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2016年6月7日 (火) 23:33時点における版
大岡 昇平 (おおおか しょうへい) | |
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誕生 |
1909年3月6日 日本・東京市牛込区 (現・東京都新宿区) |
死没 | 1988年12月25日(79歳没) |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 京都帝国大学仏文科 |
活動期間 | 1949年 - 1988年 |
ジャンル | 小説・文芸評論 |
主題 | 日本史、太平洋戦争 |
文学活動 | 第二次戦後派 |
代表作 |
『俘虜記』(1949年) 『武蔵野夫人』(1950年) 『野火』(1952年) 『花影』(1961年) 『レイテ戦記』(1971年) 『事件』(1977年) |
主な受賞歴 |
横光利一賞(1949年) 読売文学賞(1952・1989年) 毎日出版文化賞(1961年) 新潮社文学賞(1961年) 毎日芸術賞(1972年) 野間文芸賞(1974年) 朝日文化賞(1976年) 日本推理作家協会賞(1978年) |
ウィキポータル 文学 |
大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年(明治42年)3月6日 - 1988年(昭和63年)12月25日)は、日本の小説家・評論家・フランス文学の翻訳家・研究者。
略年譜
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
- 1921年(大正10年)
- 1925年(大正14年)
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)
- 1929年(昭和4年)
- 1932年(昭和7年)
- 3月 - 京都帝国大学卒業[6]。
- 1933年(昭和8年)
- 1934年(昭和9年)
- 1935年(昭和10年)
- 2月 - 国民新聞社を退社[6]。
- 1938年(昭和13年)
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 3月 - 教育召集で、東部第二部隊に入営[6]。
- 7月 - フィリピンのマニラに到着[6]。第百五師団大藪大隊、比島派遣威一〇六七二部隊に所属し、ミンドロ島警備のため、暗号手としてサンホセに赴いた[6]。
- 1945年(昭和20年)
- 1949年(昭和24年)
- 1952年(昭和27年)
- 1961年(昭和36年)
- 1964年(昭和39年)
- 3月 - 中国作家協会などの招きで中国を訪問[8]。
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年)
- 1974年(昭和49年)
- 1976年(昭和51年)
- 1978年(昭和53年)
- 1988年(昭和63年)
- 1989年(平成元年)
- 2月 - 『小説家夏目漱石』により読売文学賞を受賞。
人物像・逸話
旺盛な好奇心
今日では『俘虜記』『レイテ戦記』といった戦争ものが最もよく知られるが、創作のバックボーンであった仏文学にとどまらず、幅広い分野に強い関心を抱き続け、文壇を代表するディレッタントだった。手がけた作品のジャンルも多様である。
推理小説の愛読者でもあり、1950年代には海外推理小説『赤毛のレッドメーン』(イーデン・フィルポッツ作)や『すねた娘』(E・S・ガードナー作)を翻訳、自らも推理小説を執筆して、とりわけ『若草物語』の題で連載し、後に『事件』と改題した作品は日本推理作家協会賞を受賞し、映画やテレビドラマになるなど、高い評価を受けている。
『武蔵野夫人』は『ボヴァリー夫人』に倣って書いた姦通小説で、ベストセラーとなったが、1980年代、ポルノ小説にこの題が使われたため抗議した。
また、河上徹太郎、小林秀雄らの愛人で、白洲正子の友人だった坂本睦子を8年あまり自らも愛人とし、妻の自殺未遂騒ぎを何度か経たのちに睦子と別れたが、その翌年、睦子が自殺。その後、彼女をモデルに『花影』を書き、新潮社文学賞と毎日出版文化賞を受賞した。しかし高見順は、肝心の大岡自身の苦悩が描かれていないと批判、白洲正子も睦子が描かれていないと大岡の死後批判している。この小説は睦子を救えなかった青山二郎を指弾するものではないかという解釈があるが、大岡自身は、限定版『花影』のあとがきにおいて「ヒロインはその生れと性情の自然の結果として自殺するのですが、そのきっかけは、彼女の保護者で、父代わりである高島が黄瀬戸の盃を二重売りして、彼女を裏切ったためでした。(中略)あとは私が作った物語ですが、もし高島にモデルがあるなら、私の想像はその人を傷つけることになるでしょう」と述べているだけで、大岡自身が青山二郎を指弾する目的で書いたと言及しているわけではない。
後述のように歴史小説を巡って多くの論争を引き起こしたが、自身でも『将門記』『天誅組』などの歴史小説を書いた。これらは、事実に対して強いこだわりを持っていた大岡らしく、小説というより史伝に近いものである。
また、若い頃から演劇にも関心を示し続け、舞台「赤と黒」の台本を書いたりした。しかしこの際、演出の菊田一夫と対立し、初演を愛知での「レイテ同生会」への出席を理由に欠席した。また後年、仲代達矢の演じる「ハムレット」には、「未熟」との厳しい評価を下している。
好奇心の対象は芸術の外にもおよび、50歳を過ぎて本格的に始めたゴルフにのめりこんだあげく、『アマチュアゴルフ』なるゴルフ指南書を出版したほどである。なお、腕前はハンディ22。
旺盛な好奇心は晩年になっても変わらず、1980年(昭和55年)から『文学界』に約5年間『成城だより』を、二回の中断をはさみ連載。この中では、記号論や不完全性定理、さらに漫画(萩尾望都、高野文子、「じゃりン子チエ」など)、ロック(村八分、ザ・クラッシュ、ジミ・ヘンドリックス、ドアーズなど)、ポップス(中島みゆき、アバなど。当人は「残念ながら、音楽は洋楽種の方がいいようなり」と述べている)、映画(フィリピンをロケ地とした地獄の黙示録など)などに言及した。これらのセレクトには、長男の貞一の影響が大きい。またYMOの坂本龍一が自分の担当編集者であった坂本一亀の息子であることを知り、「『げっ』と驚くのはこっちなり」[11]とも述べるまでの若々しい関心を示す様が、カリスマ的な人気を呼んだ。
論争家
「ケンカ大岡」と呼ばれるほどの文壇有数の論争家であり、言動が物議を醸すことも少なくなかった。井上靖の『蒼き狼』を史実を改変するものとして批判し、歴史小説をめぐって論争となった。同じく史実を改変するものとして、海音寺潮五郎の『二本の銀杏』や『悪人列伝』等を批判し、これに反論する海音寺と『群像』1962年(昭和37年)8月号上で論争した。松本清張の『日本の黒い霧』等の作品を謀略史観に基づくものとして批判したり、中原中也の評価について、篠田一士と論争したこともあった。
また江藤淳の『漱石とアーサー王伝説』が出た時もこれを厳しく批判し、次いで森鴎外の『堺事件』は明治政府に都合のいいように事実を捻じ曲げていると批判し、国文学者と論争になった。そして自身で『堺港攘夷始末』の連載を始めたが、その中で鴎外が依拠した資料に既にゆがみがあったことが明らかになった。本作が未完のまま大岡は急逝し、ほぼ九割は完成していたため、中央公論社から刊行された(のち中公文庫に収録)。
賞を巡って
『レイテ戦記』は日本の代表的な戦記といえるが、野間文芸賞を辞退した。これは選考委員の舟橋聖一との軋轢による。のち『中原中也』で同賞を受賞するが、選評で舟橋は難癖をつけた。
1972年(昭和47年)、日本芸術院会員に選ばれたが「捕虜になった過去があるから」と言って辞退した。この記者会見の席にいた加賀乙彦によると、記者が帰った後に大岡は「うまいだろ」と言って舌をぺろりと出したという[12]。皮肉をこめた国家への抵抗との見方もある。 しかし最晩年に昭和天皇の重態に際して「おいたわしい」と書いた(どちらも波紋を呼んだが、ともにウラを読まなければ普通の発言という見方もできる)。
受賞歴
- 1949年『俘虜記』で横光利一賞
- 1952年『野火』で読売文学賞
- 1961年『花影』で毎日出版文化賞、新潮社文学賞
- 1972年『レイテ戦記』で毎日芸術賞
- 1974年『中原中也』で野間文芸賞
- 1976年『全集』刊行ほかで1975年度朝日文化賞
- 1978年『事件』で日本推理作家協会賞
- 1989年『小説家夏目漱石』で読売文学賞(歿後)
家族・親族
大岡家
- 大岡家の家紋は「瑞籬」で、大岡忠相(越前守)を出した三河の大岡氏と同紋である[13]。頼宣が駿河にいた頃からの家臣で、元和5年(1619年)和歌山移封にいっしょに随いて来たが、後、帰農したと伝える[13]。
- 大岡家には系図はないが、菩提寺の松島聞光寺の過去帳は寛文8年から始っている[14]。
- 『南紀徳川史』第八巻に曽祖父大岡利兵衛が、天保12年(1841年)金20両を献金して、「地士(郷士)」に取り立てられたてられたとの記事(「松島新田村、年頭お目見得の節のしめ者、天保十二年、地士に、大岡利兵衛」)がある[14]。なお年頭御目見得節慰斗目着用御免」は献金地士の中で一番安い口で、「代々同断が」40両、御代官支配がこれと同額、勘定奉行支配が70両「平地士」100両以上である[15]。
- 祖父弥膳は三十町持ちの地主で、陸奥宗光の有力な後援者であり、鷺宮の本願寺別院の檀家総代だった[13]。弥膳は「利兵衛の代には二町しかなかった田地を、自分の代に三十町にした」と威張っていたという[15]。弥膳は明治22年(1889年)和歌山県海草郡四箇郷村の初代村長、20年代の未詳の年に郡会議員となった[16]。
- 祖母ゆうは那賀郡畑毛の地主吉村家の出身で、当主角次郎は多額納税貴族院議員、父貞三郎の従兄に当る友之進も貴族院議員で、吉村製糸社長だった[13]、[17]。
- 家庭
高村家
- (和歌山市)
- 母の実家高村家は和歌山市の商家だった。高村家の戸籍は混乱している[18]。
- 祖母くには安政5年(1858年)生まれ、大叔母友枝は明治6年(1873年)生まれで16も年が違う[18]。戸籍上は姉妹になっているが、実は親子だといううわさがあった[18]。しかし友枝が昭和27年(1952年)死亡するまで身辺に付添っていた姉は、そのうわさを否定している[18]。
- 曽祖父高村平助は和歌山市の湊方面のかなりの材木商いだったそうだが、明治10年代(1877年-1886年)に没落した[18]。
- くにと友枝の姉妹は芸事で身を立てることになった[18]。くには料亭の仲居に、友枝は芸妓になった[18]。くにには明治17年(1884年)私生児として、母つるを生んだほかに子はない[18]。戸籍上は妹になっている[18]。そのうち友枝が和歌山市内のある工業会社の社長の庇護を受けて丸の内十一番丁に置屋兼お茶屋「明月」を出し、くにとつるを養った。母はやがてそこから内娘として出た[19]。
- 大岡昇平によれば〔私は「明月」がただの料理屋ではなく講談や時代小説にあるような芸妓屋であることを疑うことができなくなったのである。“大将、大将”といって卑(いや)しく男を取巻く慣習を、初枝[20]さんだけでなく、祖母が持っているのである。…私はそのような卑(いや)しい母から生れたことを情なく思った。〕という[21]。
- 父と馴染んで姉文子を生んだのは、明治37年(1904年)で、20歳の時である[22]。父と母の結婚上京は姉を認知した明治40年(1907年)の末か明治41年(1908年)の初め、やがて昇平を妊娠することによって母は正式に入籍し、姉文子も嫡出子の資格を得る[23]。入籍は昇平の生まれる3ヶ月前の明治41年(1908年)12月である[23]。
著作
- 『俘虜記』(1949)のち新潮文庫、角川文庫、講談社文庫
- 『サンホセの聖母』(作品社、1950)のち角川文庫
- 『武蔵野夫人』新潮社(1950)のち新潮文庫
- 『来宮心中』(新潮社、1951)のち集英社文庫
- 『妻』(池田書店、1951)「妻・母」角川文庫
- 『野火』(1952)のち新潮文庫、角川文庫
- 『母』(文藝春秋新社、1952)
- 『詩と小説の間』(創元社、1952)
- 『わが師わが友』(創元社、1953)
- 『化粧』(新潮社、1954)
- 『酸素』(新潮社、1955)のち新潮文庫
- 『振分け髪』(河出書房、1955)
- 『ザルツブルクの小枝』新潮社、1956)のち中公文庫
- 『雌花』(新潮社、1957)
- 『作家の日記』(新潮社、1958)
- 『朝の歌』(角川書店、1958)
- 『夜の触手』(光文社カッパ・ブックス、1960)のち集英社文庫
- 『扉のかげの男』(新潮社、1960)
- 『真昼の歩行者』(角川書店、1960)
- 『アマチュアゴルフ』(アサヒゴルフ出版局、1961)のち潮文庫
- 『花影』(中央公論社、1961)のち新潮文庫、講談社文芸文庫
- 『常識的文学論』(講談社、1962)のち講談社文芸文庫
- 『逆杉』(新潮社、1962)
- 『現代小説作法』(文藝春秋新社、1962)のち第三文明社〈レグルス文庫〉、ちくま学芸文庫
- 『文壇論争術』(雪華社、1962)
- 『歌と死と空』(光文社、1962)のち中公文庫
- 『文学的ソヴィエト紀行』(講談社、1963)
- 『将門記』(中央公論社、1966)のち文庫
- 『遥かなる団地』(講談社、1967)
- 『在りし日の歌』(角川書店、1967)のち文庫
- 『昭和文学への証言』(文藝春秋、1969)
- 『ミンドロ島ふたたび』(中央公論社、1969)のち文庫
- 『愛について』(新潮社、1970)のち文庫、講談社文芸文庫
- 『母六夜』(新潮社、1971)のち集英社文庫
- 『レイテ戦記』(中央公論社 全3巻、1971)のち文庫
- 『コルシカ紀行』(中公新書、1972)
- 『私自身への証言』(中央公論社、1972)
- ※同時期に、戦争と文学と-大岡昇平対談集 (中央公論社)を刊、のち新編・文春学藝ライブラリー
- 『凍った炎』(講談社、1972)のち文庫(プロスペル・メリメを論ず)
- 『幼年』(潮出版社、1973)のち文春文庫、講談社文芸文庫
- 『萌野』(講談社、1973)のち文庫
- 『作家と作品の間』(第三文明社、1973)
- 『わがスタンダール』(立風書房、1973)のち講談社文芸文庫
- 『中原中也』(角川書店、1974)のち角川文庫、講談社文芸文庫
- 『天誅組』(講談社、1974)のち講談社文庫、文芸文庫
- 『作家の体験と創造』(潮出版社、1974)
- 『歴史小説の問題』(文藝春秋、1974)のち新編「歴史小説論」岩波同時代ライブラリー
- 『富永太郎』(中央公論社、1974)
- 『少年』(筑摩書房、1975)のち新潮文庫、講談社文芸文庫
- 『わが文学生活』(中央公論社、1975)-インタビュー集、のち文庫
- 『文学における虚と実』(講談社、1976)
- ※「堺事件」、「漱石とアーサー王伝説」などに関する評論を収める
- 『わが美的洗脳』(番町書房、1976)のち講談社文芸文庫
- 『桜と銀杏』(毎日新聞社、1976)
- 『ゴルフ酒旅』(番町書房、1976)
- 『ある補充兵の戦い』(現代史出版会、1977)のち徳間文庫、岩波現代文庫
- 『戦争』(九芸出版、1978)のち新編「わが復員 わが戦後」徳間文庫、岩波現代文庫
- 『事件』(新潮社、1977)のち文庫、双葉文庫
- 『無罪』(新潮社、1978)のち文庫
- 『雲の肖像』(新潮社、1979)のち文庫
- 『最初の目撃者』(集英社、1979)のち文庫
- 『ハムレット日記』(新潮社、1980)のち「野火・ハムレット日記」岩波文庫
- 『成城だより』全3巻(文藝春秋、1981-86)のち講談社文芸文庫(上下)
- 『青い光』(新潮社、1981)のち文庫
- 『ながい旅』(新潮社、1982)のち文庫、角川文庫
- 『姦通の記号学』(文藝春秋、1984)
- 『ルイズ・ブルックスと「ルル」』(中央公論社、1984)
- 『証言その時々』(筑摩書房 1987)のち講談社学術文庫
- 『小説家夏目漱石』(筑摩書房、1988)のち新編・ちくま学芸文庫
- 『大岡昇平音楽論集』(深夜叢書社、1989)
- 『堺港攘夷始末』(中央公論社、1989)のち文庫
- 『昭和末』(岩波書店、1989)
「全集」
翻訳
- スタンダアル (アラン、創元社、1939年/改訳 創元選書、1948年)
- ハイドン (スタンダアル、創元社、1941年、新版1948年)
- スタンダール伝 (アルベール・ティボーデ、青木書店、1942年)
- スタンダール論 (バルザック、小学館、1944年)
- 小説論--パルムの僧院をめぐって (バルザック/スタンダール、創元社、1947年 /「小説について」 創元文庫、1951年)。
- 恋愛論 (スタンダール、創元選書 上下、1948年、新潮文庫、1956年)
- パルムの僧院 (スタンダール、思索社、1948年、新潮文庫、1951年)
- 恋愛論ノート (スタンダール、小山書店、1949年)
- ユリアンの旅 (アンドレ・ジイド、新潮文庫、1952年) - 『ユリアンの旅 他一篇』に収録。
- 赤毛のレッドメーン (イーデン・フィルポッツ、東京創元社、1956年、創元推理文庫 1959年)
- クラクラの日記 (ベッケル、人文書院、1956年)
- すねた娘 (E・S・ガードナー、東京創元社、1957年、創元推理文庫 1959年)
- 赤と黒--19世紀年代記 (スタンダール、古屋健三との共訳、世界文学全集:講談社、1971年、新版1974年、講談社文庫、1972年)
関連人物
関連項目
脚注・出典
- ^ a b 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、3頁)
- ^ a b c d e f 『新潮日本文学アルバム 大岡昇平』104頁
- ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、4頁)
- ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、98頁)
- ^ 沢木耕太郎『テロルの決算』より
- ^ a b c d e f g h i j k 『新潮日本文学アルバム 大岡昇平』105頁
- ^ a b c 『新潮日本文学アルバム 大岡昇平』106頁
- ^ a b c d e f g h 『新潮日本文学アルバム 大岡昇平』107頁
- ^ a b c 『新潮日本文学アルバム 大岡昇平』108頁
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)6頁
- ^ 『成城だより』1980年5月8日の記述より。
- ^ 加賀乙彦著『加賀乙彦 自伝』 集英社 2013年
- ^ a b c d 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、58頁)
- ^ a b 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、59頁)
- ^ a b 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、60頁)
- ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、62頁)
- ^ “6.築き:源流”. 和歌山の日本酒・米焼酎【日本城蔵元 吉村秀雄商店】. 吉村秀雄商店. 2013年8月31日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、109頁)
- ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、109-110頁)
- ^ 母が“姉さんのようにしていた”女性である
- ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、103頁)
- ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、110頁)
- ^ a b 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、111頁)