村上義雄
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村上 義雄(むらかみ よしお、旧姓:平塚、1845年6月18日(弘化2年5月14日) - 1919年(大正8年)6月12日)は、日本の内務官僚。肥後国(現熊本県)出身。
経歴
[編集]熊本藩士・平塚孫四郎の二男として生まれ、同藩士・村上壺溪の養子となる。1874年(明治7年)、東京府十等出仕となる。1882年(明治15年)、参事院議官補に転じ、以後、高知県大書記官、内務省書記官、県治局次長、長野県・広島県の各書記官、新潟県内務部長などを歴任。
1893年(明治26年)から1896年(明治29年)まで徳島県知事を務める。同年8月、台湾総督府に転じ、台中県知事に就任。1898年(明治31年)5月、新竹県知事兼台北県知事となり、1901年(明治34年)1月に台北県が廃止されるまで務めた。
1902年(明治35年)から1910年(明治43年)まで石川県知事に在任。1910年12月3日、錦鶏間祗候に任じられた[1]。1917年1月22日、官幣大社生國魂神社宮司に就任し、錦鶏間祗候は消滅した[2]。その後、八千代生命保険監査役を務めた。
栄典
[編集]- 位階
- 1892年(明治25年)4月18日 - 従五位[3]
- 1893年(明治26年)4月11日 - 正五位[4]
- 1901年(明治34年)12月26日 - 正四位[5]
- 1907年(明治40年)6月21日 - 従三位[6]
- 勲章等
- 1893年(明治26年)12月28日 - 勲五等瑞宝章[7]
- 1899年(明治32年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[8]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[9]・明治三十七八年従軍記章[10]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 岡本真希子『植民地官僚の政治史 - 朝鮮・台湾総督府と帝国日本』三元社、2008年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。