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クロタール2世 (フランク王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クロタール2世から転送)
クロタール2世
Chlothar II
フランク国王
在位 ネウストリア王:584年 - 613年
全フランク王:613年 - 629年

出生 584年
死去 629年10月18日
埋葬 サン=ジェルマン=デ=プレ教会
配偶者 ハルデトルーデ
  ベルトルーデ
  シキルデ
子女 一覧参照
王朝 メロヴィング朝
父親 キルペリク1世
母親 フレデグンド
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587年当時のガリア地方の地図。
黄色はクロタール2世の当初の領地。613年には地図の着色された部分を全て引き継いだか、征服した。

クロタール2世(クロタール2せい、Chlothar II, 584年 - 629年10月18日)は、メロヴィング朝の3代目統一王(在位:613年 - 629年)。キルペリク1世の八男で末子[1]フレデグンドの子としては五男で末子)。

生涯

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584年に彼の父であるネウストリアの王キルペリク1世が死去し、ネウストリア王位を継承したが、彼は生後4ヶ月であったため[2]597年まで彼の母であるフレデグンド摂政をしていた。また、伯父ブルグント王グントラムが後見人となっていた[3]

599年、いとこのアウストラシア王のテウデベルト2世ブルグント王国テウデリク2世と戦った。テウデリク2世とは度々戦ったが、613年テウデリクは死去している[4]。ブルグントはテウデリクの息子シギベルト2世が継承したが、シギベルドの曽祖母であるブルンヒルドが支配していた。

613年にブルンヒルドとの戦いに勝利し、フランク王国を統一[4]パリへ遷都。ブルンヒルドは捕らえられ処刑された[4]

614年10月18日にパリ勅令を発布[5]。各分王国の貴族の要求を受け入れる形で、宮宰へ権限を委任[5]。また教会へ裁判特権を与えた。

623年にアウストラシア貴族からの要請を受け入れ、息子ダゴベルト1世をアウストラシア王とした[6]。また、ピピン1世をアウストラシアの宮宰に任命したが、アウストラシア王国の実権を握っていたピピン1世およびメッス司教アルヌルフはダゴベルト1世を操ることで権力の維持をはかったとされる[6]

629年、クロタール2世は死去し、ダゴベルト1世がアウストラシアに加え、ネウストリア・ブルグント王位も継承し王国は統一された[7]。また、ダゴベルト1世は異母弟カリベルト2世をアキタニア王とした。

子女

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  • メロヴェク
  • ダゴベルト1世(603年頃 - 638年) - アウストラシア王(在位:623年 - 638年)、ネウストリア・ブルグント王(在位:629年 - 638年)、アキテーヌ王(632年)
  • カリベルト2世(? - 632年) - アキタニア王(在位:629年 - 632年)

脚注

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  1. ^ ティエリ、上、メロヴィング家系図抄
  2. ^ ティエリ、p. 176
  3. ^ 柴田 他、p. 143
  4. ^ a b c 柴田 他、p. 144
  5. ^ a b 柴田 他、p. 145
  6. ^ a b 柴田 他、p. 146
  7. ^ ル・ジャン、p. 30

参考文献

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  • オーギュスタン・ティエリ 『メロヴィング王朝史話 上下』小島輝正訳、岩波書店、1992年
  • 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年
  • レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年

関連項目

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先代
クロタール1世
フランク
3代
613年 - 629年
次代
ダゴベルト1世