自性清浄
自性清浄(じしょうしょうじょう、梵: prakṛti-prabhāsvara、prakṛti-pariśuddhi[1]、蔵: rang bzhin gyis rnam par dag pa、ye nas dag pa[2])は、心は自性として(本来、生まれつき)清浄であるが、偶然の過失によって汚れているという考え方[3]。自性清浄説[3]、あるいは心性本浄、心性本浄説ともいう[4]。
概要
[編集]パーリ増支部に、「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」とある(いわゆる心性本浄説)。光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される。自性として本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている。そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。
唯識説は瑜伽行によって心が離垢することを重視し、自性清浄と併せて「離垢清浄」を並べ、さらに「所縁清浄」(仏の法すなわち教説の清浄性)、「道清浄」(修行道の無漏性)と併せて、「四種清浄」という。この場合、自性清浄は真如、法界を意味する。
尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部、上座部大寺派などはこれを認めない。大乗仏教はすべてこれを承認する。ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。
これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 水野弘元「心性本浄の意味」『印度學佛教學研究』第20巻第2号、日本印度学仏教学会、1972年、503-511頁。
- 袴谷憲昭「〈自性清浄〉覚え書」『印度學佛教學研究』第29巻第1号、日本印度学仏教学会、1980年、428-423頁。
- 姜 文善「初期中国禅における自性清浄心的思想」『印度學佛教學研究』第58巻第2号、日本印度学仏教学会、2010年、1048-1043頁。