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'''高市 早苗'''(たかいち さなえ、本名:山本 早苗(やまもと さなえ)、{{Jdate|1961|3|7}} - )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]所属の[[衆議院議員]](5期)。元[[近畿大学]][[経済学部]]教授。夫は同じく自由民主党に所属する[[山本拓 (政治家)|山本拓]]衆議院議員。 |
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[[安倍内閣]]で[[内閣府特命担当大臣]](沖縄及び北方対策・科学技術政策・食品安全・イノベーション・少子化対策・男女共同参画担当)、[[第1次小泉内閣第1次改造内閣|第1次小泉改造内閣]]・[[福田康夫内閣改造内閣|福田康夫改造内閣]]・[[麻生内閣]]で[[経済産業省|経済産業]][[副大臣]]を務めた。 |
2011年2月6日 (日) 13:00時点における版
高市 早苗 たかいち さなえ | |
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画像募集中 | |
生年月日 | 1961年3月7日(63歳) |
出生地 | 奈良県奈良市 |
出身校 | 神戸大学経営学部経営学科卒業 |
前職 | 近畿大学経済学部教授 |
所属政党 |
(無所属→) (自由党→) (新進党→) 自由民主党(町村派) |
称号 | 経営学士(神戸大学 1984年) |
配偶者 | 山本拓(夫・衆議院議員) |
公式サイト | 衆議院議員 高市早苗 |
選挙区 |
(奈良県全県区→) (奈良1区→) (比例近畿ブロック→) (奈良2区→) 比例近畿ブロック |
当選回数 | 5回 |
在任期間 |
1993年-2003年 2005年 - 現職 |
内閣 | 安倍内閣 |
在任期間 | 2006年9月26日 - 2007年8月27日 |
高市 早苗(たかいち さなえ、本名:山本 早苗(やまもと さなえ)、1961年(昭和36年)3月7日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(5期)。元近畿大学経済学部教授。夫は同じく自由民主党に所属する山本拓衆議院議員。
安倍内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・科学技術政策・食品安全・イノベーション・少子化対策・男女共同参画担当)、第1次小泉改造内閣・福田康夫改造内閣・麻生内閣で経済産業副大臣を務めた。
生い立ち
奈良県奈良市出身。奈良県立畝傍高等学校を経て、1984年(昭和59年)に神戸大学経営学部経営学科を卒業。大学時代はヘヴィメタルバンドでドラムスを担当していた。大学卒業後、松下政経塾(第5期)に入塾。同期に伊藤達也や民主党の武正公一がいる。1987年(昭和62年)アメリカに渡り、左派リベラルでフェミニスト運動の急先鋒だった民主党のパトリシア・シュローダー(Patricia Schroeder)下院議員の個人事務所でインターン同様のフェロー(無給、雇用関係なし)として勤務した。1988年(昭和63年)からは「アメリカ合衆国議会“立法調査官”(コングレッショナル・フェロー)として議員を補佐した」と高市は説明しているが、“立法調査官”という肩書きは評論家の桃井真と話し合って「訳したもの」であった。[1]高市の経歴については、高市の滞米中の暮らしぶりを知る当時のワシントン特派員が「実際の仕事はコピー取りみたいなもんです」と評していたと伝える報道もある。[2]
1989年(平成元年)に帰国し、亜細亜大学系列の日本経済短期大学(現、亜細亜大学短期大学部)助手、1992年(平成4年)には関西ハイビジョン・コンソーシアムを設立し会長に就任するなど精力的に活動。同年、参議院議員選挙に奈良県選挙区から保守系無所属で立候補するが落選。この選挙では、当初、自由民主党奈良県連に候補者として名乗りを上げるが、公認から漏れる(自民党公認候補は服部三男雄)。
政治活動
1993年(平成5年)、第40回衆議院議員総選挙で旧奈良全県区から無所属で立候補し、トップで初当選を飾る(他方で新党さきがけに公認申請していた)。総理大臣指名選挙では無所属ながら自由民主党総裁に就任間もない河野洋平を支持。1994年(平成6年)に政策集団「リベラルズ」に参加。リベラルズは、自民党を離党した柿澤弘治を党首とする自由党となり、非自民連立政権の羽田内閣の連立与党となる。同年7月27日海部俊樹を代表とする自由改革連合の結成に加わり、さらに同年12月10日に結党された新進党に合流する。
1996年(平成8年)10月、第41回衆議院議員総選挙では新進党公認で立候補し、再選。選挙後、自民党幹事長の加藤紘一からの引き抜きに応じ、11月5日に高市は新進党を離党し2日後の総理大臣指名選挙では自民党総裁橋本龍太郎を支持。高市は離党後に「当面無所属で」と明言していたが、12月27日、自由民主党に入党。新進党の公認候補として反自民票を集めての当選であっただけに、その直後に離党し橋本龍太郎を総理大臣指名選で支持した事は「有権者に対する裏切り」と非難を受けた。自由民主党への入党について高市は「時間がもったいなくなっちゃった」と言及した。[3]
自民党では清和政策研究会に所属し、小渕恵三内閣の通商産業政務次官や、衆議院文部科学委員長などを歴任する。2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙では、自民党の比例近畿ブロック単独上位に登載され、3選された。当選後、下村博文、世耕弘成、山本一太らと共に森喜朗首相の「勝手補佐官」を自称し、テレビにも積極的に出演。2002年(平成14年)には第1次小泉改造内閣で経済産業副大臣に就任し(政経塾同期で1993年衆院初当選同期の伊藤達也と共に初の松下政経塾出身副大臣)きょうと青年政治大学校講師も務めたが、2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙では、比例復活も果たせずに落選(清和会の現職代議士で、落選したのは高市だけであった)。
2004年(平成16年)、自身と同じく自由党・自由改革連合・新進党出身で、自民党の山本拓と結婚。近畿大学教授に就任。
2005年(平成17年)9月、第44回衆議院議員総選挙で郵政民営化法案に反対した滝実に対する対抗馬として、それまでの選挙区であった奈良1区から奈良2区に国替えして立候補し、当選(滝も比例近畿ブロックで復活当選を果たした)。
2006年(平成18年)9月、安倍内閣で内閣府特命担当大臣として入閣。沖縄及び北方対策、科学技術政策、イノベーション、少子化・男女共同参画、食品安全を担当。
2007年(平成19年)5月、青少年保護を目的とする有害情報対策を協議する会議を政府に設置する方針を表明。記者会見の場において青少年保護育成条例を制定していない長野県の対応を批判した。8月15日の終戦記念日には、安倍内閣の閣僚で唯一靖国神社に参拝した。高市も当初「公務で参拝できない」としていた[4]が、全閣僚が終戦の日の参拝を見送ることを知った島村宜伸[5]からの依頼を受け、当日の夕刻近くに急遽参拝することになった[6]。
2008年(平成20年)、青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律の作成に携わる。8月、福田康夫改造内閣で経済産業副大臣に就任。
2009年(平成21年)8月、第45回衆議院議員総選挙で民主党公認候補滝実に小選挙区で敗れるが比例近畿ブロックで復活当選。
2010年(平成22年)1月、第174回国会に於いて「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の一部を改正する法律案」を提出。
献金
「新聞の特殊指定に関する議員立法検討チーム」座長で新聞の特殊指定見直しに反対している。業界団体である日販協政治連盟から政治献金を受けている。
人物像
- 靖国神社のA級戦犯の分祀、国立追悼施設の建設に反対している。サンデープロジェクトで満州事変や以後の戦争を「自衛のための戦争だった」「セキュリティーの戦争だった」と肯定的な見解を述べ、侵略性を否定した。これに対して司会の田原総一朗は、「あなたのような下品で無知な人にバッジつけて靖国のことを語ってもらいたくない」と激昂した。田原の高市に対する態度は反発を招き、田原は次週の同番組にて謝罪・釈明をした。
- 日本の政治家が選挙時に有権者の前で土下座することを軽蔑していた。初めての選挙運動では後援会長から「土下座するのが当たり前」と度々諭された。次第に土下座に関し言及しなくなり、選挙戦終盤で、感極まった弟が土下座をすると、涙ぐむ有権者の万雷の拍手の中、姉弟土下座をした[7]。その後土下座に関して質問を受けても全く答えなくなった。
- 2006年(平成18年)の教育基本法改正に関する特別委員会で可決された時には感極まって涙した。
- かつてはマスコミ出演も多く、『ビートたけしのTVタックル』やたかじんのそこまで言って委員会などにも高い頻度で出演していた。2006年(平成18年)7月24日、テレビ朝日『ビートたけしのTVタックル』にコメンテーターとして出演し、サラリーマン増税・残業手当廃止などのテーマにおいて、企業の法人税は上がっていない事について「企業あっての労働者でしょう。企業がだめになったら給料もボーナスも払えないでしょう」等と発言した。
- 2007年(平成19年)1月に、柳沢伯夫厚労相が「産む機械」との発言を行った際には、「私は子供を授かれない体なので、機械なら不良品になってしまう」と批判した[8]。
- 2007年(平成19年)5月28日、閣内でも親しくしていた松岡利勝農林水産大臣自殺の報を聞き、報道陣の前で声を詰らせ、その場で泣き崩れた。
- 相次ぐ閣僚の失言については度々注意を促される立場にあったが、2007年(平成19年)7月、夫の山本拓農林水産副大臣が松岡利勝前農林水産大臣の事務所費について、「芸者の花代に使った」(その日の内に撤回)と発言したことに対しては「(松岡前大臣の)遺族の方に不愉快な思いをさせ、本人も不適切だったと撤回をして謝罪をしている。適切に言葉を選ぶべきだった」と陳謝した。
- 信仰している宗教は天理教。「ようぼく」と呼ばれる資格を持っている[9]。
主な所属議員連盟
主な著書
- アズ・ア・タックスペイヤー ―政治家よ、こちらに顔を向けなさい―
- アメリカ大統領の権力のすべて
- アメリカの代議士たち
- サッチャーからの提言・新しい日本
- 高市早苗のぶっとび永田町日記
- 21世紀日本の繁栄譜
- 小沢民主党は信用できるか(編著)
関連項目
脚注
- ^ 「噂の眞相」1994年2月号「評論家から代議士になった高市早苗の”正体”」『週刊現代』1993年9月4日号
- ^ 1998年7月号噂の眞相別冊『日本の文化人』タレント文化人出身政治家たちの永田町のおける議員生活始末記 石沢哲治『週刊現代』1993年9月4日号
- ^ タレント文化人出身政治家たちの永田町のおける議員生活始末記 石沢哲治1998年7月号「噂の眞相」別冊『日本の文化人』
- ^ “全閣僚が終戦記念日の靖国参拝見送り”. 産経新聞. (2007年8月10日) 2010年5月27日閲覧。
- ^ 阿比留瑠比 (2007年8月12日). “全閣僚が靖国参拝見送り「終戦記念日」異常な事態”. 産経新聞
- ^ 櫻井よしこ「『福田総理』で日本は20年の時を失う」『SAPIO』、小学館、 エラー: 月日を month や day に分けずに date にまとめて記入してください。、p.10。
- ^ TBS『報道特集』より
- ^ “高市「私は不良品」と不快感…柳沢「産む機械」発言”. ZAKZAK. (2007年1月30日)
- ^ “6閣僚に「9条守れ」 天理教平和の会、信者に要請”. しんぶん赤旗. (2007年4月9日) 2010年5月25日閲覧。
外部リンク
公職 | ||
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先代 小池百合子 |
特命担当大臣(沖縄及び北方対策) 第8代:2006年 - 2007年 |
次代 岸田文雄 |
先代 猪口邦子 |
特命担当大臣(少子化・男女共同参画) 第2代:2006年 - 2007年 |
次代 上川陽子(分割) |
先代 松田岩夫 |
特命担当大臣(科学技術政策) 第9代:2006年 - 2007年 |
次代 岸田文雄 |
先代 松田岩夫 |
特命担当大臣(食品安全) 第7代:2006年 - 2007年 |
次代 泉信也 |
先代 創設 |
特命担当大臣(イノベーション) 初代:2006年 - 2007年 |
次代 廃止 |
先代 新藤義孝・中野正志 古屋圭司・大島慶久 |
経済産業副大臣 2008年 - 2009年 2002年 - 2003年 |
次代 増子輝彦・松下忠洋 坂本剛二・泉信也 |