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『'''金閣寺'''』(きんかくじ)は、[[三島由紀夫]]の[[長編小説]]。
『'''金閣寺'''』(きんかくじ)は、[[三島由紀夫]]の[[長編小説]]。


[[1956年]]、[[新潮]]1月号から10月号に連載され、同年10月に[[新潮社]]から刊行。翌年に[[読売文学賞]](第8回・小説部門)を受賞。累計売上330万部<ref>「NHKニュース おはよう日本」2011年2月5日放送より</ref>を超えるベストセラー小説である。
[[1956年]](昭和31年)文芸誌「[[新潮]]1月号から10月号に連載され、同年10月30日に[[新潮社]]から単行本刊行。『金閣寺』は、[[読売新聞]]アンケートで、[[1956年|昭和31年]]度ベストワンに選ばれ、翌年1月第8回[[読売文学賞]](小説部門)を受賞した。累計売上330万部<ref>「[[NHKニュースおはよう日本]](2011年2月5日放送より</ref>を超える[[ベストセラー]]小説である。


精緻な[[文体]]で記述され、[[近代]][[日本文学]]を代表する傑作の一つと見なされる。多数の[[言語]]に訳され、[[海外]]でも評価は高い。
硬質で精緻な[[文体]]で記述され、近代[[日本文学]]を代表する傑作の一つと見なされる。多数の言語に訳され、海外でも評価は高い。


題材は、1950年(昭和25年)7月2日に実際に起きた[[金閣寺放火事件]]から取られ、作者独自の人物造型、観念を加え構築した文学作品である。物語は、[[鹿苑寺|金閣寺]]の美にとりつかれた「私」こと溝口の一人称告白体で進められ、事件の動機として主人公・溝口のもつ重度の[[吃音]]を核に、金閣寺放火に至る経過を観念的に描いてゆく。
[[現実]]の[[事件]]を題材にとり、「偽の告白」をする、というふうに本人が述べているが、このことは特に本作品に当てはまる。


== ストーリー ==
== ストーリー ==
{{ネタバレ}}
{{ネタバレ}}
[[日本海]]に突き出た[[成生岬]]の貧しい寺に生まれた溝口(「私」)は、[[僧侶]]である父から、金閣ほど美しいものはこの世にないと聞かされ育った。父から繰り返し聞く[[鹿苑寺|金閣寺]]の話は、常に完璧な美としての金閣であり、溝口は金閣を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。
[[金閣寺放火事件]]に材を求め、[[鹿苑寺|金閣寺]]の美にとりつかれた「私」こと溝口養賢を描く。事件の原因として養賢のもつ重度の[[吃音]]を核に置いている。


養賢は、吃音のため自己の意思や感情の表現ができ戦前当時軍国的若者同年代女性と自分とのあいだに精神的な高い壁を感じていた。養賢には吃音以外身体に何の障害も無かったのだが、それだけのために青春期らしき明るさも恋愛もすべて抛棄して生きていた。養賢は、少年期より父から金閣寺の話を繰り返し聞いていた。その話の金閣は、常に完璧な美としての金閣であり、養賢は金閣寺を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。
体も弱く生来の[[吃音]]のため自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は極度引っ込み思案とり、人から愛されなかっ。内攻した[[コンプレックス]]のために[[海軍機関学校]]生徒が持っていた短剣の鞘に醜い傷をつけこともあった。また、官能的で美しい娘・有為子に嘲られ、軽蔑されたこともあり、女と自分とのあいだに精神的な高い壁を感じ、青春期らしき明るさも恋愛もすべて抛棄して生きていた。


やがて溝口は、病弱であった父の勧めで、父の修業時代の知人が[[住職]]を務める[[鹿苑寺|金閣寺]]に入り、修行生活を始めることとなった。金閣を見たことがなかったときは、様々に金閣の美を想像していたが、いざ実物を見てみると心象の金閣ほど美しくはなかった。しかし、戦争が激しくなり、自分も金閣もろともに[[空襲]]で焼け死ぬかもしれないと思うと、金閣は、「悲劇的な美しさ」を増してきた。溝口は、[[室町時代]]から続く金閣寺を、永劫に続くと思われながらも、実はいつ破壊されるとも限らない完璧で永遠の儚い美として捉えていた。そしてその観念は、自己の不遇と孤独の中で実際の金閣よりも遙かに強力な精神的な美として象徴化し、固定化していた。一方、病に衰えていた父が死んでから母は、一生懸命勉強して金閣寺の住職になれと溝口に野望の火を焚きつけようとする。母はかつて、溝口が13の時のある夜、同じ[[蚊帳]]の中で父と子も寝ているそばで、親戚の男と交わっていた。目が覚めた息子の目を、父は後ろから手で目隠しをした。
やがて養賢は、[[僧侶]]で病弱であった父勧めで、父の修業時代の知人が[[住職]]を務めてい金閣寺に入り、修行生活を始め。そこで美し心を持ていると信じ鶴川に出会う終戦後に仏教系の[[大学]]に通い始めるのだがそこで足に[[内反足]]の[[障害]]をもち[[松葉杖]]をつきながら移動する、いつも教室の片隅でひっそりとたたずんでいる級友柏木と出会う。一見した柏木の障害に自分の吃音を重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた養賢だったが、かれは実は女を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、高い階層の女を次々と籠絡している男であった。障害を斜に構えつつも克服し、それどころか利用さえして確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木の姿を、当初は全く理解し難いと思っていた養賢だが、精神的な距離を置きつつも友人を続けていた。柏木の養賢への批評はいつも[[心臓]]を抉り出す様に残酷で鋭く、養賢の心の揺れや卑怯を常に蔑み、突き飛ばすものであった。養賢は、そんな柏木から女を紹介されたり[[笛]]教えて貰で曲がりなりにも若い自分の人生の一ページを刻んでいた。もう一人の友人の鶴川は、養賢に対し本心を開かないまま[[自殺]]して人生を閉じ。鶴川は、自殺の前に柏木本心を打ち明けていた。


同じ徒弟生活で出会った同学の鶴川は、溝口と対照的な明るい青年だった。彼は溝口の[[吃音]]を馬鹿にしない唯一の友であり、溝口の心の[[陰画]]を[[陽画]]に変えてしまう存在でもあった。戦争末期のある日、2人は[[南禅寺]]の[[天授庵]]の茶室で、1人の美しい女が軍服の若い[[陸軍士官]]に茶を供しているのを見た。女は男に促され、自身の乳房から乳を鶯色の茶に注いだ。溝口はその女に有為子を重ねた。
一方、寺での養賢は当初、理由は分からないが住職にかわいがられている存在であった。母は、養賢が将来の金閣寺住職になることに強い期待を抱いていたが、養賢にはそのような俗欲が無い、と言うよりも端から理解できず、そして母の期待に応える気持ちも無いため、大学を休んだり金閣寺を抜け出したりしては叱責されていた。母は、必死に住職に謝ることで何とか養賢の将来をつなごうと努力するが、養賢は住職が愛人といるのを偶然見かけた後、住職にそのことを揶揄することで、みずから決定的に将来の望みを断ち切った。自己の将来を完全に断ち切り、世俗的な自分の存在理由を無にしてしまったその後、養賢は自己の美学を完遂すべく金閣寺の[[放火]]を決意する。


やがて、戦争が終わり、金閣と「私」こと溝口とが同じ世界に住んでいるという夢想も崩れた。[[鹿苑寺|金閣寺]]のまわりには[[娼婦]]を乗せ[[米兵]][[ジープ]]など俗世のみだらな風俗が群がった。溝口住職[[老師]]の計らいで入学した[[大谷大学]](仏教系大学)で、足に[[内反足]]の[[障害]]をもち[[松葉杖]]をつきながら移動する、いつも教室の片隅でひっそりとたたずんでいる級友柏木と出会う。一見した柏木の障害に自分の[[吃音]]を重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた溝口だったが、柏木は実は女を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、高い階層の女を次々と籠絡している男であった。障害を斜に構えつつも克服し、それどころか利用さえして確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木の姿を、当初は全く理解し難いと思っていた溝口だが、精神的な距離を置きつつも友人を続けていた。柏木の溝口への批評はいつも心臓を抉り出す様に残酷で鋭く、溝口の心の揺れや卑怯を常に蔑み、突き飛ばすものであった。溝口は、そんな柏木から女を紹介されるが抱こうとと目の前に金閣幻影が立ち現れ、失敗終わった。
== 解説 ==
{{独自研究|section=1|date=2010年6月}}
本作は金閣寺を放火した主人公による告白体という形式となっている。
三島自身の言葉によれば、戯曲や『近代能楽集』のような作品のほうが大胆に告白できるもので、詩作の代用となり得ている。
(参考文献;『金閣寺』「『金閣寺』について」中村光夫、原資料『声』第八号同人記)


もう1人の友人の鶴川が死んだ。「事故」ということだった。溝口の孤独な生活が又はじまった。しかし、そんな中でも、柏木から[[禅問答]]「[[南泉普願|南泉]]斬猫」を巡る彼の持論解釈を聞いたり、[[尺八]]を教えて貰うことで、まがりなりにも若い自分の人生の1ページを刻んでいた。そして再び、柏木の計らいで、女を抱く機会を与えられる。その女はいつか[[天授庵]]の茶室で見たあの女だった。しかし、またしても女の乳房の前に金閣が出現し、溝口は不能に終わる。溝口は金閣に対し憎しみを抱くようになる。
上述の中村光夫によれば、金閣寺放火というノンフィクションの事件を基に、犯人の個人的な体験を告白体とすることで、
三島由紀夫はその芸術的で大胆に表現にしたとされる。このことから、金閣寺の放火という社会的に狂気の一種と見なされる個人的な犯罪体験を、美文での告白を通じ社会的に内在化させ得ているとも捉えられる。


溝口が女の美を目の前にすると、いつも金閣が現れていたが、溝口はある日、菊の花と戯れる蜂を見ている時、自分が蜂の目になって、菊(女、官能の対象)を見るように空想する。その時、ふと、自分が蜂でなく人間の目に還ると、それはただの「菊」に変貌した。その蜂の目を離れた時こそ、自分が金閣の目をわがものにしてしまい、生(女)と自分の間に金閣が現れ、性的な自己の存在を無価値化してしまうという構造に行きつく。このように金閣(虚無)の目で見、変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占領し、この余のものを砂塵に帰してしまうことを溝口はおぼろげながら確信してゆく。
また作品の背景として日本の敗戦から捉えるならば、戦前の国の伝統に対する美的な意識との対立を両立させた内容ともいえる。
(参考文献;『金閣寺』「三島由紀夫 人と文学」佐伯彰一)


正月のある日、溝口は雑踏の中で、女([[芸妓]])連れの老師に偶然、行き会ってしまう。追跡されていたと誤解した老師は溝口を叱咤した。しかし、明る日は呼び出しもなく、溝口には釈明の機会もなかった。その後も無言の放任が続き、溝口を苦しませた。以前、溝口が米兵に命令され娼婦を踏みつけ、後で女からゆすられた時も老師はなぜか溝口を不問に附していた。溝口は老師を試そうと、愛人の芸妓の写真を、老師が読む朝刊にはさみ、憎しみを誘うことで老師との対峙を待った。自ら、後継住職になる望みを永久に失うことになる糸口をつけながら、その一方、溝口は人間と人間が理解し合う劇的な熱情の場面も夢想し、ゆるされることさえ夢みていた。だが写真は無言で溝口の机の抽斗に戻された。
作品の中において、主人公の養賢は金閣寺を室町時代から続き永劫に続くと思われながらも、実はいつ破壊されるとも限らない完璧で永遠で儚い美として捉えていた。そしてその観念は自己の不遇と孤独のなかで実際の金閣よりも遙かに強力な、精神的な美として象徴化し固定化していた。


これらのわだかまりが累積し、次第に溝口は学業の成績も落ち、大学も休みがちになっていった。溝口は自ら決定的に将来の望みを断ち切ってゆく。学校からの注意が老師にもいった。寺に修行に来た当初は父の縁故で老師に引き立てられ、ゆくゆくは後継にと目されていた溝口だったが、ついに老師から、もう後継にする心づもりはないとはっきり宣告された。老師は溝口に、芸妓の一件のことについても、「知っておるのがどうした」と開き直る。
養賢は女性の美と金閣とを重ね合わせていたが、金閣が隔絶した価値を有することに確信し、性的な自己の存在を無価値化する。また、母は養賢の将来に対し希望を描くも、彼には希望というもの自体が存在しないようでもある。彼は、住職を嫌い自ら住職に嫌われ自分自身の将来をも無価値なものとしていく。そして友人と思っていたはずの鶴川は、実は養賢には心を開かず、残酷な男であるはずの柏木にのみ[[手紙]]で本心を伝えて自殺した。この一連の流れは、女性、社会的地位、未来、友をすべて失うことで、現実世界における自己に未練をなくし精神世界の存在に転化させ行くことになる背景が描かれている。

溝口は柏木から金を借り、寺から家出した。[[舞鶴湾]]に向かい[[由良川]]から裏[[日本海]]の荒れる海を眺め、溝口はそこで、「金閣を焼かねばならぬ」という想念を掴む。由良の宿で不審に思われた溝口は警官に連れられ金閣寺に戻された。息子が金閣寺住職になることに強い期待を抱いていた母は、必死に住職に謝ることで息子の将来をつなごうとあがいていた。醜く歪んだ母の顔に、溝口は「不治の希望」の醜さを見る。

孤独を増す溝口に、柏木は破滅的なものを感じ、鶴川から死の直前に届いた手紙を見せる。溝口には柏木との交友を非難しながらも、鶴川は、自殺の前に柏木のみに本心を打ち明けていたのだった。鶴川は翳りのない心を持っていると認識し、信じていた溝口にそれは少なからず衝撃であった。柏木は溝口に、「この世界を変貌させるの認識だ」と説く。しかし、これに対し溝口は、「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反駁する。

溝口は、老師が訓戒を垂れる代わりに施した金で[[五番町 (京都市)|五番町]]の[[遊廓]]に女を買いに行った。金閣を焼こうという決心は死の準備に似ていた。万一のときのため[[ブロムワレリル尿素|カルチモン]]([[催眠薬]])と小刀も買った。その日が来た。その夜は、寺に[[福井県]]龍法寺の[[禅海]][[和尚]]が来訪していた。溝口は和尚に「私を見抜いてください」と言うが、和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と答える。溝口はその言葉に、初めて空白になり、隈なく理解されたと感じ行動の勇気が湧く。

溝口は、[[鹿苑寺|金閣寺]]放火の行為の一歩手前にいた。そのとき眺めた金閣寺は、燦然ときらめく幻の金閣と、闇の中の現実の金閣が一致し、たぐいない虚無の美しさにかがやいていた。溝口は金閣寺に火を点けた。燃え盛る金閣の中で溝口は突然、[[究竟頂]]で死のうとするが扉はどうしても開かなかった。拒まれていると確実に意識した溝口は、戸外に飛び出し逃げた。一仕事終えた人のように溝口は、「生きよう」と思った。

== 作品評価・解説 ==
三島自身の言葉によれば、「私は妙な性質で、本職の小説を書くときよりも、戯曲、殊に[[近代能楽集]]を書くときのはうが、はるかに大胆素直に告白できる。それは多分、この系列の一幕物が、現在の私にとつて、詩作の代用をしてゐるからであらう」<ref>三島由紀夫『同人雑記』(季刊雑誌・声 第八号、1960年10月に掲載)</ref>というように、三島は従来の常識とは反対に、詩や戯曲のように枠のしっかりきめられた形式の方が大胆に「告白」できるいうタイプの作家で、[[中村光夫]]によれば、三島にとっての告白は、「仮面」のもとにのみ可能であり、その「仮面」は作者の手製である場合より、社会の現実の事件である方がはるかに板につくものとなるという。そして本作品も、[[金閣寺放火事件]]という「事実」([[ノンフィクション]])を「仮面」にしていると、中村光夫は分析している<ref name="nakamura">[[中村光夫]]「『金閣寺』について」(文庫版『金閣寺』([[新潮文庫]]、1960年)付録解説)</ref>。また、事件に自己を含めた時代の狂気の「象徴」を見出した三島は、それを確実に所有するために、この「象徴」を芸術によって再現することを希ったとし、現代で正気を保つ方法は、その狂気を芸術的に生きて見るほかはなかったという見解を示している。よって、犯人の内面生活を、三島自身の内面の論理で代償することほど自然なことはなかったとし、そこには作者自身も、なかばしか意識しない「詩」が生まれていると、中村光夫は評している。また、「作者(三島)がここで試みて成功した“偽者の告白”あるいは自我の社会化は、日本の小説の方法の上でひとつのすぐれた達成である」<ref name="nakamura"/>と述べている。

[[佐伯彰一]]は、「[[日本の降伏|敗戦]]による断絶の意識は、現実の社会的事件に取材した長編『青の時代』(1950年)や『金閣寺』(1956年)の中にも、重要な劇的な契機として描きこまれている」とし、「金閣という日本の伝統美の象徴ともいえる建築の破壊へと駆り立てられる主人公の内的な動因のうちに、敗戦は欠くべからざる重要な一環としてしかと組みこまれている。主人公に対して、金閣寺の象徴する永続的な伝統美を一きわ魅力的なものともすれば、同時にやり切れぬ反撥をもかき立てずにおかぬものとした要因の一つは、敗戦という事態に他ならない。敗戦によって、頼るべきものを失った日本人に、自国の美的伝統は、奇妙に二重性をはらんだ厄介な対象と化した。一方では、自信回復のためのほとんど唯一の手掛りであると同時に、焦ら立たしいかぎりの内的呪縛の象徴ともうつった。そうした伝統に対する愛憎共存の微妙な[[アンビバレンス|アンビヴァレンス]]を、三島は『金閣寺』において、まことに鮮やかに小説化して見せた」という見解を示している<ref name="saeki">[[佐伯彰一]]「三島由紀夫 人と文学」(文庫版『金閣寺』(新潮文庫、1960年)付録解説)</ref>。

作中、戦時下の非日常と戦後の日常性とでは金閣像が大きく変貌するという点から、[[伊藤勝彦]]は、「戦時下において、軍人たちが求めたのは、“自我滅却の栄光の根拠”としての絶対者に帰一することであった。それは“一つの世界の全体を象徴しうるようなもの”でなければならなかった。(中略)そうした絶対の他者というのはつねに三島の前に厳然と存在しているものであった。そうした他者と自己との間の橋を見いだすことが、[[三島由紀夫]]にとっての唯一の文学的課題であったのだ。自分はこちら側におり、向うには永遠に自分を拒みつづけている世界がある。それから隔てられてあるということは彼にとっては耐えがたいことだった。だから、相手をこわしてもいいから、その中に没入してゆきたいと思う。それが『金閣寺』のテーマだったのである」<ref name="itou">[[伊藤勝彦]]『最後のロマンティーク 三島由紀夫』([[新曜社]]、2006年)</ref>という見解を示している。

また、[[伊藤勝彦]]は、「この世に生きるかぎり、完璧な全体性というものを手に入れることは絶対にありえない。神としての[[天皇]]も、この場合と同じように、自分がそれから拒まれているところの“なにものか”であった。“金閣寺と私”、あるいは“美と私”という対立関係はそのまま“天皇と私”という関係に置き換えられる。天皇は私の側へ、つまり人間へと近づいてきては絶対にならないものであった。(中略)もちろん、そのような全体性がもはや再現不可能な幻影にすぎないことを彼(三島)も充分承知している。けれども、(中略)(三島は)あの死の[[共同体]]ともいうべきものの中に生きることを願わずにはおれなかった。戦時下において、彼自身はそれに参加することを逸してしまったのであるから、それだけに、よけいに、あの集団的悲劇に参与することの苦痛と恍惚を大いなるものと想像せずにおれなかったのである。(中略)三島はずっと戦時下の理念を引きずって生きてきた男であった」<ref name="itou"/>と述べている。

[[田坂昮]]は、「美は金閣によって、人生は女によって象徴される」とし、また、主人公が「人生における異常者・異端者であることを象徴している」とし、『金閣寺』と『[[仮面の告白]]』の作品構造がかなり相似であることはだれしも気づくにちがいない述べている。また、美の象徴である金閣は、「『現実の金閣』と『心象の金閣』とにいわば分裂しており、それと同じように世界もまた“私”の内界と外界に分裂している」と述べ、「それらが統一的にあらわれるためには何かの契機が必要なのである」<ref name="tasaka">[[田坂昮]]『増補 三島由紀夫論』(風濤社、1977年)</ref>と解説している。また、作中に、「一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いはば金閣の主題をなした。さうした予兆は、虚無の予兆だつたのである。虚無がこの美の構造だつたのだ」とあることを挙げ、田坂昮は、美とは虚無であり、虚無が金閣の美の構造であり、美とはまた悪でもあるとし、金閣とは、「美・悪・虚無の[[三位一体]]のうえにそれを象徴して立つ建築だったのである」、「美の世界は現実の世界とは別のもう一つの世界であり、この世界に完全に縛られるならば、“私”は完全に自閉して人生とは完全に絶たれた世界の住人となるだろう」、「“私”は金閣に強く縛られていながら、一方で金閣の呪縛を脱して人生への扉を開きたいという欲求をもっている。(中略)ここに“私”の金閣にたいする[[アンビバレンス|愛憎併存]]がある」<ref name="tasaka"/>と解説している。

また、田坂昮は、人生(女)への門をくぐろうとするや現れる金閣は、「『人生への渇望の虚しさ』を知らせる告知者なのであり、金閣があらわれるや人生は『塵のやうに飛び立つ』てしまうのである。美の目からみた人生はいわば俗塵にすぎないのであり、美の世界は現実世界あるいは人間界を超えた別世界なのである。金閣がわれわれの前にあらわれるとは、『美の永遠的な存在が真にわれわれの人生を拒み、生を毒する』ものとしてあらわれることであり、このような毒は『生そのものも、滅亡の白茶けた光りの下に露呈してしまふ』というわけである」<ref name="tasaka"/>と、作中の語句を引用しながら解説している。そして、結びの「生きようと私は思つた」について田坂は、作中で溝口が言う「別誂への、私特製の、未開の生がはじまるだらう」という掴みどころがない生の意味を指摘し、「『生きる』としても、それは生なのか死なのかわかちがたいような『生きる』なのである」<ref name="tasaka"/>と述べている。

[[橋川文三]]は、溝口の、「敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、[[8月15日|八月十五日]]の焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した」という告白を挙げ、橋川自身の戦時中の心境と重ね合わせながら、「戦争のことは、三島や私などのように、その時期に少年ないし青年であったものたちにとっては、あるやましい浄福の感情なしには思いおこせないものである。それは異教的な秘宴([[オルギア]])の記憶、聖別された犯罪の陶酔感をともなう回想である。およそ地上においてありえないほどの自由、奇蹟的な放恣と純潔、アコスミックな美と倫理の合致がその時代の様式であり、透明な無為と無垢の兇行との一体感が全地をおおっていた。(中略)敗戦は彼らにとって不吉な啓示であった。それはかえって絶望を意味した。三島の表現でいえば『いよいよ生きなければならぬと決心したときの絶望と幻滅』の時間が突如としてはじまる。少年たちは純粋な死の時間から追放され、忍辱と苦痛の時間に引渡される。あの戦争を支配した“死の共同体”のそれではなく、“平和”というもう一つの見知らぬ神によって予定された“孤独と仕事”の時間が始る。そしてそれは、あの日常的で無意味なもう一つの死 ― いわば相対化された市民的な死がおとずれるまで、生活を支配する人間的な時間である。それは曖昧でいかがわしい時代を意味した。平和はどこか“異常”で明晰さを欠いていた」<ref name="yousetsu">[[橋川文三]]「[[夭折]]者の禁欲 ― 三島由紀夫について」(『増補 [[日本浪漫派]]批判序説』)([[未来社]]、1965年)</ref><ref name="hashikawa">橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)にも収む。</ref>と解説している。

作品全体の評価について[[橋川文三]]は、「敗戦の日、金閣寺と主人公の共生は断たれる。金閣寺は、あの失われた恩寵の時間を凝縮して、永遠の呪詛のような美に化生する。主人公は美の[[此岸]]にとりのこされ、もはや何ごととも共生することができない。― この辺りには、戦中から戦後へかけての青年の絶望と孤独の姿が、比類ない正確さで描き出されており、金閣=美を戦中の[[耽美主義|耽美]]的[[ナルシシズム]]におきかえるならば、戦後もなお主人公を支配する金閣の幻影が、青年にとって何であったかを類推するに困難ではないであろう。そこから、金閣寺を焼かねばならないという決意の誕生もまた、戦後の三島の精神史にあらわれた『裏がえしの自殺』の決意にほかならないことも明らかになるであろう。こうして、この作品は、実際の事件に仮託しながら、三島の美に対する壮大な観念的告白を集大成したような観を呈しており、美の亡びと芸術家の誕生とを、厳密な内的法則性の支配する作品の中に、みごとに定着している。『[[仮面の告白]]』に遙かに呼応する[[記念碑]]的な作品である」<ref name="kaisetsu">橋川文三「主要作品解説 金閣寺」(『現代日本文学館42 三島由紀夫』)(文藝春秋、1966年)、『新版 現代知識人の条件』([[弓立社]]、1974年)にも収む。</ref><ref name="hashikawa"/>と述べている。


== 実際の事件との関連 ==
== 実際の事件との関連 ==
登場人物はもとより、「私」の行動自体、事実とはかなり異なる。一例として、終結部分で、「私」は生きようとして小刀と[[カルモチン]](催眠剤)を投げ捨てている実際は山中でカルモチンを飲んだ上、小刀で切腹した)。<!-- これらの点を見て、「三島は事実をかり脚色している」「事実とは食い違う」と指摘するのは、一般的に歴史作品に対して何千回投げかけられているナンセンスで平坦で無知な意見であ--><!-- 不要 -->
事件を題材としているが、事件はあくまで創作の契機と素材をあたえたにどどまり、小説『金閣寺』は一個の文学作品であるから当然ではあるが、登場人物はもとより、「私」の行動など、事実とはかなり異なる。一例として、終結部分で、「私」は生きようとして小刀と[[ブロムワレリル尿素|カルモチン]]([[催眠剤]])を投げ捨てているが、実際の事件の犯人・林養賢山中でカルモチンを飲んだ上、小刀で切腹した(未遂に終わる)。な林養賢作中同様、吃音であった


[[水上勉]]も同事件を取り上げ、長編小説で『[[五番町夕霧楼]]』、[[ノンフィクション]]で『金閣炎上』を出版している(各新潮文庫ほか)<ref>対照的な両者を比較し論じた[[文芸評論]]に、[[酒井順子]]『金閣寺の燃やし方』([[講談社]]、2010年10月)がある。</ref>。
[[水上勉]]も同事件を取り上げ、長編小説で『[[五番町夕霧楼]]』(1963年)、[[ノンフィクション]]で『金閣炎上』(1979年)を出版している(各新潮文庫ほかで再版)<ref>対照的な[[三島由紀夫]]と[[水上勉]]の両者を比較し論じた[[文芸評論]]に、[[酒井順子]]『金閣寺の燃やし方』([[講談社]]、2010年10月)がある。</ref>。


== 派生作品 ==
== 映画化 ==
* 映画『[[炎上 (映画)|炎上]]』(1958年、[[大映|大映京都]])脚本:[[田夏十]]、監督:[[市川崑]]、主演 (私=溝口吾市):[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]
* 『[[炎上 (映画)|炎上]]』[[大映|大映京都]])、1958年(昭33年)8月封切。
** 脚本:[[和田夏十]]。監督:[[市川崑]]。出演:[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]](私=溝口吾市)、仲代達矢、他。音楽:黛敏郎。
* 映画『[[金閣寺 (映画)|金閣寺]]』(1976年、[[映像京都]]=[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]])脚本・監督:[[高林陽一]]主演 (私=溝口吾市):[[篠田三郎]]
* 『[[金閣寺 (映画)|金閣寺]]』[[映像京都]]=[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]])、1976年(昭和51年)7月封切。
* オペラ『金閣寺』(1976年)作曲:[[黛敏郎]]、リブレットはドイツ語。なお「炎上」の音楽も黛が担当。
** 脚本・監督:[[高林陽一]]。出演:[[篠田三郎]](私=溝口吾市)、[[柴俊夫]]、他。
* 映画『[[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ|Mishima]]』(1985年、日本未公開)監督:[[ポール・シュレイダー]]  
* 『[[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ|Mishima]]』(フィルムリンク・インターナショナル、[[アメリカン・ゾエトロープ]]、[[ルーカスフィルム]])、1985年(昭和60年) 日本未公開。
:主演 (私=溝口吾市):[[坂東三津五郎 (10代目)|五代目坂東八十助(十代目坂東三津五郎)]]
** 監督:[[ポール・シュレイダー]]。出演:[[坂東三津五郎 (10代目)|五代目坂東八十助(十代目坂東三津五郎)]](私=溝口吾市)、[[佐藤浩市]]、他。
* 舞台劇『金閣寺』(2011年、[[神奈川芸術劇場]])演出:[[宮本亜門]]主演 (私=溝口):[[森田剛]]

== 戯曲化 ==
* 新派『金閣寺』([[新橋演舞場]])、1957年(昭和32年)5月5日 - 29日
** 脚色・演出:[[村山知義]]。出演:[[花柳流|花柳]]喜章、花柳武始、他。
* [[オペラ]]『金閣寺』([[ベルリン・ドイツ・オペラ]])、1976年(昭和51年)6月23日、25日、27日
** 作曲:[[黛敏郎]]。脚本:クラウス・H・ヘンネベルク、[[リブレット (音楽)|リブレット]]はドイツ語。演出:G・R・ゼルナー。指揮:カルパール・リヒター。出演:ウィリアム・ドゥーリー、ドナルド・グローベー、他。
* オペラ『金閣寺』([[Bunkamura]] [[オーチャードホール]])、1991年(平成3年)3月3日、8日
** 作曲:[[黛敏郎]]。脚本:クラウス・H・ヘンネベルク。演出:ヴィンフリート・バウェルンファイント。指揮:[[岩城宏之]]。出演:[[勝部太]]、松本進、他。
** [[ベルリン・ドイツ・オペラ]]委属作品 [[三島由紀夫]]没後20年グスタフ・ルドルフ・ゼルナー追悼公演。
** (平成6年)10月、ファンテックより舞台録音のCD発売。
* オペラ『金閣寺』([[大阪音楽大学]][[ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団|ザ・カレッジ・オペラハウス]])、1997年(平成9年)11月27日、29日
** 作曲:[[黛敏郎]]。脚本:クラウス・H・ヘンネベルク。指揮:[[岩城宏之]]。演出:[[栗山昌良]]。出演:井原秀人、油井宏隆、他。
** 黛敏郎追悼公演。
** 1999年(平成11年)9月3日、5日に[[東京文化会館]]で、1999年(平成11年)12月5日、[[滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール]]で再演。
* 舞踊『金閣寺』([[東京グローブ座]])、1999年(平成11年)11月23日
** 台本・振付・演出:本間直樹。出演:山田薫、西岡正弘、他。
* 舞台劇『金閣寺』(KAAT[[神奈川芸術劇場]])、2011年1月29日 - 2月14日
** 演出:[[宮本亜門]]。脚本:[[セルジュ・ラモット]]。主演:[[森田剛]]、[[高岡蒼佑|高岡蒼甫]]、他。
** 2011年7月21日 - 24日に[[ニューヨーク|NY]][[リンカーン・センター]]・フェスティバル、2012年1月27日- 2月12日に[[赤坂ACTシアター]]、1月19日- 22日に[[梅田芸術劇場]]で再演。
== ラジオドラマ化 ==
* シネマ劇場『炎上』([[ニッポン放送]])、1958年(昭和33年)7月27日 - 8月17日
** 脚色:[[村山知義]]。出演:[[木村功]]、[[信欣三]]、他。
* 現代日本文学特集 第5夜『金閣寺』([[NHKラジオ第2放送|NHKラジオ第二]])、1959年(昭和34年)6月27日
** 脚色:高橋昇之助。演出:香西久。出演:[[神山繁]]、武田国久、他。
** 第二部座談会「作品をめぐって」に[[三島由紀夫]]が出演。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[新潮文庫]]版『金閣寺』(解説[[中村光夫]]・[[佐伯彰一]])
* 新潮文庫版『金閣寺』(付録解説 [[中村光夫]]・[[佐伯彰一]])(新潮社、1960年
* 佐藤秀明編 『三島由紀夫「金閣寺」作品論集』(近代文学作品論集成17、クレス出版、2002年)
* 佐藤秀明編 『三島由紀夫「金閣寺」作品論集』(近代文学作品論集成17、クレス出版、2002年)
* [[松本徹]]・佐藤秀明・井上隆史責任編集 『三島由紀夫研究6 金閣寺』(鼎書房 2008年)
* [[松本徹]]・佐藤秀明・井上隆史責任編集『三島由紀夫 金閣寺 三島由紀夫研究6』(鼎書房2008年)
* [[田坂昮]]『増補 三島由紀夫論』(風濤社、1977年)
* [[橋川文三]]『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)


== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[金閣寺放火事件]]
* [[金閣寺放火事件]]
* [[速水御舟]] - 作品『炎舞』が新潮文庫版のカバー表紙
* [[速水御舟]] - 作品『炎舞』が新潮文庫版のカバー表紙


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2012年5月3日 (木) 08:11時点における版

金閣寺』(きんかくじ)は、三島由紀夫長編小説

1956年(昭和31年)、文芸誌「新潮」1月号から10月号に連載され、同年10月30日に新潮社から単行本刊行。『金閣寺』は、読売新聞アンケートで、昭和31年度ベストワンに選ばれ、翌年1月に第8回読売文学賞(小説部門)を受賞した。累計売上330万部[1]を超えるベストセラー小説である。

硬質で精緻な文体で記述され、近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされる。多数の言語に訳され、海外でも評価は高い。

題材は、1950年(昭和25年)7月2日に実際に起きた金閣寺放火事件から取られ、作者独自の人物造型、観念を加え構築した文学作品である。物語は、金閣寺の美にとりつかれた「私」こと溝口の一人称告白体で進められ、事件の動機として主人公・溝口のもつ重度の吃音を核に、金閣寺放火に至る経過を観念的に描いてゆく。

ストーリー


注意:以降の記述には物語・作品・登場人物に関するネタバレが含まれます。免責事項もお読みください。


日本海に突き出た成生岬の貧しい寺に生まれた溝口(「私」)は、僧侶である父から、金閣ほど美しいものはこの世にないと聞かされ育った。父から繰り返し聞く金閣寺の話は、常に完璧な美としての金閣であり、溝口は金閣を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。

体も弱く、生来の吃音のため自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、極度の引っ込み思案となり、人から愛されなかった。内攻したコンプレックスのために、海軍機関学校の生徒が持っていた短剣の鞘に醜い傷をつけたこともあった。また、官能的で美しい娘・有為子に嘲られ、軽蔑されたこともあり、女と自分とのあいだに精神的な高い壁を感じ、青春期らしき明るさも恋愛もすべて抛棄して生きていた。

やがて溝口は、病弱であった父の勧めで、父の修業時代の知人が住職を務める金閣寺に入り、修行生活を始めることとなった。金閣を見たことがなかったときは、様々に金閣の美を想像していたが、いざ実物を見てみると心象の金閣ほど美しくはなかった。しかし、戦争が激しくなり、自分も金閣もろともに空襲で焼け死ぬかもしれないと思うと、金閣は、「悲劇的な美しさ」を増してきた。溝口は、室町時代から続く金閣寺を、永劫に続くと思われながらも、実はいつ破壊されるとも限らない完璧で永遠の儚い美として捉えていた。そしてその観念は、自己の不遇と孤独の中で実際の金閣よりも遙かに強力な精神的な美として象徴化し、固定化していた。一方、病に衰えていた父が死んでから母は、一生懸命勉強して金閣寺の住職になれと溝口に野望の火を焚きつけようとする。母はかつて、溝口が13の時のある夜、同じ蚊帳の中で父と子も寝ているそばで、親戚の男と交わっていた。目が覚めた息子の目を、父は後ろから手で目隠しをした。

同じ徒弟生活で出会った同学の鶴川は、溝口と対照的な明るい青年だった。彼は溝口の吃音を馬鹿にしない唯一の友であり、溝口の心の陰画陽画に変えてしまう存在でもあった。戦争末期のある日、2人は南禅寺天授庵の茶室で、1人の美しい女が軍服の若い陸軍士官に茶を供しているのを見た。女は男に促され、自身の乳房から乳を鶯色の茶に注いだ。溝口はその女に有為子を重ねた。

やがて、戦争が終わり、金閣と「私」こと溝口とが同じ世界に住んでいるという夢想も崩れた。金閣寺のまわりには娼婦を乗せた米兵ジープなど俗世のみだらな風俗が群がるにいたった。溝口は住職の老師の計らいで入学した大谷大学(仏教系大学)で、足に内反足障害をもち松葉杖をつきながら移動する、いつも教室の片隅でひっそりとたたずんでいる級友・柏木と出会う。一見した柏木の障害に自分の吃音を重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた溝口だったが、柏木は実は女を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、高い階層の女を次々と籠絡している男であった。障害を斜に構えつつも克服し、それどころか利用さえして確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木の姿を、当初は全く理解し難いと思っていた溝口だが、精神的な距離を置きつつも友人を続けていた。柏木の溝口への批評はいつも心臓を抉り出す様に残酷で鋭く、溝口の心の揺れや卑怯を常に蔑み、突き飛ばすものであった。溝口は、そんな柏木から女を紹介されるが、女を抱こうとすると目の前に金閣の幻影が立ち現れ、失敗に終わった。

もう1人の友人の鶴川が死んだ。「事故」ということだった。溝口の孤独な生活が又はじまった。しかし、そんな中でも、柏木から禅問答南泉斬猫」を巡る彼の持論解釈を聞いたり、尺八を教えて貰うことで、まがりなりにも若い自分の人生の1ページを刻んでいた。そして再び、柏木の計らいで、女を抱く機会を与えられる。その女はいつか天授庵の茶室で見たあの女だった。しかし、またしても女の乳房の前に金閣が出現し、溝口は不能に終わる。溝口は金閣に対し憎しみを抱くようになる。

溝口が女の美を目の前にすると、いつも金閣が現れていたが、溝口はある日、菊の花と戯れる蜂を見ている時、自分が蜂の目になって、菊(女、官能の対象)を見るように空想する。その時、ふと、自分が蜂でなく人間の目に還ると、それはただの「菊」に変貌した。その蜂の目を離れた時こそ、自分が金閣の目をわがものにしてしまい、生(女)と自分の間に金閣が現れ、性的な自己の存在を無価値化してしまうという構造に行きつく。このように金閣(虚無)の目で見、変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占領し、この余のものを砂塵に帰してしまうことを溝口はおぼろげながら確信してゆく。

正月のある日、溝口は雑踏の中で、女(芸妓)連れの老師に偶然、行き会ってしまう。追跡されていたと誤解した老師は溝口を叱咤した。しかし、明る日は呼び出しもなく、溝口には釈明の機会もなかった。その後も無言の放任が続き、溝口を苦しませた。以前、溝口が米兵に命令され娼婦を踏みつけ、後で女からゆすられた時も老師はなぜか溝口を不問に附していた。溝口は老師を試そうと、愛人の芸妓の写真を、老師が読む朝刊にはさみ、憎しみを誘うことで老師との対峙を待った。自ら、後継住職になる望みを永久に失うことになる糸口をつけながら、その一方、溝口は人間と人間が理解し合う劇的な熱情の場面も夢想し、ゆるされることさえ夢みていた。だが写真は無言で溝口の机の抽斗に戻された。

これらのわだかまりが累積し、次第に溝口は学業の成績も落ち、大学も休みがちになっていった。溝口は自ら決定的に将来の望みを断ち切ってゆく。学校からの注意が老師にもいった。寺に修行に来た当初は父の縁故で老師に引き立てられ、ゆくゆくは後継にと目されていた溝口だったが、ついに老師から、もう後継にする心づもりはないとはっきり宣告された。老師は溝口に、芸妓の一件のことについても、「知っておるのがどうした」と開き直る。

溝口は柏木から金を借り、寺から家出した。舞鶴湾に向かい由良川から裏日本海の荒れる海を眺め、溝口はそこで、「金閣を焼かねばならぬ」という想念を掴む。由良の宿で不審に思われた溝口は警官に連れられ金閣寺に戻された。息子が金閣寺住職になることに強い期待を抱いていた母は、必死に住職に謝ることで息子の将来をつなごうとあがいていた。醜く歪んだ母の顔に、溝口は「不治の希望」の醜さを見る。

孤独を増す溝口に、柏木は破滅的なものを感じ、鶴川から死の直前に届いた手紙を見せる。溝口には柏木との交友を非難しながらも、鶴川は、自殺の前に柏木のみに本心を打ち明けていたのだった。鶴川は翳りのない心を持っていると認識し、信じていた溝口にそれは少なからず衝撃であった。柏木は溝口に、「この世界を変貌させるの認識だ」と説く。しかし、これに対し溝口は、「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反駁する。

溝口は、老師が訓戒を垂れる代わりに施した金で五番町遊廓に女を買いに行った。金閣を焼こうという決心は死の準備に似ていた。万一のときのためカルチモン催眠薬)と小刀も買った。その日が来た。その夜は、寺に福井県龍法寺の禅海和尚が来訪していた。溝口は和尚に「私を見抜いてください」と言うが、和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と答える。溝口はその言葉に、初めて空白になり、隈なく理解されたと感じ行動の勇気が湧く。

溝口は、金閣寺放火の行為の一歩手前にいた。そのとき眺めた金閣寺は、燦然ときらめく幻の金閣と、闇の中の現実の金閣が一致し、たぐいない虚無の美しさにかがやいていた。溝口は金閣寺に火を点けた。燃え盛る金閣の中で溝口は突然、究竟頂で死のうとするが扉はどうしても開かなかった。拒まれていると確実に意識した溝口は、戸外に飛び出し逃げた。一仕事終えた人のように溝口は、「生きよう」と思った。

作品評価・解説

三島自身の言葉によれば、「私は妙な性質で、本職の小説を書くときよりも、戯曲、殊に近代能楽集を書くときのはうが、はるかに大胆素直に告白できる。それは多分、この系列の一幕物が、現在の私にとつて、詩作の代用をしてゐるからであらう」[2]というように、三島は従来の常識とは反対に、詩や戯曲のように枠のしっかりきめられた形式の方が大胆に「告白」できるいうタイプの作家で、中村光夫によれば、三島にとっての告白は、「仮面」のもとにのみ可能であり、その「仮面」は作者の手製である場合より、社会の現実の事件である方がはるかに板につくものとなるという。そして本作品も、金閣寺放火事件という「事実」(ノンフィクション)を「仮面」にしていると、中村光夫は分析している[3]。また、事件に自己を含めた時代の狂気の「象徴」を見出した三島は、それを確実に所有するために、この「象徴」を芸術によって再現することを希ったとし、現代で正気を保つ方法は、その狂気を芸術的に生きて見るほかはなかったという見解を示している。よって、犯人の内面生活を、三島自身の内面の論理で代償することほど自然なことはなかったとし、そこには作者自身も、なかばしか意識しない「詩」が生まれていると、中村光夫は評している。また、「作者(三島)がここで試みて成功した“偽者の告白”あるいは自我の社会化は、日本の小説の方法の上でひとつのすぐれた達成である」[3]と述べている。

佐伯彰一は、「敗戦による断絶の意識は、現実の社会的事件に取材した長編『青の時代』(1950年)や『金閣寺』(1956年)の中にも、重要な劇的な契機として描きこまれている」とし、「金閣という日本の伝統美の象徴ともいえる建築の破壊へと駆り立てられる主人公の内的な動因のうちに、敗戦は欠くべからざる重要な一環としてしかと組みこまれている。主人公に対して、金閣寺の象徴する永続的な伝統美を一きわ魅力的なものともすれば、同時にやり切れぬ反撥をもかき立てずにおかぬものとした要因の一つは、敗戦という事態に他ならない。敗戦によって、頼るべきものを失った日本人に、自国の美的伝統は、奇妙に二重性をはらんだ厄介な対象と化した。一方では、自信回復のためのほとんど唯一の手掛りであると同時に、焦ら立たしいかぎりの内的呪縛の象徴ともうつった。そうした伝統に対する愛憎共存の微妙なアンビヴァレンスを、三島は『金閣寺』において、まことに鮮やかに小説化して見せた」という見解を示している[4]

作中、戦時下の非日常と戦後の日常性とでは金閣像が大きく変貌するという点から、伊藤勝彦は、「戦時下において、軍人たちが求めたのは、“自我滅却の栄光の根拠”としての絶対者に帰一することであった。それは“一つの世界の全体を象徴しうるようなもの”でなければならなかった。(中略)そうした絶対の他者というのはつねに三島の前に厳然と存在しているものであった。そうした他者と自己との間の橋を見いだすことが、三島由紀夫にとっての唯一の文学的課題であったのだ。自分はこちら側におり、向うには永遠に自分を拒みつづけている世界がある。それから隔てられてあるということは彼にとっては耐えがたいことだった。だから、相手をこわしてもいいから、その中に没入してゆきたいと思う。それが『金閣寺』のテーマだったのである」[5]という見解を示している。

また、伊藤勝彦は、「この世に生きるかぎり、完璧な全体性というものを手に入れることは絶対にありえない。神としての天皇も、この場合と同じように、自分がそれから拒まれているところの“なにものか”であった。“金閣寺と私”、あるいは“美と私”という対立関係はそのまま“天皇と私”という関係に置き換えられる。天皇は私の側へ、つまり人間へと近づいてきては絶対にならないものであった。(中略)もちろん、そのような全体性がもはや再現不可能な幻影にすぎないことを彼(三島)も充分承知している。けれども、(中略)(三島は)あの死の共同体ともいうべきものの中に生きることを願わずにはおれなかった。戦時下において、彼自身はそれに参加することを逸してしまったのであるから、それだけに、よけいに、あの集団的悲劇に参与することの苦痛と恍惚を大いなるものと想像せずにおれなかったのである。(中略)三島はずっと戦時下の理念を引きずって生きてきた男であった」[5]と述べている。

田坂昮は、「美は金閣によって、人生は女によって象徴される」とし、また、主人公が「人生における異常者・異端者であることを象徴している」とし、『金閣寺』と『仮面の告白』の作品構造がかなり相似であることはだれしも気づくにちがいない述べている。また、美の象徴である金閣は、「『現実の金閣』と『心象の金閣』とにいわば分裂しており、それと同じように世界もまた“私”の内界と外界に分裂している」と述べ、「それらが統一的にあらわれるためには何かの契機が必要なのである」[6]と解説している。また、作中に、「一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いはば金閣の主題をなした。さうした予兆は、虚無の予兆だつたのである。虚無がこの美の構造だつたのだ」とあることを挙げ、田坂昮は、美とは虚無であり、虚無が金閣の美の構造であり、美とはまた悪でもあるとし、金閣とは、「美・悪・虚無の三位一体のうえにそれを象徴して立つ建築だったのである」、「美の世界は現実の世界とは別のもう一つの世界であり、この世界に完全に縛られるならば、“私”は完全に自閉して人生とは完全に絶たれた世界の住人となるだろう」、「“私”は金閣に強く縛られていながら、一方で金閣の呪縛を脱して人生への扉を開きたいという欲求をもっている。(中略)ここに“私”の金閣にたいする愛憎併存がある」[6]と解説している。

また、田坂昮は、人生(女)への門をくぐろうとするや現れる金閣は、「『人生への渇望の虚しさ』を知らせる告知者なのであり、金閣があらわれるや人生は『塵のやうに飛び立つ』てしまうのである。美の目からみた人生はいわば俗塵にすぎないのであり、美の世界は現実世界あるいは人間界を超えた別世界なのである。金閣がわれわれの前にあらわれるとは、『美の永遠的な存在が真にわれわれの人生を拒み、生を毒する』ものとしてあらわれることであり、このような毒は『生そのものも、滅亡の白茶けた光りの下に露呈してしまふ』というわけである」[6]と、作中の語句を引用しながら解説している。そして、結びの「生きようと私は思つた」について田坂は、作中で溝口が言う「別誂への、私特製の、未開の生がはじまるだらう」という掴みどころがない生の意味を指摘し、「『生きる』としても、それは生なのか死なのかわかちがたいような『生きる』なのである」[6]と述べている。

橋川文三は、溝口の、「敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した」という告白を挙げ、橋川自身の戦時中の心境と重ね合わせながら、「戦争のことは、三島や私などのように、その時期に少年ないし青年であったものたちにとっては、あるやましい浄福の感情なしには思いおこせないものである。それは異教的な秘宴(オルギア)の記憶、聖別された犯罪の陶酔感をともなう回想である。およそ地上においてありえないほどの自由、奇蹟的な放恣と純潔、アコスミックな美と倫理の合致がその時代の様式であり、透明な無為と無垢の兇行との一体感が全地をおおっていた。(中略)敗戦は彼らにとって不吉な啓示であった。それはかえって絶望を意味した。三島の表現でいえば『いよいよ生きなければならぬと決心したときの絶望と幻滅』の時間が突如としてはじまる。少年たちは純粋な死の時間から追放され、忍辱と苦痛の時間に引渡される。あの戦争を支配した“死の共同体”のそれではなく、“平和”というもう一つの見知らぬ神によって予定された“孤独と仕事”の時間が始る。そしてそれは、あの日常的で無意味なもう一つの死 ― いわば相対化された市民的な死がおとずれるまで、生活を支配する人間的な時間である。それは曖昧でいかがわしい時代を意味した。平和はどこか“異常”で明晰さを欠いていた」[7][8]と解説している。

作品全体の評価について橋川文三は、「敗戦の日、金閣寺と主人公の共生は断たれる。金閣寺は、あの失われた恩寵の時間を凝縮して、永遠の呪詛のような美に化生する。主人公は美の此岸にとりのこされ、もはや何ごととも共生することができない。― この辺りには、戦中から戦後へかけての青年の絶望と孤独の姿が、比類ない正確さで描き出されており、金閣=美を戦中の耽美ナルシシズムにおきかえるならば、戦後もなお主人公を支配する金閣の幻影が、青年にとって何であったかを類推するに困難ではないであろう。そこから、金閣寺を焼かねばならないという決意の誕生もまた、戦後の三島の精神史にあらわれた『裏がえしの自殺』の決意にほかならないことも明らかになるであろう。こうして、この作品は、実際の事件に仮託しながら、三島の美に対する壮大な観念的告白を集大成したような観を呈しており、美の亡びと芸術家の誕生とを、厳密な内的法則性の支配する作品の中に、みごとに定着している。『仮面の告白』に遙かに呼応する記念碑的な作品である」[9][8]と述べている。

実際の事件との関連

事件を題材としているが、事件はあくまで創作の契機と素材をあたえたにどどまり、小説『金閣寺』は一個の文学作品であるから当然ではあるが、登場人物はもとより、「私」の行動など、事実とはかなり異なる。一例として、終結部分で、「私」は生きようとして小刀とカルモチン催眠剤)を投げ捨てているが、実際の事件の犯人・林養賢は、山中でカルモチンを飲んだ上、小刀で切腹した(未遂に終わる)。なお、林養賢も作中同様、吃音であった。

水上勉も同事件を取り上げ、長編小説で『五番町夕霧楼』(1963年)、ノンフィクションで『金閣炎上』(1979年)を出版している(各、新潮文庫ほかで再版)[10]

映画化

戯曲化

ラジオドラマ化

参考文献

  • 新潮文庫版『金閣寺』(付録解説 中村光夫佐伯彰一)(新潮社、1960年)
  • 佐藤秀明編 『三島由紀夫「金閣寺」作品論集』(近代文学作品論集成17、クレス出版、2002年)
  • 松本徹・佐藤秀明・井上隆史責任編集『三島由紀夫 金閣寺 三島由紀夫研究6』(鼎書房、2008年)
  • 田坂昮『増補 三島由紀夫論』(風濤社、1977年)
  • 橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)

脚注

  1. ^ NHKニュースおはよう日本」(2011年2月5日放送より)
  2. ^ 三島由紀夫『同人雑記』(季刊雑誌・声 第八号、1960年10月に掲載)
  3. ^ a b 中村光夫「『金閣寺』について」(文庫版『金閣寺』(新潮文庫、1960年)付録解説)
  4. ^ 佐伯彰一「三島由紀夫 人と文学」(文庫版『金閣寺』(新潮文庫、1960年)付録解説)
  5. ^ a b 伊藤勝彦『最後のロマンティーク 三島由紀夫』(新曜社、2006年)
  6. ^ a b c d 田坂昮『増補 三島由紀夫論』(風濤社、1977年)
  7. ^ 橋川文三夭折者の禁欲 ― 三島由紀夫について」(『増補 日本浪漫派批判序説』)(未来社、1965年)
  8. ^ a b 橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)にも収む。
  9. ^ 橋川文三「主要作品解説 金閣寺」(『現代日本文学館42 三島由紀夫』)(文藝春秋、1966年)、『新版 現代知識人の条件』(弓立社、1974年)にも収む。
  10. ^ 対照的な三島由紀夫水上勉の両者を比較し論じた文芸評論に、酒井順子『金閣寺の燃やし方』(講談社、2010年10月)がある。

関連項目