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浅香丸 (特設巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅香丸
浅香丸。1937年撮影。
基本情報
船種 貨物船
クラス A型貨物船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
 大日本帝国海軍
建造所 三菱重工業長崎造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 A型貨物船4隻
信号符字 JWUL
IMO番号 44012(※船舶番号)
建造期間 286日
就航期間 2,509日
経歴
起工 1937年2月18日[1]
進水 1937年7月7日[1]
竣工 1937年11月30日[1]
除籍 1945年1月10日
最後 1944年10月12日被弾沈没
要目
総トン数 7,398トン(1942年)[2]
純トン数 4,323トン
載貨重量 9,596 トン[2]
排水量 不明
全長 147.75m[3]
垂線間長 141.02m[2]
型幅 19.0m[2]
型深さ 10,50m[2]
高さ 27m(水面からマスト最上端まで)
9m(水面から船橋最上端まで)
13m(水面から煙突最上端まで)
喫水 3.71m[2]
満載喫水 8.39m[2]
主機関 三菱MS型ディーゼル機関 1基[2]
推進器 1軸[2]
最大出力 9,365BHP[2]
定格出力 8,000BHP[2]
最大速力 19.2ノット[2]
航海速力 15.0ノット[2]
航続距離 15ノットで36,000海里
乗組員 61名[2]
1940年4月10日徴用。
高さは米海軍識別表[4]より(フィート表記
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浅香丸
基本情報
艦種 特設運送艦
特設巡洋艦
特設運送船
艦歴
就役 1940年4月15日(海軍籍に編入時)
横須賀鎮守府横須賀防備隊/横須賀鎮守府所管
要目
兵装 特設運送艦時
十一年式12cm単装砲2門
九三式13mm単装機銃2基4門
特設巡洋艦時(1943年7月)[3]
三年式14cm砲4門(後に2門撤去)
九六式25mm連装対空機銃2基4門(当初未装備)
九六式13mm4連装機銃1基4門(当初未装備)
九三式13mm機銃連装2基4門
同単装4門(当初未装備)
九二式7.7mm機銃2挺
六年式53cm連装水上発射管1基2門(当初2基4門)
(53cm)六年式魚雷6本(当時陸揚げ中)
九五式改二爆雷12個(当初未装備)
特設運送船時
三年式14cm砲2門(後に十年式12cm高角砲2門に換装)
九六式25mm連装対空機銃2基4門
九六式13mm4連装機銃1基4門
九三式13mm機銃連装2基4門
同単装4門
九二式7.7mm機銃2挺
六年式53cm連装水上発射管1基2門(後に撤去)
九五式改二爆雷12個
装甲 なし
搭載機 特設運送艦時
なし
特設巡洋艦時(1943年)[3]
零式水上偵察機2機(当初未装備。後になしとなる)
呉式2号5型射出機1基(当初未装備)
特設運送船時
なし
呉式2号5型射出機1基(後に撤去)
レーダー 21号電探1基(当初未装備)[3]
ソナー 仮称吊下式一型水中聴音機1基(当初未装備)[3]
徴用に際し変更された要目のみ表記
テンプレートを表示

浅香丸(あさかまる)は、かつて日本郵船が所有し運航していた貨物船太平洋戦争開戦前は特設運送艦、開戦後は特設巡洋艦、特設運送船として運用された。太平洋戦争勃発前に、最後にパナマ運河を通過した日本船でもある[5][注釈 1]

概要

[編集]

「浅香丸」は日本郵船の欧州航路改善のために投入されたA型貨物船の三番船として、三菱長崎造船所1937年(昭和12年)2月18日に起工し7月7日に進水、11月30日に竣工した。「浅香丸」建造の際、日本郵船は「赤城丸」と同様に第三次船舶改善助成施設を活用し、その見合い解体船として自社持ち船の中から1905年(明治38年)建造の貨客船「丹後丸」(6,893トン)を充当したが、「丹後丸」の解体はのちに取り消された[6]。竣工後は、往航はパナマ運河経由でハンブルクに至り、帰途はスエズ運河を通過して日本に戻る東航世界一周線に就航するが、早くも1940年(昭和15年)4月10日付で日本海軍に徴傭され、4月15日付で特設運送艦として入籍する[7]。しかし、3カ月も経たない7月1日付で一旦解傭され、12月24日に再び徴傭され、12月27日付で再度特設運送艦となる[7]。その間の12月26日から1941年(昭和16年)1月15日まで横須賀海軍工廠で特設運送艦としての艤装工事が行われた[7]

昭和16年1月16日、「浅香丸」は横須賀を出港し、ドイツ側との兵器交換のためヨーロッパに向かう[8][9]。パナマ運河通過時、アメリカ軍が「浅香丸」にスパイ防止を口実に武装兵を同乗させようとしてひと悶着があり、最終的には若干名の兵を形式的に同乗させることで妥協した[5][8]。「浅香丸」はリスボンを経てビルバオに到着し、日本側からは魚雷などをドイツ側に譲渡、ドイツ側からはメッサーシュミット Bf109Fi 156 シュトルヒ、新式ソナーなどを譲渡された[8][9][5]。「浅香丸」は4月18日に横須賀に帰投した[10]。9月5日付で特設巡洋艦に類別変更され、9月8日から10月16日まで大阪鉄工所桜島工場で特設巡洋艦としての艤装工事を受ける[7]。「浅香丸」は第二十二戦隊(堀内茂礼少将)に編入され、特設監視艇隊の母艦的存在として釧路および横須賀を根拠地として行動する。1942年(昭和17年)6月にはキスカ島攻略作戦に臨時の掃海母艦として従事し、搭載していた大発動艇を使って簡易掃海を実施した[11]。7月19日と12月22日には潜水艦と交戦[12]

1943年(昭和18年)に入ると、キスカ島向けの資材輸送に従事する[13]。3月には数次にわたるアッツ島への輸送作戦が計画され、第一陣として同型の特設巡洋艦「粟田丸」(日本郵船、7,397トン)や特設水上機母艦君川丸」(川崎汽船、6,863トン)、陸軍輸送船「崎戸丸」(日本郵船、9,245トン)が輸送作戦を行って成功させていた[14]。「浅香丸」は弾薬や木材を搭載して「崎戸丸」と船団を組み、第五艦隊細萱戊子郎中将)の強力な掩護を得て3月23日に幌筵島を出撃しアッツ島に向かう[14]。しかし3月27日未明にアメリカ第16.6任務群(チャールズ・マクモリス少将)と遭遇し、交戦する(アッツ島沖海戦[15]。「浅香丸」と「崎戸丸」は非敵側に退避し攻撃を受けなかったが、アッツ島への輸送作戦は中止となった[16]。海戦後は再び哨戒、輸送任務にあたった。

10月1日、「浅香丸」は特設運送船に類別変更される[7]。11月27日から12月28日まで三菱横浜造船所で特設運送船としての艤装工事を施工後、1944年(昭和19年)1月にはエニウェトク環礁トラック諸島への輸送作戦に任じる[17]。2月15日に引揚者534名、船員その他261名を乗せてトラックを出港し横須賀に向かうが、これはトラック島空襲の2日前のことであり、「浅香丸」は間一髪で危難から逃れた[18][19]。横須賀には2月24日に到着した[20]。3月に入ると松輸送に加わり、2隻の特設運送船、「さんとす丸」(大阪商船、7,267トン)と「山陽丸」(大阪商船、8,360トン)とともに東松三号特船団を編成して3月20日に館山を出港[21]。3月28日にトラックに到着し[21]サイパン島を経由して4月12日に横浜に帰投した[22]。次いで4月28日には東松7号船団に加わって東京湾を出港してサイパン島経由、パラオへの輸送作戦を行う[23]。パラオへの輸送を終えてサイパン島に向かう途中の5月21日、「浅香丸」の船団は北緯13度33分 東経140度30分 / 北緯13.550度 東経140.500度 / 13.550; 140.500の地点でアメリカ潜水艦ビルフィッシュ (USS Billfish, SS-286) の攻撃を受け、「浅香丸」は難を逃れたが海軍徴傭船「睦洋丸」(東洋汽船、2,726トン)に魚雷が命中して損傷した[24][25]。船団自体の航行も低速船が多く難渋を極め、サイパン島に到着後提出された所見では「優秀船に無能無力の船舶を付するのは無策」と斬って捨てた[26]

6月20日、「浅香丸」はヒ67船団に加入して六連沖を出港して南下し、昭南(シンガポール)に向かう[27]。昭南到着後、スラバヤマカッサルおよびジャカルタをめぐって昭南に戻ってきた[19][28]ビンタン島ボーキサイトを搭載し、9月6日昭南出港のヒ72船団で北上する。しかし、船団は9月12日に3隻のアメリカ潜水艦、グロウラー (USS Growler, SS-215) 、パンパニト (USS Pampanito, SS-383) 、シーライオン (USS Sealion, SS-315) からなるウルフパックにつかまり、大損害を蒙った。「浅香丸」は難を逃れて他の残存艦船とともに三亜に逃げ込み、ここで船団の再編成が行われた[29]。9月16日、顔ぶれを改めたヒ72船団は楡林を出港して日本本土に向かうが、9月20日未明、北緯23度31分 東経119度12分 / 北緯23.517度 東経119.200度 / 23.517; 119.200の地点にいたったところで夜間爆撃を受け、「浅香丸」は直撃弾こそなかったが至近弾でを切断亡失し、機関の運転を駆使して9月25日に馬公に到着[30][31]。その後、馬公で10月20日ごろ完了の予定で修理が開始されたが、10月12日にアメリカ第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受ける。大型の「浅香丸」は狙い撃ちにされ、投下された魚雷が2本命中して船体は徐々に傾斜と沈降を増していった[32][33]。やがて傾斜30度に達したところで総員退船が令され、軍艦旗撤去後の10時30分に爆弾1発が命中し、艦橋部を水面上に見せたまま沈没した[33][34]。沈没後、転用可能な機銃は陸上に移された[35]1945年(昭和20年)1月10日に除籍および解傭[7]

艦長

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特務艦長
  • 柳沢蔵之助 大佐:1940年4月15日 - 1940年6月24日[36]
  • 三浦速雄 大佐:1940年12月27日 - 1941年5月1日[37]
  • 近藤為次郎 大佐:1941年5月1日[38] - 1941年9月11日[39]
  • 伴次郎 大佐:1941年9月11日[39] - 1943年2月28日
艦長
  • 伴次郎 大佐:1943年2月28日 - 1943年3月2日[40]
  • 作間應雄 大佐:1943年3月2日[40] - 1943年6月18日[41]
  • 山崎貞直 大佐:1943年6月18日[41] - 1943年10月1日
指揮官
  • 山崎貞直 大佐:1943年10月1日 - 1944年2月29日[42]
  • 富田賢四郎 大佐:1944年2月29日[42] -

同型船

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A型貨物船

脚注

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注釈

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  1. ^ 「浅香丸」の通過後の昭和16年7月に、運河の修理を理由として日本船を事実上締め出した(#商船八十年史p.321,327)。

出典

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  1. ^ a b c #創業百年の長崎造船所pp.556-557
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n #日本汽船名簿
  3. ^ a b c d e #二十二戦1807p.75
  4. ^ Akagi_Maru_class
  5. ^ a b c #三輪
  6. ^ #日本郵船株式会社百年史p.331
  7. ^ a b c d e f #特設原簿p.93
  8. ^ a b c #木俣軽巡p.100
  9. ^ a b #郵船戦時上p.959
  10. ^ #木俣軽巡p.101
  11. ^ #木俣軽巡p.178
  12. ^ #木俣軽巡p.179
  13. ^ #木俣軽巡pp.182-183
  14. ^ a b #木俣軽巡p.420
  15. ^ #木俣軽巡pp.421-422
  16. ^ #木俣軽巡p.423,427
  17. ^ #浅香丸1901p.31,34, pp.36-37, pp.40-43
  18. ^ #浅香丸1902pp.49-50, p.55
  19. ^ a b #郵船戦時上p.959
  20. ^ #浅香丸1902p.52
  21. ^ a b #駒宮p.153
  22. ^ #浅香丸1904p.22
  23. ^ #駒宮p.167
  24. ^ #駒宮p.177
  25. ^ #浅香丸被雷撃戦闘詳報
  26. ^ #浅香丸所見
  27. ^ #駒宮pp.195-196
  28. ^ #MS101,1907p.7, pp.10-11
  29. ^ #駒宮p.248
  30. ^ #郵船戦時上p.960
  31. ^ #ヒ七二船団被爆撃戦闘詳報pp.47-48, p.50
  32. ^ #浅香丸被雷爆沈没戦闘詳報p.57
  33. ^ a b #郵船戦時上p.961
  34. ^ #浅香丸被雷爆沈没戦闘詳報pp.57-58
  35. ^ #浅香丸被雷爆沈没戦闘詳報p.58
  36. ^ 『日本海軍史』第10巻、526頁。
  37. ^ 『日本海軍史』第10巻、456頁。
  38. ^ 海軍辞令公報(部内限)第631号 昭和16年5月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081000 
  39. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第709号 昭和16年9月11日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082000 
  40. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第1063号 昭和18年3月2日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089900 
  41. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第1151号 昭和18年6月21日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091700 
  42. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第1351号 昭和19年3月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096300 

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050083200『昭和十八年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、29頁。 
    • Ref.C08030069100『自昭和十六年十二月一日至昭和十六年十二月三十一日 第二十二戦隊戦時日誌 作戦及一般ノ部』。 
    • Ref.C08030019100『自昭和十七年六月一日至昭和十七年六月三十日 第五艦隊戦時日誌』、1-8頁。 
    • Ref.C08030072100『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第二十二戦隊戦時日誌』。 
    • Ref.C08030639300『自昭和十九年一月一日至昭和十九年一月三十一日 運送船浅香丸戦時日誌』、27-44頁。 
    • Ref.C08030639300『自昭和十九年二月一日至昭和十九年二月二十九日 運送船浅香丸戦時日誌』、45-57頁。 
    • Ref.C08030639400『自昭和十九年三月一日至昭和十九年三月三十一日 運送船浅香丸戦時日誌』、1-19頁。 
    • Ref.C08030639400『自昭和十九年四月一日至昭和十九年四月三十日 運送船浅香丸戦時日誌』、20-33頁。 
    • Ref.C08030639400『浅香丸被雷撃戦闘詳報』、34-37頁。 
    • Ref.C08030639400『今次浅香丸ノパラオ行動ニ対スル所見』、38-44頁。 
    • Ref.C08030639400『ヒ七二船団被爆撃戦闘詳報』、45-53頁。 
    • Ref.C08030639400『昭和十九年十月十二日 浅香丸被雷爆沈没戦闘詳報』、54-62頁。 
    • Ref.C08030619600『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第一〇一号掃海艇戦時日誌』、1-21頁。 
  • 三菱造船(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 岡田俊雄(編)『大阪商船株式会社八十年史』大阪商船三井船舶、1966年。 
  • 日本郵船戦時船史編纂委員会『日本郵船戦時船史』 上、日本郵船、1971年。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。 
  • 木津重俊(編)『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年。ISBN 4-905551-19-6 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 財団法人日本経営史研究所(編)『日本郵船株式会社百年史』日本郵船、1988年。 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年。 
  • シャンパーニュの空の下 - Google ブックス
  • 柴田武彦、原勝洋『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』アリアドネ企画、2003年。ISBN 4-384-03180-7 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目

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外部リンク

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