地位的特性は維持したものの、政治的にはネウストリアと一体化し、ネウストリア=ブルグンディア分王国としてその歴史を歩むことになる<ref name="フランス史1995pp146"/>。

しかし、パリを拠点に全王国を統治したクロタール2世は独自の王の擁立を主張するアウストラシア貴族層の要求に折れ、[[623年]]に15歳の息子[[ダゴベルト1世]]をアウストラシア王として送り出した<ref name="フランス史1995pp146"/>。アウストラシアの政界で権力を握ったのは宮宰のピピン1世(大ピピン)とメッス司教アルヌルフであった<ref name="フランス史1995pp146"/>。当時のアウストラシアの脅威は[[バイエルン]]の[[クロドアルド]]であったが、ピピン1世とアルヌルフはダゴベルト1世を巧みに操りバイエルンの脅威を除くことに成功した<ref name="フランス史1995pp146"/>。だが、ダゴベルト1世は単なる傀儡で終わる人物ではなかった。629年にクロタール2世が死去すると、ダゴベルト1世はアウストラシア貴族の支持を得てネウストリア=ブルグンディア分王国をただちに掌握した<ref name="フランス史1995pp147">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 147</ref>。そして自身の宮宰であるピピン1世がネウストリアでも勢力を振るうのを避けるため、ネウストリアの宮宰として[[アエガ]]という人物を登用し、ブルグントの貴族には自前の軍隊を編成することを承認して慰撫した<ref name="フランス史1995pp147"/>。

ダゴベルト1世はまたフランク王国の拡大と国境地帯の安定にも意欲を見せた。異母弟の[[カリベルト]]に[[トゥールーズ]]を首都とする[[ノヴェンポプラニア]]を与え、[[バスク人]]に対抗させた。カリベルトはバスク人を討ち南の国境を安定させたが程なくして死亡した<ref name="フランス史1995pp147"/>。また、[[ブルターニュ]]地方ではブルトン人の王[[ユディカエル]]を威圧して服属を約させ、ライン川下流域では[[フリーセン人]]から[[ユトレヒト]]と[[ドレシュタット]]の要塞を奪った<ref name="フランス史1995pp147"/>。フランク人の冒険商人[[サモ]]が[[ボヘミア]]に組織した[[ヴェンド人]]の国家に対する大規模な遠征も[[631年]]に行われたが、この遠征はさしたる成果を上げることなく終わった<ref name="フランス史1995pp147"/>。[[634年]]には長子[[シギベルト3世]]をアウストラシア王として擁立した<ref name="フランス史1995pp148">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 148</ref>。

ダゴベルト1世はキリスト教会とも密接な関係を築いた。パリ北部にある[[サン=ドニ修道院]]へ広大な土地と流通税免除特権、および大市での取引税収入を付与する特権賦与状が発行され、この後サン=ドニ修道院はフランク王国と後の[[フランス王国]]の王室の埋葬修道院として機能するようになった<ref name="フランス史1995pp147"/>。また、ダゴベルト1世の宮廷で教育を受けた高級官職者たちはその死後に一斉に宮廷生活を離れ聖界へ身を投じ司教や修道院長として活躍した<ref name="フランス史1995pp147"/>。異教の風習が根強く残るネウストリアの沿岸地方で伝道が行われるとともに、教区の組織化や[[修道院]]の建設が熱烈に行われた<ref name="フランス史1995pp147"/>。7世紀の間に北ガリアの田園地帯だけで180あまりの修道院が建設されたが、そのほとんどはダゴベルト1世の宮廷の廷臣たちによって、あるいは彼らの影響下において建設された<ref name="フランス史1995pp147"/>。

==== 宮宰の政治 ====
[[639年]]にダゴベルト1世が病没した時、その息子[[クローヴィス2世]]はまだ5歳であった<ref name="フランス史1995pp148"/>。アウストラシアではダゴベルト1世の生前からシギベルト3世が王として君臨していたのに対し、ネウストリア=ブルグンディア分王国ではダゴベルト1世の未亡人[[ナンティルド]]と宮宰アエガが実権を握った<ref name="フランス史1995pp148"/>。アエガの死後にはネウストリア北西地方の有力家門出身の[[エルキアノルド]]が宮宰職を引き継ぎ、権勢を振るった<ref name="ル・ジャン2009p31">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 31</ref>。エルキアノルドはダゴベルト1世の母[[ベルテトルド]]の縁戚であり、自分の娘を[[イングランド]]の[[ケント]]王に嫁がせるとともに、自分が所有する[[アングロ・サクソン]]人の家内[[奴隷]][[バルティルド]]をクローヴィス2世の王妃とした<ref name="フランス史1995pp149">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 149</ref>。これによってエルキアノルドは終始ネウストリアの宮廷で強力な発言権を維持することができた<ref name="フランス史1995pp149"/>。エルキアノルドの周囲を取り巻く状況が強く[[英仏海峡]]地帯の色彩を帯びていることは、この時代に海峡地方の商業的、政治的結びつきが深化していたことを示すと考えられている<ref name="フランス史1995pp149"/>。

クローヴィス2世も[[657年]]に死去すると次の王[[クロタール3世]]も幼くして即位し、寡婦となったバルティルドが摂政となった<ref name="フランス史1995pp149"/>。かつての主人であったエルキアノルドも[[658年]]に死去すると、彼女は中央集権的な体制を構築しようと目論見、また修道院への強い共感から、修道院を司教権力から免属させることを試みた<ref name="フランス史1995pp149"/>。このバルティルドの政策により、ブルグントの自立を画策していた幾人かの司教が殺害されるとともに、修道院は司教の監督下から自由となり資産管理を独自に行うことができるようになった<ref name="フランス史1995pp149"/>。このことは後の大規模領主としての修道院誕生の制度的起源となった<ref name="フランス史1995pp149"/>。バルティルドは更に中央集権の進展を期待してネウストリア宮廷の行政部出身の[[エブロイン]]を宮宰に任命した<ref name="フランス史1995pp149"/><ref name="ル・ジャン2009p31"/>。しかしクロタール3世が成長して親政を始めるとバルティルドと対立するようになり、結局エブロインによってバルティルドは修道院に押し込められ終生をそこで過ごすことになった<ref name="フランス史1995pp150">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 150</ref>。このエブロインは非貴族層の出身でありネウストリアの貴族層とことあるごとに対立した<ref name="フランス史1995pp150"/>。エブロインは中央集権を目指すバルティルドの政策は引き継ぎ、国王権力を強化するとともに分離主義的なブルグンディアの動きに対抗した<ref name="フランス史1995pp150"/><ref name="ル・ジャン2009p31"/>。クロタール3世が[[672年]]に死去すると、ネウストリア貴族と協議することなく最も若い王子である[[テウデリク3世]]を王位につけることを画策した<ref name="フランス史1995pp150"/>。これには[[オータン]]司教[[レウデガリウス]]を中心に激しい反対の声が上がり、エブロインはとらえられて[[リュクスイユ修道院]]に幽閉されることとなった<ref name="フランス史1995pp150"/>。しかし隙を見て脱出したエブロインは政権を取り戻し、テウデリク3世とともに再びネウストリアの支配権を握った<ref name="フランス史1995pp150"/>。

一方のアウストラシアでは前述のシギベルト3世が王位にあったが、政治の実権は対立党派を退けて宮宰となった[[グリモアルド]]が掌握していた<ref name="フランス史1995pp150"/>。彼はピピン1世の息子である。グリモアルドは絶大な権力を振るい、王に嫡子がいなかったことを利用して自分と同名の息子グリモアルドをシギベルト3世の養子とし、キルデベルト(養子王)と改名させた<ref name="フランス史1995pp150"/><ref name="ル・ジャン2009p31"/>。だが、間もなくシギベルト3世に息子[[ダゴベルト2世]]が誕生したため、[[656年]]にシギベルト3世が死去すると当然の如く王位継承に問題が発生した<ref name="フランス史1995pp150"/>。グリモアルドはダゴベルト2世を[[アイルランド]]の修道院に追放し、自らの息子キルデベルトを王位につけることに成功した<ref name="フランス史1995pp150"/>。しかしこの王位の簒奪に対する正統性を批判したネウストリア王クロタール3世がアウストラシアを急襲し、[[662年]]にグリモアルドはとらえられ殺害された<ref name="フランス史1995pp150"/>。こうしてアウストラシア王位にはクロタール3世の兄弟[[キルデリク2世]]が据えられたが、彼もまた[[675年]]にネウストリア貴族の一派によって暗殺された<ref name="フランス史1995pp150"/>。次いでアイルランドの修道院からダゴベルト2世が呼び戻されアウストラシア王となったが、彼も[[679年]]に暗殺の憂き目にあった<ref name="フランス史1995pp150"/>。ダゴベルト2世暗殺の実行者とされるヨハネスはネウストリアの宮宰エブロインの手のものであったとされており、このような暗殺劇はエブロインがネウストリアを中心としたフランク王国の完全な統合を目指していたことを示すと考えられる<ref name="フランス史1995pp151">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 151</ref>。

この一連の混乱によってネウストリア=ブルグンディア王のテウデリク3世が存命している唯一のメロヴィング家の王となった<ref name="フランス史1995pp151"/>。更にエブロインはテウデリク3世への服属を要求してアウストラシアへ軍を進め、[[680年]]、アウストラシアで権力を手中にしていた[[ピピン2世]](中ピピン<ref group="注釈">ピピン1世(大ピピン)の娘[[ベッガ]]と、アルヌルフの息子[[アンセギゼル]]の息子。グリモアルドの甥にあたる。</ref>)と[[マルティヌス]]の軍を撃破した<ref name="フランス史1995pp151"/><ref name="ル・ジャン2009p33">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 33</ref>。しかし間もなくエブロインも彼に恨みを持つネウストリアの貴族[[エルメンフレドゥス]]によって暗殺された<ref name="ル・ジャン2009p33"/>。

エブロインの死後、ネウストリアの宮宰になったのが[[ワラトー]]である<ref name="フランス史1995pp151"/>。ワラトーは就任後すぐにピピン2世と和平を結んだが、これに反対するワラトーの息子[[ギスルマール]]は父を追放し、ピピン2世との戦いを再開した<ref name="フランス史1995pp151"/>。ギスルマールはこの戦いの中で戦死し、再びワラトーが宮宰職に返り咲いた<ref name="フランス史1995pp151"/>。ワラトーの死後、その妻である[[アンスフレディス]]が長老として大きな発言権を保持するようになった<ref name="フランス史1995pp151"/>。アンスフレディスの意向により彼女の娘婿の[[ベルカリウス]]がネウストリアの宮宰となった<ref name="フランス史1995pp151"/>。アウストラシアにおいてピピン一門が宮宰職を事実上世襲したように、ネウストリアにおいてもこの職は門閥的支配の道具となっていた<ref name="フランス史1995pp151"/>。この状況はネウストリア貴族の間に強い不満を醸成させた。その代表がランス司教[[レオルス]]であり、彼の扇動によりピピン2世は大量の従士軍を動員してネウストリアに進軍した<ref name="フランス史1995pp151"/>。[[テルトゥリーの戦い]]でピピン2世率いるアウストラシア軍が勝利した後、ピピン2世は唯一のフランク王として君臨していたテウデリク3世を手中に収め、王国のただ一人の宮宰となった<ref name="フランス史1995pp151"/>。

==== カロリング家の台頭 ====
ピピン2世が[[714年]]に歿した時、その妻[[プレクトルード]]の間には[[ドロゴ]]と[[グリモアルド]]という二人の息子がいたが既に死没していた<ref name="フランス史1995pp154">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 154</ref>。また内縁関係にあった[[アルパイダ]]との間に息子[[カール・マルテル|カール]](カール・マルテル)が生まれた<ref name="フランス史1995pp154"/>。実権を握ったプレクトルードは、グリモアルドの子供で自身の孫にあたる[[テオドアルド]]を後継者に選び、カールを幽閉した<ref name="フランス史1995pp154"/>。しかしこの人事にネウストリア貴族たちは従わず、同じネウストリア人である[[ラガンフリド]]を自分たちの宮宰に選出した<ref name="フランス史1995pp154"/><ref name="ル・ジャン2009p36">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 36</ref>。ラガンフリドはプレクトルードが派遣したアウストラシア軍を撃破しキルデリク2世の息子ダニエルを修道院から引っ張り出して[[キルペリク2世]]としてネウストリア王に擁立した<ref name="フランス史1995pp154"/>。

この敗北によってアウストラシアが混乱に陥ると、その隙をついてカールが脱出しアウストラシア軍の敗残兵を糾合してネウストリア軍への対応を引き継いだ<ref name="フランス史1995pp154"/>。[[716年]]、カールは[[マルメディの戦い]]でネウストリア軍を撃破し、翌年には[[ヴァンシィの戦い]]でも勝利した<ref name="フランス史1995pp154"/>。更に[[719年]]、バスク人などと手を結んだラガンフリドに対し[[サンリス]]と[[ソワソン]]の間でカールが勝利をおさめた<ref name="フランス史1995pp154"/>。カールはその後ライン地方を掌握し、[[732年]]にはイベリア半島から北上してきた[[アブドゥル・ラーマン]]率いるイスラーム軍を[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で撃破して以後のイスラーム勢力のヨーロッパでの拡張を抑えることに成功した<ref name="フランス史1995pp155">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 155</ref><ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 63</ref>。

カールは[[735年]]以降にはほとんど毎年のようにガリア南部の[[ミディ]]地方や[[プロヴァンス]]地方に遠征を行った<ref name="フランス史1995pp155"/>。この遠征による破壊と惨禍はイスラームによるそれを遥かに凌駕するものであり、未だ古代的な名残を留めていた南部社会の転換期を画する程のものであった<ref name="フランス史1995pp155"/>。このことから彼の行動は神が振り下ろした鉄槌(マルテル)とされるようになり、彼は「カール・マルテル」の名で後世に知られることになった<ref name="フランス史1995pp155"/><ref>[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 15-16</ref>。[[734年]]には当時フランク王の座にあった[[テウデリク4世]]が死去したが、その後王位は空位のまま放置された<ref name="ル・ジャン2009p37">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 37</ref>。もはや実質的なフランク王国の支配者がメロヴィング家の王ではないことは誰の目にも明らかであった<ref name="ル・ジャン2009p37"/>。

[[739年]]には、ランゴバルド族の侵攻に窮した[[ローマ教皇]][[グレゴリウス3世]]がカール・マルテルに救援を求めてきた<ref name="イタリア史2008p133">[[#イタリア史 2008|イタリア史 2008]], 斎藤寛海「三つの世界」, p. 133</ref>。カール・マルテルはランゴバルド王[[リプトプランド]]と同盟を結んでいたためこの時の救援は行われなかったが、[[東ローマ帝国]]の実質的な保護を喪失しつつあったローマ教皇庁はこの頃からフランク王国の庇護を求め始める<ref name="イタリア史2008p133"/>。

=== カロリング朝 ===
==== カロリング朝の成立 ====
{{main|カロリング朝}}
フランク王国の事実上の支配者として内外から認識される存在となっていたカール・マルテルは[[741年]]に死去した<ref name="フランス史1995pp156">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 156</ref><ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 63</ref>。この時点でカール・マルテルには正妻[[クロドトルード]]との間に[[カールマン]]と[[ピピン3世]](小ピピン)、内縁関係にあったバイエルン王女[[スワナヒルド]]との間に[[グリフォ]]という息子がいた<ref name="フランス史1995pp156"/>。死の直前、カール・マルテルはフランク的伝統に則り、王国を三分割してそれぞれの息子に分与しようとしたが、クロドトルードの二人の息子、カールマンとピピン3世は共謀してグリフォを捕らえ、[[ヌフシャトー]]([[ルクセンブルク]])に幽閉してグリフォの相続分を二人で分割した<ref name="フランス史1995pp156"/>。結果、カールマンの支配地は[[ルーアン]]、[[セーヌ川]]、パリ、ソワソンを結ぶ線の西側全域となり、ピピン3世の持ち分はアウストラシアとなった<ref name="フランス史1995pp156"/>。彼らは協力して空位となっていたフランク王位にキルペリク2世の息子[[キルデリク3世]]を擁立し、自分たちの支配権の正統性を根拠づけた<ref name="フランス史1995pp156"/>。

[[747年]]、突如カールマンが俗世を放棄してイタリアの[[モンテ・カシーノ修道院]]に隠棲するという事件が発生した<ref name="フランス史1995pp156"/>。また、恩赦によって釈放されたグリフォは結局ザクセンとバイエルンの協力を得て反乱を起こした。この反乱は747年のザクセン遠征と、翌[[748年]]のバイエルン遠征によって鎮圧された<ref>[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], pp. 24-25</ref>。この結果、事実上フランク王国の単独の支配者(宮宰)となったピピン3世はメロヴィング家の王を廃して自ら王位に就くことを画策するようになった<ref name="フランス史1995pp157">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 157</ref>。ネウストリア貴族などの強い抵抗が予想されたため、ピピン3世はローマ・カトリック教会の権威を求め、教皇[[ザカリアス]]に協力が要請された<ref name="フランス史1995pp157"/>。ローマ教会側でも政治的庇護者を必要としていたことから、この内諾が得られると、[[751年]]にソワソンで「フランク人」が招集されその場でフランク王に推戴され、また神によって王に選ばれたことを示す[[塗油]]の儀式が教皇特使[[ボニファティウス]]によって行われた<ref name="フランス史1995pp157"/><ref name="ドイツ史1996p69">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 69</ref>{{refnest|group="注釈"|ピピン3世の即位はゲルマン法の慣習に則り、成員による選挙による形態をとった。一方で[[旧約聖書]]の記述による国王塗油の儀式を通じてキリスト教的観点から強化された。この国王塗油については既にイベリア半島の西ゴート王国が滅亡前に慣例化しており、西ゴートの慣習がフランク王国に影響を及ぼした可能性もある<ref>[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], pp. 25-26</ref>。}}。この国王塗油の儀式はまた、カロリング家がメロヴィング家の「神聖な」血統に基づく権威に勝る新たな権威を教会に求めたことを意味した<ref name="ドイツ史1996p69"/>。このためピピン3世の祝聖は西ヨーロッパにおけるキリスト教的王権観の発展にとって画期的意義を持つものとなった<ref name="エーヴィヒ2017p26">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 26</ref>。メロヴィング家の最後の王、キルデリク3世は剃髪の上で[[サン=ベルタン修道院]]に、その息子テウデリクが[[サン=ヴァンドリーユ修道院]]に、それぞれ幽閉され二度と歴史の舞台に立つことはなかった<ref name="フランス史1995pp157"/>。こうしてカロリング(カール・マルテルの子孫)の王朝が成立した。

==== ピピンの寄進 ====
ピピン3世の即位を通じて神と人の仲保者キリストの代理人としての国王、教会の保護者としての国王の職務が強調されるようになった<ref name="ドイツ史1996p69"/>。ピピン3世は教会会議を開催し、教会に土地を付与して保護し、司教を教区の最高の長とし、大司教区を設置した<ref name="ドイツ史1996p69"/>。[[754年]]、教皇[[ステファヌス3世]]は更なるランゴバルド王国からの攻撃に対抗するため東ローマ帝国の支援を求めたが何ら有効な支援が得られず、代わりにフランク王国へと赴いた。ピピンはローマ・カトリック教会の厚意に報い、教皇とともにイタリア遠征を行ってランゴバルド王国の王[[アイストゥルフ]](アストルフォ)に総主権を認めさせるとともに、彼が東ローマ帝国から奪った[[ラヴェンナ]]の総督府とその周囲の都市をローマ教皇へ返還させた<ref name="イタリア史2008p134">[[#イタリア史 2008|イタリア史 2008]], 斎藤寛海「三つの世界」, p. 134</ref>。ピピン3世が帰国するとアイストゥルフは再度ローマを攻撃したため、[[756年]]に再びフランク軍がランゴバルドを攻撃し、その占領地を奪回した<ref name="イタリア史2008p134"/>。アイストゥルフは降伏し、ランゴバルド王国はその王領地の3分の1を引き渡し、かつてメロヴィング朝時代に課せられていた貢納が復活されることになり、フランク国王の全権委任者の手を経て占領地をローマ教皇へ「返還」することを余儀なくされた<ref name="エーヴィヒ2017p34">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 34</ref>。ピピン3世はこの時、都市ローマの宗主件と奪還したラヴェンナ総督府領や[[チェセナ]]、[[リミニ]]、[[ペサロ]]、[[サン・マリノ]]、[[モンテ・フェルトロ]]、[[ウルビーノ]]などの都市を教皇に寄進した<ref name="フランス史1995pp157"/>。これが歴史上「'''[[ピピンの寄進]]'''」(ピピンの贈与)と呼ばれるものであり、これによって[[ローマ教皇領]]の基礎が形成されることになった<ref name="フランス史1995pp157"/>。東ローマ帝国からの急使がピピン3世を訪れラヴェンナ総督府領は帝国の領土であるという抗議を行ったが、ピピン3世は自身が聖[[ペトロ]]への敬愛と自らの罪の赦しのために戦いに従事しているのであり、それによって得られたものは聖ペトロのものとなるべきだと主張して反論した<ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], pp. 74-75</ref><ref name="エーヴィヒ2017p34"/>。

また、ピピン3世はイタリアの他にも国境地帯へ軍を派遣して各地を制圧した。[[752年]]からは西ゴート王国滅亡後も西ゴート人が現地で勢力を持っていた[[セプティマニア]]の支配に取り掛かり、[[759年]]には最後に残った都市[[ナルボンヌ]]の在地西ゴート人勢力に対し引き続き西ゴート法を適用することを保証してこれを支配下においた<ref name="フランス史1995pp158">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 158</ref>。これによってフランク王国は初めてガリア全土を支配下に置いた<ref name="フランス史1995pp158"/>。また当時名目上フランク王国領ではあったものの事実上独立勢力化していた[[アキテーヌ]]の大公[[ワイファリウス]]を攻撃した。アキテーヌの制圧はてこずり、結局[[768年]]にワイファリウスが暗殺されるまで続いた<ref name="フランス史1995pp158"/><ref name="ドイツ史1996p70">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 70</ref>。

==== カール大帝(シャルルマーニュ) ====
[[画像:Frankish Empire 481 to 814-en.svg|400px|right|thumb|カロリング朝の版図]]
[[画像:Frankish Empire 481 to 814-en.svg|400px|right|thumb|カロリング朝の版図]]
[[画像:Dürer karl der grosse.jpg|250px|right|thumb|16世紀に描かれたカール大帝の肖像([[アルブレヒト・デューラー]]作)]]
こうして、カロリング家はフランク王国における事実上の支配者となっていたが、当時においてはメロヴィング家の血統が権威化されていたため、王位にはメロヴィング家がふさわしいとする考えが有力だった。そのため、カロリング家は[[ローマ教皇]]との接近を強め、カトリックの権威を通じて自らの国王即位を正統化しようとした。当時はローマ教皇も[[東ローマ帝国の皇帝一覧|ビザンツ皇帝]]との対立を深めていた時期で、新たな政治的保護者を求めていた。こうして両者の思惑も一致し、[[751年]]にローマ教皇の支持下で[[ピピン3世]](小ピピン)がフランク国王となった。これによってカロリング朝が創始された。756年にはピピンが北イタリアの[[ランゴバルド王国]]に遠征し、征服したラヴェンナ地方をローマ教皇に献上することでその連携を深めた。
ピピン3世は[[768年]]に歿し、その息子[[カール1世]](シャルル、大帝)と[[カールマン (カロリング朝)|カールマン]]が即位した。カール1世がアウストラシア中枢部、ネウストリア沿岸部、アキテーヌの大部分を、カールマンはブルゴーニュ(ブルグンディア)、[[アレマニエン]]、[[ラングドッグ]]、[[プロヴァンス]]を分割して継承した<ref>[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 21-22</ref>。しかしカールマンは[[771年]]に早世し、カール1世が単独の王として君臨した<ref name="フランス史1995pp159">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 159</ref>。


カール1世はその統治期間のほとんどを戦争に明け暮れて過ごした。まず[[769年]]に、暗殺されたアキテーヌの大公ワイファリウスの息子[[フノルドゥス2世]]が再び反乱を起こしたため、これを鎮圧した<ref name="佐藤2013pp22_23">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 22-23</ref>。[[773年]]から[[774年]]にかけて、亡命してきた故カールマンの妻子を保護していたランゴバルド王国を追討するためイタリアに遠征が行われた<ref name="イタリア史2008p135">[[#イタリア史 2008|イタリア史 2008]], 斎藤寛海「三つの世界」, p. 135</ref>。そして首都[[パヴィア]]を陥落させてランゴバルド王国を滅ぼし、ローマ市に入場した<ref name="フランス史1995pp160">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 160</ref>。カール1世は自ら「ランゴバルド人の王」となり、かつて父ピピン3世がローマ教皇と交わした約束を更新したが、その履行には関心を払わずローマ教皇[[ハドリアヌス1世]]はカールに対して不信の念を募らせた<ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 78</ref>。[[776年]]には[[パンノニア]]の[[フリアウル]]、[[778年]]にはピレネー山脈を越えてイベリア半島への遠征が行われ、イタリア北部に侵入した[[アヴァール人]]とも戦闘が行われた<ref name="フランス史1995pp160"/><ref name="佐藤2013pp34_37">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 34-37</ref>。[[776年]]にはまた、ランゴバルド人の反乱を抑えるため再びイタリア遠征が実施された<ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 79</ref>。[[781年]]にもローマへの遠征が行われ<ref name="フランス史1995pp160"/>、更に[[787年]]にはバイエルン大公[[タシロ3世]]を降し<ref name="佐藤2013pp34_37"/>、[[カプア]]も制圧した<ref name="フランス史1995pp160"/>。[[791年]]と[[796年]]にはアヴァール人の根拠地を攻撃し、アヴァールの[[ハーン]]の宮殿を略奪して膨大な戦利品を獲得した<ref name="佐藤2013pp34_37"/>。 また、即位以来30年余り続けられていたザクセン人の征服も、[[804年]]についに成し遂げられた<ref name="佐藤2013pp28_30">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 28-30</ref>。
ピピンの息子で後継者となった[[カール大帝]](シャルルマーニュ)とその弟[[カールマン (フランク王)|カールマン]]はフランク族の習慣に従って国土を分割した形で統治を開始したが、カールマンは771年に早世したためカールは単独の国王として長く君臨した。そして精力的に各地に遠征、ランゴバルド王国を滅ぼし、[[サクソン人|ザクセン人]]の強硬な抵抗を屈服させ、キリスト教を受容させて、彼の治世にフランク王国は最も隆盛を誇り、その版図は最大に達した。このような功績によってカール大帝は「ヨーロッパの父」「最初のヨーロッパ人」と呼ばれた。
{{フランスの歴史}}  


こうしてフランク王国の領土をかつてない規模で拡大する一方で、カール1世はローマ教皇庁に対しても教義の面でも権威の面でも自らの方が上位者であることを知らしめた<ref name="バラクロウ2012pp79_84">[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], pp. 79-84</ref>。カール1世は、[[787年]]の[[第2回ニカイア公会議]]において、ローマとコンスタンティノープルがともに[[聖像破壊論争]](イコノクラスム)を解決しようとした後、信仰の問題についても教皇に譲るつもりがないことを示すため、この成果を無に帰す意図をもって[[794年]]に[[フランクフルト]]で教会会議を開催した<ref name="バラクロウ2012pp79_84"/><ref>[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], pp. 78-86</ref>。この会議において教皇使節は発言を撤回せざるを得ず、カール1世が教皇ハドリアヌス1世を廃位してフランク人高位聖職者に挿げ替えるつもりであるという噂まで流れた<ref name="バラクロウ2012pp79_84"/>。[[795年]]にハドリアヌス1世が死去した後、ローマ教皇庁はフランク王国に従順であると考えれられた[[レオ3世]]を新たな教皇に選んだ。彼はその在位を通してフランクからの支援に依存することになった<ref name="バラクロウ2012pp79_84"/>。
== カール大帝の戴冠 ==
[[800年]]のクリスマスに、カール大帝はローマ教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]より西ローマ帝国皇帝([[フランク・ローマ皇帝]])に戴冠された。これはカールの王国が理念的にも[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)から自立し、独自性を得たことを意味する象徴的事件だった。


== 分割と衰退 ==
==== 皇帝戴冠 ====
教皇レオ3世により、[[800年]]の[[クリスマス]]の日、ローマの[[サン・ピエトロ寺院]](聖ペトロ大聖堂)でカール1世は皇帝に戴冠された<ref name="フランス史1995pp160"/><ref name="ドイツ史1996p72">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 72</ref><ref name="イタリア史2008p133"/>。この皇帝戴冠は寧ろローマ教皇庁側の主導によって行われたと当時の記録は記すが、その理由については現在でははっきりわからない<ref name="バラクロウ2012pp93_100">[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], pp. 93-100</ref>{{refnest|group="注釈"|カール1世のローマ皇帝戴冠は西ヨーロッパの政治史、宗教史において決定的な事件であったが、それが当時決定された理由については議論の中にある。カール大帝の伝記を遺した[[エインハルドゥス]]は「カールは皇帝位に嫌悪を感じていたので、もし彼が教皇の意図を事前に察知していたら、彼は尊ぶべき祭日にもかかわらず、教会へいくことはなかったであろう」と記し<ref name="エーヴィヒ2017pp101_103">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], pp. 101-103</ref><ref name="佐藤2013p85">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], p. 85</ref>、カール1世にとって皇帝戴冠は晴天の霹靂であったかのように記録している。しかし、今日的理解としてはカール1世は自身の戴冠について事前に知っていたと想定して問題はない<ref name="佐藤2013p85"/>。中世初期フランク史の研究者オイゲン・エーヴィヒは「カールがこのような行為によって驚かされたとか、皇帝位そのものを拒否したというようなことは、今日の研究水準からすれば、もはや認められない。」としている。また、教皇側の意図についてバラクロウは、「全体として見るなら、教皇には先を見通した上での目的などなかったのではないだろうか。799年、道徳的にも政治的にも信用を失ったレオは陰謀に遭い、命の危険に晒されていた。したがって、教皇はカールに皇帝の権力を授けることで、自分を苦境から救い出してくれる権威をローマに確立しようと考えたにすぎなかったとみるのが自然であろう。」と述べ、その場しのぎの対応として用意されたのであり、壮大な計画を伴って用意されたものではないとしている<ref name="バラクロウ2012pp93_100"/>。}}。この戴冠に際して皇帝号は「いとも清らかなるカルルス・アウグストゥス、神によって戴冠されたる、偉大にして平和を愛する皇帝、ローマ帝国を統べ、かつ神の恩寵によりフランク人とランゴバルド人の王たる者<ref group="注釈">Karoulus serenissimus Augustus, a Deo coronatus, magnus et pacificus imperator, Romanum gubernans imperium qui et per misercordiam Dei rex Francorum et Lngobardorum. 訳文は瀬原訳、[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 103に依った。</ref>」となり、皇帝権は神によって忖度された制度として捉えられた。それをフランク、ランゴバルドの王が皇帝として保持することとなり、同時にキリスト教世界の支配者として定義付けられた<ref name="エーヴィヒ2017pp101_103"/>。


カール1世は、西ローマ皇帝戴冠を記念して発行したコインに完全にローマ式の自分の姿を刻ませ、自らの印璽も[[コンスタンティヌス]]大帝のそれを模倣したものを用いた。印璽の裏側には「ローマ帝権の革新(renovatio imperii)」と刻ませ、古代ローマの様式を規範とする強い意志を見せている<ref name="フランス史1995pp161">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 161</ref>。また、カール1世の治世にはローマの建築や古典[[ラテン語]]の再興と、それを基礎とした文学活動の隆盛が見られた<ref name="フランス史1995pp161"/>。このような文化的潮流は'''[[カロリング朝ルネサンス]]'''と呼ばれ、中世ヨーロッパ文化に多大な影響を遺した。東ローマ帝国はカール1世の皇帝位を断固として認めなかったが、[[806年]]の[[ヴェネツィア]]での武力衝突の後、[[812年]]の和平の場で、カール1世が「フランク人の皇帝」であることを承認した<ref name="佐藤2013pp88_89">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 88-89</ref>。

カール1世の即位の後、カロリング朝ルネサンスを代表する知識人の一人[[アルクィン]]がカールの支配領域を「'''キリスト教帝国'''(''Imperium Christianum'')」と呼んだように、(カロリング朝の)帝国とキリスト教世界が一体視され、皇帝戴冠をもって「西ローマ帝国の復活」と見做す理解が一般化した<ref name="ドイツ史1996p74">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 74</ref>。カール1世は優れた指導力の下、統治制度を整備し、その治世は後世の諸国家にとって常に回顧すべき模範となった<ref name="ドイツ史1996p75">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 75</ref>。

==== 帝国の分割 ====
カール1世のカロリング帝国はその領内の諸民族が一つのキリスト教世界を構成し、宗教や文化において一体であるとする共属意識をもたらしたが、最終的にはカール1世の強烈な個性と政治力によって維持されたのであり、個々人の関係を中心とする属人性を越えた一体的な法規や制度に基づく統治機構を備えるわけではなかった<ref name="ドイツ史1996p82">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 82</ref>。統治機構においては国家と同一的な存在となった教会組織網が重大な役割を果たしたが、教会組織も聖職者たちの人的結合に未だその基礎をおいていた<ref name="ドイツ史1996p82" />。カール1世もまた、フランクの伝統的な分割相続に備え、自分の息子たちを各地に配置した<ref name="ドイツ史1996p82" />。[[806年]]の[[王国分割令]]によって、既にイタリア(ランゴバルド)分王国の王となっていたピピンと、アキテーヌの分国王となっていた[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]](ルイ)の支配を確認するとともに、長男[[小カール]]には[[アーヘン]]の王宮を含むフランキアの相続を保証することとし、それぞれの境界を定めた<ref name="ドイツ史1996p83">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 83</ref>。これは兄弟間での協力による王国の統一というフランク王国の伝統的原理を踏襲したもので、嫡男としての小カールの優越を保証するものではなかった<ref name="ドイツ史1996p83" />。

だが実際には、[[810年]]にイタリア王ピピンが、[[811年]]に小カールが相次いで歿したため、[[814年]]にカール1世が死去した時にはルートヴィヒ1世(ルイ 敬虔帝)が唯一の後継者となった<ref name="ドイツ史1996p83" /><ref name="フランス史1995pp163">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 163</ref>。ルートヴィヒ1世の綽名「敬虔な(''Pius'')は彼の宗教生活への傾斜から来ている<ref name="フランス史1995pp163"/>。彼は宮廷から華美を一掃し、評判の悪い姉妹達を追放した。アーヘンから品行の悪い男女を締め出すことまでしている<ref name="フランス史1995pp163"/>。また、父カール1世に仕えていた宮廷人に変えて、アキテーヌ時代から側近を登用した<ref name="フランス史1995pp163"/>。更に、[[アニアーヌ修道院]]の院長で、厳格な戒律の適用による修道生活の改革運動をしていた[[ベネディクト]]を政治顧問とした<ref name="ドイツ史1996p84">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 84</ref>。

ルートヴィヒ1世は[[814年]]に宮廷の木造アーチの一部が崩れ、それに巻き込まれて負傷するという事故が起きた時、これを自己の生命が近いうちに終わるという不吉な予兆と見て同年のうちに帝国の相続を定めて布告することを決定した<ref name="フランス史1995pp164">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 164</ref><ref name="ドイツ史1996p84"/>。これによって発せられたのが'''[[帝国分割令]]'''(帝国整序令)と呼ばれる有名な布告であり、この布告によって長子[[ロタール1世]]はただちに共治帝となり、次男[[ピピン1世 (アキテーヌ王)|ピピン]]はアキテーヌ王、末子[[ルートヴィヒ2世]]はバイエルンを相続することとなった。ルートヴィヒ1世の死後は、兄弟たちは長男ロタールに服属すべきことも定められた<ref name="フランス史1995pp164"/>。イタリア王ピピンの庶子[[ベルンハルト]]はこの決定に不満を持ち、[[818年]]に反旗を翻したが鎮圧され、イタリアはロタール1世の直轄地となった<ref name="ドイツ史1996p88">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 88</ref>。こうして早期に継承に関する取り決めがなされたが、バイエルンの名門ヴェルフェン家の出身でルートヴィヒ1世の王妃の一人であった[[ユーディット]]がシャルル2世(カール2世)を生むと、彼女は自分の息子にも領土の分配を要求した<ref name="フランス史1995pp164"/>。これは、統一帝国の理念の下、ロタール1世の単独支配を主張する帝国貴族団とヴェルフェン家の対立を誘発した<ref name="ドイツ史1996p86">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 86</ref>。また、ロタール1世の独裁を警戒するピピンとルートヴィヒ2世の思惑も絡み、複雑な権力闘争が繰り広げられることとなった<ref name="ドイツ史1996p86" /><ref name="フランス史1995pp164"/>。

緊迫した状況の中で、長兄のロタール1世が最初の動きを起こした。ロタール1世は[[830年]]、ブルターニュ遠征の失敗による混乱に乗じて父ルートヴィヒ1世を追放し、帝位を奪った<ref name="フランス史1995pp164"/>。しかし、ピピンとルートヴィヒ2世はこれに反対してルートヴィヒ1世を復帰させた。更に[[833年]]にも同様の試みが行われ、[[834年]]にまたもルートヴィヒ1世が復位するなど、ロタール1世と兄弟たちとの争いは一種の膠着状態となった<ref name="フランス史1995pp164"/>。この争いのさなか、[[837年]]にシャルル2世が成人(15歳)を迎えた。母親のユーディットはロタール1世と結び、フリーセン地方から[[ミューズ川]]までの地域とブルグンディア([[ブルゴーニュ]])をシャルル2世に相続させることをルートヴィヒ1世に認めさせた<ref name="フランス史1995pp165">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 165</ref>。翌年にはアキテーヌのピピンが死亡しその息子であるアキテーヌのピピン2世の相続権は無視されるかと思われたが、現地のアキテーヌ人たちはアキテーヌのピピン2世を支持した<ref name="フランス史1995pp165"/>。

バイエルンを拠点に勢力を拡大したルートヴィヒ2世は、ルートヴィヒ1世がシャルル2世に約束した地域のうち、ライン川右岸のほぼ全域の支配権を主張して譲らず、[[840年]]に反乱を起こした<ref name="フランス史1995pp165"/><ref name="ドイツ史1996p86" />。この反乱を鎮圧に向かったルートヴィヒ1世は、フランクフルト近郊で急死した<ref name="フランス史1995pp165"/><ref name="ドイツ史1996p86" />。

==== ヴェルダン条約 ====
[[画像:Vertrag-von-verdun 1-660x500 japref.png|400px|right|thumb|[[ヴェルダン条約]]で定められた国境]]
[[画像:Vertrag-von-verdun 1-660x500 japref.png|400px|right|thumb|[[ヴェルダン条約]]で定められた国境]]
ルートヴィヒ1世の死を受けて、イタリアを支配していたロタールはローマ教皇[[グレゴリウス4世]]やアキテーヌ王ピピン2世と結ぶ一方、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が同盟を組んでこれに対応した<ref name="フランス史1995pp165"/>。[[841年]]、同時代の記録においてフランク王国史上最大の戦いとされる[[フォントノワの戦い]]で、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が勝利し、ロタール1世は逃亡した<ref name="フランス史1995pp166">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 166</ref><ref name="ドイツ史1996p88" />。
カール大帝はフランク人の伝統に即し、3人の嫡男が王国を分割統治するよう遺言した。しかし814年にカールが72歳で死去した時、生存していた息子は敬虔王[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ(ルイ1世)]]だけだったため、カールの王国は彼にそのまま継承された。ルートヴィヒもまた817年に3人の息子たちが王国を分割相続する法律を制定した。だが、823年に末子カール(四男、後の[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]])が誕生するとルートヴィヒ1世は彼にも領土を与えようと画策、他の3人の息子からの反発を招いて一時廃位され、混乱を招いた。


ルートヴィヒ2世とシャルル2世はロタール1世を追撃する最中、[[ストラスブール]]で互いの言語でロタール1世との個別取引を行わないとする宣誓を互いの家臣団の前で行った<ref name="フランス史1995pp166"/>。この宣誓の言葉はシャルル2世の家臣[[ニタール]]の残した書物に記されて現存しており、ルートヴィヒ2世によるシャルル2世の家臣団への宣誓の呼びかけは[[フランス語]](古期ロマンス語)が文字記録として残された最古の例である<ref name="フランス史1995pp166"/><ref name="ドイツ史1996p88" />{{refnest|group="注釈"|この[[ストラスブールの宣誓]]は、フランク王国(カロリング帝国)が言語の上において東西に分裂しつつあった状況を証明している<ref name="ドイツ史1996p88" />。帝国の西と東で、それぞれの言語文化が育まれ、東側でも8世紀頃から古代[[高地ドイツ語]]の書物が編纂されていた<ref name="ドイツ史1996p88" />。}}。敗走するロタール1世は、弟たちに対抗するために[[ヴァイキング]]やザクセン人、[[異教徒]]である[[スラブ人]]との同盟も厭わなかった<ref name="フランス史1995pp166"/>。しかし、争いの激化が互いの利益を損なうことを懸念した三者は、[[842年]]、ブルゴーニュの[[マコン]]で会談し、和平を結んだ<ref name="フランス史1995pp166"/>。この和平の席で、帝国の分割が改めて合意され、3人の王が40名ずつ有力な家臣を出して新たな分割線を決定するための委員会が設けられた<ref name="フランス史1995pp166"/>。この結果、[[843年]]に[[ヴェルダン条約]]が締結され、分割線が最終承認された<ref name="フランス史1995pp168">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 168</ref>。
ルートヴィヒが840年に死亡した後、生存していた3人の息子のうち長子[[ロタール1世]]が権力を掌握して皇帝となったものの、ふたりの弟[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ]]と[[シャルル2世 (西フランク王)|カール]]は兄に反旗を翻して、841年の[[フォントノワの戦い]]で軍事的勝利を得た。その結果2年後の[[843年]]、[[ヴェルダン条約]]が結ばれ、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。ほんの一時期、[[カール3世 (フランク王)|カール3世(肥満王)]]が統一したこともあるが、彼は度重なる外敵の侵入に対処できず、廃位され、この統一国家はごく短期間で崩壊した。これは実質的なフランク王国の終焉を意味した。


ヴェルダン条約の結果、帝国の東部をルートヴィヒ2世([[東フランク王国]])、西部をシャルル2世([[西フランク王国]])、両王国の中間部分とイタリアを皇帝たるロタール1世([[中フランク王国]])がそれぞれ領有することが決定し、国王宮廷がそれぞれに割り振られた<ref name="フランス史1995pp168"/>{{refnest|group="注釈"|ロタール1世には[[リエージュ]]、ルートヴィヒ2世には[[フランクフルト]]、[[インゲルハイム]]、[[ヴォルムス]]、シャルル2世には[[ラン]]、[[ソワソン]]、[[パリ]]、[[オワーズ]]、[[コンピエーニュ]]など、メロヴィング朝時代からの伝統ある離宮が割り当てられた<ref name="フランス史1995pp168"/>。}}。この分割は「妥当な分割」を目指して司教管区、修道院、伯領、国家領、国王宮廷、封臣に与えられている封地、所領の数などを考慮して決定された<ref name="フランス史1995pp168"/>。しかしその結果、各分王国の所領は(特にロタール1世の中フランク王国について)極めて人工的な、まとまりの無い地域の寄せ集めとなり、統治は困難を極めた<ref name="エーヴィヒ2017p157">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 157</ref>。
[[西フランク王国]]は、[[フランス王国]]([[987年]]-[[1791年]])などを経て現在のフランスにつながる。[[東フランク王国]]は、後の[[神聖ローマ帝国]]([[962年]]-[[1806年]])を経てドイツへとつながっていく。一方、ロタールが得た[[中部フランク王国|中フランク王国]]は、オランダからライン川流域を経てイタリアに至る細長い地域で、帝国のふたつの首都(ローマと[[アーヘン|エクス・ラ・シャペル]])を含んでいたものの、地域的な一貫性に乏しく、統治は困難を極め、まもなく北部の領土(「ロタールの王国」と言う意味で[[ロタリンギア]]と呼ばれ、ロートリンゲン([[ドイツ語|独]])、[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]([[フランス語|仏]])の語源となった)は東西フランク王国によって分割吸収された(870年の[[メルセン条約]])。中フランク王国は後にイタリアに集約され、[[神聖ローマ帝国]]時代には、皇帝に[[イタリア王]]位として兼任されるようになった。


==== 中フランク王国の分解 ====
西フランク王国は[[987年]]、中フランク王国は[[950年]]頃、東フランク王国は[[911年]]にカロリング朝の国王が途絶えた。それぞれの断絶の直接の理由は王位を継承し得るカロリング家系の消滅だが、傍系の王族は残っており、[[諸侯]]の台頭と相対的に低下した[[王権]]の衰退が考えられている。
ヴェルダン条約締結の後、3人の王はそれぞれの領地に戻ったが、必要に応じて協議をするために定期的に参集することが取り決められていた<ref name="フランス史1995pp169">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 169</ref>。この体制は「兄弟支配体制」と呼ばれている<ref name="フランス史1995pp169"/>。[[844年]]に最初の会合が持たれ、帝国の一体性が確認され相互の協調が確認されたが、この体制は短期間しか維持されなかった<ref name="ドイツ史1996p90">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 90</ref>。皇帝ロタール1世は[[850年]]に、伝統的な帝国の宮廷であったアーヘンではなくローマで、ローマ教皇に息子である[[ロドヴィコ2世|ルートヴィヒ2世]]<ref group="注釈">イタリア王としてのルートヴィヒ「2世」であり、東フランクのルートヴィヒ2世とは別人。[[イタリア語]]式にロドヴィコ2世とも呼ばれる。西フランクにも同名の王ルートヴィヒ2世がいる。</ref>(ロドヴィコ2世)の皇帝戴冠を執り行わせた<ref name="ドイツ史1996p90" />。このことは、皇帝戴冠を行う「正しい場所」を巡る論争を引き起こした<ref name="ドイツ史1996p90" />。更に[[855年]]、ロタール1世の死に際し、中フランク王国はその息子たちによって更に細かく分割された。長男のルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)に皇帝位とイタリアを、次男[[ロタール2世]]に[[フリースラント]]から[[ジュラ山地]]までを(この地方は後にこのロタール2世の名にちなんでロタリンギア([[ロートリンゲン]])と呼ばれるようになる)を、三男の[[シャルル (プロヴァンス)|シャルル]]にブルゴーニュ南部と[[プロヴァンス]]を相続させた<ref name="ドイツ史1996p90" />。


プロヴァンス王となったシャルルはまだ幼年でありしかも病弱であったので、実権は[[ヴィエンヌ]]伯[[ジラール]]が掌握したが、彼はロタール2世と相談し、もしシャルルが相続人を遺さず死んだ時は、シャルルの王国をロタール2世の王国に併合することを構想した<ref name="フランス史1995pp170">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 170</ref>。だが実際にシャルルが後継者の無いまま[[863年]]に死亡すると、イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)がプロヴァンスの継承権を主張し、結局プロヴァンス王国はロタール2世とルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)の間で分割されることとなった<ref name="フランス史1995pp170"/>。

ロタール2世のロートリンゲン(ロレーヌ)王国でも相続の問題が発生した。ロタール2世は妻の[[テウトベルガ]]との間に後継者が生まれなかったことから、愛人の[[ヴァルトラーダ]]と結婚することで庶子である[[ユーグ]]を後継者にしようとしたが、この結婚を巡ってローマ教皇庁、東西フランク王国を巻き込む政争が発生した。東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世はこれに乗じ、共謀してロタール2世の王国を分割することを約した<ref name="エーヴィヒ2017p164">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 164</ref>。結局ロタール2世はヴァルトラーダとの結婚を果たせず、正式の後継者を持てないまま[[869年]]に死去した<ref name="フランス史1995pp170"/>。この時点で、東フランク王ルートヴィヒ2世は重病の床にあり、皇帝ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)はイタリアでイスラーム軍との戦いに忙殺されており、漁夫の利を得た西フランク王シャルルがロートリンゲン(ロレーヌ)王国を手中に収めた<ref name="ドイツ史1996p90" />。

==== 最後の統一 ====
東フランク王ルートヴィヒ2世も[[865年]]に自分の死後の分割相続について定めた。彼の王国もまた中フランク王国と同じように息子たちによって分割相続されることとなり<ref name="ドイツ史1996p91">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 91</ref>、[[カールマン (東フランク王)|カールマン]]にバイエルンとスラブ人やランゴバルド人との境界地に設けられた辺境区が、[[ルートヴィヒ3世 (東フランク王)|ルートヴィヒ3世]](ルートヴィヒ・ドイツ王)に[[オストフランケン]](東フランキア)、[[テューリンゲン]]、[[ザクセン]]が、[[カール3世 (フランク王)|カール3世]]に[[アレマニエン]]と[[クール・ラエティア]]地方が割り当てられた<ref name="ドイツ史1996p91" />。

この東フランク王ルートヴィヒ2世が、その軍事力を背景にロートリンゲンの継承権を主張したため、西フランク王シャルル2世は譲歩し、[[メルセン条約]]によってロートリンゲン(ロレーヌ)は両者間で分割された<ref name="フランス史1995pp171">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 171</ref><ref name="ドイツ史1996p91" />。この条約の結果、ロタール2世の中フランク王国はイタリアを残して消滅し、現代の[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[イタリア]]の国境の原型が形成された<ref name="ドイツ史1996p91" />。

[[875年]]、皇帝兼イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)も後継者を遺さず死亡すると、シャルルはこの機を逃さず教皇[[ヨハンネス8世]]に接近し、イタリア王国の支配と皇帝の地位を手中に収めた<ref name="フランス史1995pp171"/><ref name="ドイツ史1996p91" /><ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 63</ref>。更に続けて東フランクでルートヴィヒ2世が死去([[876年]])すると、西フランク王シャルルはフランク王国の再度の統一を実現しようと東フランクへ軍をすすめた<ref name="フランス史1995pp171"/>。しかし、ルートヴィヒ2世の息子、ルートヴィヒ3世は残り二人の兄弟とともに連合軍を組織し、[[アンデルナハの戦い]]で西フランク軍を壊滅させた<ref name="フランス史1995pp171"/><ref name="ドイツ史1996p91" />。統一の試みは失敗し、翌年シャルル2世はサヴォワで病没した<ref name="フランス史1995pp171"/>。

その後東フランクでは主導権を握っていたルートヴィヒ3世とカールマンが相次いで死去し、残っていたカール3世(肥満王)が予想外の幸運により東フランク全体の王となった<ref name="ドイツ史1996p92">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 92</ref>。カール3世は更に、皇帝の地位とイタリア王位も手にした<ref name="イタリア史2008p138">[[#イタリア史 2008|イタリア史 2008]], 斎藤寛海「三つの世界」, p. 138</ref>。更なる幸運が、カール3世に西フランク王位をも齎した。西フランク王国でシャルル2世の王位を継いだのは短命の[[ルイ2世 (西フランク王)|ルイ2世]](ルートヴィヒ2世)であり、その息子である[[ルイ3世 (西フランク王)|ルイ3世]](ルートヴィヒ3世)と[[カルロマン2世 (西フランク王)|カルロマン2世]](カールマン2世)も短期間に事故死した<ref name="フランス史1995pp171"/>。短期間に王が何人も交代する不安定な状況の中、実権を握った修道院長[[ゴズラン]]は、西フランク王位をカール3世に委ねた<ref name="フランス史1995pp171"/>。名目的かつ一時的ではあったものの、これによってカール3世はフランク王国にただ一人の王として君臨する最後の人物となった。

=== ドイツ・フランス・イタリア ===
{{フランスの歴史}}  
{{ドイツの歴史}}
{{ドイツの歴史}}
単独の王となったカール3世であったが、能力が伴わず[[887年]]に東フランクのカールマンの庶子[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]によって廃位され、翌年には死去した<ref name="ドイツ史1996p92" />。彼の退位と死はカロリング朝の一画期を記すものであった<ref name="エーヴィヒ2017p202">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 202</ref>。カール3世の死後、東フランクではアルヌルフによってカロリング家の支配が維持されたが、彼は西フランクの有力者から西フランク王位を薦められた際にはこれを拒否した。今や東フランクの王は完全にその地に地盤を張っており、西フランクの王位に興味を示さなかった<ref name="ドイツ史1996p93">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 93</ref>。この結果西フランクでは[[ノルマン人]]の侵入を撃退して声望を高めていた[[ロベール家]]のパリ伯[[ウード]]が[[888年]]に王に推戴された<ref name="フランス史1995pp172">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 172</ref>。これによってはじめてカロリング家以外から王が誕生することとなった<ref name="フランス史1995pp172"/>。ウードの家系からはやがてフランス王位に登る[[カペー家]]が登場することになる<ref name="フランス史1995pp172"/>イタリアでは女系でカロリング家と血縁関係を持つ[[フリウーリ]]公[[ベレンガーリオ1世]](ベレンガル1世)が諸侯の一部の支持を得て[[トリエント]]でイタリア王に選出された<ref name="イタリア史2008p139">[[#イタリア史 2008|イタリア史 2008]], 斎藤寛海「三つの世界」, p. 139</ref>。

こうしてカロリング家によって建設された帝国と王朝は四分五裂の状態となった。しかし、弱体化しつつも帝国の栄光は残り、正当なカロリング朝の後継者として東フランクのカロリング家の宗主権はイタリアの[[スポレート]]公を除き全ての分国から認められていた<ref name="エーヴィヒ2017p202"/>。血統的正当性を持たない西フランク王ウードは、東フランク王アルヌルフの宗主権を受け入れざるを得ず、後継者にはカロリング家のかつての王ルイ2世の息子[[シャルル3世 (西フランク王)|シャルル3世]](単純王)を指名しなければならなかった<ref name="ドイツ史1996p94">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 94</ref>。またイタリア王ベレンガーリオ1世も、軍事的圧力の下、アルヌルフからイタリア王位の承認を得なければならなかった<ref name="ドイツ史1996p94" />。

==== 西フランク(フランス) ====
{{main|西フランク王国}}
ロベール家のウードが王位を得た後も、正統な王家はカロリング家であるという意識は強力であり、ウードの後継者はシャルル3世(単純王)となった<ref name="フランス史1995pp175">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 175</ref>。シャルル3世は領内に侵入してきていたノルマン人との間に[[サン=クレール=シュル=エプト条約]]を結んで情勢を安定させるとともに、[[911年]]にロートリンゲン(ロレーヌ)の内紛によってその王位を獲得した<ref name="フランス史1995pp175"/>。しかし、ロートリンゲン問題への傾注は貴族層の反発を招き、[[922年]]に大規模な反乱を引き起こした<ref name="フランス史1995pp176">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 176</ref>。この反乱は鎮圧されたものの、シャルル3世は人望を喪失し[[ペロンヌ城]]にその死まで幽閉されることとなった<ref name="フランス史1995pp176"/>。この結果、西フランク王位はブルゴーニュのリシャール判官公[[ラウール_(西フランク王)|ラウル]]に委ねられたが、[[936年]]に彼が後継者を遺さず死ぬと、カロリング家の復活が模索され、シャルル3世の息子[[ルイ4世]]が擁立された<ref name="フランス史1995pp176"/>。この後、[[987年]]に[[ユーグ・カペー]]が即位するまで、カロリング家の王による統治が継続された。

==== 東フランク(ドイツ)====
{{main|東フランク王国}}
ドイツ人王と称せられるルートヴィヒ2世の治世(840-876年)から、アルヌルフが死ぬ[[899年]]までの期間、ごく短期間を除き東フランクではカロリング家の一人の王による統治が持続した<ref name="ドイツ史1996p98">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 98</ref>。その領域内には多数の部族、民族が居住していたが、王家と親族関係を築いた聖俗の貴族が王家の委託を受けて統治する複数の分国からなる国家へと成長していた<ref name="ドイツ史1996p98" />。その領域は後世に「[[ドイツ]]」と呼ばれる地域にほぼ合致し、単一の「ドイツ」民族への共属意識もこの時期に芽生えることから、歴史学上この王国は'''東フランク=初期ドイツ王国'''と呼ばれる<ref name="ドイツ史1996p98" />。アルヌルフは教皇庁の強い求めに応じてイタリアへ派兵し、[[896年]]にはローマ教皇[[フォルモスス]]によって皇帝に戴冠された<ref name="ドイツ史1996p99">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 99</ref>。しかしその主要な関心は西フランク王位の拒否からもわかる通り、東フランク内の分国に対する統制力の維持にあり、基本方針としてはイタリアに対し不介入で臨んだ<ref name="ドイツ史1996p99" />。彼は将来に備え、嫡出子優先の継承制度を整えたが、後継者となった[[ルートヴィヒ4世]]は[[900年]]に即位した時7歳であり、王家の親族による合議で運営されるようになった<ref name="ドイツ史1996p99" />。[[911年]]にこのルートヴィヒ4世が死去すると、カロリング王家の男系が断絶した<ref name="ドイツ史1996p100">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 100</ref>。西フランク王シャルル3世の擁立を目指す動きも不発に終わり、[[コンラート家]]の[[コンラート1世 (ドイツ王)|コンラート1世]]が国王に推戴された<ref name="ドイツ史1996p100" />。

==== イタリア ====
[[フリウーリ]]公[[ベレンガーリオ1世]](ベレンガル1世)の王位就任以降をイタリア史では「独立イタリア王国」の時代と呼ぶ。これはカール3世の死によってフランク王国からイタリアが独立した888年を始まりとし、[[オットー1世]]によって[[神聖ローマ帝国]]に取り込まれる[[962年]]までを言う<ref name="イタリア史2008p139"/>。女系でカロリング家と血縁を持ったベレンガーリオ1世に対し、同じく女系でこの王家と繋がりを持つ[[スポレート]]公[[グイード・ダ・スポレート|グイード]]が挑戦を挑み、勝利を収めた<ref name="イタリア史2008p139"/>。グイードは[[パヴィア]]でイタリア王に即位し、[[891年]]にはローマで皇帝戴冠を行った<ref name="イタリア史2008p139"/>。グイードの皇帝位はその息子[[ランベルト・ダ・スポレート|ランベルト]]に継承され、ベレンガーリオ1世とランベルト双方から圧力を受けたローマ教皇フォルモススは東フランク王アルヌルフに救援を求めた<ref name="イタリア史2008p139"/>。この結果[[896年]]にアルヌルフはベレンガーリオ1世とランベルトの抵抗を排してローマを占領し、そこで皇帝に戴冠された<ref name="イタリア史2008p139"/>。これは東フランク王によるイタリア政局介入の端緒となった<ref name="イタリア史2008p139"/>。アルヌルフとランベルトが相次いで死去すると、ベレンガーリオ1世は[[899年]]に改めてイタリア王となった<ref name="イタリア史2008p139"/>。しかし、ベレンガーリオ1世に反対するイタリアの諸侯の一部は、やはり女系でカロリング家の血を引く[[プロヴァンス]]王[[ルイ3世 (プロヴァンス王)|ルイ3世]]を担ぎ出し[[900年]]にイタリア国王に即位させ、[[906年]]には皇帝戴冠が行われた<ref name="イタリア史2008p139"/>。ベレンガーリオ1世は[[905年]]にルイを打ち破り、[[915年]]には教皇による皇帝戴冠を行った<ref name="イタリア史2008p139"/>。しかし、改めてイタリア諸侯が高地ブルグントの王[[ルドルフ2世 (ブルグント王)|ルドルフ2世]]を担ぎ出すと、ベレンガーリオ1世は[[923年]]に敗れ去り、翌年家臣によって暗殺された<ref name="イタリア史2008p140">[[#イタリア史 2008|イタリア史 2008]], 斎藤寛海「三つの世界」, p. 140</ref>。これによって神聖ローマ帝国に組み込まれるまで、イタリアでは皇帝の称号を持つ人物はいなくなった<ref name="イタリア史2008p140"/>。

== 言語 ==
フランク王国を建国したフランク人達は[[インド・ヨーロッパ語族]][[ゲルマン語派]]の一派である[[古フランク語|フランク語]]を母語としていたが、当時この言語が筆記に使用されることはなかった。[[6世紀]]初頭に編纂されたフランク王国の部族法典である『[[サリカ法典]]』には書面による売買契約や諸証についての規定がほとんどなく、一定の身振りや仕草を伴った口頭での契約や証明法、象徴物を用いた法律行為が採用されており、フランク人一般が当時まだ文字文化に親しんでいなかったことを示している<ref name="森1998p247">[[#森 1998|森 1998]], p. 247</ref>。このような状況はカロリング朝期にも変わることなく、法律行為は文字なしに行われるもののウェイトが大きかった<ref name="山田1992p55">[[#山田 1992|山田 1992]], p. 55</ref>。一方、フランク王国はその中枢を置いた[[ガリア]]におけるローマ帝国の行政機構を一部引き継いだ。王国運営上必要となる文書業務はガロ・ローマ系の知識階級やキリスト教聖職者に委ねられ、ゲルマン古来の慣習法の成文化も彼らの手によって行われた。このため、文書の行政・司法上の言語には[[ラテン語]]が使用され、王国はその建国初期段階から二重言語の状態にあった<ref name="森1998p246">[[#森 1998|森 1998]], p. 246</ref>。メロヴィング朝時代には王達は自筆の署名を行っており俗人の間でも一定の識字能力を持つものはいたが<ref name="加藤2011p57">『[[#佐藤,中野ら 2011|フランス史研究入門]]』加藤修「フランク時代」p. 57</ref>、王宮から発信される指令や情報の伝達文書は必ず朗唱され、口頭メッセージの形態をとったものと想定されている<ref name="森1998p247"/>。

ラテン語においては、ローマ期より社会の中枢を占めた[[セナトール貴族]]と呼ばれる階層や、その階層の出身者を多数含むキリスト教会の聖職者によってその文学的伝統が維持された。メロヴィング朝期においても既にラテン語の文語と口語([[俗ラテン語]])の乖離は大きなものとなりつつあったが、発音の近似性により未だコミュニケーションが成立していた<ref name="佐藤池上高山ら2005p17">[[#佐藤,池上,高山ら 2005|佐藤,池上,高山ら 2005]], p. 17</ref>。こうした状況はカロリング期になると俄かに変化した。カール大帝期以降の[[カロリング・ルネサンス]]と呼ばれる文化運動は古典志向の「純粋なラテン語」を希求し、[[ブリテン島]]の[[ヨーク]]出身の修道士[[アルクィン]]によってラテン語の発音の矯正や正書法の整備が行われた<ref name="森1998p248">[[#森 1998|森 1998]], p. 248</ref>。これは「卑俗化した」ラテン語を純化しようとする試みであり、一連の改革と勧奨運動によって正しいラテン語を復旧させようとした<ref name="森1998p248"/>。また、正確なラテン語を通じた正しいキリスト教の理解を求める運動でもあり、言語改革を通じて王国の統治を円滑化しようとする試みでもあったが、文語と口語の距離を一段と乖離させることとなり、メロヴィング朝期には文字文化の一端を担っていた俗人貴族階層もまた識字層から離脱していくこととなったうえ<ref name="ドイツ史1996p77">[[#成瀬,山田,木村ら 1996|世界歴史大系 ドイツ史1、渡部治雄「フランク時代」]], p. 77</ref><ref name="山田1992pp46_52">[[#山田 1992|山田 1992]], pp. 46-52</ref>、教会の聖職者や聖職者出身の政府関係者が使用する書き言葉は民衆には全く理解できないものとなった<ref name="森1998p248"/><ref name="佐藤池上高山ら2005p17" />。この結果ラテン語はカロリング朝時代には聖職者や国家行政を司る者が占有する媒介言語となった<ref name="森1998p248"/>。

公用語としてのラテン語が聖職者階層(フランク王国時代には同時に統治機構の役人でもあり、領主でもある)にのみ使用される言語となっていく一方、キリスト教の教化を各地で推し進めるために各地の民族語による教義の流布や説教が進められた<ref name="森1998p249">[[#森 1998|森 1998]], p. 249</ref>。[[794年]]の[[フランクフルト教会会議]]では、ラテン語や[[ギリシア語]]、[[ヘブライ語]]に限らず、あらゆる言語が神を崇拝する言語であることが決議された<ref name="森1998p249"/>。カール大帝が[[813年]]に招集した教会会議では、司教たちの説教が民衆に理解できるように各地の固有の言葉をもってなされるべきとされ、「わかりやすく翻訳」することが決議されている<ref name="森1998p250">[[#森 1998|森 1998]], p. 250</ref>。こうしてラテン語の宗教文書の現地語への翻訳が促され、王国の東側では9世紀以降[[高地ドイツ語]]による宗教文学も誕生した<ref name="森1998p251">[[#森 1998|森 1998]], p. 251</ref>。一方西側でも9世紀には初の[[古フランス語]](ロマンス語)の文書である[[ストラスブールの宣誓]]が現れるに至り、少なくても北フランスではこの言語が共通語となっていた<ref name="フランス史1995p39">[[#柴田,樺山,福井ら 1995|世界歴史大系 フランス史1、佐藤彰一「フランク王国」]], p. 39</ref>。

こうしてフランク王国時代には、ほとんど聖職者のみからなるラテン語の知識階層と、様々な現地語を使用するラテン語非識字層からなる西ヨーロッパ中世世界の言語的二重構造が形成された<ref name="山田1992pp46_52"/>。

== 制度 ==
=== 王権 ===
==== 初期王権 ====
[[画像:Seal of Childeric I Tournai tomb.jpg|200px|right|thumb|[[トゥルネ]]で発見された[[キルデリク1世]]の[[印璽]]。長髪を蓄えた王の姿が描かれている。]]
フランクの王権概念がどのようにして成立したかについては、数多くの研究者によって多様な見解が述べられてきた。フランク族を含むゲルマンの王権を考える場合、伝統的に「神聖王権」と「軍隊王権」と言う二つの概念が特に[[ドイツ]]の学会において中心的な概念として捕らえられている<ref name="五十嵐2003p316">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 316</ref>。神聖王権とは特定の王家の血統の神聖性、時に神に連なる系譜によってその所属者が部族に繁栄をもたらす特殊な力を持っていたと考えられていたことにより王位の正統性が認識されていたとするものであり<ref name="五十嵐2003p316"/>、一方の軍隊王権は、王の軍事指導者・将軍としての性質を重要視し、戦争における勝利を齎せるものが王として認められたとするものである<ref name="五十嵐2003p316"/>。

フランク族の王として権力を確立したメロヴィング家が実際にどのような経緯を経て王者として認められるに至ったかについては史料的制約によりわかっていない<ref name="五十嵐2003p320">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 320</ref>。ただ、クローヴィス1世の時代には既にメロヴィング家の出身者だけが王となれることが彼の部族では自明のこととなっていた<ref name="五十嵐2003p320"/>。メロヴィング王家を象徴するものに、王族にだけ認められた長髪がある<ref name="五十嵐2003p324">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 324</ref><ref name="ル・ジャン2009pp41_43">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], pp 41-43</ref>。メロヴィング家の王家は青年期に達した男子に施される「最初の断髪」を免れ、長髪を保持していた<ref name="ル・ジャン2009pp41_43"/>。また、キルデリク2世の息子ダニエルの即位時には彼の髪の毛が十分に伸びるのを待った上でキルペリク2世として王とされていることも長髪が王の象徴であったことを示す。このような王の長髪はかつては上述のゲルマン的「神聖王権」説と結びつけられて解釈されていたが、今日ではそのような見解を取る学者は僅かにしかいない<ref name="加藤2011p59">『[[#佐藤,中野ら 2011|フランス史研究入門]]』加藤修「フランク時代」p. 59</ref>。[[五十嵐修]]は、メロヴィング家の王の長髪について、アレマン人が髪を赤く染め、ザクセン人が前頭部の髪の毛を剃ったように、ゲルマン人に一般的に見られる部族への帰属を示す外見上の表現の一種に過ぎないものとしている<ref name="五十嵐2003p324"/>。

同様に五十嵐修はフランク人の王権を大枠として「軍隊王権」として捕らえている。フランク人の王は伝統的なゲルマン的な王権と言うよりも、[[西ローマ帝国]]の混乱に多様な形でフランク人達が関わる中で、戦時における指揮官・指導者達がその成功によって部族民から王として認められたものであるとされる。[[キルデリク1世]]は、極めてローマ的な姿を描いた遺物を残しているのみならず、印璽を用いていた。当時のゲルマン人達は文字を持たなかったことから、この印璽はローマ系住民への命令やローマの将軍との交渉において必要なものであったと考えられる<ref name="五十嵐2003p323">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 323</ref>。これらのことからフランクの王は、彼等を軍事力として必要とした西ローマ帝国との関与の中で、ローマ帝国の内部において形成されたものであると考えられる<ref name="五十嵐2003p324"/>{{refnest|group="注釈"|ル・ジャンもまた、以下のように述べる。「人類学者たちによると、王権が現れるのは、親族集団に自分の価値を認めさせ、多様性を維持しながら一体性を保証し、繁栄や公共福祉を保証することのできる上級権威を必要とするほど社会が複雑になったときである。フランク族に関して言えば、王権の出現はローマ世界への編入の結果である<ref name="ル・ジャン2009p40">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 40</ref>。}}。

==== キリスト教と王権 ====
[[File:Pepin le Bref.jpg|thumb|right|200px|[[751年]]、[[ピピン3世]](短躯王)の戴冠。]]
フランク王国はクローヴィス1世による征服の結果、その領内にゲルマン人のみならず多様な人々を抱える多民族国家として成立した。このような国家を運営する上で大きな役割を果たしたのがクローヴィス1世のカトリック改宗である<ref name="五十嵐2003p327">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 327</ref>。彼が改宗を決断した経緯や時期についてはなお論争があるものの、その改宗がフランク王国の安定に大きく寄与したことは疑いがない<ref name="五十嵐2003p328">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 328</ref>。フランク族による征服が行われる以前、既にローマ領ガリアにはローマ帝国の行政管区を枠組みとしてキリスト教の教会組織が編成されていた<ref name="加藤2011p56">『[[#佐藤,中野ら 2011|フランス史研究入門]]』加藤修「フランク時代」p. 56</ref>。このような教会組織は、クローヴィス1世の改宗を通じてフランク王国の国家機構に組み込まれていくこととなった<ref name="五十嵐2003p328"/>。キリスト教はフランク人と既にカトリック化の進んでいたローマ人貴族との間の関係を良好に保つ効果を持ち、共通の信仰を通じて国家を統合する重要な役割も果たした<ref name="五十嵐2003p328"/>。

メロヴィング朝からカロリング朝への交代においては、血統的正統性に勝る権威としてキリスト教の権威、ローマ・カトリック教会の権威が利用されたことから、キリスト教の重要性は更に増大した。ローマ教皇庁による国王塗油によって即位したカロリング朝の初代[[ピピン3世]]の即位は単なる王朝の交代のみならず、フランク王権とローマ教皇権の結合、そしてキリスト教の教会イデオロギーによる王権の正統性確立という二つの意味で、ヨーロッパ中世社会の確立における決定的転換点であった<ref name="加藤2011p62">『[[#佐藤,中野ら 2011|フランス史研究入門]]』加藤修「フランク時代」p. 62</ref>。カロリング朝の王は「神の恩寵による王」となり、キリスト教世界の「平和」を保証することを自らの任務とするようになった<ref name="加藤2011p62"/>。このようなカロリング朝の王権イデオロギーは単なる理念に留まらず、実際の行動においても神への敬虔さの現れとして実行され、カール大帝はザクセンの征服においてキリスト教への改宗か、さもなくば死かと言う基本姿勢で臨み、激しい殺戮の末にこれを征服した<ref name="佐藤2013pp28_31">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 28-31</ref><ref name="エーヴィヒ2017pp53_58">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], pp. 53-58</ref>。

カロリング朝期においては王はキリスト教の聖王として行動し、その道徳律に従って統治することを余儀なくされる一方、王が教会領を流用し、司教や修道院長を任命し、彼等を王国集会に出席させるなど教会組織そのものが「国家化」された<ref name="森1998p244">[[#森 1998|森 1998]], p. 244</ref>{{refnest|group="注釈"|カロリング朝時代のフランク王国は、同時代人にとっては現代的な意味での国家として捕らえておらず、それ自体一つの「教会」(ecclesia)と認識していたとされる。この場合の教会とは、単なる聖堂や集会場所と言う意味での教会ではなく、キリスト教の教義における「神の国」の現実世界における実体、「キリストの体」としての「教会」(ecclesia)であった<ref name="山田1992p33">[[#山田 1992|山田 1992]], p. 33</ref>。このような捉え方は日本の歴史学会においては[[山田欣吾]]が「「教会」としてのフランク王国」の中で詳述し、フランク王国を理解する上での基本的見解となっている<ref name="西洋中世史研究2005p107">[[#佐藤,池上,高山ら 2005|佐藤,池上,高山ら 2005]], p. 107</ref><ref name="五十嵐2006pp1_2">五十嵐修「[http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004867203.pdf?id=ART0008051488 「王国」・「教会」・「帝国」9世紀フランク王国の「国家」をめぐって]」, pp. 1-2</ref>。}}。


== 経済 ==
== 経済 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* {{Cite book|和書|author=[[山田欣吾]] |title=教会から国家へ |date=1992-11 |publisher=[[創文社]] |isbn=978-4-423-40011-1 |ref=山田 1992}}
* {{Cite book|和書|author=[[柴田三千雄]]|author2=[[樺山紘一]] |author3=[[福井憲彦]] |title=フランス史 |date=1995 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-46090-4 |series=世界歴史大系 |volume=1 |ref=柴田,樺山,福井ら 1995}}
* {{Cite book|和書|author=[[成瀬治]] |author2=[[山田欣吾]] |author3=[[木村靖二]] |title=ドイツ史 |date=1996 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-46120-8 |series=世界歴史大系 |volume=1 |ref=成瀬,山田,木村ら 1996}}
* {{Cite book|和書|author=[[後藤篤子]]||title=岩波講座世界歴史7 ヨーロッパの誕生| chapter=古代末期のガリア社会|date=1998-5 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4-00-010827-0 |ref=後藤 1998}}
* {{Cite book|和書|author=[[森義信]]||title=岩波講座世界歴史7 ヨーロッパの誕生| chapter=フランク王国の国家原理|date=1998-5 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4-00-010827-0 |ref=森 1998}}}}
* [[丹下栄]] 『中世初期の所領経済と市場』 創文社、2002年。
* [[丹下栄]] 『中世初期の所領経済と市場』 創文社、2002年。
* {{Cite book |和書 |author=[[五十嵐修]] |chapter=征服と改宗-クローヴィス1世と初期フランク王権- |title=古代王権の誕生Ⅳ ヨーロッパ篇 |publisher=[[角川書店]] |date=2003-10 |isbn=978-4-04-523004-2 |ref=五十嵐 2003 }}
* {{Cite book|和書|author=[[伊藤貞夫]]|author2=[[木村凌二]] |title=西洋中世史研究入門 増補改訂版 |date=2005 |publisher=[[名古屋大学]]出版会 |isbn=978-4-8158-0517-3 |ref=佐藤,池上,高山ら 2005}}
* {{Cite book|和書|author=[[北原敦]]||title=イタリア史 |date=2008-8 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-41450-1 |series=世界各国史 |volume=15 |ref=イタリア史 2008}}
* {{Cite book |和書 |author=レジーヌ・ル・ジャン |authorlink=レジーヌ・ル・ジャン |translator=[[加納修]] |title=メロヴィング朝 |series=[[文庫クセジュ]]|publisher=[[白水社]] |date=2009-9 |isbn=978-4-560-50939-5 |ref=ル・ジャン 2009 }}
* [[山田雅彦]]「カロリング朝フランク帝国の市場と流通」(山田雅彦編『伝統ヨーロッパとその周辺の市場の歴史』) 清文堂、2010年。
* [[山田雅彦]]「カロリング朝フランク帝国の市場と流通」(山田雅彦編『伝統ヨーロッパとその周辺の市場の歴史』) 清文堂、2010年。
* {{Cite book|和書|author=[[松原國師]] |title=西洋古典学事典 |date=2010 |publisher=[[京都大学|京都大学出版会]] |isbn=978-4-87698-925-6 |ref=松原 2010}}
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤彰一]]|author2=[[中野隆生]] |title=フランス史研究入門|date=2011-11 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-64037-5 |ref=佐藤,中野ら 2011}}
* {{Cite book |和書 |author=ジェフリー・バラクロウ |authorlink=ジェフリー・バラクロウ |translator=[[藤崎衛]] |year=2012 |title=中世教皇史 |publisher=[[八坂書房]] |isbn=978-4-89694-991-9 |ref=バラクロウ 2012}}
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤彰一]]|title=カール大帝 |date=2013 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-46090-4 |series=世界史リブレット 人 |volume=029 |ref=佐藤 2013}}
* {{Cite book |和書 |author=オイゲン・エーヴィヒ |authorlink=オイゲン・エーヴィヒ |translator=[[瀬原義生]] |year=2017 |title=カロリング帝国とキリスト教会 |publisher=[[文理閣]] |isbn=978-4-89259-802-9 |ref=エーヴィヒ 2017}}

=== その他 ===
五十嵐修「[http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004867203.pdf?id=ART0008051488 「王国」・「教会」・「帝国」9世紀フランク王国の「国家」をめぐって]」, 『人文・社会科学論集』23, 2006年


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2017年7月30日 (日) 09:56時点における版

フランク王国
西ローマ帝国 481年 - 887年[注釈 1] 東フランク王国
西フランク王国
中フランク王国
ナバラ王国
フランク王国の位置
フランク王国の最大版図
公用語 ラテン語
首都 トゥルネーベルギー(431から508)パリフランス(508から768)アーヘンドイツ(?795から843)
皇帝
481年 - 511年 クロヴィス1世(メロヴィング朝初代)
743年 - 751年キルデリク3世(メロヴィング朝最後)
751年 - 768年ピピン3世(カロリング朝初代)
768年 - 814年カール1世(カロリング朝第2代、フランク・ローマ皇帝)
884年 - 887年カール3世(最後の統一、フランク・ローマ皇帝)
変遷
メロヴィング朝成立 481年
カロリング朝成立751年
カール大帝の戴冠800年
ヴェルダン条約による三国分裂843年
最後の統一終焉887年
フランク王国の時代別の領土

フランク王国(フランクおうこく、フランス語: Royaumes francsドイツ語: Fränkisches Reich)は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。キリスト教を受容し、ローマ・カトリック教会と密接な関係を構築したことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及と、キリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域に分裂しており、統一されている期間は寧ろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年ヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、一時的な統一がなされたものの、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクは北部領土喪失の後、イタリア王国を形成した。このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教、文化など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。

歴史

フランク族の登場と移住

フランク族の名前は西暦3世紀半ばに初めて史料に登場する[1]。記録に残る「フランク(francus または franci)」という言葉の最も古い用例は241年頃の歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてである[2]。これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている[2]ローマ人ライン川中流域に居住するゲルマン人達を一括して「フランク人」と呼んでいた[注釈 2]。3世紀から4世紀にかけて、カマーウィー族ブルクテリー族カットゥアリー族サリー族アムシヴァリー族トゥヴァンテース族が、ローマ側の史料において「フランク人」と呼ばれている[1]。この呼称はあくまでローマ人側からの呼称であり、この名前で呼ばれたゲルマン人の諸部族が実際に同族意識を持っていたかどうかは不明である[1]ローマ帝国の国境地帯にこれらの諸部族が居住していたことが、彼らを共通の政治的状況に置き、そのことが彼ら自身とローマ人の意識において共族意識を育んだかもしれない[1]

ローマ帝国国境地帯に居住した彼ら「フランク人」達は、その都度従士団を組織して隣接するゲルマン諸部族や、ローマ帝国の属州で略奪を行っていた[4]。一方でその勇猛と武力を買われ、ローマ側によって兵士や将軍として「フランク人」が雇われるようになった[5]。そのような「フランク人」の一人シルウァヌス355年コロニア・アグリッピナ(現、ケルン)で皇帝(アウグストゥス)を僭称している[6]。また、西ローマ帝国でメロバウドゥスや、バウトのように西ローマ帝国においてコンスル職に就任するフランク人も現れた[2]。バウトの甥にあたるテウドメールは「フランク人の王(rex Francorum)」という称号を帯びた最初の人物であり[2]マロバデウスというフランク人はローマ軍の将軍を務めた後、「フランク人の王」になり378年アラマン族との戦いを勝利に導いたとされる[5]。また、バウトの娘はコンスタンティノープルの宮廷で教育を受け、東ローマ皇帝アルカディウスの妃となった[2]。このように4世紀後半には東西両帝国の政界でフランク人のめざましい活躍があった。

一方、ライン川流域のフランク系諸部族は離合集散を経てサリー・フランク人とライン・フランク人という二つの集団に収斂していった[7]。ライン・フランク人達は380年代に、ゲンノバウドマルコメルスンノという三人の指導者の下、ライン川を越えてローマ領に侵入し周辺を荒らしまわった[5]。当時西ローマ帝国で権勢を極めていたアルボガストは(彼はバウトの息子であり自身もフランク人であったが)侵入したフランク諸部族を殲滅するように主張し迎撃を主導した。ローマ軍との戦闘の後、フランク族、アラマン族の小王達とエウゲニウス帝との間に和約が結ばれたとされる[5]406年にはライン・フランク人達はローマの同盟軍としてヴァンダル族スエヴィ族アラン族の侵入に対応した[7]。更に遅くとも5世紀の半ばにはライン・フランク人達は一人の王を戴く国制を確立していたと考えられる[7]。彼らの勢力範囲はケルンを中心とし、ニーダーラインからライン川中流域のマインツにまで広がり、モーゼル川流域もその支配下にあった。

ライン川下流域に勢力を持ったサリー・フランク人は、358年ブラバント北部のトクサンドリアへの移住をローマ帝国から認められ、国境警備の任にあたるようになった[7]。サリー・フランク人の間でも、少なくとも5世紀半ば以降には権力の集中がなされたと考えられる[7]。彼らはクロディオ王の指揮下でアラス付近まで侵入し、フン族の侵入やヴァレンティアヌス3世の死による混乱に乗じてカンブレーも占領、ソム川の流域まで達した[7]。そしてサリー・フランク人達もまたローマの同盟軍となる許可を得た[8]

このようにゲルマン諸部族をローマの同盟軍(フォエドゥス foedus)としてローマ領内に居住地を与える政策がしばしば取られ、それによって西ローマ帝国領の各地にゲルマン系諸部族の「王国」が構築された。フランク王国もその一つであり、他にトゥールーズ(トロサ)を中心とするガリア南部からイベリア半島にかけては西ゴート王国[9]ウォルマティア(ヴォルムス)の周囲にはブルグント王国が形成された[注釈 3]。また、ガリア北西部にはサクソン人が海上から移住した他、ケルト系ブルトン人ブルターニュ半島に移住を進めつつあった[11]

メロヴィング朝

メロヴィング朝の成立

メロヴィング朝フランク王国(600年ころ)

サリー・フランク人達はローマ文化から多大な影響を受けていた。そのことは1653年トゥルネで発見されたキルデリク1世(キルデリクス)王の墓の副葬品によって確かめられている[8]ランス司教のレミギウスの書簡によれば、キルデリク1世は第2ベルギカ属州を統治し、司教や諸都市に指示を与えていたとされる[12]。この時期のサリー・フランク人は、西ローマ皇帝マヨリアヌスによりガリア軍司令官に任命されていたアエギディウスと密接な関係を築いた。ガリアで最大の勢力を築いていた西ゴート族とアエギディウスが戦った時、キルデリク1世はアエギディウスの同盟軍として戦った[11]。このキルデリク1世がメロヴィング朝の最初の「歴史的な」王である[13]。メロヴィングという名は、キルデリク1世の父親とされるメロヴィク(メロヴィクス)に由来し、「メロヴィクの子孫」という意味である[14]

キルデリク1世の息子がクローヴィス1世である。クローヴィス1世は466年頃に生まれ、482年頃に父キルデリク1世の死を受けて「フランク人の王」の地位を継いだ[14]。クローヴィス1世が王位を継承した時、北ガリアではキルデリク1世の同盟者であったガリア軍司令官アエギディウスの息子シャグリウスが「ローマ人の王」と呼ばれ、カンブレー地方からロワール川までの支配権を抑えていた[15]。クローヴィス1世は父親同士が最後まで崩さなかった友好関係を破棄し、北ガリアの覇権を巡ってシャグリウスと争った。486年ソワソンの戦いでクローヴィス1世がシャグリウスを打ち破りlロワール川流域までフランク族の支配が広がった[15][16]。その後クローヴィス1世は周辺諸部族との戦いに次々と勝利を収めていく。491年にライン地方でテューリンゲン人を撃破して服属させ、496年スイス地方でアラマン人に勝利した[15]トゥールのグレゴリウスの伝えるところによれば、この間にブルグント王グンドバトの娘クロティルドと結婚した。彼女はカトリック教徒であり、その教化と対アラマン戦での奇跡的な勝機の出現に啓示を得て従士3000人とともにランス大司教のレミギウスによってカトリックの洗礼を受けたとされる[15]

クローヴィス1世は更に507年、ライン・フランク人とブルグント族の支援を受け[17]ヴイエの戦いでガリア最大の勢力であった西ゴート王国に勝利をおさめ、その王アラリック2世を戦死させた[15]。西ゴートを支援する東ゴート王国の介入のために地中海へ到達することは叶わなかったものの[17]、これによりガリア南部(ガリア・アクィタニア)から西ゴートの勢力を駆逐し、イベリア半島へと追いやった[18]。クローヴィス1世の勢力の急激な拡張はフランク族の他の王達との間に軋轢を生んだ。この段階においてもクローヴィス1世はフランク族の唯一の王であったわけではなかった[19]。クローヴィス1世以外のフランク族の王についての情報は乏しいが、カンブレーを中心とするラグナカール、支配地域不明のカラリク、ケルンを中心とするシギベルトなどのフランク王の名が伝えられている[19]。西ゴートをガリアから駆逐した後、クローヴィス1世は策略によってこれらの王国を奪い取り、ついに唯一のフランク人の王となった[19]。その時期は508年以降であると考えられている[19]。このため、後にクローヴィス1世は「フランク王国の初代の王」と記録されている[19]

また、西ゴート戦からの凱旋の後、東ローマ皇帝アナスタシオスから西ローマのコンスル職への任命状が届けられた[18]。この称号はもはや単なる名誉職に過ぎなかったが、クローヴィス1世の王国が東ローマ皇帝(この時点では唯一のローマ皇帝である)から正式に承認され、フランク王国によるガリア支配がローマの名の下に正当なものであることを意味した[20]。クローヴィス1世はコンスルを自身の正式な称号に付け加えることはなかったが、この事実はガリアに多数住むローマ系住民に強くアピールするものであった[20]。彼は特にローマ系住民の多いガリア南部の支配を確実なものにするためにこの称号を利用したように思われる[20]

分割と統一

クローヴィス1世1世は511年、パリにあるシテ島の宮廷で歿した[18]。フランク族では分割相続の習慣があった。そのため、クローヴィス1世の死後その王国はテウデリク1世ランス)、クロドメールオルレアン)、キルデベルト1世パリ)、クロタール1世ソワソン)の4人によって分割された[21]。クローヴィス1世の息子たちはフランク王国の領土を更に拡大し、フランクは旧西ローマ帝国領内に成立したゲルマン諸国家の覇者となった[21]。テウデリク1世とクロタール1世はサクソン人の支援を得てエルベ川からマイン川至る地域に勢力を持っていたテューリンゲン人の王国を滅ぼし、サクソン人(ザクセン人)との間で分割した[21][22][23]。キルデベルト1世は533年ピレネー山脈に到達し、537年にはプロヴァンスを征服した[23]。更にクローヴィス1世の息子たちは524年534年には二度にわたる遠征によってブルグント王国を滅ぼし、支配下に置いた[21]。更にアレマニアとバイエルンへも勢力拡張が行われたが[23]ランゴバルド族に阻まれてイタリアへの勢力拡張は成らなかった[23]

クローヴィス1世の息子たちの王国は、彼らの死後には更にその息子たちによって継承される可能性があったが、相続人は排除された。524年にクロドメールが死亡すると、彼の息子たちは暴力によって除かれ、その遺領はキルデベルト1世とクロタール1世によって分割された。テウデリク1世は534年に歿し、その領土は息子のテウデベルト1世に継承された。そのテウデベルト1世も555年に死亡し、キルデベルト1世も558年に死亡すると、クローヴィス1世の息子の中で唯一人生き残っていたクロタール1世が全フランクの王となり王国は再統一された[23]。しかしクロタール1世はサクソン人やテューリンゲン人の蜂起や、息子であるフラムの反乱に忙殺され、それ以上の勢力拡大はできなかった[24]。彼が561年に死亡すると、フランク王国は当然のこととしてクロタール1世の息子たちによって再び分割された[21][25]。長兄シギベルト1世はランスの王国を継承した。この分王国の首都はやがてランスからメッスへと移動し、分王国はアウストラシア(東王国)と呼ばれるようになった[21]。次男グントラムはオルレアンの王国を継承した。この王国には旧ブルグント王国領が含まれ、その統治に便利なシャロン=シュル=ソーヌへ首都が移された[26]。第三子カリベルトはパリの王国を、末子キルペリク1世はフランク族の故地を含むベルギー地方を継承した[26][注釈 4]567年には早くもカリベルトが死亡したため、パリの王国は残る3人によって分割され、その首都パリは一種の中立都市となった[26]。これによってキルペリク1世の王国は大西洋沿岸全域を含むようになり、ネウストリア(西王国)と呼ばれるようになった[26]。また、グントラムの分王国はブルグンディアと呼ばれるようになった。575年、ネウストリア王キルペリク1世の妻フレデグンドが刺客を放ちアウストラシア王シギベルト1世を暗殺すると、シギベルト1世の息子、キルデベルト2世とその母ブルンヒルドがアウストラシア王位を継承し、三勢力の間で同盟と離反のを繰り返す激しい権力闘争が始まった[26]。この争いの中で、フランク王国を構成する三つの分王国の枠組みが形成されていき、旧ローマ世界の枠組みは徐々に喪失していった[26]

王家の争い

版図という意味ではクロタール1世の死亡時がメロヴィング朝で最大の時期であり、以後これを上回る支配地を持つことはなかった[27]。アウストラシア王シギベルト1世は西ゴート王国の王女ブルンヒルドと結婚した。この繋がりに脅威を感じたキルペリク1世は元の妻を退け、自らも西ゴートの王女でブルンヒルドの姉妹であるガルスヴィンタと結婚した[25]。しかしキルペリク1世の愛妾フレデグンドはガルスヴィンタを殺害し、自らが王妃の地位に上ったと伝えられている[25]。このため、恐らくブルンヒルドの強い意向の下、シギベルト1世はキルペリク1世と対立するようになった[25]。これに対してネウストリア王妃となったフレグデンドとキルペリク1世はシギベルト1世の暗殺という対応で応えた[28]

ブルンヒルドとシギベルト1世の廷臣たちは残された幼い王子キルデベルト2世をアウストラシア王に選出したが、外国出身の王妃の立場は不安定であった[28]。彼女はやむなくブルグンディア分王国の王グントラムに支援を求めた。息子がいなかったグントラムは要請に応じキルデベルト2世を養子とした[28]。更に、584年にはキルペリク1世も暗殺された。彼もまた、幼い王子クロタール2世を遺したのみであり、フレグデンドもまたグントラムに後見を求めクロタール2世を養子に出した。この結果二人の甥を後見することとなったブルグンディア王グントラムは587年に仲介者としてアンドロ条約を締結させた[28]。この条約によって、不透明であった領土上の問題が解決された。また、争いの発端となった王妃ガルスヴィンダ殺害事件の後に残された彼女の持参財を、姉妹であるブルンヒルドが相続することも定められた[28]。また、グントラムの後継者は養子となったキルデベルト2世であることも決定された[28]

南ガリアではクロタール1世の遺児を自称するグンドワルドゥスが王位を主張して勢力を拡大した。コンスタンティノープルからやってきた彼は、東ローマ帝国の支配をこの地に及ぼすための使者ではないかという見方が広まり、そのことがボルドー司教ベルトラムヌスを始めた多数の有力者が彼の陣営に馳せ参じる原因となった[29]。結局この僭称者はグントラムが派遣した軍隊によってサン=ベルトラン=ド=コマンジュで打たれた[29]

ブルンヒルドの処刑

592年にグントラムが死亡すると、キルデベルト2世がアウストラシアとブルグンディアを相続し、フランク王国の大部分を支配することとなった[28]。一方クロタール2世はネウストリアを継承した。ところが早くも596年にキルデベルト2世が夭折すると、その息子テウデベルト2世がアウストラシアを、テウデリク2世がブルグンディアを継承した。当初は祖母ブルンヒルドの監督下に置かれたが、兄弟は不和となり、611年にテウデリク2世はテウデベルト2世を攻めてこれを打ち滅ぼした[30]。しかし、この兄弟の争いはネウストリア王クロタール2世に漁夫の利を与えた。アウストラシアの廷臣であったアルヌルフピピンは、テウデリク2世に対抗するためにクロタール2世の支援を求め、これに応じたクロタール2世の攻撃によって612年にテウデリク2世とその息子たちは殺害された[30]。クロタール2世は613年、老王妃ブルンヒルドも捕らえて処刑した。これによってフランク王国は半世紀ぶりにただ一人の王、クロタール2世の下に統治されることになった[31]

クロタール2世とダゴベルト1世

クロタール2世はただ一人の王となったが、半世紀にもわたる分裂を通じてアウストラシア、ネウストリア、ブルグンディアという枠組みにそった政治的伝統が確立されており、クロタール2世がネウストリアを軸にして一元的な王国として統合するのは困難であった[32]614年、秩序を再編するためにパリで三つの王国の司教、有力者を集めた集会を開かれた[33]。クロタール2世の勝利には、アウストラシアやブルグンディアの貴族勢力が重要な役割を果たしており、彼らの意向を無視することは政治的な冒険であった[32]。このためアウストラシアとブルグンディアの貴族たちがそれぞれの分王国を宮宰によって自律的に統治することを主張した時、クロタール2世はこれを拒否することはできなかった[32]。貴族たちが国王大権を認める代わりに、王は貴族や教会の特権を承認した[33]。各分王国の国王の役人は、それぞれの分王国の在地の人間から登用されることが定められ、彼らの不正や横領については自らの財産によって責任を負うことも定められた[33]。この決定は歴史上「パリ勅令」の名で知られている[32]。これはしばしば貴族側の地域的利害に対する王権の屈服を示す証拠として歴史学者から取り扱われるが、少なくてもクロタール2世の時代には王権は貴族層を掣肘する実力を有していたと考えられ、むしろ各分王国(特に勝者であるネウストリア)の貴族が無分別に他の分王国に勢力を拡張するのを防止する処置として当初は構築されたものとされる[32]。クロタール2世の貴族に対する強力な指導力を示す出来事として、ブルグンディアの宮宰ワルカナリウスが626年に死去した際、その息子が地位を継承することを阻止するために即座に介入を行い、門閥の形成を阻止したことがあげられる[34]。この事件の後、ブルグンディアは地位的特性は維持したものの、政治的にはネウストリアと一体化し、ネウストリア=ブルグンディア分王国としてその歴史を歩むことになる[34]

しかし、パリを拠点に全王国を統治したクロタール2世は独自の王の擁立を主張するアウストラシア貴族層の要求に折れ、623年に15歳の息子ダゴベルト1世をアウストラシア王として送り出した[34]。アウストラシアの政界で権力を握ったのは宮宰のピピン1世(大ピピン)とメッス司教アルヌルフであった[34]。当時のアウストラシアの脅威はバイエルンクロドアルドであったが、ピピン1世とアルヌルフはダゴベルト1世を巧みに操りバイエルンの脅威を除くことに成功した[34]。だが、ダゴベルト1世は単なる傀儡で終わる人物ではなかった。629年にクロタール2世が死去すると、ダゴベルト1世はアウストラシア貴族の支持を得てネウストリア=ブルグンディア分王国をただちに掌握した[35]。そして自身の宮宰であるピピン1世がネウストリアでも勢力を振るうのを避けるため、ネウストリアの宮宰としてアエガという人物を登用し、ブルグントの貴族には自前の軍隊を編成することを承認して慰撫した[35]

ダゴベルト1世はまたフランク王国の拡大と国境地帯の安定にも意欲を見せた。異母弟のカリベルトトゥールーズを首都とするノヴェンポプラニアを与え、バスク人に対抗させた。カリベルトはバスク人を討ち南の国境を安定させたが程なくして死亡した[35]。また、ブルターニュ地方ではブルトン人の王ユディカエルを威圧して服属を約させ、ライン川下流域ではフリーセン人からユトレヒトドレシュタットの要塞を奪った[35]。フランク人の冒険商人サモボヘミアに組織したヴェンド人の国家に対する大規模な遠征も631年に行われたが、この遠征はさしたる成果を上げることなく終わった[35]634年には長子シギベルト3世をアウストラシア王として擁立した[36]

ダゴベルト1世はキリスト教会とも密接な関係を築いた。パリ北部にあるサン=ドニ修道院へ広大な土地と流通税免除特権、および大市での取引税収入を付与する特権賦与状が発行され、この後サン=ドニ修道院はフランク王国と後のフランス王国の王室の埋葬修道院として機能するようになった[35]。また、ダゴベルト1世の宮廷で教育を受けた高級官職者たちはその死後に一斉に宮廷生活を離れ聖界へ身を投じ司教や修道院長として活躍した[35]。異教の風習が根強く残るネウストリアの沿岸地方で伝道が行われるとともに、教区の組織化や修道院の建設が熱烈に行われた[35]。7世紀の間に北ガリアの田園地帯だけで180あまりの修道院が建設されたが、そのほとんどはダゴベルト1世の宮廷の廷臣たちによって、あるいは彼らの影響下において建設された[35]

宮宰の政治

639年にダゴベルト1世が病没した時、その息子クローヴィス2世はまだ5歳であった[36]。アウストラシアではダゴベルト1世の生前からシギベルト3世が王として君臨していたのに対し、ネウストリア=ブルグンディア分王国ではダゴベルト1世の未亡人ナンティルドと宮宰アエガが実権を握った[36]。アエガの死後にはネウストリア北西地方の有力家門出身のエルキアノルドが宮宰職を引き継ぎ、権勢を振るった[37]。エルキアノルドはダゴベルト1世の母ベルテトルドの縁戚であり、自分の娘をイングランドケント王に嫁がせるとともに、自分が所有するアングロ・サクソン人の家内奴隷バルティルドをクローヴィス2世の王妃とした[38]。これによってエルキアノルドは終始ネウストリアの宮廷で強力な発言権を維持することができた[38]。エルキアノルドの周囲を取り巻く状況が強く英仏海峡地帯の色彩を帯びていることは、この時代に海峡地方の商業的、政治的結びつきが深化していたことを示すと考えられている[38]

クローヴィス2世も657年に死去すると次の王クロタール3世も幼くして即位し、寡婦となったバルティルドが摂政となった[38]。かつての主人であったエルキアノルドも658年に死去すると、彼女は中央集権的な体制を構築しようと目論見、また修道院への強い共感から、修道院を司教権力から免属させることを試みた[38]。このバルティルドの政策により、ブルグントの自立を画策していた幾人かの司教が殺害されるとともに、修道院は司教の監督下から自由となり資産管理を独自に行うことができるようになった[38]。このことは後の大規模領主としての修道院誕生の制度的起源となった[38]。バルティルドは更に中央集権の進展を期待してネウストリア宮廷の行政部出身のエブロインを宮宰に任命した[38][37]。しかしクロタール3世が成長して親政を始めるとバルティルドと対立するようになり、結局エブロインによってバルティルドは修道院に押し込められ終生をそこで過ごすことになった[39]。このエブロインは非貴族層の出身でありネウストリアの貴族層とことあるごとに対立した[39]。エブロインは中央集権を目指すバルティルドの政策は引き継ぎ、国王権力を強化するとともに分離主義的なブルグンディアの動きに対抗した[39][37]。クロタール3世が672年に死去すると、ネウストリア貴族と協議することなく最も若い王子であるテウデリク3世を王位につけることを画策した[39]。これにはオータン司教レウデガリウスを中心に激しい反対の声が上がり、エブロインはとらえられてリュクスイユ修道院に幽閉されることとなった[39]。しかし隙を見て脱出したエブロインは政権を取り戻し、テウデリク3世とともに再びネウストリアの支配権を握った[39]

一方のアウストラシアでは前述のシギベルト3世が王位にあったが、政治の実権は対立党派を退けて宮宰となったグリモアルドが掌握していた[39]。彼はピピン1世の息子である。グリモアルドは絶大な権力を振るい、王に嫡子がいなかったことを利用して自分と同名の息子グリモアルドをシギベルト3世の養子とし、キルデベルト(養子王)と改名させた[39][37]。だが、間もなくシギベルト3世に息子ダゴベルト2世が誕生したため、656年にシギベルト3世が死去すると当然の如く王位継承に問題が発生した[39]。グリモアルドはダゴベルト2世をアイルランドの修道院に追放し、自らの息子キルデベルトを王位につけることに成功した[39]。しかしこの王位の簒奪に対する正統性を批判したネウストリア王クロタール3世がアウストラシアを急襲し、662年にグリモアルドはとらえられ殺害された[39]。こうしてアウストラシア王位にはクロタール3世の兄弟キルデリク2世が据えられたが、彼もまた675年にネウストリア貴族の一派によって暗殺された[39]。次いでアイルランドの修道院からダゴベルト2世が呼び戻されアウストラシア王となったが、彼も679年に暗殺の憂き目にあった[39]。ダゴベルト2世暗殺の実行者とされるヨハネスはネウストリアの宮宰エブロインの手のものであったとされており、このような暗殺劇はエブロインがネウストリアを中心としたフランク王国の完全な統合を目指していたことを示すと考えられる[40]

この一連の混乱によってネウストリア=ブルグンディア王のテウデリク3世が存命している唯一のメロヴィング家の王となった[40]。更にエブロインはテウデリク3世への服属を要求してアウストラシアへ軍を進め、680年、アウストラシアで権力を手中にしていたピピン2世(中ピピン[注釈 5])とマルティヌスの軍を撃破した[40][41]。しかし間もなくエブロインも彼に恨みを持つネウストリアの貴族エルメンフレドゥスによって暗殺された[41]

エブロインの死後、ネウストリアの宮宰になったのがワラトーである[40]。ワラトーは就任後すぐにピピン2世と和平を結んだが、これに反対するワラトーの息子ギスルマールは父を追放し、ピピン2世との戦いを再開した[40]。ギスルマールはこの戦いの中で戦死し、再びワラトーが宮宰職に返り咲いた[40]。ワラトーの死後、その妻であるアンスフレディスが長老として大きな発言権を保持するようになった[40]。アンスフレディスの意向により彼女の娘婿のベルカリウスがネウストリアの宮宰となった[40]。アウストラシアにおいてピピン一門が宮宰職を事実上世襲したように、ネウストリアにおいてもこの職は門閥的支配の道具となっていた[40]。この状況はネウストリア貴族の間に強い不満を醸成させた。その代表がランス司教レオルスであり、彼の扇動によりピピン2世は大量の従士軍を動員してネウストリアに進軍した[40]テルトゥリーの戦いでピピン2世率いるアウストラシア軍が勝利した後、ピピン2世は唯一のフランク王として君臨していたテウデリク3世を手中に収め、王国のただ一人の宮宰となった[40]

カロリング家の台頭

ピピン2世が714年に歿した時、その妻プレクトルードの間にはドロゴグリモアルドという二人の息子がいたが既に死没していた[42]。また内縁関係にあったアルパイダとの間に息子カール(カール・マルテル)が生まれた[42]。実権を握ったプレクトルードは、グリモアルドの子供で自身の孫にあたるテオドアルドを後継者に選び、カールを幽閉した[42]。しかしこの人事にネウストリア貴族たちは従わず、同じネウストリア人であるラガンフリドを自分たちの宮宰に選出した[42][43]。ラガンフリドはプレクトルードが派遣したアウストラシア軍を撃破しキルデリク2世の息子ダニエルを修道院から引っ張り出してキルペリク2世としてネウストリア王に擁立した[42]

この敗北によってアウストラシアが混乱に陥ると、その隙をついてカールが脱出しアウストラシア軍の敗残兵を糾合してネウストリア軍への対応を引き継いだ[42]716年、カールはマルメディの戦いでネウストリア軍を撃破し、翌年にはヴァンシィの戦いでも勝利した[42]。更に719年、バスク人などと手を結んだラガンフリドに対しサンリスソワソンの間でカールが勝利をおさめた[42]。カールはその後ライン地方を掌握し、732年にはイベリア半島から北上してきたアブドゥル・ラーマン率いるイスラーム軍をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破して以後のイスラーム勢力のヨーロッパでの拡張を抑えることに成功した[44][45]

カールは735年以降にはほとんど毎年のようにガリア南部のミディ地方やプロヴァンス地方に遠征を行った[44]。この遠征による破壊と惨禍はイスラームによるそれを遥かに凌駕するものであり、未だ古代的な名残を留めていた南部社会の転換期を画する程のものであった[44]。このことから彼の行動は神が振り下ろした鉄槌(マルテル)とされるようになり、彼は「カール・マルテル」の名で後世に知られることになった[44][46]734年には当時フランク王の座にあったテウデリク4世が死去したが、その後王位は空位のまま放置された[47]。もはや実質的なフランク王国の支配者がメロヴィング家の王ではないことは誰の目にも明らかであった[47]

739年には、ランゴバルド族の侵攻に窮したローマ教皇グレゴリウス3世がカール・マルテルに救援を求めてきた[48]。カール・マルテルはランゴバルド王リプトプランドと同盟を結んでいたためこの時の救援は行われなかったが、東ローマ帝国の実質的な保護を喪失しつつあったローマ教皇庁はこの頃からフランク王国の庇護を求め始める[48]

カロリング朝

カロリング朝の成立

フランク王国の事実上の支配者として内外から認識される存在となっていたカール・マルテルは741年に死去した[49][50]。この時点でカール・マルテルには正妻クロドトルードとの間にカールマンピピン3世(小ピピン)、内縁関係にあったバイエルン王女スワナヒルドとの間にグリフォという息子がいた[49]。死の直前、カール・マルテルはフランク的伝統に則り、王国を三分割してそれぞれの息子に分与しようとしたが、クロドトルードの二人の息子、カールマンとピピン3世は共謀してグリフォを捕らえ、ヌフシャトールクセンブルク)に幽閉してグリフォの相続分を二人で分割した[49]。結果、カールマンの支配地はルーアンセーヌ川、パリ、ソワソンを結ぶ線の西側全域となり、ピピン3世の持ち分はアウストラシアとなった[49]。彼らは協力して空位となっていたフランク王位にキルペリク2世の息子キルデリク3世を擁立し、自分たちの支配権の正統性を根拠づけた[49]

747年、突如カールマンが俗世を放棄してイタリアのモンテ・カシーノ修道院に隠棲するという事件が発生した[49]。また、恩赦によって釈放されたグリフォは結局ザクセンとバイエルンの協力を得て反乱を起こした。この反乱は747年のザクセン遠征と、翌748年のバイエルン遠征によって鎮圧された[51]。この結果、事実上フランク王国の単独の支配者(宮宰)となったピピン3世はメロヴィング家の王を廃して自ら王位に就くことを画策するようになった[52]。ネウストリア貴族などの強い抵抗が予想されたため、ピピン3世はローマ・カトリック教会の権威を求め、教皇ザカリアスに協力が要請された[52]。ローマ教会側でも政治的庇護者を必要としていたことから、この内諾が得られると、751年にソワソンで「フランク人」が招集されその場でフランク王に推戴され、また神によって王に選ばれたことを示す塗油の儀式が教皇特使ボニファティウスによって行われた[52][53][注釈 6]。この国王塗油の儀式はまた、カロリング家がメロヴィング家の「神聖な」血統に基づく権威に勝る新たな権威を教会に求めたことを意味した[53]。このためピピン3世の祝聖は西ヨーロッパにおけるキリスト教的王権観の発展にとって画期的意義を持つものとなった[55]。メロヴィング家の最後の王、キルデリク3世は剃髪の上でサン=ベルタン修道院に、その息子テウデリクがサン=ヴァンドリーユ修道院に、それぞれ幽閉され二度と歴史の舞台に立つことはなかった[52]。こうしてカロリング(カール・マルテルの子孫)の王朝が成立した。

ピピンの寄進

ピピン3世の即位を通じて神と人の仲保者キリストの代理人としての国王、教会の保護者としての国王の職務が強調されるようになった[53]。ピピン3世は教会会議を開催し、教会に土地を付与して保護し、司教を教区の最高の長とし、大司教区を設置した[53]754年、教皇ステファヌス3世は更なるランゴバルド王国からの攻撃に対抗するため東ローマ帝国の支援を求めたが何ら有効な支援が得られず、代わりにフランク王国へと赴いた。ピピンはローマ・カトリック教会の厚意に報い、教皇とともにイタリア遠征を行ってランゴバルド王国の王アイストゥルフ(アストルフォ)に総主権を認めさせるとともに、彼が東ローマ帝国から奪ったラヴェンナの総督府とその周囲の都市をローマ教皇へ返還させた[56]。ピピン3世が帰国するとアイストゥルフは再度ローマを攻撃したため、756年に再びフランク軍がランゴバルドを攻撃し、その占領地を奪回した[56]。アイストゥルフは降伏し、ランゴバルド王国はその王領地の3分の1を引き渡し、かつてメロヴィング朝時代に課せられていた貢納が復活されることになり、フランク国王の全権委任者の手を経て占領地をローマ教皇へ「返還」することを余儀なくされた[57]。ピピン3世はこの時、都市ローマの宗主件と奪還したラヴェンナ総督府領やチェセナリミニペサロサン・マリノモンテ・フェルトロウルビーノなどの都市を教皇に寄進した[52]。これが歴史上「ピピンの寄進」(ピピンの贈与)と呼ばれるものであり、これによってローマ教皇領の基礎が形成されることになった[52]。東ローマ帝国からの急使がピピン3世を訪れラヴェンナ総督府領は帝国の領土であるという抗議を行ったが、ピピン3世は自身が聖ペトロへの敬愛と自らの罪の赦しのために戦いに従事しているのであり、それによって得られたものは聖ペトロのものとなるべきだと主張して反論した[58][57]

また、ピピン3世はイタリアの他にも国境地帯へ軍を派遣して各地を制圧した。752年からは西ゴート王国滅亡後も西ゴート人が現地で勢力を持っていたセプティマニアの支配に取り掛かり、759年には最後に残った都市ナルボンヌの在地西ゴート人勢力に対し引き続き西ゴート法を適用することを保証してこれを支配下においた[59]。これによってフランク王国は初めてガリア全土を支配下に置いた[59]。また当時名目上フランク王国領ではあったものの事実上独立勢力化していたアキテーヌの大公ワイファリウスを攻撃した。アキテーヌの制圧はてこずり、結局768年にワイファリウスが暗殺されるまで続いた[59][60]

カール大帝(シャルルマーニュ)

カロリング朝の版図
16世紀に描かれたカール大帝の肖像(アルブレヒト・デューラー作)

ピピン3世は768年に歿し、その息子カール1世(シャルル、大帝)とカールマンが即位した。カール1世がアウストラシア中枢部、ネウストリア沿岸部、アキテーヌの大部分を、カールマンはブルゴーニュ(ブルグンディア)、アレマニエンラングドッグプロヴァンスを分割して継承した[61]。しかしカールマンは771年に早世し、カール1世が単独の王として君臨した[62]

カール1世はその統治期間のほとんどを戦争に明け暮れて過ごした。まず769年に、暗殺されたアキテーヌの大公ワイファリウスの息子フノルドゥス2世が再び反乱を起こしたため、これを鎮圧した[63]773年から774年にかけて、亡命してきた故カールマンの妻子を保護していたランゴバルド王国を追討するためイタリアに遠征が行われた[64]。そして首都パヴィアを陥落させてランゴバルド王国を滅ぼし、ローマ市に入場した[65]。カール1世は自ら「ランゴバルド人の王」となり、かつて父ピピン3世がローマ教皇と交わした約束を更新したが、その履行には関心を払わずローマ教皇ハドリアヌス1世はカールに対して不信の念を募らせた[66]776年にはパンノニアフリアウル778年にはピレネー山脈を越えてイベリア半島への遠征が行われ、イタリア北部に侵入したアヴァール人とも戦闘が行われた[65][67]776年にはまた、ランゴバルド人の反乱を抑えるため再びイタリア遠征が実施された[68]781年にもローマへの遠征が行われ[65]、更に787年にはバイエルン大公タシロ3世を降し[67]カプアも制圧した[65]791年796年にはアヴァール人の根拠地を攻撃し、アヴァールのハーンの宮殿を略奪して膨大な戦利品を獲得した[67]。 また、即位以来30年余り続けられていたザクセン人の征服も、804年についに成し遂げられた[69]

こうしてフランク王国の領土をかつてない規模で拡大する一方で、カール1世はローマ教皇庁に対しても教義の面でも権威の面でも自らの方が上位者であることを知らしめた[70]。カール1世は、787年第2回ニカイア公会議において、ローマとコンスタンティノープルがともに聖像破壊論争(イコノクラスム)を解決しようとした後、信仰の問題についても教皇に譲るつもりがないことを示すため、この成果を無に帰す意図をもって794年フランクフルトで教会会議を開催した[70][71]。この会議において教皇使節は発言を撤回せざるを得ず、カール1世が教皇ハドリアヌス1世を廃位してフランク人高位聖職者に挿げ替えるつもりであるという噂まで流れた[70]795年にハドリアヌス1世が死去した後、ローマ教皇庁はフランク王国に従順であると考えれられたレオ3世を新たな教皇に選んだ。彼はその在位を通してフランクからの支援に依存することになった[70]

皇帝戴冠

教皇レオ3世により、800年クリスマスの日、ローマのサン・ピエトロ寺院(聖ペトロ大聖堂)でカール1世は皇帝に戴冠された[65][72][48]。この皇帝戴冠は寧ろローマ教皇庁側の主導によって行われたと当時の記録は記すが、その理由については現在でははっきりわからない[73][注釈 7]。この戴冠に際して皇帝号は「いとも清らかなるカルルス・アウグストゥス、神によって戴冠されたる、偉大にして平和を愛する皇帝、ローマ帝国を統べ、かつ神の恩寵によりフランク人とランゴバルド人の王たる者[注釈 8]」となり、皇帝権は神によって忖度された制度として捉えられた。それをフランク、ランゴバルドの王が皇帝として保持することとなり、同時にキリスト教世界の支配者として定義付けられた[74]

カール1世は、西ローマ皇帝戴冠を記念して発行したコインに完全にローマ式の自分の姿を刻ませ、自らの印璽もコンスタンティヌス大帝のそれを模倣したものを用いた。印璽の裏側には「ローマ帝権の革新(renovatio imperii)」と刻ませ、古代ローマの様式を規範とする強い意志を見せている[76]。また、カール1世の治世にはローマの建築や古典ラテン語の再興と、それを基礎とした文学活動の隆盛が見られた[76]。このような文化的潮流はカロリング朝ルネサンスと呼ばれ、中世ヨーロッパ文化に多大な影響を遺した。東ローマ帝国はカール1世の皇帝位を断固として認めなかったが、806年ヴェネツィアでの武力衝突の後、812年の和平の場で、カール1世が「フランク人の皇帝」であることを承認した[77]

カール1世の即位の後、カロリング朝ルネサンスを代表する知識人の一人アルクィンがカールの支配領域を「キリスト教帝国Imperium Christianum)」と呼んだように、(カロリング朝の)帝国とキリスト教世界が一体視され、皇帝戴冠をもって「西ローマ帝国の復活」と見做す理解が一般化した[78]。カール1世は優れた指導力の下、統治制度を整備し、その治世は後世の諸国家にとって常に回顧すべき模範となった[79]

帝国の分割

カール1世のカロリング帝国はその領内の諸民族が一つのキリスト教世界を構成し、宗教や文化において一体であるとする共属意識をもたらしたが、最終的にはカール1世の強烈な個性と政治力によって維持されたのであり、個々人の関係を中心とする属人性を越えた一体的な法規や制度に基づく統治機構を備えるわけではなかった[80]。統治機構においては国家と同一的な存在となった教会組織網が重大な役割を果たしたが、教会組織も聖職者たちの人的結合に未だその基礎をおいていた[80]。カール1世もまた、フランクの伝統的な分割相続に備え、自分の息子たちを各地に配置した[80]806年王国分割令によって、既にイタリア(ランゴバルド)分王国の王となっていたピピンと、アキテーヌの分国王となっていたルートヴィヒ1世(ルイ)の支配を確認するとともに、長男小カールにはアーヘンの王宮を含むフランキアの相続を保証することとし、それぞれの境界を定めた[81]。これは兄弟間での協力による王国の統一というフランク王国の伝統的原理を踏襲したもので、嫡男としての小カールの優越を保証するものではなかった[81]

だが実際には、810年にイタリア王ピピンが、811年に小カールが相次いで歿したため、814年にカール1世が死去した時にはルートヴィヒ1世(ルイ 敬虔帝)が唯一の後継者となった[81][82]。ルートヴィヒ1世の綽名「敬虔な(Pius)は彼の宗教生活への傾斜から来ている[82]。彼は宮廷から華美を一掃し、評判の悪い姉妹達を追放した。アーヘンから品行の悪い男女を締め出すことまでしている[82]。また、父カール1世に仕えていた宮廷人に変えて、アキテーヌ時代から側近を登用した[82]。更に、アニアーヌ修道院の院長で、厳格な戒律の適用による修道生活の改革運動をしていたベネディクトを政治顧問とした[83]

ルートヴィヒ1世は814年に宮廷の木造アーチの一部が崩れ、それに巻き込まれて負傷するという事故が起きた時、これを自己の生命が近いうちに終わるという不吉な予兆と見て同年のうちに帝国の相続を定めて布告することを決定した[84][83]。これによって発せられたのが帝国分割令(帝国整序令)と呼ばれる有名な布告であり、この布告によって長子ロタール1世はただちに共治帝となり、次男ピピンはアキテーヌ王、末子ルートヴィヒ2世はバイエルンを相続することとなった。ルートヴィヒ1世の死後は、兄弟たちは長男ロタールに服属すべきことも定められた[84]。イタリア王ピピンの庶子ベルンハルトはこの決定に不満を持ち、818年に反旗を翻したが鎮圧され、イタリアはロタール1世の直轄地となった[85]。こうして早期に継承に関する取り決めがなされたが、バイエルンの名門ヴェルフェン家の出身でルートヴィヒ1世の王妃の一人であったユーディットがシャルル2世(カール2世)を生むと、彼女は自分の息子にも領土の分配を要求した[84]。これは、統一帝国の理念の下、ロタール1世の単独支配を主張する帝国貴族団とヴェルフェン家の対立を誘発した[86]。また、ロタール1世の独裁を警戒するピピンとルートヴィヒ2世の思惑も絡み、複雑な権力闘争が繰り広げられることとなった[86][84]

緊迫した状況の中で、長兄のロタール1世が最初の動きを起こした。ロタール1世は830年、ブルターニュ遠征の失敗による混乱に乗じて父ルートヴィヒ1世を追放し、帝位を奪った[84]。しかし、ピピンとルートヴィヒ2世はこれに反対してルートヴィヒ1世を復帰させた。更に833年にも同様の試みが行われ、834年にまたもルートヴィヒ1世が復位するなど、ロタール1世と兄弟たちとの争いは一種の膠着状態となった[84]。この争いのさなか、837年にシャルル2世が成人(15歳)を迎えた。母親のユーディットはロタール1世と結び、フリーセン地方からミューズ川までの地域とブルグンディア(ブルゴーニュ)をシャルル2世に相続させることをルートヴィヒ1世に認めさせた[87]。翌年にはアキテーヌのピピンが死亡しその息子であるアキテーヌのピピン2世の相続権は無視されるかと思われたが、現地のアキテーヌ人たちはアキテーヌのピピン2世を支持した[87]

バイエルンを拠点に勢力を拡大したルートヴィヒ2世は、ルートヴィヒ1世がシャルル2世に約束した地域のうち、ライン川右岸のほぼ全域の支配権を主張して譲らず、840年に反乱を起こした[87][86]。この反乱を鎮圧に向かったルートヴィヒ1世は、フランクフルト近郊で急死した[87][86]

ヴェルダン条約

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ヴェルダン条約で定められた国境

ルートヴィヒ1世の死を受けて、イタリアを支配していたロタールはローマ教皇グレゴリウス4世やアキテーヌ王ピピン2世と結ぶ一方、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が同盟を組んでこれに対応した[87]841年、同時代の記録においてフランク王国史上最大の戦いとされるフォントノワの戦いで、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が勝利し、ロタール1世は逃亡した[88][85]

ルートヴィヒ2世とシャルル2世はロタール1世を追撃する最中、ストラスブールで互いの言語でロタール1世との個別取引を行わないとする宣誓を互いの家臣団の前で行った[88]。この宣誓の言葉はシャルル2世の家臣ニタールの残した書物に記されて現存しており、ルートヴィヒ2世によるシャルル2世の家臣団への宣誓の呼びかけはフランス語(古期ロマンス語)が文字記録として残された最古の例である[88][85][注釈 9]。敗走するロタール1世は、弟たちに対抗するためにヴァイキングやザクセン人、異教徒であるスラブ人との同盟も厭わなかった[88]。しかし、争いの激化が互いの利益を損なうことを懸念した三者は、842年、ブルゴーニュのマコンで会談し、和平を結んだ[88]。この和平の席で、帝国の分割が改めて合意され、3人の王が40名ずつ有力な家臣を出して新たな分割線を決定するための委員会が設けられた[88]。この結果、843年ヴェルダン条約が締結され、分割線が最終承認された[89]

ヴェルダン条約の結果、帝国の東部をルートヴィヒ2世(東フランク王国)、西部をシャルル2世(西フランク王国)、両王国の中間部分とイタリアを皇帝たるロタール1世(中フランク王国)がそれぞれ領有することが決定し、国王宮廷がそれぞれに割り振られた[89][注釈 10]。この分割は「妥当な分割」を目指して司教管区、修道院、伯領、国家領、国王宮廷、封臣に与えられている封地、所領の数などを考慮して決定された[89]。しかしその結果、各分王国の所領は(特にロタール1世の中フランク王国について)極めて人工的な、まとまりの無い地域の寄せ集めとなり、統治は困難を極めた[90]

中フランク王国の分解

ヴェルダン条約締結の後、3人の王はそれぞれの領地に戻ったが、必要に応じて協議をするために定期的に参集することが取り決められていた[91]。この体制は「兄弟支配体制」と呼ばれている[91]844年に最初の会合が持たれ、帝国の一体性が確認され相互の協調が確認されたが、この体制は短期間しか維持されなかった[92]。皇帝ロタール1世は850年に、伝統的な帝国の宮廷であったアーヘンではなくローマで、ローマ教皇に息子であるルートヴィヒ2世[注釈 11](ロドヴィコ2世)の皇帝戴冠を執り行わせた[92]。このことは、皇帝戴冠を行う「正しい場所」を巡る論争を引き起こした[92]。更に855年、ロタール1世の死に際し、中フランク王国はその息子たちによって更に細かく分割された。長男のルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)に皇帝位とイタリアを、次男ロタール2世フリースラントからジュラ山地までを(この地方は後にこのロタール2世の名にちなんでロタリンギア(ロートリンゲン)と呼ばれるようになる)を、三男のシャルルにブルゴーニュ南部とプロヴァンスを相続させた[92]

プロヴァンス王となったシャルルはまだ幼年でありしかも病弱であったので、実権はヴィエンヌジラールが掌握したが、彼はロタール2世と相談し、もしシャルルが相続人を遺さず死んだ時は、シャルルの王国をロタール2世の王国に併合することを構想した[93]。だが実際にシャルルが後継者の無いまま863年に死亡すると、イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)がプロヴァンスの継承権を主張し、結局プロヴァンス王国はロタール2世とルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)の間で分割されることとなった[93]

ロタール2世のロートリンゲン(ロレーヌ)王国でも相続の問題が発生した。ロタール2世は妻のテウトベルガとの間に後継者が生まれなかったことから、愛人のヴァルトラーダと結婚することで庶子であるユーグを後継者にしようとしたが、この結婚を巡ってローマ教皇庁、東西フランク王国を巻き込む政争が発生した。東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世はこれに乗じ、共謀してロタール2世の王国を分割することを約した[94]。結局ロタール2世はヴァルトラーダとの結婚を果たせず、正式の後継者を持てないまま869年に死去した[93]。この時点で、東フランク王ルートヴィヒ2世は重病の床にあり、皇帝ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)はイタリアでイスラーム軍との戦いに忙殺されており、漁夫の利を得た西フランク王シャルルがロートリンゲン(ロレーヌ)王国を手中に収めた[92]

最後の統一

東フランク王ルートヴィヒ2世も865年に自分の死後の分割相続について定めた。彼の王国もまた中フランク王国と同じように息子たちによって分割相続されることとなり[95]カールマンにバイエルンとスラブ人やランゴバルド人との境界地に設けられた辺境区が、ルートヴィヒ3世(ルートヴィヒ・ドイツ王)にオストフランケン(東フランキア)、テューリンゲンザクセンが、カール3世アレマニエンクール・ラエティア地方が割り当てられた[95]

この東フランク王ルートヴィヒ2世が、その軍事力を背景にロートリンゲンの継承権を主張したため、西フランク王シャルル2世は譲歩し、メルセン条約によってロートリンゲン(ロレーヌ)は両者間で分割された[96][95]。この条約の結果、ロタール2世の中フランク王国はイタリアを残して消滅し、現代のドイツフランスイタリアの国境の原型が形成された[95]

875年、皇帝兼イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)も後継者を遺さず死亡すると、シャルルはこの機を逃さず教皇ヨハンネス8世に接近し、イタリア王国の支配と皇帝の地位を手中に収めた[96][95][97]。更に続けて東フランクでルートヴィヒ2世が死去(876年)すると、西フランク王シャルルはフランク王国の再度の統一を実現しようと東フランクへ軍をすすめた[96]。しかし、ルートヴィヒ2世の息子、ルートヴィヒ3世は残り二人の兄弟とともに連合軍を組織し、アンデルナハの戦いで西フランク軍を壊滅させた[96][95]。統一の試みは失敗し、翌年シャルル2世はサヴォワで病没した[96]

その後東フランクでは主導権を握っていたルートヴィヒ3世とカールマンが相次いで死去し、残っていたカール3世(肥満王)が予想外の幸運により東フランク全体の王となった[98]。カール3世は更に、皇帝の地位とイタリア王位も手にした[99]。更なる幸運が、カール3世に西フランク王位をも齎した。西フランク王国でシャルル2世の王位を継いだのは短命のルイ2世(ルートヴィヒ2世)であり、その息子であるルイ3世(ルートヴィヒ3世)とカルロマン2世(カールマン2世)も短期間に事故死した[96]。短期間に王が何人も交代する不安定な状況の中、実権を握った修道院長ゴズランは、西フランク王位をカール3世に委ねた[96]。名目的かつ一時的ではあったものの、これによってカール3世はフランク王国にただ一人の王として君臨する最後の人物となった。

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単独の王となったカール3世であったが、能力が伴わず887年に東フランクのカールマンの庶子アルヌルフによって廃位され、翌年には死去した[98]。彼の退位と死はカロリング朝の一画期を記すものであった[100]。カール3世の死後、東フランクではアルヌルフによってカロリング家の支配が維持されたが、彼は西フランクの有力者から西フランク王位を薦められた際にはこれを拒否した。今や東フランクの王は完全にその地に地盤を張っており、西フランクの王位に興味を示さなかった[101]。この結果西フランクではノルマン人の侵入を撃退して声望を高めていたロベール家のパリ伯ウード888年に王に推戴された[102]。これによってはじめてカロリング家以外から王が誕生することとなった[102]。ウードの家系からはやがてフランス王位に登るカペー家が登場することになる[102]イタリアでは女系でカロリング家と血縁関係を持つフリウーリベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)が諸侯の一部の支持を得てトリエントでイタリア王に選出された[103]

こうしてカロリング家によって建設された帝国と王朝は四分五裂の状態となった。しかし、弱体化しつつも帝国の栄光は残り、正当なカロリング朝の後継者として東フランクのカロリング家の宗主権はイタリアのスポレート公を除き全ての分国から認められていた[100]。血統的正当性を持たない西フランク王ウードは、東フランク王アルヌルフの宗主権を受け入れざるを得ず、後継者にはカロリング家のかつての王ルイ2世の息子シャルル3世(単純王)を指名しなければならなかった[104]。またイタリア王ベレンガーリオ1世も、軍事的圧力の下、アルヌルフからイタリア王位の承認を得なければならなかった[104]

西フランク(フランス)

ロベール家のウードが王位を得た後も、正統な王家はカロリング家であるという意識は強力であり、ウードの後継者はシャルル3世(単純王)となった[105]。シャルル3世は領内に侵入してきていたノルマン人との間にサン=クレール=シュル=エプト条約を結んで情勢を安定させるとともに、911年にロートリンゲン(ロレーヌ)の内紛によってその王位を獲得した[105]。しかし、ロートリンゲン問題への傾注は貴族層の反発を招き、922年に大規模な反乱を引き起こした[106]。この反乱は鎮圧されたものの、シャルル3世は人望を喪失しペロンヌ城にその死まで幽閉されることとなった[106]。この結果、西フランク王位はブルゴーニュのリシャール判官公ラウルに委ねられたが、936年に彼が後継者を遺さず死ぬと、カロリング家の復活が模索され、シャルル3世の息子ルイ4世が擁立された[106]。この後、987年ユーグ・カペーが即位するまで、カロリング家の王による統治が継続された。

東フランク(ドイツ)

ドイツ人王と称せられるルートヴィヒ2世の治世(840-876年)から、アルヌルフが死ぬ899年までの期間、ごく短期間を除き東フランクではカロリング家の一人の王による統治が持続した[107]。その領域内には多数の部族、民族が居住していたが、王家と親族関係を築いた聖俗の貴族が王家の委託を受けて統治する複数の分国からなる国家へと成長していた[107]。その領域は後世に「ドイツ」と呼ばれる地域にほぼ合致し、単一の「ドイツ」民族への共属意識もこの時期に芽生えることから、歴史学上この王国は東フランク=初期ドイツ王国と呼ばれる[107]。アルヌルフは教皇庁の強い求めに応じてイタリアへ派兵し、896年にはローマ教皇フォルモススによって皇帝に戴冠された[108]。しかしその主要な関心は西フランク王位の拒否からもわかる通り、東フランク内の分国に対する統制力の維持にあり、基本方針としてはイタリアに対し不介入で臨んだ[108]。彼は将来に備え、嫡出子優先の継承制度を整えたが、後継者となったルートヴィヒ4世900年に即位した時7歳であり、王家の親族による合議で運営されるようになった[108]911年にこのルートヴィヒ4世が死去すると、カロリング王家の男系が断絶した[109]。西フランク王シャルル3世の擁立を目指す動きも不発に終わり、コンラート家コンラート1世が国王に推戴された[109]

イタリア

フリウーリベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)の王位就任以降をイタリア史では「独立イタリア王国」の時代と呼ぶ。これはカール3世の死によってフランク王国からイタリアが独立した888年を始まりとし、オットー1世によって神聖ローマ帝国に取り込まれる962年までを言う[103]。女系でカロリング家と血縁を持ったベレンガーリオ1世に対し、同じく女系でこの王家と繋がりを持つスポレートグイードが挑戦を挑み、勝利を収めた[103]。グイードはパヴィアでイタリア王に即位し、891年にはローマで皇帝戴冠を行った[103]。グイードの皇帝位はその息子ランベルトに継承され、ベレンガーリオ1世とランベルト双方から圧力を受けたローマ教皇フォルモススは東フランク王アルヌルフに救援を求めた[103]。この結果896年にアルヌルフはベレンガーリオ1世とランベルトの抵抗を排してローマを占領し、そこで皇帝に戴冠された[103]。これは東フランク王によるイタリア政局介入の端緒となった[103]。アルヌルフとランベルトが相次いで死去すると、ベレンガーリオ1世は899年に改めてイタリア王となった[103]。しかし、ベレンガーリオ1世に反対するイタリアの諸侯の一部は、やはり女系でカロリング家の血を引くプロヴァンスルイ3世を担ぎ出し900年にイタリア国王に即位させ、906年には皇帝戴冠が行われた[103]。ベレンガーリオ1世は905年にルイを打ち破り、915年には教皇による皇帝戴冠を行った[103]。しかし、改めてイタリア諸侯が高地ブルグントの王ルドルフ2世を担ぎ出すと、ベレンガーリオ1世は923年に敗れ去り、翌年家臣によって暗殺された[110]。これによって神聖ローマ帝国に組み込まれるまで、イタリアでは皇帝の称号を持つ人物はいなくなった[110]

言語

フランク王国を建国したフランク人達はインド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派の一派であるフランク語を母語としていたが、当時この言語が筆記に使用されることはなかった。6世紀初頭に編纂されたフランク王国の部族法典である『サリカ法典』には書面による売買契約や諸証についての規定がほとんどなく、一定の身振りや仕草を伴った口頭での契約や証明法、象徴物を用いた法律行為が採用されており、フランク人一般が当時まだ文字文化に親しんでいなかったことを示している[111]。このような状況はカロリング朝期にも変わることなく、法律行為は文字なしに行われるもののウェイトが大きかった[112]。一方、フランク王国はその中枢を置いたガリアにおけるローマ帝国の行政機構を一部引き継いだ。王国運営上必要となる文書業務はガロ・ローマ系の知識階級やキリスト教聖職者に委ねられ、ゲルマン古来の慣習法の成文化も彼らの手によって行われた。このため、文書の行政・司法上の言語にはラテン語が使用され、王国はその建国初期段階から二重言語の状態にあった[113]。メロヴィング朝時代には王達は自筆の署名を行っており俗人の間でも一定の識字能力を持つものはいたが[114]、王宮から発信される指令や情報の伝達文書は必ず朗唱され、口頭メッセージの形態をとったものと想定されている[111]

ラテン語においては、ローマ期より社会の中枢を占めたセナトール貴族と呼ばれる階層や、その階層の出身者を多数含むキリスト教会の聖職者によってその文学的伝統が維持された。メロヴィング朝期においても既にラテン語の文語と口語(俗ラテン語)の乖離は大きなものとなりつつあったが、発音の近似性により未だコミュニケーションが成立していた[115]。こうした状況はカロリング期になると俄かに変化した。カール大帝期以降のカロリング・ルネサンスと呼ばれる文化運動は古典志向の「純粋なラテン語」を希求し、ブリテン島ヨーク出身の修道士アルクィンによってラテン語の発音の矯正や正書法の整備が行われた[116]。これは「卑俗化した」ラテン語を純化しようとする試みであり、一連の改革と勧奨運動によって正しいラテン語を復旧させようとした[116]。また、正確なラテン語を通じた正しいキリスト教の理解を求める運動でもあり、言語改革を通じて王国の統治を円滑化しようとする試みでもあったが、文語と口語の距離を一段と乖離させることとなり、メロヴィング朝期には文字文化の一端を担っていた俗人貴族階層もまた識字層から離脱していくこととなったうえ[117][118]、教会の聖職者や聖職者出身の政府関係者が使用する書き言葉は民衆には全く理解できないものとなった[116][115]。この結果ラテン語はカロリング朝時代には聖職者や国家行政を司る者が占有する媒介言語となった[116]

公用語としてのラテン語が聖職者階層(フランク王国時代には同時に統治機構の役人でもあり、領主でもある)にのみ使用される言語となっていく一方、キリスト教の教化を各地で推し進めるために各地の民族語による教義の流布や説教が進められた[119]794年フランクフルト教会会議では、ラテン語やギリシア語ヘブライ語に限らず、あらゆる言語が神を崇拝する言語であることが決議された[119]。カール大帝が813年に招集した教会会議では、司教たちの説教が民衆に理解できるように各地の固有の言葉をもってなされるべきとされ、「わかりやすく翻訳」することが決議されている[120]。こうしてラテン語の宗教文書の現地語への翻訳が促され、王国の東側では9世紀以降高地ドイツ語による宗教文学も誕生した[121]。一方西側でも9世紀には初の古フランス語(ロマンス語)の文書であるストラスブールの宣誓が現れるに至り、少なくても北フランスではこの言語が共通語となっていた[122]

こうしてフランク王国時代には、ほとんど聖職者のみからなるラテン語の知識階層と、様々な現地語を使用するラテン語非識字層からなる西ヨーロッパ中世世界の言語的二重構造が形成された[118]

制度

王権

初期王権

トゥルネで発見されたキルデリク1世印璽。長髪を蓄えた王の姿が描かれている。

フランクの王権概念がどのようにして成立したかについては、数多くの研究者によって多様な見解が述べられてきた。フランク族を含むゲルマンの王権を考える場合、伝統的に「神聖王権」と「軍隊王権」と言う二つの概念が特にドイツの学会において中心的な概念として捕らえられている[123]。神聖王権とは特定の王家の血統の神聖性、時に神に連なる系譜によってその所属者が部族に繁栄をもたらす特殊な力を持っていたと考えられていたことにより王位の正統性が認識されていたとするものであり[123]、一方の軍隊王権は、王の軍事指導者・将軍としての性質を重要視し、戦争における勝利を齎せるものが王として認められたとするものである[123]

フランク族の王として権力を確立したメロヴィング家が実際にどのような経緯を経て王者として認められるに至ったかについては史料的制約によりわかっていない[124]。ただ、クローヴィス1世の時代には既にメロヴィング家の出身者だけが王となれることが彼の部族では自明のこととなっていた[124]。メロヴィング王家を象徴するものに、王族にだけ認められた長髪がある[125][126]。メロヴィング家の王家は青年期に達した男子に施される「最初の断髪」を免れ、長髪を保持していた[126]。また、キルデリク2世の息子ダニエルの即位時には彼の髪の毛が十分に伸びるのを待った上でキルペリク2世として王とされていることも長髪が王の象徴であったことを示す。このような王の長髪はかつては上述のゲルマン的「神聖王権」説と結びつけられて解釈されていたが、今日ではそのような見解を取る学者は僅かにしかいない[127]五十嵐修は、メロヴィング家の王の長髪について、アレマン人が髪を赤く染め、ザクセン人が前頭部の髪の毛を剃ったように、ゲルマン人に一般的に見られる部族への帰属を示す外見上の表現の一種に過ぎないものとしている[125]

同様に五十嵐修はフランク人の王権を大枠として「軍隊王権」として捕らえている。フランク人の王は伝統的なゲルマン的な王権と言うよりも、西ローマ帝国の混乱に多様な形でフランク人達が関わる中で、戦時における指揮官・指導者達がその成功によって部族民から王として認められたものであるとされる。キルデリク1世は、極めてローマ的な姿を描いた遺物を残しているのみならず、印璽を用いていた。当時のゲルマン人達は文字を持たなかったことから、この印璽はローマ系住民への命令やローマの将軍との交渉において必要なものであったと考えられる[128]。これらのことからフランクの王は、彼等を軍事力として必要とした西ローマ帝国との関与の中で、ローマ帝国の内部において形成されたものであると考えられる[125][注釈 12]

キリスト教と王権

751年ピピン3世(短躯王)の戴冠。

フランク王国はクローヴィス1世による征服の結果、その領内にゲルマン人のみならず多様な人々を抱える多民族国家として成立した。このような国家を運営する上で大きな役割を果たしたのがクローヴィス1世のカトリック改宗である[130]。彼が改宗を決断した経緯や時期についてはなお論争があるものの、その改宗がフランク王国の安定に大きく寄与したことは疑いがない[20]。フランク族による征服が行われる以前、既にローマ領ガリアにはローマ帝国の行政管区を枠組みとしてキリスト教の教会組織が編成されていた[131]。このような教会組織は、クローヴィス1世の改宗を通じてフランク王国の国家機構に組み込まれていくこととなった[20]。キリスト教はフランク人と既にカトリック化の進んでいたローマ人貴族との間の関係を良好に保つ効果を持ち、共通の信仰を通じて国家を統合する重要な役割も果たした[20]

メロヴィング朝からカロリング朝への交代においては、血統的正統性に勝る権威としてキリスト教の権威、ローマ・カトリック教会の権威が利用されたことから、キリスト教の重要性は更に増大した。ローマ教皇庁による国王塗油によって即位したカロリング朝の初代ピピン3世の即位は単なる王朝の交代のみならず、フランク王権とローマ教皇権の結合、そしてキリスト教の教会イデオロギーによる王権の正統性確立という二つの意味で、ヨーロッパ中世社会の確立における決定的転換点であった[132]。カロリング朝の王は「神の恩寵による王」となり、キリスト教世界の「平和」を保証することを自らの任務とするようになった[132]。このようなカロリング朝の王権イデオロギーは単なる理念に留まらず、実際の行動においても神への敬虔さの現れとして実行され、カール大帝はザクセンの征服においてキリスト教への改宗か、さもなくば死かと言う基本姿勢で臨み、激しい殺戮の末にこれを征服した[133][134]

カロリング朝期においては王はキリスト教の聖王として行動し、その道徳律に従って統治することを余儀なくされる一方、王が教会領を流用し、司教や修道院長を任命し、彼等を王国集会に出席させるなど教会組織そのものが「国家化」された[135][注釈 13]

経済

交易

法的には、都市を中心に開催されて王が管理する公共市場と、荘園を中心に開催する私的市場が存在した。これらは機能によって、古代ローマ以来のキヴィタスと呼ばれる都市や修道院による地域の市場、地域をつなぐ都市の市場、帝国外部との貿易のための国際的な市場に大きく分かれた。修道院では、カロリング朝以降に守護聖人日や季節の祭日に行われる年市( fair )が発展し、サン・ドニ修道院の年市などが有名である。王権と教会は食料不足にそなえて穀物の確保につとめ、穀物輸出や先物取引を管理した[139]

国際的な市場はヴィクやエンポリウムと呼ばれる交易港の性質を持っていた。イングランドやスカンジナビアへの交易では、ドレスタットなどの交易地を用いた。フリース人が商人として活動し、7世紀にはロンドン、9世紀にはマインツといった諸都市に進出していた[140]。カール大帝の時代にはドナウ川の流域で道路や公設市場を建設し、ライン川やセーヌ川、北海、バルト海、ドナウ川をつなぐ交易圏が形成された。輸出されたのはワイン、ライン川水系の陶器、フリースラントの毛織物、ガラス製品、奴隷など。輸入されたのは絹、宝石、毛皮、琥珀、馬などであった。

通貨

カロリング朝は通貨体制に力を注いだ。ピピン3世は金貨にかわって銀貨のデナリウスのみを発行することに決め、銀貨の重量を上積みした。原因としては、東方の金の高値に対する対策、新たな銀鉱の開発、冬の飢饉による穀物価格高騰に対する購買力の強化などがあげられている。同時期には度量衡の改革も行われ、銀貨の重量の上積みは、カール大帝やルイ敬虔王の時代にも行われた。しかし新しいデナリウス貨は小額の取引に向かず、デナリウスの半分の価値のオボルスも発行された[141]

脚注

注釈

  1. ^ 表記年はフランク王国継承政権の最後のカロリング朝政権(西フランク王国)断絶年。843年-884年は分裂期間。884年-887年カール3世による一時的統一したが、これより後は統一されることなし。962年に東フランク王国が神聖ローマ帝国になり、987年に西フランク王国ではカロリング朝が断絶しカペー朝フランス王国となる。
  2. ^ この名前は「勇敢な人々」[1]、「大胆な人々」[2]、或いは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味である[3]
  3. ^ ブルグント族は後にフン族との戦いで壊滅的な損害を被り、サバウディア([サヴォワ)地方に移りその地で王国を再建した[10]
  4. ^ この分割割り当ては即興で決まったものではなく、ある程度計画的に予定が建てられていたものである。それはランス近辺を継承したシギベルト1世の名前が、クローヴィス1世によって滅ぼされたライン・フランク人の王シギベルトから取られており、旧ブルグント領を含むオルレアンの王国を継承したグントラムの名が、典型的なブルグント王族の名であることからわかる。彼らがあらかじめその地を継承することを想定されて命名されていることは明らかである[26][25]
  5. ^ ピピン1世(大ピピン)の娘ベッガと、アルヌルフの息子アンセギゼルの息子。グリモアルドの甥にあたる。
  6. ^ ピピン3世の即位はゲルマン法の慣習に則り、成員による選挙による形態をとった。一方で旧約聖書の記述による国王塗油の儀式を通じてキリスト教的観点から強化された。この国王塗油については既にイベリア半島の西ゴート王国が滅亡前に慣例化しており、西ゴートの慣習がフランク王国に影響を及ぼした可能性もある[54]
  7. ^ カール1世のローマ皇帝戴冠は西ヨーロッパの政治史、宗教史において決定的な事件であったが、それが当時決定された理由については議論の中にある。カール大帝の伝記を遺したエインハルドゥスは「カールは皇帝位に嫌悪を感じていたので、もし彼が教皇の意図を事前に察知していたら、彼は尊ぶべき祭日にもかかわらず、教会へいくことはなかったであろう」と記し[74][75]、カール1世にとって皇帝戴冠は晴天の霹靂であったかのように記録している。しかし、今日的理解としてはカール1世は自身の戴冠について事前に知っていたと想定して問題はない[75]。中世初期フランク史の研究者オイゲン・エーヴィヒは「カールがこのような行為によって驚かされたとか、皇帝位そのものを拒否したというようなことは、今日の研究水準からすれば、もはや認められない。」としている。また、教皇側の意図についてバラクロウは、「全体として見るなら、教皇には先を見通した上での目的などなかったのではないだろうか。799年、道徳的にも政治的にも信用を失ったレオは陰謀に遭い、命の危険に晒されていた。したがって、教皇はカールに皇帝の権力を授けることで、自分を苦境から救い出してくれる権威をローマに確立しようと考えたにすぎなかったとみるのが自然であろう。」と述べ、その場しのぎの対応として用意されたのであり、壮大な計画を伴って用意されたものではないとしている[73]
  8. ^ Karoulus serenissimus Augustus, a Deo coronatus, magnus et pacificus imperator, Romanum gubernans imperium qui et per misercordiam Dei rex Francorum et Lngobardorum. 訳文は瀬原訳、エーヴィヒ 2017, p. 103に依った。
  9. ^ このストラスブールの宣誓は、フランク王国(カロリング帝国)が言語の上において東西に分裂しつつあった状況を証明している[85]。帝国の西と東で、それぞれの言語文化が育まれ、東側でも8世紀頃から古代高地ドイツ語の書物が編纂されていた[85]
  10. ^ ロタール1世にはリエージュ、ルートヴィヒ2世にはフランクフルトインゲルハイムヴォルムス、シャルル2世にはランソワソンパリオワーズコンピエーニュなど、メロヴィング朝時代からの伝統ある離宮が割り当てられた[89]
  11. ^ イタリア王としてのルートヴィヒ「2世」であり、東フランクのルートヴィヒ2世とは別人。イタリア語式にロドヴィコ2世とも呼ばれる。西フランクにも同名の王ルートヴィヒ2世がいる。
  12. ^ ル・ジャンもまた、以下のように述べる。「人類学者たちによると、王権が現れるのは、親族集団に自分の価値を認めさせ、多様性を維持しながら一体性を保証し、繁栄や公共福祉を保証することのできる上級権威を必要とするほど社会が複雑になったときである。フランク族に関して言えば、王権の出現はローマ世界への編入の結果である[129]
  13. ^ カロリング朝時代のフランク王国は、同時代人にとっては現代的な意味での国家として捕らえておらず、それ自体一つの「教会」(ecclesia)と認識していたとされる。この場合の教会とは、単なる聖堂や集会場所と言う意味での教会ではなく、キリスト教の教義における「神の国」の現実世界における実体、「キリストの体」としての「教会」(ecclesia)であった[136]。このような捉え方は日本の歴史学会においては山田欣吾が「「教会」としてのフランク王国」の中で詳述し、フランク王国を理解する上での基本的見解となっている[137][138]

出典

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参考文献

書籍

その他

五十嵐修「「王国」・「教会」・「帝国」9世紀フランク王国の「国家」をめぐって」, 『人文・社会科学論集』23, 2006年

外部リンク

関連項目