池田川助枩
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(池田川助松から転送)
池田川 助枩(いけだがわ すけまつ、1900年8月11日 - 1966年5月19日[1])は、富山県中新川郡立山町出身で立浪部屋に所属した力士。本名は丸山 助松(まるやま すけまつ)。身長168cm、体重101kg。最高位は西前頭4枚目[2]。得意手は左四つ、投げ、押し。
経歴
[編集]同郷の師匠である4代立浪を頼って入門。1919年5月場所に初土俵、1924年1月場所に十両昇進。1925年5月場所に入幕し、1931年10月場所限りで廃業した。仕切り前に首を振る癖があり、相撲ぶりも敢闘タイプであった。168cmの小柄な体格を力いっぱい使い、左四つからの投げ、押しを得意とした。1930年3月場所には幕尻となる西前頭15枚目で9勝2敗の好成績[2]。春秋園事件で大量の脱退力士が出る中、師匠の立浪が愛弟子の脱退を防ぐべく目を光らせていたが、池田川は「よしお前らはオレたちが電話かけるまで待っていろ」と言い残したきり同部屋の双葉山や旭川、大ノ濱を残して名古屋へ出かけ、そのまま相撲協会を脱退した[3]。
主な成績
[編集]- 通算成績:138勝159敗3休3分 勝率.465
- 幕内成績:57勝95敗1休1分 勝率.375
- 現役在位:36場所
- 幕内在位:14場所
場所別成績
[編集]春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1919年 (大正8年) |
(前相撲) | x | 新序 0–2 |
x | ||
1920年 (大正9年) |
西序ノ口15枚目 3–2 |
x | 東序二段44枚目 3–2 |
x | ||
1921年 (大正10年) |
西序二段13枚目 2–3 |
x | 東序二段16枚目 4–1 |
x | ||
1922年 (大正11年) |
西三段目33枚目 3–2 |
x | 東三段目8枚目 5–0 |
x | ||
1923年 (大正12年) |
東幕下26枚目 7–2 |
x | 東幕下6枚目 4–1 1分 |
x | ||
1924年 (大正13年) |
西十両10枚目 2–3 |
x | 西十両14枚目 4–2 |
x | ||
1925年 (大正14年) |
西十両4枚目 6–0 1分 |
x | 東前頭15枚目 5–6 |
x | ||
1926年 (大正15年) |
東前頭12枚目 3–7 1分 |
x | 西十両筆頭 5–3 |
x | ||
1927年 (昭和2年) |
東十両筆頭 8–2 |
東十両筆頭 5–4 |
東前頭10枚目 6–5 |
西前頭15枚目 4–7 |
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1928年 (昭和3年) |
西前頭4枚目 2–9 |
東前頭12枚目 7–4 |
東前頭11枚目 4–7 |
東前頭11枚目 4–7 |
||
1929年 (昭和4年) |
西前頭9枚目 3–8 |
西前頭9枚目 1–9–1 |
西前頭13枚目 4–7 |
西前頭13枚目 4–7 |
||
1930年 (昭和5年) |
西前頭15枚目 1–10 |
西前頭15枚目 9–2 |
西十両2枚目 4–7 |
西十両2枚目 4–7 |
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1931年 (昭和6年) |
東十両6枚目 4–7 |
東十両6枚目 3–8 |
東十両10枚目 5–6 |
十両10枚目 引退 0–0–11 |
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各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
[編集]- 池田川 助枩(いけだがわ すけまつ)1919年5月場所 - 1931年10月場所
参考文献
[編集]- 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文。京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709
出典
[編集]- ^ 相撲人名鑑(池田川 助枩)
- ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p25
- ^ ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ①(別冊夏季号) 68ページ
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 池田川 助枩 - 相撲レファレンス