フランシス・プーランク
フランシス・プーランク | |
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プーランクとワンダ・ランドフスカ | |
基本情報 | |
生誕 |
1899年1月7日 フランス共和国、パリ8区 |
死没 |
1963年1月30日(64歳没) フランス、パリ6区 |
職業 | 作曲家、ピアニスト |
フランシス・ジャン・マルセル・プーランク(プランク、Francis Jean Marcel Poulenc フランス語: [fʁɑ̃sis ʒɑ̃ maʁsɛl pulɛ̃k] 発音例,1899年1月7日 - 1963年1月30日)は、フランスの作曲家。「フランス6人組」の一人。声楽曲、室内楽曲、宗教曲、オペラ、バレエ音楽、管弦楽曲を含む主要な音楽ジャンルの楽曲を作曲している。その作風の多様さは「修道僧と悪童が同居している」と形容される[注釈 1][2]。
来歴・人物
生い立ちと教育
1899年にパリ8区マドレーヌ地区の裕福な家庭に生まれる。両親は敬虔なカトリック教徒であった(父エミールは、叔父のカミーユと共に製薬会社ローヌ・プーランの創設者)。5歳の頃から母親からピアノの手ほどきを受け、1914年(15歳)からはスペイン出身の名ピアニスト、リカルド・ビニェス(ドビュッシーやラヴェルのピアノ曲の初演を数多く手がけた)にピアノを師事し、多大な影響を受ける[注釈 2]。プーランクは幼なじみの女友達レイモンド・リノシエ[注釈 3]とアドリエンヌ・モニエが経営するオデオン通り7番地の書店「本の友の家(La Maison des Amis des Livres)」[注釈 4]に足繫く通い、そこでアンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、そしてポール・エリュアールに出会う。それから数年後、彼らの詩がプーランクの音楽の抒情的表現への鍵を与えることになる[6]。 バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)による『春の祭典』(1913年)、『パラード』(1917年、台本:ジャン・コクトー、音楽:エリック・サティ、美術:パブロ・ピカソ)の初演を見て感嘆する。
フランス6人組の一員として
1917年頃ビニェスの紹介により、後のフランス6人組のメンバーであり同い年のジョルジュ・オーリックや『パラード』の作曲者サティ、ポール・デュカス、モーリス・ラヴェル、声楽家のジャーヌ・バトリといった音楽家と出会う。中でもバトリとの出会いは重要で、プーランクは当時バトリの自宅に毎週のように集まる音楽家の一員となった。彼はそこでアンドレ・カプレやアルテュール・オネゲルとも出会う。当時、バトリは渡米したヴィユ・コロンビエ劇場の支配人の代理として劇場の運営を任されており、1917年12月には同劇場でジェルメーヌ・タイユフェール、オーリック、ルイ・デュレ、オネゲル、ダリウス・ミヨーの作品とともに、プーランクの『黒人の狂詩曲(FP3)』の初演が行われた[注釈 5]。プーランクは後に「これがその後の6人組の出発点となった」と語っている[7]。また、詩人ジャン・コクトーらのサロンに出入りするようになった。当時18歳だったプーランクは作曲を本格的に学習したいと考えたが、実業家であった父の反対によりパリ音楽院には進学せず[8]、3年間の兵役についた[注釈 6]。この間、1920年に『コメディア』誌上に批評家のアンリ・コレが掲載した論文「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」によって「6人組」の名が広まった。 除隊後の1921年から1924年にかけて、正式な音楽教育を受ける必要を感じ、ダリウス・ミヨーの勧めもありシャルル・ケクランについて本格的に作曲を学ぶ。1922年にはミヨーなどと共にウィーンのアルマ・マーラー宅を訪れ、そこでアルノルト・シェーンベルク、アントン・ヴェーベルン、アルバン・ベルクと会う。この年にはパリを訪れたバルトーク・ベーラとも会う。1923年にパリで行われたイーゴリ・ストラヴィンスキーの『結婚』初演の際の4人のピアニストの内の1人に予定されていたが、プーランクは病気となり初演には関われなかった(ストラヴィンスキーとは1916年にパリの楽譜店で出会って以来の友人であった)。 1923年、ミヨーとともにイタリア旅行中であった24歳のプーランクは、バレエ・リュスを主宰するセルゲイ・ディアギレフからの委嘱によってバレエ『牝鹿(FP36)』を作曲し、翌1924年にモンテカルロにおいてバレエ・リュスによって初演された。脚本はコクトー、舞台と衣装はマリー・ローランサン、振付・主演はブロニスラヴァ・ニジンスカという豪華なものだった。
飛躍と成熟(1926年-1945年)
1927年、トゥレーヌ地方トゥール近郊ノワゼに邸宅ル・グラン・コトーを購入し、創作活動の場合ここに籠もり『ナゼルの夜会(FP84)』などを完成させた。プーランクは1935年にザルツブルクでバリトン歌手ピエール・ベルナックと[注釈 7]再会を果たしている。 プーランクは1936年8月17日の同僚でライバルでもあった作曲家のピエール=オクターヴ・フェルーの痛ましい自動車事故による死の知らせに衝撃を受け、しばらく無頓着になっていた信仰心を取り戻した。ロカマドゥール礼拝堂の黒衣の聖母から受けた〈心への一撃〉によって作曲された『黒い聖母像への連禱(FP82)』は以後晩年までプーランクが書き続けた一連の曲の宗教的合唱の先駆け的な存在となった[11]。 大戦中はナチス占領下のフランスに留まり、彼の対独〈抵抗〉の意志を込めてガルシア・ロルカの想い出に『ヴァイオリン・ソナタ(FP119)』(1942年-1943年)を作曲し、ルイ・アラゴンの詩に曲を付けた『セー(FP 122)』(C)、そして声によるレジスタンスともいうべき『人間の顔 (FP120)』(1943年)を作曲した。
第二次世界大戦後(1946年-1959年)
初のオペラ作品『ティレジアスの乳房(FP125)』は1947年6月3日に、パリ・オペラ・コミック座にて初演された[12] プーランクは1948年にピエール・ベルナックと1回目の米国へ演奏旅行に行き、大きな成功を収めた[13]。 第2作の『カルメル派修道女の対話(FP159)』(1957年1月ミラノ・スカラ座で世界初演、6月パリ・オペラ座でフランス初演)は「ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』、ベルクの『ヴォツェック』に続く作品」と絶賛された[14]。プーランクの3作目にして最後のオペラ『人間の声(FP171)』が1959年2月6日にパリオペラ・コミック座にて初演された[15]。
晩年(1960年-1963年)
プーランクは1960年にドゥニーズ・デュヴァルと2回目の米国への演奏旅行に行き、再び歓迎された[16]。 プーランクは1945年から世を去るまでの間、作曲のほかベルナックの伴奏者としてサティ、シャブリエと自作の録音に大部分の時間を費やした[注釈 8]。彼は生涯独身であったが、友人たち、特にオーリックの支援と助言に多くを頼っていた。彼はパリとトゥレーヌの邸宅で理想とする友人の訪問に中断される孤独な生活を送った[17]。 晩年には様々な楽器とピアノのためのソナタに取り組む。1962年には『クラリネット・ソナタ(FP184)』、『オーボエ・ソナタ(FP185)』を作曲した。 プーランクはコクトーの原作に基づく彼の4番目のオペラ『地獄の機械』の作曲にかかったところで、1963年 1月30日に心臓麻痺のためパリで死去した。
私生活
私生活では同性愛者とされ[注釈 9]、リシャール・シャンレール[19]、レイモン・デトゥッシュ[20]、リュシアン・マリウス・ウジェーヌ・ルベール[21]、ルイ・ゴーティエ[22]が交際相手として知られている。プーランクが好んだのは、中流以下のインテリではない男性であった[23]。
また、フランス滞在時[注釈 10]のロシアの作曲家プロコフィエフとは、ピアノやブリッジを通じて親交が篤かった[24]。唯一のピアノの弟子としてカンヌ生まれフランスのピアニスト、ガブリエル・タッキーノに教えた。
音楽観など
1953年に行われたスイス・ロマンド・ラジオ放送のインタビューで、プーランクは自己の来歴や音楽観について語っている。その中で、若い頃に影響を受けた作曲家として、シャブリエ、サティ、ラヴェル、ストラヴィンスキーの4人を、音楽家のベスト5(無人島に持っていきたい音楽)として、モーツァルト、シューベルト、ショパン、ドビュッシー、ストラヴィンスキーを、生理的に受け付けない作曲家としてフォーレ、ルーセルの名を挙げている[25]。
プーランクはインタビューの中で「音楽でモーツァルトに勝るものはない」[26]と言いきっているが、これは幼少時の彼にピアノを手ほどきした母親の影響である。また、ストラヴィンスキーについては『春の祭典』ではなく、『プルチネルラ』、『妖精の接吻』、『カルタ遊び』などの「ヨーロッパ的」な作品に影響を受けたと語っている[27]。
プーランクの音楽体験はピアノから始まっているために作品にはピアノ曲が多いが、10歳の頃にシューベルトの歌曲に熱中したことがあり、このことが数多くの歌曲を生むきっかけとなった[28]。1910年の冬、楽譜屋で『冬の旅』の楽譜を見つけ「突然自分の人生の中で非常に深い何かが変化したことを発見した」そして、彼は繰り返し『菩提樹』、『烏』、『辻音楽師』を弾いたが「中でも『幻の太陽』には特に惹かれた」と言う[29]。
ピアノ以外の楽器については、弦楽器よりも管楽器の音色を好んだ[30]ため、管弦楽曲では管楽器が重要な役割を演じることが多く、室内楽曲においても管楽器のための作品が多い。なお、プーランクはさまざまな楽器の組み合わせで室内楽曲を作曲しているが、その中に同一の組み合わせのものはない。
プーランクは生粋のパリっ子であり都会人であった。彼が作る曲は軽快、軽妙で趣味がよく[28]、ユーモアとアイロニーと知性があり「エスプリの作曲家」と言われる[30]が、敬虔なカトリック教徒であった両親の影響を受け、宗教曲や合唱曲も手掛けている。自身はこの分野について「わたし自身の最良の部分、何よりも本来の自分に属するものをそこに注ぎ込んだつもりです。(略)わたしが何か新しいものをもたらしたとするならば、それはまさにこの分野の仕事ではないかと思います」と述べている[31]。
作品の特徴
プーランクは旋律に対する生来の感覚、そのプロポーションやフレージングにおける全体性やしなやかさの感覚を持っていた[32]。
プーランクは調・旋法体系の優位を決して疑わなかった。ヴェルディ以降の主な作曲家の誰よりも多く減七和音をつかったとは言え、半音階性は彼の音楽にあっては束の間の現象に過ぎなかった。書法、和声、リズムの面でも、彼は特に創意に溢れていたわけではなかった。彼にとって最も重要な要素は何にもまして旋律であり、既に探索され、多くの仕事がなされ、枯渇してしまったと思われた領域の中で、最新の音楽地図を頼りに、彼は未発見の旋律の巨大な宝庫へたどり着いたのである[33]。 1942年の手紙の中で「自分がストラヴィンスキーやドビュッシー、ラヴェルのような和声の革新をやった作曲家でないことは自分が誰よりもよく知っている。しかし、他人の和声を使うことを気にしない新しい音楽の余地はあると思う。モーツァルトやシューベルトもそうだったのではないか」と書いている[34]。
小沼純一によればプーランクの楽曲には次のような特徴「4小節や8小節よりさらに短い2小節がしばしば使われる旋律の単位、通常の長さより一拍か二拍ほど旋律線を短く刈り込んでしまう展開、七や九の和音への偏愛。故意に二度や七度をそのまま使って、不協和音を目立たせるスタイル。分裂症と呼べそうな急激な気分の転換。クライマックスのままエンディングに至らないカタルシスの回避。安定しているのに、しばし宙吊りの緊張が作られるコーダ。作品の短さと簡潔さなど」が見られる[35]。
当時のストラヴィンスキーが好んだ大胆で鮮やかな複調の響きを彼も特に好んで取り込み、旋律同士や和音同士をその手法によって重ねることが多く見られる。 無調音楽が主流となった戦後も単純明快な作風の調性音楽を書き続けたプーランクであったが、一方でピエール・ブーレーズの主催する現代音楽アンサンブル「ドメーヌ・ミュジカル」の演奏会には常連として足繁く通うなど、前衛的な現代音楽にも理解を見せた。
歌曲
ギヨーム・アポリネールの『動物詩集』からの6つの詩に作曲した『動物詩集(FP15)』(1918~1919年)は二十歳の若者にしては極めて個性的で力量ある成果であり、短くて捉えどころのない詩の雰囲気が、しばしば言葉の変則的な配置という単純だが、驚くべき手段で捉えられている。1935年にはベルナックと『ポール・エリュアールの5つの詩(FP77)』を作曲した。プーランクは思春期からエリュアールの詩に魅せられてきた。彼は「そこには私の理解できない静けさ」があったと言う。『5つの詩』で鍵が錠前の中できしみ、1936年の『ある日ある夜(FP86)』で扉が開いたのである。これはフォーレの『優しい歌』に比肩し得る作品である。ここにはプーランクの他の歌曲の幾つかに見られる筆致、即ち『ホテル(FP107)』での感傷性や『村人の歌(FP117)』に見られる世俗性はないが、他の点では非常に個性的である。ひとつの歌の中で速度が変わる場合、プーランクはサティの先例に倣って、それを〈発展的〉というよりも〈連続的〉な設定にしている[36]。
ピアノと声はしばしば互いに異なった強弱法で進むが、これは彼以前にはあまり探求されることのなかった歌曲の作曲法の局面である。伴奏の書法は決して複雑ではないが、単に〈ペダルの頻繁な使用〉が必要とされる。これ以降、プーランクの歌曲作曲技法はほとんど変化を見せず、むしろ方法の絶えざる精錬へと向かう。いかにより少ない手段で多くを語るかという試みであり、彼が賛嘆して止まなかった画家アンリ・マティスの純粋な描線の追求でもある。この傾向は彼の歌曲の中でも最も〈入念に書かれた〉『冷気と火(FP147)』(1950年)で頂点に達する。エリュアールの詩への最後の作品は『画家の仕事』(FP161)(1956年)である。『モンテカルロの女(FP180)』はプーランクの声楽作品の最後の重要なもので、コクトーの詩につけたこの曲は『人間の声(FP171)』と同様に憂鬱な心の状態の激しい恐怖をプーランクが完全に理解していたことを示している[37]。
プーランクの歌曲は概して短い部分からなり、多くは2小節か4小節の楽節構成になっている。彼の技法は彼が採り上げたシュルレアリスム派の詩人と共通するところが多く、個々の要素を各々が共鳴し合うように置くことを重視した。-中略-プーランクの歌曲においては、その一息ごとに歌が溢れ出てくる。音楽の豪奢な享楽家というプーランクにまつわる伝説はこの周到を極めた職人への最高度の賛辞である[38]。
『ラルース世界音楽事典』では「ポール・エリュアール、ギヨーム・アポリネール、ルイーズ・ド・ヴィルモランの詩による歌曲は彼の全創作期間を通じてほぼ規則的に書かれており、識者からは集中力と韻律法の質の高さ、ゆえに評価を受けているのであるが、〈玄人受け〉にとどまっている感がある。オーケストラ作品、劇場作品は良く演奏されるが、ピアノ曲、歌曲は評判が良いのにもかかわらず、埋もれているのは事実である」と評価している[39]。
デニス・スティーヴンスは「プーランクの歌曲は40年以上に亘り、彼が選んだ歌詞のごとく、スタイルにおいても質においても変化に富んでいる。-中略-彼が伝統的な美しい音楽を書く能力があるということは偉大なフランスの詩人エリュアールの超現実主義の詩につけた『ある日ある夜』(1937年)によって良く証明されている。恐らくこれは彼の最も優れた歌曲集であろう。また、プーランクが20歳の時の歌曲集『動物詩集、またはオルフェのお供たち』において、見事な洗練された精巧さで書いていたことでも分かる」と評している[40]。
難解であるアポリネール以降の現代詩を扱うプーランクの手腕は「こうした詩はしばしばかなり難解だが、プーランクによる音楽への移し替えは常に詩をくっきりと明確にする」のである。実際、文字として、言葉として与えられた詩を実際どのように読むか、解釈するかはしばしば易しいことではない。そうしたものをプーランクは明瞭に意味の方向性を示す[41]。例えば、エリュアールの詩において、テクストだけでは実は分かりにくい〈ストーリー〉的なもの、感触と言うものをプーランクの音楽は忠実に詩の一つの読み方として提示する。一種の翻訳になっている。同時に、たとえ詩の意味が分からなくても、音楽の調子によって、伝わってしまうこともある。エリュアールの詩においては平易さがあり、一つ一つは分かり易いのに、逆に分かり易いがために、様々なイメージが喚起されるのだが、それを一つの流れとして、分節化して意味を音楽的に立ち昇らせる。これがプーランクのアプローチなのである[42]。ベルナックは「歌曲作曲家としてのプーランクの奇跡は、まさに彼が誤読をしなかったことだ」と断言している[43]。
末吉保雄は「プーランクにとって文学や美術の世界は音楽の外にあるものではなく、エリュアールの詩もローランサンも、言わばそれらは生きた〈風土〉そのものであった。25年に亘るベルナックとの演奏活動が歌曲を容易に日常的な場にさせたことは否めない。-中略-彼がこの場で選んだ詩と詩人[注釈 11]を見れば、その言葉は彼が共に生きた、この〈風土〉を語っていて、その言葉を共有していた。プーランクは自分の音楽がこの人々と共に彼らの日々の感情や夢、あるいは憂鬱や不安を歌い、祈る、それ以外の意味を持つとは思ってもみなかった。プーランクがその最良の資質を声楽曲に開花させた背景は以上の通りである。歌曲が日々の場であれば、内心の祈りは合唱曲に、そして、その総合は歌劇に形を成した。他の分野、室内楽やピアノ曲も、それは人声と詩を省かれた声楽、あるいは声楽の器楽への移入と見ることもできる」と述べている[44]。
プーランクの歌曲の歌手には女性ではマリア・フロイント、ジャーヌ・バトリ、クレール・クロワザ、シュザンヌ・ペイニョ、ドゥニーズ・デュヴァル、男性ではピエール・ベルナック、ドダ・コンラッドを挙げることができる[45]。録音実績などからフェリシティ・ロットの貢献は見逃せない[注釈 12]。また、日本では村田健司が録音、歌唱、指導などに幅広く活躍している[46]。
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クレール・クロワザ
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ピエール・ベルナック
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ジャーヌ・バトリ
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シュザンヌ・ペイニョ
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ドゥニーズ・デュヴァルとポール・ペイアン
主な包括的歌曲録音
レーベル | 歌手 | ピアノ伴奏者ほか | 録音年(発売年) 備考 EAN番号 |
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Decca | フェリシティ・ロット カトリーヌ・デュボスク フランソワ・ル・ルー ジル・カシュマイユ ウルスラ・クリーガーほか |
パスカル・ロジェ | 1992年-1998年 EAN:0028947590859 |
EMI | エリー・アメリンク マディ・メスプレ ジョゼ・ヴァン・ダム ニコライ・ゲッダ ジェラール・スゼー フランソワ・ル・ルーほか |
ジャン=フィリップ・コラール ダルトン・ボールドウィン ガブリエル・タッキーノ ジャック・フェヴリエほか |
1999年発売 プーランク誕生100周年 管弦楽及び室内楽伴奏含む EAN:4988006761438 |
マイスターミュージック | 村田健司 | 上原ひろ子 | 1999年度文化庁芸術祭参加作品 プーランク生誕100年記念 101曲収録 EAN:4944099105856 |
Hyperion | フェリシティ・ロット アイリッシュ・タイナン サラ=ジェーン・ブランドン イヴァン・ラドロウ アニエシュカ・アダムチャク スーザン・ビックリー ロビン・トリッチュラー ニール・デイヴィス ジェラルディン・マクグリーヴィ ピエール・ベルナック(ナレーション)ほか |
グレアム・ジョンソン | 2008年-2012年 EAN:0034571280219 |
ATMA Classique | パスカル・ボーダン ジュリー・フックス エレーヌ・ギルメット マルク・ブーシェ フランソワ・ル・ルー ジュリー・ブリアンヌほか |
オリヴィエ・ゴダン | 2012年-2013年 プーランク没後50年記念 未発表曲を含む170曲を収録 EAN:0722056268820 |
合唱曲
プーランクは4曲のオーケストラを伴った合唱曲と13曲の無伴奏の合唱曲を書いており、ピアノ伴奏の合唱曲はない[47]。世俗的な歌曲に対し、彼の合唱曲は宗教曲が中心で、世俗的なものは『酒飲み歌 (FP31)』(1922年)、『7つの歌(FP81)』(1936年)、『小さな声(FP83)』(1936年)、『枯渇 (FP90)』(1937年)、『人間の顔 (FP120)』(1943年)、『ある雪の夕暮れ(FP126)』(1944年)、『8つのフランスの歌(FP130)』(1945年)となっている[48]。 『人間の顔』はエリュアールの詩に複雑な作曲が施されており、プーランクは祈りの雰囲気を醸し出すために合唱の純粋な響きを求めている。『グローリア ト長調(FP177)』(1959年)では「栄光、神にあれ」というアクセントの置き方に見られるように、故意に信仰のなさそうな合唱の書法を採りながら、その一方で、オスティナート、舞い上がるようなソプラノ、比類ない旋律がティペットの言葉通り「豊かなるものに参加する契約で結ばれた」信心深い人であることを示している[49]。 アンリ・エルによれば「プーランクが書いた合唱音楽は非常に模範的で、豊かで、味わい深いものだった」のである[50]。
オペラ
プーランクの音楽のほとんどは舞台のためのものではない。後に撤回されたコメディ・ブッフ『理解されない憲兵(FP20)』からほとんど四半世紀後に、機知とシュルレアリスム風の風刺が効いた『ティレジアスの乳房(FP125)』が書かれた。『カルメル派修道女の対話(FP159)』は全く異なった種類の作品であり、単純な抒情的スタイルで書かれた宗教作品である[51]。このオペラはジョルジュ・ベルナノスによる稀に見る優れたリブレットにとりわけ効果的に作曲したものである[52]。なお、このオペラの原作『断頭台下の最後の女』にはアメリカの劇作家エメット・ラヴェリーによる英語による舞台劇脚本が存在し、この小説を基にしたすべての上演権を握っていたため、この権利を巡る交渉の結果、問題は決着したが[注釈 13]、プーランクには大きな精神的負担となった[53]。 彼の最後の作品である『人間の声(FP171)』は、ソプラノのドゥニーズ・デュヴァルのために書かれた45分のモノローグである。皮肉にも〈抒情悲劇〉と題されたこの作品は、劇的には十分成功しているとは言い難いが、声のための〈偉業〉である[54]。 これらの3作品は三者三様ではあるが、〈女性〉に関わる問題を扱っているという共通点がある。『カルメル派修道女の対話』では女性と宗教、制度の問題、『ティレジアスの乳房』では出産について問い掛けられており、『人間の声』では恋とその破綻、電話と言う新しいメディアが女性を通して浮き彫りにされている[55]。
ピアノ曲
プーランクはサステイニング・ペダルの精妙な使用による明快で、しかも色彩的なピアノ奏法をビニェスから学び、自信のピアノ音楽にあっても〈ペダルの頻繫な使用〉固執した。このような様式は彼の初期の作品において『4手のためのピアノソナタ(FP8)』(1918年)での和らげられたオスティナートの多用や『3つの無窮動(FP14)』(1919年)でのアルベルティ・バス風の音型のようにしばしば法外なまでの通俗音楽性を具現化することにもなる。アルトゥール・ルービンシュタインのために書かれた『プロムナード(FP24)』(1921年)では四度や七度に基づく硬い響きの和声語法が現れ、書法は他のどのピアノ曲よりも分厚くなっている。彼のピアノ曲の大部分は自己の芸術の素材を再検討した1930年代の初め以降に書かれている。彼自身のお気に入りは1932年から1959年に書かれた『15の即興曲(FP63、113、170、176)』の被献呈者はマルグリット・ロンからエディット・ピアフにまで及んでいる。このことはピアノという楽器が彼の最も深遠な思索に適した媒体ではないことを証明している。不可解なことに、誰もが彼の最良の作品と見做しがちな『ナゼルの夜会』を本人は酷く嫌っていた[56]。
評価
『音楽大事典』によれば「プーランクは単純さや明確さを重んじたサティやストラヴィンスキーらの影響の下にドイツ・ロマン派の重圧やクロマティズムから開放された真のフランス的伝統に立脚した音楽の創造を目指した。彼の音楽には洗練された感性と軽妙なユーモアに溢れ、瑞々しい詩的情緒がみなぎる作品に結実している。さらに、1936年以降の作品には宗教的感情や崇高さが加わり、深い独自の境地が窺える。母方の演劇愛好家の伯父の影響で、早くから舞台芸術に親しんだ」[57]。
経歴の前半においては、その書法の平明さと直截性の故に、多くの批評家から芸術音楽の作曲家とは見なされなかった。しかし、第2次世界大戦以降、語法上の複雑さが欠けているのは、決して感受性や技術の欠如を示すものではないと言うことが次第に理解されるようになってきた。また、フランスの宗教音楽の分野ではメシアンと最高位を争う一方、フランス歌曲に関してはフォーレの死後、最も傑出した人物であるということも、明らかになってきた[58]。 ロジャー・ニコルズ[注釈 14]は「プーランクはシューベルトそのものではないにしても20世紀における後継者として最も相応しい人物であろう」と評している[59]。『西洋音楽史』のグラウトも「プーランクは歌曲の作曲家として高く評価されている」との見解を示し[60]、プーランク本人も「アポリネールとエリュアールの詩に音楽をつけた」そう墓碑銘に記されたなら、それが最大の名誉だと語っている[61]。
『ラルース世界音楽事典』によれば「プーランクは20世紀前半における最も偉大なフランスの作曲家の一人と今日考えられている」[62]。
作品
- オペラ
- 『ティレジアスの乳房』
- 『カルメル派修道女の対話』
- 『人間の声』
- 管弦楽曲
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- 器楽曲
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- 合唱曲
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- 歌曲
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著書
- 『プーランクは語る――音楽家と詩人たち』 ステファヌ・オーデル編、千葉文夫訳、筑摩書房、1994年、(ISBN 4-480-87244-2)。
- Journal de mes Mélodies. Paris: Cicero, 1993.
- Correspondance 1910-1963. éd. Myriam Chimènes, Paris: Fayard, 1994.
脚注
注釈
- ^ 1950年7月26日の『パリ=プレス紙』において評論家のクロード・ロスタンが『ピアノ協奏曲 嬰ハ短調』を論評した際に使った表現である[1]。
- ^ 「私のすべてはビニェスに追っている」と語っていた[3]。
- ^ 大変な読書家でプーランクに文学的な面で大きく感化した[4]。
- ^ 蔵書の貸し出しも行っており、文学サロンとしても機能していた[5]。
- ^ この曲はサティに献呈されてる。
- ^ 1917年9月26日にはパリ音楽院の教授で、オペラ・コミック座の指揮者としても活躍していたポール・ヴィダルのもとを訪れ、作品の提示を求められ、『黒人の狂詩曲』を見せたが、徹底的に罵倒された[9]。
- ^ ベルナックは1926年に『陽気な歌』の初演を大成功に導いた功労者であった[10]。
- ^ 積極的に演奏活動もし、録音も残されている。
- ^ 幼なじみの女性レイモンド・リノシエに求婚したこともあったが、プーランクの同性愛傾向を知るリノシエはこれを断った[18]。
- ^ プロコフィエフがパリに滞在したのは概ね1920年から1935年頃
- ^ 同時代のシュルレアリストの詩人が中心で、ロンサールのような古典は少数。
- ^ 『人間の声』や『モンテカルロの女』も録音している(EAN:0794881655823)。
- ^ 「エメット・ラヴェリー氏の承諾により」とクレジットを入れることになった。
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』のプーランクの項目の執筆者
出典
- ^ 久野麗、257頁
- ^ 久野麗、257頁
- ^ アンリ・エル、8頁
- ^ アンリ・エル、11頁
- ^ 久野麗、24頁
- ^ アンリ・エル、12頁
- ^ プーランク、オーデル編、42-43頁
- ^ アンリ・エル35頁
- ^ 久野麗、36頁
- ^ 久野麗、119頁
- ^ 『ラルース世界音楽事典』626項
- ^ 『ラルース世界音楽事典』、P1062
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、246頁
- ^ 『標準音楽辞典』、プーランクの項
- ^ ジョン・ウォラック、513頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、246頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁
- ^ 久野麗、90頁
- ^ 久野麗、90-91頁
- ^ 久野麗、138頁
- ^ 久野麗、266頁
- ^ 久野麗、314頁
- ^ 久野麗、138頁
- ^ 久野麗、101-102頁
- ^ プーランク、オーデル編、181頁
- ^ プーランク、オーデル編、26頁
- ^ プーランク、オーデル編、69-70頁
- ^ a b 『標準音楽辞典』、プーランクの項
- ^ 高橋英郎、112頁
- ^ a b 濱田滋郎 CD(F00G 20460)ライナーノート
- ^ プーランク、オーデル編、66頁
- ^ 『ラルース世界音楽事典』、1417頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁
- ^ 小沼純一、293~294頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁
- ^ 『ラルース世界音楽事典』、1417頁
- ^ デニス・スティーヴンス、『歌曲の歴史』、240頁
- ^ 小沼純一、253頁
- ^ 小沼純一、278~279頁
- ^ 小沼純一、253頁
- ^ 末吉保雄、288~289頁
- ^ 小沼純一、255頁
- ^ アトリエ・デュ・シャンのホームページ、2021年11月6日閲覧
- ^ 末吉保雄、286頁
- ^ 小沼純一、253頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁
- ^ アンリ・エル、77頁
- ^ ジョン・ウォラック、556頁
- ^ ドナルド・ジェイ・グラウト、848頁
- ^ 久野麗、314頁
- ^ ジョン・ウォラック、556頁
- ^ 小沼純一、206~207頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁
- ^ 『音楽大事典』、2153頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、246頁
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁
- ^ ドナルド・ジェイ・グラウト、848頁
- ^ 小沼純一、246頁
- ^ 『ラルース世界音楽事典』、1417頁
参考文献
- 『ニューグローヴ世界音楽大事典』(第13巻) 、講談社 (ISBN 978-4061916333)
- 『ラルース世界音楽事典』福武書店
- アンリ・エル(著)、評伝『フランシス・プーランク』 春秋社、村田健司 (翻訳)、(ISBN 978-4393931349)
- 久野麗 (著)、『プーランクを探して』 春秋社、(ISBN 978-4393935736)
- 高橋英郎 (著)、『エスプリの音楽』、春秋社(ISBN 978-4393934203)
- ジョン・ウォラック、ユアン・ウエスト(編集)、『オックスフォードオペラ大事典』大崎滋生、西原稔(翻訳)、平凡社(ISBN 978-4582125214)
- デニス・スティーヴンス (編集) 、『歌曲の歴史』 (ノートン音楽史シリーズ) 石田徹 (翻訳) 、石田美栄 (翻訳)、音楽之友社(ISBN 978-4276113749)
- 小沼純一 (著)、『パリのプーランク その複数の肖像』、春秋社(ISBN 978-4393931493)
- 末吉保雄 (著)、『最新名曲解説全集24 声楽曲Ⅳ』 門馬直美ほか (著)、音楽之友社 (ISBN 978-4276010246)
- エヴリン=ユラール・ヴィルタール (著)、『フランス六人組―20年代パリ音楽家群像』、飛幡祐規 (翻訳) 、晶文社 (ISBN 978-4794950734)
- D・J・グラウト(著)、『西洋音楽史(下)』服部幸三 (翻訳) 、戸口幸策 (翻訳) 、音楽之友社 (ISBN 978-4276112117)
- 『音楽大事典』 4巻 平凡社 (ASIN : B00HG3V5GW)
- 『標準音楽辞典』、音楽之友社、1966年、(ISBN 978-4276000018)