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「深名線」の版間の差分

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'''深名線'''(しんめいせん)は、かつて[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)/[[日本国有鉄道]](国鉄)が運営していた[[鉄道路線]]([[地方交通線]])である。[[北海道]][[深川市]]にある[[深川駅]]で[[函館本線]]から分岐し、[[雨竜郡]][[幌加内町]]を経て[[名寄市]]にある[[名寄駅]]で[[宗谷本線]]に接続していた。
'''深名線'''(しんめいせん)は、かつて[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)/[[日本国有鉄道]](国鉄)が運営していた[[鉄道路線]]([[地方交通線]])である。[[北海道]][[深川市]]にある[[深川駅]]で[[函館本線]]から分岐し、[[雨竜郡]][[幌加内町]]を経て[[名寄市]]にある[[名寄駅]]で[[宗谷本線]]に接続していた。


[[営業係数]]は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、[[赤字83線]]や[[特定地方交通線]]の廃止論議にもその都度候補にあげられていた。並行道路の未整備を理由に廃止保留となったが、[[国鉄分割民営化]]後に並行道路の整備が進んだことから<ref name="hokkaido-np-1993-12-6">“緊急リポート 深名線廃止 上 経営“息切れ”JR決断 安定基金 低金利で運用益出ず 並行の国・道道整備も一因”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1993年12月6日)</ref>、[[1995年]](平成7年)[[9月4日]]に[[廃線|廃止]]された<ref name="hokkaido-np-1995-9-4">“深名線 もう乗れない… 54年間の歴史に幕”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1995年9月4日)</ref>。
[[営業係数]]は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、[[赤字83線]]や[[特定地方交通線]]の廃止論議にもその都度候補にあげられていた。並行道路の未整備を理由に廃止保留となったが、[[国鉄分割民営化]]後に並行道路の整備が進んだことから<ref name="hokkaido-np-1993-12-6">“緊急リポート 深名線廃止 上 経営“息切れ”JR決断 安定基金 低金利で運用益出ず 並行の国・道道整備も一因”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1993年12月6日)</ref>、[[1995年]](平成7年)[[9月4日]]に[[廃線|廃止]]された<ref name="hokkaido-np-1995-9-4">“深名線 もう乗れない… 54年間の歴史に幕”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1995年9月4日)</ref>。


== 歴史 ==
== 路線データ(廃止時) ==
=== 全通までの経緯 ===
* 管轄(事業種別):北海道旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
深名線の沿線地域とされる[[雨竜川]]上流地域へ、最初の開拓民が[[幌加内町|幌加内]]地域に定着したのは1897年である<ref name="rj183-125"/>。この時点でまず雨竜川沿いに道路が建設され<ref name="rj183-125"/>、その後明治時代末期までに士別や和寒と結ばれる道路が開設され<ref name="rj183-125"/>、幌加内地域の各集落と他の地域を結ぶメインルートとなっていった<ref name="rj183-125"/>。
* 区間([[営業キロ]]):深川 - 幌加内 - 名寄 121.8km
* 駅数:21(起終点駅を含む)
* [[軌間]]:1067mm
* [[複線]]区間:なし(全線[[単線]])
* [[鉄道の電化|電化]]区間:なし(全線[[非電化]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:タブレット閉塞式(末期の朱鞠内-名寄間は票券閉塞式)
*: [[列車交換|交換]]可能駅:2(幌加内、朱鞠内)


この地域における鉄道敷設計画は、1911年に幌加内地域に移住してきた吉利智宏が、たった1人で深川から三股{{Refnest|group="注釈"|その後の朱鞠内地区<ref name="rj183-125"/>。}}を経て音威子府に至る軽便鉄道の建設を請願したのが始まりとされている<ref name="rj330-75"/>{{Refnest|group="注釈"|吉利は鹿児島県日置市東市来町の士族出身で、明治時代の政府内に少なからずの友人知人が存在していた様であるが、たった一人での誓願は例を見ないものであった。吉利には、地方から日本を豊にしていきたい、鷹泊の白金鉱脈、森林資源、水力発電等の思いがあったといわれる。誓願44日後には測量隊が調査に入っている。[[第一次世界大戦]]の影響で着工は[[1922年]](大正11年)となった。この経緯は『鉄路の残響 深名線・71年の記録』(制作:北海道映像記録)に詳しい。}}。これが、周辺地域の多度志・深川などの地域と連帯した運動となり、1916年には「雨竜鉄道期成同盟会」が結成された<ref name="rj183-125"/>。これらの運動を受け、1918年には政府によって深川から三股に至る軽便鉄道の建設が決定した<ref name="rj330-75"/>。なお、この年には雨竜郡上北竜村から幌加内村が独立発足しており、発足時の人口は4,690人であった<ref name="rj183-125"/>。
== 運行形態 ==
=== 国鉄時代 ===
[[1960年代]]のダイヤでは、運行本数が廃止前よりも多く、区間運行や[[夜間滞泊]]も設定されていた。


この鉄道は'''雨竜線'''として1922年に着工し<ref name="rj183-126"/>、深川 - 朱鞠内間を6工区に区分し、他に深川駅構内の拡張工事が行われた<ref name = "北百中_131" />。まず深川駅から多度志駅までの区間が第1工区として1922年(大正11年)12月16日に起工し、1924年(大正13年)9月25日に竣工、10月25日に開通した<ref name="rj183-126"/><ref name = "北百中_131" />。続いて第2工区として、多度志駅から鷹泊駅まで1925年(大正14年)6月16日に起工し、1926年(大正15年)11月10日に開通した<ref name="rj330-75"/><ref name = "北百中_131" />。第3工区となる多度志駅から幌加内駅までの区間は1925年(大正14年)11月16日に起工したが、途中の幌加内トンネルの地質が悪くて難工事となり、1日平均1メートルしか掘削できず、工期を予定より1年伸ばして1929年(昭和4年)5月15日に竣工し、11月8日に開通した<ref name="rj330-75"/><ref name = "北百中_131-132" />。第4工区は幌加内駅から政和駅まで1928年(昭和3年)11月16日に起工し、第5工区はさらに添牛内駅まで11月6日に起工して、どちらも1931年(昭和6年)9月15日に開通し<ref name="rj330-75"/><ref name = "北百中_132" />、第6工区の添牛内駅 - 朱鞠内駅間は1931年(昭和6年)7月13日に起工し、1932年(昭和7年)10月25日に開通<ref name="rj330-75"/><ref name = "北百中_132" />というように小刻みに延長している。深川 - 朱鞠内間の総工費は4,467,778円であった<ref name = "北百中_133" />。また、1931年10月10日付で路線名称が'''幌加内線'''に改称されている<ref name="rj183-126"/>。鉄道建設と並行するように[[雨竜第一ダム|雨竜ダム]]の建設計画が進められており<ref name="rj183-126"/>、1938年に着工した雨竜ダムの建設工事と、貯水に先立って行われた水没地域の森林伐採・木材輸送には幌加内線が使用された<ref name="rj183-126"/>。
[[1980年]][[10月1日]]のダイヤ改正で本数が削減(夜遅くの1本が廃止)され、[[1986年]][[3月3日]]のダイヤ改正では、運行本数は大幅に削減、[[土曜日]]に限り幌加内折り返しの1往復が朱鞠内まで延長運転されていた。


一方、1922年に公布された改正鉄道敷設法の別表第143項には「[[天塩国|天鹽(塩)國]]名寄ヨリ[[石狩国|石狩國]]雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌ニ至ル鐵道」が盛り込まれ<ref name="rj183-126"/>、また1929年からは札沼線の石狩沼田駅から多度志駅を結び、朱鞠内駅から天塩線(当時)佐久駅へを結ぶ札佐線の建設運動が開始されている<ref name="rj183-126"/>。こうした状況下、1935年には'''名雨線'''として名寄駅から朱鞠内駅までの区間が着工され<ref name="rj183-126"/>、全区間を4工区に分けて工事が進められた<ref name = "北百中_133" />。1937年11月10日には名寄駅から初茶志内駅(当時)までが開通した<ref name="rj183-126"/>。さらに、1939年10月10日には初茶志内駅から朱鞠内駅までが開通<ref name="rj330-75"/>、同時に幌加内線と名雨線を統合して'''深名線'''に改称された<ref name="rj330-75"/>。名寄 - 朱鞠内間の総工費は509万4000円であった<ref name = "北百中_134" />。
=== 廃止直前 ===
早朝の深川発と夕方の名寄発が全線直通だったのをのぞき、朱鞠内駅で系統分割されていた。朱鞠内駅での列車の接続はあまり考慮されておらず、7時間以上運行されない時間帯もあった。なお、線内では[[夜間滞泊]]をせず、運用車両(3両)すべてが早朝に深川駅を出て、夜の最終列車で同駅に戻るようにダイヤが組まれていた。このため、早朝の深川発と最終の同駅着の運用では2 - 3両編成で運行し、途中の幌加内と朱鞠内で増解結を行っていた。


こうして、深川駅と名寄駅の間は、函館本線・宗谷本線を経由する旭川周りと、深名線を経由する朱鞠内周りの2経路を有することになった。しかし深名線経由の方が13.4キロメートル長く、途中に25パーミル勾配区間が5か所あり、半径250メートルの曲線も多かったため輸送力が小さく、結局沿線の開発とダムの建設に貢献したに留まった<ref name = "北百中_135" />。
運行本数は深川駅 - 幌加内駅間が1日5往復、幌加内駅 - 朱鞠内駅間が1日3.5往復、朱鞠内駅 - 名寄駅間が1日3往復の運転で、このうち深川 - 名寄間直通は1往復だった。


=== 戦後 ===
車両は[[国鉄キハ56系気動車#キハ53形500番台(501 - 510)|キハ53形500番台]]が使用されていたが、検査時には[[国鉄キハ54系気動車|キハ54形]]、まれに[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形]]が入線することもあった。これらの形式のうち、[[ワンマン運転]]対応工事済みの車両が運転されることもあったが、一度もワンマン運転方式が導入されることはなく、運行最終日まで車掌が乗務して運行していた。
戦後になると、雨竜ダムによって出現した人口湖は観光資源としての価値を評価され「朱鞠内湖」と命名され、深名線沿線唯一の観光地となった<ref name="rj183-125"/>。また、ダム建設終了後も木材輸送は活発な状態で<ref name="rj183-127"/>、沿線地域の中心的交通機関としての役割を果たしていた<ref name="rj183-127"/>。1955年からはレールバスを導入の上で旅客列車の増発が行われ<ref name="rj183-126"/>、それに伴い利用者も増加<ref name="rj183-127"/>、レールバスでは需要に応じきれずに通常の気動車へ置き換えられることになった<ref name="rj183-127"/>。また、1955年9月には円山・宇摩・下幌成・新成生・上幌加内・下政和・大曲・共栄の各乗降場が、1956年5月には湖畔仮乗降場が新設されている<ref name="rj183-126"/>。


1960年以降は駅の無人化や貨物扱いの集約など、合理化が行われるようになった<ref name="rj183-127"/>。この時期が沿線の人口も最も多い時期で、1960年の幌加内町{{Refnest|group="注釈"|1959年に町制施行<ref name="rj183-125"/>。}}の人口は12,016人に達しており<ref name="rj183-125"/>、同年の深名線の輸送人員は140万7千人であった<ref name="rj183-127"/>。
[[ファイル:Shinmei-Line-Shumarinai-Sta.jpg|thumb|250px|none|朱鞠内駅で[[列車交換|交換]]する列車(1994年8月31日)]]


なお、1955年前後には道北バスによる幌加内と和寒を結ぶバス路線と、名士バスによって添牛内と士別を結ぶバス路線が運行した記録が残っている<ref name="rj330-76"/>。1950年代から1960年代前半(昭和20年代後半から昭和30年代)まで、日本のバス業界は「道路があって人が住んでいればバスが走り、バスを走らせれば儲かる」という状況であった<ref name="rj291-143"/>にもかかわらず、これら道北バスと名士バスの開設した2路線については数年で廃止されている<ref name="rj330-76"/>など、沿線のバス交通は発達しておらず、1982年の時点で沿線を運行していたバス路線は、深川から多度志までの間に1日5往復の[[北海道中央バス]]の路線バスだけであった<ref name="rj183-129"/>。
== 歴史 ==

[[ファイル:Shinmeisen Daisan Uryuu River bridge.jpg|thumb|深名線の第3雨竜川橋梁(2011年8月)]]
1962年には朱鞠内駅から羽幌駅に至る鉄道路線として'''名羽線'''が着工され、かなりの区間で路盤が完成した。羽幌側では[[羽幌炭鉱|羽幌炭鉱三毛別鉱]]から算出される石炭積み出しのために[[羽幌炭礦鉄道]]が路盤を借り受けて営業していた<ref name="rj183-126"/>([[#名羽線|後述]])。
深川 - 朱鞠内間は、沿線の林産資源開発と[[雨竜川]]水系での[[発電]]を目的とした[[雨竜第1ダム]]([[朱鞠内湖]])の建設にともなって建設された。

=== 特定地方交通線から除外 ===
しかし、その後の幌加内町の人口流出は激しく、1965年には幌加内町の人口は9,195人に減少<ref name="rj183-125"/>、さらに1970年には7,283人にまで減少し<ref name="rj183-125"/>、白樺や蕗ノ台では集落自体がなくなった。これと並行するようにモータリゼーションの進展と道路の改良によって、深名線の輸送量も減少の一途をたどることになった<ref name="rj183-127"/>。1970年の深名線の輸送人員は47万2千人に減少、[[輸送密度]]にすると457人/日であった<ref name="rj183-127"/>。1975年度には、住民の維持管理が負担となったという自治会からの意向により大曲仮乗降場が廃止されている<ref name="rj330-76"/>。建設中だった名羽線の工事も凍結され、1970年には羽幌炭鉱が閉山、石炭や木材輸送の見込みは全くなくなり、開通する見込みもなくなった<ref name="rj183-126"/>。

1968年9月には国鉄諮問委員会によってローカル線廃止勧告が出されることになったが、深名線もこの中に含まれたため、沿線自治体では「深名線廃止反対期成会」が結成された<ref name="rj183-127"/>。このときは廃止にならなかったが、1979年時点での[[営業係数|収支係数]]{{Refnest|group="注釈"|100円の収入を得るための支出額で営業成績を表したもの。}}は2785という大赤字路線であった<ref name="kor57-104"/>。その後1979年に国鉄再建案が閣議で了承され、1980年に[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]案が可決し、1981年3月には施行令が公布された<ref name="rj183-130"/>。[[特定地方交通線]]の選定基準であった1977年度から1979年度までの深名線の輸送密度は平均272人/日しかなかった<ref name="rj330-73"/>が、冬季における代替道路が未整備という理由により、深名線は廃止候補から外された<ref name="rj330-73"/>。

しかし、1980年10月のダイヤ改正では減便が行われ、鷹泊駅以北から深川駅以南への通学ができなくなった<ref name="rj183-130"/>こともあり、輸送量の減少は止まらず、1984年の深名線の輸送密度は123人/日までに落ち込んだ<ref name="rj251-85"/>。また、沿線人口の減少も続いており、1980年の幌加内町の人口は3,739人と、幌加内村が発足した時点の人口をも下回っていた<ref name="rj183-125"/>。

さらに、未整備とされた並行道路も、1989年度までに改良が完了する見込みとなった<ref name="rj248-107"/>。1986年10月に[[北海道新聞]]が報道した内容は「廃止対象線に指定してもらい、転換交付金を受けてバス転換に踏み切るべき」というもので<ref name="rj248-108"/><ref name="rj251-86"/>、実際には北海道新聞の先走り報道であったとされているものの<ref name="rj251-86"/>、特に幌加内町民は深名線の行く末に不安を抱いていたという<ref name="rj251-86"/>。

=== 存廃問題 ===
ともあれ、深名線は国鉄からJR北海道に継承され、引き続き維持されることになった<ref name="rj251-85"/>。1990年には乗降客の少ない一部の駅が廃止されている<ref name="rj330-76"/>。


ところが、1993年12月15日の北海道新聞で「深名線、来年度に廃止」という記事が掲載された<ref name="rj330-73"/>。北海道新聞の記事内容は「JRが公言したものではない」という書き方で、他紙ではJR北海道は廃止報道を否定していたと報じられた<ref name="rj330-73"/>が、同年11月にはJR北海道では初の廃止線として、[[函館本線]]の上砂川支線の廃止が公表されていた<ref name="rj330-77"/>ことや、この時点ですでに並行道路の整備は完了しており、年間収入が5,000万円程度であるには対して投入する経費は10億円近くという<ref name="rj330-73"/>深名線の状況において、深名線の廃止問題は「浮上してもおかしくない」ともみられていた<ref name="rj330-73"/>。また、他のJR北海道のローカル線が経費節減のためにワンマン運転を導入しているにもかかわらず、深名線の列車には車掌が乗務していた<ref name="rjb29-14"/>ことから、「廃止路線に余分な投資はできない」との憶測まで生じていた<ref name="rjb29-14"/>。さらに、この廃止報道の後に、地域から廃止に反対する意見や動きなどがほとんど見られなかった<ref name="rj330-77"/>。
1911年(明治44年)に幌加内町政和地区に入植した吉利智宏(出身:鹿児島県日置市東市来町の士族)が、同年7月「鐵道敷設誓願」をしたためて上京し鐵道院総裁[[後藤新平]]に誓願した。薩摩出身の吉利には明治時代の政府内に少なからずの友人知人が存在していた様であるが、たった一人での誓願は例を見ないものであった。吉利には、地方から日本を豊にしていきたい、鷹泊の白金鉱脈、森林資源、水力発電等の思いがあったといわれる。誓願44日後には測量隊が調査に入っている。[[第一次世界大戦]]の影響で着工は[[1922年]](大正11年)となった<ref>『鉄路の残響 深名線・71年の記録』(制作:北海道映像記録)に詳しい</ref>。


この当時、深名線の1日の利用者数は100人台に乗る程度で通勤定期券の利用者は存在せず<ref name="rj350-89"/>、1日16本の列車に対して1列車平均の利用者数は10人程度に過ぎず<ref name="rj341-88"/>、輸送密度は80人/日という有様であった<ref name="rj350-89"/>。また、ダイヤも国鉄末期の減便によって、同じ幌加内町でありながら、北母子里駅から幌加内駅への日帰り往復は不可能であった<ref name="rj251-87"/>。しかし、前述したように、当時の深名線沿線においては[[北空知バス]]{{Refnest|group="注釈"|北海道中央バスから[[1990年]]に北海道中央バス100%出資の子会社として分社化されたバス事業者<ref name="rj288-156"/>。}}が運行する深川と多度志を結ぶ路線を除き、バス路線は走ったことすらほとんどなかった<ref name="rj330-76"/>。深名線程度の輸送人員ではバスでも赤字必至とみられたため、既存のどのバス事業者も手を出しかねているとみられていた<ref name="rj330-76"/>。
[[1924年]](大正13年)に深川 - 多度志間が'''雨龍線'''(うりゅうせん)として開業、以後延伸を繰り返し、[[1931年]](昭和6年)に'''幌加内線'''(ほろかないせん)に改称、[[1932年]](昭和7年)に朱鞠内に到達した。


こうした状況下、JR北海道は1994年12月10日に沿線4自治体{{Refnest|group="注釈"|深川市・幌加内町・名寄市・[[上川郡 (天塩国)|上川郡]][[風連町]](現・名寄市風連町)。駅などの施設は設けられていなかったが、北母子里 - 天塩弥生間で風連町域を約4.5 km通っていた<ref>{{Cite book|和書|author = |year = 2008|title = 新幌加内町史|publisher = 新幌加内町史編纂委員会|isbn =|page = 601}}</ref>。}}の代表者を札幌市内のホテルに招き、「年々利用者数が減少している現状からは、バス輸送が地域に最も適した輸送手段である」として、正式に深名線の廃止とバス転換の提案を行った<ref name="rj341-88"/>。この時点での提案内容は以下のような内容であった<ref name="rj350-89"/>。
一方、名寄 - 朱鞠内間は、[[鉄道敷設法|改正鉄道敷設法]]別表第143号に規定する「[[天塩国|天鹽(塩)國]]名寄ヨリ[[石狩国|石狩國]]雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌ニ至ル鐵道」の一部である。[[1937年]](昭和12年)に'''名雨線'''(めいうせん)として名寄 - 初茶志内(後の天塩弥生)間が開業し、[[1941年]](昭和16年)に朱鞠内に到達し、幌加内線に接続。両線をあわせて'''深名線'''と改称した。なお、同号のうち残りの朱鞠内 - 羽幌間については、名羽線として1962年(昭和37年)に着工した([[#名羽線|後述]])。
#バスの運行はJR北海道自身が行う{{Refnest|group="注釈"|この当時は、バス事業はJR北海道直営で行われており、分社化されたのは2000年4月1日からである<ref name="bjr78-26"/>。}}
#バスの運行ルートは並行道路(国道・道道)とする
#バスの停留所は鉄道駅の2倍程度
#バスダイヤは鉄道の運行本数と時間設定を基本として決定し、通院に便利な便を新設
#深川と名寄を結ぶ直行便を設定
#運賃は既存の民間バスの賃率を基準とし、一定期間差額補償を行う
沿線自治体では、4自治体の代表により「JR深名線問題対策協議会」を発足させ、JRとの協議が開始された<ref name="rj350-89"/>が、鉄道の状況を理解していたため、協議会では絶対反対の態度をとることはしなかった<ref name="rj350-89"/>。ただし、バスダイヤの条件については、「所要時間が増加し運賃が上がるのに本数が増えないのは困る」として反発、1995年3月17日には協議会からJR北海道へ「そのままでは同意できないが、現行の鉄道以上のサービスとなる改善の協議には応じる」と回答した<ref name="rj350-89"/>。これにJR北海道が対応し、最終的には鉄道の2倍の運行便数という案を提示<ref name="rj350-89"/>、これが沿線から評価されたことから、同年5月16日には沿線自治体からはJR北海道に対して、廃止に同意するという意思が示された<ref name="rj346-90"/>。


JR北海道は同年5月26日に運輸大臣に対して、廃止予定日を9月3日とする深名線の廃止と代替バス路線の免許申請を行い<ref name="rj346-90"/>、どちらも同年6月16日には認可され<ref name="rj350-89"/>、この時点で深名線は廃止となることが確定した。廃止が近づいた7月25日からは定期列車への増結やイベント列車の運行が行われるようになった<ref name="rj349-89"/>。最終日の9月3日には、深川・多度志・幌加内・朱鞠内・名寄の5駅で「お別れセレモニー」が行われた<ref name="rj349-89"/>ほか、定期列車への増結に加えて臨時列車が4本増発され<ref name="rj349-89"/>、深名線の列車と接続する一部の函館本線の特急列車にも2両から4両の増結が行われた<ref name="rj349-89"/>。
雨竜第1ダムの建設資材輸送と、それに伴う森林伐採の木材輸送が行なわれていた頃は活況を呈していた<ref name="rj330-75">『鉄道ジャーナル』通巻330号(1994年4月号)p75</ref>が、1960年代以降は深名線の輸送量は大幅に落ち込む<ref name="rj330-75"/>。1968年(昭和43年)には[[赤字83線]]に指定されたが、この際は廃止を免れた。しかし、1979年(昭和54年)には[[営業係数|収支係数]](100円の収入を得るための支出額で営業成績を表したもの)が2785まで悪化した<ref name="korono1-104">『コロタン文庫 鉄道No.1全百科』p104(1981年・小学館)</ref>うえ、[[輸送密度]]も1977年(昭和52年)から1979年にかけてが272人<ref name="rj330-73">『鉄道ジャーナル』通巻330号(1994年4月号)p73</ref>、1984年(昭和59年)に至ってはわずか123人<ref name="rj330-76">『鉄道ジャーナル』通巻330号(1994年4月号)p76</ref>という状況で、1980年(昭和55年)には第1次[[特定地方交通線]]に指定されたが、名寄 - 朱鞠内間に並行道路がないことから「代替輸送道路が未整備」として対象から外され、1987年(昭和62年)に北海道旅客鉄道(JR北海道)へ承継された。


こうして、1995年9月3日限りで深名線は廃止となり<ref name="rj349-89"/>、翌9月4日からはJR北海道直営バスによって代替バスの運行が開始された<ref name="rj350-87"/>。
しかし、JR移行後も最大の赤字線だったことには変わりなく、1992年(平成4年)の1日平均利用者数はわずか354人<ref name="br96-49">[[バスラマ・インターナショナル]]96号(ぽると出版) p49</ref>であった。その後、[[北海道道688号名寄遠別線|道道名寄遠別線]]名母トンネルの開通により代替輸送の条件が整ってきたことから[[1995年]](平成7年)に廃止され、直営のJR北海道バス(現・[[ジェイ・アール北海道バス]])に転換された。


=== 年表 ===
=== 年表 ===
139行目: 149行目:
* [[1995年]](平成7年)[[9月4日]] 全線 (121.8km) 廃止<ref name="hokkaido-np-1995-9-4" />、JR北海道バス(現[[ジェイ・アール北海道バス]])に転換<ref name="hokkaido-np-1995-9-5">“深名線代替バス同乗ルポ 乗客の評価まちまち 思ったほど揺れず「鉄道より座席が狭い」”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1995年9月5日)</ref>。
* [[1995年]](平成7年)[[9月4日]] 全線 (121.8km) 廃止<ref name="hokkaido-np-1995-9-4" />、JR北海道バス(現[[ジェイ・アール北海道バス]])に転換<ref name="hokkaido-np-1995-9-5">“深名線代替バス同乗ルポ 乗客の評価まちまち 思ったほど揺れず「鉄道より座席が狭い」”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1995年9月5日)</ref>。


== 駅一覧 ==
== 施設 ==
線路の路盤は簡易な構造で、20パーミル以上の急勾配が合計29kmにわたり<ref name="rj183-126"/>、半径400メートル以下の急な曲線の区間も合計19kmに達していた<ref name="rj183-126"/>。

== 運行形態 ==
幌加内線として深川駅と朱鞠内駅を結ぶ区間が開業したころは、1日4往復の混合列車{{Refnest|group="注釈"|旅客列車と貨物列車を1つの列車にまとめた運行形態。}}で、所要時間は3時間程度であった<ref name="rj183-126"/>。名寄まで開通して深名線となった時点では、深川駅と名寄駅を結ぶ列車が3往復で、深川駅と朱鞠内駅・名寄駅と朱鞠内駅を結ぶ区間運転の列車が1往復設定されていた<ref name="rj183-126"/>。戦後になると1往復が減便となり、全線で3往復となっていた<ref name="rj183-126"/>。

1955年8月にはレールバスが導入され、全線を直通する列車は4往復となり{{Refnest|group="注釈"|name="混合1"|全線直通列車と区間運転列車のうち、各1往復は機関車牽引の混合列車であった。}}、これに加えて区間運転の列車が下り5本・上り7本設定された<ref group="注釈" name="混合1"/>。翌1956年11月には区間運転の列車が10往復に増発された<ref name="rj183-126"/>。その後、気動車列車に使用する車両はキハ05形に変更された<ref name="rj183-127"/>。

1962年7月のダイヤ改正からは、朱鞠内駅を境界として運行系統が分断されるようになった<ref name="rj183-128"/>。これは、深名線の沿線が北海道でも有数の豪雪地帯であり、列車のダイヤが乱れても影響を少なくするための方策であった<ref name="kor36-50"/>。運行本数がもっとも多かったのはこの時期で<ref name="rj183-128"/>、深川駅からは朱鞠内駅までの列車が6往復と鷹泊駅までの列車が上り3本・下り1本<ref name="rj183-128"/>、名寄駅からは朱鞠内駅までの列車が5往復と天塩弥生駅までの列車が2往復設定されていた<ref name="rj183-128"/>。

しかし、利用者の減少などに伴い、1980年10月のダイヤ改正では、深川駅からは朱鞠内駅までの列車が5往復と鷹泊駅までの列車が上り2本・下り1本<ref name="rj183-128"/>、名寄駅からは朱鞠内駅までの列車が4往復に減便された<ref name="rj183-128"/>。その後さらに減便され、分割民営化直後の時点では深川駅から幌加内駅までが5往復、幌加内駅から朱鞠内駅までは4往復(列車自体は深川駅から直通)、朱鞠内駅から名寄駅までは3往復となった<ref name="rj251-87"/>。

== 利用状況 ==
1955年以降国鉄時代の輸送人員・輸送密度の推移は以下の通りである。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="2"|輸送人員
!colspan="2"|輸送密度
!幌加内町の人口
!rowspan="2"|出典
|-
!旅客数(千人)
!貨物量(千トン)
!旅客(人/日)
!貨物(トン/日)
!(人)
|-
|1955||1,131||125||548||112||12,107||rowspan="10"|<ref name="rj183-127"/><br/><small>人口については<ref name="rj183-125"/></small>
|-
|1960||1,407||121||662||125||12,016
|-
|1965||1,592||94||787||94||9,195
|-
|1970||870||53||457||53||7,283
|-
|1975||572||21||321||15||4,365
|-
|1976||555||14||307||10||&nbsp;
|-
|1977||488||14||273||8||&nbsp;
|-
|1978||452||17||252||11||&nbsp;
|-
|1979||435||15||245||9||&nbsp;
|-
|1980||391||13||222||8||3,739
|-
|1985||&nbsp;||貨物輸送なし||123||貨物輸送なし||&nbsp;||rowspan="2"|<ref name="rj286-49"/>
|-
|1986||&nbsp;||貨物輸送なし||113||貨物輸送なし||&nbsp;
|-
|}
== 車両 ==
[[ファイル:Shinmei-Line-Shumarinai-Sta.jpg|thumb|朱鞠内駅で[[列車交換|交換]]する列車(1994年8月31日)]]
1941年から1949年にかけては朱鞠内駅構内に朱鞠内機関支区が設けられ、[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形蒸気機関車]]が6両配置されていた<ref name="rj183-126"/>。その後は[[国鉄8620形蒸気機関車|8620形]]や[[国鉄9600形蒸気機関車|9600形]]などの[[蒸気機関車]]が列車の牽引を行っており<ref name="rj183-126"/>、1970年代まで9600形の牽引する混合列車が残っていた<ref name="rj183-127"/>。

1955年8月からは[[国鉄キハ01系気動車|キハ10000形レールバス]]の寒地仕様車(後のキハ01形・キハ02形)が導入され<ref name="rj183-126"/>、フリークエンシーの向上が図られた<ref name="rj183-126"/>が、時間帯によっては輸送需要に応じきれず<ref name="rj183-127"/>、1958年には[[国鉄キハ04形気動車|キハ05形]]に置き換えられた<ref name="rj183-127"/>。キハ05形では客室内の片隅にベニヤ板で囲われた簡易便所の設置も行われていた<ref name="rj183-127"/>。

1966年以降は北海道向けに製造された[[国鉄キハ20系気動車|キハ21形・キハ22形]]が運用されるようになり、概ね1両から3両で運用されていた<ref name="rj183-128"/>。運行形態の節で述べたように、この時期は朱鞠内駅を境にして運行系統は分断されており、深川駅から朱鞠内駅までは深川機関区、名寄駅から朱鞠内駅までは名寄機関区の気動車が運用されていた<ref name="rj183-128"/>。

1986年以降は旭川運転所の[[国鉄キハ56系気動車#キハ53形500番台(501 - 510)|キハ53形500番台]]が運用されるようになった<ref name="rj251-87"/>が、この車両は駆動用エンジンを2基装備した車両であり、冬季でもキハ53形による単行運転が主体となった<ref name="rj251-87"/>。夏季には[[国鉄キハ54形気動車|キハ54形]]や、駆動用エンジンが1基の[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形]]も運用されることがあった<ref name="rj330-75"/>。

== 廃線後の状況 ==
=== 代替バス ===
{{Main2|運行開始後の代替バスの詳細|深名線 (ジェイ・アール北海道バス)}}
沿革節で述べたとおり、代替バスの運行はJR北海道自身が行うことになり<ref name="rj350-87"/>、この代替バス運行にあわせて、JR北海道では深川自動車営業所を新設した<ref name="rj350-87"/>。運行当初の便数は、深川駅から幌加内までが10往復、幌加内から朱鞠内までが8往復、朱鞠内から名寄駅までが6往復で<ref name="rj350-87"/>、鉄道時代に比べて倍増した上、鉄道時代には不可能だった母子里から幌加内までの日帰り往復も可能となった<ref name="rj350-89"/>。

深名線沿線にはほとんど既存のバス路線もなかったことから、代替バスの運賃は北空知バスの賃率を基本に設定された<ref name="rj350-87"/>。運行開始時点では深川駅から名寄駅までは遠距離逓減制度を導入して鉄道時代と同額の2,160円となった<ref name="rj350-87"/>が、深川駅から幌加内までの運賃は990円と、鉄道時代と比較して2割ほど運賃が高くなった<ref name="rj350-87"/>。ただし、北空知バスの賃率自体は北海道内でも低いほうであった<ref name="rj350-87"/>ため、値上がり幅はさほど大きくはなかった<ref name="rj350-87"/>。

=== 廃線跡 ===
[[ファイル:Shinmeisen Daisan Uryuu River bridge.jpg|thumb|第3雨竜川橋梁(2011年8月)]]
幌加内駅の駅舎は鉄道廃止後もバス待合室として利用されていた<ref name="rj350-88"/>が、不審火により消失し<ref name="2006-yk-107"/>、その後国道上の[[幌加内交流プラザ]]にバス停留所が設置された<ref name="2006-yk-107"/>。2006年時点では、政和駅の駅舎がそば屋の店舗として使用されている<ref name="2006-yk-105"/>。

雨竜川にかかる第3雨竜川橋梁は保存されることになった<ref name="2006-yk-106"/>が、年間900万円の維持費がかかるという<ref name="2006-yk-106"/>。

=== 名羽線 ===
[[鉄道敷設法|改正鉄道敷設法]]別表第143号のうち、名雨線として開業した区間をのぞく朱鞠内 - 羽幌間については、'''名羽線'''(めいうせん)として1962年に着工された<ref name="rj183-126"/>。なお、着工に先立つ1941年に[[羽幌炭礦鉄道]]が[[羽幌線]]に接続して開業した築別 - 曙 - 築別炭礦間のうち、築別 - 曙間が予定線に並行しており、残りの朱鞠内 - 曙間が工事区間である。

[[日本鉄道建設公団]]により工事が進められたが、建設工事の可能な季節が限られることや、たびたび予算を削られたことで、思うようには進まなかった。なお、工事線のうち曙 - 三毛別間については、羽幌炭礦鉄道による石炭輸送のため先行して完成し、羽幌炭礦鉄道が借り受けた上で石炭輸送と資材輸送に使用されていた<ref name="rj183-126"/>。羽幌炭礦鉄道は築別炭鉱の閉山により1970年に廃止され、この区間の営業輸送は中止された<ref name="rj183-126"/>。

路線両端をのぞけば沿線人口はほとんど無いため、乗車密度の基準を満たすことは困難で、[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]の施行により[[1980年]]に工事凍結。沿線の産業も衰え、接続する両端の路線が[[特定地方交通線]]に指定される(深名線は前述のとおり後に除外)ことを踏まえると開業しても輸送はほとんど見込めない<ref name="rj183-126"/>ため、北海道や沿線自治体を含め、引き受ける事業者がなく、完成していた鉄道施設は放置され<ref name="rj251-87"/>、深名線の車内からも放置されたトンネルや橋桁を見ることが出来た<ref name="rj251-87"/>。その後、一部の高架橋が民間会社のトラック輸送路などに使用されている。

== データ ==
=== 路線データ(廃止時) ===
* 管轄(事業種別):北海道旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 区間([[営業キロ]]):深川 - 幌加内 - 名寄 121.8km
* 駅数:21(起終点駅を含む)
* [[軌間]]:1067mm
* [[複線]]区間:なし(全線[[単線]])
* [[鉄道の電化|電化]]区間:なし(全線[[非電化]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:タブレット閉塞式(末期の朱鞠内-名寄間は票券閉塞式)
*: [[列車交換|交換]]可能駅:2(幌加内、朱鞠内)

=== 駅一覧 ===
全駅[[北海道]]に所在。
全駅[[北海道]]に所在。
{| class="wikitable" rules="all"
{| class="wikitable" rules="all"
|-
|-
!style="width:8em;"|駅名
!style="width:7em; border-bottom:3px solid #999;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #999;"|駅間営業キロ
!style="width:2.5em;"|営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #999;"|累計営業キロ
!style="border-bottom:3px solid #999;"|開業日
!接続路線
!style="border-bottom:3px solid #999;"|廃止日
!所在地
!style="border-bottom:3px solid #999;"|接続路線
!style="border-bottom:3px solid #999;"|所在地
|-
|-
|[[深川駅]]
|[[深川駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|0.0
|1898年7月16日
|&nbsp;
|北海道旅客鉄道:[[函館本線]]・[[留萌本線]]
|北海道旅客鉄道:[[函館本線]]・[[留萌本線]]
|rowspan="8"|[[深川市]]
|rowspan="8"|[[深川市]]
158行目: 266行目:
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|4.7
|1955年8月20日<br/>{{Refnest|group="注釈"|name="仮乗降場"|仮乗降場としての開設日<ref name="rj183-126"/>。}}
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
163行目: 273行目:
|style="text-align:right;"|6.1
|style="text-align:right;"|6.1
|style="text-align:right;"|10.8
|style="text-align:right;"|10.8
|1946年6月1日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
168行目: 280行目:
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|14.0
|style="text-align:right;"|14.0
|1924年10月25日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
173行目: 287行目:
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|19.4
|style="text-align:right;"|19.4
|1955年8月20日<ref group="注釈" name="仮乗降場"/>
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
178行目: 294行目:
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|22.3
|style="text-align:right;"|22.3
|1926年11月10日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
183行目: 301行目:
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|24.1
|style="text-align:right;"|24.1
|1955年8月20日<ref group="注釈" name="仮乗降場"/>
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
188行目: 308行目:
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|27.3
|style="text-align:right;"|27.3
|1926年11月10日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
193行目: 315行目:
|style="text-align:right;"|10.6
|style="text-align:right;"|10.6
|style="text-align:right;"|37.9
|style="text-align:right;"|37.9
|1929年11月8日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|rowspan="17"|[[雨竜郡]][[幌加内町]]
|rowspan="17"|[[雨竜郡]][[幌加内町]]
199行目: 323行目:
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|39.9
|style="text-align:right;"|39.9
|1955年8月20日<ref group="注釈" name="仮乗降場"/>
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
204行目: 330行目:
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|43.7
|style="text-align:right;"|43.7
|1929年11月8日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
209行目: 337行目:
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|46.8
|style="text-align:right;"|46.8
|1955年8月20日<ref group="注釈" name="仮乗降場"/>
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
|(臨)[[雨煙別駅]]<br/>{{Refnest|group="注釈"|name="雨煙別駅・政和温泉駅"|毎年12月1日 - 4月20日の間は全列車通過していた。}}
|(臨)[[雨煙別駅]] ※
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|51.1
|style="text-align:right;"|51.1
|1931年9月15日
|1990年3月10日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
|(臨)[[政和温泉駅]]
|(臨)[[政和温泉駅]]<br/><ref group="注釈" name="雨煙別駅・政和温泉駅"/>
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|56.2
|style="text-align:right;"|56.2
|1955年8月20日{{Refnest|group="注釈"|下政和仮乗降場として開設され、後に改称された<ref name="rj183-126"/>。}}
|1990年3月10日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
224行目: 358行目:
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|58.7
|style="text-align:right;"|58.7
|1931年9月15日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
|[[新富駅]]
|[[新富駅]]
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:right;"|64.2
|style="text-align:right;"|64.2
|1955年9月2日
|1990年9月1日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
234行目: 372行目:
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|68.6
|style="text-align:right;"|68.6
|1931年9月15日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
|[[大曲仮乗降場 (北海道幌加内町)|大曲仮乗降場]]
|[[大曲仮乗降場 (北海道幌加内町)|大曲仮乗降場]]
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|72.2
|style="text-align:right;"|72.2
|1955年8月20日
|1976年2月1日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
244行目: 386行目:
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|75.5
|style="text-align:right;"|75.5
|1955年8月20日<ref group="注釈" name="仮乗降場"/>
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
249行目: 393行目:
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|78.8
|style="text-align:right;"|78.8
|1932年10月25日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
254行目: 400行目:
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|80.7
|style="text-align:right;"|80.7
|1956年5月1日<ref group="注釈" name="仮乗降場"/>
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
|[[宇津内仮乗降場]]
|[[宇津内仮乗降場]]
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|85.0
|style="text-align:right;"|85.0
|1941年10月10日
|1956年11月19日以降
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
|(臨)[[蕗ノ台駅]]<br/>{{Refnest|group="注釈"|name="蕗ノ台駅・白樺駅"|毎年12月1日 - 4月30日([[1987年]](昭和62年)までは4月20日)の間は全列車通過していた<ref name="rj251-87"/>。}}
|(臨)[[蕗ノ台駅]] ※
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|89.5
|style="text-align:right;"|89.5
|1941年10月10日
|1990年3月10日
|&nbsp;
|&nbsp;
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|-
|(臨)[[白樺駅]]
|(臨)[[白樺駅]]<br/><ref group="注釈" name="蕗ノ台駅・白樺駅"/>
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|93.6
|style="text-align:right;"|93.6
|1941年10月10日
|1990年3月10日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
274行目: 428行目:
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|99.0
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|1941年10月10日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
279行目: 435行目:
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|style="text-align:right;"|15.6
|style="text-align:right;"|114.6
|style="text-align:right;"|114.6
|1937年11月10日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|rowspan="3"|[[名寄市]]
|rowspan="3"|[[名寄市]]
285行目: 443行目:
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|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|117.8
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|1937年11月10日
|1995年9月4日
|&nbsp;
|&nbsp;
|-
|-
290行目: 450行目:
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|121.8
|style="text-align:right;"|121.8
|1903年9月3日
|&nbsp;
|北海道旅客鉄道:[[宗谷本線]]・[[名寄本線]](1989年5月1日廃止)
|北海道旅客鉄道:[[宗谷本線]]・[[名寄本線]](1989年5月1日廃止)
|}
|}


== 脚注 ==
※ :路線廃止時点で廃止済みの駅
{{脚注ヘルプ}}


=== 注釈 ===
雨煙別 - 政和間には下政和仮乗降場も存在した。下政和と政和温泉の位置関係ははっきりしない(位置は同じで改称されたとの説もある)。
{{Reflist|group="注釈"}}


=== 出典 ===
雨煙別駅・政和温泉駅は毎年12月1日 - 4月20日の間、蕗ノ台駅・白樺駅は毎年12月1日 - 4月30日([[1987年]](昭和62年)までは4月20日)の間全列車通過していた。
{{Reflist|2|refs=
<ref name="2006-yk-105">[[#加藤2006|加藤佳一『バスで旅を創る!』 (2006) p.105]]</ref>
<ref name="2006-yk-106">[[#加藤2006|加藤佳一『バスで旅を創る!』 (2006) p.106]]</ref>
<ref name="2006-yk-107">[[#加藤2006|加藤佳一『バスで旅を創る!』 (2006) p.107]]</ref>
<ref name="bjr78-26">[[#BJ-R78|『バスジャパン・ハンドブックシリーズR78 ジェイ・アール北海道バス』 (2012) p.26]]</ref>
<ref name="hokkaido-np-1995-9-4">“深名線 もう乗れない… 54年間の歴史に幕”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1995年9月4日)</ref>
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<ref name="rj330-75">[[#鈴木330|鉄道ジャーナル 通巻330号 鈴木文彦『存亡の淵に立つ深名線』 (1994) p.75]]</ref>
<ref name="rj330-76">[[#鈴木330|鉄道ジャーナル 通巻330号 鈴木文彦『存亡の淵に立つ深名線』 (1994) p.76]]</ref>
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<ref name="rj341-88">[[#RJ341|鉄道ジャーナル 通巻341号 『RAILWAY TOPICS』 (1995) p.88]]</ref>
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}}


== 参考文献 ==
北母子里 - 天塩弥生間で[[上川郡 (天塩国)|上川郡]][[風連町]](現・名寄市風連町)域を約4.5 km通っていたが、駅などの施設は設けられていなかった<ref>{{Cite book|和書|author = |year = 2008|title = 新幌加内町史|publisher = 新幌加内町史編纂委員会|isbn =|page = 601}}</ref>。
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== 名羽線 ==
=== 雑誌記事 ===
* {{Cite journal|和書|author=[[青木栄一]] |year=1982 |month=5 |title=特定地方交通線の実態と問題を現地に見る 10 深名線|journal=[[鉄道ジャーナル]] |issue=183 |pages=122-131 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 青木183}}
[[鉄道敷設法|改正鉄道敷設法]]別表第143号のうち、名雨線として開業した区間をのぞく朱鞠内 - 羽幌間については、'''名羽線'''(めいうせん)として1962年に着工された。なお、着工に先立つ1941年に[[羽幌炭礦鉄道]]が[[羽幌線]]に接続して開業した築別 - 曙 - 築別炭礦間のうち、築別 - 曙間が予定線に並行しており、残りの朱鞠内 - 曙間が工事区間である。
* {{Cite journal|和書|author=青木栄一 |year=1990 |month=8 |title=ローカル線の現状と諸問題|journal=鉄道ジャーナル |issue=286 |pages=44-50 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 青木286}}

* {{Cite journal|和書|author=[[鈴木文彦]] |year=1987 |month=7 |title=ローカル線と地域社会|journal=鉄道ジャーナル |issue=248|pages=107-113 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鈴木248}}
[[日本鉄道建設公団]]により工事が進められたが、建設工事の可能な季節が限られることや、たびたび予算を削られたことで、思うようには進まなかった。特に最も難工事が予想された苫竜トンネルは着工こそされていたが、実際には何の工事も行われていなかったことが後年の探査で明らかになっている{{要出典|date=2008年6月}}。
* {{Cite journal|和書|author=鈴木文彦 |year=1987 |month=9 |title=北の原野の細道をゆく|journal=鉄道ジャーナル |issue=251|pages=80-95 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鈴木251}}

* {{Cite journal|和書|author=鈴木文彦|coauthor=青木栄一 |year=1991 |month=1 |title=昭和鉄道史 11.躍進期|journal=鉄道ジャーナル |issue=291|pages=138-146 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鈴木291}}
路線両端をのぞけば沿線人口はほとんど無いため、乗車密度の基準を満たすことは困難で、[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]の施行により[[1980年]]に工事凍結。沿線の産業も衰え、接続する両端の路線が[[特定地方交通線]]に指定される(深名線は前述のとおり後に除外)ことを踏まえると開業しても輸送はほとんど見込めないため、北海道や沿線自治体と含め、引き受ける事業者がなく、完成していた鉄道施設は放置されることとなる。その後、一部の高架橋が民間会社のトラック輸送路などに使用されている。
* {{Cite journal|和書|author=鈴木文彦 |year=1994 |month=4 |title=存亡の淵に立つ深名線|journal=鉄道ジャーナル |issue=330|pages=68-77 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鈴木330}}

* {{Cite journal|和書|author=鈴木文彦 |year=1995 |month=12 |title=深名線転換バス 発進!|journal=鉄道ジャーナル |issue=350|pages=87-89 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 鈴木350}}
なお、工事線のうち曙 - 三毛別間については、羽幌炭礦鉄道による石炭輸送のため先行して完成し、羽幌炭礦鉄道による石炭輸送と資材輸送とが行われていた。国鉄の工事線ながら専ら[[私鉄]]の営業に供される特異な例として知られている。なお、羽幌炭礦鉄道は築別炭鉱の閉山により1970年に廃止され、この区間の営業輸送は中止された。
* {{Cite journal|和書|author=[[日本バス友の会]] |year=1990 |month=10 |title=Bus Corner|journal=鉄道ジャーナル |issue=288|pages=156-158 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = BC288}}
<!--
* {{Cite journal|和書|author=北條敦 |year=1994 |month=12 |title=北の道に息づく鉄輪の響き|journal=鉄道ジャーナル別冊29 ローカル線各駅停車 |issue=|pages=10-16 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 北條29}}

* {{Cite journal|和書|author= |year=1995 |month=3 |title=RAILWAY TOPICS|journal=鉄道ジャーナル |issue=341 |pages= 86-95 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ341}}
== エピソード ==
* {{Cite journal|和書|author= |year=1995 |month=3 |title=RAILWAY TOPICS|journal=鉄道ジャーナル |issue=346 |pages= 90-97 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ346}}
* 日本でも有数の豪雪地帯であるため、冬は[[雪かき車]]すら機能せず不通となることがしばしばあった。このため[[幌加内町|幌加内]]から[[深川市|深川]]、[[名寄市|名寄]]方面へ通勤通学する者は冬季間は非常食を携帯していたという記録がある{{要出典}}。
* {{Cite journal|和書|author= |year=1995 |month=11 |title=RAILWAY TOPICS|journal=鉄道ジャーナル |issue=349 |pages= 86-95 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ349}}
* 大雪のため最長で一週間ほど不通になったことがあり、陸の孤島と化した[[幌加内町|幌加内]]の町長が「住民を見殺しにする(餓死させる)気か!」と沿線駅長に怒鳴り込みに行ったことがある。事実この長期不通の間、[[沢庵漬け|たくあん]]で飢えを凌いだ沿線住民もいたという{{要出典}}。-->

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
324行目: 530行目:
* [[羽幌炭礦鉄道]]
* [[羽幌炭礦鉄道]]
* [[未成線]]
* [[未成線]]
<!--* [[にっぽん縦断 こころ旅]] - [[NHK BSプレミアム]]の番組。2012年7月12日の放送で[[火野正平]]が[[逢坂黎子]]のこころの風景の便りをもとに多度志駅裏に向かう。 →あえて書くなら[[多度志駅]]の記事に書いたほうがよいのでは? -->


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2014年6月9日 (月) 16:51時点における版

深名線
朱鞠内駅構内 キハ53形。1994年2月
朱鞠内駅構内
キハ53形。1994年2月
朱鞠内駅構内
キハ53形。1994年2月
路線総延長121.8 km
軌間1067 mm
最大勾配 25[1] パーミル
最小半径250[1] m
停車場・施設・接続路線
STR
函館本線(↑函館方)
ABZrg STRq
留萌本線
BHF
0.0 深川
eABZlf exSTRlg
STRrf exSTR
函館本線(←旭川方)
exBHF
4.7 円山
exBHF
10.8 上多度志
exBHF
14.0 多度志
exBHF
19.4 宇摩
exBHF
22.3 幌成
exBHF
24.1 下幌成
exBHF
27.3 鷹泊
exTUNNEL1
幌加内トンネル 772m
exBHF
37.9 沼牛
exBHF
39.9 新成生
exBHF
43.7 幌加内
exBHF
46.8 上幌加内
exHST
51.1 雨煙別 -1990
exHST
56.2 政和温泉 -1990
exHST
? 下政和 -1961
exBHF
58.7 政和
exBHF
64.2 新富 -1990
exBHF
68.6 添牛内
exHST
72.2 大曲 -1976
exBHF
75.5 共栄
exABZrg
国鉄:名羽線
exBHF
78.8 朱鞠内
exBHF
80.7 湖畔
exHST
85.0 宇津内 -?
exHST
89.5 蕗ノ台 -1990
exTUNNEL1
第二雨竜トンネル 1005m
exHST
93.6 白樺 -1990
exBHF
99.0 北母子里
exTUNNEL1
名雨トンネル 1530m
exBHF
114.6 天塩弥生
exBHF
117.8 西名寄
exSTR
宗谷本線
eABZql+l BHFq
121.8 名寄(←旭川方・稚内方→)
exSTR
名寄本線

深名線(しんめいせん)は、かつて北海道旅客鉄道(JR北海道)/日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線地方交通線)である。北海道深川市にある深川駅函館本線から分岐し、雨竜郡幌加内町を経て名寄市にある名寄駅宗谷本線に接続していた。

営業係数は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、赤字83線特定地方交通線の廃止論議にもその都度候補にあげられていた。並行道路の未整備を理由に廃止保留となったが、国鉄分割民営化後に並行道路の整備が進んだことから[2]1995年(平成7年)9月4日廃止された[3]

歴史

全通までの経緯

深名線の沿線地域とされる雨竜川上流地域へ、最初の開拓民が幌加内地域に定着したのは1897年である[4]。この時点でまず雨竜川沿いに道路が建設され[4]、その後明治時代末期までに士別や和寒と結ばれる道路が開設され[4]、幌加内地域の各集落と他の地域を結ぶメインルートとなっていった[4]

この地域における鉄道敷設計画は、1911年に幌加内地域に移住してきた吉利智宏が、たった1人で深川から三股[注釈 1]を経て音威子府に至る軽便鉄道の建設を請願したのが始まりとされている[5][注釈 2]。これが、周辺地域の多度志・深川などの地域と連帯した運動となり、1916年には「雨竜鉄道期成同盟会」が結成された[4]。これらの運動を受け、1918年には政府によって深川から三股に至る軽便鉄道の建設が決定した[5]。なお、この年には雨竜郡上北竜村から幌加内村が独立発足しており、発足時の人口は4,690人であった[4]

この鉄道は雨竜線として1922年に着工し[6]、深川 - 朱鞠内間を6工区に区分し、他に深川駅構内の拡張工事が行われた[7]。まず深川駅から多度志駅までの区間が第1工区として1922年(大正11年)12月16日に起工し、1924年(大正13年)9月25日に竣工、10月25日に開通した[6][7]。続いて第2工区として、多度志駅から鷹泊駅まで1925年(大正14年)6月16日に起工し、1926年(大正15年)11月10日に開通した[5][7]。第3工区となる多度志駅から幌加内駅までの区間は1925年(大正14年)11月16日に起工したが、途中の幌加内トンネルの地質が悪くて難工事となり、1日平均1メートルしか掘削できず、工期を予定より1年伸ばして1929年(昭和4年)5月15日に竣工し、11月8日に開通した[5][8]。第4工区は幌加内駅から政和駅まで1928年(昭和3年)11月16日に起工し、第5工区はさらに添牛内駅まで11月6日に起工して、どちらも1931年(昭和6年)9月15日に開通し[5][9]、第6工区の添牛内駅 - 朱鞠内駅間は1931年(昭和6年)7月13日に起工し、1932年(昭和7年)10月25日に開通[5][9]というように小刻みに延長している。深川 - 朱鞠内間の総工費は4,467,778円であった[10]。また、1931年10月10日付で路線名称が幌加内線に改称されている[6]。鉄道建設と並行するように雨竜ダムの建設計画が進められており[6]、1938年に着工した雨竜ダムの建設工事と、貯水に先立って行われた水没地域の森林伐採・木材輸送には幌加内線が使用された[6]

一方、1922年に公布された改正鉄道敷設法の別表第143項には「天鹽(塩)國名寄ヨリ石狩國雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌ニ至ル鐵道」が盛り込まれ[6]、また1929年からは札沼線の石狩沼田駅から多度志駅を結び、朱鞠内駅から天塩線(当時)佐久駅へを結ぶ札佐線の建設運動が開始されている[6]。こうした状況下、1935年には名雨線として名寄駅から朱鞠内駅までの区間が着工され[6]、全区間を4工区に分けて工事が進められた[10]。1937年11月10日には名寄駅から初茶志内駅(当時)までが開通した[6]。さらに、1939年10月10日には初茶志内駅から朱鞠内駅までが開通[5]、同時に幌加内線と名雨線を統合して深名線に改称された[5]。名寄 - 朱鞠内間の総工費は509万4000円であった[1]

こうして、深川駅と名寄駅の間は、函館本線・宗谷本線を経由する旭川周りと、深名線を経由する朱鞠内周りの2経路を有することになった。しかし深名線経由の方が13.4キロメートル長く、途中に25パーミル勾配区間が5か所あり、半径250メートルの曲線も多かったため輸送力が小さく、結局沿線の開発とダムの建設に貢献したに留まった[11]

戦後

戦後になると、雨竜ダムによって出現した人口湖は観光資源としての価値を評価され「朱鞠内湖」と命名され、深名線沿線唯一の観光地となった[4]。また、ダム建設終了後も木材輸送は活発な状態で[12]、沿線地域の中心的交通機関としての役割を果たしていた[12]。1955年からはレールバスを導入の上で旅客列車の増発が行われ[6]、それに伴い利用者も増加[12]、レールバスでは需要に応じきれずに通常の気動車へ置き換えられることになった[12]。また、1955年9月には円山・宇摩・下幌成・新成生・上幌加内・下政和・大曲・共栄の各乗降場が、1956年5月には湖畔仮乗降場が新設されている[6]

1960年以降は駅の無人化や貨物扱いの集約など、合理化が行われるようになった[12]。この時期が沿線の人口も最も多い時期で、1960年の幌加内町[注釈 3]の人口は12,016人に達しており[4]、同年の深名線の輸送人員は140万7千人であった[12]

なお、1955年前後には道北バスによる幌加内と和寒を結ぶバス路線と、名士バスによって添牛内と士別を結ぶバス路線が運行した記録が残っている[13]。1950年代から1960年代前半(昭和20年代後半から昭和30年代)まで、日本のバス業界は「道路があって人が住んでいればバスが走り、バスを走らせれば儲かる」という状況であった[14]にもかかわらず、これら道北バスと名士バスの開設した2路線については数年で廃止されている[13]など、沿線のバス交通は発達しておらず、1982年の時点で沿線を運行していたバス路線は、深川から多度志までの間に1日5往復の北海道中央バスの路線バスだけであった[15]

1962年には朱鞠内駅から羽幌駅に至る鉄道路線として名羽線が着工され、かなりの区間で路盤が完成した。羽幌側では羽幌炭鉱三毛別鉱から算出される石炭積み出しのために羽幌炭礦鉄道が路盤を借り受けて営業していた[6]後述)。

特定地方交通線から除外

しかし、その後の幌加内町の人口流出は激しく、1965年には幌加内町の人口は9,195人に減少[4]、さらに1970年には7,283人にまで減少し[4]、白樺や蕗ノ台では集落自体がなくなった。これと並行するようにモータリゼーションの進展と道路の改良によって、深名線の輸送量も減少の一途をたどることになった[12]。1970年の深名線の輸送人員は47万2千人に減少、輸送密度にすると457人/日であった[12]。1975年度には、住民の維持管理が負担となったという自治会からの意向により大曲仮乗降場が廃止されている[13]。建設中だった名羽線の工事も凍結され、1970年には羽幌炭鉱が閉山、石炭や木材輸送の見込みは全くなくなり、開通する見込みもなくなった[6]

1968年9月には国鉄諮問委員会によってローカル線廃止勧告が出されることになったが、深名線もこの中に含まれたため、沿線自治体では「深名線廃止反対期成会」が結成された[12]。このときは廃止にならなかったが、1979年時点での収支係数[注釈 4]は2785という大赤字路線であった[16]。その後1979年に国鉄再建案が閣議で了承され、1980年に国鉄再建法案が可決し、1981年3月には施行令が公布された[17]特定地方交通線の選定基準であった1977年度から1979年度までの深名線の輸送密度は平均272人/日しかなかった[18]が、冬季における代替道路が未整備という理由により、深名線は廃止候補から外された[18]

しかし、1980年10月のダイヤ改正では減便が行われ、鷹泊駅以北から深川駅以南への通学ができなくなった[17]こともあり、輸送量の減少は止まらず、1984年の深名線の輸送密度は123人/日までに落ち込んだ[19]。また、沿線人口の減少も続いており、1980年の幌加内町の人口は3,739人と、幌加内村が発足した時点の人口をも下回っていた[4]

さらに、未整備とされた並行道路も、1989年度までに改良が完了する見込みとなった[20]。1986年10月に北海道新聞が報道した内容は「廃止対象線に指定してもらい、転換交付金を受けてバス転換に踏み切るべき」というもので[21][22]、実際には北海道新聞の先走り報道であったとされているものの[22]、特に幌加内町民は深名線の行く末に不安を抱いていたという[22]

存廃問題

ともあれ、深名線は国鉄からJR北海道に継承され、引き続き維持されることになった[19]。1990年には乗降客の少ない一部の駅が廃止されている[13]

ところが、1993年12月15日の北海道新聞で「深名線、来年度に廃止」という記事が掲載された[18]。北海道新聞の記事内容は「JRが公言したものではない」という書き方で、他紙ではJR北海道は廃止報道を否定していたと報じられた[18]が、同年11月にはJR北海道では初の廃止線として、函館本線の上砂川支線の廃止が公表されていた[23]ことや、この時点ですでに並行道路の整備は完了しており、年間収入が5,000万円程度であるには対して投入する経費は10億円近くという[18]深名線の状況において、深名線の廃止問題は「浮上してもおかしくない」ともみられていた[18]。また、他のJR北海道のローカル線が経費節減のためにワンマン運転を導入しているにもかかわらず、深名線の列車には車掌が乗務していた[24]ことから、「廃止路線に余分な投資はできない」との憶測まで生じていた[24]。さらに、この廃止報道の後に、地域から廃止に反対する意見や動きなどがほとんど見られなかった[23]

この当時、深名線の1日の利用者数は100人台に乗る程度で通勤定期券の利用者は存在せず[25]、1日16本の列車に対して1列車平均の利用者数は10人程度に過ぎず[26]、輸送密度は80人/日という有様であった[25]。また、ダイヤも国鉄末期の減便によって、同じ幌加内町でありながら、北母子里駅から幌加内駅への日帰り往復は不可能であった[27]。しかし、前述したように、当時の深名線沿線においては北空知バス[注釈 5]が運行する深川と多度志を結ぶ路線を除き、バス路線は走ったことすらほとんどなかった[13]。深名線程度の輸送人員ではバスでも赤字必至とみられたため、既存のどのバス事業者も手を出しかねているとみられていた[13]

こうした状況下、JR北海道は1994年12月10日に沿線4自治体[注釈 6]の代表者を札幌市内のホテルに招き、「年々利用者数が減少している現状からは、バス輸送が地域に最も適した輸送手段である」として、正式に深名線の廃止とバス転換の提案を行った[26]。この時点での提案内容は以下のような内容であった[25]

  1. バスの運行はJR北海道自身が行う[注釈 7]
  2. バスの運行ルートは並行道路(国道・道道)とする
  3. バスの停留所は鉄道駅の2倍程度
  4. バスダイヤは鉄道の運行本数と時間設定を基本として決定し、通院に便利な便を新設
  5. 深川と名寄を結ぶ直行便を設定
  6. 運賃は既存の民間バスの賃率を基準とし、一定期間差額補償を行う

沿線自治体では、4自治体の代表により「JR深名線問題対策協議会」を発足させ、JRとの協議が開始された[25]が、鉄道の状況を理解していたため、協議会では絶対反対の態度をとることはしなかった[25]。ただし、バスダイヤの条件については、「所要時間が増加し運賃が上がるのに本数が増えないのは困る」として反発、1995年3月17日には協議会からJR北海道へ「そのままでは同意できないが、現行の鉄道以上のサービスとなる改善の協議には応じる」と回答した[25]。これにJR北海道が対応し、最終的には鉄道の2倍の運行便数という案を提示[25]、これが沿線から評価されたことから、同年5月16日には沿線自治体からはJR北海道に対して、廃止に同意するという意思が示された[31]

JR北海道は同年5月26日に運輸大臣に対して、廃止予定日を9月3日とする深名線の廃止と代替バス路線の免許申請を行い[31]、どちらも同年6月16日には認可され[25]、この時点で深名線は廃止となることが確定した。廃止が近づいた7月25日からは定期列車への増結やイベント列車の運行が行われるようになった[32]。最終日の9月3日には、深川・多度志・幌加内・朱鞠内・名寄の5駅で「お別れセレモニー」が行われた[32]ほか、定期列車への増結に加えて臨時列車が4本増発され[32]、深名線の列車と接続する一部の函館本線の特急列車にも2両から4両の増結が行われた[32]

こうして、1995年9月3日限りで深名線は廃止となり[32]、翌9月4日からはJR北海道直営バスによって代替バスの運行が開始された[33]

年表

  • 1924年(大正13年)10月25日 深川 - 多度志間 (14.0km) を雨龍線として新規開業。多度志駅を新設。
  • 1926年(大正15年)11月10日 多度志 - 鷹泊間 (13.3km) を延伸開業。幌成駅・鷹泊駅を新設。
  • 1929年(昭和4年)11月8日 鷹泊 - 幌加内間 (16.4km) を延伸開業。沼牛駅・幌加内駅を新設。
  • 1931年(昭和6年)
    • 9月15日 幌加内 - 添牛内間 (24.9km) を延伸開業。雨煙別駅・政和駅・添牛内駅を新設。
    • 10月10日 幌加内線と改称。
  • 1932年(昭和7年)10月25日 添牛内 - 朱鞠内間 (10.2km) を延伸開業し幌加内線が全通。朱鞠内駅を新設。
  • 1937年(昭和12年)11月10日 名寄 - 初茶志内間 (7.2km) を名雨線として新規開業。西名寄駅・初茶志内駅を新設。
  • 1941年(昭和16年)10月10日 初茶志内 - 朱鞠内間 (35.8km) を延伸開業。幌加内線に名雨線を編入して深川 - 名寄間を深名線と改称。北母子里駅・白樺駅・蕗ノ台駅・宇津内駅を新設。
  • 1946年(昭和21年)6月1日 上多度志仮乗降場を新設。
  • 1949年(昭和24年)4月1日 宇津内駅を仮乗降場に改める。
  • 1950年(昭和25年)1月15日 上多度志仮乗降場を駅に改める。
  • 1951年(昭和26年)7月20日 初茶志内駅を天塩弥生駅に改称。
  • 1955年(昭和30年)
    • 8月20日 円山仮乗降場・宇摩仮乗降場・下幌成仮乗降場・新成生仮乗降場・上幌加内仮乗降場・下政和仮乗降場・大曲仮乗降場・共栄仮乗降場を新設。
    • 9月2日 新富仮乗降場を新設。
  • 1956年(昭和31年)
    • 5月1日 湖畔仮乗降場を新設。
    • 9月20日 新富仮乗降場を駅に改める。
    • 11月19日以降 宇津内仮乗降場を廃止。
  • 1960年(昭和35年)9月15日 西名寄駅を無人化。
  • 1961年(昭和36年)12月1日 政和温泉仮乗降場を新設。下政和仮乗降場を廃止。
  • 1964年(昭和39年)4月1日 蕗ノ台駅・白樺駅を無人化。
  • 1975年(昭和50年)2月 蒸気機関車の運転を廃止[34]
  • 1976年(昭和51年)2月1日 大曲仮乗降場を廃止。
  • 1982年(昭和57年)3月30日 上多度志駅・幌成駅・沼牛駅・雨煙別駅・添牛内駅・天塩弥生駅を無人化。
  • 1982年(昭和57年)11月1日 全線の貨物営業を廃止。
  • 1984年(昭和59年)11月10日 多度志駅・鷹泊駅・政和駅・北母子里駅を無人化。
  • 1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化に伴い北海道旅客鉄道が承継。雨煙別駅・蕗ノ台駅・白樺駅を臨時駅に改める。円山仮乗降場・宇摩仮乗降場・下幌成仮乗降場・新成生仮乗降場・上幌加内仮乗降場・新富仮乗降場・共栄仮乗降場・湖畔仮乗降場を駅に改める。政和温泉仮乗降場を臨時駅に改める。
  • 1990年(平成2年)
    • 3月10日 雨煙別駅・政和温泉駅・蕗ノ台駅・白樺駅を廃止。
    • 9月1日 新富駅を廃止[35]
  • 1995年(平成7年)9月4日 全線 (121.8km) 廃止[3]、JR北海道バス(現ジェイ・アール北海道バス)に転換[36]

施設

線路の路盤は簡易な構造で、20パーミル以上の急勾配が合計29kmにわたり[6]、半径400メートル以下の急な曲線の区間も合計19kmに達していた[6]

運行形態

幌加内線として深川駅と朱鞠内駅を結ぶ区間が開業したころは、1日4往復の混合列車[注釈 8]で、所要時間は3時間程度であった[6]。名寄まで開通して深名線となった時点では、深川駅と名寄駅を結ぶ列車が3往復で、深川駅と朱鞠内駅・名寄駅と朱鞠内駅を結ぶ区間運転の列車が1往復設定されていた[6]。戦後になると1往復が減便となり、全線で3往復となっていた[6]

1955年8月にはレールバスが導入され、全線を直通する列車は4往復となり[注釈 9]、これに加えて区間運転の列車が下り5本・上り7本設定された[注釈 9]。翌1956年11月には区間運転の列車が10往復に増発された[6]。その後、気動車列車に使用する車両はキハ05形に変更された[12]

1962年7月のダイヤ改正からは、朱鞠内駅を境界として運行系統が分断されるようになった[37]。これは、深名線の沿線が北海道でも有数の豪雪地帯であり、列車のダイヤが乱れても影響を少なくするための方策であった[38]。運行本数がもっとも多かったのはこの時期で[37]、深川駅からは朱鞠内駅までの列車が6往復と鷹泊駅までの列車が上り3本・下り1本[37]、名寄駅からは朱鞠内駅までの列車が5往復と天塩弥生駅までの列車が2往復設定されていた[37]

しかし、利用者の減少などに伴い、1980年10月のダイヤ改正では、深川駅からは朱鞠内駅までの列車が5往復と鷹泊駅までの列車が上り2本・下り1本[37]、名寄駅からは朱鞠内駅までの列車が4往復に減便された[37]。その後さらに減便され、分割民営化直後の時点では深川駅から幌加内駅までが5往復、幌加内駅から朱鞠内駅までは4往復(列車自体は深川駅から直通)、朱鞠内駅から名寄駅までは3往復となった[27]

利用状況

1955年以降国鉄時代の輸送人員・輸送密度の推移は以下の通りである。

年度 輸送人員 輸送密度 幌加内町の人口 出典
旅客数(千人) 貨物量(千トン) 旅客(人/日) 貨物(トン/日) (人)
1955 1,131 125 548 112 12,107 [12]
人口については[4]
1960 1,407 121 662 125 12,016
1965 1,592 94 787 94 9,195
1970 870 53 457 53 7,283
1975 572 21 321 15 4,365
1976 555 14 307 10  
1977 488 14 273 8  
1978 452 17 252 11  
1979 435 15 245 9  
1980 391 13 222 8 3,739
1985   貨物輸送なし 123 貨物輸送なし   [39]
1986   貨物輸送なし 113 貨物輸送なし  

車両

朱鞠内駅で交換する列車(1994年8月31日)

1941年から1949年にかけては朱鞠内駅構内に朱鞠内機関支区が設けられ、C11形蒸気機関車が6両配置されていた[6]。その後は8620形9600形などの蒸気機関車が列車の牽引を行っており[6]、1970年代まで9600形の牽引する混合列車が残っていた[12]

1955年8月からはキハ10000形レールバスの寒地仕様車(後のキハ01形・キハ02形)が導入され[6]、フリークエンシーの向上が図られた[6]が、時間帯によっては輸送需要に応じきれず[12]、1958年にはキハ05形に置き換えられた[12]。キハ05形では客室内の片隅にベニヤ板で囲われた簡易便所の設置も行われていた[12]

1966年以降は北海道向けに製造されたキハ21形・キハ22形が運用されるようになり、概ね1両から3両で運用されていた[37]。運行形態の節で述べたように、この時期は朱鞠内駅を境にして運行系統は分断されており、深川駅から朱鞠内駅までは深川機関区、名寄駅から朱鞠内駅までは名寄機関区の気動車が運用されていた[37]

1986年以降は旭川運転所のキハ53形500番台が運用されるようになった[27]が、この車両は駆動用エンジンを2基装備した車両であり、冬季でもキハ53形による単行運転が主体となった[27]。夏季にはキハ54形や、駆動用エンジンが1基のキハ40形も運用されることがあった[5]

廃線後の状況

代替バス

沿革節で述べたとおり、代替バスの運行はJR北海道自身が行うことになり[33]、この代替バス運行にあわせて、JR北海道では深川自動車営業所を新設した[33]。運行当初の便数は、深川駅から幌加内までが10往復、幌加内から朱鞠内までが8往復、朱鞠内から名寄駅までが6往復で[33]、鉄道時代に比べて倍増した上、鉄道時代には不可能だった母子里から幌加内までの日帰り往復も可能となった[25]

深名線沿線にはほとんど既存のバス路線もなかったことから、代替バスの運賃は北空知バスの賃率を基本に設定された[33]。運行開始時点では深川駅から名寄駅までは遠距離逓減制度を導入して鉄道時代と同額の2,160円となった[33]が、深川駅から幌加内までの運賃は990円と、鉄道時代と比較して2割ほど運賃が高くなった[33]。ただし、北空知バスの賃率自体は北海道内でも低いほうであった[33]ため、値上がり幅はさほど大きくはなかった[33]

廃線跡

第3雨竜川橋梁(2011年8月)

幌加内駅の駅舎は鉄道廃止後もバス待合室として利用されていた[40]が、不審火により消失し[41]、その後国道上の幌加内交流プラザにバス停留所が設置された[41]。2006年時点では、政和駅の駅舎がそば屋の店舗として使用されている[42]

雨竜川にかかる第3雨竜川橋梁は保存されることになった[43]が、年間900万円の維持費がかかるという[43]

名羽線

改正鉄道敷設法別表第143号のうち、名雨線として開業した区間をのぞく朱鞠内 - 羽幌間については、名羽線(めいうせん)として1962年に着工された[6]。なお、着工に先立つ1941年に羽幌炭礦鉄道羽幌線に接続して開業した築別 - 曙 - 築別炭礦間のうち、築別 - 曙間が予定線に並行しており、残りの朱鞠内 - 曙間が工事区間である。

日本鉄道建設公団により工事が進められたが、建設工事の可能な季節が限られることや、たびたび予算を削られたことで、思うようには進まなかった。なお、工事線のうち曙 - 三毛別間については、羽幌炭礦鉄道による石炭輸送のため先行して完成し、羽幌炭礦鉄道が借り受けた上で石炭輸送と資材輸送に使用されていた[6]。羽幌炭礦鉄道は築別炭鉱の閉山により1970年に廃止され、この区間の営業輸送は中止された[6]

路線両端をのぞけば沿線人口はほとんど無いため、乗車密度の基準を満たすことは困難で、国鉄再建法の施行により1980年に工事凍結。沿線の産業も衰え、接続する両端の路線が特定地方交通線に指定される(深名線は前述のとおり後に除外)ことを踏まえると開業しても輸送はほとんど見込めない[6]ため、北海道や沿線自治体を含め、引き受ける事業者がなく、完成していた鉄道施設は放置され[27]、深名線の車内からも放置されたトンネルや橋桁を見ることが出来た[27]。その後、一部の高架橋が民間会社のトラック輸送路などに使用されている。

データ

路線データ(廃止時)

駅一覧

全駅北海道に所在。

駅名 駅間営業キロ 累計営業キロ 開業日 廃止日 接続路線 所在地
深川駅 - 0.0 1898年7月16日   北海道旅客鉄道:函館本線留萌本線 深川市
円山駅 4.7 4.7 1955年8月20日
[注釈 10]
1995年9月4日  
上多度志駅 6.1 10.8 1946年6月1日 1995年9月4日  
多度志駅 3.2 14.0 1924年10月25日 1995年9月4日  
宇摩駅 5.4 19.4 1955年8月20日[注釈 10] 1995年9月4日  
幌成駅 2.9 22.3 1926年11月10日 1995年9月4日  
下幌成駅 1.8 24.1 1955年8月20日[注釈 10] 1995年9月4日  
鷹泊駅 3.2 27.3 1926年11月10日 1995年9月4日  
沼牛駅 10.6 37.9 1929年11月8日 1995年9月4日   雨竜郡幌加内町
新成生駅 2.0 39.9 1955年8月20日[注釈 10] 1995年9月4日  
幌加内駅 3.8 43.7 1929年11月8日 1995年9月4日  
上幌加内駅 3.1 46.8 1955年8月20日[注釈 10] 1995年9月4日  
(臨)雨煙別駅
[注釈 11]
4.3 51.1 1931年9月15日 1990年3月10日  
(臨)政和温泉駅
[注釈 11]
5.1 56.2 1955年8月20日[注釈 12] 1990年3月10日  
政和駅 2.5 58.7 1931年9月15日 1995年9月4日  
新富駅 5.5 64.2 1955年9月2日 1990年9月1日  
添牛内駅 4.4 68.6 1931年9月15日 1995年9月4日  
大曲仮乗降場 3.6 72.2 1955年8月20日 1976年2月1日  
共栄駅 3.3 75.5 1955年8月20日[注釈 10] 1995年9月4日  
朱鞠内駅 3.3 78.8 1932年10月25日 1995年9月4日  
湖畔駅 1.9 80.7 1956年5月1日[注釈 10] 1995年9月4日  
宇津内仮乗降場 4.3 85.0 1941年10月10日 1956年11月19日以降  
(臨)蕗ノ台駅
[注釈 13]
4.5 89.5 1941年10月10日 1990年3月10日  
(臨)白樺駅
[注釈 13]
4.1 93.6 1941年10月10日 1990年3月10日  
北母子里駅 5.4 99.0 1941年10月10日 1995年9月4日  
天塩弥生駅 15.6 114.6 1937年11月10日 1995年9月4日   名寄市
西名寄駅 3.2 117.8 1937年11月10日 1995年9月4日  
名寄駅 4.0 121.8 1903年9月3日   北海道旅客鉄道:宗谷本線名寄本線(1989年5月1日廃止)

脚注

注釈

  1. ^ その後の朱鞠内地区[4]
  2. ^ 吉利は鹿児島県日置市東市来町の士族出身で、明治時代の政府内に少なからずの友人知人が存在していた様であるが、たった一人での誓願は例を見ないものであった。吉利には、地方から日本を豊にしていきたい、鷹泊の白金鉱脈、森林資源、水力発電等の思いがあったといわれる。誓願44日後には測量隊が調査に入っている。第一次世界大戦の影響で着工は1922年(大正11年)となった。この経緯は『鉄路の残響 深名線・71年の記録』(制作:北海道映像記録)に詳しい。
  3. ^ 1959年に町制施行[4]
  4. ^ 100円の収入を得るための支出額で営業成績を表したもの。
  5. ^ 北海道中央バスから1990年に北海道中央バス100%出資の子会社として分社化されたバス事業者[28]
  6. ^ 深川市・幌加内町・名寄市・上川郡風連町(現・名寄市風連町)。駅などの施設は設けられていなかったが、北母子里 - 天塩弥生間で風連町域を約4.5 km通っていた[29]
  7. ^ この当時は、バス事業はJR北海道直営で行われており、分社化されたのは2000年4月1日からである[30]
  8. ^ 旅客列車と貨物列車を1つの列車にまとめた運行形態。
  9. ^ a b 全線直通列車と区間運転列車のうち、各1往復は機関車牽引の混合列車であった。
  10. ^ a b c d e f g 仮乗降場としての開設日[6]
  11. ^ a b 毎年12月1日 - 4月20日の間は全列車通過していた。
  12. ^ 下政和仮乗降場として開設され、後に改称された[6]
  13. ^ a b 毎年12月1日 - 4月30日(1987年(昭和62年)までは4月20日)の間は全列車通過していた[27]

出典

  1. ^ a b c 『北海道鉄道百年史 中巻』p.134
  2. ^ “緊急リポート 深名線廃止 上 経営“息切れ”JR決断 安定基金 低金利で運用益出ず 並行の国・道道整備も一因”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1993年12月6日)
  3. ^ a b “深名線 もう乗れない… 54年間の歴史に幕”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1995年9月4日)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 鉄道ジャーナル 通巻183号 青木栄一『深名線』 (1982) p.125
  5. ^ a b c d e f g h i 鉄道ジャーナル 通巻330号 鈴木文彦『存亡の淵に立つ深名線』 (1994) p.75
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 鉄道ジャーナル 通巻183号 青木栄一『深名線』 (1982) p.126
  7. ^ a b c 『北海道鉄道百年史 中巻』p.131
  8. ^ 『北海道鉄道百年史 中巻』pp.131 - 132
  9. ^ a b 『北海道鉄道百年史 中巻』p.132
  10. ^ a b 『北海道鉄道百年史 中巻』p.133
  11. ^ 『北海道鉄道百年史 中巻』p.135
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 鉄道ジャーナル 通巻183号 青木栄一『深名線』 (1982) p.127
  13. ^ a b c d e f 鉄道ジャーナル 通巻330号 鈴木文彦『存亡の淵に立つ深名線』 (1994) p.76
  14. ^ 鉄道ジャーナル 通巻291号 鈴木文彦『昭和鉄道史 11』 (1991) p.143
  15. ^ 鉄道ジャーナル 通巻183号 青木栄一『深名線』 (1982) p.129
  16. ^ 『コロタン文庫57 鉄道No.1全百科』 (1981) p.104
  17. ^ a b 鉄道ジャーナル 通巻183号 青木栄一『深名線』 (1982) p.130
  18. ^ a b c d e f 鉄道ジャーナル 通巻330号 鈴木文彦『存亡の淵に立つ深名線』 (1994) p.73
  19. ^ a b 鉄道ジャーナル 通巻251号 鈴木文彦『北の原野の細道をゆく』 (1987) p.85
  20. ^ 鉄道ジャーナル 通巻248号 鈴木文彦『ローカル線と地域社会』 (1987) p.107
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  22. ^ a b c 鉄道ジャーナル 通巻251号 鈴木文彦『北の原野の細道をゆく』 (1987) p.86
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  34. ^ 「国鉄蒸気線区別最終運転日一覧」『Rail Magagine 日本の蒸気機関車』1994年1月号増刊
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  36. ^ “深名線代替バス同乗ルポ 乗客の評価まちまち 思ったほど揺れず「鉄道より座席が狭い」”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1995年9月5日)
  37. ^ a b c d e f g h 鉄道ジャーナル 通巻183号 青木栄一『深名線』 (1982) p.128
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参考文献

書籍

  • 加藤佳一『バスで旅を創る!』講談社、2006年5月。ISBN 4062723794 
  • 鉄道友の会東京支部『コロタン文庫36 国鉄駅名全百科』小学館、1979年8月。ISBN 4092810369 
  • 鉄道友の会東京支部『コロタン文庫57 鉄道No.1全百科』小学館、1981年8月。ISBN 4092810571 
  • 『バスジャパン・ハンドブックシリーズR 78 ジェイ・アール北海道バス』BJエディターズ、2012年9月。ISBN 9784434169861 
  • 『北海道鉄道百年史 中巻』日本国有鉄道北海道総局。 

雑誌記事

  • 青木栄一「特定地方交通線の実態と問題を現地に見る 10 深名線」『鉄道ジャーナル』第183号、鉄道ジャーナル社、1982年5月、122-131頁。 
  • 青木栄一「ローカル線の現状と諸問題」『鉄道ジャーナル』第286号、鉄道ジャーナル社、1990年8月、44-50頁。 
  • 鈴木文彦「ローカル線と地域社会」『鉄道ジャーナル』第248号、鉄道ジャーナル社、1987年7月、107-113頁。 
  • 鈴木文彦「北の原野の細道をゆく」『鉄道ジャーナル』第251号、鉄道ジャーナル社、1987年9月、80-95頁。 
  • 鈴木文彦、青木栄一「昭和鉄道史 11.躍進期」『鉄道ジャーナル』第291号、鉄道ジャーナル社、1991年1月、138-146頁。 
  • 鈴木文彦「存亡の淵に立つ深名線」『鉄道ジャーナル』第330号、鉄道ジャーナル社、1994年4月、68-77頁。 
  • 鈴木文彦「深名線転換バス 発進!」『鉄道ジャーナル』第350号、鉄道ジャーナル社、1995年12月、87-89頁。 
  • 日本バス友の会「Bus Corner」『鉄道ジャーナル』第288号、鉄道ジャーナル社、1990年10月、156-158頁。 
  • 北條敦「北の道に息づく鉄輪の響き」『鉄道ジャーナル別冊29 ローカル線各駅停車』、鉄道ジャーナル社、1994年12月、10-16頁。 
  • 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第341号、鉄道ジャーナル社、1995年3月、86-95頁。 
  • 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第346号、鉄道ジャーナル社、1995年3月、90-97頁。 
  • 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第349号、鉄道ジャーナル社、1995年11月、86-95頁。 

関連項目

外部リンク