日牟禮八幡宮
日牟禮八幡宮 | |
---|---|
拝殿 | |
所在地 | 滋賀県近江八幡市宮内町257 |
位置 | 北緯35度8分27.7秒 東経136度5分22.5秒 / 北緯35.141028度 東経136.089583度座標: 北緯35度8分27.7秒 東経136度5分22.5秒 / 北緯35.141028度 東経136.089583度 |
主祭神 |
誉田別尊 息長足姫尊 比賣神 |
社格等 |
旧県社 別表神社 |
創建 | 伝・成務天皇元年(131年) |
本殿の様式 | 三間社流造 |
札所等 | 神仏霊場巡拝の道第142番(滋賀第10番) |
例祭 | 4月15日 |
地図 |
日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)は、滋賀県近江八幡市宮内町にある神社。「近江八幡市」の市名の由来となった神社である。
古くから近江商人の信仰を集め、二大火祭の「左義長まつり」と「八幡まつり」は国の選択無形民俗文化財である。境内地は八幡伝統的建造物群保存地区の構成要素。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
歴史
[編集]創建
[編集]伝承によれば、成務天皇元年(131年)、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神(大国主神)を祀ったのが草創とされている(この大嶋大神を祀ったのが、現在の大嶋神社奥津嶋神社なのか、境内社の大嶋神社なのかは定かではない)。応神天皇6年(275年)、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所を設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。
持統天皇5年(691年)、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。
正暦2年(991年)、一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡を勧請して、上の八幡宮を祀った。さらに、寛弘2年(1005年)、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付ける(現在の社殿は下の社に相当)。
中世以降
[編集]天正13年(1585年)に豊臣秀次が八幡山城を築城するため、上の八幡宮を下の社に合祀した。その代替地として日杉山に祀りなおすこととなった。ところが、天正18年(1590年)、秀次が領地替えにより、自身の居城を尾張国清州城に移したため、移転作業は行われなかった。次代の城主として京極高次が入るが、文禄4年(1595年)に前城主であった秀次が高野山で自害したことにより、秀次ゆかりの八幡山城は廃城とされ高次は大津城に移った。これによって、日杉山への社殿の移転は全面中止とされ、現在のように一社の姿となった。八幡山城は廃城となったが城下町は近江商人の町として発展し、当社はその守護神として崇敬を集めた。
慶長5年(1600年)9月18日、徳川家康が関ヶ原の戦い後に武運長久の祈願を込めて参詣し、御供領五十石の地を寄附した。後に、徳川家光や徳川家綱も御朱印を下している。
1876年(明治9年)に郷社、1916年(大正5年)には県社に列せられる。1966年(昭和41年)に神社本庁の別表神社に加列され、神社名を日牟禮八幡宮と改称する。
祭神
[編集]境内
[編集]- 本殿
- 拝殿
- 岩戸神社 - 祭神:橦賢木之御魂命、天疎向津姫命
- 天満宮 - 祭神:菅原道真
- 常盤神社 - 祭神:天照大神、豊受大神、熱田大神、津嶋大神
- 宮比神社・子安神社 - 祭神:天宇受売命、子安大神
- 鏡池
- 大島神社 - 祭神:大国主命、大鷦鷯命
- 繁元稲荷神社 - 祭神:宇加之御魂神
- 八坂神社 - 祭神:建速須佐雄命、少彦名神
- 恵比須神社 - 祭神:事代主命、金山彦命
- 合祀社 - 愛宕神社、秋葉神社
- 社務所
- 能舞台
- 絵馬殿
- 楼門
-
楼門
-
拝殿及び境内風景
-
能舞台
-
本殿
文化財
[編集]重要文化財
[編集]国の選択無形民俗文化財
[編集]- 近江八幡の火まつり(左義長まつり、八幡まつり)
県選択無形民俗文化財
[編集]- 左義長まつり(近江八幡左義長保存会)
- 八幡まつり(日牟禮八幡宮松明祭保存会)
近江八幡市指定有形文化財
[編集]- 木造男神像・木造女神像
※当神社境内は、国の重要伝統的建造物群保存地区である「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」に含まれている。
祭事
[編集]左義長まつり
[編集]- 歴史
- 織田信長が安土城下で毎年正月に盛大に行い、自ら異粧華美な姿で踊ったという奇祭。信長亡き後、豊臣秀次が八幡山城を築き、安土(現・近江八幡市安土町)から移住した人々によって城下町が開町される。町民は日牟禮八幡宮例祭「八幡まつり」の荘厳さに驚き、これに対抗して、町開町による新進気鋭の喜びと感謝の意を込め、厄除・火防の由緒ある御神徳を仰ぎ、左義長を奉納したと云われる。
- 概要
- 現在、近江八幡での左義長まつりは毎年3月の中旬の土日に八幡開町以来の66ヶ町の氏子によって行われる(以前は14・15日であり、現在は14・15日に近い土日に行われる)。
- 左義長は、藁で編んだ約3メートルの三角錐の松明の上に赤紙等で飾りつけた数メートルの青竹を取り付け、杉葉で作った頭の上には「火のぼり」という御幣、中心には毎年の干支にちなんだ飾り物(ダシ)が付けられる。土曜の午後に、約10数基の左義長が神社から町に繰り出し、化粧して女装した若者が拍子木を持ち、下駄を履いて「チョウヤレ、ヤレヤレ」と声を掛け合い担ぎ踊りながら町内を御渡りする。
- 踊り子が女装をするのは、信長が異粧華美な姿で祭りに参加したことに由来する。ただ、信長は身分を隠すために、花笠を被り女物の長襦袢を着た程度だったと思われ、女装とは少し違うと思われる。また、現在では女装と言うより仮装に近く、時勢に合わせた様々な格好をした若者が見られる。
- 日曜の午前は、旧市街地を自由に練り歩き、午後には「けんか」と呼ばれる左義長同士の組み合いが繰り広げられる。午後8時頃から境内で順次奉火され、燃え盛る左義長は湖国に春の訪れを告げる。
八幡まつり
[編集]- 歴史
- 応神天皇6年(275年)、応神天皇が母神功皇后の生地・近江国(後の息長村、現在の米原市)を訪問する途中、大嶋大神を参詣するため琵琶湖から上陸した。その際、湖辺の葦で松明を作り、火を灯して天皇一行を八幡まで道案内したのが、祭の始めと伝えられる。
- 概要
- 毎年4月14日と15日に、八幡開町以前の旧村落山根12郷(市井・北之庄・鷹飼・大林・中村・宇津呂・土田・多賀・船木・小船木・大房・南津田)の氏子によって行われる(以前は13郷であったが、秀次の八幡開町により、馬場が消滅)。12郷を神戸(かんべ)・土田(つちだ)・郷(ごう)の3つの座に分け、神戸が上の郷、郷が下の郷、土田が中の郷(祭礼の中役)と呼ばれる。
- 松明祭と呼ばれる14日の宵宮祭は、各郷から葦と菜種がらで作られた松明が奉納される。午後8時頃に、10mもの大松明をはじめ、大小各種30本以上の松明が古例の順序に従い奉火される。
- 15日の本祭は太鼓祭とも言われ、12郷の大太鼓が太鼓宿から荘厳な音を響かせながら、古例の順序に従い宮入りする。拝殿の前で大太鼓を差し上げ、神職・神役などの祝詞(シューシ)を受ける。
太鼓の打ち方は各郷異なり、宵宮太鼓・休み太鼓・シューシ太鼓・上り太鼓・御渡り太鼓など独特の伝承を持っている。
- 左義長まつりと八幡まつりは、1958年(昭和33年)に滋賀県無形民俗文化財の指定を受け、更に1992年(平成4年)2月には国選択無形民俗文化財に選択された。
前後の札所
[編集]交通
[編集]- 駐車場
- 普通車70台程度
- 見学
- 境内自由
- 時間 - 9時 - 17時