「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の版間の差分
m r2.7.2) (ロボットによる 変更: es:Lord Palmerston |
CommonsDelinker (会話 | 投稿記録) 「Tropper_1849.jpg」 を 「Otto_Bache_-_Soldaternes_hjemkomst_til_København_i_1849.jpg」 に差し替え(CommonsDelinkerによる。理由:File renamed: more informative title) |
||
(63人の利用者による、間の178版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Redirect|パーマストン}} |
|||
[[ファイル:palmerston.jpg|right|200px|thumb|パーマストン子爵ヘンリー・テンプル]] |
|||
{{政治家 |
|||
'''第3代[[パーマストン子爵]]ヘンリー・ジョン・テンプル'''('''Henry John Temple''', 3rd Viscount Palmerston, [[ガーター勲章|KG]], [[バス勲章|GCB]], [[1784年]][[10月20日]] - [[1865年]][[10月18日]])は、[[イギリス]]の政治家。19世紀半ばに2度、首相を務めた。イギリスが絶頂期の時に外交を仕切った政治家で[[パックス・ブリタニカ]]のシンボル的存在。 |
|||
| 人名 = 第3代パーマストン子爵<br />ヘンリー・ジョン・テンプル |
|||
| 各国語表記 = 3rd Viscount Palmerston<br />Henry John Temple |
|||
| 画像 = Henry-John-Temple-3rd-Viscount-Palmerston (cropped).jpg |
|||
| 画像説明 = パーマストン子爵 |
|||
| 国略称 = {{GBR}} |
|||
| 生年月日 = [[1784年]][[10月20日]] |
|||
| 出生地 = {{GBR1606}}、[[イングランド]]、[[ロンドン]] |
|||
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1784|10|20|1865|10|18}} |
|||
| 死没地 = {{GBR3}}、イングランド、[[ハートフォードシャー]] |
|||
| 出身校 = [[ケンブリッジ大学]]{{仮リンク|セント・ジョンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|label=セント・ジョンズ・カレッジ|en|St John's College, Cambridge}} |
|||
| 前職 = |
|||
| 所属政党 = [[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]] →{{仮リンク|カニング派|en|Canningite}}→[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]→[[自由党 (イギリス)|自由党]] |
|||
| 称号・勲章 = 第3代[[パーマストン子爵]]、[[ガーター勲章]]勲爵士 (KG)、[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロス (GCB)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC) |
|||
| 親族(政治家) = {{仮リンク|ヘンリー・テンプル (第2代パーマストン子爵)|label=第2代パーマストン子爵|en|Henry Temple, 2nd Viscount Palmerston}}(父)<br/>[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|第2代メルバーン子爵]](義兄) |
|||
| 配偶者 = {{仮リンク|エミリー・ラム|label=エミリー|en|Emily Lamb, Lady Cowper}} |
|||
| サイン = Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston Signature.svg |
|||
| 国旗 = UK |
|||
| 職名 = [[イギリスの首相|首相]] |
|||
| 内閣 = |
|||
| 就任日 = [[1855年]][[2月8日]] - [[1858年]][[2月20日]]<ref name="秦(2001)509">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.509</ref><br />[[1859年]][[6月12日]] |
|||
| 退任日 = [[1865年]][[10月18日]]<ref name="秦(2001)509" /> |
|||
| 元首職 = [[イギリス国王|女王]] |
|||
| 元首 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]] |
|||
| 国旗2 = UK |
|||
| 職名2 = [[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]] |
|||
| 内閣2 = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]内閣 |
|||
| 就任日2 = [[1852年]][[12月28日]] |
|||
| 退任日2 = [[1855年]][[1月31日]]<ref name="秦(2001)509" /> |
|||
| 国旗3 = UK |
|||
| 職名3 = [[外務・英連邦大臣|外務大臣]] |
|||
| 内閣3 = [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣、第一次[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]内閣<br />第二次メルバーン子爵内閣<br />第一次[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]内閣 |
|||
| 就任日3 = [[1830年]][[11月20日]] - [[1834年]][[11月15日]]<br />[[1835年]][[4月18日]] - [[1841年]][[9月2日]]<br />[[1846年]][[7月6日]] |
|||
| 退任日3 = [[1851年]][[12月19日]]<ref name="秦(2001)510">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.510</ref> |
|||
| 国旗4 = UK |
|||
| 職名4 = [[戦時大臣]] |
|||
| 内閣4 = [[スペンサー・パーシヴァル]]内閣、[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]内閣、[[ジョージ・カニング]]内閣、[[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|ゴドリッチ子爵]]内閣、[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]内閣 |
|||
| 就任日4 = [[1809年]]10月 |
|||
| 退任日4 = [[1828年]][[5月28日]] |
|||
| 国旗5 = UK |
|||
| 職名5 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員 |
|||
| 選挙区5 = {{仮リンク|ニューポート(ワイト島)選挙区|label=ニューポート選挙区|en|Newport (Isle of Wight) (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD">[https://api.parliament.uk/historic-hansard/people/viscount-palmerston/ HANSARD 1803–2005]</ref><br />{{仮リンク|ケンブリッジ大学選挙区|en|Cambridge University (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD" /><br />{{仮リンク|ブレッチングリー選挙区|en|Bletchingley (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD" /><br />{{仮リンク|南ハンプシャー選挙区|en|South Hampshire (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD" /><br />{{仮リンク|ティバートン選挙区|en|Tiverton (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD" /> |
|||
| 就任日5 = [[1807年]][[5月8日]] - [[1811年]][[12月31日]]<ref name="HANSARD" /><br />1811年[[3月27日]] - [[1831年]][[7月25日]]<ref name="HANSARD" /><br />1831年[[7月18日]] - [[1832年]][[12月10日]]<ref name="HANSARD" /><br />1832年[[12月15日]] - [[1835年]][[1月13日]]<ref name="HANSARD" /><br />1835年[[6月1日]] |
|||
| 退任日5 = [[1866年]][[12月31日]]<ref name="HANSARD" /> |
|||
}} |
|||
第3代[[パーマストン子爵]]'''ヘンリー・ジョン・テンプル'''({{lang-en-short|'''Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston''', {{postnominals|country=GBR|commas=true|size=100%|KG|GCB|PC|FRS}}}}, [[1784年]][[10月20日]] - [[1865年]][[10月18日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[世襲貴族|貴族]]。 |
|||
[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]を[[自由党 (イギリス)|自由党]]に改組した自由党初の[[イギリスの首相|首相]]であり、首相を2期務め(第一次:[[1855年]]-[[1858年]]、[[第2次パーマストン子爵内閣|第二次]]:[[1859年]]-[[1865年]])、またそれ以前には[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]を3期にわたって務めた(在職[[1830年]]-[[1834年]]、[[1835年]]-[[1841年]]、[[1846年]]-[[1851年]])。[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]](在職[[1852年]]-1855年)を務めていた時期もある。 |
|||
[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]の治世から[[ヴィクトリア朝]]中期にかけて主に外交の分野で活躍し、[[大英帝国]]の国益や英国民の利益が損なわれることを許容しない強硬外交を行ったことで知られる。ヨーロッパでは会議外交によって各国の利害を調整するバランサーの役割を果たしつつ、ヨーロッパ諸国の自由主義化・ナショナリズム運動を支援する自由主義的外交を行った。非ヨーロッパの低開発国に対しては[[砲艦外交]]で[[不平等条約]]による自由貿易を強要してイギリスの[[非公式帝国]]に組み込む「[[自由貿易帝国主義]]」を遂行した。大英帝国の海洋覇権に裏打ちされた「[[パクス・ブリタニカ]]」を象徴する人物である<ref name="世界伝記大事典(1981,7)438">[[#世界伝記大事典(1981,7)|世界伝記大事典(1981)世界編7巻]] p.438</ref>。 |
|||
== 概要 == |
|||
[[アイルランド貴族]][[パーマストン子爵]]家の長男として[[ロンドン]]の[[ウェストミンスター]]に生まれる(''→[[#出生と出自|出生と出自]]'')。[[ハーロー校]]を経て[[エディンバラ大学]]、[[ケンブリッジ大学]]で学んだ。[[1802年]]に父の死により[[パーマストン子爵]]位を継承した(''→[[#少年・青年期|少年・青年期]]'')。 |
|||
パーマストン子爵位は[[アイルランド貴族]]であり、アイルランド[[貴族代表議員]]に選出されない限り[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員とはならず、逆に他の領域の英国貴族と違い庶民院議員への被選挙権を有する。そのため[[1807年]]の{{仮リンク|1806年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1807}}に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]](後の[[保守党 (イギリス)|保守党]])候補として立候補して[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に初当選した(''→[[#庶民院議員選挙への挑戦|庶民院議員選挙への挑戦]]'')。トーリー党政権が長く続いていた時期であり、彼も戦時大臣を[[1809年]]から[[1828年]]までという長期間にわたって務めた。彼は[[ジョージ・カニング]]を支持するトーリー党内の自由主義派であったので、1828年にはカトリック問題などをめぐってトーリー党執行部と仲たがいし、他のカニング派閣僚たちとともに辞職した(''→[[#戦時大臣|戦時大臣]]'')。 |
|||
その後、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]に合流し、1830年に成立したホイッグ党政権では[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]を務めた。[[ベルギー独立革命|ベルギー独立問題]]や[[東方問題]]で会議外交を展開してヨーロッパ大国間の戦争を回避した(''→[[#ベルギー独立をめぐって|ベルギー独立をめぐって]]、→[[#東方問題をめぐって|東方問題をめぐって]]'')。また[[阿片戦争]]を主導して[[清]]の[[非公式帝国|半植民地化]]の先鞭をつけた(''→[[#阿片戦争|阿片戦争]]'')。しかしインド総督[[ジョージ・イーデン (初代オークランド伯爵)|オークランド伯爵]]の方針を支持して起こした[[第一次アフガン戦争]]は散々な結果に終わった(''→[[#第一次アフガニスタン戦争|第一次アフガニスタン戦争]]'')。ホイッグ党政権は1841年の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}に敗れて内閣総辞職に追い込まれ、彼も外相を退任することになった。 |
|||
続く野党時代には[[ロバート・ピール]]保守党政権の外相[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]の弱腰外交を批判して活躍した(''→[[#アバディーン伯爵の宥和外交批判|アバディーン伯爵の宥和外交批判]]'')。 |
|||
1845年に[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]を首相とするホイッグ党政権が誕生するとその外務大臣に就任した。[[分離同盟戦争|スイス内乱]]、[[1848年革命]]、[[第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]など自由主義・ナショナリズムの高まりの中で起こった様々な動乱の鎮静化に努めた(''→[[#スイス内乱をめぐって|スイス内乱をめぐって]]、→[[#1848年革命をめぐって|1848年革命をめぐって]]、→[[#サルデーニャのロンバルディア進攻をめぐって|サルデーニャのロンバルディア進攻をめぐって]]、→[[#第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって|第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって]]'')。また1850年には一国民の損害賠償取り立てを支援するために[[ギリシャ王国|ギリシャ]]に艦隊を派遣するという{{仮リンク|ドン=パシフィコ事件|en|Don Pacifico affair and case}}を起こした。この際に「古のローマ市民が『私はローマ市民である』と言えば侮辱を受けずにすんだように、イギリス臣民も、彼がたとえどの地にいようとも、イギリスの全世界を見渡す目と強い腕によって不正と災厄から護られていると確信してよい」という有名な演説を行って人気を博している(''→[[#ドン・パシフィコ事件|ドン・パシフィコ事件]]'')。しかし1851年にフランス大統領[[ナポレオン3世|ルイ・ナポレオン(後のフランス皇帝ナポレオン3世)]]のクーデタを独断で支持表明した廉でジョン・ラッセル卿により外相を解任された(''→[[#解任|解任]]'')。 |
|||
以降ホイッグ党内でラッセルに敵対する派閥を形成するようになり、保守党と連携してラッセル内閣を倒閣した(''→[[#パーマストン派の形成とラッセルとの対立|パーマストン派の形成とラッセルとの対立]]'')。その後保守党政権をはさんで、1852年12月にピール派・ホイッグ党・急進派三派による連立政権[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]内閣が成立するとその内務大臣として入閣したが、彼の関心は引き続き外交にあり、閣内の外交検討グループのメンバーとして外交に携わった。1853年に[[ロシア帝国]]と[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]の間で[[クリミア戦争]]が勃発すると、対ロシア開戦派として行動し、同戦争へのイギリス参戦に導いた(''→[[#アバディーン伯爵内閣の内相|アバディーン伯爵内閣の内相]]'')。 |
|||
やがてクリミア戦争遂行の象徴的人物となっていき、アバディーン伯爵内閣総辞職後の1855年2月には大命を受けて{{仮リンク|第一次パーマストン子爵内閣|en|First Palmerston ministry}}を組閣することとなった(''→[[#第一次パーマストン子爵内閣|第一次パーマストン子爵内閣]]'')。1855年にクリミア戦争に勝利し、ついで1856年には[[アロー戦争]]を起こして清の更なる半植民地化を推し進めた(''→[[#アロー戦争|アロー戦争]]'')。1857年の[[インド大反乱]]は徹底的に鎮圧した(''→[[#インド大反乱の鎮圧|インド大反乱の鎮圧]]'')。しかし1858年にはイギリス亡命政治犯によるフランス皇帝[[ナポレオン3世]]の暗殺未遂事件が発生し、フランス政府に要求されるがままに殺人共謀の重罰化の法案を提出したことで野党や世論の反発を買って内閣総辞職に追い込まれた(''→[[#総辞職|総辞職]]'')。 |
|||
1859年には保守党政権打倒のためにラッセルと和解し、ホイッグ党二大派閥・ピール派・急進派の合同による[[自由党 (イギリス)|自由党]]の結成に主導的役割を果たした。同年、保守党政権に内閣不信任案を突き付けて総辞職に追い込み、[[第二次パーマストン子爵内閣]]を樹立した(''→[[#ラッセルとの和解と自由党の結成|ラッセルとの和解と自由党の結成]]、→[[#第二次パーマストン子爵内閣|第二次パーマストン子爵内閣]]'')。[[イタリア統一戦争]]を支援してフランスと対立を深め、フランスとの開戦を煽って、ナポレオン3世を弱腰にさせて{{仮リンク|英仏通商条約|en|Cobden–Chevalier Treaty}}締結を成功させた(''→[[#イタリア問題・英仏通商条約|イタリア問題・英仏通商条約]]'')。しかし1864年の[[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]の調停の会議外交には失敗し、[[プロイセン王国]]宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]が[[ドイツ統一]]の最初の地歩を築くことを阻止できなかった(''→[[#第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって|第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって]]'')。 |
|||
その翌年の1865年、首相在任中に病死した(''→[[#死去|死去]]'')。 |
|||
{{-}} |
|||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
=== 生 |
=== 出生と出自 === |
||
[[1784年]][[10月20日]]、[[グレートブリテン王国|イギリス]]首都[[ロンドン]]の[[ウェストミンスター]]で生まれた<ref name="君塚(2006)12">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.12</ref>{{#tag:ref|[[イングランド]]・[[ハンプシャー]]の{{仮リンク|ブロードランズ|en|Broadlands}}生誕とする説もあり<ref name="世界伝記大事典(1981,7)436">[[#世界伝記大事典(1981,7)|世界伝記大事典(1981)世界編7巻]] p.436</ref>。|group=注釈}}。 |
|||
政治家である[[アイルランド]]貴族、第2代パーマストン子爵ヘンリー・テンプル(1739年 - 1802年)の息子として、[[ハンプシャー]]州ブロードランズで誕生。[[ロンドン]]で育つ。[[ジョナサン・スウィフト]]のパトロンで[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の覇権に挑戦した外交官[[ウィリアム・テンプル (準男爵)|ウィリアム・テンプル]]の弟ジョンの玄孫にあたる。 |
|||
父は[[アイルランド貴族]]の政治家{{仮リンク|ヘンリー・テンプル (第2代パーマストン子爵)|label=第2代パーマストン子爵ヘンリー・テンプル|en|Henry Temple, 2nd Viscount Palmerston}}<ref name="世界伝記大事典(1981,7)436" />。母はメアリー(旧姓ディー)<ref name="世界伝記大事典(1981,7)436" />。父と同じ「ヘンリー」の名を与えられた。ヘンリーは第一子であり、後に弟1人と妹3人が生まれている<ref name="君塚(2006)14">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.14</ref>。 |
|||
幼いころにテレーズというフランス人の女性家庭教師に養育され、彼女のもとでフランス語を習得。[[ハーロー校]]、[[エディンバラ大学]]で学び、[[ケンブリッジ大学]][[セント・ジョンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|セント・ジョンズ・カレッジ]]を卒業。学生時代に父が死去。父の死後は父の友人でもあった初代マームズベリー伯爵(ジェームズ・ハリス)がパーマストンの後見人となった。マームズベリー伯爵は、20代で[[フォークランド諸島]]をめぐる問題で[[スペイン]]と交渉して成功に導き、[[アメリカ独立戦争]]時には、[[ロシア帝国|ロシア]]を対イギリス同盟に参加させないよう全力を尽くし、[[フランス革命]]直前時には[[プロイセン王国|プロイセン]]、[[オランダ]]と三国同盟の締結に成功するなど優れた外交官であった。マームズベリー伯爵のもとで外交の基礎を学ぶ。2度選挙に落選し、1807年に初当選した。 |
|||
テンプル家はもともとイングランド中部[[レスターシャー]]に領地を持つ[[イングランド貴族]]だったが、[[薔薇戦争]]で一度没落した。しかし[[エリザベス朝]]期に人文主義哲学者{{仮リンク|ウィリアム・テンプル (1555–1627)|label=サー・ウィリアム・テンプル|en|William Temple (logician)}}がスペインとの戦争で活躍し、その功績でアイルランドに領地を与えられてアイルランド貴族に列したことで再興した<ref>[[#中西(1997)|中西(1997)]] p.81-82</ref>。 |
|||
[[1809年]]から[[1828年]]、軍務大臣として対[[アメリカ合衆国|アメリカ]]戦争などを仕切る。最初は[[トーリー党 (イギリス)|トーリー]]であったが[[1822年]]から[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]][[ジョージ・カニング|カニング]]派になる。 |
|||
そのウィリアム・テンプルの孫[[ウィリアム・テンプル (準男爵)|サー・ウィリアム・テンプル]]は近代[[随筆]]の先駆者、また外交官として[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の覇権に挑戦したことで名を馳せた<ref name="中西(1997)81">[[#中西(1997)|中西(1997)]] p.81</ref>。彼の弟である{{仮リンク|ジョン・テンプル (1632-1705)|label=ジョン|en|John Temple (Irish politician)}}は、[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]の議長を務め、その子である[[ヘンリー・テンプル (初代パーマストン子爵)|ヘンリー]]の代に領地パーマストンの名前に由来して[[パーマストン子爵]]の爵位を得た<ref name="君塚(2006)13">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.13</ref>。 |
|||
=== パーマストン外交時代 === |
|||
[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ]]内閣・[[メルボルン子爵ウィリアム・ラム|メルボルン]]両内閣の[[1830年]]から[[1841年]]にかけて外相を務める。[[1827年]]の[[:en:Treaty_of_London_(1827)|ロンドン条約 (1827年)]]と[[1832年]]の[[:en:Treaty_of_London_(1832)|ロンドン条約 (1832年)]]で[[ギリシャ]]の独立承認、[[1839年]]の[[ロンドン条約_(1839年)|ロンドン会議]]で[[ベルギー]]の独立承認に尽力。[[1833年]]から[[1841年]]、ロシアの南下政策と[[フランス]]の東[[地中海]]進出の封じ込めに尽力。 |
|||
その初代パーマストン子爵の曽孫が、この第3代パーマストン子爵、ヘンリー・ジョン・テンプルである<ref name="CP VP"/>。 |
|||
[[1840年]]から[[1841年]]、[[阿片戦争|アヘン戦争]]を指導。特にアヘン戦争で[[清]]王朝と戦争状態にある時、[[エジプト]]を巡る第二次東方危機問題で[[ロンドン条約_(1840年)|ロンドン5ヶ国海峡条約]]を締結してロシアとフランスの封じ込めに成功できたのはパーマストンの優れた外交指導力であり、当時のイギリスの力がいかに絶大であったかを示す事件であった。関税改革をめぐって選挙に敗れたメルボルン政権は崩壊しパーマストンも外相の座をおりた。その後第二次[[ロバート・ピール|ピール]]政権の下で新たに外相の座についた[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯]](ジョージ・ハミルトン=ゴードン)の協調外交を批判した。 |
|||
=== 少年・青年期 === |
|||
[[1845年]]から[[1849年]]の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生した[[ジャガイモ飢饉]]が発端となって穀物法の存廃をめぐってピール政権が崩壊。代わって[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル]]卿が首相になると再度パーマストンが外相に就任。[[1846年]]から[[1851年]]の在任期は[[ポルトガル内戦]]の解決や[[ギリシャ王国#コレッティスの独走とクリミア戦争|ドン・パシフィコ事件]]でギリシャを恫喝。[[1848年]]にフランスに[[1848年革命#フランス2月革命|二月革命]]が起きると、国王の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]と首相の[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー|ギゾー]]の亡命を受け入れた。 |
|||
[[File:Palmerston 1802.jpg|thumb|150px|1802年のパーマストン子爵を描いた絵画(トマス・ハーピー画)]] |
|||
幼い頃のヘンリーはフランス人女性の[[ガヴァネス]]から教育を受けた。彼女の影響で[[フランス語]]を学習するようになった<ref name="君塚(2006)14">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.14</ref>。[[1792年]]から[[1794年]]にかけては両親に連れられて[[フランス]]、[[スイス]]、[[イタリア]]、[[ハノーファー]]、[[オランダ]]など大陸諸国を旅行した<ref name="Ridley(1970)7-9">[[#Ridley(1970)|Ridley(1970)]] p.7-9</ref>。この旅行中に[[フランス語]]と[[イタリア語]]を習得したという<ref name="世界伝記大事典(1981,7)436" />。 |
|||
[[1795年]]5月に名門[[パブリック・スクール]]の[[ハーロー校]]に入学した。同級生にハッドー卿(後の[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]])がいる<ref name="君塚(2006)15">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.15</ref>。在学中ヘンリーはしばしば喧嘩し、倍の体格のいじめっ子にも勇敢に立ち向かったという<ref name="Ridley(1970)10">[[#Ridley(1970)|Ridley(1970)]] p.10</ref>。[[1799年]]には父に連れられて[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]を見学した。この際に首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]と握手した<ref name="Ridley(1970)12">[[#Ridley(1970)|Ridley(1970)]] p.12</ref>。 |
|||
また、[[1848年革命#ドイツ・オーストリア3月革命|三月革命]]が[[オーストリア帝国]]・[[ウィーン]]にも広がると宰相の[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]の亡命も受け入れた。これらは[[ウィーン体制]]の崩壊を意味し、イギリス流の自由主義とそれを推し進めてきたパーマストン外交の勝利を意味した。しかし、1851年に[[ナポレオン3世]]のクーデターを勝手に承認した発言を問われ外相を事実上更迭させられる。 |
|||
[[1800年]]にハーロー校を卒業し、父の薦めで[[スコットランド]]の[[エディンバラ大学]]に進学した<ref name="君塚(2006)15" />。{{仮リンク|デュガルド・スチュワート|en|Dugald Stewart}}教授から政治経済を学んだ。彼の薫陶を受けて[[自由主義]]的な思想を培うようになった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.15-16</ref>。スチュワートは友人に宛てた手紙の中でヘンリーについて「これ以上はないというほど性格も品行も良い。」と書いている<ref name="Ridley(1970)15">[[#Ridley(1970)|Ridley(1970)]] p.15</ref>。 |
|||
アバディーン伯の連立政権が成立すると[[1852年]]から[[1855年]]の間内相を務める。アバディーン伯がパーマストンの存在を恐れて閣内に取り込んでおかないと政権が不安定になると考えたのでランズダウン侯を通じてパーマストンに内相になるよう説得したからである。内相時代の[[1853年]]に新たな工場法を成立させ青少年労働者の工場における労働条件の改善に尽くした。 |
|||
[[1802年]]4月の父の死により17歳にして第3代[[パーマストン子爵|パーマストン子爵位]]を継承した<ref name="世界伝記大事典(1981,7)436" /><ref name="君塚(2006)16">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.16</ref>。まだ若年であるため、[[ジェームス・ハリス (初代マームズベリー伯爵)|マームズベリー伯爵]]が後見役に付いた<ref name="君塚(2006)18">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.18</ref>。父を失った後も相続した所領から上がる収入を使って大学で勉学を続けた<ref name="君塚(2006)17">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.17</ref>。 |
|||
[[クリミア戦争]]が起こりセバストポリの攻囲戦をめぐって戦線が膠着状態になると、軍事の諸問題に明るくて抜群の外交手腕を持つパーマストンに戦争指導者としての期待がたかまった。穏健外交スタイルのアバディーン伯首相は戦争時の指導者にはむいていなかった。パーマストンの力ずくの外交を批判していた[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート]]公もパーマストン待望論を表明し、夫アルバート公同様パーマストンを毛嫌いしていた[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]もパーマストンの組閣を認めざるを得なかった。 |
|||
[[1803年]]10月に[[ケンブリッジ大学]]{{仮リンク|セント・ジョンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|label=セント・ジョンズ・カレッジ|en|St John's College, Cambridge}}に転校した<ref name="君塚(2006)16">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.16</ref>。当時のケンブリッジ大学にはエディンバラ大学ほどいい教師陣がなかったので、パーマストン卿も学業より友達と遊ぶことに精を出したようである<ref name="君塚(2006)16" />。[[1803年]]に[[ナポレオン戦争|フランスとの戦争]]がはじまると大学内に組織されたフランスの侵略に抵抗する部隊に入隊し、その部隊の三人の将校の一人となった<ref>[[#Ridley(1970)|Ridley(1970)]] p.18-19</ref>。[[1805年]]1月には母が子宮癌で死去している<ref name="君塚(2006)17">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.17</ref>。 |
|||
=== 首相就任以後 === |
|||
パーマストンが正式に首相に就任したのはセバストポリの攻囲戦の最中の1855年2月であった。セバストポリ要塞の陥落後もクリミア戦争を続けてイギリスに有利な状況で戦争を終わらせたかったがフランスのナポレオン3世はこれ以上の戦争の継続を望まなかったのでパリ条約に同意して戦争終結([[1856年]])。首相就任と同時に時代遅れになっていた陸軍の機構改革にも着手する。パーマストンはクリミア戦争を何とか勝利に導いた功績で[[ガーター勲章]]を与えられた。 |
|||
貴族である彼は試験なしで学位をとることが可能だったが、試験によって卒業することを希望し、[[1806年]]に首席の成績で卒業した<ref name="Ridley(1970)18">[[#Ridley(1970)|Ridley(1970)]] p.18</ref>。 |
|||
1856年には[[太平天国の乱]]に苦しむ清王朝に対して[[アロー戦争|アロー号事件]]をきっかけに開戦を決意するが下院でコブデンらが反対の決議をしたのでパーマストン首相は下院を解散。選挙で勝利して国民の支持を得た後にナポレオン3世を誘って再度清国を攻撃(第二次アヘン戦争)。[[1858年]]に[[天津条約 (1858年)|天津条約]]、[[1860年]]に[[北京条約]]を締結。[[1857年]]から1858年の[[インド大反乱|セポイの反乱]]を鎮圧して[[インド]]を直轄地にする。過激な政治亡命者を取り締まる法案をめぐって議会が紛糾し、一旦は政権の座からおりるが、選挙法をめぐって混乱した[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー]]政権のあとをついで再び首相の座に就任。 |
|||
=== 庶民院議員選挙への挑戦 === |
|||
[[1859年]]から1860年[[リソルジメント|イタリア統一運動]]を支持。アメリカの南北戦争には不干渉を維持。シュレースヴィヒとホルシュタインをめぐるデンマークとオーストリア・プロイセンの戦争の調停には失敗した。 |
|||
パーマストン卿は父と同様に政治家を志した。 |
|||
[[イングランド貴族]]や[[グレートブリテン貴族]]、[[連合王国貴族]]の場合、21歳以上の当主は自動的に連合王国[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に選出されるが、[[アイルランド貴族]]は1801年以前[[グレートブリテン王国]]と[[アイルランド王国]]が分離しており、別個に議会をもっていった沿革から[[貴族代表議員]]に選出されない限り連合王国貴族院議員になることはなかった。そのためパーマストン卿も21歳を過ぎても自動的に貴族院議員になることはなかった<ref name="君塚(2006)18">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.18</ref>。 |
|||
1865年10月、風邪をひき高熱に苦しみ、10月18日に首相在任のまま死去。生前、[[ラムジー修道院]](ハンプシャー州)への埋葬を望んでいたが、内閣は国葬を決定。1865年10月27日、[[ウェストミンスター寺院]]で国葬にされ、同地に埋葬された。王族でない人物で寺院に埋葬されたのは、彼が3人目であった。 |
|||
彼は[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を目指すことにし、いまだケンブリッジ大学在学中の1806年2月に[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]の死去に伴って行われた{{仮リンク|ケンブリッジ大学選挙区|en|Cambridge University (UK Parliament constituency)}}補欠選挙に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]候補として立候補したが、この選挙区は他に元首相[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|シェルバーン伯爵]]の次男[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ヘンリー・ペティ卿]]と海軍卿・内務大臣を歴任した[[ジョージ・スペンサー (第2代スペンサー伯爵)|スペンサー伯爵]]の長男[[ジョン・スペンサー (第3代スペンサー伯爵)|オールトラップ子爵]]という有力候補二人が[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]候補として立候補していたため、結局パーマストン卿は三人のうち最下位の得票しか得られずに落選した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.18-19</ref>。 |
|||
若い頃から名うての女たらしとして知られ、「[[タイムズ]]」紙に''Lord Cupid''(キューピッド卿)と揶揄されたこともあった。[[1839年]]、長年の愛人エミリー・カウパー(カウパー卿の未亡人、メルボルン首相の妹)と結婚。彼女との間には子供がなく、彼の死後パーマストン子爵家は断絶した。 |
|||
同年10月の{{仮リンク|1806年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1806}}では、マームズベリー伯爵の推薦で{{仮リンク|ホーシャム選挙区|en|Horsham (UK Parliament constituency)}}から出馬したが、選挙に不正があったとされて当選を認められなかった<ref name="君塚(2006)20">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.20</ref>。 |
|||
== 関連項目 == |
|||
*[[イギリスの首相の一覧]] |
|||
*[[パーマストン (ニュージーランド)]] - [[ニュージーランド]][[南島 (ニュージーランド)|南島]]の都市 |
|||
*[[パーマストン・ノース]] - ニュージーランド[[北島 (ニュージーランド)|北島]]の都市 |
|||
*[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)]] - [[オーストラリア]]・[[ノーザンテリトリー準州]]の首府。最初はパーマストン市だったが、のちイギリスの自然科学者[[チャールズ・ダーウィン]]にちなみダーウィンと改名した。 |
|||
*[[鍛冶屋の仕事場]] |
|||
当時は小ピットと[[チャールズ・ジェームズ・フォックス|フォックス]]の相次ぐ死で議会政治が混乱していた時期であったため、翌[[1807年]]4月にも{{仮リンク|1807年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1807}}があった。パーマストン卿はこの総選挙に初めケンブリッジ大学選挙区から立候補したが、落選したため、[[ワイト島]]の{{仮リンク|ニューポート(ワイト島)選挙区|label=ニューポート選挙区|en|Newport (Isle of Wight) (UK Parliament constituency)}}に鞍替えし、そちらで当選を果たした<ref name="君塚(2006)20">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.20</ref>。 |
|||
四度目の挑戦にしてパーマストン卿は庶民院の議席を手に入れた。 |
|||
{{-}} |
|||
=== 下級海軍卿 === |
|||
パーマストン卿は、マームズベリー伯爵の後援のおかげで政界入りして早々に[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]内閣の下級海軍卿(Junior Lord of the Admiralty)の役職を与えられた<ref name="Ridley(1970)27">[[#Ridley(1970)|Ridley(1970)]] p.27</ref>。 |
|||
[[1808年]][[2月3日]]の[[処女演説]]では、前年に発生した[[王立海軍]]がデンマーク艦隊を捕獲した事件の弁護にあたった。処女演説なので温かく扱われたが、奥歯に物が挟まったような話し方が目立ち、出来の良い演説ではなかったという<ref name="君塚(2006)21">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.21</ref>。 |
|||
=== 戦時大臣 === |
|||
[[File:George Canning by Richard Evans - detail.jpg|thumb|150px|パーマストン子爵が大きな影響を受けた[[ジョージ・カニング]]。]] |
|||
ポートランド公爵内閣は[[1809年]]10月に[[陸軍・植民地大臣|陸相]][[ロバート・ステュアート (カスルリー子爵)|カスルリー子爵]]と外相[[ジョージ・カニング]]の戦争遂行の方針をめぐる閣内不一致が原因で総辞職した<ref name="君塚(2006)21">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.21</ref>。 |
|||
ついで大命を受けた[[スペンサー・パーシヴァル]]の内閣において、パーマストン卿は[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]としての入閣の打診を受けたが、彼は「政界入りしたばかりの自分に[[閣内大臣]]職は早すぎる」と断り{{#tag:ref|パーマストン卿が大蔵大臣就任を断ったのは、首相[[スペンサー・パーシヴァル]]が庶民院議員なので、同じ庶民院議員の自分が大蔵大臣になっても首相の陰に隠れてしまうだろうと懸念したこともあったという<ref name="君塚(2006)21">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.21</ref>。|group=注釈}}、代わりに[[閣外大臣]]職の[[戦時大臣]]{{#tag:ref|当時陸軍行政をめぐる管轄は曖昧であったが、基本的に陸軍大臣が陸軍行政全般のトップであり、そのもとで陸軍の人事や規則は{{仮リンク|イギリス陸軍総司令官|label=陸軍総司令官|en|Commander-in-Chief of the Forces}}、軍需品については{{仮リンク|イギリス補給庁長官|label=補給庁長官|en|Master-General of the Ordnance}}が担当し、戦時大臣は議会と陸軍予算の交渉を行ったり、陸軍軍人の年金や恩給を調整する担当になっていた<ref name="君塚(2006)22">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.22</ref>。|group=注釈}}に就任し、以降21年間この役職に在職することとなった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.21-22</ref><ref name="ストレイチイ(1953)148">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.148</ref>。 |
|||
[[1812年]]にパーシヴァル首相が暗殺され、[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]が大命を受けて組閣した。パーマストン卿は引き続き戦時大臣に留任した<ref name="君塚(2006)25">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.25</ref>。この頃[[ナポレオン戦争]]が終結し、以降陸軍予算を削りたい大蔵省と軍人の年金・恩給を確保しなければならないパーマストン卿の間でいざこざが増えたという<ref name="君塚(2006)22">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.22</ref>。 |
|||
リヴァプール伯爵内閣は長期政権となったが、[[カトリック教会|カトリック]]の公務就任を認めるか否かをめぐって閣内の対立が深まった。[[カトリック解放]]を訴える急先鋒が外相[[ジョージ・カニング]]であり<ref name="君塚(2006)25">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.25</ref>、パーマストン卿は彼から強い影響を受けてカトリック解放や自由主義的外交を支持した<ref name="世界伝記大事典(1981,7)436" />。 |
|||
[[1827年]]2月に首相リヴァプール伯爵が[[脳卒中]]で倒れ、国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]はカニングに組閣の大命を与えたが、これに反発した反カトリック解放派の{{仮リンク|ウルトラ・トーリー|en|Ultra-Tories}}が政権から離脱した。トーリー党少数派のみを率いるカニングは、ホイッグ党の穏健派[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]派と連立を組むことで組閣した。パーマストン卿はカニングを支持していたので引き続き戦時大臣として政権に残り、閣議への出席も認められた(閣内大臣)<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.25-26</ref>。 |
|||
1827年8月にカニングが急死し、[[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|ゴドリッチ子爵]]の短期政権を経て、[[1828年]]1月に[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]に組閣の大命があった。ウェリントン公爵はカトリック解放に反対の立場であり、パーマストン卿と意見が違ったが、ウェリントン公爵からこの問題は先送りにするので留任してほしいと説得されたためひとまず政権にとどまった<ref name="君塚(2006)26">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.26</ref>。 |
|||
しかし[[ギリシャ独立戦争]]をめぐって[[オーストリア帝国|オーストリア]]首相[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]と連携を深めようとしたウェリントン公爵の方針に反発を強めた(パーマストン卿はメッテルニヒに主導権を握られるとギリシャ独立が危うくなると考えていた)。<ref name="君塚(2006)27-28">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.27-28</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
=== カニング派時代 === |
|||
パーマストン卿はパーシヴァル首相暗殺後、特定の党派に属していなかったが、[[1828年]]初頭までには「旧態依然としたトーリーと革新的すぎるホイッグの中間を行く」{{仮リンク|カニング派|en|Canningite}}の領袖の一人と自他共に認められるようになっていた<ref name="君塚(2006)27-28" />。 |
|||
結局パーマストン卿は、カトリック解放問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵や内務大臣[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール]][[準男爵]]と対立を深め、1828年5月28日には戦時大臣を辞して政権から離れた。同じころ、他のカニング派閣僚の[[陸軍・植民地大臣|陸軍植民地相]][[ウィリアム・ハスキソン]]、[[外務・英連邦大臣|外相]]{{仮リンク|ジョン・ワード (初代ダドリー伯爵)|label=ダドリー伯爵|en|John Ward, 1st Earl of Dudley}}、アイルランド担当相[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|ウィリアム・ラム(後のメルバーン子爵]])、商務相{{仮リンク|チャールズ・グラント (初代グレネルグ男爵)|label=チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)|en|Charles Grant, 1st Baron Glenelg}}らも辞職している<ref name="君塚(2006)27-28" />。 |
|||
政界に入って以来、はじめて野党生活に入ったパーマストン卿だが、カニング派は実務経験豊富な人材の宝庫としてトーリー党からもホイッグ党からも注目されていた。とりわけパーマストン卿はカニング派の中では外交の専門家と目されており、ホイッグ党左派の[[ヘンリー・ヴァサール=フォックス (第3代ホランド男爵)|ホランド男爵]]にその能力を高く評価されていた。また当時ホイッグ党は党内の主だった派閥の領袖が貴族院に集中していたため、庶民院議員のパーマストン卿を迎え入れたいという声が強かった<ref name="君塚(2006)28-29">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.28-29</ref>。 |
|||
当時カニング派の最有力人物はハスキソンだったが、パーマストン卿はウェリントン公爵内閣外務大臣[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]の対ギリシャ外交への批判で存在感を一層高め、[[1829年]]夏までには派閥内でハスキソンに次ぐ地位を確立していた<ref name="君塚(2006)28-29" />。 |
|||
ハスキソンが[[1830年]][[9月25日]]に鉄道事故で死亡すると、ホイッグ党首[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]はメルバーン子爵とパーマストン卿に連絡をとり、ホイッグ党とカニング派の連携を確認した。さらにウェリントン公爵に反発して政権を離れたウルトラ・トーリーとも協力して、11月15日にウェリントン公爵内閣を議会で敗北させて総辞職に追い込んだ<ref name="君塚(2006)30">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.30</ref>。およそ半世紀にわたったトーリー党政権がここに終焉した<ref name="山口(2011)62">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.62</ref>。 |
|||
=== グレイ伯爵・メルバーン子爵内閣の外相 === |
|||
[[File:Lord Palmerston by Partridge.png|thumb|150px|中年期のパーマストン子爵]] |
|||
[[1830年]]11月に国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]よりグレイ伯爵に組閣の大命があり、ホイッグ党政権が誕生した。パーマストン卿は同内閣に外務大臣として入閣した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.30-31</ref>。 |
|||
[[1834年]]7月にはグレイ伯爵が老齢を理由に引退し、第1次メルバーン子爵内閣が成立したが、パーマストン卿は同内閣にも外相に留任した。同年11月に内閣は党内人事をめぐって国王ウィリアム4世と対立して罷免され、これによって一時ピールを首相とする保守党(1830年にトーリー党が改名)政権になるも、[[1835年]]の{{仮リンク|1835年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1835}}で保守党は多数派を得られなかったため、1835年4月にも第二次メルバーン子爵内閣が成立し、パーマストン卿は再び外相として入閣した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.87-88</ref>。 |
|||
この1830年から1834年のグレイ伯爵・第一次メルバーン子爵内閣、1835年から1841年の第二次メルバーン子爵内閣の間に外相として携わった外交問題に以下のものがある。 |
|||
{{-}} |
|||
==== ベルギー独立をめぐって ==== |
|||
[[File:Le départ des volontaires liégeois pour Bruxelles (Charles Soubre).jpg|thumb|250px|ベルギー独立革命を描いた絵画]] |
|||
パーマストン卿が外相に就任したばかりの頃の外交上の懸案は[[ベルギー独立革命]]であった。 |
|||
ベルギーは、[[ウィーン議定書|ウィーン条約]]以来[[オランダ]]王室[[オラニエ=ナッサウ家]]の統治下に置かれていたが、1830年7月の[[フランス復古王政|フランス]][[7月革命]]の影響を受けて[[自由主義]]・[[ナショナリズム]]の機運が高まり、オランダ(当時[[絶対君主制]]の政体だった)からの独立を求める蜂起が発生し、10月にはベルギー独立が宣言されるに至った。周辺国も介入し、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[オーストリア帝国|オーストリア]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]という[[神聖同盟]]を結ぶ絶対君主制三国がオランダを支援し、自由主義的なイギリスと[[7月王政]]下の[[フランス]]がベルギー独立を支援する構図になった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.30/35</ref><ref>[[#今来(1972)|今来(1972)]] p.434-435</ref><ref>[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.66-67</ref>。 |
|||
ベルギーをめぐって欧州各国の対立が深まる中、前政権の英外相[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]が国際会議を提唱し、11月4日からロンドン会議が開催された。この会議のさなかにグレイ伯爵内閣への[[政権交代]]があり、新たに外相に就任したパーマストン卿が就任早々この会議を取り仕切ることとなった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.37-38</ref>。 |
|||
1831年1月20日の会議でパーマストン卿は各国の同意を取り付けて、ベルギーの[[永世中立国]]としての独立を認めた<ref name="君塚(2006)41">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.41</ref><ref name="森田(1998)379">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.379</ref>。続いて誰をベルギー君主にするかが焦点となったが、ベルギー国内ではフランスの庇護のもとに自由主義国家として独立を維持しようという世論が強かったため、2月3日にベルギー国民議会がロンドン会議に独断でフランス王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の次男である[[ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公)|ヌムール公爵]]を国王に選出した<ref name="今来(1972)437">[[#今来(1972)|今来(1972)]] p.437</ref><ref name="君塚(2006)45">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.45</ref>。これに神聖同盟三国は激しく反発し、パーマストン子爵もヌムール公爵にベルギー王位を断念させるようフランス代表[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]の説得にあたった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.45-46</ref>。孤立を恐れたフランスは、ヌムール公爵にベルギー王位を辞退させた<ref name="君塚(2006)47">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.47</ref><ref name="デュモン(1997)68">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.68</ref>。 |
|||
ヌムール公爵の線が消えると、首相グレイ伯爵は[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家|ザクセン=コーブルク家]]の[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド公子]](亡き[[シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ|シャーロット]]王女の夫)のベルギー王即位を狙うようになり、パーマストン子爵もその意を汲んで会議でレオポルド公子を推した。パーマストン子爵の手腕で最終的にはフランスも神聖同盟三国もレオポルド公子をベルギー王とすることを支持した。ベルギー国民議会も6月4日にレオポルド公子の推戴に賛成する決議をし、レオポルドがレオポルド1世としてベルギー王に即位することとなった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.47-48</ref>。 |
|||
この後、レオポルド1世はベルギー領土の範囲、またオランダ国債のオランダとベルギーの負担割合をめぐってオランダと対立を深めていった。パーマストンが主導するロンドン会議ははじめレオポルド1世の主張を支持したが、それに反発したオランダ王[[ウィレム1世 (オランダ王)|ウィレム1世]]は8月2日にベルギー侵攻を開始、ベルギーは英仏に援軍を求めた<ref name="君塚(2006)51">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.51</ref>。神聖同盟三国もオランダの明白なる侵略行為は擁護しがたく、ロンドン会議はフランス軍の出動を認めた。フランス軍がベルギーに進駐を開始するとオランダ軍は8月15日にベルギーから撤退した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.52-53</ref><ref name="デュモン(1997)69">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.69</ref>。フランス軍はそのままベルギーに進駐を続けようという構えを見せたが、神聖同盟三国の反発とパーマストン子爵の説得で最終的にフランス軍は撤収した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.54-58</ref>。 |
|||
この一連の騒ぎでロンドン会議はオランダ側に若干有利な修正議定書を採決したが、オランダ側はそれでも了解せず、最終的にウィレム1世が議定書を受け入れてベルギー独立を承認したのは1839年になってのことであった<ref name="君塚(2006)60">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.60</ref><ref>[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.69-70/71</ref><ref name="森田(1998)379" />。 |
|||
それでもベルギー独立がヨーロッパ大戦に拡大することなく実現できたのはパーマストン子爵の会議外交の手腕の賜物だった<ref name="君塚(2006)65">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.65</ref>。国王ウィリアム4世はこの会議の功績でパーマストン子爵に[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロス(GCB)を授与している<ref name="君塚(2006)67">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.67</ref><ref name="venn" />。 |
|||
{{-}} |
|||
==== 東方問題をめぐって ==== |
|||
{{main|東方問題}} |
|||
[[File:ModernEgypt, Muhammad Ali by Auguste Couder, BAP 17996.jpg|thumb|150px|1841年の[[ムハンマド・アリー]]を描いた絵画]] |
|||
この頃の[[エジプト]]は[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]総督[[ムハンマド・アリー]]の統治下に置かれていた。アリーは[[シリア]]の統治権を見返りに[[ギリシャ独立戦争]]でトルコに海軍力を提供したが、同戦争に敗戦したトルコは、シリア総督職をアリーに渡そうとしなかった。これに不満を高めたアリーはシリアを武力でトルコから奪い取ることを企図するようになった<ref name="山口(2011)47-48">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.47-48</ref>。1831年10月からシリア支配権をめぐって[[エジプト・トルコ戦争]]が開戦し、エジプト軍が勝利した<ref name="君塚(2006)76">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.76</ref><ref name="山口(2011)50">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.50</ref>。 |
|||
しかしトルコの領土は[[大英帝国]]にとって「インドの道」であり、失うわけにはいかなかった<ref name="山口(2011)62">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.62</ref>。またアリーは英国綿製品の輸入を制限するなどイギリスに敵対的な姿勢を示していたため、彼の覇権がシリアにまで拡大すれば、すでにトルコ領内に巨大市場を確立していた英国綿製品の脅威となる恐れがあった<ref name="山口(2011)61-62">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.61-62</ref>。 |
|||
1831年の間はパーマストン子爵もベルギー独立問題への対応に忙しかったため、[[東方問題]]を捨て置いたが、1832年に入りトルコの敗色が濃厚になると介入を開始した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.76-77</ref>。同じくロシア、オーストリア、フランスも介入を開始し、ロシアとオーストリアはトルコに、フランスはエジプトに好意的態度を取った(フランスは1830年にトルコから[[アルジェリア]]を奪取していたため、エジプトと連携を深めて足場を築こうとしていた<ref name="山口(2011)66">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.66</ref>)。 |
|||
パーマストン子爵は、オーストリア宰相[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]と会議の場所をロンドンにするかウィーンにするかをめぐって争い、その間の1833年7月にロシアとフランスの調停でトルコ・エジプト間に和平が成立。またロシアはトルコに[[ウンキャル・スケレッシ条約]]を締結させ、[[ダーダネルス海峡]]進出を認めさせている<ref name="君塚(2006)82">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.82</ref>。これはパーマストン子爵には手痛い外交失態だった。 |
|||
その後しばらく東方問題はロシア優位のまま沈静化していたが、1838年5月にムハンマド・アリーがトルコからの独立を宣言し、トルコ皇帝[[マフムト2世]]が1839年4月にエジプト征伐を決定したことで問題が再燃した。同年6月に[[イブラーヒーム・パシャ]]率いるエジプト軍は[[ニジプの戦い]]でトルコ軍に決定的な勝利を収めた<ref name="山口(2011)63-64">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.63-64</ref>。この敗戦で弱気になったトルコ皇帝はムハンマド・アリーのシリア総督就任を認めるに至った<ref name="君塚(2006)95">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.95</ref>。 |
|||
エジプトの増長を警戒したパーマストン子爵が再び介入した。今回はオーストリアのメッテルニヒの顔を潰さないようウィーンで会議を行うことに同意しつつ、実質的交渉をロンドンで行うことで東方問題を主導することとした<ref name="君塚(2006)110-111">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.110-111</ref>。親エジプトのフランスを無視して、ロシア、オーストリア、プロイセン、トルコとともに[[ロンドン条約 (1840年)|ロンドン条約]]を締結し、スーダン以外の占領地の放棄をムハンマド・アリーに要求した<ref name="山口(2011)65">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.65</ref><ref name="君塚(2006)102">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.102</ref>。 |
|||
しかしアリーはフランスの支援を期待して強硬姿勢をとったため、パーマストン子爵は1840年9月にイギリス、オーストリア、トルコ連合軍を[[ベイルート]]へ上陸させ、シリア駐屯のイブラーヒーム軍をエジプト本国と切り離した。アリーの期待に反してフランス軍は動かず、エジプト軍は総崩れとなって本国へ撤収していった。アレクサンドリア沖にも英国艦隊が出現するに及んでアリーもついに諦めてロンドン条約を受け入れることを表明した<ref>[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.66-67</ref><ref name="君塚(2006)108">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.108</ref>。 |
|||
1841年2月13日のトルコ皇帝の詔勅によってエジプトとスーダンはトルコの宗主権下で[[ムハンマド・アリー朝|ムハンマド・アリー家]]が総督職を世襲して統治することが認められたが、一方で将官の任免や軍艦製造は宗主国トルコの許可が必要とされ、またイギリスと不平等条約を結んでの自由貿易も受け入れることとなった<ref>[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.67-68</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
==== 阿片戦争 ==== |
|||
[[ファイル:18th Royal Irish at Amoy.jpg|thumb|270px|1841年8月26日、[[廈門]]で清軍を蹴散らす第18近衛アイルランド連隊。]] |
|||
{{main|阿片戦争}} |
|||
[[清]]は[[広東]]港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、[[公行]]という清政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった([[広東貿易]]制度)。しかしインド産[[阿片]]はこの枠外であり、イギリス商人が密貿易によって中国人アヘン商人に売っていたため清国内にアヘンが大量流入していた<ref name="横井(1988)48-50">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.48-50</ref>。1823年にはアヘンがインド綿花を越えて清の輸入品の第一位となり、清は輸入超過([[銀]]流出)を恐れるようになった<ref name="横井(1988)51">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.51</ref>。 |
|||
北京政府内で阿片禁止論が強まっていく中、パーマストン子爵は広東イギリス商人の権益を守るべく、1836年12月10日に[[チャールズ・エリオット (海軍士官)|チャールズ・エリオット]]を対清貿易監察官に任じて[[広東]]へ派遣した。また1837年11月2日には海軍省を通じて東インド艦隊の軍事行動の規制を緩めることで清への軍事的圧力を強化した<ref name="横井(1988)54-55">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.54-55</ref>。 |
|||
しかし功を奏せず、清朝皇帝[[道光帝]]は[[林則徐]]を[[欽差大臣]]に任じて[[広東]]に派遣し、阿片吸引者の取り締まりのみならず、外国人商人からの阿片没収まで行った<ref name="尾鍋(1984)72">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.72</ref><ref name="村岡(1991)99">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.99</ref><ref name="横井(1988)48-50">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.48-50</ref>。林則徐は外国人商人に対し、以後阿片を持ち込まない旨の誓約書の提出を要求したが、エリオットは拒否し5月に広東在住の全英国人を連れて[[マカオ]]に退去した。その後[[九竜半島]]でイギリス船員による現地住民殺害事件が発生したためもあり、林則徐は8月15日に誓約書を提出しない在マカオイギリス人への食料供給を禁じ、商館の中国人使用人の退去を命じた。エリオットはあくまで誓約を拒否したため、所在のイギリス人はマカオも放棄して船上へ逃れる羽目となった<ref>[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.57-58</ref>。 |
|||
阿片禁止の報を受けたイギリス本国はパーマストン子爵の主導で開戦論に傾き、1839年10月1日に[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]内閣の閣議において清遠征軍の派遣が決定された<ref name="横井(1988)58">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.58</ref>。パーマストン子爵は、1840年2月に現地に派遣する外交官や海軍に対して主要港を占領して[[揚子江]]と[[黄河]]を封鎖して不平等条約締結を清政府に迫るよう訓令した<ref>[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.63-64</ref>。1840年6月より始まった戦争はイギリス軍の圧勝に終わり、1842年8月には中国[[非公式帝国|半植民地化]]への第一歩となった不平等条約[[南京条約]]が締結された<ref>[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.73-77</ref>。[[領事裁判権]]、公行制度の廃止、[[上海]]・[[寧波]]・[[広州]]・[[福州]]・[[廈門]]の開港、開港地の[[租借権]]、[[香港]]の割譲などを清に認めさせた<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.99-100</ref>。 |
|||
この戦争中、英国本国では庶民院において当時保守党議員だった[[ウィリアム・グラッドストン]]がこの戦争を「不義の戦争」と批判する質問を行ったが、この際にグラッドストンは「中国人は井戸に毒を撒いてもよい」という過激発言をした。答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である」と逆に批判を返して、彼をやり込めた<ref name="尾鍋(1984)72-73">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.72-73</ref>。 |
|||
==== 第一次アフガニスタン戦争 ==== |
|||
[[File:Britattack.jpg|250px|thumb|1839年7月、{{仮リンク|ガズニーの戦い|en|Battle of Ghazni}}]] |
|||
イギリス東インド会社が統治する[[インド]]の北方にある[[バーラクザイ朝|アフガニスタン王国]]は、イギリスにとってロシア帝国との[[緩衝地帯]]だったが、1830年代になるとアフガン王[[ドースト・ムハンマド・ハーン]]が首都[[カーブル]]に秘密裏にロシア外交官を置くなど怪しい行動を取り始める<ref>[[#モリス(2008)上|モリス(2008)上]] p.128-129</ref>。これについてインド総督[[ジョージ・イーデン (初代オークランド伯爵)|オークランド伯爵]]は、1838年10月に[[シムラー (インド)|シムラー]]において「ドーストはロシアと手を組んでインドを侵略するつもりである。インドを護るためにはアフガンへ進攻して、正当なアフガン王である[[シュジャー・シャー]]を王位に就ける必要がある。アフガンの独立が確保された後に我が軍は撤退する。」という宣言を発した<ref name="モリス(2008)上130">[[#モリス(2008)上|モリス(2008)上]] p.130</ref><ref name="ユアンズ(2002)84">[[#ユアンズ(2002)|ユアンズ(2002)]] p.84</ref>。 |
|||
しかしイギリス本国ではこの宣言について議会や世論からの反対論が根強かった<ref name="モリス(2008)上131">[[#モリス(2008)上|モリス(2008)上]] p.131</ref><ref name="ユアンズ(2002)85">[[#ユアンズ(2002)|ユアンズ(2002)]] p.85</ref>。議会は関係文書の公開を求め、パーマストン子爵もそれに応じたが、公開された関連文書はドーストに好意的な部分が削除され、オークランド伯爵に都合がいいように改編されていた<ref name="モリス(2008)上131">[[#モリス(2008)上|モリス(2008)上]] p.131</ref><ref>[[#ユアンズ(2002)|ユアンズ(2002)]] p.85-86</ref>。 |
|||
結局パーマストン子爵も英国議会もオークランド伯爵の方針に支持を与えたが、当時の電報はインドに到着するまで3カ月はかかったので、オークランド伯爵はその電報を確認することなく総督の自由裁量権で1838年12月からインダス軍にアフガン侵攻を開始させた<ref name="モリス(2008)上131">[[#モリス(2008)上|モリス(2008)上]] p.131</ref><ref>[[#ユアンズ(2002)|ユアンズ(2002)]] p.86-87</ref>。英軍は1839年8月にはドーストをカーブルから追って、[[シュジャー・シャー]]をアフガン王位に就けることに成功した<ref name="モリス(2008)上135">[[#モリス(2008)上|モリス(2008)上]] p.135</ref><ref name="ユアンズ(2002)89">[[#ユアンズ(2002)|ユアンズ(2002)]] p.89</ref>。しかし1841年11月カーブルで反英闘争が激化して掌握不可能となり、それに乗じてトルキスタンに亡命していた前王の息子{{仮リンク|アクバル・ハーン|ps|سردار محمد اکبر خان}}が[[ウズベク族]]を率いてカーブルへ戻ってきたため、イギリス軍は降伏を余儀なくされた<ref name="モリス(2008)上149">[[#モリス(2008)上|モリス(2008)上]] p.149</ref>。 |
|||
アクバルはイギリス軍の安全な撤退を保障したが、約束が守られることなく、アクバル自らの手で英国全権公使サー・ウィリアム・マクノートンが殺害されたうえ、撤退する英軍戦闘員と非戦闘員に対しても現地部族民が略奪をしかけてきたため、大量の死者が出た。結局16000人のカーブル駐留イギリス軍で生き残ったのは軍医の{{仮リンク|ウィリアム・ブライドン|en|William Brydon}}のみであった([[第一次アフガン戦争]])<ref>[[#ユアンズ(2002)|ユアンズ(2002)]] p.94-95</ref><ref name="モリス(2008)上132-152">[[#モリス(2008)上|モリス(2008) 上巻]] p.132-152</ref><ref name="浜渦(1999)95">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.95</ref>。大英帝国の威信は傷つき、[[メルボルン子爵ウィリアム・ラム|メルバーン子爵]]内閣崩壊の原因となった<ref name="浜渦(1999)95" />。 |
|||
{{-}} |
|||
==== 奴隷貿易廃止に努力 ==== |
|||
パーマストン子爵は、外相就任直後から各国に[[奴隷貿易]]を廃止させるための外交努力を行ってきた<ref name="君塚(2006)120">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.120</ref>。 |
|||
さらに奴隷貿易廃止を徹底するため、植民地大国間でお互いの船籍の臨検や拿捕を認める条約の締結を目指したが、イギリス海軍にフランス船籍が臨検されることを嫌がるフランスがごねて、なかなか調印にいたらなかった。結局この条約は後任のアバディーン伯爵外相のもとで締結されたが、条約の骨子を作ったのはパーマストン子爵であった<ref name="君塚(2006)121">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.121</ref>。 |
|||
=== アバディーン伯爵の宥和外交批判 === |
|||
1841年の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}にホイッグ党が敗れたことで、メルバーン子爵政権は議会で敗北した。内閣は同年8月30日に総辞職し、[[ロバート・ピール]]の保守党政権が誕生した<ref name="神川(2011)100">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.100</ref><ref name="君塚(2006)120">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.120</ref>。 |
|||
パーマストン子爵も外相の地位を[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]に譲って退任することになった<ref name="君塚(2006)120" />。 |
|||
アバディーン伯爵は[[タヒチ]]問題でフランスに、[[アフガニスタン]]問題でロシアに、奴隷貿易廃止問題で[[アメリカ]]に譲歩するなど宥和外交を行った<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.121-123</ref>。それに対してパーマストン子爵は「賢明な政府は、国内の民衆の要求に耳を傾け、外国からの不当な要求は断固として撥ね退けるものである。しかるに保守党政権は、その逆であり、国内の民衆の要求は断固として退けながら、外国にはあらゆる譲歩をしている」と批判した<ref name="君塚(2006)123">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.123</ref>。 |
|||
=== ラッセル内閣の外相 === |
|||
[[File:Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston by John Partridge.jpg|thumb|150px|1844年から1845年頃のパーマストン子爵を描いた絵画]] |
|||
1845年からアイルランドで[[じゃがいも飢饉]]が発生した。パーマストン卿の所領もこの飢饉で大きな打撃を受けた。彼は領主として領内の小作人たちに[[カナダの歴史#英領カナダ|カナダ]]移住を促した<ref name="君塚(2006)125">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.125</ref>。 |
|||
飢饉対策として行われた[[穀物法]]廃止をめぐって保守党政権は自由貿易派([[ピール派]])と保護貿易派に分裂して政権崩壊した。代わって[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]を首相とするホイッグ党政権が誕生し、パーマストン卿も同内閣に外相として入閣した<ref name="君塚(2006)125">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.125</ref>。ラッセルの部下という形になったが、この頃にはパーマストン卿のホイッグ党内での権威はラッセルのそれとほぼ同等になっていた<ref>[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.148-149</ref>。 |
|||
アバディーン伯爵の宥和政策にすっかり慣れていた諸外国にとっては強硬外交家パーマストン卿の復帰は「悪夢」であったという<ref name="君塚(2006)126">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.126</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
==== スイス内乱をめぐって ==== |
|||
[[File:Sonderbund War Map English.png|thumb|250px|[[分離同盟戦争]]のスイス地図。黄色が分離同盟に属するカントン。緑が多数派のカントン。]] |
|||
[[ウィーン体制]]下で[[スイス]]は列強諸国から[[永世中立国]]と認められ、[[神聖同盟]]三国の弾圧を受けて逃れてきた自由主義者やナショナリストの避難場所になっていた。スイスは[[連邦国家]]であり、25の[[スイスの地方行政区画|カントン]]と半カントンで構成されていた。カントンごとに政治体制が異なり、概して工業地域のカントンは自由主義的・[[プロテスタント]]的であり、農村地域は保守的・[[カトリック教会|カトリック]]的だった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.126-127</ref>。 |
|||
自由主義の風潮が強まる中、保守的・カトリック的なカントンは危機感を強め、これらのカントンは1845年に「分離同盟 (Sonderbund)」を結成した<ref name="君塚(2006)127">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.127</ref><ref name="森田(1998)112">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.112</ref>。しかし1846年には[[ジュネーブ]]で急進派が革命に成功し、さらに1847年には[[盟約者団会議]](スイス連邦政府)が分離同盟に対して同盟解散とカトリック保守派の代表格[[イエズス会]]士を追放するよう要求した。分離同盟がこれを拒否すると盟約者会議は武力制裁を決議し、スイスは1847年11月に[[分離同盟戦争]]と呼ばれる内乱に突入した<ref name="君塚(2006)127" /><ref name="森田(1998)113">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.113</ref>。 |
|||
農村が中心の分離同盟に勝ち目は薄く、分離同盟は同じカトリック保守のオーストリア帝国に援助を要請した。オーストリア宰相メッテルニヒはこれを了承し、スイス内乱の調停のためのウィーン会議の開催を目指した。またフランス7月王政もこの頃には国内の自由主義者の革命を警戒してだいぶカトリック保守化していたため、メッテルニヒを支持した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.127-128</ref>。これに対してパーマストン子爵は反分離同盟的な態度を示してロンドンでの国際会議を提唱したが、[[サルデーニャ王国]]や[[プロイセン王国]]も分離同盟寄りの態度をとってロンドンでの会議に反対したため、パーマストン子爵は孤立してしまった。当のスイス政府も国際会議にかけられること自体に乗り気ではなかった<ref name="君塚(2006)129-130">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.129-130</ref>。 |
|||
スイスの内乱は1847年のうちに自由主義政府の勝利に終わり、またその翌年にはフランスやオーストリアなどに[[1848年革命]]が発生し、各国ともスイスどころではなくなったため、この問題は収束していった<ref name="森田(1998)114">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.114</ref>。 |
|||
==== 1848年革命をめぐって ==== |
|||
1848年2月にフランス7月王政が打倒され、[[フランス第二共和政|共和政]]が樹立された。フランス臨時政府外相[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ]]がウィーン体制に対して曖昧な態度を取ったことで、神聖同盟三国が激しく反発したが、パーマストン子爵が割って入って三国をなだめてヨーロッパ大戦を回避した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.133-136</ref>。 |
|||
3月に入るとオーストリアやプロイセンでも革命が発生し、オーストリア首相メッテルニヒが失脚した。プロイセンでも自由主義内閣が立ち上げられた<ref>[[#スタ上|スタインバーグ(2013) 上巻]] p.159-166</ref>。オーストリアの統治下にある北イタリアにも革命が広がった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.137-138</ref>。このような中、スイス問題で孤立したパーマストン子爵も自由主義外交の旗手として再びヨーロッパ国際政治の中心に立ったのである<ref name="君塚(2006)137">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.137</ref>。 |
|||
==== サルデーニャのロンバルディア進攻をめぐって ==== |
|||
1848年革命の影響で北イタリアをはじめとするオーストリアの支配地域でも続々とナショナリズム蜂起が発生した。自由主義者のパーマストン卿は、これまでもオーストリアのメッテルニヒ体制が自由主義や民族主義を弾圧しながら異民族の地を統治していることを批判的に見ていたが、それらの地が収まっている間はあえて介入する意思はなかった。だがこのような騒乱状況となった今、[[ロンバルディア]]は[[サルデーニャ王国]]に割譲し、[[ヴェネト]]にも自治権を認めることでイタリア民族主義に譲歩すべきと考えるようになった。一方でパーマストン卿はイギリス以外の国がイタリア問題に介入してくることを嫌い、フランス臨時政府にサルデーニャに加担しないよう釘を刺すことも忘れなかった<ref name="君塚(2006)138">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.138</ref>。 |
|||
1848年秋頃には早くも革命に衰退の兆しが見られるようになり、パーマストン卿は革命が完全に鎮静化する前に[[ブリュッセル]]など自由主義的な土地でイタリア問題に関する国際会議を開催しようとしたが、1858年12月にはオーストリアで皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]と首相兼外相[[フェリックス・シュヴァルツェンベルク]]侯爵の保守的で反英的な体制が成立したため、うまくいかなかった<ref name="君塚(2006)139">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.139</ref>。 |
|||
一方[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]国王[[カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイア|カルロ・アルベルト]]は1849年3月にもイタリア統一のため[[ロンバルディア]]進攻を開始すると宣言した。パーマストン卿は特使を派遣して仲裁しようとしたが、オーストリアが国際会議開催を認めなかったため、オーストリアとサルデーニャは開戦に至った。サルデーニャの進攻は[[ヨーゼフ・ラデツキー|ヨーゼフ・フォン・ラデツキ]]元帥率いるオーストリア軍の反撃で停滞。1849年3月の[[ノヴァーラの戦い (1849年)|ノヴァーラの戦い]]でサルデーニャ軍はオーストリア軍に決定的な敗北を喫し、カルロ・アルベルトも退位に追いやられた<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.138-140</ref>。 |
|||
パーマストン卿はオーストリアが北イタリアへの支配力を回復した今、イタリア・ナショナリズムのために軍事介入する意思はなく、この段階ではこれ以上サルデーニャに肩入れすることはなかった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.139-140</ref>。 |
|||
==== 第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって ==== |
|||
[[File:Otto Bache - Soldaternes hjemkomst til København i 1849.jpg|250px|thumb|第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争からコペンハーゲンに帰還したデンマーク兵たちを描いた絵画({{仮リンク|オットー・バッケ|en|Otto Bache}}画)]] |
|||
1848年革命のナショナリズムの高まりの影響で、1848年4月8日、[[デンマーク]](当時絶対君主制国家だった)の[[同君連合]]下にある[[シュレースヴィヒ公国]]と[[ホルシュタイン公国]]で両公国のドイツ連邦への吸収合併を求めるドイツ民族主義者とデンマーク軍の戦闘が勃発した。プロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]もドイツ・ナショナリズム支援のために介入を決定し、4月10日にもシュレースヴィヒ・ホルシュタインへ進軍してデンマーク軍を同地から追い払った([[第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]])<ref name="君塚(2006)141">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.141</ref>。 |
|||
この問題をめぐってはプロイセンの[[バルト海]]進出を恐れているロシアが、デンマーク側で参戦する可能性が高かった。パーマストン卿はロシアの参戦を阻止すべく、国際会議で仲裁しようとした。ロシア外相[[カール・ロベルト・ネッセルローデ]]はパーマストン卿に共同介入を提案したが、パーマストン卿はそれを拒否し、単独介入を目指した。4月末までにデンマーク・プロイセン両国から国際会議開催への合意を得たが、5月にはプロイセン軍がデンマーク領へ侵攻を開始し、これに激怒したロシアがフランスとともに参戦をちらつかせてプロイセンを脅迫し、6月にプロイセン軍はデンマーク領からの撤退を余儀なくされた。ロシアとスウェーデンの斡旋で8月にはデンマーク・プロイセンは一時休戦した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.140-143</ref>。 |
|||
ここでパーマストン卿は、恒久的平和実現のためとしてシュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題を話し合うロンドン会議を提唱した。孤立無援状態だったプロイセンはこれを支持し、またシュレースヴィヒで劣勢に立ったままのデンマークも支持した。こうして10月からパーマストン卿を議長とするロンドン会議が開催された。パーマストン卿は「シュレースヴィヒはデンマークに統合しつつドイツ語圏住民に独自の憲法制定権を含めた自治権を付与し、一方ホルシュタインはデンマーク王の同君連合のまま[[ドイツ連邦]]に加盟する」という案で会議をまとめようとしたが、デンマーク王[[フレデリク7世 (デンマーク王)|フレデリク7世]]はこれを承諾しなかった。その頑なな態度にプロイセンやドイツ連邦もデンマークとの交渉を打ち切った<ref name="君塚(2006)145">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.145</ref>。 |
|||
1849年4月から戦闘が再開されたが、この頃オーストリアはデンマークを後押ししてプロイセンに背後から襲いかかろうと策動していた。プロイセンとドイツ・ナショナリズムに明らかに不利な情勢の中、パーマストン卿はデンマークを軍事的優位に立たせる以外にロンドン会議をまとめることができないと確信し、プロイセンとオーストリア双方に介入しないよう圧力をかけた。これにより両国とも不介入を決定し、以降、この戦争はシュレースヴィヒ・ホルシュタインの中のドイツ・ナショナリストとデンマークだけの戦いへと変化していく。これによりデンマーク側が軍事的に有利に立った<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.145-146</ref>。 |
|||
そのうえでパーマストン卿は1849年9月に改めてロンドン会議を招集した。パーマストン卿の主導する粘り強い交渉の末、デンマークにもドイツ側にも一定の譲歩をさせることができた。シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両国とも引き続き同君連合のもとデンマーク王の統治下に置かれることや[[グリュックスブルク家]]の[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン]]がフレデリク7世の後を継ぐこと、デンマーク自体に自由主義的な憲法を導入することなどが取り決められた。これらの合意は1850年8月に[[ロンドン議定書]]という形で結実した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.146-147</ref>。 |
|||
==== ドン・パシフィコ事件 ==== |
|||
1850年初夏、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]・[[アテネ]]在住の英国([[ジブラルタル]])籍の[[ムーア人]]系[[ユダヤ人]]商人{{仮リンク|ドン・パシフィコ|en|Don Pacifico}}は、その前年に反ユダヤ主義者に邸宅を焼かれて財産を奪われた件で巨額の賠償金をギリシャ政府に要求したが、ギリシャ政府はこれを拒否した<ref name="尾鍋(1984)82">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.82</ref><ref name="川本(2006)248">[[#川本(2006)|川本・松村(2006)]] p.248</ref><ref name="神川(2011)138">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.138</ref><ref name="君塚(2006)147">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.147</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上330">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.330</ref>。パシフィコはイギリス外務省に助けを求めた<ref name="川本(2006)248" /><ref name="ワイントラウブ(1993)上330" />。 |
|||
ちょうどこの頃イギリスとギリシャは[[イオニア諸島]]の領有問題で争っていたため、パーマストン卿はこの事件をギリシャ恫喝の絶好のチャンスと見た。英国艦隊を[[ピレウス]]港に派遣し、パシフィコの要求に応じるようギリシャ政府を恫喝した。ギリシャ政府はこの恫喝に屈服し、パシフィコに賠償金を支払い、またイオニア諸島のイギリス領有を認める羽目となった({{仮リンク|ドン・パシフィコ事件|en|Don Pacifico affair and case}})<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.147-148</ref>。 |
|||
このパーマストン卿のやり方をフランスやロシアが批判し、国内でもヴィクトリア女王や野党が批判した。女王は「一個人の利益のために国家全体を危険に晒してはならない」と訓戒した<ref name="川本(2006)249">[[#川本(2006)|川本・松村(2006)]] p.249</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上331">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.331</ref>。貴族院はパーマストン卿不信任案を決議した<ref name="川本(2006)249">[[#川本(2006)|川本・松村(2006)]] p.249</ref>。庶民院でも[[ピール派]]の[[ウィリアム・グラッドストン]]、保守党の[[ベンジャミン・ディズレーリ]]、{{仮リンク|急進派 (イギリス)|label=急進派|en|Radicals (UK)}}の[[リチャード・コブデン]]ら野党議員が鋭く批判した<ref name="神川(2011)138" />。 |
|||
これに対してパーマストン卿は6月25日に答弁に立ち、次のような歴史に残る演説で反論した。 |
|||
{{Quotation|古のローマ市民が『私はローマ市民である』と言えば侮辱を受けずにすんだように、イギリス臣民も、彼がたとえどの地にいようとも、イギリスの全世界を見渡す目と強い腕によって不正と災厄から護られていると確信できるべきである<ref name="川本(2006)250">[[#川本(2006)|川本・松村(2006)]] p.250</ref><ref name="神川(2011)139">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.139</ref><ref name="君塚(2006)148">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.148</ref><ref name="村岡(1991)160">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.160</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上331">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.331</ref>。}} |
|||
この英国民の自尊心をくすぐる演説は圧倒的な世論の支持を受け、たちまちのうちにパーマストン卿は国民的英雄となった<ref name="ワイントラウブ(1993)上331" />。この演説には野党議員さえもが感動し、グラッドストンは「並はずれた名演説」と評し、[[ロバート・ピール]]は「我々の誰もが彼を誇りに思わずにはいられなかった」と評した<ref name="川本(2006)250">[[#川本(2006)|川本・松村(2006)]] p.250</ref>。 |
|||
情勢は逆転し、庶民院は46票差でパーマストン卿不信任案を否決した<ref name="川本(2006)249">[[#川本(2006)|川本・松村(2006)]] p.249</ref><ref name="神川(2011)139" /><ref name="君塚(2006)148" />。 |
|||
==== 女王夫妻との対立 ==== |
|||
[[File:Queen Victoria and Prince Albert 1854.jpg|thumb|180px|[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]と[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]([[1854年]])]] |
|||
[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]やその夫[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]は、[[ドイツ連邦]]の[[領邦]][[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国]]の公家の血を引いており、ドイツ連邦二大国プロイセン・オーストリアと良好な関係を保ちたいと願っていた。そのため反普・反墺的態度をとることが多いパーマストン卿の自由主義外交に辟易していた<ref name="君塚(2006)153">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.153</ref>。 |
|||
また女王夫妻は、二人の叔父であるベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]が[[オルレアン家]]のフランス王[[ルイ・フィリップ]]の娘[[ルイーズ=マリー・ドルレアン|ルイーズ]]と結婚していた関係で親オルレアン家であり<ref name="ワイントラウブ(1993)上387">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.387</ref>、そのオルレアン家を倒して樹立されたフランスの共和政体を嫌っていた。パーマストン子爵の外交についてもフランスと接近し過ぎと考えていた<ref name="君塚(2006)153" />。 |
|||
さらにパーマストン卿は女王夫妻に事前報告せず、事後報告で済ませようとすることが多かったが<ref name="ワイントラウブ(1993)上87">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.87</ref>、女王夫妻はこれにも不満を抱いており、ドン・パシフィコ事件の際には首相ジョン・ラッセル卿とパーマストン卿双方に対して「1、外務大臣は何を行おうとしているか女王に明確に述べること、女王が何に裁可を与えたか把握するためである。2、一度女王が裁可を与えた場合にはそれ以降外務大臣は独断で政策を変更・修正してはならない。そのような行為は王冠に対する不誠実であり、行われた場合には大臣罷免の[[イギリスの憲法|憲法]]上の権限を行使するであろう」という警告を行っているほどである<ref>[[#川本(2006)|川本・松村(2006)]] p.254-255</ref><ref name="ストレイチイ(1953)166">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.166</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上331" />。この時にはパーマストン卿もやり方を改めることを約束した<ref name="尾鍋(1984)84">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.84</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
==== 解任 ==== |
|||
1851年12月にフランスで大統領[[ナポレオン3世|ルイ・ナポレオン]]が議会に対してクーデタを起こした。ラッセル内閣は「女王陛下の政府はクーデタに中立の立場をとる」ことを閣議決定した<ref name="君塚(2006)155">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.155</ref>。 |
|||
ところがパーマストン卿が女王にも首相ラッセルにも独断で駐英フランス大使[[アレクサンドル・ヴァレフスキ]]に対してこのクーデタを承認する言明をしていたことが発覚した<ref name="尾鍋(1984)84">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.84</ref><ref name="神川(2011)145">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.145</ref><ref name="君塚(2006)155" /><ref name="ストレイチイ(1953)170">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.170</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上333">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.333</ref>。 |
|||
女王は激怒し、「これでは女王の政府の公正と威信が世界中から疑われる」とラッセルを叱責した<ref name="君塚(2006)156">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.156</ref>。ラッセルはこれまでパーマストン卿の国民人気と党内右派の支持を配慮して彼の独断外交に目をつぶってきたが、今回は許容しなかった。ついにパーマストン卿は外相を解任された<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.145-146</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上333" />。この退任の際に[[連合王国貴族]]の爵位とアイルランド総督への転任の話があったが、パーマストン卿はいずれも拒否している<ref name="君塚(2006)156">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.156</ref>。 |
|||
女王は叔父ベルギー王レオポルド1世に宛てた手紙の中で彼の解任について「私たちのみならず、世界中の人々にとって嬉しいニュースをお伝えいたします。パーマストン卿はもはや外務大臣ではないのです。」と書いている<ref name="君塚(2006)157">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.157</ref>。 |
|||
=== パーマストン派の形成とラッセルとの対立 === |
|||
[[File:John Russell, 1st Earl Russell by Lowes Cato Dickinson detail.jpg|thumb|150px|パーマストンと並ぶホイッグ党二巨頭の[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]。]] |
|||
以降ホイッグ党は自由党結成までパーマストン派とラッセル派という二大派閥に引き裂かれることとなった。両派は第三会派や世論を取り込もうと、それぞれ別個のアピールをするようになった。ラッセル派は主に議会改革、パーマストン派は主に砲艦外交や強硬外交を主張した<ref name="ブレイク(1993)319">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.319</ref>。 |
|||
ラッセル内閣はクーデタによって独裁権力を手にしたフランスのルイ・ナポレオン大統領(1852年12月には皇帝に即位してナポレオン3世となる)が、伯父の仇をとろうとイギリスに上陸作戦を決行するのではという不安に駆られており、それに対抗するため1852年2月に会期が始まった議会でイングランド南東岸に民兵組織を作る法案を提出した<ref name="君塚(2006)158">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.158</ref>。 |
|||
パーマストン卿はラッセル内閣倒閣を狙って、その法案の修正法案を提出した。保守党庶民院院内総務[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]がパーマストン卿に協力することを決定し、修正法案はパーマストン派と保守党の賛成多数で可決され、ラッセル内閣は総辞職することとなった<ref name="ブレイク(1993)362">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.362</ref>。このパーマストン卿の修正動議は世に「しかえし (Tit for tat)」と呼ばれた<ref name="神川(2011)146">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.146</ref>。 |
|||
この後、保守党党首[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー伯爵]]が大命を受けて組閣した。保守党はパーマストン卿を保守党政権に引き込みたがっており、ディズレーリから保守党庶民院院内総務の地位を譲ると持ちかけられ、またダービー伯爵からも大蔵大臣として入閣してほしいと要請を受けた。しかしパーマストン卿はいずれも拒否している。女王はパーマストン卿をとことん嫌っていたため、これに安堵したという<ref name="ブレイク(1993)362" />。しかし組閣後もディズレーリはパーマストン卿を誘い続け、パーマストン卿の方も入閣こそしなかったが保守党政権に好意的な態度をとっていた<ref name="神川(2011)149">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.149</ref>。 |
|||
1852年12月、大蔵大臣ディズレーリの作成した予算案がピール派、急進派、ホイッグ党ラッセル派など野党勢力の反対多数で否決され、第一次ダービー伯爵内閣は総辞職することとなった。親保守党政権的な立場をとってきたパーマストン卿はこの予算案採決に欠席した<ref name="神川(2011)151">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.151</ref><ref name="君塚(2006)170">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.170</ref>。 |
|||
=== アバディーン伯爵内閣の内相 === |
|||
パーマストン卿とラッセルの険悪な関係は続き、両者ともお互いにその下に就くことを拒否したため、ホイッグ党首班の内閣を作るのは無理な情勢であった。1851年12月、女王は長老政治家[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]の助言に従ってピール派領袖[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]に組閣の大命を与えた<ref name="尾鍋(1984)90">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.90</ref><ref name="君塚(2006)170">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.170</ref>。 |
|||
アバディーン伯爵内閣はピール派、ホイッグ党、急進派の連立によって組閣されたが、ピール派や急進派はパーマストン卿が外相になることに反対したため、外相の地位にはラッセルが就任し、パーマストン子爵には外相以外の好きな閣僚ポストが提供されることになった。パーマストン卿は当初「外相以外は受けるつもりはない」と入閣を拒否していたが、ランズダウン侯爵の説得を受け入れて内務大臣として入閣することになった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.171-172</ref>。 |
|||
内相となったパーマストン卿は1853年の新工場法制定を主導し、若い労働者の保護に尽力した。また工場の石炭の煙の規制など環境・公害問題にも取り組んだ<ref name="君塚(2006)173">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.173</ref>。この内閣ではアバディーン伯爵やラッセルが中心となって都市選挙区の熟練労働者に選挙権を拡大させる法案が検討されたが、パーマストン卿は「立法権を貴族・地主・[[ジェントリ]]から実業家・商人・労働者に譲り渡すことになりかねない」として反対の立場をとり、推進派のアバディーン伯爵やラッセルと対立を深めていった<ref name="君塚(2006)178">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.178</ref>。 |
|||
内相時代にも彼の主たる関心は外交にあった{{#tag:ref|イングランド北部で工場[[ストライキ]]が発生した際に女王から「続報は入っているか」とご下問があったが、内務大臣であるパーマストンは『いいえ、陛下、何も聞いておりません。しかし、(後述するクリミア戦争における)トルコ軍が[[ドナウ川]]を越えているのは確かなようです』と奉答したという<ref>{{Cite book|和書|title=悪党たちの大英帝国|date=2020|year=2020|publisher=[[新潮社|株式会社新潮社]]|page=191|author=君塚 直隆|authorlink=君塚直隆|isbn=9784106038587|location=[[東京都]][[新宿区]]|series=新潮選書}}</ref>。|group="注釈"}}。とりわけフランス皇帝ナポレオン3世がトルコからパレスチナのカトリック保護権を得て、同地の[[ギリシャ正教会]]の保護権を主張していたロシアと対立を深めていることに注目していた。パーマストン卿は1853年1月からアバディーン伯爵、ラッセルとともに閣内に置かれた外交検討グループのメンバーになっていたため、その資格でこの問題に積極的に発言した<ref name="君塚(2006)174">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.174</ref>。 |
|||
閣内ではパーマストン卿やラッセルらホイッグ党系閣僚がトルコ・フランスに好意的な態度をとり、逆にアバディーン伯爵やグラッドストンらピール派閣僚がロシアに好意的だった<ref name="君塚(2006)176">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.176</ref>。ロシアはアバディーン伯爵の平和外交でイギリスが中立の立場をとるだろうと期待し、他方トルコとフランスはパーマストン卿の強硬外交でイギリスが対ロシア参戦するだろうと期待していた。そのため双方とも強硬姿勢を崩さなかった<ref name="君塚(2006)177">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.177</ref>。その結果、1853年10月にロシアとトルコは開戦して[[クリミア戦争]]が勃発した<ref name="神川(2011)158">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.158</ref>。 |
|||
閣内分裂状態になったアバディーン伯爵内閣だが、そもそも同内閣はパーマストン卿とラッセルというホイッグ党二巨頭の支持無くしては存続できないので、結局決定的な主導権を握ったのはこの二人だった。その結果、内閣は対ロシア主戦論に傾き、1854年3月にイギリスはフランスとともにロシアに宣戦布告した<ref name="神川(2011)158">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.158</ref>。 |
|||
しかしクリミア戦争は膠着状態となり、1855年1月29日には{{仮リンク|ジョン・アーサー・ローバック|en|John Arthur Roebuck}}議員提出の戦争状況を調査するための秘密委員会設置を求める動議が大差で可決され、アバディーン伯爵内閣は総辞職に追い込まれた<ref name="ブレイク(1993)418">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.418</ref><ref name="神川(2011)163">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.163</ref>。 |
|||
=== 第一次パーマストン子爵内閣 === |
|||
[[File:Portrait of Lord Palmerston.png|thumb|150px|1855年頃のパーマストン子爵を描いた肖像画]] |
|||
次の首相はパーマストン卿以外は考えられないというのが一般的な評価だった。パーマストン卿はフランスとの同盟維持に不可欠な人材であったうえ、国内的にも彼は[[第二次世界大戦]]中の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]のごとく戦争遂行の象徴的人物になっていたためである<ref name="ブレイク(1993)421">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.421</ref>。 |
|||
パーマストン卿を嫌うヴィクトリア女王は保守党党首ダービー伯爵、ホイッグ党貴族院院内総務ランズダウン侯爵、ラッセルの順に大命を与えていったが、三人ともパーマストン卿とピール派の協力を得られなかったために組閣できなかった。パーマストン卿は首相を狙える立場であるから、彼らの内閣の外相に甘んじる必要がなく、全員からの入閣要請を拒否したのである<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.163-167</ref>。 |
|||
ランズダウン侯爵がパーマストン卿を次の首相に推挙するに及んで女王も抵抗を諦め、2月6日にパーマストン卿に組閣の大命を与えた<ref name="神川(2011)166">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.166</ref><ref name="ブレイク(1993)421">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.421</ref><ref name="君塚(2006)177">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.177</ref>。70歳にしての首相就任であり、この時点では歴代最高齢での首相就任だった(後にグラッドストンに抜かれる。ただし初めて首相に就任した年齢の比較では現在でもパーマストン卿が歴代最高齢である)<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.184-185</ref>。 |
|||
内閣成立直後にピール派閣僚数名が閣外に去ったが、基本的に内閣はこれまで通りのホイッグ党・ピール派・急進派の連立政権だった<ref name="君塚(2006)186">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.186</ref>。 |
|||
==== クリミア戦争 ==== |
|||
クリミア戦争の戦況は、[[クリミア半島]][[セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年)|セヴァストポリ要塞の戦い]]でロシアの堅い守備に阻まれて苦戦を強いられていた<ref name="君塚(2006)185">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.185</ref>。パーマストン卿が目下やらねばならないことはクリミア戦争に道筋をつけることであった。 |
|||
オーストリア外相[[カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタイン]]伯爵の提唱で1855年3月から3か月にわたって開催されたウィーンでの和平交渉会議にパーマストン子爵は、ラッセルを英国代表として派遣した。パーマストン卿はセヴァストポリ要塞を陥落させない限り、ロシアがこちらの要求を呑むはずはなく、会議は失敗におわると考えており、そのため元首相のラッセルを派遣することでイギリスが会議を重視していることを国際社会に示しつつ、会議の失敗を理由にラッセルを失脚させようと考えたのである<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.185-188</ref>。パーマストン卿の予想通り、黒海における海軍力制限にロシア代表[[アレクサンドル・ゴルチャコフ]][[公爵]]が難色を示したことで1855年6月に会議は決裂した。これによりラッセルの権威は低下し、パーマストン卿のホイッグ党内における優位が確立された<ref name="君塚(2006)196">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.196</ref>。 |
|||
1855年9月、ついに英仏軍はセヴァストポリ要塞を陥落させることに成功した<ref name="ブレイク(1993)423">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.423</ref>。ナポレオン3世はこれを機に戦争終結の交渉に入ることを希望するようになった<ref name="君塚(2006)197">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.197</ref>。ロシアも同要塞の陥落直後には交渉で不利な立場に立たされることを嫌がって継戦の姿勢を示していたが、1856年に入ると終戦を望むようになり、譲歩の姿勢を示すようになった<ref name="君塚(2006)198">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.198</ref>。 |
|||
パーマストン卿は継戦を希望していたが、連合軍の戦力の中心はフランス軍であったからフランスが戦意をなくしてはパーマストン卿も折れるしかなかった。イギリスの孤立を避けるためにもナポレオン3世の提唱するパリでの国際会議に賛同することとなった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.198-199</ref>。同会議の結果、1856年3月14日に[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]が締結され、[[黒海]]の非武装化、[[ドナウ川]]の航行自由化、[[モルダヴィア公国]]と[[ワラキア公国]]のトルコ返還(自治権付与)が取り決められて終戦した<ref name="君塚(2006)204">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.204</ref>。 |
|||
講和をめぐって彼が主導権を発揮することはできなかったが、女王からは4月11日に「戦争が終結し、この国の名誉と利益がパリ条約によって守られたことに満足の意を示します。これもパーマストン卿の熱意と指導力の賜物です。そこで女王は卿に[[ガーター勲章]]を贈ります」とする書簡を送られた。イギリス臣民のガーター騎士団の人数には24名という定数があり、騎士団員が死んで席が空かない限り、新しい騎士団員を任命することはできないが、パーマストン卿は特例として席が空くまでの暫定として「特別騎士(extra Knight)」に叙されることになった<ref name="君塚(2006)204" />。 |
|||
{{-}} |
|||
==== アロー戦争 ==== |
|||
[[File:The 67th foot storming the Taku Forts, 1860.jpeg|thumb|200px|[[大沽砲台]]攻防戦を描いた絵画]] |
|||
阿片戦争で清に自由貿易を拡大させたはよかったが、イギリスの主要輸出品[[木綿]]の清への輸出量はその後もあまり増えておらず、[[マンチェスター]]綿産業を中心に清に更なる市場開放を迫るべしという声が強くなっていった<ref name="村岡(1991)161">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.161</ref>。 |
|||
また清国内では依然として阿片は禁制品であったが、イギリス人は先の阿片戦争で締結した[[南京条約]]を盾に阿片の流入をやめようとはせず、清政府や中国人の間には反英感情が高まっていた。広東では、中国半植民地化に反発する民衆が排外暴動を起こすようになり、イギリス人が広東市内に入れなくなった。イギリス香港総督がこれについて抗議したが、[[両広総督]]・[[欽差大臣]][[耆英]]は応じなかった<ref>[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.97-98</ref>。また「夷狄の首府侵入」を許すことによって権威が低下することを恐れていた清政府は、イギリス外交官と北京政府の直接交渉を認めず、外交窓口を広東に派遣する[[欽差大臣]]に限定し続けていた<ref name="横井(1988)101">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.101</ref>。これらはイギリス側に介入のきっかけを与えることとなった。 |
|||
パーマストン子爵は清の姿勢を不誠実、いい加減、無法だとしていらついていた<ref name="横井(1988)101" />。上海領事[[ラザフォード・オールコック|サー・ラザフォード・オールコック]]が再度武力行使して条約改正を清政府に迫るべしと進言したのを機にパーマストン子爵もその決意を固めた<ref name="横井(1988)102">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.102</ref>。 |
|||
1856年10月、香港総督は、清国官憲がイギリス(香港)籍船舶[[アロー号]]{{#tag:ref|このアロー号は方亜明なる中国人商人が所有する船であるが、香港総督府の船舶登録を受けていた。しかしこの事件の時点ではすでに登録期間が切れていた。イギリス側は開戦口実を失わないためにこのことは清側に秘匿した<ref name="横井(1988)118">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.118</ref>。|group=注釈}}に入ってきて中国人12名を海賊容疑で逮捕した事件を口実にして、香港駐屯イギリス海軍に広東への攻撃を開始させた<ref name="横井(1988)119-120">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.119-120</ref>。その報告を受けたパーマストン子爵は直ちに香港総督の武力行使に追認を与え、自分が全責任を負うと通達した<ref name="神川(2011)168">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.168</ref>。 |
|||
だが庶民院では野党が人道的観点からこの戦争を批判した。1857年3月には急進派の[[リチャード・コブデン]]議員提出のパーマストン子爵批判動議が保守党、ピール派、急進派の議員たちの賛成で可決された<ref name="横井(1988)120">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.120</ref>。これに対してパーマストン子爵は4月に{{仮リンク|1857年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1857}}に踏み切った<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.435-436</ref><ref name="神川(2011)168">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.168</ref>。広東の清の高官を「無礼な野蛮人」と呼ぶなどのパーマストン子爵の攻撃的なパフォーマンスは、英国民の愛国心を刺激して共感を呼び、選挙は党派を超えてパーマストン子爵を支持する議員たちが大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した<ref name="ブレイク(1993)436">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.436</ref><ref name="神川(2011)169">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.169</ref><ref>[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.95-97</ref><ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.168-169</ref>。 |
|||
フランス皇帝[[ナポレオン3世]]も[[広西省]]でフランス人神父が殺害された事件を口実にアロー戦争に参戦した<ref name="村岡(1991)162">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.162</ref>。英仏連合軍は広東を占領して北上し、1858年5月に[[大沽砲台]]を占領して北京を窺い、6月には清に[[天津条約 (1858年)|天津条約]]を締結させた<ref name="横井(1988)128">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.128</ref>。だが清政府にとってこの条約は北京陥落を防ぐための便宜的手段であり、条約を守る姿勢を見せなかったため、一度撤収した英仏軍は再び北進を開始し、1860年8月に大沽砲台を再度陥落させ、今度こそ北京を占領した。これにより清は天津条約以上に厳しい条件の[[北京条約]]を締結する羽目になった<ref name="横井(1988)132">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.132</ref>。清は巨額の賠償金、天津など11港の開港を認めることとなった<ref name="村岡(1991)162">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.162</ref>。 |
|||
またこの戦争中の1858年8月、天津条約締結で一時暇になっていた英国艦隊を日本に派遣し、「応じないなら50隻の軍艦で攻めよせる」と[[江戸幕府]]を脅迫して不平等条約[[日英修好通商条約]]を締結させることにも成功している<ref name="村岡(1991)162">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.162</ref><ref>[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.129-130</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
==== インド大反乱の鎮圧 ==== |
|||
[[ファイル:Vereshchagin-Blowing from Guns in British India.jpg|thumb|230px|[[インド大反乱]]に参加したインド人を{{仮リンク|大砲で吹き飛ばす死刑|en|Blowing from a gun}}に処すイギリス軍を描いた絵画。]] |
|||
1857年5月、[[エンフィールド銃]]に牛脂や豚脂を使用しているという噂が直接の原因となって、[[イギリス東インド会社]]が統治する[[インド]]・[[メーラト]]で[[スィパーヒー|セポイ]](イギリス東インド会社の傭兵)たちが蜂起した<ref name="ワイントラウブ(1993)上408-409">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.408-409</ref><ref name="長崎(1981)63-71">[[#長崎(1981)|長崎(1981)]] p.63-71</ref>。反乱セポイ達は[[デリー]]へ向かい、形式的なインドの統治者である[[ムガル帝国]]皇帝[[バハードゥル・シャー2世]]を擁立してイギリスに対して反乱を起こした([[インド大反乱|インド大反乱(セポイの反乱)]])<ref name="長崎(1981)78-85">[[#長崎(1981)|長崎(1981)]] p.78-85</ref>。地方にも続々と反乱政府が樹立されていき<ref name="長崎(1981)98">[[#長崎(1981)|長崎(1981)]] p.98</ref>、北インド全域に反乱が拡大した<ref name="浜渦(1999)110">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.110</ref>。 |
|||
反乱勃発当初、パーマストン子爵は早期に鎮圧されるだろうと楽観視していたが、予想に反して反乱は長引いた<ref name="ブレイク(1993)439">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.439</ref>。これについて女王は「無関心を決め込まず、責任を果たせ」という叱責の書簡をパーマストン子爵に送りつけている<ref name="ワイントラウブ(1993)上409">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.409</ref>。反乱軍による残虐行為がイギリス本国に伝わるとイギリス国民の怒りに火が付いた。パーマストン子爵も反乱インド人たちの行動を「地獄の底から這い出てきた悪魔にしかできないような所業」と批判し、反乱鎮圧に本腰を入れた。インド人が「悪魔の風」と呼んだイギリス軍の残虐な鎮圧戦が開始された<ref name="モリス(2008)上364">[[#モリス(2008)上|モリス(2008)上]] p.364</ref>。 |
|||
[[デリー]]は陥落し、反乱軍が逃れた[[ラクナウ]]も陥落した。1857年のうちには反乱の勢いは萎んでいき、鎮圧に向かった<ref name="ブレイク(1993)439">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.439</ref>。地方の反乱は翌1858年まで続いたが、それも1858年6月の[[グワリオール]]陥落でほぼ平定され、7月にはインド総督[[チャールズ・カニング (初代カニング伯爵)|カニング子爵]]が平和回復宣言を行った<ref name="浜渦(1999)110">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.110</ref>。 |
|||
1857年12月に召集された議会でパーマストンは来年の議会で東インド会社の廃止、女王陛下の政府による直接統治へ移行する法案を提出すると宣言した<ref name="ブレイク(1993)439" />。ただ、この法案が実現するのは続くダービー伯爵政権においてであった<ref name="尾鍋(1984)100">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.100</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
==== 総辞職 ==== |
|||
1858年1月、イタリア・ナショナリスト[[フェリーチェ・オルシーニ]]伯爵によるフランス皇帝ナポレオン3世暗殺未遂事件が発生した。ナポレオン3世は無事だったが、市民に多数の死傷者が出た<ref name="尾鍋(1984)98">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.98</ref><ref name="ブレイク(1993)440">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.440</ref>。オルシーニ伯爵はイギリス亡命中だった人物で爆弾もイギリスの[[バーミンガム]]で入手しており、フランス国内からイギリスは暗殺犯の温床になっているという批判が強まった<ref name="ブレイク(1993)440" />。 |
|||
フランス外相[[アレクサンドル・ヴァレフスキ]][[伯爵]]は殺人共謀をもっと厳しく取り締まるようパーマストン子爵に要請した。パーマストン子爵はこの要請を受け入れ、殺人共謀の重罰化の法案を議会に提出した<ref name="尾鍋(1984)99">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.99</ref><ref name="神川(2011)169">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.169</ref>。 |
|||
ところが、これがイギリス人の愛国心を刺激して反発を招き、「フランスへの媚び売り法案」との批判が噴出した<ref name="尾鍋(1984)99" /><ref name="神川(2011)169" /><ref name="ブレイク(1993)440" />。庶民院でも{{仮リンク|トマス・ミルナー・ギブソン|en|Thomas Milner Gibson}}議員から法案の修正案が提出され、この修正案が16票差で可決された<ref name="尾鍋(1984)99" />。 |
|||
これを受けて第一次パーマストン内閣は総辞職に追い込まれた<ref name="尾鍋(1984)99" /><ref name="ブレイク(1993)441">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.441</ref> |
|||
=== ラッセルとの和解と自由党の結成 === |
|||
[[1858年]][[2月25日]]に保守党政権の第二次ダービー伯爵内閣が成立した。[[1859年]]3月に大蔵大臣・保守党庶民院院内総務ディズレーリが庶民院に提出した選挙法改正法案が否決されたことで{{仮リンク|1859年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1859}}となり、保守党があと少しで過半数を獲得できるところまで議席を伸ばし、野党は危機感を強めた。 |
|||
また同年、イタリア統一を目指す[[サルデーニャ王国]]が、[[ナポレオン3世]]の[[フランス第二帝政|フランス帝国]]を味方に付けて、[[オーストリア帝国]](当時イタリア半島北部を[[ロンバルド=ヴェネト王国]]として支配し、また[[ウィーン体制]]で復活したイタリア半島小国家群や[[教皇領]]に巨大な影響力を行使していた)と開戦した([[イタリア統一戦争]])。イギリスでは保守主義者が反ナショナリズムの立場からオーストリアに共感をよせ、一方自由主義者はナショナリズム支援の立場からフランス・サルデーニャ連合軍に共感を寄せていた。パーマストン子爵も親イタリア派で知られていたので、フランスのナポレオン3世もパーマストン子爵の政権復帰を望む意思を隠そうとはしなかった<ref name="ブレイク(1993)471">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.471</ref>。 |
|||
このイタリア戦争勃発による自由主義ナショナリズムの盛り上がりと保守党に対する危機感を背景に自由主義諸派の間には合流の機運が高まった。 |
|||
1859年6月2日、パーマストン子爵がジョン・ラッセル卿の邸宅を訪問し、二人は和解した<ref name="君塚(2006)222">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.222</ref>。6月6日には{{仮リンク|ウィリシズ・ルームズ|en|Willis's Rooms}}でホイッグ党、ピール派、急進派の300人近い議員が会合を開いた。会合ではパーマストン子爵がジョン・ラッセル卿に手を引かれて壇上に上がるなど二人の和解を強調する演出がなされるとともに、三派の合同による[[自由党 (イギリス)|自由党]]の立ち上げ、ダービー伯爵内閣不信任案提出の方針が宣言された<ref name="ブレイク(1993)473">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.473</ref><ref name="君塚(2006)222" />。 |
|||
こうして結成された自由党は6月7日に内閣不信任案を提出し、10日の採決でこれを可決させた。これを受けてダービー伯爵内閣は総辞職した<ref name="君塚(2006)223">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.223</ref>。 |
|||
=== 第二次パーマストン子爵内閣 === |
|||
[[File:Lord Palmerston 1863.jpg|thumb|150px|1863年のパーマストン子爵]] |
|||
パーマストン子爵とジョン・ラッセル卿の約定では二人のうちヴィクトリア女王から大命を受けた方を自由党党首とし、もう一人はそれを支えることになっていた。ところが女王は自分の意見をないがしろにして強硬外交をしがちなこの二人を嫌っており、[[グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|グランヴィル伯爵]]に大命を与えた<ref name="君塚(2006)223">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.223</ref>。 |
|||
グランヴィル伯爵は「パーマストン卿とジョン・ラッセル卿の協力が得られましたら」という条件で受諾し、早速二人に入閣を打診した。パーマストン子爵は入閣を了承したものの、ラッセルは年下のグランヴィル伯爵のもとで働くことを拒否したため、グランヴィル伯爵は組閣を断念した。女王はラッセルの身勝手さに怒り、結局パーマストン子爵に大命を与えた<ref name="君塚(2006)223" />。 |
|||
こうして1859年6月に[[第二次パーマストン子爵内閣]]が成立した。ジョン・ラッセル卿は外相、また後の首相[[ウィリアム・グラッドストン]]が蔵相として入閣した。 |
|||
{{-}} |
|||
==== イタリア問題・英仏通商条約 ==== |
|||
[[File:Lord-Palmerston-Addressing-The-House-Of-Commons-During-The-Debates-On-The-Treaty-Of-France-In-February-1860,-1863.jpg|thumb|250px|{{仮リンク|英仏通商条約|en|Cobden–Chevalier Treaty}}の[[批准]]を庶民院に求めるパーマストン子爵を描いた絵画]] |
|||
1859年7月に[[フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]は[[サルデーニャ王国]]に独断で[[オーストリア帝国]]と[[ヴィッラフランカの休戦|ヴィッラフランカの休戦協定]]を締結した。だが[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]らイタリア民族主義者のナショナリズムを止めることはできず、ガリバルディ率いる義勇軍はイタリア半島の絶対君主制小国家群に次々と侵攻し、その領土をサルデーニャに献上していき、1861年2月にイギリス型立憲君主制国家[[イタリア王国]]が樹立されるに至った<ref name="神川(2011)179">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.179</ref>。 |
|||
このガリバルディの独断の戦争を支援している国はパーマストン子爵率いるイギリスだけだった<ref name="神川(2011)179">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.179</ref>。イタリア統一阻止の立場に転じていたナポレオン3世がイギリスを恨んでいるという噂が広まってイギリスでにわかに反フランス感情が高まりを見せた。フランスとの開戦を求めてイギリス各地で義勇軍が結成されるほどだった<ref name="神川(2011)180">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.180</ref>。パーマストン子爵もそうした反仏感情を煽っていた<ref name="神川(2011)180" />。 |
|||
イギリスで高まる反仏感情を憂慮したナポレオン3世はこれを和らげようと、国内の保護貿易主義者の反対を押し切って、イギリス蔵相グラッドストンが提唱した{{仮リンク|英仏通商条約|en|Cobden–Chevalier Treaty}}の締結に応じ、イギリス工業製品の関税を大幅削減した。この条約によりイギリスの対仏輸出は倍増した<ref name="神川(2011)180" />。 |
|||
{{-}} |
|||
==== アメリカ南北戦争をめぐって ==== |
|||
[[File:Albert, Prince Consort by JJE Mayall, 1860 crop.png|thumb|150px|パーマストン子爵の対米強硬姿勢を正し、米英戦争の危機を回避した[[王配]][[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]。]] |
|||
1861年4月にはじまった[[アメリカ南北戦争]]についてパーマストン子爵はイギリスの厳正中立を宣言した。しかしアメリカ南部から[[綿花]]輸入の8割を頼っているイギリスにとってはアメリカ南部との関係が断たれたのは大打撃だった<ref name="君塚(2006)228">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.228</ref>。 |
|||
同年11月には[[アメリカ連合国]](南軍)が秘密裏に英仏に送ろうとした外交使節団の船トレント号をアメリカ合衆国(北軍)の艦隊が拿捕する事件が発生した([[トレント号事件]])。パーマストン子爵はこれに激怒し、12月5日に女王に送った覚書で、「アメリカ合衆国がイギリスの要求を拒むなら、イギリスはいつにも増してアメリカ合衆国に厳しい打撃を与え、簡単に忘れられない教訓を悟らせる有利な状況にあります」などと武力行使の可能性を示唆し始めた<ref name="君塚(2006)228">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.228</ref><ref name="Ridley(1970)554">[[#Ridley(1970)|Ridley(1970)]] p.554</ref>。 |
|||
外相ラッセル伯爵(ジョン・ラッセル卿。1861年に伯爵に叙される)の作成した強硬姿勢丸出しの外交文書を読んだ女王夫妻は、このままではアメリカ合衆国と戦争になると確信し、その阻止に動いた。[[薨去]]直前の[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]は、最後の力を振り絞ってこの外交文書を柔和な文体に変更し、その変更をパーマストン子爵やラッセル伯爵に受け入れさせた。このおかげで米英戦争勃発、あるいはイギリスの南北戦争介入の危機は回避されたのだった<ref name="君塚(2006)228" /><ref name="ストレイチイ(1953)206">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.206</ref>。 |
|||
ところがアルバート公子の薨去後、南北戦争が長期化の様相を呈する中で、再びイギリス政界に南北戦争介入の機運が高まり始めた。1862年10月7日に蔵相グラッドストンは南軍支援と取られかねない演説をニューカッスルで行い、逆に陸相{{仮リンク|サー・ジョージ・コーンウォール・ルイス (第2代准男爵)|label=サー・ジョージ・コーンウォール・ルイス准男爵|en|Sir George Cornewall Lewis, 2nd Baronet}}はグラッドストンを批判して南北戦争介入は現時点で一切考えていないと演説した。しかもこの二人の演説はいずれもパーマストン子爵の許可を得ていなかった<ref name="君塚(2006)229">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.229</ref>。 |
|||
パーマストン子爵は閣僚たちの独断行動にイライラしながらもこの問題での発言を注意深く避けた。とりわけ南軍寄りの態度は控えるようになった。1862年9月の[[アンティータムの戦い]]での北軍の勝利により、北軍に戦況が傾き始めたこともあるが、それ以上に北軍の[[エイブラハム・リンカーン]]大統領が奴隷制解放を大義に掲げたからである。これは奴隷貿易廃止に尽力してきたパーマストン子爵としても共感するところが多かった。最終的にパーマストン子爵は1862年11月の閣議で南北戦争不介入の方針を改めて決定した<ref name="君塚(2006)229" />。 |
|||
しかしアメリカ合衆国は南北戦争が終わったのちの1869年にイギリス政府に対し損賠賠償を請求し、[[仲裁#国際仲裁|仲裁]]裁判の結果、イギリス政府は1,550万ドルを支払うことになった({{仮リンク|アラバマ号事件|en|Alabama Claims|preserve=1}})。請求の理由は、[[ヘンリー・ジョン・テンプル_(第3代パーマストン子爵)#アメリカ南北戦争をめぐって|第3代パーマストン子爵]]内閣下の造船所で建造された船舶が[[南北戦争]]にあたり[[南軍]][[私掠船]]([[軍艦]])として提供され[[北軍]]に損害を与えたことであった。初めての国際仲裁裁判で裁判官5名が判決した最終的な賠償金1,550万ドルはワシントン条約の一部となり、イギリスは1872年にこれをアメリカに支払った。なお、イギリスが北軍の[[海上封鎖]]と違法な[[漁業権]]割譲により被った損害192万9819ドルはこのとき相殺された<ref>Thomas A. Bailey, A Diplomatic History of the American People, NY (1958), 6th ed., pp. 388–389.</ref>。この裁判により米英関係は改善した<ref>{{仮リンク|エフラム・ダグラス・アダムス|en|Ephraim Douglass Adams|preserve=1}}(1924) [https://www.gutenberg.org/cache/epub/13789/pg13789-images.html#image10.jpg ''Great Britain and the American Civil War.'']</ref>。 |
|||
==== ポーランド人蜂起をめぐって ==== |
|||
1863年1月、[[ポーランド立憲王国|ロシア帝国領ポーランド]]でポーランド人の自由主義ナショナリズムが高まり、蜂起が発生した([[1月蜂起]])。[[プロイセン王国]]宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]はロシアの蜂起鎮圧に協力したが、一方フランス帝国の[[ナポレオン3世]]は蜂起側に共感を寄せ、自らが国際会議を主導して調停に持ち込むことを考えていた<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.230-231</ref>。 |
|||
各国のナショナリズムを利用してフランスの影響力拡大を図ろうというナポレオン3世の野望に警戒を強めていたパーマストン子爵は、イギリス主導で国際会議を行う必要があると考え、「イギリスにはウィーン条約に基づきポーランド問題に介入する権限がある」との見解をロシア外相[[アレクサンドル・ゴルチャコフ]]に伝えたが、ゴルチャコフは「ウィーン条約などすでに時効だ」と述べて難色を示した。ビスマルクがゴルチャコフと共同歩調を取ったため、パーマストン子爵も国際会議開催を諦めざるをえなかった<ref name="君塚(2006)229">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.229</ref>。 |
|||
一方ナポレオン3世はパリでの国際会議を提唱したが、[[ウィーン体制]]を破壊しようというナポレオン3世の野心を見て取ったパーマストン子爵はこれに反対を表明して阻止した<ref name="君塚(2006)234">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.234</ref>。 |
|||
==== 第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって ==== |
|||
[[File:Battle of Helgoland 1864.PNG|thumb|250px|[[ヘルゴラント海戦]]を描いた絵画]] |
|||
ポーランドの蜂起はヨーロッパ中で自由主義・ナショナリズムを活気づかせた。デンマークでもナショナリズムが高まり、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題を再びデンマークに有利に設定し直そうという世論が強まった<ref name="君塚(2006)235">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.235</ref>。とりわけ1863年12月に[[クリスチャン9世]]がデンマーク王に即位するとデンマークの[[ドイツ連邦]]に対する強硬外交が目立つようになった<ref name="君塚(2006)236">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.236</ref>。ドイツ連邦各国でもドイツ・ナショナリズムが高まり、[[フリードリヒ8世・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン|フリードリヒ8世]]が[[アウグステンブルク公]]としてシュレースヴィヒ・ホルシュタインの統治者に擁立され、両国は一触即発状態になった<ref name="君塚(2006)236">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.236</ref>。 |
|||
1863年7月、パーマストン卿は庶民院での演説で「イギリスの責務はデンマークの独立・統一・権利を守ることである。もしデンマークの独立が侵されることがあれば、これに抵抗するのはデンマーク一国だけではないだろう。」と演説したが<ref name="君塚(2006)236" />、ヴィクトリア女王が「デンマークのためにドイツ諸国と戦争するなど馬鹿げている」と強硬に反対したため、積極的な介入はできなかった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.238-240</ref>。 |
|||
[[1864年]][[2月1日]]よりプロイセン・オーストリア連合軍がシュレースヴィヒ進攻を開始し、[[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]が勃発した<ref name="君塚(2006)240">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.240</ref>。デンマークは兵力でも装備でもドイツに劣ったが、デュッペル要塞に籠城する作戦が功を奏して、戦況は膠着状態となった。パーマストン卿はオーストリア海軍が[[北海]]に出てくることを警戒し、参戦をちらつかせてオーストリアを牽制したが、ヴィクトリア女王の不介入方針は変わらず、「これ以上好戦的な方針を取り続けるなら議会を解散する」とパーマストン卿を脅迫するようになった<ref name="君塚(2006)240">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.240</ref>。また参戦は軍事的にも障害が多かった。イギリス陸軍はドイツ諸国の陸軍と比べると脆弱であったし(ビスマルクは「イギリス陸軍など、もしドイツに上陸してきても地元警察に逮捕させればよい」などと豪語していた)、イギリス海軍は精強ながら世界各地に散らばっており、ただちに北海に召集するのは難しかった<ref name="君塚(2006)242">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.242</ref>。 |
|||
そこでパーマストン卿は国際会議によって事態の収拾を図ろうとした。この提案に対してプロイセン、オーストリア、フランス、ロシアは支持を表明した。デンマークははじめ反対したが、やがてデュッペル要塞で幾ら頑張っていても列強の救援が得られないと悟り、国際会議開催に賛同した<ref name="君塚(2006)244">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.244</ref>。こうして1864年4月25日から外相ラッセル卿を議長とするロンドン会議が開催されたが、パーマストン卿もラッセル卿も親デンマーク的な態度を取り過ぎて反発を買い、さらに[[ヘルゴラント海戦]]でデンマーク海軍がオーストリア海軍に勝利したことでデンマークの態度が強硬になり、加えてドイツ側も譲歩の気配を見せなかったため、会議は難航した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.247-250</ref>。またパーマストン卿はこの頃、持病の[[痛風]]が悪化して自宅療養が多くなっていたため、積極的な調停に乗り出せなかった<ref name="君塚(2006)255">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.255</ref>。 |
|||
[[6月15日]]の閣議では会議の進展を絶望視したラッセル卿が、会議をフランスに任せてはどうかと提案したが、パーマストン卿は却下した。この際に彼はラッセル卿に「フランスはヴェネツィアからオーストリアを追いだし、ライン川左岸に勢力を拡大しようとしている連中だ。彼らのことなど信用できない」という私見を述べている。ヴィクトリア女王の日記によれば、パーマストン卿はフランスがイギリスを対ドイツ戦争の泥沼に陥れて、その間にフランスはライン川沿岸を獲得し、イタリア全土で革命を起こすつもりだろうと懸念していたという<ref name="君塚(2006)254">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.254</ref>。 |
|||
[[6月24日]]と[[6月25日]]の閣議では会議決裂の場合イギリスはどうすべきかが論じられたが、最終的にはイギリスはこの問題から手を引くことが閣議決定された。ロンドン会議は6月25日に決裂し、デンマークとドイツ連邦の戦争は再開された。戦況はドイツ軍優位に進み、7月20日にデンマークは降伏し、シュレースヴィヒとホルシュタインを放棄することとなった<ref name="君塚(2006)256">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.256</ref>。 |
|||
ロンドン会議失敗により7月5日から7月6日にかけて貴族院と庶民院双方でパーマストン卿不信任案決議案が提出されたが、庶民院の採決では賛成295票、反対313票でかろうじて不信任案は否決された。一方貴族院では賛成177票、反対168票で不信任案が可決された。しかしパーマストン卿は貴族院より庶民院の方が重いとして総辞職や解散総選挙を拒否した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.256-257</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
==== 死去 ==== |
|||
義理の孫にあたる[[フランシス・クーパー (第7代クーパー伯爵)|クーパー伯爵]]所有の[[ハートフォードシャー]]の邸宅{{仮リンク|ブロケット・ホール|en|Brocket Hall}}に滞在中の1865年10月12日に[[風邪]]をこじらせ、意識不明の重体に陥った。17日に一時的に意識を取り戻したものの、18日の朝には再び容態が悪化し、同日午前10時45分に永眠した<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.260-261</ref>。 |
|||
朦朧とした意識の中で残した最期の言葉は「第8条はこれで結構です。次に移りましょう」であったという<ref name="君塚(2006)261">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.261</ref>。 |
|||
ヴィクトリア女王はその日の日記に「私たちは彼にはたびたび悩まされ、嫌な思いもさせられた。だが彼も首相としては立派な行動を見せた。その彼も世を去り、アルバートもこの世を去ってしまった。私だけが取り残されるとは万感胸に迫る思いである」と書いている<ref name="ワイントラウブ(1993)下56">[[#ワイントラウブ(1993)下|ワイントラウブ(1993) 下巻]] p.56</ref>。 |
|||
{{Gallery |
|||
|lines=3 |
|||
|File:Viscount Palmerston statue.jpg|パーマストン卿の像([[ロンドン]]・[[パーラメント・スクエア]]) |
|||
|File:Palmerston - geograph.org.uk - 259077.jpg|パーマストン卿の像([[サウサンプトン]]) |
|||
|File:Statue of Lord Palmerston, Romsey - geograph.org.uk - 1720490.jpg|パーマストン卿の像([[ハンプシャー]]、[[ロムジー]]) |
|||
|File:Lord Palmerston Blue Plaque.jpg|パーマストン卿の[[ウェストミンスター]]の邸宅に貼られている[[ブルー・プラーク]] |
|||
}} |
|||
{{-}} |
|||
== 栄典 == |
|||
=== 爵位 === |
|||
[[1802年]][[4月17日]]に父の死により以下の爵位を継承した<ref name="CP VP">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/palmerston1723.htm|title=Palmerston, Viscount (I, 1723 - 1865)|accessdate= 2015-12-03 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。 |
|||
*'''ダブリン県におけるパーマストンの第3代[[パーマストン子爵]]''' <small>(3rd Viscount Palmerston, of Palmerston in the County of Dublin)</small> |
|||
*:([[1723年]][[3月12日]]の[[勅許状]]による[[アイルランド貴族]]爵位) |
|||
*'''スライゴ県におけるマウント・テンプルの第3代テンプル男爵''' <small>(3rd Baron Temple, of Mount Temple in the County of Sligo)</small> |
|||
*:(1723年3月12日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) |
|||
=== 勲章 === |
|||
*[[1832年]]、[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロス (GCB)<ref name="venn">{{venn|id=PLMN803HJ|name=Palmerston, Henry John (Temple), Viscount}}</ref> |
|||
*[[1856年]]、[[ガーター勲章]]勲爵士(KG)<ref name="venn" /> |
|||
=== 名誉職その他 === |
|||
*[[1809年]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)<ref name="venn" /> |
|||
*[[1861年]]、{{仮リンク|五港長官|en|Lord Warden of the Cinque Ports}}<ref name="venn" /> |
|||
== 人物 == |
|||
[[File:Lord Palmerston.jpg|thumb|150px|1862年のパーマストン子爵]] |
|||
=== 自由貿易帝国主義 === |
|||
パーマストンは、帝国主義時代の前夜の1840年代から1860年代にイギリス政府が盛んに行った「[[自由貿易帝国主義]]」を代表する人物である。「自由貿易帝国主義」とは低開発国を[[砲艦外交]]で脅迫して、そうした国々で取られている鎖国体制を取り払わせ、不平等条約による自由貿易を押し付けてイギリスの[[非公式帝国]]に組み込む政策である<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.96-98/160</ref>。 |
|||
この時代のイギリスの政界や論壇では植民地放棄的な[[小英国主義|小英国主義論]]が盛んだったが、実際にイギリス外交を主導したのは自由貿易帝国主義者パーマストンであったので、小英国主義が実施されることはほとんどなかった(それが実施されるのはカナダやオーストラリアなど白人が大量に移住した植民地だけだった)。この時代にもイギリス政府は盛んにインド周辺地域([[パンジャブ]]、[[シンド]]、[[ビルマ]]など)に領土拡大を図り、それ以外の地域の低開発国に対しては[[砲艦外交]]で不平等条約締結を迫った。そこには後の帝国主義への萌芽が見て取れる<ref name="村岡(1991)96-98">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.96-98</ref><ref name="木畑(2011)101">[[#木畑(2011)|木畑・秋田(2011)]] p.101</ref>。 |
|||
植民地化・半植民地化される低開発国にパーマストン子爵が関心をもつことはなかった。植民地に関する閣議が終わってから、閣議で話題になっていた国はどこにある国なのか他人に聞くような有様だったという<ref name="モリス(2008)下164">[[#モリス(2008)下|モリス(2008)下]] p.164</ref>。 |
|||
=== 国民のための強硬外交 === |
|||
パーマストン子爵は国民の利益を最優先する国民思いの人物で、国民人気も高かった。彼の外交が強硬だったのは他国を犠牲にしようとも在外国民の利益を護らねばならないという使命感からであった<ref name="ストレイチイ(1953)151">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.151</ref>。 |
|||
前述したドン・パシフィコ事件の際の「英国臣民は、英国の全世界を見渡す目と強い腕によって常に不正と災厄から護られていると確信してよい」という彼の演説はそれを象徴する。また彼は常々「たった一人の大英帝国臣民の死でも開戦原因となりうる」と凄んでいた<ref name="ワイントラウブ(1993)上409">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.409</ref>。 |
|||
そのあまりの強硬外交ぶりに外務官僚たちも尻込みすることが多かったが、そういう官僚を見るとパーマストンは「責任は私がとる」と言って重い腰を上げさせたという<ref name="ストレイチイ(1953)150">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.150</ref>。 |
|||
=== 日常の強硬 === |
|||
外交姿勢のみならず、日常生活にも強硬なところがあった。ロンドンまでの列車に乗り遅れた際、パーマストン子爵は駅長に対して「自分にはロンドンでやらねばならない重大な用事があるので自分のための特別列車を仕立てろ」と無茶を命じたという。駅長は「この時刻に特別列車を出すのは危険であり、責任は負えない」と言って拒否したが、パーマストン子爵は引き下がらず、「責任は私がとる」といって強引に特別列車を出させたという<ref name="ストレイチイ(1953)150">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.150</ref>。 |
|||
社交性のある人ではなく、ホイッグ党の大貴族たちの社会に溶け込めてはいなかったという<ref name="ストレイチイ(1953)148">[[#ストレイチイ(1953)|ストレイチイ(1953)]] p.148</ref>。 |
|||
=== 艶福家として === |
|||
[[ファイル:Harriette_Wilson00.jpg|サムネイル|227x227ピクセル|高級娼婦{{仮リンク|ハリエット・ウィルソン|en|Harriette_Wilson}}。パーマストンとも親交があった{{Sfn|Baker|2018|p=121}}。]] |
|||
パーマストン子爵は大変な色好みであったとことから「[[クピードー|キューピッド卿]]」の異名をとった{{Sfn|Baker|2018|p=119,121}}。ロンドン随一の社交クラブ『{{仮リンク|オールマックス (社交クラブ)|en|Almack%27s|label=オールマックス}}{{Fontsize|small|(Almack's)}}』は貴婦人の指名がなければ入会できないしきたりであったが、女性会員7名のうち3名がパーマストン卿と[[ベッド]]を共にしたことがあったためにこれを難なくクリアしている{{Sfn|Baker|2018|p=120}}。 |
|||
さらに最晩年の1863年には旧知の娼婦から訴訟を起こされたが、あっさりと勝訴して{{仮リンク|1865年イギリス総選挙|en|1865_United_Kingdom_general_election|label=総選挙}}の得票数を伸ばした。一方で、この法廷闘争に[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]は苦々しく感じていたという{{Sfn|Baker|2018|p=121}}。{{-}} |
|||
== 評価 == |
|||
同じ自由主義者でも[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]とは異なり、[[国家主義]]・[[ナショナリズム|愛国主義]]の要素が強く、また労働者層への選挙権拡大や議会改革に反対したことから内政面では保守主義・貴族主義の側面も強いとされる<ref name="世界伝記大事典(1981,7)437">[[#世界伝記大事典(1981,7)|世界伝記大事典(1981)世界編7巻]] p.437</ref><ref name="村岡(1991)153">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.153</ref>。 |
|||
同時代の保守党首相[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー伯爵]]もパーマストン子爵について「急進派という道具を使う保守党らしき大臣で、外交舞台では自由主義というショーを演じる」と評している<ref name="ブレイク(1993)505">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.505</ref>。 |
|||
[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]と[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]の夫妻からはひどく嫌われていた。女王夫妻はパーマストン子爵のことを「ピンゲルシュタイン」とかげ口したという(「ピンゲル」とは巡礼を意味するドイツ語。パーマストンの「パーマー」は英語で巡礼を意味する)<ref name="川本(2006)247">[[#川本(2006)|川本・松村(2006)]] p.247</ref>。しかし女王はパーマストン子爵の決断力は認めており、「大層意志の強い男」と評している<ref name="ワイントラウブ(1993)下56" />。 |
|||
[[関東学院大学]]の教授[[君塚直隆]]は「パーマストンは特に誰かの党派・派閥に入ることなく一匹オオカミを貫き、70歳で首相の座を獲得した」として無派閥リーダーの「始祖」ともいえる政治家としている<ref>{{Cite news|url=https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO6380240014092020000000|title=「菅首相」の先輩? 英無派閥宰相のリーダーシップ|newspaper=日経BizGate|date=2020-09-15|accessdate=2020-11-29}}</ref>。また、この「特定の党派に属さない」という姿勢から『パミス卿{{Fontsize|small|(Lord Pumice、Pumice は「[[軽石]]」の意味)}}』のあだ名が付けられている{{Sfn|Baker|2018|p=119}}。 |
|||
{{-}} |
|||
== 家族 == |
|||
[[File:Emily Lamb by William Owen.jpg|thumb|150px|妻である{{仮リンク|エミリー・ラム|label=エミリー|en|Emily Lamb, Lady Cowper}}を描いた肖像画。]] |
|||
パーマストン子爵は、1807年から1809年頃に[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]の妹で第5代[[クーパー伯爵]]の夫人である{{仮リンク|エミリー・ラム|label=エミリー|en|Emily Lamb, Lady Cowper}}と[[不倫]]の関係になった<ref name="君塚(2006)23">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.23</ref>。エミリーはクーパー伯爵の子を5人に儲けているが、そのうち次男{{仮リンク|ウィリアム・クーパー=テンプル (初代マウント・テンプル男爵)|label=ウィリアム|en|William Cowper-Temple, 1st Baron Mount Temple}}と長女ミニーと次女ファニーの本当の父親はパーマストン子爵と見られている<ref name="君塚(2006)23">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.23</ref>。 |
|||
クーパー伯爵が死去した後の1839年に55歳パーマストン子爵と53歳のエミリーは正式に結婚した。しかしすでに高齢の二人に新しい子はできず、パーマストン子爵家は彼の代で絶えることとなった<ref name="君塚(2006)23">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.23</ref>。 |
|||
パーマストン子爵の息子と見られるウィリアムは、パーマストン子爵家の再興を前提として1880年に{{仮リンク|マウント・テンプル男爵|en|Baron Mount Temple}}位を与えられているが、子に恵まれず、彼一代で絶えた<ref name="君塚(2006)23">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.23</ref>。 |
|||
同じくパーマストン子爵の娘と見られるミニーはパーマストン子爵の財産を相続し、[[アントニー・アシュリー=クーパー (第7代シャフツベリ伯爵)|シャフツベリ伯爵]]と結婚した。夫妻の次男である{{仮リンク|イヴリン・アシュリー|en|Evelyn Ashley}}はパーマストン子爵の伝記を著している<ref name="君塚(2006)24">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.24</ref>。更にその息子である{{仮リンク|ウィルフリッド・アシュリー (初代マウント・テンプル男爵)|label=ウィルフリッド・アシュリー|en|Wilfrid Ashley, 1st Baron Mount Temple}}に再びマウント・テンプル男爵位が与えられるも、やはり子に恵まれず、彼一代で絶えている<ref name="君塚(2006)24" />。 |
|||
{{-}} |
|||
== 脚注 == |
|||
=== 注釈 === |
|||
{{Reflist|group=注釈|1}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist|3}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*{{Cite book|和書|author=今来陸郎|authorlink=今来陸郎|year=1972|title=中欧史|series=世界各国史 7|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634410701|ref=今来(1972)}} |
|||
*[[君塚直隆]]『パクス・ブリタニカのイギリス外交――パーマストンと会議外交の時代』(有斐閣, 2006年) |
|||
*{{Cite book|和書|author=尾鍋輝彦|authorlink=尾鍋輝彦|year=1984|title=最高の議会人 グラッドストン|series=清水新書016|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389440169|ref=尾鍋(1984)}} |
|||
*[[中西輝政]]『大英帝国衰亡史』(PHP, 1997年) |
|||
**新版『最高の議会人 グラッドストン』清水書院〈新・人と歴史29〉、2018年。ISBN 978-4389441296。 |
|||
*{{Cite book|和書|author1=神川信彦|authorlink1=神川信彦|author2=解説・君塚直隆|authorlink2=君塚直隆|year=2011|title=グラッドストン 政治における使命感|publisher=[[吉田書店]]|isbn=978-4905497028|ref=神川(2011)}} |
|||
*{{Cite book|和書|editor1=川本静子|editor1-link=川本静子|editor2=松村昌家|editor2-link=松村昌家|year=2006|title=ヴィクトリア女王 ジェンダー・王権・表象|series=MINERVA歴史・文化ライブラリー9|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623046607|ref=川本(2006)}} |
|||
*{{Cite book|和書|editor1=木畑洋一|editor1-link=木畑洋一|editor2=秋田茂|editor2-link=秋田茂|year=2011|title=近代イギリスの歴史 16世紀から現代まで|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623059027|ref=木畑(2011)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|authorlink=君塚直隆|year=2006|title=パクス・ブリタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交の時代|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641173224|ref=君塚(2006)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|year=2007|title=ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”|publisher=[[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉|isbn=978-4121019165|ref=君塚(2007)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=ジョナサン・スタインバーグ|authorlink=ジョナサン・スタインバーグ|translator=小原淳|year=2013|title=ビスマルク 上巻|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560083130|ref=スタ上}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=リットン・ストレイチイ|authorlink=リットン・ストレイチー|year=1953|title=ヴィクトリア女王|series=[[角川文庫]]|translator=[[小川和夫]]|publisher=[[角川書店]]|asin=B000JB9WHM|ref=ストレイチイ(1953)}}新版・[[冨山房]]百科文庫、1981年 |
|||
*{{Cite book|和書|author=ジョルジュ=アンリ・デュモン|authorlink=ジョルジュ=アンリ・デュモン|translator=[[村上直久]]|year=1997|title=ベルギー史|series=[[文庫クセジュ]]|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560057902|ref=デュモン(1997)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=中川昭一|authorlink=中川昭一|year=2008|title=飛翔する日本|publisher=[[講談社インターナショナル]]|isbn=978-4770041043|ref=中川(2008)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=長崎暢子|authorlink=長崎暢子|year=1981|title=インド大反乱一八五七年|series=[[中公新書]]|publisher=中央公論社|isbn=978-4121006066|ref=長崎(1981)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=中西輝政|authorlink=中西輝政|year=1997|title=大英帝国衰亡史|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569554761|ref=中西(1997)}}新装版2015年 |
|||
*{{Cite book|和書|author=浜渦哲雄|authorlink=浜渦哲雄|year=1999|title=大英帝国インド総督列伝-イギリスはいかにインドを統治したか|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120029370|ref=浜渦(1999)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=[[谷福丸]]|editor=灘尾弘吉監修|editor-link=灘尾弘吉|year=1993|title=ディズレイリ|publisher=[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]|isbn=978-4172820000|ref=ブレイク(1993)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=村岡健次|authorlink=村岡健次 (歴史学者)|editor=木畑洋一|editor-link=木畑洋一|year=1991|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジャン・モリス|en|Jan Morris}}|year=2008|title=ヘブンズ・コマンド 大英帝国の興隆 上巻|translator=椋田直子|publisher=講談社|isbn=978-4062138901|ref=モリス(2008)上}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=ジャン・モリス|year=2008|title=ヘブンズ・コマンド 大英帝国の興隆 下巻|translator=椋田直子|publisher=講談社|isbn=978-4062138918|ref=モリス(2008)下}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=アンドレ・モロワ|authorlink=アンドレ・モーロワ|year=1960|title=ディズレーリ伝|translator=[[安東次男]]|publisher=[[東京創元社]]|asin=B000JAOYH6|ref=モロワ(1960)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=山口直彦|authorlink=山口直彦 (社会学者) |year=2011|title=新版 エジプト近現代史 ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで|series=[[世界歴史叢書]]|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4750334707|ref=山口(2011)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=横井勝彦|authorlink=横井勝彦|year=1988|title=アジアの海の大英帝国|publisher=[[同文館 (出版社)|同文館]]|isbn=9784495852719|ref=横井(1988)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=森田安一|authorlink=森田安一|year=1998|title=スイス・ベネルクス史|series=世界各国史14|publisher=[[山川出版社]]|asin=978-4634414402|ref=森田(1998)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=マーティン・ユアンズ|authorlink=マーティン・ユアンズ|translator=[[柳沢圭子]]、[[海輪由香子]]、[[長尾絵衣子]]、[[家本清美]]|editor=金子民雄|editor-link=金子民雄||year=2002|title=アフガニスタンの歴史 旧石器時代から現在まで|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4750316109|ref=ユアンズ(2002)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|スタンリー・ワイントラウブ|en|Stanley Weintraub}}|year=1993|title=ヴィクトリア女王〈上〉|translator=平岡緑|publisher=中央公論社|isbn=978-4120022340|ref=ワイントラウブ(1993)上}}新版・中公文庫〈全3巻〉、2006年 |
|||
*{{Cite book|和書|author=スタンリー・ワイントラウブ|year=1993|title=ヴィクトリア女王〈下〉|translator=平岡緑|publisher=中央公論社|isbn=978-4120022432|ref=ワイントラウブ(1993)下}} |
|||
*{{Cite book|和書|year=1981|title=世界伝記大事典〈世界編 7〉トムーハリ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7VF62|ref=世界伝記大事典(1981,7)}} |
|||
*{{Cite book|和書|year=2001|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=秦郁彦|editor-link=秦郁彦|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}} |
|||
*{{Cite book|author=Jasper Ridley|date=1970|title=Lord Palmerston|publisher=Constable|isbn=978-0094559301|ref=Ridley(1970)}} |
|||
*{{Cite book|和書|title=『風刺画で読み解くイギリス宰相列伝―ウォルポールからメージャーまで』|date=|year=2018|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|page=|isbn=978-4-623-07946-9|author=|translator=[[松村昌家|松村 昌家]]|last=Baker|first=Kenneth|ref=harv}} |
|||
== 関連項目 == |
|||
{{Politician-stub}} |
|||
{{Commonscat|Henry Temple, 3rd Viscount Palmerston}} |
|||
{{History-stub}} |
|||
*[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)]] - パーマストン子爵と双璧するホイッグ党(自由党)の二巨頭の一人 |
|||
*[[パーマストン (ニュージーランド)]] - [[ニュージーランド]][[南島 (ニュージーランド)|南島]]の都市 |
|||
*[[パーマストン・ノース]] - ニュージーランド[[北島 (ニュージーランド)|北島]]の都市 |
|||
*[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)]] - [[オーストラリア]]・[[ノーザンテリトリー準州]]の首府。最初はパーマストン市だったが、のちイギリスの自然科学者[[チャールズ・ダーウィン]]にちなみダーウィンと改名した。 |
|||
*[[鍛冶屋の仕事場]] |
|||
*[[中川昭一]] |
|||
*[[君塚直隆]] |
|||
{{start box}} |
|||
{{s-off}} |
|||
{{s-bef|before=[[グランヴィル・ルーソン=ゴア (初代グランヴィル伯爵)|グランヴィル・ルーソン=ゴア卿]]}} |
|||
{{s-ttl|title={{flagicon|UK}} [[戦時大臣]]|years=[[1809年]]-[[1828年]]}} |
|||
{{s-aft|after=[[ヘンリー・ハーディング (初代ハーディング子爵)|サー・ヘンリー・ハーディング]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[外務英連邦大臣|外務大臣]]| years = [[1830年]]-[[1834年]]| before = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|第4代アバディーン伯爵]]| after = [[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|初代ウェリントン公爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 外務大臣| years = [[1835年]]-[[1841年]]| before = [[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|初代ウェリントン公爵]]| after = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|第4代アバディーン伯爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 外務大臣| years = [[1846年]]-[[1851年]]| before = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|第4代アバディーン伯爵]]| after = [[グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|第2代グランヴィル伯爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]| years = [[1852年]]-[[1855年]]| before = [[スペンサー・ホレーショ・ウォルポール]]| after = [[ジョージ・グレイ (第2代准男爵)|サー・ジョージ・グレイ准男爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]| years = [[1855年]]-[[1858年]]| before = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|第4代アバディーン伯爵]]| after = [[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[庶民院院内総務]]| years = [[1855年]]-[[1858年]]| before = [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル卿]]| after = [[ベンジャミン・ディズレーリ]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]| years = [[1859年]]-[[1865年]]| before = [[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵]]| after = [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|初代ラッセル伯爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[庶民院院内総務]]| years = [[1859年]]-[[1865年]]| before = [[ベンジャミン・ディズレーリ]]| after = [[ウィリアム・グラッドストン]]}} |
|||
{{s-ppo}} |
|||
{{Succession box| title = {{仮リンク|ホイッグ党党首|en|Leaders_of_the_British_Whig_Party#Overall Leaders of the Whig Party, 1830–1859}}| years = [[1855年]]-[[1859年]]| before = [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル卿]]| after = [[自由党 (イギリス)|自由党]]へ改組}} |
|||
{{Succession box| title = {{仮リンク|ホイッグ党庶民院院内総務|en|Leaders_of_the_British_Whig_Party#Leaders of the Whig Party in the House of Commons, 1830–1859}}| years = [[1855年]]-[[1859年]]| before = [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]| after = 自由党へ改組}} |
|||
{{Succession box| title = [[自由党 (イギリス)|自由党]]党首| years = [[1859年]]-[[1865年]]| before = 結成| after = [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ラッセル伯爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{仮リンク|自由党庶民院院内総務|en|Liberal Party (UK)#Liberal Leaders in the House of Commons, 1859–1916}}| years = [[1859年]]-[[1865年]]| before = 結成| after = [[ウィリアム・グラッドストン]]}} |
|||
{{s-par|uk1801}} |
|||
{{s-bef|before={{仮リンク|イザック・コリー|en|Isaac Corry}}<br />{{仮リンク|ジョン・ドイル (初代准男爵)|label=ジョン・ドイル|en|Sir John Doyle, 1st Baronet}}}} |
|||
{{s-ttl|title={{仮リンク|ニューポート(ワイト島)選挙区|label=ニューポート選挙区|en|Newport (Isle of Wight) (UK Parliament constituency)}}選出[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員 |
|||
|years={{仮リンク|1807年イギリス総選挙|label=1807年|en|United Kingdom general election, 1807}} – 1811年<br /><small>同一選挙区同時当選者<br />[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|サー・アーサー・ウェルズリー]](1807-1809)<br />[[レナード・ワースレイ=ホームズ (第9代准男爵)|サー・レナード・ワースレイ=ホームズ]](1809-1811)</small>}} |
|||
{{s-aft|after=[[レナード・ワースレイ=ホームズ (第9代准男爵)|サー・レナード・ワースレイ=ホームズ]]<br />{{仮リンク|セシル・ビショップ|en|Cecil Bisshopp}}}} |
|||
{{s-bef|before={{仮リンク|ジョージ・フィッツロイ (第4代グラフトン公爵)|label=ユーストン伯爵|en|George FitzRoy, 4th Duke of Grafton}}<br />{{仮リンク|ヴィキャリー・ギブス|label=サー・ヴィキャリー・ギブス|en|Vicary Gibbs (judge)}}}} |
|||
{{s-ttl|title={{仮リンク|ケンブリッジ大学選挙区|en|Cambridge University (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 |
|||
|years=[[1811年ケンブリッジ大学選挙区補欠選挙|1811年]] - 1831年<br /><small>同一選挙区同時当選者<br />{{仮リンク|ヴィキャリー・ギブス|label=サー・ヴィキャリー・ギブス|en|Vicary Gibbs (judge)}}(1811-1812)<br />[[ジョン・ヘンリー・スミス]](1812-1822)<br />{{仮リンク|ウィリアム・ジョン・バンクス|en|William John Bankes}}(1822-1826)<br />{{仮リンク|ジョン・コプレイ (初代リンドハースト男爵)|label=サー・ジョン・コプレイ|en|John Copley, 1st Baron Lyndhurst}}(1826-1827)<br />{{仮リンク|ニコラス・カニンガム・ティンダル|label=サー・ニコラス・カニンガム・ティンダル|en|Nicholas Conyngham Tindal}}(1827-1829)<br />{{仮リンク|ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第7代デヴォンシャー公爵)|label=ウィリアム・キャヴェンディッシュ|en|William Cavendish, 7th Duke of Devonshire}}(1829-1831)</small>}} |
|||
{{s-aft|after={{仮リンク|ヘンリー・ゴールバーン|en|Henry Goulburn}}<br />{{仮リンク|ウィリアム・イェーツ・ピール|en|William Yates Peel}}}} |
|||
{{s-bef|before={{仮リンク|チャールズ・テニスン・ダインコート|en|Charles Tennyson d'Eyncourt}}<br />{{仮リンク|ジョン・ポンソンビー (第5代ベスボロー伯爵)|label=ジョン・ポンソンビー|en|John Ponsonby, 5th Earl of Bessborough}}}} |
|||
{{s-ttl|title={{仮リンク|ブレッチングリー選挙区|en|Bletchingley (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 |
|||
|years=1831年 - 1832年<br /><small>同一選挙区同時当選者<br />{{仮リンク|トーマス・ハイド・ヴィリアーズ|en|Thomas Hyde Villiers}}</small>}} |
|||
{{s-non|reason=選挙区廃止}} |
|||
{{s-new}} |
|||
{{s-ttl|title={{仮リンク|南ハンプシャー選挙区|en|South Hampshire (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 |
|||
|years={{仮リンク|1832年イギリス総選挙|label=1832年|en|United Kingdom general election, 1832}} - 1835年<br /><small>同一選挙区同時当選者<br />{{仮リンク|ジョージ・ストートン (第2代准男爵)|label=サー・ジョージ・ストートン|en|Sir George Staunton, 2nd Baronet}}</small>}} |
|||
{{s-aft|after={{仮リンク|ジョン・ウィリス・フレミング|en|John Willis Fleming}}<br />{{仮リンク|ヘンリー・クーム・コンプトン|en|Henry Combe Compton}}}} |
|||
{{s-bef|before={{仮リンク|ジョン・ヒースコート|en|John Heathcoat}}<br />[[ジェームズ・ケネディ (庶民院議員)|ジェームズ・ケネディ]]}} |
|||
{{s-ttl|title={{仮リンク|ティバートン選挙区|en|Tiverton (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 |
|||
|years=[[1835年ティバートン選挙区補欠選挙|1835年]] - 1865年<br /><small>同一選挙区同時当選者<br />{{仮リンク|ジョン・ヒースコート|en|John Heathcoat}}(1835-1859)<br />{{仮リンク|ジョージ・デマン|en|George Denman}}(1859-1865)</small>}} |
|||
{{s-aft|after=[[ジョン・ウォーランド (初代准男爵)|サー・ジョン・ウォーランド]]<br />{{仮リンク|ジョージ・デマン|en|George Denman}}}} |
|||
{{s-aca}} |
|||
{{Succession box| title = {{仮リンク|グラスゴー大学学長|en|Rector of the University of Glasgow}}| years = [[1871年]]-[[1877年]]| before = [[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|第8代エルギン伯爵]]| after = {{仮リンク|ジョン・イングリス (グレンコース卿)|label=グレンコース卿|en|John Inglis, Lord Glencorse}}}} |
|||
{{s-hon}} |
|||
{{Succession box| title = [[File:Lord Warden Cinque Ports (Lord Boyce).svg|23px]] {{仮リンク|五港長官|en|Lord Warden of the Cinque Ports}}| years = [[1861年]]-[[1865年]]| before = [[ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)|初代ダルハウジー侯爵]]| after = [[グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|第2代グランヴィル伯爵]]}} |
|||
{{s-reg|ie}} |
|||
{{succession box | title=第3代[[パーマストン子爵]]| before={{仮リンク|ヘンリー・テンプル (第2代パーマストン子爵)|label=ヘンリー・テンプル|en|Henry Temple, 2nd Viscount Palmerston}}| after=廃絶| years=[[1802年]] - [[1865年]]}} |
|||
{{End box}} |
|||
{{イギリスの首相}} |
{{イギリスの首相}} |
||
{{イギリスの外務大臣}} |
|||
{{イギリスの内務大臣}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{Good article}} |
|||
{{DEFAULTSORT:はますとん てんふる へんり}} |
{{DEFAULTSORT:はあますとんししやく03 てんふる へんり}} |
||
[[Category: |
[[Category:ヘンリー・ジョン・テンプル|*]] |
||
[[Category:イギリスの |
[[Category:イギリスの外務大臣]] |
||
[[Category: |
[[Category:イギリスの内務大臣]] |
||
[[Category:イギリス・トーリー党の政治家]] |
|||
[[Category:イギリス・ホイッグ党の政治家]] |
|||
[[Category:イギリス自由党の政治家]] |
|||
[[Category:ワイト島選出のイギリス庶民院議員]] |
|||
[[Category:サリー選出のイギリス庶民院議員]] |
|||
[[Category:ハンプシャー選出のイギリス庶民院議員]] |
|||
[[Category:デヴォン選出のイギリス庶民院議員]] |
|||
[[Category:大学選挙区選出のイギリス庶民院議員]] |
|||
[[Category:イギリスの枢密顧問官]] |
|||
[[Category:アイルランド貴族の子爵]] |
|||
[[Category:グラスゴー大学の教員]] |
|||
[[Category:ガーター勲章]] |
[[Category:ガーター勲章]] |
||
[[Category:バス勲章]] |
|||
[[Category:イギリス帝国]] |
|||
[[Category:チャールズ・グレイ]] |
|||
[[Category:ウィリアム・ラム]] |
|||
[[Category:阿片戦争の人物]] |
|||
[[Category:アロー戦争の人物]] |
|||
[[Category:クリミア戦争の人物]] |
|||
[[Category:ヴィクトリア朝の人物]] |
|||
[[Category:エディンバラ大学出身の人物]] |
|||
[[Category:ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ出身の人物]] |
|||
[[Category:ハーロー校出身の人物]] |
|||
[[Category:シティ・オブ・ウェストミンスター出身の人物]] |
|||
[[Category:反米感情]] |
|||
[[Category:反露感情]] |
|||
[[Category:1784年生]] |
[[Category:1784年生]] |
||
[[Category:1865年没]] |
[[Category:1865年没]] |
||
[[ar:بالميرستون]] |
|||
[[az:Lord Palmerston]] |
|||
[[be-x-old:Генры Джон Тэмпл]] |
|||
[[bg:Хенри Джон Темпъл]] |
|||
[[ca:Henry John Temple]] |
|||
[[cs:Henry Temple]] |
|||
[[da:Henry John Temple]] |
|||
[[de:Henry John Temple, 3. Viscount Palmerston]] |
|||
[[el:Υποκόμης Πάλμερστον]] |
|||
[[en:Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston]] |
|||
[[es:Lord Palmerston]] |
|||
[[eu:Henry John Temple (Palmerstongo III. bizkondea)]] |
|||
[[fi:Henry Temple]] |
|||
[[fr:Henry John Temple]] |
|||
[[gd:Henry Temple, 3rd Viscount Palmerston]] |
|||
[[he:הנרי טמפל]] |
|||
[[hi:वैकौण्ट पामर्स्टन]] |
|||
[[hy:Պալմերսթոն]] |
|||
[[it:Henry John Temple, III visconte Palmerston]] |
|||
[[ko:헨리 존 템플]] |
|||
[[la:Henricus Ioannes Temple]] |
|||
[[mr:हेन्री जॉन टेंपल]] |
|||
[[nl:Henry John Temple]] |
|||
[[no:Henry John Temple, 3. vicomte Palmerston]] |
|||
[[pl:Henry Temple, 3. wicehrabia Palmerston]] |
|||
[[pt:Henry Temple, 3.º Visconde Palmerston]] |
|||
[[ro:Henry Temple]] |
|||
[[ru:Пальмерстон, Генри Джон Темпл]] |
|||
[[simple:Henry Temple, 3rd Viscount Palmerston]] |
|||
[[sv:Henry Temple, 3:e viscount Palmerston]] |
|||
[[tg:Ҳенрӣ Ҷон Темпел]] |
|||
[[th:เฮนรี จอห์น เทมเพิล ไวเคานท์พาลเมอร์สตันที่ 3]] |
|||
[[uk:Генрі Джон Темпл Пальмерстон]] |
|||
[[yo:Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston]] |
|||
[[zh:亨利·坦普爾,第三代巴麥尊子爵]] |
2024年8月29日 (木) 22:25時点における最新版
第3代パーマストン子爵 ヘンリー・ジョン・テンプル 3rd Viscount Palmerston Henry John Temple | |
---|---|
パーマストン子爵 | |
生年月日 | 1784年10月20日 |
出生地 | グレートブリテン王国、イングランド、ロンドン |
没年月日 | 1865年10月18日(80歳没) |
死没地 | イギリス、イングランド、ハートフォードシャー |
出身校 | ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ |
所属政党 | トーリー党 →カニング派→ホイッグ党→自由党 |
称号 | 第3代パーマストン子爵、ガーター勲章勲爵士 (KG)、バス勲章ナイト・グランド・クロス (GCB)、枢密顧問官(PC) |
配偶者 | エミリー |
親族 |
第2代パーマストン子爵(父) 第2代メルバーン子爵(義兄) |
サイン | |
在任期間 |
1855年2月8日 - 1858年2月20日[1] 1859年6月12日 - 1865年10月18日[1] |
女王 | ヴィクトリア |
内閣 | アバディーン伯爵内閣 |
在任期間 | 1852年12月28日 - 1855年1月31日[1] |
内閣 |
グレイ伯爵内閣、第一次メルバーン子爵内閣 第二次メルバーン子爵内閣 第一次ジョン・ラッセル卿内閣 |
在任期間 |
1830年11月20日 - 1834年11月15日 1835年4月18日 - 1841年9月2日 1846年7月6日 - 1851年12月19日[2] |
内閣 | スペンサー・パーシヴァル内閣、リヴァプール伯爵内閣、ジョージ・カニング内閣、ゴドリッチ子爵内閣、ウェリントン公爵内閣 |
在任期間 | 1809年10月 - 1828年5月28日 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
ニューポート選挙区[3] ケンブリッジ大学選挙区[3] ブレッチングリー選挙区[3] 南ハンプシャー選挙区[3] ティバートン選挙区[3] |
在任期間 |
1807年5月8日 - 1811年12月31日[3] 1811年3月27日 - 1831年7月25日[3] 1831年7月18日 - 1832年12月10日[3] 1832年12月15日 - 1835年1月13日[3] 1835年6月1日 - 1866年12月31日[3] |
第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(英: Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, FRS, 1784年10月20日 - 1865年10月18日)は、イギリスの政治家、貴族。
ホイッグ党を自由党に改組した自由党初の首相であり、首相を2期務め(第一次:1855年-1858年、第二次:1859年-1865年)、またそれ以前には外務大臣を3期にわたって務めた(在職1830年-1834年、1835年-1841年、1846年-1851年)。内務大臣(在職1852年-1855年)を務めていた時期もある。
ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝中期にかけて主に外交の分野で活躍し、大英帝国の国益や英国民の利益が損なわれることを許容しない強硬外交を行ったことで知られる。ヨーロッパでは会議外交によって各国の利害を調整するバランサーの役割を果たしつつ、ヨーロッパ諸国の自由主義化・ナショナリズム運動を支援する自由主義的外交を行った。非ヨーロッパの低開発国に対しては砲艦外交で不平等条約による自由貿易を強要してイギリスの非公式帝国に組み込む「自由貿易帝国主義」を遂行した。大英帝国の海洋覇権に裏打ちされた「パクス・ブリタニカ」を象徴する人物である[4]。
概要
[編集]アイルランド貴族パーマストン子爵家の長男としてロンドンのウェストミンスターに生まれる(→出生と出自)。ハーロー校を経てエディンバラ大学、ケンブリッジ大学で学んだ。1802年に父の死によりパーマストン子爵位を継承した(→少年・青年期)。
パーマストン子爵位はアイルランド貴族であり、アイルランド貴族代表議員に選出されない限り貴族院議員とはならず、逆に他の領域の英国貴族と違い庶民院議員への被選挙権を有する。そのため1807年の解散総選挙にトーリー党(後の保守党)候補として立候補して庶民院議員に初当選した(→庶民院議員選挙への挑戦)。トーリー党政権が長く続いていた時期であり、彼も戦時大臣を1809年から1828年までという長期間にわたって務めた。彼はジョージ・カニングを支持するトーリー党内の自由主義派であったので、1828年にはカトリック問題などをめぐってトーリー党執行部と仲たがいし、他のカニング派閣僚たちとともに辞職した(→戦時大臣)。
その後、ホイッグ党に合流し、1830年に成立したホイッグ党政権では外務大臣を務めた。ベルギー独立問題や東方問題で会議外交を展開してヨーロッパ大国間の戦争を回避した(→ベルギー独立をめぐって、→東方問題をめぐって)。また阿片戦争を主導して清の半植民地化の先鞭をつけた(→阿片戦争)。しかしインド総督オークランド伯爵の方針を支持して起こした第一次アフガン戦争は散々な結果に終わった(→第一次アフガニスタン戦争)。ホイッグ党政権は1841年の解散総選挙に敗れて内閣総辞職に追い込まれ、彼も外相を退任することになった。
続く野党時代にはロバート・ピール保守党政権の外相アバディーン伯爵の弱腰外交を批判して活躍した(→アバディーン伯爵の宥和外交批判)。
1845年にジョン・ラッセル卿を首相とするホイッグ党政権が誕生するとその外務大臣に就任した。スイス内乱、1848年革命、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争など自由主義・ナショナリズムの高まりの中で起こった様々な動乱の鎮静化に努めた(→スイス内乱をめぐって、→1848年革命をめぐって、→サルデーニャのロンバルディア進攻をめぐって、→第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって)。また1850年には一国民の損害賠償取り立てを支援するためにギリシャに艦隊を派遣するというドン=パシフィコ事件を起こした。この際に「古のローマ市民が『私はローマ市民である』と言えば侮辱を受けずにすんだように、イギリス臣民も、彼がたとえどの地にいようとも、イギリスの全世界を見渡す目と強い腕によって不正と災厄から護られていると確信してよい」という有名な演説を行って人気を博している(→ドン・パシフィコ事件)。しかし1851年にフランス大統領ルイ・ナポレオン(後のフランス皇帝ナポレオン3世)のクーデタを独断で支持表明した廉でジョン・ラッセル卿により外相を解任された(→解任)。
以降ホイッグ党内でラッセルに敵対する派閥を形成するようになり、保守党と連携してラッセル内閣を倒閣した(→パーマストン派の形成とラッセルとの対立)。その後保守党政権をはさんで、1852年12月にピール派・ホイッグ党・急進派三派による連立政権アバディーン伯爵内閣が成立するとその内務大臣として入閣したが、彼の関心は引き続き外交にあり、閣内の外交検討グループのメンバーとして外交に携わった。1853年にロシア帝国とオスマン=トルコ帝国の間でクリミア戦争が勃発すると、対ロシア開戦派として行動し、同戦争へのイギリス参戦に導いた(→アバディーン伯爵内閣の内相)。
やがてクリミア戦争遂行の象徴的人物となっていき、アバディーン伯爵内閣総辞職後の1855年2月には大命を受けて第一次パーマストン子爵内閣を組閣することとなった(→第一次パーマストン子爵内閣)。1855年にクリミア戦争に勝利し、ついで1856年にはアロー戦争を起こして清の更なる半植民地化を推し進めた(→アロー戦争)。1857年のインド大反乱は徹底的に鎮圧した(→インド大反乱の鎮圧)。しかし1858年にはイギリス亡命政治犯によるフランス皇帝ナポレオン3世の暗殺未遂事件が発生し、フランス政府に要求されるがままに殺人共謀の重罰化の法案を提出したことで野党や世論の反発を買って内閣総辞職に追い込まれた(→総辞職)。
1859年には保守党政権打倒のためにラッセルと和解し、ホイッグ党二大派閥・ピール派・急進派の合同による自由党の結成に主導的役割を果たした。同年、保守党政権に内閣不信任案を突き付けて総辞職に追い込み、第二次パーマストン子爵内閣を樹立した(→ラッセルとの和解と自由党の結成、→第二次パーマストン子爵内閣)。イタリア統一戦争を支援してフランスと対立を深め、フランスとの開戦を煽って、ナポレオン3世を弱腰にさせて英仏通商条約締結を成功させた(→イタリア問題・英仏通商条約)。しかし1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の調停の会議外交には失敗し、プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクがドイツ統一の最初の地歩を築くことを阻止できなかった(→第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって)。
その翌年の1865年、首相在任中に病死した(→死去)。
生涯
[編集]出生と出自
[編集]1784年10月20日、イギリス首都ロンドンのウェストミンスターで生まれた[5][注釈 1]。
父はアイルランド貴族の政治家第2代パーマストン子爵ヘンリー・テンプル[6]。母はメアリー(旧姓ディー)[6]。父と同じ「ヘンリー」の名を与えられた。ヘンリーは第一子であり、後に弟1人と妹3人が生まれている[7]。
テンプル家はもともとイングランド中部レスターシャーに領地を持つイングランド貴族だったが、薔薇戦争で一度没落した。しかしエリザベス朝期に人文主義哲学者サー・ウィリアム・テンプルがスペインとの戦争で活躍し、その功績でアイルランドに領地を与えられてアイルランド貴族に列したことで再興した[8]。
そのウィリアム・テンプルの孫サー・ウィリアム・テンプルは近代随筆の先駆者、また外交官としてルイ14世の覇権に挑戦したことで名を馳せた[9]。彼の弟であるジョンは、アイルランド議会の議長を務め、その子であるヘンリーの代に領地パーマストンの名前に由来してパーマストン子爵の爵位を得た[10]。
その初代パーマストン子爵の曽孫が、この第3代パーマストン子爵、ヘンリー・ジョン・テンプルである[11]。
少年・青年期
[編集]幼い頃のヘンリーはフランス人女性のガヴァネスから教育を受けた。彼女の影響でフランス語を学習するようになった[7]。1792年から1794年にかけては両親に連れられてフランス、スイス、イタリア、ハノーファー、オランダなど大陸諸国を旅行した[12]。この旅行中にフランス語とイタリア語を習得したという[6]。
1795年5月に名門パブリック・スクールのハーロー校に入学した。同級生にハッドー卿(後のアバディーン伯爵)がいる[13]。在学中ヘンリーはしばしば喧嘩し、倍の体格のいじめっ子にも勇敢に立ち向かったという[14]。1799年には父に連れられて庶民院を見学した。この際に首相ウィリアム・ピットと握手した[15]。
1800年にハーロー校を卒業し、父の薦めでスコットランドのエディンバラ大学に進学した[13]。デュガルド・スチュワート教授から政治経済を学んだ。彼の薫陶を受けて自由主義的な思想を培うようになった[16]。スチュワートは友人に宛てた手紙の中でヘンリーについて「これ以上はないというほど性格も品行も良い。」と書いている[17]。
1802年4月の父の死により17歳にして第3代パーマストン子爵位を継承した[6][18]。まだ若年であるため、マームズベリー伯爵が後見役に付いた[19]。父を失った後も相続した所領から上がる収入を使って大学で勉学を続けた[20]。
1803年10月にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに転校した[18]。当時のケンブリッジ大学にはエディンバラ大学ほどいい教師陣がなかったので、パーマストン卿も学業より友達と遊ぶことに精を出したようである[18]。1803年にフランスとの戦争がはじまると大学内に組織されたフランスの侵略に抵抗する部隊に入隊し、その部隊の三人の将校の一人となった[21]。1805年1月には母が子宮癌で死去している[20]。
貴族である彼は試験なしで学位をとることが可能だったが、試験によって卒業することを希望し、1806年に首席の成績で卒業した[22]。
庶民院議員選挙への挑戦
[編集]パーマストン卿は父と同様に政治家を志した。
イングランド貴族やグレートブリテン貴族、連合王国貴族の場合、21歳以上の当主は自動的に連合王国貴族院議員に選出されるが、アイルランド貴族は1801年以前グレートブリテン王国とアイルランド王国が分離しており、別個に議会をもっていった沿革から貴族代表議員に選出されない限り連合王国貴族院議員になることはなかった。そのためパーマストン卿も21歳を過ぎても自動的に貴族院議員になることはなかった[19]。
彼は庶民院議員を目指すことにし、いまだケンブリッジ大学在学中の1806年2月にウィリアム・ピットの死去に伴って行われたケンブリッジ大学選挙区補欠選挙にトーリー党候補として立候補したが、この選挙区は他に元首相シェルバーン伯爵の次男ヘンリー・ペティ卿と海軍卿・内務大臣を歴任したスペンサー伯爵の長男オールトラップ子爵という有力候補二人がホイッグ党候補として立候補していたため、結局パーマストン卿は三人のうち最下位の得票しか得られずに落選した[23]。
同年10月の解散総選挙では、マームズベリー伯爵の推薦でホーシャム選挙区から出馬したが、選挙に不正があったとされて当選を認められなかった[24]。
当時は小ピットとフォックスの相次ぐ死で議会政治が混乱していた時期であったため、翌1807年4月にも解散総選挙があった。パーマストン卿はこの総選挙に初めケンブリッジ大学選挙区から立候補したが、落選したため、ワイト島のニューポート選挙区に鞍替えし、そちらで当選を果たした[24]。
四度目の挑戦にしてパーマストン卿は庶民院の議席を手に入れた。
下級海軍卿
[編集]パーマストン卿は、マームズベリー伯爵の後援のおかげで政界入りして早々にポートランド公爵内閣の下級海軍卿(Junior Lord of the Admiralty)の役職を与えられた[25]。
1808年2月3日の処女演説では、前年に発生した王立海軍がデンマーク艦隊を捕獲した事件の弁護にあたった。処女演説なので温かく扱われたが、奥歯に物が挟まったような話し方が目立ち、出来の良い演説ではなかったという[26]。
戦時大臣
[編集]ポートランド公爵内閣は1809年10月に陸相カスルリー子爵と外相ジョージ・カニングの戦争遂行の方針をめぐる閣内不一致が原因で総辞職した[26]。
ついで大命を受けたスペンサー・パーシヴァルの内閣において、パーマストン卿は大蔵大臣としての入閣の打診を受けたが、彼は「政界入りしたばかりの自分に閣内大臣職は早すぎる」と断り[注釈 2]、代わりに閣外大臣職の戦時大臣[注釈 3]に就任し、以降21年間この役職に在職することとなった[28][29]。
1812年にパーシヴァル首相が暗殺され、リヴァプール伯爵が大命を受けて組閣した。パーマストン卿は引き続き戦時大臣に留任した[30]。この頃ナポレオン戦争が終結し、以降陸軍予算を削りたい大蔵省と軍人の年金・恩給を確保しなければならないパーマストン卿の間でいざこざが増えたという[27]。
リヴァプール伯爵内閣は長期政権となったが、カトリックの公務就任を認めるか否かをめぐって閣内の対立が深まった。カトリック解放を訴える急先鋒が外相ジョージ・カニングであり[30]、パーマストン卿は彼から強い影響を受けてカトリック解放や自由主義的外交を支持した[6]。
1827年2月に首相リヴァプール伯爵が脳卒中で倒れ、国王ジョージ4世はカニングに組閣の大命を与えたが、これに反発した反カトリック解放派のウルトラ・トーリーが政権から離脱した。トーリー党少数派のみを率いるカニングは、ホイッグ党の穏健派ランズダウン侯爵派と連立を組むことで組閣した。パーマストン卿はカニングを支持していたので引き続き戦時大臣として政権に残り、閣議への出席も認められた(閣内大臣)[31]。
1827年8月にカニングが急死し、ゴドリッチ子爵の短期政権を経て、1828年1月にウェリントン公爵に組閣の大命があった。ウェリントン公爵はカトリック解放に反対の立場であり、パーマストン卿と意見が違ったが、ウェリントン公爵からこの問題は先送りにするので留任してほしいと説得されたためひとまず政権にとどまった[32]。
しかしギリシャ独立戦争をめぐってオーストリア首相クレメンス・フォン・メッテルニヒと連携を深めようとしたウェリントン公爵の方針に反発を強めた(パーマストン卿はメッテルニヒに主導権を握られるとギリシャ独立が危うくなると考えていた)。[33]。
カニング派時代
[編集]パーマストン卿はパーシヴァル首相暗殺後、特定の党派に属していなかったが、1828年初頭までには「旧態依然としたトーリーと革新的すぎるホイッグの中間を行く」カニング派の領袖の一人と自他共に認められるようになっていた[33]。
結局パーマストン卿は、カトリック解放問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵や内務大臣サー・ロバート・ピール準男爵と対立を深め、1828年5月28日には戦時大臣を辞して政権から離れた。同じころ、他のカニング派閣僚の陸軍植民地相ウィリアム・ハスキソン、外相ダドリー伯爵、アイルランド担当相ウィリアム・ラム(後のメルバーン子爵)、商務相チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)らも辞職している[33]。
政界に入って以来、はじめて野党生活に入ったパーマストン卿だが、カニング派は実務経験豊富な人材の宝庫としてトーリー党からもホイッグ党からも注目されていた。とりわけパーマストン卿はカニング派の中では外交の専門家と目されており、ホイッグ党左派のホランド男爵にその能力を高く評価されていた。また当時ホイッグ党は党内の主だった派閥の領袖が貴族院に集中していたため、庶民院議員のパーマストン卿を迎え入れたいという声が強かった[34]。
当時カニング派の最有力人物はハスキソンだったが、パーマストン卿はウェリントン公爵内閣外務大臣アバディーン伯爵の対ギリシャ外交への批判で存在感を一層高め、1829年夏までには派閥内でハスキソンに次ぐ地位を確立していた[34]。
ハスキソンが1830年9月25日に鉄道事故で死亡すると、ホイッグ党首グレイ伯爵はメルバーン子爵とパーマストン卿に連絡をとり、ホイッグ党とカニング派の連携を確認した。さらにウェリントン公爵に反発して政権を離れたウルトラ・トーリーとも協力して、11月15日にウェリントン公爵内閣を議会で敗北させて総辞職に追い込んだ[35]。およそ半世紀にわたったトーリー党政権がここに終焉した[36]。
グレイ伯爵・メルバーン子爵内閣の外相
[編集]1830年11月に国王ウィリアム4世よりグレイ伯爵に組閣の大命があり、ホイッグ党政権が誕生した。パーマストン卿は同内閣に外務大臣として入閣した[37]。
1834年7月にはグレイ伯爵が老齢を理由に引退し、第1次メルバーン子爵内閣が成立したが、パーマストン卿は同内閣にも外相に留任した。同年11月に内閣は党内人事をめぐって国王ウィリアム4世と対立して罷免され、これによって一時ピールを首相とする保守党(1830年にトーリー党が改名)政権になるも、1835年の解散総選挙で保守党は多数派を得られなかったため、1835年4月にも第二次メルバーン子爵内閣が成立し、パーマストン卿は再び外相として入閣した[38]。
この1830年から1834年のグレイ伯爵・第一次メルバーン子爵内閣、1835年から1841年の第二次メルバーン子爵内閣の間に外相として携わった外交問題に以下のものがある。
ベルギー独立をめぐって
[編集]パーマストン卿が外相に就任したばかりの頃の外交上の懸案はベルギー独立革命であった。
ベルギーは、ウィーン条約以来オランダ王室オラニエ=ナッサウ家の統治下に置かれていたが、1830年7月のフランス7月革命の影響を受けて自由主義・ナショナリズムの機運が高まり、オランダ(当時絶対君主制の政体だった)からの独立を求める蜂起が発生し、10月にはベルギー独立が宣言されるに至った。周辺国も介入し、ロシア、オーストリア、プロイセンという神聖同盟を結ぶ絶対君主制三国がオランダを支援し、自由主義的なイギリスと7月王政下のフランスがベルギー独立を支援する構図になった[39][40][41]。
ベルギーをめぐって欧州各国の対立が深まる中、前政権の英外相アバディーン伯爵が国際会議を提唱し、11月4日からロンドン会議が開催された。この会議のさなかにグレイ伯爵内閣への政権交代があり、新たに外相に就任したパーマストン卿が就任早々この会議を取り仕切ることとなった[42]。
1831年1月20日の会議でパーマストン卿は各国の同意を取り付けて、ベルギーの永世中立国としての独立を認めた[43][44]。続いて誰をベルギー君主にするかが焦点となったが、ベルギー国内ではフランスの庇護のもとに自由主義国家として独立を維持しようという世論が強かったため、2月3日にベルギー国民議会がロンドン会議に独断でフランス王ルイ・フィリップの次男であるヌムール公爵を国王に選出した[45][46]。これに神聖同盟三国は激しく反発し、パーマストン子爵もヌムール公爵にベルギー王位を断念させるようフランス代表タレーランの説得にあたった[47]。孤立を恐れたフランスは、ヌムール公爵にベルギー王位を辞退させた[48][49]。
ヌムール公爵の線が消えると、首相グレイ伯爵はザクセン=コーブルク家のレオポルド公子(亡きシャーロット王女の夫)のベルギー王即位を狙うようになり、パーマストン子爵もその意を汲んで会議でレオポルド公子を推した。パーマストン子爵の手腕で最終的にはフランスも神聖同盟三国もレオポルド公子をベルギー王とすることを支持した。ベルギー国民議会も6月4日にレオポルド公子の推戴に賛成する決議をし、レオポルドがレオポルド1世としてベルギー王に即位することとなった[50]。
この後、レオポルド1世はベルギー領土の範囲、またオランダ国債のオランダとベルギーの負担割合をめぐってオランダと対立を深めていった。パーマストンが主導するロンドン会議ははじめレオポルド1世の主張を支持したが、それに反発したオランダ王ウィレム1世は8月2日にベルギー侵攻を開始、ベルギーは英仏に援軍を求めた[51]。神聖同盟三国もオランダの明白なる侵略行為は擁護しがたく、ロンドン会議はフランス軍の出動を認めた。フランス軍がベルギーに進駐を開始するとオランダ軍は8月15日にベルギーから撤退した[52][53]。フランス軍はそのままベルギーに進駐を続けようという構えを見せたが、神聖同盟三国の反発とパーマストン子爵の説得で最終的にフランス軍は撤収した[54]。
この一連の騒ぎでロンドン会議はオランダ側に若干有利な修正議定書を採決したが、オランダ側はそれでも了解せず、最終的にウィレム1世が議定書を受け入れてベルギー独立を承認したのは1839年になってのことであった[55][56][44]。
それでもベルギー独立がヨーロッパ大戦に拡大することなく実現できたのはパーマストン子爵の会議外交の手腕の賜物だった[57]。国王ウィリアム4世はこの会議の功績でパーマストン子爵にバス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)を授与している[58][59]。
東方問題をめぐって
[編集]この頃のエジプトはオスマン=トルコ帝国総督ムハンマド・アリーの統治下に置かれていた。アリーはシリアの統治権を見返りにギリシャ独立戦争でトルコに海軍力を提供したが、同戦争に敗戦したトルコは、シリア総督職をアリーに渡そうとしなかった。これに不満を高めたアリーはシリアを武力でトルコから奪い取ることを企図するようになった[60]。1831年10月からシリア支配権をめぐってエジプト・トルコ戦争が開戦し、エジプト軍が勝利した[61][62]。
しかしトルコの領土は大英帝国にとって「インドの道」であり、失うわけにはいかなかった[36]。またアリーは英国綿製品の輸入を制限するなどイギリスに敵対的な姿勢を示していたため、彼の覇権がシリアにまで拡大すれば、すでにトルコ領内に巨大市場を確立していた英国綿製品の脅威となる恐れがあった[63]。
1831年の間はパーマストン子爵もベルギー独立問題への対応に忙しかったため、東方問題を捨て置いたが、1832年に入りトルコの敗色が濃厚になると介入を開始した[64]。同じくロシア、オーストリア、フランスも介入を開始し、ロシアとオーストリアはトルコに、フランスはエジプトに好意的態度を取った(フランスは1830年にトルコからアルジェリアを奪取していたため、エジプトと連携を深めて足場を築こうとしていた[65])。
パーマストン子爵は、オーストリア宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒと会議の場所をロンドンにするかウィーンにするかをめぐって争い、その間の1833年7月にロシアとフランスの調停でトルコ・エジプト間に和平が成立。またロシアはトルコにウンキャル・スケレッシ条約を締結させ、ダーダネルス海峡進出を認めさせている[66]。これはパーマストン子爵には手痛い外交失態だった。
その後しばらく東方問題はロシア優位のまま沈静化していたが、1838年5月にムハンマド・アリーがトルコからの独立を宣言し、トルコ皇帝マフムト2世が1839年4月にエジプト征伐を決定したことで問題が再燃した。同年6月にイブラーヒーム・パシャ率いるエジプト軍はニジプの戦いでトルコ軍に決定的な勝利を収めた[67]。この敗戦で弱気になったトルコ皇帝はムハンマド・アリーのシリア総督就任を認めるに至った[68]。
エジプトの増長を警戒したパーマストン子爵が再び介入した。今回はオーストリアのメッテルニヒの顔を潰さないようウィーンで会議を行うことに同意しつつ、実質的交渉をロンドンで行うことで東方問題を主導することとした[69]。親エジプトのフランスを無視して、ロシア、オーストリア、プロイセン、トルコとともにロンドン条約を締結し、スーダン以外の占領地の放棄をムハンマド・アリーに要求した[70][71]。
しかしアリーはフランスの支援を期待して強硬姿勢をとったため、パーマストン子爵は1840年9月にイギリス、オーストリア、トルコ連合軍をベイルートへ上陸させ、シリア駐屯のイブラーヒーム軍をエジプト本国と切り離した。アリーの期待に反してフランス軍は動かず、エジプト軍は総崩れとなって本国へ撤収していった。アレクサンドリア沖にも英国艦隊が出現するに及んでアリーもついに諦めてロンドン条約を受け入れることを表明した[72][73]。
1841年2月13日のトルコ皇帝の詔勅によってエジプトとスーダンはトルコの宗主権下でムハンマド・アリー家が総督職を世襲して統治することが認められたが、一方で将官の任免や軍艦製造は宗主国トルコの許可が必要とされ、またイギリスと不平等条約を結んでの自由貿易も受け入れることとなった[74]。
阿片戦争
[編集]清は広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行という清政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)。しかしインド産阿片はこの枠外であり、イギリス商人が密貿易によって中国人アヘン商人に売っていたため清国内にアヘンが大量流入していた[75]。1823年にはアヘンがインド綿花を越えて清の輸入品の第一位となり、清は輸入超過(銀流出)を恐れるようになった[76]。
北京政府内で阿片禁止論が強まっていく中、パーマストン子爵は広東イギリス商人の権益を守るべく、1836年12月10日にチャールズ・エリオットを対清貿易監察官に任じて広東へ派遣した。また1837年11月2日には海軍省を通じて東インド艦隊の軍事行動の規制を緩めることで清への軍事的圧力を強化した[77]。
しかし功を奏せず、清朝皇帝道光帝は林則徐を欽差大臣に任じて広東に派遣し、阿片吸引者の取り締まりのみならず、外国人商人からの阿片没収まで行った[78][79][75]。林則徐は外国人商人に対し、以後阿片を持ち込まない旨の誓約書の提出を要求したが、エリオットは拒否し5月に広東在住の全英国人を連れてマカオに退去した。その後九竜半島でイギリス船員による現地住民殺害事件が発生したためもあり、林則徐は8月15日に誓約書を提出しない在マカオイギリス人への食料供給を禁じ、商館の中国人使用人の退去を命じた。エリオットはあくまで誓約を拒否したため、所在のイギリス人はマカオも放棄して船上へ逃れる羽目となった[80]。
阿片禁止の報を受けたイギリス本国はパーマストン子爵の主導で開戦論に傾き、1839年10月1日にメルバーン子爵内閣の閣議において清遠征軍の派遣が決定された[81]。パーマストン子爵は、1840年2月に現地に派遣する外交官や海軍に対して主要港を占領して揚子江と黄河を封鎖して不平等条約締結を清政府に迫るよう訓令した[82]。1840年6月より始まった戦争はイギリス軍の圧勝に終わり、1842年8月には中国半植民地化への第一歩となった不平等条約南京条約が締結された[83]。領事裁判権、公行制度の廃止、上海・寧波・広州・福州・廈門の開港、開港地の租借権、香港の割譲などを清に認めさせた[84]。
この戦争中、英国本国では庶民院において当時保守党議員だったウィリアム・グラッドストンがこの戦争を「不義の戦争」と批判する質問を行ったが、この際にグラッドストンは「中国人は井戸に毒を撒いてもよい」という過激発言をした。答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である」と逆に批判を返して、彼をやり込めた[85]。
第一次アフガニスタン戦争
[編集]イギリス東インド会社が統治するインドの北方にあるアフガニスタン王国は、イギリスにとってロシア帝国との緩衝地帯だったが、1830年代になるとアフガン王ドースト・ムハンマド・ハーンが首都カーブルに秘密裏にロシア外交官を置くなど怪しい行動を取り始める[86]。これについてインド総督オークランド伯爵は、1838年10月にシムラーにおいて「ドーストはロシアと手を組んでインドを侵略するつもりである。インドを護るためにはアフガンへ進攻して、正当なアフガン王であるシュジャー・シャーを王位に就ける必要がある。アフガンの独立が確保された後に我が軍は撤退する。」という宣言を発した[87][88]。
しかしイギリス本国ではこの宣言について議会や世論からの反対論が根強かった[89][90]。議会は関係文書の公開を求め、パーマストン子爵もそれに応じたが、公開された関連文書はドーストに好意的な部分が削除され、オークランド伯爵に都合がいいように改編されていた[89][91]。
結局パーマストン子爵も英国議会もオークランド伯爵の方針に支持を与えたが、当時の電報はインドに到着するまで3カ月はかかったので、オークランド伯爵はその電報を確認することなく総督の自由裁量権で1838年12月からインダス軍にアフガン侵攻を開始させた[89][92]。英軍は1839年8月にはドーストをカーブルから追って、シュジャー・シャーをアフガン王位に就けることに成功した[93][94]。しかし1841年11月カーブルで反英闘争が激化して掌握不可能となり、それに乗じてトルキスタンに亡命していた前王の息子アクバル・ハーンがウズベク族を率いてカーブルへ戻ってきたため、イギリス軍は降伏を余儀なくされた[95]。
アクバルはイギリス軍の安全な撤退を保障したが、約束が守られることなく、アクバル自らの手で英国全権公使サー・ウィリアム・マクノートンが殺害されたうえ、撤退する英軍戦闘員と非戦闘員に対しても現地部族民が略奪をしかけてきたため、大量の死者が出た。結局16000人のカーブル駐留イギリス軍で生き残ったのは軍医のウィリアム・ブライドンのみであった(第一次アフガン戦争)[96][97][98]。大英帝国の威信は傷つき、メルバーン子爵内閣崩壊の原因となった[98]。
奴隷貿易廃止に努力
[編集]パーマストン子爵は、外相就任直後から各国に奴隷貿易を廃止させるための外交努力を行ってきた[99]。
さらに奴隷貿易廃止を徹底するため、植民地大国間でお互いの船籍の臨検や拿捕を認める条約の締結を目指したが、イギリス海軍にフランス船籍が臨検されることを嫌がるフランスがごねて、なかなか調印にいたらなかった。結局この条約は後任のアバディーン伯爵外相のもとで締結されたが、条約の骨子を作ったのはパーマストン子爵であった[100]。
アバディーン伯爵の宥和外交批判
[編集]1841年の解散総選挙にホイッグ党が敗れたことで、メルバーン子爵政権は議会で敗北した。内閣は同年8月30日に総辞職し、ロバート・ピールの保守党政権が誕生した[101][99]。
パーマストン子爵も外相の地位をアバディーン伯爵に譲って退任することになった[99]。
アバディーン伯爵はタヒチ問題でフランスに、アフガニスタン問題でロシアに、奴隷貿易廃止問題でアメリカに譲歩するなど宥和外交を行った[102]。それに対してパーマストン子爵は「賢明な政府は、国内の民衆の要求に耳を傾け、外国からの不当な要求は断固として撥ね退けるものである。しかるに保守党政権は、その逆であり、国内の民衆の要求は断固として退けながら、外国にはあらゆる譲歩をしている」と批判した[103]。
ラッセル内閣の外相
[編集]1845年からアイルランドでじゃがいも飢饉が発生した。パーマストン卿の所領もこの飢饉で大きな打撃を受けた。彼は領主として領内の小作人たちにカナダ移住を促した[104]。
飢饉対策として行われた穀物法廃止をめぐって保守党政権は自由貿易派(ピール派)と保護貿易派に分裂して政権崩壊した。代わってジョン・ラッセル卿を首相とするホイッグ党政権が誕生し、パーマストン卿も同内閣に外相として入閣した[104]。ラッセルの部下という形になったが、この頃にはパーマストン卿のホイッグ党内での権威はラッセルのそれとほぼ同等になっていた[105]。
アバディーン伯爵の宥和政策にすっかり慣れていた諸外国にとっては強硬外交家パーマストン卿の復帰は「悪夢」であったという[106]。
スイス内乱をめぐって
[編集]ウィーン体制下でスイスは列強諸国から永世中立国と認められ、神聖同盟三国の弾圧を受けて逃れてきた自由主義者やナショナリストの避難場所になっていた。スイスは連邦国家であり、25のカントンと半カントンで構成されていた。カントンごとに政治体制が異なり、概して工業地域のカントンは自由主義的・プロテスタント的であり、農村地域は保守的・カトリック的だった[107]。
自由主義の風潮が強まる中、保守的・カトリック的なカントンは危機感を強め、これらのカントンは1845年に「分離同盟 (Sonderbund)」を結成した[108][109]。しかし1846年にはジュネーブで急進派が革命に成功し、さらに1847年には盟約者団会議(スイス連邦政府)が分離同盟に対して同盟解散とカトリック保守派の代表格イエズス会士を追放するよう要求した。分離同盟がこれを拒否すると盟約者会議は武力制裁を決議し、スイスは1847年11月に分離同盟戦争と呼ばれる内乱に突入した[108][110]。
農村が中心の分離同盟に勝ち目は薄く、分離同盟は同じカトリック保守のオーストリア帝国に援助を要請した。オーストリア宰相メッテルニヒはこれを了承し、スイス内乱の調停のためのウィーン会議の開催を目指した。またフランス7月王政もこの頃には国内の自由主義者の革命を警戒してだいぶカトリック保守化していたため、メッテルニヒを支持した[111]。これに対してパーマストン子爵は反分離同盟的な態度を示してロンドンでの国際会議を提唱したが、サルデーニャ王国やプロイセン王国も分離同盟寄りの態度をとってロンドンでの会議に反対したため、パーマストン子爵は孤立してしまった。当のスイス政府も国際会議にかけられること自体に乗り気ではなかった[112]。
スイスの内乱は1847年のうちに自由主義政府の勝利に終わり、またその翌年にはフランスやオーストリアなどに1848年革命が発生し、各国ともスイスどころではなくなったため、この問題は収束していった[113]。
1848年革命をめぐって
[編集]1848年2月にフランス7月王政が打倒され、共和政が樹立された。フランス臨時政府外相アルフォンス・ド・ラマルティーヌがウィーン体制に対して曖昧な態度を取ったことで、神聖同盟三国が激しく反発したが、パーマストン子爵が割って入って三国をなだめてヨーロッパ大戦を回避した[114]。
3月に入るとオーストリアやプロイセンでも革命が発生し、オーストリア首相メッテルニヒが失脚した。プロイセンでも自由主義内閣が立ち上げられた[115]。オーストリアの統治下にある北イタリアにも革命が広がった[116]。このような中、スイス問題で孤立したパーマストン子爵も自由主義外交の旗手として再びヨーロッパ国際政治の中心に立ったのである[117]。
サルデーニャのロンバルディア進攻をめぐって
[編集]1848年革命の影響で北イタリアをはじめとするオーストリアの支配地域でも続々とナショナリズム蜂起が発生した。自由主義者のパーマストン卿は、これまでもオーストリアのメッテルニヒ体制が自由主義や民族主義を弾圧しながら異民族の地を統治していることを批判的に見ていたが、それらの地が収まっている間はあえて介入する意思はなかった。だがこのような騒乱状況となった今、ロンバルディアはサルデーニャ王国に割譲し、ヴェネトにも自治権を認めることでイタリア民族主義に譲歩すべきと考えるようになった。一方でパーマストン卿はイギリス以外の国がイタリア問題に介入してくることを嫌い、フランス臨時政府にサルデーニャに加担しないよう釘を刺すことも忘れなかった[118]。
1848年秋頃には早くも革命に衰退の兆しが見られるようになり、パーマストン卿は革命が完全に鎮静化する前にブリュッセルなど自由主義的な土地でイタリア問題に関する国際会議を開催しようとしたが、1858年12月にはオーストリアで皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と首相兼外相フェリックス・シュヴァルツェンベルク侯爵の保守的で反英的な体制が成立したため、うまくいかなかった[119]。
一方サルデーニャ国王カルロ・アルベルトは1849年3月にもイタリア統一のためロンバルディア進攻を開始すると宣言した。パーマストン卿は特使を派遣して仲裁しようとしたが、オーストリアが国際会議開催を認めなかったため、オーストリアとサルデーニャは開戦に至った。サルデーニャの進攻はヨーゼフ・フォン・ラデツキ元帥率いるオーストリア軍の反撃で停滞。1849年3月のノヴァーラの戦いでサルデーニャ軍はオーストリア軍に決定的な敗北を喫し、カルロ・アルベルトも退位に追いやられた[120]。
パーマストン卿はオーストリアが北イタリアへの支配力を回復した今、イタリア・ナショナリズムのために軍事介入する意思はなく、この段階ではこれ以上サルデーニャに肩入れすることはなかった[121]。
第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって
[編集]1848年革命のナショナリズムの高まりの影響で、1848年4月8日、デンマーク(当時絶対君主制国家だった)の同君連合下にあるシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国で両公国のドイツ連邦への吸収合併を求めるドイツ民族主義者とデンマーク軍の戦闘が勃発した。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世もドイツ・ナショナリズム支援のために介入を決定し、4月10日にもシュレースヴィヒ・ホルシュタインへ進軍してデンマーク軍を同地から追い払った(第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)[122]。
この問題をめぐってはプロイセンのバルト海進出を恐れているロシアが、デンマーク側で参戦する可能性が高かった。パーマストン卿はロシアの参戦を阻止すべく、国際会議で仲裁しようとした。ロシア外相カール・ロベルト・ネッセルローデはパーマストン卿に共同介入を提案したが、パーマストン卿はそれを拒否し、単独介入を目指した。4月末までにデンマーク・プロイセン両国から国際会議開催への合意を得たが、5月にはプロイセン軍がデンマーク領へ侵攻を開始し、これに激怒したロシアがフランスとともに参戦をちらつかせてプロイセンを脅迫し、6月にプロイセン軍はデンマーク領からの撤退を余儀なくされた。ロシアとスウェーデンの斡旋で8月にはデンマーク・プロイセンは一時休戦した[123]。
ここでパーマストン卿は、恒久的平和実現のためとしてシュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題を話し合うロンドン会議を提唱した。孤立無援状態だったプロイセンはこれを支持し、またシュレースヴィヒで劣勢に立ったままのデンマークも支持した。こうして10月からパーマストン卿を議長とするロンドン会議が開催された。パーマストン卿は「シュレースヴィヒはデンマークに統合しつつドイツ語圏住民に独自の憲法制定権を含めた自治権を付与し、一方ホルシュタインはデンマーク王の同君連合のままドイツ連邦に加盟する」という案で会議をまとめようとしたが、デンマーク王フレデリク7世はこれを承諾しなかった。その頑なな態度にプロイセンやドイツ連邦もデンマークとの交渉を打ち切った[124]。
1849年4月から戦闘が再開されたが、この頃オーストリアはデンマークを後押ししてプロイセンに背後から襲いかかろうと策動していた。プロイセンとドイツ・ナショナリズムに明らかに不利な情勢の中、パーマストン卿はデンマークを軍事的優位に立たせる以外にロンドン会議をまとめることができないと確信し、プロイセンとオーストリア双方に介入しないよう圧力をかけた。これにより両国とも不介入を決定し、以降、この戦争はシュレースヴィヒ・ホルシュタインの中のドイツ・ナショナリストとデンマークだけの戦いへと変化していく。これによりデンマーク側が軍事的に有利に立った[125]。
そのうえでパーマストン卿は1849年9月に改めてロンドン会議を招集した。パーマストン卿の主導する粘り強い交渉の末、デンマークにもドイツ側にも一定の譲歩をさせることができた。シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両国とも引き続き同君連合のもとデンマーク王の統治下に置かれることやグリュックスブルク家のクリスチャンがフレデリク7世の後を継ぐこと、デンマーク自体に自由主義的な憲法を導入することなどが取り決められた。これらの合意は1850年8月にロンドン議定書という形で結実した[126]。
ドン・パシフィコ事件
[編集]1850年初夏、ギリシャ・アテネ在住の英国(ジブラルタル)籍のムーア人系ユダヤ人商人ドン・パシフィコは、その前年に反ユダヤ主義者に邸宅を焼かれて財産を奪われた件で巨額の賠償金をギリシャ政府に要求したが、ギリシャ政府はこれを拒否した[127][128][129][130][131]。パシフィコはイギリス外務省に助けを求めた[128][131]。
ちょうどこの頃イギリスとギリシャはイオニア諸島の領有問題で争っていたため、パーマストン卿はこの事件をギリシャ恫喝の絶好のチャンスと見た。英国艦隊をピレウス港に派遣し、パシフィコの要求に応じるようギリシャ政府を恫喝した。ギリシャ政府はこの恫喝に屈服し、パシフィコに賠償金を支払い、またイオニア諸島のイギリス領有を認める羽目となった(ドン・パシフィコ事件)[132]。
このパーマストン卿のやり方をフランスやロシアが批判し、国内でもヴィクトリア女王や野党が批判した。女王は「一個人の利益のために国家全体を危険に晒してはならない」と訓戒した[133][134]。貴族院はパーマストン卿不信任案を決議した[133]。庶民院でもピール派のウィリアム・グラッドストン、保守党のベンジャミン・ディズレーリ、急進派のリチャード・コブデンら野党議員が鋭く批判した[129]。
これに対してパーマストン卿は6月25日に答弁に立ち、次のような歴史に残る演説で反論した。
この英国民の自尊心をくすぐる演説は圧倒的な世論の支持を受け、たちまちのうちにパーマストン卿は国民的英雄となった[134]。この演説には野党議員さえもが感動し、グラッドストンは「並はずれた名演説」と評し、ロバート・ピールは「我々の誰もが彼を誇りに思わずにはいられなかった」と評した[135]。
情勢は逆転し、庶民院は46票差でパーマストン卿不信任案を否決した[133][136][137]。
女王夫妻との対立
[編集]ヴィクトリア女王やその夫アルバート公子は、ドイツ連邦の領邦ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の公家の血を引いており、ドイツ連邦二大国プロイセン・オーストリアと良好な関係を保ちたいと願っていた。そのため反普・反墺的態度をとることが多いパーマストン卿の自由主義外交に辟易していた[139]。
また女王夫妻は、二人の叔父であるベルギー王レオポルド1世がオルレアン家のフランス王ルイ・フィリップの娘ルイーズと結婚していた関係で親オルレアン家であり[140]、そのオルレアン家を倒して樹立されたフランスの共和政体を嫌っていた。パーマストン子爵の外交についてもフランスと接近し過ぎと考えていた[139]。
さらにパーマストン卿は女王夫妻に事前報告せず、事後報告で済ませようとすることが多かったが[141]、女王夫妻はこれにも不満を抱いており、ドン・パシフィコ事件の際には首相ジョン・ラッセル卿とパーマストン卿双方に対して「1、外務大臣は何を行おうとしているか女王に明確に述べること、女王が何に裁可を与えたか把握するためである。2、一度女王が裁可を与えた場合にはそれ以降外務大臣は独断で政策を変更・修正してはならない。そのような行為は王冠に対する不誠実であり、行われた場合には大臣罷免の憲法上の権限を行使するであろう」という警告を行っているほどである[142][143][134]。この時にはパーマストン卿もやり方を改めることを約束した[144]。
解任
[編集]1851年12月にフランスで大統領ルイ・ナポレオンが議会に対してクーデタを起こした。ラッセル内閣は「女王陛下の政府はクーデタに中立の立場をとる」ことを閣議決定した[145]。
ところがパーマストン卿が女王にも首相ラッセルにも独断で駐英フランス大使アレクサンドル・ヴァレフスキに対してこのクーデタを承認する言明をしていたことが発覚した[144][146][145][147][148]。
女王は激怒し、「これでは女王の政府の公正と威信が世界中から疑われる」とラッセルを叱責した[149]。ラッセルはこれまでパーマストン卿の国民人気と党内右派の支持を配慮して彼の独断外交に目をつぶってきたが、今回は許容しなかった。ついにパーマストン卿は外相を解任された[150][148]。この退任の際に連合王国貴族の爵位とアイルランド総督への転任の話があったが、パーマストン卿はいずれも拒否している[149]。
女王は叔父ベルギー王レオポルド1世に宛てた手紙の中で彼の解任について「私たちのみならず、世界中の人々にとって嬉しいニュースをお伝えいたします。パーマストン卿はもはや外務大臣ではないのです。」と書いている[151]。
パーマストン派の形成とラッセルとの対立
[編集]以降ホイッグ党は自由党結成までパーマストン派とラッセル派という二大派閥に引き裂かれることとなった。両派は第三会派や世論を取り込もうと、それぞれ別個のアピールをするようになった。ラッセル派は主に議会改革、パーマストン派は主に砲艦外交や強硬外交を主張した[152]。
ラッセル内閣はクーデタによって独裁権力を手にしたフランスのルイ・ナポレオン大統領(1852年12月には皇帝に即位してナポレオン3世となる)が、伯父の仇をとろうとイギリスに上陸作戦を決行するのではという不安に駆られており、それに対抗するため1852年2月に会期が始まった議会でイングランド南東岸に民兵組織を作る法案を提出した[153]。
パーマストン卿はラッセル内閣倒閣を狙って、その法案の修正法案を提出した。保守党庶民院院内総務ディズレーリがパーマストン卿に協力することを決定し、修正法案はパーマストン派と保守党の賛成多数で可決され、ラッセル内閣は総辞職することとなった[154]。このパーマストン卿の修正動議は世に「しかえし (Tit for tat)」と呼ばれた[155]。
この後、保守党党首ダービー伯爵が大命を受けて組閣した。保守党はパーマストン卿を保守党政権に引き込みたがっており、ディズレーリから保守党庶民院院内総務の地位を譲ると持ちかけられ、またダービー伯爵からも大蔵大臣として入閣してほしいと要請を受けた。しかしパーマストン卿はいずれも拒否している。女王はパーマストン卿をとことん嫌っていたため、これに安堵したという[154]。しかし組閣後もディズレーリはパーマストン卿を誘い続け、パーマストン卿の方も入閣こそしなかったが保守党政権に好意的な態度をとっていた[156]。
1852年12月、大蔵大臣ディズレーリの作成した予算案がピール派、急進派、ホイッグ党ラッセル派など野党勢力の反対多数で否決され、第一次ダービー伯爵内閣は総辞職することとなった。親保守党政権的な立場をとってきたパーマストン卿はこの予算案採決に欠席した[157][158]。
アバディーン伯爵内閣の内相
[編集]パーマストン卿とラッセルの険悪な関係は続き、両者ともお互いにその下に就くことを拒否したため、ホイッグ党首班の内閣を作るのは無理な情勢であった。1851年12月、女王は長老政治家ランズダウン侯爵の助言に従ってピール派領袖アバディーン伯爵に組閣の大命を与えた[159][158]。
アバディーン伯爵内閣はピール派、ホイッグ党、急進派の連立によって組閣されたが、ピール派や急進派はパーマストン卿が外相になることに反対したため、外相の地位にはラッセルが就任し、パーマストン子爵には外相以外の好きな閣僚ポストが提供されることになった。パーマストン卿は当初「外相以外は受けるつもりはない」と入閣を拒否していたが、ランズダウン侯爵の説得を受け入れて内務大臣として入閣することになった[160]。
内相となったパーマストン卿は1853年の新工場法制定を主導し、若い労働者の保護に尽力した。また工場の石炭の煙の規制など環境・公害問題にも取り組んだ[161]。この内閣ではアバディーン伯爵やラッセルが中心となって都市選挙区の熟練労働者に選挙権を拡大させる法案が検討されたが、パーマストン卿は「立法権を貴族・地主・ジェントリから実業家・商人・労働者に譲り渡すことになりかねない」として反対の立場をとり、推進派のアバディーン伯爵やラッセルと対立を深めていった[162]。
内相時代にも彼の主たる関心は外交にあった[注釈 4]。とりわけフランス皇帝ナポレオン3世がトルコからパレスチナのカトリック保護権を得て、同地のギリシャ正教会の保護権を主張していたロシアと対立を深めていることに注目していた。パーマストン卿は1853年1月からアバディーン伯爵、ラッセルとともに閣内に置かれた外交検討グループのメンバーになっていたため、その資格でこの問題に積極的に発言した[164]。
閣内ではパーマストン卿やラッセルらホイッグ党系閣僚がトルコ・フランスに好意的な態度をとり、逆にアバディーン伯爵やグラッドストンらピール派閣僚がロシアに好意的だった[165]。ロシアはアバディーン伯爵の平和外交でイギリスが中立の立場をとるだろうと期待し、他方トルコとフランスはパーマストン卿の強硬外交でイギリスが対ロシア参戦するだろうと期待していた。そのため双方とも強硬姿勢を崩さなかった[166]。その結果、1853年10月にロシアとトルコは開戦してクリミア戦争が勃発した[167]。
閣内分裂状態になったアバディーン伯爵内閣だが、そもそも同内閣はパーマストン卿とラッセルというホイッグ党二巨頭の支持無くしては存続できないので、結局決定的な主導権を握ったのはこの二人だった。その結果、内閣は対ロシア主戦論に傾き、1854年3月にイギリスはフランスとともにロシアに宣戦布告した[167]。
しかしクリミア戦争は膠着状態となり、1855年1月29日にはジョン・アーサー・ローバック議員提出の戦争状況を調査するための秘密委員会設置を求める動議が大差で可決され、アバディーン伯爵内閣は総辞職に追い込まれた[168][169]。
第一次パーマストン子爵内閣
[編集]次の首相はパーマストン卿以外は考えられないというのが一般的な評価だった。パーマストン卿はフランスとの同盟維持に不可欠な人材であったうえ、国内的にも彼は第二次世界大戦中のチャーチルのごとく戦争遂行の象徴的人物になっていたためである[170]。
パーマストン卿を嫌うヴィクトリア女王は保守党党首ダービー伯爵、ホイッグ党貴族院院内総務ランズダウン侯爵、ラッセルの順に大命を与えていったが、三人ともパーマストン卿とピール派の協力を得られなかったために組閣できなかった。パーマストン卿は首相を狙える立場であるから、彼らの内閣の外相に甘んじる必要がなく、全員からの入閣要請を拒否したのである[171]。
ランズダウン侯爵がパーマストン卿を次の首相に推挙するに及んで女王も抵抗を諦め、2月6日にパーマストン卿に組閣の大命を与えた[172][170][166]。70歳にしての首相就任であり、この時点では歴代最高齢での首相就任だった(後にグラッドストンに抜かれる。ただし初めて首相に就任した年齢の比較では現在でもパーマストン卿が歴代最高齢である)[173]。
内閣成立直後にピール派閣僚数名が閣外に去ったが、基本的に内閣はこれまで通りのホイッグ党・ピール派・急進派の連立政権だった[174]。
クリミア戦争
[編集]クリミア戦争の戦況は、クリミア半島セヴァストポリ要塞の戦いでロシアの堅い守備に阻まれて苦戦を強いられていた[175]。パーマストン卿が目下やらねばならないことはクリミア戦争に道筋をつけることであった。
オーストリア外相カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタイン伯爵の提唱で1855年3月から3か月にわたって開催されたウィーンでの和平交渉会議にパーマストン子爵は、ラッセルを英国代表として派遣した。パーマストン卿はセヴァストポリ要塞を陥落させない限り、ロシアがこちらの要求を呑むはずはなく、会議は失敗におわると考えており、そのため元首相のラッセルを派遣することでイギリスが会議を重視していることを国際社会に示しつつ、会議の失敗を理由にラッセルを失脚させようと考えたのである[176]。パーマストン卿の予想通り、黒海における海軍力制限にロシア代表アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵が難色を示したことで1855年6月に会議は決裂した。これによりラッセルの権威は低下し、パーマストン卿のホイッグ党内における優位が確立された[177]。
1855年9月、ついに英仏軍はセヴァストポリ要塞を陥落させることに成功した[178]。ナポレオン3世はこれを機に戦争終結の交渉に入ることを希望するようになった[179]。ロシアも同要塞の陥落直後には交渉で不利な立場に立たされることを嫌がって継戦の姿勢を示していたが、1856年に入ると終戦を望むようになり、譲歩の姿勢を示すようになった[180]。
パーマストン卿は継戦を希望していたが、連合軍の戦力の中心はフランス軍であったからフランスが戦意をなくしてはパーマストン卿も折れるしかなかった。イギリスの孤立を避けるためにもナポレオン3世の提唱するパリでの国際会議に賛同することとなった[181]。同会議の結果、1856年3月14日にパリ条約が締結され、黒海の非武装化、ドナウ川の航行自由化、モルダヴィア公国とワラキア公国のトルコ返還(自治権付与)が取り決められて終戦した[182]。
講和をめぐって彼が主導権を発揮することはできなかったが、女王からは4月11日に「戦争が終結し、この国の名誉と利益がパリ条約によって守られたことに満足の意を示します。これもパーマストン卿の熱意と指導力の賜物です。そこで女王は卿にガーター勲章を贈ります」とする書簡を送られた。イギリス臣民のガーター騎士団の人数には24名という定数があり、騎士団員が死んで席が空かない限り、新しい騎士団員を任命することはできないが、パーマストン卿は特例として席が空くまでの暫定として「特別騎士(extra Knight)」に叙されることになった[182]。
アロー戦争
[編集]阿片戦争で清に自由貿易を拡大させたはよかったが、イギリスの主要輸出品木綿の清への輸出量はその後もあまり増えておらず、マンチェスター綿産業を中心に清に更なる市場開放を迫るべしという声が強くなっていった[183]。
また清国内では依然として阿片は禁制品であったが、イギリス人は先の阿片戦争で締結した南京条約を盾に阿片の流入をやめようとはせず、清政府や中国人の間には反英感情が高まっていた。広東では、中国半植民地化に反発する民衆が排外暴動を起こすようになり、イギリス人が広東市内に入れなくなった。イギリス香港総督がこれについて抗議したが、両広総督・欽差大臣耆英は応じなかった[184]。また「夷狄の首府侵入」を許すことによって権威が低下することを恐れていた清政府は、イギリス外交官と北京政府の直接交渉を認めず、外交窓口を広東に派遣する欽差大臣に限定し続けていた[185]。これらはイギリス側に介入のきっかけを与えることとなった。
パーマストン子爵は清の姿勢を不誠実、いい加減、無法だとしていらついていた[185]。上海領事サー・ラザフォード・オールコックが再度武力行使して条約改正を清政府に迫るべしと進言したのを機にパーマストン子爵もその決意を固めた[186]。
1856年10月、香港総督は、清国官憲がイギリス(香港)籍船舶アロー号[注釈 5]に入ってきて中国人12名を海賊容疑で逮捕した事件を口実にして、香港駐屯イギリス海軍に広東への攻撃を開始させた[188]。その報告を受けたパーマストン子爵は直ちに香港総督の武力行使に追認を与え、自分が全責任を負うと通達した[189]。
だが庶民院では野党が人道的観点からこの戦争を批判した。1857年3月には急進派のリチャード・コブデン議員提出のパーマストン子爵批判動議が保守党、ピール派、急進派の議員たちの賛成で可決された[190]。これに対してパーマストン子爵は4月に解散総選挙に踏み切った[191][189]。広東の清の高官を「無礼な野蛮人」と呼ぶなどのパーマストン子爵の攻撃的なパフォーマンスは、英国民の愛国心を刺激して共感を呼び、選挙は党派を超えてパーマストン子爵を支持する議員たちが大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した[192][193][194][195]。
フランス皇帝ナポレオン3世も広西省でフランス人神父が殺害された事件を口実にアロー戦争に参戦した[196]。英仏連合軍は広東を占領して北上し、1858年5月に大沽砲台を占領して北京を窺い、6月には清に天津条約を締結させた[197]。だが清政府にとってこの条約は北京陥落を防ぐための便宜的手段であり、条約を守る姿勢を見せなかったため、一度撤収した英仏軍は再び北進を開始し、1860年8月に大沽砲台を再度陥落させ、今度こそ北京を占領した。これにより清は天津条約以上に厳しい条件の北京条約を締結する羽目になった[198]。清は巨額の賠償金、天津など11港の開港を認めることとなった[196]。
またこの戦争中の1858年8月、天津条約締結で一時暇になっていた英国艦隊を日本に派遣し、「応じないなら50隻の軍艦で攻めよせる」と江戸幕府を脅迫して不平等条約日英修好通商条約を締結させることにも成功している[196][199]。
インド大反乱の鎮圧
[編集]1857年5月、エンフィールド銃に牛脂や豚脂を使用しているという噂が直接の原因となって、イギリス東インド会社が統治するインド・メーラトでセポイ(イギリス東インド会社の傭兵)たちが蜂起した[200][201]。反乱セポイ達はデリーへ向かい、形式的なインドの統治者であるムガル帝国皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立してイギリスに対して反乱を起こした(インド大反乱(セポイの反乱))[202]。地方にも続々と反乱政府が樹立されていき[203]、北インド全域に反乱が拡大した[204]。
反乱勃発当初、パーマストン子爵は早期に鎮圧されるだろうと楽観視していたが、予想に反して反乱は長引いた[205]。これについて女王は「無関心を決め込まず、責任を果たせ」という叱責の書簡をパーマストン子爵に送りつけている[206]。反乱軍による残虐行為がイギリス本国に伝わるとイギリス国民の怒りに火が付いた。パーマストン子爵も反乱インド人たちの行動を「地獄の底から這い出てきた悪魔にしかできないような所業」と批判し、反乱鎮圧に本腰を入れた。インド人が「悪魔の風」と呼んだイギリス軍の残虐な鎮圧戦が開始された[207]。
デリーは陥落し、反乱軍が逃れたラクナウも陥落した。1857年のうちには反乱の勢いは萎んでいき、鎮圧に向かった[205]。地方の反乱は翌1858年まで続いたが、それも1858年6月のグワリオール陥落でほぼ平定され、7月にはインド総督カニング子爵が平和回復宣言を行った[204]。
1857年12月に召集された議会でパーマストンは来年の議会で東インド会社の廃止、女王陛下の政府による直接統治へ移行する法案を提出すると宣言した[205]。ただ、この法案が実現するのは続くダービー伯爵政権においてであった[208]。
総辞職
[編集]1858年1月、イタリア・ナショナリストフェリーチェ・オルシーニ伯爵によるフランス皇帝ナポレオン3世暗殺未遂事件が発生した。ナポレオン3世は無事だったが、市民に多数の死傷者が出た[209][210]。オルシーニ伯爵はイギリス亡命中だった人物で爆弾もイギリスのバーミンガムで入手しており、フランス国内からイギリスは暗殺犯の温床になっているという批判が強まった[210]。
フランス外相アレクサンドル・ヴァレフスキ伯爵は殺人共謀をもっと厳しく取り締まるようパーマストン子爵に要請した。パーマストン子爵はこの要請を受け入れ、殺人共謀の重罰化の法案を議会に提出した[211][193]。
ところが、これがイギリス人の愛国心を刺激して反発を招き、「フランスへの媚び売り法案」との批判が噴出した[211][193][210]。庶民院でもトマス・ミルナー・ギブソン議員から法案の修正案が提出され、この修正案が16票差で可決された[211]。
これを受けて第一次パーマストン内閣は総辞職に追い込まれた[211][212]
ラッセルとの和解と自由党の結成
[編集]1858年2月25日に保守党政権の第二次ダービー伯爵内閣が成立した。1859年3月に大蔵大臣・保守党庶民院院内総務ディズレーリが庶民院に提出した選挙法改正法案が否決されたことで解散総選挙となり、保守党があと少しで過半数を獲得できるところまで議席を伸ばし、野党は危機感を強めた。
また同年、イタリア統一を目指すサルデーニャ王国が、ナポレオン3世のフランス帝国を味方に付けて、オーストリア帝国(当時イタリア半島北部をロンバルド=ヴェネト王国として支配し、またウィーン体制で復活したイタリア半島小国家群や教皇領に巨大な影響力を行使していた)と開戦した(イタリア統一戦争)。イギリスでは保守主義者が反ナショナリズムの立場からオーストリアに共感をよせ、一方自由主義者はナショナリズム支援の立場からフランス・サルデーニャ連合軍に共感を寄せていた。パーマストン子爵も親イタリア派で知られていたので、フランスのナポレオン3世もパーマストン子爵の政権復帰を望む意思を隠そうとはしなかった[213]。
このイタリア戦争勃発による自由主義ナショナリズムの盛り上がりと保守党に対する危機感を背景に自由主義諸派の間には合流の機運が高まった。
1859年6月2日、パーマストン子爵がジョン・ラッセル卿の邸宅を訪問し、二人は和解した[214]。6月6日にはウィリシズ・ルームズでホイッグ党、ピール派、急進派の300人近い議員が会合を開いた。会合ではパーマストン子爵がジョン・ラッセル卿に手を引かれて壇上に上がるなど二人の和解を強調する演出がなされるとともに、三派の合同による自由党の立ち上げ、ダービー伯爵内閣不信任案提出の方針が宣言された[215][214]。
こうして結成された自由党は6月7日に内閣不信任案を提出し、10日の採決でこれを可決させた。これを受けてダービー伯爵内閣は総辞職した[216]。
第二次パーマストン子爵内閣
[編集]パーマストン子爵とジョン・ラッセル卿の約定では二人のうちヴィクトリア女王から大命を受けた方を自由党党首とし、もう一人はそれを支えることになっていた。ところが女王は自分の意見をないがしろにして強硬外交をしがちなこの二人を嫌っており、グランヴィル伯爵に大命を与えた[216]。
グランヴィル伯爵は「パーマストン卿とジョン・ラッセル卿の協力が得られましたら」という条件で受諾し、早速二人に入閣を打診した。パーマストン子爵は入閣を了承したものの、ラッセルは年下のグランヴィル伯爵のもとで働くことを拒否したため、グランヴィル伯爵は組閣を断念した。女王はラッセルの身勝手さに怒り、結局パーマストン子爵に大命を与えた[216]。
こうして1859年6月に第二次パーマストン子爵内閣が成立した。ジョン・ラッセル卿は外相、また後の首相ウィリアム・グラッドストンが蔵相として入閣した。
イタリア問題・英仏通商条約
[編集]1859年7月にフランス皇帝ナポレオン3世はサルデーニャ王国に独断でオーストリア帝国とヴィッラフランカの休戦協定を締結した。だがジュゼッペ・ガリバルディらイタリア民族主義者のナショナリズムを止めることはできず、ガリバルディ率いる義勇軍はイタリア半島の絶対君主制小国家群に次々と侵攻し、その領土をサルデーニャに献上していき、1861年2月にイギリス型立憲君主制国家イタリア王国が樹立されるに至った[217]。
このガリバルディの独断の戦争を支援している国はパーマストン子爵率いるイギリスだけだった[217]。イタリア統一阻止の立場に転じていたナポレオン3世がイギリスを恨んでいるという噂が広まってイギリスでにわかに反フランス感情が高まりを見せた。フランスとの開戦を求めてイギリス各地で義勇軍が結成されるほどだった[218]。パーマストン子爵もそうした反仏感情を煽っていた[218]。
イギリスで高まる反仏感情を憂慮したナポレオン3世はこれを和らげようと、国内の保護貿易主義者の反対を押し切って、イギリス蔵相グラッドストンが提唱した英仏通商条約の締結に応じ、イギリス工業製品の関税を大幅削減した。この条約によりイギリスの対仏輸出は倍増した[218]。
アメリカ南北戦争をめぐって
[編集]1861年4月にはじまったアメリカ南北戦争についてパーマストン子爵はイギリスの厳正中立を宣言した。しかしアメリカ南部から綿花輸入の8割を頼っているイギリスにとってはアメリカ南部との関係が断たれたのは大打撃だった[219]。
同年11月にはアメリカ連合国(南軍)が秘密裏に英仏に送ろうとした外交使節団の船トレント号をアメリカ合衆国(北軍)の艦隊が拿捕する事件が発生した(トレント号事件)。パーマストン子爵はこれに激怒し、12月5日に女王に送った覚書で、「アメリカ合衆国がイギリスの要求を拒むなら、イギリスはいつにも増してアメリカ合衆国に厳しい打撃を与え、簡単に忘れられない教訓を悟らせる有利な状況にあります」などと武力行使の可能性を示唆し始めた[219][220]。
外相ラッセル伯爵(ジョン・ラッセル卿。1861年に伯爵に叙される)の作成した強硬姿勢丸出しの外交文書を読んだ女王夫妻は、このままではアメリカ合衆国と戦争になると確信し、その阻止に動いた。薨去直前のアルバート公子は、最後の力を振り絞ってこの外交文書を柔和な文体に変更し、その変更をパーマストン子爵やラッセル伯爵に受け入れさせた。このおかげで米英戦争勃発、あるいはイギリスの南北戦争介入の危機は回避されたのだった[219][221]。
ところがアルバート公子の薨去後、南北戦争が長期化の様相を呈する中で、再びイギリス政界に南北戦争介入の機運が高まり始めた。1862年10月7日に蔵相グラッドストンは南軍支援と取られかねない演説をニューカッスルで行い、逆に陸相サー・ジョージ・コーンウォール・ルイス准男爵はグラッドストンを批判して南北戦争介入は現時点で一切考えていないと演説した。しかもこの二人の演説はいずれもパーマストン子爵の許可を得ていなかった[222]。
パーマストン子爵は閣僚たちの独断行動にイライラしながらもこの問題での発言を注意深く避けた。とりわけ南軍寄りの態度は控えるようになった。1862年9月のアンティータムの戦いでの北軍の勝利により、北軍に戦況が傾き始めたこともあるが、それ以上に北軍のエイブラハム・リンカーン大統領が奴隷制解放を大義に掲げたからである。これは奴隷貿易廃止に尽力してきたパーマストン子爵としても共感するところが多かった。最終的にパーマストン子爵は1862年11月の閣議で南北戦争不介入の方針を改めて決定した[222]。
しかしアメリカ合衆国は南北戦争が終わったのちの1869年にイギリス政府に対し損賠賠償を請求し、仲裁裁判の結果、イギリス政府は1,550万ドルを支払うことになった(アラバマ号事件)。請求の理由は、第3代パーマストン子爵内閣下の造船所で建造された船舶が南北戦争にあたり南軍私掠船(軍艦)として提供され北軍に損害を与えたことであった。初めての国際仲裁裁判で裁判官5名が判決した最終的な賠償金1,550万ドルはワシントン条約の一部となり、イギリスは1872年にこれをアメリカに支払った。なお、イギリスが北軍の海上封鎖と違法な漁業権割譲により被った損害192万9819ドルはこのとき相殺された[223]。この裁判により米英関係は改善した[224]。
ポーランド人蜂起をめぐって
[編集]1863年1月、ロシア帝国領ポーランドでポーランド人の自由主義ナショナリズムが高まり、蜂起が発生した(1月蜂起)。プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクはロシアの蜂起鎮圧に協力したが、一方フランス帝国のナポレオン3世は蜂起側に共感を寄せ、自らが国際会議を主導して調停に持ち込むことを考えていた[225]。
各国のナショナリズムを利用してフランスの影響力拡大を図ろうというナポレオン3世の野望に警戒を強めていたパーマストン子爵は、イギリス主導で国際会議を行う必要があると考え、「イギリスにはウィーン条約に基づきポーランド問題に介入する権限がある」との見解をロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフに伝えたが、ゴルチャコフは「ウィーン条約などすでに時効だ」と述べて難色を示した。ビスマルクがゴルチャコフと共同歩調を取ったため、パーマストン子爵も国際会議開催を諦めざるをえなかった[222]。
一方ナポレオン3世はパリでの国際会議を提唱したが、ウィーン体制を破壊しようというナポレオン3世の野心を見て取ったパーマストン子爵はこれに反対を表明して阻止した[226]。
第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって
[編集]ポーランドの蜂起はヨーロッパ中で自由主義・ナショナリズムを活気づかせた。デンマークでもナショナリズムが高まり、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題を再びデンマークに有利に設定し直そうという世論が強まった[227]。とりわけ1863年12月にクリスチャン9世がデンマーク王に即位するとデンマークのドイツ連邦に対する強硬外交が目立つようになった[228]。ドイツ連邦各国でもドイツ・ナショナリズムが高まり、フリードリヒ8世がアウグステンブルク公としてシュレースヴィヒ・ホルシュタインの統治者に擁立され、両国は一触即発状態になった[228]。
1863年7月、パーマストン卿は庶民院での演説で「イギリスの責務はデンマークの独立・統一・権利を守ることである。もしデンマークの独立が侵されることがあれば、これに抵抗するのはデンマーク一国だけではないだろう。」と演説したが[228]、ヴィクトリア女王が「デンマークのためにドイツ諸国と戦争するなど馬鹿げている」と強硬に反対したため、積極的な介入はできなかった[229]。
1864年2月1日よりプロイセン・オーストリア連合軍がシュレースヴィヒ進攻を開始し、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発した[230]。デンマークは兵力でも装備でもドイツに劣ったが、デュッペル要塞に籠城する作戦が功を奏して、戦況は膠着状態となった。パーマストン卿はオーストリア海軍が北海に出てくることを警戒し、参戦をちらつかせてオーストリアを牽制したが、ヴィクトリア女王の不介入方針は変わらず、「これ以上好戦的な方針を取り続けるなら議会を解散する」とパーマストン卿を脅迫するようになった[230]。また参戦は軍事的にも障害が多かった。イギリス陸軍はドイツ諸国の陸軍と比べると脆弱であったし(ビスマルクは「イギリス陸軍など、もしドイツに上陸してきても地元警察に逮捕させればよい」などと豪語していた)、イギリス海軍は精強ながら世界各地に散らばっており、ただちに北海に召集するのは難しかった[231]。
そこでパーマストン卿は国際会議によって事態の収拾を図ろうとした。この提案に対してプロイセン、オーストリア、フランス、ロシアは支持を表明した。デンマークははじめ反対したが、やがてデュッペル要塞で幾ら頑張っていても列強の救援が得られないと悟り、国際会議開催に賛同した[232]。こうして1864年4月25日から外相ラッセル卿を議長とするロンドン会議が開催されたが、パーマストン卿もラッセル卿も親デンマーク的な態度を取り過ぎて反発を買い、さらにヘルゴラント海戦でデンマーク海軍がオーストリア海軍に勝利したことでデンマークの態度が強硬になり、加えてドイツ側も譲歩の気配を見せなかったため、会議は難航した[233]。またパーマストン卿はこの頃、持病の痛風が悪化して自宅療養が多くなっていたため、積極的な調停に乗り出せなかった[234]。
6月15日の閣議では会議の進展を絶望視したラッセル卿が、会議をフランスに任せてはどうかと提案したが、パーマストン卿は却下した。この際に彼はラッセル卿に「フランスはヴェネツィアからオーストリアを追いだし、ライン川左岸に勢力を拡大しようとしている連中だ。彼らのことなど信用できない」という私見を述べている。ヴィクトリア女王の日記によれば、パーマストン卿はフランスがイギリスを対ドイツ戦争の泥沼に陥れて、その間にフランスはライン川沿岸を獲得し、イタリア全土で革命を起こすつもりだろうと懸念していたという[235]。
6月24日と6月25日の閣議では会議決裂の場合イギリスはどうすべきかが論じられたが、最終的にはイギリスはこの問題から手を引くことが閣議決定された。ロンドン会議は6月25日に決裂し、デンマークとドイツ連邦の戦争は再開された。戦況はドイツ軍優位に進み、7月20日にデンマークは降伏し、シュレースヴィヒとホルシュタインを放棄することとなった[236]。
ロンドン会議失敗により7月5日から7月6日にかけて貴族院と庶民院双方でパーマストン卿不信任案決議案が提出されたが、庶民院の採決では賛成295票、反対313票でかろうじて不信任案は否決された。一方貴族院では賛成177票、反対168票で不信任案が可決された。しかしパーマストン卿は貴族院より庶民院の方が重いとして総辞職や解散総選挙を拒否した[237]。
死去
[編集]義理の孫にあたるクーパー伯爵所有のハートフォードシャーの邸宅ブロケット・ホールに滞在中の1865年10月12日に風邪をこじらせ、意識不明の重体に陥った。17日に一時的に意識を取り戻したものの、18日の朝には再び容態が悪化し、同日午前10時45分に永眠した[238]。
朦朧とした意識の中で残した最期の言葉は「第8条はこれで結構です。次に移りましょう」であったという[239]。
ヴィクトリア女王はその日の日記に「私たちは彼にはたびたび悩まされ、嫌な思いもさせられた。だが彼も首相としては立派な行動を見せた。その彼も世を去り、アルバートもこの世を去ってしまった。私だけが取り残されるとは万感胸に迫る思いである」と書いている[240]。
栄典
[編集]爵位
[編集]1802年4月17日に父の死により以下の爵位を継承した[11]。
- ダブリン県におけるパーマストンの第3代パーマストン子爵 (3rd Viscount Palmerston, of Palmerston in the County of Dublin)
- スライゴ県におけるマウント・テンプルの第3代テンプル男爵 (3rd Baron Temple, of Mount Temple in the County of Sligo)
- (1723年3月12日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
勲章
[編集]名誉職その他
[編集]人物
[編集]自由貿易帝国主義
[編集]パーマストンは、帝国主義時代の前夜の1840年代から1860年代にイギリス政府が盛んに行った「自由貿易帝国主義」を代表する人物である。「自由貿易帝国主義」とは低開発国を砲艦外交で脅迫して、そうした国々で取られている鎖国体制を取り払わせ、不平等条約による自由貿易を押し付けてイギリスの非公式帝国に組み込む政策である[241]。
この時代のイギリスの政界や論壇では植民地放棄的な小英国主義論が盛んだったが、実際にイギリス外交を主導したのは自由貿易帝国主義者パーマストンであったので、小英国主義が実施されることはほとんどなかった(それが実施されるのはカナダやオーストラリアなど白人が大量に移住した植民地だけだった)。この時代にもイギリス政府は盛んにインド周辺地域(パンジャブ、シンド、ビルマなど)に領土拡大を図り、それ以外の地域の低開発国に対しては砲艦外交で不平等条約締結を迫った。そこには後の帝国主義への萌芽が見て取れる[242][243]。
植民地化・半植民地化される低開発国にパーマストン子爵が関心をもつことはなかった。植民地に関する閣議が終わってから、閣議で話題になっていた国はどこにある国なのか他人に聞くような有様だったという[244]。
国民のための強硬外交
[編集]パーマストン子爵は国民の利益を最優先する国民思いの人物で、国民人気も高かった。彼の外交が強硬だったのは他国を犠牲にしようとも在外国民の利益を護らねばならないという使命感からであった[245]。
前述したドン・パシフィコ事件の際の「英国臣民は、英国の全世界を見渡す目と強い腕によって常に不正と災厄から護られていると確信してよい」という彼の演説はそれを象徴する。また彼は常々「たった一人の大英帝国臣民の死でも開戦原因となりうる」と凄んでいた[206]。
そのあまりの強硬外交ぶりに外務官僚たちも尻込みすることが多かったが、そういう官僚を見るとパーマストンは「責任は私がとる」と言って重い腰を上げさせたという[246]。
日常の強硬
[編集]外交姿勢のみならず、日常生活にも強硬なところがあった。ロンドンまでの列車に乗り遅れた際、パーマストン子爵は駅長に対して「自分にはロンドンでやらねばならない重大な用事があるので自分のための特別列車を仕立てろ」と無茶を命じたという。駅長は「この時刻に特別列車を出すのは危険であり、責任は負えない」と言って拒否したが、パーマストン子爵は引き下がらず、「責任は私がとる」といって強引に特別列車を出させたという[246]。
社交性のある人ではなく、ホイッグ党の大貴族たちの社会に溶け込めてはいなかったという[29]。
艶福家として
[編集]パーマストン子爵は大変な色好みであったとことから「キューピッド卿」の異名をとった[248]。ロンドン随一の社交クラブ『オールマックス(Almack's)』は貴婦人の指名がなければ入会できないしきたりであったが、女性会員7名のうち3名がパーマストン卿とベッドを共にしたことがあったためにこれを難なくクリアしている[249]。
さらに最晩年の1863年には旧知の娼婦から訴訟を起こされたが、あっさりと勝訴して総選挙の得票数を伸ばした。一方で、この法廷闘争にグラッドストンは苦々しく感じていたという[247]。
評価
[編集]同じ自由主義者でもグラッドストンとは異なり、国家主義・愛国主義の要素が強く、また労働者層への選挙権拡大や議会改革に反対したことから内政面では保守主義・貴族主義の側面も強いとされる[250][251]。
同時代の保守党首相ダービー伯爵もパーマストン子爵について「急進派という道具を使う保守党らしき大臣で、外交舞台では自由主義というショーを演じる」と評している[252]。
ヴィクトリア女王とアルバート公子の夫妻からはひどく嫌われていた。女王夫妻はパーマストン子爵のことを「ピンゲルシュタイン」とかげ口したという(「ピンゲル」とは巡礼を意味するドイツ語。パーマストンの「パーマー」は英語で巡礼を意味する)[253]。しかし女王はパーマストン子爵の決断力は認めており、「大層意志の強い男」と評している[240]。
関東学院大学の教授君塚直隆は「パーマストンは特に誰かの党派・派閥に入ることなく一匹オオカミを貫き、70歳で首相の座を獲得した」として無派閥リーダーの「始祖」ともいえる政治家としている[254]。また、この「特定の党派に属さない」という姿勢から『パミス卿(Lord Pumice、Pumice は「軽石」の意味)』のあだ名が付けられている[255]。
家族
[編集]パーマストン子爵は、1807年から1809年頃にメルバーン子爵の妹で第5代クーパー伯爵の夫人であるエミリーと不倫の関係になった[256]。エミリーはクーパー伯爵の子を5人に儲けているが、そのうち次男ウィリアムと長女ミニーと次女ファニーの本当の父親はパーマストン子爵と見られている[256]。
クーパー伯爵が死去した後の1839年に55歳パーマストン子爵と53歳のエミリーは正式に結婚した。しかしすでに高齢の二人に新しい子はできず、パーマストン子爵家は彼の代で絶えることとなった[256]。
パーマストン子爵の息子と見られるウィリアムは、パーマストン子爵家の再興を前提として1880年にマウント・テンプル男爵位を与えられているが、子に恵まれず、彼一代で絶えた[256]。
同じくパーマストン子爵の娘と見られるミニーはパーマストン子爵の財産を相続し、シャフツベリ伯爵と結婚した。夫妻の次男であるイヴリン・アシュリーはパーマストン子爵の伝記を著している[257]。更にその息子であるウィルフリッド・アシュリーに再びマウント・テンプル男爵位が与えられるも、やはり子に恵まれず、彼一代で絶えている[257]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ イングランド・ハンプシャーのブロードランズ生誕とする説もあり[6]。
- ^ パーマストン卿が大蔵大臣就任を断ったのは、首相スペンサー・パーシヴァルが庶民院議員なので、同じ庶民院議員の自分が大蔵大臣になっても首相の陰に隠れてしまうだろうと懸念したこともあったという[26]。
- ^ 当時陸軍行政をめぐる管轄は曖昧であったが、基本的に陸軍大臣が陸軍行政全般のトップであり、そのもとで陸軍の人事や規則は陸軍総司令官、軍需品については補給庁長官が担当し、戦時大臣は議会と陸軍予算の交渉を行ったり、陸軍軍人の年金や恩給を調整する担当になっていた[27]。
- ^ イングランド北部で工場ストライキが発生した際に女王から「続報は入っているか」とご下問があったが、内務大臣であるパーマストンは『いいえ、陛下、何も聞いておりません。しかし、(後述するクリミア戦争における)トルコ軍がドナウ川を越えているのは確かなようです』と奉答したという[163]。
- ^ このアロー号は方亜明なる中国人商人が所有する船であるが、香港総督府の船舶登録を受けていた。しかしこの事件の時点ではすでに登録期間が切れていた。イギリス側は開戦口実を失わないためにこのことは清側に秘匿した[187]。
出典
[編集]- ^ a b c 秦(2001) p.509
- ^ 秦(2001) p.510
- ^ a b c d e f g h i j HANSARD 1803–2005
- ^ 世界伝記大事典(1981)世界編7巻 p.438
- ^ 君塚(2006) p.12
- ^ a b c d e f 世界伝記大事典(1981)世界編7巻 p.436
- ^ a b 君塚(2006) p.14
- ^ 中西(1997) p.81-82
- ^ 中西(1997) p.81
- ^ 君塚(2006) p.13
- ^ a b Heraldic Media Limited. “Palmerston, Viscount (I, 1723 - 1865)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年12月3日閲覧。
- ^ Ridley(1970) p.7-9
- ^ a b 君塚(2006) p.15
- ^ Ridley(1970) p.10
- ^ Ridley(1970) p.12
- ^ 君塚(2006) p.15-16
- ^ Ridley(1970) p.15
- ^ a b c 君塚(2006) p.16
- ^ a b 君塚(2006) p.18
- ^ a b 君塚(2006) p.17
- ^ Ridley(1970) p.18-19
- ^ Ridley(1970) p.18
- ^ 君塚(2006) p.18-19
- ^ a b 君塚(2006) p.20
- ^ Ridley(1970) p.27
- ^ a b c 君塚(2006) p.21
- ^ a b 君塚(2006) p.22
- ^ 君塚(2006) p.21-22
- ^ a b ストレイチイ(1953) p.148
- ^ a b 君塚(2006) p.25
- ^ 君塚(2006) p.25-26
- ^ 君塚(2006) p.26
- ^ a b c 君塚(2006) p.27-28
- ^ a b 君塚(2006) p.28-29
- ^ 君塚(2006) p.30
- ^ a b 山口(2011) p.62
- ^ 君塚(2006) p.30-31
- ^ 君塚(2006) p.87-88
- ^ 君塚(2006) p.30/35
- ^ 今来(1972) p.434-435
- ^ デュモン(1997) p.66-67
- ^ 君塚(2006) p.37-38
- ^ 君塚(2006) p.41
- ^ a b 森田(1998) p.379
- ^ 今来(1972) p.437
- ^ 君塚(2006) p.45
- ^ 君塚(2006) p.45-46
- ^ 君塚(2006) p.47
- ^ デュモン(1997) p.68
- ^ 君塚(2006) p.47-48
- ^ 君塚(2006) p.51
- ^ 君塚(2006) p.52-53
- ^ デュモン(1997) p.69
- ^ 君塚(2006) p.54-58
- ^ 君塚(2006) p.60
- ^ デュモン(1997) p.69-70/71
- ^ 君塚(2006) p.65
- ^ 君塚(2006) p.67
- ^ a b c d e "Palmerston, Henry John (Temple), Viscount (PLMN803HJ)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ 山口(2011) p.47-48
- ^ 君塚(2006) p.76
- ^ 山口(2011) p.50
- ^ 山口(2011) p.61-62
- ^ 君塚(2006) p.76-77
- ^ 山口(2011) p.66
- ^ 君塚(2006) p.82
- ^ 山口(2011) p.63-64
- ^ 君塚(2006) p.95
- ^ 君塚(2006) p.110-111
- ^ 山口(2011) p.65
- ^ 君塚(2006) p.102
- ^ 山口(2011) p.66-67
- ^ 君塚(2006) p.108
- ^ 山口(2011) p.67-68
- ^ a b 横井(1988) p.48-50
- ^ 横井(1988) p.51
- ^ 横井(1988) p.54-55
- ^ 尾鍋(1984) p.72
- ^ 村岡、木畑(1991) p.99
- ^ 横井(1988) p.57-58
- ^ 横井(1988) p.58
- ^ 横井(1988) p.63-64
- ^ 横井(1988) p.73-77
- ^ 村岡、木畑(1991) p.99-100
- ^ 尾鍋(1984) p.72-73
- ^ モリス(2008)上 p.128-129
- ^ モリス(2008)上 p.130
- ^ ユアンズ(2002) p.84
- ^ a b c モリス(2008)上 p.131
- ^ ユアンズ(2002) p.85
- ^ ユアンズ(2002) p.85-86
- ^ ユアンズ(2002) p.86-87
- ^ モリス(2008)上 p.135
- ^ ユアンズ(2002) p.89
- ^ モリス(2008)上 p.149
- ^ ユアンズ(2002) p.94-95
- ^ モリス(2008) 上巻 p.132-152
- ^ a b 浜渦(1999) p.95
- ^ a b c 君塚(2006) p.120
- ^ 君塚(2006) p.121
- ^ 神川(2011) p.100
- ^ 君塚(2006) p.121-123
- ^ 君塚(2006) p.123
- ^ a b 君塚(2006) p.125
- ^ ストレイチイ(1953) p.148-149
- ^ 君塚(2006) p.126
- ^ 君塚(2006) p.126-127
- ^ a b 君塚(2006) p.127
- ^ 森田(1998) p.112
- ^ 森田(1998) p.113
- ^ 君塚(2006) p.127-128
- ^ 君塚(2006) p.129-130
- ^ 森田(1998) p.114
- ^ 君塚(2006) p.133-136
- ^ スタインバーグ(2013) 上巻 p.159-166
- ^ 君塚(2006) p.137-138
- ^ 君塚(2006) p.137
- ^ 君塚(2006) p.138
- ^ 君塚(2006) p.139
- ^ 君塚(2006) p.138-140
- ^ 君塚(2006) p.139-140
- ^ 君塚(2006) p.141
- ^ 君塚(2006) p.140-143
- ^ 君塚(2006) p.145
- ^ 君塚(2006) p.145-146
- ^ 君塚(2006) p.146-147
- ^ 尾鍋(1984) p.82
- ^ a b 川本・松村(2006) p.248
- ^ a b 神川(2011) p.138
- ^ 君塚(2006) p.147
- ^ a b ワイントラウブ(1993) 上巻 p.330
- ^ 君塚(2006) p.147-148
- ^ a b c 川本・松村(2006) p.249
- ^ a b c d ワイントラウブ(1993) 上巻 p.331
- ^ a b 川本・松村(2006) p.250
- ^ a b 神川(2011) p.139
- ^ a b 君塚(2006) p.148
- ^ 村岡、木畑(1991) p.160
- ^ a b 君塚(2006) p.153
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.387
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.87
- ^ 川本・松村(2006) p.254-255
- ^ ストレイチイ(1953) p.166
- ^ a b 尾鍋(1984) p.84
- ^ a b 君塚(2006) p.155
- ^ 神川(2011) p.145
- ^ ストレイチイ(1953) p.170
- ^ a b ワイントラウブ(1993) 上巻 p.333
- ^ a b 君塚(2006) p.156
- ^ 神川(2011) p.145-146
- ^ 君塚(2006) p.157
- ^ ブレイク(1993) p.319
- ^ 君塚(2006) p.158
- ^ a b ブレイク(1993) p.362
- ^ 神川(2011) p.146
- ^ 神川(2011) p.149
- ^ 神川(2011) p.151
- ^ a b 君塚(2006) p.170
- ^ 尾鍋(1984) p.90
- ^ 君塚(2006) p.171-172
- ^ 君塚(2006) p.173
- ^ 君塚(2006) p.178
- ^ 君塚 直隆『悪党たちの大英帝国』株式会社新潮社、東京都新宿区〈新潮選書〉、2020年、191頁。ISBN 9784106038587。
- ^ 君塚(2006) p.174
- ^ 君塚(2006) p.176
- ^ a b 君塚(2006) p.177
- ^ a b 神川(2011) p.158
- ^ ブレイク(1993) p.418
- ^ 神川(2011) p.163
- ^ a b ブレイク(1993) p.421
- ^ 神川(2011) p.163-167
- ^ 神川(2011) p.166
- ^ 君塚(2006) p.184-185
- ^ 君塚(2006) p.186
- ^ 君塚(2006) p.185
- ^ 君塚(2006) p.185-188
- ^ 君塚(2006) p.196
- ^ ブレイク(1993) p.423
- ^ 君塚(2006) p.197
- ^ 君塚(2006) p.198
- ^ 君塚(2006) p.198-199
- ^ a b 君塚(2006) p.204
- ^ 村岡、木畑(1991) p.161
- ^ 横井(1988) p.97-98
- ^ a b 横井(1988) p.101
- ^ 横井(1988) p.102
- ^ 横井(1988) p.118
- ^ 横井(1988) p.119-120
- ^ a b 神川(2011) p.168
- ^ 横井(1988) p.120
- ^ ブレイク(1993) p.435-436
- ^ ブレイク(1993) p.436
- ^ a b c 神川(2011) p.169
- ^ 尾鍋(1984) p.95-97
- ^ 神川(2011) p.168-169
- ^ a b c 村岡、木畑(1991) p.162
- ^ 横井(1988) p.128
- ^ 横井(1988) p.132
- ^ 横井(1988) p.129-130
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.408-409
- ^ 長崎(1981) p.63-71
- ^ 長崎(1981) p.78-85
- ^ 長崎(1981) p.98
- ^ a b 浜渦(1999) p.110
- ^ a b c ブレイク(1993) p.439
- ^ a b ワイントラウブ(1993) 上巻 p.409
- ^ モリス(2008)上 p.364
- ^ 尾鍋(1984) p.100
- ^ 尾鍋(1984) p.98
- ^ a b c ブレイク(1993) p.440
- ^ a b c d 尾鍋(1984) p.99
- ^ ブレイク(1993) p.441
- ^ ブレイク(1993) p.471
- ^ a b 君塚(2006) p.222
- ^ ブレイク(1993) p.473
- ^ a b c 君塚(2006) p.223
- ^ a b 神川(2011) p.179
- ^ a b c 神川(2011) p.180
- ^ a b c 君塚(2006) p.228
- ^ Ridley(1970) p.554
- ^ ストレイチイ(1953) p.206
- ^ a b c 君塚(2006) p.229
- ^ Thomas A. Bailey, A Diplomatic History of the American People, NY (1958), 6th ed., pp. 388–389.
- ^ エフラム・ダグラス・アダムス(1924) Great Britain and the American Civil War.
- ^ 君塚(2006) p.230-231
- ^ 君塚(2006) p.234
- ^ 君塚(2006) p.235
- ^ a b c 君塚(2006) p.236
- ^ 君塚(2006) p.238-240
- ^ a b 君塚(2006) p.240
- ^ 君塚(2006) p.242
- ^ 君塚(2006) p.244
- ^ 君塚(2006) p.247-250
- ^ 君塚(2006) p.255
- ^ 君塚(2006) p.254
- ^ 君塚(2006) p.256
- ^ 君塚(2006) p.256-257
- ^ 君塚(2006) p.260-261
- ^ 君塚(2006) p.261
- ^ a b ワイントラウブ(1993) 下巻 p.56
- ^ 村岡、木畑(1991) p.96-98/160
- ^ 村岡、木畑(1991) p.96-98
- ^ 木畑・秋田(2011) p.101
- ^ モリス(2008)下 p.164
- ^ ストレイチイ(1953) p.151
- ^ a b ストレイチイ(1953) p.150
- ^ a b Baker 2018, p. 121.
- ^ Baker 2018, p. 119,121.
- ^ Baker 2018, p. 120.
- ^ 世界伝記大事典(1981)世界編7巻 p.437
- ^ 村岡、木畑(1991) p.153
- ^ ブレイク(1993) p.505
- ^ 川本・松村(2006) p.247
- ^ “「菅首相」の先輩? 英無派閥宰相のリーダーシップ”. 日経BizGate. (2020年9月15日) 2020年11月29日閲覧。
- ^ Baker 2018, p. 119.
- ^ a b c d 君塚(2006) p.23
- ^ a b 君塚(2006) p.24
参考文献
[編集]- 今来陸郎『中欧史』山川出版社〈世界各国史 7〉、1972年。ISBN 978-4634410701。
- 尾鍋輝彦『最高の議会人 グラッドストン』清水書院〈清水新書016〉、1984年。ISBN 978-4389440169。
- 新版『最高の議会人 グラッドストン』清水書院〈新・人と歴史29〉、2018年。ISBN 978-4389441296。
- 神川信彦、解説・君塚直隆『グラッドストン 政治における使命感』吉田書店、2011年。ISBN 978-4905497028。
- 川本静子、松村昌家 編『ヴィクトリア女王 ジェンダー・王権・表象』ミネルヴァ書房〈MINERVA歴史・文化ライブラリー9〉、2006年。ISBN 978-4623046607。
- 木畑洋一、秋田茂 編『近代イギリスの歴史 16世紀から現代まで』ミネルヴァ書房、2011年。ISBN 978-4623059027。
- 君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交の時代』有斐閣、2006年。ISBN 978-4641173224。
- 君塚直隆『ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”』中央公論新社〈中公新書〉、2007年。ISBN 978-4121019165。
- ジョナサン・スタインバーグ 著、小原淳 訳『ビスマルク 上巻』白水社、2013年。ISBN 978-4560083130。
- リットン・ストレイチイ 著、小川和夫 訳『ヴィクトリア女王』角川書店〈角川文庫〉、1953年。ASIN B000JB9WHM。新版・冨山房百科文庫、1981年
- ジョルジュ=アンリ・デュモン 著、村上直久 訳『ベルギー史』白水社〈文庫クセジュ〉、1997年。ISBN 978-4560057902。
- 中川昭一『飛翔する日本』講談社インターナショナル、2008年。ISBN 978-4770041043。
- 長崎暢子『インド大反乱一八五七年』中央公論社〈中公新書〉、1981年。ISBN 978-4121006066。
- 中西輝政『大英帝国衰亡史』PHP研究所、1997年。ISBN 978-4569554761。新装版2015年
- 浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝-イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社、1999年。ISBN 978-4120029370。
- ブレイク男爵 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年。ISBN 978-4172820000。
- 村岡健次 著、木畑洋一 編『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年。ISBN 978-4634460300。
- ジャン・モリス 著、椋田直子 訳『ヘブンズ・コマンド 大英帝国の興隆 上巻』講談社、2008年。ISBN 978-4062138901。
- ジャン・モリス 著、椋田直子 訳『ヘブンズ・コマンド 大英帝国の興隆 下巻』講談社、2008年。ISBN 978-4062138918。
- アンドレ・モロワ 著、安東次男 訳『ディズレーリ伝』東京創元社、1960年。ASIN B000JAOYH6。
- 山口直彦『新版 エジプト近現代史 ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで』明石書店〈世界歴史叢書〉、2011年。ISBN 978-4750334707。
- 横井勝彦『アジアの海の大英帝国』同文館、1988年。ISBN 9784495852719。
- 森田安一『スイス・ベネルクス史』山川出版社〈世界各国史14〉、1998年。ASIN 978-4634414402。
- マーティン・ユアンズ 著、柳沢圭子、海輪由香子、長尾絵衣子、家本清美 訳、金子民雄 編『アフガニスタンの歴史 旧石器時代から現在まで』明石書店、2002年。ISBN 978-4750316109。
- スタンリー・ワイントラウブ 著、平岡緑 訳『ヴィクトリア女王〈上〉』中央公論社、1993年。ISBN 978-4120022340。新版・中公文庫〈全3巻〉、2006年
- スタンリー・ワイントラウブ 著、平岡緑 訳『ヴィクトリア女王〈下〉』中央公論社、1993年。ISBN 978-4120022432。
- 『世界伝記大事典〈世界編 7〉トムーハリ』ほるぷ出版、1981年。ASIN B000J7VF62。
- 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
- Jasper Ridley (1970). Lord Palmerston. Constable. ISBN 978-0094559301
- Baker, Kenneth 著、松村 昌家 訳『『風刺画で読み解くイギリス宰相列伝―ウォルポールからメージャーまで』』ミネルヴァ書房、2018年。ISBN 978-4-623-07946-9。
関連項目
[編集]- ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯) - パーマストン子爵と双璧するホイッグ党(自由党)の二巨頭の一人
- パーマストン (ニュージーランド) - ニュージーランド南島の都市
- パーマストン・ノース - ニュージーランド北島の都市
- ダーウィン (ノーザンテリトリー) - オーストラリア・ノーザンテリトリー準州の首府。最初はパーマストン市だったが、のちイギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンにちなみダーウィンと改名した。
- 鍛冶屋の仕事場
- 中川昭一
- 君塚直隆
- ヘンリー・ジョン・テンプル
- イギリスの外務大臣
- イギリスの内務大臣
- イギリス・トーリー党の政治家
- イギリス・ホイッグ党の政治家
- イギリス自由党の政治家
- ワイト島選出のイギリス庶民院議員
- サリー選出のイギリス庶民院議員
- ハンプシャー選出のイギリス庶民院議員
- デヴォン選出のイギリス庶民院議員
- 大学選挙区選出のイギリス庶民院議員
- イギリスの枢密顧問官
- アイルランド貴族の子爵
- グラスゴー大学の教員
- ガーター勲章
- バス勲章
- イギリス帝国
- チャールズ・グレイ
- ウィリアム・ラム
- 阿片戦争の人物
- アロー戦争の人物
- クリミア戦争の人物
- ヴィクトリア朝の人物
- エディンバラ大学出身の人物
- ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ出身の人物
- ハーロー校出身の人物
- シティ・オブ・ウェストミンスター出身の人物
- 反米感情
- 反露感情
- 1784年生
- 1865年没