角田達郎
角田 達郎(つのだ たつお、1928年1月18日 - 2006年2月20日)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の初代社長である。
経歴
[編集]東京都出身。東京大学を卒業後、運輸省(現国土交通省)に入省。自動車局長や大臣官房長、海上保安庁長官を歴任した。
1987年4月、国鉄分割民営化に伴い発足した、JR西日本の初代社長に就任。国鉄時代の負債は国鉄清算事業団に引き継いだものの、設備や社員など、必ずしも競争環境に適合しない資産を引き継いでの船出であった。JR西日本は、ローカル交通においては有力な私鉄各社や、長距離輸送については航空会社との激しい競争を展開していた上、不採算なローカル線を多く抱えていたため、人口の多い首都圏を商圏に含むJR東日本や東海道新幹線を有するJR東海に比して、収益構造に問題があった。角田は東海道線や山陽線の新快速の速度を上げ、発着本数を増やすなど、利便性の向上(いわゆるアーバンネットワークの確立)による経営改善を推進した。
社長在任中の1991年5月14日、死者42人、負傷者614名を出した信楽高原鐵道列車正面衝突事故が発生した。謝罪を拒否するなどこの時の対応に遺族らが反発し、社と信楽高原鐵道とを相手取った法廷闘争に発展。これまでの経営改善策に対し「利益を優先し、安全を軽視した」「民営化の弊害が露呈した」との批判も挙がった。
翌1992年、社長職を井手正敬に譲り、会長に就任[1]。1997年に相談役に退いた。2003年に顧問に就任し、JR福知山線脱線事故発生後の2005年6月に退任した。
日本室内楽振興財団の評議員を務めるなど、鉄道事業以外にも精力的に活動した。
2006年2月20日午前2時32分、急性心不全のため横浜市の病院で死去[2]。78歳。2月22日、相模原市内で葬儀が営まれた。
年表
[編集]- 1928年 出生
- 1953年 運輸省に入省
- 1974年 6月、大臣官房政策課長(~1975年7月)
- 1984年 7月、第24代海上保安庁長官(~1985年6月26日)
- 1987年 4月、西日本旅客鉄道(JR西日本)社長に就任
- 1992年 6月24日、JR西日本会長に就任[1]
- 1997年 JR西日本相談役に就任
- 2003年 2月、妻死去
- 2005年 6月、JR西日本顧問を退任
- 2006年 死去
脚注
[編集]- ^ a b “JR7社14年のあゆみ”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 9. (2001年4月2日)
- ^ “角田達郎氏死去/元JR西日本社長”. 四国新聞社 (2006年2月20日). 2020年11月19日閲覧。
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