晴山さおり
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(浜崎章子から転送)
晴山 さおり | |
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別名 | 浜崎章子(はまさき しょうこ) |
生誕 | 1972年10月10日(52歳) |
出身地 | 神奈川県 |
学歴 | 神奈川県立大和西高等学校 |
ジャンル | 演歌、ポップス |
職業 | 歌手、シンガーソングライター |
活動期間 | 1989年 - 2006年頃 |
レーベル | ビクター |
事務所 |
第一プロダクション オフィス・ホッパーズ |
晴山 さおり(はれやま さおり、1992年時点の本名:晴山 里織(読み方同じ)、1972年10月10日 - )は、1990年代前半に活動していた演歌歌手。神奈川県出身。血液型はO型、身長164cm、体重49kg、神奈川県立大和西高等学校出身。レコードレーベルはビクター音楽産業、所属事務所は第一プロダクションである。[1]
概歴
[編集]小学生時にビクター少年民謡会に参加(長山洋子は先輩に当たる)。1988年、NHKのど自慢(NHK総合・ラジオ第1)に出場し、歌謡曲の部グランドチャンピオンを受賞。1989年、16歳の時にNHK『みんなのうた』で『一円玉の旅がらす』を歌い、CDとカセットを合わせて65万枚(1991年9月時点)[2] の大ヒットとなる。この曲で11もの新人賞を総ナメにした[2]。
当初はこぶしを強く効かせた純演歌の歌唱法であったが、2ndアルバムからは子供向け音楽を意識したポップスな曲調に転向。しかし1992年を最後にCDリリースが途絶えた。
1995年5月、ビクターから秋元康プロデュースにより「浜崎章子」に改名し事実上の再デビューを果たす。“浜田省吾から影響を受けた22歳のシンガーソングライター”の触れ込みで[3]、演歌歌手から脱却しガールポップを意識したロック調の楽曲でシングル2枚・アルバム1枚をリリースしたが、再びリリースが途絶えた。
その後は、演歌歌手・晴山さおりではなく浜崎章子のまま、2005年頃まで有限会社オフィス・ホッパーズに所属し、ライブハウスでステージボーカリストとして活動していた。
2006年以降は活動実績が無く、事実上の引退状態となっている。
ディスコグラフィー
[編集]シングル
[編集]- 「一円玉の旅がらす」(1990年3月21日 NHKみんなのうた オリコン15位)
- 「出世音頭だよ!」(1991年3月21日 NHKみんなのうた オリコン39位)
- 「アシカがよろしく」(1991年9月21日 足利銀行CMソング)
- 「一円玉の九九の歌」(1992年2月21日 田中星児の「ラップ九九」のカップリング)
- 「ヴェジタブル・マイ・ラヴ」(1992年4月21日 サラダ十勇士トマトマン主題歌 津田義彦作詞・大谷明裕作曲)
- 作詞:津田義彦/作曲:大谷明裕/編曲:伊戸のりお C/W 「サラダ十勇士トマトマン」
- 「何度も何度も」(浜崎章子名義 1995年5月21日 山田邦子のしあわせにしてよエンディングテーマ)
- 「夢のありか」(浜崎章子名義 1995年9月6日 最大公約ショー主題歌)
- 作詞:秋元康/作曲:浜崎章子/編曲:西本明
アルバム
[編集]- 「一円玉の旅がらす〜晴山さおりの一番搾り」(1990年10月10日)
- 「晴山さおりミニ・アルバム 一円玉の旅がらす〜おどるポンポコリン」(1990年12月16日)
- 「Day by day is getting better~今日よりも明日は…~」(1995年6月21日)
非売品シングル
[編集]- 一円玉の九九の歌(『小学一年生』1991年3月号の読者プレゼントとして、シングルCDが応募者全員に頒布された)
テレビ番組
[編集]- 全日本有線放送大賞(読売テレビ)
- 一枚の写真(フジテレビ)
- みんなのうた 一円玉の旅がらす(NHK)
- みんなのうた 出世音頭だよ!(NHK)
- NHK歌謡パレード(NHK総合)
- 第24回NHK福祉大相撲(NHK総合)
- NHKのど自慢平成2年度チャンピオン大会ゲスト(NHK総合・ラジオ第1)