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「見性」の版間の差分

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'''見性'''(けんしょう)とは、[[仏教]][[]]において、[[人間]]に本来そなわる、本性を徹見すること。禅の[[悟り]]の1つとされる。次の[[修行]]過程は[[修道]]。
'''見性'''(けんしょう)とは、[[禅宗]]で用いられる[[仏教用語]][[人間]]に本来そなわる、本性を徹見すること。禅の[[悟り]]の1つとされる。[[仏典]]見性の語は多く現れるが、見(dṛṣti)と性(svabhāva)という字義通りの熟語(複合語)で、禅宗の用法と関係した記述はほとんど見られず([[#見性成仏]]を参照)、これが禅宗の用語とされる理由となっている


禅宗は、見性によって一時的にでも[[万能感]]を得たと考える修行者に対しては、それを[[魔境]]の一種の[[偽涅槃]]であるとして、そうした状態に執着することなく、逆に一蹴することを修行の注意点として説く。坐禅を始めてから数年の段階に多くみられる。
禅宗の用法もっぱら[[エクスタシー|法悦体験]]を指すがこの見性によって一時的にでも[[万能感]]を得たと考える修行者に対しては、それを[[魔境]]の一種の[[偽涅槃]]であるとして、そうした状態に執着することなく、逆に一蹴することを修行の注意点として説く。坐禅を始めてから数年の段階に多くみられる{{要出典|date=2017年2月}}


== 概要 ==
== 概要 ==
性を、[[仏性]]、[[法性]]、[[本性 (仏教)|心性]]ともいうので、見仏性、見法性、見心性、あるいは見心見性、明心見性などと使用する。性は本来、[[煩悩]]に汚染されることはなく、それ自体で清浄なものであり、この[[自性清浄心]]に気づくことを指す。禅における悟りであり、[[臨済宗|臨済禅]]では今日でも見性を目指して[[坐禅]]修行に励む
禅宗では性を、[[仏性]]、[[法性]]、[[本性 (仏教)|心性]]ともいうので、見仏性、見法性、見心性、あるいは見心見性、明心見性などと使用する<ref>『岩波仏教辞典 1989年第1刷』 (岩波書店) 「見性」。</ref>。性は本来、[[煩悩]]に汚染されることはなく、それ自体で清浄なものであり、この[[自性清浄心]]に気づくことを指す。


通教で初期の修行課程とされている「見道」は、諸の善を加行して順決択分を確定し、仏道の[[歴劫修行|応知次第増]]に念住して初めて見道位とされるが<ref>[[大正新脩大蔵経テキストデータベース]] 『阿毘達磨倶舍論本頌(世親造 玄奘譯)』 (T1560_.29.0322b02: ~): 説爲慧勤定 實諸加行善 初業順決擇 及修見道位 念住等七品 應知次第増。</ref>、禅宗の見性は法悦体験そのものに重きが置かれる。通教では、見道位の次の修行過程は「修道」とされる。
[[中国]][[禅宗]]では、特に六祖[[慧能]]がこれを重んじており、『[[六祖壇経]]』で次のように説かれている。

;歴史
禅宗で見性が初めて顕著に現れたのは、中国禅の六祖[[慧能]]のときで、『[[六祖壇経]]』で次のように説かれている。


「一切法に於いて不取不捨ならば、即ち是れ見性し、仏道を成ず」。或いは、そのために『金剛般若経』を重んじることも説く。「善知識よ、若し甚深法界及び般若三昧に入らんと欲する者は、須く[[般若]]の行を修し、『金剛般若経』を持誦すべし、即ち見性することを得ん」
「一切法に於いて不取不捨ならば、即ち是れ見性し、仏道を成ず」。或いは、そのために『金剛般若経』を重んじることも説く。「善知識よ、若し甚深法界及び般若三昧に入らんと欲する者は、須く[[般若]]の行を修し、『金剛般若経』を持誦すべし、即ち見性することを得ん」


この記述の意味は、「一切の修法修行の教説を取ることも捨てることもしなければむしろ見性し、それを以って成道したとする方が正しいほどであるが(見性成仏)」、見性を得ているかどうかは次の修道の初出の果報を体得することによってしか証し得ないものであり、「不惜身命を誓って甚深法界及び般若三昧に入る覚悟のある者は、教行を修めるべく『金剛般若経』を持誦せよ。そうすれば見性が証され得よう」と言うものである。<ref>『金剛般若経』は甚深法界・般若三昧に入るまでを説く経典である。</ref>
この記述の意味は、「一切の修法修行の教説を取ることも捨てることもしなければむしろ見性し、それを以って成道したとする方が正しいほどであるが(見性成仏)」、見性を得ているかどうかは次の修道の初出の果報を体得することによってしか証し得ないものであり、「不惜身命を誓って甚深法界及び般若三昧に入る覚悟のある者は、教行を修めるべく『金剛般若経』を持誦せよ。そうすれば見性が証され得よう」と言うものである。<ref>『金剛般若経』は甚深法界に入るまでを説く経典である。</ref>


六祖慧能は甚深法界及び般若三昧に入ることをよしとしているわけではなく、『六祖壇経』では次のようにも説いている。
六祖慧能は甚深法界及び般若三昧に入ることをよしとしているわけではなく、『六祖壇経』では次のようにも説いている。
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この概念は、後に'''見性成仏'''という禅の特徴を表す4つの語句の1つとして定着した。教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)がそれであり、見性がそのまま[[成仏]]であるとする。
この概念は、後に'''見性成仏'''という禅の特徴を表す4つの語句の1つとして定着した。教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)がそれであり、見性がそのまま[[成仏]]であるとする。


元々は、[[宝亮]]([[444年]] - [[509年]])の撰述といわれる『涅槃経集解』に、「案ずるに僧亮曰く、見性成仏、即ち性を仏と為すなり」とあるのが最初であるという。六祖慧能の[[語録]]である六祖壇経』の機縁にこれが取り入れられ、よって禅宗の言葉になった。禅では、人間の本性は仏性そのものであり、それ以外に本性として認めるべき物はないという。この仏性を開き現すことを「見性成仏」という。自己に執着し、外物に執着する自己の心を徹底的に掘り下げ、自己の本性として見るべき物はないと悟ったとき、その身がそのまま仏であるとする。これは特に[[臨済宗]]の系統では多く用いられている。
禅宗では、[[宝亮]]([[444年]] - [[509年]])の撰述といわれる『涅槃経集解』に、「案ずるに僧亮曰く、見性成仏、即ち性を仏と為すなり」とあるのが最初であるとされるが、[[宋 (南朝)]]時代に[[インド]]出身訳経僧として活躍した[[求那跋陀羅]]([[394年]] - [[468年]])の訳[[楞伽|楞伽阿跋多羅宝経]]』に、すでに「直指人心 見性成仏 以って教外別伝と為す」とあり、これ禅宗に取り入れられ、よって禅宗の言葉になったとみられる
禅では、人間の本性は仏性そのものであり、それ以外に本性として認めるべき物はないという。この仏性を開き現すことを「見性成仏」という。自己に執着し、外物に執着する自己の心を徹底的に掘り下げ、自己の本性として見るべき物はないと悟ったとき、その身がそのまま仏であるとする。これは特に[[臨済宗]]の系統では多く用いられている。


== 各宗派 ==
== 各宗派 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[菩提]]
* [[発心]]
* [[十牛図]]


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2017年2月2日 (木) 19:41時点における版

見性(けんしょう)とは、禅宗で用いられる仏教用語人間に本来そなわる、本性を徹見すること。禅の悟りの1つとされる。仏典には見性の語は多く現れるが、見(dṛṣti)と性(svabhāva)という字義通りの熟語(複合語)で、禅宗の用法と関係した記述はほとんど見られず(#見性成仏を参照)、これが禅宗の用語とされる理由となっている。

禅宗の用法はもっぱら法悦体験を指すが、この見性によって一時的にでも万能感を得たと考える修行者に対しては、それを魔境の一種の偽涅槃であるとして、そうした状態に執着することなく、逆に一蹴することを修行の注意点として説く。坐禅を始めてから数年の段階に多くみられる[要出典]

概要

禅宗では性を、仏性法性心性ともいうので、見仏性、見法性、見心性、あるいは見心見性、明心見性などと使用する[1]。性は本来、煩悩に汚染されることはなく、それ自体で清浄なものであり、この自性清浄心に気づくことを指す。

通教で初期の修行課程とされている「見道」は、諸の善を加行して順決択分を確定し、仏道の応知次第増に念住して初めて見道位とされるが[2]、禅宗の見性は法悦体験そのものに重きが置かれる。通教では、見道位の次の修行過程は「修道」とされる。

歴史

禅宗で見性が初めて顕著に現れたのは、中国禅の六祖慧能のときで、『六祖壇経』で次のように説かれている。

「一切法に於いて不取不捨ならば、即ち是れ見性し、仏道を成ず」。或いは、そのために『金剛般若経』を重んじることも説く。「善知識よ、若し甚深法界及び般若三昧に入らんと欲する者は、須く般若の行を修し、『金剛般若経』を持誦すべし、即ち見性することを得ん」

この記述の意味は、「一切の修法修行の教説を取ることも捨てることもしなければむしろ見性し、それを以って成道したとする方が正しいほどであるが(見性成仏)」、見性を得ているかどうかは次の修道の初出の果報を体得することによってしか証し得ないものであり、「不惜身命を誓って甚深法界及び般若三昧に入る覚悟のある者は、教行を修めるべく『金剛般若経』を持誦せよ。そうすれば見性が証され得よう」と言うものである。[3]

六祖慧能は甚深法界及び般若三昧に入ることをよしとしているわけではなく、『六祖壇経』では次のようにも説いている。

「若し仏に帰依すと言わば、仏は何処にか在る。……… 各々自ら観察して、錯(あやま)って心を用うること莫かれ。経文は分明に自らの仏に帰依すと言って、他仏に帰依すと言わず」

見性成仏

この概念は、後に見性成仏という禅の特徴を表す4つの語句の1つとして定着した。教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)がそれであり、見性がそのまま成仏であるとする。

禅宗では、宝亮444年 - 509年)の撰述といわれる『涅槃経集解』に、「案ずるに僧亮曰く、見性成仏、即ち性を仏と為すなり」とあるのが最初であるとされるが、宋 (南朝)時代にインド出身の訳経僧として活躍した求那跋陀羅394年 - 468年)の訳『楞伽阿跋多羅宝経』に、すでに「直指人心 見性成仏 以って教外別伝と為す」とあり、これらが禅宗に取り入れられ、よって禅宗の言葉になったとみられる。

禅では、人間の本性は仏性そのものであり、それ以外に本性として認めるべき物はないという。この仏性を開き現すことを「見性成仏」という。自己に執着し、外物に執着する自己の心を徹底的に掘り下げ、自己の本性として見るべき物はないと悟ったとき、その身がそのまま仏であるとする。これは特に臨済宗の系統では多く用いられている。

各宗派

曹洞宗では、道元が一時の見性に固執することなく、修行と悟りは一体不可分で、無限の修行こそが成仏である「修証一如」のただ坐禅に打ち込むことが最高の修行であるという「只管打坐」を主張した。

臨済宗では本当に見性したのちの、「悟後の修行」である「聖胎長養」を重視する[要出典]妙心寺派は今日でも頓悟禅を標榜している。

  1. ^ 『岩波仏教辞典 1989年第1刷』 (岩波書店) 「見性」。
  2. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『阿毘達磨倶舍論本頌(世親造 玄奘譯)』 (T1560_.29.0322b02: ~): 説爲慧勤定 實諸加行善 初業順決擇 及修見道位 念住等七品 應知次第増。
  3. ^ 『金剛般若経』は甚深法界に入るまでを説く経典である。

関連項目