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ノート:見性

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無出典の加筆例

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匿名利用者によるこの加筆は無出典です。この加筆において脚注は一個だけ付いていますが、これは脚注の位置から見るかぎり、「菩提心を起こす地」という名詞の出典と解するほかなく、その「菩提心を起こす地」が結局どうなのか、ということを示す述語部分(=「一般的である」)には出典がありません。これでは、「○○が一般的である」という宣言そのものには出典が無いことになります。

従いまして、この加筆分は十分な出典を備えていませんので、この加筆を「取り消し」します。

この記事は本日現在、まともな出典が一個もありません。現状が無出典だからといって、さらにそこへ無出典で加筆してよいわけではありませんので、加筆の際はWikipedia:出典を明記するに示された編集方針等に準拠して加筆してくださるようお願いします。--Leonidjp会話2016年9月10日 (土) 15:32 (UTC)[返信]

文中、URL修正。--Leonidjp会話2016年9月10日 (土) 15:36 (UTC)[返信]

「発菩提心」と「求菩提心」の混同が根底にあり、出典の華厳経(十地経)の梵語底本はおそらく漢訳「求菩提心」に相応するものと思われます。
「発菩提心」を「求菩提心」のように言うのは近現代にありがちなことで、そこにはやはり近現代の禅宗がよく言う、菩提=悟りという解釈が入り混じるからでしょう。
その場合、「発菩提心」を見性成仏の発現のように言うのであれば、あながち誤りとは言えないでしょうが、そのような説法はついぞ聞きません。菩提心自体が何だかわけの分からない使われ方をしています。
典拠がなく説明もつかないものは削除しましょう。私の方で削除します。--14.193.77.62 2016年9月10日 (土) 16:56 (UTC)[返信]
匿名利用者の14.193.77.62さまへ。あなたのこの新たな加筆も、以下の二点が無出典です。
  • 「通教的には見道位にあたる」の出典が無い。
  • 「金剛般若経は修道の経典である」の出典が無い。
出典は、加筆なさる方がご自身でご記入ください。Wikipediaの編集方針「Wikipedia:検証可能性」に、「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」と規定されています。
上記2点の加筆部分は無出典ですから、元に戻しておきます。まあ、金剛般若経の方は、元に戻してもなお無出典なのですが。
>典拠がなく説明もつかないものは削除しましょう。
典拠のないものは削除できるというのは正しいのですが、あなたがこのノートページに上記のように披露しておられる、仏教や禅や華厳などについての薀蓄じたいも無出典です(ただし、「○○には典拠が無い、典拠が見当たらない」ということ自体の出典は、たしかに見つけにくいでしょうけれど)。ノートページに書き込む薀蓄なり理論を、Wikipediaの記事の本文を具体的に改変するための根拠として機能させるおつもりなら、そのような「記事本文の改変根拠」じたいが無出典でよいわけはありません。原理的に出典が存在できないタイプの問題なら別ですが。--Leonidjp会話2016年9月10日 (土) 23:47 (UTC)[返信]
補足です。上記の「見道位」云々の部分は「元に戻」すのでなく本文から除去してしまいましたが、いずれにしろ無出典ですから除去できますので問題ありません。復元なさりたい方は出典お付けください。--Leonidjp会話2016年9月11日 (日) 00:02 (UTC)[返信]
そんなことを言い始めたら、見性自体、南宗禅が薀蓄もなしに、突然ですが的に多用し始めた禅宗特有の表現で、当初から典拠に欠け、頓悟の実態のように言う者が居るなど、人によって様々な解釈がなされたものです、が、まあいいでしょう。
調べたところ、見道については唯識論者が古くから通教と異なる論説を成しており、混乱を招く恐れがあるので記述しない方がよさそうです。
もとより、見道の見道位は今だ先に修道のあることを受け入れること(四諦了知)を含んで言うのに対し、禅宗の多数派がいう見性はキラキラありがたや体験そのものを指すらしいので、厳密には異質なものとも考えられます。
(他の部分で少し修正しました。)--14.193.77.62 2016年9月11日 (日) 14:48 (UTC)[返信]
>そんなことを言い始めたら、見性自体、南宗禅が薀蓄もなしに、突然ですが的に多用し始めた禅宗特有の表現で、
ですからね、「原理的に出典が存在できない問題は別です」と上述のとおりに書いてあるではないですか。読み落とされました? 歴史上で最初に「見性」と言い出した人自身が典拠もってるとは限らない。それは当たり前でしょう、「見性」が当人の創作した用語や用法であるなら。で、南宗のいったい誰(誰ら)が最初に言い出して、それがどの書物に載り、その内容自体に典拠があった可能性はどのくらいか、といった問題に明らかに答えが出て初めて、「最初に言い出した誰々さん(たち)は典拠を持っていなかったようだ。彼らは典拠無しに創作して言い出したんだ」と言えるわけです。貴方はそこまでの内容を自分で提示なさっていない(勿論、貴方が独力でそれを論証する必要などなく、他人の論文や著書等を用いてもよいわけです。それがWikipediaで「出典」と呼ばれる資料のことです)。持論を自力で論証なさるわけでもなく、他人の作った資料を論拠つまり出典として示すわけでもない。だから貴方の披露する薀蓄は未だに無出典であり、無出典の説を根拠にしてWikipediaの記事を書いてはならない、ということは上記のように編集方針でハッキリ定められているわけです。まあ、あなたは既に「まあいいです」と仰って加筆を一旦止めておられるから、止めておられるかぎりにおいて、無出典加筆という実害は無くなりましたが。
ちなみに、見性という単語が「人によって様々な解釈がなされた」のなら、その「様々な解釈」そのものは典拠が有るわけでしょう? ならば、その「様々な解釈」を典拠付きで記入なさればよいのでは?(もしWikipediaに記入なさりたいなら)。それから、Wikipediaの「編集方針」というものが「全員が守るべきルール」という位置づけで3つ定められてますので、未見ならお読みください、ぜひ。それをふまえていないと、他の記事でも不適切な執筆が問題になる可能性があると思いますので。--Leonidjp会話2016年9月11日 (日) 15:36 (UTC)[返信]
大事なことを書き忘れました。上記のように「貴方が独力でそれを論証する必要などなく」と私は書きましたが、貴方が独力であのような「論証」をやるのはそもそもWikipediaの編集方針違反にあたる可能性があります。それは、編集方針「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」に「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください」と書いてあるとおり、「一次資料」に対する評価や解釈などをWikipedia執筆者自身が行ってはならないからです。これをご存知なければよくお読みください。これは「編集方針」というWikipediaの基本的なルールです。--Leonidjp会話2016年9月11日 (日) 15:56 (UTC)[返信]
> 見性という単語が「人によって様々な解釈がなされた」のなら、その「様々な解釈」そのものは典拠が有るわけでしょう?<
ありますよ。検索でかかってくるのもありますが、むかし図書館で見たもので手元にはなく、ウンチみたいな薀蓄なので、編集方針に沿っていちいち記述する気にならないので記述しないだけです。--14.193.77.62 2016年9月11日 (日) 16:09 (UTC)[返信]
細かいですが用語の訂正。上述の私が書いた「編集方針」というワードは間違いで、正しくは「方針」です。「三方針」は→〈Wikipedia:独自研究は載せない (NOR) は、ウィキペディアの内容に関する三大方針の1つです。他の2つの方針は「Wikipedia:中立的な観点」 (NPOV)と「[[Wikipedia:検証可能性}}」 (V)です。〉です。--Leonidjp会話2016年9月11日 (日) 16:22 (UTC)[返信]
私の方も細かいですが訂正です。
見道位をカッコで「(四諦了知)」としてしまいましたが、正しくは「四諦というものがあることを受け入れる」という意味です。--14.193.77.62 2016年9月11日 (日) 16:39 (UTC)[返信]

問題点の指摘

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5月27日に指摘した問題点をここにも転記しておきます。--Leonidjp会話2017年6月12日 (月) 06:52 (UTC)[返信]

2017/05/27-1

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初期もしくは準備的修行段階である「見道」が<ref>『世界大百科辞典』 2007年版 (平凡社) 索引・補遺巻 「見道」より。</ref>、諸の善を加行して順決択分を実し、仏道の[[歴劫修行|応知次第増]]に念住して初めて見道位とされるが<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『阿毘達磨倶舍論本頌([[世親]]造 [[玄奘]]譯)』 (T1560_.29.0322b02: ~): 説爲慧勤定 實諸加行善 初業順決擇 及修見道位 念住等七品 應知次第増。</ref>
  • 順決択分という語の、分という字は、阿毘達磨倶舍論本頌からの引用部分に無い。この字はどこから出てきたのか。また、原文にある業の字は無視か?
  • ここに引用されている阿毘達磨倶舍論本頌の原文では見道位の直前には「修」とあるにすぎないが、「見道位とされる」という受動態の文意は、原文にあるどの語が担うのか。
  • 「初」の語を「初めて」と解釈しているようだが、脚注内にある原文では、その「初」の後で「見道位」のほうが先に言及されており、「応知次第増」はその後に出てくるのに、なぜ「応知次第増に念住」という条件を満たすことが「見道位の成立」よりも先に必要との解釈になるのか。本当に先に必要なら、原文においても「応知次第増に念住」のほうが「見道位の成立」よりも先に書かれるとか、「Aは、Bよりも前に必要である」を意味する語が付くなどするであろう。
  • この「見道が〜中略〜見道位とされる」という現状の表現では、まるで見道そのものが主語として「見道位とされる」みたいな文意になっている。見道も見道位も〈人の状態〉を指すのなら、「〈見道である者〉が○○して見道位とされる(なる)」などとしなければおかしい。
  • このように、阿毘達磨倶舍論本頌の原文のみを出典とした記述は、二次資料による裏付けを得ていませんから、独自研究に該当しています。

今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp会話2017年6月12日 (月) 06:52 (UTC)[返信]

報告上述の告知から7日以上経ちましたが、ここで指摘されている上述の問題点には対応がなされませんでした。信頼できる二次資料において未発表の説ですので記事から除去します。--Leonidjp会話2017年7月7日 (金) 06:22 (UTC)[返信]

報告 IP利用者のこの編集によって文言が若干かわり、下記のようになりました。なお残存する問題点と、新規に指摘する問題点(1件)を挙げておきます(ただし新規とはいっても、問題自体は今日以前から存在しているものです)。

初期もしくは準備的修行段階である「見道」が<ref>『世界大百科辞典』 2007年版 (平凡社) 索引・補遺巻 「見道」より。</ref>、諸の善を加行して順決択分を実し、仏道の等七品[[歴劫修行|応知次第増]]に念住して見道位とされるのに対し<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『阿毘達磨倶舍論本頌([[世親]]造 [[玄奘]]譯)』 (T1560_.29.0322b02: ~): 説爲慧勤定 實諸加行善 初業順決擇 及修見道位 念住等七品 應知次第増。</ref>
  • (新規) 「順決択分を実し」の「実し」は、脚注内の「實諸加行善」の「實」の字を「実し(実する)」という動詞として読んでいることが明らかだが、このような読み方を支持する二次資料は挙げられていない。従ってこれは、信頼できる二次資料において未発表の読み方であるので独自研究の披露に該当する。
  • 順決択分という語の、分という字は、阿毘達磨倶舍論本頌からの引用部分に無い。この字はどこから出てきたのか。また、原文にある業の字は無視か?
  • ここに引用されている阿毘達磨倶舍論本頌の原文(脚注内)では見道位の直前には「修」とあるにすぎないが、「見道位とされる」という受動態の文意は、脚注内のどの語が担うのか不明。
  • この「見道が〜中略〜見道位とされる」という現状の表現では、まるで見道そのものが主語として「見道位とされる」みたいな文意になっている。見道も見道位も〈人の状態〉を指すのなら、「〈見道である者〉が○○して見道位とされる(なる)」などとしなければおかしい。
  • このように、阿毘達磨倶舍論本頌の原文のみを出典としたこの記述は、信頼できる二次資料による裏付けを得ていませんから、独自研究に該当しています。

このように、上記6月12日に指摘された問題点は今も解決していません。すでに今日の時点で6/12から25日くらい経っているにもかかわらず、問題点は解決していないというわけですから、この記述(上記灰色部分)は記事から除去するべきです。もうこれから更に7日の猶予を取る必要は無いと思います。すでに25日も経っていますので。--Leonidjp会話2017年7月7日 (金) 23:05 (UTC)[返信]

6/12から今日までと数えれば25日くらいですが、上述の問題点が初めて指摘されたのは5/27(記事にテンプレートで指摘)でしたから、5/27から数えれば、今日までで40日余り経っています。〈40日あっても解決されない問題点〉を含む記述であるということです。すぐに除去するべきです。--Leonidjp会話2017年7月7日 (金) 23:12 (UTC)[返信]

報告 上記5/27から二ヶ月あまり経ちましたが、上述の問題点は解決していません。--Leonidjp会話2017年8月4日 (金) 08:35 (UTC)[返信]

報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp会話2017年8月6日 (日) 03:53 (UTC)[返信]

2017/05/27-2

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禅の見性は法悦体験そのものに重きが置かれる<ref>[[檜垣巧]] 「[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1994/188/1994_188_1/_pdf 見性体験について ―霊性的自覚の自内証とその意義―]」 『密教文化』Vol.1994、密教研究會、11頁。※出典中の開悟は見性と同義で用いられており、釈迦の菩提樹下の一箪の用法とは異なる。</ref>。もし見道(位)を具えて(発)起すれば次の修道の預流と成るとする<ref name="shudo">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[大般若波羅蜜多経|大般若波羅蜜多經]] (玄奘譯)』 (T0220_.07.0349a26: ~): 若起具見道應成預流。若起進修道應成一來不還。</ref>。
  • 丸括弧内の「位」と「発」の字は、ここに引用されている大般若波羅蜜多経の原文(それはこの記述の出典でもある)に存在しないし、このように字を付け加えることが正しいとする二次資料は挙げられていない。原文に無い字を付け加えたり、無いはずの字をあたかも有るかのように読ませるこのような解説は、執筆者の創作にすぎない。
  • このように、大般若波羅蜜多経の原文のみを出典とした記述は、二次資料による裏付けを得ていませんから、独自研究に該当しています。

今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp会話2017年6月12日 (月) 06:52 (UTC)[返信]

報告上述の告知から7日以上経ちましたが、ここで指摘されている上述の問題点には対応がなされませんでした。信頼できる二次資料において未発表の説である部分は記事から除去します。--Leonidjp会話2017年7月7日 (金) 06:22 (UTC)[返信]

報告 IP利用者の編集により、上述の問題点に対応がなされました。--Leonidjp会話2017年7月7日 (金) 22:48 (UTC)[返信]
チェック  従いまして#2017/05/27-2の節の問題点は解決済みとなります。--Leonidjp会話2017年8月4日 (金) 08:38 (UTC)[返信]