「デヴィッド・ファラガット」の版間の差分
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'''デヴィッド・グラスゴー・ファラガット'''('''David Glasgow |
'''デヴィッド・グラスゴー・ファラガット'''('''David Glasgow Farragu'''t、[[1801年]][[7月5日]] - [[1870年]][[8月14日]])は、[[アメリカ合衆国]][[海軍]]の[[軍人]]である。[[アメリカ海軍]]では初の海軍少将、同中将、同大将に昇った<ref>[[#Farragut79|Farragut, 1879]] p.3</ref><ref name="Hickman2">[[#Hickman|Hickman, 2010]], p.216</ref>。[[南北戦争]]の[[モービル湾の海戦]]で「機雷がなんだ。全速前進!」という命令を出したことで、大衆文化の中でも記憶されている<ref>[[#Stein|Stein, 2005]] p.5</ref><ref>[[#Spears|Spears, 1905]] p.328</ref>。 |
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[[山梨勝之進]]は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として8名の提督を挙げた上で{{Efn|[[山梨勝之進]]は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として、[[テミストクレス]]、[[フランシス・ドレーク]]、[[ミヒール・デ・ロイテル]]、[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]、[[ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ]]、'''デヴィッド・ファラガット'''、[[東郷平八郎]]、[[山本五十六]]の8名の提督を挙げている<ref name=":0" />。}}、[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]、'''デヴィッド・ファラガット'''、[[東郷平八郎]]の3名について特記している<ref name=":0">{{Harvnb|山梨|1981|p=|pp=17-20|loc=第一話 アメリカ海軍とファラガット提督 - 2 米海軍の伝統とファラガット提督}}</ref>。 |
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==初期の経歴== |
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== 初期の経歴 == |
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ファラガットは1801年に、[[テネシー州]]ホルストン川(現在の[[テネシー川]])沿いのロウズフェリで<ref name="Schouler170"/>、父{{仮リンク|ジョージ・ファラガット|en|George Farragut}}、母エリザベス・シャイン([[1765年]]-[[1808年]])の息子として生まれた。父は[[スペイン]]の[[メノルカ島]]生まれであり、母はスコットランド系アイルランド人の子孫で、[[ノースカロライナ州]]出身だった。その出生地は[[テネシー州]][[ノックスビル (テネシー州)|ノックスビル]]に近く、キャンベルズステーションの数マイル南東にあった<ref name="Admiral David Farragut2">{{cite web |url=http://www.sonofthesouth.net/union-generals/farragut/admiral-david-farragut.htm |title=Admiral David Farragut |publisher=Son of the South |accessdate=11 November 2010}}</ref>。父は渡し船を運航し、テネシー州民兵隊の騎兵士官も務めていた<ref name="Hickman2"/>。父のスペイン名はジョルディ・ファラグート・メスキーダ(Jordi Farragut Mesquida、父姓はFerragutとも)であり、メノルカ島のスペイン商船船長となった父アントーニ・ファラグートと母ホアナ・メスキーダのもとに生まれていた。[[1766年]]にアメリカに渡って、名をジョージに変えた<ref name="Admiral David Farragut2"/>。[[アメリカ独立戦争]]ではアメリカ側に付いた。戦中に海軍大尉となり、初めはサウスカロライナ州海軍、後に[[大陸海軍]]に勤めた。戦後西のテネシー州に移住した。 |
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[[1805年]]、父は[[ニューオーリンズ]]港での役職を引き受けた。父が先ずニューオーリンズに旅立ち、家族がその後に続いた。雇った川水夫の助けを借りた[[平底船]]での1,700マイル (2,700 km) に及ぶ冒険旅行であり、当時4歳のファラガットにとって初めての旅だった。家族がニューオーリンズで暮らしているときに、母が[[黄熱病]]で死んだ。父は幼い子供達を友人の家族に預けて、世話をしてもらう計画を立てた。 |
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デヴィッド・ファラガットの生まれた時の名前はジェイムズだった。母の死後の[[1808年]]、父親同士が友人だった海軍士官デヴィッド・ポーターと暮らし、養子にされることになった<ref>[[#Houston|Houston, Blaine, Mellette, 1916]] p.438</ref>。[[1812年]]養父の名を貰ってデヴィッドと名を変え、[[1810年]]後半には父と共に船に乗るようになった。養父の家は海軍一家だった。養家で兄弟になった中には後の[[南北戦争]]で海軍提督[[デイビッド・ディクソン・ポーター]]や海軍代将のウィリアム・D・ポーターがいた。 |
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== 結婚と家族 == |
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ファラガットはUSS''フェレット''の副官に任命され、最初の巡航を終えた後、[[1823年]][[9月24日]]にスーザン・キャロライン・マーチャントと結婚した<ref>[[#Mahan|Mahan, 1892]] p.67</ref>。スーザンは数年間病気を患った後の[[1840年]][[12月27日]]に死亡した。ファラガットは妻の病気療養中にその面倒を良くみたことで知られている<ref name=Hearn>{{cite book|last=Hearn|first=Chester G.|title=Admiral David Glasgow Farragut: The Civil War Years|year=1998|publisher=Naval Institute Press|location=Annapolis, MD|isbn=1-55750-384-2|pages=xxi+385}}</ref>。3年後の[[1843年]][[12月26日]]にバージニア・ロイアルと再婚し、[[1844年]][[10月12日]]に息子のロイアルが生まれた。 |
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== 海軍での任務 == |
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[[ファイル:David Farragut at National Portrait Gallery IMG 4516.JPG|thumb|right|[[ワシントンD.C.]]の国立肖像画ギャラリーにあるファラガットの肖像画]] |
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ファラガットの海軍での経歴は9歳のときに士官候補生として乗り組んだことに始まり、40年以上の間に幾つかの戦争に従軍した。特に南北戦争では幾つかの海戦で決定的な勝利を挙げたことで知られている。 |
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=== 米英戦争 === |
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ファラガットは[[1810年]][[12月17日]]、9歳の時に養父の影響力でアメリカ海軍の士官候補生となった<ref>[[#Spears|Spears, 1905]] p.11</ref>{{#tag:ref|Some sources place the age at eleven.<ref name="Schouler170">[[#Schouler1899|Schouler, 1899]] p.170</ref>|group="note"}}。12歳で捕獲品管理者となり、[[米英戦争]]ではデヴィッド・ポーター海軍大佐の下で戦った。USS''エセックス''に乗り組んでいた[[1812年]][[8月13日]]、イギリス海軍のHMS''アラート''捕獲の現場にいた<ref>[[#Mahan|Mahan, 1892]] pp.27-28</ref><ref>[[#Barnes'09|Barnes, 1909]] pp.36-38</ref>。この後、捕獲した''アラート''を安全な港まで回航する任務を与えられた<ref name="Memorial">[http://militaryhistory.about.com/od/naval/p/farragut.htm Kennedy Hickman, "Admiral David G. Farragut: Hero of the Union Navy"; About.com], Retrieved March 28, 2007</ref>。[[1813年]]、ヌークヒバ作戦で[[太平洋]]に向かい、太平洋ではアメリカ初の海軍基地と植民地建設に関わり、マディソンビルと名付けた。このとき島の敵対的な部族と戦闘になったが、同盟したテ・アイイ族の協力も得た。 |
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[[1814年]][[3月28日]]、[[チリ]]の[[バルパライソ]]湾でイギリス艦と戦った時に、ファラガットは負傷し、捕虜になった<ref>[[#Spears|Spears, 1905]] pp.74-80</ref>。 |
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=== 西インド諸島 === |
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[[1822年]]、ファラガットは海軍大尉に昇進した。[[西インド諸島]]の[[西インド諸島海賊掃討作戦|海賊に対する作戦]]を実行中だった。[[カリブ海]]で[[海賊]]と戦うために艤装された艦船の「モスキート艦隊」で任務に就いた。昔の艦長であるポーター准将が艦隊指揮を執ることを知ると、ポーターの弟であるジョン・ポーターが指揮する小艦の1つ''グレイハウンド''乗艦を求め、認められた。[[1823年]][[2月14日]]、艦隊は西インド諸島に向けて出帆し、その後の6か月で、海賊をカリブ海から追い出し、様々な島の隠れ家から駆逐した<ref>[[#Mahan|Mahan, 1892]] pp.63-64</ref>。この作戦では''エクスペリメント''の副艦長になった<ref>[[#Spears|Spears, 1905]] pp.32-33</ref>。[[1824年]]、USS''フェレット''の指揮を任され、初めて指揮する艦となった<ref>[[#Spears|Spears, 1905]] pp.123, 126</ref>。 |
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=== メア島海軍造船所 === |
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[[1853年]]、[[アメリカ合衆国海軍長官]][[ジェイムズ・コクラン・ドビン (1世)|ジェイムズ・C・ドビン]]が、サンパブロ湾の[[サンフランシスコ]]近くに[[メア・アイランド海軍造船所|メア島海軍造船所]]を造る役目にファラガット海軍中佐を選んだ。[[1854年]]8月、[[バージニア州]][[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]の兵站部検査官補を務めていたファラガットがワシントンから呼び戻された。[[フランクリン・ピアース]]大統領がファラガットの海軍での経歴を顕彰し、新しい任務に付けさせたものだった。1854年[[9月16日]]、ファラガットは[[カリフォルニア州]][[ヴァレーホ (カリフォルニア州)|ヴァレーホ]]のメア島海軍造船所の指揮官に就任した。この造船所は[[アメリカ合衆国西海岸|アメリカ西海岸]]で艦船を修繕する港になった。ファラガットは[[1858年]][[7月16日]]に海軍大佐としてメア島任務を命じられ、[[1859年]][[8月11日]]に英雄としての出迎えを受けて戻った<ref>[[#Spears|Spears, 1905]] p.143.</ref><ref>[[#Farragut79|Farragut, 1879]] pp.168-169.</ref>。 |
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=== 南北戦争 === |
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[[ファイル:Admiral David G Farragut.jpg|thumb|ファラガット提督、1863年頃]] |
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ファラガットは南北戦争前にノーフォークに住んでいたが、知人にはアメリカ合衆国からの脱退は反逆と見なすという考えを明らかにしていた。開戦の直前にバージニア生まれの妻と共に、[[ニューヨーク]]市からすぐ郊外にある小さな町、ヘイスティングス・オン・ハドソンに移転した<ref name="Schouler170"/><ref name=Winters/>。 |
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[[北軍]]での就役を申し出たが、最初は海軍退役兵局での任務を与えられた。養家の兄弟であるデイビッド・ディクソン・ポーターから特殊任務の指揮を提案されたが、その標的がノーフォークになる可能性があることを知ると躊躇した。そこには友人や親戚が住んでいたので、標的が子供時代を過ごしたニューオーリンズに変更されたことを知って安心した。ファラガットは南部の生まれであり、その妻もそうだったので、海軍はファラガットの北軍に対する忠誠心をいくらか疑っていた。ポーターがファラガットの肩を持ち、ファラガットはニューオーリンズ攻撃の主要任務を担うことになった<ref name="Winters">John D. Winters, ''The Civil War in Louisiana'', Baton Rouge, Louisiana: Louisiana State University Press, 1963, ISBN 0-8071-0834-0, p. 56</ref>。 |
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[[1862年]][[2月3日]]、メキシコ湾封鎖戦隊の指揮官に指名され、秘密任務を受けた。その旗艦とした大砲25門搭載蒸気艦USS''ハートフォード''に、17隻の艦艇からなる艦隊を従え、[[ハンプトン・ローズ]]を出港した。[[ミシシッピ川]]の河口に到着すると、その両岸には[[南軍]]のセントフィリップ砦とジャクソン砦があり、2つ合わせて100門以上の重砲があり、守備隊は700名がいた。ファラガットの艦隊が接近したことを知ると、南軍はニューオーリンズ港の外に16隻の砲艦艦隊を集合させた<ref>[[#Schouler1899]] pp.171-172</ref>。 |
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[[4月18日]]、ファラガットはポーターの指揮する迫撃砲艦隊に2つの砦への砲撃開始を命令し、そこそこの損害を与えたが、降伏を強いるところまでは至らなかった。2日間にわたる激しい砲撃戦の後で、ファラガットはジャクソン砦とセントフィリップ砦の下を通り過ぎ、さらにシャルメット砲台の下も過ぎて、[[4月29日]]にはニューオーリンズ市と港を占領した。この戦争では決定的な出来事になった<ref>[[#Rhodes1917|Rhodes, 1917]] pp.119-120</ref>。[[アメリカ合衆国議会]]は1862年7月16日に海軍少将(リア・アドミラル)の位を創設してファラガットに与えその栄誉を称えた。この階級はそれまでのアメリカ海軍には無かった。この時までアメリカ海軍は「フラッグオフィサー」という言葉を好み、アドミラル(提督)という階級を使わないようにしていた。これはヨーロッパ諸国海軍の階級に関する伝統とは区別するためだった。この年の7月、ファラガットは[[ミシシッピ州]][[ヴィックスバーグ (ミシシッピ州)|ヴィックスバーグ]]を守る砲台の下も通過したが、この時は成果を挙げられなかった。間に合わせの南軍[[装甲艦]]がファラガットの38艦の戦隊を後退させた。 |
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ファラガットは好戦的な指揮官として、常に他者と協調できるわけではなかった。[[ポートハドソンの包囲戦]]では、当初の作戦が、[[ナサニエル・バンクス]]将軍指揮する[[メキシコ湾岸軍]]による陸からの陽動攻撃に支援されて、南軍の堅い要塞の下をファラガットの戦隊が通過することになっていた。行動開始は[[1863年]][[3月15日]]午前8時と決められていた。ファラガットは[[3月14日]]に、行動開始時刻をその日の午後9時に勝手に繰り上げ、北軍陸上部隊が配置に付く前に砲台下の通過を始めさせた。北軍の協調が取られていなければ、南軍はファラガットの戦隊に攻撃を集中でき、その艦船に大きな損傷を与えた。 |
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[[ファイル:DavidFarragutonUSSHartford.jpg|thumb|left|''ハートフォード''艦上のファラガット]] |
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ファラガット戦隊は後退を強いられ、2艦のみが南軍の砲台下を通過できただけだった。ファラガットは砲撃を免れた後、ポートハドソンの戦闘には参加できず、バンクス将軍は海軍の支援という利点無しに包囲を続けることになった。北軍は砦に対して2度総攻撃を掛けたが、2度とも大きな損失を出して跳ね返された。ファラガットの戦隊は分裂していたが、残った2艦で[[レッド川 (ミシシッピ川水系)|レッド川]]河口を封鎖することはできた。ポートハドソンとヴィックスバーグの間のミシシッピ川を効率よくパトロールするのはできなかった。ファラガットの判断がアメリカ海軍と北軍陸上部隊にとって高いものにつき、このポートハドソンでは戦争全体の中でも高い損失率を出した。 |
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[[7月4日]]に[[ビックスバーグの包囲戦|ヴィックスバーグ要塞が降伏し]]、ポートハドソンはミシシッピ川で南軍最後の要塞となった。[[7月9日]]、南軍守備隊から降伏の意思表示があり、バンクス将軍はこれを受け入れた。アメリカ軍事史で最も長い包囲戦が終わった。ミシシッピ川を支配することは北軍戦略にとって最重要事であり、ポートハドソンの降伏によって南軍の支配地は2つに分けられてしまった。 |
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[[1864年]][[8月5日]]、ファラガットは[[モービル湾の海戦]]で大きな勝利を挙げた。[[モービル (アラバマ州)|モービル]]は南軍にとって[[メキシコ湾]]に開いた最後の港だった。湾は多くの[[機雷]]で埋められていた。当時は係留された機雷を魚雷(トーピードウ)と呼んでいた<ref>{{citation | contribution = "DAMN THE TORPEDOES!" "Full speed ahead!" | title = Vicksburg | publisher = Vicksburg National Military Park| id = | contribution-url = http://www.nps.gov/vick/forteachers/upload/Torpedoes.pdf | format = PDF | accessdate = 2012-01-30}}</ref>。ファラガットはその艦隊に湾突入を命じた。偵察艦USS''テクムセ''が機雷に触れて沈んだとき、その他の艦は後退を始めた。 |
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[[ファイル:Farragut&Granger.jpg|thumb|ファラガット提督(左)とゴードン・グレンジャー将軍]] |
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ファラガットはその高い指揮台から艦船が戻ってきているのを見た。ファラガットは旗艦USS''ハートフォード''の索具に自身の体を縛り付けていた。その旗艦の拡声器からUSS''ブルックリン''に向かって「何があったんだ?」と叫んだ。「機雷です!」という返事が返ってきた。「機雷がなんだ!」とファラガットは叫び、「鐘4打。ドレイトン艦長、前進! ジューエット、全速!」と続けた<ref>[[#Spears|Spears, 1905]] p.359</ref><ref>[[#Farragut79|Farragut, 1879]] pp.416–17</ref>。艦隊の大半が湾の内に入ることに成功した。ファラガットはモーガン砦とゲインズ砦の砲台からの抵抗を乗り越え、[[フランクリン・ブキャナン]]提督の戦隊を破った。 |
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[[1864年]][[12月21日]]、[[エイブラハム・リンカーン]]大統領はファラガットを海軍中将に昇進させた。戦後の[[1866年]][[7月25日]]には海軍大将に昇進した<ref name="Hickman2"/>。最後の任務は[[1867年]]から[[1868年]]まで、スクリュー推進[[フリゲート]]艦USS''フランクリン''を旗艦とするヨーロッパ戦隊を指揮したことだった。ファラガットは生涯現役に留まっていた。このような海軍士官は他に6人しかいない<ref>The others were his foster brother [[デイビッド・ディクソン・ポーター|David Dixon Porter]], [[ジョージ・デューイ|George Dewey]], [[ウィリアム・リーヒ|William D. Leahy]], [[アーネスト・キング|Ernest King]], [[チェスター・ニミッツ|Chester Nimitz]], and [[ウィリアム・ハルゼー|William Halsey]].</ref>。 |
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=== ファラガットの海軍における年譜 === |
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* [[1810年]][[12月17日]]、士官候補生に任官 |
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* [[1812年]]、''エセックス''乗り組み |
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* [[1815年]] – [[1817年]]、''インディペンデンス''と''マケドニアン''で[[地中海]]任務 |
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* [[1818年]]、[[チュニス]]で9か月間陸上勤務 |
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* [[1819年]]、USS''シャーク''の副官 |
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* [[1823年]]、USS''フェレット''指揮官 |
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* [[1825年]][[1月13日]]、フリゲート艦''ブランディワイン''で海軍大尉に昇進 |
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* [[1826年]] – [[1838年]]、様々な艦で従属任務 |
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* 1838年、スループ艦''エリー''指揮官 |
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* [[1841年]][[9月8日]]、海軍中佐に昇進 |
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* [[米墨戦争]]、スループ・オブ・ウォー''サラトガ''指揮官 |
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* [[1848年]] – [[1853年]]、バージニア州[[ノーフォーク海軍基地]]勤務、兵站部検査官補 |
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* [[1852年]]9月 – 1853年8月、バージニア州[[モンロー砦]]のオールドポイントコンフォートで、海軍砲台の耐久性試験監督<ref>Farragut, Commander D.L.. Report from the Naval Testing Battery at Old Point Comfort Va, a journal book filed with the Bureau of Ordnance & Hydrography on August 31, 1853.</ref> |
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* 1853年 – [[1854年]]、[[ワシントンD.C.]]勤務 |
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* [[1855年]][[9月14日]]、海軍大佐に昇進 |
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* 1854年 – [[1858年]]、[[サンフランシスコ湾]]でメア島海軍基地建設任務 |
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* 1858年 – [[1859年]]、スループ・オブ・ウォーUSS''ブルックリン''指揮官 |
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* [[1860年]] – [[1861年]]、ノーフォーク海軍基地勤務 |
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* [[1862年]]1月、USS''ハートフォード''指揮、17艦を率いて西メキシコ湾封鎖戦隊指揮 |
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* 1862年4月、占領した[[ニューオーリンズ]]市の指揮 |
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* 1862年7月16日、海軍少将に昇進 |
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<!-- these two are not in chronological order, but I don't know which is correct --> |
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* 1862年6月23日、ミシシッピ州ヴィックスバーグで負傷 |
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* [[1863年]]5月、USS''モノンガヘラ''指揮 |
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* 1863年5月、USS''ペンサコーラ''指揮 |
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* 1863年7月、USS''テネシー''指揮 |
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* [[1864年]]9月5日、北大西洋封鎖戦隊の指揮を提案されたが辞退 |
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* 1864年12月21日、海軍中将に昇進 |
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* [[1865年]]4月、[[エイブラハム・リンカーン]]大統領葬儀の儀仗兵を務めた |
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* [[1866年]][[7月25日]]、海軍大将に昇進 |
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* [[1867年]]6月、USS''フランクリン''指揮 |
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* 1867年 – 1868年、ヨーロッパ戦隊指揮 |
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* 1870年8月12日、死去 |
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[[ファイル:Admiral David Farragut Monument 1024.jpg|thumb|ブロンクス区[[ウッドローン墓地 (ニューヨーク市ブロンクス)|ウッドローン墓地]]にあるファラガットの記念碑]] |
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== 死 == |
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ファラガットは1870年8月12日、休暇中の[[ニューハンプシャー州]][[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]で心臓発作のために死去した。69歳だった。ニューヨーク市[[ブロンクス区]][[ウッドローン墓地 (ニューヨーク市ブロンクス)|ウッドローン墓地]]に埋葬された<ref>[[#Shorto|Shorto, 1991]] p.306</ref>。その墓所は[[アメリカ合衆国国家歴史登録財]]に指定されている。 |
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== 遺産 == |
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[[ファイル:David Farragut 1903 issue-$1.jpg|thumb|160px|left|<center>1903年発行の切手</center>]] |
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[[ファイル:Farragut Porter 1937 Issue-3c.jpg|thumb|252px|<center>1937年発行の切手</center>]] |
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アメリカ海軍の将校ではこれまでに4人が郵便切手の図案に使われたが、ファラガットは1回にとどまらず採用される栄誉に浴した。最初は[[1903年]]に発行された1ドル黒単色のものだった。2回目は[[1937年]]に発行された海軍切手であり、5種シリーズの1つだった。3セント紫単色であり、左にファラガット、右にデヴィッド・ポーター、中央に帆走航海中の戦艦を配した。最近のものでは[[1995年]][[6月29日]]に[[ペンシルベニア州]][[ゲティスバーグ (ペンシルベニア州)|ゲティスバーグ]]で発行された32セント切手がある<ref>[http://arago.si.edu/index.asp?con=5&cmd=2&q=david+farragut&f=1&f=2&d_start=&d_end=&c=&lf=3 Smithsonian National Postal Museum]</ref><ref>Scott's U.S. Stamp Catalogue</ref>。 |
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ファラガットの子孫では1人だけが海軍に勤めた。6代後の甥ブレット・ヒンチ(オーストラリア人)が[[1985年]]から[[1995年]]まで[[オーストラリア]]海軍に勤め、海軍中佐になった。 |
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<div style="background-color:white; border:solid 2px SteelBlue"> |
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|title='''ファラガットに因むもの''' |
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|titlestyle=background-color:LightSteelBlue; text-align: center |
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|state=collapsed |
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|liststyle=background-color:WhiteSmoke; border:solid 1px steelblue; padding:1em;text-align: left |
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|list1= |
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[[ファイル:David Farragut statue at Farragut Square.jpg|thumb|ファラガット提督の彫像(右)、1881にその旗艦のプロペラから制作、[[ワシントンD.C.]]中心街のファラガット広場、手前は[[アメリカ合衆国国立公園局|国立公園局]]の解説盤、その有名な命令が伝えられている]] |
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[[ファイル:David Farragut WWI poster.jpg|thumb|right|第一次世界大戦のポスター、[[モービル湾の海戦]]で「機雷がなんだ。全速前進!」と叫んでいるファラガットを描いてある]] |
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[[ファイル:Admiral Farragut statue in Madison Square Park.jpg|thumb|[[ニューヨーク]]市[[5番街 (マンハッタン)|五番街]][[マディソン・スクエア]]公園のファラガット記念碑]] |
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[[ファイル:Muskegon Farragut statue.jpg|thumb|[[ミシガン州]]マスキゴンにあるファラガットの彫像背面]] |
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多くの場所や物がファラガットに因んで名付けられている。 |
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* アドミラル・ファラガット・アカデミーは、ニュージャージー州ピンビーチで1933年に海軍提督達によって設立された海軍の訓練を行うカレッジ準備校である。1945年に現在唯一となっているキャンパスが[[フロリダ州]][[セントピーターズバーグ (フロリダ州)|セントピーターズバーグ]]に開かれた。1946年にアメリカ合衆国議会によって海軍栄誉学校に指定された<ref>[http://www.farragut.org/ Admiral Farragut Academy website]</ref> |
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* [[テネシー州]]ファラガット、ファラガット提督の故郷であるキャンベルズステーションがある。1982年に法人化されたときにファラガットに改名された。事実はこの町の南東数マイル、ホルストン川沿いのロウズフェリーで生まれたが、当時はキャンベルズステーションが最も近い開拓地だった。 |
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* [[ワシントンD.C.]]中心街のファラガット広場、近くには[[ワシントンメトロ|地下鉄]]のファラガット北駅と西駅がある |
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* ファラガット高校は1904年にファラガット提督の故郷であるキャンベルズステーションに建設された。今日では生徒数2,500人近くを誇り、テネシー州最大級である。スクールカラーは青と白であり、スポーツチームは「ジ・アドミラルズ」と呼ばれている |
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* ブルックリン区のファラガット地区 |
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* ファラガット・フィールド、[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ海軍兵学校]]の運動場 |
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* ファラガット・キャリア・アカデミー、[[イリノイ州]][[シカゴ]]市の高校、1894年設立、この学校のスポーツチームも「ジ・アドミラルズ」と呼ばれている。1896年にグランド・アーミー・オブ・ザ・レパブリックのファラガット・ポストが贈呈した提督の油絵がある。[[NBA]]のスター選手[[ケビン・ガーネット]]がこの高校を卒業した |
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* アイオワ州ファラガット、アイオワ州南西部の小さな農業町。町の外れにある看板からファラガットの有名なスローガンが訪問者を出迎える。地元のファラガット・コミュニティ高校のスポーツチームは「アドミラル」と「セイラー」と呼ばれる。ファラガットの名前を冠する船から得た記念品を収蔵している |
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* アメリカ海軍の[[駆逐艦]]歴代の5隻、USS ''ファラガット''、2艦は艦級の第一 |
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* アメリカ海軍の[[リバティ船]]、SS''デヴィッド・G・ファラガット'' |
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* 3つの記念切手(上記) |
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* 100ドルの中期国債、コイン国債とも呼ばれる。1890年と1891年のシリーズであり、表面にファラガットの肖像を描いている。1890年の国債は、裏面の大きなゼロがスイカの縞に似ているので、収集家から西瓜国債と呼ばれている |
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* アメリカ海軍兵学校礼拝堂のステンドグラス窓、モービル湾でUSS''ハートフォード''の索具に立つファラガットの姿を描いている |
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* デヴィッド・グラスゴー・ファラガット高校、[[アメリカ合衆国国防総省]]の高校、スペインの[[ロタ (スペイン)|ロタ]]にある[[ロタ海軍基地|海軍基地]]にある。そのスポーツチームも「ジ・アドミラルズ」と呼ばれている。 |
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* ファラガット・パークウェイ、ニューヨーク州ヘイスティングス・オン・ハドソン |
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* ファラガット中学校、ニューヨーク州ヘイスティングス・オン・ハドソン |
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* デヴィッド・ファラガット学校、フィラデルフィア市 |
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* [[プエルトリコ]]、[[マヤグエス]]の小学校 |
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* ブロンクス区の小学校 |
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* ファラガット州立公園、[[アイダホ州]]、[[第二次世界大戦]]時に海軍の基礎訓練に使われた |
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* メノルカ島カラン・フォーキャットのホテル |
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* [[テネシー州会議事堂]]最上階の海軍儀礼服を着たファラガットの胸像 |
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* フロリダ州コーラルゲイブルスの水路沿いにある集合住宅 |
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* [[カリフォルニア州]]バレホにある小学校、メア島ゲイトのすぐ外にある |
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* テネシー州コンコードのノースショア・ドライブ近くにある記念碑、碑銘には「ファラガット提督の生誕地、1801年7月5日生、[[ジョージ・デューイ|デューイ]]提督謹呈、1900年5月15日」と記されている<ref>Neely, Jack. Knoxville's Secret History, page 17. Scruffy City Publishing, 1995.</ref> |
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* [[マサチューセッツ州]][[ボストン]]市にあるデヴィッド・ファラガット小学校 |
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* マサチューセッツ州サウスボストン市にあるバーとレストラン、ファラガット・ハウス |
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* マサチューセッツ州サウスボストン市海浜近くにある等身大より大きな彫像 |
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* アラスカ州ファラガット湾、1887年にトマスによる、座標は [Latitude: 57.11889 : Longitude: -133.23056] |
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* メア島海軍基地にあるトゥーロ大学カリフォルニアのファラガット・イン |
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'''記念碑''' |
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* ニューヨーク市マディソンスクエア公園、オーガスタス・セント・ゴーデンス制作、1882年、1994年にニューハンプシャー州コーニッシュにレプリカ |
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* ワシントンD.C.中心街のファラガット広場、ビニー・リーム制作、1881年 |
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* マサチューセッツ州ボストン市マリーンパーク、ヘンリー・ハドソン・キットソン制作、1881年 |
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* ミシガン州マスキゴンのハックリー公園、チャールズ・ニーハウス制作、1900年 |
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{{Navbox|title='''芸術や文学での引用''' |
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|titlestyle=background-color:LightSteelBlue; text-align: center |
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|liststyle=background-color:WhiteSmoke; border:solid 1px steelblue; padding:1em;text-align: left |
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* [[ジュール・ヴェルヌ]]が1870年に著した小説『[[海底二万里]]』の登場人物「ファラガット准将」 |
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* テレビ映画『[[スター・トレック]]』、多くの[[スタートレックに登場した宇宙船のクラス一覧|宇宙船]]がファラガットと名付けられている<ref>Memory Alpha, [http://en.memory-alpha.org/wiki/USS_Farragut_(NCC-60597) USS Farragut (NCC-60597)] mentions the fictional starships commissioned under the name Farragut.</ref> |
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* [[トム・ペティ|トム・ペティ・アンド・ハートブレーカーズ]]のアルバム『[[破壊 (アルバム)|ダム・ザ・トーピートウズ]]』はファラガットの有名な台詞から取られている |
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* バンドMDFMKのアルバム''MDFMK''には「ダム・ザ・トーピートウズ」という歌が収録されている |
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* 喜劇映画『[[ギャラクシー・クエスト]]』で、[[ティム・アレン]]の演じる人物が「諦めるな! 降伏するな! 共鳴大砲がなんだ! 全速前進」と叫んでいる |
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* 1952年の映画『Yankee Buccaneer』では、ファラガットの役をスコット・ブラディが演じた |
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* オリビア・ヘドリックが2010年に発売した朗読デビュー作では「私がどんなに貴方を愛しているか、ファラガットさん」という台詞がある |
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* 1943年の映画『The More the Merrier』で、[[チャールズ・コバーン]]が彫像にある台詞を見て、それをモットーにする、それがその後の筋書きで生きてくる |
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== 脚注 == |
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===注釈=== |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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===出典=== |
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{{Reflist|2}} |
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== 原註 == |
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== 参考文献 == |
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*{{Citation|和書|last=山梨|first=勝之進|authorlink=山梨勝之進|year=1981|title=歴史と名将 - 戦史に見るリーダーシップの条件|edition=|publisher=[[毎日新聞社]]|series=|ref=harv}} |
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* {{cite book |last='''Adelson''' |first=Bruce |title=David Farragut:Union Admiral |ref=Adelson |authorlink= |publisher=<br>Infobase Publishing |year=2001 |pages=80 |isbn=0791064174 }} [https://books.google.co.jp/books?id=TKsyXESGC-gC&dq=David+Farragut&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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* {{cite book |last='''Barnes''' |first=James |title=David G. Farragut |ref=Barnes |authorlink= |publisher=<br>Small, Maynard & Company, |year=1899 |pages=132 |isbn=1592963838 }} [https://books.google.co.jp/books?id=ieyHmxhP4NYC&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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* {{cite book |last='''Barnes''' |first=James |title=Midshipman Farragut |ref=Barnes'09 |authormask=2 |publisher=<br>D. Appleton and Company, New York |year=1909 |pages=151 |isbn= }} [https://books.google.co.jp/books?id=PSMwAAAAYAAJ&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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* {{cite book |last='''Farragut''' |first=Loyall |title=The life of David Glasgow Farragut, first admiral of the United States navy: embodying his journal and letters |ref=Farragut79 |authorlink= |publisher=<br>D. Appleton and Company, New York |year=1879 |pages=586 |isbn= }} [https://books.google.co.jp/books?id=ch1CAAAAIAAJ&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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* {{cite web |url=http://militaryhistory.about.com/od/naval/p/farragut.htm |title=Admiral David G. Farragut: Hero of the Union Navy |author='''Hickman''', Kennedy US Military History Institute |ref=Hickman |publisher=<br>New York Times; about.com |accessdate=11 November 2010}} |
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* {{cite book |last='''Houston''' |first=Florence Amelia Wilson |last2='''Blaine''' |first2=Laura Anna Cowan |last3='''Mellette''' |first3=Ella Dunn |title=<br>Maxwell History and Genealogy: Including the Allied Families of |ref=Houston |authorlink= |publisher=<br>Press of C.E. Pauley, Indianapolis Engraving Company |year=1916 |pages=642 |isbn= }} [https://books.google.co.jp/books?id=9aU0AAAAMAAJ&vq=farragut&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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* {{cite book |last='''Mahan''' |first=Alfred Thayer |title=Admiral Farragut |ref=Mahan |authorlink= |publisher=<br>D. Appleton and Company, New York |year=1892 |pages=333 |isbn= }} [https://books.google.co.jp/books?id=vuMAXGkQjUYC&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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* {{cite book |last='''Rhodes''' |first=James Ford |title=History of the Civil War |ref=Rhodes1917 |authorlink= |publisher=MacMillian & Co., New York, Boston, London |year=1917 |pages=467 |isbn= }} [https://books.google.co.jp/books?id=FbQTAAAAYAAJ&vq=farragut&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja E'Book] <!-- |
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<ref>[[#Rhodes1917|Rhodes, 1917]] p.467 </ref> --> |
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* {{cite book |last='''Schouler''' |first=James |title=History of the Civil War: being vol. VI of History of the United States of America, under the constitution, 1861-1865 |ref=Schouler1899 |authorlink=|publisher=Dodd, Meade & Co., New York |year=1899 |pages=699 |isbn= }} [https://books.google.co.jp/books?id=eNA4TeIfMFwC&vq=naval&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja E'Book] |
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* {{cite book |last='''Shorto''' |first=Russell |title=David Farragut and the Great Naval Blockade |ref=Shorto |authorlink= |publisher=<br>Silver Burdett Press |year=1991 |pages=128 |isbn=0382240502 }} [https://books.google.co.jp/books?id=YatF6BDzGfAC&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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* {{cite book |last='''Soley''' |first=James Russell |title=Admiral Porter |ref=Soley03 |authorlink=|publisher=<br>D. Appleton, New York |year=1903 |pages=499 |isbn= }} [https://books.google.co.jp/books?id=h7lEAAAAIAAJ&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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* {{cite book |last='''Spears''' |first=John Randolph |title=David G. Farragut |ref=Spears |authorlink= |publisher=<br>G.W. Jacobs, Philadelphia |year=1905 |pages=407 }} [https://books.google.co.jp/books?id=QdNEAAAAIAAJ&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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* {{cite book |last='''Stein''' |first=R. Conrad |title=David Farragut: first admiral of the U.S. Navy |ref=Stein |authorlink= |publisher=<br>Chelsea House Publishers |year=2005 |pages=40 |isbn=1592963838 }} [https://books.google.co.jp/books?id=ieyHmxhP4NYC&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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*{{DANFS}} |
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== 関連図書 == |
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* {{cite book |last='''Anderson''' |first=Bern |title=By Sea And By River |ref=Anderson |authorlink= |publisher=<br/>Da Capo Press, USA |isbn=0-306-80367-4 |pages=342 |year=1989, 7th printing}} [https://books.google.com/books?id=hoCK_yzA8xkC&vq=blockade+runner&source=gbs_navlinks_s Url] |
|||
* {{cite book |last='''Fowler''' |first=William M. Fowler |title=Under Two Flags: The American Navy in the Civil War |ref=Fowler90 |authorlink= |publisher=<br>Naval Institute Press |year=1990 |pages=352 |isbn=9781557502896 }} [https://books.google.co.jp/books?id=bd92u6dinXUC&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
|||
* '''Hearn''', Chester G. (1995) ''The Capture of New Orleans 1862''<br> Louisiana State University Press, Baton Rouge, Louisiana, pp. 292 ISBN = 0-8071-1945-8, [https://books.google.co.jp/books?id=M1Z0-hnvy8QC&vq=navy&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
|||
* '''Nash''', Howard Pervear (1972). ''A naval history of the Civil War''<br>A. S. Barnes, p. 375, ISBN 9780498078415, [https://books.google.co.jp/books?id=eUQaAQAAIAAJ&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
|||
* {{cite book |last='''Tenney''' |first=W. J. |title=The Military and Naval History of the Rebellion in the United States: |ref=Tenney |authorlink= |publisher=<br>D. Appleton, New York |year=1867 |pages=843 |isbn= }} [https://books.google.co.jp/books?id=wZw6AAAAcAAJ&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y&hl=ja Url] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Commonscat|David Farragut}} |
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* [http://www.nps.gov/archive/vick/visctr/sitebltn/farragut.htm National Park Service biography and Vicksburg battle info] |
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{{Appletons' poster|year=1900|Farragut, David Glasgow|デヴィッド・ファラガット}} |
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* [http://www.spawar.navy.mil/fleet/insurv/htmlbios/farragut.htm Farragut biography on navy.mil] |
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* {{Internet Archive short film|id=gov.dod.dimoc.24448|name="Naval Heritage Part 2 – Farragut Story, the (1962)"}} |
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* [http://www.idahoparks.org/parks/farragut.html Idaho's Farragut State Park] |
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* [http://www.admiralfarragutalumni.com Admiral Farragut Academy Alumni Site] |
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2024年3月14日 (木) 13:30時点における最新版
デヴィッド・グラスゴー・ファラガット David Glasgow Farragut | |
---|---|
ファラガット海軍大将 | |
生誕 |
1801年7月5日 テネシー州キャンベルズ・ステーション(現在はファラガット) |
死没 |
1870年8月14日 ニューハンプシャー州ポーツマス(現在はメイン州キタリー) |
所属組織 | アメリカ海軍 |
軍歴 | 1810年 – 70年 |
最終階級 | 海軍大将 |
戦闘 |
米英戦争 南北戦争 |
署名 |
デヴィッド・グラスゴー・ファラガット(David Glasgow Farragut、1801年7月5日 - 1870年8月14日)は、アメリカ合衆国海軍の軍人である。アメリカ海軍では初の海軍少将、同中将、同大将に昇った[1][2]。南北戦争のモービル湾の海戦で「機雷がなんだ。全速前進!」という命令を出したことで、大衆文化の中でも記憶されている[3][4]。
山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として8名の提督を挙げた上で[注釈 1]、ホレーショ・ネルソン、デヴィッド・ファラガット、東郷平八郎の3名について特記している[5]。
初期の経歴
[編集]ファラガットは1801年に、テネシー州ホルストン川(現在のテネシー川)沿いのロウズフェリで[6]、父ジョージ・ファラガット、母エリザベス・シャイン(1765年-1808年)の息子として生まれた。父はスペインのメノルカ島生まれであり、母はスコットランド系アイルランド人の子孫で、ノースカロライナ州出身だった。その出生地はテネシー州ノックスビルに近く、キャンベルズステーションの数マイル南東にあった[7]。父は渡し船を運航し、テネシー州民兵隊の騎兵士官も務めていた[2]。父のスペイン名はジョルディ・ファラグート・メスキーダ(Jordi Farragut Mesquida、父姓はFerragutとも)であり、メノルカ島のスペイン商船船長となった父アントーニ・ファラグートと母ホアナ・メスキーダのもとに生まれていた。1766年にアメリカに渡って、名をジョージに変えた[7]。アメリカ独立戦争ではアメリカ側に付いた。戦中に海軍大尉となり、初めはサウスカロライナ州海軍、後に大陸海軍に勤めた。戦後西のテネシー州に移住した。
1805年、父はニューオーリンズ港での役職を引き受けた。父が先ずニューオーリンズに旅立ち、家族がその後に続いた。雇った川水夫の助けを借りた平底船での1,700マイル (2,700 km) に及ぶ冒険旅行であり、当時4歳のファラガットにとって初めての旅だった。家族がニューオーリンズで暮らしているときに、母が黄熱病で死んだ。父は幼い子供達を友人の家族に預けて、世話をしてもらう計画を立てた。
デヴィッド・ファラガットの生まれた時の名前はジェイムズだった。母の死後の1808年、父親同士が友人だった海軍士官デヴィッド・ポーターと暮らし、養子にされることになった[8]。1812年養父の名を貰ってデヴィッドと名を変え、1810年後半には父と共に船に乗るようになった。養父の家は海軍一家だった。養家で兄弟になった中には後の南北戦争で海軍提督デイビッド・ディクソン・ポーターや海軍代将のウィリアム・D・ポーターがいた。
結婚と家族
[編集]ファラガットはUSSフェレットの副官に任命され、最初の巡航を終えた後、1823年9月24日にスーザン・キャロライン・マーチャントと結婚した[9]。スーザンは数年間病気を患った後の1840年12月27日に死亡した。ファラガットは妻の病気療養中にその面倒を良くみたことで知られている[10]。3年後の1843年12月26日にバージニア・ロイアルと再婚し、1844年10月12日に息子のロイアルが生まれた。
海軍での任務
[編集]ファラガットの海軍での経歴は9歳のときに士官候補生として乗り組んだことに始まり、40年以上の間に幾つかの戦争に従軍した。特に南北戦争では幾つかの海戦で決定的な勝利を挙げたことで知られている。
米英戦争
[編集]ファラガットは1810年12月17日、9歳の時に養父の影響力でアメリカ海軍の士官候補生となった[11][note 1]。12歳で捕獲品管理者となり、米英戦争ではデヴィッド・ポーター海軍大佐の下で戦った。USSエセックスに乗り組んでいた1812年8月13日、イギリス海軍のHMSアラート捕獲の現場にいた[12][13]。この後、捕獲したアラートを安全な港まで回航する任務を与えられた[14]。1813年、ヌークヒバ作戦で太平洋に向かい、太平洋ではアメリカ初の海軍基地と植民地建設に関わり、マディソンビルと名付けた。このとき島の敵対的な部族と戦闘になったが、同盟したテ・アイイ族の協力も得た。
1814年3月28日、チリのバルパライソ湾でイギリス艦と戦った時に、ファラガットは負傷し、捕虜になった[15]。
西インド諸島
[編集]1822年、ファラガットは海軍大尉に昇進した。西インド諸島の海賊に対する作戦を実行中だった。カリブ海で海賊と戦うために艤装された艦船の「モスキート艦隊」で任務に就いた。昔の艦長であるポーター准将が艦隊指揮を執ることを知ると、ポーターの弟であるジョン・ポーターが指揮する小艦の1つグレイハウンド乗艦を求め、認められた。1823年2月14日、艦隊は西インド諸島に向けて出帆し、その後の6か月で、海賊をカリブ海から追い出し、様々な島の隠れ家から駆逐した[16]。この作戦ではエクスペリメントの副艦長になった[17]。1824年、USSフェレットの指揮を任され、初めて指揮する艦となった[18]。
メア島海軍造船所
[編集]1853年、アメリカ合衆国海軍長官ジェイムズ・C・ドビンが、サンパブロ湾のサンフランシスコ近くにメア島海軍造船所を造る役目にファラガット海軍中佐を選んだ。1854年8月、バージニア州ノーフォークの兵站部検査官補を務めていたファラガットがワシントンから呼び戻された。フランクリン・ピアース大統領がファラガットの海軍での経歴を顕彰し、新しい任務に付けさせたものだった。1854年9月16日、ファラガットはカリフォルニア州ヴァレーホのメア島海軍造船所の指揮官に就任した。この造船所はアメリカ西海岸で艦船を修繕する港になった。ファラガットは1858年7月16日に海軍大佐としてメア島任務を命じられ、1859年8月11日に英雄としての出迎えを受けて戻った[19][20]。
南北戦争
[編集]ファラガットは南北戦争前にノーフォークに住んでいたが、知人にはアメリカ合衆国からの脱退は反逆と見なすという考えを明らかにしていた。開戦の直前にバージニア生まれの妻と共に、ニューヨーク市からすぐ郊外にある小さな町、ヘイスティングス・オン・ハドソンに移転した[6][21]。
北軍での就役を申し出たが、最初は海軍退役兵局での任務を与えられた。養家の兄弟であるデイビッド・ディクソン・ポーターから特殊任務の指揮を提案されたが、その標的がノーフォークになる可能性があることを知ると躊躇した。そこには友人や親戚が住んでいたので、標的が子供時代を過ごしたニューオーリンズに変更されたことを知って安心した。ファラガットは南部の生まれであり、その妻もそうだったので、海軍はファラガットの北軍に対する忠誠心をいくらか疑っていた。ポーターがファラガットの肩を持ち、ファラガットはニューオーリンズ攻撃の主要任務を担うことになった[21]。
1862年2月3日、メキシコ湾封鎖戦隊の指揮官に指名され、秘密任務を受けた。その旗艦とした大砲25門搭載蒸気艦USSハートフォードに、17隻の艦艇からなる艦隊を従え、ハンプトン・ローズを出港した。ミシシッピ川の河口に到着すると、その両岸には南軍のセントフィリップ砦とジャクソン砦があり、2つ合わせて100門以上の重砲があり、守備隊は700名がいた。ファラガットの艦隊が接近したことを知ると、南軍はニューオーリンズ港の外に16隻の砲艦艦隊を集合させた[22]。
4月18日、ファラガットはポーターの指揮する迫撃砲艦隊に2つの砦への砲撃開始を命令し、そこそこの損害を与えたが、降伏を強いるところまでは至らなかった。2日間にわたる激しい砲撃戦の後で、ファラガットはジャクソン砦とセントフィリップ砦の下を通り過ぎ、さらにシャルメット砲台の下も過ぎて、4月29日にはニューオーリンズ市と港を占領した。この戦争では決定的な出来事になった[23]。アメリカ合衆国議会は1862年7月16日に海軍少将(リア・アドミラル)の位を創設してファラガットに与えその栄誉を称えた。この階級はそれまでのアメリカ海軍には無かった。この時までアメリカ海軍は「フラッグオフィサー」という言葉を好み、アドミラル(提督)という階級を使わないようにしていた。これはヨーロッパ諸国海軍の階級に関する伝統とは区別するためだった。この年の7月、ファラガットはミシシッピ州ヴィックスバーグを守る砲台の下も通過したが、この時は成果を挙げられなかった。間に合わせの南軍装甲艦がファラガットの38艦の戦隊を後退させた。
ファラガットは好戦的な指揮官として、常に他者と協調できるわけではなかった。ポートハドソンの包囲戦では、当初の作戦が、ナサニエル・バンクス将軍指揮するメキシコ湾岸軍による陸からの陽動攻撃に支援されて、南軍の堅い要塞の下をファラガットの戦隊が通過することになっていた。行動開始は1863年3月15日午前8時と決められていた。ファラガットは3月14日に、行動開始時刻をその日の午後9時に勝手に繰り上げ、北軍陸上部隊が配置に付く前に砲台下の通過を始めさせた。北軍の協調が取られていなければ、南軍はファラガットの戦隊に攻撃を集中でき、その艦船に大きな損傷を与えた。
ファラガット戦隊は後退を強いられ、2艦のみが南軍の砲台下を通過できただけだった。ファラガットは砲撃を免れた後、ポートハドソンの戦闘には参加できず、バンクス将軍は海軍の支援という利点無しに包囲を続けることになった。北軍は砦に対して2度総攻撃を掛けたが、2度とも大きな損失を出して跳ね返された。ファラガットの戦隊は分裂していたが、残った2艦でレッド川河口を封鎖することはできた。ポートハドソンとヴィックスバーグの間のミシシッピ川を効率よくパトロールするのはできなかった。ファラガットの判断がアメリカ海軍と北軍陸上部隊にとって高いものにつき、このポートハドソンでは戦争全体の中でも高い損失率を出した。
7月4日にヴィックスバーグ要塞が降伏し、ポートハドソンはミシシッピ川で南軍最後の要塞となった。7月9日、南軍守備隊から降伏の意思表示があり、バンクス将軍はこれを受け入れた。アメリカ軍事史で最も長い包囲戦が終わった。ミシシッピ川を支配することは北軍戦略にとって最重要事であり、ポートハドソンの降伏によって南軍の支配地は2つに分けられてしまった。
1864年8月5日、ファラガットはモービル湾の海戦で大きな勝利を挙げた。モービルは南軍にとってメキシコ湾に開いた最後の港だった。湾は多くの機雷で埋められていた。当時は係留された機雷を魚雷(トーピードウ)と呼んでいた[24]。ファラガットはその艦隊に湾突入を命じた。偵察艦USSテクムセが機雷に触れて沈んだとき、その他の艦は後退を始めた。
ファラガットはその高い指揮台から艦船が戻ってきているのを見た。ファラガットは旗艦USSハートフォードの索具に自身の体を縛り付けていた。その旗艦の拡声器からUSSブルックリンに向かって「何があったんだ?」と叫んだ。「機雷です!」という返事が返ってきた。「機雷がなんだ!」とファラガットは叫び、「鐘4打。ドレイトン艦長、前進! ジューエット、全速!」と続けた[25][26]。艦隊の大半が湾の内に入ることに成功した。ファラガットはモーガン砦とゲインズ砦の砲台からの抵抗を乗り越え、フランクリン・ブキャナン提督の戦隊を破った。
1864年12月21日、エイブラハム・リンカーン大統領はファラガットを海軍中将に昇進させた。戦後の1866年7月25日には海軍大将に昇進した[2]。最後の任務は1867年から1868年まで、スクリュー推進フリゲート艦USSフランクリンを旗艦とするヨーロッパ戦隊を指揮したことだった。ファラガットは生涯現役に留まっていた。このような海軍士官は他に6人しかいない[27]。
ファラガットの海軍における年譜
[編集]- 1810年12月17日、士官候補生に任官
- 1812年、エセックス乗り組み
- 1815年 – 1817年、インディペンデンスとマケドニアンで地中海任務
- 1818年、チュニスで9か月間陸上勤務
- 1819年、USSシャークの副官
- 1823年、USSフェレット指揮官
- 1825年1月13日、フリゲート艦ブランディワインで海軍大尉に昇進
- 1826年 – 1838年、様々な艦で従属任務
- 1838年、スループ艦エリー指揮官
- 1841年9月8日、海軍中佐に昇進
- 米墨戦争、スループ・オブ・ウォーサラトガ指揮官
- 1848年 – 1853年、バージニア州ノーフォーク海軍基地勤務、兵站部検査官補
- 1852年9月 – 1853年8月、バージニア州モンロー砦のオールドポイントコンフォートで、海軍砲台の耐久性試験監督[28]
- 1853年 – 1854年、ワシントンD.C.勤務
- 1855年9月14日、海軍大佐に昇進
- 1854年 – 1858年、サンフランシスコ湾でメア島海軍基地建設任務
- 1858年 – 1859年、スループ・オブ・ウォーUSSブルックリン指揮官
- 1860年 – 1861年、ノーフォーク海軍基地勤務
- 1862年1月、USSハートフォード指揮、17艦を率いて西メキシコ湾封鎖戦隊指揮
- 1862年4月、占領したニューオーリンズ市の指揮
- 1862年7月16日、海軍少将に昇進
- 1862年6月23日、ミシシッピ州ヴィックスバーグで負傷
- 1863年5月、USSモノンガヘラ指揮
- 1863年5月、USSペンサコーラ指揮
- 1863年7月、USSテネシー指揮
- 1864年9月5日、北大西洋封鎖戦隊の指揮を提案されたが辞退
- 1864年12月21日、海軍中将に昇進
- 1865年4月、エイブラハム・リンカーン大統領葬儀の儀仗兵を務めた
- 1866年7月25日、海軍大将に昇進
- 1867年6月、USSフランクリン指揮
- 1867年 – 1868年、ヨーロッパ戦隊指揮
- 1870年8月12日、死去
死
[編集]ファラガットは1870年8月12日、休暇中のニューハンプシャー州ポーツマスで心臓発作のために死去した。69歳だった。ニューヨーク市ブロンクス区ウッドローン墓地に埋葬された[29]。その墓所はアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。
遺産
[編集]アメリカ海軍の将校ではこれまでに4人が郵便切手の図案に使われたが、ファラガットは1回にとどまらず採用される栄誉に浴した。最初は1903年に発行された1ドル黒単色のものだった。2回目は1937年に発行された海軍切手であり、5種シリーズの1つだった。3セント紫単色であり、左にファラガット、右にデヴィッド・ポーター、中央に帆走航海中の戦艦を配した。最近のものでは1995年6月29日にペンシルベニア州ゲティスバーグで発行された32セント切手がある[30][31]。
ファラガットの子孫では1人だけが海軍に勤めた。6代後の甥ブレット・ヒンチ(オーストラリア人)が1985年から1995年までオーストラリア海軍に勤め、海軍中佐になった。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として、テミストクレス、フランシス・ドレーク、ミヒール・デ・ロイテル、ホレーショ・ネルソン、ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ、デヴィッド・ファラガット、東郷平八郎、山本五十六の8名の提督を挙げている[5]。
出典
[編集]- ^ Farragut, 1879 p.3
- ^ a b c Hickman, 2010, p.216
- ^ Stein, 2005 p.5
- ^ Spears, 1905 p.328
- ^ a b 山梨 1981, pp. 17–20, 第一話 アメリカ海軍とファラガット提督 - 2 米海軍の伝統とファラガット提督
- ^ a b c Schouler, 1899 p.170
- ^ a b “Admiral David Farragut”. Son of the South. 11 November 2010閲覧。
- ^ Houston, Blaine, Mellette, 1916 p.438
- ^ Mahan, 1892 p.67
- ^ Hearn, Chester G. (1998). Admiral David Glasgow Farragut: The Civil War Years. Annapolis, MD: Naval Institute Press. pp. xxi+385. ISBN 1-55750-384-2
- ^ Spears, 1905 p.11
- ^ Mahan, 1892 pp.27-28
- ^ Barnes, 1909 pp.36-38
- ^ Kennedy Hickman, "Admiral David G. Farragut: Hero of the Union Navy"; About.com, Retrieved March 28, 2007
- ^ Spears, 1905 pp.74-80
- ^ Mahan, 1892 pp.63-64
- ^ Spears, 1905 pp.32-33
- ^ Spears, 1905 pp.123, 126
- ^ Spears, 1905 p.143.
- ^ Farragut, 1879 pp.168-169.
- ^ a b John D. Winters, The Civil War in Louisiana, Baton Rouge, Louisiana: Louisiana State University Press, 1963, ISBN 0-8071-0834-0, p. 56
- ^ #Schouler1899 pp.171-172
- ^ Rhodes, 1917 pp.119-120
- ^ “"DAMN THE TORPEDOES!" "Full speed ahead!"” (PDF), Vicksburg, Vicksburg National Military Park 2012年1月30日閲覧。
- ^ Spears, 1905 p.359
- ^ Farragut, 1879 pp.416–17
- ^ The others were his foster brother David Dixon Porter, George Dewey, William D. Leahy, Ernest King, Chester Nimitz, and William Halsey.
- ^ Farragut, Commander D.L.. Report from the Naval Testing Battery at Old Point Comfort Va, a journal book filed with the Bureau of Ordnance & Hydrography on August 31, 1853.
- ^ Shorto, 1991 p.306
- ^ Smithsonian National Postal Museum
- ^ Scott's U.S. Stamp Catalogue
- ^ Admiral Farragut Academy website
- ^ Neely, Jack. Knoxville's Secret History, page 17. Scruffy City Publishing, 1995.
- ^ Memory Alpha, USS Farragut (NCC-60597) mentions the fictional starships commissioned under the name Farragut.
原註
[編集]参考文献
[編集]- 山梨勝之進『歴史と名将 - 戦史に見るリーダーシップの条件』毎日新聞社、1981年。
- Adelson, Bruce (2001). David Farragut:Union Admiral.
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D. Appleton and Company, New York. pp. 586 Url - Hickman, Kennedy US Military History Institute. “Admiral David G. Farragut: Hero of the Union Navy”.
New York Times; about.com. 11 November 2010閲覧。 - Houston, Florence Amelia Wilson; Blaine, Laura Anna Cowan; Mellette, Ella Dunn (1916).
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- Schouler, James (1899). History of the Civil War: being vol. VI of History of the United States of America, under the constitution, 1861-1865. Dodd, Meade & Co., New York. pp. 699 E'Book
- Shorto, Russell (1991). David Farragut and the Great Naval Blockade.
Silver Burdett Press. pp. 128. ISBN 0382240502 Url - Soley, James Russell (1903). Admiral Porter.
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- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。
関連図書
[編集]- Anderson, Bern (1989, 7th printing). By Sea And By River.
Da Capo Press, USA. pp. 342. ISBN 0-306-80367-4 Url - Fowler, William M. Fowler (1990). Under Two Flags: The American Navy in the Civil War.
Naval Institute Press. pp. 352. ISBN 9781557502896 Url - Hearn, Chester G. (1995) The Capture of New Orleans 1862
Louisiana State University Press, Baton Rouge, Louisiana, pp. 292 ISBN = 0-8071-1945-8, Url - Nash, Howard Pervear (1972). A naval history of the Civil War
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