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「山王権現」の版間の差分

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2024年6月29日 (土) 00:01時点における版

比叡山

山王権現(さんのうごんげん)は日枝山(比叡山)の山岳信仰神道天台宗が融合した神仏習合である。天台宗の鎮守神日吉権現日吉山王権現とも呼ばれた。

歴史

山王権現とは、日枝山(比叡山)の、山岳信仰神道天台宗が融合して成立した、延暦寺鎮守神である。また、日吉大社祭神を指すこともある。

山王権現は、比叡山の神として「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた[1]。また、「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる[1]

日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が入して天台教学を学んだ天台山国清寺では、霊王の王子晋が神格化された道教地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていた。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の鎮守神(地主神)として山王権現を祀った。

音羽山の支峰である牛尾山は、古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され[2]、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。また、『古事記』には「大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野松尾に座す。」との記載があり、さらには、三輪山神体とする大神神社から大己貴神和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。このようにして開かれた日吉大社は、天台宗の護法神や伽藍神として、神仏習合が最も進んだ神社のひとつとされた[3]

延暦寺と日吉大社とは、延暦寺を上位にしながら密接な関係を持ち、平安時代から、延暦寺が日吉大社の役職の任命権を持つようになった[3]。天台宗が日本全国に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も全国各地で建立された。天台宗は山王権現の他にも八王子権現なども比叡山に祀り、本地垂迹に基づいて山王21社に本地仏を定めた。

江戸時代の初期に、大社の神主は神仏習合を認めることができず、唯一神道を行おうと、僧形の御神体を燃やすなど、廃仏毀釈を試みたことがあった[3]。しかし、延暦寺が幕府に訴えて裁判となり、日吉大社が負けたため、神主は島流しとなり、当時の社家は断絶させられ、大社は延暦寺の完全な管理を受けるようになった[3]。このとき、延暦寺から、「祭りと掃除以外のことをするときは、延暦寺の許可を得なければならない」という掟を定められたという[3]。その後の大社は経済的にも延暦寺の管理下となった[3]

神仏分離・廃仏毀釈

明治維新神仏分離廃仏毀釈によって、天台宗の鎮守神である山王権現は廃された。

日吉大社では、公布されたばかりの神仏分離令が最初に実行されたとされる[3]慶応4年(1868年近江国日吉山王社は比叡山延暦寺から強制的に分離され[4]日吉大社に強制的に改組された。このとき、延暦寺に社殿の鍵の引渡しを要求するも拒否されたため、日吉社社司樹下茂国(神祇官神祇事務局権判事)は神威隊および雇い入れた農民100名を率いて社殿に乱入、祀られていた仏像、仏具、仏器、経巻など124点を焼き捨て、鰐口など48点を社司宅へ持ち帰り(『滋賀県百科事典』)、梵鐘等の金属部分を大砲や貨幣鋳造のために押収するなどした[3]。これが先例となって、廃仏毀釈が全国的に行われるようになったという[3]。 

なお、日吉大社の権禰宜の話では、廃仏毀釈は「持て余すものをお焚き上げしたに過ぎない」ものだったという[3]。 江戸初期に既に廃仏毀釈が行われた点をみても、大社側は神仏習合をもともと快く思っておらず、神仏分離令をきっかけにすぐ廃仏毀釈が行われたのは、自然な成り行きだったという[3]。また、最初の廃仏のときに、仏像等を延暦寺に返せば、円満に解決したはずだが、裁判を起こされたことが、大社と延暦寺の間にしこりを残し、明治期の激しい廃仏につながったのだという[3]。もっとも、当時は、これまでの崇敬の対象を破壊することはできないと、仏像等を隠した神官や氏子も多くみられたという[3]

現在も残る山王社の多くは、大山咋神を祭神とする神道日枝神社日吉神社等になっている。

2008年、日吉大社は山折哲雄の提唱する「神仏同座、神仏和合の精神の復活」の精神にもとづく神仏霊場会が組織された際、これに創立メンバー125社寺のひとつとして参加、2016年からは「日吉山王大権現」と大書された「干支大絵馬」を成安造形大学に依頼して毎年作成し、参道脇に設置している[5]

日吉山王曼荼羅図

日吉山王曼荼羅図(ひえさんのうまんだらず)は、比叡山に祀られる仏や神を混在させながら、天台宗の教理に従って描かれた曼荼羅である[1]。その形式から、宮曼荼羅図(みやまんだらず)、本地仏曼荼羅図(ほんじぶつまんだらず)、垂迹神曼荼羅図(すいじゃくしんまんだらず)などに分類される[1]

宮曼荼羅図

絹本著色日吉山王宮曼荼羅図(室町時代)
上部に二十一社の祭神・本地仏・種子を配置。下部は山王二十一社の俯瞰図で八王子山頂の二社と山麓の社殿群を描く。

空の上から見下ろすように、神社の風景を描いたものである[1]。宮曼荼羅図は、社殿を訪れることのできない人々が、自宅でこれを拝むことで、実際の参拝に替えるためのものだったという[1]

重要文化財として「絹本著色日吉山王宮曼荼羅図」(奈良市・大和文華館蔵)や、「絹本著色日吉山王宮曼荼羅図」(東近江市・百済寺蔵)があるほか、「絹本著色山王宝塔曼荼羅図」(京都市・大谷大学博物館蔵)などがある[1]

本地仏曼荼羅図

山王権現の本来の姿は仏であるとして、社殿の中で、普通の仏像の姿で座っている光景を描いたものである[1]

垂迹神曼荼羅図

本地仏曼荼羅図とは対照的に、山王権現を神像の姿で描いたものである[1]。一つの社殿に比叡山の神々の集う様子が描かれている[1]

重要文化財として、「日吉山王垂迹神曼荼羅図」(大津市・西教寺蔵)があるほか、「絹本著色日吉山王垂迹曼荼羅図」(山王講・蔵之辻伴蔵)や、「絹本著色日吉山王十禅師曼荼羅図」(東京都・真如苑蔵)がある[1]

山王21社の本地仏

旧称 本地 所在地
上七社
(山王七社)
大宮(大比叡) 釈迦如来
二宮(小比叡) 薬師如来
聖真子 阿弥陀如来
八王子 千手観世音菩薩 八王子山頂
客人 十一面観世音菩薩
十禅師 地蔵菩薩 東本宮境内(妃)
三宮 普賢菩薩 八王子山頂
中七社 大行事 毘沙門天 東本宮境内(父)
牛御子 大威徳明王 牛尾神社拝殿内
新行事 持国天または吉祥天 東本宮境内(母)
下八王子 虚空蔵菩薩 東本宮参道
早尾 不動明王 境内入口附近
王子 文殊菩薩 境外・止観院の附近
聖女 如意輪観音 宇佐宮境内
下七社 小禅師 竜樹菩薩または弥勒菩薩 東本宮境内(子)
大宮竈殿 大日如来 西本宮境内
二宮竈殿 日光月光 東本宮境内
山末 摩利支天 東本宮参道
岩滝 弁財天 東本宮参道
剣宮 倶利伽羅不動 白山姫神社境内
気比 聖観音菩薩または大日如来または阿弥陀如来 宇佐宮境内

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 「三館連携特別展 神仏います近江 大津会場 日吉の神と祭」(大津市歴史博物館、2011年9月3日)
  2. ^ 京都観光Navi - 法厳寺(牛尾観音・牛尾山)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 「日本の伝統 神仏習合(2) - 秘境添乗員・金子貴一の地球七転び八起き - 」(金子貴一、朝日新聞デジタル、2011年3月28日)
  4. ^ 神道側が仏教関連の事物に対して徹底した破壊活動を行ったため、神仏判然(神仏分離)は穏やかに実施するように慶応4年4月10日に新政府は通達を出した。
  5. ^ 地域連携推進センター「日吉大社の干支大絵馬が完成しました!」,2019.12.,17。成安造形大学 公式webサイト

関連項目