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明治大学雄辯部

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明治大学雄辯部(めいじだいがくゆうべんぶ)は、1890年設立の[要検証][1]明治大学弁論部である。大学弁論部としては全国屈指の規模であり[2]、元内閣総理大臣三木武夫を筆頭に多くの政治家を輩出している。

概要

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明治大学雄辯部は、明治大学駿河台校舎に本部を置き、和泉校舎・生田校舎に支部を置く、人文・社会グループに属する明治大学公認サークルである。部員数は百名を超え、大学弁論部としては全国屈指の規模を誇り、弁論、研究、勉強会などの活動を主に行い、紫紺杯争奪全国学生雄辯大会を主催している。

歴史

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明治大学雄辯部(以下、明大雄辯部)は、明治23年8月、明治法律学校(現・明治大学)の創立者の一人であり、当時校長を務めていた岸本辰雄を顧問として結成された。当時は自由民権運動の勃興を受けて演説会が盛んに行われており、明大雄辯部も演説会への参加を中心とした活動を行っていた[要出典]

明大雄辯部が最初の盛り上がりを見せたのは、足尾銅山鉱毒事件を契機に開かれた演説会からである。明治34年12月、田中正造衆院議員の天皇直訴事件を発端に、鉱毒問題をめぐる世論が沸騰し、それに伴い、明大雄辯部も路傍演説会を多く実施。足尾銅山鉱毒被害者を救済せんとする学生運動は大いに賑わい、その名を知らしめることとなった[要出典]

演説会場としても使用された記念館(2代目)
植原・笹川事件

同年10月27日に当時学生だった一松定吉[3]らの働きかけにより第1期擬国会(帝国議会を模倣した模擬国会)を主催し、刑法改正法案、台湾富籤法案、外国移民制限法案を審議した。擬国会は学生が訓練や政治の議を行うにあたり最適な場としてその後16期に亘って「明治帝国議会」という名称で開かれ、盛況した[4]

明治大学では1903年(明治36年)に雄辯会が発足し、岸本辰雄が顧問、鵜沢総明が会長、江間俊一が名誉会員に就任した[5]。この雄辯会は会員の卒業と同時に中絶状態となったが1908年(明治41年)に復活した。同年11月に作成された会則により月2回の例会と年2回の大会を行うこととされ、江間俊一が会長に就任した[6][7]。第二期雄辯会は地方遊説や連合演説会への参加などを通じて徐々に知名度を高め、1916年(大正5年)頃に一つの黄金期を迎えた[8]

その後雄辯会は雄辯部と改称し、会長は江間俊一から植原悦二郎に交代した。この時期に雄辯部内で社会主義論が台頭したが、これをよしとしない鍛冶良作らは「桜桂会」というグループを結成して雄辯部に対抗した[9]

1920年(大正9年)から翌年にかけて「植原・笹川事件」と呼ばれる学校騒動が起こり、雄辯部に所属していた高橋義臣(のちの政治経済学部教授)らは退学処分を受けた[10]。これ以後雄辯部の活動は低調となり、大正後期に社会問題化した軍事教練反対運動でも存在感を示せなかった[11]

さらに関東大震災による校舎焼失、小平移転の是非をめぐる学内混乱、入学志願者の減少、就職難などが重なり、明治大学に対する社会的評価は著しく下落した[12]

学校騒動といえばまた明大かということで多くの学生は世間狭しという感じで、制帽をかぶるのをやめて、ソフトとか鳥打帽に代えるものもあった。それで一時は私も他の大学への転校を真剣に考えたものだった。 — 宮森和夫、『明治大学百年の顔』 明治大学雄辯部、1977年、71頁

昭和初期の明大では「授業料・学生問題同盟休校事件」(1930年)、「職員・消費組合・学生自治問題事件」(1931年)、「授業料・教育条件問題同盟休校事件」(1932年)などといった不祥事が多発したが[13]、雄辯部はこれらの事件にも関与した[14]

1929年、雄辯部在籍中の三木武夫

活気を帯びた明大雄辯部は、昭和に入り発展期を迎え、雄弁大会や遊説など、さらに活動の場を広げていき、昭和4年には、三木武夫(後の内閣総理大臣)・長尾新九郎(後の徳島市長)が関東43大学弁論部の後援を得て、世界平和と国際親善を目的に米国・欧州への世界遊説を敢行。欧米以外にも、日華の親善を掲げ中華民国における遊説を実施するなど、海外進出の壮挙を果たした[要出典]

1933年(昭和8年)、京大滝川事件をきっかけとして大学自由擁護連盟が結成された。同年7月1日に帝大仏教青年会館で行われた結成大会には全国12校から30名、オブザーバー100名が参集し、東北帝大生遠山景弘が議長、明大生中村勝正が副議長に就任した[15]。中村は雄辯部幹事でもあったが、同年末に起きた「予科施設・学生自治・授業料問題同盟休校事件」で中心指導者を務めたため翌年1月に除籍処分を受けた[16]。この時期の雄辯部には水面下で左翼非合法活動に従事する者もおり、先述の大学自由擁護連盟結成大会に出席していた明大生12名のうち雄辯部員2名は共産青年同盟明大班の再建を企てたため1933年10月-11月に検挙された[17]

その後太平洋戦争中の閉塞期を経て、戦後から現在に亘り、数多くの弁論大会への参加や、有名政治家を招いたシンポジウムや講演会の開催等、様々な形で社会への訴えかけを続けている。このように、120年を越える長い歴史の中で、三木武夫第66第内閣総理大臣や大野伴睦第42・43代衆議院議長、今なお日本国憲法にその名が刻まれている一松定吉第50代逓信大臣[3]など、政界、財界をはじめ各分野において活躍する卒部生は800名を超える。

定期講演会

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各界の著名人を招聘した定期講演会が開催されることで知られる。近年の主な登壇者は以下のとおり。

主な出身者

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国会議員

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ホワイトハウスフォード大統領と会談する三木武夫(1975年)
村山改造内閣国務大臣任命式後の記念撮影(1995年)

地方自治体首長

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地方議会議員

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  • 国松誠(神奈川県議会議員)
  • 大関衛(元秋田県議会議員)
  • 寺崎雄介(神奈川県議会議員)
  • 大渕健(新潟県議会議員)
  • 五領和男(元鹿児島県議会議員)
  • 飯倉一樹(朝霞市議会議員)

学会・教育界

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その他

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脚注

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  1. ^ 『明治大学百年史』によれば正式な創部年は1903年である(第三巻 通史編Ⅰ、578頁)。
  2. ^ 知られざるエリートサークル「大学弁論部」を大解剖!100年超の秘史と政財官に根付く人脈(ダイヤモンド・オンライン)
  3. ^ a b 一松定吉の自伝には雄辯部に所属したとの記述はない(一松定吉 『風雪九十年 前編』を参照)。
  4. ^ 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、584-586頁
  5. ^ 明治法学会 『明治法学 第63号』 1903年11月、90-91頁
  6. ^ 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、578-580頁
  7. ^ 明治学会 『明治学報 第132号』 1908年12月、77-78頁
  8. ^ 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、580-584頁
  9. ^ 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、781頁
  10. ^ 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、769-771頁
  11. ^ 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、789-790頁
  12. ^ 『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、1-6頁
  13. ^ 『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、6頁
  14. ^ 『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、188頁
  15. ^ 明石博隆・松浦総三 『昭和特高弾圧史 1 知識人にたいする弾圧 上』 太平出版社、1975年、77頁
  16. ^ 『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、199頁
  17. ^ 『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、190-200頁
  18. ^ No415 重信房子「1960年代と私」第3回(大学時代ー1965年)

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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