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{{地震 |
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'''宝永地震'''(ほうえいじしん)は[[江戸時代]]の[[宝永]]年間に起こった、[[東海・南海・東南海連動型地震]]である。[[2011年東北地方太平洋沖地震]]が起こるまでは、記録に残る日本最大級の[[地震]]とされてきた<ref name="Soran">宇佐美龍夫 『日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年</ref><ref name="Rika">[[国立天文台]] 『[[理科年表]]』 丸善</ref>。[[宝永大噴火]]と共に'''亥の大変'''(いのたいへん)と呼ばれる。 |
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| name = 宝永地震<br />(宝永東海・南海地震) |
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| date = 1707年10月28日 |
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| time = 13 - 14時 ([[日本標準時|JST]]) |
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| center ={{JPN}} [[東海道]]・[[南海道]]沖<br/>{{ウィキ座標2段度分秒|33|12|0|N|135|54|0|E|region:JP_type:event|notes= |
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| shindo = 7 |
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| shindoarea = [[遠江国|遠江]][[袋井市|袋井]]、[[三河国|三河]]野田、[[河内国|河内]][[布施 (東大阪市)|布施]]、[[土佐国|土佐]]室津・[[宿毛市|宿毛]]大島 |
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| tsunami = 最大25.7 m |
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| type = [[地震#プレート間地震|海溝型地震]]<br/>[[断層#逆断層|逆断層]]型 |
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| deaths = 死者 4,900 - 20,000人 |
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'''宝永地震'''(ほうえい じしん)は、[[江戸時代]]の[[日本]]で発生した[[巨大地震]]の一つ。[[宝永]]4年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]([[1707年]][[10月28日]])に起こった[[東海・東南海・南海連動型地震]]である。[[2011年]]([[平成]]23年)に[[東北地方太平洋沖地震]]が起こるまでは、記録に残る日本最大級の[[地震]]とされてきた<ref name="Usami (2003)">[[#Usami (2003)|宇佐美(2003)]]</ref><ref name="NAOJ, RikaNenpyo">[[#NAOJ, RikaNenpyo|『理科年表』]]</ref>。地震の49日後に起きた[[宝永大噴火]]と共に'''亥の大変'''(いのたいへん)と呼ばれる。 |
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[[南海トラフ]]沿いを[[震源]]とする巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、[[慶長]]9年([[1605年]])の[[慶長大地震|慶長地震]]、[[嘉永]]7年([[1854年]])の[[安政東海地震]]および[[安政南海地震]]が知られている。また、宝永地震の4年前([[1703年]])には[[元号]]を「宝永」へと[[改元]]するに至らしめた[[関東地震]]の一つである[[元禄大地震|元禄地震]]が発生している。 |
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== 地震 == |
== 地震 == |
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=== 震動 === |
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宝永4年[[亥]]10月4日[[午]]下刻 - [[未]]上刻([[1707年]]10月28日日本時間13時ごろ)、[[遠州灘]]沖から[[紀伊半島]]沖({{coord|33.2|N|135.9|E|display=inline}})を震源とする巨大地震が起こった。[[フィリピン海プレート]]が沈み込む南海トラフ沿いで[[東海地震]]および[[南海地震]]が連鎖的にほぼ同時に起こったとも推定されている。九州から関東における地震の発生時刻の記録からは、東海地震と南海地震のどちらが先に発生したか、あるいはほぼ同時であったかを判別するには至っていない<ref name="Shindo">{{PDFlink|[http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou31/07_03.pdf 東京大学地震研究所 宇佐美龍夫 宝永地震の震度分布]}}</ref>。1854年の安政東海地震とは異なり震源域は[[駿河湾]]奥までは達していなかったと推定されている<ref>{{PDFlink|[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/14375/1/68_p255-259.pdf 京都大学理学部 中西一郎・矢野信 1707年宝永地震震源域の東端位置]}}</ref>。 |
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宝永4[[亥]]年10月4日[[午]]下刻 - [[未]]上刻(1707年10月28日13 - 14時頃)、[[遠州灘]]沖から[[紀伊半島]]沖([[緯度|北緯]]33.2度、[[経度|東経]]135.9度 <ref group="注">{{Coord|33.2|N|135.9|E|display=inline}}</ref>)を震源とする巨大地震が発生した。[[土佐国|土佐]]は当日、晩秋でありながら快晴で[[袷]]一つで済むような暑い日であったという。『万変記』には「朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびただしく鳴て、大地ふるひづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもはる、大地二三[[尺]]に割、水湧出、山崩、人家潰事、[[将棋倒し|将棋倒]]を見るが如し」とある<ref name="Shinsaiyobo">[[#Shinsaiyobo|『大日本地震史料』]]</ref>。 |
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激震域や津波襲来の領域が安政東海地震と安政南海地震を併せたものにほぼ相当することから、[[フィリピン海プレート]]が沈み込む南海トラフ沿いで[[東海地震]]および[[南海地震]]が連鎖的にほぼ同時に起きたとも推定されている。[[九州]]から[[関東]]における地震の発生時刻の記録からは、東海地震と南海地震の何れが先に発生したか、あるいはほぼ同時であったかを判別するには至っていない<ref name="Usami, Hoei-Shindo">{{Cite web |author=宇佐美龍夫 |title=宝永地震の震度分布 |url=http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou31/07_03.pdf |format=pdf |work=(公式ウェブサイト)|publisher=[[東京大学地震研究所]] |date= |accessdate=2011-05-30}}</ref>。 |
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[[マグニチュード]]は8.4ないし8.7と推定されているが、[[地震計]]などの観測網がない時代にあって[[古文書]]による各地の記録に基づく推定[[震度]]や津波の規模によるもので、かつマグニチュードの飽和が見られる巨大地震であるからその数値は不確定な要素を含む。 |
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1854年の安政東海地震とは異なり、震源域は[[駿河湾]]奥までは達していなかったと推定されている<ref name="Nakanishi et Yano"> |
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[[津波]]の研究から南海トラフ沿いに3個あるいは5個の[[断層]]がほぼ同時に出現したとする説があり、5個と推定した場合のうち1つは断層の食い違いの長さ ''U'' = 7.0 [[メートル|m]] 、断層面の面積は ''S'' = 1.1 × 10<sup>4</sup> [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] と推定されている。また各断層個別のモーメントマグニチュード ''M''w は駿河湾沖から四国沖にかけて、それぞれ8.1, 8.3, 8.2, 8.3, 8.3(合計で ''M''w = 8.7)と推定している<ref name="Rikitake">力武常次 『固体地球科学入門』 共立出版、1994年</ref>。 |
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{{Cite web |author=[[中西一郎]]、矢野信 |title=1707年宝永地震震源域の東端位置 |url=http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/14375/1/68_p255-259.pdf |work= |publisher=[[京都大学]]理学部 |date= |accessdate=2011-05-30}}</ref>。一方で[[地球シミュレータ]]の計算結果により九州における[[津波]]や津波湖の遺跡は震源域を[[足摺岬]]沖よりさらに西側の[[日向灘]]沖まで延長しないと説明できないとする説も浮上し、震源域の長さは600kmより伸び、700kmに達するとされる<ref>古村孝志、今井健太郎、南海・東南海・東海地震の連動発生による強震動と津波-1707年宝永地震の震源モデルの再評価-、日本地震学会2009 年大会講演予稿集A11-10,2009.</ref><ref name="Furumura"> |
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{{Cite web |author=古村孝志 |title=南海・東南海・東海の連動発生による強震動と津波の予測 |url=http://www.nliro.or.jp/disclosure/q_kenkyu/No22_4.pdf |format=pdf |work= |publisher= |date= |accessdate=2011-05-30}}</ref><ref name="JAMSTEC, BE104"> |
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{{Cite web |title=進化した「地球シミュレータ」が計算科学技術の明日を切り拓く |url=http://docsrv.godac.jp/MSV2_DATA/12/be104_01.pdf |format=pdf |work=Bule Earth(通巻104号)|publisher=[[海洋研究開発機構]]横浜研究所 |date=2009-11 |accessdate=2011-05-30}}:[[地球シミュレータ]]による結果。</ref><ref name="Tsuji, Kokai-kogi">{{Cite web |author=都司嘉宣 |title=2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓 日本の巨大地震 |url=http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/KOHO/PANKO2005/openlecture/tsuji.html |format= |work=(公式ウェブサイト)|publisher=東京大学地震研究所 |date= |accessdate=2011-06-22}}</ref>。 |
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震動時間は土佐国高知(現・[[高知県]][[高知市]])において「半時ばかり大ゆりありて暫くとまる」(『万変記』)、土佐国[[高岡郡]]の宇佐村(現・[[土佐市]]宇佐)では「未の上刻<ref group="注">[[未]]の上刻(みのじょうこく)は、午後2時。''cf.'' [[時刻#日本]]。</ref>より大地震 同時ノ中刻に静まる」(『今昔大変記』)など、30分から1時間も揺れが継続したような表現が多く見られるが、「暫くゆりだしやみてはゆり幾度といふ限りなし」(『万変記』)といった記録もあり、これは直後の余震活動をも含めた時間を表しているとされるが、現代ほど厳密な時刻を求めない時代にあって感覚に頼る部分が大きく、あるいは大地震による恐怖感が誇張的な表現を生んだとする見方もある<ref name="Mashiro (1995)">[[#Mashiro (1995)|間城(1995)]]</ref>。本震の有感であった継続時間として確からしい記録として高岡郡佐川村(現・[[佐川町]]甲<ref group="注">甲(こう)は、「[[本町]]」などと同様、[[日本の市町村の廃置分合#合体(新設合併)と編入(編入合併)|合併]]後の中心的地域に当てられる地名の一つ。</ref>)において「行程に積らば二百歩を過ぐ可か やや久敷く震動す」(2分余、『宝永地震記』)、あるいは、[[京都]]において「地震動は道を七 八[[町 (単位)|町]]歩くくらいゆれつづいた」(約10分、『基煕公記』)といった記録がある。 |
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{| class="wikitable" style="text-align: right; white-space:nowrap; font-size:small;" |
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|+ 宝永地震の地震断層パラメーター<ref name="Rikitake" /><ref name="Danso">佐藤良輔、阿部勝征、岡田義光、島崎邦彦、鈴木保典『日本の地震断層パラメーター・ハンドブック』鹿島出版会、1989年</ref> |
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=== 規模 === |
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! 北緯 !! 東経 !! 深さ !! 走向 !! 傾斜角 !! すべり角 !! 長さ !! 幅 !! すべり<br />''U'' !! 地震モーメント<br />''M''<sub>0</sub> / 10<sup>21</sup>N・m !! ''M''w |
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[[マグニチュード]]は8.4ないし8.7と推定されているが、[[地震計]]などの観測網がない時代にあって[[古文書]]による各地の記録に基づく推定[[震度]]や津波の規模によるもので、かつ、マグニチュードの飽和が見られる巨大地震であるからその数値は不確定な要素を含む。 |
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津波の研究から南海トラフ沿いに3個あるいは5個の[[断層]]がほぼ同時に出現したとする説があり、5個と推定した場合のうち1つは断層の食い違いの長さ''U''=7.0[[メートル|m]]、断層面の面積は''S''=1.1×10{{sup|4}}[[平方キロメートル|km²]]と推定されている。また、各断層個別の[[マグニチュード#モーメントマグニチュード Mw|モーメントマグニチュード''M''w]]は駿河湾沖から[[四国]]沖にかけて、それぞれ 8.1、8.3、8.2、8.3、8.3 (合計で''M''w8.7)と推定している<ref name="Rikitake (1994)">[[#Rikitake (1994)|力武(1994)]]</ref>。また、日向灘まで延長した断層モデルも提唱されている。 |
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{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small" |
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|+ 宝永地震の地震断層パラメーター<ref name="Aida1">相田勇(1981):東海道沖に起こった歴史津波の数値実験, ''東京大学地震研究所彙報'', '''56''', 367-390.</ref><ref name="Aida2">相田勇(1981):南海道沖の津波の数値実験, ''東京大学地震研究所彙報'', '''56''', 713-730.</ref><ref name="Rikitake (1994)" /><ref name="Sato et al. (1989)">[[#Sato et al. (1989)|佐藤ほか(1989)]]</ref> |
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!北緯!!東経!!深さ!!走向<br />''θ''!!傾斜角<br />''δ''!!すべり角<br />''λ''!!長さ<br />''L''!!幅<br />''W''!!すべり<br />''U''!!地震モーメント<br />''M''<sub>0</sub> / 10<sup>21</sup>N・m!!''M''w |
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|- |
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|35.14°||138.73°||2km||198°||34°||71°||115km||70km||4.0m||1.6||8.1 |
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|- |
|- |
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|33.90°||138.13°||3km||245°||24°||113°||150km||100km||4.0m||3.0||8.3 |
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|- |
|- |
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| |
|33.41°||136.15°||10km||250°||10°||124°||150km||70km||5.6m||2.9||8.2 |
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|- |
|- |
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| |
|33.40°||134.57°||1km||220°||20°||90°||140km||80km||7.0m||3.9||8.3 |
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|- |
|- |
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| |
|32.33°||133.57°||1km||240°||20°||90°||60km||80km||13.9m||3.3||8.3 |
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|} |
|} |
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=== 被害 === |
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震度6以上と推定される地域は[[静岡県]]、[[大阪平野]]、[[奈良盆地]]から[[四国]]西部まで及び、[[京都]]でも震度5 - 6と推定される<ref name="Shindo" /><ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai/16/sankousiryou2_2.pdf 歴史地震の震度分布]}}</ref>。地震の揺れによる被害は[[東海道]]、[[伊勢湾]]沿いおよび紀伊半島で最も顕著であった。家屋倒壊は[[駿河国|駿河]]から[[土佐国|土佐]]まで、被害は[[出雲国|出雲]]、[[越前国|越前]]、[[信濃国|信濃]]まで及ぶ<ref name="Sekaihyakka">宇佐美竜夫 「宝永地震」『世界大百科事典26』 平凡社、2009年</ref><ref name="Kokushi">宇佐美竜夫 「地震」『国史大辞典6』 吉川弘文館、1985年</ref>。[[室戸岬]]、[[串本]]および[[御前崎]]で地盤が 1 - 2 m 隆起し、[[高知市]]東部で約20km<sup>2</sup>に亘って最大 2 m 沈降し、船で往来したという<ref name="Soran" /><ref name="Rika" />。 |
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[[気象庁震度階級#震度6弱|震度6]]以上と推定される地域は、[[駿河国|駿河]]、[[東海地方]]から、[[大阪平野]]、[[奈良盆地]]、[[紀伊半島]]、四国まで及び、さらに[[甲斐国|甲斐]]、[[信濃国|信濃]]、[[出雲国|出雲]]杵築地方や[[豊後国|豊後]]にも一部震度6と推定される地域が分布した。京都でも震度4- 5と推定される。震度4以上の領域は九州から[[甲信越]]に及び、[[陸奥国]]の八戸(現・[[青森県]][[八戸市]])においても有感であった<ref name="Usami, Hoei-Shindo" /><ref> |
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{{Cite web |title=歴史地震の震度分布 |url=http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai/16/sankousiryou2_2.pdf |format=pdf |work= |publisher= |date= |accessdate=2011-05-30}}</ref>。地震の揺れによる被害は、[[東海道]]、[[伊勢湾]]沿い、および、紀伊半島で最も顕著であった。家屋倒壊は駿河から土佐まで著しく、被害は出雲、[[越前国|越前]]、信濃まで及ぶ<ref name="Usami, HWE (2009)">[[#Usami, HWE (2009)| |
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宇佐美(2009)]]</ref><ref name="Usami, KD (1985)">[[#Usami, KD (1985)|宇佐美(1985)]]</ref>。 |
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[[安倍川]]上流の[[大谷崩]]はこの地震で大規模に崩壊し、[[富士川]]も山崩れのため堰き止められた<ref name="Usami (2003)" />。東海道の被害状況は[[吉原宿|芳原]]は家が倒れ、[[蒲原宿|神原]]、[[由比宿|油井]]は破損、[[興津宿|澳津]]、[[江尻宿|江尻]]、[[岡部宿|岡部]]、[[藤枝宿|藤枝]]、[[島田宿|島田]]、[[金谷宿|金谷]]および[[日坂宿|日坂]]は家大に倒れ、[[掛川宿|懸川]]は家大に潰れ、[[袋井宿|袋井]]は残ず潰れ、[[見附宿|見附]]、[[浜松宿|浜松]]、[[舞阪宿|舞坂]]は半潰れであった。[[吉田城 (三河国)|吉田城]]も潰れ[[大垣城]]は破損、[[二川宿|二川]]は半潰れ、[[岡崎宿|岡崎]]は小破、 [[鳴海宿|鳴海]]、[[宮宿|宮]]、[[四日市宿|四日市]]は半潰れ、[[石薬師宿|石薬師]]、[[庄野宿|庄野]]、[[亀山宿|亀山]]、[[関宿|関]]から[[大津宿|大津]]まで小破であった(『谷陵記』)<ref name="Shinsaiyobo" />。 |
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地震により[[道後温泉]]の出湯は145日間止まり、[[紀伊国|紀伊]][[湯の峰温泉|湯ノ峰]]、山地、[[龍神温泉|龍神]]、瀬戸鉛山の湯など各地の[[温泉]]の出湯が止まるなど異常が見られた<ref name="Sekaihyakka" />。 |
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[[尾張藩]]の奉行、[[朝日重章|朝日文左衛門重章]]の日記『鸚鵡籠中記』によれば、書院で夕飯の酒が一回りする頃、東北から鳴響いて震い出した。次第に強くなり鎮まらないので庭へ飛降りると、歩く事も出来ないほど揺れたと云う。さらに、[[名古屋城]]三の丸が火事になり、城下では[[武家屋敷]]の塀の7-8割が崩れ、地面が裂け、泥が湧き出した様子が書かれている<ref name="Sangawa (2007)">[[#Sangawa (2007)|寒川(2007)]]</ref>。[[讃岐国|讃岐]]では、[[五剣山 (高松市の山)|五剣山]]の一角が崩壊したと云う。 |
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地震の49日後の11月23日(1707年12月16日)には[[富士山]]の側面で大噴火が起こり、[[江戸]]では数[[センチメートル|cm]]の[[火山灰]]が積もった。この噴火により側火山の[[宝永山]]が出現した([[宝永大噴火]]参照)。 |
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=== 地殻変動 === |
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[[地殻変動]]は南上がりの傾動を示し、[[室戸岬]]は7- 8尺(約2.1- 2.4m)、室津港は5尺(約1.5m)、[[串本]]は約1.2m、[[御前崎]]では地盤が約1- 2m隆起し、「姥が懐」と呼ばれた[[大須賀町|大須賀]]の横須賀にあった入江の港は陸地となり使用不能となった<ref name="Fujiwara">藤原治ほか(2007):静岡県掛川市南部の横須賀湊跡に見られる1707年宝永地震の痕跡, ''活断層・古地震研究報告'', '''7''', 157-171.</ref><ref name="Sawamura (1967)">[[#Sawamura (1967)|沢村(1967)]]</ref><ref name="Tsuji">[[#Tsuji)|都司(1992)]]</ref>。 |
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他方、[[浜名湖]]周辺や[[濃尾平野]]は沈降、高知東部で最大7尺(2m余)の沈降により約20km²にわたって浸水し、しばらく船で往来したという<ref name="Usami (2003)" /><ref name="NAOJ, RikaNenpyo" />。浜名湖北岸の気賀でも2654[[石 (単位)|石]]の水田が沈下し湖の一部となった。 |
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地震によって[[道後温泉]]の出湯は145日間止まり、[[紀伊国]]の[[湯の峰温泉|湯ノ峰]]、山地、[[龍神温泉]]、瀬戸鉛山の湯などといった各地の[[温泉]]の出湯が止まるなど、異常が見られた<ref name="Usami, HWE (2009)" />。 |
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=== 前震 === |
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21年前の[[貞享]]3年8月16日([[1686年]]10月3日)、[[三河地震|遠江・三河地震]] - ''M'' 6.5〜7 は、宝永地震に先行して発生した内陸地震である<ref>[http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/YOTIKYO/15seikahoukoku/eri1/0122/r0122.15.htm 歴史上の内陸被害地震の事例研究]</ref>。 |
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=== 余震 === |
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この本震の約16時間後には[[富士宮市|富士宮]]付近を震源とするやや強い地震 (''M'' 7.0) があり、甲府盆地や富士宮などで[[寺社]]建造物の倒壊や死者の発生があった<ref name="Utsu et al. (2001)" /><ref name="ERI, 2011-03" />。また、翌年の宝永5年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]([[1708年]][[2月13日]])には宝永地震の[[余震]]と見られる紀伊半島沖を震源とする地震があり、津波も発生した<ref name="Utsu et al. (2001)">[[#Utsu et al. (2001)|宇津ほか(2001)]]</ref><ref name="ERI, 2011-03">{{Cite web |title=2011年 東北地方太平洋沖地震 過去に起きた大きな地震の余震と誘発地震 |url=http://outreach.eri.u-tokyo.ac.jp/eqvolc/201103_tohoku/inducedeq/ |work=(公式ウェブサイト)|publisher=東京大学地震研究所 広報アウトリーチ室 |date=2011-03 |accessdate=2011-05-30}}</ref>。 |
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地震の49日後の[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]([[12月16日]])には[[富士山]]の側面で大噴火('''[[宝永大噴火]]''')が起こり、[[江戸]]では数- 10数[[センチメートル|cm]]の[[火山灰]]が積もった。この噴火によって富士山には側火山である[[宝永山]]が出現した。 |
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土佐における余震で顕著な強震を記録したものは以下の通り<ref name="Mashiro (1995)" /><ref name="Teraishi">[[#Teraishi (1923)|寺石(1923)]]</ref>。 |
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* 宝永4年11月16日(1707年12月9日)、[[酉]]中刻(18時)、大地震に次いでの強震。 |
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* 宝永4年11月26日(1707年12月19日)、朝[[巳]]の上刻(10時)また大いに地震す、巳時大地震16日に比べ又甚。 |
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* 宝永4年12月11日(1708年1月3日)、夜半大震。 |
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* 宝永5年[[閏]]1月1日(1708年2月22日)、震甚。 |
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* 宝永5年閏1月2日(1708年2月23日)、[[辰]]の上刻(8時)甚震、亥刻震その後大震。 |
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* 宝永5年2月25日(1708年4月16日)、夜[[寅]](4時)の刻地震頗る大也。 |
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* 宝永5年8月18日(1708年10月1日)、甚震五度。 |
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* 宝永5年12月1日([[1709年]]1月11日)、夜大地震東南の空数度轟鳴。 |
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* 宝永6年3月11日(1709年4月20日)、[[卯]]刻(6時)、地震稍大。 |
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* 宝永6年4月22日(1709年5月31日)、酉の下刻地震頗る大也、亥の刻(22時)又震、先の震より大也。 |
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半年余り経た宝永5年3月頃でも毎日1-2あるいは5-6回の余震が続き、羽根(現・[[室戸市]])では宝永5年8月・9月(1708年10月前後)でも少ない日は1-2回、多い日は6-7回の余震があった。3、4年の間は時々地震有り、『三災録』には「辰巳両年([[正徳 (日本)|正徳]]2、3年、[[1712年]]、[[1713年]])も折々小震有り未だ治せず、午年(正徳4年、[[1714年]])も同断、未年(正徳5年、[[1715年]])に至りて治す」とあり、余震は8年後まで続き、[[享保]]元年([[1716年]])には一応収束した。 |
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=== 誘発地震 === |
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[[本震]]に影響を受け、[[震源]]域および余震域から離れた地域でも規模の大きな[[誘発地震]]が発生している<ref name="ERI, 2011-03" />。 |
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* 宝永地震の本震の23日後、宝永4年10月27日(1707年11月20日)、[[長門国]][[佐波郡 (山口県)|佐波郡]]上徳地村(現在の[[山口県]][[山口市]][[徳地町|徳地]])で局地的な地震(倒壊家屋289戸、死者3人)。 |
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* 宝永地震の本震の7年後の正徳4年3月15日(1714年4月28日)に信濃国[[安曇郡]]小谷村付近(現在の[[長野県]][[北安曇郡]][[小谷村]]域および[[白馬村]]域)で''M'' 6程度の地震。 |
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== 津波 == |
== 津波 == |
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=== 波高 === |
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津波は[[伊豆国|伊豆]]から[[九州]]に亘る[[太平洋]]海岸沿いに加えて、伊勢湾、[[豊後水道]]、[[瀬戸内海]]、および[[大阪湾]]まで入り込んだ。[[下田市|下田]]では 5 - 7 m 、紀伊半島 5 - 10 m 、[[阿波国|阿波]] 5 - 7 m 、土佐 5 - 8 m と推定され、被害は特に[[土佐湾]]沿いで甚大であった<ref name="Bosai">[http://www.bo-sai.co.jp/houeijisin.htm 防災システム研究所]</ref>。 |
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津波は[[伊豆国|伊豆]]から[[九州]]にわたる[[太平洋]]海岸沿いに加えて、[[伊勢湾]]、[[豊後水道]]、[[瀬戸内海]]、および、[[大阪湾]]まで入り込んだ。[[下田市|下田]]では5- 7m、紀伊半島で5- 10m、[[阿波国|阿波]]で5- 7m、土佐で5- 8m(26mとも)と推定され、被害は特に[[土佐湾]]沿いで甚大であった<ref name="DPSI, Hoei">{{Cite web |author=山村武彦 |title=宝永地震 |url=http://www.bo-sai.co.jp/houeijisin.htm |work=(公式ウェブサイト)|publisher=防災システム研究所 |date= |accessdate=2011-05-30}}</ref>。 |
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津波は土佐において半時(約1時間)後の未の下刻(14時頃)から翌日の寅の刻(4時頃)まで11回打ち寄せ、3番目のものが最も高かったとされる(『谷陵記』)<ref name="Mashiro (1995)" />。 |
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[[高知城]]下周辺は一帯が海となり、『谷陵記』には「堅固タル家ハ地震ニ悉ク倒ル(中略)町ハ真如寺橋ヨリ北見通リ限リ江ノ口堀筋ハ常通寺橋限リ潮江川ハ常通寺島限リ新町下知ハ海ニナル」との記録もある<ref name="ChimeiKochi">『日本歴史地名大系40 高知県の地名』 平凡社、1983年</ref>。『南路志』の記録では[[須崎市|須崎]]において新荘川筋は下郷村の天神宮より上方4 - 5[[町 (単位)|町]](海岸より約 4 [[キロメートル|km]])、桜川筋では吾井郷村の為貞(海岸より約 2 km)まで潮が入ったという。[[中土佐町|土佐久礼]]では津波が大坂谷、焼坂、長沢まで押し寄せ、久礼八幡宮が流失し死者は200人に上った<ref name="ChimeiKochi" />。 |
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=== 被害 === |
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『尾鷲組大庄屋文書』の記録では[[尾鷲市|尾鷲]]で地震の1時間後に高さ1[[丈]]9[[尺]] (5.7 m) の津波が押し寄せ、1千人が流死した<ref name="ChimeiMie">『日本歴史地名大系24 三重県の地名』 平凡社、1983年</ref>。[[大坂]]では地震の約2時間後に津波が到達し、[[安治川]]や[[木津川 (大阪府)|木津川]]の河口から市街地へ侵入した。河口に碇泊されていた船が上流へ押し流され衝突し、橋を破壊、溺死者は7000人余(『波速之震事』)あるいは合計の犠牲者12000人(『寳永度大坂大地震之記』)とする記録がある<ref>{{PDFlink|[http://www.rits-dmuch.jp/rekishisaigai/pdf/10go/10_3.pdf 西山昭仁・小松原琢 宝永地震 (1707) における大坂での地震被害とその地理的要因]}}</ref>。 |
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土佐国の[[浦戸湾]]に面した種崎村<ref group="注">現在の高知市種崎。''cf.'' 種崎浦、種崎海岸。</ref>では波高7-8[[丈]](23m)に達し<ref name="Imamura (1949)">[[#Imamura (1949)|今村(1949)]]</ref>草木一本も残らず、浦戸湾から侵入した津波によって[[高知城]]下周辺は一帯が海となり、久万、泰泉寺、薊野、一宮、布師田、介良、大津の山の根まで浸水した。『谷陵記』には「堅固タル家ハ地震ニ悉ク倒レ 或ハ破損 御城ハ全シ 潮ハ町ハ 真如寺橋ヨリ北見通リ限リ 江ノ口堀筋ハ常通寺橋限リ [[鏡川|潮江川]]ハ常通寺島限リ 新町下知ハ海ニナル」との記録もある<ref name="Shinsaiyobo" /><ref name="NRCT40">[[#NRCT40|『日本歴史地名大系 40』]]</ref>。『南路志』の記録では[[須崎市|須崎]]において[[新荘川]]筋は下郷村の[[天満宮|天神宮]]より上方4 - 5町(海岸より約4.5[[キロメートル|km]])、[[桜川 (高知県)|桜川]]筋では吾井郷村(あいのごうむら)の為貞(海岸より約2.5km)まで潮が入ったという。[[中土佐町|土佐久礼]]では波高25.7mに及び<ref name="Imamura (1949)" />、津波が大坂谷、焼坂、長沢まで押し寄せ、[[久礼八幡宮]]が流失し、死者は200人に上った<ref name="NRCT40" />。『谷陵記』など古文書には、土佐の海岸各地で集落が全滅したことを示す「亡所」とか「潮は山まで」という記録が随所に見られる。『丁亥変記』には、10月26日に[[土佐藩]]が領内における被害状況を[[江戸幕府|幕府]]に報告し、藩主[[山内豊隆]]は1年間[[参勤交代]]を免ぜられたことが記される。 |
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『尾鷲組大庄屋文書』の記録では[[尾鷲市|尾鷲]]で地震の1時間後に高さ1丈9尺(5.7m、8-10mとも)の津波が押し寄せ、1000人が流死した<ref name="NRCT24">[[#NRCT24|『日本歴史地名大系 24』]]</ref>。[[大坂]]では地震の約2時間後に津波が到達し、[[旧淀川|安治川]]や[[木津川 (大阪府)|木津川]]の河口から市街地へ侵入した。河口に碇泊されていた船が上流へ押し流されながら衝突し、橋を破壊、溺死者は7000人余(『波速之震事』)、あるいは合計の犠牲者12000人(『寳永度大坂大地震之記』)、地震崩家14015軒、死人15260人(『谷陵記』)とする記録がある。ただし、『摂陽奇観』では大坂三郷の天満組において潰家993軒、死人540人と記録されており、大坂三郷全体ではその5倍程度とするのが妥当とする説もある<ref> |
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地震および津波により合計で少なくとも死者2万人、潰家6万、流出家2万、田畑の損壊30万[[石 (単位)|石]]を下らず、船の流出および損壊3千とされる<ref name="Soran" /><ref name="Rika" />。家屋倒壊29000余戸、死者4900人と推定する説もある<ref name="Bosai" />。 |
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{{Cite web |author=西山昭仁、小松原琢 |title=宝永地震 (1707) における大坂での地震被害とその地理的要因 |url=http://www.rits-dmuch.jp/rekishisaigai/pdf/10go/10_3.pdf |format=pdf |work=京都歴史災害研究(第10号)|publisher= |date=2009 |accessdate=2011-05-30}}</ref>。 |
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[[浜名湖]]が太平洋とつながる半島は津波によって切り離され、島となり、半島にあった[[新居関所|新居関]]・[[新居宿]]と共に流失し、その後、移転を余儀なくされ、宝永5年正月(1708年)から工事が始まり、3月から4月に移転が完了した。この結果、新居-舞阪間の渡船路は一[[里]]半(約5.9km)となった<ref name="Arai town (1986)">[[#Arai town (1986)|新居町史(1986)]]</ref><ref>[[#Sangawa (1997)|寒川(1997)]]</ref>。 |
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地震および津波によって、合計で少なくとも死者2万人、家屋倒壊6万・流出2万、田畑の損壊30万石を下らず、船の流出および損壊3000とされる<ref name="Usami (2003)" /><ref name="NAOJ, RikaNenpyo" />。死者4900人、家屋倒壊29000余戸と推定する説もある<ref name="DPSI, Hoei" />。 |
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== 経済への影響 == |
== 経済への影響 == |
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この地震による『両替年代記』の記録は「十月十四日〔[[ママ (引用)|ママ]]〕東海道大地震 |
この地震による『両替年代記』の記録は「十月十四日〔[[ママ (引用)|ママ]]〕 [[東海道]]大地震 大地破れ 海洪波 同十一月四日〔ママ〕 [[富士山|富士]]麓[[須走村|素走]]口より山焼け出 白日如夜 砂降こと雨の如し」とある<ref name="RyogaeNendaiki0">[[#RyogaeNendaiki0|『校註 両替年代記 原編』]]</ref>。 |
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『三貨図彙』では「十月四日 |
『三貨図彙』では「十月四日[[畿内|五畿内]]ヲ始メ 東海道 [[南海道]]ノ国々大地震アリ 別シテ五畿内ハ強シ 十一月廿三日富士須走口ヨリ焼イデ震動[[雷]]ノ如ク 土砂大雨ノ如ク降リ 近国大ニ痛ム コレニ依テ[[米価]]高直ナリ」とある。この年の[[肥後国|肥後]]米は一石に付き[[宝永二ツ宝丁銀|宝永銀]]120- 150[[匁|目]]、[[慶長丁銀|慶長銀]]73- 93目と前年の2倍程度に騰貴した<ref name="Kusama (1815)">[[#Kusama (1815)|草間(1815)]]</ref>。また、「此節[[サクラ|桜]]・[[モモ|桃]]・[[ヤマブキ|山吹]]花満開シ、[[タケノコ|竹ノコ]]盛ンニ出、日々地震、十一月〔ママ〕四日大阪津浪シ、近国・京都大イニ地震ス」とあり、この時期の異常気象を示唆する記述もある<ref name="Kusama (1815)" />。 |
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富士山の噴火による火山灰の除去費用として[[江戸幕府]]は各[[大名]]に[[石高]]100石に付き |
[[宝永大噴火|富士山の噴火]]による灰金([[火山灰]]の除去費用)として翌年閏正月7日に「諸国高役金令」を公布、[[江戸幕府]]は各[[大名]]、[[旗本]]らに[[石高]]100石に付き2[[両]]を差し出させることとした。その結果、幕府には40万両が集まった(『[[折たく柴の記]]』)。『蠧余一得』では宝永5年中に[[小判|金]]48万8770両余、[[丁銀|銀]]1[[貫]]870[[匁|目]]余が集まり、被災地救済には6万2500両余が支出されたとしている。 |
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宝永6年 |
宝永6年2月3日(1709年)、[[勘定奉行]]の[[荻原重秀]]は新たに[[征夷大将軍|将軍]]に就任する運びとなった[[徳川家宣]]に対し、幕府の財政の窮乏を訴え、[[天領|御領(直轄領)]]より得られる収入は76- 77万両であるが、諸士の給料として30万両が消え、前年の歳出は140万両に達し、加えて[[皇居]]営造費として70- 80万両が要るから約170- 180万両の歳入不足となるとした。この急場を凌ぐためには金銀を改鋳し、出目を稼ぐ外にないと訴えた。 |
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これに対し[[新井白石]]は「去年の御物成を以て今年の用に充てることを重秀も知ら |
これに対して[[新井白石]]は、「去年の御物成を以て今年の用に充てることを重秀も知らぬふりをしている。御聴を驚かして、その思うところを遂ぐべきため也」と改鋳に反対し、「悪質なものを出せば天譴<ref group="注">天譴(てんけん):[[罰|天罰]]。</ref>をうけて天災地変を生ずるおそれがある」として改鋳の議は中止となった。しかし、翌宝永7年([[1710年]])には質を落とした[[宝永永字丁銀|永字銀]]などが将軍の決済を得ることなく内密に発行された<ref name="Taya (1963)">[[#Taya (1963)|田谷(1963)]]</ref>。幕府が改鋳による出目を必要としていたのは事実であったが、立続けの改鋳による低品位の銀貨が多量に発行され、[[物価]]が[[インフレーション|数倍にも騰貴]]した<ref name="Kusama (1815)" />。これにより[[元禄文化]]は終止符を打つことになった。 |
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東海・南海・ |
東海・東南海・南海連動型地震はおおよそ90年から150年周期で繰り返されており、次回起こると予想される地震への対策が求められる<ref>{{Cite web |title=高知県 南海地震は必ず起こる |url=http://www.pref.kochi.lg.jp/~jyuutaku/pdf/nankai.pdf |format=pdf |work= |publisher= |date= |accessdate=2011-05-30}}</ref><ref name="JMA Kochi"> |
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{{Cite web |title=高知地方気象台 高知県に影響する地震津波について |url=http://www.jma-net.go.jp/kochi/etc/jisin/jisin.html |work=(公式ウェブサイト)|publisher=高知地方気象台 |date= |accessdate=2011-05-30}}</ref>。対策は東海地震、南海地震と個別に行うのではなく、東海、東南海、南海領域で連動して発生した宝永地震をモデルに行うべきとする動きもある<ref name="DPSI, Hoei" />。 |
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== 脚注 == |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=[[今村明恒]] |title=地震の国 |publisher=[[文藝春秋新社]] |date=1949 |isbn=|ref=Imamura (1949)}} |
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* {{Cite book|和書|author=草間直方 |title=三貨図彙 |publisher= |date=1815 |ref=Kusama (1815)}} |
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* {{Cite book|和書|author=間城龍男 |title=宝永大地震 -土佐最大の被害地震- |publisher=あさひ謄写堂 |date=1995 |isbn= |ref=Mashiro (1995)}}<!--読み不明(仮)--> |
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* {{Cite book|和書|author=[[国立天文台]] |title=理科年表<!-- 平成xx年--> |series=[[理科年表]] <!--|volume=第xx冊--> |publisher=[[丸善]] <!--|date=20xx-xx-xx(20xx年版)-->|isbn= |ref=NAOJ, RikaNenpyo}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[力武常次]] |title=固体地球科学入門―地球とその物理 |edition=第2版 |series= |volume= |publisher=[[共立出版]] |date=1994-05 |isbn=978-4-3200-4670-2 |ref=Rikitake (1994)}} |
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* {{Cite book|和書|author=寒川旭 |title=揺れる大地―日本列島の地震史 |publisher=[[同朋舎出版]] |date=1997-01 |isbn=978-4-8104-2363-1 |ref=Sangawa (1997)}} |
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* {{Cite book|和書|author=寒川旭 |title=地震の日本史 -大地は何を語るのか- |publisher=[[中公新書]] |date=2007-11 |isbn=978-4-12-101922-6 |ref=Sangawa (2007)}} |
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* {{Cite book|和書|author=阿部勝征ほか |editor=[[佐藤良輔]]編著 |title=日本の地震断層パラメーター・ハンドブック |publisher=[[鹿島出版会]] |date=1989-03-25 |isbn=978-4-3060-3232-3 |ref=Sato et al. (1989)}} |
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* {{Cite book|和書|author=沢村武雄 |title=日本の地震と津波 -南海道を中心に- |publisher=[[高知新聞社]] |date=1967 |isbn= |ref=Sawamura (1967)}} |
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* {{Cite book|和書|author= |editor=震災予防調査会編 |title=大日本地震史料|publisher=[[鹿島出版会]] |date=1904 |isbn= |ref=Shinsaiyobo}} |
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* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya (1963)}} |
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* {{Cite book|和書|author=寺石正路 |title=土佐古今ノ地震 |publisher=土佐史談会 |date=1923 |isbn= |ref=Teraishi}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[都司嘉宣|つじよしのぶ]] |title=富士山の噴火 万葉集から現代まで |publisher=[[築地書館]] |date=1992-04 |isbn=978-4-8067-1057-8 |ref=Tsuji}} |
|||
* {{Cite book|和書|chapter=宇佐美竜夫 『地震』|editor=国史大辞典編集委員会編 |title=国史大辞典 |edition= |series=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] |volume=6 |publisher=吉川弘文館 |date=1985-01-01 |isbn=978-4-6420-0506-7 |pages= |ref=Usami, KD (1985)}} |
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* {{Cite book|和書|author=宇佐美龍夫 |title=最新版 日本被害地震総覧 416‐2001 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東京大学出版会]] |date=2003-04 |isbn=978-4-1306-0742-1 |ref=Usami (2003)}} |
|||
* {{Cite book|和書|chapter=宇佐美竜夫 『宝永地震』|editor= |title=世界大百科事典 |edition= |series=[[世界大百科事典]] |volume=26 |publisher=[[平凡社]] |date=2009 |isbn= |pages= |ref=Usami, HWE (2009)}} |
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* {{Cite book|和書|editor=宇津徳治ほか |title=地震の事典 |edition=第2版 |series= |volume= |publisher=[[朝倉書店]] |date=2001 |isbn=978-4-2541-6039-0 |ref=Utsu et al. (2001)}} |
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<!--書名で分類--> |
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* {{Cite book|和書|author=新居町史編さん委員会 |title=新居町史 第八巻 近世史料四 宿方・地方史料 |publisher=[[新居町 (静岡県)|新居町]] |date=1986 |isbn= |ref=Arai town (1986)}} |
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* {{Cite book|和書|editor= |title=日本歴史地名大系 24 三重県の地名 |edition= |series=日本歴史地名大系 <!--|volume=第24巻--> |publisher=平凡社 |date=1983-05 |isbn= |ref=NRCT24}} |
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* {{Cite book|和書|editor= |title=日本歴史地名大系 40 高知県の地名 |edition= |series=日本歴史地名大系 <!--|volume=第40巻--> |publisher=平凡社 |date=1983-10 |isbn= |ref=NRCT40}} |
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* {{Cite book|和書|editor=江戸本両替仲間編、三井高維校註 |title=校註 両替年代記 原編 |edition= |series= |volume= |publisher=[[岩波書店]] |date=1932 |ref=RyogaeNendaiki0}} |
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== 関連項目 == |
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* [[東海・東南海・南海連動型地震]] |
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* [[橋杭岩]] - 転がっている岩がこの地震で起こった津波によって移動していることが調査結果で明らかになっている。 |
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{{南海トラフ巨大地震}} |
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{{ |
{{デフォルトソート:ほうえいししん}} |
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[[Category:1707年]] |
[[Category:1707年]] |
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[[Category:日本の地震]] |
[[Category:日本の地震]] |
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[[Category:江戸時代の災害]] |
[[Category:江戸時代の災害]] |
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[[Category:大地震]]<!--マグニチュード7.0以上であることは確実なので--> |
[[Category:大地震]]<!--マグニチュード7.0以上であることは確実なので--> |
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[[Category:連動型地震]] |
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[[Category:津波被害]] |
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[[ca:Terratrèmol de Hōei de 1707]] |
[[ca:Terratrèmol de Hōei de 1707]] |
2011年7月12日 (火) 08:37時点における版
宝永地震 (宝永東海・南海地震) | |
---|---|
本震 | |
発生日 | 1707年10月28日 |
発生時刻 | 13 - 14時 (JST) |
震央 |
日本 東海道・南海道沖 北緯33度12分0秒 東経135度54分0秒 / 北緯33.20000度 東経135.90000度座標: 北緯33度12分0秒 東経135度54分0秒 / 北緯33.20000度 東経135.90000度 |
規模 | ML8.4 - MW8.7 |
最大震度 | 震度7:遠江袋井、三河野田、河内布施、土佐室津・宿毛大島 |
津波 | 最大25.7 m |
地震の種類 |
海溝型地震 逆断層型 |
被害 | |
死傷者数 | 死者 4,900 - 20,000人 |
| |
プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
宝永地震(ほうえい じしん)は、江戸時代の日本で発生した巨大地震の一つ。宝永4年10月4日(1707年10月28日)に起こった東海・東南海・南海連動型地震である。2011年(平成23年)に東北地方太平洋沖地震が起こるまでは、記録に残る日本最大級の地震とされてきた[1][2]。地震の49日後に起きた宝永大噴火と共に亥の大変(いのたいへん)と呼ばれる。
南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、慶長9年(1605年)の慶長地震、嘉永7年(1854年)の安政東海地震および安政南海地震が知られている。また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」へと改元するに至らしめた関東地震の一つである元禄地震が発生している。
地震
震動
宝永4亥年10月4日午下刻 - 未上刻(1707年10月28日13 - 14時頃)、遠州灘沖から紀伊半島沖(北緯33.2度、東経135.9度 [注 1])を震源とする巨大地震が発生した。土佐は当日、晩秋でありながら快晴で袷一つで済むような暑い日であったという。『万変記』には「朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびただしく鳴て、大地ふるひづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもはる、大地二三尺に割、水湧出、山崩、人家潰事、将棋倒を見るが如し」とある[3]。
激震域や津波襲来の領域が安政東海地震と安政南海地震を併せたものにほぼ相当することから、フィリピン海プレートが沈み込む南海トラフ沿いで東海地震および南海地震が連鎖的にほぼ同時に起きたとも推定されている。九州から関東における地震の発生時刻の記録からは、東海地震と南海地震の何れが先に発生したか、あるいはほぼ同時であったかを判別するには至っていない[4]。
1854年の安政東海地震とは異なり、震源域は駿河湾奥までは達していなかったと推定されている[5]。一方で地球シミュレータの計算結果により九州における津波や津波湖の遺跡は震源域を足摺岬沖よりさらに西側の日向灘沖まで延長しないと説明できないとする説も浮上し、震源域の長さは600kmより伸び、700kmに達するとされる[6][7][8][9]。
震動時間は土佐国高知(現・高知県高知市)において「半時ばかり大ゆりありて暫くとまる」(『万変記』)、土佐国高岡郡の宇佐村(現・土佐市宇佐)では「未の上刻[注 2]より大地震 同時ノ中刻に静まる」(『今昔大変記』)など、30分から1時間も揺れが継続したような表現が多く見られるが、「暫くゆりだしやみてはゆり幾度といふ限りなし」(『万変記』)といった記録もあり、これは直後の余震活動をも含めた時間を表しているとされるが、現代ほど厳密な時刻を求めない時代にあって感覚に頼る部分が大きく、あるいは大地震による恐怖感が誇張的な表現を生んだとする見方もある[10]。本震の有感であった継続時間として確からしい記録として高岡郡佐川村(現・佐川町甲[注 3])において「行程に積らば二百歩を過ぐ可か やや久敷く震動す」(2分余、『宝永地震記』)、あるいは、京都において「地震動は道を七 八町歩くくらいゆれつづいた」(約10分、『基煕公記』)といった記録がある。
規模
マグニチュードは8.4ないし8.7と推定されているが、地震計などの観測網がない時代にあって古文書による各地の記録に基づく推定震度や津波の規模によるもので、かつ、マグニチュードの飽和が見られる巨大地震であるからその数値は不確定な要素を含む。
津波の研究から南海トラフ沿いに3個あるいは5個の断層がほぼ同時に出現したとする説があり、5個と推定した場合のうち1つは断層の食い違いの長さU=7.0m、断層面の面積はS=1.1×104km²と推定されている。また、各断層個別のモーメントマグニチュードMwは駿河湾沖から四国沖にかけて、それぞれ 8.1、8.3、8.2、8.3、8.3 (合計でMw8.7)と推定している[11]。また、日向灘まで延長した断層モデルも提唱されている。
北緯 | 東経 | 深さ | 走向 θ |
傾斜角 δ |
すべり角 λ |
長さ L |
幅 W |
すべり U |
地震モーメント M0 / 1021N・m |
Mw |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
35.14° | 138.73° | 2km | 198° | 34° | 71° | 115km | 70km | 4.0m | 1.6 | 8.1 |
33.90° | 138.13° | 3km | 245° | 24° | 113° | 150km | 100km | 4.0m | 3.0 | 8.3 |
33.41° | 136.15° | 10km | 250° | 10° | 124° | 150km | 70km | 5.6m | 2.9 | 8.2 |
33.40° | 134.57° | 1km | 220° | 20° | 90° | 140km | 80km | 7.0m | 3.9 | 8.3 |
32.33° | 133.57° | 1km | 240° | 20° | 90° | 60km | 80km | 13.9m | 3.3 | 8.3 |
被害
震度6以上と推定される地域は、駿河、東海地方から、大阪平野、奈良盆地、紀伊半島、四国まで及び、さらに甲斐、信濃、出雲杵築地方や豊後にも一部震度6と推定される地域が分布した。京都でも震度4- 5と推定される。震度4以上の領域は九州から甲信越に及び、陸奥国の八戸(現・青森県八戸市)においても有感であった[4][15]。地震の揺れによる被害は、東海道、伊勢湾沿い、および、紀伊半島で最も顕著であった。家屋倒壊は駿河から土佐まで著しく、被害は出雲、越前、信濃まで及ぶ[16][17]。
安倍川上流の大谷崩はこの地震で大規模に崩壊し、富士川も山崩れのため堰き止められた[1]。東海道の被害状況は芳原は家が倒れ、神原、油井は破損、澳津、江尻、岡部、藤枝、島田、金谷および日坂は家大に倒れ、懸川は家大に潰れ、袋井は残ず潰れ、見附、浜松、舞坂は半潰れであった。吉田城も潰れ大垣城は破損、二川は半潰れ、岡崎は小破、 鳴海、宮、四日市は半潰れ、石薬師、庄野、亀山、関から大津まで小破であった(『谷陵記』)[3]。
尾張藩の奉行、朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』によれば、書院で夕飯の酒が一回りする頃、東北から鳴響いて震い出した。次第に強くなり鎮まらないので庭へ飛降りると、歩く事も出来ないほど揺れたと云う。さらに、名古屋城三の丸が火事になり、城下では武家屋敷の塀の7-8割が崩れ、地面が裂け、泥が湧き出した様子が書かれている[18]。讃岐では、五剣山の一角が崩壊したと云う。
地殻変動
地殻変動は南上がりの傾動を示し、室戸岬は7- 8尺(約2.1- 2.4m)、室津港は5尺(約1.5m)、串本は約1.2m、御前崎では地盤が約1- 2m隆起し、「姥が懐」と呼ばれた大須賀の横須賀にあった入江の港は陸地となり使用不能となった[19][20][21]。
他方、浜名湖周辺や濃尾平野は沈降、高知東部で最大7尺(2m余)の沈降により約20km²にわたって浸水し、しばらく船で往来したという[1][2]。浜名湖北岸の気賀でも2654石の水田が沈下し湖の一部となった。 地震によって道後温泉の出湯は145日間止まり、紀伊国の湯ノ峰、山地、龍神温泉、瀬戸鉛山の湯などといった各地の温泉の出湯が止まるなど、異常が見られた[16]。
前震
21年前の貞享3年8月16日(1686年10月3日)、遠江・三河地震 - M 6.5〜7 は、宝永地震に先行して発生した内陸地震である[22]。
余震
この本震の約16時間後には富士宮付近を震源とするやや強い地震 (M 7.0) があり、甲府盆地や富士宮などで寺社建造物の倒壊や死者の発生があった[23][24]。また、翌年の宝永5年1月22日(1708年2月13日)には宝永地震の余震と見られる紀伊半島沖を震源とする地震があり、津波も発生した[23][24]。
地震の49日後の11月23日(12月16日)には富士山の側面で大噴火(宝永大噴火)が起こり、江戸では数- 10数cmの火山灰が積もった。この噴火によって富士山には側火山である宝永山が出現した。
土佐における余震で顕著な強震を記録したものは以下の通り[10][25]。
- 宝永4年11月16日(1707年12月9日)、酉中刻(18時)、大地震に次いでの強震。
- 宝永4年11月26日(1707年12月19日)、朝巳の上刻(10時)また大いに地震す、巳時大地震16日に比べ又甚。
- 宝永4年12月11日(1708年1月3日)、夜半大震。
- 宝永5年閏1月1日(1708年2月22日)、震甚。
- 宝永5年閏1月2日(1708年2月23日)、辰の上刻(8時)甚震、亥刻震その後大震。
- 宝永5年2月25日(1708年4月16日)、夜寅(4時)の刻地震頗る大也。
- 宝永5年8月18日(1708年10月1日)、甚震五度。
- 宝永5年12月1日(1709年1月11日)、夜大地震東南の空数度轟鳴。
- 宝永6年3月11日(1709年4月20日)、卯刻(6時)、地震稍大。
- 宝永6年4月22日(1709年5月31日)、酉の下刻地震頗る大也、亥の刻(22時)又震、先の震より大也。
半年余り経た宝永5年3月頃でも毎日1-2あるいは5-6回の余震が続き、羽根(現・室戸市)では宝永5年8月・9月(1708年10月前後)でも少ない日は1-2回、多い日は6-7回の余震があった。3、4年の間は時々地震有り、『三災録』には「辰巳両年(正徳2、3年、1712年、1713年)も折々小震有り未だ治せず、午年(正徳4年、1714年)も同断、未年(正徳5年、1715年)に至りて治す」とあり、余震は8年後まで続き、享保元年(1716年)には一応収束した。
誘発地震
本震に影響を受け、震源域および余震域から離れた地域でも規模の大きな誘発地震が発生している[24]。
- 宝永地震の本震の23日後、宝永4年10月27日(1707年11月20日)、長門国佐波郡上徳地村(現在の山口県山口市徳地)で局地的な地震(倒壊家屋289戸、死者3人)。
- 宝永地震の本震の7年後の正徳4年3月15日(1714年4月28日)に信濃国安曇郡小谷村付近(現在の長野県北安曇郡小谷村域および白馬村域)でM 6程度の地震。
津波
波高
津波は伊豆から九州にわたる太平洋海岸沿いに加えて、伊勢湾、豊後水道、瀬戸内海、および、大阪湾まで入り込んだ。下田では5- 7m、紀伊半島で5- 10m、阿波で5- 7m、土佐で5- 8m(26mとも)と推定され、被害は特に土佐湾沿いで甚大であった[26]。
津波は土佐において半時(約1時間)後の未の下刻(14時頃)から翌日の寅の刻(4時頃)まで11回打ち寄せ、3番目のものが最も高かったとされる(『谷陵記』)[10]。
被害
土佐国の浦戸湾に面した種崎村[注 4]では波高7-8丈(23m)に達し[27]草木一本も残らず、浦戸湾から侵入した津波によって高知城下周辺は一帯が海となり、久万、泰泉寺、薊野、一宮、布師田、介良、大津の山の根まで浸水した。『谷陵記』には「堅固タル家ハ地震ニ悉ク倒レ 或ハ破損 御城ハ全シ 潮ハ町ハ 真如寺橋ヨリ北見通リ限リ 江ノ口堀筋ハ常通寺橋限リ 潮江川ハ常通寺島限リ 新町下知ハ海ニナル」との記録もある[3][28]。『南路志』の記録では須崎において新荘川筋は下郷村の天神宮より上方4 - 5町(海岸より約4.5km)、桜川筋では吾井郷村(あいのごうむら)の為貞(海岸より約2.5km)まで潮が入ったという。土佐久礼では波高25.7mに及び[27]、津波が大坂谷、焼坂、長沢まで押し寄せ、久礼八幡宮が流失し、死者は200人に上った[28]。『谷陵記』など古文書には、土佐の海岸各地で集落が全滅したことを示す「亡所」とか「潮は山まで」という記録が随所に見られる。『丁亥変記』には、10月26日に土佐藩が領内における被害状況を幕府に報告し、藩主山内豊隆は1年間参勤交代を免ぜられたことが記される。
『尾鷲組大庄屋文書』の記録では尾鷲で地震の1時間後に高さ1丈9尺(5.7m、8-10mとも)の津波が押し寄せ、1000人が流死した[29]。大坂では地震の約2時間後に津波が到達し、安治川や木津川の河口から市街地へ侵入した。河口に碇泊されていた船が上流へ押し流されながら衝突し、橋を破壊、溺死者は7000人余(『波速之震事』)、あるいは合計の犠牲者12000人(『寳永度大坂大地震之記』)、地震崩家14015軒、死人15260人(『谷陵記』)とする記録がある。ただし、『摂陽奇観』では大坂三郷の天満組において潰家993軒、死人540人と記録されており、大坂三郷全体ではその5倍程度とするのが妥当とする説もある[30]。
浜名湖が太平洋とつながる半島は津波によって切り離され、島となり、半島にあった新居関・新居宿と共に流失し、その後、移転を余儀なくされ、宝永5年正月(1708年)から工事が始まり、3月から4月に移転が完了した。この結果、新居-舞阪間の渡船路は一里半(約5.9km)となった[31][32]。
地震および津波によって、合計で少なくとも死者2万人、家屋倒壊6万・流出2万、田畑の損壊30万石を下らず、船の流出および損壊3000とされる[1][2]。死者4900人、家屋倒壊29000余戸と推定する説もある[26]。
経済への影響
この地震による『両替年代記』の記録は「十月十四日〔ママ〕 東海道大地震 大地破れ 海洪波 同十一月四日〔ママ〕 富士麓素走口より山焼け出 白日如夜 砂降こと雨の如し」とある[33]。
『三貨図彙』では「十月四日五畿内ヲ始メ 東海道 南海道ノ国々大地震アリ 別シテ五畿内ハ強シ 十一月廿三日富士須走口ヨリ焼イデ震動雷ノ如ク 土砂大雨ノ如ク降リ 近国大ニ痛ム コレニ依テ米価高直ナリ」とある。この年の肥後米は一石に付き宝永銀120- 150目、慶長銀73- 93目と前年の2倍程度に騰貴した[34]。また、「此節桜・桃・山吹花満開シ、竹ノコ盛ンニ出、日々地震、十一月〔ママ〕四日大阪津浪シ、近国・京都大イニ地震ス」とあり、この時期の異常気象を示唆する記述もある[34]。
富士山の噴火による灰金(火山灰の除去費用)として翌年閏正月7日に「諸国高役金令」を公布、江戸幕府は各大名、旗本らに石高100石に付き2両を差し出させることとした。その結果、幕府には40万両が集まった(『折たく柴の記』)。『蠧余一得』では宝永5年中に金48万8770両余、銀1貫870目余が集まり、被災地救済には6万2500両余が支出されたとしている。
宝永6年2月3日(1709年)、勘定奉行の荻原重秀は新たに将軍に就任する運びとなった徳川家宣に対し、幕府の財政の窮乏を訴え、御領(直轄領)より得られる収入は76- 77万両であるが、諸士の給料として30万両が消え、前年の歳出は140万両に達し、加えて皇居営造費として70- 80万両が要るから約170- 180万両の歳入不足となるとした。この急場を凌ぐためには金銀を改鋳し、出目を稼ぐ外にないと訴えた。
これに対して新井白石は、「去年の御物成を以て今年の用に充てることを重秀も知らぬふりをしている。御聴を驚かして、その思うところを遂ぐべきため也」と改鋳に反対し、「悪質なものを出せば天譴[注 5]をうけて天災地変を生ずるおそれがある」として改鋳の議は中止となった。しかし、翌宝永7年(1710年)には質を落とした永字銀などが将軍の決済を得ることなく内密に発行された[35]。幕府が改鋳による出目を必要としていたのは事実であったが、立続けの改鋳による低品位の銀貨が多量に発行され、物価が数倍にも騰貴した[34]。これにより元禄文化は終止符を打つことになった。
東海・東南海・南海連動型地震はおおよそ90年から150年周期で繰り返されており、次回起こると予想される地震への対策が求められる[36][37]。対策は東海地震、南海地震と個別に行うのではなく、東海、東南海、南海領域で連動して発生した宝永地震をモデルに行うべきとする動きもある[26]。
脚注
出典
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- 江戸本両替仲間編、三井高維校註 編『校註 両替年代記 原編』岩波書店、1932年。
関連項目
- 東海・東南海・南海連動型地震
- 橋杭岩 - 転がっている岩がこの地震で起こった津波によって移動していることが調査結果で明らかになっている。