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「ドーリットル空襲」の版間の差分

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| image=[[ファイル:Army B-25 (Doolittle Raid).jpg|280px]]
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| caption=空母から発艦するドーリットル隊所属のB-25
| caption=空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]から発艦するドーリットル隊所属の[[B-25]]。
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| date=[[1942年]](昭和17年)[[4月18日]]
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| result=アメリカ軍による初の[[日本本土空襲]]
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* [[ミッドウェー海戦]]の生起<ref name="覇者上298">[[#覇者上|大空の覇者上]]298-299頁「太平洋戦争の転換点」</ref>
| combatant1=日本軍
その他は[[#影響]]を参照
| combatant2=アメリカ軍、中華民国軍
| combatant1={{JPN1889}}     
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| commander1=[[東久邇宮稔彦]]大将
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| commander2=[[ジミー・ドーリットル]]中佐
| strength1=-
| strength1=無し
| strength2=[[B-25 (航空機)|B-25]]x16機<br>空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]、[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]など<br>中華民国軍は基地を提供
| strength2=[[B-25 (航空機)|B-25]]×16機<br />空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]、[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]など<br />[[民革命]]は基地を提供
| casualties1=潜水母艦1隻小破<br />監視艇5隻沈没、7隻損傷<ref name="写真14日本軍艦190">[[#写真日本の軍艦第14巻]]190-191頁「特設監視艇」</ref><br />戦闘機1、攻撃機1、爆撃機3機事故喪失<br />死者87人、家屋被害286戸以上
| casualties1=死者50人、家屋262戸
| casualties2=戦死1名、行方不明2名、捕虜8名
| casualties2=B-25全損16機<br />艦爆1機事故喪失<br />戦死1名、行方不明2名、捕虜8名
|}}
|}}
'''ドーリットル空襲'''(-くうしゅう、[[英語]]:Doolittle Raid)、または'''ドゥリットル空襲'''とは、[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]][[4月18日]]に[[アメリカ軍]]が、[[航空母艦]]に搭載した[[アメリカ陸軍|陸軍]]の[[爆撃機]]によって行った[[大日本帝国|日本]]本土に対する[[空襲]]である。なお作戦遂行において[[中華民国軍]]の支援けた。名称は空襲の指揮官の名前に由来する。
'''ドーリットル空襲'''(ドーリットルくうしゅう、[[英語]]:Doolittle Raid)は、[[太平洋戦争]]([[第二次世界大戦]]中の[[1942年]](昭和17年)[[4月18日]]に[[アメリカ軍]]が[[アメリカ陸軍航空軍]]の[[爆撃機]]([[航空母艦]]より発進)によって実施した[[大日本帝国|日本]]本土に対する初めての[[空襲]]のこと<ref>[[#実録八|実録八巻]]、691頁(ドーリットル空襲)</ref><ref>[[#毎日S19空決|空決戦]]コマ31(原本59頁)「米國は開戰以來、常に日本本土空襲呼號し續て來た。現在とても同様であるが、米國がこれを敢行したの一昨昭和十七年の四月十八日、帝都を僅かの機數で空襲したにとどまつてゐる。」</ref>{{Sfn|激動の昭和|1989|p=152}}。名称は爆撃機隊の指揮官であった[[ジミー・ドーリットル]]中佐に由来する<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、373頁「ドーリットル空襲」</ref>

== 概要 ==
'''ドーリットル空襲'''とは<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、59頁「二 ドゥリットル空襲」</ref>、[[1942年]](昭和17年)[[4月18日]]に、
航空母艦[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]から発進した[[B-25 (航空機)|B-25双発爆撃機ミッチェル]]16機が、[[太平洋戦争]]で初めて日本本土攻撃をした一連の[[空襲]]<ref name="写真14日本軍艦205">[[#写真日本の軍艦第14巻]]205頁「18土●米機動部隊本土空襲(ドーリットル空襲)」</ref><ref name="ニミッツ46">[[#ニミッツ1962|ニミッツ1962]]pp.46-47</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]235-236頁「ノースアメリカンB-25ミッチェル」</ref> である。
<!--日中戦争中、中華民国空軍のB-10が九州に飛来したので、日本本土に対する初飛来ではない-->
[[ヨークタウン級航空母艦]]2隻([[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、ホーネット)を基幹とする[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ハルゼー]]提督指揮下のアメリカ海軍機動部隊が[[太平洋]]を横断し、[[日本列島]]([[本州]])東方海域に到達して行った<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、61頁「参考」</ref><ref name="叢書八十360">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、360-362頁「空襲と要撃の概要」</ref>。
[[ジミー・ドーリットル]]中佐を指揮官とするB-25爆撃機16機は<ref name="叢書八十360" /><ref name="叢書102、S17.04.18">[[ドーリットル空襲#叢書102|戦史叢書102巻]]、116-117頁「昭和17年(1942年)4月18日 米機動部隊、日本本土初空襲<!-- 6-60、19-114、29-166~195、33-548、38-545・557、43-59、51-54、55-109、57-37、59-12・17・90、74-281、80-360、85-82、94-8、95-217-->」</ref>、日本本土各地([[東京]]、[[横須賀海軍工廠|横須賀]]、[[横浜市|横浜]]、[[名古屋]]、[[神戸]]等)に空襲を実施し、主に民間に被害が出た<ref name="丸写真三44">[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、44-47頁(佐藤和正「ドーリットル空襲/珊瑚海海戦」)</ref><ref>[[#大阪画報続|大東亜戦争記録画報続]]コマ94(原本177頁)「空襲の實施状況」</ref>。
軍事的な戦果は[[潜水母艦]]から[[航空母艦]]へ改造中の[[龍鳳 (空母)|大鯨(龍鳳)]]が直撃弾で損傷<ref name="写真14日本軍艦205"/>、またアメリカ軍機動部隊の掃討により[[漁船]]改造の特設監視艇隊に被害が出た程度だったが<ref>[[#変種|変わりダネ軍艦奮闘記]]、201-202頁「▽特設監視艇」</ref>、日本軍に与えた衝撃は極めて大きかった<ref name="ニミッツ46"/><ref name="叢書八十362">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、362-363頁「空襲の及ぼした影響/精神的影響」</ref><ref name="叢書四三62">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、62-63頁「米空母に対する関心急増」</ref>。

作戦遂行において[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]の[[国民革命軍]]の支援を受けており、日本本土爆撃を終えたB-25のうち15機は[[中国大陸]]に不時着して放棄された<ref name="ニミッツ46"/><ref name="トール95">[[#トール2013|トール 2013]]pp.95-96『爆撃機はミッドウェイから来た?」</ref>。この際、搭乗員8名が日本軍の捕虜となり、その処遇を巡って問題になった<ref>[[#実録八|実録八巻]]、717-718頁(米国人捕虜処分問題)</ref>{{Sfn|福留繁|1971|p=218}}。また1機は[[ソビエト連邦]]支配地域に不時着して、搭乗員は抑留された<ref name="ニミッツ46"/><ref name="トール95"/>。


== 背景 ==
== 背景 ==
=== 相次ぐアメリカ本土攻撃 ===
=== 相次ぐアメリカ本土攻撃 ===
[[ファイル:Japanese submarine I-10 at Penang port in 1942.jpg|right|200px|thumb|アメリカ本土沿岸で通商破壊戦を行った伊10。]]
[[1941年]][[12月8日]]に行われた[[真珠湾攻撃]]以降、アメリカ軍は[[日本軍]]に対して各方面で一方的な敗退を続け、さらに開戦後には、同攻撃の援護を行っていた[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[伊一五型潜水艦|巡潜乙型潜水艦]]計9隻([[伊号第九潜水艦|伊9]]、[[伊号第一〇潜水艦|伊10]]、[[伊号第一五潜水艦|伊15]]、[[伊号第一七潜水艦|伊17]]、[[伊号第一九潜水艦|伊19]]、[[伊号第二一潜水艦|伊21]]、[[伊号第二三潜水艦|伊23]]、[[伊号第二五潜水艦|伊25]]、[[伊号第二六潜水艦|伊26]]<ref>『帝国海軍太平洋作戦史 1』P.100 学研 2009年</ref>。10隻との記録もある)は、[[太平洋]]のアメリカとカナダ、[[メキシコ]]の西海岸に展開し、[[12月20日]]頃より[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]、特にアメリカに対する[[通商破壊]]戦を展開した。
[[ファイル:WWII SF posters.gif|right|200px|thumb|[[サンフランシスコ]]市内に張り出されたシェルターへの避難案内と[[日系アメリカ人]]に対する強制退去命令。]]
[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]に行われた[[真珠湾攻撃]]以降、アメリカ軍は[[日本軍]]に対し各方面で一方的な敗退が続いた<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、74-77頁「経過概要」</ref>。さらに真珠湾攻撃終了後、同作戦支援にまわっていた[[大日本帝国海軍|日本海軍]]・[[第六艦隊 (日本海軍)|先遣部隊]](指揮官[[清水光美]]第六艦隊司令長官)の一部潜水艦を抽出して先遣支隊が編成され、アメリカ大陸西岸で行動する<ref name="叢書八十128">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、128-129頁「米西岸海上交通破壊戦」</ref><ref name="叢書九八105">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、105-106頁「二 ハワイ作戦後の先遣部隊の作戦/先遣支隊の作戦」</ref>。
[[伊十五型潜水艦|巡潜乙型潜水艦]]計9隻([[伊号第九潜水艦|伊9]]、[[伊号第十潜水艦|伊10]]、[[伊号第十五潜水艦 (初代)|伊15]]、[[伊号第十七潜水艦|伊17]]、[[伊号第十九潜水艦|伊19]]、[[伊号第二十一潜水艦|伊21]]、[[伊号第二十三潜水艦|伊23]]、[[伊号第二十五潜水艦|伊25]]、[[伊号第二十六潜水艦|伊26]]<ref>[[#学習研究社2009|学習研究社 2009]] 100頁</ref>。10隻との記録もある)は、[[太平洋]]のアメリカとカナダ、[[メキシコ]]の西海岸に展開し<ref>[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、107頁「挿図第五 先遣支隊米西岸配備」</ref>、[[12月20日]]頃より[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]、特にアメリカに対する[[通商破壊]]戦を展開した<ref name="叢書八十128" /><ref name="叢書九八105" />。


その結果、翌年上旬まアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカの[[タンカー]]や貨物船を5隻撃沈、5隻大破、その総トン数は6万4669トンに上った。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、派手な作戦を行った。
その結果、約10日間の作戦でアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカの[[タンカー]]や貨物船を5隻撃沈、5隻大破させ、その総トン数は6万4669トンに上った<ref name="叢書九八108">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、108-109頁</ref>。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活発な作戦を行った。
[[1942年]](昭和17年)[[2月24日]]には、日本海軍の[[伊号第十七潜水艦|伊17]]乙型大型潜水艦による[[カリフォルニア州]][[サンタバーバラ (カリフォルニア州)|サンタバーバラ]]のエルウッド[[石油]]製油所への砲撃を行いこれに成功するなど<ref>[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、115頁(伊17行動)</ref><ref>[[#学習研究社2009|学習研究社 2009]] 102頁</ref>、一連の[[アメリカ本土攻撃|本土への先制攻撃]]を行った。


これらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は、これまで殆ど本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民にも非常に大きな衝撃を与えた<ref name="叢書八十128" /><ref name="叢書九八108" />。[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズベルト]]大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断し、[[ロッキー山脈]]でこれを阻止する作戦の立案を指示し、同時に[[ニイハウ島事件]]の影響もあり[[日系アメリカ人の強制収容]]も行うこととなった。
さらに[[1942年]][[2月24日]]には、日本海軍の[[伊号第一七潜水艦|伊17]]乙型大型潜水艦による[[カリフォルニア州]][[サンタバーバラ (カリフォルニア州)|サンタバーバラ]]のエルウッド[[石油]]製油所への砲撃を行うなど<ref>『帝国海軍太平洋作戦史 1』P.102 学研 2009年</ref>、一連の[[アメリカ本土攻撃|本土への先制攻撃]]を行った。


さらにアメリカ政府はこれらの日本軍の本土攻撃に対して、国民の動揺と厭戦気分を防ぐべくマスコミに対する報道管制を敷いたが、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報が相次いだ。さらには上記の砲撃作戦の翌日には、ロサンゼルスに対する日本軍機の空襲を誤認した陸軍による高射砲戦が行われた結果、6人の民間人の死者を出すなど([[ロサンゼルスの戦い]])、アメリカ国内は官民を問わず大きな混乱と恐怖に覆われることとなった。
=== 日本本土攻撃計画 ===
これらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は、これまで長い間本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民に大きな衝撃を与え、この様な状況を受けて、アメリカ軍は[[士気]]を高める方策として[[帝都]]、[[東京]]を攻撃する計画を立てた。


=== 日本海軍の米空母対策 ===
しかし、当時アジア太平洋の各地域で敗退を続けていた[[アメリカ海軍]]の[[潜水艦]]は、警戒の厳しい日本本土を砲撃することのみならず、近付くにも大きな危険が伴うために、海軍艦船による砲撃は行えないと考えられた。さらに当時アメリカ海軍は、航空機を搭載した大型潜水艦を所有していなかった。
1930年(昭和5年)の時点で日本海軍は、アメリカ海軍が保有する[[レキシントン級航空母艦]]([[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]、[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]])による東京空襲と、空母艦載機による爆撃や[[毒ガス]]による市民への被害を指摘していた<ref name="中島1930空母19">[[#中島1930|中島、航空母艦]]コマ19-20(原本29-31頁)〔 (略)或は航空母艦を敵の海岸近くに派遣して之より爆撃機を放ち敵の海岸都市を空襲する事も出來る。此の點から云ふと我東京は甚だ不利である。将来萬一日米戰爭が起つた場合米國のレキシントン級の大航空母艦が太平洋上にある我が哨艦の目を潜つて伊豆大島の二百浬位沖合に現はれ、戰闘飛行機隊に依りて護衛さるゝ大爆撃機隊を放ち、我東京を空襲しないとも限らないのである。然るときには東京は五百瓲、千瓲の大爆彈に見舞はれ、東京驛の如き大建築も一撃の下に粉碎されるかも知れない、または一機に千發以上も搭載し得ると云ふ焼夷弾を市内至る所にばら撒かれ、彼の關東大震火災當時の如き惨状を呈するかも知れない。兎に角航空機の發達したる将来戰に於ける市民は安閑として居られないのである。戰爭は軍人の仕事だと思つて安心して居ると、何時頭の上から恐ろしい爆彈や焼夷彈を浴びせられるかも知れない。更に恐ろしいのは毒瓦斯である。敵の航空機が東京の市上に現はれ、毒瓦斯を振り撒いて行つたならば大變である。毒瓦斯は人家稠密いて居る市中に擴がつたならば中々飛散しない、そして市民は片つ端から之が爲に斃れねばならぬ。(以下略)〕</ref>。
空母による空襲のほかにも、米軍航空部隊がソ連領や[[アリューシャン列島]]に基地を進め、陸上機により日本本土空襲を行う可能性もあった<ref name="叢書八十358">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、358-360頁「本土空襲に対する懸念と処置」</ref>。1942年(昭和17年)2月下旬の図上演習では、米軍が[[ニア諸島]]のセミチ島([[アッツ島]]の近辺)に基地を建設し、開発されたばかりの[[B-29 (航空機)|米超大型爆撃機]]による帝都空襲に成功している<ref name="叢書八十345" />。


また連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将は、昭和16年1月の[[及川古志郎]]海軍大臣にあてた「戦備ニ関スル意見」の中で、日本本土が空襲された場合の国民の動揺を懸念していた<ref name="叢書八十358" />。大本営海軍部([[軍令部]])も本土空襲を懸念していたが、山本長官ほどの危機感はもっていなかった<ref name="叢書八十358" />。
また、アメリカ陸軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[領域 (国家)|領土]]は[[日ソ中立条約]]のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。また、[[アメリカ海軍]]の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには[[航空母艦|空母]]を日本近海に接近させる必要があり、これは[[太平洋]]上で唯一動ける空母機動部隊が危険に晒されることを意味した。
いずれにせよ米機動部隊による本土空襲(特に[[東京|帝都]]空襲)を懸念していた日本海軍は、太平洋戦争開戦と共に[[日本列島]]東方約700浬に特設監視艇による哨戒網を構築し、基地航空隊の陸上攻撃機による長距離索敵との相乗で、米機動部隊を監視することにした<ref name="叢書八十358" /><ref name="叢書九八118" />。敵機動部隊来襲の場合、在内地艦船と航空部隊をもって邀撃する方針である<ref name="叢書九八118" />。ただし、監視艇・哨戒機の数は不十分であった<ref name="叢書八十358" />。


[[1941年]](昭和16年)12月8日の開戦時、アメリカ海軍は作戦行動可能な空母を7隻(真珠湾方面配備〈レキシントン、エンタープライズ〉<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、81-82頁</ref>、西海岸および大西洋方面配備〈サラトガ、ヨークタウン、ホーネット、ワスプ、レンジャー〉)保有していた。真珠湾攻撃で日本海軍はアメリカ太平洋艦隊の戦艦群に大打撃を与えたが、空母の捕捉には失敗した<ref name="叢書八十130">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、130-133頁「対米空母対策と先遣部隊の用法変更」</ref>。大本営海軍部は「米海軍は小部隊によるゲリラ戦に出るだろう」と判断しており、山本長官は「ゲリラ戦」が米空母部隊による本土空襲と判断していたという<ref name="叢書八十130" />。
=== 空母艦載機による空襲計画 ===
そんな中、アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍の爆撃機を空母から発艦させ、爆撃後には同盟国である[[中華民国]]の領土に着陸させてはどうだろうか」と[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に進言。[[ノースアメリカン]][[B-25_(航空機)|B-25]]爆撃機を急遽、空母の短い[[飛行甲板]]から発進出来るように軽量化を図った。搭載されたB-25は、迎撃用の機銃なども含め多くの機材が撤去された。


開戦以後、ハワイ方面の監視に従事していた日本海軍潜水艦部隊は幾度か米空母を発見するが、損害を与えられなかった<ref name="叢書八十130" /><ref name="叢書九八109">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、109-110頁「二潜戦の長期監視とサラトガ雷撃/長期監視」</ref>。
陸軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦はトップシークレットとされた。また、空母に着艦するのではなく、[[日本列島]]を横断して当時、[[日本軍]]と戦争中であり、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の主要構成国の1国であった中華民国東部に[[中華民国国軍]]の誘導信号の下で着陸する予定となった。B-25を搭載する空母は[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]とされ、[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]が護衛に付くこととなった。
[[1942年]](昭和17年)1月初旬、[[伊号第三潜水艦]]がハワイ近海で米軍機動部隊を襲撃(失敗)<ref name="叢書九八109" />。同方面の日本海軍潜水艦が索敵したところ、1月12日に[[伊号第六潜水艦]]が「レキシントン型1隻撃沈」を報告する<ref name="叢書八十132">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、132-133頁「レキシントン型撃沈の報とのそ影響」</ref><ref name="叢書九八111">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、111-112頁「サラトガを雷撃」</ref>。実際の戦果は空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]大破で、同艦は半年ほど修理を強いられた<ref name="叢書九八118">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、118-120頁「対米機動部隊作戦」</ref><ref name="叢書八十132" />。
1月24日、[[クェゼリン環礁]]に帰投した伊六からの詳細報告により、連合艦隊はレキシントンの撃沈を確信する<ref name="叢書八十132" />。連合艦隊は「当分、米機動部隊は太平洋方面で行動しないだろう」と判断、警戒態勢を緩めるとともに、南雲機動部隊([[第一航空艦隊]])を[[ラバウル攻撃|ラバウル攻略作戦]]や南方作戦に転用した<ref name="叢書九八111" /><ref name="叢書八十169">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、169-173頁「情勢緩和の誤判断とマーシャル被攻撃」</ref>。東方の情勢に懸念をもっていた[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長も、各艦隊・部隊の意見に押し切られた<ref name="叢書八十169" />。

だが、アメリカ軍空母機動部隊は1942年2月初旬の[[マーシャル・ギルバート諸島機動空襲]]を皮切りに[[ウェーク島]]や[[南鳥島]]など、日本軍の警戒が手薄な拠点に牽制攻撃を敢行した<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、175-177頁「米軍の南太平洋強化、マーシャル奇襲」</ref><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、33-35頁「米空母の機動に手を焼く」</ref>。日本海軍は潜水艦や陸上基地航空隊で邀撃あるいは索敵攻撃をおこなったが、米機動部隊を補足できなかった<ref name="叢書九八118" /><ref name="叢書八十169" />。
連合艦隊参謀長の[[宇垣纏]]少将は2月2日の陣中日誌『[[戦藻録]]』に「今回の事正に頂門の一針なり。開戦以来既に二ヶ月に垂んとす。彼も亦無策に終る筈なし。冒険性は彼の特徴なり。今や戦局南に西に火花を散らすの時機に投じたりと謂ふべく実効果と合はせ牽制の目的を達したり。今後と雖も彼として最もやりよく旦効果的なる本法を執るべし。'''其の最大なるものを帝都空襲なりとす。'''」と記した<ref name="叢書八十169" /><ref>[[#宇垣1979|宇垣 1979]]、76頁</ref><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、36頁(戦藻録2月2日)</ref>。宇垣少将は3月11日と12日の日誌にも同様の懸念を表し<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、37頁(3月11日、12日)</ref>、戦勝祝賀日の最中に本土空襲があることを想定して「其の結果思ふだに戦慄を禁ずる能はず」と述べている<ref>[[#宇垣1979|宇垣 1979]]、93頁</ref><ref>[[#トール2013|トール 2013]]pp.69-71『帝都空襲への恐れ」</ref>。

2月8日、連合艦隊は通信量の増大から「対米国艦隊第三法」を発動し、横須賀に在泊中の空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]を出動させた<ref name="叢書八十169" />。[[第五航空戦隊]]と[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]の戦艦により「警戒部隊」を編成、米空母部隊の捕捉撃滅を命じたが異常はなく、2月15日に第三法解除に至った<ref name="叢書八十169" />。
3月10日、連合艦隊は通信情報から米機動部隊が日本本土に来襲すると判断、対米国艦隊作戦第三法を発令した<ref name="叢書九八118" /><ref name="叢書八十182">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、182頁「その後の情報と措置」</ref>。警戒部隊・潜水艦部隊・陸上基地航空隊が出撃したものの米機動部隊は出現せず、3月18日の「第三法止メ」に至った<ref name="叢書九八118" /><ref name="叢書八十182" />。1月下旬以降、米軍機動部隊に関連する無線情報は1月31日・2月7日・17日・3月10日・28日の五回であったが、適中したのは1月31日と2月17日だけだった<ref name="叢書八十182" />。

以上のように、日本海軍は米軍機動部隊の奇襲に翻弄され、有効な対策をとれなかった<ref name="叢書八十315">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、315-317頁「五 聯合艦隊の研究/米空母対策」</ref>。真珠湾方面は警戒が厳しくて、潜水艦による偵察ができなかった<ref name="叢書八十315" />。東太平洋方面の海軍航空兵力はトラック泊地方面の第二十四航空戦隊(常用陸攻27、飛行艇18、戦闘機27)、関東地区の木更津海軍航空隊と横須賀海軍航空隊にすぎず、反撃はおろか哨戒すら満足にできなかった<ref name="叢書八十315" /><ref name="叢書八十339" />。連合艦隊は受け身の不利を痛感し、敵空母をおびき出して撃滅するという着想に至る<ref name="叢書八十315" /><ref name="叢書八十339">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、339-342頁「米空母撃滅企図―ミッドウェー作戦案」</ref>。軍令部や日本陸軍との折衝により二転三転したのち、連合艦隊は5月上旬に[[ポートモレスビー]]を攻略(1月下旬に発令済み)、6月上旬にミッドウェー作戦を実施、7月上旬にFS作戦、10月を目途にハワイ攻略作戦の準備という計画を練った<ref name="叢書八十339" />。

4月5日、大本営海軍部はミッドウェー攻略とアリューシャン西部要地攻略作戦に同意、採用を内定した<ref name="叢書八十345">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、345-346頁「アリューシャン西部要地攻略作戦の追加」</ref><ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、342-345頁「海軍部ミッドウェー作戦採用」</ref>。日本陸軍は「この作戦はハワイ攻略の前提ではないか」「アリューシャン作戦はソ連に悪影響を与えるのではないか」と疑っており、ミッドウェーおよびアリューシャン作戦に陸軍部隊の派遣を拒否した<ref name="叢書八十346">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、346-347頁「ミッドウェー、アリューシャン作戦の追加」</ref>。
4月16日、[[永野修身]]軍令部総長は長期自給戦略態勢確立と戦争終末促進をはかる「第二作戦計画」について[[昭和天皇]]に上奏、裁可を得た<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、347-350頁「第二段作戦計画/大東亞戦争第二段作戦 帝国海軍作戦計画」</ref>。同日、軍令部は大海指第85号により連合艦隊([[山本五十六]]司令長官)と[[支那方面艦隊]]([[古賀峯一]]司令長官)に対し第二段作戦方針を指示した<ref name="叢書八十353">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、353-354頁「第二段作戦方針の指示」</ref>。ミッドウェー作戦、FS作戦(フィジー、サモア方面)、インド洋作戦、ハワイ攻略準備について触れていたとみられる<ref name="叢書八十353" />。

=== 米空母艦載機による空襲計画 ===
[[ファイル:B-25 on the deck of USS Hornet during Doolittle Raid.jpg|thumb|200px|空母ホーネットに詰め込まれたB-25B改造機。]]
1941年(昭和16年)12月上旬の[[真珠湾攻撃]]以降も[[太平洋戦争]]の緒戦で、アメリカ軍は苦戦を強いられる。すでに述べたように、日本軍潜水艦によるアメリカ本土攻撃も、国民の士気に影響を与えた。この様な状況を受けて、アメリカ軍は[[士気]]を高める方策として日本の[[首都]][[東京]]を攻撃する計画を立てた<ref>[[#毎日S19空決|空の決戦]]コマ33(原本62頁)〔 米國の對日空襲計畫を考へて見ると、一昨年の春頃の米國の對日空襲計畫は、緒戰における大敗北によつて混亂した國内の民心を収攬するため、政治的に利用した揚言であつた。昭和十七年四月十八日の帝都空襲の如きも、僅か數機で行はれたに過ぎず、これによつて日本の生産地帯を壊滅せしめ得たとは米國自身も夢にも思つてはゐないに違ひない。「日本を空襲した」といふニュースが、當時の米國政府にとつては政治的に相當な價値があつたのであらう。これはルーズヴェルト一派の、米國の所謂ユダヤ系指導者達が、緒戦の敗戰を糊塗するために行つた芝居である。〕</ref>。後にドーリットルも「日本本土への空襲は、日本国民の心に混乱をもたらし、日本の指導者への疑念を抱かせ」「アメリカは士気を高める必要があった。」と自伝で述べている<ref>Doolittle, James H. and Carroll V. Glines. I Could Never Be So Lucky Again: An Autobiography. New York: Bantam Books, 1991, pp. 1–2.</ref>。

しかし、当時アジア太平洋の各地域で敗退を続けていた[[アメリカ海軍]]の[[潜水艦]]は警戒の厳しい日本本土を砲撃することのみならず、近付くにも大きな危険が伴うために、海軍艦船による砲撃は行えないと考えられた。
なお、アメリカ海軍は日本海軍のような[[潜水艦搭載偵察機]]とそれを搭載する大型潜水艦を実用化していなかった。
[[アメリカ陸軍航空軍]]は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[領域 (国家)|領土]]は[[日ソ中立条約]]のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。
アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには[[航空母艦|空母]]を日本近海に接近させる必要があり、これは[[太平洋]]上で唯一動ける空母機動部隊が危険に晒されることを意味した。

ルーズベルト[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は、真珠湾攻撃から2週間後の時点で、海軍に日本本土空襲の可能性を研究させていた<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、11頁</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]240-241頁「報復攻撃」</ref>。[[1941年]][[12月21日]]の[[ホワイトハウス]]会議でルーズベルト大統領は[[アメリカ統合参謀本部]]に対し米国民の士気を高めるためにも可能な限り早く日本に爆撃すべきだと要求した<ref>Glines, Carroll V. The Doolittle Raid,Orion Books, 1988, p. 10.</ref>。1942年(昭和17年)1月、海軍作戦部作戦参謀[[フランシス・S・ロー]]海軍大佐(潜水艦出身)は空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]の状況を確認した際、「航続距離の長い陸軍航空軍の爆撃機を空母から発艦させ、日本本土を爆撃する」というプランを思いつく<ref name="トール75">[[#トール2013|トール 2013]]pp.75-77『日本本土を爆撃できないか」</ref>。ロー大佐は、造船所視察のために滞在中だった[[アーネスト・キング]]提督にアイデアを説明<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]241-242頁「日本爆撃のアイデア」</ref>。ロー大佐は、さらに航空作戦参謀ドナルド・B・ダンカン海軍大佐に報告した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、12頁</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]242-243頁「航空作戦参謀ドナルド・ダンカン」</ref>。アイデアは[[アーネスト・キング]]提督から[[ヘンリー・アーノルド]]陸軍航空軍司令官に伝えられ<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]243-244頁「作戦成功の鍵」</ref>、アーノルドは[[ジミー・ドーリットル]]中佐を任務の指揮官に選んだ<ref name="トール75"/><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]245-246頁「<ruby><rb>それは君のやることだ</rb><rt>イッツ・ユア・ベイビー</rt></ruby>」</ref>。艦載する爆撃機として[[B-18 (航空機)|B-18]]、[[B-23 (航空機)|B-23]]、[[B-25 (航空機)|B-25]]、[[B-26 (航空機)|B-26]]が候補に挙がったが、B-18は航続力、爆弾搭載量共に不十分、B-23は全幅が長く艦橋部を通過できない、B-26は離陸距離が足りないといった問題があったため、条件をクリアしたのはB-25のみであった<ref>[[#牧|牧 1998]]、44頁</ref>。

選定されたB-25のうちB型から24機が本作戦用に改修されることになり、1月22日から作業に入った<ref name="牧 1998、45頁">[[#牧|牧 1998]]、45頁</ref>。部隊は第17爆撃隊(第34、第37、第95爆撃中隊、第89偵察中隊)から志願者を選別した<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]254-256頁「エグリン飛行場/飛行教官ハンク・ミラー」</ref>。長距離飛行が要求されるため、燃料タンクを大幅に増設した<ref name="トール75"/><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]246-247頁「機体改修」</ref>。爆弾槽内や無線士席の脇にも燃料タンクが設置され、下部銃塔も撤去してタンクの設置場所に充てていた<ref name="牧 1998、45頁"/>。機密保持のため任務の性格上必要ないと判断された[[ノルデン爆撃照準器]]を取り外し<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、18頁</ref>、代わりに11番機機長チャールズ・ロス・グリーニング大尉発案の“Mark Twain”と呼ばれたアルミ製簡易照準器が搭載された<ref name="牧 1998、45頁"/>。爆撃の様子を記録するため機体尾部に撮影機材が搭載された一方で尾部銃座は撤去され、木製の偽装銃身に交換された<ref>[[#牧|牧 1998]]、45-46頁</ref>。着陸地点が未定だったためソ連に向かうことを想定して機体には[[防氷ブーツ]]が装着され、作戦中は無線封止となるため無線機類は撤去されている<ref name="牧 1998、46頁">[[#牧|牧 1998]]、46頁</ref>。使用する爆弾は通常の500ポンド爆弾1発と[[トリニトロトルエン|TNT]]と[[アマトール]]混合の500ポンド特殊爆弾1発、焼夷弾128発を束ねたM54集束焼夷弾2発、計4発であった<ref name="牧 1998、46頁"/>。

2月1日、ノーフォーク沖でジョン・E・フィッツラルド海軍大尉とジェームス・F・マッカーシー海軍大尉がB-25Bをホーネットから発進させることに成功した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、13頁</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]252-253頁「極秘の発艦実験」</ref>。4月1日、16機がサンフランシスコ・アラメダ埠頭で空母ホーネットの甲板にクレーンで搭載された<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、21頁</ref><ref name="トール73">[[#トール2013|トール 2013]]pp.73-74『空母ホーネットにのせられたB-25」</ref>。陸軍航空軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦の詳細はルーズベルト大統領にさえトップシークレットとされた。また任務終了後は空母に帰投・着艦するのではなく、[[日本列島]]を横断して当時、[[日本軍]]と戦争中であり、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の主要構成国の1国であった中華民国東部に[[中華民国国軍]]の誘導信号の下で着陸する予定となった<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]250-252頁「中国への通報」</ref>。[[蔣介石]](中華民国総統)自身は日本軍の報復を恐れて着陸の延期を執拗に要請しており、また中華民国軍飛行場への誘導電波発信機設置は間に合わなかった<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]276-277頁「設置されなかったホーミング・ビーコン」</ref>。アメリカ軍は[[ウラジオストク]]を避難場所とすることを検討してソ連に提案したが、日本と中立条約を結んでいた同国は拒否した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、16頁</ref>。B-25を搭載する空母はホーネットとされ、姉妹艦の[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]が護衛に付くこととなった<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]266-268頁「空母機動部隊」</ref>。

=== 参加兵力 ===
'''第16任務部隊(護衛任務)'''
* [[ウィリアム・ハルゼー|'''ウィリアム・F・ハルゼー''']]'''中将'''
* 空母 「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」
** 重巡洋艦:[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]]
** 重巡洋艦:[[ソルトレイクシティ (重巡洋艦)|ソルトレイクシティ]]
** 駆逐艦:[[w:USS Balch (DD-363)|バルチ]]、[[ベンハム (DD-397)|ベンハム]]、[[w:USS Fanning (DD-385)|ファニング]]、[[w:USS Ellet (DD-398)|エレット]]
*** 給油艦:[[w:USS Sabine (AO-25)|サビン]]
'''第18任務部隊(日本本土空襲任務)'''
* 空母 「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」
** 重巡洋艦:[[ヴィンセンス (重巡洋艦)|ヴィンセンス]]
** 軽巡洋艦:[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]]
* 第52駆逐隊
** 駆逐艦:[[グウィン (DD-433)|グウィン]]、[[w:USS Grayson (DD-435)|グレイソン]]、[[メレディス (DD-434)|メレディス]]、[[w:USS Monssen (DD-436)|モンセン]]
*** 給油艦:[[w:USS Cimarron (AO-22)|シマロン]]
(4月13日、ミッドウェー環礁北方で第16任務部隊と合同。同部隊に編入)


== 経過 ==
== 経過 ==
[[Image:James H Doolittle medal bomb.jpg|thumb|200px|爆撃隊率いたジミー・ドーリットル中佐]]
[[ファイル:James H Doolittle medal bomb.jpg|thumb|200px|爆弾に日本の勲章取り付けるジミー・ドーリットル中佐]]
[[Image:No.23-NittoMaru.jpg|thumb|right|200px|第二十三日東丸]]
[[ファイル:No.23-NittoMaru.jpg|thumb|right|200px|第二十三日東丸]]
[[Image:No.23-NittoMaru-1942.jpg|thumb|right|200px|炎上する第二十三日東丸]]
[[ファイル:No.23-NittoMaru-1942.jpg|thumb|right|200px|炎上する第二十三日東丸]]
[[ファイル:USS Hornet (CV-8) launching B-25 bomber during the Doolittle Raid on 18 April 1942 (80-G-41197).jpg|thumb|right|200px|空母ホーネットから発艦するB-25。]]
[[Image:Japanese fishing boat sunken by Doolittle-Raiders.jpg|thumb|right|200px|敵艦発見を報じた後、撃沈された日本の特設監視艇]]
[[Image:Tokio Kid Say.png|thumb|right|200px|搭乗員を処刑した事に対するアメリカのプロパガンダ風刺画]]
1942年4月1日、16機のB-25を搭載した空母「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」および護衛の[[巡洋艦]]3隻、[[駆逐艦]]3隻は[[サンフランシスコ]]を出撃した。途中、「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」と巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流し、日本へ向かった。攻撃予定日前日の4月17日、アメリカ海軍艦船レーダーに映った国籍不明の2隻の漁船を哨戒機で確認中に日本軍[[特設艦船#特設監視艇|特設監視艇]]「[[第二十三日東丸]]」に発見された。「第二十三日東丸」は軽巡「[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]]」の砲撃で午前7時頃に撃沈され(「エンタープライズ」艦載機の攻撃も受けている)、乗員14人全員は艇と運命を共にした。発艦予定海域手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたことで、爆撃隊は予定より早く空母「ホーネット」を発艦した。なお、「ナッシュビル」はもう1隻の監視艇(「長渡丸」)を撃沈している。


=== 艦隊発見 ===
第二十三日東丸の通報を受けた日本軍は、正午すぎに第十一航空艦隊指揮下の一式陸攻(魚雷装備)29機、零戦12機を米艦隊発見地点に向かわせた。しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった<ref>坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』(光人社、2000)26頁</ref>。
1942年(昭和17年)4月1日、16機のB-25を搭載した空母ホーネットおよび護衛の[[巡洋艦]]3隻、[[駆逐艦]]3隻は[[サンフランシスコ]]を出撃した<ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、16頁</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]268-269頁「出発」</ref>。4月13日、第18任務部隊(ホーネット隊)は、ハルゼー提督直率の第16任務部隊(エンタープライズ、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)と合流し、日本へ向かった<ref>スタットフォード『THE BIG E』上90頁</ref><ref name="トール78">[[#トール2013|トール 2013]]pp.78-80『当部隊は東京へ向かう」</ref>。事情を知らないホーネットの乗組員は、B-25を[[真珠湾]]に運ぶ任務だと噂していた<ref name="トール73"/>。エンタープライズ乗組員は、ソ連にB-25を輸送する任務だと噂している<ref name="トール78"/><ref name="big上91">スタットフォード『THE BIG E』上91頁</ref>。ドーリットル自身は、被弾した場合は搭乗員を脱出させたのち目標に[[特別攻撃隊|特攻]]する決意だったという<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]277-278頁「アメリカのカミカゼ」</ref>。
事前の計画では、4月18日午後に日本本土(本州)沿岸距離500浬地点でB-25隊は発進(各機500ポンド爆弾4個搭載)<ref name="叢書八五77">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、77-78頁「米軍の作戦準備」</ref>。指揮官ドーリットル中佐機は夜間の東京に[[焼夷弾]]を投下、火災を目標に後続機が爆撃を敢行(ほかに名古屋、大阪、神戸を各1機が空襲)<ref name="叢書八五77" />。空襲終了後は全機中国大陸に脱出というものだった<ref name="叢書八五77" />。


攻撃予定日直前の[[4月18日]]02:10(03:15とも。以下時刻は24時間制で表記。)、エンタープライズはレーダーに2つの光点を発見する<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、28頁</ref><ref>スタットフォード『THE BIG E』上93頁</ref><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]280-281頁「総員配置」</ref>。米艦隊は[[SBD (航空機)|SBDドーントレス爆撃機]]を索敵のため発進させ、同機は{{coor dm|36|4|N|153|10|E|}}地点で[[哨戒艇]]を発見した<ref>スタットフォード『THE BIG E』上94頁</ref><ref name="トール82">[[#トール2013|トール 2013]]pp.82-84「敵に発見された模様」</ref>。
一方、[[ジミー・ドーリットル]]中佐率いるB-25爆撃機16機は[[東京府]][[東京市]]、[[神奈川県]][[川崎市]]、[[横須賀市]]、[[愛知県]][[名古屋市]]、[[三重県]][[四日市市]]、[[兵庫県]][[神戸市]]を爆撃した。
06:44、米艦隊は哨戒艇を視認。それは日本軍[[特設艦船#特設監視艇|特設監視艇]][[第二十三日東丸]](日東漁業、昭和10年建造、90トン)に発見されたことを意味した<ref name="写真14日本軍艦190"/><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、29頁</ref>。底引網漁船の第二十三日東丸は<ref>[[#変種|変わりダネ軍艦奮闘記]]、204-207頁「遂にキャッチした敵機動部隊」</ref>、軽巡洋艦[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]]の砲撃とF4Fワイルドキャット(エンタープライズ)の機銃掃射を受けた<ref name="トール82"/>。07:23に[[撃沈]]されて乗員14人全員は艇と運命を共にしたが、アメリカ軍側は巡洋艦の主砲[[砲弾]]915発(もしくは928発)、12.7mm機銃1200発、SBDドーントレス1機被撃墜(乗員は脱出)と30分を必要とし<ref name="トール82"/>、第二十三日東丸に[[無線通信|無線]]を使う時間を与えた<ref>「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.10(無線の伝播・解読で時差が生じている)</ref><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、39、142頁</ref>。06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった<ref>「第2監視艇隊戦時日誌(4)」pp.2-3</ref>。
後日(昭和18年3月15日附)、日本海軍は第二十三日東丸に対し感状を授与した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070432300|昭和18年7月9日(金)海軍公報(部内限)第4435号 pp.33-34}}〔 ○感状|感状 第二機動部隊 昭和十七年六月「アリユーシヤン」群島方面作戰ニ於テ濃霧ヲ冒シ惡天候ニ耐ヘ長馳「ダツチハーバー」ヲ反覆攻撃シ所在ノ敵艦船飛行機ノ大部ヲ撃破シ軍事施設ヲ潰滅シタルハ爾後ノ作戰ニ寄與セル所極メテ大ニシテ其ノ功績顕著ナリト認ム 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス  昭和十八年三月十五日 聯合艦隊司令長官 山本 五十六|特設監視艇 第二十三日東丸 昭和十七年四月十八日敵機動部隊本土東方洋上ニ來襲スルヤ逸早ク之ヲ捕捉シ機ヲ失セズ敵發見ノ第一報ヲ發スルト共ニ爾後敵ノ執拗ナル攻撃ヲ冒シテ飽ク迄之ニ觸接シ其ノ最後ニ到ル迄刻々適切ナル敵情ヲ報告シタルハ我作戰ニ寄與セル所極メテ大ニシテ其ノ功績顕著ナリト認ム 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス  昭和十八年三月十五日 聯合艦隊司令長官 山本 五十六 〕</ref>。


アメリカ軍は付近の哨戒艇を一掃する事を決意<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、82-83頁「哨戒部隊米空母発見」</ref>、エンタープライズから発進したドーントレス(アメリカ軍記録では[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]])は周辺の哨戒艇を攻撃する<ref>スタットフォード『THE BIG E』上95頁</ref><ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、28-29頁</ref>。7:00に特設巡洋艦[[粟田丸 (特設巡洋艦)|粟田丸]]([[日本郵船]]、7,398トン)、10:00に特設監視艇海神丸(高塚仁左衞門他、134トン)、11:00に特設監視艇第一岩手丸(東北興業、97トン)と第二旭丸(立石松義、164トン)、長久丸(大門長一、116トン)。11:30に第一福久丸(補償責任焼津信用販売購買利用組合、152トン)、特設砲艦興和丸(三光汽船、1,106トン)、特設監視艇第二十六南進丸([[マルハ|林兼商店]]、81トン)。12:00には特設監視艇栄吉丸(補償責任焼津信用販売購買利用組合、150トン)と粟田丸(2回目)、第三千代丸(中村碩郎、128トン)をそれぞれ攻撃した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、39-42頁、142-151頁、206頁</ref>。以下、被害状況を記載する。
なおこのうち一機(ホーネットを4番目に発艦した機長エベレット・W・ホームストロム[[少尉]]のB-25)は正規の防空戦闘機隊ではないキ61試作機([[三式戦闘機|三式戦闘機飛燕]])の追撃をうけ、翼内燃料タンク漏れと旋回銃故障に陥った{{要出典|date=2010年12月}}。


第二旭丸(第二哨戒隊)は11:00に銃撃を受け、戦死1名・戦傷2名を出した<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔第二旭丸〕</ref>。
さらに正午に翌日ラバウルへ送るために試験飛行をしていた海軍の十三試双発陸上戦闘機が横浜上空に高角砲の弾幕と山肌スレスレを飛行する双尾翼の双発機を目撃して操縦していた小野飛曹長は[[九六式陸上攻撃機]]かと思ったものの当日早朝に敵空母機動部隊発見の報告から警戒警報が出されていて米軍機かもしれないと考えて、陸軍のキ61とは違い実弾を積んでいなかったため攻撃は行わず急いで木更津基地へ滑り込んだ{{要出典|date=2010年12月}}。


海神丸は11:00から銃撃を受けたが、被害軽微だった<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔海神丸〕</ref>。
横須賀航空隊からは、[[宮崎勇 (軍人)|宮崎勇]]飛行兵曹ら3機の零戦が発進し、哨戒飛行にあたっていた。零戦隊は『双発機2機が試験飛行で飛ぶので注意せよ』との通達を受けており、対空砲火の中を飛ぶB-25を通達のあった味方機と誤認した。零戦隊が敵機だと知らされたのは着陸してからだった<ref>宮崎勇『還って来た紫電改 <small>紫電改戦闘機隊物語</small>』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0651-5 14-16頁</ref>。


福久丸は11:35に艦爆から攻撃を受けたが、被害はなかった<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔福久丸〕</ref>。
日本側には50人の死者、家屋262戸の被害が出た。また、[[偵察|索敵]]から帰還した海軍[[攻撃機]]を敵機と誤認した陸軍[[戦闘機]]の機銃攻撃を受け、海軍軍人1名が死亡。さらに[[国際法]]上禁止されている非戦闘員に対する攻撃に至った機もあり[[葛飾区]]にある水元国民学校高等科の少年が[[機銃掃射]]を受け死亡した<ref name="sakuramoto">{{cite web|url=http://www.sakuramo.to/profile/student008.html |title=第8回 教育塔(2) |author=[[櫻本富雄]] |accessdate=2010-06-06}}</ref>。この学童には「悲運銃撃善士」という[[戒名]]が与えられた<ref name="sakuramoto"/>。また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。


粟田丸は12:15に爆撃をうけ至近弾となり、軽傷1名を出したが船体の被害は軽微だった<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔粟田丸〕</ref>。
爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部に着陸した(一機はソ連の[[ウラジオストク]]に着陸、乗員は抑留された)。乗員は戦死が1名、行方不明が2名、捕虜となったのが8名で、残りはアメリカへ帰還した。[[大本営]]はこの被害を隠蔽し、「敵機9機を撃墜。損害軽微」などと発表した。しかし当日は晴天であり、墜落した航空機など市民からは一機も確認されなかったため、大本営の発表に対し、『皇軍は空機(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜したのだ』と揶揄するものもいた<ref>佐々木冨秦・網谷りょういち「続・事故の鉄道史」([[日本経済評論社]]、1995年)の77頁で、著者の佐々木冨秦が読売新聞社の記者をしていた兄の話として記述されている。</ref>。


第三千代丸は12:22より機銃掃射を受け、戦死2名を出した<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔第三千代丸〕</ref>。
一方、日本軍に逮捕された爆撃機搭乗員8人は、都市の無差別爆撃と非戦闘員に対する機銃掃射を実施した[[戦時国際法]]違反であるとして、[[捕虜]]ではなく[[戦争犯罪人]]として扱われ、[[上海市]]で開廷された軍事裁判の結果、8人全員に死刑が言い渡され1942年10月15日に上海競馬場で操縦士2名と銃手1名が処刑された(ウィリアム・ファロー中尉、デーブ・ハルマーク中尉、ハロルド・スパッツ軍曹)。


第二十六南進丸は11:40から6回におよぶ空襲を受け、戦死1名・戦傷5名を出した<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔第二十六南進丸〕</ref>。
3人の遺体は[[火葬]]ののち[[国際赤十字]]を通じてアメリカ側に引き渡された。残りの5人であるが死刑執行は猶予されたが、1人が1943年12月1日に南京で栄養失調による[[赤痢]]と[[脚気]]で死亡し、残りの4人は1943年8月にアメリカ側に引き渡されたが、1人は1945年当時[[重慶市|重慶]]で療養していたと報道された<ref>朝日新聞1945年9月28日朝刊</ref>。


長久丸は[[機銃掃射]]で[[火災]]が発生して漂流、翌日03:00に沈没した<ref name="高松宮4巻229長久丸">[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]、229頁「○42°N158°E、〇三〇〇漂流中ノ長久丸ヲ発見、戦死士官一兵一、生存者十三名収容。今ヨリ第二十三日東丸捜索ニ向フ、粟田丸艦長(十九=〇四三〇)」</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔長久丸〕</ref>。生存者は粟田丸に救助された<ref name="高松宮4巻229長久丸" /><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、143-144頁</ref>。
これに対してアメリカは、『[[野蛮|野蛮人]]の蛮行』として大々的に[[プロパガンダ]]に利用した。また日本の指導者であった[[東条英機]]を「血に飢えた独裁者」であると宣伝し、現在もアメリカ国内ではそのように認識されている。1944年にこれら捕虜を描いた映画『パープル・ハート』が20世紀フォックスによって製作された。

「栄吉丸」はSBD1機と交戦して重傷2名を出し、航行不能となる<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔栄吉丸〕</ref>。特設巡洋艦[[赤城丸 (特設巡洋艦)|赤城丸]](日本郵船、7,389トン)に曳航されて[[本土]]に向かった。

「第一岩手丸」(第三哨戒隊)は米軍機の爆撃と[[機銃掃射]]で航行不能になり、翌日17:00に潜水艦「[[伊号第百七十四潜水艦|伊七四]]」が[[自沈|砲撃処分]]した([[乗組員|乗員]]は伊七四に救助<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、150頁</ref>)<ref>柴田武彦、原勝洋『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』アリアドネ企画、2003年、ISBN 4-384-03180-7、150ページ</ref><ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]231頁「○第十一潜水隊(一九-一七〇〇)第一岩手丸、十八日敵ノ空襲ヲ受ケ遭難漂流沈没ニ瀕セルニ会ヒ乗員ヲ収容セリ。戦死二、重傷一、生存者一一名、地点30°-51′N 155°-26′E」</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、84頁〔第一岩手丸〕</ref>。

12:50、第二十一南進丸(林兼商店、88トン)が至近弾で航行不能となり、翌日17:00に軽巡洋艦[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]が砲撃処分した([[乗組員|乗員]]は木曽に救助)<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、148頁</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔第二十一南進丸〕</ref>。

長渡丸(無限責任長渡浜漁業協同組合、94トン)は12:30頃より空襲を受けたが、この時点では被害軽微だった<ref name="変種206">[[#変種|変わりダネ軍艦奮闘記]]、206-207頁「壮烈"長渡丸"の最期」</ref>。だが米機動部隊に遭遇、艇長(前田儀作兵曹長)は敵情を確認するため、あえて機動部隊に向けて突入した<ref name="変種206" />。13時には『米空母2隻、米巡洋艦2隻を発見』したと通報する<ref>「第3監視艇隊戦時日誌(1)」pp.40</ref>。空襲を受けて損傷<ref name="変種206" />。さらに約30分後の13:36、ナッシュビルが長渡丸を6インチ砲102発、5インチ砲63発と1時間を消費して沈めた。長渡丸の乗員9名が[[戦死]]し、5名がナッシュビルに救助されている<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、43、150頁</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、84頁〔長渡丸〕</ref>。

アメリカ艦隊による一連の掃討により、特設監視艇隊は大きな被害を受けた<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]233頁「○北方部隊(二九三=一九-一〇〇〇)四月十九日」</ref>。5隻沈没(第二哨戒隊3隻〈第二十三日東丸、長久丸、第二十一南進丸〉<ref>「第3監視艇隊戦時日誌(1)」p.31、[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、212頁</ref>、第三哨戒隊2隻〈長渡丸、第一岩手丸〉<ref>「第2監視艇隊戦時日誌(4)」pp.13</ref>)、7隻損傷(粟田丸、興和丸、第三千代丸、栄吉丸、第二旭丸、第二十六南進丸、海神丸)、戦死33名、戦傷者23名と記録されている<ref name="写真14日本軍艦190"/><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、84頁(第二、第三哨戒隊被害一覧)</ref>。
しかし、漁船改造の特設監視艇隊の報告は米軍機動部隊の奇襲計画を狂わせており、この点で空襲(作戦)に与えた影響は極めて大きかった<ref name="佐藤艦長文庫209">[[#佐藤、艦長(文庫)]]209-211頁「陰の貢献者たち」</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、83頁〔第二十三日東丸〕</ref>。

米艦隊は発艦予定[[海域]]手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたため、当初の夜間爆撃の予定をとりやめ<ref name="写真14日本軍艦190"/><ref name="big上91"/>、予定より7時間早い08:15からB-25爆撃機を発艦させ始めた<ref>[[#牧|牧 1998]]、47頁</ref>。最後のB-25が09:16に発艦した後、艦隊は直ちに退避を開始した<ref>[[#牧|牧 1998]]、48頁</ref><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、36頁</ref><ref>スタットフォード『THE BIG E』上97頁</ref>。
なお、B-25の7番機(テッド・W・ローソン中尉)の搭載爆弾には、駐日米海軍[[駐在武官|武官]]補佐官ステファン・ユーリカ海軍[[中尉]]の所有物で、かつて日本から授与された[[紀元二千六百年記念行事|紀元2600年祝典]][[記念章]]がドーリットルの手で装着されていた<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、82頁</ref>。ハルゼー提督(エンタープライズ乗艦)は「諸君、利息をつけて、この勲章を返してやれ、成功を祈る」と伝言している<ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、23頁(爆弾に勲章をつけるドーリットル写真)</ref>。
{{-}}

=== 空襲 ===
ドーリットル率いるB-25爆撃機16機は[[東京府]][[東京市]]、[[神奈川県]][[川崎市]]、[[横須賀市]]、[[愛知県]][[名古屋市]]、<!--[[三重県]][[四日市市]]、--><!--他文献と比較要検証。16番機の機銃掃射以外に四日市の爆撃記録があれば詳細求む-->[[兵庫県]][[神戸市]]などを爆撃した<ref name="叢書八五87応戦">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、87-89頁「本土各地空襲と応戦」</ref>。16機中15機が爆弾投下に成功したが、照準ミスや進路変更などにより当初の軍事目標以外の場所を爆撃した機も少なくなかった。また日本側当時の「言論出版集会結社等臨時取締法」統制により来襲の報道こそあったが被害状況は伏字により、国民の口にのぼる事もなかった<ref>{{Cite web|和書|title=「尾久初空襲(ドーリットル空襲)」史実とそれを語り継ぐ教育運動 |url=https://www.meiji.ac.jp/shikaku/kyoikukai/6t5h7p00000ih815-att/4-02.pdf |website=資格課程(関連項目)> 明治教育会 |date= |accessdate=2023-05-04 |publisher=明治大学 |author=田村正彦 |page=43}}</ref>。

{| class="wikitable" style="white-space:nowrap; text-align:center; font-size:90%;" rules="all"
|+ 作戦参加機一覧<ref name="牧 1998、49頁">[[#牧|牧 1998]]、49頁</ref>
! rowspan="2" | 機体<br />番号
! rowspan="2" | シリアル<br />ナンバー
! rowspan="2" | ニックネーム
! rowspan="2" | 所属
! rowspan="2" | 発艦<br />時間
! rowspan="2" | 機長
! rowspan="2" | 目標
! colspan="2" | 実際の攻撃地
! rowspan="2" | 脱出状況
|-
! 爆撃
! 機銃掃射<br />(地上)
|-
| 1番機
| 40-2344
|
| 34BS
| 08:15
| [[ジミー・ドーリットル|ジェイムズ・ハロルド・ドゥーリトル]]中佐(隊長)
| 東京
| [[東京市]][[牛込区]]<br />東京市[[淀橋区]]<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、46頁</ref>
| -
| [[衢州市|衢州]]付近で空中脱出
|-
| 2番機
| 40-2292
|
| 37BS
| 08:20
| トラヴィス・フーヴァー中尉(Travis Hoover)
| 東京
| 東京市[[荒川区]]<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、53頁</ref>
| -
| [[寧波]]付近に不時着
|-
| 3番機
| 40-2270
| ''Whisky Pete''
| 95BS
| 08:30
| ロバート・マニング・グレイ中尉(Robert Manning Gray)
| 東京
| [[埼玉県]][[川口市]]<br />東京市[[王子区]]<br />東京市[[葛飾区]]<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、59-63頁</ref>
| 埼玉県川口市<br />東京市葛飾区<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、63頁</ref>
| [[温州]]西方で空中脱出
|-
| 4番機
| 40-2282
|
| 95BS
| 08:32
| エヴァレット・ウェイン・ホルストロム中尉(Everett Wayne Holstrom)
| 東京
| [[相模湾]]<br />(洋上投棄)<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、65頁</ref>
| -
| [[上饒]]南方で空中脱出
|-
| 5番機
| 40-2283
|
| 95BS
| 08:35
| デイヴィッド・M・ジョーンズ大尉 ([[:en:David M. Jones|David M. Jones]])
| 東京
| [[神奈川県]][[川崎市]]<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、69頁</ref>
| -
| [[衢県]]南方で空中脱出
|-
| 6番機
| 40-2298
| ''The Green Hornet''
| 95BS
| 08:37
| ディーン・エドワード・ホールマーク中尉 (Dean Edward Hallmark)
| 東京
| 神奈川県川崎市<br />神奈川県[[横浜市]]<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、73-75頁</ref>
| 神奈川県横浜市<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、75頁</ref>
| [[寧海]]付近に不時着水
|-
| 7番機
| 40-2261
| ''The Ruptured Duck''
| 95BS
| 08:40
| テッド・ウィリアム・ローソン中尉 ([[:en:Ted W. Lawson|Ted William Lawson]])
| 東京
| 神奈川県川崎市<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、78頁</ref>
| -
| 寧海付近に不時着水
|-
| 8番機
| 40-2242
|
| 95BS
| 08:47
| エドワード・ジョセフ・ヨーク大尉(Edward Joseph York)
| 東京
| [[栃木県]][[西那須野町]]<br />[[新潟県]][[新津市|新津町]]<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、85-87頁</ref>
| -
| [[ウラジオストク]]北に着陸
|-
| 9番機
| 40-2303
| ''Whiring Dervish''
| 34BS
| 08:52
| ハロルド・フランシス・ワトソン中尉(Harold Francis Watson Jr.)
| 東京
| 東京市[[品川区]]<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、90-94頁</ref>
| -
| [[撫州]]付近で空中脱出
|-
| 10番機
| 40-2250
|
| 89RS
| 08:55
| リチャード・アウトコルト・ジョイス中尉(Richard Outcalt Joyce)
| 東京
| 東京市品川区<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、97-98頁</ref>
| -
| 衢州付近で空中脱出
|-
| 11番機
| 40-2249
| ''Hari kari-er''
| 34BS
| 09:00
| チャールズ・ロス・グリーニング大尉(Charles Ross Greening)
| 横浜
| [[千葉県]][[椿海村]]<!--香取飛行場宿舎側--><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、103頁</ref>
| -
| 衢州付近で空中脱出
|-
| 12番機
| 40-2278
| ''Fickle Finger of Fate''
| 37BS
| 09:01
| ウィリアム・マーシュ・バウワー中尉 ([[:en:Bill Bower|William Marsh Bower]])
| 横浜
| 神奈川県川崎市<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、103-105頁</ref>
| -
| 衢州付近で空中脱出
|-
| 13番機
| 40-2247
|
| 37BS
| 09:02
| エドガー・アール・マケルロイ中尉(Edgar Earl McElroy)
| 横須賀
| 神奈川県[[横須賀市]]<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、107頁</ref>
| 神奈川県横須賀市<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、108頁</ref>
| 上饒北西で空中脱出
|-
| 14番機
| 40-2297
| ''The Avenger''
| 89RS
| 09:05
| ジョン・アレン・ヒルガー少佐(John Allen Hilger、副長)
| 名古屋
| [[愛知県]][[名古屋市]]<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、112-116頁</ref>
| -
| 上饒南東で空中脱出
|-
| 15番機
| 40-2267
| ''TNT''
| 89RS
| 09:10
| ドナルド・グレゴリー・スミス中尉(Donald Gregory Smith)
| 神戸
| [[兵庫県]][[神戸市]]<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、117-121頁</ref>
| -
| 寧海付近で不時着水
|-
| 16番機
| 40-2268
| ''Bat Out of Hell''
| 34BS
| 09:16
| ウィリアム・グラヴァー・ファロウ中尉 ([[:en:William G. Farrow|William Glover Farrow]])
| 大阪<br />↓<br />名古屋
| 愛知県名古屋市<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、122頁</ref>
| [[三重県]][[伊曽島村]]<br />三重県[[四日市市]]<br />[[和歌山県]][[名手町]]<br />和歌山県[[粉河町]]等<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、124-125頁</ref>
| [[南昌]]付近で空中脱出
|}
以下、特筆すべき機を記載する。

'''1番機'''(ドーリットル隊長機)は[[茨城県]]から東京上空に侵入し、12:15に空襲を行った<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]285-286頁「東京初空襲」</ref>。小石川後楽園の[[東京第一陸軍造兵廠]]を目標としていたが、全く無関係の場所を爆撃してしまい、[[民間人]]に死傷者を出す<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、50頁</ref>。その結果、[[早稲田中学校・高等学校|早稲田中学]]の校庭にいた4年生の小島茂と通行人1名が死亡、[[外傷|重傷]]者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。1番機はその後[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[九七式戦闘機]]の追尾を振り切り、[[厚木海軍飛行場|海軍厚木基地]]近くを通過して海上に出た。この時厚木基地に配備されていた機体は、旧式の[[九六式艦上攻撃機]]だった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、52頁</ref>。中国大陸到達時の天候は悪化しており、また中華民国軍飛行場には誘導電波装置が設置されていないため夜間着陸は不可能となり、ドーリットルは[[パラシュート|落下傘脱出]]を命じる<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]286-287頁「追い風」</ref>。午後9時30分(ホーネット発艦より約13時間、飛行距離約3620km)、搭乗員は自動操縦の機体から脱出した<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]287-288頁「三度目の落下傘脱出」</ref>。ドーリットル自身は作戦失敗(東京空襲は成功したが、B-25輸送任務には失敗)だと判断していた<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]289-290頁「B-25の残骸」</ref>。「軍法会議にかけられる」と悲観しており、部下に慰められたという<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]290-291頁「奈落の底」</ref>。

'''2番機'''は1番隊長機を追い抜き、目標としていた東京第一陸軍造兵廠の兵器庫(東京都北区[[十条]])を目指したが、快晴の中でも目標確認が取れず目についた施設を爆撃、当時の[[尾久町]]八、九丁目(現在の荒川区尾久橋付近)にて爆弾3個と集束焼夷弾1個を投下。当時の記録によると落下地点で直径10メートル、深さ5メートルの穴が開き、死亡10人・重傷34人・軽傷14人・全焼43戸・全壊9戸・半焼1戸・半壊13戸の被害が出た。よって本土空襲第一弾となり「尾久初空襲」と呼称される<ref>{{Cite web|和書|title=尾久本土初空襲から80年パネル展 |url=https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a004/kouhou/houdou/20220407.html |website=広報・報道・広聴 > 報道・プレス発表 > 2022年4月 |date=2022-05-12 |accessdate=2023-05-04 |publisher=荒川区 |author= |page=}}</ref>。事前の警戒警報は無くサイレンが鳴ったのは爆撃後の12時28分頃であった<ref>{{Cite web|和書|title=「尾久初空襲(ドーリットル空襲)」史実とそれを語り継ぐ教育運動 |url=https://www.meiji.ac.jp/shikaku/kyoikukai/6t5h7p00000ih815-att/4-02.pdf |website=資格課程(関連項目)> 明治教育会 |date= |accessdate=2023-05-04 |publisher=明治大学 |author=田村正彦 |page=41-42}}</ref>。

'''4番機'''は、唯一爆弾を海上に捨てて離脱したB-25となった<ref name="覇者上293" />。機長は日本軍機多数に迎撃され、[[機関銃|機銃]]も故障して離脱したと申告している<!--対応する日本軍機は存在しない。事実、後述の横須賀航空隊の零戦小隊も、対空砲火の中を飛ぶB-25を発見(味方機と誤認)したが、交戦はしていない<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、67頁</ref>。-->。

'''6番機'''は東京を目標としたのち、[[中国大陸]][[沿岸]]の日本軍の[[占領]]区域に不時着した<ref name="覇者上291" />。爆撃手ダイター[[軍曹]]、[[航空機関士]]フィッツマーリス[[伍長]]が死亡し、機長ホールマーク中尉、[[副操縦士|副機長]]メダー[[少尉]]、ネルソン[[航空士]]が[[捕虜]]となった。

'''8番機'''は[[鹿島灘]]から東京へ侵入したが、機械不調のため燃料消費がはやかった<ref name="覇者上293">[[#覇者上|大空の覇者上]]293-294頁「残る一機」</ref>。8番機は北上して[[栃木県]]の[[西那須野駅]]、[[新潟県]]の[[阿賀野川]][[橋|橋梁]]<!-- 爆撃目標ということで鉄道橋だと思われますが、この橋は白新線、羽越本線、磐越西線のいずれでしょうか。 --->付近を爆撃しつつ、[[日本海]]へ抜けて[[ウラジオストク]]に向かった<ref>「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.15-16</ref>。[[日本海]]を越えて19:35にソ連本土に不時着(ウラジオストク近郊の飛行場に着陸とも)したが、すぐにソ連警察によって[[拘留]]されてしまう<ref name="覇者上293" />。乗員は捕虜的立場で各地を転々と移送されたのち、同盟国の[[イギリス]]の影響圏である[[イラク]](一部著作では[[イラン]])<ref name="覇者上293" /> に脱出して、[[1943年]](昭和18年)5月29日にようやくアメリカに帰還した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、87頁</ref>。

'''11番機'''は本土侵入後に[[水戸陸軍飛行学校]]の航空隊機に迎撃された([[#陸海軍航空隊|後述]])。そのため横浜に侵入することができず、回避行動中に発見した建設中の[[香取航空基地|香取海軍飛行場]]を爆撃し、[[九十九里浜]]を抜けて離脱した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、99-103頁</ref>。
[[File:Yokosuka-Naval-Base-18-April-1942.jpg|thumb|right|200px|横須賀軍港に対する空襲<br />(13番機より撮影)]]
'''13番機'''は、[[房総半島]]の南部を横断して[[横須賀市|横須賀]]に向かった。13:00頃、記念艦「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」の上空から爆撃を開始し、3発目の爆弾が、[[横須賀港|横須賀軍港]]第4[[ドック]]で[[潜水母艦]]から空母へと改装中だった大鯨{{Sfn|歴群57、艦載兵装の変遷|2007|p=62}}([[龍鳳 (空母)|龍鳳]])に命中する<ref>[[#戦藻録1979]]105頁</ref>。大鯨では火災が発生した<ref>[[#S1701呉鎮日誌(7)]] p.45〔 十八日一九〇〇大鯨艦長(宛略)大鯨機密第六番電 十八日一三三五敵飛行機一機來襲右舷一〇六番ビーム水線部外舷ニ爆弾命中(破孔縦八米横十五米)小火災輕傷者三名微傷者四名ヲ生ズ 〕</ref>。13番機は日本海軍の中枢([[横須賀鎮守府]])を爆撃することに成功し、[[対空砲火]]の中を離脱した。

'''16番機'''は、ホーネット発艦時にプロペラ接触事故で乗組員1名が左腕を切断した<ref name="覇者上291"/>。当初は大阪を目標としていたが実際に爆撃したのは名古屋で<ref>[[#牧|牧 1998]]、48-49頁</ref>、投下後は[[和歌山市|和歌山]]に向かい、後に中国奥地で5名全員が捕虜となった<ref name="覇者上291"/>。この16番機は日本[[領土]]内の各地で民間人に対する機銃掃射を行い、これが後の死刑判決に繋がった。

空襲を終えた16機のB-25のうち、北のウラジオストクへ向かった8番機を除く15機のB-25は日本本土南岸の洋上を飛んで中国大陸へ向かった。この時、B-25は遭遇した[[船|船舶]]に対して、それが民間船であろうと機銃弾のある限り攻撃を行った<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、125-129頁</ref>。15:00、[[室戸岬]]沖で[[漁船]]「高島丸」が攻撃を受け重傷1名。16:00、[[足摺岬]]沖で漁船「第二三木丸」が2機に銃撃され、2名が死傷した。17:15、[[鹿児島県]]の[[口永良部島]]近海で漁船「昌栄丸」が機銃掃射を受け、重傷1名が出た。

=== 日本軍の反応 ===
==== 日本海軍 ====
[[ファイル:IJN cruiser Takao on trial run in 1939.jpg|thumb|200px|right|重巡洋艦高雄。]]
[[4月9日]]、日本海軍は真珠湾方面に哨戒機多数を確認、14-15日には北方方面での哨戒機多数出現から「アリューシャン方面に有力部隊行動中の算あり」との見方を持った<ref name="叢書八五78">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、78-79頁「通信情報」</ref>。だが、連合艦隊、第五艦隊とも米機動部隊の本土来襲を予期できなかった<ref name="叢書八十360" /><ref name="叢書八五78" />。

[[4月18日]]06:30、「第二十三日東丸」から『空母2隻を含む機動部隊発見』という通報を受けた日本軍は、警戒を厳とする<ref name="叢書四三59">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、59-60頁「空襲の概要」</ref><ref name="舞鶴日誌弐11">「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.11</ref><ref>「横須賀海軍警備隊(6)」pp.45</ref>。しかし米空母機動部隊の発見位置は、本土より600浬以上東方であった<ref name="叢書四三59" />。日本海軍は、アメリカ軍の攻撃は[[航続距離]]の短い[[艦載機]]によるものと判断する<ref name="トール89">[[#トール2013|トール 2013]]pp.89-91『東京が爆撃される」</ref>。アメリカ軍機(攻撃距離250浬)の発進および関東地方空襲は、翌日(4月19日)早朝と推測した<ref name="叢書102、S17.04.18" /><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、6、154頁</ref>。

そこで[[連合艦隊]](旗艦[[大和 (戦艦)|大和]]、[[瀬戸内海]]桂島泊地所在)は「対米国艦隊作戦第三法」を発令<ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、34頁(石橋孝夫「ドーリットル空襲に対する日本海軍の反撃」)</ref><ref name="叢書八五85">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、85-86頁「聨合艦隊の作戦指導」</ref>。第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]海軍[[中将]](旗艦愛宕)の[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]に米[[機動部隊]]の捕捉・撃滅を命じる(連合艦隊機密第801番電)<ref name="トール89"/><ref name="叢書八五85" />。近藤中将は前進部隊指揮官として内地在泊艦艇を指揮することになった<ref name="叢書八十360" /><ref name="叢書八五85" />。
「愛宕」は空襲前日に横須賀に戻ったばかりで<ref name="叢書四三128">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、128-130頁「作戦準備間に合わず」</ref><ref name="叢書八五80">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、80-82頁「聨合艦隊の状況」</ref>、近藤長官以下第二艦隊首脳部は4月18日朝から[[軍令部]]に出張していた<ref name="中島作戦46">[[#中島作戦室|中島、作戦]]、46-47頁「至急出港」</ref>。
空襲時の横須賀には[[高雄型重巡洋艦]]2隻([[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]〈整備中〉)<ref name="叢書八五80" />、水上機母艦[[瑞穂 (水上機母艦)|瑞穂]]<ref name="叢書八五85" />、第4駆逐隊の[[陽炎型駆逐艦]]2隻([[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]])が在泊しており<ref name="叢書八五85" />、空母[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]は東京湾で訓練中だった<ref>「軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(5)」pp.2</ref>、[[三河湾]]には重巡洋艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]](第四戦隊)、[[瀬戸内海]]には第五戦隊の[[妙高型重巡洋艦]]2隻([[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]、[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]])、呉軍港には軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]([[第二水雷戦隊]]旗艦)が所在だった<ref name="叢書八五85" />。
上記艦艇に加え、日本に帰投中の重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]](4月16日[[カムラン湾]]発{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=133|ps=(昭和17年4月16日記事)}}、18日時点で[[南沙諸島|新南群島]]航行中){{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=134|ps=(昭和17年4月18日記事)}}、第7駆逐隊、第8駆逐隊、第10駆逐隊が前進部隊に編入され<ref name="叢書八五85" />、米機動部隊の迎撃任務にあたることになった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、6-7頁</ref><ref name="丸写真三37">[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、37頁</ref><ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.1-2</ref>。

同時に、連合艦隊は内海西部所在の警戒部隊(2月8日に編成<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、75頁「警戒部隊の編成」</ref>。指揮官[[高須四郎]]第一艦隊司令長官、第二戦隊〈伊勢、日向、扶桑、山城〉、第九戦隊〈北上、大井〉、空母部隊〈鳳翔、瑞鳳、三日月、夕風〉、矢風等)に、前進部隊の支援を命じた<ref name="叢書九八118" /><ref name="叢書八五85" />。駆逐艦が少ないため、4月17日に呉を出撃したばかりの第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)が警戒部隊に編入された<ref name="叢書八五85" />。
第二六航空戦隊(基地航空隊)及び臨時に指揮下に入った航空部隊(第二十一航空戦隊、第四航空隊〈木更津陸攻隊〉、空母[[加賀 (空母)|加賀]]飛行隊)も戦闘準備を整え、木更津からは06:35より[[一式陸上攻撃機]]4機が発進した<ref name="叢書八五85" /><ref name="叢書八五86航空">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、86-87頁「基地航空部隊」</ref>。

トラック泊地へ進出中の[[第六艦隊 (日本海軍)|第六艦隊]](先遣部隊指揮官[[小松輝久]]中将)は<!--4月16日内海西部発 -->、09:40に軍艦2隻(練習巡洋艦[[香取 (練習巡洋艦)|香取]]、甲標的母艦[[千代田 (空母)|千代田]])と東方先遣隊(潜水艦6隻)から潜水艦部隊を分離、掃航索敵を命じ、千代田には警戒部隊合同を命じた<ref name="叢書九八118" /><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、86頁「先遣部隊」</ref>。本土東方500浬附近所在の第三潜水戦隊([[伊号第八潜水艦]]、第11潜水隊、第12潜水隊)<!--4月15日呉出撃、クェゼリン方面へ移動中 -->も索敵攻撃を命じられた<ref name="叢書九八118" /><ref>[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、121頁「挿図第六 先遣部隊散開線移動図」</ref>。

[[横須賀鎮守府]]は08:05に「第二十三日東丸」からの敵機動部隊発見第一報を受信し、08:20に航空部隊に対し「敵艦船攻撃第二法」<!--索敵攻撃、第一攻撃隊は陸攻12、第二攻撃隊は飛行艇、第三~第六は艦爆・艦攻・水偵 -->を下令した<ref name="叢書八五87横鎮">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、87頁「横須賀鎮守府部隊」</ref>。08:30、横鎮管区に警戒警報が発令される<ref name="叢書八五87横鎮" />。軍令部は各方面鎮守府部隊の航空隊を[[横須賀鎮守府]]司令長官の指揮下に入れ、関東地方に集中することにした<ref name="叢書四三59" />。

また、これに先立ち最初にアメリカ軍の空母発見の報告を受けた[[第五艦隊 (日本海軍)#第五艦隊 (二代目)|第五艦隊]]司令長官[[細萱戊子郎]]中将は、まず特設巡洋艦2隻([[粟田丸 (特設巡洋艦)|粟田丸]]〈第二哨戒隊支援艦〉、[[浅香丸 (特設巡洋艦)|浅香丸]]〈第三哨戒隊支援艦〉)に、哨戒隊支援および接触を命じた<ref name="丸写真三36">[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、36頁</ref><ref name="叢書八五84a">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、84-85頁「北方部隊」</ref>。つづいて帰投中の第二哨戒隊に、敵発見地点を基準として索敵するよう命じた<ref name="叢書八五84a" />。
[[釧路港]]で休養整備中だった部隊も出動を命じられた<ref name="叢書八五84a" />。特設巡洋艦[[赤城丸 (特設巡洋艦)|赤城丸]]は4月18日09:00に、第一哨戒隊の昌光丸と監視艇17隻は同日14:30に釧路を出撃、20日夜までには東経149度線の配備についた<ref name="叢書八五84a" />。

室蘭に停泊していた重巡洋艦[[那智 (重巡洋艦)|那智]](3月10日附北方部隊編入)は11:15に出撃<ref name="叢書八五84a" />。09:20に厚岸を出撃していた第二十一戦隊の軽巡洋艦2隻([[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]、[[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]])は18:30に那智と合流し<ref name="叢書八五84a" />、共に米機動部隊の迎撃へと向かった<ref name="丸写真三36"/><ref name="光栄海戦辞典56-57">[[#光栄海戦辞典]] pp.56-57</ref>。迎撃へと向かった各部隊は上記のように米機動部隊が翌日19日に攻撃圏内へ入ると考えていたが、実際には既にB-25を発進後直ちに退避していた<ref name="叢書四三59" />。そのため、これらを捕捉することができなかった<ref name="光栄海戦辞典56-57"/>。

第二艦隊や警戒部隊は外洋に出て米機動部隊を捜索したが会敵できず、4月20日夕刻に作戦を中止する<ref name="中島作戦46"/><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、91-92頁「艦艇による捜索」</ref><ref name="トール97">[[#トール2013|トール 2013]]pp.97-98</ref>。21-23日にかけて各艦は母港へ戻った<ref name="中島作戦46"/><ref>「軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(8)」pp.2</ref>。

当時無敵を誇った[[第一航空艦隊|南雲機動部隊]](司令長官[[南雲忠一]]中将、参謀長[[草鹿龍之介]]少将、参謀[[源田実]]他)は[[インド洋]]で行われた[[セイロン沖海戦]]から日本への帰路についており、[[台湾]]近海を航行中だった<ref name="叢書八十360" /><ref name="草鹿回想111">[[#草鹿回想|草鹿回想]]、111-112頁「帝都空襲に司令部あわてる」</ref>。南雲麾下の[[第二航空戦隊]](司令官[[山口多聞]]少将)に属する空母2隻([[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]])にも迎撃命令が下ったが<ref>「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.12</ref>、[[関東地方|関東]]沖合の米機動部隊を捕捉するには距離が遠すぎた<ref>碇義朗『飛龍 天に在り』(光人社 1994年)252頁</ref>。草鹿参謀長は「なにかに対するゼスチュアとするなら別問題であるが、戦争にゼスチュアは禁物である」と回想している<ref name="草鹿回想111"/>。

なお横須賀軍港には多数の艦艇が停泊しており、祥鳳・愛宕・高雄・嵐・野分・[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]・[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]・[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]・[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]・第二十二駆潜艇等が発砲したが、いずれも命中弾はなかった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、166頁</ref><ref>「軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(5)」pp.3-4</ref>。また、[[宮崎県]]の[[都井岬]]沖には第15駆逐隊([[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]])が航行しており(前述のように警戒部隊編入を命じられていた)<ref name="叢書八五85" />、16:17に駆逐艦「[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]」がB-25数機を発見し、[[主砲]]と機銃で攻撃したが、損害を与えることはできなかった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、125頁</ref><ref>[[#S1701呉鎮日誌(7)]]p.53「十九日一五〇〇 十五驅司令(宛略)十五驅機密第二二四番電 十八日一六〇〇ヨリ一六四〇迄都井岬ノ五二度三六浬ニテ双発双方舵大型機(陸軍イ式重爆撃機ニ酷似)五機(編隊セズ)高度五〇乃至一〇〇米ニテ南西方ニ向ケ黒潮ハ内一機ニ米國マークヲ確認シ之ヲ撃攘セリ敵機ハバンクヲ行ヒ且車輪ヲ出シアリ塗色濃緑色ニシテ胴體後部ノ白色マーク(明瞭ナラザルモノ多シ)ノ外識別極メテ困難」</ref>。

==== 日本陸軍 ====
日本海軍からの通報を受けた[[大日本帝国陸軍|陸軍]]は、万一に備えて各地の[[陸軍飛行戦隊|飛行部隊]]と[[防空]]部隊に防衛と哨戒命令を出した<ref name="叢書八五87応戦" />。さらに敵爆撃機警戒警報を出したが、「敵機の[[高さ|高度]]は高い」の通達が各地の判断を惑わせる。このため各部隊はB-25編隊を発見しつつ、日本軍機と勘違いして上級司令部へ通報してしまう<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、155頁</ref>。また当時のB-25のアメリカ軍国籍マークは旧式スタイル(青い円の上に白い星、白い星の中心に赤い円)のため、自国の軍機と勘違いしてB-25に手を振る民間人もいたという<ref name="トール89"/>。
菅谷と岩屋監視哨はB-25をアメリカ軍機と断定して報告したが、[[電話交換手]]と監視隊本部との押し問答で15分を浪費し、情報は有効に生かされなかった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、155-156頁</ref>。かろうじてB-25の通過前に迎撃を開始した[[高射砲]]部隊もあったが、旧式の[[八八式七糎野戦高射砲]]でB-25を捕捉することは出来なかった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、158-161頁</ref>。逆に高射砲弾の破片が[[市民]]7名を負傷させた。陸軍よりも海軍の高射砲台の方が活発に射撃したが、1発の命中弾もなく終わる<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、162-166頁</ref>(また、各砲台は半分以上が工事中だった<ref>「横須賀海軍警備隊(6)」pp.6</ref>)。なお陸海軍とも[[三八式歩兵銃]]による対空射撃が多数記録されているが、全く命中しなかった<ref>「横須賀海軍警備隊(7)」pp.20</ref>。

==== 陸海軍航空隊 ====
[[ファイル:Kawasaki Ki-61.jpg|thumb|200px|right|三式戦「飛燕」一型(キ61-I)]]
[[三沢海軍航空隊]][[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]第二六航空戦隊の[[木更津海軍航空隊|木更津基地]]からは、[[一式陸上攻撃機]]部隊が米艦隊捜索に発進した<ref name="叢書八五86航空" /><ref name="叢書八五89">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、89-90頁「航空機による捜索」</ref>。第四索敵機(有川俊雄中尉)が09:30にB-25単機(国籍不明の双発飛行艇らしきもの、西進を報告)を発見したのみで、米艦隊発見には至らなかった<ref name="叢書八五86航空" /><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、170頁</ref><ref>「木更津空調書(3)」pp.6</ref>。この陸攻は、アメリカ軍の機動部隊に相当接近したと思われ<ref name="叢書八五89" />、エンタープライズは50 km まで接近した[[偵察機]]の存在を記録している<ref>スタットフォード『THE BIG E』上98頁</ref>。
午後12時30分、第十一航空艦隊は敵艦隊の位置がわからないまま、[[魚雷]]を装備した一式陸攻30機(第六空襲部隊22機、三沢空8機)、零戦12機、内地に帰還していた空母[[加賀 (空母)|加賀]]所属の[[零式艦上戦闘機|零戦]]12機を米艦隊発見地点に向かわせた<ref name="叢書八五89" /><ref>「木更津空調書(3)」pp.7-8</ref><ref>「三沢空行動調書(1)」pp.21-23</ref>。
しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった<ref>[[#坂井ら2000|坂井ら 2000]] 26頁</ref>。一式陸攻3機が墜落と不時着で失われ、零戦1機も不時着して大破した。各基地の航空隊は19日以降も索敵を行い、大部分は米軍機動部隊攻撃に備えて待機したが、もはや出番はなかった<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、92頁「空襲後の捜索」</ref><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、93-94頁「四月二十日以後の捜索」</ref>。

B-25の大半の侵入ルートにあった[[水戸陸軍飛行学校]]は、本来航空通信と機上射手の[[教育]]を目的としていたため、[[航空戦力]]がなかった。教官の平原金治[[曹長]]が九七式戦闘機で出撃したものの、B-25には追いつけなかった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、99頁</ref>。しかしながら、試作戦闘機「キ61」(のちの[[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]])試作2・3号機に搭載した[[一式十二・七粍固定機関砲|ホ103 一式十二・七粍固定機関砲]]射撃試験のため、水戸飛校を訪れていた[[陸軍航空審査部|陸軍飛行実験部実験隊]]の[[荒蒔義次]][[少佐]]、梅川亮三郎准尉がキ61で迎撃している。荒蒔機は装備の弾薬筒を代用弾([[演習弾]])から実弾に変更するため離陸が遅れ、会敵出来なかったものの、梅川機は代用弾のまま先行離陸、B-25の11番機を捕捉し、白煙をふかせた<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、99-101頁</ref>。しかし11番機は撃墜には至らず離脱したため、これによって撃破されたB-25は4番機(ホームストロム少尉)ともされている<ref>渡辺洋二『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』 文春文庫、2002年。p63</ref>。なお11番機は日本軍戦闘機2機の[[撃墜]]を報告したが、キ61は無事帰還した。また[[川崎市|川崎]]を爆撃した9番機(ハロルド・F・ワトソン中尉)は、機関銃を4丁装備した引き込み脚の戦闘機から攻撃を受けたと報告している<!--対応する日本機は存在しない<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、175頁</ref>-->。

さらに正午に翌日[[ラバウル航空隊]]へ送るために試験飛行をしていた海軍の[[月光 (航空機)|十三試双発陸上戦闘機]]が[[横浜市|横浜]]上空に[[高角砲]]の[[弾幕]]と山肌スレスレを飛行する[[尾翼#双尾翼|双尾翼]]の双発機を目撃し、[[操縦]]していた小野飛曹長は[[九六式陸上攻撃機]]かと思ったものの、当日早朝に敵空母機動部隊発見の報告から警戒警報が出されていたことから米軍機かもしれないと考え、実弾を積んでいなかったため攻撃は行わず、急いで木更津基地へ滑り込んだ{{要出典|date=2010年12月}}。

[[横須賀海軍航空隊|横須賀航空隊]]からは、[[宮崎勇 (軍人)|宮崎勇]]飛行兵曹ら3機の零戦が発進し、哨戒飛行にあたっていた。零戦を順次上空哨戒に発進させていたところ、B-25の空襲がはじまった<ref name="叢書八五87応戦" />。零戦隊は『双発機2機が試験飛行で飛ぶので注意せよ』との通達を受けており、対空砲火の中を飛ぶB-25を通達のあった味方機と誤認した。零戦隊が敵機だと知らされたのは[[着陸]]してからだった<ref>[[#宮崎1993|宮崎 1993]] 14-16頁</ref>。

[[東海地方|東海地区]]では、B-25到達までに時間があったことから、空襲前に[[要撃機|迎撃機]]が発進した。鈴鹿海軍航空隊から[[九六式艦上戦闘機]]9機、[[九六式艦上攻撃機]]、[[九七式艦上攻撃機]]6機が出撃したが、空振りに終わった。「陸上爆撃機は高高度襲来」の思い込みから高高度で待機し、少数機が低空で飛行するB-25を見落とした結果だった。逆に洋上哨戒に出た九七式艦上攻撃機1機が不時着し、乗員は救助された<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、177頁</ref>。陸軍からは[[明野陸軍飛行学校]]が臨時防空戦闘機隊を編成し、[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]3機、九七式戦闘機15機に教官が搭乗して離陸した。この部隊もB-25と遭遇できずに帰還した<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、178頁</ref>。[[阪神間|阪神]]地区では、陸軍の[[飛行第13戦隊 (日本軍)|飛行第13戦隊]]が空襲にまったく対応できず、出撃記録も不明である。ただし、B-25の15番機が神戸上空で九七式戦闘機2機を目撃している。海軍は阪神地区の防空を担当しておらず、動きはなかった。[[岩国海軍航空隊|岩国航空隊]]が所属機を横須賀に派遣したのみである。

洋上では、[[佐伯海軍航空隊]]所属の[[九九式艦上爆撃機]]2機が15:47に[[高知県]][[足摺岬]]沖でB-25を発見した。井上文刀[[大尉]]は追跡を命じたが、速度の遅い艦上爆撃機ではいかんともしがたく、振り切られた。

== 結果 ==
[[ファイル:Doolittle Raider RL Hite blindfolded by Japanese 1942.jpg|thumb|right|200px|捕虜となったB-25搭乗員を連行する[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]下士官]]
[[ファイル:Tokio Kid Say.png|thumb|right|200px|搭乗員を処刑した事に対するアメリカのプロパガンダ諷刺画]]
発表によって異なるが、日本側の被害は死者87名、重傷者151名(うち後日死亡1名)、軽傷者311名以上、物的被害は家屋400戸で、うち[[家屋]]全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上であった<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、211頁</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.meiji.ac.jp/shikaku/kyoikukai/6t5h7p00000ih815-att/4-02.pdf |title=尾久初空襲(ドーリットル空襲) |accessdate=2023-12-8 |publisher=明治大学 |author=田村正彦}}</ref>。このうち9名は日本軍高射砲の破片によると認められている<ref>「昭和十七年四月十八日空襲被害状況」pp.2</ref>。[[国際法]]上禁止されている[[非戦闘員]]に対する[[攻撃]]を[[故意]]に行った機もあった<ref>[[#英米の空爆原理]]コマ6(原本2-3頁)〔 昭和十七年四月十八日は我等日本人としては忘れることの出來ない日である。それは日本が始めて敵機に依つて空襲の洗禮を受けた日である。あの日我等の何人が良く敵機の來襲を現實に起るものとして夢にも考へたてゐたであらうか。全く寝耳に水であつた。被害程度は幸ひにも日本々土としては一寸したカスリ傷を受けた程度に過ぎなかつたが、敵の射手が白晝低空飛行しながら學校の運動場で遊んでゐる小學兒童に對して掃射死傷せしめたと云ふ一事は決して輕少な問題ではない。我が軍律が陸上で囚はれの身となつた其時の敵搭乗員を戰時俘虜として取扱はずに殺人罪としてそれぞれ處断したのは誠に當然のことであつた。〕</ref>。
[[葛飾区]]にある[[水元]][[国民学校]]では、高等科の生徒、石出巳之助が[[機銃掃射]]を受け死亡した<ref name="sakuramoto">{{cite web|url=http://www.sakuramo.to/profile/student008.html |title=第8回 教育塔(2) |author=[[櫻本富雄]] |accessdate=2010-06-06}}</ref>。この学童には「悲運銃撃善士」という[[戒名]]が与えられた<ref name="sakuramoto" />。[[朝日新聞社]]は『[[鬼畜]]の敵、校庭を掃射』等を報じている<ref name="安田&amp;石橋1994.p.87">[[#安田&石橋1994|安田&石橋 1994]]、87頁</ref><ref>「写真週報 267号」p.5</ref>。

また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。ただし、このB-25(3番機)は学校屋上に設置されていた防空監視[[櫓 (城郭)|櫓]]を見て軍事施設と誤認した可能性がある<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、64頁</ref>。14番機は[[国立病院機構名古屋医療センター|名古屋病院]]を爆撃したが、これは[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]司令部を狙った攻撃がそれたためである<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、112頁</ref>。16番機は他のB-25に比べて積極的に機銃掃射を行った。

爆撃機隊は[[日本列島]]を横断し、[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]東部にて乗員は[[パラシュート]]脱出した<ref name="トール95"/>。この結果、15機のB-25が全損となった(11機落下傘脱出、4機着水)<ref name="覇者上291">[[#覇者上|大空の覇者上]]291-292頁「一一機落下傘脱出、四機着水」</ref>。8番機はソ連の[[ウラジオストク]]に不時着、乗員は抑留された(詳細前述)<ref name="トール95"/>。爆撃機隊のうち、乗員[[戦死]]が1名、[[行方不明]]が2名、[[捕虜]]となったのが8名(後日3名処刑、1名病死。詳細後述)<ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、17頁</ref><ref name="覇者下260">[[#覇者下|大空の覇者下]]260-261頁「捕虜になった八名」</ref>。ドーリットル中佐は陸軍准将へ二階級特進、隊員全員は重慶で[[蔣介石]]と[[宋美齢]](蔣介石夫人)と晩餐会を共にした<ref name="覇者上294">[[#覇者上|大空の覇者上]]294-296頁「帰国」</ref>。5月5日、ドーリットルは[[ダグラス DC-3|ダグラスDC-3]]で重慶を出発し、中東・アフリカ経由で5月18日にアメリカ(ワシントン)へ帰国<ref name="覇者上294"/><ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]295頁(ドゥリットルの帰路、多分当時の世界最速の地球半周、13日間)</ref>。[[名誉勲章|議会名誉勲章]]を授与された<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]296-298頁「ホワイトハウスへ」</ref>。他の隊員も順次帰国し、熱烈な歓迎を受けた<ref>「ル大統領、日本空爆隊員を顕賞」</ref>。ただし、捕虜搭乗員への配慮から、作戦の全貌は秘密にされた。

[[昭和天皇]]は[[杉山元]][[参謀本部 (日本)|参謀総長]]からではなく[[東久邇宮稔彦王]][[防衛総司令部|防衛総司令官]]に「真相を直接報告せよ」と[[勅|勅命]]した。それに対し、東久邇宮防衛総司令官は「敵機は一機も撃墜できませんでした。また今のような体制では国内防衛は不可能です」と答申する<ref>[[#松本2007|松本 2007]]、228-229頁</ref>。なお、[[大本営]]は「敵機9機を撃墜。損害軽微」「わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり」と発表した<ref>「四月十八日空襲に関する第一報?第四報」pp.1</ref><ref>[[#安田&石橋1994|安田&石橋 1994]]、86頁</ref><ref>[[#大阪画報前]]コマ97(原本185頁)「四月十八日●敵機京濱地方に襲來、又名古屋、四日市、和歌山、神戸等にも來る、何れも撃退、敵機九機を撃墜した。」</ref>。[[中部軍 (日本軍)|中部軍]]に至っては、空襲直後に「東京防空隊ノ撃墜セシ機数7」を報告している<ref>「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.14</ref>。
しかし当日は[[晴天]]であり、墜落した航空機など[[市民]]からは一機も確認されなかった。このため、大本営の発表に対し、「[[皇軍]]は空機(9機と[[空気]]をかけた[[駄洒落]])を撃墜したのだ」と[[揶揄]]するものもいた<ref>佐々木冨秦・網谷りょういち「続・事故の鉄道史」([[日本経済評論社]]、1995年)の77頁で、著者の佐々木冨秦が[[読売新聞社]]の記者をしていた兄の話として記述されている。</ref><ref name="淵田2007.p.175">[[#淵田2007|淵田 2007]]、175頁</ref>。そのため陸軍は中国大陸に不時着した16番機の残骸を回収し、空襲時に撃墜した機体として4月25日から[[靖国神社]]で展示して、国民の疑念を晴らそうとした<ref name="牧 1998、49頁" /><ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、191頁</ref>。4月26日の[[朝日新聞]]は『まさしく[[大東亜戦争|大東亜戦]]下の靖国神社臨時大祭にふさわしい景観』と評している<ref>[[#安田&石橋1994|安田&石橋 1994]]、89頁</ref>。陸軍報道部は「指揮官はドゥ・リトルだが、実際(被害)はドゥ・ナッシング」と発表した<ref name="トール95" /><ref name="淵田2007.p.175" />。ドーリットル空襲の結果、[[武藤章]]が解任されたとの見方もある{{Sfn|激動の昭和|1989|p=153}}。この空襲のため[[東京六大学野球]]の開会式が中止となった<ref>[[西本幸雄]]、[[私の履歴書]]</ref>。

朝日新聞は4月19日朝刊で『[[バケツ]]、火叩きの殊勲、我家まもる[[女子]]、街々に健気な[[隣組]]』『初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散。"必消"の民防空に凱歌』『われに必勝不敗の国土防衛陣あり』等を報じ、[[日本国民]]の冷静さを強調した<ref>[[#安田&石橋1994|安田&石橋 1994]]、88頁</ref>。一方、日本軍は空襲に対して疑心暗鬼となっていた。空襲前日の4月17日、[[伊豆諸島]]沖を航行していたソ連商船「セルゲイ・キロフ」が駆逐艦「[[澤風 (駆逐艦)|澤風]]」の[[臨検]]を無視して逃走し、「澤風」が[[拿捕]]する。ソ連船は4月22日まで拘留された。足摺岬沖のソ連商船「バンゼッチ」も、九九式艦爆2機から[[威嚇]]射撃を受けた。これはソ連商船がB-25の行動を本国に報告しており、空襲と関係があるものと疑ったためである<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、182頁</ref>。駆逐艦「[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]」はソ連商船の連行を命じられたが、悪天候のため一時見失った<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]235頁「○「早潮」(二一-〇三三九受)」</ref>。

空襲後は各地の監視哨から存在しない敵大編隊発見の報告が入り、上級[[司令部]]を混乱させた<ref name="叢書八十362" /><ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、93頁「空襲後の情報の混乱」</ref>。[[カモメ]]の大群を「敵味方不明の大編隊」とする報告や、存在しない米軍機との交戦報告が多数寄せられている<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、183-184頁</ref>。一例として、[[大阪警備府]]は「[[ブリストル ブレニム]]爆撃機と目下大阪上空にて防空隊と交戦中」と4月19日に報告した<ref>「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.19</ref>。また陸海軍機に対する誤認と[[同士討ち|誤射]]が18日から21日にかけて多数発生し<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、186-188頁</ref>、[[鹿島海軍航空隊|鹿島空]]の九六式陸上攻撃機が陸軍戦闘機から誤射され、高橋光夫電信員が戦死した<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]233頁〔 ○六空襲(七二=一九-二〇五〇) 〕</ref>。誤認空襲警報により、天皇や皇族たちも臨時避難を余儀なくされた<ref>[[#実録八|実録八巻]]、691-692頁(御金庫室に御動座/この日の空襲警報は誤報)</ref>。

[[4月21日]]、神戸沖で公試中の水上機母艦「[[秋津洲 (水上機母艦)|秋津洲]]」(艦長[[黛治夫]]大佐)は「B-25を発見、砲撃して撃退した」と報告する<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]236頁〔 ○大阪「秋津洲」〔行間書込〕一五二五、公試中和田岬沖ニテB-25ヲ見テ砲撃、東ヘ撃攘スト。《輸送キカ》(神経戦ノ目的通リ)。〕</ref>。実際は、[[九六式陸上攻撃機]]か[[ダグラス DC-3|ダグラス輸送機]]に対する[[同士討ち|誤射]]であり、弾丸の破片が[[関西汽船]]所有の小型客船「天女丸」に降り注いだ<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]236頁〔 大阪湾内天女丸一五二八機銃掃射ヲ受ク。(ホントカ、然ラザレバ「秋津洲」ノ弾丸炸裂破片ナラン)(岩国空ノ九六陸攻ガウタレタ、モウ一ツ陸軍ノ「ダグラス」ガ通ツタ、ソレラシイ)〕</ref><ref>[[#S1704横鎮日誌(4)]] p.24〔 二十一日二〇〇〇呉鎮長官|二十二日〇六〇〇軍令部總長(横鎮長官)(略)一.本二十一日霞ヶ浦航空隊ヨリ岩國航空隊ニ空輸中ノ岩國航空隊九六陸攻二機ハ大阪湾上空ニ於テ一五一五頃高度三〇〇米ニテ艦艇(大阪警備附通報ニ依レバ秋津洲)一隻ヨリ砲撃(機上確認三斉射)ヲ受ケ同時刻附近ニアリシ商船前記高射砲弾片ニヨルラシキ水柱ヲ認メ機銃掃射ヲ受ケタリト大阪警備府ニ報告セリ 當時海上濛氣稍深ク同飛行機ハ船舟ニ對シ「バンク」ヲ行ヒツツ飛行中ナリシガ同艦ヨリ射撃ヲ受クル迄其ノ所在ニ氣付カズ直ニ味方識別ヲ行ヒツツ避退セリ 被害ナシ(以下略)〕</ref>。

一方、日本軍に[[逮捕]]された爆撃機搭乗員8人は、都市の[[無差別爆撃]]と[[非戦闘員]]に対する[[機銃掃射]]を実施した[[戦時国際法]]違反であるとして、[[捕虜]]ではなく[[戦争犯罪人]]として扱われた<ref>「6-1.各国ノ反響 新聞切抜」pp.17</ref>。アメリカは爆撃機搭乗員が捕虜になったことを知ると、「彼らは軍事目標のみを攻撃した」と事実とは異なる主張を展開した<ref>「スチムソン遂に「東京空襲捕虜」を自認」pp.2</ref>。5月6日、昭和天皇は[[蓮沼蕃]][[侍従武官長]]に以下の希望を述べた<ref name="松本2007.p.230">[[#松本2007|松本 2007]]、229-230頁</ref>。

# 日本[[武士道]]に反せざるよう<ref name="松本2007.p.230"/>
# [[国際関係]]に悪影響を及ぼさざるよう<ref name="松本2007.p.230"/>
# [[大日本帝国|帝国]][[臣民]]にして敵側に抑留せらある者(将来も起り得べし)に対する敵側の[[報復]]を誘わざるよう、穏便に行うこと<ref name="松本2007.p.230"/>

その後、[[上海市]]で開廷された[[軍事裁判]](第十三軍軍事裁判所)の結果、[[1942年]](昭和17年)8月28日に8名全員に対して「人道に反する行為を犯した罪」により[[死刑]]が言い渡された<ref>[[#実録八|実録八巻]]、803-804頁(本土空襲米国軍人の処分)</ref><ref>[[#英米の空爆原理]]コマ6-7(原本3-4頁)〔 ただこの問題に關し我等の斷言し得るは日本のこの處分方法が單に報復的のものではなくて将來に對する警告的のものであつた事である。陸軍報道部長谷萩少将は曰く、「我に捕はれた敵兵中或は意識的に軍事施設に非ざる病院、國民學校等を攻撃し、入院中の病院、頑是なき小學兒童を殺傷してゐるが、斯かる暴虐非道の行爲を爲せし者は俘虜として待遇することなく嚴重に處斷した次第でこの方針は将來も同様である」 〕</ref>。
中央部では判決を支持する声が多かったが、天皇の意向を受けた東條首相は慎重姿勢であり、審議が続いた{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=192-193|ps=米飛行士処分問題}}。
10月13日、参謀総長は支那派遣軍総司令官に対し死刑執行を3名(操縦士2名、銃手1名)とし、残5名を無期監禁とするよう希望する<ref name="実録八808">[[#実録八|実録八巻]]、808-809頁(死刑判決米国軍人に対する処置)</ref>。14日、減刑命令発令<ref name="実録八808"/>。[[10月15日]]、[[上海市|上海]]競馬場で操縦士2名と銃手1名が処刑された<ref name="実録八808"/>(ディーン・E・ハルマーク〈ホールマーク〉中尉、ウィリアム・ファロー中尉、ハロルド・スパッツ軍曹)。10月19日、大本営陸軍報道部長は談話を発表した<ref name="実録八808"/><ref>[[#大阪画報後|大東亜戦争記録画報後篇]]コマ126(原本242頁)〔 十月十九日●大本營にては『去る四月十八日帝国本土を空襲し、わが方に捕へられたる米國機搭乗者中取調べの結果、人道を無視したるものは今般軍律に照し嚴重處分せられたり』と陸軍報道部長談を發表。又防衛司令官より『大日本帝國領土を空襲しわが構内に入れる敵航空機搭乗員にして暴虐非道の行爲ありたる者は軍律會議に附し死または重罰に處す、満州國またわが作戰地域を空襲しわが構内に入りたる者また同じ』と布告す 〕</ref>。
[[福留繁]](当時、軍令部第一部長)は「陸軍はいつの間にか捕虜の処刑をすませ、天皇にも海軍にも事後奏上や通告ですませた」「日本を攻撃して捕虜になったら死刑になるという見せしめのためであった」と回想している{{Sfn|福留繁|1971|p=218}}。

[[1943年]](昭和18年)4月23日、アメリカはドーリットル隊員が処刑されたことをはじめて報道する<ref>[[#人種偏見]]61頁</ref>。また、日本政府に対して抗議を行う<ref>[[#英米の空爆原理]]コマ7(原本4頁)〔 ルーズベルト米國大統領は本年一九四三年三月十二日中立國を通じてこの事件に關する帝國政府の正式通告を受取るや否や直ちに正式抗議を日本に爲した旨發表したが、それは常に人道を口ぐせのやうに叫ぶ米國政治家の行動としては餘りに逆上した行動と言はねばならぬ。第一にこの米國搭乗員の日本小學兒童に對して加へた殺害方法は明白にゼネヴアで締結された陸戰法規に違背するものである。米國の指導者達はこの事を知らない筈はない。〕</ref>。
同時に日本側の行為を『[[野蛮|野蛮人]]の蛮行』として非難し、大々的に[[プロパガンダ]]に利用した<ref>「6-1.各国ノ反響 新聞切抜」pp.26</ref>。また日本の指導者であった[[東條英機]]を「血に飢えた[[独裁者]]」であると[[宣伝]]し、現在もアメリカ国内ではそのように認識されている。[[1944年]](昭和19年)にこれら捕虜を描いた映画『[[パープル・ハート (映画)|パープル・ハート]]』が[[20世紀フォックス]]によって[[製作]]された<ref>[[#人種偏見]]62頁</ref>。[[ガダルカナル島の戦い]]や[[アッツ島の戦い]]を経た同時期に至ると、連合国の間では[[日本人]]絶滅政策を検討するようになった<ref name="人種偏見65">[[#人種偏見]]65-66頁「日本人絶滅政策」</ref>。米軍の調査によれば、約半数の米兵が「平和が回復されるまで日本人(軍人・民間人関係なく)は一人残さず殺すべきだ」と考えていたという<ref name="人種偏見65"/>。1944年(昭和19年)12月の世論調査(戦争終了後、日本人に対する処置について)では、アメリカ国民の13%が日本人の全員殺害を希望するようになった<ref name="人種偏見65"/>。ルーズベルト大統領首席補佐官[[ウィリアム・リーヒ]]提督は「日本は我々の[[カルタゴ]]」と表現している(1942年9月)<ref>[[#人種偏見]]68-69頁</ref>。

3人の遺体は火葬ののち[[国際赤十字]]を通じてアメリカ側に引き渡された。残り5人の死刑執行は猶予された(前述)。ロバート・J・メダー少尉は1943年(昭和18年)12月1日に[[南京市|南京]]で[[栄養失調]]による[[赤痢]]と[[脚気]]で死亡した。1人は1945年(昭和20年)当時[[重慶市|重慶]]で療養していたと報道された<ref>朝日新聞1945年9月28日朝刊</ref>。1945年(昭和20年)8月20日に捕虜が解放された。16番機爆撃手[[ジェイコブ・デシェーザー|ジェイコブ・ディシェイザー]]は1945年(昭和20年)8月20日に[[北京]]で解放されたあと[[キリスト教]]の[[伝道者]]となり、日本で[[布教]]活動をおこなった<ref>[[:en:Jacob|DeShazer ジェイコブ・ディシェイザー]]</ref><ref>『日本キリスト教歴史大事典』897頁</ref>。
[[真珠湾攻撃]]の飛行隊総隊長を務めた[[淵田美津雄]]中佐は戦後ディシェイザーの冊子を読んでキリスト教に興味を持ち<ref>[[#淵田2007|淵田 2007]]、337頁</ref>、1949年(昭和24年)に[[改宗]]した。淵田はアメリカ伝道活動中、[[ジミー・ドーリットル]]と対面している<ref>[[#淵田2007|淵田 2007]]、374頁</ref>。一方、ドーリットルは1945年(昭和20年)12月14日にマイアミでパーティを行ったが、攻撃隊参加者80名のうち20名(溺死2、事故死1、銃殺3、獄死1、他戦線での戦死13)が参加できなかった<ref name="覇者下262">[[#覇者下|大空の覇者下]]262-263頁「東京奇襲隊」</ref>。ドーリットル自身は「指揮官は気に入りの部下を持ってはいけない。それは承知しているが、彼らは特別である。私は彼らのことが気になる。彼らは我が家族の一員である」と記述している<ref name="覇者下262"/>。


== 影響 ==
== 影響 ==
=== アメリカ本土空襲 ===
=== アメリカ本土空襲 ===
敗退続きだったアメリカ国内はこの空襲によって沸き立ったこの東京初空襲に対抗して、6月21日に日本海軍の潜水艦が、[[オレゴ]]アストリアにあるスティーブンス海基地を砲撃し基地の施設に被害を与え、兵士を負傷させ9には日本海軍の潜水艦載機アメリカ西海岸の[[オレゴン州]]を2度渡り空襲した([[アメリカ本土空襲]]
開戦以来日本軍に対し各地で敗退続きだったアメリカ国内はこの空襲によって沸き立った<ref name="叢書八十362" />。一方日本軍も東京初空襲に対抗して、ただちにアメリカ本土に対する攻撃を活発化させた。6月20、シアトル方面展開していた日本海軍の潜水艦「伊26」が、[[カナダ]]の[[バクーバー島]]太平洋岸にあるカナダの無線羅針局を砲撃した<ref name="叢書九八154">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]154-155頁「アリューシャン作戦/作戦経過」</ref>。翌621日、日本海軍の潜水艦「[[伊号第二十五潜水|伊25]]」<ref name="叢書九八154" />、[[オレゴン州]]アストリアあるフォート・スティーブンス陸軍基地を[[フォート・スティーブンス砲撃|砲撃]]した


し、「ドーリットル空襲」後も敗退を続けたアメリカ政府及び軍は、国民への精神的ダメージを配慮してこの空襲の事実を公表しなかった。なおこの空襲は、現在に至るまでアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。
その後、連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将は、内地で整備中の第一潜水戦隊より潜水艦1隻をアメリカ大陸西岸に派遣、米本土爆撃および通商破壊作戦を命じた<ref name="叢書九八223">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、223-224頁「「伊二十五潜」の米西岸作戦」</ref>。これはドーリットル空襲に対する報復の意味があった<ref name="叢書九八223" />。先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官)は伊25に対米本土爆撃を命じる<ref name="叢書九八223" />。同艦は8月15日に横須賀を出撃、9月9日と同月29日に伊25艦載機がアメリカ西海岸の[[オレゴン州]]を2度に渡り空襲した([[アメリカ本土空襲]])<ref name="叢書九八223" />。この空襲による日米両陣営の被害はなかったものの、「ドーリットル空襲」後も敗退を続けたアメリカ政府及び軍は、国民への精神的ダメージを配慮してこの日本海軍機による空襲の事実を公表しなかった。なおこの空襲は、現在に至るまでアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。伊25はアメリカの貨物船2隻とソ連潜水艦L16を撃沈し、10月24日に横須賀へ帰投した<ref name="叢書九八223" />


=== [[ミッドウェー海戦]] ===
=== 珊瑚海海戦 ===
{{See also|珊瑚海海戦}}
この攻撃の報に、本土防空を受け持っていた陸軍はもとより海軍の[[山本五十六]][[連合艦隊]]司令長官は衝撃を受けた。真珠湾攻撃の影響を免れたアメリカの空母機動部隊によるハラスメント的な攻撃は1942年前半から既に島嶼部で始まっていたが、「本土空襲を受けて山本長官は日本本土の安全確保のため、敵空母殲滅を視野に入れた[[ミッドウェー島]]攻略作戦の実行を急がせた」とされる説も見受けられる。しかし、ミッドウェー作戦は4月16日付の大本営海軍部指示にて裁可されているので、これは俗説であり事実と異なる。
アメリカ軍機動部隊迎撃のため日本軍は頻繁に無線交信をおこない、傍受したアメリカ軍暗号解読者達は日本軍艦船・基地の最新呼び出し符号を更新した<ref>[[#平塚2016|日米諜報戦]]、94-95頁</ref>。これはアメリカ軍にとって「最も貴重かつ有益」な情報だった<ref name="トール118">[[#トール2013|トール 2013]]p.118-119</ref>。彼等は新符号「MO」が[[ポートモレスビー]]であることを解読、南洋部隊(指揮官[[井上成美]]第四艦隊司令長官)の次期作戦および艦隊編成に対する手がかりを得た<ref name="トール118"/><ref>[[#平塚2016|日米諜報戦]]、95-96頁</ref>。


エンタープライズとホーネットの2空母は日本本土空襲作戦(本項目)に参加して、4月25日に[[真珠湾]]へ帰投した<ref>[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、95頁「米機動部隊の動静」</ref>。このため5月7日-5月8日の珊瑚海海戦に参加することが出来なくなった(同海戦に参加したアメリカ軍の空母は[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]と[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]の2隻。空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]は西海岸で修理中だった。)<ref>[[#暁の珊瑚海(文庫)]]65頁</ref><ref>[[#ニミッツ1962|ニミッツ1962]]p.50</ref>。真珠湾での補給を終えた2隻(エンタープライズ、ホーネット)の作戦復帰および珊瑚海進出時期は、5月中旬と予定されていた<ref>[[#トール2013|トール 2013]]p.123</ref>。
=== 中華民国軍飛行場の破壊 ===

陸軍はドーリットル空襲の再発を防ぐため、作戦に利用された[[浙江省]]以南の[[中華民国軍]]の飛行場を利用できなくすることを目的として、[[支那派遣軍]]に命じて[[浙贛作戦]]を実施した。作戦は1942年5月中旬から6月にかけて実施され、動員兵力約18万、飛行機3個飛行戦隊により、目的の飛行場の破壊と同地を守る[[顧祝同]]の率いる[[抗日戦争第3戦区|第三戦区]]軍34個師団を打ち破ることに成功する。同作戦は1942年9月30日に終了が発表された。連合国側の投入予定の爆撃部隊が「[[タイダルウェーブ作戦]]」の前に[[ルーマニア]]油田の空爆に転属される影響を受けた。
=== ミッドウェー海戦 ===
{{See also|ミッドウェー海戦}}
この攻撃の報に、本土防空を受け持っていた陸軍はもとより<ref name="叢書八十365">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、365-366頁「陸軍部の作戦指導等に及ぼした影響」</ref>、海軍の[[連合艦隊]]司令長官[[山本五十六]]大将は衝撃を受けた<ref name="叢書四三62" /><ref>[[#丸写真3巻|写真太平洋戦争3巻]]、48頁</ref>。山本長官は[[寺島健]]中将(予備役、兵31)にあてた書簡の中で「今考へれば矢張(やはり)布哇(ハワイ)の一撃はやっといてよかったとの感あると共に 結局布哇をとって仕舞はなければ 北廻りも用意となりうべきものと思はれ候」と述べている<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、364頁「参考」</ref>。
「ドーリットル空襲」が純軍事作戦というよりむしろ戦意高揚を狙った宣伝的作戦であることを見抜きつつ、次回の空襲は本格的な大規模攻撃になると想定し、各部署に警告を発した部隊もある<ref>「横須賀海軍警備隊(6)」pp.52-55</ref><ref>「横須賀海軍警備隊(7)」pp.23-25</ref>。「本土空襲を受けて山本長官は日本本土の安全確保のため、敵空母殲滅を視野に入れた[[ミッドウェー島]]攻略作戦を立案した」とされる説も見受けられる<ref name="淵田2007.p.178">[[#淵田2007|淵田 2007]]、178頁</ref> が、ミッドウェー作戦自体はドーリットル空襲以前から検討されていた(前述)<ref name="叢書八十339" /><ref>[[#トール2013|トール 2013]]pp.70-73</ref>。4月16日付の大本営海軍部指示(大海指第八十五号)にて、正式に裁可されている<ref name="叢書八十353" /><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、54-55頁「第二段作戦方針の指示」</ref>。

しかし、ドーリットル空襲以前から日本海軍(とくに連合艦隊)はアメリカ海軍空母機動部隊の跳梁に悩まされていた<ref name="叢書四三38">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、38-40頁「米空母誘出撃滅を企図―ミッドウェー作戦案」</ref><ref name="叢書八十363">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、363-364頁「海軍の作戦指導に及ぼした影響」</ref>。
本空襲前に立案されたミッドウェー作戦は、「日本軍の[[ミッドウェー島]]の占領により、反撃に出てくる米艦隊・機動部隊を撃滅する」「ミッドウェー島の前線基地化により日本本土方面への米潜水艦活動を封殺し、飛行哨戒兵力の進出により、米空母の機動作戦を封じる」「10月予定のハワイ攻略作戦までの"つなぎ"」という、複数の目的をもっていた<ref name="叢書四三38" /><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、40-42頁「聨合艦隊時期作戦構想の内定」</ref>。
さらにミッドウェー作戦に反対していた[[軍令部]]と<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、42-44頁「海軍部、ミッドウェー作戦に反対」</ref>、関心が薄かった日本陸軍が<ref name="叢書八十346" /><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、49-50頁「作戦計画」</ref><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、63頁(日本本土の防空は、概ね陸軍の担当だった)</ref>、ドーリットル空襲を受けてミッドウェー作戦に俄然本気となったのも事実である<ref name="叢書四三62" /><ref>[[#亀井1995|亀井 1995]]、77頁</ref><ref name="叢書八五97">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]、97頁「本空襲の影響」</ref>。これには「空母から航続距離の長い爆撃機を発進させて空襲を敢行する」戦法に対し日本側に反撃の手段がなく、したがって「敵空母を積極的に補足撃滅する」「哨戒基地を前進させる」しか選択肢がなかったという側面がある<ref name="叢書八十363" />。

5月5日<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、119頁「昭和17年(1942年)5月5日」</ref>、大海令第18号にて[[永野修身]]軍令部総長は山本長官にミッドウェー島とアリューシャン諸島占領作戦を認可し<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、92-94頁「大本營海軍部」</ref><ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、420-423頁「大命と指示」</ref>、陸軍も同作戦に[[第7師団 (日本軍)|一木支隊]]を提供した<ref name="叢書八十365" /><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、187-188頁「一木支隊の指揮問題紛糾」</ref>。この[[アリューシャン方面の戦い|アリューシャン作戦]]には、日本軍にとって貴重な空母2隻([[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、[[龍驤 (空母)|龍驤]])が投入された<ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、231-232頁「作戦計画の概要」</ref>。
また[[第一航空艦隊|南雲機動部隊]]司令部や[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令部は、乗組員の休養、疲弊した艦の修理、人事異動によって低下した艦隊や航空隊の技量向上のため作戦延期を求めたが<ref name="叢書四三128" /><ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、419-420頁「第二段作戦図演」</ref>、山本以下連合艦隊司令部は却下している<ref>[[#亀井1995|亀井 1995]]、84-86頁</ref><ref>[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、131-132頁「聨合艦隊作戦延期の要望を容れず」</ref>。

ドーリットル空襲がミッドウェー作戦に与えた影響の一つに、日本海軍の艦隊間における錯誤がある<ref name="叢書四三123">[[#叢書43|戦史叢書ミッドウェー海戦]]、123-124頁「ミッドウェー作戦の主目的混迷」</ref>。内地帰投後、[[東京]]の[[軍令部]]や[[海軍省]]を訪問して次期作戦の説明を受けた南雲機動部隊司令部や第二艦隊司令部は、ミッドウェー作戦の作戦目的を「哨戒基地の前進(ミッドウェー島の日本軍拠点化)により米空母の本土来襲を阻止するもの」と受け止めた<ref name="叢書四三123" />。ところが[[瀬戸内海]]所在の連合艦隊司令部は、ミッドウェー作戦の主目的を米軍機動部隊撃滅としていた<ref name="叢書四三123" />。この意識の違いは、戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]における図上演習で露呈する<ref name="叢書四三123" />。連合艦隊参謀長[[宇垣纏]]少将は連合艦隊の意図を詳細に説明したが、連合艦隊・南雲機動部隊・第二艦隊間の作戦解釈は最後まで統一されなかったとみられる<ref name="叢書四三123" />。

=== 中国軍飛行場の破壊 ===
日本陸軍はドーリットル空襲の再発を防ぐため、作戦に利用された[[浙江省 (汪兆銘政権)|浙江省]]以南の国民革命軍の飛行場を利用できなくすることで、爆撃機による奇襲作戦を阻止しようとした<ref name="叢書八十365" />。これを受けて[[支那派遣軍]]が実施した作戦が、[[浙贛作戦]]である<ref name="トール97"/><ref name="叢書八五97" />。作戦は1942年5月中旬から7月にかけて実施され<ref name="叢書八五97" />、動員兵力約18万、3個[[陸軍飛行戦隊|飛行戦隊]]により、目的の飛行場の破壊と同地を守る[[顧祝同]]の率いる[[抗日戦争第3戦区|第三戦区]]軍34個師団を打ち破ることに成功する。同作戦は1942年9月30日に終了が発表された。連合国側は中国大陸から日本本土を空襲する作戦を立て、投入予定の[[B-24 (航空機)|B-24]]爆撃部隊が移動中であった。しかし[[浙贛作戦]]によって使用予定の飛行場が攻撃占領されたこともあり、この部隊は[[ルーマニア]]の油田への空爆作戦である[[タイダルウェーブ作戦]]に転用された。


=== 成増飛行場 ===
=== 成増飛行場 ===
本空襲は、帝都防衛のあり方を問う大きなきっかけとなった。[[東部軍管区 (日本軍)|東部軍]]司令官の[[中村孝太郎]][[陸軍大将|大将]]は、[[千葉陸軍高射学校|陸軍防空学校]]および高射砲第7連隊の高射機関砲を[[皇居]]周辺へ配備し、1942年[[4月20日]]に、独立飛行第47中隊を防衛司令官の指揮下に入れ、帝都防空の任に当たらせた。軍では、この目的にかなう飛行場として、[[成増飛行場]]を建設した。
本空襲は、帝都防衛のあり方を問う大きなきっかけとなった<ref name="叢書八十365" />。[[東部軍管区 (日本軍)|東部軍]]司令官の[[中村孝太郎]][[陸軍大将|大将]]は、[[千葉陸軍高射学校|陸軍防空学校]]および高射砲第7連隊の高射機関砲を[[皇居]]周辺の日劇や国技館の屋上へ配備し、1942年[[4月20日]]に、独立飛行第47中隊を防衛司令官の指揮下に入れ、帝都防空の任に当たらせた。軍では、この目的にかなう飛行場として、[[成増飛行場]]を建設した。

=== 防空都市の建設 ===
政府は空襲をうけて東京が木造家屋が多いことと道路が狭いために火災による延焼が懸念された。このため、都心部で[[大久保通り]]の拡幅工事などで強制的に立ち退きを要求され木造の民家の取り壊しが各地で行われた。[[日本ニュース映画社]]に映像記録が残されている。

=== 造幣局「桜の通り抜け」の中止 ===
本空襲のあった1942年4月18日は1883年以来、恒例行事となっていた造幣局の「桜の通り抜け」の行事が催されていたが、空襲警報発令により中止され、以後、1947年まで中断した。本空襲での直接の被害はなかったものの戦災により約500本の桜のうち6割が焼失した。<ref>[https://www.mint.go.jp/WP_Vjp4V33Q/wp-content/uploads/2012/05/ayumi_2.pdf] 造幣局のあゆみ</ref>


== エピソード ==
== エピソード ==
=== 東条機とすれ違う ===
=== 爆撃目標の情報源===
[[1934年]]にアメリカのスパイでもあったメジャーリーガーの[[モー・バーグ|モーリス・バーグ]]によって撮られた写真が東京や横浜など日本主要都市を爆撃し、軍需工場の位置を把握するのに利用された。 空母から出動した爆撃機が正確に軍需基地を爆撃したため日本を慌てさせ、1945年の[[東京大空襲]]作戦、広島と長崎への原爆投下など、バーグの写真は有用な情報として日本本土への攻撃に用いられた <ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url= https://ja.interestrip.com/former-major-league-baseball-player-moe-berg-was-once-a-secret-agent-in-the-predecessor-to-the-cia|title= 元メジャーリーグの野球選手、モー・バーグはCIAの前身である秘密のエージェントだった |website= InteresTrip|publisher= ja.interestrip.com|accessdate=2020-08-08}}</ref>。
首相だった東条英機は、この日の午前中に宇都宮市内を視察した後、次の目的地である水戸に大臣専用機で向かった。水戸上空に差しかかると、前方から見たこともない飛行機と遭遇し、東条は同乗した秘書官に「あれはアメリカ(の飛行機)だぞ」と叫んだ、秘書官によれば双方の顔が見える距離まで接近していたという。アメリカ側も東条の飛行機を銃撃せずそのまま西へ向かった。東条の飛行機が飛行場に着陸するや、東条は「すぐ飛行機で(東京に)帰る」と言い出したが、周囲が「東京の警戒を混乱させる」という理由で、列車で帰京させた<ref>『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』P.78 中公新書ラクレ 2010年</ref>。

=== 皇族 ===
空襲実施にあたり、ドーリットル中佐は「皇居を爆撃すると日本の団結力が強まる」との観点から東京の[[皇居]]を爆撃目標から外していた<ref>[[#覇者上|大空の覇者上]]275-276頁「飛行計画」</ref>。4月18日8時30分の警戒警報発令により、[[永野修身]]軍令部総長は宮城に参内、11時30分から20分にわたり[[昭和天皇]]に状況を説明する<ref name="実録八689">[[#実録八|実録八巻]]、689頁(アメリカ軍機の帝都初空襲/御金庫室に御移動/賢所皇霊殿神殿は斎庫に御動座</ref>。正午0時28分の空襲警報発令により[[三種の神器]]を宮内省第二期庁舎金庫室へ移御、天皇・[[香淳皇后]]・[[島津貴子|貴子内親王]]は約30分後に同場所へ避難した<ref name="実録八689"/>。[[赤坂離宮]]の[[上皇明仁|皇太子]](明仁上皇)、[[沼津御用邸]]の[[皇太后]]([[貞明皇后]])、他皇族たちも、それぞれ所在地の避難所に移った<ref name="実録八689"/>。午後2時、[[杉山元]]参謀総長は天皇に空襲状況を奏上<ref name="実録八690">[[#実録八|実録八巻]]、690頁(空襲状況の奏上/東條首相の奏上)</ref>。午後3時51分に空襲警報解除、天皇・皇后・[[常陸宮正仁親王|正仁親王]]・貴子内親王は4時18分に御常殿に戻った<ref name="実録八690"/>。[[東久邇成子|成子内親王]]・[[鷹司和子|和子内親王]]・[[池田厚子|厚子内親王]]は呉竹寮に戻った<ref name="実録八690"/>。
同年[[10月26日]]の[[南太平洋海戦]]で、日本海軍は米空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]を撃沈し、空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]を撃破する(日本側は米空母3隻撃沈と誤認)<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]198-199頁「(昭和17年)一〇月二六日(月)快晴」</ref><ref>[[#城日記|城英一郎日記]]203頁「(昭和17年)一一月五日(木)晴」</ref>。翌日、昭和天皇は[[城英一郎]]大佐([[侍従武官]])に対し、「敵空母〔を〕昨日の戦闘にて大に撃破せしたため、敵は空母にて本土空襲の可能性なくなりたるに非ずや」と下問した<ref name="城日記199">[[#城日記|城英一郎日記]]199頁「(昭和17年)一〇月二七日(火)晴 当直」</ref>。城大佐は、アメリカには[[改造空母|特設空母]]が20隻以上あるので楽観できないと上聞している<ref name="城日記199"/>。

=== 東條機とすれ違う ===
[[東條英機]]総理大臣は、この日の午前中に宇都宮市内を視察した後に次の目的地である水戸に大臣専用機([[一〇〇式輸送機]]ないし[[三菱MC-20]]旅客機、首相専用機か陸相専用機かは不明)で向かった。正午、専用機は水戸上空でドーリットル機と約20[[キロメートル]]の距離ですれ違った<ref>[[#柴田&原2003|柴田&原 2003]]、9頁</ref>。東條は同乗した秘書官に「あれはアメリカ(の飛行機)だぞ」と叫んだ。秘書官によれば双方の顔が見える距離まで接近していたという。アメリカ側も専用機を銃撃せずそのまま西へ向かった。専用機が飛行場に着陸してすぐ、東條は東京が空襲されたことを初めて知った<ref>[[#吉野2000|吉野 2000]] 6頁</ref>。東條首相は「すぐ飛行機で(東京に)帰る」と言い出したが、周囲が「東京の警戒を混乱させる」という理由で、水戸発午後3時の列車で帰京させた<ref>[[#半藤ら2010|半藤ら 2010]] 78頁</ref>。この列車は午後5時45分上野駅に着いた。東條は途中、[[天機奉伺]]の記帳のため皇居に寄り、首相官邸に各閣僚からの情報をまとめた後、午後8時に皇居に参内し、天皇に空襲に関する報告をした<ref name="実録八690"/><ref>[[#吉野2000|吉野 2000]] 16頁</ref>。

なお、海軍の山本長官は軽い腹痛のため勤務を休んでいた<ref>[[#従兵長|近江2000]]、103-104頁</ref>。
軍令部第一部長[[福留繁]]中将は、[[長谷川清]]台湾総督の招待を受けて帝国ホテルで昼食中であった{{Sfn|福留繁|1971|p=216-218|ps=ドーリットルの東京初空襲}}。


=== シャングリラ ===
=== シャングリラ ===
「ドーリットル空襲」の成功はすぐにアメリカ本国でも宣伝されたが、作戦の全容は長く秘匿された。空母ホーネットの名も例外ではなく、[[プレスリリース|記者会見]]で空襲の成功を発表した[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト大統領]]は[[記者|記者団]]からの「爆撃機はどこから発進したのか?」という質問に対し、「発進地は[[シャングリラ]]」と答え、煙に巻いた。
「ドーリットル空襲」の成功はすぐにアメリカ本国でも宣伝されたが、当初米政府からの正式発表はなく、情報源は日本やその他の枢軸側に限られ{{Sfn|激動の昭和|1989|p=153}}、作戦の全容は長く秘匿された。
空母ホーネットの名も例外ではなく、日本軍の捕虜となったB-25搭乗員達も「陸地から発進した」等、情報の秘匿につとめたが<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]234頁「○南昌附近ノ河中ニ米重爆墜落(略)」</ref>、4月21日にホーネットの名前を明らかにしている<ref name="トール97"/><ref>[[#戦藻録1979]]107頁</ref>。[[プレスリリース|記者会見]]で空襲の成功を発表したアメリカの[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト大統領]]は[[記者|記者団]]からの「爆撃機はどこから発進したのか?」という質問に対し、「発進地は[[シャングリラ]]」と答え、煙に巻いた<ref name="トール95"/>。[[淵田美津雄]](当時、赤城飛行長)は、空母[[赤城 (空母)|赤城]]艦上でルーズベルトの声明を聞き、実際に海図を広げてシャングリラの位置を探したという<ref name="淵田2007.p.176">[[#淵田2007|淵田 2007]]、176頁</ref>。


シャングリラとは当時の[[小説]]で映画化もされた失われた地平線に出てくる[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]付近にあるとされる架空の地名であり、それを知らない記者には冗談が通じず「爆撃機は空母シャングリラから発進」と一部で誤って報道された。なお、このエピソードが元になったものか、後日、本当に空母[[シャングリラ (空母)|シャングリラ]](CV-38;[[エセックス級航空母艦]]の1隻)就役している。
シャングリラとは、[[ジェームズ・ヒルトン]]による1933年発表ベストセラー[[小説]]で1937年にはハリウッドで映画化もされた『[[失われた地平線]]』に出てくる架空の地名で、[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]付近にあるとされる神聖な都である<ref name="淵田2007.p.176"/>。それを知らない記者には冗談が通じず「爆撃機は空母シャングリラから発進」と一部で誤って報道された。このエピソードが元になったものか、後日、アメリカ海軍は本当に空母[[シャングリラ (空母)|シャングリラ]](CV-38 [[エセックス級航空母艦]]の1隻)就役させ、さらにその空母を用て着艦フックなどの装備を搭載すなどの改修をしたPBJ(B-25の海兵隊仕様機)で発着艦試験が行われた<ref>[http://www.mission4today.com/index.php?name=ForumsPro&file=viewtopic&t=4318]</ref>

=== 仇討ち ===
1943年12月10日、[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]([[一式戦闘機#ビルマ航空戦|ビルマ航空戦]])にて[[陸軍飛行戦隊|陸軍航空部隊]][[飛行第50戦隊]]の一式戦「隼」25機は、中国へ補給物資を空中輸送している[[輸送機]]4機とともに[[アメリカ陸軍航空軍]]のB-25 1機(捜索救助飛行隊ポーター大尉機)を確実撃墜したが、このB-25協同撃墜者の一人である[[前川美雄]][[伍長]]はドーリットル空襲で姉を亡くした人物であり、この撃墜は「姉の仇」となっている<ref>[[梅本弘]] (2010a),『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月、p.64</ref>。

=== ドーリットルが連れてきた「UFO」 ===
SF作家の[[光瀬龍]]はエッセイ『私のUFO』にて、ドーリットル空襲当日に体験した「[[未確認飛行物体]]」の目撃談を綴っている。同日14時頃、光瀬の自宅があった[[練馬町]]付近の上空で、2機の九七式戦闘機が「[[SB2A (航空機)|SB2A]]に類似したシルエットの、艦上機と思しき空冷エンジン単発引込脚の中翼単葉機」1機を追撃している模様を目撃したが、戦後になって日米双方の記録を調査しても該当する空戦の記録は発見できなかったという<ref>{{Cite book |和書 |author = 光瀬龍 |title = 消えた神の顔 |publisher = [[早川書房]] |year = 1979 |pages = 281,283 - 288 |isbn = 978-4-15-030115-6}}</ref>。

=== B-21 ===
アメリカ軍が配備している[[B-2 (航空機)|B-2]]と[[B-52 (航空機)|B-52]]を置き換える予定の[[B-21 (航空機)|B-21]]は、ドーリットル空襲を行った部隊の通称『Doolittle Raiders』にちなみ'''レイダー'''(Raider)と命名された<ref>[http://news.northropgrumman.com/news/releases/air-force-names-the-b-21-bomber-the-raider Air Force Names the B-21 Bomber the Raider] - NORTHROP GRUMMAN NEWSROOM(英語)。2016年9月19日、2016年9月20日閲覧。</ref>。

== 関連作品 ==
; 映画
* {{ill|パープル・ハート (映画)|en|The Purple Heart|label=パープル・ハート}}(アメリカ、1944年)
* [[東京上空三十秒]](アメリカ、1944年)
* [[ミッドウェイ (1976年の映画)|ミッドウェイ]](アメリカ、1976年)
* [[パール・ハーバー (映画)|パール・ハーバー]](アメリカ、2001年)
* [[デスティニー・イン・ザ・ウォー]](中国、2017年)
* [[ミッドウェイ (2019年の映画)|ミッドウェイ]](アメリカ、2019年)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* [https://www.jacar.archives.go.jp アジア歴史資料センター(公式)](国立公文書館)
** Ref.A06031081300「[[写真週報]] 218号」(昭和17年4月29日)「敵の空襲企図全く失敗に帰す{{small|来襲敵機ノース・アメリカンB-25の正体}}」
** Ref.A06031086200「[[写真週報]] 267号」(昭和18年4月14日)「ぼくらの友達を射殺した米機の仇はきっととるぞ!」
** Ref.A06031045100「週報 第289号」(昭和17年4月22日)「敵機来襲と国民の覚悟」
** Ref.A05020250900「昭和十七年四月十八日空襲被害状況」
** Ref.A05020244900「四月十八日空襲に関する第一報?第四報」
** Ref.A06032513600「部報第145号」 黒澤平八郎(情報課事務官)「我が本土初空襲と敵の意図」
** Ref.A03024825900「日本空襲飛行士はソ聯で優遇 サンフランシスコ英語放送五月七日」
** Ref.A03024829400「ル大統領、日本空爆隊員を顕賞 サンフランシスコ五月二十日」
** Ref.A03024854600「スチムソン遂に「東京空襲捕虜」を自認 TPトランスラジオ、ワシントン二十二日」
** Ref.A03025057700「国際○米洲方面 ドウリットル、東京空襲ハ航空母艦カラト発表」
** Ref.A03025060200「国際○東京空襲航空母艦乗組員ノ当時ノ談話飛行士ニハ三日前迄目的ヲ知ラセズト」
** Ref.A03025063200「米国内○東京空襲問題 東京空襲参加者ノ手記」
** Ref.B02032456100「2.昭和17年4月米機東京空襲関係(米搭乗員処刑関係を含む)/1.経緯/1 昭和17年6月1日から昭和17年12月31日」
** Ref.B02032456900「2.昭和17年4月米機東京空襲関係(米搭乗員処刑関係を含む)/6-1.各国ノ反響 新聞切抜」
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030324400|title=昭和17年1月1日~昭和17年4月30日 呉鎮守府戦時日誌(7)|ref=S1701呉鎮日誌(7)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030316600|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)|ref=S1704横鎮日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030316700|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(2)|ref=S1704横鎮日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030316800|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)|ref=S1704横鎮日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030316900|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)|ref=S1704横鎮日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030317000|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)|ref=S1704横鎮日誌(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030317100|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(6)|ref=S1704横鎮日誌(6)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030317200|title=昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(7)|ref=S1704横鎮日誌(7)}}
** Ref.C08030220900「第2監視艇隊戦時日誌(3)」
** Ref.C08030221000「第2監視艇隊戦時日誌(4)」
** Ref.C08030226200「昭和17年2月25日〜昭和17年7月31日 第3監視艇隊戦時日誌(1)」
** Ref.C08030459100「昭和16年11月20日〜昭和17年5月31日 横須賀海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(6)」
** Ref.C08030459200「昭和16年11月20日〜昭和17年5月31日 横須賀海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(7)」
** Ref.C08030459300「昭和16年11月20日〜昭和17年5月31日 横須賀海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(8)」
** Ref.C08030354100「昭和17年4月1日〜昭和17年4月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」
** Ref.C08051606600「昭和16年12月〜昭和17年5月 木更津空 飛行機隊戦闘行動調書(3)」
** Ref.C08051609700「昭和17年4月〜昭和17年6月 三沢空 飛行機隊戦闘行動調書(1)」
** Ref.C08030745600「昭和17年3月〜 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」
** Ref.C08030580900「昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(5)」
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**{{Citation |和書|author=|editor=朝日新聞社航空朝日編集部|date=1942-08|title=米英軍用機識別図説|chapter=|publisher=朝日新聞社|url={{NDLDC|1460410}}|ref=米英軍用機識別図説}}
**{{Citation |和書|author=|editor=朝日新聞社航空朝日編集部|date=1943-02|title=敵機解剖 : 大東亜戦・鹵獲・撃墜撃破飛行機写真集|chapter=|publisher=朝日新聞社|url={{NDLDC|1460422}}|ref=朝日、敵機解剖}}
**{{Citation |和書|author=伊藤千代蔵|editor=|date=1943-04|title=空襲と都市|chapter=|publisher=博聞堂|url={{NDLDC|1460426}}|ref=空襲と都市}}
**{{Citation |和書|author=|editor=英文大阪毎日学習号編輯局|date=1943-06|title=大東亜戦争記録画報. 前篇|chapter=|publisher=大阪出版社|url={{NDLDC|1906752}}|ref=大阪画報前}}
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**{{Citation |和書|author=|editor=英文大阪毎日学習号編輯局|date=1943-06|title=大東亜戦争記録画報. 續篇|chapter=米機「本土空襲」の眞相 十六機中遁走僅か數臺|publisher=大阪出版社|url={{NDLDC|1906766/94}}|ref=大阪画報続}}
**{{Citation |和書|author=片倉藤次郎|editor=|date=1943-11|title=英米の空爆原理|chapter=二 米機の日本本土空襲|publisher=アジア青年社|url={{NDLDC|1460416/6}}|ref=英米の空爆原理}}
**{{Citation |和書|author=田代格|editor=|date=1944-06|title=空の決戦|chapter=|publisher=毎日新聞社|url={{NDLDC|1460417}}|ref=毎日S19空決}}
**{{Cite book|和書|author=中島武|editor=|date=1930-05|title=航空母艦|chapter=航空母艦の任務|publisher=三省堂|url={{NDLDC|1080552/19}}|ref=中島1930}}
**{{Citation |和書|author=|editor=読売新聞社|date=1944-07|title=敵機一覧.昭和19年版|chapter=|publisher=読売新聞社|url={{NDLDC|1124548}}|ref=読売、敵機一覧}}

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*{{Cite book|和書|author=元連合艦隊司令部従兵長近江兵治郎|authorlink=近江兵治郎|date=2000-07|title={{small|連合艦隊司令長官}}山本五十六とその参謀たち|publisher=テイ・アイ・エス|isbn=4-88618-240-2|ref=従兵長}}
*{{Cite book|和書|date=2009-08|title=帝国海軍太平洋作戦史|volume=1|series=歴史群像アーカイブ Filing book volume 9|publisher=[[学習研究社]]|isbn=978-4-05-605611-2|ref=学習研究社2009}}
*<!-- カトウ2004-12 -->{{Cite book|和書|author1=加藤寛一郎|authorlink1=加藤寛一郎|coauthors=|authorlink=|date=2004-12|title=大空の覇者 ドゥリットル上 {{small|東京奇襲1942}}|chapter=第九章 <ruby><rb>東京奇襲隊</rb><rt>トウキョウ・レイダーズ</rt></ruby>|publisher=講談社|ISBN=4-06-212701-6|ref=覇者上}}
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*<!-- クナイ2016-03 -->{{Cite book|和書|editor=宮内庁|editor-link=宮内庁|coauthors=|authorlink=|date=2016-03|title=昭和天皇実録 第八 {{small|昭和十五年至昭和十七年}}|chapter=|publisher=東京書籍株式会社|ISBN=978-4-487-74408-4|ref=実録八}}
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*{{Cite book|和書|author=佐藤和正|authorlink=佐藤和正|year=1993|title=艦長たちの太平洋戦争 {{small|34人の艦長が語った勇者の条件}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=47698-2009-7|ref=佐藤、艦長(文庫)}}
** 海戦の原則 <駆逐艦「[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]」司令・大島一太郎少将の証言>(ドーリットル空襲時、第22戦隊先任参謀として特別監視艇隊を指揮。)
*<!-- シオヤマ -->{{Cite book|和書|author=塩山策一ほか|coauthors=|date=2017-07|origyear=|title=変わりダネ軍艦奮闘記 {{smaller|裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1647-8|ref=変種}}
**{{small|元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家}}正岡勝直『にっぽん変わりダネ艦艇総まくり {{small|漁船や客船に軍艦旗をかかげて奮戦した特設特務艇の種類と装備と戦果}}』
**{{small|海戦史研究家}}北本大吉『ドーリットル空襲 二十三日東丸の殊勲 {{small|四月十八日の日東丸と長渡丸および五月十日の第五恵比寿丸の奮戦}}』
**{{small|元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家}}正岡勝直『知られざる黒潮部隊の栄光と悲惨 {{small|木の葉の如き小艇で太平洋の哨戒線についた特設監視艇隊の全容}}』
*{{Cite book|和書|author=柴田武彦|authorlink=柴田武彦|coauthors=[[原勝洋]]|date=2003-11|title=ドーリットル空襲秘録 日米全調査|publisher=[[アリアドネ企画]] [[三修社]](発売)|series=Ariadne military|isbn=4-384-03180-7|ref=柴田&原2003}}
*<!-- ジョウ -->{{Cite book|和書|author=城英一郎|editor=野村実|date=1982-02|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}}
*<!--タカマツ-->{{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第四巻 {{small|昭和十七年一月一日~昭和十七年九月三十日}}|publisher=中央公論社|date=1996-07|ISBN=4-12-403394-X|ref=高松宮四}}
*{{Cite book|和書|author=ジョン・ダワー|authorlink=ジョン・ダワー|coauthors=[[猿谷要]]監修、[[斎藤元一]]訳|date=1987-9|title=人種偏見 {{small|太平洋戦争に見る日米摩擦の底流}}|chapter=第3章 戦争憎悪と戦争犯罪|publisher=TBSブリタニカ|isbn=4-484-87135-1|ref=人種偏見}}
*<!-- トール -->{{Cite book|和書|author=イアン・トール著|coauthors=村上和久訳|authorlink=|date=2013-06|title=太平洋の試練 {{small|真珠湾からミッドウェイまで 下}}|chapter=第八章 ドゥーリットル、奇跡の帝都攻撃|publisher=文藝春秋|ISBN=978-4-16-376430-6|ref=トール2013}}
*{{Cite book|和書|author=中島親孝|authorlink=中島親孝|date=2008-10|title=聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 {{small|参謀が描く聯合艦隊興亡記}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2175-1|ref=中島作戦室}}
*<!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書|author1=チェスター・ニミッツ|authorlink1=チェスター・ニミッツ|author2=E・B・ポッター|coauthors=[[実松譲]]|transrator=富永謙吾|date=1962-12|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=|ref=ニミッツ1962}}
*{{Cite book|和書|author=半藤一利|authorlink=半藤一利|coauthors=[[横山恵一]]・[[秦郁彦]]・[[原剛 (軍事史家)|原剛]]|date=2010-02|title=歴代陸軍大将全覧 昭和篇 太平洋戦争期|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公新書ラクレ 340|isbn=978-4-12-150340-4|ref=半藤ら2010}}
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*{{Cite book|和書|author=福田誠編著|others=伊藤竜太郎・松代守弘|date=1998-09|title=第二次大戦海戦辞典1939~45|publisher=[[光栄]]|ref=光栄海戦辞典}}
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*<!--ホウエイチョウ102 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 陸海軍年表 {{small|付 兵器・兵語の解説}}|volume=102|date=1980-01|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書102}}
*{{Cite book|和書|author = 牧英雄|chapter=ドゥーリトル攻撃隊日本初空襲|title= B-25ミッチェル|edition = 1995-3版第2刷|date=1998-04-01|publisher = 文林堂|series = 世界の傑作機|volume = No.51|pages= 44-50|ref=牧}}
*{{Cite book|和書|author=松本健一|authorlink=松本健一|date=2007-12|title=畏るべき昭和天皇|publisher=[[毎日新聞社]]|isbn=978-4-620-31845-5|ref=松本2007}}
*<!--マル1990-9-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『丸』編集部|editor-link=丸 (雑誌)|date=1990-9|title=<small>写真</small> 日本の軍艦 第14巻 小艦艇II {{small|敷設艦・敷設艇 特設巡洋艦 二等駆逐艦 魚雷艇・震洋艇 雑務船・内火艇 病院船他/日本海軍作戦年表}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0464-4|ref=写真日本の軍艦第14巻}}
*<!--マル1995-2-->{{Cite book|和書|author=雑誌「丸」編集部|date=1995-02|title=写真 太平洋戦争<第三巻> {{small|ドーリットル空襲/珊瑚海海戦/ミッドウェー海戦}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2073-9|ref=丸写真3巻}}
*{{Cite book|和書|author=宮崎勇|authorlink=宮崎勇 (軍人)|date=1993-06|title=還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0651-5|ref=宮崎1993}}
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*{{Cite book|和書|author=吉野興一|authorlink=吉野興一|date=2000-11|title=風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-257542-5|ref=吉野2000}}
*<!-- レキシグンゾウ2007-01 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|date=2007-01|chapter=PART-7 ドーリットル空襲で被弾した「大鯨」|pages=62-65|title={{small|帝国海軍}}真実の艦艇史3 {{small|「妙高」型、「初春」型の改装と最期}}艦載兵装の変遷|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第57巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=4-05-604599-2|ref={{SfnRef|歴群57、艦載兵装の変遷|2007}} }}
*{{Cite book|和書|author=T・W・ローソン|translator=[[野田昌宏]]|date=1982-05|title=東京奇襲|publisher=朝日ソノラマ社|series=文庫版航空戦史シリーズ 9|isbn=4-2571-7009-3|ref=野田ら1982}}
:本空襲に参加したローソンの著作を、幼少期に本空襲を伝聞した野田が翻訳した。
*{{Cite book|和書|year=1989|title=ニューズウィーク日本版別冊 激動の昭和|publisher=TBSブリタニカ|isbn=|ref={{Sfnref|激動の昭和|1989}}}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[無差別爆撃]]
* [[東京大空襲]]
* [[ロサンゼルスの戦い]]
* [[太平洋戦争の年表]]
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]]
* [[第二次世界大戦]] - [[太平洋戦争]]
* [[海軍]] - [[大日本帝国海軍]]- [[アメリカ合衆国海軍]]
* [[海軍]] - [[大日本帝国海軍]]- [[アメリカ合衆国海軍]]
* [[パール・ハーバー (映画)]]
* [[タイダルウェーブ作戦]]
* [[タイダルウェーブ作戦]]
* [[第二次世界大戦]] - [[太平洋戦争]]
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]]
* [[太平洋戦争の年表]]
* [[東京大空襲]]
* [[無差別爆撃]]
*[[アメリカ本土空襲]]
* [[ロサンゼルスの戦い]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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{{Commons|Doolittle Raid}}
* [http://www.hospita.jp/hospita/1034063.shtml 岡崎医院]日本で最初に空襲の被害を受けた建造物。現在は鉄筋コンクリートのビルになっている
* [http://www.hospita.jp/hospita/1034063.shtml 岡崎医院] - 日本で最初に空襲の被害を受けた建造物。現在は鉄筋コンクリートのビルになっている
* [http://www.city.katsushika.lg.jp/museum/if-shiryoukan.html 葛飾区教育資料館](銃撃で死者を出した水元小学校の校舎を移築した資料館。機銃の銃弾と建物から切り取った弾痕が保存されている
* [https://www.museum.city.katsushika.lg.jp/exhibition/permanent/shiryokan.php 葛飾区教育資料館] - 銃撃で死者を出した水元小学校の校舎を移築した資料館。機銃の銃弾と建物から切り取った弾痕が保存されている


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ドーリットル空襲

米空母ホーネットから発艦するドーリットル隊所属のB-25
戦争太平洋戦争
年月日1942年(昭和17年)4月18日
場所東京周辺
結果:アメリカ軍による初の日本本土空襲

その他は#影響を参照

交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国      アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
東久邇宮稔彦大将 ジミー・ドーリットル中佐
戦力
無し B-25×16機
空母ホーネットエンタープライズなど
国民革命軍は基地を提供
損害
潜水母艦1隻小破
監視艇5隻沈没、7隻損傷[2]
戦闘機1、攻撃機1、爆撃機3機事故喪失
死者87人、家屋被害286戸以上
B-25全損16機
艦爆1機事故喪失
戦死1名、行方不明2名、捕虜8名
ミッドウェー作戦

ドーリットル空襲(ドーリットルくうしゅう、英語:Doolittle Raid)は、太平洋戦争第二次世界大戦)中の1942年(昭和17年)4月18日アメリカ軍アメリカ陸軍航空軍爆撃機航空母艦より発進)によって実施した日本本土に対する初めての空襲のこと[3][4][5]。名称は爆撃機隊の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来する[6]

概要

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ドーリットル空襲とは[7]1942年(昭和17年)4月18日に、 航空母艦ホーネットから発進したB-25双発爆撃機ミッチェル16機が、太平洋戦争で初めて日本本土攻撃をした一連の空襲[8][9][10] である。 ヨークタウン級航空母艦2隻(エンタープライズ、ホーネット)を基幹とするハルゼー提督指揮下のアメリカ海軍機動部隊が太平洋を横断し、日本列島本州)東方海域に到達して行った[11][12]ジミー・ドーリットル中佐を指揮官とするB-25爆撃機16機は[12][13]、日本本土各地(東京横須賀横浜名古屋神戸等)に空襲を実施し、主に民間に被害が出た[14][15]。 軍事的な戦果は潜水母艦から航空母艦へ改造中の大鯨(龍鳳)が直撃弾で損傷[8]、またアメリカ軍機動部隊の掃討により漁船改造の特設監視艇隊に被害が出た程度だったが[16]、日本軍に与えた衝撃は極めて大きかった[9][17][18]

作戦遂行において中華民国国民革命軍の支援を受けており、日本本土爆撃を終えたB-25のうち15機は中国大陸に不時着して放棄された[9][19]。この際、搭乗員8名が日本軍の捕虜となり、その処遇を巡って問題になった[20][21]。また1機はソビエト連邦支配地域に不時着して、搭乗員は抑留された[9][19]

背景

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相次ぐアメリカ本土攻撃

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アメリカ本土沿岸で通商破壊戦を行った伊10。
サンフランシスコ市内に張り出されたシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令。

1941年(昭和16年)12月8日に行われた真珠湾攻撃以降、アメリカ軍は日本軍に対し各方面で一方的な敗退が続いた[22]。さらに真珠湾攻撃終了後、同作戦支援にまわっていた日本海軍先遣部隊(指揮官清水光美第六艦隊司令長官)の一部潜水艦を抽出して先遣支隊が編成され、アメリカ大陸西岸で行動する[23][24]巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9伊10伊15伊17伊19伊21伊23伊25伊26[25]。10隻との記録もある)は、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し[26]12月20日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開した[23][24]

その結果、約10日間の作戦でアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻撃沈し、5隻大破させ、その総トン数は6万4669トンに上った[27]。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民の目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活発な作戦を行った。 1942年(昭和17年)2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を行いこれに成功するなど[28][29]、一連の本土への先制攻撃を行った。

これらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は、これまで殆ど本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民にも非常に大きな衝撃を与えた[23][27]フランクリン・D・ルーズベルト大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断し、ロッキー山脈でこれを阻止する作戦の立案を指示し、同時にニイハウ島事件の影響もあり日系アメリカ人の強制収容も行うこととなった。

さらにアメリカ政府はこれらの日本軍の本土攻撃に対して、国民の動揺と厭戦気分を防ぐべくマスコミに対する報道管制を敷いたが、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報が相次いだ。さらには上記の砲撃作戦の翌日には、ロサンゼルスに対する日本軍機の空襲を誤認した陸軍による高射砲戦が行われた結果、6人の民間人の死者を出すなど(ロサンゼルスの戦い)、アメリカ国内は官民を問わず大きな混乱と恐怖に覆われることとなった。

日本海軍の米空母対策

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1930年(昭和5年)の時点で日本海軍は、アメリカ海軍が保有するレキシントン級航空母艦レキシントンサラトガ)による東京空襲と、空母艦載機による爆撃や毒ガスによる市民への被害を指摘していた[30]。 空母による空襲のほかにも、米軍航空部隊がソ連領やアリューシャン列島に基地を進め、陸上機により日本本土空襲を行う可能性もあった[31]。1942年(昭和17年)2月下旬の図上演習では、米軍がニア諸島のセミチ島(アッツ島の近辺)に基地を建設し、開発されたばかりの米超大型爆撃機による帝都空襲に成功している[32]

また連合艦隊司令長官山本五十六大将は、昭和16年1月の及川古志郎海軍大臣にあてた「戦備ニ関スル意見」の中で、日本本土が空襲された場合の国民の動揺を懸念していた[31]。大本営海軍部(軍令部)も本土空襲を懸念していたが、山本長官ほどの危機感はもっていなかった[31]。 いずれにせよ米機動部隊による本土空襲(特に帝都空襲)を懸念していた日本海軍は、太平洋戦争開戦と共に日本列島東方約700浬に特設監視艇による哨戒網を構築し、基地航空隊の陸上攻撃機による長距離索敵との相乗で、米機動部隊を監視することにした[31][33]。敵機動部隊来襲の場合、在内地艦船と航空部隊をもって邀撃する方針である[33]。ただし、監視艇・哨戒機の数は不十分であった[31]

1941年(昭和16年)12月8日の開戦時、アメリカ海軍は作戦行動可能な空母を7隻(真珠湾方面配備〈レキシントン、エンタープライズ〉[34]、西海岸および大西洋方面配備〈サラトガ、ヨークタウン、ホーネット、ワスプ、レンジャー〉)保有していた。真珠湾攻撃で日本海軍はアメリカ太平洋艦隊の戦艦群に大打撃を与えたが、空母の捕捉には失敗した[35]。大本営海軍部は「米海軍は小部隊によるゲリラ戦に出るだろう」と判断しており、山本長官は「ゲリラ戦」が米空母部隊による本土空襲と判断していたという[35]

開戦以後、ハワイ方面の監視に従事していた日本海軍潜水艦部隊は幾度か米空母を発見するが、損害を与えられなかった[35][36]1942年(昭和17年)1月初旬、伊号第三潜水艦がハワイ近海で米軍機動部隊を襲撃(失敗)[36]。同方面の日本海軍潜水艦が索敵したところ、1月12日に伊号第六潜水艦が「レキシントン型1隻撃沈」を報告する[37][38]。実際の戦果は空母サラトガ大破で、同艦は半年ほど修理を強いられた[33][37]。 1月24日、クェゼリン環礁に帰投した伊六からの詳細報告により、連合艦隊はレキシントンの撃沈を確信する[37]。連合艦隊は「当分、米機動部隊は太平洋方面で行動しないだろう」と判断、警戒態勢を緩めるとともに、南雲機動部隊(第一航空艦隊)をラバウル攻略作戦や南方作戦に転用した[38][39]。東方の情勢に懸念をもっていた宇垣纏連合艦隊参謀長も、各艦隊・部隊の意見に押し切られた[39]

だが、アメリカ軍空母機動部隊は1942年2月初旬のマーシャル・ギルバート諸島機動空襲を皮切りにウェーク島南鳥島など、日本軍の警戒が手薄な拠点に牽制攻撃を敢行した[40][41]。日本海軍は潜水艦や陸上基地航空隊で邀撃あるいは索敵攻撃をおこなったが、米機動部隊を補足できなかった[33][39]。 連合艦隊参謀長の宇垣纏少将は2月2日の陣中日誌『戦藻録』に「今回の事正に頂門の一針なり。開戦以来既に二ヶ月に垂んとす。彼も亦無策に終る筈なし。冒険性は彼の特徴なり。今や戦局南に西に火花を散らすの時機に投じたりと謂ふべく実効果と合はせ牽制の目的を達したり。今後と雖も彼として最もやりよく旦効果的なる本法を執るべし。其の最大なるものを帝都空襲なりとす。」と記した[39][42][43]。宇垣少将は3月11日と12日の日誌にも同様の懸念を表し[44]、戦勝祝賀日の最中に本土空襲があることを想定して「其の結果思ふだに戦慄を禁ずる能はず」と述べている[45][46]

2月8日、連合艦隊は通信量の増大から「対米国艦隊第三法」を発動し、横須賀に在泊中の空母翔鶴を出動させた[39]第五航空戦隊第一艦隊の戦艦により「警戒部隊」を編成、米空母部隊の捕捉撃滅を命じたが異常はなく、2月15日に第三法解除に至った[39]。 3月10日、連合艦隊は通信情報から米機動部隊が日本本土に来襲すると判断、対米国艦隊作戦第三法を発令した[33][47]。警戒部隊・潜水艦部隊・陸上基地航空隊が出撃したものの米機動部隊は出現せず、3月18日の「第三法止メ」に至った[33][47]。1月下旬以降、米軍機動部隊に関連する無線情報は1月31日・2月7日・17日・3月10日・28日の五回であったが、適中したのは1月31日と2月17日だけだった[47]

以上のように、日本海軍は米軍機動部隊の奇襲に翻弄され、有効な対策をとれなかった[48]。真珠湾方面は警戒が厳しくて、潜水艦による偵察ができなかった[48]。東太平洋方面の海軍航空兵力はトラック泊地方面の第二十四航空戦隊(常用陸攻27、飛行艇18、戦闘機27)、関東地区の木更津海軍航空隊と横須賀海軍航空隊にすぎず、反撃はおろか哨戒すら満足にできなかった[48][49]。連合艦隊は受け身の不利を痛感し、敵空母をおびき出して撃滅するという着想に至る[48][49]。軍令部や日本陸軍との折衝により二転三転したのち、連合艦隊は5月上旬にポートモレスビーを攻略(1月下旬に発令済み)、6月上旬にミッドウェー作戦を実施、7月上旬にFS作戦、10月を目途にハワイ攻略作戦の準備という計画を練った[49]

4月5日、大本営海軍部はミッドウェー攻略とアリューシャン西部要地攻略作戦に同意、採用を内定した[32][50]。日本陸軍は「この作戦はハワイ攻略の前提ではないか」「アリューシャン作戦はソ連に悪影響を与えるのではないか」と疑っており、ミッドウェーおよびアリューシャン作戦に陸軍部隊の派遣を拒否した[51]。 4月16日、永野修身軍令部総長は長期自給戦略態勢確立と戦争終末促進をはかる「第二作戦計画」について昭和天皇に上奏、裁可を得た[52]。同日、軍令部は大海指第85号により連合艦隊(山本五十六司令長官)と支那方面艦隊古賀峯一司令長官)に対し第二段作戦方針を指示した[53]。ミッドウェー作戦、FS作戦(フィジー、サモア方面)、インド洋作戦、ハワイ攻略準備について触れていたとみられる[53]

米空母艦載機による空襲計画

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空母ホーネットに詰め込まれたB-25B改造機。

1941年(昭和16年)12月上旬の真珠湾攻撃以降も太平洋戦争の緒戦で、アメリカ軍は苦戦を強いられる。すでに述べたように、日本軍潜水艦によるアメリカ本土攻撃も、国民の士気に影響を与えた。この様な状況を受けて、アメリカ軍は士気を高める方策として日本の首都東京を攻撃する計画を立てた[54]。後にドーリットルも「日本本土への空襲は、日本国民の心に混乱をもたらし、日本の指導者への疑念を抱かせ」「アメリカは士気を高める必要があった。」と自伝で述べている[55]

しかし、当時アジア太平洋の各地域で敗退を続けていたアメリカ海軍潜水艦は警戒の厳しい日本本土を砲撃することのみならず、近付くにも大きな危険が伴うために、海軍艦船による砲撃は行えないと考えられた。 なお、アメリカ海軍は日本海軍のような潜水艦搭載偵察機とそれを搭載する大型潜水艦を実用化していなかった。 アメリカ陸軍航空軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連領土日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。 アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには空母を日本近海に接近させる必要があり、これは太平洋上で唯一動ける空母機動部隊が危険に晒されることを意味した。

ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃から2週間後の時点で、海軍に日本本土空襲の可能性を研究させていた[56][57]1941年12月21日ホワイトハウス会議でルーズベルト大統領はアメリカ統合参謀本部に対し米国民の士気を高めるためにも可能な限り早く日本に爆撃すべきだと要求した[58]。1942年(昭和17年)1月、海軍作戦部作戦参謀フランシス・S・ロー海軍大佐(潜水艦出身)は空母ホーネットの状況を確認した際、「航続距離の長い陸軍航空軍の爆撃機を空母から発艦させ、日本本土を爆撃する」というプランを思いつく[59]。ロー大佐は、造船所視察のために滞在中だったアーネスト・キング提督にアイデアを説明[60]。ロー大佐は、さらに航空作戦参謀ドナルド・B・ダンカン海軍大佐に報告した[61][62]。アイデアはアーネスト・キング提督からヘンリー・アーノルド陸軍航空軍司令官に伝えられ[63]、アーノルドはジミー・ドーリットル中佐を任務の指揮官に選んだ[59][64]。艦載する爆撃機としてB-18B-23B-25B-26が候補に挙がったが、B-18は航続力、爆弾搭載量共に不十分、B-23は全幅が長く艦橋部を通過できない、B-26は離陸距離が足りないといった問題があったため、条件をクリアしたのはB-25のみであった[65]

選定されたB-25のうちB型から24機が本作戦用に改修されることになり、1月22日から作業に入った[66]。部隊は第17爆撃隊(第34、第37、第95爆撃中隊、第89偵察中隊)から志願者を選別した[67]。長距離飛行が要求されるため、燃料タンクを大幅に増設した[59][68]。爆弾槽内や無線士席の脇にも燃料タンクが設置され、下部銃塔も撤去してタンクの設置場所に充てていた[66]。機密保持のため任務の性格上必要ないと判断されたノルデン爆撃照準器を取り外し[69]、代わりに11番機機長チャールズ・ロス・グリーニング大尉発案の“Mark Twain”と呼ばれたアルミ製簡易照準器が搭載された[66]。爆撃の様子を記録するため機体尾部に撮影機材が搭載された一方で尾部銃座は撤去され、木製の偽装銃身に交換された[70]。着陸地点が未定だったためソ連に向かうことを想定して機体には防氷ブーツが装着され、作戦中は無線封止となるため無線機類は撤去されている[71]。使用する爆弾は通常の500ポンド爆弾1発とTNTアマトール混合の500ポンド特殊爆弾1発、焼夷弾128発を束ねたM54集束焼夷弾2発、計4発であった[71]

2月1日、ノーフォーク沖でジョン・E・フィッツラルド海軍大尉とジェームス・F・マッカーシー海軍大尉がB-25Bをホーネットから発進させることに成功した[72][73]。4月1日、16機がサンフランシスコ・アラメダ埠頭で空母ホーネットの甲板にクレーンで搭載された[74][75]。陸軍航空軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦の詳細はルーズベルト大統領にさえトップシークレットとされた。また任務終了後は空母に帰投・着艦するのではなく、日本列島を横断して当時、日本軍と戦争中であり、連合国軍の主要構成国の1国であった中華民国東部に中華民国国軍の誘導信号の下で着陸する予定となった[76]蔣介石(中華民国総統)自身は日本軍の報復を恐れて着陸の延期を執拗に要請しており、また中華民国軍飛行場への誘導電波発信機設置は間に合わなかった[77]。アメリカ軍はウラジオストクを避難場所とすることを検討してソ連に提案したが、日本と中立条約を結んでいた同国は拒否した[78]。B-25を搭載する空母はホーネットとされ、姉妹艦のエンタープライズが護衛に付くこととなった[79]

参加兵力

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第16任務部隊(護衛任務)

第18任務部隊(日本本土空襲任務)

(4月13日、ミッドウェー環礁北方で第16任務部隊と合同。同部隊に編入)

経過

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爆弾に日本の勲章を取り付けるジミー・ドーリットル中佐。
第二十三日東丸。
炎上する第二十三日東丸。
空母ホーネットから発艦するB-25。

艦隊発見

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1942年(昭和17年)4月1日、16機のB-25を搭載した空母ホーネットおよび護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した[80][81]。4月13日、第18任務部隊(ホーネット隊)は、ハルゼー提督直率の第16任務部隊(エンタープライズ、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)と合流し、日本へ向かった[82][83]。事情を知らないホーネットの乗組員は、B-25を真珠湾に運ぶ任務だと噂していた[75]。エンタープライズ乗組員は、ソ連にB-25を輸送する任務だと噂している[83][84]。ドーリットル自身は、被弾した場合は搭乗員を脱出させたのち目標に特攻する決意だったという[85]。 事前の計画では、4月18日午後に日本本土(本州)沿岸距離500浬地点でB-25隊は発進(各機500ポンド爆弾4個搭載)[86]。指揮官ドーリットル中佐機は夜間の東京に焼夷弾を投下、火災を目標に後続機が爆撃を敢行(ほかに名古屋、大阪、神戸を各1機が空襲)[86]。空襲終了後は全機中国大陸に脱出というものだった[86]

攻撃予定日直前の4月18日02:10(03:15とも。以下時刻は24時間制で表記。)、エンタープライズはレーダーに2つの光点を発見する[87][88][89]。米艦隊はSBDドーントレス爆撃機を索敵のため発進させ、同機は北緯36度4分 東経153度10分 / 北緯36.067度 東経153.167度 / 36.067; 153.167地点で哨戒艇を発見した[90][91]。 06:44、米艦隊は哨戒艇を視認。それは日本軍特設監視艇第二十三日東丸(日東漁業、昭和10年建造、90トン)に発見されたことを意味した[2][92]。底引網漁船の第二十三日東丸は[93]、軽巡洋艦ナッシュビルの砲撃とF4Fワイルドキャット(エンタープライズ)の機銃掃射を受けた[91]。07:23に撃沈されて乗員14人全員は艇と運命を共にしたが、アメリカ軍側は巡洋艦の主砲砲弾915発(もしくは928発)、12.7mm機銃1200発、SBDドーントレス1機被撃墜(乗員は脱出)と30分を必要とし[91]、第二十三日東丸に無線を使う時間を与えた[94][95]。06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった[96]。 後日(昭和18年3月15日附)、日本海軍は第二十三日東丸に対し感状を授与した[97]

アメリカ軍は付近の哨戒艇を一掃する事を決意[98]、エンタープライズから発進したドーントレス(アメリカ軍記録ではF4Fワイルドキャット戦闘機)は周辺の哨戒艇を攻撃する[99][100]。7:00に特設巡洋艦粟田丸日本郵船、7,398トン)、10:00に特設監視艇海神丸(高塚仁左衞門他、134トン)、11:00に特設監視艇第一岩手丸(東北興業、97トン)と第二旭丸(立石松義、164トン)、長久丸(大門長一、116トン)。11:30に第一福久丸(補償責任焼津信用販売購買利用組合、152トン)、特設砲艦興和丸(三光汽船、1,106トン)、特設監視艇第二十六南進丸(林兼商店、81トン)。12:00には特設監視艇栄吉丸(補償責任焼津信用販売購買利用組合、150トン)と粟田丸(2回目)、第三千代丸(中村碩郎、128トン)をそれぞれ攻撃した[101]。以下、被害状況を記載する。

第二旭丸(第二哨戒隊)は11:00に銃撃を受け、戦死1名・戦傷2名を出した[102]

海神丸は11:00から銃撃を受けたが、被害軽微だった[103]

福久丸は11:35に艦爆から攻撃を受けたが、被害はなかった[104]

粟田丸は12:15に爆撃をうけ至近弾となり、軽傷1名を出したが船体の被害は軽微だった[105]

第三千代丸は12:22より機銃掃射を受け、戦死2名を出した[106]

第二十六南進丸は11:40から6回におよぶ空襲を受け、戦死1名・戦傷5名を出した[107]

長久丸は機銃掃射火災が発生して漂流、翌日03:00に沈没した[108][109]。生存者は粟田丸に救助された[108][110]

「栄吉丸」はSBD1機と交戦して重傷2名を出し、航行不能となる[111]。特設巡洋艦赤城丸(日本郵船、7,389トン)に曳航されて本土に向かった。

「第一岩手丸」(第三哨戒隊)は米軍機の爆撃と機銃掃射で航行不能になり、翌日17:00に潜水艦「伊七四」が砲撃処分した(乗員は伊七四に救助[112][113][114][115]

12:50、第二十一南進丸(林兼商店、88トン)が至近弾で航行不能となり、翌日17:00に軽巡洋艦木曾が砲撃処分した(乗員は木曽に救助)[116][117]

長渡丸(無限責任長渡浜漁業協同組合、94トン)は12:30頃より空襲を受けたが、この時点では被害軽微だった[118]。だが米機動部隊に遭遇、艇長(前田儀作兵曹長)は敵情を確認するため、あえて機動部隊に向けて突入した[118]。13時には『米空母2隻、米巡洋艦2隻を発見』したと通報する[119]。空襲を受けて損傷[118]。さらに約30分後の13:36、ナッシュビルが長渡丸を6インチ砲102発、5インチ砲63発と1時間を消費して沈めた。長渡丸の乗員9名が戦死し、5名がナッシュビルに救助されている[120][121]

アメリカ艦隊による一連の掃討により、特設監視艇隊は大きな被害を受けた[122]。5隻沈没(第二哨戒隊3隻〈第二十三日東丸、長久丸、第二十一南進丸〉[123]、第三哨戒隊2隻〈長渡丸、第一岩手丸〉[124])、7隻損傷(粟田丸、興和丸、第三千代丸、栄吉丸、第二旭丸、第二十六南進丸、海神丸)、戦死33名、戦傷者23名と記録されている[2][125]。 しかし、漁船改造の特設監視艇隊の報告は米軍機動部隊の奇襲計画を狂わせており、この点で空襲(作戦)に与えた影響は極めて大きかった[126][127]

米艦隊は発艦予定海域手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたため、当初の夜間爆撃の予定をとりやめ[2][84]、予定より7時間早い08:15からB-25爆撃機を発艦させ始めた[128]。最後のB-25が09:16に発艦した後、艦隊は直ちに退避を開始した[129][130][131]。 なお、B-25の7番機(テッド・W・ローソン中尉)の搭載爆弾には、駐日米海軍武官補佐官ステファン・ユーリカ海軍中尉の所有物で、かつて日本から授与された紀元2600年祝典記念章がドーリットルの手で装着されていた[132]。ハルゼー提督(エンタープライズ乗艦)は「諸君、利息をつけて、この勲章を返してやれ、成功を祈る」と伝言している[133]

空襲

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ドーリットル率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市神奈川県川崎市横須賀市愛知県名古屋市兵庫県神戸市などを爆撃した[134]。16機中15機が爆弾投下に成功したが、照準ミスや進路変更などにより当初の軍事目標以外の場所を爆撃した機も少なくなかった。また日本側当時の「言論出版集会結社等臨時取締法」統制により来襲の報道こそあったが被害状況は伏字により、国民の口にのぼる事もなかった[135]

作戦参加機一覧[136]
機体
番号
シリアル
ナンバー
ニックネーム 所属 発艦
時間
機長 目標 実際の攻撃地 脱出状況
爆撃 機銃掃射
(地上)
1番機 40-2344 34BS 08:15 ジェイムズ・ハロルド・ドゥーリトル中佐(隊長) 東京 東京市牛込区
東京市淀橋区[137]
- 衢州付近で空中脱出
2番機 40-2292 37BS 08:20 トラヴィス・フーヴァー中尉(Travis Hoover) 東京 東京市荒川区[138] - 寧波付近に不時着
3番機 40-2270 Whisky Pete 95BS 08:30 ロバート・マニング・グレイ中尉(Robert Manning Gray) 東京 埼玉県川口市
東京市王子区
東京市葛飾区[139]
埼玉県川口市
東京市葛飾区[140]
温州西方で空中脱出
4番機 40-2282 95BS 08:32 エヴァレット・ウェイン・ホルストロム中尉(Everett Wayne Holstrom) 東京 相模湾
(洋上投棄)[141]
- 上饒南方で空中脱出
5番機 40-2283 95BS 08:35 デイヴィッド・M・ジョーンズ大尉 (David M. Jones) 東京 神奈川県川崎市[142] - 衢県南方で空中脱出
6番機 40-2298 The Green Hornet 95BS 08:37 ディーン・エドワード・ホールマーク中尉 (Dean Edward Hallmark) 東京 神奈川県川崎市
神奈川県横浜市[143]
神奈川県横浜市[144] 寧海付近に不時着水
7番機 40-2261 The Ruptured Duck 95BS 08:40 テッド・ウィリアム・ローソン中尉 (Ted William Lawson) 東京 神奈川県川崎市[145] - 寧海付近に不時着水
8番機 40-2242 95BS 08:47 エドワード・ジョセフ・ヨーク大尉(Edward Joseph York) 東京 栃木県西那須野町
新潟県新津町[146]
- ウラジオストク北に着陸
9番機 40-2303 Whiring Dervish 34BS 08:52 ハロルド・フランシス・ワトソン中尉(Harold Francis Watson Jr.) 東京 東京市品川区[147] - 撫州付近で空中脱出
10番機 40-2250 89RS 08:55 リチャード・アウトコルト・ジョイス中尉(Richard Outcalt Joyce) 東京 東京市品川区[148] - 衢州付近で空中脱出
11番機 40-2249 Hari kari-er 34BS 09:00 チャールズ・ロス・グリーニング大尉(Charles Ross Greening) 横浜 千葉県椿海村[149] - 衢州付近で空中脱出
12番機 40-2278 Fickle Finger of Fate 37BS 09:01 ウィリアム・マーシュ・バウワー中尉 (William Marsh Bower) 横浜 神奈川県川崎市[150] - 衢州付近で空中脱出
13番機 40-2247 37BS 09:02 エドガー・アール・マケルロイ中尉(Edgar Earl McElroy) 横須賀 神奈川県横須賀市[151] 神奈川県横須賀市[152] 上饒北西で空中脱出
14番機 40-2297 The Avenger 89RS 09:05 ジョン・アレン・ヒルガー少佐(John Allen Hilger、副長) 名古屋 愛知県名古屋市[153] - 上饒南東で空中脱出
15番機 40-2267 TNT 89RS 09:10 ドナルド・グレゴリー・スミス中尉(Donald Gregory Smith) 神戸 兵庫県神戸市[154] - 寧海付近で不時着水
16番機 40-2268 Bat Out of Hell 34BS 09:16 ウィリアム・グラヴァー・ファロウ中尉 (William Glover Farrow) 大阪

名古屋
愛知県名古屋市[155] 三重県伊曽島村
三重県四日市市
和歌山県名手町
和歌山県粉河町[156]
南昌付近で空中脱出

以下、特筆すべき機を記載する。

1番機(ドーリットル隊長機)は茨城県から東京上空に侵入し、12:15に空襲を行った[157]。小石川後楽園の東京第一陸軍造兵廠を目標としていたが、全く無関係の場所を爆撃してしまい、民間人に死傷者を出す[158]。その結果、早稲田中学の校庭にいた4年生の小島茂と通行人1名が死亡、重傷者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。1番機はその後日本陸軍九七式戦闘機の追尾を振り切り、海軍厚木基地近くを通過して海上に出た。この時厚木基地に配備されていた機体は、旧式の九六式艦上攻撃機だった[159]。中国大陸到達時の天候は悪化しており、また中華民国軍飛行場には誘導電波装置が設置されていないため夜間着陸は不可能となり、ドーリットルは落下傘脱出を命じる[160]。午後9時30分(ホーネット発艦より約13時間、飛行距離約3620km)、搭乗員は自動操縦の機体から脱出した[161]。ドーリットル自身は作戦失敗(東京空襲は成功したが、B-25輸送任務には失敗)だと判断していた[162]。「軍法会議にかけられる」と悲観しており、部下に慰められたという[163]

2番機は1番隊長機を追い抜き、目標としていた東京第一陸軍造兵廠の兵器庫(東京都北区十条)を目指したが、快晴の中でも目標確認が取れず目についた施設を爆撃、当時の尾久町八、九丁目(現在の荒川区尾久橋付近)にて爆弾3個と集束焼夷弾1個を投下。当時の記録によると落下地点で直径10メートル、深さ5メートルの穴が開き、死亡10人・重傷34人・軽傷14人・全焼43戸・全壊9戸・半焼1戸・半壊13戸の被害が出た。よって本土空襲第一弾となり「尾久初空襲」と呼称される[164]。事前の警戒警報は無くサイレンが鳴ったのは爆撃後の12時28分頃であった[165]

4番機は、唯一爆弾を海上に捨てて離脱したB-25となった[166]。機長は日本軍機多数に迎撃され、機銃も故障して離脱したと申告している。

6番機は東京を目標としたのち、中国大陸沿岸の日本軍の占領区域に不時着した[167]。爆撃手ダイター軍曹航空機関士フィッツマーリス伍長が死亡し、機長ホールマーク中尉、副機長メダー少尉、ネルソン航空士捕虜となった。

8番機鹿島灘から東京へ侵入したが、機械不調のため燃料消費がはやかった[166]。8番機は北上して栃木県西那須野駅新潟県阿賀野川橋梁付近を爆撃しつつ、日本海へ抜けてウラジオストクに向かった[168]日本海を越えて19:35にソ連本土に不時着(ウラジオストク近郊の飛行場に着陸とも)したが、すぐにソ連警察によって拘留されてしまう[166]。乗員は捕虜的立場で各地を転々と移送されたのち、同盟国のイギリスの影響圏であるイラク(一部著作ではイラン[166] に脱出して、1943年(昭和18年)5月29日にようやくアメリカに帰還した[169]

11番機は本土侵入後に水戸陸軍飛行学校の航空隊機に迎撃された(後述)。そのため横浜に侵入することができず、回避行動中に発見した建設中の香取海軍飛行場を爆撃し、九十九里浜を抜けて離脱した[170]

横須賀軍港に対する空襲
(13番機より撮影)

13番機は、房総半島の南部を横断して横須賀に向かった。13:00頃、記念艦「三笠」の上空から爆撃を開始し、3発目の爆弾が、横須賀軍港第4ドック潜水母艦から空母へと改装中だった大鯨[171]龍鳳)に命中する[172]。大鯨では火災が発生した[173]。13番機は日本海軍の中枢(横須賀鎮守府)を爆撃することに成功し、対空砲火の中を離脱した。

16番機は、ホーネット発艦時にプロペラ接触事故で乗組員1名が左腕を切断した[167]。当初は大阪を目標としていたが実際に爆撃したのは名古屋で[174]、投下後は和歌山に向かい、後に中国奥地で5名全員が捕虜となった[167]。この16番機は日本領土内の各地で民間人に対する機銃掃射を行い、これが後の死刑判決に繋がった。

空襲を終えた16機のB-25のうち、北のウラジオストクへ向かった8番機を除く15機のB-25は日本本土南岸の洋上を飛んで中国大陸へ向かった。この時、B-25は遭遇した船舶に対して、それが民間船であろうと機銃弾のある限り攻撃を行った[175]。15:00、室戸岬沖で漁船「高島丸」が攻撃を受け重傷1名。16:00、足摺岬沖で漁船「第二三木丸」が2機に銃撃され、2名が死傷した。17:15、鹿児島県口永良部島近海で漁船「昌栄丸」が機銃掃射を受け、重傷1名が出た。

日本軍の反応

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日本海軍

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重巡洋艦高雄。

4月9日、日本海軍は真珠湾方面に哨戒機多数を確認、14-15日には北方方面での哨戒機多数出現から「アリューシャン方面に有力部隊行動中の算あり」との見方を持った[176]。だが、連合艦隊、第五艦隊とも米機動部隊の本土来襲を予期できなかった[12][176]

4月18日06:30、「第二十三日東丸」から『空母2隻を含む機動部隊発見』という通報を受けた日本軍は、警戒を厳とする[177][178][179]。しかし米空母機動部隊の発見位置は、本土より600浬以上東方であった[177]。日本海軍は、アメリカ軍の攻撃は航続距離の短い艦載機によるものと判断する[180]。アメリカ軍機(攻撃距離250浬)の発進および関東地方空襲は、翌日(4月19日)早朝と推測した[13][181]

そこで連合艦隊(旗艦大和瀬戸内海桂島泊地所在)は「対米国艦隊作戦第三法」を発令[182][183]。第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将(旗艦愛宕)の第二艦隊に米機動部隊の捕捉・撃滅を命じる(連合艦隊機密第801番電)[180][183]。近藤中将は前進部隊指揮官として内地在泊艦艇を指揮することになった[12][183]。 「愛宕」は空襲前日に横須賀に戻ったばかりで[184][185]、近藤長官以下第二艦隊首脳部は4月18日朝から軍令部に出張していた[186]。 空襲時の横須賀には高雄型重巡洋艦2隻(愛宕高雄〈整備中〉)[185]、水上機母艦瑞穂[183]、第4駆逐隊の陽炎型駆逐艦2隻(野分)が在泊しており[183]、空母祥鳳は東京湾で訓練中だった[187]三河湾には重巡洋艦摩耶(第四戦隊)、瀬戸内海には第五戦隊の妙高型重巡洋艦2隻(羽黒妙高)、呉軍港には軽巡洋艦神通第二水雷戦隊旗艦)が所在だった[183]。 上記艦艇に加え、日本に帰投中の重巡洋艦鳥海(4月16日カムラン湾[188]、18日時点で新南群島航行中)[189]、第7駆逐隊、第8駆逐隊、第10駆逐隊が前進部隊に編入され[183]、米機動部隊の迎撃任務にあたることになった[190][191][192]

同時に、連合艦隊は内海西部所在の警戒部隊(2月8日に編成[193]。指揮官高須四郎第一艦隊司令長官、第二戦隊〈伊勢、日向、扶桑、山城〉、第九戦隊〈北上、大井〉、空母部隊〈鳳翔、瑞鳳、三日月、夕風〉、矢風等)に、前進部隊の支援を命じた[33][183]。駆逐艦が少ないため、4月17日に呉を出撃したばかりの第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)が警戒部隊に編入された[183]。 第二六航空戦隊(基地航空隊)及び臨時に指揮下に入った航空部隊(第二十一航空戦隊、第四航空隊〈木更津陸攻隊〉、空母加賀飛行隊)も戦闘準備を整え、木更津からは06:35より一式陸上攻撃機4機が発進した[183][194]

トラック泊地へ進出中の第六艦隊(先遣部隊指揮官小松輝久中将)は、09:40に軍艦2隻(練習巡洋艦香取、甲標的母艦千代田)と東方先遣隊(潜水艦6隻)から潜水艦部隊を分離、掃航索敵を命じ、千代田には警戒部隊合同を命じた[33][195]。本土東方500浬附近所在の第三潜水戦隊(伊号第八潜水艦、第11潜水隊、第12潜水隊)も索敵攻撃を命じられた[33][196]

横須賀鎮守府は08:05に「第二十三日東丸」からの敵機動部隊発見第一報を受信し、08:20に航空部隊に対し「敵艦船攻撃第二法」を下令した[197]。08:30、横鎮管区に警戒警報が発令される[197]。軍令部は各方面鎮守府部隊の航空隊を横須賀鎮守府司令長官の指揮下に入れ、関東地方に集中することにした[177]

また、これに先立ち最初にアメリカ軍の空母発見の報告を受けた第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将は、まず特設巡洋艦2隻(粟田丸〈第二哨戒隊支援艦〉、浅香丸〈第三哨戒隊支援艦〉)に、哨戒隊支援および接触を命じた[198][199]。つづいて帰投中の第二哨戒隊に、敵発見地点を基準として索敵するよう命じた[199]釧路港で休養整備中だった部隊も出動を命じられた[199]。特設巡洋艦赤城丸は4月18日09:00に、第一哨戒隊の昌光丸と監視艇17隻は同日14:30に釧路を出撃、20日夜までには東経149度線の配備についた[199]

室蘭に停泊していた重巡洋艦那智(3月10日附北方部隊編入)は11:15に出撃[199]。09:20に厚岸を出撃していた第二十一戦隊の軽巡洋艦2隻(木曾多摩)は18:30に那智と合流し[199]、共に米機動部隊の迎撃へと向かった[198][200]。迎撃へと向かった各部隊は上記のように米機動部隊が翌日19日に攻撃圏内へ入ると考えていたが、実際には既にB-25を発進後直ちに退避していた[177]。そのため、これらを捕捉することができなかった[200]

第二艦隊や警戒部隊は外洋に出て米機動部隊を捜索したが会敵できず、4月20日夕刻に作戦を中止する[186][201][202]。21-23日にかけて各艦は母港へ戻った[186][203]

当時無敵を誇った南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、参謀源田実他)はインド洋で行われたセイロン沖海戦から日本への帰路についており、台湾近海を航行中だった[12][204]。南雲麾下の第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)に属する空母2隻(蒼龍飛龍)にも迎撃命令が下ったが[205]関東沖合の米機動部隊を捕捉するには距離が遠すぎた[206]。草鹿参謀長は「なにかに対するゼスチュアとするなら別問題であるが、戦争にゼスチュアは禁物である」と回想している[204]

なお横須賀軍港には多数の艦艇が停泊しており、祥鳳・愛宕・高雄・嵐・野分・朝潮荒潮・第二十二駆潜艇等が発砲したが、いずれも命中弾はなかった[207][208]。また、宮崎県都井岬沖には第15駆逐隊(親潮黒潮早潮)が航行しており(前述のように警戒部隊編入を命じられていた)[183]、16:17に駆逐艦「黒潮」がB-25数機を発見し、主砲と機銃で攻撃したが、損害を与えることはできなかった[209][210]

日本陸軍

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日本海軍からの通報を受けた陸軍は、万一に備えて各地の飛行部隊防空部隊に防衛と哨戒命令を出した[134]。さらに敵爆撃機警戒警報を出したが、「敵機の高度は高い」の通達が各地の判断を惑わせる。このため各部隊はB-25編隊を発見しつつ、日本軍機と勘違いして上級司令部へ通報してしまう[211]。また当時のB-25のアメリカ軍国籍マークは旧式スタイル(青い円の上に白い星、白い星の中心に赤い円)のため、自国の軍機と勘違いしてB-25に手を振る民間人もいたという[180]。 菅谷と岩屋監視哨はB-25をアメリカ軍機と断定して報告したが、電話交換手と監視隊本部との押し問答で15分を浪費し、情報は有効に生かされなかった[212]。かろうじてB-25の通過前に迎撃を開始した高射砲部隊もあったが、旧式の八八式七糎野戦高射砲でB-25を捕捉することは出来なかった[213]。逆に高射砲弾の破片が市民7名を負傷させた。陸軍よりも海軍の高射砲台の方が活発に射撃したが、1発の命中弾もなく終わる[214](また、各砲台は半分以上が工事中だった[215])。なお陸海軍とも三八式歩兵銃による対空射撃が多数記録されているが、全く命中しなかった[216]

陸海軍航空隊

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三式戦「飛燕」一型(キ61-I)

三沢海軍航空隊第十一航空艦隊第二六航空戦隊の木更津基地からは、一式陸上攻撃機部隊が米艦隊捜索に発進した[194][217]。第四索敵機(有川俊雄中尉)が09:30にB-25単機(国籍不明の双発飛行艇らしきもの、西進を報告)を発見したのみで、米艦隊発見には至らなかった[194][218][219]。この陸攻は、アメリカ軍の機動部隊に相当接近したと思われ[217]、エンタープライズは50 km まで接近した偵察機の存在を記録している[220]。 午後12時30分、第十一航空艦隊は敵艦隊の位置がわからないまま、魚雷を装備した一式陸攻30機(第六空襲部隊22機、三沢空8機)、零戦12機、内地に帰還していた空母加賀所属の零戦12機を米艦隊発見地点に向かわせた[217][221][222]。 しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった[223]。一式陸攻3機が墜落と不時着で失われ、零戦1機も不時着して大破した。各基地の航空隊は19日以降も索敵を行い、大部分は米軍機動部隊攻撃に備えて待機したが、もはや出番はなかった[224][225]

B-25の大半の侵入ルートにあった水戸陸軍飛行学校は、本来航空通信と機上射手の教育を目的としていたため、航空戦力がなかった。教官の平原金治曹長が九七式戦闘機で出撃したものの、B-25には追いつけなかった[226]。しかしながら、試作戦闘機「キ61」(のちの三式戦闘機「飛燕」)試作2・3号機に搭載したホ103 一式十二・七粍固定機関砲射撃試験のため、水戸飛校を訪れていた陸軍飛行実験部実験隊荒蒔義次少佐、梅川亮三郎准尉がキ61で迎撃している。荒蒔機は装備の弾薬筒を代用弾(演習弾)から実弾に変更するため離陸が遅れ、会敵出来なかったものの、梅川機は代用弾のまま先行離陸、B-25の11番機を捕捉し、白煙をふかせた[227]。しかし11番機は撃墜には至らず離脱したため、これによって撃破されたB-25は4番機(ホームストロム少尉)ともされている[228]。なお11番機は日本軍戦闘機2機の撃墜を報告したが、キ61は無事帰還した。また川崎を爆撃した9番機(ハロルド・F・ワトソン中尉)は、機関銃を4丁装備した引き込み脚の戦闘機から攻撃を受けたと報告している。

さらに正午に翌日ラバウル航空隊へ送るために試験飛行をしていた海軍の十三試双発陸上戦闘機横浜上空に高角砲弾幕と山肌スレスレを飛行する双尾翼の双発機を目撃し、操縦していた小野飛曹長は九六式陸上攻撃機かと思ったものの、当日早朝に敵空母機動部隊発見の報告から警戒警報が出されていたことから米軍機かもしれないと考え、実弾を積んでいなかったため攻撃は行わず、急いで木更津基地へ滑り込んだ[要出典]

横須賀航空隊からは、宮崎勇飛行兵曹ら3機の零戦が発進し、哨戒飛行にあたっていた。零戦を順次上空哨戒に発進させていたところ、B-25の空襲がはじまった[134]。零戦隊は『双発機2機が試験飛行で飛ぶので注意せよ』との通達を受けており、対空砲火の中を飛ぶB-25を通達のあった味方機と誤認した。零戦隊が敵機だと知らされたのは着陸してからだった[229]

東海地区では、B-25到達までに時間があったことから、空襲前に迎撃機が発進した。鈴鹿海軍航空隊から九六式艦上戦闘機9機、九六式艦上攻撃機九七式艦上攻撃機6機が出撃したが、空振りに終わった。「陸上爆撃機は高高度襲来」の思い込みから高高度で待機し、少数機が低空で飛行するB-25を見落とした結果だった。逆に洋上哨戒に出た九七式艦上攻撃機1機が不時着し、乗員は救助された[230]。陸軍からは明野陸軍飛行学校が臨時防空戦闘機隊を編成し、一式戦闘機「隼」3機、九七式戦闘機15機に教官が搭乗して離陸した。この部隊もB-25と遭遇できずに帰還した[231]阪神地区では、陸軍の飛行第13戦隊が空襲にまったく対応できず、出撃記録も不明である。ただし、B-25の15番機が神戸上空で九七式戦闘機2機を目撃している。海軍は阪神地区の防空を担当しておらず、動きはなかった。岩国航空隊が所属機を横須賀に派遣したのみである。

洋上では、佐伯海軍航空隊所属の九九式艦上爆撃機2機が15:47に高知県足摺岬沖でB-25を発見した。井上文刀大尉は追跡を命じたが、速度の遅い艦上爆撃機ではいかんともしがたく、振り切られた。

結果

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捕虜となったB-25搭乗員を連行する憲兵下士官
搭乗員を処刑した事に対するアメリカのプロパガンダ諷刺画

発表によって異なるが、日本側の被害は死者87名、重傷者151名(うち後日死亡1名)、軽傷者311名以上、物的被害は家屋400戸で、うち家屋全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上であった[232][233]。このうち9名は日本軍高射砲の破片によると認められている[234]国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃故意に行った機もあった[235]葛飾区にある水元国民学校では、高等科の生徒、石出巳之助が機銃掃射を受け死亡した[236]。この学童には「悲運銃撃善士」という戒名が与えられた[236]朝日新聞社は『鬼畜の敵、校庭を掃射』等を報じている[237][238]

また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。ただし、このB-25(3番機)は学校屋上に設置されていた防空監視を見て軍事施設と誤認した可能性がある[239]。14番機は名古屋病院を爆撃したが、これは第3師団司令部を狙った攻撃がそれたためである[240]。16番機は他のB-25に比べて積極的に機銃掃射を行った。

爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュート脱出した[19]。この結果、15機のB-25が全損となった(11機落下傘脱出、4機着水)[167]。8番機はソ連のウラジオストクに不時着、乗員は抑留された(詳細前述)[19]。爆撃機隊のうち、乗員戦死が1名、行方不明が2名、捕虜となったのが8名(後日3名処刑、1名病死。詳細後述)[241][242]。ドーリットル中佐は陸軍准将へ二階級特進、隊員全員は重慶で蔣介石宋美齢(蔣介石夫人)と晩餐会を共にした[243]。5月5日、ドーリットルはダグラスDC-3で重慶を出発し、中東・アフリカ経由で5月18日にアメリカ(ワシントン)へ帰国[243][244]議会名誉勲章を授与された[245]。他の隊員も順次帰国し、熱烈な歓迎を受けた[246]。ただし、捕虜搭乗員への配慮から、作戦の全貌は秘密にされた。

昭和天皇杉山元参謀総長からではなく東久邇宮稔彦王防衛総司令官に「真相を直接報告せよ」と勅命した。それに対し、東久邇宮防衛総司令官は「敵機は一機も撃墜できませんでした。また今のような体制では国内防衛は不可能です」と答申する[247]。なお、大本営は「敵機9機を撃墜。損害軽微」「わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり」と発表した[248][249][250]中部軍に至っては、空襲直後に「東京防空隊ノ撃墜セシ機数7」を報告している[251]。 しかし当日は晴天であり、墜落した航空機など市民からは一機も確認されなかった。このため、大本営の発表に対し、「皇軍は空機(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜したのだ」と揶揄するものもいた[252][253]。そのため陸軍は中国大陸に不時着した16番機の残骸を回収し、空襲時に撃墜した機体として4月25日から靖国神社で展示して、国民の疑念を晴らそうとした[136][254]。4月26日の朝日新聞は『まさしく大東亜戦下の靖国神社臨時大祭にふさわしい景観』と評している[255]。陸軍報道部は「指揮官はドゥ・リトルだが、実際(被害)はドゥ・ナッシング」と発表した[19][253]。ドーリットル空襲の結果、武藤章が解任されたとの見方もある[256]。この空襲のため東京六大学野球の開会式が中止となった[257]

朝日新聞は4月19日朝刊で『バケツ、火叩きの殊勲、我家まもる女子、街々に健気な隣組』『初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散。"必消"の民防空に凱歌』『われに必勝不敗の国土防衛陣あり』等を報じ、日本国民の冷静さを強調した[258]。一方、日本軍は空襲に対して疑心暗鬼となっていた。空襲前日の4月17日、伊豆諸島沖を航行していたソ連商船「セルゲイ・キロフ」が駆逐艦「澤風」の臨検を無視して逃走し、「澤風」が拿捕する。ソ連船は4月22日まで拘留された。足摺岬沖のソ連商船「バンゼッチ」も、九九式艦爆2機から威嚇射撃を受けた。これはソ連商船がB-25の行動を本国に報告しており、空襲と関係があるものと疑ったためである[259]。駆逐艦「早潮」はソ連商船の連行を命じられたが、悪天候のため一時見失った[260]

空襲後は各地の監視哨から存在しない敵大編隊発見の報告が入り、上級司令部を混乱させた[17][261]カモメの大群を「敵味方不明の大編隊」とする報告や、存在しない米軍機との交戦報告が多数寄せられている[262]。一例として、大阪警備府は「ブリストル ブレニム爆撃機と目下大阪上空にて防空隊と交戦中」と4月19日に報告した[263]。また陸海軍機に対する誤認と誤射が18日から21日にかけて多数発生し[264]鹿島空の九六式陸上攻撃機が陸軍戦闘機から誤射され、高橋光夫電信員が戦死した[265]。誤認空襲警報により、天皇や皇族たちも臨時避難を余儀なくされた[266]

4月21日、神戸沖で公試中の水上機母艦「秋津洲」(艦長黛治夫大佐)は「B-25を発見、砲撃して撃退した」と報告する[267]。実際は、九六式陸上攻撃機ダグラス輸送機に対する誤射であり、弾丸の破片が関西汽船所有の小型客船「天女丸」に降り注いだ[268][269]

一方、日本軍に逮捕された爆撃機搭乗員8人は、都市の無差別爆撃非戦闘員に対する機銃掃射を実施した戦時国際法違反であるとして、捕虜ではなく戦争犯罪人として扱われた[270]。アメリカは爆撃機搭乗員が捕虜になったことを知ると、「彼らは軍事目標のみを攻撃した」と事実とは異なる主張を展開した[271]。5月6日、昭和天皇は蓮沼蕃侍従武官長に以下の希望を述べた[272]

  1. 日本武士道に反せざるよう[272]
  2. 国際関係に悪影響を及ぼさざるよう[272]
  3. 帝国臣民にして敵側に抑留せらある者(将来も起り得べし)に対する敵側の報復を誘わざるよう、穏便に行うこと[272]

その後、上海市で開廷された軍事裁判(第十三軍軍事裁判所)の結果、1942年(昭和17年)8月28日に8名全員に対して「人道に反する行為を犯した罪」により死刑が言い渡された[273][274]。 中央部では判決を支持する声が多かったが、天皇の意向を受けた東條首相は慎重姿勢であり、審議が続いた[275]。 10月13日、参謀総長は支那派遣軍総司令官に対し死刑執行を3名(操縦士2名、銃手1名)とし、残5名を無期監禁とするよう希望する[276]。14日、減刑命令発令[276]10月15日上海競馬場で操縦士2名と銃手1名が処刑された[276](ディーン・E・ハルマーク〈ホールマーク〉中尉、ウィリアム・ファロー中尉、ハロルド・スパッツ軍曹)。10月19日、大本営陸軍報道部長は談話を発表した[276][277]福留繁(当時、軍令部第一部長)は「陸軍はいつの間にか捕虜の処刑をすませ、天皇にも海軍にも事後奏上や通告ですませた」「日本を攻撃して捕虜になったら死刑になるという見せしめのためであった」と回想している[21]

1943年(昭和18年)4月23日、アメリカはドーリットル隊員が処刑されたことをはじめて報道する[278]。また、日本政府に対して抗議を行う[279]。 同時に日本側の行為を『野蛮人の蛮行』として非難し、大々的にプロパガンダに利用した[280]。また日本の指導者であった東條英機を「血に飢えた独裁者」であると宣伝し、現在もアメリカ国内ではそのように認識されている。1944年(昭和19年)にこれら捕虜を描いた映画『パープル・ハート』が20世紀フォックスによって製作された[281]ガダルカナル島の戦いアッツ島の戦いを経た同時期に至ると、連合国の間では日本人絶滅政策を検討するようになった[282]。米軍の調査によれば、約半数の米兵が「平和が回復されるまで日本人(軍人・民間人関係なく)は一人残さず殺すべきだ」と考えていたという[282]。1944年(昭和19年)12月の世論調査(戦争終了後、日本人に対する処置について)では、アメリカ国民の13%が日本人の全員殺害を希望するようになった[282]。ルーズベルト大統領首席補佐官ウィリアム・リーヒ提督は「日本は我々のカルタゴ」と表現している(1942年9月)[283]

3人の遺体は火葬ののち国際赤十字を通じてアメリカ側に引き渡された。残り5人の死刑執行は猶予された(前述)。ロバート・J・メダー少尉は1943年(昭和18年)12月1日に南京栄養失調による赤痢脚気で死亡した。1人は1945年(昭和20年)当時重慶で療養していたと報道された[284]。1945年(昭和20年)8月20日に捕虜が解放された。16番機爆撃手ジェイコブ・ディシェイザーは1945年(昭和20年)8月20日に北京で解放されたあとキリスト教伝道者となり、日本で布教活動をおこなった[285][286]真珠湾攻撃の飛行隊総隊長を務めた淵田美津雄中佐は戦後ディシェイザーの冊子を読んでキリスト教に興味を持ち[287]、1949年(昭和24年)に改宗した。淵田はアメリカ伝道活動中、ジミー・ドーリットルと対面している[288]。一方、ドーリットルは1945年(昭和20年)12月14日にマイアミでパーティを行ったが、攻撃隊参加者80名のうち20名(溺死2、事故死1、銃殺3、獄死1、他戦線での戦死13)が参加できなかった[289]。ドーリットル自身は「指揮官は気に入りの部下を持ってはいけない。それは承知しているが、彼らは特別である。私は彼らのことが気になる。彼らは我が家族の一員である」と記述している[289]

影響

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アメリカ本土空襲

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開戦以来日本軍に対し各地で敗退続きだったアメリカ国内は、この空襲によって沸き立った[17]。一方、日本軍も東京初空襲に対抗して、ただちにアメリカ本土に対する攻撃を活発化させた。6月20日、シアトル方面に展開していた日本海軍の潜水艦「伊26」が、カナダバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を砲撃した[290]。翌6月21日、日本海軍の潜水艦「伊25」が[290]オレゴン州アストリアにあるフォート・スティーブンス陸軍基地を砲撃した。

その後、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、内地で整備中の第一潜水戦隊より潜水艦1隻をアメリカ大陸西岸に派遣し、米本土爆撃および通商破壊作戦を命じた[291]。これはドーリットル空襲に対する報復の意味があった[291]。先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官)は伊25に対し米本土爆撃を命じる[291]。同艦は8月15日に横須賀を出撃、9月9日と同月29日に伊25艦載機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度に渡り空襲した(アメリカ本土空襲[291]。この空襲による日米両陣営の被害はなかったものの、「ドーリットル空襲」後も敗退を続けたアメリカ政府及び軍は、国民への精神的ダメージを配慮してこの日本海軍機による空襲の事実を公表しなかった。なおこの空襲は、現在に至るまでアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。伊25はアメリカの貨物船2隻とソ連潜水艦L16を撃沈し、10月24日に横須賀へ帰投した[291]

珊瑚海海戦

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アメリカ軍機動部隊迎撃のため日本軍は頻繁に無線交信をおこない、傍受したアメリカ軍暗号解読者達は日本軍艦船・基地の最新呼び出し符号を更新した[292]。これはアメリカ軍にとって「最も貴重かつ有益」な情報だった[293]。彼等は新符号「MO」がポートモレスビーであることを解読、南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)の次期作戦および艦隊編成に対する手がかりを得た[293][294]

エンタープライズとホーネットの2空母は日本本土空襲作戦(本項目)に参加して、4月25日に真珠湾へ帰投した[295]。このため5月7日-5月8日の珊瑚海海戦に参加することが出来なくなった(同海戦に参加したアメリカ軍の空母はヨークタウンレキシントンの2隻。空母サラトガは西海岸で修理中だった。)[296][297]。真珠湾での補給を終えた2隻(エンタープライズ、ホーネット)の作戦復帰および珊瑚海進出時期は、5月中旬と予定されていた[298]

ミッドウェー海戦

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この攻撃の報に、本土防空を受け持っていた陸軍はもとより[299]、海軍の連合艦隊司令長官山本五十六大将は衝撃を受けた[18][300]。山本長官は寺島健中将(予備役、兵31)にあてた書簡の中で「今考へれば矢張(やはり)布哇(ハワイ)の一撃はやっといてよかったとの感あると共に 結局布哇をとって仕舞はなければ 北廻りも用意となりうべきものと思はれ候」と述べている[301]。 「ドーリットル空襲」が純軍事作戦というよりむしろ戦意高揚を狙った宣伝的作戦であることを見抜きつつ、次回の空襲は本格的な大規模攻撃になると想定し、各部署に警告を発した部隊もある[302][303]。「本土空襲を受けて山本長官は日本本土の安全確保のため、敵空母殲滅を視野に入れたミッドウェー島攻略作戦を立案した」とされる説も見受けられる[304] が、ミッドウェー作戦自体はドーリットル空襲以前から検討されていた(前述)[49][305]。4月16日付の大本営海軍部指示(大海指第八十五号)にて、正式に裁可されている[53][306]

しかし、ドーリットル空襲以前から日本海軍(とくに連合艦隊)はアメリカ海軍空母機動部隊の跳梁に悩まされていた[307][308]。 本空襲前に立案されたミッドウェー作戦は、「日本軍のミッドウェー島の占領により、反撃に出てくる米艦隊・機動部隊を撃滅する」「ミッドウェー島の前線基地化により日本本土方面への米潜水艦活動を封殺し、飛行哨戒兵力の進出により、米空母の機動作戦を封じる」「10月予定のハワイ攻略作戦までの"つなぎ"」という、複数の目的をもっていた[307][309]。 さらにミッドウェー作戦に反対していた軍令部[310]、関心が薄かった日本陸軍が[51][311][312]、ドーリットル空襲を受けてミッドウェー作戦に俄然本気となったのも事実である[18][313][314]。これには「空母から航続距離の長い爆撃機を発進させて空襲を敢行する」戦法に対し日本側に反撃の手段がなく、したがって「敵空母を積極的に補足撃滅する」「哨戒基地を前進させる」しか選択肢がなかったという側面がある[308]

5月5日[315]、大海令第18号にて永野修身軍令部総長は山本長官にミッドウェー島とアリューシャン諸島占領作戦を認可し[316][317]、陸軍も同作戦に一木支隊を提供した[299][318]。このアリューシャン作戦には、日本軍にとって貴重な空母2隻(隼鷹龍驤)が投入された[319]。 また南雲機動部隊司令部や第二艦隊司令部は、乗組員の休養、疲弊した艦の修理、人事異動によって低下した艦隊や航空隊の技量向上のため作戦延期を求めたが[184][320]、山本以下連合艦隊司令部は却下している[321][322]

ドーリットル空襲がミッドウェー作戦に与えた影響の一つに、日本海軍の艦隊間における錯誤がある[323]。内地帰投後、東京軍令部海軍省を訪問して次期作戦の説明を受けた南雲機動部隊司令部や第二艦隊司令部は、ミッドウェー作戦の作戦目的を「哨戒基地の前進(ミッドウェー島の日本軍拠点化)により米空母の本土来襲を阻止するもの」と受け止めた[323]。ところが瀬戸内海所在の連合艦隊司令部は、ミッドウェー作戦の主目的を米軍機動部隊撃滅としていた[323]。この意識の違いは、戦艦大和における図上演習で露呈する[323]。連合艦隊参謀長宇垣纏少将は連合艦隊の意図を詳細に説明したが、連合艦隊・南雲機動部隊・第二艦隊間の作戦解釈は最後まで統一されなかったとみられる[323]

中国軍飛行場の破壊

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日本陸軍はドーリットル空襲の再発を防ぐため、作戦に利用された浙江省以南の国民革命軍の飛行場を利用できなくすることで、爆撃機による奇襲作戦を阻止しようとした[299]。これを受けて支那派遣軍が実施した作戦が、浙贛作戦である[202][314]。作戦は1942年5月中旬から7月にかけて実施され[314]、動員兵力約18万、3個飛行戦隊により、目的の飛行場の破壊と同地を守る顧祝同の率いる第三戦区軍34個師団を打ち破ることに成功する。同作戦は1942年9月30日に終了が発表された。連合国側は中国大陸から日本本土を空襲する作戦を立て、投入予定のB-24爆撃部隊が移動中であった。しかし浙贛作戦によって使用予定の飛行場が攻撃占領されたこともあり、この部隊はルーマニアの油田への空爆作戦であるタイダルウェーブ作戦に転用された。

成増飛行場

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本空襲は、帝都防衛のあり方を問う大きなきっかけとなった[299]東部軍司令官の中村孝太郎大将は、陸軍防空学校および高射砲第7連隊の高射機関砲を皇居周辺の日劇や国技館の屋上へ配備し、1942年4月20日に、独立飛行第47中隊を防衛司令官の指揮下に入れ、帝都防空の任に当たらせた。軍では、この目的にかなう飛行場として、成増飛行場を建設した。

防空都市の建設

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政府は空襲をうけて東京が木造家屋が多いことと道路が狭いために火災による延焼が懸念された。このため、都心部で大久保通りの拡幅工事などで強制的に立ち退きを要求され木造の民家の取り壊しが各地で行われた。日本ニュース映画社に映像記録が残されている。

造幣局「桜の通り抜け」の中止

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本空襲のあった1942年4月18日は1883年以来、恒例行事となっていた造幣局の「桜の通り抜け」の行事が催されていたが、空襲警報発令により中止され、以後、1947年まで中断した。本空襲での直接の被害はなかったものの戦災により約500本の桜のうち6割が焼失した。[324]

エピソード

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爆撃目標の情報源

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1934年にアメリカのスパイでもあったメジャーリーガーのモーリス・バーグによって撮られた写真が東京や横浜など日本主要都市を爆撃し、軍需工場の位置を把握するのに利用された。 空母から出動した爆撃機が正確に軍需基地を爆撃したため日本を慌てさせ、1945年の東京大空襲作戦、広島と長崎への原爆投下など、バーグの写真は有用な情報として日本本土への攻撃に用いられた [325]

皇族

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空襲実施にあたり、ドーリットル中佐は「皇居を爆撃すると日本の団結力が強まる」との観点から東京の皇居を爆撃目標から外していた[326]。4月18日8時30分の警戒警報発令により、永野修身軍令部総長は宮城に参内、11時30分から20分にわたり昭和天皇に状況を説明する[327]。正午0時28分の空襲警報発令により三種の神器を宮内省第二期庁舎金庫室へ移御、天皇・香淳皇后貴子内親王は約30分後に同場所へ避難した[327]赤坂離宮皇太子(明仁上皇)、沼津御用邸皇太后貞明皇后)、他皇族たちも、それぞれ所在地の避難所に移った[327]。午後2時、杉山元参謀総長は天皇に空襲状況を奏上[328]。午後3時51分に空襲警報解除、天皇・皇后・正仁親王・貴子内親王は4時18分に御常殿に戻った[328]成子内親王和子内親王厚子内親王は呉竹寮に戻った[328]。 同年10月26日南太平洋海戦で、日本海軍は米空母ホーネットを撃沈し、空母エンタープライズを撃破する(日本側は米空母3隻撃沈と誤認)[329][330]。翌日、昭和天皇は城英一郎大佐(侍従武官)に対し、「敵空母〔を〕昨日の戦闘にて大に撃破せしたため、敵は空母にて本土空襲の可能性なくなりたるに非ずや」と下問した[331]。城大佐は、アメリカには特設空母が20隻以上あるので楽観できないと上聞している[331]

東條機とすれ違う

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東條英機総理大臣は、この日の午前中に宇都宮市内を視察した後に次の目的地である水戸に大臣専用機(一〇〇式輸送機ないし三菱MC-20旅客機、首相専用機か陸相専用機かは不明)で向かった。正午、専用機は水戸上空でドーリットル機と約20キロメートルの距離ですれ違った[332]。東條は同乗した秘書官に「あれはアメリカ(の飛行機)だぞ」と叫んだ。秘書官によれば双方の顔が見える距離まで接近していたという。アメリカ側も専用機を銃撃せずそのまま西へ向かった。専用機が飛行場に着陸してすぐ、東條は東京が空襲されたことを初めて知った[333]。東條首相は「すぐ飛行機で(東京に)帰る」と言い出したが、周囲が「東京の警戒を混乱させる」という理由で、水戸発午後3時の列車で帰京させた[334]。この列車は午後5時45分上野駅に着いた。東條は途中、天機奉伺の記帳のため皇居に寄り、首相官邸に各閣僚からの情報をまとめた後、午後8時に皇居に参内し、天皇に空襲に関する報告をした[328][335]

なお、海軍の山本長官は軽い腹痛のため勤務を休んでいた[336]。 軍令部第一部長福留繁中将は、長谷川清台湾総督の招待を受けて帝国ホテルで昼食中であった[337]

シャングリラ

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「ドーリットル空襲」の成功はすぐにアメリカ本国でも宣伝されたが、当初米政府からの正式発表はなく、情報源は日本やその他の枢軸側に限られ[256]、作戦の全容は長く秘匿された。 空母ホーネットの名も例外ではなく、日本軍の捕虜となったB-25搭乗員達も「陸地から発進した」等、情報の秘匿につとめたが[338]、4月21日にホーネットの名前を明らかにしている[202][339]記者会見で空襲の成功を発表したアメリカのルーズベルト大統領記者団からの「爆撃機はどこから発進したのか?」という質問に対し、「発進地はシャングリラ」と答え、煙に巻いた[19]淵田美津雄(当時、赤城飛行長)は、空母赤城艦上でルーズベルトの声明を聞き、実際に海図を広げてシャングリラの位置を探したという[340]

シャングリラとは、ジェームズ・ヒルトンによる1933年発表のベストセラー小説で1937年にはハリウッドで映画化もされた『失われた地平線』に出てくる架空の地名で、ヒマラヤ付近にあるとされる神聖な都である[340]。それを知らない記者には冗談が通じず「爆撃機は空母シャングリラから発進」と一部で誤って報道された。このエピソードが元になったものか、後日、アメリカ海軍は本当に空母シャングリラ(CV-38 エセックス級航空母艦の1隻)を就役させ、さらにその空母を用いて着艦フックなどの装備を搭載するなどの改修をしたPBJ(B-25の海兵隊仕様機)で発着艦試験が行われた[341]

仇討ち

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1943年12月10日、ビルマ戦線ビルマ航空戦)にて陸軍航空部隊飛行第50戦隊の一式戦「隼」25機は、中国へ補給物資を空中輸送している輸送機4機とともにアメリカ陸軍航空軍のB-25 1機(捜索救助飛行隊ポーター大尉機)を確実撃墜したが、このB-25協同撃墜者の一人である前川美雄伍長はドーリットル空襲で姉を亡くした人物であり、この撃墜は「姉の仇」となっている[342]

ドーリットルが連れてきた「UFO」

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SF作家の光瀬龍はエッセイ『私のUFO』にて、ドーリットル空襲当日に体験した「未確認飛行物体」の目撃談を綴っている。同日14時頃、光瀬の自宅があった練馬町付近の上空で、2機の九七式戦闘機が「SB2Aに類似したシルエットの、艦上機と思しき空冷エンジン単発引込脚の中翼単葉機」1機を追撃している模様を目撃したが、戦後になって日米双方の記録を調査しても該当する空戦の記録は発見できなかったという[343]

B-21

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アメリカ軍が配備しているB-2B-52を置き換える予定のB-21は、ドーリットル空襲を行った部隊の通称『Doolittle Raiders』にちなみレイダー(Raider)と命名された[344]

関連作品

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映画

脚注

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  1. ^ 大空の覇者上298-299頁「太平洋戦争の転換点」
  2. ^ a b c d #写真日本の軍艦第14巻190-191頁「特設監視艇」
  3. ^ 実録八巻、691頁(ドーリットル空襲)
  4. ^ 空の決戦コマ31(原本59頁)「米國は開戰以來、常に日本本土空襲を呼號し續けて來た。現在とても同様であるが、米國がこれを敢行したのは一昨昭和十七年の四月十八日、帝都を僅かの機數で空襲したにとどまつてゐる。」
  5. ^ 激動の昭和 1989, p. 152.
  6. ^ 戦史叢書102巻、373頁「ドーリットル空襲」
  7. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦、59頁「二 ドゥリットル空襲」
  8. ^ a b #写真日本の軍艦第14巻205頁「18土●米機動部隊本土空襲(ドーリットル空襲)」
  9. ^ a b c d ニミッツ1962pp.46-47
  10. ^ 大空の覇者上235-236頁「ノースアメリカンB-25ミッチェル」
  11. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦、61頁「参考」
  12. ^ a b c d e 戦史叢書80巻、360-362頁「空襲と要撃の概要」
  13. ^ a b 戦史叢書102巻、116-117頁「昭和17年(1942年)4月18日 米機動部隊、日本本土初空襲」
  14. ^ 写真太平洋戦争3巻、44-47頁(佐藤和正「ドーリットル空襲/珊瑚海海戦」)
  15. ^ 大東亜戦争記録画報続コマ94(原本177頁)「空襲の實施状況」
  16. ^ 変わりダネ軍艦奮闘記、201-202頁「▽特設監視艇」
  17. ^ a b c 戦史叢書80巻、362-363頁「空襲の及ぼした影響/精神的影響」
  18. ^ a b c 戦史叢書ミッドウェー海戦、62-63頁「米空母に対する関心急増」
  19. ^ a b c d e f トール 2013pp.95-96『爆撃機はミッドウェイから来た?」
  20. ^ 実録八巻、717-718頁(米国人捕虜処分問題)
  21. ^ a b 福留繁 1971, p. 218.
  22. ^ 戦史叢書80巻、74-77頁「経過概要」
  23. ^ a b c 戦史叢書80巻、128-129頁「米西岸海上交通破壊戦」
  24. ^ a b 戦史叢書98巻、105-106頁「二 ハワイ作戦後の先遣部隊の作戦/先遣支隊の作戦」
  25. ^ 学習研究社 2009 100頁
  26. ^ 戦史叢書98巻、107頁「挿図第五 先遣支隊米西岸配備」
  27. ^ a b 戦史叢書98巻、108-109頁
  28. ^ 戦史叢書98巻、115頁(伊17行動)
  29. ^ 学習研究社 2009 102頁
  30. ^ 中島、航空母艦コマ19-20(原本29-31頁)〔 (略)或は航空母艦を敵の海岸近くに派遣して之より爆撃機を放ち敵の海岸都市を空襲する事も出來る。此の點から云ふと我東京は甚だ不利である。将来萬一日米戰爭が起つた場合米國のレキシントン級の大航空母艦が太平洋上にある我が哨艦の目を潜つて伊豆大島の二百浬位沖合に現はれ、戰闘飛行機隊に依りて護衛さるゝ大爆撃機隊を放ち、我東京を空襲しないとも限らないのである。然るときには東京は五百瓲、千瓲の大爆彈に見舞はれ、東京驛の如き大建築も一撃の下に粉碎されるかも知れない、または一機に千發以上も搭載し得ると云ふ焼夷弾を市内至る所にばら撒かれ、彼の關東大震火災當時の如き惨状を呈するかも知れない。兎に角航空機の發達したる将来戰に於ける市民は安閑として居られないのである。戰爭は軍人の仕事だと思つて安心して居ると、何時頭の上から恐ろしい爆彈や焼夷彈を浴びせられるかも知れない。更に恐ろしいのは毒瓦斯である。敵の航空機が東京の市上に現はれ、毒瓦斯を振り撒いて行つたならば大變である。毒瓦斯は人家稠密いて居る市中に擴がつたならば中々飛散しない、そして市民は片つ端から之が爲に斃れねばならぬ。(以下略)〕
  31. ^ a b c d e 戦史叢書80巻、358-360頁「本土空襲に対する懸念と処置」
  32. ^ a b 戦史叢書80巻、345-346頁「アリューシャン西部要地攻略作戦の追加」
  33. ^ a b c d e f g h i 戦史叢書98巻、118-120頁「対米機動部隊作戦」
  34. ^ 戦史叢書80巻、81-82頁
  35. ^ a b c 戦史叢書80巻、130-133頁「対米空母対策と先遣部隊の用法変更」
  36. ^ a b 戦史叢書98巻、109-110頁「二潜戦の長期監視とサラトガ雷撃/長期監視」
  37. ^ a b c 戦史叢書80巻、132-133頁「レキシントン型撃沈の報とのそ影響」
  38. ^ a b 戦史叢書98巻、111-112頁「サラトガを雷撃」
  39. ^ a b c d e f 戦史叢書80巻、169-173頁「情勢緩和の誤判断とマーシャル被攻撃」
  40. ^ 戦史叢書80巻、175-177頁「米軍の南太平洋強化、マーシャル奇襲」
  41. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦、33-35頁「米空母の機動に手を焼く」
  42. ^ 宇垣 1979、76頁
  43. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦、36頁(戦藻録2月2日)
  44. ^ 戦史叢書ミッドウェー海戦、37頁(3月11日、12日)
  45. ^ 宇垣 1979、93頁
  46. ^ トール 2013pp.69-71『帝都空襲への恐れ」
  47. ^ a b c 戦史叢書80巻、182頁「その後の情報と措置」
  48. ^ a b c d 戦史叢書80巻、315-317頁「五 聯合艦隊の研究/米空母対策」
  49. ^ a b c d 戦史叢書80巻、339-342頁「米空母撃滅企図―ミッドウェー作戦案」
  50. ^ 戦史叢書80巻、342-345頁「海軍部ミッドウェー作戦採用」
  51. ^ a b 戦史叢書80巻、346-347頁「ミッドウェー、アリューシャン作戦の追加」
  52. ^ 戦史叢書80巻、347-350頁「第二段作戦計画/大東亞戦争第二段作戦 帝国海軍作戦計画」
  53. ^ a b c 戦史叢書80巻、353-354頁「第二段作戦方針の指示」
  54. ^ 空の決戦コマ33(原本62頁)〔 米國の對日空襲計畫を考へて見ると、一昨年の春頃の米國の對日空襲計畫は、緒戰における大敗北によつて混亂した國内の民心を収攬するため、政治的に利用した揚言であつた。昭和十七年四月十八日の帝都空襲の如きも、僅か數機で行はれたに過ぎず、これによつて日本の生産地帯を壊滅せしめ得たとは米國自身も夢にも思つてはゐないに違ひない。「日本を空襲した」といふニュースが、當時の米國政府にとつては政治的に相當な價値があつたのであらう。これはルーズヴェルト一派の、米國の所謂ユダヤ系指導者達が、緒戦の敗戰を糊塗するために行つた芝居である。〕
  55. ^ Doolittle, James H. and Carroll V. Glines. I Could Never Be So Lucky Again: An Autobiography. New York: Bantam Books, 1991, pp. 1–2.
  56. ^ 柴田&原 2003、11頁
  57. ^ 大空の覇者上240-241頁「報復攻撃」
  58. ^ Glines, Carroll V. The Doolittle Raid,Orion Books, 1988, p. 10.
  59. ^ a b c トール 2013pp.75-77『日本本土を爆撃できないか」
  60. ^ 大空の覇者上241-242頁「日本爆撃のアイデア」
  61. ^ 柴田&原 2003、12頁
  62. ^ 大空の覇者上242-243頁「航空作戦参謀ドナルド・ダンカン」
  63. ^ 大空の覇者上243-244頁「作戦成功の鍵」
  64. ^ 大空の覇者上245-246頁「それは君のやることだイッツ・ユア・ベイビー
  65. ^ 牧 1998、44頁
  66. ^ a b c 牧 1998、45頁
  67. ^ 大空の覇者上254-256頁「エグリン飛行場/飛行教官ハンク・ミラー」
  68. ^ 大空の覇者上246-247頁「機体改修」
  69. ^ 柴田&原 2003、18頁
  70. ^ 牧 1998、45-46頁
  71. ^ a b 牧 1998、46頁
  72. ^ 柴田&原 2003、13頁
  73. ^ 大空の覇者上252-253頁「極秘の発艦実験」
  74. ^ 柴田&原 2003、21頁
  75. ^ a b トール 2013pp.73-74『空母ホーネットにのせられたB-25」
  76. ^ 大空の覇者上250-252頁「中国への通報」
  77. ^ 大空の覇者上276-277頁「設置されなかったホーミング・ビーコン」
  78. ^ 柴田&原 2003、16頁
  79. ^ 大空の覇者上266-268頁「空母機動部隊」
  80. ^ 写真太平洋戦争3巻、16頁
  81. ^ 大空の覇者上268-269頁「出発」
  82. ^ スタットフォード『THE BIG E』上90頁
  83. ^ a b トール 2013pp.78-80『当部隊は東京へ向かう」
  84. ^ a b スタットフォード『THE BIG E』上91頁
  85. ^ 大空の覇者上277-278頁「アメリカのカミカゼ」
  86. ^ a b c 本土方面海軍作戦、77-78頁「米軍の作戦準備」
  87. ^ 柴田&原 2003、28頁
  88. ^ スタットフォード『THE BIG E』上93頁
  89. ^ 大空の覇者上280-281頁「総員配置」
  90. ^ スタットフォード『THE BIG E』上94頁
  91. ^ a b c トール 2013pp.82-84「敵に発見された模様」
  92. ^ 柴田&原 2003、29頁
  93. ^ 変わりダネ軍艦奮闘記、204-207頁「遂にキャッチした敵機動部隊」
  94. ^ 「舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」pp.10(無線の伝播・解読で時差が生じている)
  95. ^ 柴田&原 2003、39、142頁
  96. ^ 「第2監視艇隊戦時日誌(4)」pp.2-3
  97. ^ 昭和18年7月9日(金)海軍公報(部内限)第4435号 pp.33-34」 アジア歴史資料センター Ref.C12070432300 〔 ○感状|感状 第二機動部隊 昭和十七年六月「アリユーシヤン」群島方面作戰ニ於テ濃霧ヲ冒シ惡天候ニ耐ヘ長馳「ダツチハーバー」ヲ反覆攻撃シ所在ノ敵艦船飛行機ノ大部ヲ撃破シ軍事施設ヲ潰滅シタルハ爾後ノ作戰ニ寄與セル所極メテ大ニシテ其ノ功績顕著ナリト認ム 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス  昭和十八年三月十五日 聯合艦隊司令長官 山本 五十六|特設監視艇 第二十三日東丸 昭和十七年四月十八日敵機動部隊本土東方洋上ニ來襲スルヤ逸早ク之ヲ捕捉シ機ヲ失セズ敵發見ノ第一報ヲ發スルト共ニ爾後敵ノ執拗ナル攻撃ヲ冒シテ飽ク迄之ニ觸接シ其ノ最後ニ到ル迄刻々適切ナル敵情ヲ報告シタルハ我作戰ニ寄與セル所極メテ大ニシテ其ノ功績顕著ナリト認ム 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス  昭和十八年三月十五日 聯合艦隊司令長官 山本 五十六 〕
  98. ^ 本土方面海軍作戦、82-83頁「哨戒部隊米空母発見」
  99. ^ スタットフォード『THE BIG E』上95頁
  100. ^ 写真太平洋戦争3巻、28-29頁
  101. ^ 柴田&原 2003、39-42頁、142-151頁、206頁
  102. ^ 本土方面海軍作戦、83頁〔第二旭丸〕
  103. ^ 本土方面海軍作戦、83頁〔海神丸〕
  104. ^ 本土方面海軍作戦、83頁〔福久丸〕
  105. ^ 本土方面海軍作戦、83頁〔粟田丸〕
  106. ^ 本土方面海軍作戦、83頁〔第三千代丸〕
  107. ^ 本土方面海軍作戦、83頁〔第二十六南進丸〕
  108. ^ a b 高松宮日記4巻、229頁「○42°N158°E、〇三〇〇漂流中ノ長久丸ヲ発見、戦死士官一兵一、生存者十三名収容。今ヨリ第二十三日東丸捜索ニ向フ、粟田丸艦長(十九=〇四三〇)」
  109. ^ 本土方面海軍作戦、83頁〔長久丸〕
  110. ^ 柴田&原 2003、143-144頁
  111. ^ 本土方面海軍作戦、83頁〔栄吉丸〕
  112. ^ 柴田&原 2003、150頁
  113. ^ 柴田武彦、原勝洋『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』アリアドネ企画、2003年、ISBN 4-384-03180-7、150ページ
  114. ^ 高松宮日記4巻231頁「○第十一潜水隊(一九-一七〇〇)第一岩手丸、十八日敵ノ空襲ヲ受ケ遭難漂流沈没ニ瀕セルニ会ヒ乗員ヲ収容セリ。戦死二、重傷一、生存者一一名、地点30°-51′N 155°-26′E」
  115. ^ 本土方面海軍作戦、84頁〔第一岩手丸〕
  116. ^ 柴田&原 2003、148頁
  117. ^ 本土方面海軍作戦、83頁〔第二十一南進丸〕
  118. ^ a b c 変わりダネ軍艦奮闘記、206-207頁「壮烈"長渡丸"の最期」
  119. ^ 「第3監視艇隊戦時日誌(1)」pp.40
  120. ^ 柴田&原 2003、43、150頁
  121. ^ 本土方面海軍作戦、84頁〔長渡丸〕
  122. ^ 高松宮日記4巻233頁「○北方部隊(二九三=一九-一〇〇〇)四月十九日」
  123. ^ 「第3監視艇隊戦時日誌(1)」p.31、柴田&原 2003、212頁
  124. ^ 「第2監視艇隊戦時日誌(4)」pp.13
  125. ^ 本土方面海軍作戦、84頁(第二、第三哨戒隊被害一覧)
  126. ^ #佐藤、艦長(文庫)209-211頁「陰の貢献者たち」
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    • 『昭和17年1月1日~昭和17年4月30日 呉鎮守府戦時日誌(7)』。Ref.C08030324400。 
    • 『昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030316600。 
    • 『昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030316700。 
    • 『昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030316800。 
    • 『昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030316900。 
    • 『昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030317000。 
    • 『昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(6)』。Ref.C08030317100。 
    • 『昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(7)』。Ref.C08030317200。 
    • Ref.C08030220900「第2監視艇隊戦時日誌(3)」
    • Ref.C08030221000「第2監視艇隊戦時日誌(4)」
    • Ref.C08030226200「昭和17年2月25日〜昭和17年7月31日 第3監視艇隊戦時日誌(1)」
    • Ref.C08030459100「昭和16年11月20日〜昭和17年5月31日 横須賀海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(6)」
    • Ref.C08030459200「昭和16年11月20日〜昭和17年5月31日 横須賀海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(7)」
    • Ref.C08030459300「昭和16年11月20日〜昭和17年5月31日 横須賀海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(8)」
    • Ref.C08030354100「昭和17年4月1日〜昭和17年4月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)」
    • Ref.C08051606600「昭和16年12月〜昭和17年5月 木更津空 飛行機隊戦闘行動調書(3)」
    • Ref.C08051609700「昭和17年4月〜昭和17年6月 三沢空 飛行機隊戦闘行動調書(1)」
    • Ref.C08030745600「昭和17年3月〜 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030580900「昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(5)」
    • Ref.C08030581200「昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(8)」
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
  • 宇垣纏戦藻録成瀬恭発行人、原書房、1979年(原著1968年)。 
  • 元連合艦隊司令部従兵長近江兵治郎連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち』テイ・アイ・エス、2000年7月。ISBN 4-88618-240-2 
  • 『帝国海軍太平洋作戦史』 1巻、学習研究社〈歴史群像アーカイブ Filing book volume 9〉、2009年8月。ISBN 978-4-05-605611-2 
  • 加藤寛一郎「第九章 東京奇襲隊トウキョウ・レイダーズ」『大空の覇者 ドゥリットル上 東京奇襲1942』講談社、2004年12月。ISBN 4-06-212701-6 
  • 加藤寛一郎「終章 それぞれの思い」『大空の覇者 ドゥリットル下 欧州・日本本土爆撃』講談社、2004年12月。ISBN 4-06-212702-4 
  • 亀井宏『ミッドウェー戦記 さきもりの歌光人社〈光人社NF文庫〉、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7 
  • 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年1月。ISBN 4-87538-039-9 
  • 工藤洋三奥住喜重編著『写真が語る日本空襲』現代史料出版 東出版(発売)、2008年8月。ISBN 978-4-87785-182-8 
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第八 昭和十五年至昭和十七年』東京書籍株式会社、2016年3月。ISBN 978-4-487-74408-4 
  • 坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』光人社、2000年3月。ISBN 4-7698-0952-2 
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年。ISBN 47698-2009-7 
    • 海戦の原則 <駆逐艦「浜波」司令・大島一太郎少将の証言>(ドーリットル空襲時、第22戦隊先任参謀として特別監視艇隊を指揮。)
  • 塩山策一ほか『変わりダネ軍艦奮闘記 裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡』潮書房光人社、2017年7月。ISBN 978-4-7698-1647-8 
    • 元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家正岡勝直『にっぽん変わりダネ艦艇総まくり 漁船や客船に軍艦旗をかかげて奮戦した特設特務艇の種類と装備と戦果
    • 海戦史研究家北本大吉『ドーリットル空襲 二十三日東丸の殊勲 四月十八日の日東丸と長渡丸および五月十日の第五恵比寿丸の奮戦
    • 元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家正岡勝直『知られざる黒潮部隊の栄光と悲惨 木の葉の如き小艇で太平洋の哨戒線についた特設監視艇隊の全容
  • 柴田武彦原勝洋『ドーリットル空襲秘録 日米全調査』アリアドネ企画 三修社(発売)〈Ariadne military〉、2003年11月。ISBN 4-384-03180-7 
  • 城英一郎 著、野村実 編『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第四巻 昭和十七年一月一日~昭和十七年九月三十日』中央公論社、1996年7月。ISBN 4-12-403394-X 
  • ジョン・ダワー猿谷要監修、斎藤元一訳「第3章 戦争憎悪と戦争犯罪」『人種偏見 太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』TBSブリタニカ、1987年9月。ISBN 4-484-87135-1 
  • イアン・トール著、村上和久訳「第八章 ドゥーリットル、奇跡の帝都攻撃」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6 
  • 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社NF文庫、2008年10月。ISBN 4-7698-2175-1 
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター、実松譲『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。 
  • 半藤一利横山恵一秦郁彦原剛『歴代陸軍大将全覧 昭和篇 太平洋戦争期』中央公論新社〈中公新書ラクレ 340〉、2010年2月。ISBN 978-4-12-150340-4 
  • 平塚柾雄「第三章 米軍に漏れていた日本の「MO」作戦」『太平洋戦争裏面史 日米諜報戦 勝敗を決した作戦にスパイあり』株式会社ビジネス社、2016年8月。ISBN 978-4-8284-1902-2 
  • 平間源之助 著、平間洋一 編『軍艦「鳥海」航海記 平間兵曹長の日記 昭和16~17年』イカロス出版、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0634-1 
  • 福田誠編著『第二次大戦海戦辞典1939~45』伊藤竜太郎・松代守弘、光栄、1998年9月。 
  • 福留繁『海軍生活四十年』時事通信社、1971年5月。 
  • 淵田美津雄 著、中田整一 編『真珠湾総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝講談社、2007年12月。ISBN 978-4-06-214402-5 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 43巻、朝雲新聞社、1971年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<5> 昭和十七年十二月まで』 63巻、朝雲新聞社、1973年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』 80巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 85巻、朝雲新聞社、1975年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 102巻、朝雲新聞社、1980年1月。 
  • 牧英雄「ドゥーリトル攻撃隊日本初空襲」『B-25ミッチェル』 No.51(1995-3版第2刷)、文林堂〈世界の傑作機〉、1998年4月1日、44-50頁。 
  • 松本健一『畏るべき昭和天皇』毎日新聞社、2007年12月。ISBN 978-4-620-31845-5 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 第14巻 小艦艇II 敷設艦・敷設艇 特設巡洋艦 二等駆逐艦 魚雷艇・震洋艇 雑務船・内火艇 病院船他/日本海軍作戦年表』光人社、1990年9月。ISBN 4-7698-0464-4 
  • 雑誌「丸」編集部『写真 太平洋戦争<第三巻> ドーリットル空襲/珊瑚海海戦/ミッドウェー海戦』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年2月。ISBN 4-7698-2073-9 
  • 宮崎勇『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』光人社、1993年6月。ISBN 4-7698-0651-5 
  • 安田将三石橋孝太郎読んでびっくり 朝日新聞の太平洋戦争記事 いま問われる新聞のあり方リヨン社 二見書房(発売)、1994年8月。ISBN 4-576-94111-9 
  • 吉野興一『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』朝日新聞社、2000年11月。ISBN 4-02-257542-5 
  • 歴史群像編集部編「PART-7 ドーリットル空襲で被弾した「大鯨」」『帝国海軍真実の艦艇史3 「妙高」型、「初春」型の改装と最期艦載兵装の変遷』 第57巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2007年1月、62-65頁。ISBN 4-05-604599-2 
  • T・W・ローソン 著、野田昌宏 訳『東京奇襲』朝日ソノラマ社〈文庫版航空戦史シリーズ 9〉、1982年5月。ISBN 4-2571-7009-3 
本空襲に参加したローソンの著作を、幼少期に本空襲を伝聞した野田が翻訳した。
  • 『ニューズウィーク日本版別冊 激動の昭和』TBSブリタニカ、1989年。 

関連項目

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外部リンク

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  • 岡崎医院 - 日本で最初に空襲の被害を受けた建造物。現在は鉄筋コンクリートのビルになっている。
  • 葛飾区教育資料館 - 銃撃で死者を出した水元小学校の校舎を移築した資料館。機銃の銃弾と建物から切り取った弾痕が保存されている。