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「信楽高原鐵道列車衝突事故」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2015年1月}}
{{修正2|6|民事並びに刑事裁判に関する記述が複数の節に分かれており、裁判における事故の全体像がつかみにくい|date=2015年5月}}
{{告知|提案|記事の全面改稿}}

{{Infobox 鉄道事故
{{Infobox 鉄道事故
|title = 信楽高原鐵道列車衝突事故
|title = 信楽高原鐵道列車衝突事故
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|caption = 事故現場跡と慰霊碑とそこを走る車両
|caption = 事故現場の様子
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|cause = 信号無視・誤出発検知装置の誤作動
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'''信楽高原鐵道列車衝突事故'''(しがらきこうげんてつどうれっしゃしょうとつじこ、'''信楽高原鉄道事故'''<ref group="報道" name="sankei20110427" />、'''信楽列車事故'''とも<ref group="注">{{Harv|遺族会|2005}}、{{Harv|鈴木|2004}}</ref>)は、[[1991年]]([[平成]]3年)[[5月14日]]、[[滋賀県]]を走る[[信楽高原鐵道]][[信楽高原鐵道信楽線|信楽線]]において発生した[[列車衝突事故]]。信楽高原鐵道の車両と、[[直通運転]]で乗り入れていた[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の車両が正面衝突して42名が死亡し<ref group="報道" name=毎日20220519>[https://mainichi.jp/articles/20220512/k00/00m/040/284000c 信楽鉄道事故31年:222ページの「総括」社外秘のまま 「JR西に批判的」社長問題視]『毎日新聞』夕刊2022年5月19日(社会面)2023年5月7日閲覧</ref>、614名が負傷した。


== 事故概要 ==
[[ファイル:Memorial service monument of the SKR accident.jpg|thumb|300px|犠牲者追悼法要当日の慰霊碑(2012年撮影)]]
1991年5月14日10時35分頃、滋賀県[[甲賀郡]][[信楽町]](現・[[甲賀市]]信楽町)黄瀬の信楽線[[小野谷信号場]] - [[紫香楽宮跡駅]]間で、[[信楽駅|信楽]]発[[貴生川駅|貴生川]]行きの上り[[普通列車]]([[信楽高原鐵道SKR200形気動車|SKR200形]]4両[[編成 (鉄道)|編成]])と、JR西日本が運行していた[[京都駅|京都]]発信楽行き下り[[臨時列車|臨時]][[快速列車]]「世界陶芸祭しがらき号」([[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]3両編成)が[[列車衝突事故|正面衝突]]した。先頭車のキハ58形は前部が押し潰された上に全長のほぼ1/3が上方へ[[座屈]]し、SKR200形は先頭車が2両目とキハ58形とに挟まれて[[テレスコーピング現象 (鉄道)|テレスコーピング現象]]によって原型を留めないほどに押し潰された。JR西日本側乗客の30名、信楽高原鐵道側乗員乗客の12名(うち[[運転士]]と添乗の社員が4名)のあわせて計42名が死亡、直通下り列車の運転士を含む614名が[[重軽傷]]を負う大惨事となった<ref>{{Harv|看護研究会|2001|p=54}}</ref><ref>{{Harv|遺族会|2005|p=20}}</ref><ref>{{Harv|鈴木|2004|p=50}}</ref>。衝突した臨時快速列車は乗客で超満員の状態([[定員]]の約2.8倍)だったことから<ref group="注">乗客・乗務員あわせてJR西日本側716名、信楽高原鐡道側15名、計731名{{Harv|鈴木|2004|p=76}}。キハ58系3両の定員が252名であるため、かなりの大混雑であった。</ref>、人的被害が非常に大きくなった。


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'''信楽高原鐵道列車衝突事故'''(しがらきこうげんてつどうれっしゃしょうとつじこ、'''信楽高原鉄道事故'''<ref name= sankei>{{cite web
File:SKR202-198804.JPG|被災車となったSKR202
|url= http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110427/trl11042715410006-n1.htm
File:JRW DC kiha58-477 kiha28-2360.jpg|被災車となったキハ58系の同形車
|title= 「JRに3割責任」信楽高原鉄道事故の負担金 大阪地裁判決 (1ページ目)
File:SKR Shigaraki train disaster site.jpg|事故現場跡に建てられた[[慰霊碑]]
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|work= [[産経新聞]]
|date= 2011年4月27日
|accessdate= 2011年5月10日}}<br />{{cite web
|url= http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110427/trl11042715410006-n2.htm
|title= 「JRに3割責任」信楽高原鉄道事故の負担金 大阪地裁判決 (2ページ目)
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|work= [[産経新聞]]
|date= 2011年4月27日
|accessdate= 2011年5月10日}}</ref>、'''信楽事故'''<ref name= kyotonp></ref><ref name= asahi></ref>とも)は、[[1991年]](平成3年)[[5月14日]]に[[信楽高原鐵道]]において発生した[[列車衝突事故]]である。


== 事故概要 ==
== 背景 ==
沿線の信楽町は[[信楽焼]]の産地で、当時は「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」が4月20日から開催されており<ref name="nomura">[https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=334 世界陶芸祭(セラミックワールドしがらき)]、[[乃村工芸社]]</ref>、信楽高原鐵道は線路容量をはるかに超える来場者輸送(ピーク時約2万人/日)に追われていた。陶芸をアピールするエキジビション、シンポジウム、イベントで構成されていた世界陶芸祭は好評を博し、主催者の予想した来場者35万人に対して、これをはるかに上回る客を集め、[[ゴールデンウィーク]]明けの5月11日には入場者50万人を達成していた(最終的には60万人<ref name="nomura" />)<ref>{{Harv|網谷|1997|pp=100-101}}</ref>。
1991年5月14日10時35分頃、[[滋賀県]][[甲賀郡]][[信楽町]](現・[[甲賀市]]信楽町)黄瀬の[[信楽高原鐵道]][[信楽高原鐵道信楽線|信楽線]]・[[小野谷信号場]] - [[紫香楽宮跡駅]]間で、[[信楽駅|信楽]]発[[貴生川駅|貴生川]]行きの上り[[普通列車]]([[信楽高原鐵道SKR200形気動車|SKR200形]]4両編成)と、[[京都駅|京都]]発信楽行きの[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)直通下り[[臨時列車|臨時]][[快速列車]]「世界陶芸祭しがらき号」([[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]3両編成)が[[列車衝突事故|正面衝突]]した。キハ58形は先頭部が押し潰されて折れ曲がり、SKR200形は先頭車が2両目とキハ58形とに挟まれる形で原形を留めない程に粉砕された。42名が死亡(JR側乗客30名、信楽高原鐵道側乗客12名、運転士と添乗の職員4名)、614名が重軽傷を負う大惨事となった。

「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」の開催にあたって実行委員会は会期37日間の想定来場者数35万人のうち、25%にあたる約9万人を鉄道輸送で賄おうとした。期間中の想定ピーク輸送人員約9千人/日に対して信楽高原鐵道の輸送力が不足(会期前の乗客は平均して2千人/日足らず)していたことから<ref group="注">SKR200形(定員98名)の4両連結の編成定員は392人。実施された輸送計画ではJR西日本の車両と運転士を借り、毎時2往復、混雑度150%で片道毎時約1,000人の輸送力を目論んでいた。しかし現実にはそれをもはるかに上回る乗客が殺到した。[[滋賀県庁]]職員を主とする滋賀自治体問題研究所の機関誌『しがの住民と自治』1991年6月臨時増刊号によると、輸送要請は前記数値をも上回る毎時1,800人だったとの記述が当時の[[滋賀県議会]]議員より寄せられている。</ref>、実行委員会は1990年3月に[[滋賀県知事]]名で、信楽高原鐵道・JR西日本の両社に協力を要請した<ref>{{Harv|遺族会|2005|p=108}}</ref>。これを受け信楽高原鐵道は旧来の設備を約2億円かけて大改修し、路線の中間部に当たる箇所に[[小野谷信号場]]を設け、運行本数をほぼ倍増する工事を実施した<ref>{{Harv|佐野|1991|p=435}}</ref><ref>{{Harv|鈴木|2004|p=79}}</ref>。小野谷信号場は無人で運用することから、信楽高原鐵道は[[閉塞 (鉄道)|閉塞]]方式を[[閉塞 (鉄道)#票券閉塞式|票券閉塞式]]から[[閉塞 (鉄道)#特殊自動閉塞式|特殊自動閉塞式]]に変更し、あわせて車両の進行により[[鉄道信号機|信号機]]と[[分岐器]]とを自動で設定する[[自動進路制御装置]]も設置した<ref group="注">特殊自動閉塞式は[[軌条|線路]]に連続した軌道回路がなく、列車の在線は閉塞区間両端の短小軌道回路と状態を記録する保持リレーによって知らされる。</ref>。また設備面でも単線で行き違いができなかった旧来の設備では来場客は到底運べないことから、設備改修とあわせJRの車両と運転士をともに借り受ける協定を結んだ<ref group="注">運転士には信楽線の運転経験を持つもの8名が選ばれた。{{Harv|鈴木|2004|p=75}}{{Harv|網谷|1997|pp=102-105}}</ref>。しかし[[列車集中制御装置|CTC]]は設置せず、信号および分岐器の動作は列車の運行によってのみ決まるシステムであったことが、後述のJR西日本による方向優先テコの無断設置の遠因になった。

=== 信楽線の配線略図 ===
事故当時の信楽線および貴生川駅の配線略図を示す。当時は信楽線の[[列車交換]]は小野谷信号場以外ではできず、また貴生川駅には信楽高原鐵道の着発線が1本しかなく、[[草津線]]には[[待避線]]がなかった。
{{-}}
<div style="line-height: 0em; border:2px solid #aaa; padding:0 2em">
{{鉄道配線図開始|title=信楽線の配線略図・草津線貴生川駅の構内略図}}
{{鉄道配線図|0}}
{{鉄道配線図|0|Vvoie}}
{{鉄道配線図|0|Vvoie}}
| colspan="30" style="vertical-align:top;text-align:left" | 至 [[柘植駅]] ([[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]方面)
{{鉄道配線図|0|Vvoie}}
{{鉄道配線図|0|Vvoie}}
| colspan="30" style="vertical-align:top;text-align:left" |←草津線
{{鉄道配線図|0|Vvoie|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|quaib|quaib|quaib|quaib|0|0|0}}
{{鉄道配線図|0|Vvoie|0|0}}
| colspan="5" style="vertical-align:top;text-align:left" |信楽線↓
{{鉄道配線図部分|0|0}}
| colspan="7" style="vertical-align:top;text-align:left" | 小野谷信号場
{{鉄道配線図部分|0}}
| colspan="6" style="vertical-align:top;text-align:left" |↓事故現場
{{鉄道配線図部分|0|0|quaib|0|0|0|0|0|0|courbebg|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|butoird}}
{{鉄道配線図|0|Vvoie|0|0|0|0|courbebg|voie|voie|voie|voie|bifbd|voie|voie|voie|voie|bifbg|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|bifd|0|0|0|0|0|0|0|0|0}}
{{鉄道配線図|0|Vvoie|0|0|0|Mvoie|0|0|0|0|0|0|courbehg|voie|voie|courbehd|0|0|0|0|0|0|quaih|0|0|quaih|0|0|0|quaih|0|0|0|0|courbehg|bifbg|voie|voie|voie|voie|voie|voie|butoird}}
{{鉄道配線図|0|Vvoie|0|0|Vcourbehd|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|Mvoie|0|quaih|quaih|quaih|quaih|0|0}}
{{鉄道配線図|0|Vvoie|0|0|Vvoie}}
| colspan="28" style="vertical-align:bottom; text-align:right" |車庫
{{鉄道配線図部分|voieshd|0|0}}
| colspan="6" style="vertical-align:center;text-align:left" |信楽駅
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| colspan="30" style="vertical-align:center;text-align:left" |←会社境界
{{鉄道配線図|0|VPN|route|route|VPN}}
| colspan="10" style="vertical-align:center;text-align:left" |<small>←虫生野[[踏切]]</small>
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{{鉄道配線図|quaig|Vvoie|Vvoie|quai|Vbutoirb}}
| colspan="8" style="vertical-align:center;text-align:left" |貴生川駅
{{鉄道配線図|quaig|Vvoie|Vvoie|quaid}}
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{{鉄道配線図|0|Vvoie}}
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| colspan="30" style="vertical-align:bottom;text-align:left" | 至 [[草津駅 (滋賀県)|草津駅]] ([[大津駅|大津]]・[[京都駅|京都]]方面)
{{鉄道配線図終了}}
</div>
([[側線]]など本文中で言及しない部分については省略した。なお中間駅は全て一面一線の[[停留場]]であるため駅の存在だけに記述をとどめている)

=== 信楽線の信号システム ===
事故当時の信楽線は、閉塞が
<pre>貴生川駅--(単線区間1)-〈小野谷信号場〉-(単線区間2)--信楽駅</pre>
という構造になっていた。[[単線]]区間では、当然のことながら、どちらか一方向にしか列車を走らせることはできない。そのため単線区間の1と2では、信楽方向(→方向:下り)に列車を進行させるか、貴生川方向(←方向:上り)に進行させるかが[[自動進路制御装置|自動的に設定され]]、列車の運行に従って自動的に信号の現示と分岐器の操作が行われる仕組みになっていた。この機能により小野谷信号場は無人のまま、両端駅である信楽・貴生川の両駅の出発信号機の操作だけで行き違いができるシステムとなっていた。小野谷信号場には[[安全側線]]がないことから、場内信号機の進入許可の現示は警戒信号(黄黄の2灯)で<ref name=":1" group="注">当初の設計では信号制御点通過時において次区間の閉塞を確保できたら場内信号機も青信号にする設計だった。ところが試運転中に運転士から上り列車の小野谷信号場への進入時に青信号であると分岐器の通過が危険だとして、上り場内信号機については進入許可は常時警戒信号にする改造提案がなされ、無認可で改造された。[[#両社の無認可改造]]にある信楽高原鐵道の改造の、計5件のうちの一つである。これらの無認可改造の過程で上り出発信号機と場内信号機との反位片鎖錠も外された。</ref>、出発信号機の制御点まで列車が進行し、かつ信号所に入りその先の単線区間の閉塞が確保できたら出発信号機が青信号を出す仕様になっていた。無人信号場であることから、信楽駅から運転士に連絡を入れるよう求める黄色の回転灯も設置された<ref group="注">しかしJR西日本の運転士は、回転灯が点灯した時の扱いはおろか、回転灯の存在そのものも周知されていなかった。</ref>。なお[[近江鉄道]]では<ref group="注">第三セクターである信楽高原鐵道の母体の一つである。</ref>、単線自動閉塞の信号システムが既に稼働しており、黄色の回転灯も近江鉄道のシステムに倣ったものである<ref>{{Harv|網谷|1997|pp=181-182}}</ref>。

たとえば事故時のように貴生川駅と信楽駅から同時に列車が発車して小野谷信号場ですれ違う場合であれば、貴生川駅発の列車、信楽駅発の列車双方に青信号を出すと単線区間1が信楽方向に、単線区間2が貴生川方向に切り替わり、それぞれの駅を列車が出発できる。そして両列車とも単線区間を通って小野谷信号場に到着すれば、逆に単線区間1が貴生川方向に、単線区間2が信楽方向に切り替わるので、2つの列車は信号場ですれ違って目的地に向かうことができる。注意すべきは竣工当初、小野谷信号場には下り上りともに[[日本の鉄道信号#場内信号機|場内信号機]]と[[日本の鉄道信号#出発信号機|出発信号機]]との間に反位[[連動装置#片鎖錠|片鎖錠]]が設定されていたことである<ref name= ":1" group="注" />。


貴生川駅構内はJR西日本の管轄であるため、信号システムはそのほとんどが信楽高原鐵道側であるものの、貴生川駅の連動装置の変更が必要になることからJR西日本および信楽高原鐵道の両社で分担して設計・施工されることとなった。それぞれ別々の会社に設計・施工を依頼し<ref group="注">信楽高原鐵道の分担分は[[西武鉄道]]系の会社が請け負い(近江鉄道は西武鉄道グループの一員)、JR西日本の担当分はJR西日本の関連会社が請け負った。{{Harv|網谷|1997|pp=208-209}}{{Harv|佐野|1991|p=435}}</ref>、かつ認可通りの設備で連動試験を行っている<ref group="注">JR西日本は信号設備竣工検査直前の1991年3月5日深夜から6日早朝にかけ連動検査を行い、自主検査のチェック表を信楽高原鐵道の信号設備の竣工検査に来た検査官に渡している。しかし肝心の自主検査のチェック表が未決裁でかつ、項目漏れが約80箇所にも及ぶ杜撰なものであった。検査合格後の3月16日に方向優先テコの実装の不備が発覚し、後に補償金負担割合を巡る民事裁判においてもこれらの事実が認定された。</ref>。しかし試験後の両社の無認可改造ならびに設計の相互レビューの不徹底が、信号システムの相次ぐトラブル、そして正面衝突事故につながっていくことになる。
当時、沿線の信楽町では「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」が開催されており、信楽高原鐵道は来場者輸送に追われていた。一方、衝突した臨時快速列車は乗客で超満員の状態(定員の約2.5倍)であったため、人的被害が非常に大きくなった。


== 原因 ==
== 原因 ==
=== 信号無視と誤出発検知装置の誤作動 ===
=== 代用閉塞取扱の手続き無視と誤出発検知装置の誤作動 ===
[[ファイル:Disused_Onotani_Signal_station_20170503.jpg|サムネイル|小野谷信号場(2017年撮影)<br />運行再開後に用いられることはなく、事故当日501Dを発車させた下り出発信号機を含む全ての設備が2021年度までに撤去された<ref group="報道">{{Cite web|和書|title=姿消すあの日「青」だった信号機 信楽高原鉄道事故30年 |url=https://www.sankei.com/premium/news/210517/prm2105170003-n1.html |website=産経ニュース |date=2021-05-17 |access-date=2023-01-03}}</ref>。]]
発端は、信楽駅を貴生川駅行きの普通列車が発車しようとした際、通常青に変わるはずの[[日本の鉄道信号#出発信号機|出発信号機]]が発車時刻になっても赤のまま変わらなくなったことである。<ref name= sankei></ref>この原因が分からないまま、信楽高原鐵道では誤出発検知装置(列車が赤信号を無視して発車した場合、対向の[[小野谷信号場]]の出発信号機を赤に変えて衝突を防ぐ装置)を頼りにして、見張り用の職員3名を添乗させ普通列車を11分遅れで発車させた。<ref>信楽高原鐵道では何らかのトラブルで信号機が使用不能となった場合は運転士とは別に職員が腕章を付けて添乗する規程になっており、業務課長や多客要員の運転士など3人が乗り込んだ。また犠牲となったもう1人は当日の午後から安全管理などの査察に来る予定だった近畿運輸局の係官を貴生川駅まで出迎えに行くために同列車に乗り込んだ常務であった。</ref>これは[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]の観点では規程違反の措置だった。しかし、結果的にはこの手法によっても対向の下り臨時快速列車を停車させることができず、両者が正面衝突するに至った。
発端は、信楽駅から貴生川駅行きの上り普通列車534D列車を発車させるため、信楽駅の制御盤で出発信号機を出発現示(青信号)にしようとスイッチ(テコと呼ばれる)を操作したにもかかわらず、停止現示(赤信号)のまま変化しなかったことである。このとき下り列車が正しく信楽駅に到着しているにもかかわらず、下りの運転方向表示が点灯したままだった<ref name="遺族会 2005 22">{{Harv|遺族会|2005|p=22}}</ref><ref>{{Harv|網谷|1997|p=21}}</ref>。分岐器を調べたが線路は開通しており、信号トラブルを疑ったため信楽高原鐵道は保守要員として詰めていた信号システム会社の社員に点検を命じた。それとともに、代用閉塞である[[閉塞 (鉄道)#指導通信式|指導通信式]]の採用を早々に決定。小野谷信号場で対向列車であるJRからの直通列車と行き違いを実現すべく、誤出発検知装置を頼りにして<ref group="注">列車が赤信号を無視して発車した場合、対向する出発信号機を赤に変えて衝突を防ぐ装置。</ref>、指導員となる社員を添乗させ普通列車を11分遅れの10時25分頃に発車させた<ref name="遺族会 2005 22"/><ref>{{Harv|網谷|1997|p=22}}</ref>。この列車には指導員役の社員の他、当日の午後から安全管理などの査察に来る予定だった[[近畿運輸局]]の係官を貴生川駅まで出迎えに行こうとした常務、おそらくは指揮を執るべく乗り込んだ業務課長<ref group="注">当人は事故で死亡したため推測は避けるべきだが、{{Harv|佐野|1991|p=433}}のところで著者の佐野は、全く同じケースだった5月3日のトラブルのことを挙げている。</ref>、夜勤明けで自宅に帰る予定だった運転士の計4人が乗り込んだ<ref>{{Harv|網谷|1997|pp=128-129}}</ref>。事故で本務運転士も含め、添乗した4人全ての計5名が死亡し、信楽高原鐵道の乗務員で生存したのは[[車掌]]1名のみだった。


代用閉塞を開始する場合、閉塞区間の両端に駅員を配置して対向列車の抑止と閉塞区間に列車がいないことを確認しなければならない。この場合は少なくとも対向列車501Dが小野谷信号場で停車し、代用閉塞の使用を運転士に通告した上で出発を抑止したことを、小野谷信号場に到着した閉塞責任者から信楽駅の運転主任に伝達され確認した後でなければ534D列車は出発させてはならなかった。しかし事故当時、代用閉塞に必要な要員を自動車で小野谷信号場に差し向けたものの、その到着を待たずに列車を発車させてしまった。これにより刑事裁判においても代用閉塞に必要な措置を取らなかったことにより事故を招いたとして当事者は刑事罰を受けた。
この原因としては、信楽駅構内の信号固着の修理のために同駅の信号機器室において行われていた、運行時間中の信号装置の点検作業が指摘されている。<ref name= sankei></ref>小野谷信号場の出発信号機は先の装置により、一度は実際に赤に変えられたが、その作業の影響により<!--故障ないしは信楽駅での作業中の何らかの操作により-->、再び青に戻ってしまったと見られている。<ref name= sankei></ref>


しかしながら、改修した信号システムはトラブル続きだった。貴生川駅の出発信号機を青信号にできないトラブルは4月8日、4月12日の2度、事故当日と全く同じ、信楽駅で出発信号機を青信号にできないトラブルはゴールデンウィーク中の[[5月3日#記念日・年中行事|5月3日]]にもあった。特に5月3日のケースは事故時の列車と全く同じ534D列車で起きていた。この時は代用閉塞への変更すら行わず、誤出発検知装置を頼りに10時20分頃に534D列車を出発させていた。対向列車であるJR西日本からの直通列車は小野谷信号場で停車しており、業務課長は小野谷信号場まで列車に添乗し、自ら手動で分岐器の操作を行って列車を行き違いさせていた。さらにその1時間後の下り列車も代用閉塞に必要な運転通告券の交付を受けず、小野谷信号場に居合わせた業務課長による口頭の要請のまま、小野谷信号場から信楽駅まで運転させていた。そして、5月3日のこの列車の運転士が事故当日のJR西日本乗り入れ快速501Dの運転士であった<ref>{{Harv|遺族会|2005|pp=129-131}}</ref>。事故当日も業務課長が上り534D列車に乗り込んだことから5月3日と同様の解決法を取ろうとしたものと思われるが、列車の運行中は厳禁とされていた信号継電器室での作業も影響を与えた可能性があり、5月3日には有効に作用したこの手法によっても対向の下り臨時快速列車を停車させることができず、両列車が正面衝突するに至った。
上記のとおり、事故の直接原因は信楽高原鐵道の列車運行規程違反であり、<!--(ソースを求む)事故後、信楽高原鐵道の運行管理者ら2名と信号設備会社の技師1名が、[[大津地方裁判所]]から[[執行猶予]]付きの[[有罪]]判決を言い渡された。-->[[業務上過失致死傷罪]]などで信楽高原鐵道社員2人と信号設備会社社員1人に[[執行猶予]]付きの[[有罪]]判決が言い渡され確定した。<ref name= kyotonp></ref><ref name= businessmedia2>{{cite web
|url= http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1411/28/news023_2.html
|title= 杉山淳一の時事日想:たび重なる悲運を乗り越えて前へ進もう 運行再開の信楽高原鐵道に期待 (2/5)
|author= 杉山淳一
|work= [[Business Media 誠]]
|date= 2014年11月28日
|accessdate= 2015年1月11日
}}</ref><ref>京都新聞(2011)によると、信楽高原鐵道社員については[[2000年]]に判決下っている。</ref>その一方でJR西日本も責任を問われたものの(後述)、事故に関する直接的な責任関係が立証されなかったため、起訴を断念している。<ref name= businessmedia2></ref><ref>杉山淳一、[[Business Media 誠]](2014)では、当該事象について[[起訴猶予]]という表現も使用している。<br />出典:{{cite web
|url= http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1411/28/news023_3.html
|title= 杉山淳一の時事日想:たび重なる悲運を乗り越えて前へ進もう 運行再開の信楽高原鐵道に期待 (3/5)
|author= 杉山淳一
|work= [[Business Media 誠]]
|date= 2014年11月28日
|accessdate= 2015年1月11日
}}</ref>


小野谷信号場の下り出発信号機が赤にならなかった理由について、信楽駅構内の信号固着の修理のために同駅の継電器室(信号機器室)において行われていた、運行時間中の信号装置の点検作業が指摘されている。小野谷信号場の出発信号機は先の装置により一度は実際に赤に変えられたが、その作業の影響により、再び青に戻ってしまったと見られている<ref name="鈴木 2004 95">{{Harv|鈴木|2004|p=95}}</ref><ref>{{Harv|網谷|1997|pp=200-202}}、{{Harv|網谷|1997|pp=267-269}}</ref>。事故検証において信楽駅とともに小野谷信号場の誤出発検知装置も調べられたが誤出発は検知されておらず、列車は青信号で通過したものとみられる<ref>{{Harv|鈴木|2004|p=47}}</ref>。
=== 信楽駅の出発信号機不具合 ===
事故の発端となった信楽駅の信号不具合の遠因は、信楽高原鐵道とJR西日本がそれぞれ別個に[[近畿運輸局]]の認可を得ずに行った信号制御の改造と、両社の意思疎通の欠如にあった。


事故後、警察は実際に車両を動かして信号の動作検証を行った。信楽駅における出発信号機の青信号が出せない現象は、方向優先テコの操作、小野谷信号場の下り場内信号機(貴生川駅側)と下り出発信号機との間の反位片鎖錠の関係<ref group="注">小野谷下り場内信号機が反位(進行現示)の場合、小野谷出発信号機が反位から定位(停止現示)に復位できない。</ref>、小野谷信号場下り場内信号機の制御接近点の変更工事が複合して発生した現象だと鑑定されたが<ref>{{Harv|遺族会|2005|p=117}}ただし記述に鑑定書の誤転記が見られるためその前の図解ページ{{Harv|遺族会|2005|pp=114-115}}から欠落部を補った。なお1992年(平成4年)12月の滋賀県定例議会において、滋賀県警の警察部長が同一の証言をしている。この事実は後の補償金分担裁判においても認定された。</ref>、事故当日小野谷信号場の下り出発信号機が誤出発を検知しながら青信号になった理由については検証で再現できず、継電器室での{{仮リンク|ジャンパー線|en|Jump wire}}による人為的接続の想定ケースを列挙するにとどまった<ref name="鈴木 2004 95"/><ref group="注">刑事裁判の判決文では上り534Dが誤出発検知装置の2つの短小軌道回路を踏んだ時には下り501D列車(世界陶芸祭号)はすでに小野谷信号場に到着したとされ、もはや下り列車を抑止することはできなかったと結論づけている。</ref>。
信楽高原鐵道は、閉塞が'''貴生川駅--([[単線]]区間1)-〈小野谷信号場〉-(単線区間2)--信楽駅'''という構造になっていた。単線区間では、当然のことながら、どちらか一方向にしか列車を走らせることはできない。そのため単線区間の1と2では、信楽方面(→方向)に列車を進行させるか、貴生川方面(←方向)に進行させるかが自動的に設定され、その設定が電気信号で流れ、信号が青に切り替わり、その方向に進む列車が単線区間に進入できるシステム([[閉塞 (鉄道)#特殊自動閉塞式|特殊自動閉塞式]])となっていた。


=== 両社の無認可改造 ===
普段なら小野谷信号場に列車が到着したとき、あるいは信楽駅や貴生川駅で列車の出発時間になり、駅の係員が制御盤のスイッチ(テコと呼ばれる)を操作したときに、自動的に単線区間の進行方向が決まって、出発信号機が青になる。例えば事故時のように貴生川と信楽から同時に列車が発車し、小野谷信号場ですれ違う場合なら、貴生川駅発の列車のために単線区間1が→方向に、信楽駅発の列車のために単線区間2が←方向に切り替わり、それぞれの駅を列車が出発、両列車が単線区間を通って小野谷信号場に到着すれば、逆に単線区間1が←方向、単線区間2が→方向に切り替わるので、2つの列車は信号場ですれ違って目的地に向かうことができる。
事故の発端となった信楽駅の信号不具合の遠因は、信楽高原鐵道とJR西日本がそれぞれ別個に、近畿運輸局の認可を得ずに行った信号制御の改造と、両社の意思疎通の欠如にあった。


しかし、JRからの直通列車が貴生川駅に着くのが遅れ、信楽駅から貴生川駅に向かう列車の方が早く小野谷信号場に到着するとそまま単線区1方向に切り替わり、貴生川駅まですれ違い無しで到着する設定となってしまう。すると遅れて着いた直通列車は貴生川駅を出発きず、JR[[草津線]]を走る他の列車にまで影響を及ぼす事態となる。このため、JR西日本区間1を自動なく→方向電気信号に固定する装置(方向優先テコ無認可で設置し、直通列車れたときは、先単線区間1を→方向に設定信楽からの列車小野谷信号超えなにしてしまった。方向優先テコの設置についてJR西日本側「信楽高鐵道に通知した」、信楽高原鐵道側は「まったく知らされていなかった」主張が喰い違っているが、いずれにしろ、信楽高原鐵道側にはそ意図が伝わってなかった。
JRからの直通列車が貴生川駅に着くのが遅れ、信楽駅から貴生川駅に向かう列車の方が早く小野谷信号場に到着した場合、小野谷信号場へ到着で貴生川駅 - 小野谷信号場の運転方向貴生川方向に切り替わり、上り列車が貴生川駅まで到着できてしまう。すると遅れて着いた直通列車は貴生川駅で足止めされてしまい単線であるJR[[草津線]]を走る他の列車にまで影響を及ぼす事態となる<ref group="注">貴生川駅信楽の着発線が1本しか無く、草津線のホームも2面しか無いため直通列車貴生川駅抑止すると貴生川駅での草津線の列車交換が不能になり、行き違い駅の大幅な変更を余儀なくされる。</ref>。こ問題の解決策について関係会社間での小野谷信号場の信号システムの仕様の打ち合わせ時JR西日本側から、小野谷信号場の上り出発信号機を抑止する機能の実装として、JR西日本亀山[[列車集中制御装置|CTC]]センター亀山CTC)に方向優先テコを設置するという提案なされた。しかし会議同席信楽高原鐵道側の信号システムの設計会社から、JR西日本信楽高原鐵道の信号操作するという信号設備のタブーを指摘され、その場で方向優先テコの設置案は取り下げられた。それを受け会議で運行管理権の則どおり亀山CTCと信楽駅間との直通電話の設置と、信楽駅から操作で上り列車を小野谷信号場に抑止するボタンを設置し取り扱うとう合意を得<ref>{{Harv|網谷|1997|pp=211-213}}</ref>


こうしてJR西日本が当初提案した方向優先テコ設置はいったん取り下げられたはずだったが、後日、JR西日本は信楽高原鐵道に無断でかつ、運輸局の認可を受けることなく、当初案通り亀山CTCに方向優先テコを無届出で設置した<ref>{{Harv|遺族会|2005|pp=109-111}}</ref><ref name="網谷 1997 213-214">{{Harv|網谷|1997|pp=213-214}}</ref><ref group="注">JR西日本では当時、鉄道電気設計監理者が選任されていたため設計監理者の確認を受ければ、運輸局へは届け出だけで済んだ。しかしこの改造についてJR西日本の鉄道電気設計監理者の確認すら受けなかった。したがって実質無認可工事である。</ref><ref group="注">補償金分担を争う裁判では連動図表・結線図の相互不交換を指摘し、方向優先テコの無断設置をJR西日本の不法行為として採用している。</ref>{{Refnest|group="注"|JR西日本ではこの事故後の2019年11月にも、[[西日本旅客鉄道金沢支社|金沢支社]]管内における[[在来線]]改良工事で、[[鉄道事業法]]に基づく認可申請手続きを行わず認可書を偽造していた行為2件、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)などの[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]に鉄道事業法などに基づく承諾を得なかった行為4件、上司である工事設計責任者の確認手続き(設計確認)を得ないまま確認書を偽造ないし作成を省略した行為37件、計43件の違反行為が発覚している<ref>{{Cite press release |和書 |title=在来線線路改良工事における認可書の偽造について|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/11/page_15321.html|publisher=西日本旅客鉄道|date=2019-11-29|accessdate=2019-12-14}}</ref>。}}。またJR西日本は方向優先テコにより機能を果たせるとして、信楽高原鐵道が工事担当する信号メーカーの工場へ指示し、先の合意を実行するための信楽駅の制御盤上の抑止テコを外させた<ref name="網谷 1997 213-214"/><ref>{{Harv|遺族会|2005|pp=111-112}}</ref>。ところがJR西日本が設置した方向優先テコは信楽方向に運転方向を設定しなければ機能しないものであった<ref>{{Harv|遺族会|2005|p=112}}</ref>。そのため亀山CTCの運転指令員は一度貴生川駅の出発信号機を青にし、運転方向が信楽方向になったのを確認した後に方向優先テコを入れ、その後、貴生川駅の出発信号機を再び赤にする操作を強いられた<ref group="注">事故当日も出発列車がないにもかかわらず貴生川駅の出発信号機を青にし、直後に取り消している{{Harv|鈴木|2004|pp=88-89}}と書いている。一方、{{Harv|佐野|1991|p=436}}の記述では、先行列車である下り531D列車の出発時刻である9時44分に方向優先テコを引き、10時7分に戻しまた、10時8分に引き直したとある。出発列車がないのに貴生川駅出発信号機を青にするのを覆い隠すべく先行列車を使って方向優先テコを引いたとも言える。</ref>。
一方で信楽高原鐵道も、信楽駅到着の列車の進入をスムーズにするために、無認可で信号制御システムを改造し、信楽駅の場内信号機(単線区間2から信楽駅に入るところの信号機)が小野谷信号場の信号機を参照し、電気信号を受け取るようにした。


一方で信楽高原鐵道も検査合格の日である1991年3月8日に無認可改造を行っていた。小野谷信号場は峠に位置するため、場内信号機手前の地点にあった信号制御点では上り・下り双方の列車とも急勾配を登り切る前に減速を余儀なくされる(場内信号機の定位は赤信号のためATSが作動し、登坂中にいったんブレーキ操作をしなければならない)。急勾配に加えカーブによる速度制限もあり運転士の間からクレームが付いたため<ref group="注">貴生川駅から小野谷信号場に向かう上り坂では最大33‰の勾配と急カーブとが連続し、曲線制限及び抵抗も加わってフルノッチでも40km/hを出せなかった。降雨や落葉でレールの[[粘着係数]]が下がるとスリップして[[均衡速度]]はさらに下がり、定時運行に支障をきたすほどだった{{Harv|鈴木|2004|p=141}}。</ref>、両方の単線区間において両端駅から小野谷信号場への方向設定が行われた時点で小野谷信号場の場内信号機を警戒信号にするよう改造を行なった。さらに信楽駅到着の列車の進入をスムーズにするために、認可された信号制御システムは信楽駅手前の地点通過により場内信号機に進入許可を出すものであったものを改造し、小野谷信号場 - 信楽駅間の進路が信楽方向であれば信楽駅の場内信号機が進入許可を出すように改造した<ref>{{Harv|網谷|1997|pp=232-233}}</ref><ref>{{Harv|遺族会|2005|p=113}}</ref><ref>{{Harv|鈴木|2004|pp=92-93}}</ref><ref group="注">この改造で小野谷信号場上り出発信号機と上り場内信号機との反位片鎖錠は撤去された。また小野谷信号場上り場内信号機の制御に信楽駅の出発信号機を参照させる改造も行い、計5点の改造を無認可で信楽高原鐵道は行った。これらの改造は信楽高原鐵道からJR西日本に知らされることはなかった。なおこの改造は、設備の供用開始が迫っていたことから信号制御点の移設に必要なケーブルは手配不能だったゆえの付け焼き刃的改造であり、配線を変更した工事業者の「もし元に戻せと指示されたら、2時間もあれば十分、元に戻せる程度の配線変更」だとの供述がある。{{Harv|鈴木|2004|p=93}}{{Harv|網谷|1997|p=235}}</ref>。
2つの無許可改造の結果、JR西日本側が単線区間1を方向優先テコで→方向に固定する操作を行うと、その信号が単線区間2まで入り込み、単線区間2まで→方向に固定されてしまう誤作動が起こるようになった<ref>その結果、貴生川駅から信楽駅の間が、1つの閉塞(単線)区間となり、進行方向が→方向に固定され、小野谷信号場の→方向の場内・出発信号機は青信号を現示することになった。</ref>。事故当日の信楽駅の信号機も、誤作動により単線区間2が→方向に固定されてしまったため、←方向の出発信号機は赤のまま変わらなくなってしまった。


両社の無認可改造は両社間での相互チェックを経ることはもちろん、結線図・連動図表の交換すらしなかった。しかも両社とも「小規模な工事」だとして自社内での連動会議・結線会議も十分に行われることはなかった。
関係会社間での小野谷信号場の信号システムの仕様の打ち合わせ時に、JR西が当初提案した他社線内の信号システムを外部が操作することとなる方向優先テコ設置の原則違反を信楽高原鐵道の信号メーカーが指摘したため、案を撤回、JR西日本亀山[[列車集中制御装置|CTC]]センター(亀山CTC)からの直通電話と、信楽駅からの操作とで上り列車を小野谷信号場に抑止するという合意を得た。が、後日JR西は当初案通り、亀山CTCに方向優先テコを設置して、信号メーカーの工場へ電話による直接指示で、この操作を行う信楽駅の抑止ボタンを外させた(裁判ではJR西側証人が仕様打ち合わせで方向優先テコ設置を一旦撤回したことを認めている)。


こうした両社の無認可改造の結果、貴生川駅 - 小野谷信号場間に列車が在線中に亀山CTCで方向優先テコを扱うと、その機能により小野谷信号場で一度反位になった下り線場内信号機が定位に戻らないことから、反位片鎖錠の関係にある出発信号機は反位のまま戻らなくなった(ただし列車在線中は赤信号を現示する)。その結果、列車の進行につれて方向優先テコの信号が信楽駅にまで伝播し、貴生川駅から信楽駅に至るまで運転方向が下りに固定されてしまうという、JR西日本の意図しない結果になった。このため事故当日の信楽駅の信号機も、方向優先テコを引かれた状態で先行した下り列車によって設定された運転方向が信楽駅到着後も解除されず運転方向が下りのまま固定されてしまった。したがって、逆向きの上りである信楽駅の出発信号機は赤のまま変わらなくなってしまった。
本来であれば、ここで信楽駅から上り列車が出発信号機の赤信号を無視して発車しても誤出発検知リレーが作動し、小野谷信号場から単線区間2に入るための出発信号機が赤になるはずであったが、それが正常動作しなかったことは上記のとおり。単線区間1・2がともに→方向に固定されていたため、直通列車はそのまま単線区間1から小野谷信号場を通過後に単線区間2に入り、信楽発の列車と衝突することになる。


事故当日が5月3日の再現であれば、仮に信楽駅から上り列車が出発信号機の赤信号を無視して発車しても誤出発検知リレーが作動し、小野谷信号場の下り出発信号機が赤になるはずであった。しかし5月3日の時とは異なり、継電器室での作業により誤出発検知信号が途切れてしまった。運転方向が下り(小野谷信号場から信楽駅方向)のまま在線状態はクリアされていたため、自動進路制御装置の機能によりJRの直通列車は小野谷信号場を青信号で通過し単線区間に入り、信楽発の列車と衝突することになった。よしんば誤出発検知装置が正常に機能したとしても、信楽駅からの上り534D列車の出発が遅れ、誤出発検知装置が作動する前に下り501D列車が小野谷信号場に先着していれば、もはや対向列車は止める術はない。強引な上り列車の出発が時間的に間に合わなかった可能性を刑事裁判での判決は指摘している。
類似の信号不具合は、事故以前から頻繁に発生していた。事故の11日前の5月3日にも発生し、指導式で行ったが、指導者を同信号場まで行かせず、閉塞を全く確認せずに発車させた。このときは幸いにも誤出発検知装置が正常に作動して事故に至らなかった。ところが、信楽高原鐵道は[[第三セクター]]であり経営陣が県・町出身者で鉄道そのものに全く知識はなく、運行保安に対する意識の低さや知識が欠如していたこと、人員・予算に余裕がなかったこと、JR西日本との意思疎通が十分でなかったことなどが影響し、原因すら解明されないまま放置されていた。加えて、このような信号不具合の事態に際しては、[[閉塞 (鉄道)|代用閉塞]]などを用いた上で細心の注意を払った運行を行わなければならない。しかし、事故当時は「世界陶芸祭」の来場客輸送に追われており、社内の指揮命令系統も杜撰であったため、パニックに陥り、厳禁されていた運行時間中の信号系の修理に着手、代用閉塞での運転を決定して小野谷信号所までの在線確認に人を派遣したが、この不在線確認情報の到達前に発車させるという誤った手順を踏んでしまい、信号調整中で誤出発検知機能が働かずに事故になったのであった。


=== 異常時の運用方法の未整備・教育訓練の不足 ===
これらの過失を主張して遺族が両社を相手取って民事提訴し、<!--(ソースを求む)[[1999年]](平成11年)の一審([[大津地方裁判所]])で両社の過失認定判決が下された。JR西日本のみ控訴したが[[2002年]](平成14年)の控訴審([[大阪高等裁判所]])でも同社の過失が認定された。JR西日本は上告せず高裁判決が確定した。-->信楽高原鐵道とJR西日本の両者の過失を認定する判決が[[2002年]]に確定した。<ref name= kyotonp></ref>
特殊自動閉塞に改修前の信楽線は全区間が一閉塞の票券閉塞式であり、自動閉塞を前提とした代用閉塞の必要性は極めて低かった。このことから信楽高原鐵道の従業員は異常時における代用閉塞の訓練を受ける必要性の認識が薄く、閉塞区間が増えた設備改修後に必要なはずの代用閉塞の実地訓練を行わなかった。行き違い設備を追加する改修工事に着手したのが1990年5月、竣工検査が世界陶芸祭の開催直前である1991年3月であり、ハード面だけでなく運用細則などソフト面においても文字通り突貫工事であった。しかも信楽高原鐵道の要員不足からJR西日本の乗務員に対する乗り入れ教育訓練においては、信楽高原鐵道で講習を受けたJR西日本の電車区・車掌区のそれぞれ区長・助役が、乗り入れる乗務員の教育訓練を代行するものであった<ref group="注">後に補償金の分担をめぐる裁判において、区長・[[助役 (鉄道)|助役]]ではなく打ち合わせ時に同席していたJR西日本の指導運転士が代わりに教官を務めていたことが明らかになった。</ref>。それ故にJR西日本の現業員には信楽高原鐵道の運転取扱心得の教育をはじめ、信楽高原鐵道特有の線路・信号設備、運転取扱、指揮命令系統など十分に周知徹底されず、特に異常時における運転整理の手順については詳細を学ぶ機会はなかった。異常時の訓練は最後まで行われないまま放置され、JR西日本の運転士・車掌にとって異常時におけるマニュアルは事実上、ない状態であった。そして異常時の対応は都度、信楽高原鐵道に聞くようにという泥縄的なものだった。前述のように運用開始後に信号トラブルに直面した後も、正規の指導通信式による代用閉塞の取り扱いを行わないまま運転させていた。いずれの機会においても改めて代用閉塞の訓練を実施することはなく、むしろ形式だけの代用閉塞どころか、ダイヤのみに頼る閉塞無視の運転が信号故障時の運転の実際であった<ref>{{Harv|遺族会|2005|pp=117-120}}</ref>。

=== 報告・情報伝達体制の未確立 ===
信号システムの供用開始前からトラブルはあったものの上層部への報告はなかった。また閉塞取り扱い違反や信号故障、列車遅延ならびに運休について、所轄の運輸局への報告が義務付けられているにもかかわらず、両社は必要な報告を怠った。輸送力増強の要請を受けた直後から乗り入れにあたり、JR西日本と信楽高原鐵道は会合の場を持ち、それに必要な契約は交わしたものの、写しを現業部門に交付することもなく、また契約の詳細に至るまで乗務員に周知徹底されることはなかった。それに加え両社の運転取扱心得の比較対照も行われなかったことが、後に裁判において指摘されている。教育訓練の拙さもあり、JR西日本の運転士の中には「信楽高原鐵道線内での運転取扱心得はJR西日本のものと同じ」という言葉を信じたままの者もいた。教育訓練が不十分な中で信号トラブルが相次いだが、彼らは信楽高原鐵道の信号トラブルも、また職員の代用閉塞取扱の規定違反も上役に報告することなく、その場限りとなってしまっていた。

運転指令と各列車間の連絡手段については[[列車無線]]の[[周波数]]が違うことから、JR西日本の乗務員と信楽駅ならびに対向する信楽高原鐵道の乗務員とでは、無線通話が行えなかった。このためJR西日本側では、信楽高原鐵道線への入線時に無線の電源を切り、代わりに車載の可搬式の列車電話を使うこととなっていた。ところが小野谷信号場で赤信号のまま待たされた運転士が、実際に連絡用の列車電話機を使おうと線路に降りると、接続箱が施錠されていて使えなかった。そればかりか信号の停止措置が取られないまま、小野谷信号場にて赤信号を表示していた上り出発信号機が突然青信号に変わり、直後に赤信号に戻るという現象を現認したにもかかわらず、その異常事態が報告されることはなかった<ref>{{Harv|遺族会|2005|pp=117-120}}、{{Harv|遺族会|2005|pp=124-131}}</ref><ref>{{Harv|網谷|1997|p=153-184}}</ref><ref group="注">[[鉄道事故等報告規則]]により閉塞が確保されないままなされた青信号現示は地方運輸局への速報および書面による報告義務がある(第4条)。これらの報告は第一義的には信楽高原鐵道がなすべきこととは言え、裁判においてはJR西日本の情報収集体制の不備が繰り返し指摘されている。</ref>。

さらに事故前の5月7日には、亀山CTCの指令員が出発信号機のテコを定刻になっても引かず、また運転士も出発信号機の赤信号を見落としたまま発車してしまい、[[自動列車停止装置|自動列車停止装置(ATS)]]が作動した。貴生川駅を出てすぐのところにある虫生野[[踏切]]が閉鎖されていないことから誤出発だったと運転士は認識し、貴生川駅員の誘導により列車を後退させたが、既に対向列車が小野谷信号場に接近しており再出発できず、この列車を運休とした<ref name="網谷 1997 184-187">{{Harv|網谷|1997|pp=184-187}}</ref><ref group="注">後述の補償金の分担を巡る裁判において、この事実の記載が判決文中にある。</ref>。列車の運休は所轄の運輸局への事後報告が必要であるにもかかわらず、両社はその前の5月3日にあった信楽駅での信号取扱ミスによる遅延ともども、近畿運輸局に運休の報告はせずうやむやにしてしまっていた<ref name="網谷 1997 184-187"/>。これらのJR西日本の情報収集及び報告体制の不備による過失も、裁判において認定されている。

=== 信楽高原鐵道の社内事情と押し寄せる乗客 ===
信楽高原鐵道は[[第三セクター]]で、経営陣が滋賀県庁や町役場の出身者であったことから鉄道そのものに対する技術的知識は全くなく、運行保安に対する意識や知識も欠如していた。開催直前に非常勤に退いていた鉄道主任技術者が退職し、その補充要員をスカウトすることも、社内から信号システムの技術者を迎えることもなく、信号システム施工業者の技術者を会期中に駐在させる対応で済ませるほどに信楽高原鐵道には人員・予算ともに余裕がない状態だった<ref>{{Harv|佐野|1991|p=433}}、{{Harv|佐野|1991|pp=436-437}}</ref><ref name="網谷 1997 129">{{Harv|網谷|1997|p=129}}</ref>。また代用閉塞の実施には多くの人員が必要になるが、会期前の打ち合わせから人員が事実上確保できないほどだった<ref group="注">事前の乗り入れ会議にて、業務部長自ら人員不足で代用閉塞に係る人員を用意することを渋っている。最終的には代用閉塞に必要な人員は信楽高原鐵道で用意するとしたが、代用閉塞の実行時は事故時も含め手順違反を繰り返している。なお事故当日小野谷信号場に向かった職員2名のうち1名は泊まり明けだった{{Harv|鈴木|2004|pp=35-36}}。</ref>。

加えて事故当時は「世界陶芸祭」の来場客輸送に追われていた。会期中の昼間は小野谷信号場での交換を必ず行う[[ダイヤグラム#ネットダイヤ|ネットダイヤ]]であり、背景に記述したとおり定時運行は来場客輸送には絶対の条件だった。臨時の人員に加え、信号システムの保守に来ていた技術者まで動員して乗客をさばいていたほど信楽駅は混雑しており<ref name="網谷 1997 129"/><ref>{{Harv|佐野|1991|p=433}}</ref>、社内の指揮命令系統は実質上、乗り入れについての交渉窓口に立った業務課長が仕切っていた状態だった<ref group="注">列車の運転主任は業務課の社員が輪番で勤め、当番でない社員は出札・集改札業務に従事していた。</ref>。この結果、5月3日と事故当日の両日とも代用閉塞を手順通り行うには人員が全く不足していた。この状況で予期せぬ信号トラブルが発生したため、信楽駅は事実上パニック状態であった。しかも事故当日は、運行時間中に信号系を修理するという重大な違反を犯している。代用閉塞での運転を決定して小野谷信号場まで要員を自動車で派遣したが、道路の渋滞により現地にたどり着けなかった。信楽高原鐵道は代用閉塞の準備が整わないまま上り534D列車を発車させ、おそらくは継電器室での作業により誤出発検知装置が機能を失って対向列車は小野谷信号場を越え、正面衝突事故になった。

== 裁判 ==
=== 刑事裁判 ===
1992年12月3日、[[滋賀県警察]]本部は事故当日の信楽高原鐵道の駅長と運転主任の2名、同じく事故当日に信号の修理を続けた信号設備会社の技師1名を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]し、この事故で信楽高原鐵道の車両に乗り込み死亡した3名を被疑者死亡として[[書類送検]]した。その一方でJR西日本の関係者は遺族会の告訴・告発にもかかわらず[[不起訴]]処分となった<ref group="注">うち方向優先てこについてのマニュアルの改ざんについては犯罪の存在が認められるとした上で[[起訴猶予]]処分となっている。{{Harv|遺族会|2005|pp=68-70}}</ref>。事故の直接原因は信楽高原鐵道の列車運行規程違反であったことは疑いの余地がなく、逮捕された信楽高原鐵道の社員2人と信号設備会社の社員1人が、[[業務上過失致死傷罪]]などで[[大津地方裁判所]]から[[執行猶予]]付きの有罪[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡され確定した<ref group="判決文">「大津地裁判決 2000年3月24日」『[[判例時報]]』1717号25頁</ref>。

また、これとは別に[[運輸省]](現:[[国土交通省]])[[近畿運輸局]]の認可を受けずに無断で信号設備を改修したとして、信楽高原鐵道とJR西日本の双方が[[鉄道事業法]]違反に問われ、先に確定していた。この刑事記録が後述の民事裁判で遺族弁護団の手に渡り、民事裁判で活用されることとなった<ref>{{Harv|遺族会|2005|pp=101-107}}</ref>。

=== 民事裁判 ===
刑事裁判ではJR西日本の関係者は起訴されず、遺族は失望の念を禁じ得なかった。また遺族の要請に応じ4度にわたり信楽高原鐵道・JR西日本合同で事故説明会を開催したが、信楽高原鐵道は社長の出席があったもののJR西日本の[[角田達郎]]社長は出席に応じなかった<ref>{{Harv|遺族会|2005|pp=32-40}}</ref>。とりわけ第1回の事故説明会の開催直前にスクープされた月刊誌『[[プレジデント社|プレジデント]]』の記事の質問に対して<ref>{{Harv|佐野|1991}}</ref><ref>{{Harv|遺族会|2005|p=34}}</ref>、JR西日本側の回答の歯切れが悪く遺族の心証を害したこと、しかも一周忌法要でのJR西日本角田社長の発言が遺族の心証を逆撫でしたこともあり、遺族会は特にJR西日本の法的責任を明らかにすべく、[[1993年]]10月14日、信楽高原鐵道及びJR西日本の両社を相手取って提訴した<ref>{{Harv|遺族会|2005|p=86}}</ref>。

[[1999年]](平成11年)3月29日、大津地方裁判所は両社の[[共同不法行為]]を認め、両社に対し過失を認める判決を下した<ref group="判決文">「大津地裁判決 1999年3月29日」『判例時報』1688号3頁および『判例タイムズ』1010号96頁</ref><ref>{{Harv|遺族会|2005|p=155}}</ref>。信楽高原鐵道は控訴せず、JR西日本のみが控訴したが[[2002年]](平成14年)12月26日、[[大阪高等裁判所]]は控訴を棄却し、同社の過失が改めて認定された。JR西日本は上告せず、信楽高原鐵道とJR西日本の両社の過失を認定する判決が2003年1月10日に確定した<ref group="判決文">{{Cite 判例検索システム |法廷名=大阪高裁 |事件番号=平成11(ネ)1954 |事件名=損害賠償請求控訴 |裁判年月日=2002年12月26日|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/308/002308_hanrei.pdf }}『判例時報』1812号3頁/『判例タイムズ』1116号93頁</ref><ref>{{Harv|鈴木|2004|p=218}}</ref><ref>{{Harv|遺族会|2005|pp=167-175}}</ref><ref group="注">マスコミには年内に控訴しない旨、記者会見を開いたが、遺族関係者は会見以前に電話で知らされたにとどまった。判決確定を受け、JR西日本の社長が正式に謝罪したのは判決確定後3ヶ月経った2003年3月15日のことである{{Harv|遺族会|2005|pp=171-175}}</ref>。

=== 補償金の分担 ===
信楽高原鐵道は3億円の賠償保険契約(車両損害保険を含む)を締結していたが、保険金の額はイベント開催で乗客が増加することが見込まれたにもかかわらず増額されなかった<ref>{{Harv|網谷|1997|p=210}}</ref><ref group="資料">{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=112013830X00119910530&current=2 |title=第120回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第1号 平成3年5月30日|date=1991-5-30 |accessdate=2015-06-24}}</ref>。補償費用を信楽高原鐵道単体で支弁することが資金面からほぼ不可能だったことから、JR西日本・信楽高原鐵道・信楽町・滋賀県の四者で協定を結んだ。JR西日本・信楽高原鐵道は、犠牲者補償にかかる費用と事故復旧にかかる費用とを協力して立て替えることにし、信楽高原鐵道に対しJR西日本は社員の応援、当面の費用の立替を行うことに合意した。また信楽町・滋賀県は職員の応援の他、信楽高原鐵道への資金面の応援を文面に滲ませた上で応援を行うことにした<ref group="注">実際には財政援助制限法の制約もあり滋賀県と信楽町は、犠牲者への補償金にあてる直接の貸付と、その貸付金の返済を行うための基金運用資金の無利子貸付を行った(影響の項を参照)。</ref>。この協定により犠牲者の補償に関しては信楽高原鐵道・JR西日本が双方折半して支払いを行うこととし、責任割合が確定した時点で事故復旧等費用とともに精算することとなった。

民事裁判の終結を受け補償金の総額は確定したものの、その負担割合についてはJR西日本・信楽高原鐵道双方で折り合いがつかなかった。2004年4月19日、JR西日本は[[大津簡易裁判所]]で[[調停]]を申し立て、合計17回調停の場を持ったが調停不成立に終わった。それを受け、2008年(平成20年)6月14日、JR西日本は信楽高原鐵道と、同鉄道に出資している滋賀県や甲賀市に対し、先に四者で結んだ協定を根拠として約25億3000万円の支払いを求め[[大阪地方裁判所]]に訴訟した<ref group="報道" name= nikkei20080615 />。その内容は、被害者や遺族への補償に関係した費用等約55億7000万円のうち、JR西日本の責任割合を1割とし、JR西日本が過分に支払った額を返還するよう求めたものだった。裁判においてJR西日本は、事故の責任の大半が信楽高原鐵道側にあるためと主張した。この訴訟を受けて信楽高原鐡道の北川啓一顧問らはJR西日本の主張に対し、これまでの裁判でJR西日本にも責任があると指摘し、その主張は責任を認めていないも同然であると非難<ref group="報道" name= kyotonp20080626 />、また滋賀県の[[嘉田由紀子]][[滋賀県知事一覧|知事]]も「被災者補償も(JR西日本と信楽高原鐵道の)折半負担で終了しており、さらに負担することは県民の理解が得られない」とコメントした。

2011年4月27日、大阪地裁は過失割合についてJR西日本側が3割、信楽高原鐡道が7割とし、費用を精査した上でJR西日本に信楽高原鐡道への約11億1400万円の賠償請求権を認める一方で、JR西日本と滋賀県・甲賀市との間には損害担保契約が締結されていなかったとして、滋賀県や甲賀市に対する請求を棄却する判決を言い渡した<ref group="判決文">{{Cite 判例検索システム |法廷名=大阪地裁 |事件番号=平成20(ワ)7450 |事件名=求償債権等請求事件 |裁判年月日=2011年4月27日|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/934/081934_hanrei.pdf }}</ref><ref group="報道" name= kyotonp20110510 /><ref group="報道" name= asahi20110427 /><ref group="報道" name= mainichi20110428 />。判決ではJR西日本側の過失を3割としたことについて、信楽高原鐡道の見切り発車を最大の過失とした上で、訴訟の争点となったJR西日本が設置した方向優先てこについて、現場を混乱に陥る原因であると改めて指摘した。またJR西日本の運転士については小野谷信号所に待機しているはずの対向列車がいないことを認識していたにもかかわらず、小野谷信号場下り出発信号に従って出発した点につき改めて注意義務違反を認定した。その他、JR西日本の信号システムに関する注意義務違反、教育・訓練の義務違反、報告義務及び報告体制確立義務違反も同時に認定している。なおJR西日本に請求権を認めた約11億1400万円については、JR西日本が請求根拠とした約55億7000万円のうち人件費などを控除した約50億円のうち、JR西日本が過分に負担した費用部分である。

この判決を受け訴えた側のJR西日本は控訴しない方針を示し、また信楽高原鐡道も2011年5月10日、臨時取締役会と臨時株主総会を開き控訴しない方針を決め、判決が確定した。同時にJR西日本は、裁判で認められた信楽高原鐡道への賠償請求権を放棄することを表明した<ref group="報道" name= mainichi20110510 /><ref group="報道" name="Reuters_2011-05-10T09:27:23+0000" /><ref group="報道">「信楽鉄道事故 責任7割判決 SKR受け入れ」『[[朝日新聞]]』夕刊2011年5月10日付11面(大阪第4版)</ref><ref group="報道">「信楽事故訴訟 SKR控訴せず 事故20年 関連裁判終結へ 補償割合『7対3』」『[[京都新聞]]』夕刊2011年5月10日付1面(滋賀地方版第6版)</ref><ref group="報道">「信楽訴訟 JR西 全債権を放棄」『京都新聞』朝刊2011年5月11日付1面(滋賀地方版第16版)</ref>。


== 影響 ==
== 影響 ==
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[[有田鉄道]]などでは従来行ってきたJRへの定期列車乗り入れを廃止した。
[[有田鉄道]]などでは従来行ってきたJRへの定期列車乗り入れを廃止した。


また、[[鹿島臨海鉄道]]と[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の間における「ビーチイン大洗ひたち」号(当初予定の大洗までの直通を水戸駅での接続・乗り換えに変更)など、臨時列車におけるJRと[[私鉄]]・[[第三セクター鉄道]]間の直通運転も、不測の事態への対処がしにくいということで、事故を契機に多くが中止された(投資の割に利用客が少ないという、費用対効果の面もあったとされている)。
また、[[鹿島臨海鉄道]]と[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の間における「ビーチイン大洗ひたち」号(当初予定の[[大洗駅]]までの直通を[[水戸駅]]での接続・乗り換えに変更)など、臨時列車におけるJRと[[私鉄]]・[[第三セクター鉄道]]間の直通運転も、不測の事態への対処がしにくいということで、事故を契機に多くが中止された(投資の割に利用客が少ないという、費用対効果の面もあったとされている)。


さらに直通運転に関しては、周到な用意と訓練を行うことが求められるようになり、また従来は直通運転の相手先まで[[乗務員]]がそのまま乗務していることもあったが、事故後は自社線のみ乗務することが多くなった。
さらに直通運転に関しては、周到な用意と訓練を行うことが求められるようになり、また従来は直通運転の相手先まで[[乗務員]]がそのまま乗務していることもあったが、事故後は自社線のみ乗務することが多くなった。


この乗務の一例を挙げると、[[2005年日本国際博覧会]](愛知万博)の輸送では直通列車に関し、[[愛知環状鉄道線]]と[[東海旅客鉄道|JR東海]][[中央線 (名古屋地区)|中央本線]][[高蔵寺駅]]にて業務交代を行った。開催のダイヤ改正の前は実際に、昼間にハンドル訓練をJR東海と愛知環状鉄道の社員(運転士・車掌)で[[国鉄211系電車|211系]][[国鉄113系電車|113系]][[JR東海313系電車|313系]]を使用して行った。また、事故当時、同じ近畿地方の第三セクターの[[北近畿タンゴ鉄道]]では、乗り入れ時に運転士の交代を行っている例として、マスコミの取材を受けていたことがあった(JR[[京都丹後鉄道宮津線|宮津線]]時代から[[山陰本線]]との乗り入れ運転が多く、この事故後も特急は北近畿タンゴ鉄道(現・[[WILLER TRAINS|京都丹後鉄道]])・JR双方が相手側線区との乗り入れを継続して行っている)。
この乗務の一例を挙げると、[[2005年日本国際博覧会]]の輸送では[[東海旅客鉄道|JR東海]][[中央線 (名古屋地区)|中央本線]] - [[愛知環状鉄道]]直通列車([[エキスポシャトル]])に関し、[[高蔵寺駅]]業務交代を行った。また、事故当時、[[北近畿タンゴ鉄道]](現:[[WILLER TRAINS|京都丹後鉄道]])では、乗り入れ時に運転士の交代を行っている例として、マスコミの取材を受けていたことがあった(JR[[北近畿タンゴ鉄道宮津線|宮津線]]時代から[[山陰本線]]との乗り入れ運転が多く、この事故後も特急は北近畿タンゴ鉄道・JR双方が相手側線区との乗り入れを継続して行っている)。


=== 事故後の信楽高原鐵道 ===
=== 事故後の信楽高原鐵道 ===
信楽高原鐵道では「世界陶芸祭」に対する輸送力強化のために多額の費用をかけ新設した小野谷信号場は本事故契機に使用中止となり、貴生川駅 - 信楽駅間全線を一閉塞としたスタフ閉塞により運行する措置がなされ(小野信号場使用時代は特殊自動閉塞)2014年現在もこの一閉塞運行は続けられており、このため小野谷信号場使用当時は1日26往復、最小27分であった運転間隔が現在は1日15往復、最小1時間間隔となっている。また、当時の員数20名のところ事故で5名の員を失い、事故を起こした編成のうち、2両の車両が[[廃車 (鉄道)|廃車]]された(JR車も1両が廃車)。
信楽高原鐵道ではこの事故後「世界陶芸祭」に対する輸送力強化のために多額の費用をかけ新設した小野谷信号場を使用中止とした。また、小野谷信号場使用時代は特殊自動閉塞だったものを、貴生川駅 - 信楽駅間全線を一閉塞とした従前のスタフ閉塞として、1991年12月8日に運行を再開し<ref>{{Harv|網|1997|p=305}}</ref>2021年現在もこの一閉塞運行は続けられており、小野谷信号場使用当時は1日26往復、最小27分であった運転間隔が現在は1日15往復、最小1時間間隔となっている。また、当時の員数20名のうち事故で5名の員を失い、事故を起こした編成のうち、2両の車両が[[廃車 (鉄道)|廃車]]された(JR車も1両が廃車)。


なお「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」は会期を[[5月26日]]まで残していたが事故翌日から開催を休止し、そのまま終了となった。
なお「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」は会期を[[5月26日]]まで残していたが事故翌日から開催を休止し、そのまま終了となった。

さらに事故の補償で巨額の補償金支払いに迫られた信楽高原鐡道は、滋賀県および信楽町からの貸付金20億円余りを補償に充てた。また無利子貸付基金の受け入れにより、基金の運用益から貸付金を返済する支援が実施されたが、金利低迷で実らなかった。県・市からの安全対策経費の補填も2004年より実施されたが一連の裁判の終結後、信楽高原鐵道は2012年2月に自力再建を断念し、被害者補償のために借り入れた資金について、借入元の滋賀県と甲賀市に対し、債権の放棄か減額を求めて調停を申し立てる事態になった。2013年2月に滋賀県と甲賀市は債権放棄で受諾する[[特定調停]]が成立<ref group="報道" name="businessmedia3-1411-28-news023_3" /><ref group="資料" name="Nt2627_01.pdf" /><ref group="資料" name="Gk3252_gi-77.pdf" />。その後、2013年(平成25年)4月1日、[[地域公共交通の活性化及び再生に関する法律]]に基づく鉄道事業再構築実施計画により[[上下分離方式]]に移行した。信楽高原鐵道が信楽線の[[第二種鉄道事業者]]となり、線路や車両等の鉄道施設を無償譲渡された甲賀市が[[第三種鉄道事業者]]となった<ref group="資料" name="甲賀市議会だより第34号" /><ref group="資料" name="000989237.pdf" />。

[[2011年]]に補償での負担割合を巡るJR西日本と信楽高原鐵道との訴訟が終結し、両社と滋賀県・甲賀市が共同メッセージで安全を宣誓したのを機に、信楽高原鐵道で当時顧問となっていた北川啓一らが中心となって、この事故の教訓をまとめた冊子を編集し、[[図書館]]や関係者らに配布する予定だったが、[[2013年]]に社長となった正木仙治郎(甲賀市副市長)が「JR西日本を批判した文言がある」などとして、作成に関わった関係者にのみ配布し、冊子の存在を部外秘にしていることが、[[2022年]]5月に『[[毎日新聞]]』の報道により判明した。有識者や弁護士らからは「公表が事故の風化防止になる」「当事者企業が事故を総括する冊子を作ることは有意義であり、会社として作製を決定した以上、完成した冊子への批判があれば甘んじて受けるべきだし、死蔵しているのは社会的損失だ」との指摘が出ている<ref group="報道" name=毎日20220519/>。


=== 車両の見直し ===
=== 車両の見直し ===
この事故により信楽高原鐵道車はSKR202とSKR204が、JR車はキハ58 1023がそれぞれ廃車となった。このほか、信楽高原鐵道の事故車両である[[信楽高原鐵道SKR200形気動車|SKR200形]]([[富士重工業]]製の[[レールバス]]・[[LE-Car]]シリーズ)いても問題となった。同車は本来[[バス (交通機関)|バス]]向けの車体構造や部品を多数用いて大幅な価格低減および、徹底的な軽量化による燃費向上を実現した車両で、[[日本国有鉄道]](国鉄)の赤字ローカル線([[特定地方交通線]])を引き継いで発足した日本各地の第三セクター鉄道各社がこぞって導入していた。
この事故により信楽高原鐵道車はSKR202とSKR204が、JR車はキハ58 1023([[1967年]]製造)がそれぞれ廃車となった。このほか、信楽高原鐵道の事故車両である[[信楽高原鐵道SKR200形気動車|SKR200形]]についても([[レールバス]]・[[LE-Car]]シリーズ)<ref group="注">なおSKR200形は[[LE-Car]]の雰囲気を残したLE-DCの採用第一号だったが、その後の車両はより鉄道車両的な構体を持鉄道車両になった。</ref>、その脆弱性が問題となった。同車は本来[[バス (交通機関)|バス]]向けの車体構造や部品を多数用いて大幅な価格低減<ref group="注">1両約5000万円。補償金分担裁判の判決で記述がある。</ref>、徹底的な軽量化による燃費向上を実現した車両で、[[日本国有鉄道]](国鉄)の赤字ローカル線([[特定地方交通線]])を引き継いで発足した日本各地の第三セクター鉄道各社がこぞって導入していた。


しかし、[[1960年代]]の国鉄設計で鈍重、言い換えれば頑丈な[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]と正面衝突し、原形を留めないほど無残に大破したレールバスの姿は、鉄道業界に大きなショックを与えた。乗用車との衝突による踏切事故のような、比較的小規模な衝突事故などは考慮して設計されたが、鉄道車両同士の正面衝突のような大規模な事故までは想定していなかったのである。そこへさらに極端な軽量化たレールバスに、衝突事故時の安全性は全く期待できなかった。もともと想定寿命の短い車両ではあったが、日本におけるレールバス(LE-Car)は1990年代後半頃には大半が淘汰されるに至った。本事故以降の代替車は、より「本来の鉄道車両」に近い設計への回帰が進み、大半が鉄道車両的設計の「[[LE-Car#LE-DCシリーズ|LE-DC]]」となっている
だが、[[1960年代]]の国鉄設計である[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]と正面衝突し、原形を留めないほど無残に大破したレールバスの姿は、鉄道業界に大きなショックを与えた。乗用車との衝突による踏切事故のような、比較的小規模な衝突事故などは考慮して設計されていたが、鉄道車両同士の正面衝突のような大規模な事故までは想定しておらず、そで極端な軽量化られたレールバスでは衝突事故時の安全性はかった。元々は想定寿命の短い車両ではあったが、日本におけるレールバスは1990年代後半頃には大半が淘汰されるに至った。


本事故以降の代替車は、[[NDC (鉄道車両)|NDC]]などのより本来の鉄道車両に近い設計への回帰が進んだ。
== その他 ==

* [[1997年]](平成9年)[[4月30日]]、[[信楽駅]]敷地内に事故に関する資料を展示した「セーフティーしがらき」がオープンした。これは「事故を風化させたくない」という遺族の要望を受けたもので、一般も見学できるこのような施設が鉄道会社の敷地内にあるのは異例である。また非公開ではあるものの、事故車となったSKR200形の車両の一部や事故関連の部品などは、信楽高原鐵道が保管している。
== 事故をめぐる報道 ==
* この事故が起こった5月14日の夜には[[力士|大相撲力士]]の[[横綱]]の[[千代の富士貢]]が現役引退を表明したため、[[マスコミ]]や[[テレビ局]]各社にとっては事故の報道と横綱引退報道が合わさる形となり、多忙をきわめた一日となった。
=== 報道各社の救助活動の阻害 ===
* [[2008年]](平成20年)[[6月14日]]に、JR西日本が信楽高原鐵道と、同鉄道に出資している滋賀県や[[甲賀市]]に対し、約25億3,000万円の支払いを求め[[大阪地方裁判所|大阪地裁]]に訴訟を提起した。<ref name= nikkei>{{cite web
事故現場には警察の[[ヘリコプター]]の他、報道各社のヘリコプターも乱れ飛んだ。そのヘリコプターの爆音が現場で救出・処置にあたる救急隊の指示の声を聞こえにくくさせ活動を阻害した。また報道関係者が列車内にまで入り込んで取材活動をしたり、事故現場直近の[[国立病院機構紫香楽病院|紫香楽病院]]に殺到したりするなど、救出活動の阻害行為が複数の救助当事者より指摘された<ref>{{Harv|看護研究会|2001}}</ref>。なお報道ヘリの活動については[[阪神・淡路大震災]]および[[JR福知山線脱線事故]]においても再び指摘されることとなった。
|url= http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news000469.html

|title= JR西、信楽鉄道などを提訴──事故の補償負担増を要求
なお当時はヘリコプターによる患者搬送は一般のヘリコプターでは不可能であったが、現場近くの臨時[[ヘリポート]]から山向こうの[[滋賀医科大学医学部附属病院]]までヘリコプターによる重症者の搬送が行われた。搬送は奏功したが、受け入れ先のヘリポート不備、代替ヘリポートの使用困難等から課題を残した<ref>{{Harv|看護研究会|2001|pp=39-42}}</ref><ref group="注">滋賀医科大学のグラウンドに臨時ヘリポートを用意し救急車搬送も含め計7名を受け入れた。臨時ヘリポートからストレッチャーで搬送するにはグラウンドの不整地により搬送に支障をきたしたことから、ヘリポートで救急車に乗り換えて搬送する手段を取った{{Harv|看護研究会|2001|pp=39-42}}。なお滋賀医科大学附属病院にヘリポートが完成するのは2014年6月11日のことである。({{Cite web|和書|url=http://www.shiga-med.ac.jp/photo/140611.html|title=附属病院にヘリポートが完成しました。|accessdate=2015-7-3}})</ref>。
|author=

|work= [[日本経済新聞]]
=== その他 ===
この事故が起こった5月14日の夜には[[大相撲]]の[[横綱]][[千代の富士貢|千代の富士]]が現役引退を表明したため、[[テレビ局]]などの[[報道機関]]にとっては事故の報道と横綱の引退報道が相まって、多忙をきわめた一日となった。

== 遺族の活動 ==
[[File:Memorial service monument of the SKR accident.jpg|thumb|300px|犠牲者追悼法要当日の慰霊碑(2012年撮影)]]

=== 鉄道安全推進会議(TASK) ===
[[1993年]](平成5年)8月、鉄道安全推進会議(TASK)が設立された(初代会長は臼井和男)。鉄道安全推進会議は事故の責任を追及する活動とは一線を画し、鉄道会社とも協力して、再発防止を最終目標に公平で独立した鉄道事故の調査機関設置を国に求め活動を行った<ref name="kyoto20190307" group="報道">{{cite news |title=法律変えた信楽事故遺族の声 「鉄道安全会議」解散へ |newspaper=『京都新聞』 |date=2019-3-7|url=https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20190307000095|accessdate= 2019-6-24}}</ref><ref name="mainichi/20190623/k00/00m/040/129000c" group="報道">{{Cite news|date=2019-06-23|url=https://mainichi.jp/articles/20190623/k00/00m/040/129000c|title=信楽高原鉄道事故の遺族らの団体「TASK」が解散総会|publisher=[[毎日新聞社]]|newspaper=『毎日新聞』|accessdate=2019-07-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190623105735/https://mainichi.jp/articles/20190623/k00/00m/040/129000c|archivedate=2019-06-23}}</ref>。

[[2018年]](平成30年)[[5月2日]]、遺族会代表世話人と訴訟原告団長を務めた吉崎俊三が死去した<ref group="報道">[https://mainichi.jp/articles/20180504/k00/00m/040/079000c 【訃報】信楽高原鉄道事故遺族、吉崎俊三さん84歳]『毎日新聞』2018年5月3日(2021年5月20日閲覧)</ref>。吉崎世話人は妻をこの事故で亡くしている。[[1991年]](平成3年)7月、遺族会を結成し代表世話人となる。[[1993年]](平成5年)8月、他の遺族らと民間団体「鉄道安全推進会議」(TASK)を結成。[[2005年]](平成17年)から[[2014年]](平成26年)まで同会議の代表(議長)を務めた。

2019年6月、鉄道安全推進会議は解散決議を行い活動を終えた<ref name="kyoto20190307" group="報道" /><ref name="mainichi/20190623/k00/00m/040/129000c" group="報道" />。

==== 福知山線事故遺族らとの交流 ====
吉崎は、2005年に起きた[[JR福知山線脱線事故]]後、一人娘を亡くした藤崎光子と会い、信楽事故で「僕たちが徹底的に原因を究明しなかったから、事故が起こって残念でたまりません。申し訳ない」と泣いて詫び「遺族一人一人では立ち向かえない」と助言し、藤崎は経営していた印刷会社を畳んで遺族のネットワークを結成<ref group="報道" name=毎日新聞20230425>[https://mainichi.jp/articles/20230424/k00/00m/040/122000c 「組織罰」創設訴える 他者と連帯 福知山線事故遺族]『毎日新聞』朝刊2023年4月25日(社会面)2023年5月13日閲覧</ref>。藤崎は、重大事故を起こした法人やその代表者の刑事責任を問う「組織罰」制度の導入を訴えているほか、国内外の他の重大事故の犠牲者遺族と交流している([[日本航空123便墜落事故]]、[[大韓民国|韓国]]の[[大邱地下鉄放火事件]]や[[セウォル号沈没事故]]、[[台湾]]の[[北廻線太魯閣号脱線事故]])<ref group="報道" name=毎日新聞20230425/>。

=== 鉄道事故調の設置・被害者救済に関する活動 ===
鉄道安全推進会議の中心メンバーは、欧米の事故調査機関を視察し、運輸大臣(当時)らに鉄道事故を対象にした独立調査機関の設置を要望し、[[2001年]](平成13年)の国土交通省[[航空・鉄道事故調査委員会]](のち[[運輸安全委員会]])の設置につなげた<ref name="kyoto20190307" group="報道"/>。

また、鉄道安全推進会議は[[日本航空123便墜落事故]]、[[明石花火大会歩道橋事故]]、[[JR福知山線脱線事故]]等の遺族らとも連携し、事故被害者の支援充実や体制強化を国に求める運動を行った<ref group="報道">[https://kobe-np.co.jp/news/sougou/201805/0011221399.shtml 「信楽高原鉄道事故遺族の吉崎俊三さんが死去」]{{リンク切れ|date=2021年5月}}[[神戸新聞]]NEXT(2018年5月3日)</ref>。

=== セーフティーしがらき ===
[[1997年]](平成9年)[[4月30日]]、[[信楽駅]]敷地内に事故に関する資料を展示した「セーフティーしがらき」がオープンした<ref>{{Harv|遺族会|2005|pp=50-51}}</ref><ref>{{Harv|網谷|1997|pp=294-295}}</ref>。これは「事故を風化させたくない」という遺族の要望を受けたもので、一般人も見学できる。また非公開ではあるものの、事故車となったSKR200形の車両の一部や事故関連の部品などは、信楽高原鐵道が保管している。

=== 慰霊・追悼 ===
事故現場近くには[[慰霊碑]]が建てられ、事故発生日には遺族とJR西日本、信楽鐡道などによる追悼法要が行われている。事故から30年目の2021年5月14日の法要では、犠牲者の数と同じ42本の[[蝋燭]]が灯され、鉄道2社の社長が「安全の鐘」を鳴らした。JR西日本社長の[[長谷川一明]]は「事故を風化させず、教訓を引き継いでいきたい」と述べた<ref>信楽事故30年「風化させぬ」追悼法要『[[読売新聞]]』朝刊2021年5月15日(社会面)</ref>。

== 参考図書 ==
* {{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|網谷|1997}} |author=網谷りょういち |date=1997-10-20 |title= 信楽高原鐵道事故 |publisher=[[日本経済評論社]] |isbn=4-8188-0953-5 }}
* {{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|遺族会|2005}} |author=JR西日本信楽高原鐡道列車衝突事故犠牲者遺族の会 |author2=信楽列車事故被害者弁護団 |date=2005-5-30 |title=信楽列車事故 JR西日本と闘った4400日 |publisher=現代人文社 |isbn=4-87798-259-0 }}
* {{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|看護研究会|2001}} |author=滋賀災害看護研究会 |date=2001-9 |title=信楽高原鉄道列車衝突事故救護活動報告書 |publisher=滋賀災害看護研究会 }}
* {{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|佐野|1991}} |author=[[佐野眞一]] |date=1991-10 |title=ドキュメント「信楽高原鉄道事故」 |series=プレジデント |publisher=プレジデント社 |pages=430-439}}
* {{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|鈴木|2004}} |author=鈴木哲法 |date=2004-2-26 |title=検証信楽列車事故 鉄路安全への教訓 |editor=京都新聞社 |publisher=京都新聞出版センター |isbn=4-7638-0530-4 }}

== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2|group="注"}}

== 出典 ==
=== 判例となった判決文 ===
{{Reflist|group="判決文"}}

=== 報道 ===
{{脚注ヘルプ}}
<references group="報道">

<ref name=sankei20110427>
{{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/20111213150202/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110427/trl11042715410006-n1.htm
|title= 「JRに3割責任」信楽高原鉄道事故の負担金 大阪地裁判決 (1ページ目)
|author=
|publisher= [[産経新聞]]
|date= 2011年4月27日
|accessdate= 2011年5月10日}}
{{Cite web|和書|url= http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110427/trl11042715410006-n2.htm
|title= 「JRに3割責任」信楽高原鉄道事故の負担金 大阪地裁判決 (2ページ目)
|author=
|publisher= 産経新聞
|date= 2011年4月27日
|accessdate= 2011年5月10日}}</ref>

<ref name= nikkei20080615>
{{Cite web|和書|url= http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news000469.html
|title= JR西、信楽鉄道などを提訴──事故の補償負担増を要求
|author=
|publisher= [[日本経済新聞]]
|date= 2008年6月15日
|date= 2008年6月15日
|accessdate= 2011年6月19日
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}}</ref>
}}</ref>その内容は、被害者や、遺族への補償に関係した費用約55億7000万円の内、JR西日本が負担した約30億9000万円の約9割に相当する額の支払いを求めたものである。<ref name= nikkei></ref>提訴前に原告被告双方は、補償費用負担について交渉を重ねたものの折り合いがつかず、[[大津簡易裁判所]]で[[調停]]を17回行ったが不調に終わっている。<ref name= nikkei></ref>この話し合いや、調停の中でJR西日本は、事故の責任の大半が信楽高原鐵道側にあるとして、9割負担を要求していた。<ref name= nikkei></ref><!--(ソースを求む)提訴前の当事者交渉では信楽高原鉄道と滋賀県が50%分担、JR西日本が30%分担を主張して折り合えなかったが、訴訟での請求額は当事者交渉時の総額に「諸費用」が上乗せされてその90%分担要求ということで当事者交渉時総額の101%請求になっている。JR西日本は、事故の責任の大半が信楽高原鐵道側にあるためと主張してきた。<ref name= nikkei></ref>-->この訴訟を受けて、信楽高原鐡道の[[北川啓一]]顧問らはJR西日本の主張に対して、これまでの裁判でJR西日本にも責任があると指摘しており、その主張は責任を認めていないも同然であると非難<ref name= kyotonp2008>{{cite web

|url= http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20110510000072
<ref name= kyotonp20080626>
{{Cite web|和書|url= http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20110510000072
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|title= 「補償負担割合、見直さず」 信楽鉄道事故で県など
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}}</ref>
}}</ref>、[[滋賀県知事|滋賀県]]の[[嘉田由紀子]]知事は、「被災者補償も(JR西日本とSKR側の)折半負担で終了しており、さらに負担することは県民の理解が得られない」とコメントしている。<ref name= kyotonp2008></ref>[[2011年]][[4月27日]]に、大阪地裁は過失割合について、JR西日本側が3割、信楽高原鐡道が7割とし、JR西日本に信楽高原鐡道への約11億1400万円の賠償請求権を認め、滋賀県や甲賀市に対する請求を棄却する判決を言い渡した。<ref name =sankei></ref><ref name= kyotonp>{{cite web

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|title= SKR控訴せず 信楽事故訴訟、関連裁判終結へ
|work= [[京都新聞]]
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<ref name= asahi20110427>信楽事故「JR西の責任3割」 大阪地裁、支払い命じる 朝日新聞 2011年4月27日</ref>
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{{Cite web|和書|url= http://mainichi.jp/kansai/news/20110428ddn041040019000c.html
|title= 信楽高原鉄道事故:JR西に責任3割 設備の無断設置一因--大阪地裁判決
|title= 信楽高原鉄道事故:JR西に責任3割 設備の無断設置一因--大阪地裁判決
|author= 苅田伸宏
|author= 苅田伸宏
|work= [[毎日新聞]]
|publisher= 毎日新聞
|date= 2011年4月28日
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|accessdate= 2011年5月31日
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}}</ref>
}}</ref>判決では、JR西日本側の過失を3割としたことについて、信楽高原鐡道の見切り発車を最大の過失とした上で、訴訟の争点となったJR西日本が設置した方向優先てこについて、現場を混乱に陥る原因であると指摘し、小野谷信号所に待機しているはずの対向列車がいないことを認識していたにもかかわらず、出発信号に従ったJR西日本の運転士の注意義務違反を認定したもの。<ref name= sankei></ref>JR西日本に請求権を認めた約11億1400万円については、JR西日本が請求根拠とした約55億7000万円のうち人件費などを控除した約50億円から、そのうちの7割を信楽高原鐡道の負担分とし、JR西日本が過分に負担した費用部分である。<ref name =sankei></ref>この判決を受けて、[[2011年]][[5月10日]]に信楽高原鐡道は臨時取締役会と臨時株主総会を開いて、控訴しない方針を決定・公表し<ref name= kyotonp></ref><ref name= mainichi2011>{{cite web

|url= http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110510k0000e040086000c.html
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|title= 信楽高原鉄道事故:SKR側が補償費受け入れ 控訴はせず
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|title= 信楽高原鉄道事故:SKR側が補償費受け入れ 控訴はせず
|author= 柴崎達矢
|author= 柴崎達矢
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}}</ref>
}}</ref>、JR西日本も控訴しない方針を示し<ref name= kyotonp></ref><ref name= mainichi2011></ref>、判決は確定した。また、JR西日本は、裁判で認められた信楽高原鐡道への請求権を放棄することを表明した。<ref name= kyotonp></ref><ref name= mainichi2011></ref><ref>京都新聞(2011.5)によると、このことを信楽高原鐡道に伝えたとしている。</ref><ref>毎日新聞(2011.5)によると、このことを信楽高原鐡道と合意したJR西日本社長談話で言及したとしている。</ref>

*この事故の補償で巨額の債務を抱えた信楽高原鐡道は、[[2012年]]2月に自力再建を断念し、被害者補償のために借り入れた資金について、借入元の滋賀県と甲賀市に債権の放棄か、減額を求めて調停を申し立てる事態になり、翌年2月に滋賀県と甲賀市は債権放棄で受諾した。<ref name= businessmedia3>{{cite web
|url= http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1411/28/news023_3.html
<ref name="businessmedia3-1411-28-news023_3">
{{Cite web|和書
|url= https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1411/28/news023_3.html
|title= 杉山淳一の時事日想:たび重なる悲運を乗り越えて前へ進もう 運行再開の信楽高原鐵道に期待 (3/5)
|title= 杉山淳一の時事日想:たび重なる悲運を乗り越えて前へ進もう 運行再開の信楽高原鐵道に期待 (3/5)
|author= 杉山淳一
|author= 杉山淳一
161行目: 318行目:
}}</ref>
}}</ref>


<ref name="Reuters_2011-05-10T09:27:23+0000">
== 関連書籍 ==
{{Cite web|和書
* 「信楽列車事故―JR西日本と闘った4400日」(現代人文社 著 信楽列車事故遺族会・弁護団 ISBN 9784877982591)
|url= http://jp.reuters.com/article/idJP2011051001000515
* 「信楽高原鐡道事故」(日本経済評論社 著 細谷りょういち ISBN 978-4818809536)
|title=信楽事故訴訟、判決確定へ
|publisher= [[ロイター]]
|date= 2011年5月10日
|accessdate= 2015年6月27日
}}</ref>


</references>
== 脚注 ==

{{脚注ヘルプ}}
=== 発表資料等 ===
{{Reflist}}
<references group="資料">

<ref name="Nt2627_01.pdf">
{{Cite web|和書
|url=http://www.shigaken-gikai.jp/voices/GikaiDoc/attach/Nittei/Nt2627_01.pdf
|title=信楽高原鐵道(株)の特定調停について
|accessdate=2015-6-28
|date=2013-2-6
|format=pdf |work=政策・土木交通常任委員会資料 |publisher=[[滋賀県議会]]
}}</ref>

<ref name="Gk3252_gi-77.pdf">
{{Cite web|和書
|url=http://www.shigaken-gikai.jp/voices/GikaiDoc/attach/Gk/Gk3252_gi-77.pdf
|title=滋賀県議会 平成25年2月定例会 議第77号
|accessdate=2015-7-9
|date=2013-2-14
|format=pdf |publisher=滋賀県議会
}}</ref>

<ref name="甲賀市議会だより第34号">
{{Cite web|和書
|url=http://www.city.koka.lg.jp/secure/11156/20130501_all.pdf
|title=議会 平成25年2月定例会 議第77号
|accessdate=2015-7-9
|date=2013-5-1
|format=pdf |publisher=甲賀市議会
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<ref name="000989237.pdf">
{{Cite web|和書
|url=https://www.mlit.go.jp/common/000989237.pdf
|title=地域公共交通の活性化及び再生に関する法律に基づく鉄道事業再構築実施計画の認定について〔信楽高原鐵道信楽線〕
|accessdate=2015-6-28
|date=2013-3-1
|format=pdf |publisher=国土交通省
}}</ref>

</references>

=== 書籍中の出典 ===
{{Reflist|2|group=}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[鉄道事故]]
* [[鉄道事故]]
* [[閉塞 (鉄道)#特殊自動閉塞式|特殊自動閉塞]]
* [[閉塞 (鉄道)#代用閉塞方式|代用閉塞方式]]
* [[閉塞 (鉄道)#代用閉塞方式|代用閉塞方式]]
* [[京福電気鉄道越前本線列車衝突事故]] - 2001年6月24日の事故が類似。
* [[京福電気鉄道越前本線列車衝突事故]] - 2001年6月24日の事故が類似。
* [[JR福知山線脱線事故]](2005年4月25日、当事故の死者数をはるかに上回る大惨事となった
* [[JR福知山線脱線事故]] - 2005年4月25日、当事故の死者数をはるかに上回る大惨事となった。本事故の遺族会ならびに鉄道安全推進会議 (TASK) が急遽、声明を発表。
* [[航空・鉄道事故調査委員会]] - 鉄道安全推進会議(TASK)の働きかけにより設立。
* [[信楽インターチェンジ]] - [[国道307号]]を挟んで事故現場に隣接している[[新名神高速道路]]の[[インターチェンジ]]。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.tasksafety.jp/index.htm TASK・鉄道安全推進会議](信楽高原鐵道列車衝突事故後設立
* {{Cite web|和書|url=http://tasksafety.jp/ |title=TASK・鉄道安全推進会議 |publisher=鉄道安全推進会議(TASK) |accessdate=2015-06-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140103114136/http://tasksafety.jp/ |archivedate=2014-01-03 |url-status=dead|url-status-date=2015-06 }} - 信楽高原鐵道列車衝突事故後設立
* 参考記事:[http://web.archive.org/web/19970711235345/http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/shigaraki/shigaraki_index.html 京都新聞リポート 「赤信号で走った列車信楽高原鉄道事故の真相」](Internet Archive の1997年7月11日分のアーカイブ)
* 参考記事:[https://web.archive.org/web/19970711235345/http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/shigaraki/shigaraki_index.html 京都新聞リポート「赤信号で走った列車 - 信楽高原鉄道事故の真相」](Internet Archive の1997年7月11日分のアーカイブ)
* {{失敗知識データベース|CA0000607|信楽高原鉄道での列車正面衝突}}
* {{失敗知識データベース|CA0000607|信楽高原鉄道での列車正面衝突}}
* [http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030242_00000 NHKアーカイブス 信楽高原鉄道列車衝突事故(1991年)] - 日本放送協会(NHK)
* {{NHK放送史|D0009030242_00000|信楽高原鉄道列車衝突事故(1991年)}}
* {{Cite web|和書|url=https://www.kansai-u.ac.jp/ILS/publication/asset/nomos/18/nomos18-03.pdf |title=信楽列車事故の教訓と鉄道事故調査 |author =佐藤健宗|accessdate=2015-7-9 |date=2006-06-30|format=pdf |work=『ノモス』第18号(2006年6月発行)|publisher=[[関西大学]] }}

:: {{NAID|110006155276}}{{Open access}}- 上記論文のCiNiiオープンアクセス論文
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[[Category:1991年の日本における災害]]
[[Category:日本の鉄道事故]]
[[Category:日本の脱線事故]]
[[Category:鉄道運転業務]]
[[Category:日本の列車衝突事故]]
[[Category:信楽高原鐵道|事しからきこうけんてつとうれつしやしようとつしこ]]
[[Category:信楽高原鐵道|事しからきこうけんてつとうれつしやしようとつしこ]]
[[Category:JR西日本グループの歴史|事しからきこうけんてつとうれつしやしようとつしこ]]
[[Category:JR西日本グループの歴史|事しからきこうけんてつとうれつしやしようとつしこ]]
[[Category:滋賀県の交通史]]
[[Category:甲賀市の交通]]
[[Category:甲賀市の歴史]]
[[Category:甲賀市の歴史]]
[[Category:甲賀市の交通]]
[[Category:1991年の鉄道]]
[[Category:1991年の鉄道]]
[[Category:1991年5月]]

2024年11月27日 (水) 10:56時点における最新版

信楽高原鐵道列車衝突事故
事故現場の様子
事故現場の様子 地図
発生日 1991年平成3年)5月14日
発生時刻 10時35分頃(JST)
日本の旗 日本
場所 滋賀県甲賀郡信楽町(現:甲賀市信楽町)黄瀬
座標 北緯34度55分14.2秒 東経136度5分16.2秒 / 北緯34.920611度 東経136.087833度 / 34.920611; 136.087833座標: 北緯34度55分14.2秒 東経136度5分16.2秒 / 北緯34.920611度 東経136.087833度 / 34.920611; 136.087833
路線 信楽高原鐵道信楽線
運行者 信楽高原鐵道
事故種類 列車衝突事故
原因 代用閉塞の不適切な使用、誤出発検知装置の誤作動
統計
列車数 3両(信楽高原鐵道車2両とJR西日本車1両)
死者 42人
負傷者 614人
事故現場の位置
事故現場の位置(滋賀県内)
事故現場
事故現場
事故現場 (滋賀県)
テンプレートを表示

信楽高原鐵道列車衝突事故(しがらきこうげんてつどうれっしゃしょうとつじこ、信楽高原鉄道事故[報道 1]信楽列車事故とも[注 1])は、1991年平成3年)5月14日滋賀県を走る信楽高原鐵道信楽線において発生した列車衝突事故。信楽高原鐵道の車両と、直通運転で乗り入れていた西日本旅客鉄道(JR西日本)の車両が正面衝突して42名が死亡し[報道 2]、614名が負傷した。

事故概要

[編集]

1991年5月14日10時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町(現・甲賀市信楽町)黄瀬の信楽線小野谷信号場 - 紫香楽宮跡駅間で、信楽貴生川行きの上り普通列車SKR200形4両編成)と、JR西日本が運行していた京都発信楽行き下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(キハ58系3両編成)が正面衝突した。先頭車のキハ58形は前部が押し潰された上に全長のほぼ1/3が上方へ座屈し、SKR200形は先頭車が2両目とキハ58形とに挟まれてテレスコーピング現象によって原型を留めないほどに押し潰された。JR西日本側乗客の30名、信楽高原鐵道側乗員乗客の12名(うち運転士と添乗の社員が4名)のあわせて計42名が死亡、直通下り列車の運転士を含む614名が重軽傷を負う大惨事となった[1][2][3]。衝突した臨時快速列車は乗客で超満員の状態(定員の約2.8倍)だったことから[注 2]、人的被害が非常に大きくなった。

背景

[編集]

沿線の信楽町は信楽焼の産地で、当時は「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」が4月20日から開催されており[4]、信楽高原鐵道は線路容量をはるかに超える来場者輸送(ピーク時約2万人/日)に追われていた。陶芸をアピールするエキジビション、シンポジウム、イベントで構成されていた世界陶芸祭は好評を博し、主催者の予想した来場者35万人に対して、これをはるかに上回る客を集め、ゴールデンウィーク明けの5月11日には入場者50万人を達成していた(最終的には60万人[4][5]

「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」の開催にあたって実行委員会は会期37日間の想定来場者数35万人のうち、25%にあたる約9万人を鉄道輸送で賄おうとした。期間中の想定ピーク輸送人員約9千人/日に対して信楽高原鐵道の輸送力が不足(会期前の乗客は平均して2千人/日足らず)していたことから[注 3]、実行委員会は1990年3月に滋賀県知事名で、信楽高原鐵道・JR西日本の両社に協力を要請した[6]。これを受け信楽高原鐵道は旧来の設備を約2億円かけて大改修し、路線の中間部に当たる箇所に小野谷信号場を設け、運行本数をほぼ倍増する工事を実施した[7][8]。小野谷信号場は無人で運用することから、信楽高原鐵道は閉塞方式を票券閉塞式から特殊自動閉塞式に変更し、あわせて車両の進行により信号機分岐器とを自動で設定する自動進路制御装置も設置した[注 4]。また設備面でも単線で行き違いができなかった旧来の設備では来場客は到底運べないことから、設備改修とあわせJRの車両と運転士をともに借り受ける協定を結んだ[注 5]。しかしCTCは設置せず、信号および分岐器の動作は列車の運行によってのみ決まるシステムであったことが、後述のJR西日本による方向優先テコの無断設置の遠因になった。

信楽線の配線略図

[編集]

事故当時の信楽線および貴生川駅の配線略図を示す。当時は信楽線の列車交換は小野谷信号場以外ではできず、また貴生川駅には信楽高原鐵道の着発線が1本しかなく、草津線には待避線がなかった。

信楽線の配線略図・草津線貴生川駅の構内略図 凡例
0
0 Vvoie
0 Vvoie 柘植駅亀山駅方面)
0 Vvoie
0 Vvoie ←草津線
0 Vvoie 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 quaib quaib quaib quaib 0 0 0
0 Vvoie 0 0 信楽線↓ 0 0 小野谷信号場 0 ↓事故現場 0 0 quaib 0 0 0 0 0 0 courbebg voie voie voie voie voie voie voie butoird
0 Vvoie 0 0 0 0 courbebg voie voie voie voie bifbd voie voie voie voie bifbg voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie bifd 0 0 0 0 0 0 0 0 0
0 Vvoie 0 0 0 Mvoie 0 0 0 0 0 0 courbehg voie voie courbehd 0 0 0 0 0 0 quaih 0 0 quaih 0 0 0 quaih 0 0 0 0 courbehg bifbg voie voie voie voie voie voie butoird
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0 Vvoie 0 0 Vvoie
0 Vvoie 0 0 Vbifbg
0 Vvoie 0 Mvoie Vvoie
0 Vvoie Mvoie 0 Vvoie
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quaig Vvoie Vvoie quai Vvoie
quaig Vvoie Vvoie quai Vvoie
quaig Vvoie Vvoie quai Vvoie
quaig Vvoie Vvoie quai Vbutoirb 貴生川駅
quaig Vvoie Vvoie quaid
0 Vvoie Vcourbebg
0 Vbifhd
0 Vvoie
0 Vvoie 草津駅大津京都方面)


側線など本文中で言及しない部分については省略した。なお中間駅は全て一面一線の停留場であるため駅の存在だけに記述をとどめている)

信楽線の信号システム

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事故当時の信楽線は、閉塞が

貴生川駅--(単線区間1)-〈小野谷信号場〉-(単線区間2)--信楽駅

という構造になっていた。単線区間では、当然のことながら、どちらか一方向にしか列車を走らせることはできない。そのため単線区間の1と2では、信楽方向(→方向:下り)に列車を進行させるか、貴生川方向(←方向:上り)に進行させるかが自動的に設定され、列車の運行に従って自動的に信号の現示と分岐器の操作が行われる仕組みになっていた。この機能により小野谷信号場は無人のまま、両端駅である信楽・貴生川の両駅の出発信号機の操作だけで行き違いができるシステムとなっていた。小野谷信号場には安全側線がないことから、場内信号機の進入許可の現示は警戒信号(黄黄の2灯)で[注 6]、出発信号機の制御点まで列車が進行し、かつ信号所に入りその先の単線区間の閉塞が確保できたら出発信号機が青信号を出す仕様になっていた。無人信号場であることから、信楽駅から運転士に連絡を入れるよう求める黄色の回転灯も設置された[注 7]。なお近江鉄道では[注 8]、単線自動閉塞の信号システムが既に稼働しており、黄色の回転灯も近江鉄道のシステムに倣ったものである[9]

たとえば事故時のように貴生川駅と信楽駅から同時に列車が発車して小野谷信号場ですれ違う場合であれば、貴生川駅発の列車、信楽駅発の列車双方に青信号を出すと単線区間1が信楽方向に、単線区間2が貴生川方向に切り替わり、それぞれの駅を列車が出発できる。そして両列車とも単線区間を通って小野谷信号場に到着すれば、逆に単線区間1が貴生川方向に、単線区間2が信楽方向に切り替わるので、2つの列車は信号場ですれ違って目的地に向かうことができる。注意すべきは竣工当初、小野谷信号場には下り上りともに場内信号機出発信号機との間に反位片鎖錠が設定されていたことである[注 6]

貴生川駅構内はJR西日本の管轄であるため、信号システムはそのほとんどが信楽高原鐵道側であるものの、貴生川駅の連動装置の変更が必要になることからJR西日本および信楽高原鐵道の両社で分担して設計・施工されることとなった。それぞれ別々の会社に設計・施工を依頼し[注 9]、かつ認可通りの設備で連動試験を行っている[注 10]。しかし試験後の両社の無認可改造ならびに設計の相互レビューの不徹底が、信号システムの相次ぐトラブル、そして正面衝突事故につながっていくことになる。

原因

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代用閉塞取扱の手続き無視と誤出発検知装置の誤作動

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小野谷信号場(2017年撮影)
運行再開後に用いられることはなく、事故当日501Dを発車させた下り出発信号機を含む全ての設備が2021年度までに撤去された[報道 3]

発端は、信楽駅から貴生川駅行きの上り普通列車534D列車を発車させるため、信楽駅の制御盤で出発信号機を出発現示(青信号)にしようとスイッチ(テコと呼ばれる)を操作したにもかかわらず、停止現示(赤信号)のまま変化しなかったことである。このとき下り列車が正しく信楽駅に到着しているにもかかわらず、下りの運転方向表示が点灯したままだった[10][11]。分岐器を調べたが線路は開通しており、信号トラブルを疑ったため信楽高原鐵道は保守要員として詰めていた信号システム会社の社員に点検を命じた。それとともに、代用閉塞である指導通信式の採用を早々に決定。小野谷信号場で対向列車であるJRからの直通列車と行き違いを実現すべく、誤出発検知装置を頼りにして[注 11]、指導員となる社員を添乗させ普通列車を11分遅れの10時25分頃に発車させた[10][12]。この列車には指導員役の社員の他、当日の午後から安全管理などの査察に来る予定だった近畿運輸局の係官を貴生川駅まで出迎えに行こうとした常務、おそらくは指揮を執るべく乗り込んだ業務課長[注 12]、夜勤明けで自宅に帰る予定だった運転士の計4人が乗り込んだ[13]。事故で本務運転士も含め、添乗した4人全ての計5名が死亡し、信楽高原鐵道の乗務員で生存したのは車掌1名のみだった。

代用閉塞を開始する場合、閉塞区間の両端に駅員を配置して対向列車の抑止と閉塞区間に列車がいないことを確認しなければならない。この場合は少なくとも対向列車501Dが小野谷信号場で停車し、代用閉塞の使用を運転士に通告した上で出発を抑止したことを、小野谷信号場に到着した閉塞責任者から信楽駅の運転主任に伝達され確認した後でなければ534D列車は出発させてはならなかった。しかし事故当時、代用閉塞に必要な要員を自動車で小野谷信号場に差し向けたものの、その到着を待たずに列車を発車させてしまった。これにより刑事裁判においても代用閉塞に必要な措置を取らなかったことにより事故を招いたとして当事者は刑事罰を受けた。

しかしながら、改修した信号システムはトラブル続きだった。貴生川駅の出発信号機を青信号にできないトラブルは4月8日、4月12日の2度、事故当日と全く同じ、信楽駅で出発信号機を青信号にできないトラブルはゴールデンウィーク中の5月3日にもあった。特に5月3日のケースは事故時の列車と全く同じ534D列車で起きていた。この時は代用閉塞への変更すら行わず、誤出発検知装置を頼りに10時20分頃に534D列車を出発させていた。対向列車であるJR西日本からの直通列車は小野谷信号場で停車しており、業務課長は小野谷信号場まで列車に添乗し、自ら手動で分岐器の操作を行って列車を行き違いさせていた。さらにその1時間後の下り列車も代用閉塞に必要な運転通告券の交付を受けず、小野谷信号場に居合わせた業務課長による口頭の要請のまま、小野谷信号場から信楽駅まで運転させていた。そして、5月3日のこの列車の運転士が事故当日のJR西日本乗り入れ快速501Dの運転士であった[14]。事故当日も業務課長が上り534D列車に乗り込んだことから5月3日と同様の解決法を取ろうとしたものと思われるが、列車の運行中は厳禁とされていた信号継電器室での作業も影響を与えた可能性があり、5月3日には有効に作用したこの手法によっても対向の下り臨時快速列車を停車させることができず、両列車が正面衝突するに至った。

小野谷信号場の下り出発信号機が赤にならなかった理由について、信楽駅構内の信号固着の修理のために同駅の継電器室(信号機器室)において行われていた、運行時間中の信号装置の点検作業が指摘されている。小野谷信号場の出発信号機は先の装置により一度は実際に赤に変えられたが、その作業の影響により、再び青に戻ってしまったと見られている[15][16]。事故検証において信楽駅とともに小野谷信号場の誤出発検知装置も調べられたが誤出発は検知されておらず、列車は青信号で通過したものとみられる[17]

事故後、警察は実際に車両を動かして信号の動作検証を行った。信楽駅における出発信号機の青信号が出せない現象は、方向優先テコの操作、小野谷信号場の下り場内信号機(貴生川駅側)と下り出発信号機との間の反位片鎖錠の関係[注 13]、小野谷信号場下り場内信号機の制御接近点の変更工事が複合して発生した現象だと鑑定されたが[18]、事故当日小野谷信号場の下り出発信号機が誤出発を検知しながら青信号になった理由については検証で再現できず、継電器室でのジャンパー線英語版による人為的接続の想定ケースを列挙するにとどまった[15][注 14]

両社の無認可改造

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事故の発端となった信楽駅の信号不具合の遠因は、信楽高原鐵道とJR西日本がそれぞれ別個に、近畿運輸局の認可を得ずに行った信号制御の改造と、両社の意思疎通の欠如にあった。

JRからの直通列車が貴生川駅に着くのが遅れ、信楽駅から貴生川駅に向かう列車の方が早く小野谷信号場に到着した場合、小野谷信号場への到着で貴生川駅 - 小野谷信号場間の運転方向が貴生川方向に切り替わり、上り列車が貴生川駅まで到着できてしまう。すると遅れて着いた直通列車は貴生川駅で足止めされてしまい、単線であるJR草津線を走る他の列車にまで影響を及ぼす事態となる[注 15]。この問題の解決策について関係会社間での小野谷信号場の信号システムの仕様の打ち合わせ時にJR西日本側から、小野谷信号場の上り出発信号機を抑止する機能の実装として、JR西日本亀山CTCセンター(亀山CTC)に方向優先テコを設置するという提案がなされた。しかし会議に同席した信楽高原鐵道側の信号システムの設計会社から、JR西日本が信楽高原鐵道の信号機を操作するという信号設備のタブーを指摘され、その場で方向優先テコの設置案は取り下げられた。それを受け、会議では運行管理権の原則どおり、亀山CTCと信楽駅間との直通電話の設置と、信楽駅からの操作で上り列車を小野谷信号場に抑止するボタンを設置し取り扱うという合意を得た[19]

こうしてJR西日本が当初提案した方向優先テコ設置はいったん取り下げられたはずだったが、後日、JR西日本は信楽高原鐵道に無断でかつ、運輸局の認可を受けることなく、当初案通り亀山CTCに方向優先テコを無届出で設置した[20][21][注 16][注 17][注 18]。またJR西日本は方向優先テコにより機能を果たせるとして、信楽高原鐵道が工事担当する信号メーカーの工場へ指示し、先の合意を実行するための信楽駅の制御盤上の抑止テコを外させた[21][23]。ところがJR西日本が設置した方向優先テコは信楽方向に運転方向を設定しなければ機能しないものであった[24]。そのため亀山CTCの運転指令員は一度貴生川駅の出発信号機を青にし、運転方向が信楽方向になったのを確認した後に方向優先テコを入れ、その後、貴生川駅の出発信号機を再び赤にする操作を強いられた[注 19]

一方で信楽高原鐵道も検査合格の日である1991年3月8日に無認可改造を行っていた。小野谷信号場は峠に位置するため、場内信号機手前の地点にあった信号制御点では上り・下り双方の列車とも急勾配を登り切る前に減速を余儀なくされる(場内信号機の定位は赤信号のためATSが作動し、登坂中にいったんブレーキ操作をしなければならない)。急勾配に加えカーブによる速度制限もあり運転士の間からクレームが付いたため[注 20]、両方の単線区間において両端駅から小野谷信号場への方向設定が行われた時点で小野谷信号場の場内信号機を警戒信号にするよう改造を行なった。さらに信楽駅到着の列車の進入をスムーズにするために、認可された信号制御システムは信楽駅手前の地点通過により場内信号機に進入許可を出すものであったものを改造し、小野谷信号場 - 信楽駅間の進路が信楽方向であれば信楽駅の場内信号機が進入許可を出すように改造した[25][26][27][注 21]

両社の無認可改造は両社間での相互チェックを経ることはもちろん、結線図・連動図表の交換すらしなかった。しかも両社とも「小規模な工事」だとして自社内での連動会議・結線会議も十分に行われることはなかった。

こうした両社の無認可改造の結果、貴生川駅 - 小野谷信号場間に列車が在線中に亀山CTCで方向優先テコを扱うと、その機能により小野谷信号場で一度反位になった下り線場内信号機が定位に戻らないことから、反位片鎖錠の関係にある出発信号機は反位のまま戻らなくなった(ただし列車在線中は赤信号を現示する)。その結果、列車の進行につれて方向優先テコの信号が信楽駅にまで伝播し、貴生川駅から信楽駅に至るまで運転方向が下りに固定されてしまうという、JR西日本の意図しない結果になった。このため事故当日の信楽駅の信号機も、方向優先テコを引かれた状態で先行した下り列車によって設定された運転方向が信楽駅到着後も解除されず運転方向が下りのまま固定されてしまった。したがって、逆向きの上りである信楽駅の出発信号機は赤のまま変わらなくなってしまった。

事故当日が5月3日の再現であれば、仮に信楽駅から上り列車が出発信号機の赤信号を無視して発車しても誤出発検知リレーが作動し、小野谷信号場の下り出発信号機が赤になるはずであった。しかし5月3日の時とは異なり、継電器室での作業により誤出発検知信号が途切れてしまった。運転方向が下り(小野谷信号場から信楽駅方向)のまま在線状態はクリアされていたため、自動進路制御装置の機能によりJRの直通列車は小野谷信号場を青信号で通過し単線区間に入り、信楽発の列車と衝突することになった。よしんば誤出発検知装置が正常に機能したとしても、信楽駅からの上り534D列車の出発が遅れ、誤出発検知装置が作動する前に下り501D列車が小野谷信号場に先着していれば、もはや対向列車は止める術はない。強引な上り列車の出発が時間的に間に合わなかった可能性を刑事裁判での判決は指摘している。

異常時の運用方法の未整備・教育訓練の不足

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特殊自動閉塞に改修前の信楽線は全区間が一閉塞の票券閉塞式であり、自動閉塞を前提とした代用閉塞の必要性は極めて低かった。このことから信楽高原鐵道の従業員は異常時における代用閉塞の訓練を受ける必要性の認識が薄く、閉塞区間が増えた設備改修後に必要なはずの代用閉塞の実地訓練を行わなかった。行き違い設備を追加する改修工事に着手したのが1990年5月、竣工検査が世界陶芸祭の開催直前である1991年3月であり、ハード面だけでなく運用細則などソフト面においても文字通り突貫工事であった。しかも信楽高原鐵道の要員不足からJR西日本の乗務員に対する乗り入れ教育訓練においては、信楽高原鐵道で講習を受けたJR西日本の電車区・車掌区のそれぞれ区長・助役が、乗り入れる乗務員の教育訓練を代行するものであった[注 22]。それ故にJR西日本の現業員には信楽高原鐵道の運転取扱心得の教育をはじめ、信楽高原鐵道特有の線路・信号設備、運転取扱、指揮命令系統など十分に周知徹底されず、特に異常時における運転整理の手順については詳細を学ぶ機会はなかった。異常時の訓練は最後まで行われないまま放置され、JR西日本の運転士・車掌にとって異常時におけるマニュアルは事実上、ない状態であった。そして異常時の対応は都度、信楽高原鐵道に聞くようにという泥縄的なものだった。前述のように運用開始後に信号トラブルに直面した後も、正規の指導通信式による代用閉塞の取り扱いを行わないまま運転させていた。いずれの機会においても改めて代用閉塞の訓練を実施することはなく、むしろ形式だけの代用閉塞どころか、ダイヤのみに頼る閉塞無視の運転が信号故障時の運転の実際であった[28]

報告・情報伝達体制の未確立

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信号システムの供用開始前からトラブルはあったものの上層部への報告はなかった。また閉塞取り扱い違反や信号故障、列車遅延ならびに運休について、所轄の運輸局への報告が義務付けられているにもかかわらず、両社は必要な報告を怠った。輸送力増強の要請を受けた直後から乗り入れにあたり、JR西日本と信楽高原鐵道は会合の場を持ち、それに必要な契約は交わしたものの、写しを現業部門に交付することもなく、また契約の詳細に至るまで乗務員に周知徹底されることはなかった。それに加え両社の運転取扱心得の比較対照も行われなかったことが、後に裁判において指摘されている。教育訓練の拙さもあり、JR西日本の運転士の中には「信楽高原鐵道線内での運転取扱心得はJR西日本のものと同じ」という言葉を信じたままの者もいた。教育訓練が不十分な中で信号トラブルが相次いだが、彼らは信楽高原鐵道の信号トラブルも、また職員の代用閉塞取扱の規定違反も上役に報告することなく、その場限りとなってしまっていた。

運転指令と各列車間の連絡手段については列車無線周波数が違うことから、JR西日本の乗務員と信楽駅ならびに対向する信楽高原鐵道の乗務員とでは、無線通話が行えなかった。このためJR西日本側では、信楽高原鐵道線への入線時に無線の電源を切り、代わりに車載の可搬式の列車電話を使うこととなっていた。ところが小野谷信号場で赤信号のまま待たされた運転士が、実際に連絡用の列車電話機を使おうと線路に降りると、接続箱が施錠されていて使えなかった。そればかりか信号の停止措置が取られないまま、小野谷信号場にて赤信号を表示していた上り出発信号機が突然青信号に変わり、直後に赤信号に戻るという現象を現認したにもかかわらず、その異常事態が報告されることはなかった[29][30][注 23]

さらに事故前の5月7日には、亀山CTCの指令員が出発信号機のテコを定刻になっても引かず、また運転士も出発信号機の赤信号を見落としたまま発車してしまい、自動列車停止装置(ATS)が作動した。貴生川駅を出てすぐのところにある虫生野踏切が閉鎖されていないことから誤出発だったと運転士は認識し、貴生川駅員の誘導により列車を後退させたが、既に対向列車が小野谷信号場に接近しており再出発できず、この列車を運休とした[31][注 24]。列車の運休は所轄の運輸局への事後報告が必要であるにもかかわらず、両社はその前の5月3日にあった信楽駅での信号取扱ミスによる遅延ともども、近畿運輸局に運休の報告はせずうやむやにしてしまっていた[31]。これらのJR西日本の情報収集及び報告体制の不備による過失も、裁判において認定されている。

信楽高原鐵道の社内事情と押し寄せる乗客

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信楽高原鐵道は第三セクターで、経営陣が滋賀県庁や町役場の出身者であったことから鉄道そのものに対する技術的知識は全くなく、運行保安に対する意識や知識も欠如していた。開催直前に非常勤に退いていた鉄道主任技術者が退職し、その補充要員をスカウトすることも、社内から信号システムの技術者を迎えることもなく、信号システム施工業者の技術者を会期中に駐在させる対応で済ませるほどに信楽高原鐵道には人員・予算ともに余裕がない状態だった[32][33]。また代用閉塞の実施には多くの人員が必要になるが、会期前の打ち合わせから人員が事実上確保できないほどだった[注 25]

加えて事故当時は「世界陶芸祭」の来場客輸送に追われていた。会期中の昼間は小野谷信号場での交換を必ず行うネットダイヤであり、背景に記述したとおり定時運行は来場客輸送には絶対の条件だった。臨時の人員に加え、信号システムの保守に来ていた技術者まで動員して乗客をさばいていたほど信楽駅は混雑しており[33][34]、社内の指揮命令系統は実質上、乗り入れについての交渉窓口に立った業務課長が仕切っていた状態だった[注 26]。この結果、5月3日と事故当日の両日とも代用閉塞を手順通り行うには人員が全く不足していた。この状況で予期せぬ信号トラブルが発生したため、信楽駅は事実上パニック状態であった。しかも事故当日は、運行時間中に信号系を修理するという重大な違反を犯している。代用閉塞での運転を決定して小野谷信号場まで要員を自動車で派遣したが、道路の渋滞により現地にたどり着けなかった。信楽高原鐵道は代用閉塞の準備が整わないまま上り534D列車を発車させ、おそらくは継電器室での作業により誤出発検知装置が機能を失って対向列車は小野谷信号場を越え、正面衝突事故になった。

裁判

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刑事裁判

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1992年12月3日、滋賀県警察本部は事故当日の信楽高原鐵道の駅長と運転主任の2名、同じく事故当日に信号の修理を続けた信号設備会社の技師1名を逮捕し、この事故で信楽高原鐵道の車両に乗り込み死亡した3名を被疑者死亡として書類送検した。その一方でJR西日本の関係者は遺族会の告訴・告発にもかかわらず不起訴処分となった[注 27]。事故の直接原因は信楽高原鐵道の列車運行規程違反であったことは疑いの余地がなく、逮捕された信楽高原鐵道の社員2人と信号設備会社の社員1人が、業務上過失致死傷罪などで大津地方裁判所から執行猶予付きの有罪判決を言い渡され確定した[判決文 1]

また、これとは別に運輸省(現:国土交通省近畿運輸局の認可を受けずに無断で信号設備を改修したとして、信楽高原鐵道とJR西日本の双方が鉄道事業法違反に問われ、先に確定していた。この刑事記録が後述の民事裁判で遺族弁護団の手に渡り、民事裁判で活用されることとなった[35]

民事裁判

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刑事裁判ではJR西日本の関係者は起訴されず、遺族は失望の念を禁じ得なかった。また遺族の要請に応じ4度にわたり信楽高原鐵道・JR西日本合同で事故説明会を開催したが、信楽高原鐵道は社長の出席があったもののJR西日本の角田達郎社長は出席に応じなかった[36]。とりわけ第1回の事故説明会の開催直前にスクープされた月刊誌『プレジデント』の記事の質問に対して[37][38]、JR西日本側の回答の歯切れが悪く遺族の心証を害したこと、しかも一周忌法要でのJR西日本角田社長の発言が遺族の心証を逆撫でしたこともあり、遺族会は特にJR西日本の法的責任を明らかにすべく、1993年10月14日、信楽高原鐵道及びJR西日本の両社を相手取って提訴した[39]

1999年(平成11年)3月29日、大津地方裁判所は両社の共同不法行為を認め、両社に対し過失を認める判決を下した[判決文 2][40]。信楽高原鐵道は控訴せず、JR西日本のみが控訴したが2002年(平成14年)12月26日、大阪高等裁判所は控訴を棄却し、同社の過失が改めて認定された。JR西日本は上告せず、信楽高原鐵道とJR西日本の両社の過失を認定する判決が2003年1月10日に確定した[判決文 3][41][42][注 28]

補償金の分担

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信楽高原鐵道は3億円の賠償保険契約(車両損害保険を含む)を締結していたが、保険金の額はイベント開催で乗客が増加することが見込まれたにもかかわらず増額されなかった[43][資料 1]。補償費用を信楽高原鐵道単体で支弁することが資金面からほぼ不可能だったことから、JR西日本・信楽高原鐵道・信楽町・滋賀県の四者で協定を結んだ。JR西日本・信楽高原鐵道は、犠牲者補償にかかる費用と事故復旧にかかる費用とを協力して立て替えることにし、信楽高原鐵道に対しJR西日本は社員の応援、当面の費用の立替を行うことに合意した。また信楽町・滋賀県は職員の応援の他、信楽高原鐵道への資金面の応援を文面に滲ませた上で応援を行うことにした[注 29]。この協定により犠牲者の補償に関しては信楽高原鐵道・JR西日本が双方折半して支払いを行うこととし、責任割合が確定した時点で事故復旧等費用とともに精算することとなった。

民事裁判の終結を受け補償金の総額は確定したものの、その負担割合についてはJR西日本・信楽高原鐵道双方で折り合いがつかなかった。2004年4月19日、JR西日本は大津簡易裁判所調停を申し立て、合計17回調停の場を持ったが調停不成立に終わった。それを受け、2008年(平成20年)6月14日、JR西日本は信楽高原鐵道と、同鉄道に出資している滋賀県や甲賀市に対し、先に四者で結んだ協定を根拠として約25億3000万円の支払いを求め大阪地方裁判所に訴訟した[報道 4]。その内容は、被害者や遺族への補償に関係した費用等約55億7000万円のうち、JR西日本の責任割合を1割とし、JR西日本が過分に支払った額を返還するよう求めたものだった。裁判においてJR西日本は、事故の責任の大半が信楽高原鐵道側にあるためと主張した。この訴訟を受けて信楽高原鐡道の北川啓一顧問らはJR西日本の主張に対し、これまでの裁判でJR西日本にも責任があると指摘し、その主張は責任を認めていないも同然であると非難[報道 5]、また滋賀県の嘉田由紀子知事も「被災者補償も(JR西日本と信楽高原鐵道の)折半負担で終了しており、さらに負担することは県民の理解が得られない」とコメントした。

2011年4月27日、大阪地裁は過失割合についてJR西日本側が3割、信楽高原鐡道が7割とし、費用を精査した上でJR西日本に信楽高原鐡道への約11億1400万円の賠償請求権を認める一方で、JR西日本と滋賀県・甲賀市との間には損害担保契約が締結されていなかったとして、滋賀県や甲賀市に対する請求を棄却する判決を言い渡した[判決文 4][報道 6][報道 7][報道 8]。判決ではJR西日本側の過失を3割としたことについて、信楽高原鐡道の見切り発車を最大の過失とした上で、訴訟の争点となったJR西日本が設置した方向優先てこについて、現場を混乱に陥る原因であると改めて指摘した。またJR西日本の運転士については小野谷信号所に待機しているはずの対向列車がいないことを認識していたにもかかわらず、小野谷信号場下り出発信号に従って出発した点につき改めて注意義務違反を認定した。その他、JR西日本の信号システムに関する注意義務違反、教育・訓練の義務違反、報告義務及び報告体制確立義務違反も同時に認定している。なおJR西日本に請求権を認めた約11億1400万円については、JR西日本が請求根拠とした約55億7000万円のうち人件費などを控除した約50億円のうち、JR西日本が過分に負担した費用部分である。

この判決を受け訴えた側のJR西日本は控訴しない方針を示し、また信楽高原鐡道も2011年5月10日、臨時取締役会と臨時株主総会を開き控訴しない方針を決め、判決が確定した。同時にJR西日本は、裁判で認められた信楽高原鐡道への賠償請求権を放棄することを表明した[報道 9][報道 10][報道 11][報道 12][報道 13]

影響

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この事故の後、鉄道会社間相互で行われる直通運転に対して鉄道車両と運転方法の安全性など鉄道運転業務面の問題点が指摘されるようになった。また、この事故の遺族の運動により、鉄道の分野での事故調査委員会が初めて設けられるようになった。

鉄道会社間の直通運転

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有田鉄道などでは従来行ってきたJRへの定期列車乗り入れを廃止した。

また、鹿島臨海鉄道JR東日本の間における「ビーチイン大洗ひたち」号(当初予定の大洗駅までの直通を水戸駅での接続・乗り換えに変更)など、臨時列車におけるJRと私鉄第三セクター鉄道間の直通運転も、不測の事態への対処がしにくいということで、事故を契機に多くが中止された(投資の割に利用客が少ないという、費用対効果の面もあったとされている)。

さらに直通運転に関しては、周到な用意と訓練を行うことが求められるようになり、また従来は直通運転の相手先まで乗務員がそのまま乗務していることもあったが、事故後は自社線のみ乗務することが多くなった。

この乗務の一例を挙げると、2005年日本国際博覧会の輸送ではJR東海中央本線 - 愛知環状鉄道線直通列車(エキスポシャトル)に関し、高蔵寺駅にて業務交代を行った。また、事故当時、北近畿タンゴ鉄道(現:京都丹後鉄道)では、乗り入れ時に運転士の交代を行っている例として、マスコミの取材を受けていたことがあった(JR宮津線時代から山陰本線との乗り入れ運転が多く、この事故後も特急は北近畿タンゴ鉄道・JR双方が相手側線区との乗り入れを継続して行っている)。

事故後の信楽高原鐵道

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信楽高原鐵道ではこの事故後「世界陶芸祭」に対する輸送力強化のために多額の費用をかけ新設した小野谷信号場を使用中止とした。また、小野谷信号場使用時代は特殊自動閉塞だったものを、貴生川駅 - 信楽駅間全線を一閉塞とした従前のスタフ閉塞として、1991年12月8日に運行を再開した[44]。2021年現在もこの一閉塞運行は続けられており、小野谷信号場使用当時は1日26往復、最小27分であった運転間隔が現在は1日15往復、最小1時間間隔となっている。また、当時の社員数20名のうち事故で5名の社員を失い、事故を起こした編成のうち、2両の車両が廃車された(JR車も1両が廃車)。

なお「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」は会期を5月26日まで残していたが、事故翌日から開催を休止し、そのまま終了となった。

さらに事故の補償で巨額の補償金支払いに迫られた信楽高原鐡道は、滋賀県および信楽町からの貸付金20億円余りを補償に充てた。また無利子貸付基金の受け入れにより、基金の運用益から貸付金を返済する支援が実施されたが、金利低迷で実らなかった。県・市からの安全対策経費の補填も2004年より実施されたが一連の裁判の終結後、信楽高原鐵道は2012年2月に自力再建を断念し、被害者補償のために借り入れた資金について、借入元の滋賀県と甲賀市に対し、債権の放棄か減額を求めて調停を申し立てる事態になった。2013年2月に滋賀県と甲賀市は債権放棄で受諾する特定調停が成立[報道 14][資料 2][資料 3]。その後、2013年(平成25年)4月1日、地域公共交通の活性化及び再生に関する法律に基づく鉄道事業再構築実施計画により上下分離方式に移行した。信楽高原鐵道が信楽線の第二種鉄道事業者となり、線路や車両等の鉄道施設を無償譲渡された甲賀市が第三種鉄道事業者となった[資料 4][資料 5]

2011年に補償での負担割合を巡るJR西日本と信楽高原鐵道との訴訟が終結し、両社と滋賀県・甲賀市が共同メッセージで安全を宣誓したのを機に、信楽高原鐵道で当時顧問となっていた北川啓一らが中心となって、この事故の教訓をまとめた冊子を編集し、図書館や関係者らに配布する予定だったが、2013年に社長となった正木仙治郎(甲賀市副市長)が「JR西日本を批判した文言がある」などとして、作成に関わった関係者にのみ配布し、冊子の存在を部外秘にしていることが、2022年5月に『毎日新聞』の報道により判明した。有識者や弁護士らからは「公表が事故の風化防止になる」「当事者企業が事故を総括する冊子を作ることは有意義であり、会社として作製を決定した以上、完成した冊子への批判があれば甘んじて受けるべきだし、死蔵しているのは社会的損失だ」との指摘が出ている[報道 2]

車両の見直し

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この事故により、信楽高原鐵道車はSKR202とSKR204が、JR車はキハ58 1023(1967年製造)がそれぞれ廃車となった。このほか、信楽高原鐵道の事故車両であるSKR200形についても(レールバスLE-Carシリーズ)[注 30]、その脆弱性が問題となった。同車種は本来バス向けの車体構造や部品を多数用いて大幅な価格低減[注 31]、徹底的な軽量化による燃費向上を実現した車両で、日本国有鉄道(国鉄)の赤字ローカル線(特定地方交通線)を引き継いで発足した日本各地の第三セクター鉄道各社がこぞって導入していた。

だが、1960年代の国鉄設計であるキハ58系と正面衝突し、原形を留めないほど無残に大破したレールバスの姿は、鉄道業界に大きなショックを与えた。乗用車との衝突による踏切事故のような、比較的小規模な衝突事故などは考慮して設計されていたが、鉄道車両同士の正面衝突のような大規模な事故までは想定しておらず、その上で極端な軽量化が図られたレールバスでは衝突事故時の安全性は低かった。元々は想定寿命の短い車両ではあったが、日本におけるレールバスは1990年代後半頃には大半が淘汰されるに至った。

本事故以降の代替車は、NDCなどのより本来の鉄道車両に近い設計への回帰が進んだ。

事故をめぐる報道

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報道各社の救助活動の阻害

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事故現場には警察のヘリコプターの他、報道各社のヘリコプターも乱れ飛んだ。そのヘリコプターの爆音が現場で救出・処置にあたる救急隊の指示の声を聞こえにくくさせ活動を阻害した。また報道関係者が列車内にまで入り込んで取材活動をしたり、事故現場直近の紫香楽病院に殺到したりするなど、救出活動の阻害行為が複数の救助当事者より指摘された[45]。なお報道ヘリの活動については阪神・淡路大震災およびJR福知山線脱線事故においても再び指摘されることとなった。

なお当時はヘリコプターによる患者搬送は一般のヘリコプターでは不可能であったが、現場近くの臨時ヘリポートから山向こうの滋賀医科大学医学部附属病院までヘリコプターによる重症者の搬送が行われた。搬送は奏功したが、受け入れ先のヘリポート不備、代替ヘリポートの使用困難等から課題を残した[46][注 32]

その他

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この事故が起こった5月14日の夜には大相撲横綱千代の富士が現役引退を表明したため、テレビ局などの報道機関にとっては事故の報道と横綱の引退報道が相まって、多忙をきわめた一日となった。

遺族の活動

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犠牲者追悼法要当日の慰霊碑(2012年撮影)

鉄道安全推進会議(TASK)

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1993年(平成5年)8月、鉄道安全推進会議(TASK)が設立された(初代会長は臼井和男)。鉄道安全推進会議は事故の責任を追及する活動とは一線を画し、鉄道会社とも協力して、再発防止を最終目標に公平で独立した鉄道事故の調査機関設置を国に求め活動を行った[報道 15][報道 16]

2018年(平成30年)5月2日、遺族会代表世話人と訴訟原告団長を務めた吉崎俊三が死去した[報道 17]。吉崎世話人は妻をこの事故で亡くしている。1991年(平成3年)7月、遺族会を結成し代表世話人となる。1993年(平成5年)8月、他の遺族らと民間団体「鉄道安全推進会議」(TASK)を結成。2005年(平成17年)から2014年(平成26年)まで同会議の代表(議長)を務めた。

2019年6月、鉄道安全推進会議は解散決議を行い活動を終えた[報道 15][報道 16]

福知山線事故遺族らとの交流

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吉崎は、2005年に起きたJR福知山線脱線事故後、一人娘を亡くした藤崎光子と会い、信楽事故で「僕たちが徹底的に原因を究明しなかったから、事故が起こって残念でたまりません。申し訳ない」と泣いて詫び「遺族一人一人では立ち向かえない」と助言し、藤崎は経営していた印刷会社を畳んで遺族のネットワークを結成[報道 18]。藤崎は、重大事故を起こした法人やその代表者の刑事責任を問う「組織罰」制度の導入を訴えているほか、国内外の他の重大事故の犠牲者遺族と交流している(日本航空123便墜落事故韓国大邱地下鉄放火事件セウォル号沈没事故台湾北廻線太魯閣号脱線事故[報道 18]

鉄道事故調の設置・被害者救済に関する活動

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鉄道安全推進会議の中心メンバーは、欧米の事故調査機関を視察し、運輸大臣(当時)らに鉄道事故を対象にした独立調査機関の設置を要望し、2001年(平成13年)の国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(のち運輸安全委員会)の設置につなげた[報道 15]

また、鉄道安全推進会議は日本航空123便墜落事故明石花火大会歩道橋事故JR福知山線脱線事故等の遺族らとも連携し、事故被害者の支援充実や体制強化を国に求める運動を行った[報道 19]

セーフティーしがらき

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1997年(平成9年)4月30日信楽駅敷地内に事故に関する資料を展示した「セーフティーしがらき」がオープンした[47][48]。これは「事故を風化させたくない」という遺族の要望を受けたもので、一般人も見学できる。また非公開ではあるものの、事故車となったSKR200形の車両の一部や事故関連の部品などは、信楽高原鐵道が保管している。

慰霊・追悼

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事故現場近くには慰霊碑が建てられ、事故発生日には遺族とJR西日本、信楽鐡道などによる追悼法要が行われている。事故から30年目の2021年5月14日の法要では、犠牲者の数と同じ42本の蝋燭が灯され、鉄道2社の社長が「安全の鐘」を鳴らした。JR西日本社長の長谷川一明は「事故を風化させず、教訓を引き継いでいきたい」と述べた[49]

参考図書

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  • 網谷りょういち『信楽高原鐵道事故』日本経済評論社、1997年10月20日。ISBN 4-8188-0953-5 
  • JR西日本信楽高原鐡道列車衝突事故犠牲者遺族の会、信楽列車事故被害者弁護団『信楽列車事故 JR西日本と闘った4400日』現代人文社、2005年5月30日。ISBN 4-87798-259-0 
  • 滋賀災害看護研究会『信楽高原鉄道列車衝突事故救護活動報告書』滋賀災害看護研究会、2001年9月。 
  • 佐野眞一『ドキュメント「信楽高原鉄道事故」』プレジデント社〈プレジデント〉、1991年10月、430-439頁。 
  • 鈴木哲法 著、京都新聞社 編『検証信楽列車事故 鉄路安全への教訓』京都新聞出版センター、2004年2月26日。ISBN 4-7638-0530-4 

注釈

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  1. ^ (遺族会 2005)、(鈴木 2004)
  2. ^ 乗客・乗務員あわせてJR西日本側716名、信楽高原鐡道側15名、計731名(鈴木 2004, p. 76)。キハ58系3両の定員が252名であるため、かなりの大混雑であった。
  3. ^ SKR200形(定員98名)の4両連結の編成定員は392人。実施された輸送計画ではJR西日本の車両と運転士を借り、毎時2往復、混雑度150%で片道毎時約1,000人の輸送力を目論んでいた。しかし現実にはそれをもはるかに上回る乗客が殺到した。滋賀県庁職員を主とする滋賀自治体問題研究所の機関誌『しがの住民と自治』1991年6月臨時増刊号によると、輸送要請は前記数値をも上回る毎時1,800人だったとの記述が当時の滋賀県議会議員より寄せられている。
  4. ^ 特殊自動閉塞式は線路に連続した軌道回路がなく、列車の在線は閉塞区間両端の短小軌道回路と状態を記録する保持リレーによって知らされる。
  5. ^ 運転士には信楽線の運転経験を持つもの8名が選ばれた。(鈴木 2004, p. 75)(網谷 1997, pp. 102–105)
  6. ^ a b 当初の設計では信号制御点通過時において次区間の閉塞を確保できたら場内信号機も青信号にする設計だった。ところが試運転中に運転士から上り列車の小野谷信号場への進入時に青信号であると分岐器の通過が危険だとして、上り場内信号機については進入許可は常時警戒信号にする改造提案がなされ、無認可で改造された。#両社の無認可改造にある信楽高原鐵道の改造の、計5件のうちの一つである。これらの無認可改造の過程で上り出発信号機と場内信号機との反位片鎖錠も外された。
  7. ^ しかしJR西日本の運転士は、回転灯が点灯した時の扱いはおろか、回転灯の存在そのものも周知されていなかった。
  8. ^ 第三セクターである信楽高原鐵道の母体の一つである。
  9. ^ 信楽高原鐵道の分担分は西武鉄道系の会社が請け負い(近江鉄道は西武鉄道グループの一員)、JR西日本の担当分はJR西日本の関連会社が請け負った。(網谷 1997, pp. 208–209)(佐野 1991, p. 435)
  10. ^ JR西日本は信号設備竣工検査直前の1991年3月5日深夜から6日早朝にかけ連動検査を行い、自主検査のチェック表を信楽高原鐵道の信号設備の竣工検査に来た検査官に渡している。しかし肝心の自主検査のチェック表が未決裁でかつ、項目漏れが約80箇所にも及ぶ杜撰なものであった。検査合格後の3月16日に方向優先テコの実装の不備が発覚し、後に補償金負担割合を巡る民事裁判においてもこれらの事実が認定された。
  11. ^ 列車が赤信号を無視して発車した場合、対向する出発信号機を赤に変えて衝突を防ぐ装置。
  12. ^ 当人は事故で死亡したため推測は避けるべきだが、(佐野 1991, p. 433)のところで著者の佐野は、全く同じケースだった5月3日のトラブルのことを挙げている。
  13. ^ 小野谷下り場内信号機が反位(進行現示)の場合、小野谷出発信号機が反位から定位(停止現示)に復位できない。
  14. ^ 刑事裁判の判決文では上り534Dが誤出発検知装置の2つの短小軌道回路を踏んだ時には下り501D列車(世界陶芸祭号)はすでに小野谷信号場に到着したとされ、もはや下り列車を抑止することはできなかったと結論づけている。
  15. ^ 貴生川駅は信楽線の着発線が1本しか無く、草津線のホームも2面しか無いため直通列車を貴生川駅で抑止すると貴生川駅での草津線の列車交換が不能になり、行き違い駅の大幅な変更を余儀なくされる。
  16. ^ JR西日本では当時、鉄道電気設計監理者が選任されていたため設計監理者の確認を受ければ、運輸局へは届け出だけで済んだ。しかしこの改造についてJR西日本の鉄道電気設計監理者の確認すら受けなかった。したがって実質無認可工事である。
  17. ^ 補償金分担を争う裁判では連動図表・結線図の相互不交換を指摘し、方向優先テコの無断設置をJR西日本の不法行為として採用している。
  18. ^ JR西日本ではこの事故後の2019年11月にも、金沢支社管内における在来線改良工事で、鉄道事業法に基づく認可申請手続きを行わず認可書を偽造していた行為2件、日本貨物鉄道(JR貨物)などの第二種鉄道事業者に鉄道事業法などに基づく承諾を得なかった行為4件、上司である工事設計責任者の確認手続き(設計確認)を得ないまま確認書を偽造ないし作成を省略した行為37件、計43件の違反行為が発覚している[22]
  19. ^ 事故当日も出発列車がないにもかかわらず貴生川駅の出発信号機を青にし、直後に取り消している(鈴木 2004, pp. 88–89)と書いている。一方、(佐野 1991, p. 436)の記述では、先行列車である下り531D列車の出発時刻である9時44分に方向優先テコを引き、10時7分に戻しまた、10時8分に引き直したとある。出発列車がないのに貴生川駅出発信号機を青にするのを覆い隠すべく先行列車を使って方向優先テコを引いたとも言える。
  20. ^ 貴生川駅から小野谷信号場に向かう上り坂では最大33‰の勾配と急カーブとが連続し、曲線制限及び抵抗も加わってフルノッチでも40km/hを出せなかった。降雨や落葉でレールの粘着係数が下がるとスリップして均衡速度はさらに下がり、定時運行に支障をきたすほどだった(鈴木 2004, p. 141)。
  21. ^ この改造で小野谷信号場上り出発信号機と上り場内信号機との反位片鎖錠は撤去された。また小野谷信号場上り場内信号機の制御に信楽駅の出発信号機を参照させる改造も行い、計5点の改造を無認可で信楽高原鐵道は行った。これらの改造は信楽高原鐵道からJR西日本に知らされることはなかった。なおこの改造は、設備の供用開始が迫っていたことから信号制御点の移設に必要なケーブルは手配不能だったゆえの付け焼き刃的改造であり、配線を変更した工事業者の「もし元に戻せと指示されたら、2時間もあれば十分、元に戻せる程度の配線変更」だとの供述がある。(鈴木 2004, p. 93)(網谷 1997, p. 235)
  22. ^ 後に補償金の分担をめぐる裁判において、区長・助役ではなく打ち合わせ時に同席していたJR西日本の指導運転士が代わりに教官を務めていたことが明らかになった。
  23. ^ 鉄道事故等報告規則により閉塞が確保されないままなされた青信号現示は地方運輸局への速報および書面による報告義務がある(第4条)。これらの報告は第一義的には信楽高原鐵道がなすべきこととは言え、裁判においてはJR西日本の情報収集体制の不備が繰り返し指摘されている。
  24. ^ 後述の補償金の分担を巡る裁判において、この事実の記載が判決文中にある。
  25. ^ 事前の乗り入れ会議にて、業務部長自ら人員不足で代用閉塞に係る人員を用意することを渋っている。最終的には代用閉塞に必要な人員は信楽高原鐵道で用意するとしたが、代用閉塞の実行時は事故時も含め手順違反を繰り返している。なお事故当日小野谷信号場に向かった職員2名のうち1名は泊まり明けだった(鈴木 2004, pp. 35–36)。
  26. ^ 列車の運転主任は業務課の社員が輪番で勤め、当番でない社員は出札・集改札業務に従事していた。
  27. ^ うち方向優先てこについてのマニュアルの改ざんについては犯罪の存在が認められるとした上で起訴猶予処分となっている。(遺族会 2005, pp. 68–70)
  28. ^ マスコミには年内に控訴しない旨、記者会見を開いたが、遺族関係者は会見以前に電話で知らされたにとどまった。判決確定を受け、JR西日本の社長が正式に謝罪したのは判決確定後3ヶ月経った2003年3月15日のことである(遺族会 2005, pp. 171–175)
  29. ^ 実際には財政援助制限法の制約もあり滋賀県と信楽町は、犠牲者への補償金にあてる直接の貸付と、その貸付金の返済を行うための基金運用資金の無利子貸付を行った(影響の項を参照)。
  30. ^ なおSKR200形はLE-Carの雰囲気を残したLE-DCの採用第一号だったが、その後の車両はより鉄道車両的な構体を持つ鉄道車両になった。
  31. ^ 1両約5000万円。補償金分担裁判の判決で記述がある。
  32. ^ 滋賀医科大学のグラウンドに臨時ヘリポートを用意し救急車搬送も含め計7名を受け入れた。臨時ヘリポートからストレッチャーで搬送するにはグラウンドの不整地により搬送に支障をきたしたことから、ヘリポートで救急車に乗り換えて搬送する手段を取った(看護研究会 2001, pp. 39–42)。なお滋賀医科大学附属病院にヘリポートが完成するのは2014年6月11日のことである。(附属病院にヘリポートが完成しました。”. 2015年7月3日閲覧。

出典

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判例となった判決文

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  1. ^ 「大津地裁判決 2000年3月24日」『判例時報』1717号25頁
  2. ^ 「大津地裁判決 1999年3月29日」『判例時報』1688号3頁および『判例タイムズ』1010号96頁
  3. ^ 大阪高裁判決 2002年12月26日 、平成11(ネ)1954、『損害賠償請求控訴』。『判例時報』1812号3頁/『判例タイムズ』1116号93頁
  4. ^ 大阪地裁判決 2011年4月27日 、平成20(ワ)7450、『求償債権等請求事件』。

報道

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  1. ^ 「JRに3割責任」信楽高原鉄道事故の負担金 大阪地裁判決 (1ページ目)”. 産経新聞 (2011年4月27日). 2011年5月10日閲覧。 「JRに3割責任」信楽高原鉄道事故の負担金 大阪地裁判決 (2ページ目)”. 産経新聞 (2011年4月27日). 2011年5月10日閲覧。
  2. ^ a b 信楽鉄道事故31年:222ページの「総括」社外秘のまま 「JR西に批判的」社長問題視『毎日新聞』夕刊2022年5月19日(社会面)2023年5月7日閲覧
  3. ^ 姿消すあの日「青」だった信号機 信楽高原鉄道事故30年”. 産経ニュース (2021年5月17日). 2023年1月3日閲覧。
  4. ^ JR西、信楽鉄道などを提訴──事故の補償負担増を要求”. 日本経済新聞 (2008年6月15日). 2011年6月19日閲覧。
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  7. ^ 信楽事故「JR西の責任3割」 大阪地裁、支払い命じる 朝日新聞 2011年4月27日
  8. ^ 苅田伸宏 (2011年4月28日). “信楽高原鉄道事故:JR西に責任3割 設備の無断設置一因--大阪地裁判決”. 毎日新聞. 2011年5月31日閲覧。
  9. ^ 柴崎達矢 (2011年5月10日). “信楽高原鉄道事故:SKR側が補償費受け入れ 控訴はせず”. 毎日新聞. 2011年5月31日閲覧。
  10. ^ 信楽事故訴訟、判決確定へ”. ロイター (2011年5月10日). 2015年6月27日閲覧。
  11. ^ 「信楽鉄道事故 責任7割判決 SKR受け入れ」『朝日新聞』夕刊2011年5月10日付11面(大阪第4版)
  12. ^ 「信楽事故訴訟 SKR控訴せず 事故20年 関連裁判終結へ 補償割合『7対3』」『京都新聞』夕刊2011年5月10日付1面(滋賀地方版第6版)
  13. ^ 「信楽訴訟 JR西 全債権を放棄」『京都新聞』朝刊2011年5月11日付1面(滋賀地方版第16版)
  14. ^ 杉山淳一 (2014年11月28日). “杉山淳一の時事日想:たび重なる悲運を乗り越えて前へ進もう 運行再開の信楽高原鐵道に期待 (3/5)”. Business Media 誠. 2015年1月11日閲覧。
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  16. ^ a b “信楽高原鉄道事故の遺族らの団体「TASK」が解散総会”. 『毎日新聞』 (毎日新聞社). (2019年6月23日). オリジナルの2019年6月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190623105735/https://mainichi.jp/articles/20190623/k00/00m/040/129000c 2019年7月11日閲覧。 
  17. ^ 【訃報】信楽高原鉄道事故遺族、吉崎俊三さん84歳『毎日新聞』2018年5月3日(2021年5月20日閲覧)
  18. ^ a b 「組織罰」創設訴える 他者と連帯 福知山線事故遺族『毎日新聞』朝刊2023年4月25日(社会面)2023年5月13日閲覧
  19. ^ 「信楽高原鉄道事故遺族の吉崎俊三さんが死去」[リンク切れ]神戸新聞NEXT(2018年5月3日)

発表資料等

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  2. ^ 信楽高原鐵道(株)の特定調停について” (pdf). 政策・土木交通常任委員会資料. 滋賀県議会 (2013年2月6日). 2015年6月28日閲覧。
  3. ^ 滋賀県議会 平成25年2月定例会 議第77号” (pdf). 滋賀県議会 (2013年2月14日). 2015年7月9日閲覧。
  4. ^ 議会 平成25年2月定例会 議第77号” (pdf). 甲賀市議会 (2013年5月1日). 2015年7月9日閲覧。
  5. ^ 地域公共交通の活性化及び再生に関する法律に基づく鉄道事業再構築実施計画の認定について〔信楽高原鐵道信楽線〕” (pdf). 国土交通省 (2013年3月1日). 2015年6月28日閲覧。

書籍中の出典

[編集]
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  18. ^ (遺族会 2005, p. 117)ただし記述に鑑定書の誤転記が見られるためその前の図解ページ(遺族会 2005, pp. 114–115)から欠落部を補った。なお1992年(平成4年)12月の滋賀県定例議会において、滋賀県警の警察部長が同一の証言をしている。この事実は後の補償金分担裁判においても認定された。
  19. ^ (網谷 1997, pp. 211–213)
  20. ^ (遺族会 2005, pp. 109–111)
  21. ^ a b (網谷 1997, pp. 213–214)
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  23. ^ (遺族会 2005, pp. 111–112)
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  49. ^ 信楽事故30年「風化させぬ」追悼法要『読売新聞』朝刊2021年5月15日(社会面)

関連項目

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外部リンク

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