東蒲原郡
東蒲原郡(ひがしかんばらぐん)は、新潟県下越地方、福島県との県境に接する郡。
人口8,603人、面積952.89km²、人口密度9.03人/km²。(2024年11月1日、推計人口)
以下の1町を含む。
- 阿賀町(あがまち)
概要
かつては越後国でありながらも長く会津地方の影響下にあり、郡の発足当初も福島県へ所属したが、のちの1886年から新潟県の所属となった[2][3]。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。
近代以前
越後国に所属
東蒲原郡にあたる土地は、7世紀(飛鳥時代)の令制国制度によって、越後国(現在の新潟県の本州部分にあたる)に所属した。
会津の勢力下
しかし、1172年(承安2年、平安時代後期)に、越後国の豪族であった城氏の城長茂(永用)が、隣接する陸奥国の会津地方(現在の福島県の一部)の有力寺院である慧日寺の僧侶・乗丹坊に、自身の叔母を嫁がせた。そして長茂は現在の東蒲原郡にあたる「小川庄」を慧日寺に寄進し、緊密な関係を結んだ[2]。
これにより東蒲原郡(小川庄)は会津の勢力による支配下に置かれ、また会津の文化圏に属することとなった[2]。
以後700年間弱にわたって同郡は会津の勢力下にあり、1603年(慶長8年)から1868年(慶応4年)にわたる江戸時代においても、本郡の大部分は会津藩の領地であった[4]。
近代以降
1868年の明治維新に続く1871年(明治4年)の廃藩置県の直後においても、同様に会津地方を管轄した若松県に所属した。
福島県に所属
さらに1876年(明治9年)には、若松県が福島県[注釈 4]に併合された[注釈 5]ことで、本郡は福島県に属した。
さらに2年後の1878年(明治11年)には郡区町村編制法が施行され、翌1879年(明治12年)に福島県で同法の施行により行政区画としての「東蒲原郡」が発足した。
新潟県へ移管
若松県の分県論
若松県が福島県の一部とされたことで、東蒲原郡および会津地方の住民にとっては、自県の県庁が会津の若松町(現在の会津若松市)から、奥羽山脈を隔てて遠く離れた中通りの福島町(現在の福島市)へと移管されたことで不便や衰退をきたした[5]。また、文化や風習も会津と中通りでは異なったという[5]。このため、1881年(明治14年)には「若松県を福島県から再び独立させるべきだ」とする分県運動が起こった[5][4]。
とくに福島県内の西端にあった本郡は福島県庁へ非常に遠く、最短経路でも約130km前後、徒歩では24時間以上を要した[注釈 6]。
県庁の移転論
また、1883年(明治16年)には福島県全体としても、県庁を「県内の北端に位置する福島(現・福島市)ではなく、県の中央に位置する安積郡・郡山町(現在の郡山市)へと移転するべきだ」という運動がおこり、1885年には福島県議会が「県庁を郡山へ移転する」ことを決議した。県議会はそれを大日本帝国政府へ上申した[6]。
東蒲原郡の移管
しかし、若松県の独立論および県庁の郡山移転論は、いずれも中央政府(内務省)から却下された[5][6]。
政府は県庁を北端の福島に留めることとし、かわりに福島から遠い東蒲原郡を新潟県へと編入して旧若松県から切り離すことで、分県運動を抑え込むことを狙った[4](事実、本郡からは福島県庁までより新潟県庁までのほうが2倍以上も近い[注釈 7])。
1886年(明治19年)5月25日に、東蒲原郡は福島県から新潟県へと移管された[3][2][5]。同時点で新潟県はすでに越後国のうち本郡を除く全域を管轄していた[注釈 8]ため、本郡は、古来より属した越後国へと再び合流する形となった。
移管手続き
移管の事務手続きは、津川町(現阿賀町)の郡役所で行われ、福島県から新潟県へさまざまな事務や書類が引き継がれた[4]。
その引き継ぎ資料を記録した書物『明治十九年東蒲原郡引受書』の中にある『東蒲原郡役所引渡目録』には、具体的な引き渡しの品目が記載されている。同目録には、多数の行政文書や帳簿類のほか、役所の備品として「土瓶10個」や「茶碗20個」「ランプ1個」「蚊帳1張」、また鍬や肥桶に至るまでの品目が一つ一つ数えられて詳細に書き出された[4]。
東蒲原郡の郡域および郡役所は不変であっても、他県へ所属を変更するという処理は、単なる名前の書き換え以上に手間を要する作業であった[4]。
郡の存続へ
東蒲原郡が新潟県へと移管された同日、郡の代表者33名が、視察に訪れた新潟県令(県知事)の篠崎五郎に、「東蒲原郡と郡役所を今まで通りに存続してほしい」と請願した[4]。
当時、「小さい郡の独立は経済的に効率が悪いから、東蒲原郡は郡役所を廃止して北蒲原郡に併合すべき」という風聞があったという。これに対して郡代表者たちは、「住民が暮らす地域が10里(約40km)にわたっており、小さい郡ではない」こと、「過去に700年以上も独立した郡として統治されてきた」ことをあげて、郡と郡役所の存続を請願した[4]。
結果として、東蒲原郡の廃止や併合は行われることなく、現代まで東蒲原郡・阿賀町として存続することとなった[4]。
年表
郡発足までの沿革
- 野村、広沢新田村、払川村、九島村、高清水村、野中村、太田村、小山村、芹田村、小杉村、高出村、栃堀村、広瀬村、鍵取新田村、室谷村、八田蟹村、漆沢村、小手茂村、黒谷村、相高島村、明谷沢村、粟瀬村、安用村、押手村、大尾村、柴倉村、土井村、東山村、牧野村、東岐村、石畑村、津川町、平堀村、天満村、花立村、倉平村、焼山村、田沢村、福取村、八ツ田村、鹿瀬村、向鹿瀬村、水沢村、当麻村、菱潟村、船渡村、麦生野村、馬取村、新渡村、実川村、西村、角島村、京瀬村、大牧村、小花地村、谷沢村、白崎村、川口村、吉津村、岩谷村、五十島村、取上村、石戸村、長谷村、熊渡村、石間村、佐取村、小松村、五十沢村、細越村
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郡発足以降の沿革
- 明治12年(1879年)1月27日 - 郡区町村編制法の福島県での施行により、福島県蒲原郡に行政区画としての東蒲原郡が発足。郡役所を津川町に設置。
- 明治19年(1886年)5月27日 - 新潟県の管轄となる。
- 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により以下の町村が発足。特記以外は現・阿賀町。(1町11村)
- 明治30年(1897年)1月1日 - 郡制を施行。
- 明治41年(1908年)9月1日 - 三川村・綱木村が合併し、改めて三川村が発足。(1町10村)
- 大正12年(1923年)3月31日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
- 大正15年(1926年)6月30日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
- 昭和29年(1954年)12月1日 - 上条村・西川村・東川村が合併して上川村が発足。(1町8村)
- 昭和30年(1955年)
- 昭和31年(1956年)
- 平成17年(2005年)4月1日 - 津川町・鹿瀬町・上川村・三川村が合併して阿賀町が発足。(1町)
行政
- 福島県東蒲原郡長
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 明治12年(1879年)1月27日 | |||
明治19年(1886年)5月26日 | 新潟県に移管 |
- 新潟県東蒲原郡長
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 明治19年(1886年)5月27日 | |||
大正15年(1926年)6月30日 | 郡役所廃止により、廃官 |
注釈
- ^ これらの地域は後の1889年に北蒲原郡から編入する。
- ^ 1956年に北蒲原郡に編入。
- ^ 1955年に五泉市に編入。
- ^ 当時までの『福島県』は、中通り(現在の福島市や郡山市、白河市など)のみを管轄していた。
- ^ 同時に『磐前県』(浜通り。旧平県。現在のいわき市や相馬市など)も福島県へと併合された。
- ^ Google マップで、現在の阿賀町役場から福島県庁へ移動する場合。
- ^ 現在の阿賀町役場から新潟県庁までの距離は、自動車で最短経路を移動した場合で約52km、所要時間は約50分前後である。一方、福島県庁までは約136km、約110分前後を要する。計測はGoogle マップに基づく。
- ^ 新潟県はまた、越後国とは別である佐渡国も管轄した。
出典
- ^ “阿賀野川流域パンフレット-川と交通 - 流域の歴史年表”. きらり四季彩 阿賀野川. 国土交通省北陸地方整備局 阿賀野川河川事務所 (2007年4月26日). 2021年9月30日閲覧。
- ^ a b c d 新潟県立図書館 (2016年3月25日). “リファレンス事例詳細 - 東蒲原郡に関する下記3点について”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2021年9月30日閲覧。
- ^ a b 明治19年勅令第43号(『官報』第856号、明治19年5月12日、p.113.)
- ^ a b c d e f g h i “越後佐渡ヒストリア> [第76話]東蒲原郡のお引っ越し-茶碗の数も確認します-”. 新潟県立文書館. 2021年9月30日閲覧。
- ^ a b c d e 大内 雅人 (2003-03-20). “<論説> 福島県域の成立と会津若松分県問題”. 学習院史学 41: 70-83. ISSN 02861658 .
- ^ a b “福島県議会主要年表(明治元年~24年)”. 福島県議会. 福島県 (2015年11月24日). 2021年9月30日閲覧。
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 15 新潟県、角川書店、1989年9月1日。ISBN 4040011503。
- 旧高旧領取調帳データベース
関連文献
- 赤城源三郎『東蒲原郡のなりたち』津川町公民舘、1951年。NCID BN11057504。
- 入間田宣夫「特別寄稿 中世小川荘の歴史 越後と会津のはざまにて」『阿賀路 東蒲原郡郷土誌』第60号、阿賀路の会、2022年、14-29頁。
- 寺田徳明 編『東蒲原郡史蹟誌』東蒲原郡教育会、1928年。NDLJP:1177986。
関連項目
外部リンク
『越佐地図教科書』(国立国会図書館デジタルコレクション)- 1896年(明治29年)1月出版。人口 19,428人、戸数 3,229との記述あり
先代 蒲原郡 |
行政区の変遷 1879年 - |
次代 (現存) |