星甲実義
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(星甲實義から転送)
星甲 實義(ほしかぶと さねよし、1902年7月21日 - 1944年9月23日)は、鹿児島県鹿児島市出身で井筒部屋に所属した元大相撲力士。本名は中尾 實義(なかお さねよし)。身長176cm、体重116kg。最高位は東前頭2枚目。
来歴
[編集]1918年5月、井筒部屋から初土俵をふむ。突き押しが得意で、1925年5月場所に新十両、1926年5月場所には7勝土付かずの好成績をあげて、1927年1月、東西合同の場所に新入幕を果たした。
1927年5月場所には新大関の常陸岩を初日に破るなど、しばしば殊勲の星をあげたり、1928年5月場所にはまたも常陸岩を破り、終盤まで1敗で全勝の横綱常ノ花を追走し、10日目(当時は11日制である)の直接対決で敗れるまで優勝争いにからむなど活躍をみせたが、1929年1月場所、常陸岩との対戦で負傷し、それがたたってその後は満足な相撲もとれず、師匠の死もあって1931年3月場所限りで28歳で引退、すぐに井筒部屋を継承した[1]。
師匠としては、幕内鶴ヶ嶺道芳、小松山貞造たちを育て、井筒部屋を中堅部屋としてもりたて[2]、途中で浅香山部屋から源氏山祐蔵を引き取った。また、それまで属していた高砂一門から双葉山相撲道場の一門(現在の時津風一門)に転属した。1944年、42歳で急死。力士たちは双葉山道場に引き取られた[1]。
主な成績
[編集]- 通算成績:120勝96敗3預65休 勝率.556
- 幕内成績:67勝66敗65休 勝率.504
- 現役在位:34場所
- 幕内在位:18場所
- 各段優勝
- 十両優勝:1回(1926年5月場所)
- 三段目優勝:1回(1922年5月場所)
場所別成績
[編集]春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1918年 (大正7年) |
x | x | (前相撲) | x | ||
1919年 (大正8年) |
(前相撲) | x | 東序ノ口28枚目 1–4 |
x | ||
1920年 (大正9年) |
東序ノ口12枚目 3–1 1預 |
x | 東序二段34枚目 2–3 |
x | ||
1921年 (大正10年) |
東序二段37枚目 4–1 |
x | 東三段目47枚目 2–3 |
x | ||
1922年 (大正11年) |
西三段目52枚目 4–1 |
x | 東三段目6枚目 優勝 5–0 |
x | ||
1923年 (大正12年) |
東幕下25枚目 5–4 |
x | 西幕下24枚目 4–2 |
x | ||
1924年 (大正13年) |
西幕下5枚目 1–4 |
x | 西幕下18枚目 3–2 1預 |
x | ||
1925年 (大正14年) |
西幕下9枚目 4–1 1預 |
x | 西十両11枚目 3–3 |
x | ||
1926年 (大正15年) |
西十両13枚目 5–1 |
x | 西十両5枚目 優勝 7–0 |
x | ||
1927年 (昭和2年) |
東前頭14枚目 8–3 |
東前頭14枚目 6–5 |
東前頭5枚目 2–6–3[3] |
西前頭8枚目 8–3 |
||
1928年 (昭和3年) |
西前頭8枚目 6–5 |
東前頭2枚目 5–6 |
東前頭9枚目 9–2 |
東前頭9枚目 4–7 |
||
1929年 (昭和4年) |
西前頭2枚目 0–5–6[4] |
西前頭2枚目 0–0–11[5] |
西前頭11枚目 2–5–4[6] |
西前頭11枚目 6–5 |
||
1930年 (昭和5年) |
西前頭9枚目 6–5 |
西前頭9枚目 5–6 |
西前頭6枚目 0–0–11 |
西前頭6枚目 0–0–11 |
||
1931年 (昭和6年) |
東前頭15枚目 0–3–8[7] |
東前頭15枚目 引退 0–0–11 |
x | x | ||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
脚注
[編集]- ^ a b ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p69
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p37
- ^ 腹痛より3日目から途中休場、6日目から再出場
- ^ 左膝関節亀裂骨傷により5日目から途中休場
- ^ 左膝関節亀裂骨傷により初日から全休
- ^ 左膝関節脱臼により初日から休場、5日目から再出場
- ^ 左肘関節及び右膝関節負傷により3日目から途中休場