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徳川光友

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徳川 光友
徳川光友肖像
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永2年7月29日1625年8月31日
死没 元禄13年10月16日1700年11月26日
改名 五郎八/五郎太(幼名)、光義、光友
別名 通称:蔵人、出雲、源正公(号)、子明(字)
戒名 瑞龍院殿天蓮社順誉源正大居士
官位 従二位権大納言
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉
尾張藩
氏族 徳川氏尾張徳川家
父母 父:徳川義直、母:吉田甚兵衛の姉歓喜院
兄弟 光友京姫広幡忠幸正室)
御簾中:千代姫(霊仙院)
側室:丹羽光重の娘、樋口氏、村尾氏、飯尾氏など11人
綱誠(長男)、豊姫、松平義行(次男)
直姫(次女、徳川家綱養女)
松平義昌(三男[* 1])、松平康永(四男)
貴姫(三女、浅野綱長正室)
松平友重(六男)、松平友著(十一男)
計11男6女
養女[* 2]定姫有馬頼元継室)
智姫織田信武正室)
園姫浅野長照室)、清姫(織田信武継室)
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徳川 光友(とくがわ みつとも)は、江戸時代前期の大名尾張藩2代藩主。新陰流第6世。初名は光義(みつよし)で、こちらを名乗った期間の方が長い。

生涯

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寛永2年(1625年)7月29日、初代藩主・徳川義直の長男として名古屋にて生まれる。母は側室で吉田甚兵衛の姉・歓喜院。幼名は五郎八五郎太[2]

寛永7年(1630年)5月、6歳で従五位下に叙し、寛永10年(1633年)9月に正四位下に昇叙し右兵衛督に補任、12月に元服、29日に従兄の江戸幕府3代将軍徳川家光から偏諱を与えられ、光義と名乗る(父・義直からも1字授かった)[3][4]。翌寛永11年(1634年)2月21日、従弟で叔父の紀州藩徳川頼宣の世子・光貞と共に家光から鷹場を与えられた[5]。寛永15年(1638年)2月20日、従姪で家光の長女・千代姫婚約[6]。翌寛永16年(1639年)9月21日に千代姫と結婚したが、これは祖母の相応院が千代姫の降嫁を請い、幼い頃から手元に預かって養育したからだとされる[4][7]

慶安3年(1650年)、父の死去により家督を継ぎ、翌慶安4年(1651年)に父の菩提寺として建中寺を建立する。承応3年(1654年)、宮宿に西浜御殿を建造し、寛文元年(1661年)には母の菩提寺として大森寺を建立した。この間承応2年(1653年)8月に正三位権中納言に昇叙した[4]。寛文12年(1672年)に諱を光友と改めた[4][8]

寺社奉行制度や評定所を設置し、官制の整備を図った。また、防火制度や軍備増強、林業制度の確立も行なうなど、藩政の基礎を固めた[4]。他にも息子達に分家を許し、天和元年(1681年)に次男の松平義行に、天和3年(1683年)には三男の松平義昌にそれぞれ幕府から新知が認められ、尾張徳川家連枝を整備した[1][4]。分家が認められた背景は千代姫の威光があったとされる[8]貞享2年(1685年)の熱田神社の造営を行う。

だが、多くの寺社創建・修造や千代姫の婚姻、万治3年(1660年)に名古屋城の城下町で起きた火災の再建、江戸藩邸が焼けた後の修理費と、支出が相次いで財政難に陥った。寛文6年(1666年)に藩札発行したが成果が上がらず短期間で廃止、藩札回収にあたり幕府から10万両を借金するなど財政難は変わらず、天和元年に財政改革を断行して口米を藩収入に切り替えるなど財政基盤強化を図った[4][9]。江戸屋敷が幕府から拝領されたのも光友の治世であり、拝領された市谷屋敷・麹町屋敷・戸山屋敷はそれぞれ周辺の土地の拝領・買い取りなどで拡張を進めた[10]

徳川光友墓所
大阪府柏原市安福寺

元禄3年(1690年)5月、従二位権大納言に叙任。元禄6年(1693年4月25日、家督を千代姫が産んだ嫡子の綱誠に譲り、大曽根別邸(後の徳川園)を建造し隠居所とした[4][8]。綱誠が次男ながら嫡子扱いになったのは千代姫を通じて徳川将軍家の血を引いていたからであり、庶長子の義昌は三男扱いにされていた(三男の義行も綱誠の同母弟なので次男扱い)[1]。元禄12年(1699年)、綱誠に先立たれた。元禄13年(1700年)10月16日、死去。享年76[4]

人物・藩政

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武芸茶道唐楽など諸芸に優れ、剣術柳生厳包(柳生連也斎)より学び新陰流第6世を継承した。また、書では後西院近衛信尋と共に三筆と称せられることがある[4]

藩主となった当初はキリスト教信仰に対して寛容であったとされるが、濃尾崩れの一件により幕府から目付を派遣され、弾圧を強化した。寛文4年(1665年)にはキリシタン200余名が処刑され埋められた千本松原の刑場を別の場所に移し、跡地に清涼庵(後の栄国寺)を建立して刑死した者たちの菩提を弔わせた。

官職および位階等の履歴

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※日付=旧暦

系譜

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妹の京姫(普峯院、広幡忠幸室)の娘たちを養女にしている。

偏諱を受けた人物

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脚注

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注釈

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  1. ^ 実は長男だが側室の生により三男扱い[1]
  2. ^ いずれも広幡忠幸の娘。

出典

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参考文献

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関連項目

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