東村 (岐阜県)
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ひがしむら 東村 | |
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岩屋岩蔭遺跡(妙見神社) | |
廃止日 | 1955年3月1日 |
廃止理由 |
合併 東村、武儀郡金山町・菅田町、益田郡下原村 → 益田郡金山町 |
現在の自治体 | 下呂市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 岐阜県 |
郡 | 郡上郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 97.00 km2. |
総人口 |
4,229人 (1955年) |
東村役場 | |
所在地 | 岐阜県郡上郡東村岩瀬781-4 |
座標 | 北緯35度43分07秒 東経137度08分09秒 / 北緯35.71858度 東経137.13581度座標: 北緯35度43分07秒 東経137度08分09秒 / 北緯35.71858度 東経137.13581度 |
ウィキプロジェクト |
東村(ひがしむら)は、かつて岐阜県郡上郡に存在した村である。1955年(昭和30年)に合併で金山町となった後、現在は下呂市の一部である。かつての金山町の北西部に位置する。飛騨川支流の馬瀬川上流の村である。
村名は、郡上郡東部に位置することに由来する。
歴史
[編集]近代以前
- 縄文時代の遺跡が、東沓部・祖師野・八坂・乙原・卯野原・卯野原新田・細越・弓掛地内から発見されており、人々の生活があったと考えられる。
- 855年(斉衡2年)郡上郡が武儀郡より分かれて成立する。郡上郡四郷の中に和良郷があり、この地域も含まれていたと考えられる[1]。
- 1338年(建武5年)土岐国衡の玄孫気良氏の領地と見え、気良庄下之保となる。
- 戦国時代 遠藤慶隆の領地となる。
- 1646年(正保3年)郡上藩主遠藤常友が弟の大助常昭に2000石、金兵衛常紀に1000石を分地する。東では前者に、中原・相原・八坂・岩屋・広瀬・弓掛・沓部の各村が属し、後者には乙原・戸川・祖師野の各村が属することとなる[2]。
- 1693年(元禄6年)郡上藩主井上正任の子、正岑が継いだ際、和良3000石を弟の正長に分地する。東では卯野原村が属することとなる。
- 1712年(正徳2年)井上正長が常陸国下妻藩に転封し、卯野原村は幕府領となる。
近代以降
- 江戸時代末期は、『金山町誌』によると弓掛村、岩屋村、八坂村、相原村、中原村、広瀬村、東沓部村、西沓部村は、旗本遠藤新六郎2000石知行地であり、乙原村、祖師野村、戸川村は旗本遠藤鎮之助1000石知行地であった。卯野原村は幕府領として美濃郡代の支配下だった[3]。
- 1869年(明治2年) 大政奉還により笠松県役所の支配下となる。
- 1871年(明治4年)笠松県が岐阜県に改称。
- 1897年(明治30年)弓掛村、卯野原村、乙原村、岩瀬村、祖師野村、戸部村、東沓部村が合併し東村となる。
- 1955年(昭和30年)武儀郡金山町・菅田町、益田郡下原村と合併し、益田郡金山町が発足。同日東村廃止。
学校
[編集]- 東村立東第一小学校(後の下呂市立東第一小学校。2021年3月に閉校)
- 東村立東第二小学校(1971年廃校)
- 弓掛分校(1971年金山町立東第一小学校弓掛分校となり1972年廃校)
- 東村立東中学校(1970年に統合により廃校)
- 東村立東第二中学校(1970年に統合により廃校。)