コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

三木申三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三木 申三
みき しんぞう
生年月日 (1928-10-04) 1928年10月4日
出生地 日本の旗 徳島県麻植郡山川町
(現・吉野川市山川町)
没年月日 (2010-10-26) 2010年10月26日(82歳没)
出身校 徳島医科大学
(現・徳島大学医学部
所属政党自由民主党→)
無所属→)
自由民主党
称号 勲二等瑞宝章(1998年)
子女 息子・三木亨(元参議院議員)

徳島県の旗 公選第54-56代 徳島県知事
当選回数 3回
在任期間 1981年10月5日 - 1993年10月4日

当選回数 3回
在任期間 1967年 - 1977年
テンプレートを表示

三木 申三(みき しんぞう、1928年10月4日 - 2010年10月26日)は、日本医師政治家徳島県知事(3期)、徳島県議会議員(3期)を歴任した。

来歴

[編集]

徳島県麻植郡山川町(現在の吉野川市山川町)出身。旧制徳島県立麻植中学校(現在の徳島県立川島高等学校)を経て、1954年徳島医科大学(現在の徳島大学医学部)を卒業。三菱鉱業大夕張炭鉱病院で勤務医を務めた後、郷里の山川町で医院を開業した。

1967年徳島県議会議員に初当選し、以来連続3期当選した。1977年知事選に出馬するが惜敗。1981年知事選で雪辱を果たした。1981年10月9日から1993年10月4日まで3期12年間知事を務め、明石海峡大橋の工事計画や橘湾石炭火力発電所の稼働など多くの実績を残した。また1987年に「21世紀へ鼓動 ‐徳島新時代へ向けて」という本も出版している。1993年以降再び医院の院長を務めた。1994年1996年徳島大学医学部教授も兼職した。

1996年第41回衆議院議員総選挙において、徳島3区から自由民主党公認で立候補したが、新進党公認の岩浅嘉仁に敗れた[1]。1998年、勲二等瑞宝章受章[2]

2010年10月26日、肺癌のため徳島市内の病院で死去。82歳没[3]

人物

[編集]

徳島で三木派と激しい選挙戦(阿波戦争)を行った後藤田正晴を支援した。初めての国政選挙で敗北した後藤田に、戦いぶりがあまりにも官僚そのものであったと進言し、「三木さん、誰もそんなことを言ってくれなかったからねぇ、自分では気がつかなかったよ。よく言ってくれた、以後気をつけるよ、ありがとう」と感謝された[4]

著書

[編集]

『21世紀への鼓動 徳島新時代へ向けて』阿波研究会、1987年

脚注

[編集]
  1. ^ 以上につき『新訂 現代政治家人名事典 : 中央・地方の政治家4000人』日外アソシエーツ、2005年、510頁。
  2. ^ 「98年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、及び外国人の受章者一覧」『読売新聞』1996年11月3日朝刊
  3. ^ 三木申三氏死去(元徳島県知事)時事通信 2010年10月26日
  4. ^ 『私の後藤田正晴』編纂委員会, ed (2007). 私の後藤田正晴. 講談社. pp. 274-275 

関連項目

[編集]
公職
先代
武市恭信
徳島県の旗 徳島県知事
第54-56代:1981年 - 1993年
次代
圓藤寿穂