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2016年6月8日 (水) 05:23時点における版
みやじま けんいち 宮島 健一 | |
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1923年の写真。 | |
本名 | 菱田 勇吉 (ひしだ ゆうきち) |
別名義 |
宮島 憲一 宮島 健弌 |
生年月日 | 1895年7月5日 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本 東京府東京市 |
身長 | 170.0cm |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 新劇、新派、劇映画(時代劇・現代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1912年 - 1965年 |
主な作品 | |
『永遠の謎』 |
宮島 健一(みやじま けんいち、1895年7月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。本名菱田 勇吉(ひしだ ゆうきち)[1][8][2]、旧芸名宮島 憲一[1][2][6][9]、宮島 健弌[5]。新劇の「舞台協会」出身でありながら、日活向島撮影所においては新派に組して脱退、という若いスター時代の経歴を持ち、戦前・戦中の松竹蒲田撮影所、松竹大船撮影所、戦後の大映東京撮影所のバイプレーヤーとして知られる[1]。
人物・来歴
1895年(明治28年)7月5日、東京府東京市に生まれる[1][8]。『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、同年1月21日生まれとされており、出生地も「名古屋市傳馬町三丁目」とあり、同地は出生時点でいえば愛知県愛知郡熱田町大字伝馬町(現在の同県名古屋市熱田区伝馬)である[2]。
旧制専門学校(現在の新制大学)に進学したが中途退学する[1][3]。満17歳を迎える1912年(明治45年)、埼玉県北足立郡大宮町(現在の同県さいたま市大宮区あるいは北区)にあった吾妻座に出演したのが初舞台である[2]。その後、1914年(大正3年)、前年に結成された「舞台協会」に参加する[1][3]。
新劇の舞台俳優としてのキャリアを積むが、『世界のキネマスター』(報知新聞社)によれば1919年(大正8年)[3]、『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)によれば1920年(大正9年)に桝本清の紹介によって、新派の俳優として日活向島撮影所に入社、同年4月23日に公開された田中栄三監督の『恋慕流し』で映画界にデビューした[1]。1922年(大正11年)12月、田中栄三が監督した『京屋襟店』に出演、完成後の試写後の夜に、藤野秀夫、衣笠貞之助、島田嘉七、東猛夫ら幹部俳優13名が集団退社の辞表を提出、国際活映(国活)に引き抜かれる事件が起きるが、宮島もこれに連座し、国活に電撃的に移籍している[1][5][6][9]。『現代俳優名鑑』によれば、当時、宮島は浅草区千束町一丁目120番地(現在の台東区西浅草3丁目)に住み、身長は5尺6寸1分(約170.0センチメートル)、体重16貫匁(約60.0キログラム)、常用煙草は敷島で、酒はビールであるといい、当時の宮島にとっての代表作は、『永遠の謎』(監督若山治、1922年)における「薗部子爵」役であるという[2]。
1923年(大正12年)4月には国活が経営危機に陥り、衣笠貞之助、島田嘉七らとともに、京都に牧野省三が設立したマキノ映画製作所へ移籍、同社の設立第1作であり、衣笠の監督作である『二羽の小鳥』に出演、同作は、同年6月1日に公開された[1][5][6]。1924年(大正13年)7月、同社は東亜キネマに合併され、同撮影所は東亜キネマ等持院撮影所となり、同年10月、帝国キネマ演芸(帝キネ)が大量のヘッドハンティングを実施し、宮島はこれに応じて帝キネに移籍する[1][5][6]。宮島のいた小阪撮影所は1925年(大正14年)に閉鎖され、選別されたメンバーだけが東邦映画製作所に移籍したが、同社はまもなく解散、宮島は東亜キネマに戻っている[1][5][6]。
1928年(昭和3年)には、東京に戻り、松竹蒲田撮影所に移籍した[1][5][6]。1936年(昭和11年)1月15日、同撮影所は、神奈川県鎌倉郡大船町(現在の同県鎌倉市大船)の松竹大船撮影所(現存せず)に全機能を移転、宮島も異動になった[1][5][6]。第二次世界大戦の勃発後も、しばらくは出演作がみられる[5][6]。
戦後は、大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)に所属し、多くの作品の脇役・端役を務め、記録に残る最後の出演作は、満70歳となった1965年(昭和40年)7月31日に公開された『六人の女を殺した男』(監督島耕二)であった[1][5][6][8][11]。以降の消息は不明である[1]。没年不詳。
フィルモグラフィ
クレジットはすべて「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][12]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
日活向島撮影所
すべて製作は「日活向島撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画、特筆以外「宮島憲一」名義である[5][6][9]。
- 『恋慕流し』 : 監督田中栄三、1920年4月23日公開 - 映画デビュー作[1]
- 『我子の歌』(『我が子の歌』) : 監督不明、1922年1月13日公開
- 『碑文谷美談』 : 監督不明、1922年5月15日公開
- 『愛の火柱』 : 監督不明、1922年6月24日公開
- 『永遠の謎』 : 監督若山治、1922年10月20日公開 - 薗部子爵
- 『別れの船唄』 : 監督鈴木謙作、1922年12月10日公開 - 木下亮三
- 『愛の泉』 : 監督若山治、1922年12月17日公開 - 救世軍士官
- 『京屋襟店』 : 監督田中栄三、1922年12月30日公開 - 町内の遊び人勇さん、「宮島健一」名義
国活巣鴨撮影所
すべて製作は「国活巣鴨撮影所」、配給は「国際活映」、すべてサイレント映画、すべて「宮島憲一」名義である[5][6]
マキノ等持院撮影所
すべて製作は「マキノ等持院撮影所」、配給は「マキノ映画製作所」、すべてサイレント映画、以降すべて「宮島健一」名義である[5][6]。
- 『二羽の小鳥』 : 監督衣笠貞之助、1923年6月1日公開
- 『彼の山越えて』 : 監督衣笠貞之助、1923年6月15日公開 - 主演
- 『切なきは恋』 : 監督長尾史録、1923年7月15日公開 - 主演
- 『燕の歌』 : 監督衣笠貞之助、1923年7月26日公開
- 『大自然』 : 監督金森万象、1923年8月8日公開 - 山の若者
- 『金色夜叉 宮の巻』 : 監督衣笠貞之助、1923年8月30日公開 - 主演
- 『魔の池』 : 監督衣笠貞之助、1923年10月26日公開 - 主演
- 『金色夜叉 寛一の巻』 : 監督衣笠貞之助、1923年12月7日公開 - 主演
- 『妻の秘密』 : 監督衣笠貞之助、1924年1月7日公開
- 『彼女の運命 前篇』 : 監督衣笠貞之助、1924年1月7日公開
- 『彼女の運命 後篇』 : 監督衣笠貞之助、1924年2月1日公開 - 松島勝巳
- 『武悪の面』 : 監督二川文太郎、1924年2月8日公開 - 弟子友治
- 『桐の雨』 : 監督衣笠貞之助、1924年3月28日公開 - 源吉(主演)
- 『寂しき村』 : 監督衣笠貞之助、1924年4月3日公開 - 主演
- 『錦を着て』 : 監督後藤秋声、1924年5月15日公開 - 魚屋新助(主演)
- 『煩悩地獄』 : 監督二川文太郎、1924年5月23日公開 - 宇津木新三郎(主演)
- 『魔陥の消ゆる頃』 : 監督二川文太郎、1924年6月6日公開
- 『無名の愛』 : 監督井上金太郎、1924年6月13日公開 - 憶太郎
- 『狂恋の舞踏』 : 監督衣笠貞之助、1924年7月4日公開 - 主演
東亜キネマ等持院撮影所
すべて製作は「東亜キネマ等持院撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[5][6]。
- 『宵夜町心中』 : 監督二川文太郎、1924年7月11日公開 - 綱船の三五兵衛
- 『愛の牢獄』 : 監督阪田重則、1924年7月25日公開 - 主演、「宮島健弌」名義
- 『恋とはなりぬ』 : 監督衣笠貞之助、1924年9月19日公開 - 「宮島健弌」名義
- 『死よりも哀し』 : 監督上月吏、製作東亜キネマ甲陽撮影所、1924年10月1日公開 - 主演
- 『足』 : 監督衣笠貞之助、1924年10月1日公開 - 「宮島健弌」名義
- 『関の夫婦松』 : 監督衣笠貞之助、1924年10月31日公開 - 主演、「宮島健弌」名義
帝国キネマ小坂撮影所
特筆以外はすべて製作は「帝国キネマ小坂撮影所」、配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画である[5][6]。
- 『嘆きの村』 : 監督深川ひさし・山下秀一、製作帝国キネマ芦屋撮影所、1924年11月13日公開
- 『行路』 : 監督古海卓二、1925年1月21日公開
- 『若き悶え』 : 監督古海卓二、製作帝国キネマ芦屋撮影所、1925年1月28日公開
- 『怒髪』 : 監督志波西果、1925年2月11日公開
- 『三人の道化者』 : 監督古海卓二、1925年3月12日公開 - 末弟猪之吉、「宮島健弌」名義
- 『黒百合の花』 : 監督山上紀夫、1925年5月29日公開
- 『四谷怪談』 : 監督山上紀夫、製作東邦映画製作所、1925年6月4日公開 - 秋山長兵衛
- 『信天翁』 : 監督山上紀夫・菅省三、製作東邦映画製作所、1925年6月25日公開
東亜キネマ
すべて製作は「東亜キネマ等持院撮影所」(京都撮影所)あるいは「甲陽撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[5][6]。
- 等持院撮影所
- 『恋を賭けた武士』 : 監督悪麗之助、1925年10月19日公開
- 『狂刃 前篇』 : 監督長尾史録、1925年10月30日公開
- 『狂刃 後篇』 : 監督長尾史録、1925年11月7日公開
- 『男一匹』 : 監督仁科熊彦、1926年1月14日公開 - 主演
- 『人間定九郎』 : 監督長尾史録、1926年2月14日公開 - 主演
- 『燃え上る青春』 : 監督村越章二郎、1926年2月21日公開 - 主演
- 『心中紅小袖』 : 監督仁科熊彦、1926年3月26日公開
- 甲陽撮影所
- 『太陽を呑んだ男』 : 監督阪田重則、1926年4月15日公開 - 主演
- 『勝利か敗北か』 : 監督細山喜代松、1926年9月9日公開
- 『美はしの君よ』 : 監督竹内俊一、製作東亜キネマ等持院撮影所、1926年12月10日公開
- 『世紀病患者』 : 監督竹内俊一、1926年製作・公開
- 『漁村の唄』 : 監督西本武二、1926年製作・公開
- 『黄金の弾丸』 : 監督印南弘、1927年1月9日公開 - 役名不明、76分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『黄金国』 : 監督竹内俊一、1927年2月1日公開 - 主演
- 『草笛』 : 監督印南弘、1927年4月25日公開 - 主演
- 『煉獄』 : 監督米沢正夫、1927年4月29日公開 - 主演
- 『男、女、男』 : 監督印南弘、1927年製作・公開
- 『田舎医者』 : 監督西本武二、1927年製作・公開 - 主演
- 京都撮影所
- 『善玉悪玉』 : 監督米沢正夫、1927年10月7日公開 - 主演
- 『思ひ出』 : 監督根津新、1927年11月17日公開
- 『愛怨地獄』 : 監督米沢正夫、1927年製作・公開 - 主演
- 『勇ましき兄』 : 監督根津新、1928年1月9日公開 - 主演
- 『恋愛二重奏』 : 監督根津新、1928年3月15日公開 - 小宮路夫
- 『阪東侠客陣 第一篇』 : 監督仁科熊彦、1928年4月1日公開 - 兄麟四郎
- 『女王蜂』 : 監督根津新、1928年4月8日公開 - 主演
- 『孤児は悲し』 : 監督根津新、1928年5月20日公開 - 主演
- 『山侠悲話』 : 監督根津新、1928年6月7日公開 - 主演
- 『女犯』 : 監督西本武二、1928年6月11日公開 - 主演
- 『阪東侠客陣 中篇』 : 監督仁科熊彦、1928年6月14日公開 - 兄麟四郎
- 『恋文』 : 監督根津新、1928年7月14日公開
- 『阪東侠客陣 最終篇』 : 監督仁科熊彦、1928年9月15日公開 - 兄麟四郎
- 『新生の声』 : 監督永井健、1928年製作・公開 - 宮本修作
- 『人生行路』 : 監督井出錦之助、1928年製作・公開
- 『旅人告白』 : 監督井出錦之助、1928年製作・公開 - 主演
松竹蒲田撮影所
特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、特筆以外はすべてサイレント映画である[5][6]。
- 『恋愛行進曲』 : 監督野村芳亭、1928年12月1日公開
- 『青春交響楽』 : 監督野村芳亭、1928年12月31日公開 - 野口恭二
- 『街の抒情詩』 : 監督重宗務、1929年4月6日公開 - 主演
- 『多情仏心』 : 監督島津保次郎、1929年7月19日公開
- 『酬ひられぬ人』 : 監督今野不二夫、1929年7月27日公開 - 主演
- 『明日天気になあれ』 : 監督島津保次郎・西尾佳雄、製作松竹蒲田撮影所・シマヅプロダクション、1929年9月20日公開 - そのお父さん、61分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『母』 : 監督野村芳亭、1929年12月1日公開
- 『麗人』 : 監督島津保次郎、1930年4月26日公開 - 松原、158分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『若者よなぜ泣くか』 : 監督牛原虚彦、1930年11月15日公開 - 大宮家秘書、193分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『愛よ人類と共にあれ 前篇 日本篇』 : 監督島津保次郎、1931年4月17日公開 - 技師山本、前後篇242分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『愛よ人類と共にあれ 後篇 米国篇』 : 監督島津保次郎、1931年4月17日公開 - 技師山本、同上[11]
- 『東京の合唱』 : 監督小津安二郎、1931年8月15日公開 - 秘書、89分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『髭の力』 : 監督成瀬巳喜男、1931年10月16日公開 - 加藤(主演)
- 『七つの海 前篇 処女篇』 : 監督清水宏、1931年12月23日公開 - 大平倉吉
- 『金色夜叉』 : 監督野村芳亭、1932年1月14日公開 - 蒲田鉄弥、87分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『七つの海 後篇 貞操篇』 : 監督清水宏、1932年2月11日公開 - 大平倉吉、81分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『女は寝て待て』 : 監督斎藤寅次郎、1932年10月20日公開
- 『忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻』 : 監督衣笠貞之助、製作松竹下加茂撮影所、トーキー、1932年12月1日公開 - 梶川与惣兵衛、『大忠臣蔵』の題で139分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『忠臣蔵 後篇 江戸の巻』 : 監督衣笠貞之助、製作松竹下加茂撮影所、トーキー、1932年12月1日公開 - 梶川与惣兵衛、同上[11]
- 『生さぬ仲』 : 監督成瀬巳喜男、1932年12月16日公開 - 秘書、94分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『琵琶歌』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1933年1月7日公開 - 柳田中尉、91分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『涙の渡り鳥』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1933年2月15日公開
- 『島の娘』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1933年3月15日公開 - 東京の男 森田、62分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『東京音頭』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1933年9月28日公開 - 志村家執事、87分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『沈丁花』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1933年11月16日公開 - 書画家山口
- 『街の流れ鳥』 : 監督佐々木恒次郎(佐々木啓祐)、サウンド版、1933年11月23日公開
- 『婦系図』 : 監督野村芳亭、トーキー、1934年2月22日公開 - 坂田礼之進
- 『お小夜恋姿』 : 監督島津保次郎、サウンド版、1934年9月15日公開 - 良一の友人荻原、95分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『山は夕焼』 : 監督佐々木恒次郎、サウンド版、1934年10月11日公開
- 『母の愛 苦闘篇 愛児篇』 : 監督池田義信、サウンド版、1935年1月31日公開
- 『東京の英雄』 : 監督清水宏、サウンド版、1935年3月7日公開 - 秘書、64分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『春琴抄 お琴と佐助』 : 監督島津保次郎、1935年6月15日公開 - 幇間A、100分尺で現存(NFC所蔵[13])
- 『大学の赤ん坊』 : 監督深田修造、サウンド版、1935年9月5日公開
松竹大船撮影所
すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、特筆以外すべて配給は「松竹キネマ」、以降すべてトーキーである[5][6]。
- 『少年航空兵』 : 監督佐々木康、1936年9月18日公開 - 豫科練習帳、100分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『人妻椿 前篇』 : 監督野村浩将、1936年10月4日公開 - 米屋の番頭、前後篇144分尺で現存(日本映画戦前戦後傑作選DVD)
- 『荒城の月』 : 監督佐々木啓祐、1937年2月4日公開 - 乗客、73分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『奥様に知らすべからず』 : 監督渋谷実、1937年5月20日公開 - 役名不明、61分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『男の償ひ 後篇』 : 監督野村浩将、1937年8月24日公開 - 役名不明、67分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『進軍の歌』 : 監督佐々木康、1937年10月21日公開 - 吉田部隊長
- 『螢の光』 : 監督佐々木康、1938年4月14日公開 - 河原先生の父、75分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『母と子』 : 監督渋谷実、1938年7月1日公開 - 重役、88分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『春雷 前篇 愛路篇・後篇 審判篇』 : 監督佐々木啓祐、1939年4月13日公開 - 花田、73分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『五人の兄妹』 : 監督吉村公三郎、1939年7月20日公開 - 鈴木、93分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『波濤』 : 監督原研吉、1939年10月13日公開 - 時計屋主人、100分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『暖流 前篇 啓子の巻』 : 監督吉村公三郎、1939年12月1日公開 - 山田博士、前後篇132分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『暖流 後篇 ぎんの巻』 : 監督吉村公三郎、1939年12月1日公開 - 山田博士、同上[11]
- 『涙の責任 前篇・後篇』 : 監督蛭川伊勢夫、1940年2月15日公開 - 水野、前後篇101分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『絹代の初恋』 : 監督野村浩将、1940年3月31日公開 - ホテルの客
- 『征戦愛馬譜 暁に祈る』 : 監督佐々木康、応援監督宗本英男、1940年4月17日公開
- 『都会の奔流』 : 監督佐々木啓祐、1940年6月13日公開 - 技師、93分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『冬木博士の家族』 : 監督大庭秀雄、1940年10月31日公開 - 高久、70分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『舞台姿』 : 監督野村浩将、1940年11月16日公開 - 小屋主松井
- 『西住戦車長伝』 : 監督吉村公三郎、1940年11月29日公開 - 中村中尉、126分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『まごころの歌』 : 監督蛭川伊勢夫、配給映画配給社、1941年6月22日公開 - 庶務課長
- 『君よ共に歌はん』 : 監督蛭川伊勢夫、配給映画配給社、1941年8月1日公開 - その仲間、85分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『父ありき』 : 監督小津安二郎、配給映画配給社、1942年4月1日公開 - 会社員、72分尺で現存(NFC所蔵[11])
大映東京撮影所
特筆以外すべて製作は「大映東京撮影所」、すべて配給は「大映」である[5][6][8]。
- 『女囚36号』 : 監督久松静児、1947年7月22日公開 - 伊藤巡査
- 『いつの日か花咲かん』 : 監督牛原虚彦、1947年12月16日公開 - 山形の父、82分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『オリオン星座』 : 監督田口哲、1948年2月24日公開 - 刑事
- 『舞台は廻る』 : 監督田中重雄、1948年4月12日公開 - 節子の父
- 『三面鏡の恐怖』 : 監督久松静児、1948年6月14日公開 - 医者
- 『母』 : 監督小石栄一、1948年8月23日公開 - 瀬川刑事、73分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『情熱の人魚』 : 監督田口哲、1948年11月22日公開 - 秋田、63分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『母紅梅』 : 監督小石栄一、1949年1月24日公開 - 金田老人、83分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『静かなる決闘』 : 監督黒澤明、1949年3月13日公開 - 骨董屋、95分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『美貌の顔役』 : 監督吉村廉、1949年5月23日公開 - 山川徳次郎
- 『流れる星は生きている』 : 監督小石栄一、1949年9月18日公開 - 巡査
- 『三悪人と赤ん坊』 : 監督小石栄一、1950年11月3日公開 - 源作
- 『母月夜』 : 監督佐伯幸三、1951年1月27日公開 - 矢田刑事
- 『誰が私を裁くのか』 : 監督谷口千吉、1951年5月18日公開 - 裁判長
- 『江の島悲歌』 : 監督小石栄一、1951年6月1日公開 - 船医
- 『霧の夜の恐怖』 : 監督久松静児、1951年7月20日公開 - 谷村巡査
- 『稲妻』 : 監督成瀬巳喜男、1952年10月9日公開 - バスの老人客、87分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『あにいもうと』 : 監督成瀬巳喜男、1953年8月19日公開 - 喜三、86分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『地の果てまで』 : 監督久松静児、1953年10月20日公開 - 焼鳥屋
- 『無法者』 : 監督佐伯幸三、1953年11月23日公開 - 深沢有造
- 『母の湖』 : 監督小石栄一、1953年12月15日公開 - 中島
- 『春琴物語』 : 監督伊藤大輔、1954年6月27日公開 - 加平
- 『真白き富士の根』 : 監督佐伯幸三、1954年8月4日公開 - 大木校長
- 『火の女』 : 監督島耕二、1954年10月6日公開 - 競技大会々長
- 『荒城の月』 : 監督枝川弘、1954年11月3日公開 - 父
- 『馬賊芸者』 : 監督島耕二、1954年11月17日公開 - 水田三七
- 『勝敗』 : 監督佐伯幸三、1954年12月1日公開 - 植木屋亮助
- 『川のある下町の話』 : 監督衣笠貞之助、1955年1月9日公開 - 役名不明、108分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『泣き笑い地獄極楽』 : 監督浜野信彦、1955年1月29日公開 - 高山
- 『暁の合唱』 : 監督枝川弘、1955年3月18日公開 - 田辺巡査、80分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『薔薇いくたびか』 : 監督衣笠貞之助、1955年4月24日公開 - 桐生茂吉爺、135分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『幻の馬』 : 監督島耕二、1955年7月20日公開 - 安田組合長、90分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『母笛子笛』 : 監督斎村和彦、1955年8月3日公開 - 小児科病院長
- 『誘拐魔』 : 監督水野洽、1955年10月12日公開 - 山川刑事
- 『見合い旅行』 : 監督枝川弘、1955年11月15日公開 - 木村万平
- 『弾痕街』 : 監督斎村和彦、1955年12月28日公開 - つりをする男
- 『花嫁のため息』 : 監督木村恵吾、1956年1月9日公開 - 飲屋の亭主
- 『恋と金』 : 監督枝川弘、1956年1月22日公開 - 尾関
- 『東京犯罪地図』 : 監督村山三男、1956年3月4日公開 - 神保
- 『赤線地帯』 : 監督溝口健二、1956年3月18日公開 - ハナ江の客、85分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『現金の寝ごと』 : 監督西村元男、1956年4月4日公開 - 横山雄作
- 『火花』 : 監督衣笠貞之助、1956年5月1日公開 - 夜警A、101分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『屋根裏の女たち』 : 監督木村恵吾、1956年5月14日公開 - 仙三
- 『魔の花嫁衣裳 前篇・後篇』 : 監督浜野信彦、1956年7月12日公開 - 井口哲次郎
- 『母を求める子等』(『母を求める子ら』[8]) : 監督清水宏、1956年8月8日公開 - 五平じいさん
- 『惚れるな弥ン八』 : 監督村山三男、1956年9月26日公開 - 曾根山儀平
- 『四十八歳の抵抗』 : 監督吉村公三郎、1956年11月14日公開 - 役名不明、108分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『君を愛す』 : 監督田中重雄、1956年12月28日公開 - 町田弘介
- 『雨情』 : 監督久松静児、製作東京映画、配給東宝、1957年3月20日公開 - 野口家の番頭 由造 (大映)[10]
- 『三十六人の乗客』 : 監督杉江敏男、製作東京映画、配給東宝、1957年4月16日公開 - 佐々木老運転手 (大映)[10]
- 『残月講道館』 : 監督村山三男、1957年4月16日公開 - 石井
- 『哀愁列車』 : 監督枝川弘、1957年5月13日公開 - 松本巡査
- 『九時間の恐怖』 : 監督島耕二、1957年8月20日公開 - 千頭出張所長望月
- 『健太と黒帯先生』 : 監督原田治夫、1957年9月14日公開 - おじいちゃん
- 『駐在所日記』 : 監督枝川弘、1957年11月5日公開 - 兵六老人
- 『白昼の侵入者』 : 監督村山三男、1957年12月14日公開 - 老金融業者
- 『大都会の午前三時』 : 監督西条文喜、1958年1月22日公開 - 稲田銅吉
- 『母』 : 監督田中重雄、1958年3月5日公開 - 五兵衛
- 『一粒の麦』 : 監督吉村公三郎、1958年9月14日公開 - 役名不明、112分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『情炎』 : 監督衣笠貞之助、1959年3月17日 - 役名不明、115分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『女の教室』 : 監督渡辺邦男、1959年4月8日 - 小左衛門
- 『川向うの白い道』 : 監督田中重雄、1959年8月19日 - 平八郎さん
- 『浮草』 : 監督小津安二郎、1959年11月17日公開 - 小川軒のあい子の父親、119分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『流転の王妃』 : 監督田中絹代、1960年1月27日公開 - 岡部、102分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『歌行燈』 : 監督衣笠貞之助、1960年5月18日公開 - 役名不明、113分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『母桜』 : 監督枝川弘、1960年11月16日公開 - 安吉
- 『女は夜化粧する』 : 監督井上梅次、1961年1月14日公開 - クラブ経理小林
- 『みだれ髪』 : 監督衣笠貞之助、1961年3月8日公開 - 重助、95分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『五人の突撃隊』 : 監督井上梅次、1961年4月26日公開 - 役名不明、118分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『新人生劇場』 : 監督弓削太郎、1961年5月31日公開 - 車嘉平太
- 『鯨神』 : 監督田中徳三、1962年7月15日公開 - 大別当
- 『秦・始皇帝』 : 監督田中重雄、1962年11月1日公開 - 儒者C
- 『温泉芸者』 : 監督富本壮吉、1963年2月7日公開 - 米吉
- 『背広の忍者』 : 監督弓削太郎、1963年2月9日公開 - 磯村卓造
- 『嘘』 : 監督増村保造・吉村公三郎・衣笠貞之助、1963年3月31日公開 - 役名不明、99分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『若い樹々』 : 監督原田治夫、1963年4月14日公開 - 三沢松太郎
- 『無茶な奴』 : 監督島耕二、1964年7月4日公開 - ジャリ組合幹部
- 『黒の切り札』 : 監督井上梅次、1964年7月25日公開 - 根来信通
- 『六人の女を殺した男』 : 監督島耕二、1965年7月31日公開 - パリ祭の客
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q キネマ旬報社[1979], p.576-577.
- ^ a b c d e f 揚幕社[1923], p.37.
- ^ a b c d 報知[1925], p.309.
- ^ 宮島健一、jlogos.com, エア、2013年3月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 宮島健一、日本映画データベース、2013年3月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 宮島健一、宮島憲一、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月13日閲覧。
- ^ 宮島健一、宮嶋健一、映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年3月13日閲覧。
- ^ a b c d e f 宮島健一、KINENOTE, 2013年3月13日閲覧。
- ^ a b c d 宮島健一、宮島憲一、日活データベース、2013年3月13日閲覧。
- ^ a b c 宮島健一、映画データベース、東宝、2013年3月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg 宮島健一、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月13日閲覧。
- ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇、マツダ映画社、2013年3月11日閲覧。
- ^ 春琴抄 お琴と佐助、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月13日閲覧。
参考文献
- 『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』、揚幕社、1923年
- 『世界のキネマスター』、報知新聞社、1925年
- 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
- 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133