東諸県郡
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人口24,089人、面積225.82km²、人口密度107人/km²。(2024年12月1日、推計人口)
以下の2町を含む。
郡域
[編集]1884年(明治17年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
歴史
[編集]郡発足までの沿革
[編集]知行 | 村数 | 村名 | |
---|---|---|---|
幕府領 | 西国筋郡代 | 5村 | 須志田村、森永村、本庄村、竹田村、塚原村[1] |
旗本領[2] | 4村 | 岩知野村、吉野村、嵐田村、木脇村 | |
藩領 | 薩摩鹿児島藩[3] | 1町 19村 |
穆佐郷(小山田村、下倉永村、上倉永村)、倉岡郷(糸原村、有田村)、高岡郷(高岡町[4]、田尻村、深年村、入野村、向高村、浦之名村、八代北俣村、飯田村、五町村、内山村、高浜村、八代南俣村、花見村)、綾郷(南俣村、北俣村) |
日向高鍋藩 | 2村 | 三名村、伊佐生村 |
- 慶応4年
- 明治3年(1870年) - 旗本領が日田県の管轄となる。
- 明治4年
- 明治6年(1873年)1月15日 - 全域が宮崎県(第1次)の管轄となる。
- 明治初年 - 本庄村が分割して北本庄村・十日町・六日町・南本庄村となる。(3町31村)
- 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により鹿児島県の管轄となる。
- 明治12年(1879年)2月17日 - 郡区町村編制法の鹿児島県での施行により、行政区画としての諸県郡が発足。郡役所が都城に設置。
- 明治16年(1883年)5月9日 - 宮崎県(第2次)が発足し、諸県郡のうち同県に所属する区域をもって北諸県郡が発足。
郡発足以降の沿革
[編集]- 明治22年(1889年)5月1日 - 町村制の施行により、以下の各村が発足。(7村)
- 明治30年(1897年)4月1日 - 郡制を施行。
- 大正8年(1919年)3月1日 - 本庄村が町制施行して本庄町となる。(1町6村)
- 大正9年(1920年)4月1日 - 高岡村が町制施行して高岡町となる。(2町5村)
- 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
- 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
- 昭和7年(1932年)10月1日 - 綾村が町制施行して綾町となる。(3町4村)
- 昭和23年(1948年)4月1日 - 高岡町の一部(野崎)が宮崎郡田野村に編入
- 昭和26年(1951年)3月25日 - 倉岡村が宮崎市に編入。(3町3村)
- 昭和30年(1955年)4月1日 - 高岡町・穆佐村が合併し、改めて高岡町が発足。(3町2村)
- 昭和31年(1956年)9月30日 - 本庄町・八代村が合併して国富町が発足。(3町1村)
- 昭和32年(1957年)3月31日 - 木脇村が国富町に編入。(3町)
- 平成18年(2006年)1月1日 - 高岡町が宮崎市に編入。(2町)
変遷表
[編集]自治体の変遷
行政
[編集]- 歴代郡長
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 明治17年(1884年)1月26日 | |||
大正15年(1926年)6月30日 | 郡役所廃止により、廃官 |
方言
[編集]現在の東諸県地域の大部分は薩摩藩領であったが、宮崎弁が話されている。これは、倉岡郷・高岡郷・穆佐郷・綾郷は「関外四郷」と呼ばれ、去川関所の外側であったことから他の地域との交流が容易であったためである。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 45 宮崎県、角川書店、1986年9月1日。ISBN 4040014502。
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
[編集]先代 北諸県郡 |
行政区の変遷 1884年 - |
次代 (現存) |