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日本とポルトガルの関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日葡関係から転送)
日本とポルトガルの関係
JapanとPortugalの位置を示した地図

日本

ポルトガル

日本とポルトガルの関係ポルトガル語: Relações entre Japão e Portugal英語: Japan–Portugal relations)では、日本ポルトガルの関係について概説する。なお、1581年から1640年まで、スペイン王ポルトガル王を兼ねている(ポルトガルの歴史参照)が、ポルトガルの統治機構などは維持されているため、本稿ではその時期も含めて記述する。

歴史

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鎖国まで

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天正遣欧少年使節の来訪を伝える印刷物、1586年(京都大学図書館蔵)
朱印船(狩野内膳画の南蛮屏風より)

大航海時代以後ポルトガルは積極的な海外進出とブラジル経営を中心として国力を伸長させ、16世紀初めには東南アジアへ進出し、日本近海へも活動域を広げ始めていた。1541年7月27日、ポルトガル船(あるいは明船)が豊後国神宮寺浦に漂着した[1][2][3]のが日本へのポルトガル人の最初の上陸であったとされている(発見のモニュメント)。そして1543年種子島へポルトガル商人が漂着し、鉄砲伝来が起こる。ポルトガルは当時、アジア地域へ植民地および貿易相手国を求め進出を行っており、日本との接触ののち通商を求める商人の動きが活発化した。また、貿易はキリスト教布教を伴って行われるものとの戦略があり[4]、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行っている。その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始され、1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開していった[5]。ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に流入していった一方、日本からは銀などがポルトガルへ流出した。同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。

1603年には、『日葡辞書』がイエズス会によって長崎で発行された[6]。4年以上の歳月をかけて編纂され、中世日本語ポルトガル語を研究するうえでの貴重な資料となっている。

日本布教区布教長[7]
  1. フランシスコ・ザビエル1549年 - 1551年
  2. コスメ・デ・トーレス(1551年 - 1570年
  3. フランシスコ・カブラル1571年 - 1580年
日本司教[8]
  1. セバスティアン・モラーレス1588年 - 1593年
  2. ペドロ・マルティンス(1593年 - 1598年
  3. ルイス・セルケイラ(1598年 - 1614年

しかし1587年には豊臣秀吉によってバテレン追放令が出され、ポルトガルに宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書が手渡された。江戸時代に入っても徳川家康によってこの政策は踏襲されている(1614年のキリスト教禁止令)。家康の晩年には、ポルトガル人の寄港地は平戸と長崎に制限された。1620年には平山常陳事件が起き、幕府のキリスト教に対する不信感は決定的なものとなった。幕府は、当時ポルトガルと同君連合にあったスペインとの関係を断ち切り、マカオに対して宣教師を乗船させないように要求した。

しかしそれでも宣教師は日本人への布教をあきらめなかった。日本とスペイン、ポルトガルの主権が及ばない東南アジア日本町へ渡航して日本人への布教を行い、朱印船を利用してキリシタンを日本に送り込む方針をとった。中には商人や船乗りに変装し、朱印船を利用して日本に侵入する宣教師もいた。この状況を重く見た幕府は、徳川家光の親政が始まったのち、1633年から1636年にかけて、朱印船貿易やヨーロッパ諸国、中国人との貿易の管理・統制を担っていた長崎奉行を2人の旗本から任命し、新しい奉行がポルトガル船の来航する時期に合わせて長崎に赴任する際に、奉行の職務に関する通達(「鎖国令」)を発布し、禁教と国際紛争の回避を徹底させようとした。1635年の通達(「第3次鎖国令」)では、日本人の東南アジアおよび日本町への渡航が全面的に禁止され、1636年の通達(「第4次鎖国令」)では、貿易に関係のないポルトガル人およびその家族がマカオへ追放され、他のポルトガル人も長崎の出島に隔離された。

出島を建設した時点では、幕府はポルトガルの追放を考えていなかった。しかし1637年島原の乱が起こると、キリスト教徒の結束を恐れた幕府は布教を行う可能性のあるポルトガルとの貿易を取りやめることとし、1638年にマカオから江戸に派遣されたカピタン・モールの将軍への謁見を拒否した。しかし現実には、マカオからもたらされる中国産の生糸や絹織物などに大きく依存していたために、幕府はポルトガルとの貿易の途絶をためらった。

しかし、1639年に幕府はオランダ商館長フランソワ・カロンから聞き取りを行い、当時オランダが統治していた台湾経由で中国産の生糸や絹織物を輸入できることを確認した。そのためポルトガルとの貿易を途絶しても支障がないことを確認した幕府は、同年に長崎奉行や九州地方の大名などに、ポルトガル船の入港の禁止や沿岸警備体制の構築を目的とした通達(「第5次鎖国令」)を発布し、ポルトガルとの関係を断絶した。1640年にはマカオから日本へ貿易再開を嘆願する使節が派遣されたが、全員捕えられ処刑されている。

鎖国」中は日本とポルトガルは直接的な接触を行うことは無かったが、東南アジア各地に残された日本人町ではポルトガル人との交易も暫くの間続いた。また、オランダ風説書などのオランダ人によってもたらされた情報によってポルトガルとスペインの動向はある程度江戸幕府も把握しており、英国船リターン号1673年に貿易再開を求めて来航した際には、事前に英国王がポルトガル女王と結婚した事実なども把握していた。

ポルトガルによる日本人奴隷貿易

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16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[9]ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[10][注 2][注 3][注 4]

1543年にポルトガル人が日本に初上陸した当初から、奴隷貿易は始まっていたと見られている。ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で日本人は奴隷として売りつけられ、それは大規模な奴隷交易へと発展した[信頼性要検証][注 3][注 6][注 7]ポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷の記録が残されているが[31]、具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている[注 8]

日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、永代人身売買をやめさせて契約期間を定めた年季奉公人とするように働きかけが行われた[33][34][注 9]。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた短期所有者証明書(schedulae)[39]に署名をすることで、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改善するよう介入したとされている[33][40]。マテウス・デ・クウロス等の宣教師らによって、こうした人道的介入であっても関与自体が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、宣教師の人道的な関与についても禁じられた[41][注 10]

龍谷大学教授であった池本幸三によると、天正10年(1582年)ローマに派遣された天正遣欧少年使節団は、モザンビークや欧州など世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃し衝撃を受けている。豊臣秀吉の言を伝える『九州御動座記』には、「バテレン(キリシタン)どもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である」との記述を引用した[50]。池本幸三は同座記には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等であったと主張していた[50][信頼性要検証]

龍谷大学教授であった池本幸三の主張によると日本人の奴隷は黒人奴隷との境遇と同じであったしているが、黒人奴隷の生活は、多くの点で白人の下層階級の生活と似ていた。白人と同じ服装、食事、仕事をし、同じ言葉を話し始め、ファーストネームで呼び合う等、ほとんどの奴隷は自分たちの状況に納得していたようである。しかし彼らは同じ法律、宗教、道徳の規範に従うことを期待されていた[51]。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷(年季奉公人を含む)は洗礼を拒否することができた。洗礼は社会的包摂の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と教会法の管轄に服し保護をうけることができた[52][53]

ポルトガルでは残酷な行為は非常にまれであり、全体として公平に扱われていた。そのため、黒人奴隷が主人のもとから逃げ出すことはほとんどなかったと考えられている。ポルトガルにおける奴隷制度は、同化のしやすさや衣食住を含めた公平な待遇をうけ、また多くの黒人奴隷は、長年の忠実な奉仕と引き換えに自由を手に入れることができたが、外部からの雇用で得た賃金の一部で自由を購入する法的権利を行使することが一般的であった[54]

ポルトガルの奴隷制度では、奴隷は時には粗末に扱われることもあったが、ほとんどの場合、奴隷は公平に扱われ、多くの場合、自由民よりも良い扱いを受けていた。奴隷はカトリックに改宗し、言葉を覚え、クリスチャン・ネームを名乗ることによって、すぐにポルトガル社会の一員となった[55]。ポルトガルには多くの黒人奴隷がいたが、彼らの経済的役割は非常に小さく、反社会的団体に組織されてプランテーションで働くということはほとんどなかった[55]。最新の研究ではアジア人奴隷は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある[48][49]

マカオではほとんどの奴隷はアフリカ出身であり、アジア出身の奴隷も少数いたとされる[56][57]

開国後

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マシュー・ペリー黒船来航によって1854年日米和親条約1858年安政五カ国条約が結ばれ日本が開国すると、1860年8月3日にポルトガルも日本と日本国葡萄呀国修好通商条約を調印し、215年ぶりに通商が再開されるとともに、正式な外交関係が結ばれることとなった。この時期にはポルトガルはかつてのアジア植民地を既に大部分失っており、アジアでの経済・貿易活動は専らマカオとポルトガル領ティモールを中心に行われるようになった。

第一次世界大戦では、日本とポルトガルは連合国陣営としてともに参戦している。1922年ワシントン会議には日葡両国を含めた9カ国が出席し、ともに九カ国条約を批准した。

第二次世界大戦が始まるとポルトガルは中立を宣言したが、日本軍にティモール島を占領され、自国への攻撃拠点となることを恐れたオーストラリア、及び周辺の権益(オランダ領東インド)を保有するオランダによってポルトガル領ティモールは保障占領される。一方香港やオランダ領東インドを占領した日本軍は、当初は中立を謳ったポルトガル領には侵攻しなかったが、ポルトガル政府の黙認の元1942年には日本軍がティモール島全島を掌握し、終戦までの3年間日本による支配が行われた。この間外交関係は一時途絶している。

戦後

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1952年に日本はサンフランシスコ平和条約発行により主権を回復し、翌1953年に日本とポルトガルは外交関係を回復した。同年にポルトガルが日本(東京)に、1954年には日本がポルトガル(リスボン)に公使館を設置した。以後、ポルトガルはアントニオ・サラザール独裁体制(エスタド・ノヴォ)からカーネーション革命を経て民主化と欧州共同体(EC)加盟[58]へと大きく変化し、マカオ返還や東ティモール独立などでアジアでの領土もすべて失ったが、日本との友好関係は安定している。

1993年にはポルトガル人種子島来航(鉄砲伝来)450周年記念行事が行われてマリオ・ソアレス大統領が日本を訪問し、2010年には19世紀以来の両国修好150周年を記念してポルトガル映画祭などが開催された。

経済関係

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16-17世紀と異なり、現在の両国関係が互いの政治状況に与える影響は小さく、経済関係も比較的小規模である。2010年のドル建て貿易額は日本からの輸出が4億7985万8000ドル、ポルトガルからの輸出が2億7063万5000ドルで、日本側の大幅な輸出超過であるが、対ポルトガル輸出が日本の全輸出額に占める割合は0.06%に過ぎず、日本の輸入に占めるポルトガルからの輸出は0.04%である。EU加盟27カ国に絞っても、ポルトガルは日本にとって輸出額で18番、輸入額で19番目の相手国に留まっている[59]。ポルトガルの全輸出入に占める対日貿易のシェアは2009年で約0.5-0.6%で[60]、EU域内の貿易が輸出入とも全体の約74%を占める中での対日貿易の寄与は小さい。日本からの輸出は乗用・貨物自動車や自動車部品、電気機器のシェアが高く、ポルトガルからは乗用自動車や衣料品、加工トマト、コルクなどが主に輸出される。特に天然コルクは日本で高いシェアを持っている[61]

その中、日産自動車が2011年2月に電気自動車用のリチウムイオン電池生産工場をポルトガルのアヴェイロで着工した。これはルノートランスミッション組立工場の敷地内に置かれ、2012年12月からの生産を予定しており、欧州日産自動車が約175億円を投資する大型商談となっている[62]

文化交流

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日本の鎖国以後両国の経済関係は小さくなったが、文化、学術面では比較的大きなつながりが特に日本国内にある。ポルトガルは日本と最初に直接交渉を持ったヨーロッパの国家で、当時に移入された文物はボタンタバコ和菓子など、今でもポルトガル語起源の名前で呼ばれ日本社会に定着している。学術面でも、イエズス会宣教師のルイス・フロイスは『ヨーロッパ文化と日本文化』、『フロイス日本史』など、戦国時代の日本を窺い知ることができる貴重な記録を残している。その他に特筆されるべき人物として、江戸時代の鎖国を経た19世紀の日本開国後、1899年から1929年まで日本で暮らし、徳島で没した外交官のヴェンセスラウ・デ・モラエスは多くの日本、及び日本人に関する随筆を残している。山口県の一部(周南市など)には、煙草谷(たばこだに)というポルトガル語起源の名字が存在する。

また、ポルトガルの旧植民地で現在でもポルトガル語公用語とするブラジルにも19世紀末から多くの日本人移民が渡り、1980年代からその子孫である日系ブラジル人が日本の製造業工場に労働者として渡った事から、日本人がポルトガル語と接する機会は増えた。1993年に発足した日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)には多くのブラジル人選手が参加し[63]ボランチなどのサッカー用語も日本に定着した。他にも音楽や格闘技などでブラジルやポルトガルの文化が日本に紹介され、ファドは日本にも愛好者がいる。なお、ブラジルポルトガル語とポルトガル本国の言語(イベリアポルトガル語)は発音や語彙の違いが指摘され、日本で教えられるポルトガル語の多くはブラジル系であるが、意思疎通自体には概ね問題はないため、ポルトガル人にも通じる。

年表

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外交使節

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駐ポルトガル日本大使・公使

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駐日ポルトガル大使館

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駐日ポルトガル大使

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脚注

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注釈

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  1. ^ ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[16]
  2. ^ a b イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[11]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[10]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[12][13][14]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[15][注 1]
  3. ^ a b 伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[17][注 5]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注 4]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷からゆきさん)として売る商行為は近代まで続いた[21][22]
  4. ^ a b 江戸幕府が豊臣秀吉遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)ごろに作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[19][20]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、本人の意志に関係なく性的サービスの提供の強要が横行した(性的奴隷)。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発だった[21]
  5. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [18]のだという。
  6. ^ デ・サンデ天正遣欧使節記』や『九州御動座記』は歴史学の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[23]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[24]
    日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235

    デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[24]

    また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235

    デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[24]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[23]

  7. ^ 豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。
    牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。

    ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[25]、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている[26]。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[27]。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。

    司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[28]

    さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[29]仏教説話集『沙石集』には生き肝をとする説話があり[30]仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダ等による西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。

  8. ^ 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、宣教師によって記述された情報はポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動[32]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる[注 2]
  9. ^ 江戸時代前期の年季奉公の主流は奴婢下人の系統を引くもので、奉公人は人身売買の対象となった。江戸幕府は法律上は営利的な人の売買を禁止したが、それは主として営利的な人の取引に関したもので、実際においては父や兄が子弟を売ることは珍らしくなく、また人の年季貫は非合法でなかった[35]。主人と奉公人との間には、司法上ならびに刑法上の保護と忠誠の関係があるべきものとされた。奉公人は主人を訴えることが許されず、封建的主従関係であったという[36]江戸時代に入り雇用契約制度である年季奉公が一般に普及しはじめると譜代下人(または譜代奉公人)としての男性の売買は江戸時代中期(十七世紀末)にはほとんど見られなくなった。しかし遊女飯盛女の年季奉公ではいくつかの点で人身売買的な要素が温存された[37]
    1. 家長権を人主から雇い主へ委譲
    2. 転売の自由
    3. 身請け・縁付けの権利を雇い主に委譲
    4. 死亡後の処置も雇い主へ一任
    中田薫 (法学者)は「奴婢所有権の作用にも比すべき、他人の人格に干渉し、其人格的法益を処分する人法的支配を、雇主の手に委譲して居る点に於て、此奉公契約が其本源たる人身売買の特質を充分に保存する」[38]として「身売的年季奉公契約」と名付けた[37]
  10. ^ 中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが[42]、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する年季奉公人が記録されている[43]。日本人の年季奉公制度(期限奴隷制度)では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという[44]。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した[45]。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという[44]。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある[46]。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民奴隷の区別をいっそう困難にしていた[47]。最新の研究ではアジア人奴隷(または年季奉公人)は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある[48][49]

出典

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  1. ^ 別府歴史年表”. 別府歴史資料デジタルアーカイブ. 安部 浩之. 2018年12月7日閲覧。
  2. ^ カボチャの伝来と大分県との関わりについて”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2018年12月7日閲覧。
  3. ^ 大友宗麟とカボチャ渡来について知りたい。”. 大分県立図書館. 大分県立図書館. 2018年12月7日閲覧。
  4. ^ トルデシリャス条約で明確に決定されている。
  5. ^ 九州はキリスト教徒の普及が全国で最も進み、キリシタン大名なども存在するため、貿易・布教活動のし易い環境にあった。
  6. ^ 土井忠生; 森田武, 長南実(編訳) (1980年). “邦訳日葡辞書”. 岩波書店. 2016年8月17日閲覧。
  7. ^ 全員ポルトガル人である。
  8. ^ 府内司教区は1588年1月、日本列島を管轄として設置された。初代府内司教のセバスティアン・モラーレスはイエズス会士であったが、着任前に洋上で病死していた。府内のキリスト教徒共同体は1587年に破壊されており、着任した司教はみな日本では長崎を拠点とし、日本司教を名乗った。
  9. ^ Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X. https://books.google.co.jp/books?id=Vrj4gApIJz4C&pg=PA228&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false 2014年2月2日閲覧。 
  10. ^ a b OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  11. ^ Slavery in Medieval Japan, Slavery in Medieval Japan, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, "As early as 1555, complaints were made by the Church that Portuguese merchants were taking Japaense slave girls with them back to Portugal and living with them there in sin....Political disunity in Japan, however, together with the difficulty that the Portuguese Crown faced in enforcing its will in the distant Indies, the ready availability of human merchandise, and the profits to be made from the trade meant that the chances were negligible of such a ban actually being enforced. In 1603 and 1605, the citizens of Goa protested against the law, claiming that it was wrong to ban the traffic in slaves who had been legally bought. Eventually, in 1605, King Philip of Spain and Portugal issued a document that was a masterpiece of obfuscation intended both to pacify his critics in Goa demanding the right to take Japanese slaves and the Jesuits, who insisted that the practice be banned."
  12. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
  13. ^ COSTA, João Paulo Oliveira e. O Cristianismo no Japão e o Episcopado de D. Luís Cerqueira. PhD thesis. Lisbon: Universidade Nova de Lisboa, 1998, p. 312. Sousa indicates the same letters, but he mistakenly attributed them to Filipe II, Filipe III’s father. See SOUSA, Lúcio de. Escravatura e Diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII. Braga: NICPRI, 2014, p. 298.
  14. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
  15. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 494-504
  16. ^ BOXER, C. R. The Christian Century in Japan, 1549 – 1650. California: University of California Press, 1974, pp. 97-98, "But since the Portuguese are unwilling to do this, and they often go to places against the padres` wishes, there is always much jealousy and rivalry between these lords, from which follow in turn to great toil and moil to the padres and to Christianity. And, moreover, it sometimes happens that the Portguese go with their ships to the fiefs of heathen lords who bitterly persecute the padres and Christianity, wrecking churches and burning images, which causes great scandal and contempt of the Christian religion."
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  58. ^ 現在のEUの前身。
  59. ^ ジェトロの統計による。
  60. ^ 外務省資料、ジェトロ統計より試算。
  61. ^ 製品の5割、原材料の9割がポルトガル産で、ポルトガルから唯一の日本進出企業もコルク製品メーカーである。
  62. ^ レスポンス 2011年2月12日付記事 「日産、ポルトガルで電池工場の建設に着手」
  63. ^ ポルトガル人選手(二重国籍による同国籍取得者を除く)でJリーグに所属したのは過去3名のみで、うちパウロ・フットレ1998年横浜フリューゲルス入団前にポルトガル代表の中心選手として活躍した経験を持っていた。
  64. ^ 三井銀行頭取の柳満珠雄が初代会長、岩波ホール総支配人の高野悦子が常任理事。高野は2006年に会長就任。
  65. ^ 法的には、1976年に出されたインドネシアによる併合宣言が無効とされた東ティモールが2002年の独立達成までポルトガル領だった。
  66. ^ 外務省情報文化局外務省公表集(昭和四十七年)』「六、儀典関係」「4 新任駐日ポルトガル大使の信任状捧呈について」
  67. ^ 新任駐日ポルトガル大使の信任状捧呈 | 外務省
  68. ^ 駐日ポルトガル大使の信任状捧呈 | 外務省

参考文献

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  • 松方冬子『オランダ風説書と近世日本』 東京大学出版会、2007年
  • マヌエラ・アルヴァレス、ジョゼ・アルヴァレス(金七紀男訳)『ポルトガル日本交流史』彩流社、 1992年
  • ジョゼ・アルヴァレス(金七紀男訳)『日葡修好通商条約と外交関係史 1860〜1910』彩流社、 2010年

関連項目

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外部リンク

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